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仕事の後も大学院で装置開発 自分で考える社風に 清川メッキ工業・清川肇社長
仕事の後も大学院で装置開発 自分で考える社風に 清川メッキ工業・清川肇社長 「難題も断らない」と、父は言い続けてきた。電子部品のメッキも、後から技術開発した。自分もそう言ってきて他社ができない地平もいくつも切り拓いた(写真/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年3月3日号より。 *  *  *  1994年から95年にかけて福井市和田中の本社で夕方早く仕事を終えると、市内にある福井大学の大学院工学研究科へいき、メッキ装置の開発や実験を重ね、博士論文をまとめた。  メッキには、金属などに金や銀の薄い膜をかぶせる装飾用、空気中や水中の酸素によって錆びるのを防ぐ防食用のほか、薄膜に使う素材の電気の伝導性など特性を活かす機能メッキもある。この機能メッキで独自技術を開発し、半導体などナノメートル(10億分の1メートル)単位の超微細な電子部品にもメッキして、清川メッキ工業を国内屈指のメッキ企業へ導いた。この博士課程の日々が、清川肇さんのビジネスパーソンとしての『源流』になった。  指導を受けたのは高島正之先生(現・客員教授)。工学部4年生で無機化学を教わり、大学院の修士課程でも世話になる。先生は電池分野が専門で、電池とメッキには使う化学反応などに共通点もあるが、「何をやるかは自分で考え、実験に必要な装置は自分でつくりなさい」と、自主・自力を求めた。  博士課程へ入る前、先生の研究室で清川メッキへきた不良品に関するクレームの原因を解析した。7割は客がメッキを依頼した素材の側に問題がみつかったが、3割はメッキ側に原因もあった。その回答と対策を早く出せば、客も納得する。遅いと工場までやってきて、メッキの過程を調べ、清川メッキ独自のノウハウまで教えるように求める。放置すれば、ノウハウが社外へ流出する懸念があった。 博士課程へ誘われ論文案を出すと赤ペンが入ってきた  不良品の解析は、高価な分析機が必要だ。高島先生の研究室でそれが使え、あとは必要な装置をつくればいい。学校の許可も得て解析に通っていたら、先生に「博士課程に入らないか」と誘われ、93年4月に入った。ただ、その後も1年近く不良品の原因を調べていたら、先生に「いつ研究するのだ」と叱られる。それで、冒頭のように2年目と3年目は研究を優先。朝8時から午後4時まで会社で仕事をしてから大学へいって、実験や研究を重ねた。  実験は楽しいが、論文を書くのは辛い。でも、先生はいつも夜10時まで残って、相談に乗ってくれた。論文案を「こういう内容にします」とみせると、赤ペンで添削して「明日までに書き直してこい」と言って帰る。午前2時ころまで書き直し、帰宅して寝て、翌朝に出社。そんな日々が1年半くらい続き、論文が通る。テーマは、もちろんメッキだ。この間、研究室は事実上、工作室だった。不良品の分析から、まだ世の中にないメッキ装置をつくることへ重点が移り、研究室にある器具が使えて助かった。メッキに関する新しい知識が蓄積され、『源流』が流れ始めていく。  87年3月に同大工学部を卒業するとき、清川メッキの創業者で社長の父・忠氏(現会長)が勧めた大阪府の電機メーカーへの就職を断り、大学院の修士課程へ進んだ。そのメーカーは創業家の子弟を受け入れ、後継者として修業する場を提供していた。そんな「レール」に当然のように乗るのが、嫌だった。 「大学院の試験では何人か落ちる」と聞き、化学工学を猛勉強した。試験に通って、会社の経営を継ぐかどうかは別にしてメッキについて知っておこうと決め、社内で研究テーマを探す。博士課程で流れ出す『源流』の水源が、生まれていく。  修士課程を終えて89年4月に富士通へ就職し、川崎市の工場で半導体開発チームに配属された。当時の富士通は国内外で半導体工場を増強し、開発チームの面々は応援に派遣され、残ったのは先輩1人と自分だけ。新人社員も何でもやらされ、半導体の開発にも取り組めた。  3年目を迎えるころ、新しい開発プロジェクトが決まる。参加させてもらおうと思ったら、母から電話があり、父の体調がよくないから帰ってきてくれないか、と言われた。5年したら退社し、清川メッキへいくつもりだった。でも、そうすると新しいプロジェクトを途中で抜けることになり、チームに迷惑をかける。退社を決断した。 「父の体調が悪い」聞いて帰郷すると元気で母にやられた  帰郷して92年1月に清川メッキへ入ると、父の体調は悪そうにみえない。「おふくろにやられたな」と苦笑し、技術部門を受け持った。やがて、冒頭で触れたように博士課程への入学を勧められて、応じた。  1964年4月、福井市で生まれる。父母と弟2人の5人家族。父・忠さんは繊維メーカーに勤めていたが、20代初めに退社。起業を志し、職業別電話帳をみて市内に少なかったメッキ会社を選び、肇さんが生まれる前年に清川メッキ工業所(現・清川メッキ工業)を設立。母・トヨ子さんと創業した。 少年時代の清川肇社長(一番奥)(写真/本人提供)    自宅は1階が事務所、2階が居宅。建物はいまも残り、後ろに工場があり、その先は川の堤防まで田んぼ。自宅から歩いて約10分の市立和田小学校へ通った。市立成和中学校、県立足羽高校から福井大学工学部へと進み、得意な科目が化学だったので工業化学科を選ぶ。  この間、父に一度も「会社を継げ」と言われたことはない。だが、母や社員には言われて、「そうなるのだろうな」と思いながら過ごしていた。  大学院で、高島先生と共同で開発した独自技術に、水をはじく撥水メッキがある。先生はフッ素にも詳しくて、メッキする表面にハスの葉と同じように細かな突起をつくって、溶液に水をはじくフッ素樹脂の粉を浮かべてメッキし、粉を突起にまぶしていくと開発できた。アイロンの底の板に使うと静電気が起きないし、ビニールがくっついてもすぐにはがせる。軽くて、3分の1くらいの力でアイロンをかけることができた。 新妻と展示会へいき新技術を披露して営業活動はゼロ  こういう研究開発は、何かに役に立つシーズ(種)を生む。そのシーズが、企業などが抱える課題が持つニーズ(解決策)と適合すると、新たな製品やサービスが生まれる。撥水メッキも、どう使われるかは分からずに開発したが、使いたい企業があれば商談は進む。  だから、開発した技術や試作品は、技術展示会へ出す。撥水メッキは東京・晴海で国際技術展があった際、結婚したばかりの妻と2人で展示した。みた客は「何だ、水をはじく金属の膜があるぞ」と不思議がり、何に使うといいかを考えてくれた。  いま社員が360人いるが、営業部隊はゼロ。技術展へ参加し、新しい技術を披露して「これをうちの製品の生産に使いたい」と思ってくれる企業との出会いを待つ。この手法で、半導体など電子部品のメッキは、年間1500億個に近づいている。  2010年1月に社長になってから、ずっと技術部長を兼務している。先々、社長の座を譲っても、これだけは続けたい。誰もやっていないことをやるのは醍醐味で、「死ぬまでやりたい」と言い切るから、福井大学で流れ始めた「自分で考え、自分で装置をつくる」という『源流』からの流れは、まだまだ勢いを増しそうだ。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2025年3月3日号  
元教員・不登校児の父が立ち上げたフリースクール 「親の仕事も支援」に至った深い理由
元教員・不登校児の父が立ち上げたフリースクール 「親の仕事も支援」に至った深い理由 みむら・しんや/フリースクールオリコス代表。小・中・特別支援学校免許を所持し、教員として10年以上勤務。不登校児の父(写真:本人提供)    不登校の子を抱える親にとって仕事との両立は大きな課題だ。元教員で、昨年9月に千葉県市原市で親も支援するフリースクールを始めた三村晋也さん(36)に話を聞いた。AERA 2025年3月3日号より。 *  *  *  私は小学校などで10年以上教員をしてきました。6歳の次男は医療的ケア児で重度の心身障害があり、妻も教員でしたが次男の預け先がなく退職しました。そんななか、当時小学1年生だった長男(8)が学校を行き渋るようになったんです。母親との付き添い登校が続き、私は次男のケアのため休職。見通しが立たなくなり、さまざまな人に相談して立ち上げたのが親子で通えるフリースクールです。  不登校を語るうえで親の仕事問題は大きく、子どもの年齢が低いほど離職率は高いと感じています。子どもが親から離れられなくて仕事を辞めた、職場に同行させゲームや動画を与えて過ごさせている、という人もいました。そんなとき、提携する会社が見つかり、親の仕事も支援するフリースクールが実現しました。  仕事内容は動画編集など在宅でもできる仕事です。フリースクールを利用する子の保護者は、研修から仕事の提供まで無料で受けられます。今後は事務代行や図面作成など仕事の幅を広げる予定です。  不登校について父親の理解が得られないと悩む人はたくさんいます。私が元教員、不登校児の父として言えることは、お父さんにも現場を体験してほしいということです。学校に連れてきたとき、拒否反応を示して騒ぐ、親に暴言暴力をするなど子どもの拒否感を直に知ってほしい。そうすれば理解せざるを得ないのではないでしょうか。 ※AERA 2025年3月3日号  
天皇陛下65歳 宮殿ベランダ天皇ご一家の会話シーンに「幸せのおすそわけ」と参賀者! 愛子さま「青のスズランのブローチ」とドレスに家族の「絆」
天皇陛下65歳 宮殿ベランダ天皇ご一家の会話シーンに「幸せのおすそわけ」と参賀者! 愛子さま「青のスズランのブローチ」とドレスに家族の「絆」 天皇誕生日の一般参賀に集まった人たちの祝福に応える天皇ご一家。愛子さまがご両親の方を向き何かを伝えると雅子さまもリラックスした笑顔を見せた穏やかな光景=2025年2月23日午前、皇居・宮殿、松永卓也撮影(朝日新聞出版/JMPA)   天皇陛下は2月23日、65歳の誕生日を迎え、宮殿・長和殿のベランダでは皇后雅子さまと長女の愛子さま、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さまがにこやかに手を振り、集まった人びとのお祝いに応えた。一般参賀は午前に3回行われ、計1万8千人が宮殿の東庭に集まった。 * * * 「全国各地の皆さん一人一人にとって、穏やかな春が訪れるよう願っております」  11時40分、3回目の参賀が始まると天皇陛下のおことば続き、陛下と皇族方が長和殿のベランダから、人びとの祝福の声に応えて手を振った。  ひと息ついたタイミングで、陛下は自身の右側に立つ秋篠宮家に素早く目線を向けて手で合図を送り、すぐに左側の雅子さまと愛子さまにも同じ仕草を繰り返す。スッと5人の皇族方が天皇陛下を中心に長和殿のベランダ中央に集まると、東庭に集まった参賀者からどよめきが起きた。最後の回に行われる恒例の「サービス」だ。  お手振りの順番は、天皇陛下、皇后雅子さま、そして皇嗣の秋篠宮さま、皇嗣妃の紀子さま、内廷皇族の愛子さま、そして皇嗣家の佳子さまと続く。  「サービス」を受けて大きくなった歓声に、愛子さまがはにかんだような笑顔を見せた。愛子さまはリラックスした笑顔を浮かべたまま、手をあげるタイミングを確認するように首をかしげて秋篠宮ご夫妻の方に目線を送り、順番通りお手振りを再開した。 3回目、天皇陛下を中心に皇族方が集まる恒例の「サービス」に、参賀者からどよめきが起こった。愛子さまは、笑顔で顔を傾けお手振りのタイミングを計るような仕草をされた==2025年2月23日午前、皇居・宮殿、松永卓也撮影(朝日新聞出版/JMPA)   ベランダでご一家が顔を見合わせる光景に「癒される」…  埼玉県に住む小野徳子さんは、朝方の4時前に皇居に到着し「整理券」を貰って1回目の回に参加したという。65歳の天皇誕生日の一般参賀を目にしてこんな感想を口にした。 「宮殿からのお手振りの雰囲気は、とても穏やかでした。というのも、手を振りながら天皇ご一家が顔を見合わせてほほ笑まれ、お話をするシーンが増えたような印象です」  小野さんの印象通り、この日は天皇ご一家が長和殿のベランダで手を振りながら顔を見合わせ、楽しげな表情で会話を交わす場面は多かった。  1回目の参賀では、手を振りながら陛下が雅子さまと愛子さまの方に顔を向けて、短く何かを話しかけると、すぐに雅子さまがふり向いた。おふたりで東庭に集まった参賀者の後方に目線を向けながら、雅子さまがうなずく。続いて愛子さまも、おふたりの会話を確認するように雅子さまに話しかけ、同じ方向を見つめた。    愛子さまが何か話しかける仕草をみせ、陛下と雅子さまはリラックスされた笑顔を見せた=2025年2月23日午前、皇居・宮殿、松永卓也撮影(朝日新聞出版/JMPA)  2、3回目でも、同じように陛下と雅子さまが後列の参賀者の方向を見つめて会話をし、愛子さまがご両親に笑顔で話しかけるシーンがあった。  神奈川県から家族で来たという50代の女性は、 「天皇ご一家が、ほんとうに楽しそうな表情で話されている光景が素敵で幸せをおすそわけしていただいた気分です。ご家族でどのような会話をされていたのかも気になります」 と笑って振り返る。  一般参賀で手をふる愛子さま。リボン飾りのヘッドドレス姿に「愛子さま,きれい」と歓声も。愛子さまの青の半貴石を用いたブローチが雅子さまの青のドレスとさりげなくリンクしている=2025年2月23日午前、皇居・宮殿、松永卓也撮影(朝日新聞出版/JMPA) ■愛子さまは陛下のグレーと雅子さまの青の「絆」となる装い  さらに、参賀者が癒されたというのが、青とグレーが調和したご一家のコーディネート。  雅子さまの青色のローブモンタントは、23年の天皇誕生日や22年の歌会始の儀、20年の講書始の儀でもお召しであったベルベットのような柔らかな生地のドレス。胸元には刺繍やスパンコールで華やかな装飾が施されている。銀色の地金に真珠があしらわれたブローチがモーニングの正礼装をお召しの陛下のシルバーのネクタイと調和している。  そして愛子さまは、淡いブルーグレー系のローブモンタント。雅子さまと青のドレスと陛下のシルバーのネクタイを調和させた中間色のような配色のドレスをお召しだ。   もう一つのポイントは、愛子さまの胸元に輝くブローチだ。真珠をスズランに見立てたデザインで青の半貴石は、雅子さまの青のドレスとリンクコーデしている。 「天皇ご一家の3方の絆を感じるようなコーディネートでした」(前出の女性)  何より、大きなリボンのついた愛子さまのヘッドドレスが良くお似合いで、参賀者からも「愛子さま。おきれい」と、声があがっていた。 5年ぶりの祝宴 愛子さまも日本酒で乾杯  午後からは5年ぶりに飲食を伴う祝宴である「宴会の儀」が行われた。  陛下は雅子さま、愛子さま、秋篠宮ご夫妻や佳子さま、高円宮家の久子さまや長女の承子さま、三笠宮家の彬子さまら皇族方とともに石破茂首相らおよそ120人と宮殿「豊明殿」で昼食を共にした。  祝宴では日本酒が提供され、愛子さまも盃を掲げて乾杯された。 (AERA dot.編集部・永井貴子) 天皇誕生日の一般参賀のために列を作った参賀者は、午前9時半の開門時点でおよそ7700人。夜明け前から並び「整理券を受け取った」と話す参賀者もいた=2025年2月23日午前9時35分、皇居・宮殿、松永卓也撮影(朝日新聞出版/JMPA)    
「超常」現象を体験した人は8割に 「目撃」したのは亡くなった家族か、それとも…【読者アンケート結果発表】
「超常」現象を体験した人は8割に 「目撃」したのは亡くなった家族か、それとも…【読者アンケート結果発表】   写真はイメージ(GettyImages)   「亡くなった家族が枕元に立った」「UFOを目撃した」……心霊現象やUFOの目撃といった不思議な「超常」の体験。AERA dot.編集部が読者アンケートを実施したところ、科学的には説明しづらい現象を「体験した」「おそらく体験した」という方は約8割にのぼりました。多かったのは、亡くなった家族らの存在を感じたり、正体不明の飛行物体を目撃したりといったもの。また、「◯年に世界が滅亡する」といった「予言」に対しては、懐疑的に見つつも関心の高さがうかがえる結果となりました。 *   *   *  今回の「超常」現象についてのアンケートは、2月12日から19日にかけて実施。623人から回答がありました。        超常現象の「経験がある」と回答したのは60.2%、「おそらく経験している」が20.7%あり、あわせて8割超となりました。一方で「経験したことはない」は16.1%、「わからない」が3%でした。  では、みなさんはどんな経験をしているのでしょうか。 「幽霊やお化け、妖怪を見たり、存在を感じたりした」が最も多い49%。ほぼ同数で「金縛りにあった」が48.2%でした。3番目に多かったのが「UFO(明らかに飛行機や気球、雲などではないもの)を見た」の31.8%でした。  なお、回答者本人ではなくても、家族や信頼できる友人らが「経験している」と回答したのは半数近い48.3%。経験の内容としては「幽霊やお化け、妖怪を見たり、存在を感じたりした」が突出して多く、53.3%でした。    アンケートでは、具体的な体験のエピソードが寄せられましたが、亡くなった家族、親族にまつわるものが目立ちました。 (以下に引用するコメントは、一部で誤字脱字を修正したり、読みやすくするために句読点や改行を加えたりしています)     亡くなった家族が会いに来た…読者のエピソード 「自宅で家族でくつろいでいる時に、仏壇の鐘がチーンと鳴り、何事だと大騒ぎになった直後に電話があり、『今、叔父さん(親父の兄)が亡くなりました』との連絡があった」(60代、男性) 「主人が亡くなってから1か月程して、私の携帯に主人から電話がありました。携帯は解約してなかったです。携帯が鳴ったら私の携帯の画面に主人の名前がありました。あと、玄関の開く音がしたりお輪の鳴る音がしたり…。そんな事がありました」(60代、女性) 「亡くなった兄のアパートの部屋を掃除し終えた日、不動産会社の人も立ち会い中、チャリーンと音がした。私も含め、その場にいた3人は同じ音を聞いた。何かが落ちたのかと思ったが、何もなかった。たぶん、兄からのありがとうのサインだったのかも」(40代、女性) 「10年前、実家で、亡くなった父の骨壷から父の声が聞こえ、蓋がカタカタ動いたのを、母といとこと一緒に体験しました。父の思い出話をしていた時でした」(60代、女性) 「20年前の出来事です。母親が死んでから数日した夏の日、夜寝ていると掛け布団を誰かがかけてくるのだが、暑いのでその布団を払いのける、払いのけるとまた布団をかけられるといったやり取りが何回か続きました。  その後ふと寝ながら、夏だから掛け布団なんかないぞと気付いて目を覚ますと、ベッドの横に死んだ母親がいたことがありました。  布団なんかないのに体に布団をかけられる感覚は本当の布団をかけられる感覚と全く同じでした。母親ということもあり、恐怖などは全く感じませんでした」(40代、男性) 「一昨年のお盆前に亡くなった母の遺影に向かって『お母さん、お盆にはいつもお父さんのところにだけでなく、私の家にも来てね』と手を合わせました。お盆は父がいる実家で過ごし、送り火をたく最終日夜に帰宅。  留守をしていたせいか、部屋の中は蒸し風呂状態。エアコンを入れ、荷物をほどき始めたとき、急にお線香の匂いが…。数日留守にし、窓を開けることもなくエアコンを入れたので、外からの匂いとは考えられなく、私の家に来てねとのお願いを母はちゃんと聞いてくれて、あちらに帰る前に寄ってくれたんだと確信した出来事でした」(50代、女性) 「亡くなった祖父が枕元に立つ夢を、家族全員が同じ夜に見た」(50代、男性)   「結婚後初めてのお盆を迎えた夜、主人はマージャンに出かけていました。2階の和室で寝ようとしたとき、襖が開いて軍服を着て、髭の生えた軍人が入ってきました。主人は父親を戦争で亡くしていました。  軍人は静かな声で『あんたが◯◯さんか』とつぶやき、暫く私を見つめていましたが、静かに消えました。私は恐怖心など全く抱かず、朝を迎えました。義母や主人にこの体験をお話しましたが、真剣な態度で聞いてくれました。  沖縄の摩文仁で戦死した義父の遺骨は有りませんが、私は毎朝、義父に仏壇の前で成仏できるようにと語りかけています。この話は誰もが信じてくれます。もう一度お会いしたいです」(70代以上、女性) 「高校生の時、家に帰ったら線香の香りがして、翌日家に帰ったら、線香の香りが昨日より強く、母に『線香の香りがする』と言いました。母は仏壇を確認。妹も確認しましたが、二人とも匂わないというのです。こんなにするのにと思いながら寝たのですが、夜中目が覚めたら目の前に白いモヤみたいのが見えて、同時に「おじいちゃん」と思いました。  目の覚めた日は、おじいちゃんの命日でした。  高校生になってから部活で忙しくて命日にお参りすることが減っていました。朝、学校へ行く前にお仏壇に手を合わせて、おじいちゃんに謝ってから登校しました。  おじいちゃんは私が保育園児だった時に亡くなりましたが、おじいちゃんが自宅で倒れた時間に保育園の先生が『おじいちゃんおむかえに来たよ』と言って、帰りの仕度をして一緒に玄関へ行きました。そこにはもちろんおじいちゃんはいなく、先生が周りを探してくれました」(50代、女性) 「畳の上でうたた寝をしていたら、金縛りにあった。右手に柔らかいものが触れ、しばらくまとわりつくようにじゃれていた。怖いというより、とてもやさしい気持ちになった。あれは間違いなく子猫の感触だった。体が動くようになったらその気配はなくなった。  振り返ると、それは1年前に猫の子を拾った日付だった。10日くらいアパートでかくまってめんどうを見て、里子に出したのだが、1歳になる前に車にひかれて死んでしまったと聞いた。その子が会いに来てくれたのだと思う」(60代、女性) 「小学2年生の時に1人で遊んでいると、玄関からいつの間にか叔父さんが入ってきて、自分に笑いかけた後、奥の部屋にいた母と父の周りを回りながら、顔を覗き込んだりしていた。また自分の方にやって来たので、母に『叔父さんが来てるよ!』と言おうとしたが、叔父さんに止められて、また出て行った。  そのすぐ後に母に『今、おじさんが来てたよ』って言った瞬間に電話が鳴り、その叔父さんが今、工事現場で事故に遭い、死亡したという連絡が入った」(60代、男性) 「母の1番上の姉が亡くなったとき、お通夜が終わって母の2番目の姉のお家に泊まるために移動しました。みんな疲れてお茶でも飲もうかと準備したり、座ってゆっくりしていた時に、玄関の方から玄関扉(引き戸)のガラガラという開く音と線香の匂いがしました。  それを聞いた家主(2番目の姉の旦那)が、人の家に来て鍵もかけないのかと怒り始めました。私や周りの人も確かに聞こえたので、従兄弟が鍵を閉めてくると言って玄関に見に行ったんです。でも従兄弟は、鍵はかかってたって言ってて。  そもそも、家主は補聴器をつけるレベルの耳が悪い方なんですが、そのとき補聴器をつけてなかったことが判明(聞こえるわけないんです)。叔母が挨拶に来たのかなっていうところで落ち着きました」(40代、女性)     UFOもあちこちで目撃  また、UFO(未確認飛行物体)を目撃したという体験も多くありました。いくつかご紹介します。 「ツアーで行った高野山で、円盤型UFOが飛び立つのを目撃しました。同行の女性も何か飛んだと言いましたが、円盤とは認識しなかったそうです。私は円盤の裏側の4つのライトもはっきりと見ました」(60代、女性) 「1981年夏の夕刻。関越自動車道上りを所沢ICから練馬方面へ走行中のとき(友人同乗)。前方のかなり遠方に強烈な光を確認。ズンズンズンといった感じで、自車の上空に来た。  グレーの金属ではなく、粒子状の物のように見える。下から見上げると中央に3つの赤色の点光源が正三角形になっていた。その中央部は白熱灯色の光源があった。(60代、男性) 「1980年頃の夜9時ごろ、高松県庁の真上で、細長くずん胴の物が、全体に見たことのない綺麗なオレンジ色に輝いて、私たちのゆっくりした2人乗りバイクと並行に飛んでいました。オレンジ色の光は全体に均一で尾を引くことはなく、その中に本体の輪郭がはっきり見えていました。ほぼ下から見ているせいか、窓とかは確認できなかったです。これだけハッキリ見えたら、他の人も見てるはずと思いながら観察しました」(70代以上、女性) 「1989年4月午前中、島根県松江市大庭町の茶臼山頂上、30メートルくらいの円盤。白色 無音、全体的にエンジンのようなもの無し。20〜30秒浮遊し、左右に揺れながら(落ち葉が落ちるような感じ)着陸。怖くて近付けず。同級生も目がまんまるになっていました。今でも鮮明に覚えています」(50代、男性) 「今から45年ほど前に、中学3年生だった自分と友達2人と部活が終わって自転車で家に帰る途中に、オレンジ色にかなりの明るさで輝くUFOらしき物体を見て、3人で逃げた。ジグザグに動いたり、突然大きさを変えたりしていたので、本当に怖かった」(60代、男性)   「12~13年前の雲一つない無風の晴天、5月中旬頃だったと思います。外で洗濯物を干していた母親が『おーい! 空から何か降って来たよ』と慌てた様子で私を呼び、『これは何かねー? こんなに沢山。怖いよー』と怯えた様子で真上に向かって指を指していた。確認すると、私も思わず『何だこれは?! UFOじゃん!』と叫んでしまいました。  数は30〜40機? 大きさは軽自動車より一回り大きく、形は球体で色は下半分が赤、水色、黄色、白。上半分は透明。各機は球体の前進方向に鮮やかな丸い黄色物がはめられていた。飛行物体を操縦する者まで確認できた。灰色に近い緑色、頭は後頭部が長く、目は吊り上がった真っ黒。印象は爬虫類? 怖いというより、ただただ不思議な体験をこの目に焼き付けたかった。  見えなくなるまで10分弱。動画や画像に収められなかったのが悔いに残ります」(50代、男性) 「10年ほど前に夜9時頃、淡路島の海岸線を車で走行中、上空数百メートルくらいに緑色に光る不規則な動く物体を目撃! 運転していた私は『あれ一体何?』と後部座席の家族に言って、家族もなんやろと言って見ていました。数秒後、未確認物体の真下を通り抜けた後、上空を回転しながらその未確認飛行物体は消えました。その時見た妻も、その物体はありえない動きをしていたと言っていました。今もあれは何だったのだろうと、時々思い出して家族と話をしています」(50代、男性) 「鉄塔の上に浮いている銀色の物体を見ました。埼玉県の鳩ヶ谷中学校の屋上です。千葉県の亀山湖にバス釣りに行った時は、円筒形に下側に球体のモノが3つ、ゆっくり回っている物体を見ました。視界の中に成田空港からの旅客機が飛んでいたので、見間違えではないと思いました」(50代、男性) 「母と一緒に、銀色で赤い窓のUFOを目撃した」(60代、男性) 「手で持つ花火のような緑色の閃光を放ちながら、真横に移動していく飛行物体を見た」(40代、女性) 「小学校4年生くらいの時、犬の散歩をしていて犬が急に空を見上げて動かなくなって、どうしたんだ?と思い空を見上げたら、銀色のアダムスキー型のUFOが飛んでいた」(60代、女性) 「高校時代に夜、友人とランニングしていた際にUFOに遭遇した。UFOが傾き、光が出て、その瞬間より記憶なし」(50代、男性)     「滅亡の予言」は何度も… 「1999年の7の月、空から恐怖の大王が降りてくる」──1973年に出版された作家・五島勉氏の「ノストラダムスの大予言」はベストセラーになり、「世紀末」が近づいた90年代にも大きなブームとなりました。  今から30年ほど前のみなさんは当時、どれぐらい信じていたでしょうか。  最も多かったのは「何も起こらないと思っていたが、もしかしたらと少し思っていた」の40.1%。そして「それなりの確率で何かが起こると思っていた」が23.1%でした。  一方、「まったく信じていなかった」は3番目の18.6%でした。  さまざまな社会不安が広がっていた当時、「もしかしたら…」という思いを抱いていた方は、きっと少なくなかったでしょう。    そして、このような「予言」はその後も相次いで登場してきました。一部では今年の夏に「何か」が起こる、という話も流れていますが、みなさんはどのような態度で向き合っているのでしょうか。 「基本的に信じていない」という前提で、「こういう話題に興味・関心がある」が最も多い32.9%。さらに「周りがどう考えているが気になる」が8%、「まったく信じておらず、興味・関心はない」は10.8%となり、懐疑的な立場を示した方の割合が半数をわずかに上回りました。  その一方で、「本当に起こるかもしれないので、知っておきたい」が20.9%あり、「予言の内容によっては、信じるかもしれない」も17.8%。「いつか起こると信じているので、ぜひ知りたい」は10.4%でした。     「怖い話」は好き?嫌い?  心霊現象など「怖い話」を取り上げた映画や小説、漫画などは数多く作られ、多くのファンを獲得しています。そんな「怖い話」が大好きだという方もいれば、フィクションとはいえとても苦手だという方もいるでしょう。  そんな「怖い作品」に対する距離感をアンケートで聞いたところ、「『怖い』作品が大好きで、好んで見ている」は21.2%、そして「作品が面白そうならば、ホラーかどうかは気にしない」が26.5%。「まったく怖くないので、気にしない」も2.1%あり、ホラーへの抵抗感があまりない方はほぼ半数、という結果となりました。  反対に「怖いので見たくない、避けている」は14.8%、そして「まったく見ないわけではないが、好んで見ようとは思わない」が26%で、こちらも約4割でした。  ホラー作品の「好き」「嫌い」はほぼ同数で拮抗する結果となりましたが、みなさんの周りはどうでしょうか。    今回のアンケートでは、心霊現象と思われる「怖い」エピソードも多数寄せられましたので、いくつか紹介します。  そのような話が苦手な方もいらっしゃいますので、以下は「閲覧注意」でよろしくお願いします。       あれは一体…読者の「不思議」な体験エピソード 「お風呂に入る前に女性のすすり泣くような音を聞き、湯船に浸かったら手にゴワゴワした感触があり、『なんだろう?』と思って手を出したら長い髪が手にまとわりついていました」(60代、男性) 「今から15年ほど前、友人が経営するBarに知人女性と行った時の話。幽霊を信じているのだけれど、一度も心霊体験をしたことのないBar経営の友人。幽霊って本当にいるよね?と他愛ない心霊話を始めました。  最初は知人女性も含め3人で怖い話で盛り上がっていましたが、急に空気が変わり、暖かい店内が急にヒンヤリと…。私と知人女性(二人とも霊感あり…だと思っています)は嫌な空気を感じ、『もう止めようよ…何か空気が良くない』と言いましたが、それを聞いたBar経営の友人は『えっ!? 幽霊来てるの!? いるなら目の前に現れてよ!』と、あろうことか半分煽るような発言を連発。  直後、Bar経営の友人、知人女性、私、3人の耳元(脳に直接話かけて来た感じ)で同時に『いい加減にしろ!』と一喝されました。店内には私たち3人しかいないのに……。  不思議なのは、文言は一緒なのに、知人女性は女性の声で…Bar店主はお爺さんの声で…私は低い中年男性の声で聞こえたこと。沢山の霊が集まって来ていたのか…それともあの世には霊魂の集合体みたいなものがあるのでしょうか」(50代、男性) 「独身の頃、勤めていた美容系の勤務先での出来事です。出張先での話です。そこは、6F建てのマンションの一室でした。玄関から入り、妙な空気を感じました。じめじめして、暗い感じ。お客様の施術をしながら背中がぞくぞくしていました。  仕事が終わる頃、カーテンルームの部屋の前を通った時です。  首から上の女性の顔がありました。一瞬でしたが、髪をオールバックにしたキレイな女性が、涙を流してこちらを見てました。元々、霊感の強い私でしたが、さすがにビックリしました。  店長に冗談まじりで『ここって幽霊出ます』と言ったところ、店長が『出るよ~』と冗談まじりの返事。しばらくして、その店長が私に『ホントに見たの? もしかして、あそこで見たの? オールバックの女性が泣いてた?』と聞いてきたので、またまたビックリして鳥肌が立ちました。  店長も霊感が強くて何度も見てるとの事でした。しばらくして、そのお店は閉店しました」(60代、女性)   「大学生の頃、バイト先のレストランで背の高い男の人の幽霊が出ていました。目撃回数が多い卓に家族3人を案内したところ、幼稚園児くらいの娘さんが、ここはおじさんがいるから嫌だとぐずり、違う席に案内しました。  また閉店準備の際、卓の呼び出しベルが鳴る時がありましたが、おそらく亡くなった常連さんの大好きだったメニュー、薄切りステーキとポテトサラダの番号だと言われていました」(50代、男性) 「寝付きに急に金縛りになり、真っ黒な人影のような、俗に言う死神のような影に頭を掴まれ、顔を壁に擦られながら天井付近まで持ち上げられ、右の頬にすごい痛みを感じました。その時の痛みはすごく大きく、死を感じされるほどの痛みでした。気づくと朝になっていましたが、そのときに死を感じたため、ただ死には避けたいと思うようになりました。  それから2~3年後に結婚を経て、マンションを購入し、その購入の際に保険付きローンで購入しました。5年後に右頬の奥の副鼻腔という場所にがんが見つかり、保険付きローンのおかげでローンは完済となりました。  この出来事は、全て前に述べた死神を感じたときにイメージとして頭に浮かんだ通りのストーリーだったことから、常に意識していたのですが、まさか現実に思い描いた通りにことが進んだため、はっきりと経験したと言える超常現象かなと思います」(40代、男性) 「今から45年位前の夏の夜、時刻は2時前後ぐらいに房総半島の鴨川の山の中を自動車で走行中に、道には街灯も無く、白い着物と思われる服を着た女性が立っているのを三人が目撃したので、停車して窓を開けて声をかけたのですか、返事をせずに正面を向いたままで、顔色は血の気の無い無表情でした。後部座席の友人が大きな声で車を出せと叫び、急発進してその場から移動した事があります。今でも会うとその話を三人とも覚えていて、何だったんだろうと話します」(60代、男性) 「10年ほど前、日中たまたま通りかかった台東区の日本堤消防署の前で、設置してある古い石碑にしがみついてシクシク泣いている女の人がいた。モンペのような、かなり古めかしい服装をしていて、こんな日中に人前で泣くなんて、変な人がいるなと思って通り過ぎた。  数時間後、同じ道を通ったとき、その人はいなかったが、なんで石碑にしがみついて泣いていたんだろうと興味を持ち、石碑を見ると、昭和初期の火災による殉職者の慰霊碑だった。その殉職者を悼むような人が現代にいるとは思えず、その服装についても一気に合点がいった。  見たときは幽霊とは思わないほどはっきりしていたが、今にして思うと、あれは生きている人ではないと思う。目が合わなくて本当に良かったとも思う」(40代、男性) (AERA dot.編集部)     【こちらも話題】 社会人になって資格取得は9割 宅建士、介護の資格、語学力…「スキルアップしたい」「収入確保を」定年後も続く“学び”【読者アンケート結果発表】 https://dot.asahi.com/articles/-/250327  
天皇陛下65歳に この一年で変化した令和流の皇室 「丸いテーブル」と「リモート公務」での雅子さまの笑顔
天皇陛下65歳に この一年で変化した令和流の皇室 「丸いテーブル」と「リモート公務」での雅子さまの笑顔 「天皇杯 第50回記念日本車いすバスケットボール選手権大会」を観戦後、選手と歓談する天皇、皇后両陛下、長女愛子さま=2025年2月2日、東京都渋谷区  2月23日に65歳になられた天皇陛下。令和も7年になり、国民と皇室をつなぐ情報発信やコロナ禍で経験を培った「リモート公務」など、天皇陛下が築き上げている“令和流”の皇室も変化していると、象徴天皇制に詳しい名古屋大学准教授の河西秀哉氏は指摘する。 *   *   *  令和になってからの大きな変化として、河西さんが挙げたひとつが「丸いテーブル」だ。  両陛下は2月18日、皇居・御所でトルコのクルトゥルムシュ大国民議会議長夫妻と会見。「丸いテーブル」を囲み、笑顔で言葉を交わした。昨年12月のベトナムのチャン・タイン・マン国会議長夫妻とも同様に「丸いテーブル」で懇談されていた。    河西さんによると、令和以前は外国の要人の夫妻と横一列になってテーブルにつき、男性は天皇陛下と男性同士で、夫人は雅子さまと女性同士で言葉を交わすかたちだった。  しかし、お話し好きで知られる天皇陛下、語学が堪能な雅子さまとで囲む円卓は、堅苦しさがやわらぎ、なごやかな雰囲気の様子がうかがえる。  「丸いテーブルにつくのは、これまでにない新しさで、実は大きな変化なのです」(河西さん)   ホームページが15年ぶりに改修  そして、この1年で大きく変わったことに「情報発信」を河西さんは挙げる。  宮内庁は昨年4月に宮内庁公式インスタグラム(kunaicho_jp)を開設。そして今月12日には、宮内庁のウェブサイトがリニューアルされた。大規模な改修は15年ぶりのことだ。  ふだんは一般人が立ち入れない皇居・宮殿の内部を360度のパノラマで紹介しているほか、皇室に関する制度や文化、皇居や京都御所の一般参観に関する情報などがわかりやすいデザインになった。  そして、スマートフォンでサイトを閲覧しやすくなった。 「これまでは、スマホでもパソコンでも同じデザインでしたが、端末に応じて見やすくなり、なによりスマホで見やすくなったのは大きい」  どんな情報を提供し、いかに充実していくかは課題だが、特に若い世代に皇室の情報をどう届けるかについて、宮内庁の意気込みが感じられると話す。   リモート公務が復活  河西さんはリモート公務が“復活”したことも、この1年での変化だと話す。  コロナ禍では、全国植樹祭などの式典の出席や、離島の高齢者施設の視察などを、モニター画面を通じたリモートで実施していた。2011年3月の東日本大震災から10年の節目の年には福島県、宮城県、岩手県の被災地をオンラインで訪問されていた。  そしてコロナが終息し、公務のために外に出られるようになると、リモート公務の機会は激減することになった。  しかし、リモート公務のスタイルはなくなったわけではなく、今月13日には両陛下が長崎県対馬市の高齢者施設をリモート訪問している。   「コロナ禍を経て、私たちが普段オンラインとオフラインを使い分けているように、皇室でも取り入れ始めたのは大きな変化だと思います。雅子さまの体調もあり、全国各地に訪問されるのも難しいなかで、この使い分けはとてもいいことだと思います」(河西さん)  天皇陛下と雅子さまが施設をリモート訪問した様子は、インスタグラムにも投稿された。「何より雅子さまがいい笑顔で、楽しそうにオンライン公務をされていた。投稿された写真からも、リモートでつながった高齢者施設のおじいさんやおばあさんたちと心を開いて交流されているのが手に取るようにわかりました」 「令和流」の皇室は、天皇陛下と雅子さまと共に、これからさらに変化を見せていきそうだ。 (AERA dot.編集部・太田裕子) 【こちらも話題】 愛子さま「鴨場接待」デビュー 陛下は布を被ってワゴンに潜み、雅子さまとの「極秘デート」に駆け付けた思い出の場所 https://dot.asahi.com/articles/-/250364
天皇陛下65歳 最高の笑顔は雅子さまと愛子さまとご一緒だから! 少年時代には「感情表現が乏しい」と担任が漏らしたことも
天皇陛下65歳 最高の笑顔は雅子さまと愛子さまとご一緒だから! 少年時代には「感情表現が乏しい」と担任が漏らしたことも 静養のため滞在した御料牧場でタケノコ掘り終え、両手でカゴを抱える天皇ご一家の表情は穏やか=2024年5月、栃木県の御料牧場、宮内庁提供    天皇陛下が2月23日、65歳の誕生日を迎えられた。皇后雅子さまや長女の愛子さまと一緒に過ごす陛下は、大きく口を開けて、感情豊かに笑う。しかし、学習院時代には「喜怒哀楽の感情表現が乏しい」と指摘されたこともあった。陛下の学習院時代を知る人物は、いまの陛下の豊かな表情は、ご家族との時間を積み上げた結果と振り返る。家族と過ごす陛下の笑顔を振り返ってみたい。 *   *   * 「先日の作文は、東北旅行を題材にした作文でした。文章はきちんと書けていますし、車中から眺めた風景や停車駅での駅員の様子なども丁重に書かれていますが、どうも浩宮さんの人間が、というか感情があまり出てこない感じなんです。(略)現代の高校生らしい喜びや悲しみや怒りの表現に乏しいと感じました。(略)浩宮さんの場合には、題材的に限られるところからどうもしかたのないことですが、そういった喜怒哀楽の感情表現が乏しくなるんですね」  学習院時代に浩宮さま(現在の天皇陛下)が所属するクラスの主管(担任)を務めた小坂部元秀氏は、ご両親の明仁皇太子(現在の上皇さま)、そして美智子さまとの面談で、担当する現代国語の読解や鑑賞はよく出来ているものの、作文については「喜怒哀楽の感情表現が乏しい」と説明した。  すると美智子さまはこう話し、「母親」としての思いをにじませた。 「……そうかもしれませんね。それは、浩宮は長男ということで、私も色々と細かい点まで注意するようにしたため、のびのびしたところが多少不足するようになったのかもしれません」    小坂部氏の著書『浩宮の感情教育』で記録された、陛下の少年時代だ。  小坂部氏は「日常生活における喜怒哀楽という『私情』を漏らすことを抑制する心理が働いていたのだろうか」として、将来の天皇としての重責を背負い、「正しくあらねば」と感情にふたをして自身を律する浩宮さまに、複雑な感情を寄せた。   愛子さま誕生後の記者会見。涙で言葉を詰まらせる雅子さまの背中を皇太子さま(現・天皇陛下)は、トントンと優しく触れた=2002年4月、東宮仮御所、JMPA   涙をこらえる雅子さまにそっと  そんな陛下を、同級生のひとりはこう振り返る。 「感情的になることはなく、誰もが認める優等生。しかし、雅子さまとご家庭を持ち、愛子さまが誕生してその成長を見守り、ともに時間を過ごすなかでとても感情豊かに笑われるようになったと感じます」    愛子さまの誕生から4カ月が過ぎた2002年4月2日。陛下と雅子さまは、愛子さまの誕生後初めての記者会見に臨んだ。  初めて胸元に連れてこられた愛子さまを目にして、「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」と、ほほ笑む雅子さまの目元には涙がにじんでいた。 「今でも、その光景は、はっきりと……目に焼き付いております」  涙をこらえるように、視線が下に向いた。 「生命の誕生……」  感極まって言葉が途切れ、手で口元を押さえる雅子さま。陛下は、雅子さまの背中に手を伸ばし、トントンと2度、優しく押さえた。    2003年2月、陛下は43歳の誕生日会見で、父親の育児への参加が母親の負担を軽くし、子供との触れ合いを深めると話し、自身の子育て生活をこう明かした。 「子供をお風呂に入れたり、散歩に連れて行ったり、離乳食をあげることなどを通じて子供との一体感を強く感じます」     愛子さま15歳の誕生日を前に撮影。家族が大変なときでも、愛子さまを見つめる「パパ」の包み込むようなまなざしは変わらない=2016年10月、宮内庁提供    家族との生活には大変な時期もある。  愛子さまが15歳の誕生日を迎えた2016年の年末ごろ、急に体重が落ちたことがあった。宮内庁が誕生日に公開した写真の愛子さまは驚くほど細く、世間には驚きが広がった。  陛下と雅子さまには世間のそうした反応は予想できただろうが、例年通り、愛子さまとご一家の写真を公開した。  そうした姿勢は友人に対しても同様で、東宮御所に同級生仲間とその家族を招き、陛下と雅子さま、そして愛子さまが歓迎する様子は、いつもと変わることがなかったという。 「一家の中で誰がリーダーシップをとるということでもなく、お三方が互いを信頼し、支え合っておられるように感じます」(同級生のひとり)   ドイツから帰国した皇太子さま(当時)を、雅子さまと一緒に出迎える愛子さま。見つめ合う眼差しに愛情と信頼がにじむ=2011年、東宮御所、JMPA   愛子さまのツッコミに嬉しそうな陛下  愛子さまは昨年春に学習院大を卒業し、就職した日本赤十字社での勤務と公務の忙しい日々を送り始めた。  昨夏は、愛子さまが仕事の都合のため、ご夫妻との那須御用邸(栃木県)でのご静養に同行できないときもあったが、ご一家に接した多くの人たちは、変わらぬご一家の絆の固さを口にする。  そしてご一家は、カメラの前でも飾らず、ありのままの姿を見せる。  ご一家は昨年5月の大型連休中には、御料牧場(同県)に滞在。テレビカメラの前では、こんなユーモラスなやり取りがあった。  天皇陛下は前年春と比べて「去年は菜の花がきれいだった」と、御料牧場までの道のりを振り返った。雅子さまがにこやかに相づちを打つと、陛下は楽しげに「今年はね、渡良瀬川に……」と続けた。  ところが愛子さまは、「あまり気づいていなかった」とツッコミを入れるように言って笑い、雅子さまにも目線を送る。 「いやいや、ちゃんとあそこのところね」と食い下がる説明好きな「お父さん」を見守る雅子さまと愛子さま。そんなご一家について、陛下を学生時代から知る人物はこう話す。 「陛下のなんともリラックスされたようなお顔がテレビに映るたびに、感慨深い気持ちになります。激務でいらっしゃるでしょうが、どうかご家族との大切なひとときには、お気持ちもお身体も休めて過ごされてほしい」 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 天皇ご一家の大切な「家族」 愛子さまが出すフードボールに「ぎゅうぎゅう」の子猫たち 愛子さまの腕からはみ出した子犬のフワフワの尻尾 https://dot.asahi.com/articles/-/242767  
天皇陛下65歳に 愛子さまの成長を喜ぶ笑顔と「お人柄」が見えたシーン 
天皇陛下65歳に 愛子さまの成長を喜ぶ笑顔と「お人柄」が見えたシーン    「天皇杯 第50回記念日本車いすバスケットボール選手権大会」の観戦で東京体育館に到着し、出迎えを受ける天皇陛下=2025年2月2日、東京都渋谷区  天皇陛下は23日、65歳の誕生日を迎えられた。天皇陛下にとって、この1年で大きな出来事は何だっただろうか。天皇、皇后陛下の長女の愛子さまが生まれた2001年から皇室番組の放送作家を務めるつげのり子さんは、さまざまな出来事から天皇陛下の「お人柄」が垣間見えた、三つのシーンがあったという。 *  *  *  国内で起きた災害のなかで、最も甚大な被害があったひとつが、昨年の元日に発生した能登半島地震だ。天皇、皇后両陛下は3月と4月に被災地を訪問し、そして9月の豪雨でも被災した石川県輪島市を12月にも訪れて、それぞれ被災者を見舞われている。 3回目の石川県訪問で災害対応などに尽力した人たちをねぎらう天皇、皇后両陛下=2024年12月17日、石川県輪島市役所  そのなかで、つげさんの印象に最も残っているのは、豪雨による塚田川の氾濫で被害を受けた地域を訪れた際の天皇陛下の様子だという。  塚田川の氾濫によって4人が犠牲になり、そのうちの一人が中学3年生の女の子だった。黙とうを捧げ、深々と頭を下げられた両陛下は、しばらくその場にたたずまれていた。そのおふたりの後ろ姿が、つげさんの心に残ったという。 「陛下も愛子さまという娘を持つ父親なので、ご自身の立場を離れて、娘を亡くした父の心情が胸に去来していらしたのではないでしょうか。深々と頭を下げられた後ろ姿から、国民と苦楽を共にしていこうという天皇陛下の姿が伝わってきました」   英国訪問では笑顔でおしゃべり  次につげさんが挙げた大きな出来事が、昨年6月の英国訪問だ。エリザベス女王の跡を継いで即位したチャールズ国王の招待で、国賓としての公式訪問だった。天皇陛下と雅子さまはともに英国留学の経験もあり、おふたりの思い出の地、オックスフォードも訪れた。  つげさんにとって印象的だったのが、チャールズ国王夫妻主催の晩餐会だった。チャールズ国王の隣に天皇陛下が座り、おふたりの笑顔は久々の再会を心から喜んでいることがうかがえるものだったと話す。 「笑い合う姿が印象的で、国と国との間には国境はありますが、人と人との間には垣根はないということを天皇陛下の姿によって強く印象付けてくださるシーンでした」   【こちらも話題】 【2024年7月に読まれた記事①】思わず目が奪われる! 天皇陛下と皇后雅子さまを迎えた96個のルビーとダイヤの「宝冠」と、「最高峰」のピンク・ダイヤモンド https://dot.asahi.com/articles/-/243478     馬車でバッキンガム宮殿に入る天皇陛下とチャールズ国王。こうした移動中にも会話が途切れず終始笑顔だったのが印象的だ=2024年6月25日、ロンドン  晩餐会以外の式典でも、例えば馬車で移動する際でもチャールズ国王は天皇陛下にずっと話しかけて、会話が途切れる様子はなかった。 「天皇陛下は留学中、エリザベス女王には家族ぐるみでお世話になっていましたから、そんな陛下が来てくれたことを喜ぶ気持ちが、チャールズ国王の笑顔から伝わってきました」   愛子さまのために撮り直し  三つ目が、愛子さまが春に学習院大を卒業し、日本赤十字社に就職。新社会人としての生活をスタートさせたことだ。  そして父である天皇陛下に、愛子さまが「成長ぶり」を見せた瞬間が今年1月にあったと、つげさんは指摘する。  国立西洋美術館で開催中の『モネ 睡蓮のとき』展を天皇陛下と雅子さま、愛子さまが鑑賞に訪れたとき。ご一家が並んで写真を撮影しようとする際、絵画に心を奪われてしまったのか、3人が近い位置に立たれてしまった。 「モネ 睡蓮のとき」展を鑑賞する天皇、皇后両陛下と愛子さま。足元に立ち位置を記す黒い印があった=2025年1月27日、国立西洋美術館 「実は床には、3人の立ち位置の印が記されていました。その印に気づいた愛子さまが、陛下の腕を触って合図を送られました。陛下も『あぁ』と気が付いて、きちんと正しい位置に立たれたんです」  そんな愛子さまのアシストもあってか、このときの映像に収まる天皇陛下と雅子さま、そして愛子さまは、本当に楽しそうな笑顔だった。 「愛子さまに立ち位置を促されて、その指示に従った天皇陛下の様子からは、愛子さまが成長されたことをすごく嬉しく思われていることが伝わりました。こちらも思わずクスっと笑ってしまいそうになる微笑ましい場面で、天皇陛下のお人柄がにじみ出た瞬間だったなと思いました」    愛子さまの成長を感じさせたのは、実は22年11月にも同じようなことがあったからだ。 「ご一家が『国宝 東京国立博物館のすべて』を鑑賞されたときの写真では、最初、陛下とその横に立たれていた愛子さまが重なってしまい、愛子さまが映っていなかったんです。天皇陛下がそのことに気が付かれて、撮り直しを提案されました。  愛子さまは、それを覚えていらしたのか、『今度は私が』と立ち位置をいち早く天皇陛下に伝えたのかなと思うと、その成長ぶりには感慨深いものがありますね」  65歳になられた天皇陛下。これからも国民を思い、家族を思う場面が、たくさん作られていくことだろう。 (AERA dot.編集部・太田裕子) ◎つげのり子/放送作家。ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本メディア学会会員。西武文理大学非常勤講師。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある 【こちらも話題】 愛子さまのドレスは雅子さまから? 35年前の「おばあ様」のドレスをスタイリッシュに着こなしたのは高円宮家の承子さま  https://dot.asahi.com/articles/-/249447
中島健人と演技初挑戦のmilet、役との境界線が曖昧になった瞬間「私たちは愛し合ってたんだよ」に号泣した理由
中島健人と演技初挑戦のmilet、役との境界線が曖昧になった瞬間「私たちは愛し合ってたんだよ」に号泣した理由 miletさんと中島健人さん(写真:植田真紗美)    中島健人ソロ後初の映画主演作であり、miletは演技初挑戦となる。ともに記念すべきタイミングで出会った映画「知らないカノジョ」は人生のifを描くファンタジックラブストーリー。初共演ながら二人の息はピッタリだった。AERA 2025年2月24日号より。 *  *  * 中島健人(以下、中島):撮影初日からリクとミナミが恋に落ちていく点描シーン(短い時間で簡潔に観客に伝える場面)を撮影していったんですが、俺、結構緊張したんですよ。セリフがないからアドリブでどんなセッションになるか分からなかったから。でもいざ始まったらすごく自然に……ミナミがギターを弾きながらどんな風に曲作りをするかアドリブで語ってくれたりもして、それができるmiletちゃん、これ何作目の作品?って(笑)。 milet:1作目です(笑)。私はあんまり緊張しないで出来ました。でも、私としては中島さんにずっとリードしてもらった感覚でした。初日からリクの中に、またリクを通して素の中島健人さんを感じられたから安心したんです。繕った顔じゃなくて、素顔で迎え入れてくれたから、自分の中のミナミもさらけ出せた。リクを見ながらミナミができあがって、ミナミを見ながらリクもできあがって……。 中島:うん、点描でチューニングできた。なんだろうな、二人の“ヘルツ”が近い感覚でした。 ――やがてリク(中島健人)は小説家として大成するが、妻であるミナミ(milet)はミュージシャンの夢を諦めリクを支える立場に。すれ違いが増えて喧嘩した翌日、リクが目覚めると、なぜか世界は一変。自分は夢破れ、ミナミは大スター、二人が出会ってもない日常が始まってしまう。ifの世界で奔走する中島のエモーショナルな芝居と、両世界のミナミを魅力的に演じたmilet。役との境界線が曖昧になることもあった。 学生時代に恋に落ち結婚したリク(中島健人)とミナミ(milet)の物語。2月28日(金)から全国ロードショー (c)2025『知らないカノジョ』製作委員会   曲を聴いて号泣 中島:ミナミがこの作品の主題歌でもある「I still」をライブで歌うシーンでは、リクの感情にとても寄り添っていて数秒でも曲を聴くと号泣しちゃうんですよ。もう感情を抑えられないから、監督にリハ開始10分ぐらいで強制退場させられました。 milet:アハハ! いなかったね。 中島:でも逆に、テイクを重ねて泣けなくなってしまう現象にハマったときはミナミが助けてくれた。もう一つの世界で二人の距離が縮まる大事なレストランのシーンでしたが、時間もない、もうラスイチの本番に行く5秒前ぐらいかな、突然、ミナミが手を握ってくれて「リク、私たちは愛し合ってたんだよ」と。そのまま「本番、ヨーイはい!」で俺、もうダー(涙が流れるジェスチャー)。 milet:めっちゃ泣いてたね。でもあれは涙を流してほしいから言ったわけじゃなくて、あの切ないシーンを見たら、きっとお客さんもそう思うだろうと。それを伝えたかっただけだけど、お役に立ててよかったです。 中島:いや、その一言で二人のいろんなシーンを思い出したの。女優2周目ぐらいの信じられない引き出し方をするから、あなた何作目ですか?って(笑)。 milet:1作目です(笑)。 ――リクとミナミはそれぞれの才能を認め合うことで夢に向き合う力を得る。表現者である二人にも、そんな場面はあったのか。 中島:わりと近年ですが、様々な環境の変動があって自分の表現に迷っていた時期に千鳥のノブさんが「ケンティーは1人で立つエネルギーがものすごい。大丈夫、ちゃんと成立してるから、どこに行っても自信持っていいと思うよ」と言ってくれた。ジェントルですよね。それは凄く力になった。感謝してます。 miletさん(hair & make up 進藤南南(AVGVST)、styling 森田晃嘉、写真 植田真紗美)/中島健人さん(hair & make up 石津千恵、styling 渡邊奈央(Creative GUILD)、costume HARE/アダストリア 三服屋、写真 植田真紗美)   明日にはまた歌う milet:私は母ですね。ある歌番組に出た時に思うように歌えなくて泣きながら帰ったら、母が「立派だったよ」と慰めてくれたんですけど「でもね、あんたが泣いてる間にも上手い人はどんどん練習してもっと上手くなってくんだからね」って。うわ、きっつ。でも私、泣いてる場合じゃない!と(笑)。傷ついた時や失敗した時にはそれを思い出してバネにしてます。 中島:バネにできるの凄いな。 milet:明日にはまた歌わないといけないから。好きだけじゃやっていけないと思いつつ、でも好きだからこそやり続けられているんだと思います。 ――この作品を経て得たものは? 中島:感情を緩ませる力かな。ソロになってずっと緊張状態だったときにこの作品に出会えて、三木孝浩監督とmiletちゃんと過ごす中で、いつの間にか自然体でいられるようになって……人生の過渡期に自分を投影できるリクという役を生きたことはその後の活動にも凄くいい影響をもたらした気がします。 milet:デビュー5年目で新たな一歩を踏み出したいときに出会えた作品でした。もちろん恐怖もあったけど、チャレンジするときに恐怖なんてつきもの。飛び込んだからこそミナミを通して新しい人生を見つけることができたので、また何かチャレンジできる場面があったら挑むと思います。 中島:今生きている世界がより愛おしく感じられる作品です。是非、大切な人と見に行ってほしいですね。 (構成/ライター・大道絵里子) なかじま・けんと/1994年東京都生まれ。2024年Sexy Zoneを卒業、ソロアーティストに。出演作に「ラーゲリより愛を込めて」(22)、「おまえの罪を自白しろ」(23)ほか ミレイ/2019年、1stEP「inside you」でメジャーデビュー、翌年NHK紅白歌合戦に初出場。フルアルバムに「eyes」(20)、「visions」(22)、「5am」(23)。今作が映画初出演作となる ※AERA 2025年2月24日号  
能登半島地震の被災猫「最後の1匹まで家族を見つけたい」  求められる息の長い支援とは
能登半島地震の被災猫「最後の1匹まで家族を見つけたい」  求められる息の長い支援とは 「東京都人と動物のきずな福祉協会」代表の香取章子さんとプリン(撮影/写真映像部・和仁貢介)    2024年1月1日に起こった能登半島地震では、動物たちも被災した。行き場のない猫たちを引き取り、譲渡につなげるために奔走している。動物たちにも息の長い支援と理解が必要だ。 *  *  * 家族を待つ能登半島の被災猫たち  目はきらめいて、興味津々におもちゃを追っている。爪とぎで伸びをしたと思ったら方向転換して猫パンチ。元気いっぱい、わんぱくだ。この遊び好きのキジ白猫の名前はオー、男の子で推定8歳。能登地方から東京シェルター・シェアリング神保町にやってきた「被災猫」だ。  2024年1月1日に発生したマグニチュード7・6の能登半島地震は最大震度7を記録、516人が亡くなり、全壊・半壊合わせて約3万棟の住家被害が出た(25年1月23日現在)。  9月21日から23日にかけては能登半島北部で記録的な大雨となり、河川の氾濫と土砂災害で16人が亡くなった。輪島市、珠洲市、能登町を中心に多くの住家被害が出た。  大地震と続く豪雨で家や家族を失い、ペットと暮らし続けることが困難になった人は少なくない。オーの飼い主もその一人だ。このシェルターを運営する一般社団法人「東京都人と動物のきずな福祉協会」代表の香取章子さん(70)は、こう話す。 「能登半島で被災した猫たちを引き取って、新しい家族を探して譲渡しています。これまでに49匹を引き取り、34匹を新しい家族につなげました」 阪神・淡路大震災がきっかけ  香取さんは長らく、動物愛護に携わってきた。子どものころから猫が好きだった。社会人になり編集者として忙しい毎日を送っていたが、いつしか行き場のない「訳ありの猫たち」を引き受けるようになっていた。  2000年に「ちよだニャンとなる会」が発足し、千代田区と連携・協働して猫問題への取り組み始めた。11年に「殺処分ゼロ」を実現。23年には都から認可を受け、NPO法人になった。  本格的な活動を始めるきっかけは、30年前の阪神・淡路大震災だ。60万棟以上の家屋が被害を受け、6434人が亡くなった震災。人命が失われていく様子を報道で見て、涙が止まらなかった。がれきの隙間にいる、途方に暮れたような犬や猫の姿も見た。 遊びが大好きなオー。能登からやってきた。一緒に暮らす家族を待っている(撮影/写真映像部・和仁貢介) 「動物たちにも助けが必要だろうと、自分にできることはないか考えました」  動物福祉の考えはいまほど根付いておらず、熱心な団体の間でも「人ががれきに埋まっているときに、動物を助けると言ったら批判されるのでは」と懸念する空気があった。 米国のペットフードメーカーから支援  取材用のカメラを持ち、リュックにフードをつめて現地入りした。惨状に衝撃を受けたが、驚きもあった。 「すでに米国のペットフードメーカーから支援物資が届いていました。ペットフードメーカーのテントも立っていた。動きのはやさに驚きました」  命の重みを、できる人が動くことの大切さをしみじみ考えた。 「このとき、命を救う仕事をライフワークにしようと心が決まったのかもしれません」  11年の東日本大震災でも被災地に向かった。原発事故で警戒区域に残された動物たちに胸を痛めた。とりわけ、猫の境遇を思った。 「犬とは違って、猫には捕獲義務がありません。猫の命を見ないふりはしたくなかった」  自然の中で生きていける猫はまれだ。飼い猫はもちろん、地域猫も人につながって生きている。人がいなくなれば、静かに消えていくだろう。 災害が起これば、動物も被災する  大災害が起これば、動物も被災する。同行避難が知られるようになり、防災計画を立てる人も増えはしたが、被災すれば、家族同然の動物を手放さざるを得ない状況は起こりうる。能登半島地震が起こったとき、猫たちを「絶対に見捨てない」と決めていた。  発災から1カ月後に環境省から連絡を受け、被災猫の救援活動を開始した。 以降、今日に至るまで石川県と連携・協働して、いしかわ動物愛護センターに収容された猫たちを引き受け、東京で譲渡する活動を継続している。引き受けるのは、病気やケガがあったり、高齢だったり、人に慣れていなかったりする「譲渡が難しそうな」猫たちだ。 「石川県の動物愛護担当からは、1月から3月にかけてはペットの『一時預かり』の相談が多かったが、4月から7月には『引き取り』の相談が増えたと聞いています。被災直後はペットと一緒に生活再建を目指していても、さまざまな事情で別れを選択せざるを得なくなったのでしょう」 大きな声で鳴いていた部長。猫アレルギーがあるようだ(撮影/写真映像部・和仁貢介) 地元と連携して息の長い支援を  香取さんが心掛けていることがある。 自治体や地元の団体と連携して、地道で息の長い支援を行うことだ。  連れてきた猫たちは動物病院とも連携してメディカルチェックを行った。スムーズに受け入れることができたのは、行政やボランティア団体、動物病院などとこれまで丁寧に構築してきたネットワークがあったからだ。  協力を呼びかけることも重要だ。昨年、「能登半島の被災猫を保護し、医療にかけ、譲渡につなぐ。」をテーマに立ち上げたクラウドファンディングでは、目標額850万円に対して1500万円超が集まった。 「猫たちも、理解の深い方々が引き取ってくれています。第一陣として石川県からやってきた11歳の猫ツナは、俳優のいとうまい子さん夫妻のところに縁付きました」  シェルターのケージにはネームカードが貼られ、来歴やチャームポイントが記されていた。壁面に貼られた写真の数々は、「保護猫」「被災猫」というより、「たった一匹の猫」の大切な記録だとわかる。猫たちの表情は、家族に見せるような豊かさがあった。 「発災から1年以上が経ち、能登半島の復旧・復興にあまりに時間がかかっていることを痛感しています。人の命が一番大切なときに、動物まで手は回らないというかもしれません。でも、余裕があるときだけの愛護でいいのか。被災動物のための取り組みはまだこれから。なんとしても続けます」  香取さんは猫たちに優しい目を向けながら、「この1年、さまざまな縁ができて心が通った」と笑顔を見せた。 編集部 熊澤志保
【独自】8年ぶり俳優復帰「成宮寛貴」が自分に課したハードトレーニング 有酸素運動と食事制限で「10キロ減量」
【独自】8年ぶり俳優復帰「成宮寛貴」が自分に課したハードトレーニング 有酸素運動と食事制限で「10キロ減量」 8年ぶりに俳優復帰した成宮寛貴(撮影/写真映像部・和仁貢介)    8年ぶりに俳優活動を再開した成宮寛貴(42)の復帰後初のインタビュー。【前編】では2016年の「電撃引退」にの真相や「空白の8年間」について聞いたが、【後編】では、俳優復帰に至った“きっかけ”や、復帰作「死ぬほど愛して」(ABEMA)の撮影に臨んだ思いなどを語ってもらった。 ※【前編】<俳優復帰「成宮寛貴」が初めて明かす“電撃引退の真相”と“空白の8年間”>よる続く *  *  *  芸能界引退から約4年がたつ頃、興味を持てるものを見つけた成宮は自身のアパレル&アクセサリーブランド「HN Product」を立ち上げ、プロダクトをホームページやインスタグラムに発信していった。 「日本のファンの方がずっと応援してくださって、いつもコメントをくれました。その言葉のひとつひとつが温かく励みになりました。本名の平宮博重(なりみや・ひろしげ)で活動していて、SNSが唯一、日本で応援してくださっている方とのつながりでした。『HN Product』のホームページでは、自分のビジュアルは強調せず、商品に注目してもらうようにしました」  それでも、成宮がSNSで発信した内容をメディアが取り上げることがあり、WEBニュースなどで報じられることも少なくなかった。時には、日本から仕事のオファーが舞い込むこともあったという。 「広告のお話を頂いたことがあります。生活を考えるとやった方がいいと思ったのですが、今は引退している身なので、自分の肖像を使った仕事は考えられず、ありがたいお話だったけどお断りしました」 成宮寛貴(撮影/写真映像部・和仁貢介)    次第にメディアでも「成宮寛貴、俳優活動再開か」「成宮、『相棒』復帰へ」と復帰説が流れ始めた。そして20年12月24日、成宮は帰国。だが当時は、俳優復帰への気持ちはなく、プロダクトプロデュース業に専念していた。  そして帰国して1年ほどたつと、復帰へとつながる出来事があった。 「作家・脚本家の樹林伸さん、お姉さんのゆう子さんと食事をする機会があって『やってもらいたい役があるから一度読んでみて』と、作品の原作をいただいたんです。樹林さんの原作作品では、神崎潤(J)役の『ブラッディ マンデイ』や高遠遙一役の『金田一少年の事件簿N』など本当にいい役をいただきました。樹林さんのお気持ちが、本当にありがたかったです。  ただ、その時は俳優として復帰するとは考えていませんでした。俳優という仕事は、『よし、明日から俳優やろう』といってできるものではありません。まず、事務所やマネジャーなど整えなくてはいけないことが多い。それと俳優復帰するなら『成宮寛貴』として活動したいという強い思いがありました。そこで前のエージェント(芸能事務所)にもごあいさつにうかがうと、幸いにも快く承諾していただけました。こうして環境が整ってきたタイミングで、改めて樹林さんからご連絡をいただき、作品出演が現実的に考えられる状態になっていきました」 成宮寛貴(撮影/写真映像部・和仁貢介)   女性の身も心も洗脳していく役  成宮が主演する復帰作「死ぬほど愛して」(ABEMA・全8話)は今春配信予定。成宮が演じる神城真人は、容姿端麗なエリートサラリーマンで愛妻家という表の顔と、凶悪殺人鬼の裏の顔を持つ役どころだ。 ――役作りのために準備したことは? 「海外にいたときにもトレーニングをしていたので体力は落ちていないのですが、逆に体が大きくなりすぎて絞るのが大変でした。日本に帰ってきてからは、ご飯がおいしいのとコンビニ食が楽しくて(笑)。毎日コンビニのご飯やおやつを食べていたら、10キロぐらい増えていました。でも、その分は復帰を決める前から有酸素運動と食事制限をして落としました。  (芸能界から離れていた)8年間でいろいろな事があり、今台本を開いたらどんな芝居できるだろう、と自分に対して興味がありました。樹林さんがくださる役はいつも魅力的なヒールで、毎回、印象に残るキャラクターばかりです。今回もすてきなやりがいのある役をいただき、感謝しています。  真人はいろんな女性の身も心も洗脳していく役で、真人の話す言葉は1つで2つの意味があったり、全く裏腹の事を考えたり、表と裏の相反する顔を持って生きている。樹林さんと監督からは『殺人鬼だが、サディスティックな見え方にはしたくない』とリクエストされました。人を傷つけながら自分も傷つく。本当の愛に触れて、初めて他人から注がれる愛に気づいた……そんなキャラクターです。ピカレスク・ラブサスペンスですが、アクションもあります」  約8年前の電撃引退から海外で生活し、プロダクトプロデュースを続けている成宮。そして再び芸能界に戻ってきた彼はその環境の変化に驚いたという。 「今はSNSやYouTubeで誰もが発信できる時代になり、誰でも自分で有名になれる。セルフプロデュースの時代だと思います。とにかく1年が過ぎるスピードが速く、情報量も多い。視聴者も自分で選んで好きなものを自由に見ている。大きな変化を感じました」 成宮寛貴(撮影/写真映像部・和仁貢介)    そして最後に、今後のビジョンについてこう話す。 「成宮寛貴、俳優として第2章が始まります。42歳の自分が感じている事のひとつひとつをお芝居で表現できたらと思います。そして自分にしかできない、唯一無二の俳優になれるように今後も邁進していきたいです。これからの自分に期待していただけたらうれしいです。自分も自分自身に期待しています(笑)」 (笠井千晶)
「既婚・未婚男女別の幸福度」ダントツで低いのは未婚男性 一方、既婚女性の子あり・なしで意外な結果に
「既婚・未婚男女別の幸福度」ダントツで低いのは未婚男性 一方、既婚女性の子あり・なしで意外な結果に 子どものいる女性のほうが幸福度は低い(写真:iStock / Getty Images Plus)    既婚・未婚で幸福度は変わるのか、既婚女性の子どもの有無は生活満足度にどう影響するのか。幸福のヒントを専門家に聞いた。AERA 2025年2月17日号より。 *  *  *  結婚すれば幸せか。結婚しているから幸せ、とは言いきれない。もともと幸せな人が結婚していることが、データからうかがえる。  既婚、未婚、男女別の幸福度を見ると、どの年代でも、既婚者の方が幸福度が高い。最も幸福度が高いのが既婚の女性もしくは男性で、次に未婚女性が続く。ダントツで低いのは未婚男性だ。 「既婚か未婚かで幸福度に大きな格差が生じていると思います。日本の社会全体が、結婚といった形式にこだわっている面があり、特に男性は高学歴、正規雇用でなければ結婚しにくいのです。結婚した場合、日本では家事分担が女性に偏りがちであることも、未婚男性と比較して既婚男性の幸福度を高めていると思います」(青山学院大学の亀坂安紀子教授)  未婚男性は50代で幸福度が顕著に低下するが、なぜか。 「老後の不安を抱えるからだと考えられます。50代になると、自分の子どもを持てない可能性が高まります。老後に妻に自分の面倒を見てもらうこともできず、子どもに世話をしてもらうこともできません」(亀坂教授)  子どもを持つことは幸せなイメージがある。だが、既婚女性で最も生活満足度が高いのは、子どものいない女性だ。むしろ子どもの数が多い既婚女性ほど、生活満足度が下がる。なぜ子どもを持つと、満足度が下がるのか。拓殖大学の佐藤一磨教授は言う。 「もちろん、子どもを持つことが不幸せなわけではありません。子どもを産み育てる肉体的精神的な負担が、男性よりも女性にかかる傾向にあります。産後に夫婦関係は悪化するという指摘もあります。教育費の負担も幸福度の低下につながっていると考えられています。子どものいる既婚女性の幸福度は変わりませんが、子どものいない既婚女性の幸福度は上昇しています。結婚したら必ず子どもを持つべきという社会的な価値観が変わったからだと考えます」 AERA 2025年2月17日号より    子どもを持つ人にフォーカスすると、意外なことがデータから見えてくる。亀坂教授が、専業主婦の母と共働きの母の幸福度を分析すると、専業主婦の母は末子を産んで3年間ほど高い幸福度を維持する。 「実は日本の結果は特殊です。旧西ドイツ地域では、産後すぐに幸福度が低下します。日本では女性がある程度の所得水準がある男性と結婚する傾向にあるので、そもそも余裕がある人だけが出産しているのではないかと考えられます」(亀坂教授)  幸せな人が結婚、出産している。  幸福の経済学から何が見えるか。亀坂教授は言う。 「日本は『無理ゲー』社会です。まともに働いてもゲームをクリアできません。共働きでも女性が8割以上の家事負担をしている家庭も多いです。女性がキャリアを続けながら家庭も築いて子どもも育てることが無理に近いんです」  幸せのヒントは。 「脱出できる環境を作ることが大事です。いざというときにクリアできる条件を整えておけば生き残れると思います。私も病気がちだった子どもが入院するたびに、仕事を続けられないかもと思いましたが、大学教員ができなくなったら、公認会計士の資格を持っているから会計事務所でパートで働こうと思えたから、生き延びることができたと思います。これは無理ゲーかもと思ったら、他のゲームに切り替えたり、ゲームのやり直しができる社会を築くことが大事です」(亀坂教授)  いざというときに頼れる先を用意したほうがいいことは、データにも表れている。 「内閣府の調査でも、困ったときに頼りになる人が5人以上いる人は将来の不安が少ないことがわかっています。所得が低くても、周りに支えてくれる人たちがいれば幸福度は高まります」(亀坂教授)  佐藤教授は、幸福度の解釈には注意が必要だと話す。 「幸福度は今の日本社会を反映する指標であり、いまの結果が幸せの条件ではありません。今は子どものいない既婚女性の方が、子どものいる既婚女性より幸福度が高いですが、社会が変われば、子どものいる既婚女性のほうが幸福度が高くなると思います」  幸せになるには三つの要素が必要だという。 「お金、健康、豊かな人間関係です。ハーバード大学の研究で、家族や友人と関係を築いていくことが幸福度の向上に効いてくることがわかっています。悩みを相談し、楽しい時間を過ごせますし、新たな情報を知ることもできます。人と会う習慣があれば身なりをきれいにして、健康を大切にする効果があるのではないかと言われています。人とのつながりを維持することが、人生に対する投資になっていきます」(佐藤教授) (編集部・井上有紀子) ※AERA 2025年2月17日号より抜粋  
累計再生数50億回「ショートドラマ」制作会社が明かす 視聴者が離脱しない動画の作り方
累計再生数50億回「ショートドラマ」制作会社が明かす 視聴者が離脱しない動画の作り方 1話1~3分程度のストーリーをスマートフォンの縦型画面で楽しむショートドラマ。仕事から疲れて帰宅した後でも、短時間で視聴できる(写真:Getty Images)    ここ数年、若い世代を中心に1話数分のストーリーをスマートフォンの縦型画面で楽しむ「ショートドラマ」が注目を集めている。制作現場の内側を探った。AERA 2025年2月17日号より。 *  *  *  ショートドラマはどのように作られているのか。 「現在七つの撮影チームがほぼ毎日どこかで稼働しており、スタッフのやりくりやコスト、スケジュール調整など走りながら考えている状況です」  こう話すのは、ショートドラマ制作集団「ごっこ倶楽部(くらぶ)」を運営する「GOKKO」(東京都豊島区)の田中聡CEOだ。「ごっこ倶楽部」は2021年5月に結成したショートドラマのクリエイター集団。翌22年に法人化した。これまでに1200本超のショートドラマを制作・投稿。TikTokをはじめとする動画の累計再生数は50億回(今年1月時点)を突破している。毎月30~60話完結の作品を3タイトル同時並行で進行し、単発ものも含めると公開本数は月間250話ほど。いずれも1分半~2分半のショートドラマだ。 冒頭からハプニング 「これより長くなるとストーリーに膨らみは出ますが、スマホ視聴者の離脱ポイントにさしかかってしまいます。意外性のあるストーリー、短時間で感情が揺れ動く、スカッとしたり感動できたりする作品を意識しています」(田中さん)  面白くないと感じたその瞬間、親指でスクロールされて別の動画へスキップされる。冒頭でスキップされるのを防ぎ、その先も離脱ポイントが生じないよう、いかにしてフル視聴してくれる人を増やすかが腕の見せどころだ。田中さんは言う。 「フル視聴してくれる人を増やすには、冒頭から2、5、15秒といったタイミングで必ず何かしらのハプニングを生じさせ、視聴者を飽きさせないストーリー展開にすることが重要です。テレビの場合、リモコンのチャンネルボタンに指をかけ、CMになるとチャンネルを替えられるよう常にスタンバイしている人をたまに見かけますが、スマホ動画は常時その状態で待機されている感じです」  ストーリーの構成は序破急でいうと、「序」ではなく「破」から始まる。音楽で言えばイントロでなくサビから始まるイメージだ。例えば学校のシーン。冒頭、制服の襟元のアップの数秒後に、生徒どうしがぶつかったり、物を落としたり、怒られていたりというシーンへと展開し、視聴者の関心をひきつける。 ショートドラマを知らない人に分かりやすく、どういうものかを知ってもらうのに適した作品」というテーマに沿って、AERA編集部が江村雄一さんに選んでもらいました。シリーズものについては第1話のリンクを掲載しています 【ショートドラマのトップランナー「ごっこ倶楽部」の泣ける作品】 ■最後のわがまま https://www.tiktok.com/@gokko5club/video/7453647152938634503 ■REC https://www.tiktok.com/@showdrama_24/video/7299981278869196034 ■梨の木 https://www.tiktok.com/@gokko5club/video/7253647405571149057 ショートドラマを知らない人に分かりやすく、どういうものかを知ってもらうのに適した作品」というテーマに沿って、AERA編集部が江村雄一さんに選んでもらいました。シリーズものについては第1話のリンクを掲載しています 短時間で感動味わえる  現場は監督、助監督、撮影、録音、メイク担当、俳優を含め10~14人。平均年齢は26歳。俳優は「中規模の劇場で主演を張っていた実力のあるメンバー」が中心だ。ユニークなのは約30人の俳優を全員、正社員雇用していること。俳優の仕事だけでは食べていけない場合、シフトの融通が利く複数のアルバイトに就く人が多いが、せっかくなら制作現場で働いてもらったほうが本人にとってもいいはず、という判断だ。俳優は監督として脚本を執筆するほか、編集、撮影なども担当する。  田中さんがショートドラマに関心を持ったのはコロナ禍のこと。テック系の会社勤務などを経て、起業を試みるもコロナ禍と重なり、挫折。結婚間もない妻との関係も危うくなったどん底の状況で、ごっこ倶楽部が制作したあるショートドラマに出合った。それはコロナ禍に夫婦関係が崩壊し、離婚に追い込まれるストーリーだった。自分の境遇と重なり、涙が止まらなくなった。そしてふと我に返った時、あらためて実感した。 「2分半ほどの動画で泣けるって、すごいことなのではないか」  その経験から間もなく、前職で部下だった共同創業者の多田智・現CEOから「手伝ってほしい」と連絡が入り、創業前のごっこ倶楽部に合流した。 「2分前後の初期作品が累計30万時間ほど閲覧されていました。これってとんでもない可処分時間を獲得できている、と当時から大きな手応えを感じていました」(田中さん)  視聴者のメイン層は18~24歳だが、他の世代にも広がると確信している。その理由を田中さんはこう説明した。 「仕事から疲れて帰宅した深夜に2時間ドラマを見るのはきついという人も、短時間で視聴でき、感動も味わえるショートドラマにはハマります。どれだけ疲れていても忙しくても、みんなスマホは開くんですよ」 (編集部・渡辺豪) 【多彩な作り手による、スカッとする、笑える、ジャンルも多彩な作品】 ■年齢確認VS年齢承認 https://www.tiktok.com/@coneco_film_/video/7343656657592929537 ■陰徳恩賜 https://www.tiktok.com/@gokko5club/video/6993981388957519105 ■みらいの婚活 https://www.tiktok.com/@picorelab/video/7359410308105915655 ■ラムネのビー玉 https://www.tiktok.com/@fu.ku.oka.com/video/7272683618110115074 ※AERA 2025年2月17日号より抜粋、加筆  
健康の秘訣は空腹にあり? 70代医師が40年近く実践する「1日1食」“つらくない断食”
健康の秘訣は空腹にあり? 70代医師が40年近く実践する「1日1食」“つらくない断食” 写真はイメージです(写真:Getty Images)    仕事帰り、用事もないのにコンビニに寄り、目を引く食べ物をつい購入。明らかに食べ過ぎの現代人にとっては、むしろ空腹の方が贅沢な経験かも? “つらくない断食”を実践する医師に、話を聞いた。AERA 2025年2月17日号より。 *  *  *  東日本在住の50代夫婦はコロナ禍から始まったテレワークで「1日1食」がすっかり定着した。日中はニンジンジュースや黒糖入り生姜紅茶で過ごし、夕食ではビール、日本酒、ワインをお供に好きなものを好きなだけ食べる。1日1食とはいえ、空腹時にはチョコレートやナッツをつまんだりとフレキシブルに対応している。  食べること飲むことが大好き。1日1食がいいのは、夕食をよりおいしく感じられること。以前はカロリーを気にし、炭水化物や揚げ物、甘味は避けていたが、今は何の制限もしていない。それでも夫婦ともに体脂肪率は50代の平均値を下回っている。体調はすこぶる良く、妻は「肌がピカピカしている」とよく褒められるという。  この夫婦が「1日1食」の手本としたのが、イシハラクリニック・石原結實院長の食生活だ。断食やファスティングという言葉がメジャーになる前から、ニンジンジュースや黒糖入り生姜紅茶を飲みながら行う“つらくない断食”を提唱し、書籍も多数出版している。1985年には伊豆に温泉付きの断食施設「ヒポクラティック・サナトリウム」を開設。石原院長自身も40年近く「週1日断食、週6日1日1食」を実践する。その内容を紹介すると……。 【月曜日】 朝昼夕でニンジンジュース(リンゴ入り)計6杯、黒糖入り生姜紅茶計2~3杯 【火曜日から日曜日】 朝:ニンジンジュース2杯 昼:黒糖入り生姜紅茶1~2杯 夜:好きなものを好きなだけ。アルコールも無制限 夕食は制限なく食べる  ある日の夕食はイタリアンレストランで編集者やライターと、前菜盛り合わせ、ポテトフライ、ピザ、パスタ、魚介類のメイン、ビールと白ワインを制限なく。極端な偏食で、肉、魚、卵、牛乳、バター、マヨネーズは食べられない。動物性食品で食べられるのはエビ、カニ、イカ、タコ、貝などの魚介類とチーズのみだ。 「今年77歳、健康診断の結果はオールAの病気知らず」と言う石原院長がこう続ける。 「伊豆と東京での診療、講演会、執筆や取材対応と365日休みはゼロですが、体は軽く、疲れを感じません。週4日は10キロのジョギング、週2回は50~100キロのバーベルを使ったウェートトレーニングも難なくこなしています」  石原院長は「健康長寿のカギは空腹にある」と断言。実際、複数の研究結果が空腹の健康効果を示している。2000年には米マサチューセッツ工科大学のレオナルド・ガレンテ博士らが「空腹の時間を長く保つとサーチュイン遺伝子(長寿遺伝子)が活性化し長生きする」と発表。オートファジーにも注目が集まっている。細胞が自らの一部を分解し再利用する、つまり細胞を若返らせる働きのことで、空腹時に活性化する。2016年には、東京工業大学(現・東京科学大学)の大隅良典栄誉教授がオートファジーの研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した。  さらに2019年、ジョンズ・ホプキンス大学のマーク・マトソン教授らは過去の研究の検証から、「毎日16~18時間の断食」「週2日、摂取量を500~700キロカロリー以下に制限」といういずれかの方法で、血圧低下や体重減少の健康効果が得られ、寿命を延ばす効果が期待できるという内容を米医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンで報告している。 「人類の歴史の大半は飢餓であり、私たちの体は飢餓に適応できるように作られているのです。『1日3食規則正しい食事を』と言われますが、生活習慣病の患者数は増加し、発症年齢も若年化しています。長寿であっても、健康長寿ではない。現代人は明らかに食べ過ぎで、健康のためには自ら意識して空腹の時間を作ることが必要なのです」(石原院長) (ライター・羽根田真智) ※AERA 2025年2月17日号より抜粋  
「常盤貴子」がドハマりした「御上先生」の疲れた中年女性教師役 50代になった“リアルな姿”が魅力に
「常盤貴子」がドハマりした「御上先生」の疲れた中年女性教師役 50代になった“リアルな姿”が魅力に ドラマ「御上先生」で好演している常盤貴子    今期のドラマの中で、ひときわ注目されているのが松坂桃李主演の日曜劇場「御上先生」(TBS系)だ。視聴率も第4回まで2桁をキープしており、評判も上々のようだ。  本作は文科省のエリート官僚が高校3年生の担任教師となり、生徒たちと日本教育にはびこる腐った権力へ立ち向かう“大逆転教育再生ストーリー”。回を追うごとに謎が深まっていくと同時に、点と点がつながっていく展開が視聴者を引きつけている。そんな中、キャストで注目を集めているのが、元教師・冴島悠子を演じる常盤貴子(52)だ。  同僚教師との不倫をリークされたことで学校を退職し、現在はコンビニのパートをしている女性の役だが、物語のキーとなる殺人事件の犯人の母親であったことがわかり、SNSでは「本当は不倫ではなかったのでは」「セリフが意味深」など、考察合戦が繰り広げられている。 「当初から視聴者の間では、常盤さんが配役されたのだから脇役では終わらないだろう、とささやかれていました。今のところ、不倫で退職を余儀なくされた形ですが、何か大きな闇に巻き込まれ、学校から排除されてしまった可能性もありそうです。職を追われ、子どもは殺人犯となる複雑な役ですが、コンビニでは覇気がなくため息まじりに商品を陳列する姿など、“疲れた中年女性”の雰囲気をうまく醸し出しています。SNSでは、常盤さんについて『以前よりふっくらした』と指摘するコメントも目立ちますが、このふくよかな感じが役柄に見事にマッチしているように感じました。ネット上でも『パッと見、常盤貴子だとわからなかった』という意見も多く上がっています」(テレビ情報誌の編集者)  同じく日曜劇場「とんび」(TBS・2013年)で、内野聖陽の妻役を演じた常盤だが、その役が今回のドラマ起用にも影響しているようだ。「御上先生」のプロデューサーはインタビューで「(『どんび』のときの常盤は)すごく愛情深い役だったんですけど、冴島悠子も実はこのドラマの中で、ある種、愛の化身というか、愛を一番表現できるキャラクターとして存在している」と明かしていた(「シネマトゥデイ」1月26日配信)。  最近では、能登半島でのボランティア活動でも話題となった。能登は自身がかつて出演した朝ドラ「まれ」(NHK・2015年)の舞台だったこともあり、炊き出しや泥かきなどの活動で復興支援を積極的に手伝っている。1月29日に訪れた際は北陸放送の取材に対し、「タレント来ました、ドーン!みたいな感じじゃなくて、皆さんとお話が出来る距離感でやれたらまた良いなと思っていた」と話し、年に2~3回は足を運びたいと話していた。 常盤貴子   夫とは結婚15年目で大の仲良し  一方、プライベートでは、演出家で俳優の長塚圭史と2009年に結婚。結婚生活は15年を越えるが、二人の仲良しぶりもよく知られている。 「誕生日を一緒にお祝いしたり、夫が演出する舞台に出演したり、とても仲むつまじいのが伝わってきます。以前、常盤はインタビューで『私たちは空想や無駄な会話も多いけど、それが楽しくて、人生や仕事の価値観が一致してるんだと思います』とのろけるように話していたこともありました。夫の長塚もトーク番組に出演した際、『一緒に戦っていけるというか、とやかく言わないし、認め合いながら、観察し合いながら歩んでいる』と明かし、共演者をうらやましがらせていました。常盤はストイックなところもあるようで、長塚は『簡単な道を進もうとすると冷たい目で見るところがある』と夫婦だからこそ知る素顔を明かしていたこともあります。お互い“戦友”のような存在と感じている部分もあるのでしょうね」(民放ドラマ制作スタッフ)  常盤は鉄道や着物、航空機レーダー、裁判の傍聴など、多趣味としても知られているが、最近では発酵食品にハマっているようだ。出演した「安住紳一郎の日曜天国」(TBSラジオ/1月19日)では、味噌作りから始まり、豆板醤やスパイス麹、オニオン麹まで作るようになったと告白。「麹は幅広いですね」と話す一方で、「ただ、最近わかったことは、お味噌があまり好きじゃないということ」「一緒に味噌作りしていた人には言えない」と衝撃的な発言をして、パーソナリティの安住が大爆笑するシーンもあった。50代になって今まで以上に人生を楽しんでいるようだ。 「これまで常盤さんは気を使いすぎて、人に合わせることが多かったそうですが、嫌なものは嫌だと言えるようになったとか。『どれだけ仕事ができても、お金持ちでも、綺麗でも、人として魅力的な人こそが私の思うカッコいい人』と話し、そういう生き方を真似したいと話していました。常盤さんが年を重ねても魅力的なのは、外見だけでなく、こういった考え方にもあるのかもませんね」(前出のテレビ情報誌編集者) トレンディドラマに出演していた頃の常盤貴子(1997年)   「男はつらいよ」で寅さんの妹役も  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は、常盤の魅力についてこのように分析する。 「豊川悦司とダブル主演を務めた1995年の『愛していると言ってくれ』が代表作の一つですが、96年から98年にかけて『真昼の月』『ひとり暮らし』『理想の結婚』『最後の恋』『めぐり逢い』と立て続けにTBS系の連続ドラマで主演を務め、まさに時代の顔になりました。木村拓哉と共演し、最終回の視聴率が41.3%という驚異的な数字を記録した2000年の『ビューティフルライフ』はファンだけでなく、多くの人の心に刻まれていることでしょう。30代から40代にかけては少しずつ単発ドラマにシフトしながら役の幅を広げていき、近年では『贋作 男はつらいよ』で桂雀々演じるフーテンの寅の妹・さくらを演じていたのが印象に残っています。50代に突入してもなお俳優として大きな存在感を発揮しており、とても良いキャリアの重ね方をしていると思います。年齢とともに演技に厚みが増しているのは、一人の人間として、充実した実りある生き方をしているからではないでしょうか」  話題となっている「御上先生」でも、物語のキーパーソンとしてますます存在感を発揮してくことになりそうだ。 (高梨歩)
大谷翔平、所ジョージなぜ幸せそうに見える? 幸せ感じにくい日本人が見つけたい「法則」
大谷翔平、所ジョージなぜ幸せそうに見える? 幸せ感じにくい日本人が見つけたい「法則」 大谷翔平選手と妻の真美子さん(写真:AP/アフロ)    最近、幸せを感じたのはいつですか? 仕事においても、幸せを感じていますか? お金や地位だけでもなくやりがいだけでもない、「客観的Well-being」と「主観的Well-being」のバランスの最適解を探り、自分なりの「幸せの法則」を見つけよう。AERA 2025年2月17日号より。 *  *  * 「終わった!と仕事の達成感に浸っているのに、上司から無情なやりなおしを命じられたりしたときですよね。そんな緊張感から解かれて、ケーキやプリン、アイスなどを自分の部屋でじっくり味わう。この至福のときが、私のパワーの源です」  そう話すのは、28歳の女性会社員だ。聞けば仕事について、幸せと不幸せの割合は「4対6」くらい。 「でも、もし仕事をしてなければ、スイーツのご褒美もないところがやっかいですよね」 「パーソル」がおこなった「『はたらいて、笑おう。』グローバル調査」によると、「日々の仕事に喜びや楽しみを感じているか」を尋ねた設問で「はい」と答えた割合は、日本が138カ国中104位という低レベルに。1位のエルサルバドルの97.3%と比べて25ポイント近くも低い、73.9%だった。  パーソル総合研究所でWell-beingの調査などを担当している上席主任研究員の井上亮太郎さんはこう分析する。 「仕事に喜びや楽しみを感じるかどうかを左右するとされる要素は多様ではありますが、大きく二つ。その国の経済成長率と国民性です。まず日本の経済成長率はアジアの他の国と比べると低いので、将来の見通しがつけにくく、安定した仕事を得たり、仕事を通じた成長や達成感などを得る機会が乏しい。結果、喜びや楽しみを感じる人も少なくなってしまう」  さらに日本の国民性も、この結果に影響しているようだ。 「日本の職場では、『ヘラヘラしてるんじゃない』とか、『仕事なんだからまじめにやれ』という言葉を聞くことも多いですよね。これは裏返せば、仕事を楽しんではいけないというメッセージにも聞こえます。真面目で勤勉な人こそ優秀な人という考え方が、日本では今も根強いのです」 所ジョージ   「幸せそうな人」は?  そんな日本にも、働くことの幸せはきっとあるはず。そう信じて読者に「幸せそうだ」と思える人アンケートをおこなった。多くの票を集めたのが、メジャーリーガーの大谷翔平選手。 「大谷選手が比較対象にしているのは常に自分。他人と比較してしまうと、妬みが邪魔したりして、なかなか幸せはつかめない」(49歳・女性・公務員)  庶民には想像もつかない高額の収入はもちろんのこと、幸せの実感を素直に表現しているところでも、幸せポイントが高い。 「もうひとつ、人生の幸福度に大きく関係していると言われているのが、大事な人との繋がりです」(井上さん)  ただし、友人が多ければ多いほどいいというわけではなく、数にかかわらず「大事な」人がいることが重要とのこと。読者のアンケートでも、妻やデコピンとの関係に、大谷選手自身の幸せを感じる人は多かった。  ちなみに「幼い頃からの夢を着実にかなえつつ、さらに進化し続けている。周囲に不必要な忖度をしないから」と大谷選手を挙げた60歳の女性公務員に、自身が幸せを感じるときを尋ねると「湯船にのんびり浸かっていたり、布団に入り眠りに落ちたり」との答えが返ってきた。これなどは、大谷選手と甲乙付けがたい幸せと言えそうだ。  また今回のアンケートで、大谷選手に負けず劣らず「幸せそうだと思う有名人」票が多かったのが、タレントの所ジョージさんだ。大物なのに肩の力が抜けた貴重なキャラに加え、家族とのつながりを挙げる声が多かった。  また人間関係の重視では「オーディションで人柄評価をおこない、アイドルグループになるメンバーの人間性や良い人間関係を重要視」(50代・女性・フリーランス)している韓国の音楽プロデューサー・J.Y.Parkさんなどの名前も挙がっていた。 アンミカ(写真:西村尚己/アフロスポーツ)   「公私ともに」がカギ  ほかに「苦労していてもポジティブだから」(51歳・女性・パート)と、読者から幸せ認定されたアンミカさん、「私自身もコロナ以降、仕事には黒のスーツにヒールというルールをやめて、ピンクの服を着るようになった」という47歳の女性経営者が推したカラフルファッションの木村カエラさんや、料理愛好家の平野レミさんや黒柳徹子さんなど、ありのままの自分を認め、見せている人には、幸せが寄ってくるイメージがあるようだ。  さて、このアンケート結果から、どのような「幸せの法則」が見えてくるだろうか。アンケートで挙げられたコメントを見ると、キャリアにおいて成功していることはもちろん、プライベートでの充実度を重要視している傾向がみられた。  パーソルの「『はたらいて、笑おう。』グローバル調査結果」のウェブサイトには、「報酬」「地位」「仕事の条件」など「客観的Well-being」(誰もが客観的に把握できる価値)と、「主観的Well-being」(個人が主観的に感じる価値)というふたつの基準が示されている。  確かに「やりがい搾取」という言葉もあるように、やりがいがあっても経済的な報酬が伴わなければ、それは健康なありかたとは言えない。だからといって報酬ばかり充実しても、心が乾いてくるのだろう。知らないけど、きっと。 「客観的Well-being」と「主観的Well-being」のバランスの最適解を探り、自分なりの法則を見つける──。  その答えは人の数だけ、あるはずだ。(ライター・福光恵) ※AERA 2025年2月17日号  
増える「外国人消防団」 反対の声「乗っ取られる」の“誤解”と被災時に期待される役割とは
増える「外国人消防団」 反対の声「乗っ取られる」の“誤解”と被災時に期待される役割とは 横浜市の外国人消防団員・中島由美さんと南消防署消防団係の芦葉昇平係長=米倉昭仁撮影   日本に暮らす外国人は約359万人(2024年6月時点)と、この20年間でほぼ倍増した。彼らに、地域における消防・防災のリーダーを担ってもらおうと、「外国人消防団員」の育成に力を入れる自治体が増えている。 *   *   * 「消防団に入ってよかった」  神奈川県横浜市は20年、外国人に消防団入団の門戸を開いた。同市の外国人消防団員数は77人(今年1月1日時点)。全国自治体のなかで最多だ。  05年、中国・大連から来日したプラント設計技術者の馮剛(ひょう・ごう)さんは5年前、スーパーの防災備品コーナーで「横浜市消防団員募集」のチラシを見つけた。「外国人も入団できる」と記されていた。「面白そうだから、やってみたら」という妻の勧めもあって、団員になった。 「消防団に入ってとてもよかった。周囲の人を助けられるし、家族も守れる」 と、馮さんは語る。  中国福建省出身の中島由美さんは1999年、「山口百恵の映画などの影響で日本に憧れて」来日した。3年前、横浜市内の職場で消防団員募集の案内があり、手を挙げた。 「日本の社会とつながりたいし、役に立ちたいと思いました。火災の通報や、心肺蘇生法なども学びたかった。班長はやさしい。つらいと思ったことは全くないです」(中島さん) 日本人団員と同じ訓練  2人が所属する「南消防団」(横浜市南区)には、11人の外国人が在籍している(今年1月末時点)。内訳は中国籍7人、韓国籍、ベトナム籍、ブラジル籍、トルコ籍がそれぞれ1人。  訓練内容は、日本人団員と違いはない。  毎月1回、分団の班(約15人)ごとに定例会があり、定期的に消防訓練を行う。消火栓の開閉や消火ホースの延長など、消火設備の取り扱いを学ぶ。  2人はまだ火災現場に出場した経験はないが、自治会や町会が主催する防災訓練の支援をしたり、夏祭りなどのイベントで火災予防や消防団のPRをしたりする活動に参加している。  班を横断する組織として、南消防団は21年、「外国人防災指導チーム」を発足させた。初期消火の方法や、119番通報の手順を外国人住民に教えるのが目的だ。  南消防署消防団係の芦葉(あしば)昇平係長はこう話す。 「言葉が通じないので、われわれでは教えられないんですよ。外国籍のメンバーから母国語で消火器の使い方を伝えたり、119番通報訓練を行ったりすることに、大きな意義があります」  外国籍の住民は「119」を知らない人が少なくない。知っていても「私はうまく話せないから、かけるのが怖いです」という人が多い。 「実は私もそうだったんです」と、馮さんは笑う。 「でも、大丈夫。119にかけて、日本語がわからなければ、通訳が間に入る。安心して事故や救急のときは119にかけてほしい。そんなことを同胞に教えることも、やりがいの一つです」(馮さん) 昨年7月、神奈川県愛川町に「多言語機能別消防団」が発足した=同町提供 「公権力の行使」のしばり  ただし、実際の活動には「しばり」がある。  消防団員は「非常勤特別職の地方公務員」で、内閣法制局が1953年に示した「公権力の行使に携わる公務員には日本国籍が必要」という見解をもとに、各自治体が外国人消防団員の活動範囲について判断している。  たとえば、消防車の運転は、消防法第26条が定めた「消防車の優先通行権」の行使にあたるため、外国人はできない。消火活動で私有地を強制使用する、立ち入り制限区域を設定することなども公権力の行使にあたるとされている。  そのため、一般の「消防団」とは別に、特定の活動に従事する「外国人機能別消防団」を立ち上げる自治体が増えている。  神奈川県中央の愛川町は昨年7月、「多言語機能別消防団」を発足させた。初代団員は7人。出身はブラジルとフィリピンが各2人、カンボジア(日本国籍)、ベトナム、ペルーが各1人。災害発生時の避難の呼びかけや避難所での通訳・翻訳など、6カ国語による支援が期待されている。今春、大阪府泉佐野市には「国際分団」が誕生する。 滋賀県草津市の「外国人機能別消防団」が先駆け  先駆けは、15年に滋賀県草津市で発足した「外国人機能別消防団」だ。 「取材や視察が相次ぎました。私自身はそんなにすごいことをした、という意識は全然ないのですけれど」と、外国人機能別消防団のマネジャー役で、草津市国際交流協会の中西まり子副会長は笑う。  市内には立命館大学の留学生を中心に約3500人(昨年12月末時点)の外国人が暮らす。中西さんは留学生を対象に日本語や日本文化を教えてきた。  同市の危機管理課は14年、災害発生時などに日本語に堪能な留学生に外国人住民の支援を担ってもらおうと、中西さんに呼びかけてもらい、消防団の説明会を開いた。翌年、留学生や卒業生を中心に日本初の「外国人だけの機能別消防団」が発足した。 母国語で熱中症予防を呼びかける横浜市南消防団「外国人防災指導チーム」のメンバー=同市提供   「言葉の壁」解消以上の役割  消防団は、地震や台風といった大規模発生時に、仮設トイレの設置や段ボールベッドの組み立てなど、避難所運営の支援活動を行う。  避難所では、外国人は生活習慣や信教の違いから、日本人との軋轢が生じることもある。  たとえば、ムスリムは豚肉や、微量のアルコールが含まれるしょうゆなどを食べることができない。炊き出しを口にできず、ゼラチンやラード、ショートニングといった豚由来の成分が入っている可能性のあるパン類も食べられない。これを「わがまま」ととらえられれば、険悪な雰囲気が生まれ、分断が生じかねない。  外国人消防団員の役割として「言葉の壁」の解消が挙げられるが、スマホなどの翻訳機能でかなりのことができるようになった。今、切実に求められているのは、彼らの体験をもとにしたコミュニケーションの円滑化だという。 「自身もさまざまな困りごとに直面してきた外国人消防団員は、日本人、外国人、双方の気持ちを理解できる。だからこそ、誤解や対立を避け、両者をつなぐこともできるはずです」(中西さん) 横浜市国際交流協会は「外国人も消防団員になれる」と呼びかけている=同協会のホームページから   根強い外国人団員への反発  消防庁によると、全国の外国人消防団員数は582人(昨年4月1日時点)。20年と比べて約2.2倍になった。外国人機能別消防団の導入について、中西さんはさまざまな自治体から相談を受けてきた。 「『どうしてすんなり外国人の消防団をつくれたんですか』とよく聞かれます」  外国人が消防団員となることへの反発は一部にいまだ根強くあるようだ。 「草津市の場合、反対のパブリックコメントは数件だったと聞いています。でも、他の自治体では『消防団を外国人に乗っ取られる』とか、反対意見も多いそうです」  消防団は地域に根差した組織だ。「伝統を守ろう」という言外の意識と、「多文化共生」がうまくかみ合っていないのではないかと中西さんは推察する。  記者は長年、地域の防災活動に携わり、避難所運営も経験した。さまざまな事情を持つ避難者が続々と訪れるなか、待ったなしの判断が求められた。在留外国人が増えるなか、外国人消防団員の存在は不可欠なものとなっていくのではないだろうか。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
小島瑠璃子の夫が手がけた「温泉アプリ」で深まる謎…提携先施設の支配人は「ウチは契約した覚えはない」
小島瑠璃子の夫が手がけた「温泉アプリ」で深まる謎…提携先施設の支配人は「ウチは契約した覚えはない」 救急搬送された小島瑠璃子    タレントの小島瑠璃子(31)と夫の北村功太さんが救急搬送され、その後、北村さんが死亡するという衝撃的なニュースから4日が経過した。北村さんは小島の2歳年下で、サウナや温浴施設事業を手がける「Habitat」の代表取締役社長を務める実業家だった。  ベンチャー企業の社長らしく、小島夫妻の自宅は港区にあるターミナル駅のすぐ近くで、好立地のタワーマンション。このマンションの上層階にある部屋に住んでいたようだ。  当日の2月4日、ビルの向かい側で一部始終を見ていた50代の男性はその光景をこう話す。 「サイレンの音がしたので外を見ると、救急車が2台、消防車が4~5台くらい、ビル(タワーマンション)の周りにやって来ました。救急隊員がビルの中に入ったと思ったら、ものの数秒くらいで患者(北村さん)を担架に乗せて玄関から出てきました。パトカーは見かけませんでした。近くに交番があるので、そこから自転車で来ている警察官がいました」  北村氏が社長を務めていた「Habitat」は5日、「当社創業者であり代表取締役社長・北村功太は、2025年2月4日、享年29歳で永眠いたしました。これに伴い、同日をもちまして代表取締役を退任いたしました。ここに、生前のご厚誼に深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます」と発表した。  また小島も5日、自身のインスタグラムで「(夫が)亡くなった原因につきましては、詳細を控えさせていただきます。こんなにお騒がせしながらもご説明できないことを心苦しく思いますが、どうかお許しください。夫は家族思いで優しく責任感の強い人でした」と苦しい胸の内をつづった。  北村氏が亡くなった背景には、「Habitat」の苦しい経営事情があったのではないか、との報道もあった。官報に掲載された2024年8月23日付けの決算報告によれば、当期純利益はマイナス1億4496万円、利益剰余金がマイナス3億225万円と経営状況は芳しくなかったようだ。 「Habitat」の公式サイトによると、会社設立は20年10月。主な事業内容は「温浴施設プロデュース」と「アプリケーション開発」。サウナ、銭湯などの経営者が抱える問題をサポートする事業が主体で、同社が開発した専用アプリ「habitat(ハビタット)」では、サウナのプラン予約からタオルなどの物品購入、クレジットカードのオンライン決済までを事前に行うことができることが売りだった。 「アプリ経由で来たお客さんはいない」  だが、実際にアプリを開くと、紹介されている温浴施設はたったの2社。そのうちの1社、北海道留萌郡小平町にある「ゆったりかん」に利用状況を取材すると、意外な答えが返ってきた。 「ハビタット? いや、うちは契約はしてないです。今、初めて聞きました。なので、そのハビタット経由で、うちの施設に来たお客さんもいないです。そもそも、うちは今ネット予約そのものを受け入れていないので」(同施設の支配人) 「habitat」では、アプリでこの「ゆったりかん」の日帰りプラン1回利用チケット500円、ハンドタオルとバスタオルのセット700円、サウナマット1400円、ヒゲソリ50円などを購入することができる。ためしに「購入」ボタンを押すと、クレジットカードでの決済画面に飛んだ。  支配人はこう続ける。 「その値段をみると、うちの通常の販売価格ですね。ただ、うちは契約も何もしていないので、仮にお客さんが(購入済みの)画面やコピーを持ってこられたとしても、対応はできかねます」  この施設は、小平町役場の施設で、役場から民間企業が指定管理者として選定された上で運営している。 「うちはまだ指定管理者になって2年くらい。業者はいくつも変わっているので、2年以上前に指定管理を受けた会社が契約して、そのままになっているという可能性もないとは言えません」(同)  同じく、アプリで紹介している2つ目の施設は、岡山県美作市後山の「愛の村パーク ゆ・ら・り・あ」だった。この施設も美作市の指定管理者が運営している。電話をすると、支配人は「habitat」を利用していると話す。 「ハビタットは利用して2年目くらいです。利用客は昨年1年間で、私が知っているだけで4~5人あったかなという状態ですね。うちはご年配のお客さまが多いので、利用年齢を考えると、若い人が使ってくれたのかなと思います」  サウナ、温浴業界のデジタル化を掲げて起業した北村氏だったが、開発したアプリの利用状況は思わしくなかったようだ。  「Habitat」の問い合わせフォームより、実際のアプリの稼働状況について質問状を送ったが、期限までに回答はなかった。  質問送信後にアプリを確認すると、前出2社の施設の情報は消され、「表示できる施設はまだありません」という表示に変わっていた。  29歳という若すぎる夫の死に、小さい子どもを持つ小島はまだ悲嘆にくれているという。時間はかかるだろうが、その悲しみが少しでも癒えることを願ってやまない。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
大統領就任式の紫色のネクタイが意味する真意とは 元駐ルクセンブルク大使が見るトランプ政治
大統領就任式の紫色のネクタイが意味する真意とは 元駐ルクセンブルク大使が見るトランプ政治 2025年1月20日、米ワシントンで開かれた大統領就任式で宣誓をするトランプ大統領。隣に立つのが聖書を手にした妻のメラニアさん(写真 代表撮影/ロイター/アフロ)    トランプ米大統領が再任して2週間あまり。「米国第一」を掲げて、高関税を材料に相手国と取引する「ディール外交」に世界が振り回されている。今後のアメリカや世界はどうなるのか。元駐ルクセンブルク大使で、内外政策評論(グローバル・ポリシー・グループ)主宰の小嶋光昭氏が寄稿した。 * * *  トランプ米大統領は、2025年1月20日の就任式の日に紫色のネクタイを着用していた。オヤッと思った人もいるだろう。2017年の1回目の就任時においては共和党カラーの赤色のネクタイを着用し、今回の選挙期間中も常に赤だった。紫は民主党の青色との中間色で、米国においては、今回紫色のネクタイを着用したのは共和党の赤を基調としつつ民主党色も考慮し、対決色を弱め融和的な対応をするとの意向を示したものと見られている。  2回目のトランプ政権は、大統領選挙で事前の既存のマスコミ・世論調査に反し予想以上の差で民主党候補のカマラ・ハリス副大統領(当時)を下し自信を強めたことに加え、上下両院も共和党が多数を占めたため、主要ポストから官僚を排し、親しい経済人や共和党議員などで固め独裁的になるのではないかとの懸念もある中、それらを払拭すると共に、選挙期間中の徹底した民主党批判を改め、分断から統合への融和姿勢を演出したものと見られる。  だが同大統領の政策遂行においては、一方的譲歩は無いと見られるので、融和姿勢の真意は何か、反トランプ勢力との融和の狙いは何かが疑問となる。 2期連続8年を狙うのか  トランプ大統領の周辺や一部マスコミの間では、同大統領は次回、2028年の大統領選にも立候補し、連続2期8年を内々検討していると見られている。確かに、在任中に暗殺されたJ.F.ケネディ大統領や今回1期で敗れたバイデン大統領を除き、戦後、米大統領は2期連続8年務めるのが慣例ともなっている。トランプ大統領としては、何故自分は1期4年で止めなくてはならないのか、国民の支持があれば2期8年が当然ではないかとの疑問を持つのは不思議ではない。  だが、米国憲法の追加条項では「1人の大統領の最長任期は2期まで」と規定してあり、連続2期までとは規定していない。従ってトランプ大統領は既に1期務めているので、更に2期8年となると憲法を改正する必要がある。憲法改正のためには、上下両院でそれぞれ3分の2以上の賛成が必要だ。そうなると民主党の一部票が必要となってくるので、民主党との対決姿勢だけでは憲法改正は不可能なため、中間色の紫のネクタイを着用し融和策に転じようとしているのではないか。  故安倍晋三元首相の妻、昭恵さんをフロリダの別荘に就任前に招待したり、就任式に招待したりしているのも、単に旧交を温めるというだけではなく、故安倍元首相が2回目の政権に返り咲き8年近く長期に政権を維持したことから、その政治スタイルに共鳴しているからではないか。確かに行政の長として1期4年は短すぎる。他方で、12年以上は弊害が予想される。トランプ大統領が今後米国内でどのように融和策を演出して行くのかが課題だ。 トランプ大統領の手法  トランプ大統領が勝ち上がるまでの軌跡を描いた米映画「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」が話題となっている。アプレンティスとは英語で「徒弟」の意味で、同大統領19歳前後の頃、父親の不動産業が倒産の危機に逢い、そこから辣腕(らつわん)弁護士に徒弟の如く指導を受け、ニューヨーク市を代表するマンハッタン5番街にトランプ・タワーを建設するなど不動産王にのし上がった様子を描いている。大統領選挙直前の昨年10月11日に米国で上映が始まり、選挙運動中のトランプ氏はその上映に反対したが封切られ、大統領選では予想を上回り勝利した。  トランプ大統領が弁護士にたたき込まれた人生訓が、①攻撃、攻撃、攻撃、②非を認めず、③負けを認めず、の3カ条。この人生訓は、デイフェンス・ロイヤーと言われる弁護士の典型的な常道で、何も新しくはない。日本でも同様で、弁護士は雇われれば犯罪人でも弁護し、常に正義を弁護するものではない。 外交にもビジネスの手法  トランプ大統領は、就任後の1月22日、ウクライナ問題解決に向けて、ロシアのプーチン大統領にトランプ氏が創設したSNS「Truth Social」のサイト上で、次のようにイエスかノーの2択で呼び掛けた。 1 易しい道。ウクライナでの愚かな戦争を停止し決着させること。そうすれば大きな便宜を図る。 2 厳しい道。もしこのディール(取引)に速やかに応じなければ、米国および参加国への輸出品に対し高関税や制裁を課す。  ウクライナのゼレンスキー大統領は、領土の回復(東部2州のほか南部2州、およびクリミア半島)と米、欧の対ロシア軍事同盟=NATO(北大西洋条約機構)への加盟を主張している。これに対しプーチン大統領は、交渉の準備はできているとしつつ、占領領土の現実の容認とウクライナNATO加盟は受け入れ不可としており、差は大きく、取引は簡単ではなさそうだ。  なおバイデン前大統領は、ロシアによるウクライナ侵攻に対しNATO諸国と共にウクライナへの兵器供与と共にロシアに広範な経済制裁を課し、金融機関間の決済を容易にする「SWIFT(国際銀行間通信協会)」の使用を停止し、ドル経済圏から閉め出しているので、現状より更に経済制裁を強化する余地は少ないと見られる。バイデン大統領(当時)の対応は、東西冷戦当時の東西分断の構図に立脚したもので、ロシアを中国、北朝鮮に向かわせる結果を招き外交的な失敗と言え、世界がコロナ禍による経済後退から回復を図らなくてはならない時期に世界経済は2つの経済圏に分断されグローバリゼーションの流れは停滞した。  トランプ大統領のイエスかノーかのディールの手法は、買うか買わないかのビジネスの手法であり、今後のトランプ外交において同様の手法がとられるものと思われる。ウクライナとロシア和平交渉については、対象が国家にとって重い領土や安全保障であるので熾烈(しれつ)な交渉が必要であろうが、一つでも多く平和の買い物があることを期待したい。 関税政策も辞さない米経済世界一  トランプ大統領は、1期目の2018年3月、「中国が米国の知的財産権を侵害している」として、最大で600億ドル(約6.3兆円)規模の中国製品に対し、関税を課す大統領覚書に署名した。その後、米中両国間交渉において、中国の国営企業の中央管理や実質的補助、中国への企業進出に際する中国企業への技術ライセンス供与などについては中国側が原則の問題として譲らず、膠着(こうちゃく)状態となったことから、米国は協議の進展を促すため25%の関税引き上げの対象をすべての中国製品にすることを表明し、漸次実施された。バイデン政権もこれを引き継いだ形となった。  トランプ大統領は2回目の就任直後、多くの大統領令に署名したが、関税引き上げは直ちには発動せず、外国歳入庁を設立。2月1日に不法薬物の輸出や不法入国問題等を理由として、メキシコ、カナダに25%の関税を、中国に対し、10%の追加課税を課す大統領令に署名した。だが、2月4日に予定されていた発動の前日に、メキシコ、カナダへの関税は1カ月延期が決まった。中国とも話し合いが予定されているという。  基本的に、2000年代初期に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟し、世界レベルの自由化が進み、中国が飛躍的な経済成長を遂げ、またその他諸国が経済発展を遂げた。その中で米国は世界最大の経済国を維持しているが、中国が世界2位の地位を占め、またグローバル・サウスと呼ばれるアジアやアフリカなどの新興国・途上国諸国が顕著な発展を遂げ、それ自体は歓迎すべきことであるものの、2000年代初期に比し世界経済構造が変化し、米国の地位が相対的に低下している。加えて米国の製造部門が後退し米国内の雇用機会が奪われていることへの懸念があるとしても不思議はない。  中国については、社会主義市場経済の下で、国内では国営企業など基幹産業に補助金を出し、経済活動のみならず人の移動をも厳しく制限し中央統制する一方、国外では多国間主義を主張し世界の隅々まで自由市場の恩恵を享受している状態はフェアでも衡平でもない。2001年の中国のWTO加盟に際し、経済・金融改革・是正につき10年程度の期限を付すべきであった。国際社会の期待は裏切られた今日、加盟時に求められた是正・改革、諸条件について、早急に厳密な審査を行うべきであろう。その上で、市場の内外格差が是正されない場合は、速やかな是正を求めるとともに、それまでの間関税を課すことはやむを得ないであろう。  ちなみに、2023年の米国の国内総生産(GDP)は27.3兆米ドルで1位であるが、中国のGDPはその約70%の17.8兆ドルと迫っている上、3位のドイツが4.4兆ドル、4位の日本が4.2兆ドルと中国に大幅に水をあけられており、この流れを放置しておけば世界の経済構造は激変し、世界経済秩序も不安定化するおそれがある。  世界経済は岐路にあり、米国だけの問題ではない。このような世界経済の構造変化に対し経済主要国が早急に対応を検討しなくてはならない問題ではなかろうか。  今後トランプ政権の2国間の限定的・局部的関税の動向を注視しつつ、相互主義に基づく多国間主義へ転換を図るべく、貿易収支のみに限定せず、資本収支、貿易外収支を含めた総合収支に基づく経済秩序を検討すべき時期ではなかろうか。 小嶋光昭(こじま・みつあき) 1970年4月、外務省入省。在ネパール特命全権大使、在ルクセンブルク特命全権大使などを歴任。ルクセンブルク大十字章授章。退任後、内外政策評論(グローバル・ポリシー・グループ)主宰   ※AERAオンライン限定記事
中学受験塾代表が“我が子の入試”を経験して思うこと 「親は“役者”になり平静を装いましょう…はムリだとわかりました」
中学受験塾代表が“我が子の入試”を経験して思うこと 「親は“役者”になり平静を装いましょう…はムリだとわかりました」 矢野耕平さん  撮影/和仁貢介(写真映像部)  AERA with Kids+の連載「中学受験、その先に」。今回は特別編として、中学受験学習塾スタジオキャンパス代表で講師の矢野耕平さんに、ご自身の高校2年生の長女と中学1年生の長男が中学入試に挑んだときのことを聞きました。数々の生徒の入試を経験した矢野さんが、唯一、わが子の受験で動揺してしまったシーンとは――。  中学受験をするかどうかは本人が決めた ――矢野先生は、父親として二人のお子さんの中学受験も経験されています。受験することを決めたのは、ご本人たちの意志だったのでしょうか。  僕は塾の経営者であり、講師でもありますが、「中学受験はしてもしなくてもいいもの」というスタンスです。自分の子どもたちに対しても同じで、地元の公立中学に進み、高校受験をする、という選択肢はもちろんありました。ただ、小学3、4年の段階で塾に通ってみて、そのうえで中学受験を選択するか否かの意志を確認しようと決めていきました。二人とも、4年の終わりに「この先も勉強を続ける。中学受験をする」と自ら決断しました。  ここで問題となったのが「どこの塾に通うか」ということ。他の塾に通ったとしたら、「父親は塾を経営しているにも関わらず、他塾に通わせている。何か理由があるのではないか」という目で見られてしまう。一方で、自分の塾に通わせたら、他の生徒やスタッフが気を使うのではないかという懸念もありました。マイナスとなりうる面をよく考えたうえで、最終的には自分の塾に通ってもらうことにしました。  スタジオキャンパスは2校舎あり、かつ、塾では完全に「1人の生徒」として接していました。ですから、僕の子どもだとわかっている塾生は幼馴染をのぞいてはほとんどいませんでした。 家では子どもの勉強に口出しをしない ――ご自宅では、お子さんの勉強のフォローはされていましたか?  家で子どもたちに勉強を教えることは一切ありませんでした。何だかウソっぽいですが、決してウソではない(笑)。仕事柄、帰りが遅いですし、朝は子どもたちの登校時間を過ぎてから起床していたので、平日は顔を合わせる時間がほとんどない状態でした。塾で「講師」と「生徒」として言葉を交わすくらいです。そういえば、長女の志望校の問題がクセのあるもので、入試直前に時間配分について少しアドバイスをしたくらいですね。 矢野耕平さん  撮影/和仁貢介(写真映像部)  基本的に家で勉強に対し口を出すつもりはなく、「合格であっても、不合格であっても、それは君たちの勉強の成果なのだから」という考えでした。少しでも偏差値帯が上の学校に、という考えは我が家にはまったくなく、子どもが自ら頑張れる範囲で勉強したうえでの成績でいいのではないか、と。  ただ、息子の入試直前には例外的にそう思えなくなっていて。自分でも想像していなかったことで、驚いたほどです。 入試直前に体調不良。「冷静ではいられなくなっていた」 ――お子さんたちは日々、どんな姿勢で勉強に臨んでいましたか。また、矢野先生が平常心でいられなくなった息子さんのときの“例外”とは?  娘は、「制服がかわいい」ということや知り合いが通っていたことが後押しとなり、憧れの学校がすぐに見つかったようです。息子はあるスポーツをしていたこともあり、小学3年のときには進学先として熱望する学校が見つかり、「自分はこの学校に行くんだ」という強い気持ちを持つようになっていました。2人とも「志望校に受かりたい」という真っ直ぐな気持ちで、勉強に向き合っていたと思います。  想定外の出来ごとが重なったのは、息子の入試目前、1月のことです。まず、前受け校として受験した学校で、不合格が続きました。この時点で、僕もかなり焦っていたと思います。  さらに息子は、1月の下旬に派手に風邪をひいてしまって。そのときは僕も動揺し、パニックにもなりました。後から塾のスタッフに聞いた話ですが、その頃は普段に比べソワソワしているように見えたようです。自分では、どんなときも冷静でいられると思っていましたが、思いもよらない事態に、とてもじゃないですが冷静ではいられなくなっていた。「何もかもうまくいかないのではないか」「どこにも受からないのではないか」という不安にさいなまれ、自分で自分をコントロールすることができなくなっていたんですね。ただ、何があろうと一番つらい思いをしている息子には当たらないようにしよう。自分のなかで、それだけは守っていたつもりです。 ――2月の入試シーズンに入ってからは、どんな日々を送られていましたか。  入試の直前は、寝込んでいた息子は思うように勉強ができませんでした。でも、体をゆっくり休めて1月30日ごろから回復してきた息子は、かえってすっきりした表情になっていました。2月1日の朝も、「行っておいで」と穏やかな気持ちで送り出しました。2月1日の午前と午後に2つの学校を受けました。塾で生徒たちの対応をしつつ、息子の合格発表のある時間だけ自宅に戻りました。 「あなたの受験なのだから、自分で発表を見なさい」と妻が息子に声を掛けタブレットを手渡しました。心配になったのでしょうか、娘もやってきました。第1志望校に合格していることがわかると、みなで肩を寄せ合い、「良かった、良かった」と何度も口にし、息子は泣きながら塾に電話をしていました。その後、別の学校も受けに行きましたが、そちらは不合格。2月1日の1日で気力も体力もすっかり使い果たしたのでしょう(笑)。 「親は“役者”になって平静を装いましょう」とは言えなくなった ――お子さんたちの中学受験を振り返り、いま思うこととは。  中学受験をするか否かは自分で決めればいいことで、その子にとってどちらが良いのかは誰にもわかりません。ただ、本人が自らその道を選んだのであれば、自分の力でなんとか乗り切れるよう頑張ってほしいと思いますし、親はそれを見守り、支えることしかできないのかな、と思います。  子どもの受験を経験するまでは、「入試直前は、親は“役者”になり平静を装いましょう」なんて生徒の保護者の方々にお伝えしていましたが、役者になんてなれないですね。「役者になるのはムリだ」と身をもって知ったので、もうそんなことは絶対に言いません(笑)。でも、精神的にハードな時期を経験して良かったな、とは思います。  子どもたちは2人とも、いまのところ学校生活が楽しくて仕方がないようです。高校生の娘も体調不良以外で学校を休んだことはないので、中学受験を経験して良かったと思っているのではないかな、と感じています。 (構成/古谷ゆう子) ○矢野耕平/中学受験学習塾スタジオキャンパス代表。大手塾に13年間勤めたあと、2007年にスタジオキャンパスを設立、代表に就任。東京自由が丘と三田に2教場を構える。著書に『中学受験で子どもを伸ばす親ダメにする親』(ダイヤモンド社)、『男子御三家 麻布・開成・武蔵の真実』『女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密』(ともに文春新書/文藝春秋)、『早慶MARCHに入れる中学・高校 親が知らない受験の新常識』(朝日新聞出版)など多数。最新刊は『ぼくのかんがえた「さいきょう」の中学受験』(祥伝社)。2月21日には『中学受験、どっちが受かる?』(扶桑社)が発刊される。4月にもKADOKAWAから中学受験に関する新刊を出版予定。2児の父で、子はともに中学受験を経験。
「中居正広」地元・藤沢の幼少期を知る隣人が明かす“虚飾のサクセスストーリー” 「貧困なんてウソ」「玄関には書籍がずらり」
「中居正広」地元・藤沢の幼少期を知る隣人が明かす“虚飾のサクセスストーリー” 「貧困なんてウソ」「玄関には書籍がずらり」 元タレントの中居正広(撮影/今村拓馬)    中居正広(52)と女性とのトラブルは、フジテレビを巻き込む大騒動に発展し、中居のタレント生命までも絶つことになった。1月23日、中居は「本当にごめんなさい。さようなら…」と引退を表明し、騒動後は表舞台に姿を現していない。今回の騒動で、パブリックイメージとは異なる中居の“裏の顔”の一端が明らかになったが、中居はこれまでどのような半生を送ってきたのか。出身地である神奈川県藤沢市で、彼の素顔を知る人たちを取材した。 *  *  *  中居が生まれたのは、神奈川県藤沢市の鵠沼。藤沢市はサーフィンやマリンスポーツの愛好家が集うことでも知られる湘南エリアだが、中居の生家を訪ねると、すでに家屋は取り壊され、その跡地にはマンションが建っていた。古くから近隣に住む80代の女性はこう話す。 「私は(中居が)小さいときから”正広”と呼んでいました。彼の家は、今はマンションの駐車場になっている場所にありました。一戸建ての平屋でね。家族は父、母、3人兄弟の5人暮らしで、正広は末っ子です。私たちとは家族ぐるみの付き合いをしていて、うちの娘の方が彼より歳上なので、正広が『お姉ちゃん』と言って、よく一緒に遊んでいたんですよ。正広の家は全員男兄弟で、女のきょうだいがいませんでしたから。当時は中居家が住んでいた平屋と同じような家が20戸くらい並んで建っていましたね。転勤した会社員が多く住んでいる借家でした」  中居の幼少期についてはメディアで「貧困を経験した」と紹介されることも多い。中居本人もテレビ番組で「4畳と3畳半くらいで、天井が低かった」「何もなくなると“水かけご飯”を食べていた」と明かしたこともある。実際はどんな暮らしぶりだったのだろうか。前出の女性は笑いながらこう話す。 「(テレビでの発言は)びっくりしたね。お涙ちょうだいなんですかね。本人が(目の前で)それを言ったら、私は『あなた、そんなウソつくんじゃないよ』と言いますね。奥さん(中居の母)はマメに手料理を作っていたし、ウチよりもいいものを食べていましたよ。奥さんが『ご飯よ』って声をかけると、子どもたちはすっとんで帰っていました。うちの子が帰って来ないと、中居さんのところで、ごちそうになっているんじゃないかと迎えに行ったくらいですよ。自宅におじゃましたときには、お茶とお茶菓子が出ました。正広もきちんとした身なりをしていましたよ」 母は専業主婦で父は教育熱心  平屋の外観や、普段の暮らしぶりはどうだったのだろうか。 「そんなボロボロの家ではありませんよ。普通の借家です。正広のお父さんは決まった時間に出勤して、残業してもきちんと帰って来ていた。奥さんは専業主婦。3人の子どもと妻を養えるくらいの収入はあったということです」  よく語られる中居の“サクセスストーリー”としては、困窮した少年時代を送ったことから成功して高級マンションに住むようになっても、古い物を大切に長く大事に使う性格になったというエピソードがある。これについては「しつけがよかったからだろう」と前出の女性は話す。 「奥さんが子どものしつけには厳しい人でしたからね。まじめできちょうめんな方で、家の中はいつもキレイに片づいていました。正広はうちに遊びに来たら、砂場で遊んだ後だったら、ちゃんとズボンをはたいて、汚れていると、脱いで上がってきました。家に入ったらまず、手を洗ってから遊ぶ習慣もあった。帰るときにはおもちゃを必ず片づけていましたよ」  こうしたしつけが行き届いていたうえに、両親は教育熱心でもあったという。 「奥さんは勉強家でした。町内会の回覧板がまわってくると、奥さんの字が書かれているんですが、それがものすごく達筆でね。お父さんもすごく教育熱心でした。正広には『学校から帰ったら本を読みなさい』と言っていて、玄関には書籍や絵本がずらりと並んでいた。今日は正広が遊んでないなと思ったら、座って本を開いて読んでいたこともあります。『あんた意味わかるの?』と聞いたら『わかる』と言っていました」  中居は近所で遊ぶ時は電信柱に登ったり、やんちゃで元気のいい男の子だったという。父親とブロック塀にボールを投げてキャッチボールの練習をしていた姿もよく目撃されていた。だが、上の2人が男の子だったことから、母親は3人目は女の子がほしかったようだ。 「だから、奥さんが正広に女の子の服装をさせていたこともあるんですよ。私が笑ったら、奥さんが『あなたは娘さんがいるからいいけど、私はいなくて寂しいから、ちょっとだけ女の子の服を着させてるの』と言っていたのを思い出します」   【こちらも話題】 フジ会見でも明かされなかった「中居正広の闇」を語っていたタレント9人 かつてはSMAPメンバーも“苦言” https://dot.asahi.com/articles/-/248449   地元のパチンコ店で「息抜き」  中居が小学5年生になると、中居家は同じ藤沢市内ではあるが、辻堂へ引っ越していった。藤沢市内にある理髪店の店主はこう話す。 「中居くんは辻堂でも2度、引っ越しているんですよ。ヘアサロンのモデルをやったことがあり、応援している地元の業者もいます」  そして、前出の女性はこう続ける。 「引っ越した後、たまたま奥さんと会ったら、『正広は東京に住んでいるのよ。SMAPって知ってる? 偉くはないけど、おちゃめなところがあるから、リーダーをしてるの。私は長男たちと暮らしている』と話していました。私は演歌以外は聞かないから、SMAPを知らなくてね。後で子どもたちに聞いて、SMAPって有名なんだと知ったんです」  中居は1987年に旧ジャニーズ事務所に入所。ジャニーズJr.内の「スケートボーイズ」のメンバーを経て、翌88年4月に結成されたSMAPのメンバーとなった。高校は、地元の平塚学園高校へ進学したが、高校2年から東京都立代々木高校(現・東京都立世田谷泉高校)に転校した。当時を知る芸能プロ関係者はこう話す。 「木村拓哉も中居と同じ1972年生まれだから、代々木高校では同級生で、同じクラスだったんです。定時制高校だったから授業は午前中だけ。アイドル志望の女の子2人も、中居と木村と同じクラスでした。中居は『おい、今日は事務所に内緒で遊びに行こうぜ』って、4人でよく遊びまわっていた」  中居はSMAPとして成功してからも、時々は地元に帰っていたようだ。中学の後輩はこう話す。 「中居のゴルフの仲間が地元にいて、ゴルフをしたついでに藤沢にも寄って、酒場、焼き鳥屋、ラーメン屋へ行ったりしていました。お酒は焼酎の水割りを飲むくらいで、あまり料理も食べませんね」  付近の飲食店を取材すると、今はもう廃業した焼き鳥屋のオーナーは「中居くんが来たことがあるけど、1、2度ですよ」と話し、すし店のオーナーは「私の前の代のとき来てたみたいですよ」と言う。ここ数年はあまり地元の商店街には姿を見せていないようだ。ある飲食店の店主はこう話す。 「4~5年前、中居くんがちょうどパチンコ店から出てきた時に、ばったり出くわしました。忙しい人だから、ぱっと地元に来てパチンコをして、息抜きしているんだなと思いました。中居くんは礼儀正しく、『中居です。今度、店に寄らせてもらいますので』と約束してくれたけど、それから病気になってしまい、結局、まだ来てないですね」   【こちらも話題】 中居正広氏が引退、“野球枠”で重宝されるのは誰? スポーツ界とタレントの関係も“過渡期”に https://dot.asahi.com/articles/-/249258     「芸能界に長くいて魔が差したのかな…」  地元の人の多くは、やはり中居のことを応援しており、芸能界で活躍している彼を誇りに思っているようだった。そんな地元のスターが女性と深刻なトラブルを起こし、芸能界を引退したことについてはどう考えているのか。前出の80代の女性はこう語った。 「私の息子は正広を小さい頃から知っているから『そんな悪いことをする子じゃないのに』と言ってました。やんちゃではあったけど、すぐにキレるような子じゃないし、素直な子ですよ。でも、今回は問題が大きすぎるわね。芸能界で偉くなったから、みんなに憎まれちゃったのか、もしくは芸能界に長くいて魔が差したのかな……。会社(フジテレビ)も隠す必要はないと思うの。そうしないと、この後、正広がどうなっちゃうのかしらと心配で……」  ただ、中居を知る芸能関係者はこんな一面も話す。 「中居くんは独身だし、女性からチヤホヤされ、自分が口説けばどんな女の子でも落ちるという傲慢(ごうまん)な考えになってしまっていたんじゃないかな。それでいて、結婚はしたくない人だから。元アイドルが結婚すると、今までバックアップしてくれた熱烈なファンが離れるという心理を、中居くんはよく知っているから。だから52歳になっても独身を貫いていたんでしょう」  湘南で育った純真な少年は、知らず知らずのうちに芸能界の闇に染まってしまったのか……。自業自得とはいえ、その代償はあまりに大きく、中居の未来はいまだ見えない。 (AERA dot.編集部・上田耕司)   【こちらも話題】 老若男女に愛されたSMAP 中居正広のトラブルに失望が集まる理由 https://dot.asahi.com/articles/-/249060  

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