
仕事の後も大学院で装置開発 自分で考える社風に 清川メッキ工業・清川肇社長
「難題も断らない」と、父は言い続けてきた。電子部品のメッキも、後から技術開発した。自分もそう言ってきて他社ができない地平もいくつも切り拓いた(写真/狩野喜彦)
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年3月3日号より。
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1994年から95年にかけて福井市和田中の本社で夕方早く仕事を終えると、市内にある福井大学の大学院工学研究科へいき、メッキ装置の開発や実験を重ね、博士論文をまとめた。
メッキには、金属などに金や銀の薄い膜をかぶせる装飾用、空気中や水中の酸素によって錆びるのを防ぐ防食用のほか、薄膜に使う素材の電気の伝導性など特性を活かす機能メッキもある。この機能メッキで独自技術を開発し、半導体などナノメートル(10億分の1メートル)単位の超微細な電子部品にもメッキして、清川メッキ工業を国内屈指のメッキ企業へ導いた。この博士課程の日々が、清川肇さんのビジネスパーソンとしての『源流』になった。
指導を受けたのは高島正之先生(現・客員教授)。工学部4年生で無機化学を教わり、大学院の修士課程でも世話になる。先生は電池分野が専門で、電池とメッキには使う化学反応などに共通点もあるが、「何をやるかは自分で考え、実験に必要な装置は自分でつくりなさい」と、自主・自力を求めた。
博士課程へ入る前、先生の研究室で清川メッキへきた不良品に関するクレームの原因を解析した。7割は客がメッキを依頼した素材の側に問題がみつかったが、3割はメッキ側に原因もあった。その回答と対策を早く出せば、客も納得する。遅いと工場までやってきて、メッキの過程を調べ、清川メッキ独自のノウハウまで教えるように求める。放置すれば、ノウハウが社外へ流出する懸念があった。
博士課程へ誘われ論文案を出すと赤ペンが入ってきた
不良品の解析は、高価な分析機が必要だ。高島先生の研究室でそれが使え、あとは必要な装置をつくればいい。学校の許可も得て解析に通っていたら、先生に「博士課程に入らないか」と誘われ、93年4月に入った。ただ、その後も1年近く不良品の原因を調べていたら、先生に「いつ研究するのだ」と叱られる。それで、冒頭のように2年目と3年目は研究を優先。朝8時から午後4時まで会社で仕事をしてから大学へいって、実験や研究を重ねた。
実験は楽しいが、論文を書くのは辛い。でも、先生はいつも夜10時まで残って、相談に乗ってくれた。論文案を「こういう内容にします」とみせると、赤ペンで添削して「明日までに書き直してこい」と言って帰る。午前2時ころまで書き直し、帰宅して寝て、翌朝に出社。そんな日々が1年半くらい続き、論文が通る。テーマは、もちろんメッキだ。この間、研究室は事実上、工作室だった。不良品の分析から、まだ世の中にないメッキ装置をつくることへ重点が移り、研究室にある器具が使えて助かった。メッキに関する新しい知識が蓄積され、『源流』が流れ始めていく。
87年3月に同大工学部を卒業するとき、清川メッキの創業者で社長の父・忠氏(現会長)が勧めた大阪府の電機メーカーへの就職を断り、大学院の修士課程へ進んだ。そのメーカーは創業家の子弟を受け入れ、後継者として修業する場を提供していた。そんな「レール」に当然のように乗るのが、嫌だった。
「大学院の試験では何人か落ちる」と聞き、化学工学を猛勉強した。試験に通って、会社の経営を継ぐかどうかは別にしてメッキについて知っておこうと決め、社内で研究テーマを探す。博士課程で流れ出す『源流』の水源が、生まれていく。
修士課程を終えて89年4月に富士通へ就職し、川崎市の工場で半導体開発チームに配属された。当時の富士通は国内外で半導体工場を増強し、開発チームの面々は応援に派遣され、残ったのは先輩1人と自分だけ。新人社員も何でもやらされ、半導体の開発にも取り組めた。
3年目を迎えるころ、新しい開発プロジェクトが決まる。参加させてもらおうと思ったら、母から電話があり、父の体調がよくないから帰ってきてくれないか、と言われた。5年したら退社し、清川メッキへいくつもりだった。でも、そうすると新しいプロジェクトを途中で抜けることになり、チームに迷惑をかける。退社を決断した。
「父の体調が悪い」聞いて帰郷すると元気で母にやられた
帰郷して92年1月に清川メッキへ入ると、父の体調は悪そうにみえない。「おふくろにやられたな」と苦笑し、技術部門を受け持った。やがて、冒頭で触れたように博士課程への入学を勧められて、応じた。
1964年4月、福井市で生まれる。父母と弟2人の5人家族。父・忠さんは繊維メーカーに勤めていたが、20代初めに退社。起業を志し、職業別電話帳をみて市内に少なかったメッキ会社を選び、肇さんが生まれる前年に清川メッキ工業所(現・清川メッキ工業)を設立。母・トヨ子さんと創業した。
少年時代の清川肇社長(一番奥)(写真/本人提供)
自宅は1階が事務所、2階が居宅。建物はいまも残り、後ろに工場があり、その先は川の堤防まで田んぼ。自宅から歩いて約10分の市立和田小学校へ通った。市立成和中学校、県立足羽高校から福井大学工学部へと進み、得意な科目が化学だったので工業化学科を選ぶ。
この間、父に一度も「会社を継げ」と言われたことはない。だが、母や社員には言われて、「そうなるのだろうな」と思いながら過ごしていた。
大学院で、高島先生と共同で開発した独自技術に、水をはじく撥水メッキがある。先生はフッ素にも詳しくて、メッキする表面にハスの葉と同じように細かな突起をつくって、溶液に水をはじくフッ素樹脂の粉を浮かべてメッキし、粉を突起にまぶしていくと開発できた。アイロンの底の板に使うと静電気が起きないし、ビニールがくっついてもすぐにはがせる。軽くて、3分の1くらいの力でアイロンをかけることができた。
新妻と展示会へいき新技術を披露して営業活動はゼロ
こういう研究開発は、何かに役に立つシーズ(種)を生む。そのシーズが、企業などが抱える課題が持つニーズ(解決策)と適合すると、新たな製品やサービスが生まれる。撥水メッキも、どう使われるかは分からずに開発したが、使いたい企業があれば商談は進む。
だから、開発した技術や試作品は、技術展示会へ出す。撥水メッキは東京・晴海で国際技術展があった際、結婚したばかりの妻と2人で展示した。みた客は「何だ、水をはじく金属の膜があるぞ」と不思議がり、何に使うといいかを考えてくれた。
いま社員が360人いるが、営業部隊はゼロ。技術展へ参加し、新しい技術を披露して「これをうちの製品の生産に使いたい」と思ってくれる企業との出会いを待つ。この手法で、半導体など電子部品のメッキは、年間1500億個に近づいている。
2010年1月に社長になってから、ずっと技術部長を兼務している。先々、社長の座を譲っても、これだけは続けたい。誰もやっていないことをやるのは醍醐味で、「死ぬまでやりたい」と言い切るから、福井大学で流れ始めた「自分で考え、自分で装置をつくる」という『源流』からの流れは、まだまだ勢いを増しそうだ。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2025年3月3日号