
小倉智昭さんと「とくダネ!」で20年共演した笠井信輔アナが明かす「最後の会話」と「番組の黄金時代」
「とくダネ!」5000回記念の日でのツーショット(笠井さん提供)
2024年12月9日、キャスターの小倉智昭さんがぼうこうがんのため亡くなった。77歳だった。数々の番組に出演してきた小倉さんだが、22年間にわたりメインキャスターを務めたのは、朝の情報番組「とくダネ!」(フジテレビ系)だった。元フジテレビで現在はフリーの笠井信輔アナウンサーは「とくダネ!」で長年共演するなど、小倉さんとの付き合いは25年に及ぶ。生前の小倉さんは笠井さんに死への向き合い方や闘病生活について語っていた。またシャイで皮肉屋な一方で、弱者への思いやりを忘れない温かさなど、さまざまな顔を見せていた。笠井アナだけが知る小倉さんとの思い出を語ってもらった。
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小倉さんが亡くなる2日前の12月7日。笠井さんは、小倉さんの携帯電話を鳴らした。
「小倉さんが入院したという話を聞いたからです。その頃は具合が良くなったり、悪くなったりを繰り返していたので、『あっ、また入院したのか』と思って、電話で容体をうかがおうと思ったんです」
だが実際には、小倉さんは病院にはおらず、すでに退院して自宅にいた。
「『昨日、退院したんだよ』と言うので少し詳しく話を聞いたら、もう治療の施しようがなく、自宅で最期のときを過ごすための退院なんだということが、だんだんと理解できました。小倉さんは『放射線治療で体じゅう、かゆくて辛かった。腕にも水泡ができて包帯を巻いている。それがまた痛いんだ』『今はもう、ベッドで寝ているだけの状況なんだ』と言っていました。そして、『もう、諦めたんだよね』とも。命を終えることを俺は決めたんだ、という口ぶりでした。悔しそうに『なんかもう、本当に情けない』って言うから、『いや、小倉さん、よくここまで頑張りましたよ、偉いよ』と励しました。そして、『小倉さんと出会えて、今の僕があります。本当にありがとうございました』と伝えたら、小倉さんは『僕の方こそだよ』と言ってくれました」
後に、小倉さんの15歳下の妻・さゆりさんから、笠井さんはこう聞かされた。
「最後の方は、体調が上がったり下がったりで、急にしゃべったり、おとなしくなったり……。笠井さんが電話をくれたときはちょうど意識が覚醒している時で、タイミングがよかったわ」
笠井信輔アナウンサー(撮影/ 島田香)
奇跡的なタイミングだった「最後の会話」
笠井さんから見て、2人はどんな夫婦だったのだろうか。
「小倉さんはさゆりさんには頭が上がらない感じでしたよ。さゆりさんはしっかりとした方で、頭の回転が速く、小倉さんが間違っているときは、はっきりと指摘もします。小倉さんは最後は本当にさゆりさんに頼りきっていました。がんになって、さゆりさんと過ごす時間が増えたことで、小倉さんは『一緒に買い物に行ったよ』『何十年ぶりに手をつないで歩いたよ』とかうれしそうに話してくれました。『さゆりがいたから、僕もまあ、なんとかなった』といつも言っていましたね」
小倉さんは2016年にぼうこうがんと診断されてから8年間、闘病生活を送った。笠井さんによれば、12月4日、医師がさゆりさんに『もう、手の施しようがありません』と話し、3つの選択肢を示されたという。1つ目は「このまま病院に入院したまま命を終える」、2つ目は「ホスピスへ行く」、3つ目は「家に帰る」だった。医師から「ご主人に話しますか?」と聞かれ、さゆりさんは迷うことなく「話します」と答えたという。さゆりさんから打ち明けられても、小倉さんはうろたえることもなく、「じゃあ、家に帰ろう」と答えた。
そして12月6日に帰宅。笠井さんが冒頭の電話を入れたのは、その翌日だった。笠井さんが小倉さんと最後の会話ができたのは、本当に奇跡的なタイミングだったのだ。
しかし、小倉さんの体調はその後急変し、12月9日午後、77年の人生に幕を閉じた。笠井さんが訃報を聞いたのは、その夜。
「朝、追悼番組に出演するためにテレビ局へ向かいました。その道中、タクシーの中で涙がこぼれてきましたが、本番中は泣きませんでした。それは小倉さんと最後の電話でお別れを言い、『ありがとうございました』と感謝の気持ちを伝えてあったからだと思います。大切な人と最後の会話を交わすことって、本当に重要なことなんだなと」
笠井さんは25年前、小倉さんと出会い、1999年4月に「とくダネ!」が開始すると、メインキャスターと局アナという立場で約20年間共演した。
「とくダネ!」を卒業する笠井さんを見送る小倉さん(2019年、笠井さん提供)
卓越した「オープンニングトーク」
「とくダネ!」は、ニュースをズバッと斬る、歯に衣(きぬ)着せない小倉さんの発言が視聴者にウケた。とりわけ、小倉さんの「オープニングトーク」は番組の名物だった。
「初めは5分という約束だったのに、いつの間にか、大体8分くらいしゃべっていましたね。たまに、15分くらいしゃべることもありました(笑)。その間、こちらはずっと立っているので焦ってくるし、トークが10分を過ぎると、現場は『ちょっとまずいぞ』という雰囲気になっていました。とはいえ、各局がしのぎを削る朝の情報番組の中で、視聴率で10年ほど1位を獲得するまで支持されたのは、やはり小倉さんのオープニングトークがあったからだと思います」
20年間の共演の中で、小倉さんから注意されたことを笠井さんはよく覚えている。
「小倉さんはゲストをとても大事にする人なんです。『ゲストより先に意見を言うな。ゲストがしゃべってからでいい。笠井くんがしゃべると、先に言われちゃったとか、時間がなくなったとか、いろいろ問題が出てくるから。笠井くんはアナウンサーなんだから、意見を後で言いなさい』というのは何度も言われました。私としては、こっちから斬り込んでいけばいいのにとか、小倉さんがもっと早めに吠えればいいのにって思うことは何度もありましたよ。ただ、小倉さんはバランスよくみんなにしゃべってもらうことを常に意識していました。好き勝手やってるようで、意外とスタジオ回しが丁寧なんです」
小倉さんはキャスターとして、ニュースの真実を伝えることに情熱を持ち続け、弱者への思いやりを忘れなかったという。
「小倉さん自身が少年時代、言葉が詰まってうまく話せない吃音(きつおん)だったから、アナウンサーを目指そうと思ったそうです。マイノリティーである経験をしながら、それをどう乗り越えるかを実践していました。アナウンサーになってからは、『ゆっくりしゃべり出すっていうことを意識している』とよく言っていました。大人になっても、実は本当に仲のいい人の前では、吃音が出ることもあったそうです。だからこそ、弱者への優しさをいつも持っていましたね」
小倉さんの故郷・秋田県を紹介する特別番組で共演したときのショット(笠井さん提供)
小倉さんの「牙」が削がれるようになった
時代が進むにつれ、テレビ番組でもコンプライアンスや危機管理が重視されるようになった。視聴者にウケていた小倉さんの辛口で自由な発言も、徐々に制限されるようになっていった。
「インターネットが普及するにつれ、どんどんコンプライアンスが厳しくなりました。プロデューサーとの打ち合わせでも、『小倉さん、それを言うと炎上するから、そこは抑えませんか』などと言われることが多くなりました。番組末期では、打ち合わせの段階で、小倉さんの角を丸めていくような作業が行われるようになっていたのです。下手に炎上すれば番組が終わってしまうこともあるので、それはしょうがない部分もありました。けれど、小倉さんの魅力というものが、ネットの広がりによって、削がれるようになったことは、厳しい現実でした」
そして、長寿番組の「とくダネ!」も2014年頃から曲がり角に差しかかった。
「放送開始から15年くらいたった頃には、小倉さんのオープニングトークをやめようという話になっていきました。以前のようにオープニングトークで視聴率が上がる状況ではなくなってきたからです。他局の番組に視聴率で負けるようになり、新しく来たプロデューサーが番組をテコ入れするにあたって『オープニングトークをなくします』と決めた後の小倉さんのガックリした表情は、今でも忘れられません。時代の波に乗って人気者になった小倉さんは、また同時に、時代の波に牙を抜かれていったように感じました」
18年11月5日、小倉さんは「とくダネ!」の中で、ぼうこうがんのためぼうこう全摘出手術をすることを発表した。それから1年1カ月後の19年12月19日の『とくダネ!』では、今度は笠井さんが悪性リンパ腫に罹患(りかん)していること、病名は「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」であることを公表した。
「小倉さんからは『笠井くんは何でもかんでも僕について来たけれども、がんまでついて来るなよ』と言われましたね。そういう意味では、小倉さんとは『がん友』でもあるんです。それからは、小倉さんとがんをテーマにトークをすることが増えました」
文化放送で共演したときのツーショット(笠井さん提供)
最後は「ガン友」として付き合うことに
小倉さんも笠井さんも、”がん友”として互いに励ましあいながら闘病生活を送った。小倉さんはがんを患いながらも仕事への情熱を燃やし、「自分自身」についても報道した。
「小倉さんも私も、長年にわたって、人のプライバシーで仕事をしてきました。芸能人の結婚も離婚も伝えてきましたし、亡くなった方の訃報も伝えてきました。プライバシーにかかわることを伝える商売をしてきて、じゃあ、いざ自分がプライバシーの問題を抱えたときに、それは出せませんっていうのは違うのではないか。小倉さんという師匠の背中を見ながら、自分もこういう風に生きなければならないと思いました」
笠井さんもステージ4の悪性リンパ腫になり、4カ月半の入院生活を余儀なくされたが、病室から自分の症状をメディアに発信した。
小倉さんは亡くなる1カ月前、自宅にゲストを招きトークを繰り広げる番組『小倉ベース』(フジテレビ系)の収録をした。最後のゲストはEXILEのHIROと女優の松本若菜だった。
「次第に体も動かなくなっていったので、最後に残ったテレビ番組が自宅で収録する『小倉ベース』だったんです。77歳の誕生日のとき、『次は80歳だな』と言っていたから、80歳まで生きたかったんだと思います。でも、小倉さんも納得のいく人生だったと僕は思っています」
笠井さんの周りでは、いずれ「お別れ会」をやろうという話が持ち上がっている。そこではまた小倉さんとのたくさんの思い出話に花が咲くだろう。
(AERA dot.編集部・上田耕司)