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小倉智昭さんと「とくダネ!」で20年共演した笠井信輔アナが明かす「最後の会話」と「番組の黄金時代」 
小倉智昭さんと「とくダネ!」で20年共演した笠井信輔アナが明かす「最後の会話」と「番組の黄金時代」  「とくダネ!」5000回記念の日でのツーショット(笠井さん提供)    2024年12月9日、キャスターの小倉智昭さんがぼうこうがんのため亡くなった。77歳だった。数々の番組に出演してきた小倉さんだが、22年間にわたりメインキャスターを務めたのは、朝の情報番組「とくダネ!」(フジテレビ系)だった。元フジテレビで現在はフリーの笠井信輔アナウンサーは「とくダネ!」で長年共演するなど、小倉さんとの付き合いは25年に及ぶ。生前の小倉さんは笠井さんに死への向き合い方や闘病生活について語っていた。またシャイで皮肉屋な一方で、弱者への思いやりを忘れない温かさなど、さまざまな顔を見せていた。笠井アナだけが知る小倉さんとの思い出を語ってもらった。 *  *  *  小倉さんが亡くなる2日前の12月7日。笠井さんは、小倉さんの携帯電話を鳴らした。 「小倉さんが入院したという話を聞いたからです。その頃は具合が良くなったり、悪くなったりを繰り返していたので、『あっ、また入院したのか』と思って、電話で容体をうかがおうと思ったんです」  だが実際には、小倉さんは病院にはおらず、すでに退院して自宅にいた。 「『昨日、退院したんだよ』と言うので少し詳しく話を聞いたら、もう治療の施しようがなく、自宅で最期のときを過ごすための退院なんだということが、だんだんと理解できました。小倉さんは『放射線治療で体じゅう、かゆくて辛かった。腕にも水泡ができて包帯を巻いている。それがまた痛いんだ』『今はもう、ベッドで寝ているだけの状況なんだ』と言っていました。そして、『もう、諦めたんだよね』とも。命を終えることを俺は決めたんだ、という口ぶりでした。悔しそうに『なんかもう、本当に情けない』って言うから、『いや、小倉さん、よくここまで頑張りましたよ、偉いよ』と励しました。そして、『小倉さんと出会えて、今の僕があります。本当にありがとうございました』と伝えたら、小倉さんは『僕の方こそだよ』と言ってくれました」  後に、小倉さんの15歳下の妻・さゆりさんから、笠井さんはこう聞かされた。 「最後の方は、体調が上がったり下がったりで、急にしゃべったり、おとなしくなったり……。笠井さんが電話をくれたときはちょうど意識が覚醒している時で、タイミングがよかったわ」 笠井信輔アナウンサー(撮影/ 島田香)   奇跡的なタイミングだった「最後の会話」  笠井さんから見て、2人はどんな夫婦だったのだろうか。 「小倉さんはさゆりさんには頭が上がらない感じでしたよ。さゆりさんはしっかりとした方で、頭の回転が速く、小倉さんが間違っているときは、はっきりと指摘もします。小倉さんは最後は本当にさゆりさんに頼りきっていました。がんになって、さゆりさんと過ごす時間が増えたことで、小倉さんは『一緒に買い物に行ったよ』『何十年ぶりに手をつないで歩いたよ』とかうれしそうに話してくれました。『さゆりがいたから、僕もまあ、なんとかなった』といつも言っていましたね」  小倉さんは2016年にぼうこうがんと診断されてから8年間、闘病生活を送った。笠井さんによれば、12月4日、医師がさゆりさんに『もう、手の施しようがありません』と話し、3つの選択肢を示されたという。1つ目は「このまま病院に入院したまま命を終える」、2つ目は「ホスピスへ行く」、3つ目は「家に帰る」だった。医師から「ご主人に話しますか?」と聞かれ、さゆりさんは迷うことなく「話します」と答えたという。さゆりさんから打ち明けられても、小倉さんはうろたえることもなく、「じゃあ、家に帰ろう」と答えた。  そして12月6日に帰宅。笠井さんが冒頭の電話を入れたのは、その翌日だった。笠井さんが小倉さんと最後の会話ができたのは、本当に奇跡的なタイミングだったのだ。  しかし、小倉さんの体調はその後急変し、12月9日午後、77年の人生に幕を閉じた。笠井さんが訃報を聞いたのは、その夜。 「朝、追悼番組に出演するためにテレビ局へ向かいました。その道中、タクシーの中で涙がこぼれてきましたが、本番中は泣きませんでした。それは小倉さんと最後の電話でお別れを言い、『ありがとうございました』と感謝の気持ちを伝えてあったからだと思います。大切な人と最後の会話を交わすことって、本当に重要なことなんだなと」  笠井さんは25年前、小倉さんと出会い、1999年4月に「とくダネ!」が開始すると、メインキャスターと局アナという立場で約20年間共演した。 「とくダネ!」を卒業する笠井さんを見送る小倉さん(2019年、笠井さん提供)   卓越した「オープンニングトーク」 「とくダネ!」は、ニュースをズバッと斬る、歯に衣(きぬ)着せない小倉さんの発言が視聴者にウケた。とりわけ、小倉さんの「オープニングトーク」は番組の名物だった。 「初めは5分という約束だったのに、いつの間にか、大体8分くらいしゃべっていましたね。たまに、15分くらいしゃべることもありました(笑)。その間、こちらはずっと立っているので焦ってくるし、トークが10分を過ぎると、現場は『ちょっとまずいぞ』という雰囲気になっていました。とはいえ、各局がしのぎを削る朝の情報番組の中で、視聴率で10年ほど1位を獲得するまで支持されたのは、やはり小倉さんのオープニングトークがあったからだと思います」  20年間の共演の中で、小倉さんから注意されたことを笠井さんはよく覚えている。 「小倉さんはゲストをとても大事にする人なんです。『ゲストより先に意見を言うな。ゲストがしゃべってからでいい。笠井くんがしゃべると、先に言われちゃったとか、時間がなくなったとか、いろいろ問題が出てくるから。笠井くんはアナウンサーなんだから、意見を後で言いなさい』というのは何度も言われました。私としては、こっちから斬り込んでいけばいいのにとか、小倉さんがもっと早めに吠えればいいのにって思うことは何度もありましたよ。ただ、小倉さんはバランスよくみんなにしゃべってもらうことを常に意識していました。好き勝手やってるようで、意外とスタジオ回しが丁寧なんです」  小倉さんはキャスターとして、ニュースの真実を伝えることに情熱を持ち続け、弱者への思いやりを忘れなかったという。 「小倉さん自身が少年時代、言葉が詰まってうまく話せない吃音(きつおん)だったから、アナウンサーを目指そうと思ったそうです。マイノリティーである経験をしながら、それをどう乗り越えるかを実践していました。アナウンサーになってからは、『ゆっくりしゃべり出すっていうことを意識している』とよく言っていました。大人になっても、実は本当に仲のいい人の前では、吃音が出ることもあったそうです。だからこそ、弱者への優しさをいつも持っていましたね」 小倉さんの故郷・秋田県を紹介する特別番組で共演したときのショット(笠井さん提供)   小倉さんの「牙」が削がれるようになった  時代が進むにつれ、テレビ番組でもコンプライアンスや危機管理が重視されるようになった。視聴者にウケていた小倉さんの辛口で自由な発言も、徐々に制限されるようになっていった。 「インターネットが普及するにつれ、どんどんコンプライアンスが厳しくなりました。プロデューサーとの打ち合わせでも、『小倉さん、それを言うと炎上するから、そこは抑えませんか』などと言われることが多くなりました。番組末期では、打ち合わせの段階で、小倉さんの角を丸めていくような作業が行われるようになっていたのです。下手に炎上すれば番組が終わってしまうこともあるので、それはしょうがない部分もありました。けれど、小倉さんの魅力というものが、ネットの広がりによって、削がれるようになったことは、厳しい現実でした」  そして、長寿番組の「とくダネ!」も2014年頃から曲がり角に差しかかった。 「放送開始から15年くらいたった頃には、小倉さんのオープニングトークをやめようという話になっていきました。以前のようにオープニングトークで視聴率が上がる状況ではなくなってきたからです。他局の番組に視聴率で負けるようになり、新しく来たプロデューサーが番組をテコ入れするにあたって『オープニングトークをなくします』と決めた後の小倉さんのガックリした表情は、今でも忘れられません。時代の波に乗って人気者になった小倉さんは、また同時に、時代の波に牙を抜かれていったように感じました」  18年11月5日、小倉さんは「とくダネ!」の中で、ぼうこうがんのためぼうこう全摘出手術をすることを発表した。それから1年1カ月後の19年12月19日の『とくダネ!』では、今度は笠井さんが悪性リンパ腫に罹患(りかん)していること、病名は「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」であることを公表した。 「小倉さんからは『笠井くんは何でもかんでも僕について来たけれども、がんまでついて来るなよ』と言われましたね。そういう意味では、小倉さんとは『がん友』でもあるんです。それからは、小倉さんとがんをテーマにトークをすることが増えました」 文化放送で共演したときのツーショット(笠井さん提供)   最後は「ガン友」として付き合うことに  小倉さんも笠井さんも、”がん友”として互いに励ましあいながら闘病生活を送った。小倉さんはがんを患いながらも仕事への情熱を燃やし、「自分自身」についても報道した。 「小倉さんも私も、長年にわたって、人のプライバシーで仕事をしてきました。芸能人の結婚も離婚も伝えてきましたし、亡くなった方の訃報も伝えてきました。プライバシーにかかわることを伝える商売をしてきて、じゃあ、いざ自分がプライバシーの問題を抱えたときに、それは出せませんっていうのは違うのではないか。小倉さんという師匠の背中を見ながら、自分もこういう風に生きなければならないと思いました」  笠井さんもステージ4の悪性リンパ腫になり、4カ月半の入院生活を余儀なくされたが、病室から自分の症状をメディアに発信した。  小倉さんは亡くなる1カ月前、自宅にゲストを招きトークを繰り広げる番組『小倉ベース』(フジテレビ系)の収録をした。最後のゲストはEXILEのHIROと女優の松本若菜だった。 「次第に体も動かなくなっていったので、最後に残ったテレビ番組が自宅で収録する『小倉ベース』だったんです。77歳の誕生日のとき、『次は80歳だな』と言っていたから、80歳まで生きたかったんだと思います。でも、小倉さんも納得のいく人生だったと僕は思っています」  笠井さんの周りでは、いずれ「お別れ会」をやろうという話が持ち上がっている。そこではまた小倉さんとのたくさんの思い出話に花が咲くだろう。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
元体操のお兄さん・小林よしひさに聞く子育て「朝、出産に立ち会ってから『おかいつ』の収録に行きました」
元体操のお兄さん・小林よしひさに聞く子育て「朝、出産に立ち会ってから『おかいつ』の収録に行きました」 小林よしひささん  NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」で体操のお兄さんを歴代最長の14年間務めた“よしお兄さん”こと、小林よしひささん。現在6歳になる娘さんのパパとして、離乳食づくりから寝かしつけまで、育児に積極的に関わってきたそうです。娘さんが生まれたときのことや、これまでの子育てについて聞きました。※前編<小林よしひさに聞く体操のお兄さんになったきっかけ「オーディションに付き添いで行った僕が合格。当時は公務員志望でした」>から続く 朝、出産に立ち会ってから収録へ ――6歳になった娘さん、最近はどんな様子ですか?  最近は縄跳びにハマっていて、移動するときも家の中でも跳んでいます(笑)。しっかり教えたわけではないんですけど、急に跳べるようになって。自分でいろいろな跳び方を開発していて、縄1つでこんなに遊べるなんて、子どもは発想が豊かだなって思います。 ――娘さんが誕生されたときは、体操のお兄さん卒業の3カ月前でした。  娘は朝生まれたので、立ち会うことができて、そのままその日も「おかあさんといっしょ」の収録に行きました。番組に参加する子たちが集まってきたときに、「これまで君たちが僕にとってナンバー1だったけど、今日生まれた子が僕にとってのナンバー1になったんだ……ごめんね」って心の中で思ったんです。でも同時に誰もがその子の親にとってはナンバー1なんだなとも感じて。そうしたら子どもたち一人ひとりが、いつもより輝いて見えました。 ――卒業後は、育児により関われるようになりましたか?  それが、卒業後1年はスケジュールがパンパンで。卒業して少しのんびりするような時間はまったくなかったんです。ただ、事務所にお願いして、なるべく泊まりではなく日帰りで帰ってこられるようにスケジュールを組んでもらうようにしました。早朝に出て夜中に帰る日もあるのですけど、毎日一瞬でもいいから娘の顔が見たくて。 夜中の授乳を担当。抱っこで寝かしつけているときはスクワットも一緒に ――収録やイベントでお忙しいなか、育児に関わるのは大変だったと思います。  寝不足になりながら必死に関わっていた、という感じです。夜は妻に寝てもらって、私が起きるようにしていたので。ミルクをあまり飲まない子だったので、妻に搾乳してもらって夜中に僕が飲ませていました。 お子さんと旅行を楽しむ よしお兄さん(ブログから)   ――ママは助かったでしょうね。  日中は妻がすべてを1人でやることになるので、夜は少しでも体を休ませてほしいと思っていました。あと、結婚を考える前からずっと子どもが欲しかったので、私にとっては本当に待望の子だったんです。どんどん成長していく娘の姿を見逃したくないから、できる限り関わりたいという思いもありました。 ――寝不足が続いてイライラするようなことはなかったですか?  それはありました。なかなか寝ない子で、抱っこで寝かしつけても、おろそうとすると起きちゃうっていう繰り返しで。でもこれも数カ月間のことだから、ずっと抱っこしてようと。この時間を有効に使おうと、抱っこしながらスクワットをしていました(笑)。寝られないのは娘がいるからだけど、がんばれるのも娘がいるからだという思考になっていました。 離乳食づくりのために「幼児食インストラクター」の資格を取得 ――お子さんが生まれる前に「幼児食インストラクター」と「食育アドバイザー」の資格を取られたそうですね。  子どもが生まれてからのことをいろいろ考えているときに、そういえば離乳食ってどんなものなんだろうと思って、調べたんです。10倍がゆから始まって、段階をふんでいくものだということがわかって、けっこう大変な知識が必要だなと思いました。どうせ覚えるなら、資格も取ろうと。人にアドバイスできるようになるために取ったというよりは、その知識を家庭で役立てられるといいなくらいの感じです。 ――もともと食に関して興味があったのですか?  母が料理上手で、ものごころがついたときから台所に一緒に立って、手伝いをしていました。小学生になったころには、母が職場から帰る前に電話をかけてきて「お米を研いで、タマネギのみじん切りをしておいてください」と指令がくるんです。母が帰ってきて、僕が切った野菜をカレーとか料理に変えていくのを見るのが楽しくて。当たり前のように料理をしてきたせいか、嫌いなものがないんですよね。料理の手伝いは食育になっていたという実感もあったので、「食育アドバイザー」の資格も取りました。 お子さんと一緒にストレッチ!(ブログから)   ――資格の勉強で得た知識は、実際に役立ちましたか?  役立ちましたね。最初の離乳食づくりは「私にやらせてほしい」と妻にお願いをして。離乳食は朝、仕事に行く前に作っていたから時間の余裕はなかったんですけど、知識があったおかげで、いちいち調べる必要がなく、時短になりました。 家にいられるときは育児も家事も何でもやります! ――いまはお子さんとどんなことをされていますか?  家にいられるときは、何でもやります。一緒に遊ぶのはもちろん、ごはん作りも寝かしつけも。  体力があるから、夜、なかなか寝てくれないんです。絵本を読んだり、間違い探しをやったり、最近は“マジカルバナナ”にハマって一緒にやっています。だんだん私のほうが眠くなってきて、最後に足裏マッサージをしてあげると、スーッと寝ますね。 ――体操のお兄さんをやられていた経験が、育児に役立っていると感じることはありますか? 「体操のお兄さんをやっていたから育児は完璧でしょ」と言われることがあるのですが、全然違うものですよね(笑)。唯一言えるのは、手遊び歌をたくさん知っているということです。テレビで童謡とかが流れても何でも歌えるので、娘から「パパ、なんで知っているの?」と驚かれます。 元・体操のお兄さんであることを娘さんは知っている? ――娘さんはよしお兄さんが元・体操のお兄さんであることを知っているのですか?  自然と認識していった感じです。イベントに娘が来たこともありますし、私が出ているテレビも見ているので。あと幼稚園の送り迎えに行くと、「よしお兄さん!」と声をかけられることもあって。 ――どんなふうに感じているんでしょうね。  最初は嫉妬というか……。イベントに来たときには、僕がほかの子たちと踊るのを見て「私のパパなのに」っていう感じで、一緒に踊らず、じっと見ていました。最近は変わってきて、自慢に思ってくれているような感じです。 ――子育てをするうえで大事にされていることはありますか?  何ごとも親が決めつけずに、まず娘に問いかけるということを実践しています。バレエやピアノ、お花の習い事をしているのですが、すべて娘が自分からやりたいと。幼稚園の先生からは「太陽のような子」と言っていただいたんですけど、本当にポジティブで明るくて。私たち夫婦は娘の明るさにいつも助けられています。 (構成/中寺暁子) ※前編<小林よしひさに聞く体操のお兄さんになったきっかけ「オーディションに付き添いで行った僕が合格。当時は公務員志望でした」>から続く 〇小林よしひさ(こばやし・よしひさ)/1981年、埼玉県出身。日本体育大学体育学部卒業。2005年~2019年、NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」体操のお兄さんを歴代最長の14年間務める。現在はEテレ「オハ!よ~いどん」に体操のお兄さんとしてレギュラー出演するほか、東京造形大学非常勤講師、初代あそび庁長官を務めるなど幅広く活動している。
新米パパ・小島よしおが語る子育て「寝不足が続いてロケで笑えなくなって…休みを増やしてもらいました」
新米パパ・小島よしおが語る子育て「寝不足が続いてロケで笑えなくなって…休みを増やしてもらいました」 小島よしおさん(写真/松永卓也=写真映像部)  キッズ人気の高さで、子ども向けイベントなどで引っ張りだこのお笑い芸人、小島よしおさん。今年の2月に息子の通称“おぱぴまる”くんが誕生し、パパとなりました。「育児で助けられたモノMVP」を決めたり、おぱぴまるくんにギャグを披露したり、育児を楽しんでいるようですが、ロケで笑えなくなるほど、しんどかった時期もあったそうです。新米パパの日々の子育てについて聞きました。※後編<小島よしおに聞く初めての赤ちゃん育児「親御さんたちへのリスペクトが強くなりました」>へ続く 毎月「育児で助けられたモノMVP」を決定 ――今年の2月に息子さんが誕生されました。最近はどんな様子ですか?  2カ月くらい前から離乳食が始まって、手こずっていますね。子どもはすごく動くじゃないですか。顔も腰も動くし、顔の前に手を出してくることもあって。だから口に入れるタイミングが難しくて、たまたま口を開けたときにパッと入れる、とかしてますね。タイミングがいいところで何かを運ぶゲームみたいな(笑)。途中で飽きることもあるから、30分くらいかかっちゃいます。あとは……、ちょっとスマホで確認するので待ってくださいね。 ――スマホにメモされているのですか?  生まれる1カ月くらい前からいろいろメモしていますね。子どもがいる周りの人たちに育児のこととか質問すると、「あれ、どうだったかなー」とか、けっこう忘れちゃってるんですよね。僕も忘れやすいんで、せっかくだから毎日つけようかなと思って。実際には毎日とはいかないですけど。 ――最近はどんなことがメモしてありますか? 「朝、いろんなことを完璧にやったつもりだったが、鳩サブレの食べ残しで台無しだった」って書いてますね(笑)。朝、息子にミルクあげて、洗い物もして、犬にエサをあげて完璧にやったつもりで家を出たら、僕が食べた鳩サブレの食べカスが台所にあって妻に怒られたって話ですね。 ――細かいこともメモされているんですね(笑)  あとは、僕のオムツ替えが下手で、妻から「私がやる」と言われたときのメモなんですけど……。「『俺の成長を奪うな』と言ったが、これからはそう言わずに『俺がうまくなったほうが妻ピーヤのストレスもたまらないし、やらせてくれないかな?』という言い方にしたほうがいい」とか。 小島さんの腕の中でぐっすり眠るおぱぴまるくん ――奥さまとのやりとりが多いですね。  そうですね。あとは息子が最近こんなことができるようになったとか。お座りができるようになって、後ろに倒れて後頭部を打っちゃうとか。危ないから、いまはベビーサークルの中にやわらかいマットとかクッションを敷き詰めています。僕、毎月「育児で助けられたものMVP」を決めてるんですよ。 ――育児で助けられたものMVP?  その月に一番役立ったグッズです。生まれた2月は赤ちゃんを眠りやすくするためのスウィングするベッドですね。3月はバランスボールとベビーモニターでした。 ――バランスボールというのは?  知り合いのパパから教えてもらったんですけど、バランスボールに乗りながら赤ちゃんをあやすと、その揺れに安心するみたいで。子どもって泣いているときに車に乗せると泣き止むとかあるじゃないですか。あれと同じみたいで。めちゃくちゃ効果ありました。 休みを増やしてもらうよう、事務所に交渉 ――お仕事も忙しいなか、赤ちゃんの育児は大変だったのではないですか?  生まれて3カ月は夜中に何度も起きるし、ミルクの回数も多いし、寝不足で大変でしたね。1回ロケで笑おうとしたら、笑えなくて。顔が動かなくなって、ヤバいヤバいって。最初のうちは夫婦で起きてたんですけど、それだとお互いに体がもたないから、夜中のミルクは交代制にしました。 ――イベントで全国各地に行かれているので、奥さまがワンオペになる時間も多いですよね。  生まれる前に、事務所に休みを増やしてもらうお願いをしました。それまでは休みが月に1、2回だったんですけど、4回くらいにしてもらって、泊まりの仕事も減らしてもらいました。ちょうど忙しくなってきたタイミングだったので仕事を減らす怖さもあったんですけど、子育てできるのは今しかないって思って。 ――今も休みはそのくらいのペースですか?  子どもが生まれて2、3カ月経ったころに、ある出来事があって、休みが増えました。 おぱぴまるくんと、小島家の愛犬  ある日、髪を切って帰ったら妻から「いいよね、自由で」って言われて。一瞬「俺だっていろいろやってる」って言い返しそうになりましたが、1回トイレに駆け込んだんです。それで冷静になって、頭にカンチョーのポーズをして妻の前に登場しました(笑)。  そうしたら妻は「いろいろがんばってくれてるのはわかってるのに、つい言っちゃった」って泣いていて。かなりストレスがたまっているなと思って、事務所に再度休みを増やしてもらうようにお願いしたんです。それで、いまは月に6、7回は休ませてもらっています。 ――1回トイレに行くというのがいいのでしょうね。  最近意識しているんですけど、相手のせいにしたり、相手を責めそうになったりしたときは、心の中で相手に向いている矢印を無理やりにでもグイッと自分に向けるんです。それで自分の休みが少ないせいだって気づくことができて。そうしたほうが自分が成長できるし、いい方向に転ぶことも多いんです。 夕方5時半に訪れる地獄の1時間 ――最近は「寝れない」というような大変さはなくなっていますか?  そうですね。3カ月過ぎてから、朝まで寝てくれるようになりました。今は夕方の5時半から6時半が1日のうち一番大変で。妻と「地獄の1時間」って呼んでいます。 ――どう大変なのですか?  犬の散歩をして帰ってエサをあげたら、次は息子に離乳食をあげて、食べ終わったらミルクをあげてっていうのを1時間のうちにやらないといけないんです。17時半までに帰れたら、それをやるようにしていて、帰れなかったときは、次は夜の9時という目安があって。そこに間に合えばお風呂に入れて、そのまま寝かしつけまでします。 ――子ども向けのイベントもやられているので、子どもをあやしたり、相手をしたりするのは上手そうです。  ギャグはめっちゃ、やりますよ。「ピーヤ」とか。 ――反応はありますか?  そんなにないですね(笑)。それよりも今一番ウケるのは、(首を左右に振りながら)「テカテカテカ」っていうやつですね。あとドライヤーするときに「ド、ド、ド、ド、ドライヤー」っていうオリジナルソングを歌うとウケます。いろいろ反応してくれるようになって、うれしいです。 小島さんとおぱぴまるくん ――これからどんどんできることが増えていきますが、一緒にやりたいことはありますか?  旅行や野球観戦、お祭り、海や紅葉を見に行くとか。いろいろな場所に連れて行って、いろいろな人に会わせたいですね。僕は全国各地を回っているので、一緒に連れて行って舞台も見てもらいたいです。  僕は子どものころ、家にいろんな人がたくさん来る環境でした。少年野球をやっていたおかげもあるのか、わりと初対面の人とでもうまくやれるほうで。同じようなことは体験させたいですね。あと、ピアノを一緒に習いたいんです。僕自身初めてのことを息子と一緒に始めてみたくて。駅とかにあるストリートピアノを弾いてみたいんです! ――どんな親子関係になりたいですか?  友だちの延長みたいな感じかな。わからないことはちゃんと「わからない」と言って、「一緒に調べよう」って。だから「パパ」じゃなくて「よしお」とか「よし」って呼んでもらおうかと思っているんです。今のところは、ですけど。パパって呼ばれると、「パパはこうあるべき」という固定観念に引っ張られるような気がして。1人の「よしお」として、子どもと相対したいなって思います。 (構成/中寺暁子) 〇小島よしお(こじま・よしお)/1980年、沖縄生まれ千葉育ちのお笑い芸人。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。「そんなの関係ねぇ!」でブレーク。2020年4月からYouTubeチャンネル「小島よしおのおっぱっぴー小学校」で子どもの学習を支援する動画を公開。キッズコーディネーショントレーナーの資格を持ち、子ども向けのイベントを多数開催している。WEBメディアAERA with Kids+で、子どものお悩み相談に答える連載をやっていて、連載をまとめた『小島よしおのボクといっしょに考えよう』(朝日新聞出版)も発売中。
脱皮せよ、しつこくなれ…「ヘビ」から学ぶ処世術 2001年の新年の話題は 週刊朝日で振り返る「あのとき」「あの話題」【2001年1月19日号①】
脱皮せよ、しつこくなれ…「ヘビ」から学ぶ処世術 2001年の新年の話題は 週刊朝日で振り返る「あのとき」「あの話題」【2001年1月19日号①】   2001年1月19日号の表紙    あんな人がいた、こんなことが起きていた……。週刊朝日で振り返る「あのとき」。この記事では、2001年1月19日号に掲載された記事の一部を紹介します。     *   *   *   【目次】   2001年1月19日号の目次     ①脱皮せよ、しつこくなれ… 2001年巳年、ヘビ流処世術に学べ ②引っ越し目前、幸せ一家4人を襲った惨劇 東京・世田谷     心と体が得する話 ①「ファストフードを捨て町場の食堂へ」福田和也 ①日記の達人が明かす、脱・三日坊主の秘策 ①隠せない、いや隠せる、素人風俗体験の刻印 ②時間がかかりすぎる離婚裁判への素朴な疑問 ②妄想と遊び、楽しむ山折哲雄流「座禅」術 ②郷ひろみがおすすめする40代で1年完全禁酒 ③8000年でカネ返すバブル崩壊王の助言 ③コンビニ店長も迷う「いい弁当、悪い弁当」 ③あなたの私立校信仰はだから間違っている ③朗報! 糖尿病に効くゴルフ練習の仕方 (このページでは、①の記事を掲載しています)     千石正一さん   脱皮せよ、しつこくなれ… 2001年巳年、ヘビ流処世術に学べ  ヘビといえば「とぐろを巻く」「蛇足」「ヘビの生殺し」……。ろくでもないイメージばかり。にもかかわらず最近、愛好家が急増している。単にペットとしてかわいがられているだけでなく、嫌われながらも繁栄を続ける生き方に、人間も学ぶところが多いからじゃないか。    ヘビやトカゲ、カメの愛好家がここ数年、増えている。「Scale(ウロコ)」「クリーパー(爬虫類)」など爬虫両生類ファンのための雑誌が続々と創刊。ヘビを自宅で飼う人のために、ヘビの大好物ネズミをソーセージにしたり、ウズラのひなからウサギまで丸ごと冷凍で供給したりする会社も登場したほどだ。  日本の「巳道」とでも言うべきか、ヘビ愛好者の間には「ご教祖さま」的存在の専門家が三人いる。財団法人自然環境研究センター研究主幹の千石正一さん(51)と高田爬虫類研究所代表の高田栄一さん(70)、財団法人日本蛇族学術研究所所長の鳥羽通久さん(50)だ。  テレビ番組「どうぶつ奇想天外!」(TBS)などでおなじみの千石さんは、小学生から八十歳のおばあさんまで熱狂的なファンを持つ。旅行会社が毎年企画している「千石先生と訪ねる大自然の旅」に、ニューヨークからわざわざやってきて参加する「追っかけおばさん」もいるほどだ。  「ハイキングに行って、タヌキとサル、シカ、ヘビのどれと遭遇する確率がいちばん高いと思います?ヘビはよく見かけますよね」  それだけ身近な存在なのに、大半の人々が、怖い、気持ち悪いなどといった悪意に満ちた偏見を持っていることに憤りを感じ、偏見をなくすためにヘビについてもっと啓蒙しようと、研究を始めた。それが千石さん、中学生のころだ。  東京農工大時代には五人ほどの仲間を集め、いまも会長を務める「爬虫両生類情報交換会」を設立。いまやメンバーはピアニストから銀行員まで三百人に達し、月一回の勉強会に加え、年一回はフィールド研究に出かける。   ■エサではつれぬ自然体がいい  「ヘビのほうから人間を襲うことはない。大半のヘビは一キロ以下で、人間は自分の六十倍以上も大きいゴジラみたいなもんだから、ヘビのほうが怖がってるよ」  東京都台東区にある研究室でそう話しながら、床の上に置いてあったクールボックスから、木綿の細長い袋に入っていた真っ白いヘビを取り出し、ひょいと記者の手の上に置いた。細いとはいえ、長さは大人の背丈ほどもある「大蛇」だ。  「ね、おとなしいでしょ?」  ええ、それはまあ……。ヘビは思ったよりずっと硬く、しかもヌルヌルしていなかった。千石さんが自宅で飼っているヘビやトカゲは現在百匹ほど。  「エサでヘビをおびきだしたり、芸を仕込むことはできない。ガツガツしてるのは哺乳類だけ。ヘビは本当に空腹のときしか食べない。無駄なことはしない、自然体がいいね」  元祖・ご教祖さまといった存在が高田爬虫類研究所代表の高田さんだろう。一九七三年に出版した一般向けの『爬虫類図鑑』はいまや爬虫類ファンのプレミアム本。十万円もの値段がついているという。  大学では文学専攻の高田さんは卒業後、友人とデパートの業界紙を創刊した。自宅では、小学生のころから好きだったカメやヘビ、トカゲを飼い続け、六〇年には自宅を高田爬虫類研究所とした。会社にヘビと同伴出勤し、同僚を驚かせた様子は、当時部下だった椎名誠さんの『新橋烏森口青春編』に詳しい。  そのうちにデパートなどで開いた「大爬虫類展」「世界のトカゲ展」が各地で大成功を収め、爬虫類研究所の仕事に専念する。沖縄市の沖縄こどもの国の中に爬虫類園もつくった。「詩や歌を詠む私にとって、ヘビの語り部になることが本望だと思うようになりました」  次に紹介するのは、高田さんが推奨する「ヘビ的人生八訓」だ。    (1)脱皮せよ  ヘビは年に三、四回脱皮する。目も含めた全身の皮が、ストッキングを脱ぐように、するりと抜ける。  「人間も古いことにれんれんとしないで、常に再生し続けよう」  (2)二枚舌を活用せよ  ヘビの舌先は二股に分かれていて、あたかも二枚舌のようだ。ひっきりなしにその舌をチョロチョロと出しているのは、においのもととなる化学物質を付着させ、口の中にあるにおいを感じる器官に運ぶためだ。  「人間も一枚の舌で人生の味を決めず、舌が二枚あるつもりで味わい尽くそう」  (3)毒を持て  「無害無毒の人間は無味乾燥。毒っ気のあるほうがずっと魅力的だ」  約二千七百種類いるヘビのうち生理学的に毒を持つのは千種程度だが、実際に人間に害を与えるのは三百種類ほどだ。  (4)出過ぎた人間になれ  作家ルナールは『博物誌』の中で「ヘビ、長すぎる」と言い切った。トカゲと同じ祖先から進化したヘビがこんなに細長くなったのは、穴に入るネズミを追いかけるのに適しているからだといわれる。蛇行して進んだり、獲物を絞め殺すためには必要な長さで、けっして長すぎるということはないが、印象的には長い。  「ヘビの長さのように、われわれ一人ひとりも、何か出過ぎだと感じさせる特徴をもちたい」  (5)とぐろを巻いて冬眠せよ  ヘビは、自分の体のあちこちが触れ合っている状態がいちばん安定しているといい、大半の時間はとぐろを巻いてじっとしている。ただし脱力しているわけではなく、緊張感を保ったまま、敵がくればすぐに反応する。  「ヘビに比べ、なんと人間は用もないのにウロウロしていることか。やらなくていいことをやるから問題も起きる。ときにはじっとしてみることも大切だ」  (6)手足がないと思え  「ヘビは全身を使って生きている。人間も小手先でものごとに対処しないで、全身でぶつかろう」     ■一回交尾すると数年子づくり可  ヘビは進化の過程で手足を失っていった。実はニシキヘビやボアのように古いタイプのヘビには、後ろ足がちょこっと残っている。この「蛇足」、交尾の際、オスがメスをひっかいて刺激するのに使われている。  (7)嫌われる人間になれ  地球上でもっとも繁栄している脊椎動物がヘビだ。  「嫌われてもちゃんと生きていける。たで食う虫は必ずいるから、好かれようと無理することはない」  (8)しつこくなれ  「ふだん動かないヘビは、いざ獲物を捕まえるときには、非常にねばっこく迫っていく。必要なところはしつこく追求すべきだ」    日本蛇族学術研究所所長の鳥羽さんは医学博士で、ヘビの神経毒を実験に使っていたのがきっかけで「巳道」に入った。いかにも科学者的な、朴訥とした控えめな話し方をする。  ――ヘビが滋養強壮にいいって本当ですか?  「マムシの筋肉には含有アミノ酸が多くて、タウリンやシスタチオニンというアミノ酸も含まれています。でも、月一回ぐらい食べたからといって効果は期待できませんね」  ――精力絶倫だとか?  「確かに一回の交尾が数時間から二十時間以上ということもあります。でも、オスの性器の先が二股に分かれていて、しかもトゲトゲしているのが多いから、なかなか抜けないだけ、という説もあります。いずれにしても、ヘビは一度交尾すると、メスが体内に精子を貯蔵して、数年間はその精子で子どもをつくります」  いったいメスの体内のどこに精子が貯蔵され、どうして何年間も活性を保つことができるのか、詳細は不明だ。この点に限らず、ヘビの生態については、まだわかっていないことが多い。ヘビは基本的には群れずに生息するし、マムシ以外はあまり飼われていないので研究が遅れている。  群馬県薮塚本町にある日本蛇族学術研究所は「ジャパンスネークセンター」も運営し、鳥羽さんをはじめ研究者たちがコブラからニシキヘビ、マムシまで約九十種類、四百匹のヘビを飼育、一般公開している。現在、地元の薮塚本町などとも協力し、多角的なヘビ研究を奨励する「ヘビの文化賞」への応募研究を募集中だ。  「最近はヘビの毒をがん抑制剤に利用する研究が進んだり、注目が高まっています。せっかく二十一世紀は巳年で明けたのですから、ヘビへの偏見をなくす世紀にしたい」(鳥羽さん)   ■ロボットの世界もヘビが注目  世界中のロボットの研究者の間でも、ヘビが注目されている。パイオニアは、東工大の広瀬茂男教授(53)だ。三十年ほど前、博士論文を書いている時代から研究している。最初はシマヘビを数匹飼い、蛇行の原理解明からスタートした。  「頭の通り道を体が同じように通る」という蛇行の特徴を生かした胃カメラ、わずかなすき間をぬって倒壊した家屋に入っていき、埋まった人を見つけるロボット、地雷が埋設されたでこぼこ道を進む地雷撤去ロボットなどを開発してきた。地面との接触点が多いので、一点にかかる重みが分散され、地雷を踏んでも爆破される危険性が低いと期待されている。  また、水圧で車輪を回しながら火災現場に突入していく、「走るホース」のようなヘビ型ロボットも実験中だ。  どれも実用化まで、あと一歩だが、「近年、コンピューターなどが急速に高速・小型化して、いよいよ実用化が近くなってきました」。広瀬教授は、巳年に期待している。       「ファストフードを捨て町場の食堂へ」福田和也 心と体が得する話  「二十一世紀に、私たちが戦うべき最大の敵のひとつは、ファストフードに象徴される文化でしょう」  と言うのは、文芸評論家の福田和也さんだ。  「私はなにも、『速く食べる』ことを悪いと言っているのではありません。私自身、立ち食いそばや牛丼は好きですから。そうではなく、大資本の食文化が全世界に一元的に浸透することに、抵抗感がある。ファストフードの侵略が、その町の食文化や景観を壊していく」  最近、福田さんはイタリアのナポリを訪れ、いたく感激したという。  「ナポリは人口五百万都市なのにマクドナルドが二軒しかない。それ以外のファァストフードは全くない。見事なもんです。町のピッツェリアやカフェを守ろうとしているんですね。夜になると、中心街のカフェに老若男女が山ほど集まってきて、世間話をしている。町が生きているんです」  イタリアでは、マクドナルドに出店許可が下りるまで十年近くかかるといわれる。食文化に悪影響を与えると、遠ざけているのだ。町になじまないと、赤と黄色のロゴマークを変更させている都市もある。  ひるがえって日本はどうだろうか。  「マクドナルドやスターバックスが、いいマニュアルであることは認めます。全部否定しているわけではない。でも、マニュアル化できないもののほうが大事だという感覚、長い時間をかけてつくられた、精神と文化の結晶でもある町場の食堂を愛するという感覚、この感覚がいつから日本人にはなくなったのでしょうか。こうした退廃を放置したまま、勤労奉仕で子供たちの心を豊かにさせようなんていうのは論外です」  福田さんは、二人の子供にもファストフードを食べさせないよう育てている。  さて、食べ物の話をすると、おなかがすいてくる。  「洋食屋ハンター」の福田さんに、何軒か推薦していただこうとお願いしたが、  「自分で見つけた町場の店に入るのが基本。地元の大井町、大森、蒲田周辺で『発見した店』は荒らされると困るので」  「有名だから荒らされる心配もない店」を、五つ紹介してもらった。    ▼「キッチン南海」(神田神保町)  「同名の店は東京近郊にいくつかあるが、その価格、味、立地条件からナンバーワン。このコストパフォーマンスの良心と食べた充実感が最高。こういう店こそ東京の豊かさと文化を象徴していると思う」  ▼「たいめいけん」(日本橋)  「午後にビールを飲むのに使う。一階でボルシチ、キャベツなどを肴にミックス(ハーフ・アンド・ハーフ)の大ジョッキを二杯ひっかけ、ラーメンかぶっかけカレーで仕上げる」  ▼「みしな」(京都)  「かつて祇園で知られた名店『グリル壺坂』が閉店後、そのコックさんが開いた。ステーキを食べて、仕上げはお茶漬けとお漬物」  ▼「王ろじ」(新宿)  「食感のはっきりしたトンカツ、串カツもいいが、とん汁がいい」  ▼「牛めしげんき」(新橋)  「肉を食う文化が西洋から入り、日本に溶け込む過程の香りを伝えている店。以前は『かめちゃぼ』という名前で、『かめ』とは西洋犬、『ちゃぼ』は『ごはん』。要するに『西洋犬の餌』。このネーミングはしゃれていました」     日記の達人が明かす、脱・三日坊主の秘策 心と体が得する話  三日坊主の代表格といえば日記。せっかくの新世紀元年、今度こそはキチンと付けてみたい。三日で終わらせないコツはあるのだろうか。言語表現の授業で「日記の達人塾」を開いている、向後千春・富山大教育学部助教授(心理学)は言う。  「長続きのコツは動機付けですね。それには読者を想定する必要があります。自分の記録を自分だけが読むのが一般的な日記ですが、『人に読んでもらう』日記があってもいい。僕の子どもはまだ幼稚園にも入りませんが、大きくなったら読ませようと思っています。また、自分の死後、遺族に読んでもらうのもいいでしょう。読者がいるという動機付けがあれば、長続きできます」  向後助教授が勧めるのが、インターネットのホームページ上に公開する「Web日記」だ。  「不特定多数の読者から反響があるのが楽しいですね。ただ、個人が特定されるような書き方や、中傷にならないようにするなど、注意は必要です。恨みつらみを書くなら、昔ながらの日記にしましょう」  木村晋介弁護士も、日記の効能を語る。  「私は遺言を財産分与などの実利的なことだけでなく、遺族にも楽しんでもらえる自分史として書くことを勧めています。そのほうが遺族も納得できる。それには日記がいい。日記を自分史のネタ帳だと思って続ける。スタートはいつでもいいんです。『自分史遺言』のいい手がかりになる。日記の一ページでも署名、捺印してあれば、立派に遺言状として認められます」  「10年日記」も三日坊主向きかもしれない。発売元の通販会社「カタログハウス」によれば、  「一年でもできないのに、十年といえば気が遠くなるでしょうが、なにしろ十年です。一日の分量は百字程度しかありません。これなら三日坊主でも大丈夫。献立だけでもいいし、俳句を一日一句したためてもいい。十年やれば傑作選もできます」  価格も四千八百円だから、年単位で計算したら安上がりかもしれない。  さて、向後助教授が三日坊主諸氏へアドバイス。  「日記は最初の一カ月が苦しく、二カ月がボーダーで、それを超えたら習慣化します。あまり義務感にかられず、『土日は休もう』くらいの気持ちでいきましょう」     隠せない、いや隠せる、素人風俗体験の刻印 心と体が得する話  性風俗店でアルバイトする女子大生や主婦がさらに増えている。  「セックス抜きの風俗店の場合、働く女性の八割方は素人ですね」  と話すのは、ナイタイスポーツ新聞の山田鉄馬編集部長だ。  「夫がリストラされて家計を助ける妻もいれば、遊ぶカネ欲しさの学生もいる。風俗産業の暗いイメージがなくなってきているし、セックスレスのため、罪悪感も少ない。先の見えない不景気や就職難も拍車をかけています」(山田部長)  自由の利くシフト態勢、必要に応じて短期集中的に働けばいい気軽さも人気。しかしその半面、彼女たちにも悩みがある。  池袋の風俗街を歩き、入店半年の大学生、モカさん(21)に会った。  「将来、『風俗をしていた女』と言われたくないの。親友にも明かしていない」  二カ月目のモモカさん(19)はデパート店員で、  「心の中で彼に謝りながらプレーしているけど、お金が欲しいのには負ける」  モカさんだと、一晩で五人程度の相手をしている。店の待合室は、二十代、三十代で賑わっていた。  もっとも男は、保守的な輩が多いらしい。最近、妻や婚約者の「過去のバイト」を疑う男性が増えている。都内の調査業者が言う。  「週に一、二件は相談が入ります。しかし、現在勤めていれば尾行ですぐわかりますが、過去だと、聞き込みしても、まず難しい。若い人は性にオープンだと思ってたけど、意外だね」  「素人」だけに、彼女たちの外見や態度などからは、まったく風俗を感じさせないところが悩ましい。モカさんは言う。  「『ずいぶん上手になったね』と言われたけど、『そーお?』って。何とでもごまかせるの。カレもはっきりとは聞いてこないし」  では、どんなとき、バレそうになるのか。モカさん、モモカさんたちにポイントを聞いてみた。以下はつまり、「素人風俗嬢の見分け方」ということになる。    (1)カネ回りがいいのに、帰りが午前零時を回らない。(ホステスなら、もっと帰りは遅くなる)  (2)帰ってくると、ボディーシャンプーのにおいがする。  (3)日給制のため、急にカネ持ちになったり、貧乏になったりする。  (4)当日急に休んだり、勤務したりと、「バイト」のシフトが自由すぎる。  (5)だれかのと比べているような発言をうっかりする。  (6)フィニッシュの瞬間が事前にわかり、対処が速い。  (7)テクニックが知らない間に巧みになっているか、突然へたになる。(前者は客に教わるため。後者は、バレないようにするあまり)    「デートの後に店に出るときは、わざと反対側の電車に乗って山手線を一周したりで、私たちも大変なの。簡単にはバレないですよ」  モカさん、笑っていた。    
【2024年11月に読まれた記事①】皇后雅子さま「華麗なるティアラのルール」 なぜ大統領を招いた宮中晩餐会で、宝冠は輝かなかったのか
【2024年11月に読まれた記事①】皇后雅子さま「華麗なるティアラのルール」 なぜ大統領を招いた宮中晩餐会で、宝冠は輝かなかったのか オランダ国王夫妻を迎えた宮中晩餐会。当時、皇太子妃の「第二ティアラ」を身に着けた雅子さま=2014年、皇居・宮殿「豊明殿」    暮れゆく2024年を、AERA dot.の記事で振り返ります。11月は「皇后雅子さま『華麗なるティアラのルール』 なぜ大統領を招いた宮中晩餐会で、宝冠は輝かなかったのか」の記事が特に読まれました(※年齢、肩書等は当時のものです)。 *  *  *  米国の大統領選は、共和党のドナルド・トランプ前大統領が勝利し、第47代大統領に就任することになった。トランプ氏は2019年5月、令和に入って最初の国賓として来日。皇居での宮中晩餐会に招かれ、皇后雅子さまとメラニア夫人という「皇后」と「ファースト・レディ」の白いドレスの競演が注目を集めた。このときの雅子さまは、晩餐会では着用されるティアラを着けていなかった。なぜティアラが、皇后や女性皇族の顔の上で輝かなかったのか。    東京・皇居で2019年5月27日夜、国賓のトランプ氏とファースト・レディのメラニア夫人を招いての宮中晩餐会が催された。宮殿の大広間「豊明殿」には、日米両国政府の要人や各界の著名人ら165人が招かれた。  宮中晩餐会における男性のドレスコードは、夜間略式礼装である「タキシード」。天皇陛下やトランプ大統領も、黒の蝶ネクタイのタキシードで臨んだ。  そして雅子さまは、淡いベージュのロングドレスに、繊細なレースのジャケットという装いだった。  このときの装いについて、長年パリコレで取材を続けてきたファッション評論家の石原裕子さんは、こう振り返る。 「雅子さまがお召しのレースのジャケットは、ごく薄く緻密で繊細な意匠がフランスの貴婦人に愛されたシャンテリーレースのようです。レースに織り込まれている薔薇は、アメリカの国花です。相手国への敬意を感じます」  一見控えめでありながら、繊細な装飾や仕立が施されていると指摘する。  そしてメラニア夫人は、羽の刺繍が施された、着物を思わせるケープ型のドレス。雅子さまもファースト・レディも、優雅なたたずまいだった。 2019年にトランプ大統領夫妻(当時)を招いて、皇居で催された宮中晩餐会で乾杯を終え、トランプ大統領に拍手を送る天皇陛下と皇后雅子さま、メラニア夫人(右)=2019年5月27日、皇居・宮殿「豊明殿」   王族であればティアラ着用?  しかし、宮中晩餐会の華やかな装いと言えば「ティアラ」だ。しかし、出席した雅子さまも、ほかの女性皇族もティアラを着用していない。なぜ雅子さまや女性皇族は着用していなかったのだろうか。 「宮中晩餐会の主賓が王族でない場合、皇室側も勲章とティアラは着用しない」  一般的には、そう説明されることが多い。     【こちらも話題】 英国王の晩餐会 笑顔の皇后雅子さまの頭上で輝く花とダイヤの宝冠は「初めて」の「第二ティアラ」 https://dot.asahi.com/articles/-/226295   ブータンのワンチュク国王夫妻を招いた宮中晩餐会。接遇するのは国王だが、事前のドレスコード調整で皇室側はブラックタイに和服などで、ティアラはなし。乾杯するのは当時、皇太子だった天皇陛下=2011年、皇居・宮殿「豊明殿」    2019年のトランプ大統領夫妻、2018年のベトナムの国家主席夫妻、2016年のシンガポール大統領夫妻を招いた晩餐会では、天皇陛下や男性皇族はタキシード、女性皇族は和装やティアラなしのドレス姿だった。  他方、2016年のスペインやベルギー国王夫妻を招いた晩餐会では、頸椎症性神経根症のためにティアラの着用を見送っていた当時の皇后美智子さま以外の女性皇族は、ティアラを着用している。   愛子さまティアラで晩餐会はいつ? 24年の「新年祝賀の儀」で、ティアラを着用した愛子さま。おばの黒田清子さんのティアラを借りており、新調のタイミングが注目される=2024年1月1日、宮殿    しかし、実際には両国間で事前にドレスコードの調整が行われると、宮内庁で儀式を統括する式部職を長く経験した人物は説明する。  夜間の男性の正礼装とされるのは、燕尾服(ホワイトタイ)または民族衣裳。準礼装とされるのが、タキシード(ブラックタイ)または民族衣装だ。宮中晩餐会でのドレスコードがどちらになるのかは、相手国との相談の上で決められる。  ちなみに、2005年のモロッコ国王、2011年のブータンの国王夫妻、2012年のクウェート首長を招いての晩餐会では、国王や首長らは民族衣装で臨んでいる。  対して皇室側は、燕尾服とティアラで臨むときもあれば、タキシードと和装のときもあり、相手が国王であっても服装は一律ではなかった。 「男性の燕尾服に対応する女性の正礼装がローブデコルテにティアラ(宝冠)です。国王かそうでないかというよりも、ドレスコードによってティアラの有無が決まるということです」  と、前述の人物は説明する。    愛子さまは、成年皇族としての公務や皇室行事に出席するようになって、まだ間もない。コロナ禍の間は、女性皇族も控えめな装いを続けていたため、愛子さまのティアラ姿といえば、成年の儀式の際と、女性皇族が4年ぶりにティアラを着用した2024年の「新年祝賀の儀」と機会が限られていた。  しかし、これからは晩餐会を催す機会があれば、愛子さまがティアラを着用することもあるだろう。  今年2月、初めて公務として午餐(昼食会)に出席された愛子さまは、今後の「晩餐会デビュー」の機会が待ち遠しいところ。ローブデコルテとともにティアラを輝かせた愛子さまの姿を見るのが楽しみだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 〈2024年上半期ランキング 皇室編3位〉愛子さま大統領との午餐デビューで待ち遠しい宮中晩餐会 雅子さまや佳子さまらの美しいドレスとティアラ姿 https://dot.asahi.com/articles/-/227336  
「オシャレは老化予防の最大の秘訣」90歳現役医師は毎日自分で服を選び脳も活性化
「オシャレは老化予防の最大の秘訣」90歳現役医師は毎日自分で服を選び脳も活性化 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  90歳を迎えた今も現役医師として週4日高齢者施設で働いている折茂肇医師。その若さと健康を保つための秘訣は何か?折茂医師が考える10の秘訣のうち、今回は1つ目の「手抜きをしないでオシャレをする」について語ってもらう。  折茂医師は、東京大学医学部老年病学教室の元教授で、日本老年医学会理事長を務めていた老年医学の第一人者。自立した高齢者として日々を生き生きと過ごすための一助になればと、自身の経験を交えながら快く老いる方法を紹介した著書『90歳現役医師が実践する ほったらかし快老術』(朝日新書)を発刊した。同書から一部抜粋してお届けする(第5回)。 *  *  *  私なりの「若さと健康を保つための10の秘訣」を挙げてみたいと思う。100歳まで、というと大げさかもしれないが、超高齢者にとってはいずれも有益な内容だと考えている。   若さと健康を保つための10の秘訣 ① 手抜きしないでオシャレをする ② 落ち目同士で群れず、異文化と付き合う ③ 適当に仕事をする ④ エスカレーターやエレベーターは間違っても使わない ⑤ 落ち目になったことを自覚する余裕を持つ ⑥ 他人の話を聞き、広い視野で物事を考える ⑦ 上手に気分転換して嫌なことはすぐ忘れる ⑧ いくつになっても好奇心旺盛でいる ⑨ インプットだけでなくアウトプットもする ⑩ 適度な運動をして自立した高齢者でいる   ① 手抜きしないでオシャレをする  オシャレとは老化予防の最大の秘訣であると考えている。そもそも、オシャレとは何か。『広辞苑』によると「みなりや化粧を気のきいたものにしようとつとめること。また、そうする人」と定義されている。しかし、私自身が考えるオシャレとは、その人の人柄や生活環境、生き方、人生観などが複合的に反映された、極めて格調高い概念である。オシャレは個性の一面であり、その人を最も魅力的に見せる手段の一つでもあるだろう。  とくに重要なことは、オシャレというものの背景には、「心のゆとり」や「遊び心」、そして、その基盤となる「ある程度の経済的な余裕」が必要であることといえるのではないだろうか。 【第1~4回の記事はこちら】 1)90歳現役医師「老いの心境がわかるようになったのは還暦過ぎ」 過去の患者への申し訳なさ https://dot.asahi.com/articles/-/241832 2)「ほったらかし快老術」著者の元東大教授 90歳でも週4日医師として働く理由とは? https://dot.asahi.com/articles/-/241908 3)東大元教授・90歳現役医師「高齢者診療で最初にやることは減薬」 家族に説明が難しい多剤処方 https://dot.asahi.com/articles/-/241913 4)「老年病は治せるものばかりではない」90歳現役医師がパーキンソン病患者に毎回伝えた言葉とは https://dot.asahi.com/articles/-/242179  日本には昔から「粋」という概念がある。この「粋」の対極にあるのが「野暮」である。いわゆる「野暮ったい」の野暮であり、洗練されていないこと、ダサいことを意味する。哲学者、九鬼周造氏は『「いき」の構造』(岩波書店)で、「粋」といわれるには、ただその時代の流行をセンスよくとり入れるだけではダメで、一定の年季と教養が必要であると述べている。そして、粋とは異性に認めてもらいたいオシャレのことだとも言及している。 『人は見た目が9割』(竹内一郎著、新潮社)という著書が売れた時代もあった。人はなぜオシャレをするのか? 例えば男性であれば、「若く見られたい」「素敵と思われたい」という気持ちから外見が気になるようになり、クジャクのオスが色鮮やかな羽を広げてメスの歓心を得ようとするように、オシャレをしたくなるのではないだろうか。 折茂肇(おりも・はじめ)医師/東京大学医学部老年病学教室・元教授、公益財団法人骨粗鬆症財団理事長、東京都健康長寿医療センター名誉院長(撮影/写真映像部・松永卓也)    作家の渡辺淳一氏はその著書『熟年革命』(講談社)の中でこう述べている。「異性の視線を意識することがオシャレのきっかけとなり、最も手っ取り早い方法は恋をすることである」と。また出版プロデューサーであり生活経済評論家でもある川北義則氏は『男の品格』(PHP研究所)で「異性との付き合いが若々しさを保つ秘訣である」と述べている。異性と付き合うことでお互いに緊張するから立ち居振る舞いにも気をつけるようになり、オシャレにも気を配る。そんな神経の使い方がいつまでも若々しさを保つことにつながると言及している。  老年医学者として私も彼らの意見には賛同する。高齢期を迎えた男性にとって、オシャレとは「心と体の身だしなみ」と心得、無理せず自然に身に着けるべきものと考えている。異性との駆け引きや恋愛との関わりを抜きにしても、オシャレは楽しく、若さを保つために有用なものと考える。  日本には、「見た目より内面が大事」という考え方が根付いているが、私はこの考え方は古いと思う。確かに内面は大事だが、それと同じくらい、いや、それ以上に外見も大事である。「馬子にも衣装」ということわざがあり、それには「見た目が悪い人でも外見を飾れば立派に見える」という、あまりよくない印象を与える響きがあるが、発想を転換すれば「外見を若々しく整えれば心もおのずと若々しくなる」ということではないか。若々しく整えるというのは、何も無理をして若作りするということではない。  自分がどういうファッションが好きで、どんな色を好み、どんなものを身に着けたいか。自分に似合うもの、自分を少しでも素敵に演出できるファッションを考えることは楽しくもあり、脳への刺激にもなる。トータルコーディネートして外出すれば気分も明るく、足取りも軽くなるはずだ。これが脳の若さを保つのに、役立たないわけがないだろう。 気がつけば私自身もこの秘訣を実践していた  医師として高齢者施設に入所する人を見ていても、それは実感する。施設は共同生活の場でもあるので、食堂などの共同フロアに行けば、ほかの入所者と顔を合わせる。ある女性は装飾品が大好きで、毎日共同フロアに出てくるときは必ず異なる装飾品を身に着けてきた。それを自慢したかったのだろうし、そのように着飾った自分を認めてもらいたかったのだ。施設という多くの人が入所する場とはいえ、慣れ親しんでしまうとなかなかそこまでできないはずだが、それがその女性の生きがいであり、健康を保つ秘訣だったように思う。  私自身も気づかぬうちにこの秘訣を実践していた。ただし、くたくたのズボンははかない、ワイシャツは一日で取り替える、ネクタイの緩みは許さないなどということは、私にとっては身だしなみの範疇であり、オシャレというほどのものではない。  私は若いころから学会などで海外に出張する機会が多かったため、身の回りのことは自分でする習慣ができている。毎日、背広に合ったワイシャツとネクタイを自分で選ぶという生活をしており、妻に選んでもらったことはない。  毎朝起きると、今日はどの服にしようかと考えるのが楽しみだ。服が決まれば、後は全身のバランスを考え、シャツ、ネクタイ、カフスボタンや時計などの小物類を選ぶ。  鏡の中でトータルコーディネートが完成すると、背筋がシャンとする。この習慣により脳も活性化され、若さを保つにも役立っていると思う。 自分に似合うもの、自分の好きな服を身に着けよう  私の好みは緑と茶で、その色の衣類を身に着けることが多い。とくに緑が好きだ。日本人は、なぜか紺やグレーの背広を着ている人が多い気がする。その理由は、みんなと同じ色を着て、なるべく目立たないようにという発想からではないだろうか。こんな現象は日本でしかみられない。日本には、自己に目覚めていない人が多いのではないだろうかと思ってしまう。あるいは、自分の好きな色を着ることを恥ずかしいと思っているのか、自分に似合う色がわからないのか……。  他人に不快感を与えない限り、もっと自由に自己表現し、自分の好きな色の服を堂々と身に着ければいいのに、と思うのである。私は自分の好きな色の服、自分に似合うだろうと思う服を着る。今でもときどきは行きつけの仕立て屋さんを訪れ、生地から選んで自分の好きな服を作ることを楽しみにしている。昔に比べればずいぶん減ったが……。  洋服はたくさん持っている。そろそろ少しずつ整理して、着ないものは処分していかなければ……とも考えている。でも、やはり服が好きだから、新しいものも欲しくなってしまうんだよな。オシャレも私が元気でいる秘訣の一つだ。 折茂肇医師が週4日働く高齢者施設での回診の様子とインタビュー動画はこちら   ※『90歳現役医師が実践する ほったらかし快老術』(朝日新書)から一部抜粋   ≪著者プロフィール≫ 折茂肇(おりも・はじめ) 公益財団法人骨粗鬆症財団理事長、東京都健康長寿医療センター名誉院長。1935年1月生まれ。東京大学医学部卒業後、86年東大医学部老年病学教室教授に就任。老年医学、とくにカルシウム代謝や骨粗鬆症を専門に研究と教育に携わり、日本老年医学会理事長(95~2001年)も務めた。東大退官後は、東京都老人医療センター院長や健康科学大学学長を務め、現在は医師として高齢者施設に週4日勤務する。
ウィリアム皇太子とトランプ次期大統領が懇談 ヘンリー王子とメーガンさんがショックを受けたワケ
ウィリアム皇太子とトランプ次期大統領が懇談 ヘンリー王子とメーガンさんがショックを受けたワケ  ウィリアム皇太子(42)とトランプ次期大統領(78)が12月7日、フランスのパリで会談を行った。会談が実現したきっかけは、2019年に火災に見舞われて再建工事が続いていたノートルダム大聖堂が再開したことで、マクロン仏大統領が記念式典に世界中のVIPを1500人ほど招いたのだ。 2024年12月7日、フランス・パリの駐フランス英国大使公邸で会談するウィリアム皇太子とドナルド・トランプ氏(photo ロイター/アフロ) トランプ氏が「彼はいい人だ」   ウィリアム皇太子はがん治療中のチャールズ国王(76)の代理として出席。式典後にパリのイギリス大使館に向かい、そこでトランプ氏と懇談した。印象的だったのは、トランプ氏が大使館に到着したシーンだ。トランプ氏は、建物の入り口で出迎えたウィリアム皇太子を指さして「彼はいい人だ」と報道陣に話しかけ、さらに「彼は素晴らしい仕事をしている」と称賛したのだ。2人は応接室で向き合い、英米関係の重要性や世界の諸問題について約40分間、話し合った。  これにショックを受けたのが、アメリカで暮らすヘンリー王子(40)とメーガンさん(43)だ。メーガンさんは「トランプは女性差別者。彼が大統領になったら、アメリカから脱出する」と発言するなど、以前からトランプ氏を嫌っていることで知られている。  また、アメリカは薬物使用により入国の際にビザ申請が却下されることがある。だから、暴露本『スペア』の中でコカインなどの薬物を使用したと明かしているヘンリー王子がアメリカへの移住時に入国審査を潜り抜けたのは、特別待遇だったとみられている。だが、トランプ氏はバイデン大統領のようにはヘンリー王子を守らない姿勢を見せている。 2019年の火災後、再建が進められていたパリのノートルダム大聖堂。2024年12月7日の再開式典に出席したウィリアム皇太子をフランスのエマニュエル・マクロン大統領とマクロン夫人が歓迎した(photo ロイター/アフロ) メーガンさんはトランプ氏と犬猿の仲  2人と犬猿の仲にあるトランプ氏に対して、ウィリアム皇太子が親密な様子を見せたことについて、メーガンさんとヘンリー王子は「私たちへの裏切り行為。トランプと仲よくしたのは、私たちの気持ちに全く考慮していないから」と怒りをあらわにしたと伝えられている。だが、人々からは「皇太子は王位継承者として世界のリーダーと会っただけ。やるべき仕事をするとき、弟の考えなど気に留めるはずもない」と批判の声が上がっている。 不自然なクリスマスカード公開  そのヘンリー王子とメーガンさんは、12月16日にクリスマス・カードを公表。今年1年の出来事を6枚の写真で振り返ったが、その中には批判を浴びたはずのナイジェリアとコロンビア訪問の写真も含まれていた。 2024年8月17日、コロンビアを訪問したヘンリー王子とメーガンさん。2人そろって公式の場に登場する機会は減りつつある(photo ロイター/アフロ)  他にも首をかしげる人が多かったのが、カードの真ん中の上段に掲げたアーチー王子(5)とリリベット王女(3)を含む1枚だ。事前に子どもの写真を出すとアナウンスがあったので期待する声もあったが、子どもたちが両親に向かって駆け込んでいるシーンで、子どもたちは後ろ姿だったのだ。  しかも、全体がぼけていて、リリベット王女の身長が2つ年上のアーチー王子とほとんど変わらず、ヘンリー王子の右手の指は6本あるように見える。さらに、一緒に写っている3匹の犬は興奮して走り回ることもなく、ぴたりと静止していて、左端の黒い犬にいたっては、足の形がいびつという不自然さだ。  キャサリン妃(42)が今年の母の日に3人の子どもとの写真を公開したときも、おかしな点を指摘された。キャサリン妃は「写真加工をした」と正直に話したが、この時、メーガンさんは「私ならそんなヘマはやらない」と言い切ったものだった。しかし、今回いくつもの失敗を指摘されている。子どもの顔を見せないことを批判されると、「子どものプライバシーを守っただけ。友人や家族などには顔を出したカードを送る予定」と釈明している。しかし、「秘密の二枚目」はいまだに確認されていない。 チャールズ国王のもうひとつの悩み  相変わらずお騒がせなヘンリー王子とメーガンさんだが、英王室を守るチャールズ国王にはもうひとつの頭痛の種がある。国王の弟アンドルー王子(64)だ。 2024年3月31日、ロンドンのウィンザー城で行われた礼拝に出席した(右から)サラ・ファーガソンさんとアンドルー王子(photo ロイター/アフロ)  未成年への性的虐待疑惑で公務から引退したアンドルー王子だが、また新たに中国人スパイとされる人物と親しい関係にあったとのスキャンダルが持ち上がっている。アンドルー王子は「すでにすべての関係を絶った。機密情報は漏らしていない」と否定しているが、信頼回復には程遠い状態だ。アンドルー王子は中東の有力者からアブダビの宮殿の使用権を与えられているそうで、一定期間、中東での亡命生活を余儀なくされるとの見方もある。  にも関わらず、アンドルー王子は王族が集まるクリスマス恒例のランチ会に参加すると粘ったという。チャールズ国王の意をくんだ、元妻のサラ・ファーガソンさん(65)が説得し、最後は渋々欠席に同意。国王は彼女に感謝したという。  そんな状況を見ている国民からは、チャールズ国王に対し、アンドルー王子とヘンリー王子の称号剥奪を求める声がひときわ高く上がっている。現時点で、チャールズ国王は「統一する立場であって、分裂を進める立場ではない」として、両者の称号剥奪は行わないとしているが、今後の展開から目が離せない状況だ。 (ジャーナリスト 多賀幹子) *AERAオンライン限定記事       
愛子さまはなぜ、能登半島地震の被災地でテニス大会に立ち寄る予定だったのか 「天皇の娘」は、まだ皇室が足を運んでいない土地へ
愛子さまはなぜ、能登半島地震の被災地でテニス大会に立ち寄る予定だったのか 「天皇の娘」は、まだ皇室が足を運んでいない土地へ 宮内庁は、愛子さまがの23歳の誕生日にあたり1年を振り返った。愛子さまは「被災された方々に安心して暮らせる日が一日も早く訪れることを心から願っておられる」と伝えた=2024年11月22日、皇居、宮内庁提供    天皇、皇后両陛下は12月17日、1月に能登半島地震、そして9月に豪雨被害を受けた石川県輪島市を訪問された。おふたりが能登を訪れたのは3回目だ。一方で、両陛下の長女、愛子さまは、同県七尾市や志賀町への訪問を予定していたが、直前の豪雨災害で取りやめになったままだ。当時、愛子さまが立ち寄る予定だった復興支援のためのテニス大会で実行委員長を務めた元プロテニス選手の佐藤直子さんは、愛子さまが現地に足を運ぼうとしてくれたことに感謝している。 *   *   *  1月に能登半島地震、9月には豪雨によって相次いで被害を受けた能登地方。  30世帯が避難生活を送る輪島市の輪島中学校を訪ねた天皇陛下と皇后雅子さまは、高齢の被災者たちの前で腰をかがめて目線を合わせ、その言葉に耳を傾けていた。  これまでにおふたりは能登地方に2度訪問し、秋篠宮ご夫妻も被災地を訪れている。  そして両陛下の長女愛子さまも、9月28日と29日に七尾市、志賀町を訪れる予定だったが、直前の豪雨災害で中止になった。 「天皇陛下と皇后雅子さまも、愛子さまが初めておひとりで臨む予定であった被災地訪問については、いろいろと気にかけておられたようです」  皇室の事情を知る人物は、そう語る。   テニス大会の会場となった七尾市和倉温泉運動公園のテニスコートも、能登半島地震でコートがはがれたり、地面が隆起したりするなどの被害を受けた=「能登半島地震復興支援!能登和倉国際女子オープンテニス READYFOR」のウェブサイトより   皇室が訪問できなかった被災地  愛子さまは当初、復興支援の一環として9月29日に七尾市で開かれた「能登和倉国際女子オープンテニス2024復興支援大会」の決勝戦を観戦する予定だった。 「愛子さまのお立ち寄りが決まったと県から知らされたときは、七尾市役所もわれわれ大会の運営サイドも驚きました」  そう語るのは、大会の実行委員長を務めた元プロテニス選手の佐藤直子さんだ。   24年4月に、石川県の穴水町と能登町を訪れた両陛下は犠牲者が出た場所に向かって深く頭を垂れ、祈りを捧げた=2024年4月12日、石川県、東川哲也撮影(朝日新聞出版/JMPA)    一般的に、行事などに皇族方が臨席する場合は、主催者や自治体から宮内庁に「お出まし」をお願いして実現するケースが少なくない。  佐藤さんら大会実行委は大会が開かれるこの地に、愛子さまに足を運んでいただけないかと考えた。 「七尾市、特に和倉温泉は、この地域の経済の中心であるにもかかわらず、インフラの復旧が他の地域よりも遅れていたことも影響し、まだ皇室の被災地訪問が実現していない場所でした」(佐藤さん)  もし愛子さまが訪れてくれたら地元の励みになる。そう考えた実行委は、いったんは「お出まし」の申請を準備し始めたが、最終的には「かえってご負担になってはいけない」と思い直し、申請を見送ることにしていた。  にもかかわらず、愛子さまが大会を観戦するという連絡があったため、驚いたのだ。 「自治体や宮内庁の配慮だったのか、それとも愛子さまサイドが見つけてくださったのかはわかりません。しかし、内親王の訪問は土地の人たちをどれほど勇気づけることかとありがたかった」(佐藤さん)   佐藤直子さんら能登和倉国際女子テニス大会の実行委は、クラウドファンディングで開催資金を募った。会場近くの道路も地震で地盤が崩れている=「能登半島地震復興支援!能登和倉国際女子オープンテニス READYFOR」のウェブサイトより   「こんなときにテニス大会なんて…」  災害関連死もふくめ、約500人の死者を出した能登半島地震。七尾市の和倉温泉も大きな被害を受け、温泉街を代表する老舗旅館「加賀屋」をはじめとする22軒の宿泊施設が全て休業に追い込まれた。  毎年秋に開催されていた「能登和倉国際女子オープンテニス」大会は、会場となっていた七尾市和倉温泉運動公園の半数のテニスコートに被害があったものの、大会で使う予定だった6面のコートは無事だった。 「そうはいっても、能登半島が大変な時にテニスの大会を開いていいのだろうか。私も大会を運営するメンバーも迷っていました」  佐藤さんは、3月からボランティアとして被災地に入り、4月には大会のアンバサダーを務める女優の南野陽子さんと一緒に避難所となっている体育館などを回った。  そして、大会実行委のメンバーたちと、開催すべきかどうか話し合う場が持たれた。   24年1月の能登半島地震で甚大な被害を受けた石川県への2度目の訪問で、穴水町と能登町を訪れた両陛下。「陛下と雅子さまは、大きくはないがゆっくりと聞き取りやすい口調で話しかけてくださった」と、両陛下と言葉を交わした被災地の店主の女性は話す=2024年4月12日、石川県、JMPA    自宅が損壊した地元メンバーもおり、佐藤さんは中止を覚悟していた。  しかし、話し合いのなかで、実行委員のひとりがポツリとこう漏らした。 「僕たちは、テニスボールを打ち始めたのだけれども……実は、とても楽しかった。周りからは『こんな大変なときにテニスなんて』と変な目で見られた。でも、僕はテニスのおかげで前を向くことが出来たから……。僕は今年の大会は開いてほしいと思う」    地震発生からまだ3カ月。市内ではようやく4月に水道が復旧したばかりで、下水道は応急工事すら始まっていない場所がほとんどだった。  こんな状況でテニス大会の準備などをすれば、非難されるかもしれない。そんな不安を抱えながらも、実行委のメンバーや選手たちは大会開催を願っていた。  佐藤さんは覚悟を決めて、こう声をかけた。 「できる範囲内で、今年もやりましょう」   大会には多額の資金が必要  テニスの大会は、運営費のほかにお金がかかる。海外から審判員を呼べば、日当と交通費はもちろん宿泊費や食事代もかかる。優勝したプロのテニス選手には賞金も準備しなければならない。  一方で、被災地の復興支援のための大会だけに、以前のように地元企業へ協賛金をお願いするわけにもいかない。大会事務局の若いメンバーらの提案を受けて、クラウドファンディングで資金を募ることもした。  そして9月に入り、愛子さまが観戦に訪れることが決まった。  もっとも、内々に知らされたのは数人の関係者のみで、9月20日に愛子さまの被災地訪問がニュースで報じられると大会関係者も驚いたという。  ところが、その翌日の21日から、能登地方を記録的な豪雨が襲ったのだった。   クラウドファンディングで資金を募り目標額を上回る360万円が集まった=「能登半島地震復興支援!能登和倉国際女子オープンテニス READYFOR」のウェブサイトより   被災地への「お出まし」がもたらす力  豪雨によって各地で河川の氾濫や土砂崩れが起き、15人が亡くなった。  佐藤さんも、当時の様子をこう振り返る。 「私も豪雨の日は、大会の準備のために和倉温泉入りしていました。夜中には殴りつけるような雨になり、ホテルのガラスが割れるのではないかと思うほどひどい状況でした」   宮内庁によれば、愛子さまは「被災された方々に安心して暮らせる日が一日も早く訪れることを心から願っておられる」という=24年11月22日、皇居、宮内庁提供    愛子さまの訪問は、この豪雨災害を受けて中止になった。  しかし、テニス大会は予定通り開催された。  会場ではアンバサダーの南野陽子さんと佐藤さんのトークショーや、被災者を励ますためのチャリティーイベント「七尾の夕べ」が開かれた。大会の参加選手は被災した人たちと一緒になり、『上を向いて歩こう』を一緒に歌ったという。    天皇陛下や皇族方が被災地に足を運び、被災者の言葉に耳を傾けてくれる。今回は愛子さまの訪問はならなかったが、「お出まし」になるというだけでも、被害に遭った人たちや復興に向けて頑張っている人たちの力になると、佐藤さんは感じている。  和倉温泉に21軒あった旅館のなかで、営業を再開したのはまだ4軒にとどまっている。以前のような姿を取り戻すまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。 「愛子さまが近いうちに、能登地域に足を運んでくださる機会があれば嬉しい。地元のひとたちも、きっと励まされると思います」(佐藤さん) (AERA dot.編集部・永井貴子) 9月に行われた「能登和倉国際女子オープンテニス2024復興支援大会」の試合の様子     【こちらも話題】 愛子さま 佳子さまよりも先に、能登半島地震の被災地訪問が予定されていた理由とは? https://dot.asahi.com/articles/-/235091    
【2024年7月に読まれた記事①】思わず目が奪われる! 天皇陛下と皇后雅子さまを迎えた96個のルビーとダイヤの「宝冠」と、「最高峰」のピンク・ダイヤモンド
【2024年7月に読まれた記事①】思わず目が奪われる! 天皇陛下と皇后雅子さまを迎えた96個のルビーとダイヤの「宝冠」と、「最高峰」のピンク・ダイヤモンド バッキンガム宮殿での晩餐会の日。カミラ王妃の顔の上で輝くのは、96個のルビーとダイヤモンドが輝く「バーミーズ・ルビー」の宝冠。ルビーとダイヤは王室の紋章である「チューダー・ローズ」の意匠。菊の意匠をかたどった第二ティアラを着ける皇后雅子さまとの対比も美しい=2024年6月25日、ロンドン    暮れゆく2024年を、AERA dot.の記事で振り返ります。7月は「思わず目が奪われる! 天皇陛下と皇后雅子さまを迎えた96個のルビーとダイヤの『宝冠』と、『最高峰』のピンク・ダイヤモンド」の記事が特に読まれました(※年齢、肩書等は当時のものです)。 *  *  *  国賓として英国を公式訪問された天皇、皇后陛下。ロンドンのバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ国王夫妻主催の晩餐会では、皇后雅子さまの頭上で輝く皇后の「第二ティアラ」に注目が集まった。そして英国王室のカミラ王妃も、巨大なルビーが輝くティアラでおふたりを迎えた。きらびやかで、見る人の目をくぎづけにする宝飾品には、英王室側の思いが込められていたと、英王室に詳しい多賀幹子さんは振り返る。    晩餐会に臨んだ皇后雅子さまの顔の上で輝いていたのは、歴代の皇后に受け継がれてきた、菊をモチーフにした皇后の「第二ティアラ」だった。  上皇后美智子さまが上皇さまとご結婚された際に香淳皇后が着けていた宝冠であり、平成の時代の1998年に美智子さまも英国とデンマークを訪問された際の晩餐会で、菊の細工が美しいこのティアラを披露している。  そして、英国王室のカミラ王妃が着用していた宝冠も、目を見張るものだった。  英国王室に詳しいジャーナリストの多賀幹子さんによると、それは96個のルビーと豪華なダイヤモンドがあしらわれた、「バーミーズ・ルビー・ティアラ」だった。  故・エリザベス女王を継いたチャールズ国王の戴冠式を経て、エリザベス女王の宝冠や宝物もカミラ王妃へと引き継がれた。  多賀さんによると、「バーミーズ・ルビー・ティアラ」はエリザベス女王が1970年代に制作させたティアラだ。  目が奪われるような「バーミーズ・ルビー」は、世界で最も美しいルビーの産出地として知られるミャンマー・モゴック産。結婚のお祝いにミャンマー(当時はビルマ)から贈られたものだ。そしてインドの王族から贈られた「ニザーム・ティアラ」から外したダイヤモンドを使い、宝冠が新たにつくられたのだという。 【こちらも話題】 闘病中のキャサリン妃に「英国民の深い愛情」 チャールズ国王「奇跡的な回復」の影にカミラ王妃 https://dot.asahi.com/articles/-/224102 カミラ王妃の額の上で輝くのは、エリザベス女王が結婚祝いでミャンマー(旧ビルマ)から贈られた96個のルビーとインドの王族から贈られたダイヤモンドで作られた「バーミーズ・ルビー・ティアラ」だ。ルビーとダイヤでチューダー・ローズの意匠が表現されている=2024年6月25日、バッキンガム宮殿    英国王室の紋章である、赤に白の花弁が重なる「チューダー・ローズ」の薔薇の意匠が、ルビーとダイヤモンドで表現されている。  英王室と英国民にとって、宝飾品への愛情は日本とは比較にならないほど深いと、多賀さんは指摘する。 「王室はもちろん、貴族もそれぞれ名称のついたティアラやネックレスなどの宝飾品を所有しており、誰が所有し、どのような歴史的な由来をもつものなのか、といった点が重要視されます」  そして英王室のメンバーがどの場面で、どのティアラやネックレス、ブローチといった宝飾品を身に着けるかが国民の関心事となっている。  カミラ王妃が今回の晩餐会で白いドレスとルビーの宝冠を選んだのは、日本の国旗をイメージしたもので、招待国への敬意だろうと見られているという。   最高峰のピンクダイヤは雅子さまへの敬意  晩餐会に先立つ歓迎式典でも、天皇陛下と雅子さまへの敬意と歓迎の姿勢がうかがえた。  式典では、君が代と童謡の「さくらさくら」が演奏され、チャールズ国王は天皇陛下と、カミラ王妃は雅子さまと同じ馬車に乗り込み、バッキンガム宮殿へ出発した。  大通り「ザ・マル」をパレードする馬車で、チャールズ国王と天皇陛下が顔を寄せて親しく話をする様子は、心温まる光景だった。  カミラ王妃はこの歓迎行事でも、特別な宝飾品を身に着けていた。  エリザベス女王は膨大な数のブローチをコレクションしていたが、カミラ王妃もさまざまなブローチを身に着けて、メッセージを伝えることで知られている。 「この歓迎式典でカミラ王妃が身に着けたのが、世界的に有名なウィリアムソンのピンク・ダイヤモンドのブローチです」  と、多賀さんは話す。 【こちらも話題】 天皇陛下の英国晩餐会「席札」アップ、愛子さまのタケノコ堀り…宮内庁“攻め”のインスタの評判 https://dot.asahi.com/articles/-/226629 歓迎式典を終えて馬車に乗る皇后雅子さまとカミラ王妃。カミラ王妃の胸には、エリザベス女王のコレクションであった23カラットの「ピンク・ダイヤモンド」のブローチ=2024年6月25日、ロンドン   「ウィリアムソン・ダイヤモンド・ブローチ」も、カミラ王妃がエリザベス女王から受け継いだコレクションのひとつだ。  中央には、1940年代にエリザベス女王の結婚祝いとして贈られた23カラットのピンク・ダイヤモンドがあしらわれている。原石は54カラットで、タンザニアのウィリアムソン鉱山から産出された、世界的に有名なピンク・ダイヤモンドだ。  黄水仙がモチーフと言われる5枚の花弁、そして茎と葉には、ホワイト・ダイヤモンドがちりばめられている。エリザベス女王は、この豪奢なブローチを重要な公務や特別な日に身に着けることで知られていた。 歓迎式典で両陛下を出迎える英国王夫妻。カミラ王妃の胸には、エリザベス女王のコレクションであった23カラットの「ピンク・ダイヤモンド」のブローチ=2024年6月25日、ロンドン   「チャールズ国王の胸のポケットチーフは淡いピンク色でしたから、ピンク・ダイヤモンドと合わせたのでしょう。歓迎式典で演奏された曲目も『さくらさくら』でしたから、ピンク・ダイヤモンドを桜に見立て、雅子さまへの親愛の証とみることができるでしょう」(多賀さん)  きらびやかな宝飾品は、多くの人の目を惹きつけるとともに、身に着ける人が込めた思いやメッセージも届けてくれるようだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子) 【こちらも話題】 英国王の晩餐会 笑顔の皇后雅子さまの頭上で輝く花とダイヤの宝冠は「初めて」の「第二ティアラ」 https://dot.asahi.com/articles/-/226295
【2024年6月に読まれた記事②】『虎に翼』好演のミステリアス女優「平岩紙」 夫は有名ミュージシャンで一児の母も謎多き私生活
【2024年6月に読まれた記事②】『虎に翼』好演のミステリアス女優「平岩紙」 夫は有名ミュージシャンで一児の母も謎多き私生活 「虎に翼」での演技が話題を呼んでいる平岩紙    暮れゆく2024年を、AERA dot.の記事で振り返ります。6月は「『虎に翼』好演のミステリアス女優『平岩紙』 夫は有名ミュージシャンで一児の母も謎多き私生活」の記事が特に読まれました(※年齢、肩書等は当時のものです)。 *  *  *  連続テレビ小説「虎に翼」(NHK)で、ヒロイン佐田寅子(伊藤沙莉)の大学時代のクラスメート・大庭梅子役を演じる平岩紙(44)。弁護士の夫と3人の子どもを持つ一番年上の同級生という役どころで、落ち着いた物腰ながら、おちゃめな面もある梅子を平岩は存在感たっぷりに演じている。舞台が戦後に移り、物語からはフェードアウトしているが(6月17日時点)、先日の新キャスト発表で、梅子のしゅうとめ役として鷲尾真知子の登場が明かされると、「梅子さん再登場あるんだ!」とSNSではファンが色めき立った。   「学校におにぎりを毎日のように作ってきてくれるなど、みんなのお姉さん的存在だった梅子さんは結婚後、すぐに長男を出産したものの、夫同様に傲慢(ごうまん)な人間に育ってしまい悔いていることを第18話(4月24日放送)で明かしました。『夫と離婚するために、私は法を学んでいる』と話し、次男・三男の親権がほしいと寅子に打ち明けると、涙した視聴者も多く、SNSでも『たった15分でボロ泣きした』など感動の声が多く上がっていました。同時に『平岩紙氏に母心を語らせると説得力がハンパない』と平岩さんの演技力をほめたたえるコメントも多かったですね。司法試験当日に夫から離婚届を突き付けられ、結局試験を受けることができずに彼女の話は終わったんですが、その後どうなったのか、どんな形で再登場するのか、視聴者の間では推理合戦が始まっています」(テレビ情報誌の編集者) きめ細かな肌の白さは女性誌でも取り上げられるほど   芸名「紙」の由来は肌の白さ  朝ドラで注目を集める平岩だが、同じく4月にスタートした山下智久主演のドラマ「ブルーモーメント」(フジテレビ系)でも主要キャストのひとりで山下の上司役を演じている。第7話(6月5日放送)では、土砂崩れから晴原(山下)を救おうとして身代わりとなり、翌週に彼女が亡くなったことが明かされると、SNSでは視聴者から悲しみの声が多く上がった。 「平岩さんといえば、物語の脇を固める名バイプレーヤーとして数々の作品で存在感を発揮しています。俳優になろうと思ったのは、三者面談を翌日に控えた高校3年生のときだったそう。ふと役者をやってみようかなと思い、母親に相談したところと背中を押してくれたそうです。高校卒業後は俳優を養成する専門学校へ。そこでは、周りの目を気にせずどんな役でもできるようになるため、恥をさらすという授業が多かったそうですが、それを結構楽しめたと取材で話していました。もともとは極度の恥ずかしがり屋で人前に出るのが苦手だったといい、『卒業して間を空けたら二度と芝居なんてできないと思い、恥ずかしさに慣れているうちに俳優の仕事を始めようと考えました』と意外な事実をインタビューで明かしていたこともあります」(同)  その後、劇団「大人計画」のオーディションを受けることになった平岩。なんと、遊園地の景品でもらったヒョウのかぶりものとサングラス姿で、ホルンを吹いたというから驚きだ。これはウケ狙いではなく、自分を覆って目を隠せば審査員の視線を意識しなくて済み、緊張感が多少緩和されると思ってのことだったという(「マイナビ転職」2020年3月20日配信)。結果、見事合格したのだが、のちに劇団主宰の松尾スズキ氏は彼女の採用理由について「ちゃんと恥ずかしさを持っていたから」と話したという。 「実は平岩さんの『紙』という名前の名づけ親も松尾スズキさんです。平岩さんの肌が紙のように白かったことに由来しているそうです。平岩さんは数々のドラマや映画、舞台に出演してきましたが、お茶の間の認知度が上がったのは12年から出演したファブリーズのCMではないでしょうか。夫役の松岡修造さんと3人の息子たちとのコミカルなやりとりで妻&母親役を好演していました。ドラマ出演作品は『木更津キャッツアイ』『とと姉ちゃん』『これは経費で落ちません!』など、正直何をあげればよいかわからないほど、多くの作品で印象的な役柄を演じています。業界内では、彼女の出演する作品は“当たり”が多いともいわれています」(民放ドラマ制作スタッフ) ミステリアスな雰囲気が魅力の平岩紙   40代になってからは「鏡を見ない」  一方、プライベートでは2020年にロックバンド・フジファブリックの山内総一郎と結婚。出会いのきっかけは松尾スズキが作・演出を手掛けた番組『松尾スズキアワー「恋は、アナタのおそば」』(NHK・2016年)だったという。平岩は「純粋なものと共鳴できる綺麗な方だと思っております」と山内についてコメントし、一方の山内は「世代や生まれ育った場所も近く、同じ表現者としてとても尊敬しています」とそれぞれコメントしていた。また、出産時期や性別については発表していないが、2023年6月3日、第1子出産が報じられており、平岩は1児の母でもある。  現在、44歳の平岩だが、彼女の芸名の由来となった透き通るような美肌は女性誌でも注目されている。「美的GRAND」(2024春号)のインタビューによれば、プライベートでは眉を描く程度で、ほぼノーメイク。日焼け止めもほとんど使ってこなかったほど、美容には無頓着というから驚きだ。「肌を気にしすぎないことが私にはいいのかもしれないと気づきまして、40代になると、鏡を見る時間がグッと減りました(笑)」と同誌で本音を明かしていた。ただ、舞台でバックヌードになることもあるため、体を引き締めようと始めたキックボクシングは8年も続けているという。   【こちらも話題】 朝ドラ「虎に翼」好調のヒミツは寅子の「はて?」 キャッチ―すぎる決めゼリフの威力とは https://dot.asahi.com/articles/-/219392   秘めた意志を感じさせる  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は平岩の魅力についてこう分析する。 「確かな演技力に支えられた存在感があり、おとなしい雰囲気の中に潜む芯の強さ、秘めた意志の輝きを感じさせる演技には目を見はります。『大人計画』出身なので芝居の基礎はもちろん、表現力も折り紙付き。個人的には清原果耶主演のドラマ『透明なゆりかご』で演じた、糖尿病を患い両目の視力を失いながらも妊娠を継続する妊婦の役が印象に残っています。また、『恋はつづくよどこまでも』『心の傷を癒すということ』など医療ドラマへの出演が目立つことから、主張しすぎないその透明感が医療の現場に似合うのかもしれません。プライベートが謎めいているところもイマジネーションをかき立てられ、興味をひかれます。年齢も含め、良い時間の重ねかたをしていると思うので、このまま俳優として息の長い活躍を続けてほしいですね」  唯一無二の存在感を放ち、人々を魅了している平岩。梅子さんの再登場とともに、平岩の今後の出演作品にも注目したい。 (高梨歩)   【こちらも話題】 「全裸監督」だけじゃない! 朝ドラ「虎に翼」で話題の憑依型女優「森田望智」とは何者なのか? https://dot.asahi.com/articles/-/221301  
悠仁さま筑波大合格 どうなる?多忙な理系生活と「帝王学」のリミット 「通学の3時間でレポートくらい書ける」と“先輩”の声
悠仁さま筑波大合格 どうなる?多忙な理系生活と「帝王学」のリミット 「通学の3時間でレポートくらい書ける」と“先輩”の声 筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格した秋篠宮家の長男、悠仁さま。4月からは、筑波キャンパスで大学生活がスタートする=2024年7月、秋篠宮邸、宮内庁提供    秋篠宮家の長男、悠仁さまが、茨城県の筑波大学に推薦入試で合格した。来年4月からは、つくば市まで東京から車で通学すると見られている。都内から筑波キャンパスまでは車でおよそ往復3時間の道のり。講義やフィールドワークにレポート提出に追われる多忙な理系の学生生活のなかで、皇位継承順位2位である悠仁さまが「帝王学」を学ぶ時間はあるのだろうか。「両立」には工夫とそして周囲のサポートが何より大切だと、悠仁さまの“先輩”は指摘する。 *   *   *  天皇、皇后両陛下の長女の愛子さまや、秋篠宮家の次女の佳子さまなど、若い成年皇族方が、公務や皇室行事に本格的に参加するのは、大学や留学を終えた後になるのが慣例だ。特に近年は、学生の間は本分である「学業」が優先する傾向がある。  この9月に18歳の成年を迎えた悠仁さまについても、成年皇族として宮中行事に参列するのは、来春に高校を卒業し、成年式が行われた後になる見通しだ。  そして4月以降の悠仁さまは大学生活がスタートすることから、当面は「学業優先」となり、若い世代では愛子さまと佳子さまも「おふたり公務」で両陛下を支える形になりそうだ。   悠仁さまも陛下から学ぶ機会を  悠仁さまは、お住まいのある赤坂御用地から大学に通われる方向で検討されているが、東京から車で往復3時間はかかるとみられる。加えて理系の学生は、講義のほかに実習やレポートなどの課題で忙しいと言われる。  そうしたなか、皇室制度史や儀式に詳しい京都産業大の所功・名誉教授は、皇位継承順位2位である悠仁さまには、やがて象徴天皇となるふさわしい心得を身に着けることこそ大切だと指摘する。 「いまの陛下は、祖父の昭和天皇と父親の皇太子(上皇さま)のあとを継ぐためにその背中を見て成長されました」(所さん)  歴史の研究を志し、学習院大から大学院を経て英オックスフォード大へ2年間留学。25歳で帰国したのち、「帝王学」の学びにいそしんだ。   12歳の誕生日を前に、宇野哲人・東大名誉教授から論語を学ぶ浩宮さま(現・天皇陛下)=1972年2月、東宮御所    この点、悠仁さまは18歳の成年を迎えたばかりで、まだまだ時間的な猶予はありそうだが、所さんはこれからの悠仁さまは大学で「研究者」としての学びを積み上げるだけでなく、秋篠宮さまの次の皇位継承者としての修学がいまから必要だと話す。 「秋篠宮さまは、継承者としての教育を兄上ほどには受けてこられなかったかもしれません。そうであれば、秋篠宮さまと悠仁さまは、天皇陛下のなさりようについて学ぶ機会を、可能な限り多く持たれることが望ましいと思われます」(所さん)   5年生で庭から縄文土器を発見  というのも、天皇陛下は幼いころから天皇となるべく「帝王学」の主要な教養を学んできた。初等科に入ると漢学の権威で「浩宮徳仁」の命名にも携わった、宇野哲人・東京大名誉教授に『論語』を学んできた。  また、世界史を三上次男・東大名誉教授に学んだ。奈良や京都の史跡文化財を訪ねるうちに、御所の庭にも土器が埋まっているのではと、あちこちシャベルで掘り返した。縄文土器のかけらを発見したのは、初等科5年生のときだった。  12歳の誕生日に公表された写真では、宇野哲人から論語を、15歳の誕生日写真では王朝和歌の研究者である橋本不美男・宮内庁図書調査官から徒然草の写本の講義を受ける姿が収められている。   14歳の誕生日を前にした秋篠宮(当時の礼宮)さま。御所の室内で宇田川竜男・麻布獣医科大教授からニワトリの講義を受け、庭では飼育しているニワトリを教授と一緒に観察している=1979年、東宮御所  もっとも秋篠宮さまが陛下と一緒に講義を受ける機会もあった。13歳の誕生日に公表された写真には、兄の浩宮さまと妹の黒田清子さん(当時、紀宮さま)と一緒に、村川堅太郎・東大名誉教授から西洋史を聞く礼宮さまの姿がある。  ただし、秋篠宮さまの14歳の誕生日写真には、宇田川竜男・麻布獣医科大教授からニワトリについて講義を受けたり観察をする姿があり、陛下よりはご自身の興味に沿った学びを積まれていた印象だ。  比較文化史の研究者である東京大の故・芳賀徹名誉教授は、陛下が中等科にいた時期に初めて対面。東宮時代の上皇ご夫妻にフランス語を教えていた東大の故・前田陽一教授が「私のような年寄りばかりではなく、若い研究者と話をしていただくのもいいでしょう」と、芳賀さんを含む門下生5人を引き連れて、当時の赤坂の東宮御所を訪ねたことがきっかけだったという。  芳賀さんは生前、筆者のインタビューに、東大・駒場キャンパスの何人かの教授に声をかけ、東宮御所で「臨時家庭教師」の役を担ったとして、こんな話をしてくれた。 「民族学者の大林太良氏、科学史の伊東俊太郎さん、万葉学者である五味智英先生ら、今思えばそうそうたるメンバーです」   17歳の誕生日を前に、五味智英・東大名誉教授から万葉集の講義を聴く浩宮さま(現・天皇陛下)=1977年、東宮御所   「浩宮さまの日本語はわかりやすく美しい」  天皇陛下(当時は浩宮さま)の学びの時間は、ご一家が夕食を終えたあと。両隣に上皇さま(当時は昭仁皇太子)と美智子さまが座って1時間ほど講義をし、芳賀さんが合いの手を入れながらお茶やお酒とおつまみでたっぷり歓談した。お三方は終始よく発言なさっていたという。  教授陣による「家庭教師」は、大学時代も続いた。  あるとき上皇さまから「皆さんの前で発表をしてみなさい」と勧められた陛下は、芳賀さんら学者が並ぶ前で、1時間ほど卒業論文について説明した。芳賀さんらは、大学の学生と同じように、さまざまな質問を重ねた。 陛下の表現が足りないときは、上皇さまが「こうだったのではないか」「その点はどうだった?」と助け舟を出すこともあった。 「浩宮さまは、小難しい用語は使わず、わかりやすく、いつも正確で美しい日本語を話された」という。   沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園の「平和の礎」を訪れた秋篠宮ご夫妻と悠仁さま。石碑には、沖縄戦などで犠牲になった24万人の名前が刻まれている=2013年12月、沖縄県 7歳で平和の礎を訪れた悠仁さま  一方、悠仁さまも幼いころから、皇位継承者としての学びを続けている。秋篠宮ご夫妻とともに日本各地に足を運び、土地の文化に触れ、人びとと交流を重ねてきた。  2013年には、秋篠宮ご夫妻は7歳の悠仁さまを連れて沖縄本島南部の糸満市摩文仁にある「平和の礎」を訪れた。ご夫妻は、24万人の名前が刻まれた石碑を見ながら、紺のスーツとネクタイを着用した悠仁さまに、犠牲者について説明されている。  夏には、学童疎開船・対馬丸の犠牲者を慰霊するつどいや沖縄戦を考える行事に参加し、小笠原諸島では戦争の塹壕や軍道など史跡を巡った。広島県で被爆者の体験を聞いたこともあった。  18年の夏には、戦史研究家の故・半藤一利氏が秋篠宮邸で悠仁さまに戦争について話をしている。悠仁さまは「どうして日本に原爆が落ちたのか」「なぜ戦争になったのか」などと質問し、秋篠宮さまは「統帥権」についても質問した。親子で一緒に勉強している様子がうかがえたという。   もうすぐ9歳になる悠仁さま。大きな虫捕り網を手に元気に走り回り、昆虫を捕まえる=2015年8月、赤坂御用地、宮内庁提供   「3時間あればレポートは書けます」と“先輩”  ところで、筑波大での理系の学生生活は、どれほど忙しいのだろうか。 「通学に往復3時間という学生は、そう珍しくもありません。また、車で通学ならば、その間にレポートくらい書けますよ」  そう話すのは、広島大学大学院の長沼毅教授だ。筑波大学の第二学群生物学類(現・生命環境学群生物学類)を卒業しており、悠仁さまの「先輩」ということになる。    一般的に「理系の学生は忙しい」と言われる。その意味は「講義で拘束される時間が長い」ことと「レポートの課題が多い」という表現に置き換えられる、長沼さんは話す。 「たしかに、一部の実験系の授業では日常的に拘束されますが、選ぶ授業によってかなり差があり、すべてが拘束される内容とは限りません。いまの子は、隙間時間を使うのも上手ですから、通学やちょっとした空き時間にレポートの課題をこなす学生もいます」    長沼さんは悠仁さまの「先輩」として、また学生を指導する立場として、世間の大人やメディアは「難しい」「無理だ」などと批判ばかりせず、“18歳の若者”をもっと応援すべきだと指摘する。 「悠仁さまを『自分の意志で特別な人(皇位継承者)になったのではない、ひとりの若者』と見た場合、この若者にやりたいことがあるのなら、大人たちは全力でサポートすべきです。つまり、『できる』か『できない』か、ではない。悠仁さまが理系の学生生活を『やる』か『やらない』かですし、周囲の大人がひとりの若者をサポートするかしないか。それだけです」  皇位継承順位2位という立場にある皇族として、来年春からスタートする悠仁さまの学生生活は、どのようなものになるのだろうか。 (AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 悠仁さま 来春から通う筑波大学は「エリートコース」で大正解? 英マンチェスター大学留学という道も https://dot.asahi.com/articles/-/243637  
将来が心配で10個の保険に加入、毎月9万円の保険料は多すぎ!? 子育て中の自営業夫婦の悩みにFPがアドバイス!
将来が心配で10個の保険に加入、毎月9万円の保険料は多すぎ!? 子育て中の自営業夫婦の悩みにFPがアドバイス! イラスト:香川尚子  ファイナンシャルプランナーの関口博美さんが、子育て世代の「消費・浪費・投資」を見直して、お金の使い道をアドバイス! 読者のお金に関する悩みに答えてくれました。子育て情報誌「AERA with Kids」(朝日新聞出版)からお届けします。 【お悩み】 自営業のわが家。老後の備えは手厚くしているものの、毎月の家計は赤字です。 DATA  Kさん一家の場合 千葉県在住 夫、妻、長男(5歳)、長女(1歳) 世帯年収(手取り)/約700万円 ボーナス /なし 貯金/2900万円(約6割は資産運用、すぐに使える貯金は280万円ほど) <毎月の収支> 月収(手取り)/40万円(夫32万円 妻8万円) 住宅費/4万円 保険料/9万円 食費/8万円 支出合計/41万7000円 高齢で幼い子どもが2人、 保険がメインの資産運用  今春から小学生になる長男とまだ1歳の長女と千葉県に暮らすKさん。夫は今年50歳、妻が42歳。晩産だったというKさんの家計のお悩みとはどんなことでしょう。 Kさん「夫婦ともに正社員をやめて、夫は自営業のWEBデザイナーをしています。私は夫の専従者として3年ほど働いています」 関口さん「自営業ということですが、収入は毎月安定していますね」 Kさん「12月まで私の副業収入が月8万円ほどあったのですが、契約が終わってしまいました。上の子が小学生になるので給食費が必要となりますし、下の子も習い事を始めたい。今より子ども費が増えるので、私がパートなどに出たほうがいいのかなと思っています」 関口さん「そうですね。家計を見ると、現在、月々の収支が赤字です。Kさんはご実家の二世帯住宅にお住まいということで、住宅ローンもなく家賃4万円と抑えられています。また食費や日用品などもそんなに無駄遣いはしていないように思います。気になるのは月9万円の保険料です」 Kさん「老後の資金と思い、貯蓄型の保険にいろいろと加入しているんですが……」 診断1 会社員時代の貯金を切り崩し月の赤字を補てんしています。  2900万円の貯金の約6割は資産運用にまわしています。すぐに使える貯金は280万円ほど。老後は普通に生活できそうですが、教育費などが足りるのか心配。毎月の赤字分は会社員時代にためたお金で補てんしています。児童手当が入れば現金が勝手に増えるだろうとお気楽モードでしたが、それでも赤字は解消されそうもないですよね……。 家計のお金には三つのステップがある  お金には三つの段階(①使う、②ためる、③ふやす)があります。Kさんの家計の場合、①毎月の生活費・イレギュラー出費など「使う」(生活費の1.5カ月分が目安)、②万一の生活防衛費、教育費、住宅の頭金など使う予定のあるお金「ためる」(生活費の6カ月分ぐらいが目安)の部分が280万円なので足りません。月42万円の支出なので、最低でも315万円ぐらい(生活費の7.5カ月分)はためてほしいです。これも会社員の場合で、自営業の場合は約420万円(1年分)、不安ならば840万円(2年分)ほど手元にあるほうが安心です。パートなども考えているそうなので、時間的に可能であれば、それもお金を増やすひとつの手だと思います。   診断2 月々の保険料が9万円。赤字の原因はここ⁉  自営業なので、将来何かあったときにカバーできるのは、保険かなと夫婦で話し合って、いろいろと選択しました。現在10個の死亡保障と医療保障の保険に加入しています。主に貯蓄型保険で、がん保険や収入保障型のものには入っておらず、いざというときは貯蓄からまかなう予定です。ただ、月9万円の保険料をこのまま頑張って続けたほうがいいのか、見直すべきか悩んでいます。 5年スパンで見直しを 「備える」という考え方はすごくいいのですが、月の保険料の負担がすごく大きいなと思います。「保険」は、やはり「保障」と見るもの。貯蓄型の保険では貯蓄する部分もありますが、必ず「保障」がついていて、その部分は貯蓄に充てられません。また手数料も取られるので、貯蓄の効率が少し悪くなります。一度必要な保障はどれか、FPのところで見直しをすることで、保険料のスリム化ができるはずです。生活スタイルが変わる時期が見直しのタイミングです。 【Answer】 将来を守りすぎて、今を危険にさらしています  Kさん一家は、お金を先送りしすぎです。老後のお金は備えているものの、今自由に使える現金がなく、お金をためる順番が違っています。自営業である以上、「今」も備えないと、社会保障は会社員よりも手薄なので、心配です。必要な保障だけを備え、それ以外のお金を貯金に回したり、投資で備えるのがいいと思います。ただ、解約を考える場合、損失と今後それがカバーできるかなど細かく見なければなりません。一度、中立な立場で見てくれるFPにご相談されると良いと思います。多分、ここが変わると、かなり良い状況に変わるはずです。 診断を終えて 守りの運用の見直しをしたいです。 Kさん 完全に守りの運用だとぼんやり思っていたのですが、その部分の選択肢に何があるかわからず、ずっともやもやしていました。わが家にあった保障の種類や、現在加入中の保険を解約する場合にどうやったら損をしないかなど、保険の見直しについて動き出そうと思いました。いざというときの教育費のためにも、現金収入を増やすことを意識しないとダメですね。 (取材・文/編集部) 関口博美さん 〇関口博美(せきぐち・ひろみ)/公的・私的年金制度、教育費などを得意とする。株式会社マイエフピー代表の横山光昭さんの妻で、社会人を筆頭に5女1男の母。
年末年始の「帰省」は当然? 「正月から疲れる」と悲鳴、「セパレート帰省」に女性から歓迎の声【読者アンケート結果発表】
年末年始の「帰省」は当然? 「正月から疲れる」と悲鳴、「セパレート帰省」に女性から歓迎の声【読者アンケート結果発表】      年末年始は、ふるさとへの帰省シーズン。家族を連れて新幹線や車で大移動する方も多い一方で、「正月は自宅でゆっくり過ごしたい」といった声も聞かれます。AERA dot.編集部がアンケートをしたところ、家族が顔を合わせる機会を楽しみにしている一方、迎える側は「家事が大変」、帰省する側も「交通費や時間がかかる」といった声が一定数ありました。  みなさんはこの年末年始、どうされますか? *   *   *  年末年始の「帰省」に関するアンケートは、12月11日から18日にかけて実施。315人から回答をいただきました。ご協力いただいた皆様、ありがとうございました。      帰省に対する思いについて複数回答で聞いたところ、家族を迎える側は「家族の顔を見ることができてうれしい」が64%と最も多く、帰省する側も「家族の顔を見たい」(48.4%)が最多。続いて「家族の顔を見せたい」(32.5%)と、久しぶりに家族が再会できる帰省を楽しみにしている様子がうかがえました。  また、「年末年始に帰省するのは当然」と回答したのは、迎える側も帰省する側も、それぞれ2割前後でした。  そして、帰省をめぐっての「もやもや」も、浮かび上がる結果になりました。   帰省する家族を迎える側は  帰省する側の声として、28.6%が「帰省するのに交通費や時間がかかって大変」を選択。続いて多かったのが「義理の実家より、自分の実家のほうがいい」(26.2%)でした。なお、「年末年始を避けて帰省している」が11.9%でした。    帰省してくる家族を迎える側はどうでしょうか。 「家族の顔を見ることができてうれしい」が64%と圧倒的でしたが、「宿泊や食事などの家事が大変」が32.6%。「断る理由はないが、本当はゆっくりしたい」も26.2%ありました。  帰省してくる家族を、両手を挙げて歓迎する、という方ばかりではなさそうです。        また、迎える側の「義理の息子、娘と会うのが負担」は9.9%しかありませんでしたが、一方の帰省する側では「義理の実家より、自分の実家のほうが快適だ」が26.2%。双方での意識の違いは大きそうです。    なお、帰省と感染症についての意識は、双方に大きな違いは見られませんでした。  迎える側の「感染症などの心配があるので、帰ってきてほしくない」は3.5%、帰省する側の「感染症などの心配があるので、帰省したくない」は5.6%にとどまっており、新型コロナなどに対する不安感が収まっている様子がうかがえます。   「セパレート帰省」についてどう思う?  帰省した先で気疲れしたり、義理の家族とのやり取りで嫌な思いをしたりするのを避けたいと、夫は夫の実家に、妻は妻の実家にしか帰らないという「セパレート帰省」についても聞きました。  アンケートに寄せられた声を紹介します(誤字脱字を一部修正したり、読みやすいように適宜句読点を加えたりしています)。    まず、帰省先の実家であまりいい思い出がなかったのか、特に女性からの「歓迎」の声が目立ちました。 「とても良いアイデアだと思います。結婚後15年間夫側の実家で年末年始過ごしてきた嫁です。それが無くなってから10年以上経つのに未だに当初の嫌な思いをリアルに思い出す時があります。もう私のような思いをする世代が無くなってほしい」(50代、女性) 「はっきりいって働いてる現役世代にとって、せっかくの休みにわざわざ義実家に帰るのなんて仕事以上に疲れる義務でしかない。既婚者も自分の実家だけに帰るのが当たり前になってほしい」(40代、女性) 「そもそも義実家には嫁、夫不要だと思う。子どもが小さいとお世話するのに必要だからついていかざるを得ないのでは。義両親は孫が可愛いと言いながら、下のお世話やお風呂に入れたりなどは一切しない。ただ、そうするとみんなで過ごすことができなくなるので、それは残念かなとは思います」(40代、女性)        帰省する家族を迎える側からも、負担を感じている様子がうかがえました。 「娘息子家族が帰省してくれることに対して気持ちはいつでも歓迎だが、高齢で病気もあり、思うようにもてなしが出来ない事が少し心理的な負担になっている。息子の妻さん、孫達だけで泊まりに来ても、セパレート帰省もそれぞれが良ければ歓迎です」(70代、女性) 「帰省する方はいいかもですが、迎える方は大きな負担です!」(70代、女性)   さまざまな帰省の形が  実際に家族全員では帰省しない形を選んでいる方も、少なくないようです。 「年末年始はもとより、お盆など帰省するときは、ずっと以前から私と子供、その後私だけ自分の実家に帰省しています。主人は自宅でのんびり出来るし、私も実家の家族も気兼ねなく過ごせています。」(60代、女性) 「うちは、子供だけ実家に遊びに行かせて、夫婦で自宅でのんびりしたりします。」(40代、女性) 「実家の両親が疲れるので、一斉に集まるのではなくそれぞれ時期をずらして欲しいと要望がありました。」(50代、女性)    年末年始に家族が一緒に過ごさないことに対して、「さびしい」という声はあり、そして「デメリット」を懸念する意見もありました。 「昭和生まれの私にとって、年末年始は家族みんなで父の実家に帰省することが一大イベントだったので、セパレート帰省は寂しい気もします。」(40代、女性) 「セパレート帰省は、お互い楽ではあるが親が高齢になるとそれぞれの状況がわかりにくいと感じました。」(40代、女性) 「そういうご家庭もあるでしょうが、私は家族揃って帰省してほしい。義理の息子や娘と親しくなる機会です。義理であるからこそ交流してお互いの理解を深めたい」(60代、女性)    ふだん会わない家族、親戚が集まる機会に、みんなでさまざまな意見を出し合ってみたらいかがでしょうか。 (AERA dot.編集部)   【こちらも読者アンケート企画の記事】 今年は「年賀状じまいをする」4割 ハガキの値上がりなど影響 LINEで代替できるけれど「届くとうれしい」【読者アンケート結果】 https://dot.asahi.com/articles/-/242962  
校庭の土俵と丘から観た夜景 姿は変えても「故郷」だ 双日・藤本昌義会長
校庭の土俵と丘から観た夜景 姿は変えても「故郷」だ 双日・藤本昌義会長 2024年4月、会長就任。海外出張は月1、2回、社長時代より増えた。得意の人脈づくりで親しくなった面々と、連携の機会を探り、社長へ引き継ぐためだ(写真/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。前回に引き続き双日・藤本昌義会長が登場し、「源流」である、幼少期に通った小学校、中学校、高校の計8校を訪れた。 *  *  * 「転」の字には、転ぶとか転がるといった負の意味に加えて、方向を変える、変化するという正の意味もあり、人生につながる重みを感じさせる。子どもにとって「転居」や「転校」となると、知らない土地で初めて会う面々という「未知の世界」との遭遇をもたらし、苦痛になる場合もあるが、予想を超えた楽しさも生む。  いまでは父が転勤しても、子どもの転校を避けて単身赴任とする例が圧倒的に多いが、かつては「家長」と呼ばれた父が異動で転居すれば、子どもたちも母とともに移り住み、通う学校を替えた。どちらが正しいかではなく、「転」が生んだ経験が力となることもある。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  11月下旬、藤本昌義さんが父の転勤に伴って通った小学校、中学校、高校の計8校のうち4校を、連載の企画で一緒に訪ねた。「未知」の世界へ溶け込んで、友だちら人脈を築いていく体験が、ビジネスパーソンとしての『源流』を生んだ地だ。 「勧功興学」──佐賀市立勧興小学校の校舎に入ると、中国の古典「五経」の一つ『礼記』にある校名を生んだ言葉が、掲げてある。江戸時代に鍋島藩が設けた藩校「弘道館」で『礼記』が教科書に使われていて、「勧興」の名が付いた。1年生の2学期から6年生の1学期まで、5年近くいた。八つ通った学校で最長の在校で、福岡市の小学校へ転校した1969年7月以来55年ぶりの再訪だ。 校庭の土俵と櫓理科室の骸骨の見本どれも楽しい思い出  校庭にあった土俵と櫓は、いまはない。幼いときの転校で、地元育ちの輪に入るのは、簡単ではなかった。でも、飛び込んで、ひとたび仲間になれば、あとは簡単だ。掃除当番で校舎の奥にあった理科室へいくと、骸骨の見本などが置いてあり、みんなで「お化けが出る」と怖がった。いまでは、楽しい思い出だ。「未知」の世界へ溶け込んでいく力がついて、『源流』の水源がたまり始めていた。  卒業式のときは、もういなかったから、卒業名簿に名前はない。大きくなって級友らと連絡を取りたくなっても、取れなかった。でも、社長になって福岡市で開いた株主への経営説明会で声をかけてくれた株主が、当時の同級生だった。以来、級友たちとの集まりが生まれる。 『源流Again』の日の朝、大分市の市立城東中学校も訪れた。こちらも73年3月に卒業して以来、半世紀ぶりに校門をくぐる。校舎は増改築されているが、風情は同じで、懐かしい。2年生で転校してくると、学年に12学級もあって、応急のプレハブの校舎で授業を受けた。  1958年1月に福岡市で生まれ、同市と佐賀市で三つの小学校と二つの中学校を巡って、見知らぬ地域と初めて会う子どもたちに溶け込むには、どう振る舞えばいいかが身についていた。学年の生徒が500人を超すなか、まず数カ月、誰がリーダー格か、みきわめた。やがてリーダー格と親しくなると、みんなに一目置かれる。ただ、妙に対抗しては、台無しだ。「対等」に付き合うことで、周囲もそうみてくれる。「未知」の世界への適応力が、さらに蓄えられ、『源流』が流れ始める。  父の勤務先の社宅があった丘の上から、製鉄所などがあるコンビナートがみえた。父も、そこで働いていた。夜はコンビナートの灯りが、独特の夜景を描いていたのを、覚えている。あの夜景は、勧興小学校の校庭にあった土俵とともに、自分にとって「故郷」の光景だ。 1学期だけの高校で女生徒のひと言「藤本君、残ってよ」  城東中学校を卒業し、ラグビー強豪校の県立大分舞鶴高校へ進む。大阪府東大阪市の花園ラグビー場である全国大会を目指していて、やりたかったが、怪我を心配する母の反対で激しい運動部は諦めていた。1学期だけで福岡県立修猷館高校への転校が決まると、級友たちが「残って寮に入れ」と引き留めた。  その一人が1年先に大学へ進み、就職のときに日商岩井(現・双日)へ誘ってくれた。転校では、女生徒にも「藤本君、残ってよ」のひと言をもらった。甘酸っぱい思い出だ。 何年か先に自由な時間が増えたら、九州の学校の旧友と集まっている国際版を、仲よくなった外国の人を招いてやりたい。妻も福岡出身で、九州でやるのを楽しみにしている(写真/狩野喜彦)    修猷館高校も江戸時代の藩校が前身で、校風は自由。再訪すると、個人を重んじて群れない日々が、浮かんでくる。その自由さを満喫し過ぎて、大学受験で浪人した。それでも教育熱心だった母の思いに応え、翌春に東大文科I類に合格。予備校を含めて東京に約5年いて、法学部で就職を控えて思った。 「東京にはもう住んだから、次は海外に住みたい」  81年4月に日商岩井へ入社。輸送機械部で、前回で触れたように米企業からトラック向けなど自動車部品の注文を受け、国内メーカーにつくってもらい、輸出する仕事をこなす。5年目の秋に米デトロイトへ赴任、今度は米企業から部品の注文を取り、図面を日本へ送る側を務めた。これまた見知らぬ土地で初めて会う人とのやり取りだったが、英語の注文やクレームを聴き取る苦労は、半年で終わる。  約6年で東京の本社へ戻り、自動車部、ポーランド駐在を経て再び本社へ戻ると、また別の未知の世界が待っていた。バブル崩壊後の不良債権処理に伴う資金繰りと事業の立て直し計画の作成だ。同じ総合商社のニチメンとの合併も動き出し、その準備作業にも引き込まれる。 理由は分からないが「干された」と覚悟でも居場所はあった  2008年12月からのベネズエラの自動車子会社の再建役も、本号掲載の前回で触れたので省くが、『源流』からの流れが課題も困難も押し流してくれた。ただ、帰国するとき、上司に「自動車部へ戻ってこなくていい」と突き放された。  理由は分からないが「干された」と、覚悟する。でも、自動車部を指揮する機械部門長が、空席だった米国の機械部門長にしてくれた。ニューヨークへ2年いて、カリフォルニア州で欧州の高級車の販売店を次々に買収し、販売網を構築する。いま双日の収益源の一つになって、居場所をつくってくれた先輩に少しは恩返しができた。  2017年6月に社長就任。人事部から社員たちの評価表を取り寄せると、7割もが「平均点」だ。リスクを取らず、「守り」に閉じ籠もりがちになった社内を、映していた。そこで評価制度を改め、新規事業への提案を促す投資資金枠3千億円を用意する。守りが得意な農耕民族よりも攻めに挑む狩猟民族こそ「商社らしさ」だとの思いは、ますます強まっていく。  どの「未知」の世界へいっても、溶け込み、楽しみ、また次の「未知」へ進む。会長になった後は、日々の議論と決断に多忙な社長に代わり、世界中の取引先を訪れている。もちろん、よく知った自動車分野の顔ぶれだけではない。『源流』からの流れは、進む先を選ばず、広がっている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年12月23日号  
中山美穂さんもう一度聞きたい「一曲」ランキング 80年代の「ノってる」アイドル・ミポリンの名曲が並んだ6~10位
中山美穂さんもう一度聞きたい「一曲」ランキング 80年代の「ノってる」アイドル・ミポリンの名曲が並んだ6~10位 記憶に残る多くの曲がある中山美穂さん    12月6日に亡くなった、歌手で俳優の中山美穂さん(享年54)。1985年のデビュー以降、数多くのヒット曲を発表してきました。そのなかで、もう一度聞きたいという「一曲」は何か、AERA dot.編集部はアンケートを実施。3千超の回答の中から6~10位にランクインしたのは、ドラマの主題歌を中心に80年代の曲ばかり。元気な時代を象徴するようなキャッチーなフレーズで、ファンの記憶に刻まれた名曲が並びました。 *   *   *  中山美穂さんは、1985年に放送されたドラマ「毎度おさわがせします」で彗星のように現れ、同年の初主演ドラマ「夏・体験物語」の主題歌『「C」』で歌手デビュー。その後も、多くのヒット曲を発表しました。  今回のアンケートは12月11~16日にインターネット上で実施し、3333人から回答がありました。   6位 WAKU WAKUさせて(1986年) WAKU WAKUさせて(1986年)/ファン私物 「WAKU WAKUさせて」は、フジテレビ系ドラマ『な・ま・い・き盛り』の主題歌。ドラマも好きだった声は当然多い。 「ドラマの『な・ま・い・き盛り』が好きで、いつも楽しく見ていて、その主題歌だったから」(50代、女性) 「ドラマでの美穂さんの役が私と同じ“かよこ”という名前の女の子だったので、ドキドキしながら観ていました。大好きな曲です」(50代、女性)    ノリのいい曲でみんながドハマりしていたのがわかるコメントも多い。 「朝一お出かけの前にこれを聞くと本当にWAKUWAKUみなぎって一日中元気になれるんです!!!!!」(50代、女性) 「大好きな曲で当時カセットテープ1本まるまるこの曲を録音して繰り返し聴いていました」(50代、男性) 「高校の遠足でディズニーランドに貸切バスで向かう車内、カラオケをしながらの移動で当時アイドルとして活躍されていた中山美穂さんのこの曲を歌った事がついこの前の事のように記憶が蘇ります」(50代、女性)    そして、いまもなお私たちをワクワクさせてくれていた。 「51歳にして初めてのコンサートはミポリンのコンサートでした。今年の4月。『WAKUWAKUさせて』のオリジナルの振り付けを教えてくれてみんなで踊りました。最高の想い出です」(50代、女性)     7位「派手!!!」(1987年) 「派手!!!」(1987年) 撮影/写真映像部・和仁貢介 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋   7位に入ったのは、本人主演のTBS系ドラマ『ママはアイドル』の主題歌。ドラマ『ママはアイドル』は妻に先立たれた3児の子持ち中学校教師が「アイドル・中山美穂」と再婚するラブコメディー。アイドル全盛期の中山美穂さんが、アイドルを演じる画期的なドラマだ。 「中山美穂本人がアイドル中山美穂を演じるという、今では考えられないような設定のドラマ『ママはアイドル!』の主題歌で、上り調子の彼女の勢いをそのまま表現したような曲だった。作詞・松本隆、作曲・筒美京平コンビによる最後の提供曲で、“中山美穂・第一次黄金期”の集大成のような曲でもあったと思う」(50代、男性) 「松本隆さんのミポリンへの最後のシングル曲であり、渾身の傑作です。この年のミポリンは伝説になるくらいすごい作品ばかりでした」(50代、男性) 「ミポリンのファンになって初めて聴いた曲です。小学生の頃、友達との間で「ママはアイドル」ごっこをやって、きまってミポリン役をしてました。この曲とセットで思い出します」(40代、女性)   「主演作+主題歌」のセットで思い出が多く語られる中山美穂さんは稀有の存在だ。   8位 CATCH ME(1987年) CATCH ME(1987年)/撮影/写真映像部・和仁貢介 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋 「CATCH ME」は中山美穂さん主演のフジテレビ系ドラマ『おヒマなら来てよネ!』の主題歌。シンガーソングライターの角松敏生氏をプロデューサーに迎えた初めての楽曲だ。「当時の洋楽以上のインパクトやノリ。イヤぁ踊りまくりました…」(60代、男性)という声があるように、テンションが上がるノリノリの1曲。  中山美穂さんが歌う角松敏生サウンドにみんな虜になった。 「美穂ちゃんが、これまでのキャッチーでポップなアイドル路線から、転換を迎えた歌だと思うからです。内面を引き出してくれた角松さんのプロデュースもあり、美穂さんの良さが詰め込まれています。ファッショナブルで、ダンサブルで、都会的で、大人びていて、あの頃のみんなの憧れが詰まった歌だと思います」(40代、女性) 「これまでのアイドルっぽい曲から、急にかっこいい感じの曲調に代わって印象に残っていたのをよく覚えています。当時、我が家にはビデオデッキがなくてこのドラマをリアルタイムでは見られなくてとても残念な思いをしていました。それから数年後、大学のサークルの後輩がこのドラマのビデオテープを持っていると聞いて狂喜したことをよく覚えています。そのビデオをダビングさせてもらったものは今でも保管していますが、今度そのビデオをDVDなどに焼いて見られるようにしたいと思います。今でも中山美穂さんがこの世にいなくなってしまったことを信じられません。正直まだご冥福をお祈りしますという定型句が言えない自分がいます」(50代、男性)     9位「C」(1985年) 「C」(1985年)/ファン私物  ここへきてデビュー曲「C」が登場! TBS系ドラマ『夏・体験物語』主題歌。もちろん中山美穂さん本人が主演で、このドラマが初だった。歌手として、「第27回日本レコード大賞」で最優秀新人賞を受賞。  デビューからファンだった人たちの声は熱く、40年前が瞬時に蘇るようだ。 「当時、ファンクラブにも入会してて、レコ大新人賞を獲った瞬間はテレビの前で飛び上がりました!!」(50代、男性) 「当時このデビュー曲がでた時にファンレターを送ったら多分、中山美穂さん本人の直筆だと思うハガキを送ってもらいました。今でもアルバムに貼って大切に持っています」(50代、男性) 「初めて女性を好きになって憧れてファンクラブ入会した。デビューの衝撃もあったけどすごい憧れ…永遠に憧れの女性です」(50代、女性)    2025年に迎えるはずだったデビュー40周年を待ちわびていた声ももちろん多い。 「もちろんデビュー曲。来年の40周年で美穂ちゃんの生声で聞く予定だった」(50代、女性) 「ドラマデビューの頃からのファンです。今年もライブに行き、元気な姿を見て自分も元気をもらいました。突然の訃報、悲しいの一言ではとても言い切れない気持ちですが、まずは、ありがとうを伝えたいです。もう一度聞きたい曲ですが、ありすぎて選べないので、デビュー曲のCにします。レコードデビューの時点で、ドラマですっかり美穂さんの虜になっていたので、Cも鮮烈に記憶に残っています。お別れの会、必ずいってお礼を伝えるつもりです」(50代、男性)   10位 ツイてるねノッてるね(1986年) ツイてるねノッてるね(1986年)/ファン私物  10位「ツイてるねノッてるね」は、今回のランキングで12位に入った「JINGI・愛してもらいます」からわずか1カ月でリリースとなり、化粧品会社「資生堂」の86年秋のキャンペーンソング。もちろんCMに中山美穂さんは出演し、まさにノッてる時代の1曲だ。 「アイドルと言われた頃を代表する、ノリが良く明るい曲。しっとりしたバラードで素敵な曲も多いけど、やっぱり美穂ちゃんの元気な笑顔で歌っている姿を見たいから」(40代、男性) 「子供の頃に聞いていた曲です。好きな曲は沢山あって選ぶのは難しいですが、振り付けや歌詞歌い方、当時の衣装も含めてとても好きな曲です」(40代、男性) 「この曲からダンサブルでパンチのある楽曲が続き、新しい美穂さんの魅力が開花したように感じ、テレビに釘付けでした」(50代、男性)    曲名通り、弾けるコメントが多く寄せられた。 「その当時、ものすごくPowerを感じた。Powerをもらった曲」(60代、男性) 「私はまだ立ったばかりの子供でしたが、この曲は子供ながらに踊り出したくなる楽しい、そして歌ってるお姉さんは子供が見ても美人!そう、私らの世代の憧れは美人な大人はみぽりんでした。誰よりも、みぽりんなんです」(30代、女性) 「良いことがあったり頑張りたい時にサビを口ずさみます!」(40代、女性)    記憶に残るキャッチ―な曲をいくつも残した中山美穂さん。ファンの声からは80年代を駆け抜けていたアイドルとしての軌跡が目に浮かぶようだ。     【こちらも話題】 中山美穂さんの「もう一度聞きたい」 “一曲”ランキング1位は? 「世界中の誰よりきっと」を上回る名曲【トップ5発表】 https://dot.asahi.com/articles/-/244373
愛子さま 23歳の誕生日写真にあった「思い出の品」 天皇陛下が「テレビで見ましたよ」と笑いかけた案内役
愛子さま 23歳の誕生日写真にあった「思い出の品」 天皇陛下が「テレビで見ましたよ」と笑いかけた案内役 愛子さまが23歳の誕生日を迎えるにあたり、宮内庁が写真を公開。机には、初めてのおひとりでの地方公務に臨んだ佐賀出身の偉人を紹介した『佐賀偉人伝』と、愛子さま自ら手すき体験をした2枚の名尾和紙が見える=2024年11月22日、皇居、宮内庁提供    天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまは、12月1日に23歳の誕生日を迎えられた。公開された写真のなかで、愛子さまと一緒に写っていたのは、佐賀県の重要無形文化財である名尾和紙と、佐賀城本丸歴史館が出版した『佐賀偉人伝』だった。愛子さまが初めておひとりで公務のために訪問した佐賀は、愛子さまにとって思い入れのある場所になり、佐賀と皇室との「縁」はさらに深いものになったようだ。 *   *   * 「佐賀とゆかりのある品はありませんか」  愛子さまの誕生日の写真撮影にあたり、宮内庁から相談を受けた県は佐賀の偉人たちを紹介し『佐賀偉人伝』を貸し出した。そして、愛子さまが手にとって眺めていた白い2枚の紙は、愛子さまがご自身で手すき体験された名尾和紙だという。  10月11日、佐賀県を訪れた愛子さまは、佐賀市で国民スポーツ大会「SAGA2024」の陸上競技を観戦したあと、佐賀城本丸御殿の一部を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館(佐賀市)を訪問。愛子さまは、ご自身が勤めている日本赤十字社を創設した佐賀県の偉人、佐野常民を題材にした寸劇をご覧になるなどした。  愛子さまの案内役を務めた、佐賀城本丸歴史館の七田忠昭さん(72)は、佐賀には愛子さまの「ファン」が多い、と笑顔で振り返る。 「愛子さまがお生まれになったときから、ご成長を楽しみにしてきたのです」   「マルチな方だったのですね」と愛子さま 「こちらが説明をすると、愛子さまは知識を確認するように質問を重ねてこられる。すべての知識を吸収されようとなさっている。そんな意気込みを感じました」  愛子さまのご様子を、七田さんはこう話す。 佐賀県立佐賀城本丸歴史館に到着した愛子さま。「鯱の門」の弾痕についても「どちらの弾ですか。政府軍ですか」と熱心に質問=2024年10月11日、佐賀市      佐賀市の中心部にある佐賀城公園に到着した愛子さま。城の本丸表門である「鯱(しゃち)の門」を通って、佐賀城本丸歴史館へと進んだ。  七田さんは愛子さまと歩きながら、明治期に政府に不満を募らせた江藤新平が率いた旧佐賀藩士による「佐賀戦争(佐賀の乱)」が起こり、この門にも激しい銃撃戦での弾痕が残っていることを同行した山口祥義知事とともに説明した。すると愛子さまから、すぐに質問があった。 「どちらの弾ですか。政府軍ですか」  政府軍とは、大久保利通が率いて士族の鎮圧にあたった軍隊のことだ。  また、佐賀城は、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂のもとで1611年に完成。1726年の火事で本丸、二の丸、三の丸が焼失している。そんな歴史を語る七田さんに、 「天守はその後、どうなりましたか」  と、愛子さまの質問は途切れることがなかったという。    そして、ここで披露された寸劇の題材が、佐賀県の偉人のひとり、佐野常民。  愛子さまが今春から勤務している日本赤十字社の創設者だが、蘭学者、医師であり、軍人としては軍艦の艦長まで務めたほか、日本がパリ万博やウィーン万博に参加した際の政府の責任者も担った人物だ。 「マルチな方だったのですね」  そんな感想を口にしながら、愛子さまは七田さんの説明に熱心に耳を傾けていた。  愛子さまをはじめ皇室の方々は、訪問した先々で、短時間で膨大な量の説明を受ける。それでも、愛子さまは、わからないところは何度も確認をされるなど、ご自身のなかで情報をきちんと整理されている様子だったという。   天皇陛下から、「テレビで見ましたよ」  七田さんにとって、皇室との接点は初めてではない。これまでに天皇ご夫妻、上皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、陛下の妹の黒田清子さんなど皇族方を、弥生時代の大規模な集落跡で知られる「吉野ケ里遺跡」に案内している。  東宮時代の天皇陛下と雅子さまは、1996年に吉野ケ里遺跡などを訪れているが、おふたりを案内したのが、発掘現場を担当していた七田さんだ。 吉野ケ里遺跡の説明を受ける東宮時代の天皇陛下と雅子さま=1996年7月、佐賀県    近くに筑後川などの河川や海があり、食料の確保や水運に適した条件がそろっていた吉野ケ里は、弥生時代の約700年をかけて、小さな「ムラ」が「クニ」の中心部になっていったと考えられている。 「皇太子でいらした陛下は、水と水運の歴史を長く研究されているだけあって、説明もすぐに理解されておられました」(七田さん)    そして再び七田さんが陛下と対面したのは2004年。遺跡のある国営吉野ケ里歴史公園で、「全国みどりの愛護のつどい」の式典が開かれた。  遺跡の発掘現場を訪れた陛下は、案内役の七田さんの姿を見ると、穏やかにほほ笑み、こう声をかけた。 「七田さん、テレビ見ましたよ。大変でしたね」  テレビとは、NHKの番組「プロジェクトX」のこと。番組は、高校教諭で考古学者だった七田さんの父・忠志さんと息子の七田さんが、吉野ケ里遺跡にかけてきた情熱を描いたもので、陛下はその回をご覧になったのだった。  思わぬ話題に慌てる七田さんを、陛下は笑顔で見つめていらっしゃったという。 御料牧場で静養中に、仲良くタケノコを収穫された天皇ご一家。和気あいあいとしたご家族の雰囲気が伝わる一枚=2024年5月、栃木県の御料牧場、宮内庁提供   天皇ご一家は、仲の良いご家庭  そして今回、佐賀城の歴史館を歩く愛子さまから、七田さんにこんな「伝言」があった。 「父から(七田さんのことを)伺っています。よろしくお伝えください、と」  陛下が覚えていてくださったことに驚いたと、七田さんは振り返る。 「仲の良いご家庭ですね。ご家族で佐賀のスケジュールをご覧になるなど、普段からいろいろとお話をされていらっしゃることが伝わってきました」    歴史館を出発する間際、愛子さまは七田さんに話しかけた。 「お身体を、お気をつけください」  相手を和ませる愛子さまの笑顔は、ご両親とそっくりでいらっしゃると思いながら、七田さんも笑顔を返したという。 (AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 愛子さま 佐賀で「緊張してお話をした」お相手は? 天皇陛下譲りのユーモアと知性あるほほ笑みは、まさにプリンセス!と絶賛 https://dot.asahi.com/articles/-/237149  
【2024年下半期ランキング ライフ・経済編1位】筋ジストロフィー、末期がん、ALS…パートナーが難病でも「結婚」に踏み切った3組の夫婦から考える“幸せのカタチ”
【2024年下半期ランキング ライフ・経済編1位】筋ジストロフィー、末期がん、ALS…パートナーが難病でも「結婚」に踏み切った3組の夫婦から考える“幸せのカタチ” 6月1日に行われた、誠樹さんと美智子さんの結婚式の様子(写真:誠樹さん提供)  2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。ライフ・経済編の1位は「筋ジストロフィー、末期がん、ALS…パートナーが難病でも「結婚」に踏み切った3組の夫婦から考える“幸せのカタチ”」(7月23日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *   *   *  日本人の生涯未婚率が増加の一途をたどるなか、「結婚に興味がない」「事実婚でよい」と、婚姻制度への疑問を持つ人たちは増えている。一方で、パートナーが難病を患っていたり余命宣告を受けたりと、大きな困難を前にしても、あえて籍を入れることを選ぶカップルもいる。病と向き合う3組の夫婦の姿から、結婚することの意義を考えてみる。  初めて出会った時は、互いが運命の人だなんて夢にも思わなかった。  電動車椅子サッカークラブ「横浜クラッカーズ」の監督を務める平野誠樹(もとき)さん(44)は約5年前、車椅子サッカーの体験会と講演を頼まれ、地域の看護学校を訪れた。  学生たちに質問はないかたずねた時、一人の女性が手を挙げた。「平野さんって休みの日は何をしてるんですか?」。車椅子サッカーのことでも、誠樹さんが3歳の時に発症した遺伝性の難病・筋ジストロフィーによる障害のことでもなく、自分という人間そのものに興味を持ってくれている。面白い人だなと思った。  2021年、誠樹さんは奇跡的にその女性と再会を果たす。看護学校を卒業し、訪問看護師となった彼女は、偶然にも誠樹さんの担当となったのだ。相変わらず、自分のことを障害者ではなく一人の人間としてまっすぐに見てくれる彼女に、恋をした。  今は妻となったその女性、美智子さん(40)は誠樹さんとの出会いを「いわゆる“ビビッと来た”というやつです(笑)」と振り返る。だが、誠樹さんが全身の筋肉が徐々に壊れていく進行性の病を患っていることは、不安材料にならなかったのだろうか。 「好きになった人がたまたま筋ジストロフィーだったというだけ。人は誰でもいつか死ぬわけで、看護師という仕事柄、突然亡くなる人もいっぱい見てきました。強がりに聞えるかもしれないけれど、『誠樹はいつ死んじゃうんだろう…』みたいなおびえはないです」 取材の日に二人が着ていたおそろいのTシャツは、入籍して1年の記念日となる5月1日に誠樹さんが用意したもの。「“うちの嫁”って言いたいんですよね。こんなに素敵な人と結婚できたんです、自慢の妻ですってアピールしたい」(誠樹さん)(撮影/大谷百合絵)  今年6月1日、二人は互いの家族や親友を招き、ささやかな結婚式を挙げた。籍を入れた理由について尋ねると、こう返ってきた。 「結婚って、自分がこの人のことをどれだけ好きか、大事にしているかを端的に周りに伝える手段だなと。それに、どっちかが死んだ後も残る、『この人と一緒に生きた証』がほしいという思いもありました」(美智子さん) 「いつでも別れられる気楽さは捨てて、身を挺(てい)してでもミチのことを守りたいっていう覚悟ができたんです。障害がある俺が『身を挺してでも』なんて、面白いでしょう? でも、ミチは強そうに見えてすごく繊細だから、精神面では自分が支えるポジションにいたい」(誠樹さん) ■  ■ 20代でステージ4の乳がんと宣告され…  平野夫妻が病気を障壁と思わずに結婚を決めた一方で、パートナーの病が結婚のきっかけとなった夫婦もいる。  愛知県在住の黒岩雅さん(28)は2年前、左胸のしこりに気づいて病院に行き、乳がんと診断された。腫瘍の大きさは8センチ、しかも肺やリンパ節に転移しているステージ4の末期がんだった。雅さんは不安に押しつぶされそうになりながら、付き合いはじめて約1年半の恋人・大誠さん(26)にLINEをした。  連絡を受けて、会社からタクシーで病院に駆けつけた大誠さんは、当時の心境をこう振り返る。 「『あと2、3年仕事を頑張ってお互い収入が安定したら結婚しようね』『子どもが産まれたらどんな名前にしようか』なんて二人で話していた明るい未来が、全部遠くなっていくような感覚でした。病院に着くと、妻は『もう治んないんだって』と……。こらえきれず、ロビーで抱き合って泣きました」  一方の雅さんは大誠さんを待つ間、病状のほかにも大きな不安にさいなまれていた。 雅さんと大誠さん(写真:雅さん提供) 「彼を私につなぎ留めておくことは本当に正しいんだろうかって何度も考えていました。でも彼の顔を見た時、どうしよう、私から別れを告げるなんてできない……という気持ちが大きくなってしまって」  だが、病院内の喫茶店で大誠さんに告げられたのは、『結婚してください』という予想外の言葉だった。大誠さんは、突如プロポーズに踏み切った理由をこう話す。 「結婚式でよく『病める時も健やかなる時も』って言いますけど、たまたま『病める時』が早く来ただけ。近くにいればいるほど、彼女のしんどい姿を見るのはつらいとは思いますが、彼女がつらい時にそばにいられないほうがつらいので」 自分が死ぬより「怖いこと」  互いの両親は「二人が決めたことなら」と結婚を祝福してくれた。大誠さんは父親から、「(雅さんの病気が分かって)逃げるような奴じゃなくてよかった」と背中を押してもらい、プロポーズの1週間後に籍を入れた。  雅さんは主治医から「5年間生きることを目標に頑張ろう」と言われており、3週間に一度の抗がん剤治療に励んでいる。投与後1週間は、何人もの人が覆いかぶさってくるようなだるさと吐き気で、ベッドとトイレを行き来するのがやっと、という激しい副作用に見舞われる。  そんな苦しい治療を続ける裏側には、“恐怖”があるという。 「自分が死ぬことが怖いというより、彼を一人置いていけないという気持ちが強くて。家族になったということは、最後まで添い遂げる責任が伴うと思っているので、いつか訪れるお別れは、なるべく遠くの未来であってほしいと願っています」  そんな雅さんの不安を、大誠さんは優しく受け止める。 「妻は寂しがり屋なので、もし僕が先に死んだら大変だと思うんです。妻にそんな悲しみを味わわせるよりは、僕が引き受けるほうがいいかなと」 雅さんと大誠さん(写真:雅さん提供)  非情な現実に立ち向かう二人だが、その姿に悲壮感はなく、むしろ新婚の喜びに満ちあふれている。 「妻の優しさに日々癒やされるし、妻と食べるごはんは、一人で食べるごはんよりもびっくりするくらいおいしい。この子がいるだけで人生バラ色なんです」と、雅さんの肩にそっと手を置く大誠さん。雅さんは、「私も幸せですね。家族になった責任感すらいとおしい」と、にっこりほほえみ返した。 ■  ■ 表情と眼球しか動かない“元妻”と再婚  最後に紹介する、妻の難病を機に再婚を果たした夫婦の姿からは、“男女の愛”という枠に収まりきらない結婚の奥深さが垣間見える。  YouTubeチャンネル「M’s channel」で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患うなつみさん(49)との日常を発信している翔さん(49)は、今年3月、LIVE配信でなつみさんとの結婚を報告した。  二人はもともと夫婦として暮らしていたが、なつみさんの実家とのトラブルが原因で5年ほど前に離婚。しかし3年前、なつみさんは、神経障害によって筋肉が徐々に機能しなくなるALSの診断を受けた。実家との折り合いが悪かったなつみさんは元夫の翔さんを頼り、翔さんも「俺がいなかったらなつみは一人になっちゃう」と心配し、今後の介護を引き受けることにした。  ALS患者の平均余命は、発症から3~5年と言われている。なつみさんの症状は、当初は足先の踏ん張りがきかずつまづきやすいといったものだったが、次第に車椅子が必要になり、寝たきりになり……と、筋肉の衰えは進んでいった。現在は表情と眼球しか動かせず、人工呼吸器をつけたことで声も出ない状態だ。体は動かなくても意識や思考ははっきりしているため、視線の動きで文字を入力できる「意思伝達装置」でコミュニケーションをとっている。 面会に来た翔さんにリップクリームを塗ってもらうなつみさん(写真:YouTubeチャンネル「M’s channel」の動画から) 「尽くしているとは思っていません」  そんななつみさんを、翔さんは今年2月まで自宅で介護してきた。だが翔さんは、「この3年間、介護に疲れたりつらくなったりしたことは1日たりともない」という。 「自分の中でなつみを病人扱いしてこなかったからかな。これまで通りくだらない話ばかりして、二人で笑って過ごしてきたんですよ。なつみは一緒にいるのが当たり前の存在。介護によって自分の時間が削られたことを、犠牲になっているとか尽くしているとは思っていません。彼女は時々『もういいんだよ』って言うんですけど、『その話はやめよう』と打ち切ります」  翔さんがなつみさんとの再婚を決めたきっかけは、なつみさんが人工呼吸器をつけるにあたり、主治医から施設介護への移行を勧められたことだった。たんの吸引など24時間態勢のケアが必要になることを踏まえた提案だったが、翔さんはこれまで通り在宅介護を続けるつもりだった。しかし、要介護者の介護方針を決める「キーパーソン」は原則、実の家族が担うため、「内縁の夫」である翔さんの訴えは、病院側になかなか聞き入れられなかった。 「なつみも自宅で過ごしたいと願っているのに、このままだと実家の家族の意見が採用されて、施設介護が決まってしまう……」。そう危惧した翔さんは、なつみさんと法的に“家族”となることで、二人の希望をかなえることにした。 「M’s channel」の動画には、婚姻届を手にした翔さんに「俺と結婚する?」と尋ねられ、眉をハの字にゆがめた泣き顔で「うん」とまばたきをするなつみさんの姿が映っている。 翔さんに婚姻届けを差し出され、泣き笑いの表情を浮かべるなつみさん(写真:YouTubeチャンネル「M’s channel」の動画から) 記者が病室で見た、なつみさんの今  最終的に二人は、たんがつまって窒息に陥るなど在宅介護のリスクを鑑みて、施設介護に切り替えることを決めた。だが翔さんは、籍を入れたことに意義を感じているという。 「世の中には、妻がALSになったことで逃げちゃう夫もいるらしくて、この状況で結婚することでなつみが安心できたならよかったなと。まあ俺としては、結婚前も後も、家族として最後まで責任を持つ覚悟は変わらないんですけどね」  記者は7月上旬、なつみさんに会うために病室を訪れた。そこには、約束の時間より40分遅刻してきた翔さんに「遅かった」と不満を訴え、「さみしい」と顔をくしゃくしゃにして涙を流すなつみさんの姿があった。  翔さんは取材の最後、静かにこう口にした。 「なつみ、前は感情を表に出すタイプじゃなかったんです。ずっと自分を隠していたんでしょうね。でもこの先、どんな彼女になろうが、最後まで一緒に過ごすつもりです。なつみがこの病気になってよかったとは思わないけど、おかげで、『お互いが好き』という段階からもっと進んだ、『お互いがお互いの一部』になって果たす結婚もあるんだなと気づかされました」  取材した3組の夫婦に、「事実婚を選ぶカップルをどう思うか?」と尋ねたところ、一様に理解を示していた。家族のあり方もパートナーシップも多様化する現代、幸せの形は人それぞれ。だが、病と向き合いながらも籍を入れた夫婦たちの満ち足りた表情は、結婚というものが今なお、「誰かとともに生きる覚悟」として価値を持つことを物語っているように思う。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
【2024年下半期ランキング 政治・社会編1位】都知事選掲示板に「生後8カ月のわが子」のポスターを貼った男性の“懺悔” 「浅はかでした。今は離婚危機に陥っています」
【2024年下半期ランキング 政治・社会編1位】都知事選掲示板に「生後8カ月のわが子」のポスターを貼った男性の“懺悔” 「浅はかでした。今は離婚危機に陥っています」 男性が「ポスタージャック」した掲示板。画像を一部加工しています。(撮影/板垣聡旨)    2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。政治・社会編の1位は「都知事選掲示板に「生後8カ月のわが子」のポスターを貼った男性の“懺悔” 「浅はかでした。今は離婚危機に陥っています」」(7月3日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *   *   *  6月25日、AERA dot.は<都知事選『ポスター枠』を55万円で購入した男性 『生後8カ月のわが子』をポスターに掲載した理由>と題した記事を配信した。東京都知事選で物議をかもしている候補者の「ポスター枠」を実際に買った男性に意図を取材したものだが、記事掲載から2日後、男性から記者に電話があった。その内容は「ポスタージャックはやるべきではなかった」「浅はかだった」という後悔の言葉だった。なぜ男性は考えを改めたのか。何を後悔しているのか。改めて話を聞いた。  7月1日、都内ホテルのカフェで記者と対面した男性は泣きじゃくりながらこう話した。 「勝手に子どもの顔写真を使ってしまったことで、妻には『何てことをしてくれたの!』と泣いて怒られ、その後は口もきいてくれません。子どもは無邪気に過ごしていますが、家庭は崩壊している状態です。今は子どもに作り笑顔で接するのがやっとです」  愛知県在住の50代男性は6月、ある政治団体から東京都知事選候補者の「ポスター枠」を購入。経費含め、約55万円の費用を支払った。生後8カ月の息子の写真を使って「ダメ!一極集中。投票に行こう。東京を住みよい街に」という主張を書き込んだポスターを約900枚作成し、都内36カ所に掲示した。   【こちらも話題】 都知事選「ポスター枠」を55万円で購入した男性 「生後8カ月のわが子」をポスターに掲載した理由 https://dot.asahi.com/articles/-/226151   掲示されていたポスターを剥がす男性(本人提供)   不適切な手段だった  東京都知事選では、特定の政治団体が候補者のポスター掲示枠を事実上「販売」しており、いわゆる“売名”のために掲示板が利用されていることが問題視されていた。そこでAERA dot.では「ポスター枠」を実際に買った男性に接触。どういう目的なのかを取材すると、当時、男性は次のような主張をしていた。 「経済停滞、待機児童や出生率低下など多くの問題が東京一極集中に起因しています。それらを解消し、子どもたちの生活しやすい東京をつくってほしい」 「未来の子どもたちのためにも投票して(暮らしを)改善していこうというのが私の主張ですので、子どもたちの未来のために投票に行ってほしいという気持ちを込めて、わが子の写真を使いました」  だが、記事が掲載された2日後、男性から記者に電話があり、「子どもの写真を掲載したポスターを貼ったことを後悔している」「ポスタージャックなどするべきではなかった」と後悔の念を語った。  男性は掲示したポスターを全て剝がすことを決めたと言い、7月1日はそのために上京していた。そこで同日、都内ホテルで改めて男性に話を聞くと、冒頭のように泣きじゃくりながら後悔を語り出した。 「自己顕示欲とか記念づくりとかそういう考えは、全くありませんでした。より良い都知事選となるために、いい投票となるように、都民の皆さまに自分の主張を聞いていただきたいという思いが強くあったんです。ただ、そのためにポスタージャックに参加するという不適切な手段で伝えようとしたのは、極めて自分勝手な考えで、浅はかだったと思っています」   【こちらも話題】 「税金で設置の公器なのに」全裸写真、売買…苦情電話殺到?都知事選掲示版で選管に「一度もつながらない」 https://dot.asahi.com/articles/-/225997   離婚を切り出されたら諦める  再取材した時点で、都内36カ所に掲示してあったポスターはすべて剝がしたという。そして、こう続けた。 「もし、妻から離婚を言い出されたら諦めようと思っています。しかし、もしこの状態を乗り切れたら、こんな頼りない夫を支えてくれた妻にも、まだ何もわからず遊んでいる息子にも、一生をかけて償っていきたいです」  今回、改めて取材を受けたのは、いまだ「ポスタージャック」に参加している人たちに、自分の後悔を伝えたいという理由もあるという。 「ポスターの内容は公序良俗に反していないにしても、私はポスターを出してしまったことをとても後悔しています。世間の常識から逸脱した行いをして、愛する家族を悲しませてしまった……。だからこそ、(都知事選の掲示板での)ポスターを通しての主張はいま一度、考えるべきだと思っています」  そして、最後にこう語った。 「投票に行っていただき、本当に都知事にふさわしい人を選んでほしいと思っていますし、一人の同じ日本人として、東京の皆さまのよりよい生活を願っているのは本心です。ただ、その手段が間違っており、家族や都民の皆さまにご迷惑をおかけしてしまいました。このたびは誠に申し訳ありませんでした」  取材の最後には、男性の目は泣き腫らして真っ赤になっていた。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨)   【こちらも話題】 都知事選「ポスター枠」を55万円で購入した男性 「生後8カ月のわが子」をポスターに掲載した理由 https://dot.asahi.com/articles/-/226151  
居酒屋女将になった「尾野真千子」は接客も豪快? 大物女優なのに“人前で着替え”も「大丈夫でしょ」
居酒屋女将になった「尾野真千子」は接客も豪快? 大物女優なのに“人前で着替え”も「大丈夫でしょ」 尾野真千子    来年1月に配信されるNetflixシリーズ「阿修羅のごとく」で尾野真千子(43)がメインキャストのひとりに抜擢された。  同作は昭和に数々の名作を世に送り出した脚本家・向田邦子の最高傑作として名高いドラマ「阿修羅のごとく」を是枝裕和が監督・脚色・編集を務めてリメイク。四姉妹の年老いた父親の愛人問題をきっかけに、彼女たちそれぞれが抱える葛藤や秘密が次々とあらわになり、その泣き笑いが細やかに描かれる人間ドラマとなっている。  尾野が演じるのは、会社員の夫や子どもたちと一見平穏に暮らす専業主婦の次女・巻子。夫を亡くし、生け花の師匠として生計を立てる長女・綱子を宮沢りえ、恋愛に不器用な三女・滝子を蒼井優、喫茶店のウエートレスで、新人ボクサーと同棲する四女・咲子を広瀬すずが演じる華やかな女優陣の競演も話題だ。 「完成報告会で尾野さんは『自分で言うのもなんですが、最高のものができたと胸を張って言える』とコメント。ただオファーが来た際は誰もが知っている名作だけに『本当に恐怖でしかなかった』と語っていました。また、蒼井さんが現場で、尾野さんのことを何と呼ぶべきか悩んでいると、尾野さんに呼び捨てでいいと指示され、『強制真千子で、真千子と呼ばせていただきました』と話していました。また、宮沢さんも尾野さんがゲスト出演したトーク番組で、『(撮影中)本当の姉妹のような雰囲気になれたのは真千子のおかげ』と明かしています。蒼井さんによると、尾野さんはスタッフの名前を全部覚えているなど、気遣いがすごいとのこと。撮影現場ではムードメーカーだったようです」(テレビ情報誌の編集者)  今期の話題ドラマ「ライオンの隠れ家」(TBS系)では、主演の柳楽優弥と坂東龍汰演じる兄弟の異母姉であり、ライオンこと橘愁人(佐藤大空)の母親役を好演した尾野。第8話(11月29日放送)では、ライオンと母親が再会するシーンが感動を呼び、SNSでは「尾野真千子さんの演技には信頼しかない。市井の女性を自然に演じられる貴重な女優さん」「ドキュメンタリーを見ているかのようだった」と尾野の演技に対して絶賛するコメントが相次いだ。 尾野真千子   「スパッツぐらいまでなら脱ぎ出す」  日本を代表する演技派女優である一方、プライベートでは2021年に沖縄県在住の映画関係者と1年の交際を経て再婚。そして、実は現在、沖縄に移住している。週刊誌の芸能担当記者は言う。 「結婚後、尾野さんは沖縄に移住して仕事がある際は上京する生活をしています。沖縄本島北部の今帰仁村(なきじんそん)に住み、那覇空港からバスで3時間かかるそうですが、東京から帰るときは『もうウキウキ』『苦じゃないの!』と楽しみでしかたがない、とトーク番組で語っていました。沖縄で尾野さんは居酒屋の女将をしており、仕込みをしたり、店に出ることもあるというから驚きです。昭和レトロな居酒屋で、有名観光スポットから近いこともあり、そこそこ繁盛しているようです。お店の公式インスタグラムにも、お客さんと一緒に映った写真がありましたが、泡盛を飲んだのかうっすら赤い顔で完全にお店に溶け込んでいて思わず笑ってしまいました。コミュケーション力の高さや親しみやすい人柄が感じられますね」  尾野は4姉妹の末っ子で奈良の山奥で育ったことで知られるが、アウトドア好きで釣りが趣味という一面も持っている。釣り関連の人気YouTubeチャンネル「釣りよかでしょう。」のメンバーが釣り仲間だそうだが、同メンバーが「職業柄なのか人前で着替えることが多い」と尾野の素顔を暴露していたこともある(NHK「ごごナマ」2019年10月1日放送)。「下着までにはならないけど、スパッツぐらいまでなら余裕で脱ぎ出す。スパッツ姿で『見て見て~』とか言い出す。あれはやめたほうがいい」と笑い交じりに指摘。これに対し尾野は朝ドラに出演時は時間がなく、大阪の放送局内の階段で衣装を脱いでいたこともあると明かし、「着てるのは着てるし、まぁ大丈夫かって考えになっちゃった」と話していた。こんなざっくばらんな一面も彼女の魅力だろう。 「沖縄への移住はデビューして20年目のとき『私、何してんねんやろな』と思い、一度リセットしようと思って実行したと語っていました。2011年の朝ドラ『カーネーション』でブレークして以降、長らく第一線で活躍してきましたが、一方でテレビに出続けないとみんなに忘れられてしまうという恐怖感が常にあったと話していました。沖縄との二拠点生活で、そんな悩みもなくなったのか、表情が柔らかくなった気がしますね。今年はNHK朝ドラ『虎に翼』でのナレーションも高い評価を受けました。年明けは『阿修羅のごとく』に加え、NHK-BSで小林薫と共演する『憶えのない殺人』という認知症をテーマにした刑事ドラマもスタートします」(前出の週刊誌記者) 尾野真千子   生き方そのものが支持されている  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は、尾野の魅力についてこう分析する。 「今年は『虎に翼』の語りと『ライオンの隠れ家』の演技が話題になりましたが、個人的には3月に放送されたスペシャルドラマ『ケの日のケケケ』が印象に残っています。本作で彼女は主人公の母役を演じ、学校が主な舞台のドラマを引き締める役割を担っていました。また先日、最終回を迎えた大河ドラマ『光る君へ』で藤原道長を演じた柄本佑と共演した『心の傷を癒すということ』も素晴らしいドラマでした。同作では柄本演じる精神科医の妻を演じ、反響の大きさと評判の高さから映画化もされました。少し前の作品だと2013年の『長谷川町子物語 ~サザエさんが生まれた日~』で『サザエさん』の作者で女性漫画家の草分けである長谷川町子を演じ、ナレーションも担当していました。芝居や表現が素晴らしいことはもちろんですが、彼女の無理や背伸びをせず、飾らない自然体な生き方そのものが多くの人から支持されているのではないでしょうか」  円熟味を増した尾野の演技を新年から目いっぱい楽しめそうだ。 (高梨歩)
渡邉恒雄さんが週刊朝日元編集長に語っていた「スクープの秘訣」から「女性遍歴」まで
渡邉恒雄さんが週刊朝日元編集長に語っていた「スクープの秘訣」から「女性遍歴」まで 渡邉恒雄さん    読売新聞グループ本社の代表取締役で主筆の渡邉恒雄さんが、12月19日、肺炎で死去した。98歳だった。メディアのみならず、政界、野球界でも多大な影響を与えた渡邉さんだが、雑誌好きな一面もあり、「週刊朝日」にも何度か登場している。「週刊朝日」2006年1月6日号では、山口一臣編集長(当時)のインタビューに答えていた。渡邉さんが自らの人生を振り返った『わが人生記』(中公新書ラクレ)を出版したタイミングだったが、人生記では書かれなかった女性遍歴、スクープの秘訣、読書術、戦争責任論などを赤裸々に語っていた。当時の記事を再編集して掲載する。(※肩書や年齢等は2006年1月6日時点のもの) *  *  * 山口 のっけからお願いごとで恐縮です。渡邉さんは「ナベツネ」呼ばわりされるのがお嫌いだそうですが、週刊誌としては見出しにナベツネと書かないとどうにもかっこがつかないんです。以前、NHK元会長の島桂次さんの連載をしていたときも、週刊朝日だけ特別に「シマゲジ」呼ばわりしていいと……。 渡邉 ワッハッハ。僕は若いころは「ワタツネ」だったんだよ。それがいつの間にか「ワタ」が「ナベ」になった。社会部の連中が言いだして広まった。ゲジゲジよりましだから、そんなことかまわんよ。 山口 ありがとうございます。そのゲジとツネ、それに朝日の三浦ジャガイモ(甲子二)さんが永田町の三羽ガラスだったとか。 渡邉 三浦は単にジャガだよ、ジャガ。ゲジは大平正芳(元首相)に可愛がられてね。悪友だった。でも、二人とも死んでしまったんだよなぁ……。 山口 その駆け出しのころ、32歳でお書きになった処女作の『派閥』が週刊朝日の書評欄に取り上げられているんですよね。 渡邉 (大切に保存している週刊朝日1958年10月19日号を見せながら)この週刊朝日の書評に取り上げられたときはびっくりしたな。あのころ、週刊朝日は100万部ぐらい出ていたんだろう。僕の本もよく売れた。この書評のおかげで、読売のトップになれたようなもんだ。(笑い) 山口 私が驚いたのは書評に付いていたこの顔写真です。あまりにハンサムなので、さぞやおモテになっただろうと思ったら、最近出版された『わが人生記』には大学卒業まで童貞だったと。本当ですか? 渡邉 不潔だという変な先入観があったんだな。みんな信用しないけれど、24歳まで童貞だったというのは本当だ。今だから話すけど、相手も経験がなかったので、勝手がわからず、大変だったよ。(笑い) 渡邉恒雄さん   朝日の出版が悔しくて中央公論を買った 山口 今の奥さまと結婚される前には、ミス静岡とつき合っていたのに、婚約を破棄されたとか……。 渡邉 かみさんを口説くときに、「君は28人目の女性だ。これまでつき合った27人よりステキだ。結婚してほしい」と言って一緒になったんだ。24歳で女性を知って、結婚する29歳までの5年間はそれこそいろんな女性とつき合った。そのかわり、結婚してからは浮気したことはない。 山口 奥さま、美人ですよね。女優さんですか? 渡邉 劇団のな。でも50年たって、こんなしわだらけになっちゃった……。 山口 それは奥さまだって、50年前はもっとハンサムだったのにって思ってますよ。それにしても、意外と愛妻家ですね……。 渡邉 妻の認知症も完全に治ったわけじゃないんです。感情の表現が少ない。でも、それでもすごく愛おしい。妻のうれしそうな顔を見たくて、1日1回か2回ニッコリさせてあげようと努力しているんだ。 山口 いままでの悪事の罪滅ぼしですね。 渡邉 新聞記者ですからね。忙しかった時期は、寝る時間も違うし、どうしても生活の波長が合わなかった。お手伝いさんがいたこともあって、無視していたこともあった。こうなってしまうと、あのころもっと仲よくしていればよかったって後悔していますよ。 山口 ところで、渡邉さんは92年に朝日新聞の「VS朝日新聞」という企画の取材を受けられて、それまで自分は朝日に追いつけ追い越せでやってきて、新聞では質、量ともに追い越したけど、出版部門だけはどうしてもかなわなかったとおっしゃっています。私はナベツネさんにそう言われたことをとても誇りに思っていて、よく後輩に話して聞かせるんです。 渡邉 朝日の出版は伝統があるからね。読売にはない。だから悔しくて中央公論を買ったんだ。あれはもっともうまくいった友好的M&Aでした。中公の会長の嶋中雅子さんにあるパーティーで会ったとき、雑談で経営が大変そうだから合併しませんかと持ちかけたんだ。嶋中さんは親友の氏家齊一郎君(日本テレビ取締役会議長)の奥さんの1年先輩で仲がよくて、僕もよく知っていたから。嶋中さんがお願いしたいというから話はスムーズに進んで、読売の傘下に入った。中公の借金はかなりあったけれど、あれだけの知的財産を生かすことができた。大成功ですよ。 山口 渡邉さんは毎日忙しいのに読書量がすごいですね。時間をどう有効活用しているのですか。 渡邉 通勤時間を減らしたんです。片道1時間近くかかったのがいまは10分。だから毎日2時間くらい読書時間が増えた。午後10時ぐらいに自宅に戻って昔は午前2時3時まで本を読んでいたから。いまでも2日に1冊は読む。緊急に読まなければいけない本を枕元に置いているんだが、いま100冊ほどある。これから読売新聞で、戦争責任論についてキャンペーンをしようと思っているものだから、昭和戦争論が多い。40冊はある。ストレス解消にカントやニーチェの本も読まんといかんし。昨日はアインシュタインを読んだ。 小泉純一郎元首相   政策より下ネタ好きの小泉純一郎元首相 山口 読売の社告で戦争責任論をやるというのを見て、「ああ、やられたな」って心底思いました。 渡邉 満州事変での陸軍の暴発をはじめ、サイパンが陥落して日本は降伏せざるを得ない状況だったにもかかわらず、どうしてアメリカは原爆を落とすことになったのか。もっと早く降伏できなかったのか。当時の状況を克明に取材して戦争責任について記事にしていくべきだというのが僕の考え。当時の鈴木貫太郎首相にもポツダム宣言を黙殺すると言明した責任はあったし、天皇も責任をとって退位すべきだった、という人もいる。戦争責任のキャンペーンを終えたら、次はソ連が8月15日の終戦になってから満州に攻め込んだことについて徹底的に調べ、かつ批判するつもりだよ。 山口 渡邉さんは政治部時代、記者というより政治を動かす側に回っていたとよく言われますが……。 渡邉 駆け出しのころ、ある大物政治家の会議の取材を庭の中からのぞいていたら、会議の中に朝日の記者が入っていた。「すげえな」と思った。バカヤロー解散など抜かれた経験は山ほどありますが、本当の特ダネを取ろうと思ったら、虎穴に入っていかなければダメだと認識したんです。ただ、金銭的な恩恵を受けたらいけない。僕は大野伴睦(元自民党副総裁)に可愛がられて、あるとき「小遣いに困ったらいつでも言ってくれ」と言われた。でも、当時僕は文春や現代とか週刊誌にアルバイト原稿をジャカジャカ書いて月給の倍ぐらい稼いでいたから「必要ないですよ」と言ったんだ。それからいっそう信用されるようになった。 山口 渡邉さんは、日韓国交回復の元となった「金・大平合意メモ」をスクープしていますね。それで聞きたいと思っていたんですが、今年8月に韓国が公開した外交文書に右翼の大物、児玉誉士夫氏と読売新聞ワタナベ記者が関与していたと書かれています。これは渡邉さんのことですね。 渡邉 その文書を見てないのでわからないが、児玉さんは当時、KCIAの幹部で駐日本代表部参事官のSとべったりだった。僕も取材でその幹部に会おうとしたが、日本政府は彼の電報を暗号解読していて、僕に内容を教えてくれた。彼は自分の手柄を大げさに韓国に知らせている男だと知って急遽会合を止めたことがあった。韓国が公開したという外交文書は、その男が手柄自慢に打ったものでしょう。あのころ、児玉さんは韓国の軍やKCIAとつながっていたと思います。 山口 それで特ダネは? 渡邉 実は「金・大平合意メモ」のたたき台は、僕も入って数名で会議をしてつくったんです。ところがメモの内容がなかなか実行されない。池田勇人首相は大平外相が事前許可なしにサインしたことにハラを立てていたと思う。そこで、外務大臣がサインした文書を実行しないのはおかしいと僕が大野伴睦に進言したら、それはもっともだという。ところが僕が大野さんに言ったものだから、メモの存在が大野さんの口から漏れだしたので、あわてて記事にしたんですよ。僕が大野さんに教えてやったネタなのに、それで抜かれたのではたまらないからね。 特ダネを取る秘訣とは? 山口 特ダネの秘訣は何かあるんでしょうか。 渡邉 10取材しても、すぐには一つか二つしか書かないこと、秘書や運転手とかお手伝いさんを大切にすることかな。大野伴睦を夜回りして、番記者と一緒に引き揚げるんだ。その後で勝手口に回ってお手伝いさんに言って開けてもらって中に入る。一対一で内証の取材をするわけだ。 山口 忍者みたい。 渡邉 忍者だよ。僕は池田元首相以降の歴代首相とサシで食事をしたが、バレたことはない。いろんな手口を知ってるからね。小泉純一郎さんだって怪しいよ。月に2回もホテルの理髪店に行っている。あの2時間は秘密タイムだ。僕は純ちゃんが首相になった直後に二人きりで政策などを3時間近く話したんだ。そのときも「ホテルの○○号室で待ってくれ」と言う。本を読んで待っていると純ちゃんが一人で後ろに立っていた。SPも秘書もつれずにね。そのとき、何をやりたいか聞いたら大連立と言ってたよ。まだその思いは変わっていないはずだ。純ちゃんは政策の話は聞いていたけどあまりわかっていないんじゃないかな。終わりのほうで下ネタとクラシックの話になったら目の輝き方が変わったから。(笑い) 山口 ポスト小泉については、渡邉さんはどう考えられていますか? 渡邉 今の状況だと安倍晋三君だろう。しかし、参議院選挙で自民党は10ぐらい減る。総選挙をやったら、この前、取りすぎたから大幅な揺り戻しがある。そうなると、森前首相が言うように今回は待って、次を狙うということも。安倍君を推しているのが、中川秀直(政調会長)や武部勤(幹事長)、竹中平蔵(総務大臣)たち。自民党内では、あまり好かれていない連中だ。福田康夫(元官房長官)や谷垣禎一(財務大臣)を推す勢力も出てくる。そうなると安倍対非安倍の多数派工作となるのではないか。総裁選で1回目の投票で2位につけた人が決選投票で勝つ可能性もある。 山口 渡邉さんが一人いれば、読売は政治部いらないんじゃないですか? 渡邉 そんなことはないよ。ワッハッハ。

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