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ウォーキングも豪華な朝食も必要ない…「攻めのリハビリ医」64歳が認知症予防に「毎朝10分間」やっていること
ウォーキングも豪華な朝食も必要ない…「攻めのリハビリ医」64歳が認知症予防に「毎朝10分間」やっていること ※写真はイメージです(gettyimages)    いつまでも若々しく過ごすために、認知症の予防は欠かせない。どんなふうに生活習慣を変えるといいのか。「攻めのリハビリテーション」を掲げるねりま健育会病院の酒向正春院長に、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが聞いた――。 なぜ認知症の患者数は増加し続けるのか  2022年から23年にかけて九州大学が発表した研究結果がある。「認知症及び軽度認知障害(MCI)の有病率調査並びに将来推計に関する研究」という長い題名のものだ。  題名は長いけれど、結論は短い。つまり、「認知症の患者は想像以上に多く、今後も増えていく一方」というものだ。高齢になると、誰もが認知症になるリスクがあるわけだ。  研究によれば2022年における認知症の高齢者数は443.2万人(有病率12.3%)、また、MCI(軽度認知障害)の高齢者数は558.5万人(有病率15.5%)と推計されている。そして、この調査から得られた性年齢階級別の認知症及びMCIの有病率が2025年以降も一定とすると、2040年には、それぞれ584.2万人(有病率14.9%)、612.8万人(有病率15.6%)になると推計される。  有病率とは65歳以上の高齢者数(3627万人、2022年)に対する認知症になった人の割合だ。高齢になると、認知症は避けて通ることのできない病気ということである。  そこで、できるだけ認知症にならずに生きていたいわたしは「酒向先生に話を聞くしかない」と判断した。それで連絡して会いに行ったのである。 「私一人ではない」チーム医療を実践する名医  まずはお世辞からである。  「酒向先生は日本一のリハビリ医ですね」  そう言ったら、ねりま健育会病院の院長、酒向正春は首を振った。  「やめてください。私はチームで診療しています。私ひとりではできません。ただ、チームは日本一だと自負しています」  わたしはとたんに謝罪した。  「わかりました。浅はかでした。すみません、それはそれとして、認知症にならないための生活の仕方を教えてください」  酒向先生は微笑する。  「最初からそう言ってください」  現在、酒向先生は練馬区大泉学園にある医療法人社団健育会 ねりま健育会病院院長を務めている。2階が病院で、3階にある老健施設もまた彼が管轄している。著書も多い人だ。NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」第200回にも取り上げられている。  プロフィールは次の通りだ。  酒向先生は1961年生まれ。地元の愛媛大学医学部を卒業して脳神経外科医となった。その後、脳リハビリテーション科に転身し、医師、看護師、リハビリスタッフなどと一緒に「チームねりま」を作り、チームとして障害者や認知症の患者、家族のために働いてきた。 朝5時に目覚めたらすぐにやること  酒向先生に教えてもらったのは「認知症にならないようにするには高齢になる前から、どういった生活を送ればいいか」だ。  具体的には一日の過ごし方だ。加えて食事の内容、酒タバコなどの嗜好品との付き合い方、ウォーキングなどの運動、入浴、睡眠など、対人関係、ペットとの関係……。生活のあらゆる面で認知症にならないためのアドバイスをもらった。  まず、酒向先生に仕事と生活の時間割を訊ねた。 なるほど彼は「これなら健康そのもの」という生活を送っている。  毎朝、起きるのは午前5時だ。そして、起きたらすぐ風呂に入る。  「妻は夜に入りますが、私は朝風呂です。湯の温度は36度くらいです。そして、追い炊きを10分。湯の温度を42度にあげます。至福の時です。湯上りには妻がヘアアイロンで髪の毛を整えてくれます」  風呂に入る時は必ず入浴剤を入れる。肌が弱いため保湿が必要なのだ。水道水で肌がかゆくなる人は入浴剤を使ったほうがいいと先生は言う。 パートナーとの会話が脳を活性化させる  湯上りに髪の毛を整えてもらいながら、妻と会話する。これも重要だ。認知症にならないためには夫婦、パートナーとの親愛のコミュニケーションが不可欠なのである。夫婦、パートナーが冷え切った関係になってしまうと、ストレスがたまる。それはよくない。  入浴の後、麦茶、ブラックコーヒー、加えて少量のブラッドオレンジと牛乳をとる。朝はそれだけで固形物は食べない。  酒向先生は16時間の糖分の断食によるケトジェニックダイエットで体内の脂肪を燃焼させている。  午前6時30分に自宅を出て、徒歩、電車、バスを利用し、7時30分にねりまの病院に到着する。  そのまま仕事に突入だ。老健、および病院の回診から始めて、午前中は15分の病院運営会議を終え、新患外来の診療で忙しい。  正午には検食。病院で出している昼食を食べる。おいしい。しかし、ご飯をお代わりすることはない。  12時45分から15分間は入院判定会議を行う。入院判定会議とは、月に60~70件ある患者の紹介案件のうち、誰を受け入れるかを判断する会議だ。 飲酒は月1回、運動は欠かさない  午後1時から5時30分までは診療、人材の育成、医療安全などがある。その後、午後8時まで、臨床研究、社会貢献活動、講演準備、執筆、学会準備、医師会、地域貢献に関係する仕事をする。  月に一度は会食が入るので、その時は午後5時30分には病院を出る。  帰宅すると、8時30分だ。  愛する妻が作った食事をふたりで食べる。基本的に酒は飲まない。飲むのは会食時のお付き合いで、月1回程度。1回に飲む量はスパーリングワイン1杯と赤ワイン1杯。もしくは、生ビール1杯程度にしておく。  眠るのは午後10時から11時。テレビやスマホはニュースだけ。ショート動画を見ることはない。ただし、趣味の競馬中継とスポーツライブは見ることにしている。  運動は週に1回、スポーツジムに通う。加えて、週に2回は病院か自宅で筋トレとストレッチをやる。疲労がたまると、2カ月に1回は60分のマッサージを利用する。 95歳を迎えるころは8割が認知症に  酒向先生は言う。  「認知症の人の分布ですが、年齢では80代の人で20%くらい、85歳では40%、90代で60%くらいで、95歳になると80%は認知症になると思ってください。ただし、同じ年齢なら女性の割合が高いです。そして、認知症になるには遺伝的な要因と環境的な要因があります。遺伝的な要因がある人はなりやすい。  しかし、生活環境を整えればリスクを減らすことはできます。特に、認知症予防の啓蒙が始まって以来、世界の先進国では、運動と新しい学習や人との交流を楽しく続けることで、90歳までは認知症の発症率が低下するエビデンスが出てきました」  酒向先生のように、早寝早起きして、適度な運動と仕事をしていれば認知症のリスクを減らすことができる。  逆に認知症になりやすい人とはどういった生活を送っている人なのか。これもまた教えてくれた。  「絶対にやってはいけないのはタバコを吸うこと。加えて、糖尿病、高血圧、肥満、鬱の人は認知症になりやすい。なりたくなければ高血圧、肥満にならないよう生活し、鬱にならないよう気をつけることです」 朝風呂で得られる4つの効果とは何か  酒向先生が毎日、朝風呂に入り、16時間の断食とケトジェニックダイエットをしているのは糖尿病、高血圧、肥満、ストレスを防いで気持ちよくなるためで、ひいては認知症になるのを防ぐためである。  そして、先生は朝風呂を推奨する。それは「温熱、清潔、静水圧、浮力」という4つの効果があるからだ。ここにある「静水圧」とは静止した水(お湯)のなかに働く圧力で、水の深さが深くなるほど、静水圧は大きくなる。  先生は朝風呂の4つの効果について、詳しく説明してくれた。認知症になりたくないわたしはメモしながら聴いた。  「まず、温熱効果で深部体温を上げることで、代謝が活発になります。寝起きでなかなか開かないまぶたが覚醒しますし、筋肉のコリや緊張がほぐれます。深部体温を上げるにはゆっくり浸かってください。私は15分は入っています。深部体温とは体の中心部の体温のことです。内臓などの体温で、皮膚表面の温度よりも高い。人間の深部体温は37度前後になります」  次は清潔にすることの効果だ。  「汗や皮膚表面のよごれを落とし、朝一番から清潔ですっきりと、快適な気持ちよさを獲得できます」 シャワーより湯船、そして正しいマッサージを  そして、静水圧効果である。シャワーを浴びて出勤する人は多いと思われるが、シャワーでは静水圧効果がない。そこで、酒向先生はシャワーよりも湯船につかることをすすめる。  「静水圧効果は重要ですよ。横隔膜があがり、呼吸数が増加し、覚醒します。また、下半身の血液が心臓に戻りやすくなり、血液循環が良好になることで、脚のむくみが解消します」  最後が浮力の効果だ。  「浮力効果で、重力の影響が低下するため、筋肉の緊張がほぐれます。腰痛がある時は、浮遊感を利用して、湯船のなかで腰椎の屈曲と伸展運動が簡単にできます。これを10回繰り返します。さらに、膝を屈曲して、左右に回旋する運動も簡単にできます。10回繰り返すことで、腰痛は驚くほど改善します」  屈曲と伸展のほか、酒向先生は「リンパマッサージもいい」と言う。リンパマッサージは体の先端から心臓に向かってマッサージすること。足であればふくらはぎから鼠径部に向かって手で揉んでいく。手のひらから腕の付け根を経て首筋まで揉む。  簡単なマッサージだし、湯船のなかでできる。  そして、もうひとつ、教わった。水道水で風呂に入っているのであれば「入浴剤は必須」ということだ。 ジムやウォーキングよりも気持ちいい  先生は言った。  「私は皮膚が弱いので、入浴剤を使わないと、皮膚がぱさぱさ、かゆかゆになり、とてもつらいです。ですから毎朝、入浴剤を湯船に入れます。入浴剤の効果は、温浴効果と洗浄効果ですが、保湿効果もあると思います」  入浴剤は市販のものでいい。値段も高いものでなくていい。皮膚が「ぱさぱさで、かゆかゆ」になると、ストレスになるので、使うのだという。  朝風呂、入浴剤、湯船での腰痛体操やマッサージはすぐに真似できる。ジムに行ったり、ウォーキングしたりといった手間とお金もかからない。認知症の予防にはまずここから始めるといいだろう。また、風呂は夕方でも夜でもいいが、翌朝も湯船に浸かることを勧める。要はリラックスすることだ。  次回は食事の内容を見直して肥満を防ぐ話である。ひいては認知症のリスクが減少すると思われる。 (野地 秩嘉:ノンフィクション作家)
「双子が生まれると聞いて、たじろぎました」小学生3姉妹のパパ漫画家・室木おすしが語る子育て
「双子が生まれると聞いて、たじろぎました」小学生3姉妹のパパ漫画家・室木おすしが語る子育て 3姉妹(イラスト/室木おすし)  イラストレーターや漫画家として活動し、著書『たまに取り出せる褒め』(KADOKAWA)が反響を呼んでいる室木おすしさん。『マツコ&有吉 かりそめ天国』(テレビ朝日)の挿絵を担当するなど幅広く活躍していますが、プライベートでは小4のご長女の下に小2の双子の娘さんという、年齢が近い3人のお子さんを育てています。過去に連載していたイラストエッセイ「娘へ。」(Hanakoママweb)では、将来の娘の結婚式を想定して父からスピーチをおくる、というかたちで育児を綴るなど、娘たちに愛情たっぷりのまなざしを向ける室木さん。これまでの育児についてうかがいました。※後編<「親の都合だけでは褒めない」『たまに取り出せる褒め』が話題の3姉妹のパパ漫画家・室木おすしに聞く子どもの褒め方>へ続く とにかく寝られなかった育児期間 ――エッセイでは、ご長女が2~4歳ごろにしまじろうに夢中になって、自宅でしまじろうコンサートを毎日数十回開催していたときの様子など、エピソードが細部まで描かれています。  将来思い出したらうれしくなるようなことを「娘素材集」として、頭の中に作っています。  今までハマったアニメの遍歴なんかをメモにとっておくことはありますけど、そのときの状況を表情とか細かいところまで言葉にするのって難しくて。だから頭の中に残しておこうと思うけれど、忘れちゃっていることもたくさんありますね。忘れてしまうのは悲しいことだけど、いい思い出を覚えていすぎると、将来切なくてどうにかなっちゃうかもしれないから、忘れるくらいでいいのかもしれない、とも思います。 ――ご長女が2歳のときに双子の娘さんたちが生まれたそうですね。双子だとわかったときはどう思いましたか?  たじろぎましたね(笑)。やっていけるのかなっていう不安が大きかったです。仕事はしばらく自分のやりたいようにはできないかもしれないとか、いろいろ考えましたね。ただ、長女で赤ちゃんの育児は経験しているので、ある程度大変さのイメージができたのは、よかったと思います。 ――双子が生まれて、特に手がかかる乳幼児期は大変だったのではないでしょうか。  インタビューを受けるにあたって、当時の日記を見て振り返ってみたのですが、あまり思い出せなくて。双子が生まれてすぐに妻が病気で入院していたこともあって、1人では絶対に無理だったので両親や義両親にかなり手伝ってもらったんです。みんなで分担して、何とか乗り切った感じです。 ――あまりに大変すぎて、記憶が飛んでいるみたいな感じでしょうか。  そうですね。とにかく寝られなかったですね。双子が1時間ごとくらいに1人ずつ夜泣きするので、そのたびに起きてミルクをあげて、ということを一晩中やっていた感じです。当時2歳の長女が起きてしまうと最悪の事態になるので、起こさないようにもしないといけなくて。この大変な時期を乗り切ろうということだけを考えて、日々過ごしていたと思います。ただ、自宅でできる仕事だったので、なんとか限界を迎えずにすんだという感じです。 あの時期は特殊な能力が生まれていた… ――夜泣きが落ち着くと、次はハイハイしたり、歩き出したり、目が離せない時期がきますよね。  そのころが一番しんどかった気がします。僕はけっこう心配性で、事故を起こさないように神経を使っている状態が1日中続くので、疲れていましたね。 ――公園でも3人それぞれ違うほうに行ってしまうとか?  同じところにいてくれたらいいですけど、そうはならないですよね。当時の僕はサッカーでいうと日本代表だった中田英寿のつもりで公園にいましたね。「オレは日本代表のヒデだ」みないな……。司令塔として全方位に目を配って、周りからすると、とんでもないところにパスを出すみたいな。あの時期は特殊な能力が生まれていた気がします(笑)。 子どもが生まれて世界が広がった ――逆に年齢が近くてよかったことはありますか?  よかったことは間違いなく、3人で遊んでくれることです。長女1人だったときは、僕か妻が遊び相手をしないといけない時間が長かったんですけど、双子はそれがないんですよね。親としてはほかのことができてありがたいし、何より遊んでいる姿が楽しそうで微笑ましいんです。今でもずっと3人で遊んでいますね。ごっこ遊びが多いですね。それぞれセリフも考えてエチュードみたいな感じでやっていて。ケンカもしょっちゅうありますけど、すぐに仲直りします。 ――お子さんが生まれてから、作品づくりなどに変化はありましたか?  これまで自分が出会ってきた人たちにも、全員親がいて、それぞれの人生があるということが現実味を帯びて考えられるようになりましたね。一気に世界が広がって、人の内面的なことも気になるようになったことが作品にも影響しているかもしれないです。  あとは現実的なことなのですが、以前はお金のことは二の次で、自分が面白いと思えるマンガを描きたいということが一番だったのですが、いまはお金のことを考えるようになりました。お金になるマンガ、つまり誰もが面白いと思えるようなマンガを描くことが目標になって、努力の方向性が変わりました。 ――お子さんたちは、室木さんのマンガを読みますか?  読みますね。「もっとこうすればいいのに」って言ってくることもあります(笑)。「そうだね」って適当に流して、参考にはしないですけど。誇らしげに思ってくれていて、友だちに自慢するので「恥ずかしいからやめて」と思いつつ、嬉しくもあります。 【マンガ】室木おすしさん話題作『たまに取り出せる褒め』はこちら(全10枚)を読む さらにマンガの続きを読みたい方はこちら (構成/中寺暁子) 〇室木おすし(むろき・おすし)/1979年生まれ、神奈川県出身。大学で建築を学んだのち、渋谷アートスクールに入学。2003年からフリーのイラストレーターに。ゆるく笑えるコンテンツに特化したWebメディア「オモコロ」ライター、『マツコ&有吉 かりそめ天国』(テレビ朝日)の挿絵(雑賀建郎氏の代打)、漫画家として活動。著書に『たまに取り出せる褒め』『貴重な棒を持つネコ』(ともにKADOKAWA)、『悲しみゴリラ川柳』(朝日新聞出版)、『君たちが子供であるのと同じく』(双葉社)などがある。
「親の都合だけでは褒めない」『たまに取り出せる褒め』が話題の3姉妹のパパ漫画家・室木おすしに聞く子どもの褒め方
「親の都合だけでは褒めない」『たまに取り出せる褒め』が話題の3姉妹のパパ漫画家・室木おすしに聞く子どもの褒め方 室木おすしさん(イラスト/室木おすし)   思い出しては嬉しくなるような“褒められ”エピソードを集めたマンガ『たまに取り出せる褒め』(KADOKAWA)。著者は、漫画家・イラストレーターの室木おすしさんで、3人の娘さん(小4の長女、小2の双子)のパパです。娘さんたちのことはどのように褒めているのか、意識されていることをうかがいました。※前編<「双子が生まれると聞いて、たじろぎました」小学生3姉妹のパパ漫画家・室木おすしが語る子育て>から続く 親の都合だけでは褒めない ――ご著書『たまに取り出せる褒め』は、ご自身をはじめ、さまざまな人のちょっとした「褒められ」エピソードを室木さんがマンガにされています。娘さんたちを褒めるときに意識されていることはありますか?  相手を尊敬しているという気持ちを伝えることが“褒める”ということなのかな、と最近思っていて。例えば自分が完全に忘れているようなことを子どもが覚えていた場合、「そんなこと覚えていたの? すごいね。お父さんはすっかり忘れていたよ」というように、「偉いね」と言うのではなくて、驚いたリアクションで伝えるという感じです。「自分はお父さんよりもすごいんだ」って思えると、「偉い」と言われるよりも嬉しいんじゃないかなって。 ――確かに「偉いね」という言葉は、対等ではない印象があるかもしれません。  自分が子どもだったころを思い返すと、親にクイズを出して答えられないと「大人を困らせてやった」みたいな感覚になってすごく嬉しかったんです。そんな気持ちになってもらいたいなと思って、声がけするようにしています。 ――ご著書では、室木さんが中学生のころにクラスメートの家でのお菓子パーティに誘われたときのエピソードが書かれています。そこで室木さんが持って行ったお菓子のセンスを褒められて。  そのときのことを今でも思い出して嬉しく思っているということをマンガにして「オモコロ」にアップしたら、反応がよくて。自分以外の人の褒められた話も聞きたいなと思ってエピソードを募集して、連載にしたんです。 ――褒めるつもりもなく言ったささいな言葉が、言われた側にとっては嬉しい言葉としていつまでも覚えているというのは確かにありますよね。  そうですよね。子どもたちには、ちょっとしたことでもいいなと思ったことは、ややオーバーに「いいね!」「すごいね!」って声をかけるようにしています。 ――例えばどんな点を褒めることが多いですか?  人のために何かをしたとか、譲ってあげたとか、記憶力がいいとか、僕が純粋にすごいと思ったことですね。逆に親の都合だけでは褒めないようにしています。片づけがきちんとできた、早く準備できたみたいないことは、そのほうが親の都合がいいだけのような気もしていて……。もちろん自主的にやったら褒めますけど。あまり子ども扱いしないで、大人に対してだったらこういう対応をするんじゃないかということは、いつも考えていますね。 ――確かに大人に対して「片づけができて偉い」とは言わないですもんね。  これまで、子ども扱いしないほうが、伝わりやすいなと感じた経験がけっこうあったんですよね。 3人平等には褒められない ――お子さんが3人いると、“褒め”に差が出てくることはないですか?  そうなんです。特に双子はどうしても比べられちゃうから、平等に褒めるように気を付けていたんです。でも「この子ばかりを褒めているから、褒めをセーブしよう」って思ったときに、それっておかしいんじゃないかと感じて。どうしたって平等には褒められないと気づいたんです。  だから半年くらい前に子どもたちにはっきり伝えました。「すごいと思ったときは褒めるけれど、褒められなかった子は別に悪いことをしたわけじゃないし、悲しむようなことではないんだ」って。以前は「○○ばっかり褒めてる」って拗ねられることもありましたけど、そういうことがなくなりましたね。 ――双子だと褒めること以外にも、差が出ないように気をつかう場面が多そうですね。  だから親としては、それぞれ別の特技を身につけてもらえるといいなと思っているんです。いま長女はバトントワリング、次女はヒップホップダンス、三女はピアノをやっていて、習い事がバラバラなんです。最初のうちは一緒に習っていたものもあるので、あえてそうしたわけではないんですけど、結果的にはバラバラになってよかったなと思っています。同じことを習うと、どうしても優劣がついてしまって1人が褒められるとほかの子がイヤな思いをする状況になりやすいかなと。別々の習い事であれば、1人が褒められても「私は別のことをやっているから」と思えるので、気にならないですよね。 嬉しかった知らない人からの褒め ――奥さまへの“褒め”は意識されていることはありますか?  そう言われると、最近あまりできていないかもしれないですね。もともとは妻にも褒めるタイプだったんですけど、子どもが生まれてから褒めづらくなってしまって。子育てのことで、妻に対してもっとこうすればいいのにみたいなマイナスの感情があると、ほかにプラスのことをやったときに相殺されてゼロになってしまうような。本当はプラスの面を見てそこを褒めるべきなのに。でも妻は器が大きくて、ちゃんと褒めてくれます。 ――どんなことを褒められますか?  たまに子どもたちに勉強を教えると、「教え方が上手だね」とか。それも普段は妻が教えていて、僕はたまに教えるだけだから、穏やかにできているんですけど、ちゃんと褒めてくれますね。「ありがとう」っていう感謝の言葉もよく伝えてくれます。 ――育児に関して奥さま以外に褒められたことはありますか?  あまりないですけど、1つだけ覚えているのは娘と電車に乗っていたときに、空いていたので娘が、自分が座っている隣に荷物を置いていたんです。途中の駅で人がたくさん乗ってきたので、「荷物をひざの上に乗せてね」って当たり前のことを言っただけなんですけど、近くに座っていたおばあさんが「お父さん、ちゃんとしてるわね」って。当然のことをしただけですけど、嬉しかったですね。 ――お子さんたちにはこれからどんなふうに成長していってほしいと思いますか?  つきなみですが、健康で幸せで娘3人が仲良くいてくれたらそれだけでいいんです。僕としては自分のやりたいことや好きなことを理解できていることが幸せにつながると考えているので、自分のことを理解できている大人になってほしいなと思います。  僕自身は自分のことを理解しきれていないところがあるんですけど、悩みの根源ってそこにあると思うんですよね。じゃあどうすれば自分のことを理解できるのかと考えたら、人と話すこと、本を読むこと、いろいろな経験をすることという3つに集約されるのかなと。僕自身がそうだったので、子どもにアドバイスを求められたときには、この3つをすすめてあげたいです。 【マンガ】室木おすしさん話題作『たまに取り出せる褒め』はこちら(全10枚) さらにマンガの続きが読みたい方はこちら (構成/中寺暁子) 〇室木おすし(むろき・おすし)/1979年生まれ、神奈川県出身。大学で建築を学んだのち、渋谷アートスクールに入学。2003年からフリーのイラストレーターに。ゆるく笑えるコンテンツに特化したWebメディア「オモコロ」ライター、『マツコ&有吉 かりそめ天国』(テレビ朝日)の挿絵(雑賀建郎氏の代打)、漫画家として活動。著書に『たまに取り出せる褒め』『貴重な棒を持つネコ』(ともにKADOKAWA)、『悲しみゴリラ川柳』(朝日新聞出版)、『君たちが子供であるのと同じく』(双葉社)などがある。
合計18個の卵子が心のお守り。卵子凍結を選んだ女性たち④
合計18個の卵子が心のお守り。卵子凍結を選んだ女性たち④ ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  卵子は年齢とともに老化し、妊娠・出産しづらくなる。そのため、今すぐには妊娠・出産を考えられなくても、いざ「子どもがほしい」となった時に備え、採取した時点での卵子を凍結保存しておく医療技術が注目されている。しかし実際に、凍結卵子が使われて、妊娠・出産に至るケースは、思ったより少ない。その背景には何があるのか?  『-196℃の願い 卵子凍結を選んだ女性たち』には、年齢も育ちもキャリアも違う8人の女性が登場する。第4回は、小川幸恵さん(41歳・外資系コンサルティング企業)の声を再構成して紹介する。 *  *  *  40歳の誕生日を迎える1カ月前のことだった。小川幸恵さんは3回の採卵手術で合計18個の卵子を採取し、凍結した。「“私には凍結している卵子がある”ということが心のお守りになってくれている気がします」   小川さんは大学卒業後、海外の大学院に留学。経営学を学んで帰国後、コンサルティング企業に就職し、現在の会社が2社目だ。多忙だが仕事は順調で、4年前に管理職になった。   望んだ仕事に就き、十分な収入もある。平日は仕事が中心だが、休日はダンスやピラティス、美術や映画鑑賞、旅行など、やりたいこともたくさんある。周りには独身の友人も多く、毎日が十分に充実していた。 「私は35歳を過ぎた初産(ういざん)が高齢出産になることとか、卵子の加齢で妊娠率が低下するとか、そういう類のことを全然知らなかったんです。周りにも独身でバリバリ働いてる友人も結構いるし、そういう子は“ 40代で出産したらいい”って普通に思っちゃってる。40代で妊娠・出産した芸能人のニュースを見るたび、“私もまだ大丈夫”って言い聞かせてたり。実際、私もそんな感じでいました」   今、小川さんには、付き合っているパートナーがいる。知人主催の食事会で出会った、2歳年上でバツイチの男性だ。彼は30代後半で離婚しており、7歳になる娘がいる。娘は元妻と一緒に暮らしており、彼は一人暮らしだ。私立高校の教師をしている。  付き合って半年ほど経ち、結婚の話が出始めた頃、小川さんはパートナーに、卵子凍結していることを話した。妊娠・出産を望むなら、急がないといけない年齢に来ていること。できることなら、子どもを産んでみたい“かもしれない”こと。後から後悔するのは嫌だなと思っていること。   話しているうちに、いろんな思いが去来して、自然と涙がこぼれた。その時、「あ、私って、やっぱり子どもがほしかったんだ」と思った。   ただ、彼は凍結卵子を使うことには強い抵抗感を示した。この時、彼が生殖医療に対して抵抗感を持つタイプであることを、初めて知ったという。人の命は、自然な営みの中で授かるべきもの。不自然なことをすれば、どこかで無理が出てくるのではないか――それが彼の“抵抗感”の理由だった。    卵子凍結をした時点では、パートナーがいなかった。むしろパートナーがいないから卵子凍結したとも言える。凍結した卵子を使うのは、「この人と子どもを持ちたい」と思えるパートナーが現れ、互いに合意に至った時――。だがパートナーと出会っても、その“合意”を得るのが難しい場合もある。  「凍結卵子を使っての妊娠・出産は、パートナーにとっても、心の準備と整理に、ある程度、時間が必要かもしれません」   パートナーと出会い、子どもを持とうとする合意が生まれた段階で、新たに生じた葛藤。これもまた、卵子凍結が持つ一つの側面と言えそうだ。  『-196℃の願い 卵子凍結を選んだ女性たち』は、朝日新聞出版公式note「さんぽ」で3月31日13時まで、全文無料公開中。 https://note.com/asahi_books/n/n701747b8afcd  
オウム後継「アレフ」で進行する“弱体化” 「悪化する資金繰り」と幹部の離脱
オウム後継「アレフ」で進行する“弱体化” 「悪化する資金繰り」と幹部の離脱 アレフの施設内で記者会見する広報部長(当時)=2004年2月(画像の一部を加工しています)    オウム真理教の信者が地下鉄にサリンをまき、史上最悪の宗教テロを引き起こしてから30年が経過した。麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚の教えを今も忠実に守り続けているとされるのが、後継団体「アレフ」だ。近年は、団体規制法(無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律)に基づく活動制限で運営の資金繰りが悪化し、組織の弱体化が進むなか、麻原ファミリー介入も取り沙汰される。追い込まれた教団はかつてのように潜在化、先鋭化の道をたどることになるのだろうか。 *  *  * 現在の信者は約1600人  オウム真理教は、1995年の地下鉄サリンを含む一連の事件の後、現在はアレフ、「ひかりの輪」、「山田らの集団」に分裂している。公安調査庁によると、信者数は全体で約1600人、施設は15都道府県に30カ所ある。ひかりの輪の約120人、山田らの集団の約30人を除けば、そのほとんどはアレフに所属している。  ひかりの輪はオウム教団最高幹部の一人だった上祐史浩氏がアレフから独立する形で2007年に立ち上げた。上祐氏は一時期アレフの代表だったが、教団の運営方針に「脱麻原」を掲げたことで麻原家の反発に遭い、信者62人を引き連れて脱会、新組織を発足させたとされる。山田らの集団は15年ごろ運営方針の対立からアレフとは距離を置いた金沢市を拠点とするグループ。名称は公安調査庁による呼称だ。  公安調査庁は3団体についていずれも「依然として麻原の影響下にあり、現在も当時の危険な体質を有している」としているが、なかでも麻原元死刑囚の遺影を施設内に掲げ、その教義を忠実に引き継いでいるアレフの動向には最も注視する。かつてのオウム真理教のように、社会から孤立し、麻原元死刑囚の教えを実現するために先鋭化する恐れがあるとみているからだ。 麻原ファミリーの位置づけ  そのアレフ。公安調査庁などによると、現在の指導体制は幹部による合議制で、合同会議が定期的に開かれており、その時々の代表者は2人1組の共同幹事による輪番制になっているのだという。教団にはオウムの時代から、その地位を上位から尊師、正大師、正悟師、師、スワミ、一般サマナなどと分けている。現在のアレフのなかで最高位にあるのは正悟師1人。その直下の師は20人前後いるとみられるが定かではない。それらの幹部が合同会議を運営するが、中心となるリーダー的存在はいないという。 オウム真理教の教祖・麻原彰晃元死刑囚=1995年6月    麻原元死刑囚と妻には2男4女の子どもがいる。妻を含め、麻原家の誰もアレフの名簿に名を連ねてはいないが、かねて妻を含め一部の家族による教団への介入が指摘されてきた。  麻原元死刑囚は自らの子どもたちの教団での地位について、地下鉄サリン事件の前後で2回、重大な発信をしたとされている。  1度目は、サリン事件の前。麻原元死刑囚は「すべてのステージの上に皇子を置く」とする通達を出した。皇子とは麻原元死刑囚の子どもたちを指し、前述した教団内の地位のなかで、信者の最高位である正大師のさらに上に子どもたちを位置づけた。  2度目は、逮捕後の1996年。今度は拘置所からの発信だった。長男と次男を自らに代わる教祖に指名する、というものだった。  アレフの信者はこうしたメッセージに縛られているとみられる。公安調査庁によると、2014年ごろから、次男を麻原元死刑囚の後継者として迎え入れようとする動きが教団内にあるとされる。次男の復帰を願うよう幹部が一般信者を指導したり、イベントなどの場で次男の後継者としての正統性や偉大性を強調したりしているという。コロナ禍以前までは、毎年3月に次男の誕生日を祝う「生誕祭」が執り行われてきたともいわれる。しかし麻原家のメンバーは誰も教団の名簿に名前を連ねておらず、外形的には教団とは無関係となっている。 オウム元幹部に届いたある告発文 〈もうみんな嫌気がさして恐怖におびえています〉  昨年10月、オウムの元幹部信者・野田成人氏のブログ上で、アレフの内情を訴えるこんな「告発文」が公開された。送り主は匿名の「元関係者」。告発者が「恐怖」と語るのは、麻原元死刑囚の次男のことである。  告発は3400字に及ぶが、かいつまんで紹介すると以下のような内容が記されている。  現在のアレフの運営体制は、「合同会議」という幹部信者による合議で行われ、特定の代表者は置いていない。2017年ごろから、麻原元死刑囚の次男が主宰する「裏合同会議」が事実上の意思決定機関になった。この次男が合同会議の幹部を招集して通信アプリによる会議が開かれ、重要事項はここで決められるようになった。初期は宗教的な話題が多かったのだが、近年は公安調査庁による立ち入り検査や教団が抱える裁判、教団資産などについての対策が主になっている。    この告発文に続いて今年1月、宗教をテーマにしたあるサイトにアレフ元幹部を名乗る人物のインタビューが掲載された。 〈まるでハリーポッターに登場する「名前を呼んではいけないあの人」のようです。――――――――多くの場面で「例のあの人」のように呼ばれています〉  告発文とこのインタビューの内容は、裏合同会議の存在を指摘するなど根幹部分で共通点が多い。信ぴょう性については定かではないが、アレフを脱会した別の元幹部信者は「意思決定のシステムとその変遷、再発防止処分対策で新しい人事制度を作ったことなどが正確で具体的」と指摘する。オウム真理教と30年以上闘ってきた滝本太郎弁護士は「教団の幹部信者でなければ分からない内容が含まれている。昨今、幹部信者の脱会が目立ってきており、告発文はそうした人が信頼する野田氏に宛てて自らの不満を書いたものだと思う」と話す。団体規制法の下で教団を観察対象としている公安調査庁も告発文に関心を示しており、内容の真偽について調査を進めているという。アレフは裏合同会議の存在を否定している。 制限される活動と細る資金  アレフなど3団体には団体規制法に基づく観察処分が継続して下されており、いずれの団体も公安調査庁による立ち入り検査の受け入れのほか、3カ月ごとに構成員の名簿や資産などの状況を提出することが義務づけられている。ところがアレフは近年、これらの資料の一部を提出しなくなったという。  団体報告を怠っていることにより、アレフには23年、観察処分に加えて、団体規制法に基づく再発防止処分が下された。アレフは現在、全国におよそ20ある教団施設のうち16施設の全部または一部の使用ができなくなっている。教団は在家信者向けの物品販売やセミナーの開催などで一定の収益を上げているとされるが、こうした収益事業の事業所の使用も禁止された。さらに金品の贈与も禁じられ、お布施を受けることができない。アレフの収益は相当に追い詰められてきているとみられる。  アレフが公安調査庁に報告している資産は、2019年には約13億円あったのが、年々急激に目減りし、直近(昨年11月)では5000万円となった。だが、この金額について同庁は懐疑的だ。地下鉄サリン事件などの被害者や遺族に対する賠償金について、「オウム真理教犯罪被害者支援機構」に対するアレフの未払い額は約10億2500万円であることが、20年の最高裁判決で確定した。しかしアレフはその後も支払いに応じていない。最高裁判決を機に、教団はこれまで報告してきた収益事業の一部を「アレフとは無関係」などとして報告対象から外しているといい、極端な資産の目減りはこうした工作の結果だと同庁はみている。同庁の担当者は報告資産の急激な縮小は「賠償を逃れるための資産隠しではないか」と話す。 アレフの関連施設がある滋賀県甲賀市。「オウム(アレフ)断固反対」などと書かれたのぼり旗が並ぶ=2024年11月    では、教団には実際にどのくらいの資産が残っているのか。公安審査委員会は昨年、4回目の再発防止処分に踏み込んだ決定のなかで、「9つの事業名義の資産は今年1月末時点で約7億円にのぼるのに報告されていない」としている。  一方で、宗教だけでなく、収益事業などの活動を制限する再発防止処分が教団を資金面で圧迫してきていることに変わりはない。追い込まれた教団内で危険な動きが出てこないか、公安当局は警戒する。 幹部脱会で“崩壊”の兆し  滝本弁護士によると、ここ1~2年の間に、合同会議のメンバーに名を連ねる「師」クラスの幹部らのなかから何人も脱会者が出たと推定される。昨今の脱会の特徴は、麻原信仰に疑問を持ったゆえの脱会ではなく、今のアレフという組織自体に我慢ができず離れただけ、という特徴があるという。  意思決定機関の合同会議はここ最近はあまり開かれていないという情報もあり、組織運営が機能しているのかどうかさえ分かりにくくなっている。一方で、合同会議のメンバーである幹部が、長期の修行をさせられたという情報も飛び交い、組織としてのまとまりが感じられなくなっているという。 「地下鉄サリン事件から30年。再発防止処分で金銭もきつくなり、また分派ができる時期でもある。これから出現する『グル』の願望により方向は変わるが魅力がなければ崩壊していく。早くクモの子を散らすようにさせたい」(滝本氏) ***  アレフ広報部の話  一連の事件の被害者の方々に対する補償については、これからも継続していく所存です。アレフに「裏合同会議」なるものがあり、「次男による独裁が進められている」という事実はありません。インタビュー記事のなかにある「『師』というステージで」「教団運営に関わっていました」という「元幹部」に該当する者の在籍は確認できませんでした。 (AERA dot.オウム取材班)
ポスター付録「日本の世界遺産」や豪華読者プレゼントも!小中学生向けニュース月刊誌『ジュニアエラ』4月号発売
ポスター付録「日本の世界遺産」や豪華読者プレゼントも!小中学生向けニュース月刊誌『ジュニアエラ』4月号発売   親子で楽しく読めて、中学受験・高校入試の勉強にも役立つ、小・中学生のためのニュース月刊誌ジュニアエラ2025年4月号が、3月14日(金)に発売されました。今号の特集は「クイズに挑戦! 47都道府県ランキングです。今回は春の「増大号」として、「日本の世界遺産」が一目でわかる、ポスター付録つき。豪華読者プレゼント企画もあります。連載「『文豪ストレイドッグス』で学ぶ 日本の文豪」は、梶井基次郎が登場します。 今月号は「日本の世界遺産」が一目でわかる、ポスター付録がついています。中学受験の社会や時事問題でも頻出の「世界遺産」。「日本の世界遺産」の文化遺産21件、自然遺産5件を、写真、所在地(都道府県)、評価された点をコンパクトに紹介。2024年に登録された「佐渡島の金山」まで入った最新版。家の壁に貼って覚えるのにぴったりです。 特集は「日本一はどこ? クイズに挑戦! 47都道府県ランキング」です。47都道府県にはそれぞれ、その土地ならではの特徴があります。農業編、漁業編、産業編のさまざまなランキングをもとに、各地の魅力を掘り下げていきます。たとえば、米の収穫量日本一はどこでしょうか? それは新潟県。以下、北海道、秋田県、山形県と、日本海側が並びますが、その理由のひとつが「雪どけ水」。米を栽培するのにはたくさんの水が使われるため、ランキング上位にはとくに積雪が多い日本海側が上がってくるのです。こんなふうに、社会や理科の知識も学びながら、都道府県ランキングのクイズに挑戦できます。 時事ニュースをわかりやすく解説する「ニュースが知りたい」では、「トランプ大統領復活、世界への影響は」を深掘り。1月20日、アメリカ大統領にドナルド・トランプ氏が就任しました。就任当日から次々と大統領令を出しましたが、その中には、国際社会が進もうとしている方向性を否定するものがたくさん含まれています。トランプ大統領の「アメリカ第一主義」とは何か、また今後どのような懸念があるのか。ジャーナリストの一色清さんが解説します。 このほか、「佐々木朗希投手がドジャース入団」「下水道が壊れて道路が陥没」のニュースも解説します。 スペシャルインタビューは、お笑いコンビ・サンドウィッチマンさんが登場。公開中の『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』のゲスト声優を務めたおふたりのドラえもんにまつわるお話や、子ども時代の“大冒険”、読者へのメッセージなどを聞きました! 連載『「文豪ストレイドッグス」で学ぶ 日本の文豪』は、実在する文豪と同じ名前を持つキャラクター達が、「異能」を武器にバトルを繰り広げる人気のマンガ・アニメ「文豪ストレイドッグス」(株式会社KADOKAWA)とのコラボ連載。第11回は「梶井基次郎」です。「文スト」では、手製の「檸檬爆弾(レモネード)」を駆使する爆弾魔。実際の基次郎は、肺結核により31歳で早世するという不運の人でもありました。川端康成の妻からもらったリンゴをピカピカに磨いて部屋に飾っていた基次郎ですが、そのリンゴを食べた友人の三好達治に対してした「あること」とは? QuizKnockからのクイズに挑戦する連載「学び×遊びクイズに挑戦 クイズノックキャッスル」はふくらPさんが登場! 「食べ物の漢字」のクイズを出題します。クイズに挑む読者へのメッセージも聞きました。 もしも歴史人物がSNSを使っていたら…!? 連載「歴史人物SNS」、今回は「徳川家康」です。幼いころ今川家に人質に出される途中で織田家に奪われた家康。その後、青年期まで今川家の人質として過ごしながらも、最後に天下を握り、江戸幕府を開きました。辛抱を重ねた苦労人、家康の生涯とは? 連載「中学受験通信」では、先月号に続き2025年度の中学入試の問題を紹介します。今回は「写真やグラフを使った時事問題」です。2023年の広島G7サミットでの各国首脳の集合写真から、参加したある国際組織の名称を答えさせる問題や、2024年に行われた各国の選挙での当選者の顔写真、また当選者の主張などを選ばせる問題など3問を紹介します。 学びにも役立つゲームソフトや人気ボードゲーム、「科学漫画サバイバル」シリーズの本や児童書など10種類があたる、豪華読者プレゼントもついています。 そのほかにも、盛りだくさん! ●ニュースの瞬間 国が「備蓄米」放出を決定 ●フンダラ姫のNewsなひとこと ●マンガ コリゴリ博士の暴投ステーション ●桃太郎電鉄で行く!47都道府県 奈良県 ●夕日新聞 日本全国B級ニュース ●旬のたべもの カンタンレシピ ジューシーイチゴ大福 ●なりたい!が見つかる お仕事図鑑 スポーツに関わるお仕事 ●小島よしおの ボクといっしょに考えよう ●子ども地球ナビ アメリカ・グアムの女の子 ●ことワンのことわざたずね旅 ●読者のページ ジュニステ 2コマまんがdeあ・そ・ぼ/ジュニアエラ大喜利 ●サイエンスジュニアエラ ●ニュースのニューシ問題 ●コリゴリ博士と読む2月のニュース ●インフォメーション おすすめ本/イベント ジュニアエラ2025年4月増大号 特別定価:650円(本体591円+税10%) 発売日:2025年3月14日(金曜日) https://www.amazon.co.jp/dp/B0DVSP7Y76
医師から「危篤宣言」された男の体に生じていた事 死亡率20%の病、始まりは「背中の痛み」だった
医師から「危篤宣言」された男の体に生じていた事 死亡率20%の病、始まりは「背中の痛み」だった ※写真はイメージです(gettyimages)   仕事中、大きく伸びをしたら背中に激痛が走り、救急車で病院へと運ばれたという男性(46歳)。意識がはっきりしていて受け答えもできたのに、目の前にいる医師から「あなたはキトク」と告げられた、その理由とは――。 「あなたはキトクです」  明け方、救急車で運ばれた病院で、こう医師から告げられた山田高雄さん(仮名)は、あまりのことに耳を疑った。  46歳のその日まで大きな病気をしたことはなく、救急車で運ばれたとはいえ、意識ははっきりしていたからだ。まさかキトクと言われるとは思わなかった。 生死の境をさまようことに  そもそもの始まりは、その日の午前3時頃の出来事だった。男性は昼夜逆転の生活をして、夜間に仕事をすることが多かった。 「この日も自宅で仕事していて、気分転換に両手を上げて大きく伸びをしたんです。そうしたら、背中がピキッとこわばって、急に痛くなりました。最初は四十肩かと思ったのですが、時間が経つにつれて、どんどん痛みが増して……」(山田さん)  当時、昼夜逆転の生活をしていた山田さん。いつも夜の7時ごろから翌朝の8時ごろまで仕事をしていたという。  家族はすでに就寝していたが、あまりの痛みに耐えられず、妻を起こして背中をさすってもらった。ところが痛みはどんどんひどくなり、脂汗が出てくるほどに。子どもが救急車を呼んでくれたという。 「救急隊が到着すると、すぐ『循環器系だね』と。痛みがひどいので痛み止めを点滴で入れてもらいながら病院に運ばれました。病院に着くやいなやストレッチャーに乗せられ、そのときに医師に『キトクだ』と言われたんです」(山田さん)  最初は意味がわからず、「どういうことですか?」と聞いた山田さん。すると医師は「生死の境にいるということです」と、淡々と答えたという。「ホントに、びっくりしました」と山田さんは振り返る。  ただ、体に異変はあった。検査の同意書を書くように言われてペンをとったものの、字が書けなかった。「脳自体は生きているのに、体につながっていないような感じでした。仕方なくそばにいた妻に書いてもらいました」(山田さん) ドクターカーで大きな病院へ  結局、その病院では治療ができないということで、医師に付き添われてドクターカーでもっと大きな病院へ。搬送中にも再び医師から死亡するリスクがあることを告げられた。  幸い循環器系に強い大病院へ無事にたどり着くことができた山田さん。そこで自分の身に起きていたことを知る。診断された病名は、なんと死亡リスクが非常に高い「大動脈解離(かいり)」だった。  大動脈とは、心臓から送り出された血液が最初に通る最も太い血管のこと。外膜・中膜・内膜の三層に分かれているが、何らかの原因で中膜が裂けて外膜との間に血液が流れ込んで、膨れあがった状態を大動脈解離という。外膜まで破れると、血管破裂によって命を失うこともある。  大動脈解離をもっとも発症しやすい年齢は、男女とも70代。危険因子には高血圧、動脈硬化、脂質異常症、糖尿病、睡眠時無呼吸症候群、喫煙、ストレスなどがある。 「そこそこ年齢が若いし、上の血圧(拡張期血圧)は130mmHgと、さほど高くなかったので、大動脈解離と診断されて驚きました」(山田さん)  医師の説明によると、通常は直径30mmほどの胸部大動脈が、45mmまで膨らんでいたという。外膜が破れなかったため、血管破裂まではいかなかった。すんでの所で助かったのだ。  この最初の入院時、ICU(集中治療室)で血圧を下げるなどの治療を受けた山田さんは、容体が安定したため手術をせず、様子を見ることになったという。  だが、その1年後。山田さんの大動脈の直径は50mmにまで膨らんでしまう。いよいよ血管破裂のリスクが高くなり、再び入院して破裂しかけた大動脈を人工血管に取り替える手術をすることになった。  手術前、医師がイラストなどで手術のやり方などを説明してくれたのだが、それを見ていた山田さんは変な感想を抱いた。 「へぇ、人工血管って洗濯機の排水ホースにそっくりなんだ、って不謹慎にも思いました(笑)」  そう、山田さんは家電関係の仕事をしていたのだ。  約10時間におよぶ大手術は成功。麻酔から覚めた山田さんが目を開けると、妻や子どもたちが泣いている姿が目に入った。そこで初めて病気の重さにハッと気付かされた。 「私自身もいろんな管につながれていて息苦しかったり、痛かったりしたんですが、それ以上に、家族が悲しむ姿を見るのがつらかったです」(山田さん) 病を乗り越えて変わったこと  山田さんが受けた手術は、体の前側から後ろ側へと斜めに大きく切開したあと、肋骨を3本切って、大動脈を人工血管に取り替えるというもの。  このとき迷走神経に触れてしまうことがあるため、声が出なくなったり、飲み込みに支障が起こる嚥下(えんげ)障害が起こったり、めまいがしたりなどの後遺症が残ることがある。  実際、「手術後、声帯が半分動かなくなって声がかすれました。嚥下障害もあって、食事中にむせることもありました。息切れして、長く歩けなくなったことも困りました」と山田さんは話す。  退院後は、それまで1日20~40本ほど吸っていたタバコを投薬治療(禁煙治療)によってやめ、昼夜逆転生活もやめたという。生活習慣を改めて、よく歩くようにしていたら、1年後には息苦しさが減り、2年くらいでずいぶんよくなったそうだ。  ただ、現在もすべての後遺症が消失したわけではない。  最初の発症から10年の時を経た今も声が出にくい日もあり、嚥下障害も残っている。興奮すると平衡感覚がおかしくなってめまいがすることも。そんなときは、すぐにしゃがんで倒れないようにしているという。 病を得て1つだけ「いいこと」があった 「だけどね、1ついいこともあったんですよ」と山田さんは言う。 「以前、私は少し短気で怒りっぽいところがあったんですが、大きな病気をしてからは『人は生かされている』と思うようになり、他人にやさしく穏やかに接することができるようになりました。家族も喜んでくれたんじゃないですかね」(山田さん) 総合診療かかりつけ医・菊池医師の見解  総合診療かかりつけ医、きくち総合診療クリニック院長の菊池大和医師によれば、大動脈解離の原因はさまざまで、遺伝も関係するが、高血圧が引き金になることが圧倒的に多いと説明する。 「高血圧は生活習慣病の1つで、喫煙や飲酒、暴飲暴食のほか、不規則な生活を送っていたり、肥満だったりするとなりやすいので、普段から気をつけましょう」(菊池医師)  何しろ大動脈解離は、死亡リスクが非常に高い。約20%の人は病院に到着するまでに亡くなるそうだ。加えて、この病気が恐ろしいのは「血液が回らなくなることで、脳卒中や心筋梗塞などの合併症が起こって、それで命を失うケースもあるところ」だと、菊池医師。  また、太くて長い大動脈のどの部分に亀裂が入るのかで、予後も治療法も違ってくる。 「心臓に近い上行大動脈に解離が起こる『スタンフォードA型』のほうが死亡リスクが高く、解離から48時間以内に破裂を起こすことが多いため、緊急手術を行います」(菊池医師)  一方、背中に近い下行大動脈に解離が起こる「スタンフォードB型」は、すぐには破裂しない傾向があるので、血圧を下げる治療を行うことが多いそうだ。  山田さんの場合、幸いにもスタンフォードB型だったため、ただちに命に関わることがなく、経過観察となった。  ただその場合でも、経過観察中に破裂のおそれが出てきたら、手術を行うことになる(実際、山田さんはそうだった)が、近年、大動脈解離の計画手術(緊急手術ではなく、予定された手術)は、医療の進歩によって、だいぶ安全に行えるようになったと、菊池医師は言う。 血圧は大動脈解離の最大の要因  いずれにせよ、一度発症したら再び血圧が高くならないよう、徹底的にコントロールする必要がある。 「普段から血圧を測って管理し、必ず治療を続けてください。それからトイレで強くいきんだり、暖かい場所から急に寒い場所に行ったりすると血圧が上がりやすいので、十分に気をつけましょう」(菊池医師)  なお遺伝が関わっていることから、家族に大動脈解離を発症した人がいる場合も、大動脈解離には注意が必要だ。  過度の飲酒をせず、喫煙や暴飲暴食をやめ、便通がよくなるようバランスのよい食事をとり、適正体重をキープし、適度な運動をし、規則正しい毎日を送る……普段から適切な生活習慣を送ることが大切だろう。 (菊池大和 : きくち総合診療クリニック / 大西まお : 編集者・ライター)
30年テレビから消えない48歳「坂下千里子」落ち着きがなく時に攻撃的なウザキャラ手腕と慕われる理由
30年テレビから消えない48歳「坂下千里子」落ち着きがなく時に攻撃的なウザキャラ手腕と慕われる理由 1994 年に芸能界入りしてから30年間活躍する坂下千里子  タレントの坂下千里子(48)が、著名人が集まるテニスサークル「STC(坂下千里子テニスクラブ)」の活動を自身のインスタグラムで報告。その豪華なメンツが反響を呼んでいる。  坂下とフリーアナウンサーの中村仁美を中心とした「STC」は約1年半前に始動し、これまでにフジテレビの松村未央アナ、美容家の小椋ケンイチさん、ハライチ・澤部佑、サンシャイン池崎らが参加。2月25日に坂下が投稿した集合写真には、元プロテニスプレーヤーの馬場早莉さん、巨人・田中将大投手の妻でタレントの里田まい、おぎやはぎ・小木博明らが写っている。エンタメ誌の編集者が話す。   「坂下さんは昨年9月、『STC』の活動中に偶然隣のコートに錦織圭選手がいたとして、一緒に撮った写真をSNSで公開。これを多くのネットニュースが取り上げて話題になりましたが、こうして趣味や人脈を仕事につなげる様子は、さすがやり手の坂下さんといった印象です。また、かわいらしいテニスウェア姿を披露している彼女ですが、そのいつまでも変わらないルックスから、48歳と知って驚く人もいるようです」  坂下といえば、1994年に「第2回 アルペンTVCMイメージガール・オーディション」でグランプリを獲得し、芸能界入り。デビュー当時は芽が出なかったが、97年から「王様のブランチ」(TBS系)でリポーター(ブラン娘)を務め、“おバカキャラ”でブレーク。エステティックサロン「スリムビューティハウス」のCMでのキャッチフレーズ「バッチリチリ脚」も話題となり、2001年からは「笑っていいとも!」(フジテレビ系)に6年間レギュラー出演するなど、バラドルのトップを駆け抜けた。  その後、08年にフリーのカメラマンと結婚すると、同年に長女、10年に長男を出産。ママタレになってからは、報道・情報番組でのコメンテーターの仕事が増えるようになり、19年10月22日に生放送された「即位礼正殿の儀」のNHK特番でゲストコメンテーターに抜てきされたことも話題となった。 落ち着きがなく、時に攻撃的  現在、MCを含む3本のレギュラー番組を持つ坂下。ブレークから約30年たった現在も第一線で活躍しつづける彼女について、芸能評論家の三杉武氏は次のように語る。 「坂下さんのブレークは、美人で明るいキャラクターとコミュニケーション能力の高さ、バラエティー番組での優れた対応力が評価されてのことでしょう。情報番組や報道番組への出演に関しては、近年はママタレントとして存在感を放っていますし、“30代になってママ友たちと『政府と私たちの気持ちが全然違うな』と話しているうちにニュースへの興味や学びたいという気持ちが出てきた”といった趣旨の発言もしているので、そうした思いを体現した格好でしょう」  私生活では、趣味のテニスに注力しながら高1と中2の子どもを育てているベテランママだが、テレビでの彼女の振る舞いを見ると、良い意味で落ち着きがなく、時に攻撃的だ。  例えば、解答者にママタレばかりが集められた今年2月10日放送の「呼び出し先生タナカ」(フジテレビ系)では、序盤で山口もえが「野菜ソムリエ中級」の資格を所持していると明かすと、坂下はすかさず「私はテニススクール中級です!」とライバル心を強調。さらに、渡辺満里奈と千秋がクイズに不正解だった際には、坂下が大声で「満里奈さんと千秋さん、間違ってるじゃないですか! 信じられない!」と揚げ足を取った。  また、「1位になるのが夢だったんです、この番組で」と突然涙を見せた小倉優子が、最終問題で正解すると、坂下は「さっき泣いたから答えを教えてもらったんじゃないですか?」と指摘。そして、正解を重ねた山口には「(スタッフと)付き合ってる?」と言い放ち、自身のキャラクターを最大限にいかして番組を盛り上げていた。   「命の恩人」と慕う後輩  前出の三杉氏が振り返る。 「独身時代は自分のことを“私”ではなく“ちり”と呼んだりと、男性ウケを狙ったぶりっ子っぽい発言や行動が一部の同性視聴者からは“ウザキャラ”扱いされていましたね。共演者やスタッフなどの証言では、実際のところはさっぱりとした気さくな性格のようですし、それもプロ意識のなせる業だったのでしょう。結婚後の出演番組ではそうした素の部分も出ていて、同性からの支持も以前より高まっている印象です。今回の『呼び出し先生タナカ』での発言や行動が一部の視聴者からは眉をひそめられているようですが、あくまでバラエティーノリで盛り上げようとした結果、一部から過剰と捉えられたのかもしれません」 【こちらも話題】 「ホットスポット」で“少々面倒くさい女”好演の「夏帆」、妻夫木聡も称賛する“人間性” https://dot.asahi.com/articles/-/251942    そんなプロ意識の高い坂下を慕う後輩は多く、中でもハライチの岩井勇気が、芸能界で初めて自身の“尖っている感じ”を褒めてくれたとして坂下を慕っていることは有名。岩井は「坂下さんがいなかったら(芸人を)やめていたかもしれない。命の恩人と言ってもいいくらい」と感謝し、冠番組「ハライチのターン!」(TBSラジオ)では毎年4月に「坂下千里子生誕祭スペシャル」を放送している。前出の三杉氏が言う。 「オードリーの若林正恭さんも『ちりさんがいらっしゃると現場が明るくなる』『機嫌が悪いとか想像できない』などと称賛。『もしもツアーズ』にゲスト出演した際、坂下さんから『若林くん、大人で人見知りなんて絶対ダメなんだからね』と言われたのが忘れられないと明かしていました。また、公私ともに親交のあるMEGUMIさんも『スタッフ一人ひとりに“髪切った?”とか話し掛けて心を掴んでいて感心した』と話しています」  番組によってはウザキャラを使いこなし、テレビ業界で信頼を獲得してきた坂下。息の長いバラエティータレントの見本ともいえそうだ。 (小林保子)
難題も「できない」と断らない父から継ぐ「社長魂」 清川メッキ工業・清川肇社長
難題も「できない」と断らない父から継ぐ「社長魂」 清川メッキ工業・清川肇社長 高島先生(左)の提案で、研究室の学生と社員で定期交流会をやった。自分でプログラムをつくって教えて、最後に10年後の仕事を各自に考えさせた(撮影:狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年3月10日号では、前号に引き続き清川メッキ工業・清川肇社長が登場し、「源流」である母校・福井大学などを訪れた。 *  *  *  メッキは、気がつかないところで、いろいろ使われている。基本的な技術はそんなに大きく発展していないが、1ミクロン(1メートルの百万分の1)未満、つまりナノ(1ナノメートルは千分の1ミクロン)という超微細な金属粉にまで、メッキできるようになった。だから「ナノメッキ」とも呼ばれる。  薄膜に使う素材も進化し、極小化は省資源や省エネルギーの意味でも貢献度は大きい。その結果、用途は変わり、半導体を中心にスマホなど電子部品、自動車の自動運転装置、外科手術用の医療機器などへと広がる。  10年たてば、硬さがあるものだけでなく、ふにゃふにゃとしたものにもメッキされているだろう。父で清川メッキ工業の創業者の清川忠会長(84)は「水と空気はメッキできない」と言ったが、「水と空気以外はメッキできる」となる。すべて、基本的な技術からの積み重ねだ。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  昨年暮れ、福井市文京3丁目の母校・福井大学を、連載の企画で一緒に訪ねた。1983年4月から工学部の工業化学科で4年、大学院工学研究科の修士課程で2年、博士課程で3年と通算9年、ここで学んだ。とくに大学院ではメッキの研究を重ね、新しい装置の開発にも取り組んだ。清川肇さんがビジネスパーソンとしての『源流』が生まれた、と言う日々だ。 指導教官のお褒めを照れ臭かったのか下を向いて聴いた 「オリジナリティー」は、そのときに指導教官をしてくれた高島正之先生(現・客員教授)が院生に求めた言葉だ。その高島先生が、大学の産学官連携本部で再訪を待っていてくれた。出会いは86年4月、4年生で先生の無機化学の講義を聞き、先生の専門の電池の開発を学んだ。高島先生が振り返る。 「工業化学科は1学年が40人から50人。そのなかで清川さんは黒板にちょっと書いて『これ、どうや?』と指名して聞くと、ちゃんと答え、ちょっと抜けていた。基礎学力があって『この子は伸びていくな』と感じた」  清川さんは照れ臭いのか、ときどき下を向いて聴いていた。  電池はメッキと化学反応など似たものが多く、講義がのちに役立ったこともある。卒業を控えて父が紹介してくれた大阪府の電機メーカーへの就職は、社長後継への「レール」となるので断って、修士課程へ進んだ。もっと学びたいというより、進路を考える時間稼ぎだった。  メッキの研究に集中し、独りで父の会社が必要な装置も開発した。先生の話が続く。 「覚えています。メッキ分野は指導できる教員がいなかったので、自分1人でやっていた。家業の課題を研究テーマにして、それを発展させたのが修士課程で、もう独り立ちしていた」 『源流』の水源が、溜まっていく時期だった。  修了が近づくと、バブル経済の売り手市場で、就職案内が何百社もきた。そんななか、テレビで富士通の社員が仕事をしながら課長昇格の試験を受ける番組を観て「厳しそうだが、面白そうだ」と思う。しかも、募集がきた半導体の開発拠点は川崎市にあり、一度はいきたかった東京に近い。就職先に決めた。  富士通は、母の「お父さんの体調が悪いので福井へ帰ってきて」という電話で、2年9カ月で退社。92年1月に清川メッキ工業へ入社した。最新の電子部品のメッキ装置が入ったときで、技術開発を担当する。  そのころ、高島先生に勧められ、新設の博士課程へ入った。2年目から博士論文の準備を始め、このとき、先生に「オリジナリティーをつくらなければいけないよ」と言われる。 オリジナリティーに難しい注文も断らず新装置をつくった父  父は、どんなに難しい注文でも「できない」と言わない。難題を実現するために、自ら新しいメッキ装置をつくった。「オリジナリティー」に重なる。その「社長魂」は、職住一体の創業の地に生きている。  清川メッキは80年代に入るまで、2輪車の車輪を支えるリムのメッキ加工が稼ぎ頭だった。だが、新しい技術が出て需要が減ることはみえていた。父は雑誌で電子部品のメッキ加工の記事を読み、「ぜひ進出したい」と思っていたら、大手電機メーカーから電子基板に使う抵抗体にメッキする依頼がきた。  大きさは数ミリで、リムよりも微細なメッキ技術が必要だ。でも、父は「できない」と言うのが嫌いで、「やる」と即答する。電機メーカーは父と話していて「これは知らないな」と見破ったらしいが、他に「やる」という会社がないので、組んで始めた。父は試作を重ねて、80年代後半に軌道へ乗せる。  父が、福井市和田中で清川メッキ工業所(現・清川メッキ工業)を設立したのは63年、清川さんが生まれる前年だ。『源流Again』で、創業の地も訪れた。残っている建物に「1st Factory」とあった。1階は事務所、2階は住宅、後ろが工場で、その先は田んぼだった。母・トヨ子さん(83)と弟2人の5人家族だ。 土日も働いた父母家族同様の社員と花見や海水浴へ  小学校3年生までいた旧家の前に立つと、口調が弾む。 「父母は土日もなく働き、正月くらいしか休みませんでした。社員は家族同様で、昼食も夕食も一緒に食べたし、みんなで花見や海水浴へいきましたね」 売り上げ目標も予算も、中期計画もない。他社と比べることも、考えたこともない。依頼されたメッキをすぐにやって納品し、何かあればそのときに考えるのが社風だ(撮影:狩野喜彦)    県立足羽高校から福井大学工学部、大学院工学研究科へと進み、『源流』が流れ始める。 『源流Again』とは別の日に、89年4月からいた富士通川崎工場へもいった。JR武蔵中原駅前の歩道橋の上から目前の工場をみると、新しいビルになっていた。配属された半導体開発チームの建物は、ビルの向こう側にあった。  国内外で半導体工場を増強していたころで、先輩の大半は応援に派遣され、残ったのは先輩1人と自分だけ。先輩に何をすればいいのか聞くと、「自分で考えて仕事をみつけろ」と言われた。いい教えだった。もっとよかったのは「半導体とはこういうものだ」と理解でき、ナノテクの解析を学んだ点だ。大学院の博士課程で半導体のメッキ装置が開発できたのも、そのおかげだ。修士課程に続いて『源流』の伏流水が増えていく。  長女は山梨県にいて、長男は京都府の会社にいる。長男は大学を出る前に就職の相談にきたが、何か言うと後継者への「レール」になるといけないので、父の真似をして「自分で探せ。福井へ帰ってくるかどうかは、30歳まで働いてじっくり考えればいい」と答えた。胸の内では「早く帰ってきたらいいな」と思っているが、妻ともども「そろそろ福井へ帰ってこないか」と言ったことはない。  でも、自分が父の会社へ入ったのは27歳。その年齢に近づく3代目が『源流』に合流してくる日は、遠くはなさそうだ。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2025年3月10日号
卵子凍結は女性たちの“お守り”代わり 一方「50歳で期限切れ」廃棄の葛藤と苦しみも
卵子凍結は女性たちの“お守り”代わり 一方「50歳で期限切れ」廃棄の葛藤と苦しみも 卵子や受精卵の状態を変えず、何十年も保存し続けることができる技術には、葛藤も見え隠れする(撮影/写真映像部・松永卓也)    現在、生殖医療でごく日常的に用いられている“凍結保存”は将来に妊娠・出産の可能性を残せる技術だ。選択肢が広がる一方で、新たな葛藤も生まれている。AERA 2025年3月10日号より。 *  *  * 「年齢を考えると、できることなら、今すぐにでも妊娠して子どもを産みたい。でも相手がいなくて、それが叶(かな)わない。そんな中で将来に産める可能性を少しでも残しておきたくて、卵子凍結したんです」  外資系コンサルティング企業に勤める41歳の女性は、こう口を開いた。女性が卵子凍結したのは、40歳を迎える誕生日を翌月に控えたタイミング。パートナー不在の中、「40代という数字に焦ったところもあった」と打ち明ける。  仕事中心の生活を過ごしてきた20~30代。社会に出て忙しい日々の中、「子どものことなんか考える余裕がなかった」とこぼす。交友関係も広く、都心で過ごす一人の生活は、忙しくも充実していた。  ある程度キャリアを築き、「そろそろ家族がいたらいいな」と思い始めた30代半ばに突き当たったのが、新たな相手と出会うことのハードルの高さだった。特に結婚相談所などの婚活の場では、「女性の価値は、これほどまでも年齢で判断されるのか」と打ちのめされたという。妊娠・出産のタイムリミットを意識せざるを得ない中、焦燥感の中で出会いを求める日々に、いつ終わりが訪れるのか、見当もつかない。卵子凍結は、そんな中で、自分一人でも将来の妊娠・出産に向けて備えられる“唯一の手段”でもあった。 適齢期は20~30代前半  3回の採卵手術で合計18個の卵子を採取し、現在もクリニックで凍結保管し続けている。1回の採卵ごとに約40万円かかり、保管費用などを含めて、卵子凍結のために支払った金額は120万円を超えた。 「確かに大金ですが、将来のために、今自分でやれることはやったという達成感はあります」(女性)  卵巣から卵子を体外に取り出し、将来の妊娠に備えて凍結保存する卵子凍結。もともとはがんや白血病など病気の治療で生殖機能を失う可能性のある女性たちを対象に行われていた医療行為だったが、女性の社会進出とともに晩婚化、晩産化が進む中で、健康な女性が将来の妊娠に備えて行う「社会的適応」と呼ばれる卵子凍結が少しずつ広がってきた。東京都が2023年度から卵子凍結の費用助成を始めたのを皮切りに認知度が大きく広がり、昨年からは山梨県も助成をスタートするなど、行政による支援の動きも広がっている。 卵子凍結や体外受精で使用される注射器。卵子を体外に取り出す採卵手術の約2週間前から排卵誘発剤を投与し、卵胞を育てる(写真:松岡かすみ)    卵子凍結は主に、未婚でパートナーがいない女性が対象だ。大きなポイントが、若い頃の卵子を凍結保存しておくことで、妊娠しやすい期間を引き延ばすのを期待できること。卵子は年齢とともに減少し、受精する力や着床する力などに結びつく“質”が低下していく。そして年齢が上がるにつれ、妊娠率や出産率は低下する傾向にある。また、妊娠・出産時の合併症や早産、流産などのリスクも高まる。そのため、確実な妊娠のためには、医学的に“出産適齢期”とされる20~30代前半のうちに、妊娠・出産することが望ましいとされている。  一方、厚生労働省の調査によれば、現在の平均初婚年齢は妻が約30歳、夫が約31歳。結婚後、数年して「そろそろ子どもを」と考える年齢が30代半ばを超えてからというのが決して珍しくない現在だ。22年に国内で実施された体外受精の内訳を見ると、患者の年齢は保険適用の上限である42歳が最多という結果も見られている。 凍結卵子は“お守り”  実際、“出産適齢期”とされる20~30代前半の年代は、社会的に活躍の幅が広がり、働き盛りとも言える年代だ。いくら生物的には“適齢期”とはいえ、パートナーの状況や、キャリアプランとの兼ね合いなどから、なかなか妊娠や出産を考えられないという人も多い。こうした“適齢期”と現実とのギャップが、昨今の卵子凍結への関心の高さという形でも表面化している。凍結卵子の保管事業などを手がけるプリンセスバンクの香川則子さんは、こう話す。 「卵子凍結は、将来のための技術のようでいて、今を安心して生きるための技術とも言えます」  実際、卵子凍結を選択した女性たちからは、「今やれることはやった」という達成感を得られたという声や、「凍結卵子があるという事実が“お守り”代わりになっている」という声も聞かれる。将来に選択肢を残す目的だけではなく、精神的な安定につながるとする声だ。  一方、卵子凍結などの凍結保存技術は、“産むのを先延ばしにする技術”とも言え、「高齢出産をますます助長させるのでは」という懸念の声も少なくない。  卵子や精子、それらが合わさった受精卵も、マイナス196度という超低温で適切に凍結すれば、まるでタイムカプセルのように、状態を変化させないまま、何十年も保存し続けることができるのが、今の凍結保存技術である。この恩恵にあずかる人は年々増え続ける一方で、昨今では凍結保存技術が生む新たな葛藤も見え隠れしている。 AERA 2025年3月10日号より   期限切れで廃棄の葛藤  例えば卵子凍結は、多くのクリニックで、保管期限の上限が45~50歳とされている。しかしパートナー問題を始め、さまざまな理由によって、期限までに使うことができず、結局廃棄に至る例も珍しくはない。実際、凍結卵子の使用率は、世界的にもまだまだ低い傾向にあることから、「“個人の保険”に税金を投じることが適切と言えるのか」「卵子凍結は少子化対策にはならない」と、行政の助成事業に対し懐疑的な見方をする専門家も少なくないのが現実だ。卵子凍結を手がけるクリニックで、日々多くの患者と接するカウンセラーは言う。 「大事に凍結保存し続けてきた卵子を、期限切れによって捨てるしかなくなった時の苦しみは、知られていない部分が大きいのです」  例えば、50歳の誕生日まで、凍結卵子を保管し続けていた女性のケース。それまで保管費用のみで150万円を超える金額を費やしてきた女性は、更新で保管費用を数十万円単位で投入するごとに「ここまでお金をかけてきたんだから……」という気持ちが膨らんできた。凍結卵子を保管していることそのものが心の支えになってきた事実も鑑みると、自分の意思とは裏腹に、期限が来たことで卵子を捨てざるを得なくなった時には、筆舌に尽くしがたいつらさがあった。先のカウンセラーは言う。 「凍結技術は、その人の体験や記憶を、良いものにも悪いものにも変えてしまう。今後はどれだけ患者の心理に寄り添えるかという点も、より一層大切になってくるのでは」 (フリーランス記者・松岡かすみ) ※AERA 2025年3月10日号より抜粋  
女性が男性に闘いを挑む時代は終わった 男女がもっと自由に楽しく生きるヒントを探る
女性が男性に闘いを挑む時代は終わった 男女がもっと自由に楽しく生きるヒントを探る AERA 2025年3月10日号より    若い世代を中心に男性の意識に変化が見られる中、今後のAERAに求められる役割とは何か。過去の記事を振り返りつつ考えてみる。AERA 2025年3月10日号より。 *  *  *  1988年、「ライバルは朝日新聞です」と銘打って創刊した「AERA」。その時代を象徴する研究者や政治家、俳優らが表紙を飾り、巻頭では政治や国際問題についてこだわりの誌面デザインで展開した。スマートさが受け、若い世代を中心に絶大な支持を得た。  そんなAERAは96年に初めて女性の目線に立った巻頭特集を組んだ。「ラーメン離婚」と題した記事で、午後10時過ぎに帰宅した会社員の女性が、先に帰宅していた夫に「ラーメン作れ、作れ」と言われたことをきっかけに離婚を決意するエピソードが綴られている。  当時、働き続ける女性が増え始め、家庭の中や勤務先、そして社会全体に女性の生きづらさが蔓延していた。それを「ニュース」として正面からとらえた記事への反響は大きく、以来30年、AERAは「女性の生き方」を主要なテーマのひとつに据えてきた。 「強い女性」前面に  では、一方の「男性」「夫」については、どう報じてきたのだろうか。  今回、巻頭で「キャリアの差は、夫の差」をテーマにした記事を掲載しているが、男性の働き方の見直しや家事・育児へのコミットが重視される時代に、改めて振り返ってみたい。  96年以来、AERAが継続して取材してきたのは、「働く女性」だ。記事には旧来型の男社会や制度に闘いを挑み、自らが新たな道を切り拓く“ロールモデル”を目指すような気概がにじむ。特に00年代は、その傾向が顕著だ。 「“おやじ仮面”で女は闘う」(2001年10月15日号) 「女は学歴と年収が求められる 婚活を勝ち抜く女性の条件」(08年11月24日号)  だからだろう。男性側の視点に触れる記事には「強い女性」たちが登場することが多い。 「夫は妻と向き合えない 『理不尽妻』と言う夫への反論」(08年12月8日号) AERA 2025年3月10日号より       AERA 2025年3月10日号より    その価値観は、恋愛の報じ方にも影響を与えていたようだ。自分の上に立とうとする男性よりも、癒やしを求める記事が目立つ。韓流ドラマ「冬のソナタ」が地上波で放送され、「ヨン様ブーム」が起きた時の見出しがわかりやすい。 「ちょいワルより『サマ男』に夢中 ヨン様以外にも『サマ男』の系譜」(04年7月26日号)  秋葉原に通うオタク青年がインターネット掲示板でアドバイスをもらいながら恋愛を成就させていくドラマ「電車男」が大ヒットした時は、こうだ。 「電車男vs.バツイチ男 実は恋愛対象者の豊庫?」(05年4月4日号)  さらに、こんな記事もある。 「女の上げ婚、新基準 格下男でオンナを上げる」(07年11月5日号) 「『草食カレ』と結婚したい 20代&30代 女性300人調査」(09年7月6日号)  女性たちが社会の中で活躍するためには、男性以上に強くならなければならない──。キャリアを積むためには「男性化」するしかない。そんな時代の空気がにじむ。 食器洗いでドヤ顔  10年、「イクメン」が「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに入った。厚生労働省は同年6月に「イクメンプロジェクト」を立ち上げ、男性誌はパパファッションやグッズをこぞって取り上げた。  男性たちの変化がもたらした結果に社会が“大賛成一色”になる中、AERAは冷静に状況を見つめる。  なぜ、男性は子育てをするだけで「イクメン」と褒められるのか。女性たちがいつも普通にこなしている家事・育児は、「やって当然」とされて、お礼なんて言われない。そんな苛立ちが記事にも反映されるようになる。 「夫よ、食器洗いでドヤ顔するな! 共働き第一世代の夫婦間家事バトル」(15年10月19日号)  この頃、AERAの記事をきっかけに大きな話題になった「表」がある。 「“朝だけイクメン”はダメ! 家事育児100タスク表で『見える化』」(16年5月30日号)  記事で取り上げた「家事育児タスク表」は、いわゆる「名もなき家事」をひとつひとつ抜き出したものだ。例えば、こうだ。 ・加湿器に水を入れる ・お茶を作り置きする ・子どもの爪を切る ・(家の)ゴミを集め、分別する AERA 2025年3月10日号より    その後も「家事とは何か」を男性側に訴え、互いの負担の違いなどを考える記事が続いた。  一方で、男性側の想いを丁寧に書いた記事も増え始める。 「男がつらい 仕事も家事も育児も完璧なんて無理だよ!」(14年9月1日号) 「帰りたい夫。『不在夫』たちが激白、家に帰れない本当の理由」(15年2月16日号)  どちらの記事にも、できる限り子育てに関わりたい、家事をしなければ、と思う夫が登場する。けれど、職場には「早く帰りたい」と言える雰囲気はない。長時間労働が当たり前で、帰宅は毎日夜10時を過ぎる。妻の口癖は「うちは平日母子家庭だから」だ。  家庭と職場の間で板挟みになり、働き方を変えたくても変えられない男性たち。彼らの悲痛な声が報じられるようになると、次第に社会全体に「長時間労働の是正こそ必要だ」という認識が広がり始めた。女性だけではなく、男性たちも悩んでいた。  AERAは24年春、連載「女性×働く」をスタートした。様々なテーマで5~7週にわたって現状をレポートするもので、4回目のテーマに据えたのは「男性」だ。  育休を取った男性らが登場し、「休みたい」と言いにくい会社の雰囲気や、仕事をしてこそ一人前とみられてしまう男性たちの生きづらさも綴った。 対立ではなく寄り添い  同連載で「男は稼いでナンボ、“鎧”からの脱却で男も女もラクになる」(24年8月26日号)を執筆した元共同通信政治部記者で“駐夫”も経験した、ジャーナリストの小西一禎さんは、「女性たちが経済力をつけ、ガラスの天井に負けずにキャリアを積む女性たちが増えました。そこにAERAが果たしてきた役割はとても大きい」と評価する。その上で、期待を込めて、こう付け加える。 「一方で、男性に立ち向かっていく女性の姿を前面に出したことで、対立構造を作ってしまった面はあるのではないでしょうか。強い女性ばかりではなく、そこからこぼれた女性や、男性も一緒に寄り添って理解していくことが求められるようになっています。互いの弱さ、悩みを理解しあう。その観点があれば、結果的に女性も男性もラクに生きられるようになるのです」  女性も男性も、誰もがもっと自由に楽しく生きることができるように。今後のAERAに託された大きなテーマだ。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2025年3月10日号  
山口もえに「紅茶を入れてあげようとしたら怒られた」…田中裕二が語った「ティーバッグ事件」の真相
山口もえに「紅茶を入れてあげようとしたら怒られた」…田中裕二が語った「ティーバッグ事件」の真相 山口もえさん(撮影/写真映像部・東川哲也)    3人の子どもの母であり、爆笑問題の田中裕二さんを夫に持つ山口もえさん(47)。インタビューの【後編】では、山口さんと田中さんが結婚することになったきっかけ、少しずつすり合わせてきた結婚生活、そして過去に田中さんが「妻に怒られた」と話していた出来事の真相などを聞きました。 *  *  *  山口さんが現在の夫である田中さんと最初に出会ったのは大学4年生のとき。「号外!!爆笑大問題」(日本テレビ系)という番組で共演したことがきっかけだった。しかし、このときは1年3カ月だけの共演。2人が再会したのは、2012年の安めぐみさんと「Take2」東貴博さんの結婚披露宴の席だった。山口さんは身も心も疲れていた時期だったという。 「田中さんが『元気?』って声をかけてくださって、『いやいや元気じゃないですよ、子育てと仕事しかしてなくてやさぐれてますよ』って話をしたら、『おいしいご飯食べてる?』って聞かれて。全然食べてないですって言ったら、『今度みんなでご飯に一緒に行こうよ』って誘ってくれたんです。子どもも一緒ですけど……と言ったら『もちろん一緒に』って言ってくれたのがきっかけですね。そこで初めて連絡先を交換したんです」  田中さんが「みんなで」と言っていた通り、最初は共通の知人を交えてグループで食事をする予定だった。実際に田中さんは2人とつながりのある友人たちに声をかけてくれたが、当日はメンバーに次々とキャンセルが出てしまい、山口さんと子ども2人、田中さんの4人での食事会になった。 「すっごく広い個室を取ってくださったんですけど、子どもは久しぶりの外食にテンションが上がってしまって走り回っていて……。しかも子どもたちはパスタを食べたら『帰りたい』って言い出しちゃって。でも田中さんは『いいよいいよ』って言って、短い時間で“さよなら”になってしまったんです。家に帰ってWikipediaで田中さんのことを調べたら、『スイーツ好き』って書いてあったんです。それなのにデザートも食べられず帰っちゃって申し訳なかったな、と思って、『今日はごちそうさまでした。デザートも食べられずすみません』ってメールをしたら、そこからなぜか毎日おはようメールが来るようになったんです」 山口もえさん(撮影/写真映像部・東川哲也)   結婚当初は夫と「大きなズレ」があった  それ以降は「おはよう」のあいさつに続いて、「今日は〇〇の収録にいってきます」といったたわいない内容が毎日送られてくるようになった。最初はなんとも思っていなかった山口さんだったが、次第に気持ちが変わってきた。 「子どもと仕事だけのやさぐれた生活をしているなかにメールが来る、っていうだけで、なんとなくハッピーな気持ちが芽生えてきたんです。たまに朝メールが来なかったりすると、『なんだか今日は遅いな』って気になるようになっていって、そこから少しずつメールをして、連絡を取るようになっていきました」  田中さんはとにかく、誠実に山口さんに向き合ってくれた。そのことが山口さんの心を動かし、恋愛に発展し、2015年の10月に入籍した。爆笑問題の太田光さん、光代さん夫妻がウェディングフォトの撮影をプレゼントしてくれて、家族4人で撮影した写真が、2人の結婚式代わりになった。  田中さんの姿勢は結婚後も変わることなく、「家族の幸せが自分の幸せ」「家族の幸せのために自分は存在している」という思いをひしひしと感じている。しかし、生活面では結婚当初はかなり大きなズレがあり、それを少しずつすり合わせてきたのだと山口さんは話す。 「一緒に暮らしだした頃は、家事もしないし、夜仕事が遅かったら朝起きてこない、という彼のペースを崩さなかったんですね。でも私が『週末も生放送で家にいないんだったら、平日の朝に起きないと本当に子どもに会えないよ』と話をしたら、そこから朝起きてくれるようになりました。家事も、私が全部やっちゃうのもあって全くしなかったんですが、3番目の子がおなかにいるときに、私が体調を崩してしまって。そのときに『自分もなにかしないとこの家が回らない』と思ったのか、少しずつやってくれるようになりました」 山口もえさん(撮影/写真映像部・東川哲也)   「紅茶ティーバッグ事件」の真相  といっても、昨年やっとゴミ出しをできるようになり、結婚して10年かけて洗濯物を干せるようになったぐらい、という。山口さんは家事は丁寧にしっかりとやりたいタイプのため。いろんなことを気にしてしまい、田中さんに対して怒ってしまうことも多々あるという。 「この前も私のセーターを洗濯機で洗われちゃって、縮んじゃったんですよ。私は思ってることをためたくないんですぐに言葉に出しちゃうんです。そうすると彼は平和主義なので、すぐに『ごめんね』って謝ります(笑)」  AERA dot.では2019年に田中さんにインタビューをしており、その中で田中さんは「紅茶を入れてあげようとしたら、ティーバッグをピッピッと揺らしたことに怒られました。そのままそっと置いておくんだそうです。完全に奥さんがルールブックですから、厳しいですよ(笑)」と笑いを交えながら語っていた。このエピソードは大きなインパクトがあるのだろう、配信から5年以上たった今でも記事が読まれている。この「ティーバッグ事件」について山口さんに真相を聞いてみた。 「じっと待つのがおいしい紅茶の出し方なのに、夫はこうせわしなく動かしていたんだと思います。昔のことなのでよくは覚えてないんですけど(笑)。2人とも家事へのスタンスも違うし、性格も全然違って、もしかしたら離婚の原因になる『性格の不一致』ってこういうことなのかなと思うんですけど、わが家の場合はそれが全部『しょうがないよね』で済んでいるって感じです」  そう家庭のことを話す山口さんは本当に幸せそうだ。ただ、40代になった今、「このまま年を重ねていくのがいいのだろうか」と思うこともあるという。そこで最近は「私も自分のことを大事にしよう」と一人で“旅”をするようになった。 1人旅をしているときの山口もえさん(事務所提供)   1人旅では「子どものことは考えない」 「仕事も大事だし、子育ても大事だけど、それだけじゃない。もう一つしっかり『自分』というものを見つめ直したときに、私は何しているときが好きなんだろう、幸せなんだろう、と考えて書き出してみたんです。その中の1つが旅でした。平日の昼間、子どもが学校に行ってから帰ってくるまでの間で、行ける場所を見つけてぱっと行って、ぱっと帰ってきます。その旅で決めているのは、『私が喜ぶためだけに頭を動かす』ということ。どうしてもお土産コーナーを見ると、『これって子どもが喜びそうだな』とか思っちゃうんですが、その日だけは一切なし。おいしいものを食べて、温泉に入ったり、好きな神社を巡ったり、とにかく自分のことだけを考える日、というのをつくっています」  今年、長女は高校2年生になった。「私が高校1年生のときにはもう、この仕事をしていたので。感慨深いですね」と山口さん。 「私も夫も就職活動をしていないので、子どもが就職の話をしても寄り添えないのがもどかしくて。その分、私の友人で就職をしている人に親身になって聞いてもらっています。親だけじゃなくて、他の大人と接する機会を子どもにつくってあげるのも、私たちの役割なのかなと思います。子どもたちには、自分が楽しめること、夢中になれることも見つけながら大人になってほしいなと思います」 (藤井みさ) ●山口もえ(やまぐち・もえ)/1977年、東京都出身。成城大学法学部法律学科卒業。幼少期からクラシックバレエを習う。16歳のときに現在の事務所でダンスレッスンを受け始め、大学在学中に出演したドラッグストア「マツモトキヨシ」のCMで一躍人気者に。以後、バラエティー番組や情報番組、ドラマなどに多数出演。野菜ソムリエプロ、愛玩動物飼養管理士2級、ホリスティックビューティアドバイザーなどの資格も持つ。2015年にお笑いコンビ・爆笑問題の田中裕二さんと結婚。3児の母。
「山口もえ」夫・田中裕二と初めての出会いは大学4年生 今でも思い出す “忘れられない一言”とは?
「山口もえ」夫・田中裕二と初めての出会いは大学4年生 今でも思い出す “忘れられない一言”とは? 山口もえさん(撮影/写真映像部・東川哲也)    2015年に爆笑問題の田中裕二さんと結婚し、3人の子どもの母でもある山口もえさん(47)。そのおっとりとした口調と“ゆるふわ”な雰囲気はママになっても健在ですが、実は20代のときは“仕事ざんまい”で精神的な余裕がなく、芸能活動では悩みも多かったといいます。インタビュー【前編】では、「間違えて入った」という芸能界入りの経緯やCMでブレークした20代の生活、後の夫となる田中さんとの出会いなどを聞きました。 *  *  *  山口さんには、田中さんに言われた今でも忘れられない一言がある。  大学4年生のとき、「号外!!爆笑大問題」(日本テレビ系)という番組で爆笑問題と共演したときのこと。田中さんは、高校生時代の山口さんが出演していたCMや番組を見ていたようで、雑談しているなかでこう言われたという。 「〇〇っていう番組に出ていたよね。それを見たときに、この子は売れるって思ったんだよ」  すでに有名なお笑い芸人だった田中さんが、高校生のときの自分のことを知ってくれているとは思いもよらず、「いい人だな」と感じたが、山口さんはまだ大学生。後に田中さんと結婚するとは夢にも思っていなかった。  そんな山口さんが芸能界の門をたたいたのは、高校1年生のとき。子どもの頃からクラシックバレエを習い、プロを目指していたが、思春期も重なり、男性と密着して踊ることに抵抗を感じるようになっていた。1人で踊れる新しいダンス教室を探していたところに、雑誌で「ダンスレッスン無料」という文字が目に飛び込んできた。 クラシックバレエを習っていた頃の山口もえさん(事務所提供)   「雑誌を見て『無料なんだ!』と申し込んで行ったら、ダンス教室ではなくて今の事務所だったんです。『あれ、違った』と思って帰ろうとしたら、たまたまその日は普段いない社長がいて、『芸能界に興味がないんだったら、ダンスレッスンだけ受けてみませんか』と声をかけてくれたんです」  最初は本当にレッスンに通っていただけだったが、一緒にダンスを習う友達が「次はこんなドラマに出るんだ」とか「CMが決まったんだ」と話す内容に興味をひかれ、「私もオーディションを受けたいです」と言って、山口さんの芸能活動が始まった。 山口もえさん(撮影/写真映像部・東川哲也)   夫・田中裕二の第一印象  小さい頃から引っ込み思案で、「幼稚園の頃は母親の後ろに隠れているような子だった」と振り返る山口さん。芸能活動をすると決めたときは周囲に驚かれたという。両親も反対はしなかったが、事務所との契約のときに「大学は卒業まで通うこと」という条件をつけた。 「両親はきっと、やってみても続かないんじゃないかと思っていたと思います。でも最初にやった仕事が、お味噌のCMで。撮影のあとに白だし、赤だし……と抱えきれないぐらいお味噌をいただいたんです。それで両親も、祖父も喜んでくれて、『こんなにみんなが喜ぶ仕事なんだ!』とうれしくなりました。ダンスレッスンも、お味噌も無料でいただいて……私は本当に無料に弱いんですよね(笑)。無料にひかれて行った先が、芸能界だったという感じです」  16歳で仕事を始め、10代のうちはCMがトントンと決まり、順調に活動をスタートしたかに見えた。しかし大学に入り、20歳前後になると、学生としては年長、大人としては若すぎる、という理由でなかなか仕事が決まらない時期が続いた。  だが逆に時間ができたことで大学の勉強に集中でき、3年までに卒業に必要な単位をほとんど取り終えていた。そして大学4年生のときに「マツモトキヨシ」の「なんでも欲しがるマミちゃん」のCMが決まり、山口さんは大ブレーク。そこから一気に忙しくなっていった。  前述のように、現在の夫である田中さんと初めて出会ったのもこの頃だった。「号外!!爆笑大問題」で共演した田中さんの印象は「とにかく優しい人」。相方の太田光さんがちょっかいを出して楽しませ、田中さんが優しくフォローする。切れ味鋭いトークにプロフェッショナルを感じ、学ぶことは多かった。ただ、恋愛感情は一切なく、あくまで「すてきな先輩」の枠にとどまっていた。田中さんは当時、前妻との結婚を予定しており、番組で「結婚式場を下見する」企画に山口さんが出演することになった。 「一緒に結婚式場にロケに行って、私はウェディングドレスを着させられて、タキシードを着た田中さんと歩くという映像が残っているんですけど、当時は『なんでこんなところでウェディングドレスを着なきゃいけないの? 自分が結婚するまで取っておきたいのに』ぐらいに思っていました。それぐらい夫に対しては何も思っていなかったですね」 山口もえさん(撮影/写真映像部・東川哲也)   「芸能界をいつやめるか」ばかり考えていた  ただ、一方の田中さんには冒頭のような発言に加え、こんなエピソードもある。番組の収録が終わるタイミングがバレンタインデーだったため、山口さんは共演者やスタッフにお菓子を作り、メッセージカードを添えて渡したのだが、それを田中さんは結婚するまで大事に取っていたのだ。 「結婚してから『ほら』って見せられてびっくりしました。心のなかで気になっていたのか、単に物持ちがよかったのか……それは聞いたことはないです。でも、物持ちがよかっただけなんだと思いますよ(笑)」  順調に仕事が舞い込んできていた山口さんだったが、20代前半の頃は「芸能界をいつやめるか」ということばかり考えていたのだという。急に仕事が忙しくなったことで自分のペースがついていかず、自分が芸能界に向いているのかもわからなくなっていた。 「事務所の人に『やめたい』と言うと、少しお休みをもらってリフレッシュして、また働いて、ということの繰り返しでした。でもあるとき、『やめて何をやりたいんだ』と言われたんです。私はオードリー・ヘップバーンにあこがれていたので、『私も世のため人のために役立つことがしたいです』と答えました。そうしたら『いま20代のもえが、何かしたい、と手を挙げても誰も賛同してくれないけど、この仕事で頑張って一生懸命働いたら、何かしたいと言ったときに協力してくれるかもしれないよ』と言われて、『なるほど』と。そこからもうちょっと頑張ってみよう、と思えました」  山口さんは30歳で第1子となる長女を出産した。出産前には産休を取得したが、それは社会に出てから仕事しかしていなかった山口さんが立ち止まる、初めてのタイミングだった。時間ができたことで自分を見つめ直すと、ふと「本当に仕事に復帰できるのか」「自分だけ置いていかれてしまうのでは」という不安がこみ上げてきた。 「根本的に自分に自信がなくて、誇れるものや自信をつけられるものがほしい、という思いもあったと思います。それで『私は何が好きかな』と考えたときに野菜が好きだなと気づいて、野菜ソムリエの資格の勉強をしました。立ち止まるきっかけをくれたのも子どもだし、スキルアップしなきゃいけないと気づかせてくれたのも子どもでした。自分より大切な存在ができて……本当に自分が変わったなと思っています」 山口もえさん(撮影/写真映像部・東川哲也)   「欲張っちゃってもいいのかな」  33歳のときには第2子となる長男を出産した。だが、30代のあいだは、ずっと仕事と家庭の両立に悩み続けたと振り返る。子どもを預けて働くことへの罪悪感を覚えることもあったが、親と離れても元気で過ごしている子どもの姿を見て安心することもあった。 「365日、24時間親がそばにいることが、子どもにとっていいわけではないんですよね。何より私が仕事でリフレッシュして帰って、それを見た子どもが『ママ、すごく楽しそうだね』『幸せそうだね』って言ってくれたことがあって。きっとそれは子どもにいい影響を与えますし、母である私が元気で楽しくしているのって子どもにも伝わるんだなと。仕事をしながら子育てをするのはもちろん大変ですけど、欲張っちゃってもいいのかな、と思いました」 (藤井みさ) ●山口もえ(やまぐち・もえ)/1977年、東京都出身。成城大学法学部法律学科卒業。幼少期からクラシックバレエを習う。16歳のときに現在の事務所でダンスレッスンを受け始め、大学在学中に出演したドラッグストア「マツモトキヨシ」のCMで一躍人気者に。以後、バラエティー番組や情報番組、ドラマなどに多数出演。野菜ソムリエプロ、愛玩動物飼養管理士2級、ホリスティックビューティアドバイザーなどの資格も持つ。2015年にお笑いコンビ・爆笑問題の田中裕二さんと結婚。3児の母。
「女の子に学歴は必要ない」と言われた10代 「親」や「目上」からの押しつけは今なお根強く 3月8日は「国際女性デー」【読者アンケート結果発表】
「女の子に学歴は必要ない」と言われた10代 「親」や「目上」からの押しつけは今なお根強く 3月8日は「国際女性デー」【読者アンケート結果発表】      3月8日は「国際女性デー」です。男女平等の度合いを示すジェンダーギャップ指数では「後進国」の日本。性別による「無意識の思い込み」や偏見は日常生活のなかに多く存在し、男女間での不平等、そして個人の生きづらさにつながっています。そんな性別による格差の解消が叫ばれている現在ですが、AERA dot.編集部のアンケートでは、性別に基づく「決めつけ」や「押しつけ」は76%が「ある」と回答。その多くが「親」や「目上の人」などから受けていました。一方、以前と比べて「減った」「なくなった」という回答は約半数。私達の社会は、これから生きやすい場所に変わっていくのでしょうか。 *   *   *  アンケートは2月26日から3月5日まで実施。445人から回答がありました。ご協力いただき、ありがとうございました。        まず、日常生活のなかで、「男性だから◯◯すべきだ」「女性は◯◯をして」という決めつけや押しつけ、男女間での「不平等」や「格差」を感じることがあるか聞いたところ、「よくある」と「時々ある」が同数で最も多い38.0%。対して、「あまりない」は13.7%、「まったくない」は7.4%でした。  その相手がだれかについては、「親や親族から」が最も多い50.9%で、ほぼ同数の「職場の上司、学校の先生など、目上の人から」が50.6%で続きました。続いては「地域での付き合いのなかで」が39.5%、「結婚相手、パートナー」は4番目の29.4%でした。    決めつけ、押しつけの内容としては「『男性らしさ』『女性らしさ』の押しつけ」が59.9%と最も多く、「家庭での家事の負担」が49.7%。「職場での女性役員や管理職の少なさ」「子育て、介護の負担」「給与面など職場の待遇で男女差」が4割弱でほぼ同数でした。     「女の子なんだから勉強なんてできなくていいよ」 「○○ちゃんは大学なんて行かなくていいんだからね。女の子に学歴なんか必要ないよ」  10代の女性は、そんな言葉を言われたことがあると、アンケートにコメントしました。  また、20代の会社員女性は、親からこんなことを言われたそうです。 「本当は理系を専攻したいが、親に女の子だから文系にしろと言われた。仕事内容が技術系だと親に言うと、女の子だから事務職になってほしかったと言われた。女性がいつまでも働いているのはみっともないから、早く結婚して退職しろと親に言われる」   「偏見」「格差」にさらされる社会  そして、家庭の外の社会でも、私達はさまざまな偏見、不平等、格差に直面しています。 「中高女子校だった為、大学に入った時から女性への偏見(特に昭和生まれ昭和育ちの人)の多さに驚いた。会社では、40後半~50代の男性に意見を言うと避けられ、仕事を任せられなくなることが多い。また、管理職は9割男性かつ給料も男性が多い。  明らかに能力不足の男の後輩には仕事を与えるが、結局成果が出せないので、同部署の女性たちから不満がたまる一方の状態。できないことが分かっていても、男かつこれから戦力になると勝手に社長(男)が判断し、部下に『彼にやらせて』と命令する。女性差別が酷すぎて、憤慨しています」(20代、女性、会社員) 「取引先の方で男性社員にしか名刺を渡さない事があるなど仕事で女性軽視を多々感じる」(40代、女性、会社員)  警備会社に勤めているという30代の女性は、こう指摘します。 「男性隊員にはキツイ現場、女性隊員には動きのない現場ばかり配置したりして、仕事が上達しない。トイレの環境などの配慮は有難いが、それ以外の仕事の難易度とか現場のキツさとかはある程度男女平等に配置しないと、やる気のある女性からしてもやりがい感じないし、男性から見ても女性は甘やかされていて面白くないと思う」    男性からも、こんな指摘がありました。 「男性だから力仕事やって当たり前という雰囲気、やっても『ありがとう』もなし」(20代、男性、会社員) 「結婚相談所探しをした際、男性だけ年収記載を求められたり、利用料が高い所があった」(40代、男性、会社員)       格差の解消は進んだのか  性別で扱いが変わるといった「ジェンダー格差」の解消が強く言われている今、以前と比べて状況は改善されたのでしょうか。  アンケートでは、「以前からあったが、かなり減ってきている」が最も多い46.1%。「以前はあったが、全くなくなった」の3.4%とあわせると、“変化”を感じている人が半分近くを占めました。  一方で、「以前からあり、現在も変わっていない」も2番目に多い32.6%。「さらに多くなった」は2.8%あり、問題の根深さがうかがえます。 「公務員としての在職中、昇給、昇任においてかなり前から男女の格差はなくなったと感じました。職員個々人の意識も変わり、お茶は女性が入れるとかいった習慣もすっかりなくなりました」(60代、女性、アルバイト・パート)    しかし、あからさまな格差は縮小していても、個人の意識ではどうでしょうか。 「職場では『細かい事に気付くのは女性社員であるべき』『飲み会では上司のお酌をするべき』的な雰囲気が、いまだにあります。昔と異なるのは、さすがにそれを言葉にして女性には言わない点です。やはり今の風潮は感じているのでしょう。でもあきらかに『感じる』のです。そしてそれを黙って行った方が、職場の雰囲気もスムーズに行く事もわかっています。  これは今の若い子よりは、より私のような昭和の時代を経験済みだからこそ感じるのかもしれません」(50代、女性、アルバイト・パート) 「男性が育休を取ることに大っぴらに文句を言う管理職が少なくなった。ただ、陰では言っている場合が多く、法律で決められているから止むを得ないという消極的なスタンスが多いと思う。また、育休を取る男性に対しても同僚は快く思っていないことが、今でもよく見受けられる」(60代、男性、会社員)       「思い込み」は誰にでも  性別に対する「無意識の思い込み」(アンコンシャス・バイアス)は、本人の自覚がないまま相手を傷つけたり、自分自身の可能性も狭めたりする可能性があります。  そんな男女の違いによる「偏見」や「思い込み」が、回答者自身の心の中にあるかも聞きました。 「多少あると思う」が半分近い49.4%。「かなりあると思う」の16.4%とあわせると65%を占め、「あまりないと思う」「まったくないと思う」の計31.4%の倍以上になりました。 「現在育休中ですが、4月から復職に際し、当たり前のように時短勤務するのは妻(私)です。産後辛い時期もありましたが、働いていないから家事・育児は妻・母である私がやらなければと自分自身で思い込んでしまっていて、自身にもアンコンシャスバイアスがあります」(30代、女性、会社員)    2人の娘が中高一貫の女子校に進学したという50代の自営業女性は、 「保護者の教育意識からはジェンダーギャップをほぼ感じない。建前としては男女差別やセクシャルハラスメントが駄目だということは浸透し、あからさまな差別やセクシャルハラスメントは減った」  と、つづります。 「しかし、人間の内面の差別意識は簡単には変わらないので、潜在化しており、女性の役員・管理職比率が上がらないとか、SNSでの女性への攻撃、性的客体化された女性表象が減らないといった形で現れていると思う」    保育の専門学校で非常勤講師をしている70代以上の男性によると、「ほとんどの学生は、女らしさ男らしさの押しつけには反対」といいます。しかし、保育実習の現場では「男の子だから」「女の子だから」という男女観の押しつけがあり、学生たちは何も言えずに帰ってくるといいます。 「問題は、自分が決めつけの価値観を持っていて、それが他者を傷つけていることや、男女差別の再生産になっていることに気がつかないことです。それが会社での決めつけと違って、幼稚園児や保育園児に刷り込まれていくのです」         幼いときからの「刷り込み」 「男はこうあるべき」「女はこうすべき」といった価値観が、幼いときから刷り込まれていると指摘するコメントは、ほかにも多く見られました。 「成長段階で、男女の別を規範として内面化しすぎていると思う。子どもが女の子だと、お祝いの品の多くがぬいぐるみやおままごとセットなのに対して、男の子だと乗り物系や知育玩具など、大人のふるまいによる影響は0歳から始まっていると思う」  そうコメントを寄せた40代の自営業の女性は、自身の子どもの様子を、このように振り返ります。 「娘はピンクを着たがることはなく、黒などを選ぶ子だったが、『何色が好き?』と聞かれると『ピンク』と答えていた。これは、物心つく前から、ピンクを着ていると、周りが『女の子はピンクが似合う』と盛り上がるのを経験しているからこそだと感じた。  まだ年端がいかない子のうちから、足を広げていると『あら、女の子が』と言われ、男の子が暴れていても『元気ね』と声をかけられることが多い。  物心がついたころにはすでに男女に与えられている規範意識は大きく違うし、日ごろ、とても優しいお友達でも、4歳くらいになると、ふとした瞬間『女のくせに』という言葉をどこからともなく学んで言うようになる。  職業柄、女性の少ない仕事をしており、そこに至るまでに『女性が勉強するなんて嫌な時代になったもんだ』と声をかけられたりしたこともあるが、そこまで露骨なことは減ったとしても、0歳から始まる男女の体験の違いは根深く存在していると感じる」 (AERA dot.編集部)   【こちらも話題】 「また踏み台にされるのか…」就職氷河期世代の嘆きと怒り “初任給30万円”の一方で「置き去り」と感じる中高年層は8割【読者アンケート結果発表】 https://dot.asahi.com/articles/-/251311  
「ボタンフラワーで人と人、国と国をつなぎたい」 アーティスト SHUN SUDO
「ボタンフラワーで人と人、国と国をつなぎたい」 アーティスト SHUN SUDO 「観る人が元気になり、明るく幸せな気持ちになれる絵を描きたい」。その熱いエネルギーがキャンバスからほとばしる(写真/小山幸佑)    アーティスト、SHUN SUDO。37歳のときNYで個展を開き、アーティストとしてデビュー。SHUN SUDOの描く世界は高く評価されている。中でも、花とボタンを組み合わせた鮮やかな色合いの「ボタンフラワー」は多くの人を魅了する。世界は時に怒りや悲しみに満ちる。ボタンフラワーの存在が人と人、国と国とをつないでいけたらと願いを込める。 *  *  *  赤や黄、オレンジなど鮮やかな色彩の花々がキャンバスからあふれんばかりに咲き誇り、その花芯を成すのはボタン。「ボタンフラワー」と呼ばれる躍動的な花のモチーフは、「SHUN SUDO(シュン スドウ)」の作風を象徴するアイコンとして知られている。  2024年11月、東京・銀座のGinza Sony Parkでは翌年1月のグランドオープンを前に、3人のアーティストによる特別展を開催。工事中の真っさらな空間を使った実験的な試みで、その一人がSHUN SUDO(須藤俊・47)だった。  会場では、ニューヨーク・ヤンキースのキャップにナイキのスニーカーとラフな装いの須藤が片隅にたたずみ、観客に質問されると穏やかな笑顔で答えている。コロナが明けてから久しぶりに海外を旅し、フランス、イギリス、スペイン……と旅先で感じたものを描いたという。 「自分の中に新しい風を入れたいなという思いがありました。いろんな国を旅していると、その土地独特の空気感があり、日本とは異なる風や光を感じられる。ボタンフラワーをその風に踊らせたらどうなるのかとイメージしながら描きました」  パリの街では五輪前の華やいだ空気に包まれ、日暮れまで趣ある建物が並ぶ路地を散歩した。スペイン・バルセロナではアントニ・ガウディが手がけたグエル公園で緻密なモザイクタイルに触発され、インスピレーションが次々湧いてくる。ボタンフラワーにも反映され、繊細な色彩や柔らかなフォルムに。須藤にとって「ボタンフラワー」とはいかなる思いを象徴するモチーフなのか。 「花とボタンを組み合わせたボタンフラワーは、僕のピースアイコンです。花は人の心を癒やしてくれるものであり、ボタンは衣服の生地と生地を結びつけるものだから、世界中の人と人、国と国をつないでくれるような存在になればいいなと」 芝居好きの祖母の影響で 歌舞伎の子役として活躍  ボタンフラワーの原点は2015年にニューヨークで初の個展をした時にさかのぼる。NYの街に花が浮上する絵を描いた際、花の中心にスマイルマークなどいろいろ入れていたら、ボタンが自分のテーマと重なった。街には多様な人々がいてそのパワーに圧倒される。一人ひとりを花に例え、湧きあがるエネルギーをイメージして描いた。 ジャズ、ヒップホップ、ロック、好きな音楽を聴きながら絵を描く。筆ではなく、スプーンと刷毛を使うことで独特の線やタッチが生まれる。創作の気分転換には愛車ポルシェで湘南まで海を見に行く(写真/小山幸佑)    この「ボタンフラワー」は観る人を魅了していく。アートの世界にとどまらず、ポルシェ、クリスチャン ルブタンなどとのコラボレーションも手がけ、創作の場は広がっていった。  須藤がNYでアーティストとしてデビューを果たしたのは37歳の時。だが、幼少期には「歌舞伎の子役」をしていた異色の経歴を持つ。  両親は共に教師で、2歳上の兄、祖父母と東京・自由が丘で暮らしていた。芸事とは縁もない家庭に育つが、保育園の頃、祖母の勧めで児童劇団に入ったことに始まる。母のあい子はこう顧みる。 「おばあちゃんは芝居が大好きで『私が全部連れて行くから』と言われたんです。俊はまだ小さかったから、『うん、やる!』と。劇団ではいろいろオーディションを受けますが、歌舞伎の子役担当の先生が俊の顔を見て『歌舞伎やらない? かつらが絶対合うわよ』と勧められました。すごく気に入られて直接オファーが来るようになり、有名な役者さんとも共演させていただきました」  須藤は舞台度胸があり、歌舞伎座で花道を歩いたり、地方巡業に参加したり、子役として活躍する。だが、小学校高学年になると早退するのが嫌で「やめたい」と言う。歌舞伎の世界は世襲制なので役者の道が拓けないことも悟っていたのだ。  その頃、家でいちばん夢中になっていたのが絵を描くことだった。宿題をしているかと思えば、ノートに漫画の絵ばかり描いている。図工の教師にはよく絵を褒められていたと、母は懐かしむ。  中学時代はアメリカのポップカルチャーに影響を受けた。スケートボードにハマり、アメリカ製のボードのデザインが好きでまねして描いていた。当時はNBAでマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズがリーグを席巻し、バスケットにも熱中する。プロを志す仲間もいたが、「僕には無理だ」と夢を描けない。それでも「根拠のない自信みたいなものがあったんです。何かしら絵を描いて生きていくんだろうなと……」と須藤は苦笑する。  美大進学も考えたが、勉強が好きではなくて断念。海外へ出たいと思い、オーストラリアのゴールドコーストへ1年間語学留学した。英会話はなかなか上達しなかったが、クラスメートの誕生日に絵を描いて贈ると喜ばれ、サーフボードの絵をプレゼントした子はサーフィンを教えてくれた。  帰国後はアルバイトで旅費を貯めると、憧れのアメリカへ。ロサンゼルスから鉄道を乗り継いで全米を回るバックパッカーの旅。列車のダイヤは当てにならず、7時間遅れでシアトルに着いたのは深夜3時、ユースホステルまで一人で歩くのはめちゃくちゃ怖かった。ロスではダウンタウンの廃虚へ迷い込み、ダッシュで逃げたことも。 歌舞伎の子役時代、祖母と一緒に歌舞伎座へ通い、角の雑貨屋でスマーフ人形を買ってもらうのが楽しみだったと懐かしむ。歌舞伎独特の着物や舞台美術などデフォルメされた絵に影響を受けたという(写真/小山幸佑)    3カ月の観光ビザで気ままに旅し、その後は日本とアメリカを行き来する。ニューヨークへ行くと、街の空気がしっくり肌になじんだという。 「開放感がありましたね。人目を気にせず自由でいられるし、肩書も関係なくフランクに話せる。NYの人たちは不便なことや危険も多いからたえず闘っているようだった。すごく刺激になったし、自分らしく生きている実感がありました」  10代後半から20代にかけて、パン屋やスポーツジムでバイトをしては海外へ遊びに行く日々を過ごす。「自分の行く先は何も考えていなかった」という須藤を、弟のように案じていたのがバイト先のスポーツジムで出会った木崎典子だ。 独立して世界へ挑戦 「NYで個展を開きたい」  インストラクターの木崎は面倒見がよく、バイトに来る若者たちを誘って食事をしたり、一緒に遊びに行ったり、親しく交流していた。後輩たちには「姉さん」と慕われ、須藤もその一人だった。 「人なつこくて子犬みたいな感じ。付き合いが良く、何を言われても『えっ、マジっすか』と嫌な顔せず受けとめる。ぱっと見にはやんちゃな感じだったけれど、本当に素直で穏やかなんです」  木崎は美味しい店へ連れて行くと注文の仕方や食事のマナーを教えたり、ゆるカジばかりの格好を気遣って「一緒に服を買いに行こう」と誘い、上質なパンツをプレゼントしたり。いずれ世の中へ出た時に役立つようにアドバイスしていた。  そんな「姉さん」が結婚する時、須藤は一枚の絵を贈る。夫妻に好きなものを聞き、そのすべてをちりばめた美しいペン画。夫の木崎賢治は音楽プロデューサーとして多彩なアーティストを世に送り出してきた人で、須藤の絵に才能を感じ、「ちゃんと仕事にした方がいい」と夫婦で話していた。 20代の頃からNBAの熱烈なファンの須藤は、NEW ERA、NBAとのトリプルコラボレーションキャップを手がけ、忘れられない試合、度肝を抜かれたプレーなど6チームを選んでデザインした(写真/小山幸佑)   「私たちは親みたいに何でも言えたので、『一回、就職した方がいいよ』と勧めたんです。一般の人たちがどんな風に仕事をして、世の中がどう回っているのか、勉強して損はないからと」(木崎)  2人のアドバイスを受け、20代半ばの頃、広告やパッケージ、ウェブのデザインを手がける会社へ就職。毎日のように終電間際まで働きながら、グラフィックデザインをみっちり教え込まれた。  須藤は仕事で様々なイラストを手がけるうち、イラストレーターとして独立したいと考えた。その背中を押したのが兄の仁(49)だ。当時、クリエイターのマネジメント会社に勤めていた仁は、弟の絵を見て実力を認め、自分も後押ししようと思い立つ。2012年、須藤は兄とデザイン会社を設立し、イラストレーターとして歩み始めた。 (文中敬称略)(文・歌代幸子) ※記事の続きはAERA 2025年3月10日号でご覧いただけます
「鈴木奈々」おバカキャラも茨城愛も捨て“婚活タレント”に 国家資格にも挑戦中で「何がしたいの?」との声も
「鈴木奈々」おバカキャラも茨城愛も捨て“婚活タレント”に 国家資格にも挑戦中で「何がしたいの?」との声も 鈴木奈々(写真:つのだよしお/アフロ)    タレントの鈴木奈々(36)が2月10日に更新した自身のインスタグラムで、国家資格であるキャリアコンサルタントの資格取得のため、勉強に励んでいることを報告した。鈴木は「今日はキャリコンの学校です」とつづり、続けて「お父さんも一緒に学校に通ってます 私のお父さんは58歳です」と、親子で勉強していることを明かした。  キャリアコンサルタントとは、職業選択や能力開発の相談、助言を行う専門家のことで、2016年に国家資格となった。鈴木は昨年9月から勉強に励んでいるようだ。  鈴木といえば過去、バラエティーを中心に大活躍し、12年には番組出演数が年間約350本になったほど。14年には中学時代の同級生で工場に勤務する茨城在住の一般男性と結婚したことも注目を集めた。ところが、23年にテレビ番組で2年前に離婚していたことを公表。それ以降は全盛期に比べてめっきり露出が減っている印象だ。  かつておバカキャラだった鈴木が、現在は国家資格の勉強をしているのを意外に思う人もいるだろう。一体、今後どんなキャラへとシフトチェンジしようと考えているのか。 「最近は婚活にも励んでいるようです。昨年7月に行われたイベントでは、『結婚生活が楽しかったので、絶対にもう一度結婚したい』と宣言しました。相手に求める条件については、自分の家族を大事にしてくれる人で、さらに海の近くに住みたく、子どもも欲しいため38歳までに結婚したいと話していました。実際、昨年9月に更新された自身のYouTubeチャンネルで、マッチングアプリで婚活をしていて、29歳の男性と会ってランチデートをしたと報告しています。相手はイケメンで、俳優の北村匠海に似ていたとか。ただ、この男性とは交際には至らなかったようです」(週刊誌の芸能担当記者)  一方、昨年11月に配信された「出川哲朗の充電させてもらえませんか?」(テレビ東京系)の未公開トークでは、番組でおなじみの土方ディレクターに彼女がいないということから、鈴木が『今日私がプロポーズしたら、どうします?』と詰め寄ると土方Dは『(結婚)します!』と即答。これに鈴木はうれしそうな表情をしていた。現在は本気で婚活に励んでいるようだが、実際に再婚となれば、大きな話題になりそうだ。 鈴木奈々(写真:つのだよしお/アフロ)   湘南付近で土地を探している 「鈴木といえば、茨城県出身で郷土愛を熱弁することでも知られていましたが、意外にも別の土地への移住計画を進めているようです。最近もバラエティーで、もともと母の実家があった湘南や藤沢エリアに土地を探しに行っていると告白していました。希望物件は海から10分ぐらいのところで、車を3台は置きたいため、土地は80坪以上欲しいとも話していたね。ラジオ番組でも先日、『そっちの方に好きな人と住めたら良いですよね、結婚して』と話していました。鈴木の場合、地元の茨城県から仕事のたびに電車で上京していたことが注目されるなど、強い郷土愛も売りだっただけに、茨城キャラからのイメチェンを考えているのかもしれません」(同)  鈴木は2010年代後半から徐々に露出が減り、2021年には体調を崩して休養していたこともある。そんな時、大御所芸人からアドバイスがあったという。民放バラエティー制作スタッフは言う。 「加藤茶の妻・加藤綾菜と所属事務所も年齢も同じで仲が良く、彼女の自宅に遊びに行った際に、茶に相談したことがあると以前語っていました。30歳になって、若くて才能あふれるタレントたちがたくさん出てきていることに焦り、『このままの仕事のスタイルでいいのかな?』と、葛藤を打ち明けたそうです。すると、茶から『奈々ちゃん、自分に飽きちゃダメだよ』と言われ、『確かに私、自分に飽きかけていたんだ』と、その言葉にハッとさせられて迷いが吹き飛んだと明かしていました。資格勉強や婚活、移住計画と一貫性がなく『何がしたいの?』という声もありますが、キャラ作りではなく全てが自身のやりたいことなのかもしれません。このまま婚活が成功し再婚となれば、再び芸能人としての需要が増える可能性はあります」 鈴木奈々(写真:Pasya/アフロ)   今は「週7」で東京生活?  芸能ジャーナリストの平田昇二氏は鈴木についてこう述べる。 「鈴木さんは以前、共演したお笑い芸人から本当は“おバカ”ではなく、機転が利き、礼儀正しい良い人物であることを暴露されていました。仕事にはストイックでいたって真面目。ブレーク時も一部視聴者からは『うるさ過ぎる』『前に出過ぎ』など批判的な意見も見受けられましたが、それもプロ意識や責任感の強さの表れとも言えます。『オールスター感謝祭』内でのローションを使った番組名物の“ぬるぬる”企画にたびたび挑戦し、お笑い芸人顔負けの体当たりのリアクションで番組を盛り上げていたのも印象的でした。最近は“週7”の東京生活を告白したり、婚活に励んだりと以前とは違った一面も見せていますが、仕事現場での評判は良いタイプだけに、何かをキッカケに再浮上する可能性は十分あるのではないでしょうか」  新たな武器を身に付け再浮上となるか。鈴木の今後に注目したい。 (丸山ひろし)
石田純一、70代で2人の子育て中に実感 家事・育児“やっているつもり”で「まだまだ不十分」
石田純一、70代で2人の子育て中に実感 家事・育児“やっているつもり”で「まだまだ不十分」 1954年生まれ。79年にデビュー後、ドラマを中心に活躍。近年は、いじめのない社会を目指す「ハートリボン運動」などにも積極的に参加(写真:本人提供)    70代で子育てに奮闘する石田純一。どのような日々を送っているのか。家事や育児を通して感じたこと、子どもたちへの思いとは──。AERA 2025年3月10日号より。 *  *  *  男の子1人と女の子2人の子育てをしています。末っ子はまだ6歳。70代はおそらく僕だけですが、周囲には30代から50代まで幅広い年代のお父さんがいます。  意識して見ているわけではありませんが、例えば週末の公園で、男性が一人で子どもを遊ばせている光景は、僕の父親の世代が子育てしていた当時はなかなか目にすることがなかったものです。そこは大きく変わったところだとは思いますが、それでもまだ足りない。男性は“やっているつもり”でも、冷静に考えると、やっぱりまだまだ不十分なんですよね。  僕は、眠くても毎朝3人の子どもたちをそれぞれの学校まで送り届けていますが、お弁当を作ったことはほとんどありません。妻が仕事で海外に行く際は、それぞれの好みを考えながらお弁当を作りますが、あくまで一時的なものです。毎朝もう1、2時間早く起き弁当を作り、持ち物をチェックして完璧に揃えて……というレベルには達していないわけです。そう考えると、僕は「やっている」と言っても、妻から見ると「やっているつもり」と思われても仕方がないんじゃないかな。  子どもたちには、自分の周囲がすべてだとは思わず、もっと多様な社会を見渡せる大人になってほしいと思います。恵まれた環境のなかで育っていると思いますが、自分の力ではどうすることもできない立場に置かれている方々にも意識を向け、気を配ることができる大人になってほしい。  いま、僕はひとり親家庭・困窮家庭を対象にクリスマスケーキの配布を行うイベントなどにも参加していますが、そうした姿を見て息子は「えらいね」といった言葉を自然と口にするようになりました。将来、どんな仕事に就くかはわかりませんが、“人を想うことができるDNA”だけは大切に育んでいきたいと思っています。(ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2025年3月10日号  
女性のキャリア障壁は「男性の旧来型の働き方」 求められる「上司の意識改革」と「長時間労働是正」
女性のキャリア障壁は「男性の旧来型の働き方」 求められる「上司の意識改革」と「長時間労働是正」 スーツ姿で電動自転車にまたがり、子どもを保育園まで送迎する父親。珍しい光景ではなくなり、すっかり日常に溶け込んでいる(写真:篠塚ようこ)    産休・育休などの両立支援策が充実し、女性が働き続けることができる環境が整った。だが、家事・育児に追われるばかりで仕事に時間を割けず、キャリアを諦める女性は少なくない。その原因はどこにあるのか。AERA 2025年3月10日号より。 *  *  *  家事の負担を50:50にできれば、女性が満足いくキャリアを重ねることができるのか。  子育て支援に詳しい京都大学大学院の柴田悠教授はこう話す。 「男性が家事・子育てをしたくても、長時間労働を強いられたら、早く帰れません。共働きが主流にはなったものの、旧来型の働き方をしている限り、性別役割分業意識から抜け出せず、働く女性の家事・子育ての負担は大きいままでしょう」  なかなか脱却できない長時間労働。女性活躍など働きやすい職場作りに向けた事業を展開している「21世紀職業財団」の主任研究員の山谷真名さんは、「夫=働く」というイメージを持つ人は多く、その意識が障壁になるケースがあると指摘する。 「大学で非常勤講師をしていますが、若い方でも男性は『稼がなきゃ』という意識がとても強いと感じます。稼いで養うのが第一で、家事・子育ては『可能な範囲で』であり、働き方を変えられないと感じています」  そんな状況の中、欠かせないのは、何より上司の意識だ。「夫の上司こそ変わるべきです」と話すのは、ジェンダーに詳しい福島大学の前川直哉准教授だ。 上司と妻の間で板挟み 「日本の育児休業制度自体は、世界的にみても充実しているのに、十分に使われていません。男性が育休を取ることを想定していない時代錯誤な上司が変わらなければ、夫も変われません。上司と妻との間で、板挟みになっている夫も多いのではないかと思います。一方、会社や上司を言い訳にして、家事から逃げている夫もいます。会社や上司が変われば、そういう夫も言い訳できなくなります」  男性自身とその男性上司の意識改革が求められる……と言われて久しいが、いま、ひとつの追い風が吹いているという。京大の柴田教授は言う。 「法改正することで、働き方のルールチェンジができます」 AERA 2025年3月10日号より    現在、労働基準法で残業代は25%割り増しに設定されている(ちなみに欧米は50%割り増しが基本だ)。つまり、経営者は新たな人を雇うより、体力のある男性社員に残業させた方が安いと合理的に判断する。その結果、家のことは妻に任せることになってしまっているわけだが、柴田教授は、「来年、労働基準法が改正の方向で進むと私は見ています。厚生労働省の研究会で、残業割増賃金率も検討材料に挙がっています」と説明する。  意識改革に法改正。その結果、長時間労働が是正されれば、何が起きるのか。 「仕事は1時間当たりの生産性で評価されるようになると思います。効率よく両立する女性が評価され、女性の賃金の上昇につながるでしょう。男女で賃金格差があるから、男性が残業して、女性が定時で帰ってワンオペ育児をしたほうが、生活費を稼ぐには『コスパがいい』となってしまう現状も打破できるでしょう」(柴田教授)  女性が自由にのびのびとキャリアを重ねるためには、それぞれの夫が働き方を見直し、家事・育児を本当の意味で分担できるかが要となる時代だ。前出の山谷さんは、こう言う。 「何を大事にするのか夫婦で理想を話し合い、仕事でも家事でも、ここは頑張る、ここは頑張らない等の『自分たちの軸』を作っておくとよいのではないでしょうか」  家庭内で高めるダイバーシティー。それが男女ともに働きやすく活躍できる社会につながる。(編集部・井上有紀子) ※AERA 2025年3月10日号より抜粋  
キャリアの差は「夫の差」 根強い男性の仕事と家庭「両立意識の低さ」
キャリアの差は「夫の差」 根強い男性の仕事と家庭「両立意識の低さ」 若い世代を中心に、男性たちの価値観には変化がみられる。女性がキャリアを重ねるために、夫の働き方、家事分担が問われている(写真:篠塚ようこ)    キャリアを重ね、管理職に就く女性が増えた。両立支援策の充実によって、出産後も女性が働き続けることができる環境も整った。にもかかわらず、キャリアを諦める女性は後を絶たない。その原因は、会社ではなく、家庭内にあった。AERA 2025年3月10日号より。 *  *  *  神奈川県の主婦の女性(48)は15年前、子どもを授かり、産休・育休を取った。夫は女性に仕事を頑張ってほしいと願っていた。だが、「食洗機を使うのは手抜き」と平気で言う人だった。 「夫の母は専業主婦で料理上手。とても素敵なお母さんです。夫は、家事は手をかけなきゃいけないという『呪い』にかかっていて、解けないんだと思います」  その姿勢は、子どもが生まれてからも変わらなかった。なかなか寝ない子で、自分は1時間睡眠もざら。夫は子育てをしたいようだったが、常に会社優先で手伝いは望めない。育休明けの自分は、どんな状況に突っ込んでいくんだろう。戦場に行くような気持ちで、職場復帰した。 ある日、夫にキレた  朝は子どもを保育園に送り、夕方までに大急ぎで仕事を終わらせたらダッシュでお迎え。子どもの発熱で仕事を休むことがあったから、自分の体調不良を理由に休まないようにしていたら、風邪をこじらせて肺炎になった。でも、夫は相変わらず忙しく、食洗機を使うことも良しとしない。時短勤務で給料が3分の2になったこともあり、「何のために働いているんだろう」と気持ちはどんどん落ちた。そして、ある日、夫にブチ切れた。 「私は出ていきたい。育児のベテランの保育士さんと再婚したらいいんじゃないかな」  夫は驚いた様子だったが、その後も状況は変わらず、女性は子どもが4歳の時に退職する道を選んだ。子どもは中学生になったものの、自身の体調の変化もあり、もう再就職は諦めているという。「結局、女が割を食うんです」。そうつぶやいた言葉に実感がこもる。  この女性が退職せざるを得なかった時から、10年以上が過ぎた。世の中は確実に変化を遂げている。  産休・育休などの両立支援策が充実し、パパ育休も珍しくはなくなった。復職後の女性がキャリアを重ねられなくなる「マミートラック」に陥らないようサポートしたり、子どもの急な発熱による早退もフォローしたりできる職場も増えてきた。 AERA 2025年3月10日号より    スーツ姿で子どもの送迎をする父親はすっかり街に溶け込み、若い世代を中心に、子育てを積極的に担う男性も増えている。「主夫」も珍しくないし、女性たちも子育て中でも海外出張をこなしたり、管理職に就いたり。結婚はもちろん、出産を経ても女性が働き続けることができる環境と価値観は、間違いなく広がりつつある。だが──。  内閣府の「令和2年版男女共同参画白書」によると、1996年は、女性の家事・育児・介護時間は週平均3時間34分。一方の男性はたった24分で圧倒的な差がある。だが、2016年になっても、女性は週平均3時間28分に対し、男性はわずか44分にとどまる。現役世代の女性の7割が働くいまも、女性は男性の5倍の家事をしているという現実があるのだ。 顕在化する“夫格差”  さらに、AERAが今年2月に行ったアンケートでは、仕事のチャンスを失ったり、共働きなのにワンオペ状態で疲弊しているという女性たちの声が多数届いた。 「(周囲を見渡すと)保育園の送迎から寝かしつけまでほぼ一人でやっているなど、時間の余裕がない状態の女性が多い。受験でも学校調べも説明会への付き添いも入試当日の送迎、お弁当作り、なんでもかんでも母親の仕事」(東京都・会社員・46歳・女性) 「夫は海外出張の日程を、決まってから言う。私がもし出張に行くならば、保育園の送迎や子どもの晩御飯まで、いくつもの調整をしなければならないのに。その調整がつかなくて、海外出張のチャンスを逃したことがある」(東京都・会社員・44歳・女性)  寄せられた声から浮かぶのは、冒頭の女性が15年前に経験したことから、何ら進歩していない現実だ。東京都内で働く会社員の女性(45)はこう話す。 「勤務先の育児支援制度はかなり整っています。同僚の中には3人の子育てをしながらフルタイムで働き、海外出張にも行く女性がいるくらいです。その一方で、出産後はずっと時短勤務でほぼワンオペで子育てをしている女性もいます。後者は、自身のキャリアが満足に積めないことに不満を感じている人が多い気がします」  産後も活躍を続け、キャリアを充実させていく女性と、家事・育児に追われるばかりで仕事に十分な時間を割けない女性。勤務先で調査した結果、その差を生み出しているのはそれぞれの夫の働き方だったという。つまり、女性たちのキャリアの差は、夫の差であり、活躍を阻む要因は家庭にあったのだ。  大阪府の自治体で非常勤職員として働く女性(32)は、「全てに協力的な旦那さんのいる友人が羨ましい」と話す。自身は関西の難関私大を卒業し、就職したものの、夫(32)の転勤が決まったときに子どもが欲しかったこともあり、別居よりは同居がベターと判断。入社5年目に退社した。  その後、娘(3)を出産したが夫は保育園に預けるのは「かわいそうだ」という理由で大反対。結局、昨春、幼稚園に入園させたのを機に、ようやく仕事を再開することができた。夫は毎朝、娘を幼稚園に送ってから出勤するため、周囲からは“子煩悩なパパ”と見られているが、料理、洗濯、掃除は「得意じゃない」と言って一切しないという。 「本当はフルタイムでバリバリ働きたいんです。でも、うちの夫が相手では難しいかな。悔しいですけどね」  顕在化する“夫格差”。なぜ、時代を経ても女性のキャリアや活躍を阻む男性が存在するのかと考えた時に、興味深いデータにたどり着いた。  NHK放送文化研究所の「日本人の意識調査」(18年)によると、結婚しても子どもが生まれても、妻ができるだけ職業を持ち続けたほうがよいという「両立」志向は、男性は73年は16%だったが18年は56%に、女性は同24%から同63%にそれぞれ約45年前と比べて男女とも大幅に増加したが、いつの時代も男性は女性より10ポイントほど低い。つまり、男性の方がそもそもの両立志向が低いのだ。 「可能な範囲」の両立  女性活躍など働きやすい職場作りに向けた事業を展開している「21世紀職業財団」の主任研究員の山谷真名さんは、こう指摘する。 「女性は無理をしてでもお迎えに行くなど、子育てと仕事を両立しなければならないという気持ちがあるように思います。ただ、男性は『可能な範囲で両立』していると、私たちからは受け取れます」  同財団の調べでも、「1時間以上家事・育児をしている」と答えた夫は60.2%だったが、「夫が1時間以上家事・育児をしている」と答えた妻は42.9%で大きなギャップがあったという。 「子育てをしている男性に集まってもらってインタビューしたら、平日は全く子育てしていない人ばかりで衝撃を受けたことがあります。自分は育児をしっかりしていると思っている夫は多いのだと思います」(山谷さん)  このズレを象徴するのが、朝、保育園に子どもを送るのが夫で夕方に迎えに行くのが妻というケースだ。 「家事・育児の分担は一見すると『平等』ですが、実は『不平等』です」(同)  夕方に迎えに行くことが決まっていたら、妻は夕方までしか仕事ができず、マミートラックに陥る一因になる。山谷さんは、週2、3日は男性が迎えに行って、自宅で子どものお世話をすることを勧めている。毎日子どもが寝た後に帰っているなら、週に2日は早く帰り、3日は遅くまで仕事をするなどメリハリを付ける働き方もアリだという。  さらに、男性のズレが見えやすいのは、日常のこまごまとした家事だ。洗濯なら洗う、干す、畳む、は見えているかもしれないが、洗剤の補充をしたり、洗面所のタオルを交換して洗濯機に入れたりするといった家事が見えない夫は多いという。  山谷さんらがインタビュー調査で聞いた解決策はこうだ。 「まず夫に見える家事・育児をしてもらい、夫が取りこぼした見えない家事を妻がフォローする。それでようやく家事と子育ての分担が半々になるでしょう」 (編集部・井上有紀子) ※AERA 2025年3月10日号より抜粋  
玉木雄一郎氏の代表復帰会見に“追っかけ”記者は「立憲よりまとまっている。まだ伸びる」との感想
玉木雄一郎氏の代表復帰会見に“追っかけ”記者は「立憲よりまとまっている。まだ伸びる」との感想 復帰会見に臨む玉木雄一郎氏(撮影・上田耕司)    不倫問題で昨年12月から3カ月の役職停止処分を受けていた国民民主党の玉木雄一郎氏が4日、党代表に復帰し、会見を開いた。記者からは、 不倫を報じられた相手の女性や妻との関係、今夏の参院選など多岐にわたって質問が出た。会場には、国民民主を“追っかける”名物カメラマンの姿もあり、会見の感想を聞いてみた。 「大事な交渉の時期に私が役職を外れ、意思決定にかかわることができなかったことについては、本当に申し訳なく思っております」 「離婚はしていません!」  玉木氏は会見の冒頭で謝罪し、国会中の大事な時期にかかわれなかったことについてそう語った。  「その間、古川(元久)代表代行、榛葉(賀津也)幹事長、浜口(誠)政務調査会長が一体となって、チームワークよく交渉に向き合ってくれたことは本当に感謝しておりますし、そのことで何か足りなかった、あるいは不足していたことはないと思います。党として一丸となってぶつかった結果だと思います」   記者からの質問で、「(不倫問題の)相手女性方とはどのような形で謝罪なり、連絡なりをされたんですか」と聞かれると、玉木氏は、 「お相手との関係ですけれども、一切、直接連絡を取っていません。弁護士を通じて対応しておりますが、これは相手方のプライバシーに関わることですので、詳細は差し控えたいと思います」  と話した。さらに、「相手女性の健康状態」と「玉木氏の妻の対応」について質問すると、 「(お相手の)健康状態は必ずしも正確に把握しておりませんけれども、早く日常の生活や活動に戻れるよう期待をしています。妻については、 正直この間、あることないこと、特に『離婚』とか書かれて。そんなことないです。今、離婚はしてませんから。夫婦関係はしっかりしていますので、憶測で何かを報じたりすることは、ぜひやめてもらいたい。私は公人ですけど、妻も相手方の女性も私人なので、そこについては一定のプライバシーの配慮は各メディアのみなさんについても、ぜひお願いしたいと思っております。夫婦関係は今、揺らいでおりませんし、家族第一に考えていきたいと思っております」   と答えた。  今夏に予定されている参院選については力強く語った。  「いよいよ参院選を視野に入れた活動を強化していかなければなりません。改めてきょう、記者会見なので申し上げますが、21議席を目指したいと思います。参院の21議席というのは意味があって、予算を伴う法案を単独で提出できるのが参院では21という意味であります。現在5人が非改選、4人が改選なので、改選で16取らないと21に届きません。相当高い議席であることは自覚をしております」   玉木氏は役職停止中、街頭演説やタウンミーティング、能登の被災現場の訪問など、計20カ所以上で地元の声を聞いてまわったという。 「この間聞いてきた、物価高などに苦しむ国民の声を踏まえると、私たちが強く大きくならないといけない、と改めて感じておりますので、高い目標ではありますけれども、単独で予算を伴う法案提出権を得られる21議席を目指し、きたる選挙に臨んでいきたいと思っています」   会見終了後、会場でフォトジャーナリストの堀田喬氏を見かけた。  堀田氏は、 国民民主の集会、街頭演説、会見などにひんぱんに顔を出し、SNS上で“名物男”となっている。 国民民主のスタッフからは「(別の用件でも)来ていただきたいな」と声をかけられていた。  国民民主党を“追っかけている”フォトジャーナリストの堀田喬氏(撮影・上田耕司)    堀田氏は、 「玉木さんはやっぱりまだ人気があるんだ。神奈川県での地方選を取材したけど、みんな一つにまとまっていたね。憎たらしいけど、今(の国民民主)はまとまっている。立憲民主党よりまとまっているよ。まだまだ伸びるよ」   と独自の見解を述べた。  堀田氏に「国民民主の会見によく来るのは、期待しているからですか」と聞くと、  「取材ですよ。国民民主の候補が出る地方選挙にも行っているから。いつ国民民主がだめになるか、それを見るために来ているんですよ。別に応援団じゃありません(笑)」   と真意はわからないが、そう答えていた。  満を持して?代表に復活した玉木氏。スキャンダルは尾を引かずに、党のかじ取りに専念することができるのか。  (AERA dot.編集部・上田耕司)

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