
【下山進=2050年のメディア第45回】さらば夕刊フジ!最後の編集長かく語りき「駅売りとともに生きた」
矢野将史。2025年1月21日撮影。ありし日の夕刊フジの編集局で。夕刊紙の降版は、午前9時。朝6時には出社していた。2月からは産経の本紙に戻り、ウエブ関係の仕事につくという。(写真:横関一浩)
夕刊フジというメディアが消滅した。
そもそも、かつてはどこの駅にもあったKIOSKなどの売店が、どこにもなくなってしまったため、その最終号に気がつかなかった人も多かったろう。
新聞は宅配で家庭に配られるもの、とされていた日本の高度成長期に、郊外へ郊外へと伸びる東京・大阪の鉄道網の各駅に設置された売店での「即売」というイノベーションによって生まれたメディア。
1968年の創刊準備室の段階から、夕刊フジに20年携わった馬見塚達雄(故人)の『「夕刊フジ」の挑戦』(2004年 阪急コミュニケーションズ)なども参考にしながらその誕生と終焉について書こう。
拡大する首都圏の通勤圏を後背地として
ヒントは、ニューヨークの1968年春の地下鉄の光景にあった。当時、産経新聞の社長室長だった河野幹人は、何か商売のネタになるものがないかと、米国に派遣されたのだが、地下鉄やバスで通勤客が帰宅時に読みふけっていたのが、ニューヨーク・デイリー・ニュースだった。
ニューヨーク・デイリー・ニュースは、通常の新聞の半分のサイズのタブロイド版を初めて開発した新聞で、この新聞は広げても隣の人の邪魔にならず、遅版が夕刻に路上の売店で売り出されると、飛ぶように売れていた。その部数は200万部以上。
帰国した河野は、社長室で退勤時の通勤客の行動調査を行う。日本でもターミナル駅の売店で売られる夕刊紙は、大阪ではさかんだったが、東京では東京スポーツと内外タイムスしかなく、しかもそれは車内で広げにくい。
ここに勝機がある。
そうして夕刊フジは、1969年2月26日に創刊された。
「退勤時のサラリーマンに向けた編集というのは、創刊時から変わっていません」
そう語ってくれたのは、夕刊フジ最後の編集長だった矢野将史だ。
矢野が編集長の時代にも、たとえば岸田政権や石破政権で、くりかえし提案される「退職金増税」に反対するカバーストーリー(一面記事)を書いている。
産経新聞というと論調としては右だが、1970年11月25日の三島由紀夫の自決についても、翌日の一面で〈自己の文学の終末を飾るために、狂気に走る─そのエゴイズム〉と徹底的に批判している。
〈三島は、昭和元禄といわれる世相を、怒りと憎しみをこめて批判した。だが、平和を願い、こどもを産み育て、一家の幸せを願って働く。(中略)それがなぜ批判されなければならないのか〉
〈日曜に、こどもつれて遊園地に、あるいは月賦で買ったマイカーでドライブを楽しむサラリーマン。やりくりをしてマイホームのために貯金をする妻。学習院ではなく、町の公立の小学校にこどもを通わせる家族。その家族のあたたかさ、かなしみ、そのほんとうの味わいは三島にはわからなかったのだ〉
初代の編集長だった山路昭平が自ら書いたというこの一面は、今読んでも名文だ。そして夕刊フジという媒体の性質をよく現している。
この「オレンジ色のニクい奴」は、帰宅途上のサラリーマンに圧倒的な支持をうけた。
1980年代半ばに、夕刊フジに入社し、広告営業をした私の友人に聞くと、当時は「東京と大阪であわせて100万部以上の部数があるという媒体資料をもって、ビジネスマンの使うワープロメーカーや酒タバコの広告をとってまわった。経費は使い放題。上司の部長は、毎晩のように銀座のクラブにくりだしていた」。
実際、馬見塚達雄の本には、札束を刷っているようなもので、産経本社のボーナスは、夕刊フジの利益でまかなえたとの記述がある。
1990年に産経新聞社に入社した矢野が、夕刊フジに配属されたのは、オウム事件が一段落をむかえていた1995年夏のことだ。このオウム事件の最中に、夕刊フジは最高部数に達する。
当時の夕刊フジの編集部は100人をこえる陣容だった。矢野は、しだいに政治担当になっていくが、本紙と違うのは、与野党問わず取材できたことだった。新聞本紙では、与野党どころか、自民党は、派閥ごとに担当記者がいた。そして記者クラブを拠点とした取材をしていた。
しかし、政界を広く取材するという視野が、たとえば、小沢一郎と鳩山由紀夫の対談(2002年4月18日)から自由党と民主党の合併が生まれたり、政治家本人にコラムを書かせたりするという夕刊フジの後期の名物、政治家の連載コラムへと結実していった。
なかでも、2005年1月から始まった安倍晋三のコラムは断続的に17年続き、末期の夕刊フジを支えることになる。
この政治家コラムは、保守政治家にかたよっていたわけではなく、長妻昭、蓮舫、山口那津男といった政治家も連載した。
実は共産党の志位和夫にも、コラム連載を正式に依頼したこともあったと、矢野は言う。「やってくれるかな、とも思ったのですが、最終的には、党のほうから断りの返事がきて残念でした」(矢野)
スマホの登場で風景が一変する
その矢野が、風景がかわったと感じたのが、2010年の震災前のことだという。
2008年にiPhoneが発売、2010年には、移動通信の形式が第四世代(4G)になって、動画や音楽が動いている電車の中へも瞬時に送れるようになると、車内の風景があっという間にかわっていった。かつて夕刊フジを買って帰宅途中に読んでいたサラリーマンは、スマホを眺めるようになったのだ。
この年、夕刊フジの編集局は半分に人員が削られることになる。
そして駅の売店も、回転の早かった夕刊紙や雑誌の売上が、スマホによっておちこむことで、次々に閉店になっていった。
たとえばかつて新橋駅烏森口には、大きなKIOSKがあり、一日1000部といった単位で夕刊フジが売れていたが、そのキオスクも閉店となった。
ZAKZAKという夕刊フジの公式ウエブサイトがスタートしたのは、1996年8月と早いが、紙の記事がその日のうちに無料でアップされ、コラムも翌日にはアップされることは、紙の編集局にとっては、障害でしかなかった。別会社がやっているため、編集部からは鍵をかけてといった口出しはできなかったのだという。
ニューヨーク・デイリー・ニュースの現在の部数は、4万5000部。夕刊フジも、最後は2万から3万といった部数だったようだ。
1月31日に、わずかに残った駅売りの売店に差し込まれた紙面を最後に夕刊フジはその歴史を終えた。夕刊フジが守ろうとした男の終身雇用、退職金を前提としたサラリーマン文化とともに──。
かつてそこには駅売りの即売にかける男たちの熱いジャーナリズムの世界があった。
※AERA 2025年2月10日号