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【下山進=2050年のメディア第45回】さらば夕刊フジ!最後の編集長かく語りき「駅売りとともに生きた」
【下山進=2050年のメディア第45回】さらば夕刊フジ!最後の編集長かく語りき「駅売りとともに生きた」 矢野将史。2025年1月21日撮影。ありし日の夕刊フジの編集局で。夕刊紙の降版は、午前9時。朝6時には出社していた。2月からは産経の本紙に戻り、ウエブ関係の仕事につくという。(写真:横関一浩)    夕刊フジというメディアが消滅した。  そもそも、かつてはどこの駅にもあったKIOSKなどの売店が、どこにもなくなってしまったため、その最終号に気がつかなかった人も多かったろう。  新聞は宅配で家庭に配られるもの、とされていた日本の高度成長期に、郊外へ郊外へと伸びる東京・大阪の鉄道網の各駅に設置された売店での「即売」というイノベーションによって生まれたメディア。  1968年の創刊準備室の段階から、夕刊フジに20年携わった馬見塚達雄(故人)の『「夕刊フジ」の挑戦』(2004年 阪急コミュニケーションズ)なども参考にしながらその誕生と終焉について書こう。 拡大する首都圏の通勤圏を後背地として  ヒントは、ニューヨークの1968年春の地下鉄の光景にあった。当時、産経新聞の社長室長だった河野幹人は、何か商売のネタになるものがないかと、米国に派遣されたのだが、地下鉄やバスで通勤客が帰宅時に読みふけっていたのが、ニューヨーク・デイリー・ニュースだった。  ニューヨーク・デイリー・ニュースは、通常の新聞の半分のサイズのタブロイド版を初めて開発した新聞で、この新聞は広げても隣の人の邪魔にならず、遅版が夕刻に路上の売店で売り出されると、飛ぶように売れていた。その部数は200万部以上。  帰国した河野は、社長室で退勤時の通勤客の行動調査を行う。日本でもターミナル駅の売店で売られる夕刊紙は、大阪ではさかんだったが、東京では東京スポーツと内外タイムスしかなく、しかもそれは車内で広げにくい。  ここに勝機がある。  そうして夕刊フジは、1969年2月26日に創刊された。 「退勤時のサラリーマンに向けた編集というのは、創刊時から変わっていません」  そう語ってくれたのは、夕刊フジ最後の編集長だった矢野将史だ。  矢野が編集長の時代にも、たとえば岸田政権や石破政権で、くりかえし提案される「退職金増税」に反対するカバーストーリー(一面記事)を書いている。  産経新聞というと論調としては右だが、1970年11月25日の三島由紀夫の自決についても、翌日の一面で〈自己の文学の終末を飾るために、狂気に走る─そのエゴイズム〉と徹底的に批判している。 〈三島は、昭和元禄といわれる世相を、怒りと憎しみをこめて批判した。だが、平和を願い、こどもを産み育て、一家の幸せを願って働く。(中略)それがなぜ批判されなければならないのか〉 〈日曜に、こどもつれて遊園地に、あるいは月賦で買ったマイカーでドライブを楽しむサラリーマン。やりくりをしてマイホームのために貯金をする妻。学習院ではなく、町の公立の小学校にこどもを通わせる家族。その家族のあたたかさ、かなしみ、そのほんとうの味わいは三島にはわからなかったのだ〉  初代の編集長だった山路昭平が自ら書いたというこの一面は、今読んでも名文だ。そして夕刊フジという媒体の性質をよく現している。  この「オレンジ色のニクい奴」は、帰宅途上のサラリーマンに圧倒的な支持をうけた。  1980年代半ばに、夕刊フジに入社し、広告営業をした私の友人に聞くと、当時は「東京と大阪であわせて100万部以上の部数があるという媒体資料をもって、ビジネスマンの使うワープロメーカーや酒タバコの広告をとってまわった。経費は使い放題。上司の部長は、毎晩のように銀座のクラブにくりだしていた」。  実際、馬見塚達雄の本には、札束を刷っているようなもので、産経本社のボーナスは、夕刊フジの利益でまかなえたとの記述がある。  1990年に産経新聞社に入社した矢野が、夕刊フジに配属されたのは、オウム事件が一段落をむかえていた1995年夏のことだ。このオウム事件の最中に、夕刊フジは最高部数に達する。  当時の夕刊フジの編集部は100人をこえる陣容だった。矢野は、しだいに政治担当になっていくが、本紙と違うのは、与野党問わず取材できたことだった。新聞本紙では、与野党どころか、自民党は、派閥ごとに担当記者がいた。そして記者クラブを拠点とした取材をしていた。  しかし、政界を広く取材するという視野が、たとえば、小沢一郎と鳩山由紀夫の対談(2002年4月18日)から自由党と民主党の合併が生まれたり、政治家本人にコラムを書かせたりするという夕刊フジの後期の名物、政治家の連載コラムへと結実していった。  なかでも、2005年1月から始まった安倍晋三のコラムは断続的に17年続き、末期の夕刊フジを支えることになる。  この政治家コラムは、保守政治家にかたよっていたわけではなく、長妻昭、蓮舫、山口那津男といった政治家も連載した。  実は共産党の志位和夫にも、コラム連載を正式に依頼したこともあったと、矢野は言う。「やってくれるかな、とも思ったのですが、最終的には、党のほうから断りの返事がきて残念でした」(矢野) スマホの登場で風景が一変する  その矢野が、風景がかわったと感じたのが、2010年の震災前のことだという。  2008年にiPhoneが発売、2010年には、移動通信の形式が第四世代(4G)になって、動画や音楽が動いている電車の中へも瞬時に送れるようになると、車内の風景があっという間にかわっていった。かつて夕刊フジを買って帰宅途中に読んでいたサラリーマンは、スマホを眺めるようになったのだ。  この年、夕刊フジの編集局は半分に人員が削られることになる。  そして駅の売店も、回転の早かった夕刊紙や雑誌の売上が、スマホによっておちこむことで、次々に閉店になっていった。  たとえばかつて新橋駅烏森口には、大きなKIOSKがあり、一日1000部といった単位で夕刊フジが売れていたが、そのキオスクも閉店となった。  ZAKZAKという夕刊フジの公式ウエブサイトがスタートしたのは、1996年8月と早いが、紙の記事がその日のうちに無料でアップされ、コラムも翌日にはアップされることは、紙の編集局にとっては、障害でしかなかった。別会社がやっているため、編集部からは鍵をかけてといった口出しはできなかったのだという。  ニューヨーク・デイリー・ニュースの現在の部数は、4万5000部。夕刊フジも、最後は2万から3万といった部数だったようだ。  1月31日に、わずかに残った駅売りの売店に差し込まれた紙面を最後に夕刊フジはその歴史を終えた。夕刊フジが守ろうとした男の終身雇用、退職金を前提としたサラリーマン文化とともに──。  かつてそこには駅売りの即売にかける男たちの熱いジャーナリズムの世界があった。 ※AERA 2025年2月10日号  
ロケバス婚から5年「新川優愛」ドラマでは不幸妻でも…プライベートは超充実のラブラブ夫婦
ロケバス婚から5年「新川優愛」ドラマでは不幸妻でも…プライベートは超充実のラブラブ夫婦 新川優愛    1月8日からスタートした「五十嵐夫妻は偽装他人」(テレビ東京系)で、塩野瑛久とダブル主演を務めている女優の新川優愛(31)。本作は偶然、同じ会社に転職してしまい、他人を装って働く別居中の夫婦を描いたラブコメディーだ。新川は夫婦生活がうまくいかず夫と別居中の妻役を演じている。  2008年に放送された「長男の結婚」(テレビ朝日系)でドラマデビューした新川。その後、モデルとしても活躍するかたわら、ドラマや映画、舞台など幅広く出演。15年に情報バラエティー番組「王様のブランチ」の5代目女性司会者に抜擢されると、その名が一気にお茶の間に浸透した。また、私生活では19年、10代の頃から顔見知りだった9歳年上のロケバスのドライバーと結婚し、“ロケバス婚”として大きな注目を集めた。今回のドラマでは別居中の妻を演じ、過去には“サレ妻”も演じたことのある新川。結婚から5年がたつが、実生活ではどんな家庭生活を送っているのだろうか。 「23年5月に第1子が誕生し、育児と仕事の両立に奮闘しているようです。昨年7月期の『クラスメイトの女子、全員好きでした』で、約2年ぶりに連ドラ復帰を果たしましたが、子育てしながらの女優業について、当時のインタビューで『毎日がてんやわんやで本当に大変』と明かしています。収録現場では先輩ママでもあるスタッフと育児について相談したり、子育て情報アプリも活用したりしているとか。『離乳食をあまり食べないのですが、どうやってあげていますか?』など、気になったことを聞いているそうです。仕事と子育てにしっかりと取り組み、日々充実している様子がうかがえます」(テレビ情報誌の編集者)  一方、結婚して5年もたてば新婚ではなくなり、夫婦生活の新鮮さも薄れてくる頃だが、新川の場合は幸せな関係が続いているようだ。 「@BAILA」(24年6月10日配信)では、夫には感謝していることがたくさんあり、その一つが「私をちゃんと見ていてくれること」と話している。例えば、いつも帰宅したときはいちばん最初に新川に「ただいま」と言ってくれたりと、「第一に私の心を考えてくれている」と思える夫の言動に心が救われると告白。また、仕事への復帰に背中を押してくれたのも夫だという。仕事を少しずつ再スタートさせた頃、帰宅した新川の顔を見て「やっぱり仕事が楽しいんだな」とすぐに察してくれ、「お母さんが笑顔でいることが子どもにとっても幸せ。2人で相談しながら進めばなんとかなる」という言葉で背中を押してくれたという。 モデルとして活躍していた頃の新川優愛   夫の小遣い「5000円」の堅実生活  さらに、夫は育児参加にも積極的のようだ。「yoi」(24年6月22日配信)では、夫にも親としての実感を早く持ってもらいたかったので、子育ての初期からかなり頼ることにしたと回想。夫からは最初に「察することは、俺は無理だ」と言われたが、だからこそ夫は「どんどんやってほしいことを言って」と全面協力する姿勢をみせてくれたという。また、夫は新川がお願いしたことは必ずやってくれ、疲れたからといってサボったりしないので、逆に夫が無理をしているなというときは新川が察して、バランスをとっているとも話していた。  結婚当初は夫に関して、ロケバスのドライバーという一面が大きく注目されたが、今も妻に愛情を注ぎ、子育てにも率先して取り組む良き夫のようだ。そうした環境のなか、生活も堅実そのもののようだ。 「1歳になった自身の子どもの服は5セットくらいしかなく、『1000円する服は買ったことない』とバラエティー番組で明かしていたこともありました。また、家庭では新川がお金の管理をしていて、夫にはお小遣いを週1回の定額で渡していると明かしていました。しかも、余ったお小遣いは夫のために新川が代わりにためてあげているとか。お小遣いの金額は『5000円くらい』で、この額は夫のほうからの提案だったそうですが、お金の使い方も芸能人には珍しく質素なことに驚きました」(女性週刊誌の記者)  芸能評論家の三杉武氏は新川についてこう述べる。 「新川さんはデビュー後、女性ファッション誌モデルを務めたり、『ミスマガジン2010』でグランプリを獲得するなど、“股下80cmの8頭身美女”として同世代を中心に高い支持を集めました。一方、小学6年生の時に『劇団東俳』に所属したのが芸能界入りのキッカケということですから、実は下積み時代に演技など地道なレッスンにも励んでいたのでしょう。18年放送のドラマ初主演作『いつまでも白い羽根』では看護専門学校を舞台にさまざまな苦悩や葛藤を抱えながら看護師を目指す主人公を好演し、最近でも20年放送の主演ドラマ『ギルティ〜この恋は罪ですか?〜』での演技も印象的でした。また、もともとお笑い好きとして知られ、今年1月に放送された『新春!お笑い名人寄席』ではマギー司郎さんとマジックも披露するなどバラエティー対応能力も高いので、今後もマルチな活躍が期待できそうです」  夫婦仲も良く、家庭円満の新川。仕事にも良い影響を及ぼし、息の長い活躍が期待できそうだ。 (丸山ひろし)
サバンナ八木、中学受験で塾の“最下位”クラスから立命館中に合格 「子どもたちには勉強しろと言わず、僕自身が勉強しています」
サバンナ八木、中学受験で塾の“最下位”クラスから立命館中に合格 「子どもたちには勉強しろと言わず、僕自身が勉強しています」 サバンナ八木真澄さん「ブラジルの人、聞こえていますか~」  お笑い芸人として活動しながら「ファイナンシャル・プランニング(FP)技能検定1級」の資格を取得したサバンナの八木真澄さん。家庭では小学生2人のお子さんのパパです。子育てやお子さんたちへのマネー教育について聞きました。※前編<サバンナ八木が語る、FP1級合格まで3回落ちてもへこまなかった理由「最初は日経平均って何やねん、のレベルだった」>から続く 子どもたちの前で勉強をする ――小5のご長男、小2のご長女がいらっしゃいますが、家ではどんなパパですか?  子どもたちからは、親という視点では見られていないでしょうね。 ――友だちのような感じですか?  友だち以下やと思われていますね(笑)。酔ってわけわからんこと言うからですかね。娘もショート動画ばかり見て、「パパ遊んで」って言ってくることもないです。今の子は精神年齢が高い感じがしますね。 ――八木さんご自身はFP1級の資格取得に向けて、毎日かなりの勉強量だったと思いますが、お子さんたちの勉強に対してアドバイスすることはありますか?  ないですね。息子は中学受験をする予定なので塾には通っていますが、「勉強しなさい」とは言わないです。ただ、子どもたちの前で僕自身は勉強をします。そこで子どもたちがテレビを見ていたら「その音があると問題解けへんから頼むわ」って言って、音量を下げてもらったり、テレビを消してもらったりはします。 ――ご自身が勉強する姿を見せることで、何かを学んでほしいという感じですか?  あえて見せているわけではないです。ただ、同じ行動でも強制されてやるか、自発的にやるかでストレスって全然違いますよね。僕はトレーニングを30年間毎日続けていますけど、やる時間帯やトレーニングの内容を強制的に決められたら、続けられていないと思います。勉強も同じです。 鉄棒、とび箱まである! 前のご自宅にあった運動スペース(八木さんYouTubeより) 前のご自宅でサンドバックを蹴る息子さん(八木さんYouTubeより)  僕も中学受験したんですけど小3のときに進学塾に入るための試験を受けたら、落ちたんです。その塾を落ちる子なんて、ほぼおらんかったですけど。2回目に受かって塾には入れましたけど、ずっと最下位のクラスでした。6年生になったときはレベル順にAからFクラスまであって、僕はFクラス。先生の話が理解できなくて、授業についていけないんです。それで6年生の5月くらいに家でテキストを1ページ目から自分流に読み返したら、どんどん頭の中に入ってきて。  どういうことかというと、先生が説明するペースと僕が理解するペースとが合っていなかっただけなんですよね。そこから成績も一気に上がって、志望していた立命館中学校に受かりました。 ――自分のペースでやったほうが身についたんですね。  向いている勉強のやり方って人それぞれなんです。例えば歴史の場合、僕はいきなり鎌倉時代の話をされてもわからなかったんです。でも自分の親の時代、祖父母の時代っていうように現代からさかのぼっていくと理解できるし、自分の身近なところから覚えていくと記憶が定着するんです。FPの勉強をするときも、「なるほど、はいはい」とあいの手を入れたりして自分のペースで進めています。子どもたちも自分自身のやり方を見つけてほしいですね。 仲良し! 八木さんご家族の写真(八木さんYouTubeより) 家族で受けた取材のギャラは等分に ――お子さんたちには、どのようなマネー教育をされていますか?  例えば動物のエサやり体験ができるところに行って、100円でエサを買うと子どもたちはすぐに全部あげてしまうんです。「もう1回買って」って言われても「1回だけや」って買いません。そうすると「もう楽しまれへん」って泣きますけど、次からはできるだけ長く楽しもうと、めちゃくちゃちょっとずつあげるようになるんです。動物たちは困っていましたけど(笑)。 ――泣かれてもお金は渡さないんですね。  渡さないです。あとはクレーンゲームをやりたいと言われたら、「500円渡すけど、これでぬいぐるみを買うこともできる。クレーンゲームは5回できるけど、ぬいぐるみはとれないかもしれない」と言って選ばせますね。それでもいいと言ってクレーンゲームをやって案の定とれずに「もう1回」と言って泣きますけど、「パパが最初に言うたやろ」って言って、お金は渡さないですね。 ――遊ぶときのお金はお小遣い制ではなく、その都度渡すんですね。  そうです。あとは仕事のギャラとして渡しますね。 ――仕事のギャラ?  イベントなどでお客さんに「ブラジルジュエリー」っていうオリジナルのブレスレットを渡すんですけど、それを子どもたちに手作りしてもらっていて。1個150円で買い上げています。 お子さん手作りの「ブラジルジュエリー」(ご本人提供) お子さん手作りの「ブラジルジュエリー」(ご本人提供)  あとは家族で取材を受けたときにも、ギャラを4等分にして一人ひとりに渡します。それは僕の仕事をわかってもらうためにやっていますね。コロナ禍で仕事がなくなったときは食卓がさみしくなりましたし、仕事が増えればおいしいものを食べられます。  そのせいか子どもたちは「芸能人になりたい」とは言わないですね。安定した職業につきたいと思っているんじゃないですかね。子どもって親とは逆の世界に行きたくなるところがありますよね。僕の場合は、母が保育園、父はJRに勤務していて安定していたので芸人を目指したのではないですかね。 イベント会場などで手渡しする「ブラジルバッグ」(ご本人提供) お年玉は宝探し ――お正月にはお年玉をもらう機会があったと思いますが、八木家では管理はどのようにされていますか?  子どもに任せていますね。でもすぐに使わずに、それぞれ自分の通帳を持っているので、そこに入れているみたいです。僕と妻からのお年玉は宝探しにしているんですよ。 ――宝探し? 楽しそうですね。  封筒に500円とか1000円を入れていろいろな場所に隠すんです。制限時間3分で、見つけられた分だけもらえるんです。 ――まったくもらえない年もあるんですか?  それはないです。机の上に貼るとか、わかりやすい場所にも置いておくので。 ――八木さんはマネー教育にしても、言葉で説明するのではなく経験させるということを大事にされている印象があります。  子どもたちはクレーンゲームの取り方をYouTubeで研究しています。お金をムダにできないという気持ちが向上心を生みます。勉強に対しても、それくらい熱心に取り組んでくれたらうれしいんですけどね。  子どもたちが大人になったときに、どういった世の中になっているのかわかりません。その中で自分なりに工夫して、生活していける大人になってほしいです。 (構成/中寺暁子) ※前編<サバンナ八木が語る、FP1級合格まで3回落ちてもへこまなかった理由「最初は日経平均って何やねん、のレベルだった」>から続く サバンナ八木真澄さん   (サバンナ 八木真澄さん) ○サバンナ 八木真澄(やぎ・ますみ)/1974年生まれ、京都府出身。94年に立命館高等学校柔道部の後輩だった高橋茂雄とお笑いコンビ、サバンナを結成。97年に「ABCお笑い新人グランプリ」優秀新人賞を受賞。一発ギャグを得意として、さまざまなイベントに出演するほか、2024年には著書『年収300万円で心の大富豪』(KADOKAWA)を出版する。同年10月に「ファイナンシャル・プランニング(FP)技能検定1級」を取得、11月には「一種外務員資格試験」(日本証券業協会)にも合格。
日本人の英語力92位の衝撃 課題は受験勉強では体得しにくい「発信力」 国際力の低下懸念  育成は小さい頃から可能か
日本人の英語力92位の衝撃 課題は受験勉強では体得しにくい「発信力」 国際力の低下懸念  育成は小さい頃から可能か 東大とハーバード大を比較し、日本のジェンダー格差の視点から自身の東大進学希望理由をプレゼンした篠川心音さん(高1)。Global kids英語会主催、プレゼン大会2024で。スライド文字は観客が理解しやすいよう日本語で(写真:横関一浩)    落ち続ける日本の英語力。受験勉強では体得しにくい発信力が特に課題だ。AERA 2025年2月3日号より。 *  *  *  語学学校を世界展開する企業「EFエデュケーション・ファースト」(本部スイス)が昨年11月に発表した英語圏以外の国・地域の2024年版「英語能力指数」で、日本は過去最低の92位に転落した。一昨年は87位であったが、さらに五つ下落し、英語力が低い地域(62位から92位)では最下位である。調査対象は116カ国・地域で、オランダが6年連続で首位を維持。2位はノルウェー、3位はシンガポールである。日本は韓国やベトナム、インドネシア、中国などを下回り、アジア23カ国・地域でも16位に沈んだ。  この数字は何を示しているのか。世界的な道徳平和活動MRAや難民を助ける会で活動した初の国際NGO出身の政治家である藤田幸久氏は「週刊NY生活」でこう述べている。 「この〈英語力92位〉が示しているのは、自らの理念を持ち、異なる理念や文化を持つ人と本音のコミュニケーションが取れ、多様でグローバルな思考ができる国民とリーダーを生み出す場を自ら閉ざしている日本の姿です。(中略)国民が自分で考え、行動し、国家が長期的、戦略的な舵取りを担うStatecraft(政治的手腕)の欠如が根底にあると思います」 意欲と好奇心が重要  思想家の内田樹氏も『サンデー毎日』(2018年3月25日号)に〈東大OBが語る「日本の教育と大学の未来」〉でこう警鐘を鳴らす。 「記事(Foreign Affairs Magazine2016年10月号)は日本の大学に著しく欠けているものとして〈批判的思考〉〈イノベーション〉〈グローバルマインド〉を挙げていました。記事によれば〈グローバルマインド〉の定義は〈世界各地の人々とともに協働する意欲。探求心、学ぶことへの謙虚さ〉という。問題は英語が話せるかどうかといった技能レベルのことではありません。ついでに申し上げると、過去30年で英語力も著しく低下しました。(中略)日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う他者と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです」 バスケットボールに夢中の波多野百香さん(小4)。チームメイトと共に自分が頑張ることができる源についてプレゼンした(写真:横関一浩)    世界に発信するには英語力は不可欠であるが、国際社会で必要な英語力とは何か。作家の水村美苗氏はその著著『日本語が亡びるとき』の中で〈今、まだ多くの日本人の英語に対する関心は「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」か否かにとどまる〉と述べ、さらにこう喝破する。 〈日本が必要としているのは、「外国人に道を訊かれて英語で答えられる」人材などではない。日本が必要としているのは、専門家相手の英語の読み書きでこと足りる、学者でさえもない。日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべきだが、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である〉  日本人の発信力の弱さは論文にも表れている。2020~24年にAIの国際学会に採択された論文約3万本の著者や所属研究機関について日本経済新聞が分析したところ、24年の首位はアメリカの1万4766人。2位が中国の8491人であった。日本勢は理化学研究所が64位で188人。何と東京大学はさらに下位で71位の171人であった。まったく話にならない数字である。 驚きのプレゼン力  果たして、日本で英語による発信力を育成する教育が小さいころから可能なのか。筆者は昨年12月、東京・世田谷にある「Global kids英語会」が主催する「2024英語プレゼン大会」第4回を見学した。小学4年生から高校1年生までの生徒が順に英語でプレゼンを行ったが、正直そのプレゼン力に驚いた。小学4年生が、蝶を育てる実験、コメ作りの大変さとお米の大切さ、というテーマを英語でプレゼンし、パリに和食レストランを開き、和食を通して日本文化を世界に伝える夢を語った波多野莉乃さん(中1)、パリ五輪女子ボクシングでの男性染色体を持つ選手を巡っての議論からスポーツ界の多様性について語った中村朱里さん(中1)、若者の政治参加と幸福感の関係について語った大島颯真さん(中2)、今こそ東京大空襲の被害の甚大さを伝えるべきと語った高味加依さん(高1)、日本の男女格差の視点から自身の東大進学の意義を語った篠川心音さん(高1)など、大人でも難しいテーマを英語でプレゼンする姿を見て、これが日本のノーム(標準)になるべきだと確信した。 昨年の東京都知事選を題材に、若者の政治参加、政治と幸福の関係について、原稿を持たずフリーハンドでプレゼンに臨んだ、大島颯真さん(中2)(写真:横関一浩)   「Global kids英語会」は15年前に生徒数人で始め、今では年長から大学生まで150人ほどの生徒を抱える。これを運営する株式会社ダイバース・キッズの代表取締役社長の豊田朋子氏は「受験英語は一切やらない」と力説。その学習成果発表として、年1回、スライドを使用したShow and Tellの本格的なプレゼン大会を開催。 「現況の受験英語だけでは、発信力がつかないばかりか、むしろ英語嫌いを増やすだけです。膨大な時間と費用を費やし、これだけ英語が使えない民族は、世界広しといえど、日本人だけでしょう」 日常茶飯事の光景  筆者はアメリカに20年近く住み、学生生活も日米両方で経験している。娘もNY生まれでマンハッタンの学校で教育を受けているが、授業でShow and Tellは日常茶飯事の光景である。これは自分の経験や関心のあるテーマをみんなの前でプレゼンすることであるが、まさに私が見学した英語プレゼン大会で行われたことだ。  さらに生成AIが発達して、DeepL翻訳やGoogle翻訳など機械翻訳があるので、英語はそれほどできなくてもいい、という超楽観主義者もいるが、それは深刻な間違いだ。普段英語で取材をしている筆者もときどき機械翻訳がどこまで正確か、自然な言語であるかを調べるために使うことがあるが、DeepLでもGoogle翻訳でも“I like dog.”と入力すると、“私は犬が好きです”と出てくるので、話にならない。犬が好きであることを言う場合は、“I like dogs.”と複数形にしなければならない。“I like dog.”は〈犬の肉が好き〉という意味である。これほど単純な英文でも正確に訳せないのだから、機械翻訳を通して出てきた翻訳がどれほど正確で自然な英語であるかを判断するには、ネイティブ並みの英語力が必要である。皮肉にも機械翻訳があることで、さらに高度な英語力が必要になっているのである。 AERA 2025年2月3日号より    日本人が小さいころから英語をやることにいまだに反対する人がいるが、その理由の一つが日本語という母語をきちんとやってからでないと混乱するというものである。世界をみるとバイリンガルや3カ国語以上話す人は60~70%くらいいるが、アメリカや日本のようにモノリンガルの国の方が少ないことを日本人は案外知らない。聴覚の点で言うと豊田氏は「当会では英語圏の子どもたちに読み書きを教えるために開発された『フォニックス教授法』を採用している。聴覚が柔軟な小学校低学年から始めることで、難しい発音も聞き分けられるようになり、リスニング力も向上する」と言う。さらに「フォニックスは〈読む〉〈聞く〉〈書く〉〈話す〉の4技能を起動できるソフトのようなもので、それを装備すれば、小学生でも英字新聞の音読が可能です」と自信を見せる。中高生クラスは、NYでの記者経験もある豊田氏が担当し、時事英語プログラムを実施。「テーマは小学校低学年では趣味や家族など個人的な経験ですが、学年が上がるにつれ、SDGsや動物保護など社会的なテーマへとシフトする。中高生になると政治、文学、気候危機、ジェンダーなど多岐にわたる」と語る。国際舞台でプレゼンする際に欠かせない、ノンバーバル(非言語)表現のトレーニングにも取り組んでいるというから、まさに欧米のノームを日本で実践しているということだ。それにはジェスチャー、聴衆へのアイコンタクト、声の大きさ、トーンの調整、表情などが含まれる。私がプレゼンを見学して驚いたのはきれいな発音である。それは小学校低学年からフォニックスを積み重ねてきたからであろう。  二人の子どもをGlobal kidsで学習させている波多野夫妻に話を伺った。 「仕事で英語のコミュニケーションに困ることも多く、子どもたちにだけはそんな苦労をさせたくないと思い、耳から自然に英語が入るメソッドを持つ、こちらの教室に通わせることにしました」と金融関係に勤める父親の敏之氏(44)は述べる。母親の麻妃さん(43)も、「とにかく英語を楽しみながら上達できているのが良いと思います。今日のプレゼンでも娘たちの成長を実感できました」とほほ笑んだ。また東大文IIIの2年生で同スクールの講師を務める万代千尋さん(20)は、「私は小3までシカゴの小学校で過ごしたので、発信力、フォニックスの大切さは、よく理解しています。大学生になり、英語講師のバイトを探しましたが、文法中心の英語塾ばかりで、私の理念に合う塾がGlobal kidsしかありませんでした。ここで教えていると、帰国子女として、日本の英語教育に対してずっと感じていた違和感が吹き飛び、やり甲斐に満ちてきます」と述べる。 とよだ・ともこ/(株)ダイバース・キッズ代表取締役。米国留学後、NYで新聞記者として活動。帰国後、Global kids英語会を設立(写真:横関一浩)   大きいシナジー効果  2カ国語を小さいころからやると母語と混乱すると言う専門家もいるが、混乱するどころか実際はシナジー効果の方がはるかに大きい。  豊田氏も「英語は、主体を明確にする言語です。英語発信を通し、自身の考えが明瞭になり、皆、日本語での発表も上達していきます。また、長年、英語教育に関わり、一つ明確なことは、英語発信を獲得するのは、読書をする子たち。第二言語のレベルが母語のそれを超えることはない。結局、英語力の基礎は国語力です」と断言。一方、現場で最も苦労する点は、羞恥心の壁を破ることだと言う。「日本の子は、“お口は閉じて、手はお膝”と言って育てられる。英語力以前に、まず、国際標準の発信力のスタートラインに立つこと。普段は物静かでもいいけれど、一旦、自身の考えを表明する際には、気持ちを切り替え、堂々と自己発信できる人間になろうと。グローバル時代を生き抜くのに不可欠なマインドセットです」 脳と言語の関係  東京大学大学院教授の言語脳科学者である酒井邦嘉氏は『言語の脳科学』(中公新書)で〈英語が得意な人でも、日本語と同じレベルまで話したり聞き取れるようになるのが難しいのは、母語を獲得した結果として、逆に第二言語が獲得しにくくなるためかもしれない。つまり、脳が日本語のパラメーターを最適とするようにうまく調整されていればいるほど、英語のような違うパラメーターを受けつけにくくなると考えられる〉と述べている。文法を重視しすぎると、文法に合わせて文を作るので、実際には使われていないかなり不自然な英文ができる。日本人の英語が理解されにくいのは、日本語から訳したような不自然な英語が多いからだ。文法についても酒井氏は『チョムスキーと言語脳科学』でこう述べている。 〈脳からすれば、どんな言語が幼少時の環境にあって、母語として獲得されることになるかは分からない。すると脳は自然言語である限りはどんな言語でも、そして複数の言葉でも受容できるようになっていなければならない。言い換えれば、人間の脳は初めから多言語を獲得できるようにデザインされているのだ。それはバイリンガルやトライリンガルの存在はもちろん、多言語地域での第二言語習得の容易さからも示される事実である〉  何十年も前から「グローバルな人材の育成」という言葉だけが独り歩きしているが、日本の学校で実際に行われていることは、その逆である。日本人が英語での発信力を身につけるには、Global kidsで行われていることがインターナショナル・スクールのような特別な学校ではなく、普通の学校でのノームになることが必須である。(ジャーナリスト・大野和基) ※AERA 2025年2月3日号  
大阪、名古屋、神戸で急成長中のスーパー「八百鮮」 市原敬久社長が日本一かっこいい八百屋を目指した理由
大阪、名古屋、神戸で急成長中のスーパー「八百鮮」 市原敬久社長が日本一かっこいい八百屋を目指した理由 利益の追求ではなく、「感動ある人生を共に生きる」ために、市原は八百鮮を創業した(写真/MIKIKO)    八百鮮代表取締役、市原敬久。関西で急成長しているスーパー「八百鮮」。生鮮商品に特化しており、新鮮な野菜が安く手に入る。店内には活気がある。人生を賭けた仕事をしたいと、市原敬久がたどり着いたのが八百屋だった。働く楽しみを仲間と分かち合いたい。障害のある人も積極的に採用し、人を大事にした経営を心掛ける。金儲けが目的ではなく、真のかっこよさを追求している。 *  *  *  いつからだろう。スーパーの店内で数点の商品しか入っていないカゴを手に、暗い顔で棚の値札を眺める人々の姿をよく見るようになったのは。  最近この国で、食品の異様な値上げが続いている。今年1月にはキャベツが一玉1090円で売られていると報道された。多くの野菜が2年前の1.5~2倍近い価格となり、4月までにさらに6千品目以上が値上げされる見込みだ。原因としてロシアのウクライナ侵攻、昨夏の異常な暑さ、続く円安などが挙げられているが、いずれも庶民にはどうしようもない問題である。  いくら値上げされても、私たちは命ある限り食べ物を手に入れ、生きていかなければならない。しかし2年以上続く物価高に、終わりがまったく見えない。その不安が人々の顔を曇らせている。そんなある日、妻から「近所に八百鮮ってスーパーが開店したの知ってる?」と聞かれた。友人が「久しぶりにテンションが上がって爆買いした」と話していたらしい。次の土曜日、八百鮮・魚崎南店を訪れると、駐車場には車が列をなし、店内は人でごった返している。レタス100円、ブロッコリー159円、豚ひき肉100グラム89円。生鮮食品の多くが他店に比べて確かに安く(価格は日によって変動)、しかも一目で新鮮なのがわかる。客のカゴは野菜や魚肉のパックで山盛りだ。気持ちいいのが店内に流れる「活気」である。鮮魚売り場で威勢よく声を上げる店員、上気した顔で食品を手に取る客たち。スーパーというよりまるで「祝祭日の市場」だ。 チーフ以上の社員が参加する研修では、ビジョンの浸透と共有を目的に「かっこいいとは何か?」「八百鮮にとっての仕入れ、人の重要性とは」などのテーマを話しあうグループワークを実施する(写真/MIKIKO)   父の働く姿を見て 社長に憧れを抱くように 「この店は、普通じゃない」  そう感じて帰宅後ネットで調べると、八百鮮は創業から15年で大阪・名古屋・神戸に10店を構え、急成長を遂げている生鮮食品に特化したスーパーとわかった。採用ページではラッパーのような店員がポーズを決め「億を動かす型破りな八百屋」と紹介されている。鮮魚の担当者は「体長2メートルあるバショウカジキを仕入れて頭ごと並べた」こともあるそうだ。サイトに溢(あふ)れるエネルギーが普通のスーパーとは明らかに違う。クリックするうちに、力強い毛筆体で書かれたコピーに目が止まった。 「八百屋を日本で一番かっこいい仕事に。」  文字の後ろに、一人夜の商店街の真ん中に立ち、腕組みをして真っすぐこちらを見つめる男がいた。八百鮮の創業社長・市原敬久(いちはらたかひさ・42)。「この人物に会ってみたい」と思った。   最初の取材で話した市原の印象は、サイトの情熱的なメッセージからは意外なほどに落ち着いた雰囲気の物静かな男だった。本人も子どもの頃から「人見知りなほうでした」と語る。だが、その胸の奥底には、燃え盛る炎のように熱い「商い」への思いがあった。  市原は1982年の夏、岐阜県美濃市に生まれた。父親は自動車のハーネス部品を製造する小さな町工場の経営者だった。 「隣の家まで200メートル以上ある田舎でした。工場が家のすぐ近くで、幼いときから遊びがてら父親が働いている姿をよく見に行ってました」 定期的に自宅に社員を招き、八百鮮の食材でバーベキューや鍋を振る舞っている。写真の女性は元々銀行で働いていたが、「八百鮮の人たちがすごく生き生き働いているのを見て」、転職を決めた(写真/MIKIKO)    小学生のときに父が「社長」と呼ばれることに憧れを抱いた。父の本棚の本田宗一郎や稲盛和夫の自伝を読むうちに、「自分も器の大きな社長になりたい」と考えるようになった。中学時代は真面目で成績は中の上、バスケ部で汗を流し、足が速いことから陸上の大会にも駆り出された。高校は進学校の県立関高校に入学した。 「ところが高校で応援部に入ったら周りにやんちゃな子が多くて、影響されて学業成績が一気に落ちました。先輩がバンドをやっていて、その影響で自分もドラムを叩(たた)くようになり、三つぐらいバンドを掛け持ちしてましたね」  高校でも「社長になる」という目標を忘れていなかった市原は、経営を学ぶため京都産業大学の経営学部に入学する。だが入ってみると机上の勉強が性に合わない。町工場を経営する父の姿と、授業で習うマクロ経済学がつながらなかった。 「つまらなかった大学生活が大きく変わり、僕の人生のターニングポイントになったのが、山本先生と出会ったことでした」 仕入れは各店の店長が行うが、市原も毎週1度は市場に足を運び、古くから付き合いのある仲買人と交流する。「仕入れは人間力で決まります。市場の人たちから社員の様子を聞くのが目的です」(写真/MIKIKO)   父の会社が倒産すると 人々が手のひらを返した  松下電器産業(現パナソニック)で35年にわたり経理部で働いた後に、京都産業大学で教鞭(きょうべん)をとった山本憲司(84)は、大学で「どこでもゼミ」という名前のゼミナールを開催していた。漫画『ドラえもん』に出てくる「どこでもドア」のように、そのゼミに入れば「将来自分の好きな世界に行ける」ことを意味するネーミングだ。  山本は授業で「経営は知識や理論ではない! 全身全霊をかけて一つの物事に打ち込む気合が何かを動かすのだ」と語り、松下幸之助から学んだ実践的な経営哲学を熱く学生たちに教えた。「この先生は現実の経営を知っている人だ」と感じた市原は、2年時から山本のゼミに入ることを決める。山本ゼミに所属する学生は、経営に関連するさまざまな「部」に所属し、主体的に活動する。市原の人生の最大の転機となったのが、このゼミで「福祉革命部」に入ったことだ。 鮮魚をさばくのは今もお手の物だ。「八百鮮の競争力の源泉は、徹底した属人的経営で育てた仕入れ力のある社員です。彼らとともに近い将来、関東や九州への出店を進めていきます」と語る(写真/MIKIKO)    福祉革命部では「福祉と経営の融合」というコンセプトのもと、市原の入学する1年前から「経営パラリンピック」というシンポジウムを企画していた。障害のある人が働く作業所を学生たちが訪問し、先進的な取り組みについて調査、その内容を障害者とともに聴衆の前で発表するという取り組みだ。「障害者がもっと収入が得られる社会」を目指すこのイベントは、ヤマト運輸の名経営者、故・小倉昌男の全面的な協力も受けていた。市原は山本とともに経営パラリンピックをNPO法人化し、福祉事業所に何度も足を運んだ。そして障害者の働きぶりを知るとともに、事業所の経営について経営者たちから学んだ。中心となって企画した4年時の経営パラリンピックが300人以上の聴衆を集め大成功に終わると、市原は仲間たちと感動の涙を流した。 「経営はお金儲(もう)けが目的ではなく、誰かを幸せにすることが目的であると、この活動を通じて学びました」と市原は振り返る。 (文中敬称略)(文・大越裕) ※記事の続きはAERA 2025年2月3日号でご覧いただけます
夫から突然500万円もらった女性… なぜ熟年離婚を考え直したのか 定年後の夫婦に必要な「気持ち」とは
夫から突然500万円もらった女性… なぜ熟年離婚を考え直したのか 定年後の夫婦に必要な「気持ち」とは 写真はイメージです(gettyimages)   働き方やライフスタイルが多様化し、自分らしい生き方を選ぶ時代。人生のポジティブな選択肢の一つとして「離婚」を考える人も増えてきました。とはいえ、離婚後に生活が想定外に苦しくなることは避けたい。離婚とお金について離婚カウンセラーの岡野あつこさんに聞く連載。最終回のテーマは「老後の生活設計」についてです。  同居期間が20年以上だった「熟年離婚」の割合が2022年に過去最高となった。寿命が延び、人生100年時代も現実的となったことで、「寿命まで」と耐えていた夫婦も離婚を選ぶように。死ぬまで待てないのだ。老後はもう夫の収入に頼らないで生きていく。経済的に自立さえできれば私は大丈夫――。そう妻たちは決断していく。  自身も2度の離婚を経験した離婚カウンセラーの岡野さんはこう話す。 「離婚したほうがお金持ちになれる熟年離婚っていっぱいあるんです」 離婚に踏み切れるようになった  大きいのは「年金分割制度」の存在だろう。 「年金分割制度の導入により、会社員の夫と専業主婦の妻が離婚した場合、婚姻期間中に夫が支払った厚生年金に対する受給額の半分と妻の基礎年金の受給額を足した合計金額が入るようになりました。退職金も預貯金も半分入る。これはお金持ちになれると考えてもいいのです」  夫が会社員で妻が専業主婦もしくはパート主婦の場合、圧倒的に妻の年金が少なくなる。これまでは、「自分だけの年金だと生活できないから」と離婚を踏みとどまってきた主婦も、この年金分割制度によって、離婚に踏み切れるようになったのだ。ざっくりといえば、専業主婦(第3号被保険者)の場合、結婚していたときの夫の厚生年金の半分が入る(これを「3号分割」という。08年4月以降の婚姻生活期間が対象)。 「この制度は専業主婦にとっては朗報でした。でも夫から見れば合意なくとも半分とられることになります。妻も厚生年金に加入していた共働き夫婦の場合は違います。妻が専業主婦だったら、離婚後に年金をガバっととられてしまう。そのときになって『専業主婦と一緒になっていなければ』と悔やむ男性もいます」  この年金分割の請求期限は離婚したときから2年以内とされていたが、5年以内に延長する方針が固まった。近い将来、法改正後に施行される予定だ。 「専業主婦と熟年離婚したあと、自立したキャリアウーマンと再婚し、老後は大丈夫だと言っている男性もいました。再婚相手も自分で厚生年金に入っているので、3号分割もないからです。今回は(離婚をしたとしても)安心だと言っています(笑)」 「オレの退職金だ」  このような離婚後の年金の損得を考えざるを得なくなったのも、妻も夫も長生きをするようになったからだ。 「言葉を選ばずに言えば、昔は夫が死ぬのを待っていればよかった。夫が死ねば、団信(団体信用生命保険)の保険金で住宅ローンは完済となった。今はもうそれまで我慢できなくなっている。たとえば、『定年後は、二人で世界一周でもしよう』とか『年金は半分はあげるから君も自由に使いなさい』と日頃から言っていればいいものですが、悲しいかな、オレが働いたからオレの年金だ。オレの退職金だ』という夫が多い。そういう態度が垣間見られると、妻は決心するんです。『どうせお手伝いのようにしか私を見ていなかったんだ、この人は。そんな人とこれから先一緒にいる意味なんかない』と」  一方で、離婚を考え直す妻もいる。 「先日は、『離婚したい』とずっと言っていた人が、いきなり夫から500万円もらったといって、考え直していました。夫は資産をもっと持っている人ですが、たった500万円でもその気持ちが嬉しかったのでしょう」  ただ、離婚問題研究の第一人者として30年以上活動してきた岡野さんはこうも指摘する。 「お金がほしい、自由がほしい、夫にこうあってほしい、と自分の権利ばかり主張し、どこか幸せを相手任せにしている人。こういう人は問題です。幸せは自分の手でつくるものです。相手が悪いと、相手の悪いところばかりに目が行って、モラハラのように相手を傷つける。そんなふうに、最も身近な家族という社会のなかで、配偶者を見下してしまう癖がついていたら、もっと大きな社会でも人を無意識に傷つけてしまうこともあります。相手だけでなく自分自身をも顧みることです」 小さな気配りを見せること  なぜ結婚したのか、相手のどこに惹かれて結婚したのか。相手だけでなく、自分が婚姻期間中にどのように相手に接してきたか――。 「そうしたことを冷静に考えたうえで、『それでも自分自身を大切にするために別れたい。これから経済的にも自立して幸せになるんだ』と思えたら、私は離婚してもいいと思います。夫婦間のトラブルはコミュニケーションを改善するだけでたいていのことはクリアになると思っています。小さな気配り(愛情)を見せること。言葉に気を付けること。相手への一言に気を付けて幸せを引き寄せましょう! そしてお金も」  お金は自由と自立への切符に過ぎないのだ。 (AERA dot.編集部・大崎百紀) 岡野あつこ/1954年、埼玉県生まれ。立命館大学産業社会学部卒業。立教大学大学院修士課程(社会デザイン学)終了。夫婦問題研究家®、パートナーシップアドバイザー、公認心理師。34年間で約4万件の相談を受ける離婚カウンセラー。日本ではじめての離婚カウンセラー育成講座を2001年から開始し、卒業生は2200人を超えている。YouTube「岡野あつこチャンネル」登録者数は約6万5千人。著書に『なぜ「妻の一言」はカチンとくるのか? 夫婦関係を改善する「伝え方」教室』(講談社+α新書)など。  
離婚後に元配偶者の生活が派手に… 「隠し財産」があったのかも? 「財産分与」の請求はいつまでできるのか
離婚後に元配偶者の生活が派手に… 「隠し財産」があったのかも? 「財産分与」の請求はいつまでできるのか 写真はイメージです(gettyimages)   働き方やライフスタイルが多様化し、自分らしい生き方を選ぶ時代。人生のポジティブな選択肢の一つとして「離婚」を考える人も増えてきました。とはいえ、離婚後に生活が想定外に苦しくなることは避けたいもの。離婚カウンセラーの岡野あつこさんに、離婚とお金について聞く第2回のテーマは「別居中&離婚後の心得」です。 「愛人を訴えると言ったあとに、別居した夫が見せしめのように生活費を下げてきた事例があります」  岡野さんがこう話すのは、A子さん(50代後半)のケースだ。 婚姻費用算定表 「夫に浮気されたことへのいら立ちが止まらなかったA子さん。夫を問い詰め、責めすぎてしまったあまり、夫は家を出てしまいました。問題はここからです。実はその夫は浮気をした後も、ちゃんと妻にはお金で誠意を見せていました。毎月給料袋ごと、十分すぎる生活費をA子さんに渡していたのです。しかし、別居を機に『婚姻費用』という決まった額だけになってしまいました。『愛人を訴える!』とA子さんが感情的になりすぎたんです。こういうのをヤブヘビっていうんです。この年代に意外と多いんです」  別居中であっても、夫婦にはお互いの生活費を負担する義務がある。これは民法第760条で定められており、婚姻関係が続いている限り、収入の多い配偶者が少ないほうに支払う義務を負う。この費用のことを「婚姻費用」といい、それを決めるには裁判所が公表している「婚姻費用算定表」を参考にして、第三者が行ったり、夫婦間で相談したり、裁判所に委ねたりする。  婚姻費用算定表は、義務者(支払う側)と権利者(受け取る側)の年収、子どもの有無と人数によって算出されている。たとえば、夫の給与年収900万円、妻の給与年収100万円、子どもは2人でともに15歳以上・妻が監護しているという場合、婚姻費用の目安は20万~22万円となる(月額)。 「A子さんのようにプライドが高く、特に白黒はっきりつけたがる人は注意が必要かもしれません。特にお金の面では、『したたかな妻になりましょう』とアドバイスしています」 隠し財産  離婚したいけれど経済的な理由などで最後の決断ができない、または修復の可能性もある。そういう人は、「婚姻費用」をもらいながら別居をしてみるというのも一つの方法だ。 「知らずに別居中に『婚姻費用』をもらっていないという人もいるかもしれません。そういう場合は、家庭裁判所に調停や審判を申し立てないと相手はくれません。そして婚姻関係が破たんしたと裁判所が判断すると離婚が成立して婚姻費用は支払われなくなります。このため、カウンセリングへの参加や夫婦間の対話など、関係修復を希望して具体的な行動を続けていることが重要だと言われています。婚姻関係の実態が部分的に残っているとか、家族で仲良くすごしている写真など『破たんしていない状況をアピールすること』も必要になるでしょう」  離婚をした後も気をつけたいことは? 「離婚で財産分与が終わった後に元配偶者が派手な生活を送っていないか、注意深く見ておいてもいいかもしれません。もしも、相手がやたらと派手な暮らしをしていれば、『隠し財産』があったという可能性もあります」  財産分与は、夫婦が婚姻期間中に築いた財産を公平に分ける制度。ただ、第1回で書いたように、配偶者に巧妙に財産を隠されてしまったら公平に分けることは難しくなる。一般的に、財産分与は離婚と同時に取り決めるが、離婚したときから2年以内(改正民法により「5年以内」に延長<2026年5月までに施行>)に家庭裁判所に調停や審判を申し立てたり、当事者間で協議したりして請求できる。納得のいかない財産分与だった場合などは、離婚した後の相手の行動などを把握しておくといいという。 「たとえば、元夫関係の人脈をキープしておいて、その人脈の情報を頼りに元夫の行動や経済状況の情報を得るというのも手です」 数年間は注意が必要  離婚した後、こんな注意点もあるという。 「こんな事例もあります。協議離婚をしたのちすぐに再婚をしたC男さん。すると元妻のD子さんは『実は婚姻期間中にDVを受けていた。DVの慰謝料も財産分与ももらってなく離婚は強要されたもの』などと明らかに嫌がらせの内容をSNSに書き込み始めた。会社にまで嫌がらせは続き、とうとう告訴にまで発展しました。慰謝料は離婚成立から原則3年以内、現在、財産分与は2年以内という時効があります。この期間内に再婚をすると、相手が嫉妬から嫌がらせをしてくるというケースもあるということです。実は、このD子さんが浮気したことで夫婦は離婚し、親権はC男さんにとられていました。C男さんの再婚相手は離婚後に出会った人のようです。それなのに、『すぐ再婚するなんて、元夫は婚姻期間中からその女と浮気していたに違いない』と妄想で責められたそうです。離婚した後の数年間は注意が必要ということかもしれません」 (AERA dot.編集部・大崎百紀) 岡野あつこ/1954年、埼玉県生まれ。立命館大学産業社会学部卒業。立教大学大学院修士課程(社会デザイン学)終了。夫婦問題研究家®、パートナーシップアドバイザー、公認心理師。34年間で約4万件の相談を受ける離婚カウンセラー。日本ではじめての離婚カウンセラー育成講座を2001年から開始し、卒業生は2200人を超えている。YouTube「岡野あつこチャンネル」登録者数は約6万5千人。著書に『なぜ「妻の一言」はカチンとくるのか? 夫婦関係を改善する「伝え方」教室』(講談社+α新書)など。
キャサリン妃ががんの寛解を報告 今年は「楽しみにしていることがいっぱいある1年」に
キャサリン妃ががんの寛解を報告 今年は「楽しみにしていることがいっぱいある1年」に  1月14日、キャサリン妃(43)はロンドンのチェルシーにあるロイヤル・マースデン病院を訪ねた。妻をがんで亡くしたウィリアム・マースデン博士が1851年に創立し、がんの研究と治療に特化した世界初の病院だ。ここでキャサリン妃はがんの化学療法を受けた。 2025年1月14日、ロンドンのロイヤル・マースデン病院を訪れたキャサリン妃。入院患者と穏やかに言葉を交わした(photo ロイター/アフロ)    この日は、暖かみがあふれるバーガンディー(紫がかった赤)色のセーターに同色系のスカート姿。「病院の裏口からではなく正面玄関から入るのは、とても新鮮です」とユーモアを込めて話す姿に、安堵感がにじんだ。これまではメディアを避けて常に裏口から出入りしていたためだ。 SNSで自らがん寛解を報告  治療を担当した医師や看護師に会い、感謝の想いを伝えると、キャサリン妃はがん患者一人一人と話すことを希望したという。笑顔を絶やさず患者の手を優しく握り、「トンネルの先には必ず光が見えますから」と励ました。  キャサリン妃と話した女性患者は、妃は「コールド・キャップ(cold cap)を着ける必要がありませんでした」と打ち明けたと言う。これは、化学療法の際に頭髪の脱毛を抑える効果があるとして、イギリスでは装着する患者は少なくないそうだ。 2025年1月14日、自身が治療を受けたロンドンの病院を訪れるキャサリン妃(photo ロイター/アフロ)  さらに、この女性はキャサリン妃について「親しみやすくて、まるで昔からの友人のように言葉を交わした」と感激の面持ちで話している。妃は患者の話しに熱心に耳を傾け、「明るい気持ちでいることが治療に効果があります」と話しかけたそうだ。だが、最後まで、自身のがんの部位やステージなど病状の詳細は明かさなかったという。がんの場所を特定すれば、そのがんだけに焦点が当ってしまう。それを避ける配慮だとみられている。 そして、病院訪問後には、SNSでがんの寛解を報告した。  キャサリン妃が自らの口でがんと診断されたことを明らかにしたのは、昨年3月のことだ。その2カ月前に腹部手術を無事に終えたものの、その後の検査でがんが見つかった。ただ、当時はすぐに公にせず、公務などに姿を見せない状態に。そのため「昏睡状態にあるのでは」「すでに亡くなった」「ウィリアム皇太子は離婚の手続きに入った」「整形手術の失敗」など、アメリカなどからも中傷や批判がわきおこった。事態の鎮静化をはかるためでもあったのだろう、SNSに動画を投稿。国民に語りかける姿は誠実で、以来、多くの人がキャサリン妃の快復を願ってきた。 チャールズ国王のがん治療は継続中  その後、同年6月にはチャールズ国王(76)の公式誕生日に姿を見せ、11月の戦没者追悼記念式典には2日続けて参加。12月には例年通りクリスマスの集いを主催している。そして、今回の寛解のニュースに国民は安堵し、多くの喜びのコメントが届けられた。ただ、キャサリン妃は、「キャンサー・ジャーニー(がんの旅路)は長くて厳しい。今後もがんがない状態が続くように心がけたい」と慎重な一面も見せている。 チャールズ 3 世国王はがん治療を続けながら、公務を続けている。2025年1月20日には、ゴードン・ハイランダーズ博物館を訪れ、最近の改修工事を見学した(photo ロイター/アフロ)  一方、同様にがんを患うチャールズ国王から「寛解」の発表は今のところなく、治療が続けられている。それでも、ウィリアム皇太子(42)に手伝ってもらいながら、一定の公務は行っている。1月27日は、第二次世界大戦時にドイツ・ナチスがポーランドに建設した強制収容所アウシュビッツ・ビルケナウ解放から80周年を迎える。その記念式典に国王は出席する予定で「寿命に多少影響があっても、できるだけ公務はこなしたい」と覚悟を話しているという。 英王室のスリム化を目指すウィリアム皇太子  そんな父の姿をそばでみているウィリアム皇太子は、いま新しい王室の在り方を模索していると伝えられている。具体的には、まずロイヤルのスリム化を進めるという。エリザベス女王夫妻、ヘンリー王子夫妻、アンドルー王子と、ここ数年で上級ロイヤルの数が急激に減少した英王室。だが、人数が不足するとして、ヘンリー王子夫妻を王室に呼び戻す考えは今のところ皇太子にはない。チャールズ国王は「扉はいつでも開いている」との姿勢を見せるが、皇太子は「弟に対しあまりに頑なである」と一部のメディアから批判されても、一貫した姿勢を見せている。ロイヤルの人数が減れば公務数を減らさざるを得ないが、国民は税負担が減少するとおおむね賛成である。英王室のスリム化は自然な流れで、それだけに公務を厳選し、国民の関心が高いものに絞る予定だ。 2025年1月23日、訪問先でサッカーをするウィリアム皇太子(photo ロイター/アフロ) 英連邦からの離脱を模索  次は、英連邦からの離脱だ。英連邦は大英帝国時代の旧植民地などを中心とした56か国のゆるい互助組織だが、ウィリアム皇太子は「時代に合わない」と考えているという。そして、最後は自身の家庭を尊重する日々の確立だ。キャサリン妃のがん罹患に関係することだが、今後、国王になったとしてもこれまで以上に「ファミリーファースト」を掲げ、家族の体調を優先させるためスケジュール変更もあるとしている。  2024年はチャールズ国王とキャサリン妃のがんが発覚し、治療に取り組む厳しい年だった。今年は、キャサリン妃の言葉を借りると「楽しみにしていることがいっぱいある」一年になる予定だ。 ‐ (ジャーナリスト・多賀幹子) *AERAオンライン限定記事  
源田に続きDeNAのエース東克樹に不倫報道  「3度目の開幕投手」は剥奪か
源田に続きDeNAのエース東克樹に不倫報道  「3度目の開幕投手」は剥奪か DeNAのエース・東克樹  昨年DeNAを日本一に導いたエース左腕・東克樹(29)の不倫報道がさく裂した。お相手は人気セクシー女優の末広純(25)。1月22日付の文春オンラインの記事によると、東は昨年12月から名古屋で自主トレを行っていたが、1月17日夜に末広が東の宿泊先のホテルを訪れ一緒に過ごした。東は同誌の直撃取材に不倫の事実を認めたという。  東は2020年に結婚し、長女がいる。文春の報道後に自身のインスタグラムで、ファンや球団関係者に謝罪するとともに、「妻にはすぐに謝罪し、叱責を受けました。たくさん話し合いをして、このような僕をもう一度支えてくれると言ってくれた妻には頭が上がりません。今回のことを深く反省し、一から信頼を築き直せるよう精一杯野球と家族に向き合って参ります」と綴った。  DeNAの番記者時代に東を取材したスポーツ紙記者はこう語る。 「『娘がかわいいんですよ』とよく話していたのが印象的でした。家族思いで、奥さんに対しても『支えてもらって感謝の思いしかない』と話していた。名古屋で自主トレしていますが、家族に寂しい思いをさせないように毎日ビデオ通話していると聞いていたんですが……。うーん、活躍して自分を見失ってしまった部分があるかもしれません」  東は苦労人だ。立命館大から17年のドラフト1位でDeNAに入団。新人の18年に11勝をマークして新人王を受賞したが、その後は左肘痛に苦しみ、1軍で輝けない時期が続いた。トミー・ジョン手術を受けた20年は1軍登板なし。苦しい時期を献身的に支えてくれた妻と同年に結婚している。21、22年も1勝ずつに終わった。  だが、23年に復調し、16勝3敗、防御率1.98と大活躍。最多勝、最高勝率(.842)のタイトルを受賞した。今永昇太がカブスに移籍して、エースとしての活躍を期待された昨年も13勝4敗、防御率2.16の好成績をあげた。投球回数183イニングは両リーグを通じて最多。日本シリーズではソフトバンク相手に0勝2敗で迎えた第3戦に先発し、強力打線を7回1失点に抑えて勝ち投手に。東の勝利をきっかけに、DeNAは4連勝で日本一に輝いた。 ソフトバンクを破って日本一となり胴上げされるDeNAの三浦大輔監督=72024年11月3日 源田の報道と謝罪の後の密会に疑問の声 「東はストイックな性格で、向上心が旺盛です。最多勝を獲得しても慢心はなく、『3年活躍して認められる世界です』とブレなかった。家族の絆も強いと感じましたね。23年5月18日の広島戦で白星を挙げた時、お母さんの誕生日が近かったのですが、奥さんの誕生日を優先してウイニングボールを渡すと発言していました」(DeNA関係者)  伸び悩んでいた時期を経て球界を代表する左腕となり、取り巻く環境が変わる。自制心を失ってはならないが、心に隙が生まれたのか――。ファンから問題視する声が出たのは、やはり文春オンラインで不倫が報じられた源田壮亮(西武)が謝罪会見を開いた1月12日より後に、東が末広と密会していたことだ。源田の一件が明るみになった時、自身の行動を省みなかったのだろうか。  在京球団のスタッフがこんな話をする。 「プロ野球選手は『自分は浮気がバレない』と謎の自信を持っていることが往々にしてあります。東のことはわかりませんが、重圧がかかる環境でプレーして、ストレスのはけ口で浮気に走ってしまう選手を度々見てきました。今はスマホで誰でも写真が撮影できる時代なので、密会もバレます。浮気をすると取り返しのつかない事態になることを認識するべきです」  不倫は家庭内の問題だが、チームの看板選手はスポンサーやファンに与える影響が大きい。DeNAは南場智子オーナーが女性ファンの増加に力を入れ、家族向けのイベントを積極的に開催してきた。シーズン中の横浜スタジアムには、女性ファンや家族連れのファンの姿が目立つ。スポーツ紙デスクは、「DeNAはファンサービスに熱心な球団です。東は今回の不倫騒動でファンを失望させた事実と向き合わなければいけない。野球で結果を残せば信頼を取り戻せるという時代ではないですし、今年パフォーマンスが落ちるようだったら、周囲の見る目がさらに厳しくなる」と指摘する。 優勝パレードの前にあいさつするDeNAの南場智子オーナー(中央)=2024年11月30日 「開幕投手はチームの納得も重要な要素」  昨年レギュラーシーズン3位から下剋上で頂点に立ったチームで、東は唯一の2けた勝利をあげた。今年はリーグ優勝、2年連続日本一を目指す中で、東は替えが利かないエースだ。自身3度目の開幕投手を務めることが確実視されてきたが、SNS上ではファンたちから、「開幕投手はチームの命運を託せる投手が務めるべき。東にその資格はない」「東は成績を残して信用を取り戻してほしいけど、開幕投手は外すべき」などの声が出ている。  かつて、DeNAでプレーしたアマチュア指導者はこう語る。 「開幕投手は過去の実績だけでなく、チームメートが納得できるかも重要な要素になります。順当に考えれば東でしょう。彼が稼働しなければリーグ優勝は狙えません。でも、グラウンド内外での行動に責任と自覚を持たなければ、大役を任せられないという考え方もある。東を外す選択肢もあり得るでしょう。三浦大輔監督がどう判断するかですね」  失った信用は簡単に取り戻せない。開幕の日、DeNAのマウンドに東の姿はあるだろうか。 (今川秀悟)
歌会始の愛子さま「古典文法でこのような使い方は…」 友と夢の和歌は「会はむ」か「会へる」か 表現にかけた粘り強さ
歌会始の愛子さま「古典文法でこのような使い方は…」 友と夢の和歌は「会はむ」か「会へる」か 表現にかけた粘り強さ   「歌会始の儀」に臨む愛子さま=2025年1月22日、皇居    新年恒例の「歌会始の儀」が1月22日、皇居の宮殿「松の間」で開かれ、天皇、皇后両陛下と長女の愛子さまら皇族方が出席された。今年の題は「夢」で、国内外から1万6000首余りの和歌が寄せられた。天皇家の歌の御用掛である永田和宏さん(77)は、愛子さまはひとつひとつの表現に妥協せず、ご自身で調べながら和歌を完成させた、と明かした。 *   *   *  宮殿「松の間」に、独特の節回しで和歌を詠みあげる声が響く。「講師(こうじ)」が和歌を詠みあげると、続いて「発声(はっせい)」役が節をつけて同じ和歌の上の句を、下の句からは「講頌(こうしょう)」役の声が加わる。  まずは、一般の人から選ばれた予選歌、そして和歌を選ぶ選者と、和歌を詠む召人(めしうど)、そして皇族方、皇后さまの御歌(みうた)が続き、最後に天皇陛下の御製が披講される。  愛子さまは成年を迎えてから歌会始に和歌を寄せていたものの、学業を優先して儀式への出席は控えてきたため、今年が初めての出席となった。   愛子さま「会はむ」か「会へる」か  我が友とふたたび会はむその日まで 追ひかけてゆくそれぞれの夢    昨年春に、大学卒業と就職という節目を迎えた愛子さま。卒業式で晴れ姿の友人を目にし、また同じ大学には通わなかったが夢に向かって進む友人たちと将来や夢に思いを馳せて励まし合った初々しい気持ちが込められている。   「歌会始の儀」の選者であり、天皇家の歌の御用掛である永田和宏さんは、愛子さまとはメールで和歌についてやり取りを続けている。 「私は『こうなさった方が』といった、ご指導はしません。皆さまがお読みになった和歌に、すこしだけヒントを提案するだけです」  大学で古典文学を学んだ愛子さまは、一語、一語の表現についても妥協せず、永田さんと熱心にやり取りを続けた。  こんなエピソードがある。      「歌会始の儀」で朗詠を聞く皇后さま=2025年1月22日、皇居    愛子さまが寄せた和歌の上の句に、「ふたたび会はむその日まで」という表現がある。当初、愛子さまは「会へるその日まで」という表現をお使いだった。 「そこだけは口語ですがよいでしょうか、とお伝えしました」  愛子さまにとって思い入れのある言葉だったようで、変更には躊躇されていたという。しかし、ご自分で書物などを調べ、永田さんにこう連絡をしてきた。 「やはり、古典文法ではこのような使い方はありませんでした。なので、『会はむ』としたいと思います」  納得がいくまでご自身で調べ、納得がいくまでご相談役とやり取りを続ける。 「ご自身でも納得のいくまでお調べになる学びへの熱心さは、ご両親譲りかもしれませんね」  そう言って、永田さんはほほ笑んだ。   皇后さまの和歌の「リアリティ」  皇后雅子さまは、昨年6月の英国公式訪問で、母校のオックスフォード大学を34年ぶりに訪れた感慨を御歌に詠み込まれた。  三十年(みそとせ)へて君と訪(と)ひたる英国の学び舎(や)に思ふかの日々の夢   「オックスフォードにはそれぞれ別々に留学したけれど、34年を経た再訪では、陛下とご一緒に母校を目にすることができた。その感動が素直に伝わるお歌です」(永田さん)  雅子さまは、東宮時代から愛子さまや陛下との時間など、ご家族について詠まれることが多かった。  永田さんは、「皇后」の立ち位置ではなく、母として、妻として、そして個人として詠まれる和歌だからこそ人間味のある優しい視点がある、と話す。  雅子さまも、歌会始のためにいくつかの和歌を詠んでいる。公務先でご覧になった場面なのか、伝統工芸にたずさわる職人が自分の孫にその仕事を見せる様子を詠み込んだ和歌も候補になったという。 「皇后さまは、ご自身の目でご覧になった対象を和歌に詠み込まれる。だからこそ、皇后さまの和歌はリアリティをもって聴く人の心に響くのでしょう」   天皇、皇后両陛下、皇族方が出席して行われた「歌会始の儀」=2025年1月22日、皇居   天皇陛下は祝福を込めたハレのお歌  歌会始の最後に披講されたのは、天皇陛下の御製。地方の訪問先で触れ合った子供たちが、将来の夢を生き生きと話す姿に嬉しさを感じ、和歌に詠み込まれた。 旅先に出会ひし子らは語りたる目見(まみ)輝かせ未来の夢を    永田さんによると、「目見(まみ)」は、視線を含めて目とその動作を表す言葉だという。 「陛下は旅先で触れ合う人びとや光景を詠まれることが多い。こうしたものは『天皇』として国や人びとへの祝福を込めたハレのお歌です」  永田さんは、陛下から和歌についてご相談を受けた際に、「旅先」ではなく、「被災地」や具体的な地名に変えては、とご提案をした。  ところが陛下は、 「被災地では時間がなく、子どもたちと触れ合う機会がなかった」  そう、正面から真面目にお答えになったという。 「このくらいはいいか、という妥協がなく、何ごとにも誠実であられる」  と、永田さんは穏やかな表情で振り返った。 (AERA dot.編集部・永井貴子)  
「最優先は家族の幸せ」 妻の大学院進学をサポート、共通の趣味である社交ダンスを海外でも
「最優先は家族の幸せ」 妻の大学院進学をサポート、共通の趣味である社交ダンスを海外でも 藤田真理子さん(右)、藤田和大さん(撮影/小山幸佑 撮影協力/ダンススタジオ ナカイズミ)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2025年1月27日号では、Nodesの藤田真理子さんとABEJAの藤田和大さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫25歳、妻26歳のときに結婚。3歳の息子と3人暮らし。 【出会いは?】社会人の社交ダンスサークルの大会で、異彩を放っていた夫に妻が声をかけた。 【結婚までの道のりは?】社交ダンスの技術や表現力を競う「競技ダンス」のペアを組んだ後に交際に発展。1カ月ほどで同棲を始め、結婚に至った。 【家事や家計の分担は?】子どもの保育園の送りは夫で、迎えは妻。家事はできる人ができる時にしている。財布は別々で、その時々で分担は異なる。今は夫が固定費、妻がそれ以外を出している。 妻 藤田真理子[31]Nodes 代表取締役社長 ふじた・まりこ◆1993年、東京都生まれ。京都大学文学部卒業後、2016年にKADOKAWA入社。20年に独立し、22年から東京繁田園茶舗の経営刷新に参画。23年に企業の事業開発やマーケティング、海外展開を支援するNodesを創業。25年5月からニューサウスウェールズ大学(シドニー)にMBA留学予定 ペアで踊る社交ダンスのジャンルは、主にワルツなどのスタンダードと、ルンバなどのラテンに分かれます。二人とも大学時代はスタンダードの専攻でしたが、私は1年でやめてしまって。夫は全国でトップクラスの選手でした。  社会人になって社交ダンスを再開した時、同じ大会に出ていた夫が目に飛び込んできました。明らかに周囲とレベルが違っていて、興味を持ち、私から声をかけました。  ペアを組む時に大事なのは、「身長差」です。夫とはちょうどよい身長差で、踊った時の相性や性格も合い、競技のペアを組むことに。その後、交際に発展し結婚しました。  今年5月からオーストラリアの大学院にMBA留学予定です。一昨年起業したので、経営者としての視点や知識を磨きたいと思っています。学業も仕事も大事ですが、最優先するのは家族の幸せです。  息子にも現地の文化に触れ、グローバルな感受性を養ってもらいたい。まずは自身が「楽しむ」を大切にしながらMBA取得を目指します。 藤田和大さん(右)、藤田真理子さん(撮影/小山幸佑 撮影協力/ダンススタジオ ナカイズミ)   夫 藤田和大[30]ABEJA プロジェクトマネージャー ふじた・かずひろ◆1994年、大阪市生まれ。東京大学大学院を修了後、2019年にコンサルティングファームに就職し、事業戦略立案やオペレーション改善プロジェクトに参画。24年にAIのプラットフォーム事業等を展開するABEJAに転職。現在はAIの開発・導入プロジェクトのマネジメントに従事 大学院生時代に出た社交ダンスの大会で、突然可愛らしい人に声をかけられてびっくりしたのが、妻との最初の思い出です。  その後ペアを組み、念願だったアマチュアで最高ランクの「アマチュアA級」を取得しました。子どもが生まれてからはペースを落とし、今は夫婦の共通の趣味として続けています。  ライフイベントの中で、一番大きな変化は子どもが生まれたことです。僕が忙しい時は、当時フリーランスだった妻が平日に融通を利かし、その代わり、土日は僕が育児をして妻が仕事をするなど、一致団結してピンチを乗り越えてきました。  僕の中で最も大事なことは、家族団欒です。妻の大学院進学の際は、家族で渡豪します。仕事をしながら、僕にできることを、サポートしていきます。  息子が生まれる前に二人でヨーロッパを旅行しました。特にウィーンが印象深く残っているので、今度は3人で行きたいです。あと、海外でもダンスをしたいですね! (構成・小野ヒデコ) ※AERA 2025年1月27日号  
中居騒動の余波で「キムタク」評価爆上がり 女性や後輩に見せる「気遣い」がカッコいいと主演映画も“逆転1位”に
中居騒動の余波で「キムタク」評価爆上がり 女性や後輩に見せる「気遣い」がカッコいいと主演映画も“逆転1位”に 木村拓哉(「週刊朝日」2019年1月25日号の表紙より)    1月14日に発表された全国映画動員ランキング(1月10日~12日、興行通信社調べ)で、木村拓哉(52)主演の「グランメゾン・パリ」が動員25万9000人、興収3億8800万円を記録。「はたらく細胞」のV5を阻止し、公開2週目で逆転1位となった。  本作は2019年放送のTBS系ドラマ「グランメゾン東京」の続編として制作され、主人公の尾花夏樹(木村)がフランス料理の本場パリでミシュラン三つ星を目指す物語。興収30億円も視野に入ってきている中、15日に都内で行われた大ヒット御礼舞台あいさつでは、木村が黄色い声援に包まれながら登場し、「相当反響はいただいております。別の作品の関係者や事務所の後輩も見てくれて、僕も誇らしいです。『ごちそうさまでした』って反響もよくいただきますね。『大ヒットは』みなさんのおかげ」と感謝を伝えた。  ここにきて木村の評価が急上昇しているのは、昨年末から続いているSMAP時代に二枚看板だった中居正広の女性トラブルとの“比較”もあるだろう。中居のトラブル問題は年が明けるとより厳しい批判を受け、中居の出演番組が軒並み放送を見合わせたばかりか、フジテレビも巻き込む大騒動に。17日には同社の港浩一社長が緊急会見を行ったが余波は収まらず、大手スポンサー企業がフジテレビへのCM出稿を差し止めるなど大騒動となっている。  中居といえば、能登半島地震の復興支援のために3000万円を寄付したり、20年のコロナ禍で大学病院の救命救急センターの医療従事者に100個以上の叙々苑の高級弁当を提供するなど、“聖人エピソード”も多かったが、それだけにファンの落胆も大きかった。 「タレント生命が危ぶまれている中居とは逆に、木村には女性スキャンダルが皆無です。妻である工藤静香と娘のCocomi、Koki,との家族愛がメディアでたびたび取り上げられ、『安定のキムタク』ぶりが業界関係者やファンに信頼感を与えています。1月8日に開かれた『マイナビ転職』の新CM発表会見では『あんまりこう重々しい空気は無しで、なんかこう楽しく過ごせればいいかなと思っております』と先回りして中居への配慮を求めた“大人の対応”も見事でした」(スポーツ紙記者) 「ちょ待てよ」も言ってくれる  年末年始は映画のPR活動に大忙しだった木村だが、昨年大みそか放送のTBS系「大晦日オールスター体育祭」では、「グランメゾンチーム」を見事優勝に導き、視聴者から「さすがスター」との声が飛び交うと、元日放送のフジテレビ系「さんタク」では、復興復旧に取り組む石川県・能登の炊き出しに参加。地元女性からの「ちょ待てよ、って言ってください」というやや失礼なリクエストにも嫌な顔をせずに応じて見せ、好感度を爆上げさせている。 「クイズ番組からバラエティー番組までどんな番組でもNOと言わず、作品のために精力的に動いてくれる。かなり疲れているはずなのに、そんな表情はおくびも見せないところも、スタッフからまた仕事がしたいと思われている理由の一つでしょう」(テレビ局員)  木村といえば、昨年12月14日に自身のYouTubeチャンネルに投稿した買い物動画が話題になったのも記憶に新しい。 「ダンスパフォーマンスグループ・s**t kingzのkazukiと名古屋の古着店に来店した木村でしたが、最初は2万8000円のTシャツを見て『高い!』と躊躇し、その“一般人感覚”が共感を呼びました。しかし、kazukiが数十万するレザージャケットに迷っていると、木村は彼の誕生日プレゼントとして即決購入。その後、1枚約30万円する超お宝アイテムのヴィンテージTシャツ3枚を発見すると、悩みに悩んだ末に全てレジに持っていく男気ぶりを見せ、SNSのコメントでも絶賛されました。この動画は1カ月で118万回再生超え(1月19日時点)となっています」(YouTubeライター) 「グランメゾン・パリ」は、40〜50歳代の主婦層が多く映画館に足を運んでいると言われるが、若者層からの支持も拡大したことが、動員の伸びにつながっているのかもしれない。  数々のドラマで社会現象を巻き起こしてきた木村だが、スター性と親しみやすさの両面が評価されていることが、30年以上も日本のエンターテインメント業界で存在感を放ち続ける理由なのだろう。 (泉康一)
「格付け」での“気の強さ”が吉と出るか…「比嘉愛未」が事務所退所で直面する“正念場”
「格付け」での“気の強さ”が吉と出るか…「比嘉愛未」が事務所退所で直面する“正念場” 比嘉愛未(写真:Keizo Mori/アフロ)    1月12日から岩田剛典と比嘉愛未(38)がダブル主演を務めるドラマ「フォレスト」(テレビ朝日系)がスタートした、比嘉は1月末に長年所属していた事務所から退所する予定。新ドラマは退所発表後初の出演作品となるだけに、今後を占う試金石となりそうだ。  そんな比嘉は、元日放送の「芸能人格付けチェック! 2025お正月スペシャル」(テレビ朝日系)での発言も話題になった。  ドラマで共演する岩田とペアを組んで挑戦した比嘉だったが、100万円と5000円のワインを飲み比べるチェックでは、ワインが「お酒のなかで一番好き」と豪語したにもかかわらず5000円のワインを選んでしまい、不正解。また、ミシュランシェフのエビチリを当てる問題では、なんとMCの浜田雅功が作った2ランクダウンのエビチリを一流料理人の作ったものだと主張し、またもや不正解に。このエビチリ問題では、岩田は正解のほうを選んでいたのだが、比嘉の押しに負けてしまい、下から2番目のランク「そっくりさん」までダウンしてしまった。不正解に導く比嘉を見た共演の唐沢寿明が「なんか、地雷持ってんなこの子」と思わず口にしたことで、「比嘉地雷」というパワーワードまで誕生してしまった。 「実はパートナーの岩田さんは全問正解していたんですが、比嘉さんが足を引っ張る形となり、SNSでは『比嘉愛未さん気が強すぎるわ。ちょっと苦手かも』『性格悪い』など、自分の意見を譲らない態度に批判の声が上がっていました。これまで演じた役柄で『性格がキツそう』というイメージもあったことから、余計にそう見えたのでしょう。一方で、『あれだけキレイで正解しそうな雰囲気をまとってるのにポンコツというギャップがいい』など、意外なダメっぷりに親近感を抱いた視聴者もいました。彼女に対する意見は賛否両論入り乱れ、『比嘉愛未』がXのトレンド入りを果たすほど注目を集めました。結果的に比嘉さんの立ち居振る舞いはバラエティー的には100点でしたね」(テレビ情報誌の編集者)  比嘉といえば、2156人の中からオーディションを勝ち抜き、2007年の朝ドラ「どんど晴れ」(NHK)でヒロインに抜擢。全国的な知名度を獲得した。その後も「コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-」シリーズ(08年~、フジテレビ系)や「マルモのおきて」(11年、同)など、話題のドラマに多数出演してきた。21年には「推しの王子様」(同)で、深田恭子の降板により急遽代役として主演を務めたこともある。同ドラは視聴率こそ振るわなかったものの、比嘉が頼りになる女優であることが実証される形となった。 NHK連続テレビ小説「どんど晴れ」のヒロインに選ばれたときの比嘉愛未(2006年)   意外にも「ガチ」の体育会系 「どの作品でも視聴者の印象に残る演技をする比嘉さんですが、特に『コード・ブルー』シリーズで演じた、誰からも信頼される博識かつ冷徹なフライトナース役が当たり役でした。医者一家に生まれながら、医学部受験に失敗し、看護師となった過去があるため、知識や経験の浅いフェローを見下す姿や最愛の恋人が難病のALSを発症し、関係性に葛藤する様子など、人間の心の機微を細やかに演じる表現力は素晴らしいものがありました。共演した新垣結衣さんや戸田恵梨香さんとはプライベートでも親交が深いそうで、家で女子会をしたり、戸田さんとは旅行もする仲だそうです。戸田さんが松坂桃李さんと結婚した際は、インスタグラムで祝福の言葉をつづりながらも、『ほんとはあたしの嫁に来て欲しかったがっっ笑』と冗談を交えて喜びを表していました」(同) 「コード・ブルー」シリーズをはじめ、真面目で完璧主義な役柄が多いため、しっかり者の印象が強い比嘉だが、肉体もストイックに鍛えているようだ。 「比嘉さんは、体を動かすのも好きなようで、わりとガチで体を鍛えていることでも有名です。以前、『キックボクシングは6~7年通っていて、パーソナルトレーニングやヨガなど、わりと体育会系』だと明かしていたこともあります。そこそこの筋肉量もあり、昨年『クラリーノ美脚大賞』の30代部門を受賞し、授賞式では美しい脚を披露していました。SNSでもこの美脚ぶりは話題となり、『ほれぼれする美しさ』『満場一致で優勝だ』など絶賛の声が多くあがっていました」(女性週刊誌の芸能担当記者)  こうみると一切の隙がないような印象を受けるが、意外にも“天然”な一面もある。「推しの王子様」の共演陣だった白石聖によると、撮影現場で絵しりとりをしていた際、ルーズソックスを描いて比嘉に回すと「クリリン!」と答えたという。「『あっ、分かった分かった!』という感じだったんですけど、『ス』から始まるものじゃなくて、『クリリン』と描いてて(笑)」と白石が明かすと、「しかも、『ン』で終わっちゃう(笑)」とディーン・フジオカにも突っ込まれていた(21年7月12日、第1話完成報告会)。さらに10年以上付き合いがあるという沢村一樹からも、比嘉が「東名高速」を「透明」だと思っていたという仰天エピソードが暴露されたこともあった(NHK「土曜スタジオパーク」22年11月26日放送)。 比嘉愛未   ふと見せる「憂い」の表情が魅力  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は、比嘉の魅力をこう分析する。 「雄大な大自然に囲まれた沖縄出身ということで、にじみ出てくる健康的な魅力もさることながら、俳優としてはふと見せる“憂い”の表情に惹きつけられます。『コード・ブルー』の印象が強いかもしれませんが、近年では夫の浮気を疑う妻を演じたドラマ『にぶんのいち夫婦』や、続編も作られた『作りたい女と食べたい女』での演技が高い評価を受けています。『にぶんのいち夫婦』放映時にインタビューをしたことがありますが、『(浮気の)疑いが生じたら、正面切って、どうなの?、と尋ねますね(笑)』と語っていたのが印象に残っています。今回の『フォレスト』は『星の金貨』や『ストロベリーナイト』など、女性の心情・心理を丁寧に描くことで定評のあるベテラン・龍居由佳里脚本による先の読めないスリリング・サスペンスということで、目まぐるしい展開の中で彼女がどんな存在感を見せてくれるのか非常に楽しみです」  本格サスペンスの「フォレスト」を演じるにあたって、比嘉がどんな新境地を見せてくれるのか、楽しみだ。 (高梨歩)
「妻が料理をつくらない」ひろゆき・ゆか夫妻が問題視した「母の味」という病
「妻が料理をつくらない」ひろゆき・ゆか夫妻が問題視した「母の味」という病      ひろゆきさんとゆかさんは、何もかもが合わないデコボコ夫婦。付き合い当初から喧嘩も絶えなかったそう。そんな経験をヒントに、渾身のアドバイスをお届けします。 *   *   * 質問07  ゆかさんひろゆきさんこんにちは。  妻が料理をつくってくれません。8割方、市販の冷凍食品かよくてミールキットなのです。トマトを切ってオイルをかけるなど、ごく簡単なものはたまに作ってくれます。  自分自身も物足りないのはもちろんのこと、子どもが「あれつくってよ」と言えるような母の味を知らずに来てしまうことに戸惑いを覚えています(かくいう自分自身は、長年朝ごはんを担当しており、ダシをとった味噌汁が自慢です)。  自分は激務、妻は在宅で融通が利く仕事なので、せめてもう少し手作りを増やしてほしいと思うのですが……。  もともと食に関心が薄そうな妻の心を動かすには、どうしたらいいでしょうか?   ゆかの回答  実は、質問者さんが気づいていないだけで 、質問者さんの奥様は料理をしています。「質問者さんが満足するレベルの、“手料理”ではない」というだけです。  質問者さんにとっては関心の高い「食」にかける熱量が、相手が低めであることが不満で、さらに自分よりも暇そうなのに、それを好きになったり技術を向上させたりするために時間を割かないことを問題視しているのです。   奥様が食に関心が薄い理由が何かにもよりますが、単純にレパートリーが少ない、なんとなく苦手意識がある…といった理由だったら、自分が好きなものを、相手が少しでも好きと思ってくれるために、その楽しさを伝える、という視点で考えてみると、多少は好転するかもしれません。  休日に一緒に料理をしてみたり、外で食べた美味しい料理を、家で一緒に再現してみたりとか。  逆に、そこまで料理に時間を割きたくない、そもそも食に対する優先順位が薄いという場合なら、手料理は質問者さんの担当と割り切った方が良いと思います。  家事分担の不公平という問題ではなく、冷食やミールキットなど代替可能なものがあるにも関わらず手作りにこだわる理由が、質問者さんのこだわり以外に良く見えないからです。   ゆかさん&ひろゆきさんの日々が描かれたコミックエッセイ『だんな様はひろゆき』(原作:西村ゆか、作画:wako)は6万部突破!    質問者さんが食にこだわることは自由ですが、そのこだわりを、相手に押し付けることは問題だと思います。家庭の味も、母の味じゃなくて父の味でも良いわけですし。味噌汁のダシの味だって、立派な家庭料理だと思いますよ。  自分の友人夫婦の家庭は旦那さんが料理好きなので、遊びに行くといつもハンバーグやお好み焼きなど、美味しい料理を振舞ってくれます。  そこの家の娘さんが、ある日、お母さんごっこでパパの役をやったんだと言ってきて、どうしてパパなの?って聞くと「だって、ご飯を作るから!」と元気に答えて笑ったという微笑ましいエピソードもあります。  その料理がどれだけ手が込んでいるかより、「みんなで楽しくご飯を食べた」という時間の方が、何よりも思い出の味として心に残ると思います。   ひろゆきの回答  質問者さんは、その先の悲劇を知らないパターンかな……と。 「料理はやる気になればできるものである」という勘違いをしています。料理が不得意である事を認識して市販品を使って、それなりの質にしてるだけマシなのです。  世の中には、「メシマズ嫁」という言葉があります。  メシマズ嫁は旦那さんに喜んでもらおうと、手間を掛けて努力をして時間を掛けて不味いご飯を作ります。「単に料理をしないから下手なだけで、何度も作るうちにだんだん上手になる」というのは幻想です。  仮に料理のテクニックがあったとしても、味覚が大雑把とか、どんなもんでも食えちゃうとか、やたらに甘いとか、やたらに辛いモノが好きとか、完成品の料理がそもそも不味いというモノを作る人達もいるのです。  無駄にハーブやスパイスに凝ったりするので、市販品よりも高く付きます。  そして不味いのです。  貴方のためを思って作ったので「美味しい?」と聞いて来ます。当然、気を使って「美味しい」と言ったら最後です。「美味しい」と貴方が言った料理を作り続けますし、方向性の修正も効かなくなります。    さらに、世の中には「メシマズ嫁」の方がマシというカテゴリーの人も居ます。  生煮えのハンバーグを出したり、古くなった腐臭のする魚を出して来たり、自家製サラダチキンとか言って、半生の鶏肉を出してくるという命の危険を伴うタイプの人ですね。  質問者さんが「料理をしろ」と言った以上は、作ってもらった料理を、きちんと残さず食べるのは当然です。  その時に「『料理をしろ』なんて言わなければよかったなぁ」と思い返しながら胃腸薬を飲み続ける日々になるでしょう。  出汁をとった味噌汁の作り方を質問者さんがお子さんに教える方が家族の健康と平和のためかもしれませんよ……。   夫婦で話し合ってみた ひろ「結論はだいたい一緒だね」 ゆか「嫁のメシがまずいネタを、2ちゃん創始者自らが披露しているのがまたエモいけど、質問者さんの奥さんが、メシまず嫁前提で話を展開するのはどうかと……」 ひろ「ミールキット使ってる時点で、味を追求する気がない人だと思うんだよね。めっちゃ美味しいミールキットだったら、質問者さんもそんなに文句言ってないと思うし」 ゆか「手軽だし、子どももいるから、それなりにバランスが取れる献立になるから利用しているんじゃないのかね」 ひろ「質問者さんは、出汁をとった味のわかる人で、奥さんは出汁の味がわからないか、興味のない人。例えば、100円ショップのマスカラと、シャネル のマスカラの違いは、おいらは全くわからない人なのね」 ゆか「質問者さんの方が食にこだわりがあるのは間違いないね」 ひろ「化粧品とか趣味はわからなくても、『お好きにどうぞ』とかで干渉しなければ実害はないのね。ハーレーとホンダのバイクのエンジン音は全然違うじゃん!聞けばすぐわかるよ!とか、わかってる人には当然だけど、知らない人にはマジで違いのわからないものってある。  わかってる人は『わかろうとすればすぐにわかるものである』と思い込みがちなんだよね。だから、『わからないものと興味のないものは、理解できないのが当然である』というのは、早めに認識した方が良いと思うのだ」     ゆか「化粧やバイクとか、その人の好みが趣味で完結されるものは良いけど、食事は出されたものをみんなで食べるから、こだわりが強い人にとっては、それを“我慢している”みたいな意識になっちゃうのかもね」 ひろ「食事に関しても趣味と一緒で、『味の細かい違いはわからないし、興味もない』という人が当然いる。『化粧なんて、誰でも出来る』からと言って、興味のない男性に化粧を教えても、上手くならないし、やる気もないじゃん。  料理も興味のない人に時間かけて教えても、上手くならないしやる気も出ない、という至極当たり前の事を受け入れるべきだと思うのね」 ゆか「自分が好きなものを、相手も同じくらいに好きとは限らない、ということ以外に、質問者さんの中には、忙しい自分よりも暇な相手が、自分が重きを置くものに手をかけていない不満と、『料理は女性がするもの』って考えも少なからず混ざっていて、よりややこしくなっている気がする。  質問に『母の味を知らずに来てしまうことに戸惑いを覚えています』とあったけど、今は私たちが小さかった時と違って、料理というタスクを解決するバリエーションがすごく豊かになった。惣菜も増えたし、冷食もミールキットもある。  だけど、いまだに母の手作りであることに、重きを置いてる部分があるように見える」 ひろ「食事は、趣味とは違って必須であるという思い込みもある気がするね。必須である料理をやる時間はあるじゃないか、みたいな。  手料理にこだわることは必須じゃないよ、とわかってもらいたい。一方で、母の味的なものを教えたいという趣味は別にあっていいと思うんだよね」 ゆか「良いとは思うよ。でもそれは質問者さんじゃなくて、子どもが望んで奥さんが承諾すればって話じゃない?」 ひろ「子どもが望んでなくても教えたいんじゃないかな。子どもはむしろミールキットやファーストフードの方が好きだったりするだろうし」 ゆか「んー、でもそれはただの自己満足じゃない?」 ひろ「趣味なんてそんなもんだよ」   ゆか「『父の味』を、質問者さんが趣味として子に伝える分には好きにすれば良いけど、『母の味』を伝えたいってなると、趣味を超えた押し付けだと思うな。子どもにも奥さんに対しても」 ひろ「物を直すとかを教えるのは父の仕事とか、パソコン教えるのは父の仕事とか、趣味に性別を混ぜる人はよくいるよ」 ゆか「相手がそれで了承するなら良いけど、今回の場合は、そこまで興味を持たない人をその担当にするってことなので、『君がすべき』と言っても素直に『はいそうですか』とはならない気がするね。  むしろ質問者さんの方が熱量の高い分野なのだから、手料理なら母の味とかならずに、夫婦ないし家族全員で味噌汁を作るとかならうまく行きそう。性別による分担の想定って、誰しも少なからず持っていたりするけれど、人によって好き嫌い、得意不得意も違うから、『それが当然』ってならないように気をつけなければならない」 ひろ「それが当然とかじゃなくて、そういう役割分担を持つ状況を作りたいって趣味だと思うんだよね。庭つき一戸建てで、子供がピアノを弾いてる家庭を作りたいとか」 ゆか「前に、別の相談 に答えているときに、『自分にとってはどうでも良いことだけど、相手がそれを大事に思っている場合は、無理して付き合う』って落とし所を君は出したんだよね。例えば、家族で毎年お墓参りをすることがすごく大切と思っている相手だったら、それに仕方なく付き合う。みたいな。  なので、役割分担として伝えるのではなく、そこに重きをおく自分の趣味、というか気持ちに付き合って欲しいって素直にお願いしてみる方が、相手も『じゃあ乗っかってみるか』ってなりそうだと思った」 ひろ「まぁ、重きを置いてる物は、人によって違うから説明しないとわからないよね」 ゆか「役割分担の設定までこだわりがあるから余計にね」 ひろ「父じゃなくて『母の味』にこだわるなら、手伝えばいいだけだしね」 ゆか「うんうん。大きくなっていくと子供も参加したりして、それが家族の味になるかもしれないしね」   総括 ・自分が好きなものに相手も同じだけ熱量持っているとは限らない ・こだわりに乗っかって欲しい時は、素直にお願いしてみる方が吉 ・母の味にこだわらず、家族の味でもいいんじゃない?     【お悩みを募集中!】 連載「西村ゆか&ひろゆきの夫婦のトリセツ」では、夫婦・パートナーにまつわるお悩みを募集しています。ご応募はこちらのフォーム から!(https://publications.asahi.com/feature/nishimura/)   西村ゆか/Webディレクター。東京北区出身。インターキュー株式会社(現GMOインターネットグループ株式会社)、ヤフー株式会社を経て独立。2015年よりフランス移住。著書に『だんな様はひろゆき』(wakoとの共著、朝日新聞出版)、『転んで起きて』(徳間書店)がある。 ひろゆき/1976年、東京都生まれ。1999年、インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設し、管理人になる。2005年、株式会社ニワンゴの取締役管理人に就任し、「ニコニコ動画」を開始。2009年に「2ちゃんねる」の譲渡を発表。2015年、英語圏最大の匿名掲示板「4chan」の管理人に。主な著書に、『論破力』(朝日新書)、『1%の努力』(ダイヤモンド社)などがある。     【こちらも話題】 深夜に大音量でゲームを始め、飛び起きた私に「耳栓したら?」 ひろゆきとの夫婦喧嘩の仲直りのルール 西村ゆか&ひろゆきの夫婦のトリセツ https://dot.asahi.com/articles/-/231832  
急死で胸に刻んだ「父の背中」「忘れられぬ日」の夜 ハウス食品グループ本社・浦上博史社長
急死で胸に刻んだ「父の背中」「忘れられぬ日」の夜 ハウス食品グループ本社・浦上博史社長 自由時間が増えたら、茶道をもっとやる。母はまだやっていて、最近まで逃げていたが親孝行と思い始めた。心を静かにすることはクラシック音楽と別だ(写真/山中蔵人)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年1月13日号では、前号に引き続きハウス食品グループ本社・浦上博史社長が登場し、「源流」である兵庫県西宮市仁川の実家周辺などを訪れた。 *  *  *  誰にでも「忘れられない日」というのが、あるのだろうか。自分は、1985年8月12日がそうだ、と言い切れる。  慶應義塾大学理工学部の2年生の夏休みで、三重県伊勢志摩の英虞湾へいって、父・郁夫氏が社長を務めるハウス食品工業(現・ハウス食品グループ本社)の海の家で、母や3人の妹、親戚の人と過ごしていた。  その朝、グリコ・森永事件の犯人から「事件の終結宣言」が届く。事件は江崎グリコ社長の誘拐に始まり、森永製菓など菓子や食品のメーカーへ製品に毒物を入れて送るなど、脅迫で大金を要求する例が続いていた。ハウス食品にも、前年11月に社長へ現金を要求する脅迫状と毒物入りの製品が送られて、家族も社内も緊張が続いていた。  終結宣言でそれがほぐれ、社長も「よかった、よかった」と言って、夜に兵庫県西宮市仁川の実家へ集まることになる。ところが、実家に着くと会社の車が止まっていて、何か違和感があった。「終結宣言は偽装で、さらなる脅迫があったのかな」と思いながら家へ入ると、別の大変なことが起きていた。  父が羽田空港で乗った大阪・伊丹空港への日本航空のジャンボ機が、行方不明になって、伊丹に着かない。テレビをつけると、行方がまだ分からず、乗客の名前をカタカナで流し、「ウラカミイクオ」を「ウラカミイワオ」と言っていた。  夜がふけて、群馬県の御巣鷹山に墜落していると分かり、母と現場へ向かう。当時は飛行機でタバコが吸えて、愛煙家の父はいつも一番後ろの喫煙席に乗った。後方に乗っていた人は早く発見され、父は亡くなった520人のうち7人目にみつかった。47歳での急死。いまも「忘れられない日」だ。 父の事故死にも気丈に振る舞う母自分も目が醒める  母は気丈に振る舞い、4人の子どもの教育に力を尽くす、と意を決したようだった。自分もこの日を境に、父が勧めていた米国留学へ向けて、苦手だった英語の勉強も目が醒めたように力を入れ、ときに妹の家庭教師にきていた女子大生にも教えを乞う。「こんなことも、知らないのですか」と笑って答えてくれたのが、いまの妻だ。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  昨年11月下旬、父の急死を知って衝撃を受けた西宮市仁川の実家周辺を、連載の企画で一緒に訪ねた。小学校3年生が終わるまで暮らした地だ。当時の父は多忙で帰宅は遅く、家族との会話も少なくて、そのころの父の記憶はない。いまから考えると、28歳で祖父が亡くなって社長を継ぎ、がむしゃらに仕事へ打ち込んでいたのだろう。  幼稚園や小学校低学年のころは外へ出て遊ばず、自宅の庭で独り、虫などを探して過ごす。そんな「内向きの少年」が行動的になっていくのは、東京へ転居し、4年生の2学期に千代田区立番町小学校へ通い始めたころだ。「いずれ自分も会社を継ぐのかな」と思い始めたのも、このころだった。  東京で父は早く帰宅すると、気さくに話しかけてくれるようになる。クラシック音楽のレコードを買ってくれ、一緒に聴いた。ベートーヴェンの曲が好きになったのも、父がくれたプレゼントと言える。  それでも、ときに、厳しい表情もみせた。何かを決断するときは、背中にトップとしての責任感をにじませた。近寄れないような雰囲気も、あった。その姿を胸に刻んだ日々が、浦上博史さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。 東京へ転校で迎えた中学受験のムードにすぐに巻き込まれる  仁川の流れの脇から、西にキャンプ場がある甲山を望むと、自然に口が開く。「あれが甲山で、仁川から遠足にいった。懐かしいですね。小学校には、ちょっと先にある実家からここを通って、いっていた」 『源流Again』で12月上旬に、都心に近い千代田区立番町小学校も訪れた。朝9時、冬の日差しの角度は低い。冬休みまであと2週間、校庭の端にあるプールには蓋がしてあった。転校してきたとき、いきなり中学校への受験ムードに遭遇した。驚きもしたが、すぐに巻き込まれ、自分も塾通いを始める。  学校に入るのは卒業以来か。アルバムの卒業文集に「父の跡を継いで会社を経営したい」と書いたが、本心は「浦上家に生まれてしまったからには、やらねばならない」という感じで、そんなに前向きではない。  父は、親の寄せ書きに「世にあって一隅を照らす人たれ」と書いた。世の中どこでもいいから一つの世界を照らせる人間になりなさい、という趣旨で、父は社長になれとは全く言わなかったが、感じさせてはいた。   経営目標の達成度は登山で言えば5合目か。山頂へのシナリオも、まだできていない。改革したハウス食品の姿はみえても、その後にいろいろ問題が出てくるだろう(写真/山中蔵人)   慶應義塾の中等部を受験し、慶應高校、慶大へ。歩みの出発点は、この番町小学校だった。  同じ日に、91年9月に社会人の第一歩を刻んだ、旧・住友銀行丸の内支店があったビルへも寄った。JR有楽町駅の近く、入り口をみつけて「ここから入って、支店の中の階段で2階へ上がっていた」と振り返る。米国留学から帰り、当時のハウス食品の社長に「いきなりハウス食品へ入らず、銀行で修業したらどうか」と、勧められた。 10社のうち1社でもニーズをつかめば次の面談へつながる  銀行に約6年間いて、得難い体験は、3年目に取引先課で新規の企業取引を開拓した「飛び込み営業」だ。大阪が本拠だった住友銀行に対して、東京が本拠の大手銀行の取引網の壁は厚い。とくに伝統的な企業は、なかなか食い込めない。そこで、支店長は新興勢力が多い業種に照準を合わせ、自分はスーパーなどの流通業を担当した。  訪ねる前には、候補企業のデータを集め、そこの課題などを調べ、50社ほどの資料をつくった。支店長は「片道1時間半まで、いっていいぞ」と言い、西へいけば神奈川県の西寄りの地域までが、守備範囲に入る。最寄りの駅で資料を見直して、攻略のポイントを確認。そして、初めての企業の扉を開ける。  先輩の教えも、覚えている。 「最初の半年は、絶対に取引を取れっこない。10社いって1社でも話すことができたら、何でもいいからその客のニーズ、悩みごとをつかんでこい。それをつかめないと、その1回で終わってしまう。悩みごとをつかんで解答を用意すれば、次へつながる。9社でダメでも1社で話してもらえたら、それをやれ」  客と深みのある関係を築くための心得、とも言える。旧支店があったビルは、やはり社会人への道場だった。「父の背中」が示した厳しさと、重なる。  大地震や豪雨などがあるたびに、コンビニなどの惣菜や外食店の売り上げが伸びて、ハウス食品のような調理用品には逆風だ。でも、47歳で亡くなった父の分まで、やれることをやり続ける。「父の背中」が生んでくれた『源流』からの流れが、課題も解きほどく力になってくれるだろう。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2025年1月13日号  
「瀬戸朝香」7年ぶり女優復帰の裏にある“家庭の事情” 夫はジャニーズ問題で揺れ、子ども2人は海外留学で家を出て…
「瀬戸朝香」7年ぶり女優復帰の裏にある“家庭の事情” 夫はジャニーズ問題で揺れ、子ども2人は海外留学で家を出て… 7年ぶりに女優復帰する瀬戸朝香(写真:KCS/アフロ)    1月18日から放送される川口春奈主演ドラマ「アンサンブル」(日本テレビ系)で久々に女優として出演する瀬戸朝香(48)。男女の新人弁護士同士が織りなすリーガルラブストーリーだが、瀬戸は主人公の母親役を演じる。連続ドラマにレギュラー出演するのは約7年ぶりとなる瀬戸。SNS上では「久々に見られるのもうれしい」「女優業再開ずっとお待ちしておりました」と、期待の声が上がっている。  瀬戸といえば、1994年に放送されたドラマ「君といた夏」(フジテレビ系)でヒロインを演じてブレーク。その後、不倫するOL役を好演したドラマ「Age,35 恋しくて」(同、96年放送)や、草彅剛とダブル主演を務めたドラマ「成田離婚」(同、97年放送)など多くの作品で好演し、1990年代後半から2000年代にかけて大活躍した。  私生活では2007年にV6(当時)の井ノ原快彦と結婚。2010年に第1子、2013年に第2子が誕生し、出産後は女優業をセーブして育児中心の生活を送っていた。一方、2022年に所属していた芸能事務所を退社し、個人事務所を設立。そんな中、約7年ぶりの連ドラレギュラー出演となるが、なぜ今、本格的な女優を果たしたのか。 「背景には子育てが一段落したことが大きいでしょう。昨年11月に自身のインスタグラムで、2人の子どもたちがイギリスに留学したと告白。長男に続き、長女が5年生になったと同時に留学したそうです。現在、子どもたちは年に何回か休みを利用して帰国し、休みが終わると再び送り出すという生活で、時間ができたのか『生活の変化もあり 仕事復帰したいという気持ちが芽生え 色々と稼働している真っ最中です』と、現状を説明していました。また、子どもたちからも『ママもっとお仕事してよ』と言われているそうで、それが何よりも励みになっているとか。子育てが落ち着いたことと、子どもたちの応援もあって、再び女優としての活動を始めたと思われます」(女性週刊誌の記者)  かつては、旧ジャニーズ事務所のアイドルと結婚した女性は、公の場で私生活を話すことはタブーとされてきた。瀬戸も例外ではなかったが、V6が解散し、井ノ原が関連会社の社長に就任した後は、家庭内や子育てについてメディアで語ることも増えてきていた。 ベビーカーのイベントに出席した瀬戸朝香(2014年)   「ジャニーズ幹部の妻」としてのブランド  「MORE」(22年11月15日配信)では、井ノ原家では勉強より子どもたちのやりたいことが優先で、成績も中の下くらいなら許すとも明かしている。さらに、自身の母親の教えにならい、本人が決めたことなら応援するという立場で子育てしていたと語っている。また、「美ST ONLINE」(22年2月22日配信)では、昔共演した同世代の女優がテレビで活躍している姿を見て、葛藤した時期もあったと明かしていた。そんなある日、息子と口論中に「ママだって仕事したいよ」とつい漏らしてしまうと、息子から「ママ、仕事していいよ。学校から1人で帰れるよ。何でもできるから大丈夫」と言われたという。そこでわれに返り、自分がいないと生きていけない子どもが目の前におり、この時期は二度と戻ってこないのだから、子どもたちと一緒にいたいと改めて実感したと話していた。  仕事と子育てとの葛藤など、母親としても経験を積んだ瀬戸だけに、母親役を演じるにあたっては、より深みや説得力が増すかもしれない。一方で、復帰にはもうひとつの見方もある。 「瀬戸の場合、ジャニーズ幹部の妻というブランドがあり、表に出なくても存在感がありました。しかし、旧ジャニーズ事務所の性加害問題が社会問題化すると、夫の井ノ原氏は幹部として矢面に立たされました。23年に行われた会見では、騒然となる会場で『こういう会見の場は、全国に生放送で伝わっておりまして、小さな子どもたち、自分にも子どもがいます』『ルールを守っていく大人たちの姿をこの会見では見せていきたいと僕は思っています』と記者たちをたしなめる姿が批判を浴びたこともありました。SNSなどでは、『子供をダシに使うな』と厳しい声も目立ち、好感度の高かった井ノ原氏にとっては逆風が吹きました。その点を考えると、旧ジャニーズ幹部の妻というだけでは、安泰とは言えなくなってきた。本格復帰につながったもうひとつの理由かもしれません」(前出の記者) 独身時代の瀬戸朝香(1999年)   19歳でシングルマザー役を熱演  芸能ジャーナリストの平田昇二氏は瀬戸についてこう述べる。 「瀬戸さんはもともと、当時の所属事務所のスタッフが地元で評判だった14歳だった彼女を自宅まで訪ねてスカウトしたというエピソードがあるくらいですから、デビュー後すぐに頭角を現したのも納得です。19歳にしてシングルマザー役を演じた『Age,35 恋しくて』をはじめ、草彅剛さんと夫婦役を演じた『成田離婚』、夫の井ノ原さんとの初共演した『終わらない夏』など、数多くのドラマや映画、CMで活躍してきました。私生活では、お相手の井ノ原さんの好感度の高さに加えて、破局から5年近くの時を経て偶然再会したのをキッカケに復縁し、そのままゴールインを果たすというドラマ顔負けの展開もあり、双方のファンからも祝福の声があがりました。独身時代はシリアスな役が多い一方、映画『シャ乱Qの演歌の花道』ではコミカルな演技も披露するなど多彩な役を演じてきました。活動再開後も、さまざまな作品で存在感を見せてくれそうです」  90年代にブレークした同世代の女優たちが今でも活躍する中、瀬戸が再び存在感を見せてくれるのか注目したい。 (丸山ひろし)
お墓掃除・お墓参り代行サービスが高齢者に人気 継続利用は約4割、不安を安心に変える努力とは
お墓掃除・お墓参り代行サービスが高齢者に人気 継続利用は約4割、不安を安心に変える努力とは 海洋散骨の「ブルーオーシャンセレモニー」では代行散骨も行っている。散骨を終えた後に花をまく(写真:ブルーオーシャンセレモニー提供)    散骨やお墓掃除といった他人に頼むには抵抗がある「代行サービス」が広がりを見せている。どのような人がサービスを必要としているのか。AERA 2025年1月13日号より。 *  *  * 「『船が来たね』『今、撒いているね』『帰っていったね』と、ずっと見ていました」  東京都在住の男性(57)は昨年1月、代行委託プランを利用し、父親の遺骨の海洋散骨を行った。その日は福島県から上京した5歳年上の姉、男性、妻の3人で晴海埠頭から出港する船を見送った後すぐに車に乗り、羽田空港第2ターミナルの展望デッキへ移動。「羽田沖のあの辺りで散骨するだろう」と見当をつけていた場所を、スマートフォンのカメラのズーム機能を使って最初から最後まで見守った。極寒の季節の上、展望デッキは風が強い。しかし誰も「寒いし、もうやめようか」とは言い出さなかった。  父親が亡くなったのは2022年12月。生前の希望に従い神葬祭だったため墓はない。一周忌で家族が集まった時に改めて「お骨をどうする?」となり、いくつかの案から母親が選んだのが海洋散骨だった。 「代行にした理由は、完全に費用です」 コロナ禍で代行増加  ただ、何もかもを任せるのはちょっと違う。男性は福島から東京へ、お骨を自ら持ち帰り、遺骨を細かくパウダー状にする粉骨には妻と立ち会った。粉骨を行うスペースとはガラス窓で仕切られてはいるものの、一部始終が見えた。  93歳で亡くなった父親は170センチに満たない小柄な体形。しかし骨がしっかりしていて、量も「通常の2倍」と言われるほどだった。 「ここまでやったんだから、と思ったんです。お袋も『こういうのがいい』と言っていたから同じ形を取るかもしれない。きょうだい3人、子どもがいるのは姉だけ。僕たちが死んだ後のことを、甥が一人で担うのは大変です。こういった代行サービスがあるのは、僕たちのような家族にはありがたいですね」  この男性が代行散骨を依頼した「ブルーオーシャンセレモニー」は、海洋散骨がほとんど知られていなかった07年に創業。当時から代行散骨も行っている。コロナ禍もあり代行散骨の割合が増加。19年には154件だったのが、23年には350件になり、散骨全体に占める割合は25%から40%に増えた。 「費用面や身体面など散骨委託の理由は人それぞれ。でも弔う方法は違っても、大切な方を見送るという点は共通している。散骨は委託するけれど、粉骨やお見送りには立ち会いたいというケースは少なくありません」(代表の赤羽真聡さん) 不安を安心に変える 「きたよ。」は、お墓掃除とお墓参りの代行サービスだ。始めて丸4年が過ぎた。  事業の立ち上げから関わっている奥野孝平さんは、墓参りという内容ゆえに、利用者の心理的ハードルをどう乗り越えるかが難しかったと話す。「代行ではあってもご自身が行うのと変わらない気持ちで」という意味から当初は「お墓参りサポート」としていたが、これでは言葉の馴染みがなさすぎる。「お墓参りを他人にしてもらうのは抵抗がある。でもお墓掃除だけなら」という人もいる。 「一般的にサービスは期待を大満足に変えるもの。一方、このサービスに最初、期待はない。あるのは不安だけ。それを安心に変えるのです」(奥野さん)  主な層は60~70代。距離や時間、立地条件で墓に行くことを諦めていた人から依頼が来る。テレビショッピングの番組に出演した時は、1回の放送で200件もの問い合わせがあり、そのうち8割が携帯電話を持っていない、持っていてもメールもLINEもやっていない、「代行業というサービスがあるなんて想像もしていなかった」という高齢者だった。 「説明しづらい場所にお墓があることも。1時間近く電話をしたり、何往復も手紙をやり取りし情報を収集する。1千件以上対応していますが、一度も場所を特定できなかったことはありません。これらの積み重ねで信頼関係が築かれ、継続的にご利用くださっているお客様が3~4割いらっしゃいます」 (ライター・羽根田真智) ※AERA 2025年1月13日号より抜粋  
「あの人って誰かのお父さん?」 箱根駅伝「東大・給水おじさん」が“場違い”な現場で思っていたこと
「あの人って誰かのお父さん?」 箱根駅伝「東大・給水おじさん」が“場違い”な現場で思っていたこと 東大大学院の古川大晃選手の給水係を務めた、八田秀雄教授(写真は本人提供)  今年の箱根駅伝で、ひときわ注目を集めた“給水係”がいる。関東学生連合メンバーとして9区を走った東大大学院の古川大晃選手(29)に並走し、ペットボトルを手渡した初老の男性。その正体は、運動生理学の第一人者として知られる、同大学院の八田秀雄教授(65)だった。白髪をなびかせて力走する姿に、ネット上では「目頭熱くなる」「今年のMVP」など賛辞が送られたが、権威ある大学教授がなぜ給水係に抜擢(ばってき)されたのか。八田教授が語った“給水おじさん誕生秘話”とは。 *  *  * 「博士課程4年でやっと箱根を走れた古川を差し置いて、給水係の僕が話題をかっさらってしまって、本当に申し訳ない」  取材開始早々、八田教授はバツが悪そうに笑った。  八田教授は、運動時のエネルギー代謝に関わる“乳酸”研究の大家で、東大と同大学院の陸上運動部部長でもある。自身も東大陸上部OBで、現役時代は400メートルハードルの選手として活躍した。  1984年、東大は箱根駅伝初出場を果たす。当時修士1年だった八田教授は、それまで長距離種目とは無縁だったが、陸上部コーチとして伴走車に乗りこんだ。 「これを機に長距離に関わるようになり、選手のパフォーマンス向上のための乳酸研究に足を踏み入れました。ある意味、箱根駅伝に人生を狂わされているんですよ(笑)」  筋肉が糖を分解して作られる乳酸の血中濃度は、気温や精神状態に左右される心拍数よりも正確に、肉体の疲労度を測ることができる。最適な強度のトレーニングメニューを組むため、八田教授は選手から採血し、ピペット(少量の液体の計量や移動に使われる実験器具)を使って手作業で乳酸値を計測していた。 昨年10月の箱根駅伝予選会で、スタート早々、先頭の外国人選手の集団に食らいつく古川選手(左)  現在は測定器の普及により、乳酸値を練習に活かすアスリートは珍しくなくなった。八田教授は、「偉そうに言えば、乳酸の活用法を日本に広めたのは私かなと思います」と、控えめに胸を張る。 古川選手は「どこか抜けていて面白いやつ」?  しかし、東大が箱根に出場したのは、後にも先にも84年の1回だけ。八田教授にとって、箱根は長らく「見るだけの大会」だったが、近年は学生連合メンバーに選ばれる学部生の選手が出てくるようになり、沿道での応援にも熱が入った。そして今年は初めて、大学院生である古川選手が選抜された。  八田教授によると、古川選手は「すごく真面目だけど、どこか抜けていて面白いやつ」。昨年10月の箱根駅伝予選会では、本番前にコーヒーを買いにコンビニに寄り、あわや遅刻するところだったという。  レースが始まると、序盤から飛ばして一人でアフリカ人選手たちに食らいついた。このペースでは、早々にスタミナが切れて脱落する。誰もがそう思ったが、古川選手は最後まで持ちこたえた。 「初めは、あいつまたバカなことをやりやがって! と慌てましたよ。でも、彼の今年の箱根に対する執念を思い知りました」(八田教授)  古川選手は2022年と23年の箱根駅伝でも学生連合入りしたが、当日の出走メンバーに選ばれず、24年は学生連合チーム自体が編成されなかった。諦めきれずに博士課程の卒業を1年延ばし、ようやく箱根への切符をつかんだ。  その念願の大舞台で、八田教授は古川選手から“給水係”をお願いされた。大学院チームは学部チームと違って人数が少なく、当日はみな交通整理に駆り出されてしまい、他に頼める人がいなかったのだという。八田教授は市民ランナーではあるものの、不安をぬぐえなかった。 古川選手に並走する八田教授(左)。この後スポーツドリンクも手渡した(写真は本人提供) 「古川の足を引っ張るのが怖くて、『俺はそんなに走れないかもしれない』と伝えたんです。そしたら彼が『立ち止まって(ボトルを)受け取りますから』って言ってくれて、ウルッときちゃって……。だったらやってやろうぜ、と覚悟を決めました」 「ほんとに走れるの?」ざわついた観客  1月3日当日。横浜駅近くの給水係の招集場所に行くと、八田教授は明らかに「異質」だった。周囲はみな出場校の部員たち。ほっそりと小柄な学生の集団の中で、白髪に181センチの長身は嫌でも目立つ。近くで見守っていた妻によると、観客たちは「あの人って誰かのお父さん?」「ほんとに走れるの?」などとざわついていたという。  給水係の中には前日の往路を走った選手もいて、楽しそうにはしゃいでいたが、大半はじっと黙ってスマホ画面に目を落とし、レースの行方を見つめていた。  そんな学生たちを横目に、八田教授は「給水のウォーミングアップ」を始めた。 「周りは『何このおやじ?』って思っていたでしょうね(笑)。でも、とにかく自分の役目を果たさなければいけない。肉離れでも起こしたら大変なので、一人でジョギングしていました」  給水本番、古川選手の姿を見たら泣いてしまうのではないかと思っていたが、実際はそれどころではなかった。風のように駆け抜ける古川選手に必死でついていき、水とスポーツドリンクを渡した。他校の給水係は並走しながら飲み終えたボトルを受け取っていたが、八田教授は自信がなかったため、事前に「飲んだら遠慮なく投げ捨てろ」と指示していた。  ネット上では、「わざわざボトルを拾いに行って偉い」などと話題になったが、八田教授は「大会規定に捨てたものは拾うよう書いてあるので」と苦笑する。 レース後に撮影した、古川選手(後列)と古川選手の指導教員である東大の工藤和俊教授(前列右)とのスリーショット(写真は八田教授提供)  もう一つ、大きな注目を集めたのが、渾身の“バンザイ”だ。ボトルを渡し終えた八田教授は、徐々に遠くなる古川選手の背中を見つめ、空に向かって両のこぶしを3回突き上げた。 「無事に役目を果たせて、最後に声で激励しようと思ったら、思わず体も動いていた。目立ちたかったわけではないのに、まさかテレビに映っていたとは……」 来年も給水係にチャレンジするのか?  レース後、古川選手は納得のいくタイムが出なかったことを悔しがっていた。だが八田教授は、「復路のエース区間を18位で走れたことは胸を張っていい」と、その健闘をたたえる。  29歳の学生ランナーと、65歳の給水係。学生連合ならではの多様性と、誰にでも箱根に出られるチャンスがあることを世に伝えられたのは、一つの意義があったと八田教授は感じている。  そしてなにより、二人にとって忘れられない思い出になった。 「私はこの春、定年で大学を去ります。箱根駅伝に関わった最初の年に伴走車に乗って、最後の年に給水係になれた。その機会を提供してくれた古川には感謝しています。古川も、『初めて箱根に出た東大院生』というだけでなく、『横浜でじいさんから給水を受けた古川くん』として名が残る可能性もあるわけで、お互いにとってよかったという気がします」  再び給水係にチャレンジする可能性については、「ないですね(笑)」とのこと。来年、沿道でひときわ熱い視線をおくる白髪・長身の男性がいたら、かつての“給水おじさん”かもしれない。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
「板野友美」が夫・高橋奎二の“税金の悩み”を吐露 「もらいすぎた野球選手」高額税金問題の深刻度
「板野友美」が夫・高橋奎二の“税金の悩み”を吐露 「もらいすぎた野球選手」高額税金問題の深刻度 板野友美    元AKB48メンバーで、現在はタレント・アパレル会社の経営者としても活躍する板野友美(33)が1月3日、自身のYouTubeチャンネルで結婚式の映像を公開した。  板野は2021年1月に東京ヤクルトスワローズの高橋奎二投手(27)と結婚し、同年10月に第1子となる女児の出産を発表。昨年末に4年越しの結婚式を行ったことを報告していたが、今回公開された2人のルーツを巡るドキュメンタリー番組のような映像には、ファンから「感動的」「まるで映画のよう」「理想の夫婦像」などと称賛の声が相次いだ。 AKB48時代の板野友美    一方、結婚式での幸せな姿とは裏腹に、板野は「プロ野球選手の妻」として税金問題や引退後の生活への不安を口にしてもいた。 「板野は昨年末にYouTubeで元プロ野球選手の里崎智也氏と対談しているのですが、そこで『けけ(高橋)の税金が……。WBCに行った2年前は結構稼いでて、そのWBC代とかも入ったから、今年の税金が来る分が、めっちゃ高かったのに、(年俸が)ちょっと下がっちゃったから、本当に税金高過ぎて。貯めとかないと、もう稼いだ額と税金と同じくらいみたいな感じになりそうで、ビックリしました』と率直な思いを吐露しました。プロ野球選手は現役最終年に稼いだ収入に対して翌年の税金を支払う必要があります。そのため里崎氏は、現役最終年は『無給と同じ』と語り、引退後は選手会退団共済金が使えることを教えていました」(芸能記者)  プロ野球選手は一般的に高給取りと思われているが、所得税や住民税、社会保険料などを考慮すると実際に手元に残る金額は年俸の半分程度とも言われている。前述のとおり、住民税は前年の所得に基づき納税額が決まるなどお金を手にするタイミングと納税には時間差がある。高額年俸の翌年に激減した場合、収入の割に税負担が重くのしかかることになる。引退後の収入を考えれば、現役時代にどれだけ計画的に資産運用や貯蓄できるかが鍵となる。 「高橋選手は22年に8勝2敗、防御率2.63の活躍をみせ、23年春のWBCで侍ジャパン入りしました。しかし、23年のシーズンは振るわず、年俸は前年の5000万円から200万円のダウン。ただ、24年は8勝9敗、防御率3.58と盛り返し、1000万円アップの5800万円に盛り返したので板野も少し安心したことでしょう。今シーズン、先発で10勝したりタイトルを取ったりするような活躍をみせればすぐに億に届きそうではありますが、一方でプロ野球選手の平均引退年齢は28歳という現実もある。高橋選手はまさに今年28歳のシーズンを迎えます。選手寿命が短いプロの世界では、20年以上現役を続けられる選手はごくわずかで、引退後の人生は現役時代よりも長いため、セカンドキャリアの設計が非常に重要となります。指導者や解説者、タレント活動など選択肢はありますが、いずれも成功例は一握りですから、板野さんの内助の功が試されそうです」(スポーツライター) 板野の夫で東京ヤクルトスワローズの高橋奎二投手(2023年、WBC)   現役で16年活躍しても年金は「7万円」?  昨年12月30日の「イット!」(フジテレビ系)では、元楽天監督で、現役時代は中日、西武、阪神で16年間活躍した野球評論家の田尾安志氏が出演し、現在の年金事情について明かした。  田尾氏によると、国民年金は現役時代から納め、引退後は厚生年金に加入したといい、現在の年金支給額は合わせて1カ月当たり7万1050円。田尾氏の現役時代にはプロ野球年金制度があり、選手からの掛け金やNPBの資金で運用し、10年以上の選手登録で55歳から毎年支給される仕組みだったそう。最高額で年間142万円入るはずだったが、11年に制度が解散したことで、田尾氏は制度の復活を提言していた。 「メジャーリーグの年金制度は、62歳から毎年、その選手が死去するまで現在のレートで約2200~2300万円が支払われる『生涯年金』です。満額受給するには最低10年間のメジャー在籍が条件(5年在籍で満額の50%)。1軍登録される40人の枠に毎年入り続けるのは至難の業で、日本人の満額受給資格者は野茂英雄、イチロー、松井秀喜、大家友和の4人のみです。とはいえ、スケールはかなり大きいですし、日本でもこうした年金制度が整備されれば、選手も将来に不安を抱かず、野球に専念できるかもしれませんね」(同)  アパレル事業が成功している板野だが、夫の“セカンドキャリア”についても、すでにいろいろと考えているかもしれない。 (泉康一)
小倉智昭さんと「とくダネ!」で20年共演した笠井信輔アナが明かす「最後の会話」と「番組の黄金時代」 
小倉智昭さんと「とくダネ!」で20年共演した笠井信輔アナが明かす「最後の会話」と「番組の黄金時代」  「とくダネ!」5000回記念の日でのツーショット(笠井さん提供)    2024年12月9日、キャスターの小倉智昭さんがぼうこうがんのため亡くなった。77歳だった。数々の番組に出演してきた小倉さんだが、22年間にわたりメインキャスターを務めたのは、朝の情報番組「とくダネ!」(フジテレビ系)だった。元フジテレビで現在はフリーの笠井信輔アナウンサーは「とくダネ!」で長年共演するなど、小倉さんとの付き合いは25年に及ぶ。生前の小倉さんは笠井さんに死への向き合い方や闘病生活について語っていた。またシャイで皮肉屋な一方で、弱者への思いやりを忘れない温かさなど、さまざまな顔を見せていた。笠井アナだけが知る小倉さんとの思い出を語ってもらった。 *  *  *  小倉さんが亡くなる2日前の12月7日。笠井さんは、小倉さんの携帯電話を鳴らした。 「小倉さんが入院したという話を聞いたからです。その頃は具合が良くなったり、悪くなったりを繰り返していたので、『あっ、また入院したのか』と思って、電話で容体をうかがおうと思ったんです」  だが実際には、小倉さんは病院にはおらず、すでに退院して自宅にいた。 「『昨日、退院したんだよ』と言うので少し詳しく話を聞いたら、もう治療の施しようがなく、自宅で最期のときを過ごすための退院なんだということが、だんだんと理解できました。小倉さんは『放射線治療で体じゅう、かゆくて辛かった。腕にも水泡ができて包帯を巻いている。それがまた痛いんだ』『今はもう、ベッドで寝ているだけの状況なんだ』と言っていました。そして、『もう、諦めたんだよね』とも。命を終えることを俺は決めたんだ、という口ぶりでした。悔しそうに『なんかもう、本当に情けない』って言うから、『いや、小倉さん、よくここまで頑張りましたよ、偉いよ』と励しました。そして、『小倉さんと出会えて、今の僕があります。本当にありがとうございました』と伝えたら、小倉さんは『僕の方こそだよ』と言ってくれました」  後に、小倉さんの15歳下の妻・さゆりさんから、笠井さんはこう聞かされた。 「最後の方は、体調が上がったり下がったりで、急にしゃべったり、おとなしくなったり……。笠井さんが電話をくれたときはちょうど意識が覚醒している時で、タイミングがよかったわ」 笠井信輔アナウンサー(撮影/ 島田香)   奇跡的なタイミングだった「最後の会話」  笠井さんから見て、2人はどんな夫婦だったのだろうか。 「小倉さんはさゆりさんには頭が上がらない感じでしたよ。さゆりさんはしっかりとした方で、頭の回転が速く、小倉さんが間違っているときは、はっきりと指摘もします。小倉さんは最後は本当にさゆりさんに頼りきっていました。がんになって、さゆりさんと過ごす時間が増えたことで、小倉さんは『一緒に買い物に行ったよ』『何十年ぶりに手をつないで歩いたよ』とかうれしそうに話してくれました。『さゆりがいたから、僕もまあ、なんとかなった』といつも言っていましたね」  小倉さんは2016年にぼうこうがんと診断されてから8年間、闘病生活を送った。笠井さんによれば、12月4日、医師がさゆりさんに『もう、手の施しようがありません』と話し、3つの選択肢を示されたという。1つ目は「このまま病院に入院したまま命を終える」、2つ目は「ホスピスへ行く」、3つ目は「家に帰る」だった。医師から「ご主人に話しますか?」と聞かれ、さゆりさんは迷うことなく「話します」と答えたという。さゆりさんから打ち明けられても、小倉さんはうろたえることもなく、「じゃあ、家に帰ろう」と答えた。  そして12月6日に帰宅。笠井さんが冒頭の電話を入れたのは、その翌日だった。笠井さんが小倉さんと最後の会話ができたのは、本当に奇跡的なタイミングだったのだ。  しかし、小倉さんの体調はその後急変し、12月9日午後、77年の人生に幕を閉じた。笠井さんが訃報を聞いたのは、その夜。 「朝、追悼番組に出演するためにテレビ局へ向かいました。その道中、タクシーの中で涙がこぼれてきましたが、本番中は泣きませんでした。それは小倉さんと最後の電話でお別れを言い、『ありがとうございました』と感謝の気持ちを伝えてあったからだと思います。大切な人と最後の会話を交わすことって、本当に重要なことなんだなと」  笠井さんは25年前、小倉さんと出会い、1999年4月に「とくダネ!」が開始すると、メインキャスターと局アナという立場で約20年間共演した。 「とくダネ!」を卒業する笠井さんを見送る小倉さん(2019年、笠井さん提供)   卓越した「オープンニングトーク」 「とくダネ!」は、ニュースをズバッと斬る、歯に衣(きぬ)着せない小倉さんの発言が視聴者にウケた。とりわけ、小倉さんの「オープニングトーク」は番組の名物だった。 「初めは5分という約束だったのに、いつの間にか、大体8分くらいしゃべっていましたね。たまに、15分くらいしゃべることもありました(笑)。その間、こちらはずっと立っているので焦ってくるし、トークが10分を過ぎると、現場は『ちょっとまずいぞ』という雰囲気になっていました。とはいえ、各局がしのぎを削る朝の情報番組の中で、視聴率で10年ほど1位を獲得するまで支持されたのは、やはり小倉さんのオープニングトークがあったからだと思います」  20年間の共演の中で、小倉さんから注意されたことを笠井さんはよく覚えている。 「小倉さんはゲストをとても大事にする人なんです。『ゲストより先に意見を言うな。ゲストがしゃべってからでいい。笠井くんがしゃべると、先に言われちゃったとか、時間がなくなったとか、いろいろ問題が出てくるから。笠井くんはアナウンサーなんだから、意見を後で言いなさい』というのは何度も言われました。私としては、こっちから斬り込んでいけばいいのにとか、小倉さんがもっと早めに吠えればいいのにって思うことは何度もありましたよ。ただ、小倉さんはバランスよくみんなにしゃべってもらうことを常に意識していました。好き勝手やってるようで、意外とスタジオ回しが丁寧なんです」  小倉さんはキャスターとして、ニュースの真実を伝えることに情熱を持ち続け、弱者への思いやりを忘れなかったという。 「小倉さん自身が少年時代、言葉が詰まってうまく話せない吃音(きつおん)だったから、アナウンサーを目指そうと思ったそうです。マイノリティーである経験をしながら、それをどう乗り越えるかを実践していました。アナウンサーになってからは、『ゆっくりしゃべり出すっていうことを意識している』とよく言っていました。大人になっても、実は本当に仲のいい人の前では、吃音が出ることもあったそうです。だからこそ、弱者への優しさをいつも持っていましたね」 小倉さんの故郷・秋田県を紹介する特別番組で共演したときのショット(笠井さん提供)   小倉さんの「牙」が削がれるようになった  時代が進むにつれ、テレビ番組でもコンプライアンスや危機管理が重視されるようになった。視聴者にウケていた小倉さんの辛口で自由な発言も、徐々に制限されるようになっていった。 「インターネットが普及するにつれ、どんどんコンプライアンスが厳しくなりました。プロデューサーとの打ち合わせでも、『小倉さん、それを言うと炎上するから、そこは抑えませんか』などと言われることが多くなりました。番組末期では、打ち合わせの段階で、小倉さんの角を丸めていくような作業が行われるようになっていたのです。下手に炎上すれば番組が終わってしまうこともあるので、それはしょうがない部分もありました。けれど、小倉さんの魅力というものが、ネットの広がりによって、削がれるようになったことは、厳しい現実でした」  そして、長寿番組の「とくダネ!」も2014年頃から曲がり角に差しかかった。 「放送開始から15年くらいたった頃には、小倉さんのオープニングトークをやめようという話になっていきました。以前のようにオープニングトークで視聴率が上がる状況ではなくなってきたからです。他局の番組に視聴率で負けるようになり、新しく来たプロデューサーが番組をテコ入れするにあたって『オープニングトークをなくします』と決めた後の小倉さんのガックリした表情は、今でも忘れられません。時代の波に乗って人気者になった小倉さんは、また同時に、時代の波に牙を抜かれていったように感じました」  18年11月5日、小倉さんは「とくダネ!」の中で、ぼうこうがんのためぼうこう全摘出手術をすることを発表した。それから1年1カ月後の19年12月19日の『とくダネ!』では、今度は笠井さんが悪性リンパ腫に罹患(りかん)していること、病名は「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」であることを公表した。 「小倉さんからは『笠井くんは何でもかんでも僕について来たけれども、がんまでついて来るなよ』と言われましたね。そういう意味では、小倉さんとは『がん友』でもあるんです。それからは、小倉さんとがんをテーマにトークをすることが増えました」 文化放送で共演したときのツーショット(笠井さん提供)   最後は「ガン友」として付き合うことに  小倉さんも笠井さんも、”がん友”として互いに励ましあいながら闘病生活を送った。小倉さんはがんを患いながらも仕事への情熱を燃やし、「自分自身」についても報道した。 「小倉さんも私も、長年にわたって、人のプライバシーで仕事をしてきました。芸能人の結婚も離婚も伝えてきましたし、亡くなった方の訃報も伝えてきました。プライバシーにかかわることを伝える商売をしてきて、じゃあ、いざ自分がプライバシーの問題を抱えたときに、それは出せませんっていうのは違うのではないか。小倉さんという師匠の背中を見ながら、自分もこういう風に生きなければならないと思いました」  笠井さんもステージ4の悪性リンパ腫になり、4カ月半の入院生活を余儀なくされたが、病室から自分の症状をメディアに発信した。  小倉さんは亡くなる1カ月前、自宅にゲストを招きトークを繰り広げる番組『小倉ベース』(フジテレビ系)の収録をした。最後のゲストはEXILEのHIROと女優の松本若菜だった。 「次第に体も動かなくなっていったので、最後に残ったテレビ番組が自宅で収録する『小倉ベース』だったんです。77歳の誕生日のとき、『次は80歳だな』と言っていたから、80歳まで生きたかったんだと思います。でも、小倉さんも納得のいく人生だったと僕は思っています」  笠井さんの周りでは、いずれ「お別れ会」をやろうという話が持ち上がっている。そこではまた小倉さんとのたくさんの思い出話に花が咲くだろう。 (AERA dot.編集部・上田耕司)

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