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妻・千代をパンデミックで失った渋沢栄一に学ぶ逆境の心構え 玄孫が読み解く
妻・千代をパンデミックで失った渋沢栄一に学ぶ逆境の心構え 玄孫が読み解く 481社の創業にたずさわったという渋沢栄一(渋沢栄一記念館提供) 渋沢健さん(提供) 「できる」「できない」「やりたい」「やりたくない」の軸(筆者提供)  NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公で「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一。渋沢家五代目の渋沢健氏が衝撃を受けたご先祖様の言葉、代々伝わる家訓を綴ります。 *  *  *  人類は数多くの戦争を繰り返してきて局部的な破壊や悲劇は大きかったものの、新型コロナウイルス感染症のパンデミックほど広範的なスケールで世界の人々の日常生活を脅かした危機は前代未聞です。  その中、特に犠牲になったのは社会の高齢者や貧困弱者という傾向があり、経済界では大企業と比べると中小・零細企業の資金繰りが厳しい状況に陥りました。  先進国ではワクチン接種が広まって重傷者・死者は減少している昨今でも、途上国・新興国など世の中の多くが未だに逆境に立たされています。  およそ500社の会社を設立したと言われる渋沢栄一ですが、全てが順風の人生ではなく多くの逆風も体験しています。栄一の時代にはコレラやスペイン風邪というパンデミックが世界に広まっていて、前妻の千代をコレラで失っています。  ただ、公私の逆境に屈することなく、多くの実績を後世に残した栄一の言葉に我々は耳を傾けるべきではないでしょうか。書籍『論語と算盤』の「大丈夫の試金石」という説で栄一は「自然的逆境」に立った場合に以下の心構えが大切であると示しています。 ・「足るを知る」-これは、何を失ったことにより、何が有るかに気づいて感謝することでありましょう。 ・「分を守る」-やるべきことをきちんとやって身を守ることです。例えば、うがい、手洗い、マスク着用、「密閉」「密集」「密接」を避ける等です。もちろん、ワクチン接種も、この類に入ります。 ・「天命であるから仕方ない」-ジタバタするより心を平静に保ち、場合によっては思い切って断念する。  つまり、自然的逆境のときには正しく恐れることが大事であるということになります。 ただ、新型コロナウイルスは自然的な存在かもしれませんが、コロナ禍は「人為的な」側面もあります。  人と人の間、あるいは人と社会の間で生じる人為的な逆境の場合、「自分からこうしたい、ああしたいと奮励さえすれば、大概はその意のごとくになるものである」という栄一は提唱しています。  一般的に我々は「できる」「できない」という軸で物事を判断する傾向があります。 「できない」あるいは「できていない」という否定を判断基準にすると幸福な生活を送ることができない、と渋沢栄一は指摘します。 「しかるに多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとはせず、かえって手前の方からほとんど故意にねじけた人となって逆境を招くようなことをしてしまう。それでは順境に立ちたい、幸福な生活を送りたいとて、それを得られるはずがないではないか」  だから栄一は「自分からこうしたい、ああしたい」、つまり、自分が「やりたい」「やりたくない」の軸も大事であると唱えているのです。  では、横軸に「できる・できない」、縦軸に「やりたい・やりたくない」の四象限で整理してみましょう。  この場合、ベストポジションは当然ながら、右上の「やりたい」「できる」になります。  一方、「できない」ところですが、左下の「やりたくない」ポジションは順位がそれほど高いところではなく、場合によっては整理して捨てても良いところです。  問題は明らかに右下の「できる」のに「やりたくない」ポジションです。勉強ができるのにやりたくない子供。仕事ができるのにやりたくない部下、あるいは上司。これらは改善しなければ状態です。  しかし、我々はほとんどの場合、左上のポジションいるのではないでしょうか。「やりたい」ことはたくさんあります。 ただ、お金がないから「できない」。 時間がないから「できない」。 制限があるから「できない」。 経験がないから「できない」。 我々は、できないことばかりです。   このポジションにいた場合に「できる」「できない」の軸で判断すると、我々はできないところにいます。だから、元々は「やりたい」ことができないので、あきらめて「やりたくない」へと沈んでしまうかもしれません。  子供の頃、プロ野球選手や宇宙飛行士になりたいという人もいたでしょうし、歌手やケーキ屋さんという人もいたでしょう。でも、実際には子供の頃の夢を追いかけて、本当にそうなった人というのは、極めてまれです。「できる」「できない」という軸で自分の人生を考えたので、どこかで挫折してしまったからです。  しかし、同じ左上のポジションの場合、「やりたい」「やりたくない」軸で考えると我々はやりたいところにいます。栄一がいう「こうしたい、ああしたい」です。このベクトルを立てていれば、すぐに「できる」訳ではありません。前後左右するかもしれません。しかし、いずれ「できる」方へとシフトする可能性が残ります。  本当は、誰でもやりたいことがいっぱいある。けれども、いろいろな言い訳を自分たちに言い聞かせてしまいます。失敗するのが嫌だからです。 もちろん、「できる」「できない」の軸も大事なのです。でも、ここばかりを見ていると、自分が本来持っているポテンシャルを発揮できないまま、人生が過ぎてしまうことにもなりかねません。それではあまりにももったいない。  前回の本コラムでご紹介した大谷翔平選手に聞いてみたいことがあります。「論語と算盤」の「大丈夫の試金石」を読んで何を感じたかと。  恐らく、自分も渋沢栄一が提唱していたように「こうしたい、ああしたい」という人生のベクトルをずっと立てていた、と答えるのではないでしょうか。  我々はもちろん、大谷翔平のような野球はできません。渋沢栄一のように500社ぐらいの会社を設立することもできない。ただ「こうしたい、ああしたい」というベクトルを、これを立てておくことは誰でもできることであります。(渋沢健) ◆しぶさわ・けん シブサワ・アンド・カンパニー株式会社代表取締役、コモンズ投信株式会社取締役会長。経済同友会幹事、UNDP SDG Impact 企画運営委員会委員、東京大学総長室アドバイザー、成蹊大学客員教授、等。渋沢栄一の玄孫。幼少期から大学卒業まで米国育ち、40歳に独立したときに栄一の思想と出会う。近著は「SDGs投資」(朝日新聞出版)
福原愛の離婚で注目された「共同親権」は日本でも可能なのか 台湾の弁護士が語る「日本との違い」
福原愛の離婚で注目された「共同親権」は日本でも可能なのか 台湾の弁護士が語る「日本との違い」 離婚した福原愛(右)と江宏傑(C)朝日新聞社 「福原愛さんの離婚のニュースで、共同親権という言葉を見て、本当に台湾がうらやましく思いました」  こう語るのは、10年ほど前に1歳の子どもの親権を失った会社経営者のKさん(50)だ。元妻は6歳年下の地方公務員。離婚の際、元妻の不倫疑惑もあったというが、Kさんは親権を取れなかった。 「入籍直後、他の男と関係を持っているという証拠が出てきました。家事はほとんどやらず、独身時代のように飲み歩いてばかり。子どもが産まれたら、母という自覚が生まれて、真面目になってくれるかと思ったんですが、出産後は育児放棄のような状態でした。なので家事育児はほとんど私が担当しましたが、当然、夫婦関係は険悪になっていきました。すると『あなたに受けた暴力が』などと言い始め、私に無断で子どもを連れて家を出て行きました。私からみれば“連れ去り”です。そして離婚協議の際、私をDV男として仕立て上げようとしたんです」  Kさんはその後、家庭裁判所で審判という手段をとり、妻のDV主張が虚偽だということを裁判官に認めさせた。何とか月一回5時間の面会交流は認められたが、親権を取ることはできなかった。 「もし日本に台湾のような共同親権があれば、妻の行動はまったく違ったものになっていたでしょう。親権を確実に得るために子どもを連れ去ったり、あることないことを裁判で主張したり、長い年月をかけて法廷で激しい争いをしたりすることはなかったはずです。福原愛さん元夫婦のように、共同親権でスピード決着できる台湾の制度だったらどんなに良かったかと思います」  7月9日、卓球の福原愛(32)が、夫の江宏傑(32)との離婚成立を連名で報告した。その中で、次のような一文が目を引いた。 「私共の子供達については、共同親権となりますので、少しでも子供達への影響を減らすことができるよう、それぞれ努力いたします」  共同親権、という用語はSNSなどでトレンドワードとなり、一部の報道番組でも取り上げられた。  日本では離婚後は単独親権になると法律で定められている。夫婦で親権を争うケースも多いが、そのうち約9割は母親が親権を持つ。一方で、海外では多くの国が共同親権を認めており、日本でも導入に向けた議論が始まっている。  2016年9月に結婚した福原は、夫の住む台湾に移住し、翌17年には長女、19年には長男をもうけた。結婚後も夫婦で仲むつまじい姿を披露していたのだが、今年3月に女性週刊誌が福原が日本で年下男性と“不倫お泊まりデート”をしていたと報道。一方で、別の週刊誌は夫の江の「モラハラ疑惑」を報じるなど、泥沼化の様相をみせていた。  夫婦の内実は異なるが、妻に不倫疑惑、夫にはDVの疑いという点だけみれば、冒頭のKさんと同じようなケースともいえる。  だが、Kさんは離婚まで長期化したうえに親権は母親、月一回の面会しか認められなかった一方で、共同親権制度がある台湾に住む福原元夫妻は、離婚後も夫婦で子どもを養育することでスピード決着した。  日本と台湾の差が如実に表れているが、共同親権であれば、福原元夫妻が記したように「子供たちへの影響を減らすこと」は可能なのだろうか。  趨勢法律事務所(台北)の代表弁護士である徐崧博氏に台湾の離婚事情について聞いた。 ――日本では、離婚届にお互い押印し、サインすることで、成立する協議離婚が全体の約9割です。台湾はどうですか。  お互いにもめることがなければ、協議離婚が主流です。離婚届に2人がサインし、判を押して提出すれば離婚が成立します。一方、もめれば裁判や調停での離婚となります。裁判離婚になるとお互い、主張の応酬となり、何年もかかってしまう。泥沼化することが珍しくないという点でも日本と変わりません。  日本と台湾の違いは、共同親権がある点です。台湾の共同親権の制度は1996年の法改正で完備されました。それ以降、協議離婚、裁判離婚を問わず、共同親権という選択肢はよく選ばれます。もちろん、かなりもめていれば双方が単独親権を主張したりしますが。 ――共同親権になるとどう違うのですか?  DV、親が犯罪者である場合などは共同親権が認められない場合もありますが、日本のように、すべて単独親権ということはありません。例えば、銀行口座の開設、進学先をどこにするのかといった、法律上、子どもの人生の重大な選択において、共同親権者である2人の合意が必要になります。しかし、共同親権が採用されても、主要扶養者という概念があります。主要扶養者は、普段と子どもと一緒に生活して、日常生活に関わることについては、主要扶養者に決定権があります。 ――離婚後の養育については、欧米のように、両親がそれぞれ一週間交代でといった感じなんでしょうか?  協議離婚の場合、子どもに関する養育計画のある離婚協議書を持って区役所で離婚登記できるので、実際の養育計画は個々の自由裁量となります。裁判離婚の場合、裁判官は、今まで双方の生活状況を十分踏まえた上で総合的に養育計画を決定します。共同親権であれ、単独親権であれ、一方は普段の主要扶養者として子どもを養育し、一方は指定されている時間帯で子供と面会、過ごせるというケースが最も多いです。養育計画があっても、事後的にもめているケースでしたら、養育計画を一方が守らないというケースも珍しくありません。 ――国際的な離婚の場合は?  一緒に住んでいなくても、小学生、中学生までの間は台湾、その後は日本といった形で養育を進めたり、夏休みや冬休みといった長期休暇のときに普段一緒に住んでいない親とすごしたり、というケースを今までに見てきました。 ――「連れ去り」についてはいかがでしょうか。日本の場合、別れるにあたって相手方の同意を得ずに子供を連れて家を出る「連れ去り」が近年、社会問題化しています。  片方の親に内緒でもう片方の親が「連れ去り」を実行すると、誘拐罪で起訴される可能性があります。台湾で公開されている過去5年間の刑事判決の中で、片方の親が子どもを連れ去ったことを理由として、誘拐罪に該当する有罪判決が10件以上あります。しかし、ハーグ条約に加盟していない台湾から外国へ子どもを連れ去られても、台湾当局は何もできない可能性が高いです。もちろん台湾に戻ってこられたら、話は別ですが。  福原の不倫疑惑が報道された際には「台湾に子どもたちを残して不倫なんて」と批判する声がSNSなどで多く上がった。報道をみる限り、福原は離婚後も台湾には戻らずに、日本に滞在しているようである。徐氏が語ったケースのように、普段は台湾で夫家族が子どもの面倒をみて、長期休暇などは日本で福原が養育をするという計画なのだろうか。  アメリカ人との間に娘がいる女優の武田久美子(52)は、離婚後、アメリカに住み続けている。というのも、子育てを共同で行うため、近隣で暮らすことが求められ、離婚後に外国に引っ越すことは許されないからだ。共同親権といっても、その国ごとに運用はさまざまで、離婚後の家族のありようもまた多様なのだ。  いずれにせよ、福原の離婚が日本の共同親権導入の議論に一石を投じたことは間違いないだろう。今後、どのように子どもたちを共同養育していくのかが注目される。(西牟田靖)
天皇陛下ワクチン接種未完了で五輪開幕 雅子さまは欠席の“おもてなし” 皇室の真意とは 
天皇陛下ワクチン接種未完了で五輪開幕 雅子さまは欠席の“おもてなし” 皇室の真意とは  天皇・皇后両陛下(c)朝日新聞社(宮内庁提供)  コロナ禍で開幕する東京五輪。選手や大会関係者の感染が明らかになっている中で、天皇陛下は、新型コロナウイルスのワクチン1回だけの接種で、今夜23日の開会式に臨む。雅子さまは同席せずワクチン接種の有無も非公表。陛下が感染拡大を懸念していると長官が訴えていながら、チグハグぶりが目立つ。その真意はどこにあるのだろうか――。 *  *  * 「五輪に対する皇室の姿勢は、通常の外交儀礼(プロトコール)で考えれば不自然なことが多いです。これは今まで経験したことのないパンデミック下の行事であるという事情が主な原因でしようが、それに加えて、宮内庁がうまく対処しきれていないのかも知れないし、もしくは別のメッセージがあるのかも知れません。」  そう話すのは、平成の時代に上皇ご夫妻の侍従を務めた大阪学院大学外国語学部教授の多賀敏行氏。東京都儀典長、駐チュニジア、ラトビア大使などを歴任した元外交官だ。  7月22日、天皇陛下は皇居・宮殿でIOCのバッハ会長ら19人と面会し、新型コロナ禍での東京五輪について、「深く敬意を表します」と英語であいさつを述べた。  バッハ会長は、陛下に対して「日本の皆さまに危険をもたらすことのないよう、最大限の努力をしていることを、陛下に改めてお約束します」と伝えた。これは、6月に西村宮内庁長官が、「開催が感染拡大につがらないか、天皇陛下がご懸念されていると拝察している」と発言したことを受けたものだろう。  感染防止のため、この日と翌23日の各国首脳らへの接遇では祝宴などは行わず、短時間で終えた。  宮内庁は、接遇も開会式も皇后雅子さまの同席はなく、陛下おひとりで臨むことになった理由について、「来日する要人らが配偶者を同伴しないため」と説明している。    だが先の多賀教授は、儀礼上のルールといっても自由に動かせる余地はないわけではない、と話す。 「要人を単身で日本に招待したとしても、もてなす側は主人に加えて夫人も同席して接待にあたることは、ありうることで、むしろお客に対する好意と受けとられる場合が多い。特に客に女性が居る場合はそうです。米国の代表は、ジル・バイデン米大統領夫人ですから同じ女性である皇后雅子さまが加わることに、何ら不思議はありません」  実際、菅首相は真理子夫人とともに迎賓館「和風別館」の夕食会で、もてなしている。  「もちろん天皇陛下は、外交儀礼は熟知されているはずです。たとえばバッハ会長と面会された際、陛下は深すぎない角度でお辞儀をなさった。流石です。上皇さまも不必要に深いお辞儀は、なさいませんでした」(多賀教授)  元通産官僚で評論家の八幡和郎・徳島文理大学教授は、そもそも開会式までに新型コロナワクチンの2回目が未接種なのは、明らかにおかしいと指摘する。  天皇陛下が1回目の接種を終えたのは7月6日。だが、このタイミングでは2回目の接種は3週間後の7月27日以降となり、東京五輪の開会式や要人らの接遇に間に合わなかった。 「国民と同じように政府の方針に従って接種を受けたいというご希望があったと、宮内庁は説明しています。だが、陛下ご自身の安全のためにも、世界のVIPへの配慮を考えても、論外というしかありません」  長官が「拝察」で吐露したように、天皇陛下が五輪での感染拡大を懸念しており、宮内庁が感染防止を本気で考えているのならば、開会式までに接種を完了させなかったのは、矛盾以外の何者でもない。  宮内庁は「個人情報にあたる」として、天皇陛下以外の皇族方の接種状況について公表を拒んでいる。  皇位継承順位2位で、皇嗣である秋篠宮さまの1回目のワクチンを接種が、開催直前の21日だったことすら、各社の周辺取材で報じられたのだ。皇后である雅子さまの接種についても、宮内庁は頑なに公表しようとしない。  八幡氏は、皇后陛下は、「両陛下」として陛下と行動を一緒にされるのだから、同じ扱いにすべきだ、と指摘する。 「ましてや夫である陛下は、海外の首脳やVIPの接遇をする以上、感染リスクの有無については明白にしておくべきで、『個人情報』という理屈は、通らない。皇后陛下が接種されていないのを明らかにしたくない、とさえ感じてしまう」  長年皇室を見てきた人物もこう首をかしげる。 「これまで、天皇をはじめ皇族方の健康問題は、少なくとも公務に影響のあることについては、隠さずに公表するのがモラルだった。それを『個人情報だから』と口にした瞬間から、それは税金でやるのは、おかしいという理屈になってしまう。それを『来日する要人も単身だから、こちらも単身で接遇する』『個人情報だから』――と宮内庁が本気で主張しているとしたら、ばかな役所になったとしか言いようがない」  五輪で来日する世界のVIPたちは、両陛下との交流を楽しみにしているだろう。前出の八幡氏も、コロナ禍だとしてそれを過度に簡素化することは、プロトコールに照らしても儀礼を欠いてしまうし、「おもてなし」の精神と対極を成すものだ、と懸念を示す。  皇室を取材する記者たちの間では、宮内庁が理屈にならない理屈を主張して、皇室と五輪に一線を引くのは、天皇陛下が五輪に対する無言のメッセージだとの見方もある。  果たして本日夜の五輪の開催宣言で、天皇陛下は、どのようなメッセージを出すのだろうか。(AERAdot.編集部 永井貴子)
小山田圭吾さんの問題からイジメについて鈴木おさむが思うこと 見て見ぬフリも罪
小山田圭吾さんの問題からイジメについて鈴木おさむが思うこと 見て見ぬフリも罪 放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、イジメについて。 *     *  *  イジメについて思うこと。以前、この連載でも書きましたが、小山田圭吾さんの件をきっかけに、過去のいじめのことがいろいろと書かれているので、今回、書きたいと思います。  僕が中学1年の時にクラスでいじめがありました。A君と言う男の子が、気づくと、ある日突然イジメられていました。プロレスごっこと言っては、背の高い生徒がA君に思い切りラリアットをしたり、A君の上に生徒が5人6人と乗ったり、2階の教室の窓際からA君を落とすふりをしてビビらせたり。ある生徒はバケツを持ってきてA君の葬式ごっこをしたり。  ある日、隣のクラスのB先生がいじめに気付きました。僕たちのクラスの担任は女性の先生でした。B先生はかなり気合の入ってる背のデカイ体育会系の先生。B先生は担任の先生じゃ手に負えないと思い、代わりに職員室に生徒全員を呼び出しました。  そこにはA君がいました。事前にA君から誰がどんなイジメをしたか細かく事情聴取していたのです。  最初に僕がみんなの前に呼ばれました。僕は学級委員長でした。B先生に呼ばれ「おさむ、お前学級委員長だよな?」と言われて、思わず僕は「僕はイジメしてません」と言ってしまったのです。僕はイジメには「参加してなかった」。だけどイジメには気づいていた。  するとB先生が言いました。「学級委員長でありながら、見て見ぬフリするのが一番の罪なんだよ!」と叫んで僕の右頬を強い力で張りました。先生の言うとおりだと思いました。 気づいているのに見て見ぬフリ。一番の罪。最低です。  そのあと、生徒が一人ずつB先生の前に呼ばれて、A君にしたイジメと同様のことを先生は生徒たちにしていきました。ラリアットをした生徒にはラリアットがどれだけ痛いものかをわからせるために、その生徒にラリアットをしました。吹き飛んでいきました。恐怖と罪悪感で、生徒全員が教室で泣いていました。  そしてイジメは止まりました。  僕は先生による体罰を推奨しているわけではないし、今の時代に体罰はダメです。  でも。うちのクラスでイジメが止まってから数か月後。他の学校でイジメられて、葬式ごっこを行われた生徒が自殺したというニュースが新聞に出ました。  それを見て、本当にゾっとしました。あの時、B先生が止めてくれなかったら、A君は自らの命を殺めてしまったかもしれないと。  今でも思い返すと汗が出る。もし、あの時イジメが止まらず続いていて、A君が亡くなってしまったら、僕らは一生その思いを背負って生きていかなければいけない。子供を抱いているときもそのことは胸によぎるはずなんです。  妻と結婚して19年。妻は学生時代にイジメを受けていました。芸人さんの中にはイジメを受けていたという人、たまにいます。そのイジメから抜け出すために、人を笑わせて芸人さんになった。芸人さんになってその話をしているから、傷は癒えているだろうと思う人も多いかもですが、僕は妻と結婚して気づいたのは、イジメられた側はその傷は一生残る。そして「イジメられた側は、イジメた人のことを一生覚えている」と教わった。  イジメが止まっても、傷をつけた人はずっとその人の心の中にも残る。  今回、小山田さんのことをきっかけに、改めてイジメについて考える人も増えているかもしれない。  イジメた方は忘れていても、イジメられた方はずっと覚えている。「いじめを見て見ぬフリした」最低の学級委員長のこともきっと覚えているだろう。  忘れてない。だから自分も忘れてはいけない。ずっと。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。毎週金曜更新のバブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」と毎週水曜更新のラブホラー漫画「お化けと風鈴」の原作を担当し、自身のインスタグラムで公開中。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中。作演出を手掛ける舞台「もしも命が描けたら」が8/12~22東京芸術劇場プレイハウス、9/3~5兵庫芸術文化センター阪急中ホール、9/10~12穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールにて上演。
瀬戸康史、赤ちゃん「寝ました~!」の声に大慌て? ドラマで育児を疑似体験、「すごくショック」な出来事も
瀬戸康史、赤ちゃん「寝ました~!」の声に大慌て? ドラマで育児を疑似体験、「すごくショック」な出来事も 瀬戸康史(せと・こうじ)/1988年生まれ。多くのドラマや映画で活躍。ミュージカル「日本の歴史」に出演中。10月に「劇場版 ルパンの娘」が公開予定、12月には主演舞台「彼女を笑う人がいても」(仮題)が控えている(撮影/写真部・東川哲也)  6カ月の育児休業を取得した男性会社員を主人公にしたWOWOWオリジナルドラマ「男コピーライター、育休をとる。」。主演の瀬戸康史さんは撮影自体で育児の大変さを実感した。男性育休が根づいていない日本社会に、この作品が投げかけるものは大きい。AERA 2021年7月19日号の記事を紹介する。 *  *  * ――主人公は、広告会社のコピーライター・魚返(うがえり)洋介(瀬戸康史)。ある晩、彼は妻・愛子(瀧内公美)から妊娠したことを聞かされる。大喜びの魚返は、妻が漏らした「(育児休業を)取れば」の一言に押され、育休の取得を決意する。会社の制度もよく知らぬまま、上司の浜崎(村上淳)に半年の育休を申請するが、半年は社内の男性だれもが取ったことのない未到の領域だった……。瀬戸さんは、本作のオファーを受けた理由をこう話す。  1話約15分という尺の見やすさもありますし、やってみたら楽しいだろうと思う部分がたくさんあったので受けさせていただきました。33歳になり、役者として育児をする父親役も相応な年なのかなという思いもありました。出演してとても楽しかったのですが、「育児ってこんなにつらいものなんだ」ということも知りました(笑)。  例えば、「育児中は眠れない」ってよく聞くじゃないですか。僕は「そうは言っても」と、あまり本気にしていなかったんです。ところが、山口淳太監督は「本当に眠れないんです。(目の下に)クマをもっと足しましょう」と言って、僕は目の下のクマを描き足されることに。魚返が子育てから逃げ出してラーメン屋へ駆け込むシーンでは、「ここでラーメン屋に行くなよ」と僕は思いましたが、山口監督に「これはマジです。その場からいなくなりたくなるんですよ」と熱弁を振るわれました(笑)。今回、スタッフは監督をはじめ、子どもが生まれたばかりとか育児経験者の男性が多かったんです。わからないことはその都度、聞けばわかるという状況だったのは、ありがたかったですね。 「男コピーライター、育休をとる。」は、WOWOWプライムで金曜夜11時に放送(全6回) ■自分は完璧ではない ――厚生労働省の「雇用均等基本調査」によれば、2019年の男性の育児休業取得率は7.48%。育児休業について何も知らなかった魚返は、同期で“育休マイスター”カマチ(赤ペン瀧川)から、その数字も含め、育休についての知識を得る。  僕もこのドラマの話をいただくまで、育休について考えたこともありませんでした。周囲の友人などを見ても、育休を取ったという話を聞いたこともありません。一口に育児といってもやることはたくさんあります。オムツ交換、ミルクを飲ませる、沐浴……と、本当に盛りだくさん。今回、育児のつらさを疑似体験しましたが、知っているのと知らないのとでは大差がつくでしょうね。知ってよかったと思います。 ――少し情けない魚返を演じるにあたって、瀬戸さんが山口監督から言われたのは「素直であること」「本当に妻の愛子を好きだということ」。そして、瀬戸さんが普段から演技で大切にしていることは、「役を自分から遠ざけない」ことだという。  それは、たとえどんな性格の悪い役だとしても同じです。自分は完璧ではありませんし、性格の悪いところも絶対あると思う。そういうところから役を理解し、どんどん広げていく。魚返で言うと、すべての子どもをかわいいと思っているわけではないところ。ドラマでは「隠れ子ども嫌い」となっています。僕は子どもが好きですが、魚返と同じ。でも、自分の子はかわいいだろうなという想像はつく(笑)。カマチと子どもの写真を見せ合うシーンがありましたが、僕もやっちゃいそうです。 ――瀬戸さんにとって、赤ちゃんの扱いは、ドラマ「透明なゆりかご」で産婦人科の院長役を演じた時に経験済み。本作では、生まれたばかりの新生児から1歳くらいまでの4、5人の赤ちゃんにかかわった。 ■演技プランも何もなし  抱っこは首のすわった赤ちゃんであれば縦(=普通の抱っこ状態)に抱くのは問題ないんです。でも、首のすわってない赤ちゃんを横にしてここのゾーン(と言って、肘を直角に曲げる)に頭をきちんと収めるのは、すごく難しい。まずは人形で練習したんですが、人形は動かないからできる(笑)。指導の先生も褒めてくださった。ところが、本物の赤ちゃんになると……難しかった。  それに、コロナ禍でしたから、特に赤ちゃんの撮影は厳戒態勢。必要最低限の人数で行われました。僕も本当は手で「かわいいかわいい」とやりたかったんですが、この状況では触るのも怖かったです。 ――哺乳瓶でミルクをあげるシーンでは、「赤ちゃんにギャン泣きされた」という。  すごくショックでした。結局、その日の撮影は終了になったんです。撮り直しの時は、赤ちゃんのお母さんに哺乳瓶を口に入れてもらって、僕がそっと手を添えてお母さんと入れ替わりました。ぎりぎり泣かないところまで撮れたのでよかったです。赤ちゃん相手では演技プランも何もありません。本当に「生」って感じですね(笑)。 ――赤ちゃんとの撮影は4日間にまとめて行われた。撮影自体が子育てに追われる生活そのもののようだったという。  コロナ禍で何度も撮影まで来ていただくわけにもいかないので、赤ちゃんが一堂に集まりました。不思議なもので1人が泣くと連鎖するんですよね。あれは何なのですかね? 赤ちゃんが寝るのを待つこともありました。その間「休憩入れましょう」となったので、みんな食事をし始めたんですが、「寝ました~!」と。その声にみんな慌てて、食事を置いて現場に戻りました。実際の育児もこんな感じで忙しいんだろうなと感じました。 ■子育ては1人ではなく ――本作に出たことで、瀬戸さん自身は育休を取ろうという気持ちになったのだろうか。  役者は特殊じゃないですか(笑)。代わりが利かないので、育休を取るのは覚悟が少し必要かなと思います。ただ、たとえ育休が取れなかったとしても子育てには100%関わりたい。育児はどれも大変です。全部思い通りにいきませんから。 ――10%にも満たない日本の男性の育休取得率をもっと上げるためには何ができるのだろうか。  制度については、僕が気軽に言うことはできませんが、「子育ては1人ではできないんだ」ということをもっとみんながわかればいいのではないでしょうか。そのためにはこういう作品が放送され、記事に書いていただいて、多くの人に知っていただくしかない。だから、僕も演じて感じたことを、きちんと自分の言葉で伝えたいなと思っているのです。(フリーランス記者・坂口さゆり) ※AERA 2021年7月19日号
「男女関係」のもつれでボーガン殺人 人気陶芸家を惨殺した女の素顔【京都】
「男女関係」のもつれでボーガン殺人 人気陶芸家を惨殺した女の素顔【京都】 京都府警本部(C)朝日新聞社 亡くなった人気陶芸家の古川剛さん(SNSより)  男女の関係のもつれでボーガン(洋弓銃)を使った凄惨な事件がまたも起こった。    京都市伏見区のラブホテルの一室で、頭などにボーガンの矢が複数刺さっている状態で死亡している男性の遺体が発見されたのは7月9日――。  被害者は京都市東山区の陶芸家、古川剛さん(37)だった。  一緒に部屋にいた佐藤千晴容疑者(31)がホテルのフロントに「男性を包丁で刺した」と話したことから、京都府警は殺人容疑で逮捕した。 「現場の状況から、佐藤容疑者が古川さんの背中から刃物で襲い掛かり、ボーガンでとどめを刺したようだ。死因は失血死とみられる」(捜査関係者)  清水焼で有名な京都。古川さんは将来を嘱望される人気陶芸家だったという。京都市のホームページによれば、古川さんの作品は2020年12月、京都の伝統産業に携わる若手人材を発掘して支援する「京ものユースコンペティション」のグランプリ受賞作に選出されていた。その作品は清水焼、京焼の技法を駆使して作成した虹彩霧滴流描組皿鉢(こうさいむてきながしがきくみざらばち)。  授賞式の写真には表彰状を手に、誇らしげな古川さんの姿がある。自身の作品を展示した個展を何度も開催していたこともSNSで記されていた。古川さんを知る陶芸家はこう話す。 「37歳と若いが、実力派の陶芸家でした。家業が清水焼の陶器を製造する会社で専門学校などを経て、腕を磨いたそうです。彼の生み出す、天目釉と呼ばれる独創的な技法は、日本だけではなく、海外でもファンを獲得していた。イケメンで女性に人気もあり、今後、大きな期待をされている陶芸家の一人でしたから、ニュースで悲報を知り、驚きました」  一方、佐藤容疑者は京都府内の大学で陶芸を学び、陶器の製造会社で働いた後、古川さんのもとに弟子入りしたという。佐藤容疑者が自身のSNSに15年ごろ、投稿した写真によると、小皿、マグカップにかわいい花模様を描いた陶器、鳥のブローチなど、癒し系の作品が多い。  だが、20年の投稿では、古川さんの影響を受けたのか、作風が似たものがアップされている。 <本日は1日中、野焼き焼成をしていました>と作品制作に意欲的な書き込みもあった。 「佐藤容疑者は古川さんの作風が好きで、大学時代からよく展覧会などを見学に行っていました。思いが募って、弟子入りを決意したと言っていましたね」(前述の佐藤容疑者の知人)  古川さんのSNSに佐藤容疑者の「いいね」が頻繁につけられている。なぜ、佐藤容疑者は凶行に及んでいたのか。  古川さんの関係者のSNSには、京都の神社で撮影されたと思われる神前結婚式の様子が写っている写真があった。古川さんは5年ほど前に結婚し、子供もいたようだ。 「古川さんとは不倫関係にあったようだ。佐藤容疑者はボウガンを事前に用意して、発射の練習までしていた。頭部などにはボーガン数本が、命中していた。そんな状況から佐藤容疑者は古川さんにかなり恨みを募らせていたようだ。古川さんは売れっ子の作家となり、結婚。受賞作品を引っ下げて華々しく活躍していた。縁の下の力持ちだった弟子の佐藤容疑者が今後について古川さんに聞いてもはぐらかされるばかり。許せなかった、殺してやりたかった、という趣旨の供述を佐藤容疑者はしている」(捜査関係者)  ボーガンを使った事件はここ数年、後を絶たない。20年6月、兵庫県宝塚市の住宅街で、ボーガンを発射して母親ら3人を殺害、一人に重傷を負わせたとして、野津英滉(のづひであき)被告(当時23)が逮捕された。  その2か月後、同じ兵庫で夫をボーガンで殺害しようとした妻が殺人未遂容疑で逮捕された。裁判では宝塚市の事件を参考にして殺害しようとボーガンを放ったなどと語り、有罪判決が確定している。    こうした現状を放置できないと、国会では今年6月に銃砲刀剣類所持等取締法の改正案が衆院本会議で可決、成立した。これによりボーガン(クロスボウ)の所持は、都道府県公安委員会の許可が必要となる。  使い道は、スポーツの標的射撃や動物の治療に際する麻酔などに限定。用途外の使用は認められず、使用場所も安全性が確保できるところに限定された。しかし、またも事件が起こった。 「ボーガンは、ネット通販などで手軽に購入できることから近年、犯罪に使用されるケースが多い。以前は犬や鳥など動物虐待が中心だった。それが宝塚の事件以降、人に向けられることも増えてきた。法改正で少し落ち着くかと思っていたが…」(前出の捜査関係者) (AERAdot.編集部 今西憲之)
単身赴任の父親「将来、息子から尊敬されるか心配」 心がけるべきこととは?
単身赴任の父親「将来、息子から尊敬されるか心配」 心がけるべきこととは? ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  7歳の息子から尊敬される父親になりたい。そんな気持ちを活力に、単身赴任先でひとり頑張る父親。このまま思春期を迎えたときに、父親として尊敬されるかを心配しています。月1回息子と接する際に、どのようなことを心がけるべきでしょうか。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *  *  *【相談者:7歳の息子を持つ30代の父親】小1の息子から尊敬される父親になりたいです。私は普通のサラリーマンで、いまは単身赴任中でコロナもあって息子に月1回しか会えていません。できれば、父親らしく一家を支えるために頑張って働いている姿を見せたいのですが、それもできません。消防士やトラックの運転手といった息子があこがれる職業ではありませんし、先月の父の日も忘れられていたのか、とくにプレゼントはありませんでした。いまは懐いてくれていますが、このまま思春期を迎えたときに、父親として尊敬されるか心配です。どのようなことを心がければいいのでしょうか。【論語パパが選んだ言葉は?】・「己(おのれ)を脩めて以(も)って百姓(ひゃくせい)を安(やす)んず」(憲問第十四)・「父父たり。子子たり」(顔淵第十二)【現代語訳】・「自分のことは常に修養し、周りの人たちを安心させるのが君子というものだ」・「父親は父親らしくありなさい、子どもは子どもらしくありなさい」【解説】 お答えします。サラリーマンは立派な職業です。すべての職業があってこの社会が成り立っていることからすれば、あらゆる職業に価値があります。自分を卑下するようなことはやめましょう! 第一生命保険が小学生に尋ねた「大人になったらなりたいもの」の調査によると、小学生の男の子が将来なりたい職業の第一位は、「会社員」なのですよ。 単身赴任でいらっしゃるとのこと、それは寂しく、大変なことだと思います。でも、きっとそれは、母親である妻も7歳の息子さんも同じでしょう。とくに、妻である母親の立場になって考えてみてください。一人で育児と家事をするのはとても大変なことなのです。  さて、まず、相談者さんが持つべき心構えを、『論語』の教えによってお伝えしましょう。「己(おのれ)を脩めて以(も)って 百姓(ひゃくせい)を安(やす)んず」(憲問第十四) 弟子の子路から「どうしたら君子になれますか」と聞かれ、答えた孔子の言葉で、「己のことは常にしっかりと磨き、周りの人たちを安心させるのが君子というものだ」という意味です。「脩」という漢字は、人が身なりを整えるように、心も体もシャキッとさせることを表します。つまり、さまざまな苦労や悩みがあってもそれを水に流して、日々心を磨いてピカピカにしておくことです。「安」は、「女」と「宀(家)」で作られた漢字で、「女性が安心して家の中で、家事や育児をしていること」を意味します。相談者さんが、今、やらなければならないことは、自分自身を磨いて、妻と息子さんを安心して暮らせるようにしてあげることなのです。 そのために、相談者さんが具体的にすべきことは、まず、妻をねぎらうことです。自分の子どもを産んでくれた妻に感謝し、日ごろの苦労に心から「ありがとう」と言いましょう。息子さんは必ず、「母親を大切にしている父親」をしっかり見ています。息子さんは父親をお手本にして、優しさや他者への思いやりを学びます。相談者さんは手本を見せることでしか、子どもに父親の威厳をアピールすることはできないでしょう。 そして、月に一度会った際には、息子さんの日々の悩みに真摯に耳を傾けましょう。学校の話、友達の話など、妻と息子さんが2人で暮らす中で直面する問題や心配、喜びを一緒に分かち合い、安心させてあげましょう。 息子さんの気持ちは他人がコントロールできませんから、相談者さんは、「息子から尊敬されるかどうか」などと考える必要はありません。 孔子はこうも言います。「父父たり。子子たり」(顔淵第十二) これは、「父親は父親らしくありなさい、子どもは子どもらしくありなさい」とその名にふさわしい言動をするようにという有名な教えです。「父親が父親としての務めを果たせば、子は子としてやるべきことをきちんとやるから、家も国も安泰になる」と孔子は考えたのです。  相談者さんは、自分を卑下するのでなく、父親として己を磨くことに専念しましょう。それは、会えない時間も妻と息子さんを心の底から愛し、向き合うことです。 愛は、時間も空間も飛び越えて伝わります。その証拠に、2500年前に交わされた孔子と弟子たちの会話であり、他者への思いやりを最高の徳と説く『論語』が、時空を超えて、今なお、我々の人生で大切なことを教えてくれているではありませんか。【まとめ】尊敬されるかどうかを考えるのはよそう。妻と息子を大切にし、父親として己を磨き続けよう山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ  0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
瀬戸内寂聴が想い出す岡本太郎の誘い「そろそろうちへ来れば?」
瀬戸内寂聴が想い出す岡本太郎の誘い「そろそろうちへ来れば?」 瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。単行本「往復書簡 老親友のナイショ文」(朝日新聞出版、税込み1760円)が発売中。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「若い人は意欲を抱いてがんばって下さい」  セトウチさん  往はやっぱりテーマが欲しいです。先週に続いて今週も担編さん(まだ馴染めませんが)の鮎川さんに打診したら、こんなオファーが届きました。 「制作の意欲はどこから湧いてくるのか?」です。湧くということは泉のように底から噴き出すように現れるのが意欲なんですかね。そーいう意味では僕ではなく岡本太郎さん向きのテーマですね。太郎さんならきっと小さい眼を大きく見開いて両手を拡げて、「意欲とは戦いだ! 社会との戦いではなく己との戦いだ! 自己に克って初めて社会を征服するんだ。意欲こそ若者の特権だ。意欲なくして芸術は存在しない」とかなんとか、わけのわからんことを言われて、疲れますよね。では、もう少し疲れない禅僧に聞いてみましょう。 「意欲などというものは本来存在しないものです。在ると思うから存在するのです。意欲は去来する雑念です。そんな非存在にあれこれ振り廻されるな。喝!」でハイオシマイ。いずれにしても意欲は公案みたいなもので、その存在がわかりません。  若い頃は岡本太郎方式の意欲が通じますが、僕のように男性の平均寿命81歳を4年も越えた人間には意欲や好奇心は必要ないです。話は大きく飛びますが、人類は意欲を持ち過ぎた結果、もしかしたら文明によって崩壊するかも知れません。コロナだって追求していくと人間の過度な物質的欲望の結果、あんなものを作ってしまったのかも知れませんよ。  人間が老化するのも自然の摂理で実にうまくできていると思います。老齢と共にギラギラなるのではなく、むしろヘナヘナになって、非意欲的存在になっていくのが自然です。と同時に老齢が悟らせるのです。人間に本来備わった意欲的な欲望が退化するように神だか宇宙の摂理がそうさせてくれているのです。そのことに気づくにはやはり老齢にならなきゃわかりません。まだ意欲が沸々と煮えたぎっている間は欲望の虜のままで、悟りはまだまだ遠いです。  即身仏が次第に死に近づいていくように、老人もそのように死を迎えるのが一番理想的です。心身共に脱落して、ハイ完成です。意欲のある間は人間は完成しません。座禅をするとか滝行のような修行をしなくても人間は寿命を生き切れば自然に悟性を迎えて、うまく成仏できるようになっているはずです。そのためには若い内にうんと意欲を吐き出し切って、老齢と共に空っぽになるように人間はもともと作られているように思います。年を取ってまだギタギタ燃えるような意欲の人は悟れないままあちらの世界に行きます。  肉体の衰退が上手に意欲をコントロールしてくれるので、自然のなりゆきにまかせておけばいつの間にか意欲も消滅して、カルマも知らぬうちに解脱してうまい具合に死ねるのです。ついセトウチさんの仏教界に足を踏み入れて越境行為をしてしまったので、「頭(ず)が高い!」と叱られそうです。  まあ、そんなわけで意欲も好奇心も少しずつなくなって、僕の絵も若い人には実に頼りない絵に見えるでしょうね。そんな僕の絵を見て、若い人は奮起して意欲という大志を抱いてがんばって下さい。  合掌。 ■瀬戸内寂聴「『意欲』なんて感じたことはありません」 「意欲」についての考察は、私には不向きです。なぜなら、私は、わざわざ自分の躰の中から「意欲」をつかみだしたことも、そうっと網ですくいだして、現実の生活に利用した覚えも一切ないからです。  でも私は人から、「いつも意欲に満ち溢れているようにお元気ですね」と言われます。体調が老衰の一途をたどる以前は、我ながら、私はいつも人より元気に見え、常に張り切っていたものです。「いつ逢っても、意欲満々に見え、気持がいいですね」とよく言われたものです。でも、ヨコオさんのおっしゃるように、「意欲」なんて、自分の体内に湧き出てくる感覚を、一度も感じたことはありません。  ただし、いざ原稿用紙に向かって、一字一字マス目の中に、万年筆の字を埋め始めると、自然に、泉の水が湧き出るように、書きたいものが噴き上がってきて、ペンが走り出すのです。この「老親友の文通」も、前もって、今日は何を書こうなど準備したことはなく、原稿用紙に向かいペンを握って、太郎センセと、ヨコオさんの顔を並べて思い描くと、文章が自然に湧いてくるのです。そこは熱い意欲の影など感じたことはありません。実に自然に文章が、それこそ湧き出るのです。  こんなことを書くと、この原稿の担当の鮎川さんは「そんな意欲も湧かない文章は、いただきかねる」と、腹を立てるかもしれない。でも、決していい加減になんか書いたことはなく、結構神経質でメンドウなヨコオさんに、すらりと受け取ってもらえるよう、文章を書いています。  今度のヨコオさんのお手紙の中の岡本太郎さんの意欲の説明の描写は、思わず笑ってしまいました。あんまり、ありし日の太郎さんの様子にそっくりだったからです。  今、思い出せば、あれは、ちょうど、前の東京オリンピックの後のことで、太郎さんの「太陽の塔」が制作中でした。その頃、私はかの子の伝記を書き、太郎さんと親しくなり、よく家に呼ばれたり、自分から遊びに行ったりしていました。いつでも若い学生が、半裸で、庭でオブジェを作っていました。その横で烏のガア公が飛んだり、鳴いたりしていました。  東京女子大の後輩の平野敏子さんが、太郎さんの優秀な秘書として、同居していて、太郎さんの名文のすべてを書いていました。誰の目にも、平野さんは秘書というより、太郎さんの優秀な妻女としか見えませんでした。  そんなある日のこと、太郎さんが私に話しかけました。 「きみも、そろそろうちへ来れば? 平野くんの仕事が多くて大変なんだよ。いつも和服だから畳がいいかい? 四畳半と六畳、どっちがいい?」  私はあわてて、やっと作家として踏み出したばかりだから、先生の手伝いは無理だと断ると、「バッカだなあ。つまらない小説で、わずかな原稿料もらって、何になる? それより天下の天才の岡本太郎の秘書として後世に名を残す方が、ずっと素晴らしいのに!」  と叱られました。あの時、私の意欲が太郎さんの秘書にちらりとでも向いていたら、どうなっていたことでしょう。「太陽の塔」を通り過ぎる度、私は今でもちらりとそのことを想い出します。では、また。 ※週刊朝日  2021年7月23日号
大河「鎌倉殿の13人」で描かれる鎌倉時代に神社が作られ続けた理由とは
大河「鎌倉殿の13人」で描かれる鎌倉時代に神社が作られ続けた理由とは 5代執権・北条時頼により建立された建長寺 東勝寺跡地の一角にある「腹切りやぐら」 修善寺・指月殿  先日の豪雨被害のニュースを見ながら「ああ走湯権現(現・伊豆山神社)の近くだなぁ」と思い、「そういえば来年のNHK大河ドラマは執権・北条氏の話だったっけ」と連想が飛んだ。たぶん、鎌倉幕府に興味のない方々にとって、このつながりはあまりピンとこないかもしれない。だいたいにおいて鎌倉時代というのは謎が多すぎるのだ。 ●鎌倉時代とはいつから?  まず、鎌倉時代がいつからを指すのかからして定かではない。私の子どもの頃には1192年(源頼朝が征夷大将軍に任命された年)とされていたが、今の教科書では1183あるいは1185年という記述になっている。また、鎌倉幕府を開いた源頼朝を何と呼ぶのか、もちろん将軍なのだろうがこの時代に使われていた役職の意味では頼朝の立場は語れない。頼朝が伊豆で隠遁していた頃の話もはっきりしないし、挙兵したのも強い意志からだったとも感じられない。ただ、隠遁生活時に走湯権現や箱根権現への参拝は頻繁に行っていたようで、伊豆で世話になっていた伊東祐親から命を狙われた際、走湯権現へ逃げ難を逃れたとある。この後から北条氏との関わりが始まるのだ。頼朝が立身できたのは神仏のおかげ──そう考えても不思議はない流れがあった。 ●令和4年の大河ドラマの主人公は  大河ドラマの「鎌倉殿の13人」というタイトルには、そんな鎌倉時代の中途半端な幕府の立場が盛り込まれている。鎌倉殿とは、朝廷が鎌倉幕府の将軍を指していた言葉だ。狭義では源頼朝だけを指すこともある。つまり「鎌倉にいる偉い人」くらいの意味合いで、なんとなく朝廷からは下に見られている感じさえする。頼朝は、壇ノ浦で平家を滅ぼしてから14年後に死因も解明されずに没する。2代目・頼家は北条氏の手にかかり暗殺され、3代目・実朝は頼家の子・公暁に殺される。公暁はもちろん討ち取られ、頼朝の血脈は、鎌倉時代が終焉するはるか前に絶えてしまうのである。これを実行したのが、頼朝の妻・政子の実家である北条氏なのだ。 ●吾妻鏡に描かれる源氏の末裔たち  頼朝の急死により、18歳で家督を継いだ頼家の時代に、北条氏を中心に13人の有力者たちによる合議制が敷かれた。「鎌倉殿の13人」はここから来ている。もちろん北条氏による画策だろう。鎌倉時代を記録した資料に「吾妻鏡」という歴史書があるが、北条氏による記録であることから、将軍家に対する記述は厳しい。源頼家などについての人となりはこれに頼るしかないのだが、自分の子を殺めるという政子の所業を正当化するため、頼家の評価は低くせざるをえないこともあるだろう。それでも、わが子を幽閉し暗殺した場所である修善寺には、頼家のために「指月殿」を建立、菩提を弔っている。ちなみに修善寺という地名は、「修禅萬安禅寺」というこのお寺の名から来ている。弘法大師(空海)によって開山されたお寺で、ご本尊・大日如来を作ったのが、幻の仏師と言われてきた実慶(運慶につながる一派のひとり)であることでも知られている。 ●源頼朝の信仰心  さて、源頼朝は神仏に対する深い信仰心で関東各地に神社仏閣を建立している。挙兵する前に戦勝祈願をしたとされる三嶋大社には、鎌倉幕府から毎年使者が遣わされたし、源氏の祖ともされる源頼義に由縁のある鶴岡八幡宮は幕府の役所的な意味合いも持っていた。神仏混淆であった鶴岡八幡宮寺には「鶴岡二十五坊」と呼ばれるほどの子院が作られている。補陀落寺は頼朝の祈願所として建立されたものだが、そこには寺宝として頼朝が奉納した平家の総大将・平宗盛が最後まで持っていたとされる平家の赤旗が収められている。  頼朝が没してから、わずか3年余りで初代・執権の北条時政の治世になるのだが、大河ドラマの主人公はこの初代ではなく、2代目・北条義時である。頼朝の義弟(政子の弟)であり、頼家の叔父だ。執権北条の基礎を作り、源氏の血筋を絶やした人物とも言える。特に、明日7月18日(旧暦)が命日となる頼家の殺され方は凄惨だったようで、その様子などは歌舞伎の演目にもなっている「修善寺物語」などにも詳しい。 ●鎌倉は執権が建立したお寺でいっぱい  鎌倉時代と言われる時は150年弱あったが、そのうち130年は北条氏の時代だった。しかも得宗家と呼ばれる初代につながる直系以外が執権を務めるのは、幼い後継が成人するまでのつなぎに過ぎなかった。実際、元寇を迎え撃った8代執権の北条時宗は18歳でその役に着き、鎌倉幕府終焉を迎えた14代高時は12歳となるまでに3人もの短期リリーフを遠い親戚から呼んできている。常に裏切りや離反を恐れていた一族の姿が垣間見える。  頼朝の姿を継承したわけでもないだろうが、執権北条氏は鎌倉に寺社を作り続けた。例えば、建長寺、光明寺、成就院、浄光明寺、円覚寺、東慶寺などなど。鎌倉に今もあれほど寺院が群居しているのは、もちろん米軍の絨毯爆撃の被害にあわなかったためもあるが、まるで供養のように各代の執権たちはお寺を作り続けた。 ●幕府終焉の地「東勝寺」  3代目・北条泰時が北条氏の菩提寺として創建した東勝寺は、鎌倉幕府終焉の地となった。いまは鎌倉の市街の真ん中にありながら廃寺となった東勝寺跡地は来る人を拒むかのように緑の草が茂っている。1333年5月22日、新田義貞軍に攻められた鎌倉幕府は、東勝寺へ引き13~15代執権北条氏を含む900人弱の家臣たちがこの地で自刃した。一角には「腹切りやぐら」と呼ばれる場所が残されている。  平家は源氏に絶やされ、源氏は北条に絶たれたが、北条は最後の執権・北条守時の甥が室町幕府2代目将軍・足利義詮となった(守時の妹が足利尊氏の正室)。一族300人ほどを一度に失ったという代償と引き換えに、北条氏は血筋を残せたのである。その後、尊氏は北条氏を弔うため東勝寺近くに宝戒寺を建立した。北条高時の末裔であった高倉健さんが、このお寺に毎年卒塔婆を奉納されていたのは以前ご紹介した通りである。  藤原定家の日記には「(源氏の血筋が絶えたのは)平家の遺児らをことごとく葬った報い」と書かれている。のちの時代に徳川家康を含む武士たちが、どれほど源頼朝を持ち上げてくれようとも哀れさは免れない。鎌倉にあることすらあまり知られていない頼朝の墓には、毎年卒塔婆を奉じてくれる子孫ひとりすらいないのだから。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)
ミックスルーツを研究し考える「日本人とは何か」 社会学者・下地ローレンス吉孝<現代の肖像>
ミックスルーツを研究し考える「日本人とは何か」 社会学者・下地ローレンス吉孝<現代の肖像> 下地ローレンス吉孝/写真でしか知らない駐留米軍の軍属の祖父がいる。祖父のルーツを調べることは「自分を探す物語」でもある(撮影/ジャン松元) 滞在していた読谷村のカフェのテラスで資料を読む。普段は無口な印象を与えるが、質問にはおだやかな口調ながら途切れなく答える(撮影/ジャン松元)  社会学者、下地ローレンス吉孝。大坂なおみや八村塁が日本人選手としてもてはやされる。その一方で、彼らは差別にも遭ってきた。外国にルーツを持つ人びとが、日本で生きていく上で抱える問題は、まだまだ知られていない。下地ローレンス吉孝は、日本で生きるミックスルーツの人たちにインタビューを重ね、その問題を浮き彫りにしてきた。 *  *  *  アメリカ出身の祖父・クラレンス・H・ローレンスと沖縄出身の祖母・金城光子が恋に落ちたのは、現在の那覇市の小禄(おろく)だった。今は自衛隊基地として使用されている場所は、1987年に返還されるまでは広大な米軍基地だった。第2ゲートの近くに住んでいた祖母はハウスキーパーとして基地に出入りし、そこで厨房スタッフとして働いていた祖父と出会った。2人の間に50年に生まれたのが、下地(しもじ)ローレンス吉孝(よしたか)(34)の母である。母が生まれる前に祖父はアメリカに帰国してしまい、母は自分の父の顔を知らないで育った。 「祖父が沖縄に来たのは朝鮮戦争が始まりそうな空気が濃厚になっていた時期だから、48~49年ごろだと思います。じつは祖父はエアフォースの軍人だと思い込んでいたんですが、最近になってそうではなかったこと、ケンタッキー生まれだったこと、祖父の父はイタリアからの移民系で、肉屋をしていたことなどを知りました。今でも映画やドラマでよく描かれていますが、当時イタリア系移民はアメリカで差別されていました。祖父の母はスコットランド系の移民だそうです」  下地がスマホで曽祖父の写真を見せてくれた。苦み走った表情で葉巻をくゆらす姿は、マフィア映画にでも出てきそうなほどすごみがある。  祖母は沖縄戦のときに、本島のあちこちを死にものぐるいで逃げまどい生き延びた。一緒に逃げていた祖母の伯父は米兵の車から機関銃掃射を受けて殺されたという。 「なんでおじいちゃんは日本に来たの?ってよく聞かれます。ビジネスで来たとかなら答えやすいのだけど、戦争で来たと言うと、『重い話を聞いてしまってごめんね』という雰囲気になるんです。母も戦争がなかったら生まれてなかったわけで、戦争はよくないに決まっているけれど、敵同士の子どもも生まれるわけです。“日本人”のアイデンティティーはじつは複雑なんです」 ■メディアに消費されてきた 海外にルーツ持つ日本人  下地はミックスルーツを研究する社会学者だ。立命館大学衣笠総合研究機構の研究員の肩書を持ちながら、日本学術振興会の特別研究員の資格を得て、筆者が取材した時は、沖縄に住むミックスルーツの人たちの聞き取り調査のために、読谷村で妻子と暮らしていた。先行研究はほとんどなく、下地らが開拓した研究分野で、いま注目を集めつつある。これまでに100人以上にインタビューしてきた。  同じくミックスルーツをテーマに研究し、『ふれる社会学』(上原健太郎との共著)を出版した、大阪市立大学都市文化研究センター研究員のケイン樹里安(32)はこう説明する。 「“ハーフ”や、外国にルーツを持つ人びとが直面する諸問題は、多くの当事者にとっては毎日の生活に直結する問題なのですが、なかなか世に知られていません。また、当事者や家族・友人・パートナーであったとしても、個々人の状況や経験が異なる部分も多くあるんです」  厚生労働省のデータをもとにした論文によると、2015年の時点で日本にいるミックスは84万7千人以上、以降は毎年2万人ずつ増えているという。ただ、このデータには87年以前に生まれた人は含まれておらず、下地の母親も含まれていない。当時の調査では、日本国籍と外国籍という組み合わせのパターンしかカウントしておらず、たとえば日本国籍以外の両親を持つ子どもは数に入っていないため、「現実に“ハーフ”と名乗ったり、自認したり、あるいは名指しされる人ははるかに多いはず」と下地は言う。  かつて新聞や雑誌では「混血児」という呼称を用いて、偏見と蔑視を含蓄した文脈で取り上げた。あるいは“容姿端麗なハーフ”の芸能人が羨望(せんぼう)のまなざしを向けられ、テレビやメディアなどは彼らを「消費」してきたし、今もしている。海外にルーツを持つ日本人は、常に「日本人」と「外国人」のはざまに置かれ、ときに好奇や偏見の目にさらされ、ときにあからさまな差別を受けてきた。 「最近になってこの問題が可視化され出したのは、2010年代に入ってから入管法(出入国管理及び難民認定法)が改正され外国人の人口が増えたことがあるでしょう。そして何よりも、プロテニスプレーヤーの大坂なおみ選手や、アメリカのプロバスケットボールの八村塁選手、プロ野球選手のオコエ瑠偉選手などの日本人選手たちの存在や、彼ら自身が受けた差別をカミングアウトしていることが影響していると思います」 (文・藤井誠二) ※記事の続きはAERA 2021年7月19日号でご覧いただけます。
鈴木保奈美は自由がほしかった? 3年前から石橋貴明との間にくすぶっていた「火種」
鈴木保奈美は自由がほしかった? 3年前から石橋貴明との間にくすぶっていた「火種」 左から石橋貴明と鈴木保奈美(C)朝日新聞社 「まさか」と「やっぱり」が入り混じるような離婚劇だった。  16日夜、鈴木保奈美(54)と石橋貴明(59)が石橋のYouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」で離婚を発表した。動画は約50秒ほどの短いもので「石橋貴明、鈴木保奈美から大切なお知らせ」というタイトルの後にコメントが流され、最後は2ショットの画像を掲載。「これからも私達は頑張っていきます」という文章とともに、それぞれの直筆サインで締めくくられていた。 《石橋貴明 鈴木保奈美から大切なお知らせ  私事で恐縮ですが、私共 石橋貴明と鈴木保奈美は離婚した事をご報告致します  子育てが一段落した事を機に、今後は事務所社長と所属俳優として新たなパートナーシップを築いて参ります  これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します  これからも私達は頑張っていきます 石橋貴明 鈴木保奈美》  離婚の公表がYouTubeだったことについて、芸能プロダクション関係者はこう話す。 「動画で真っ先に報告したのは、“貴ちゃんねるず”を見てくれているファンの人たちに最初に報告したいという思いが強かったのだと思います。離婚をしても、これからもいわばビジネスパートナーであるわけですから、やはりファンを一番に、という石橋の社長としての姿勢の表れでしょう」  石橋と鈴木の“離婚危機”がささやかれたのは今年1月のこと。女性誌が、鈴木が昨年9月に個人名義で都内の高級マンションを購入していたことを報じてからだ。 「鈴木は昨年7月には姉が代表取締役、母親も取締役として新しく個人事務所も設立していて、マンションも購入したわけですから、芸能マスコミが『離婚準備に入ったのか?』と色めき立つのも無理はありません。そもそも、2人の仲がギクシャクしているのでは、とうわさになったのは2018年に鈴木がドラマ『SUITS/スーツ』(フジテレビ系)に出演した頃からでした。かつて『東京ラブストーリー』で共演した織田裕二とのタッグとあって、息もピッタリ。鈴木は水を得た魚のようにはつらつとしており、その後もドラマに映画にと引っ張りだこでした。  一方、石橋は冠番組が徐々に終了していくなど地上波での露出が少なくなり、所属事務所の社長として鈴木のサポートをすることが多くなっていきました。事務所の社長として、鈴木を管理するような言動もあったようです。鈴木にとってはもっと自由が欲しくなったのかもしれません」(女性誌記者)  鈴木は1998年11月に石橋との結婚を機に芸能界を引退し、3人の娘たちの子育てに専念していた。妻として、母としての生活を優先してきた鈴木は、「子育てが一段落」した事を機に、思うところがあったのかもしれない。お互いに芸能界で成功した50代の夫婦。いがみ合って別れるというよりは、役目を果たしたうえでの“卒婚”という可能性も高い。 「夫婦仲が悪いということもなく、いわゆる円満離婚、卒婚ということなのだと思います。上の2人の子どもは成人しており、三女も昨春に高校を卒業したので、親権や養育費などでもめることもないでしょう。現に離婚後も社長と所属俳優として二人三脚でやっていくわけですから、逆に信頼関係が強くなったのではないでしょうか」(前出・芸能プロダクション関係者)  夫婦としての関係がなくなった方が、より自由で新しい関係を築けることもある。今後の2人の活躍に注目したい。(坂口友香)
介護貢献分は「思ったより安い」現実も 相続ルールの「損得」
介護貢献分は「思ったより安い」現実も 相続ルールの「損得」 イラスト/いらすとや 週刊朝日2021年7月16日号より)  相続のルールは、19~20年にかけて施行された民法改正でも大きく変わった。運用されてからまだ間もないが、その影響をみてみよう。 「『遺留分』を金銭で請求できるようになったのは大きな進歩」。相続に詳しい小堀球美子弁護士はこう話す。  相続人には最低限もらえる「遺留分」がある。基本的には、法定相続分の2分の1だ。たとえば亡くなった夫の遺産が評価額6千万円の自宅と預金2千万円の計8千万円で、これを妻と長男の2人が相続するケースで考えてみよう。  法定相続分は妻と長男がそれぞれ4千万円、遺留分はその半分の2千万円ずつとなる。  このとき、遺言書で「自宅の権利はすべて妻に、預金は1千万円ずつ妻と長男が分け合う」と書かれていた場合、長男は遺留分に1千万円届かない。もし長男が不足分を請求し、話し合いがまとまらないと、自宅の権利をいったん長男と妻の共有状態にせざるを得なくなる。  共有状態になると権利関係が複雑になり、自宅を処分しにくくなる。そこで19年7月から、不足額は最初からお金で請求できるようになった。例示したケースでは、長男から請求があった場合、妻は長男に遺産の預金や手持ちの資金から1千万円を渡せば、自宅は妻の名義に変えるだけですむ。 「お金で解決したほうが手続きの面でも感情の面でもスッキリします。遺留分をめぐって争うケースはこれから減っていくと考えています」(小堀弁護士)  また、相続コーディネーターで相続支援事業「夢相続」の曽根恵子代表は「法務局が自筆証書遺言を預かる制度が20年7月にできたことで、家庭裁判所が確認する『検認』の手続きはいらなくなり、遺言書を残すハードルは下がりました」と言う。 「検認の手続きには相続人全員の戸籍謄本をそろえたり、審査に時間がかかったり手間がかかります。自筆証書遺言は自宅で保管されることが多く、なくしたり、改ざんされたりする心配がありました。法務局に預けることで、こうした恐れはなくなります。加えて、遺言書を書いた人が亡くなると、指定した人に知らせが届く仕組みもあります。せっかく書いたのに、相続人が見つけられないケースも減りそうです」  ただし、法務局が預かるといっても、内容までチェックしてくれるわけではない。特定の人に偏った分け方が書いてあればトラブルのもととなる。遺言書を残す場合は、遺留分にも配慮しよう。  一方で、あまり大きな効果は望めないとみられているものもある。その一つが、法定相続人でない親族でも、介護などの貢献分の相続を請求できるようになった点だ。  たとえば、首都圏に住む60代男性のケース。男性はいま、数年前に亡くなった母親が残した実家の相続をめぐって、弟と争っている。遺産は実家の建物と土地だけで、相続人は男性と弟の2人だ。  男性は家族とともに、実家で母と同居していた。晩年は自身や妻が母の面倒をみたり、バリアフリー工事など自腹でリフォームをしたりした。  だが母には預金がなく、男性が実家を相続するには、弟の相続分を現金で用意する必要がある。男性も余裕があるわけではないので、母の医療費やリフォーム代、さらに自身や妻の介護による「特別寄与料」を反映し、弟に渡す現金をできるだけ少なくしたい。  しかし、男性は「特別寄与料は思っていた以上に認められないものですね」とため息をつく。  介護による特別寄与料は、介護をした期間に、一般的なヘルパーなどの平均時給をかけて計算する。 「長く介護をした印象がありますが、認められたのは『要介護3以上』だった最後の半年弱に限られ、妻の分と合わせて数十万円。あまり足しになりそうもない」(男性)  そもそも、相続人の妻ら、法定相続人以外の人が権利を主張しすぎると争いに発展しやすい。介護される側も、世話になった人には、遺言書で一定の財産を残すようにするなど配慮が必要だ。  20年4月にできた「配偶者居住権」も「今のところ扱ったケースはない」(小堀弁護士)そうで、活用例は少ないようだ。  配偶者居住権は住宅の権利を「所有権」と「居住権」に分けて、それぞれ相続できるようにする仕組み。夫が亡くなった後、残された妻が自宅に住み続けやすくなる効果が期待されている。  だが前出の曽根さんは「むしろ利用しないほうがよい場合もあります」と注意を促す。 「たとえば、将来的に自宅を売って得たお金で介護施設に入ったり、一人暮らしに合った住まいに引っ越したりしようと考えている場合は、選ばないほうがよいでしょう。所有権を相続しないと、自宅を自由に処分できなくなります」  居住権の金額的な評価の仕方や目安などは、制度を運用する中で定まってくる面もある。利用すべきかどうか迷ったら専門家に相談するとよい。  相続に関しては、大きなルール変更が相次ぐ。いざというときに慌てないよう、元気なうちからじっくりと考えておきたい。(本誌・池田正史) >>【関連記事/いらない土地を国に「あげる」制度新設 メリットとデメリットは?】はこちら ※週刊朝日  2021年7月16日号
鎌倉だから「規定外」ができる 超高層タワーにはない大きなアドバンテージとは
鎌倉だから「規定外」ができる 超高層タワーにはない大きなアドバンテージとは 小坪漁港から披露山に至る山の中腹にある「Minamicho Terrace」。窓から小坪湾が一望できる。テラスは風を通すため、あえてガラス窓を付けていない。右が日高仁さん、左が直穂子さん(撮影/猪俣博史)  以前から人気だった、神奈川県の鎌倉・逗子・葉山の「かまずよう」エリアが、今再び注目を集めている。超高層タワーのないこの地に移住し、「ワーク=ライフ」という新しい考え方を実践する人がいる。AERA 2021年7月12日号から。 *  *  *  古い漁村とマリーナの都会的な眺めが混在する逗子市小坪。ここで1級建築士事務所を主宰する建築家、関東学院大学准教授の日高仁さん(50)は、かつて首都圏郊外のスマートシティ開発に参加していた。エネルギー利用や地域のセキュリティーなどの先端技術を盛り込んだプロジェクトは刺激的だったが、その時に、大資本による開発の限界も痛感した。どんなに新しいコンセプトを謳(うた)っても、結局、まちの様態は「効率的な」超高層ビルに帰結してしまうからだ。 「それでは日本社会が直面する人口や経済の縮小に対応できない、という根本的な疑問を抱きました。むやみに新しいビルをつくらなくても、地域に残る建物を使って、昔ながらのコミュニティーを損なうことなく、次世代へつないでいくことはできるのではないか」  その疑問に対する答えを見つけるべく、12年から自宅で週末だけのカフェ「Minamicho Terrace(みなみちょうテラス)」を妻の直穂子さん(50)と始めた。小坪は駅からは遠く離れ、家のある山の中腹は、車を乗り入れることもできない。地域のお年寄りや大学の教え子、よそから訪ねてくる人たちと、多様な人々を迎える週末カフェだが、「効率が悪くて、これだけでは食べていけないビジネスモデルの典型」と、日高さん自身が笑う。  しかし、この不便さや路地の狭さを、日高さんは「安心して規定外のことができる貴重な場所」と読み解く。  夫妻が大切にしているのは、採算性の一言では表せない別の価値観だ。複数の仕事を持つことによって得られる、さまざまな人間関係と情報の回路。海風が心地よく通り抜ける木造の家や、テラスの窓から鮮やかに見渡せる小坪湾の眺めも、大切な役割を果たす。そこに、自立と自律の思考が重なっていく。 ■超高層タワーより低層の都市に余地がある  会社単位でそんな価値観の転換を実践しているのが、鎌倉市に本社のある「面白法人カヤック」だ。1998年に鎌倉が好きな学生時代の仲間3人が集まり、コンテンツ制作を中心に創業。14年には鎌倉市で初めて東証マザーズへの上場も果たしている。  同社のオフィスは、新築の低層社屋のほかに、元・銀行のビル、昭和時代の木造民家など、駅前に点在するさまざまな建物から成る。それらをつなぐ道路がオフィスの「廊下」だ。古い建物や空き家をまちのリソースとしてとらえ直し、鎌倉に在勤、在住する人が共同で使える「まちの社員食堂」「まちの保育園」など、コミュニティー施設も展開する。低層の建物が分散する鎌倉の都市形態が、ユニークなアクションを支えているのだ。  カヤックCEOの柳澤大輔さん(47)は言う。 「鎌倉では税金を納めている住民が、企業の株主のように発言権を持って、堂々とそれを行使している。行政も市民の声を聞く姿勢があって、JR鎌倉駅周辺で高層ビルの建設を禁じている。そのバランスの中で古い町並みが守られて、僕らのような会社が発想力を使って、価値をさらに拡張していく。そういう循環が面白いですよね」  コロナ禍によるリモートワークの浸透によって、都心の超高層に対比する「郊外」「自然環境」「昔ながらの町並み」が、再び浮上していることは確かだ。この価値の変動は今後、もっと大きな流れになるだろうか。  都市政策を専門とする饗庭伸・東京都立大学教授(50)は、東京都の住民基本台帳のデータを使い、18年から20年9月末の行動変化を検証した。それによると、「郊外から都心への通勤・通学行動には数百万人の昼間人口の変動があったが、都心から郊外へ居住地を移す大きな流れは認められなかった」。つまり、「かまずよう」のような「ワーク=ライフ」は、まだメジャーにはなっていないということだ。  ただし、それは、「大きな変化は起きない」ということではない。すでに数百万人規模の通勤・通学行動に変化が生じたことによって、これからは各自が都市を「カスタマイズ」する時代になっていくと、饗庭さんは予測する。 「出社が抑制されることで、自宅、リモートオフィス、カフェなどが代わって仕事場になり、空き家や空き部屋を、リモートやシェアオフィスに転用する動きも出た。個人がそれぞれの都合で時間と場所を編集できる。そんな余地のある都市が再評価されるでしょう。その場合、超高層ビルよりも、人がふらっと移動できる水平型の都市形態にアドバンテージがあります」  都市のカスタマイズとは、人が都市に「縛られ」「使われる」のではなく、人が都市を「使う」という望ましい未来のことだ。「かまずよう」で進行する多様な「ワーク=ライフ」が、社会にもたらす恩恵は大きい。(ジャーナリスト・清野由美) ※AERA 2021年7月12日号より抜粋
「あ、この人のDNAがほしい!」 映画“カメ止め”の上田慎一郎監督夫妻が結婚するまで
「あ、この人のDNAがほしい!」 映画“カメ止め”の上田慎一郎監督夫妻が結婚するまで  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。2021年7月12日号では、今月9日公開の映画「100日間生きたワニ」で監督を務めたふくだみゆきさん、同作の共同監督・脚本を務めた上田慎一郎夫婦について取り上げました。*  *  * 夫30歳、妻27歳で結婚。4歳の息子との3人暮らし。【出会いは?】2010年、夫がプロデューサーを務めた短編映画祭に妻が入選し、出会う。その後、夫が主宰する自主映画制作団体PANPOKOPINAに妻が加入し、一緒に映画制作をはじめる。【結婚までの道のりは?】出会いから半年後、PANPOKOPINAが活動を休止したときに妻が夫に告白し、交際スタート。同棲期間を経て、4年後の2014年に結婚。【家事や家計の分担は?】仕事の忙しさによって常に変動するが、家事は主に妻、息子の保育園の送りやお風呂は夫が担当。家計は基本一緒。夫はお酒もギャンブルもやらず、服にも頓着がない。妻ふくだみゆき[33]映画監督PANPOCOPINA取締役ふくだ・みゆき◆1987年、群馬県生まれ。2010年、金沢学院大学美術文化学部を卒業後、上田慎一郎と出会い、映画制作団体PANPOKOPINAに参加。15年のアニメーション映画「こんぷれっくす×コンプレックス」で毎日映画コンクールアニメーション映画賞を受賞。映画「100日間生きたワニ」で初の長編監督を務める 彼のブログに「高2のとき手製のいかだで遭難した」話があったんです。それを読んで「あ、この人のDNAがほしい!」と思った(笑)。いまでも、そしてこれからも、私にとっては世界で一番イイ男だと思っています。 でも上田は本当に映画のことしか頭にない。結婚前に私が「たまにはご飯を作って」と言うと「オレの時給を千円として30分で500円。買ったほうがよくない?」などと言う。じゃ私の日頃の時給は?と怒りをこらえて「外に食べに行こう」と言うと「日高屋で30分なら時間取れるけど?」。一体、何様 !?と(笑)。結婚後、私がだいぶ人間に寄せたと自負しています。  出産後は焦りや絶望を感じた時期もありました。夫の成功が嬉しい半面、自分はこのまま終わるのか!と。いまは夫のサポートもあり手探りながら仕事復帰できています。 私は最後の詰めが甘くなりがち。でも夫は完璧主義で自分にも人にも求める水準が高い。私も最後の踏ん張りがきくようになった気がします。夫上田慎一郎[37]映画監督PANPOCOPINA取締役うえだ・しんいちろう◆1984年、滋賀県生まれ。滋賀県立長浜高校卒業後、英語の専門学校中退。バイトを転々としながら自主映画を作り続ける。2018年に劇場長編デビュー作「カメラを止めるな!」が動員数220万人突破の社会現象に。妻・ふくだみゆきとの共同監督・脚本による「100日間生きたワニ」が7月9日から公開予定 僕は20代のころめちゃくちゃストイックだったんです。毎日ノートに「今日達成できたこと」「浪費してしまった時間は○分」などと書き込んで、尖っていて「早くこうなりたい」ばかりを考えて、いやなヤツだったと思います(笑)。結婚したことで、だいぶ人間としてのバランスが取れるようになりました。 妻の存在は作品にも大きく影響しています。いつもシナリオを読んで「女性はこんなところにこんな服を着ていかない」など意見をくれる。それまでハリボテだった女性像が立体的になったと思います。一緒に仕事をしても構成は僕、絵や表情の機微などは彼女、と得意なところが違うのでぶつかることもないんです。「カメ止め」の後、僕が忙しくなったとき「私はこのまま生活に埋没していくのか!」と彼女に思いをぶつけられてハッとしました。同じ監督としてつらかっただろうと、気づけていなかった。それからはできるだけ育児を助けて、彼女が監督として仕事ができる環境を工夫しています。(構成・中村千晶)※AERA 2021年7月12日号
「いい意味でのチープさが伝わらない」  “東京の舌”に馴染まない和歌山ラーメンがなぜ人気店になったのか?
「いい意味でのチープさが伝わらない」  “東京の舌”に馴染まない和歌山ラーメンがなぜ人気店になったのか? 浅草橋にある「ろく月」の特製豚白湯らぁめん。原価率の高さを乗り切った(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。東京・浅草橋で「豚白湯ラーメン」で行列を作る店主が愛する一杯は、和歌山出身の店主が埼玉で繰り出す、本格派の和歌山ラーメンだった。 ■「床の上にも三年半」 原価率と戦ったラーメン店主の覚悟  東京都台東区の浅草橋駅から北に徒歩4分、福井町通りを抜けると「麺 ろく月」がある。2013年にオープンした店で、化学調味料を使わずに仕上げた「豚白湯らーめん」が人気だ。コクと旨味の深い豚骨スープは、厚みや粘度はあるがしつこさが全くなく、上品なまとまり。カエシは昆布、アサリ、干しシイタケ、イカに5種類の天日塩を合わせ、3種類の丸大豆しょうゆを加えている。アスパラやオクラ、ヤングコーンなど野菜の彩りが美しい。 「ろく月」の特製豚白湯らぁめんは一杯950円(筆者撮影) 「麺 ろく月」は、店主の湯田達巳さんが脱サラして、半年間の修行の後に開業した。開店翌年の14年末には、業界最高権威ともいわれる「TRYラーメン大賞」の新人賞(豚骨部門)を受賞したが、原価率が高すぎることから全く利益が生まれず、店で寝泊まりする日々が3年半も続いた。徐々に味をブラッシュアップするとともに、食材を捨てずに有効活用することで原価率を何とか抑え、19年からようやく利益が出るようになった。 「ラーメンのクオリティを落とさないためには、食材費を惜しんではいけないと思っていました。『石の上にも三年』ならぬ『床の上にも三年半』。本当に大変でしたが、何とかしのぐことができました」(湯田さん) 「ろく月」店主の湯田達巳さん。素材へのこだわりは人一倍(筆者撮影)  19年末からは麺を自家製にした。借金が終わった段階でチャレンジしようと以前から決めていたのだという。これで念願だった「全てを手作りで仕上げるラーメン」が完成した。  ようやく理想のラーメンに近づいた矢先、再び売り上げの大打撃が待っていた。新型コロナウイルスである。街に人がいなくなり、時短営業の要請もあったことから、夜の営業が難しくなる。昼のみの営業にすると、月200万円あった売り上げが80万円にまで落ち込んだ。アルバイトにも辞めてもらい、現在も昼のみの営業が続いている。 ろく月/〒111-0053 東京都台東区浅草橋2-4-5/11:30~14:00(L.O.13:50)、日祝休み/筆者撮影 「今は割り切るしかありません。少なくともオリンピックが終わるまでは、昼のみにしようと思っています。時間があるので、今まではできなかった家族とのふれあいを大事にしています。14時に閉店して保育園に子どものお迎えに行って、一緒に遊ぶ毎日です。いずれはまた夜営業を復活しようと思っていますが、今しかできないことをやっています」(湯田さん)  売り上げが厳しいときに支えになるのは家族の存在だ。コロナ禍を乗り切って、再び浅草橋の夜に活気が戻ることを祈っている。そんな湯田さんの愛する一杯は、埼玉の戸田で食べられる本格派の和歌山ラーメンだ。和歌山出身の店主が本物にこだわって作った一杯だ。 ■「自分には引き出しがあまりに少ない」 知識と体制を整えて挑んだ和歌山ラーメン  JR埼京線の戸田公園駅から徒歩5分。ラーメンのイメージがない戸田の街に、「麺屋あがら」はある。和歌山出身の店主・阪上晴郎さんが、本格的な和歌山ラーメンを提供している。関東には和歌山ラーメンの専門店は少なく貴重な存在で、連日多くのファンが集まる。 麺屋あがら/〒335-0022 埼玉県戸田市上戸田5-19-2/11:30~15:00/18:00~21:00(L.O.20:45)、土・日11:30~15:00/筆者撮影  阪上さんは高校卒業まで、日本屈指のラーメン処ともいわれる和歌山で過ごした。家の近くに屋台の「夜鳴きラーメン」が来たときには、その音が怖くてよく泣いていたという。 「近所にもラーメン屋がたくさんあって、毎週日曜日には祖父とラーメンを食べていました。同じ豚骨ラーメンでも、店によって味が違うのが楽しかった」(阪上さん)  その後、大学の進学とともに千葉の勝浦に移り住む。漁師が営む民宿で板長の助手のアルバイトも始め、余った魚のアラを使ってラーメンを作っては、まかないとしてよく食べた。阪上さんのラーメン作りの原体験はここにある。  卒業後は知人のつてで飲食のチェーン店を展開する会社に入り、ラーメン部門に配属。埼玉の店で働くようになる。  5年間働きラーメン作りや店作りに慣れてきた頃、勢いで独立することを決意する。会社を退職し、2軒のラーメン店でのアルバイトを始めることに。ラーメン作りに磨きをかけつつ、独立に向けて準備をした。  こうして13年、「麺屋あがら」はオープンした。31歳の頃だった。 「あがら」店主の阪上晴郎さん(筆者撮影)  場所は埼玉の戸田。妻の実家が近いこともあり、このエリアで物件を探していたという。「あがら」とは和歌山弁で「私たち」「我々」という意味だ。店のお客さんと「あがら」になれることを目指して名付けた。  看板メニューは、野菜を長時間煮込んで作る「ベジポタつけ麺」。チェーン店時代に出していたメニューをブラッシュアップして作ったつけ麺だった。ファミリー向けにあっさりとした優しいテイストに仕上げていて、オープン時はよく売れたが、リピートにつながらず、売り上げは停滞した。このままでは厳しいと、濃厚つけ麺もメニュー化して巻き返しを図ったが、売り上げの厳しい時期は1年半続いた。 「あがら」の阪上晴郎さんは和歌山県出身(筆者撮影)  何か手を打たねばと、地元・和歌山のラーメン店の友人と情報交換をし、ラーメン屋のノウハウを学べる専門学校にも通った。その頃出会ったのが、東京都板橋区の人気店「らあめん 元(HAJIME)」の店主・内田元さんだった。店の厳しい現状を話すと、内田さんの協力で店を立て直してもらうことになった。 「圧倒的な経験不足を感じました。自分には引き出しがあまりに少ない。1から学び直しでしたね。内田さんにプロデュースしてもらい、知識と体制が整ってきたところで、いつかやりたいと思っていた和歌山ラーメンにチャレンジすることにしました」(阪上さん)  限定メニューとして和歌山ラーメンの提供を考えたこともあったが、片手間で作れるようなラーメンではない。スープ作りがとにかく大変なのである。和歌山ラーメンを作るにあたって、安定して豚骨を仕入れられる業者を内田さんに紹介してもらい、短時間で出汁を取れる方法を伝授してもらった。内田さんとやり取りするなかで、阪上さんは長くラーメンを作ってきたが、「基礎」を知らなかったことに気づいたという。 ■「いい意味でのチープさが伝わらない」 東京の舌になじませるには… 「あがら」で目指したのは“東京でも戦える”和歌山ラーメンだ。 「東京のラーメンに慣れた舌で和歌山ラーメンを食べると『あれ?』と物足りない感覚になるものです。濃い味に慣れた舌には、地方のラーメンのいい意味でのチープさが伝わらなくなるんです。だから、『あがら』の和歌山ラーメンは、豚骨が濃くてしょうゆの味がしっかり立っているものを目指しました。東京のラーメンに慣れた人にもしっかりとインパクトを与えられるものに仕上げたんです」(阪上さん) 「あがら」の豚骨中華そばは一杯750円。本格的な和歌山ラーメンとして人気を集めている(筆者撮影)  こうして14年10月、「麺屋あがら」は完全リニューアルを果たした。阪上さんのもくろみどおり、和歌山ラーメンを出すようになってから売り上げは急増した。突然のメニュー変更に納得しない常連客もいたが、今はこのラーメンを作らせてほしいと説得して回ったという。 一杯ずつ丁寧に作られている(筆者撮影)  この後、「あがら」は日本最大級のラーメンイベント「東京ラーメンショー」に5年連続で出店するなど飛ぶ鳥を落とす勢いで人気店に成長。18年にはお客様投票で第2位(「東京ラーメンショー2018」第一幕)に選ばれた。今や関東で本格的な和歌山ラーメンを食べられる名店として人気を博している。 「ろく月」の湯田さんは、仲間として阪上さんに刺激を受けている。 「一度阪上さんから相談を受け、豚骨の炊き方をお見せしたことがあります。本当に本格的な和歌山ラーメンが食べられる貴重なお店ですよね。奥様との息の合った接客も魅力ですね」(湯田さん) 「あがら」の阪上さんも湯田さんの個性的な部分に惹かれているという。 「湯田さんとは専門学校に通ったときに出会いました。オープンもほぼ同期で大変刺激になっています。湯田さんは人柄もラーメンも個性的で、愛らしいキャラクター。手間暇を惜しまず、自分の納得いくところまで突き詰めた一杯だからこそ、おいしいものができるのだと思います」(阪上さん) チャーシューやメンマ、ナルト、ネギがトッピングされている(筆者撮影)  おいしくて売れる一杯を作る難しさ。さらにそれを利益に変える難しさ。二人の苦労には、その難しさがにじみ出ている。おいしいラーメンの裏には、たくさんの努力の結晶が潜んでいることがわかる。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
「かまずよう」で会社の奴隷を辞めてみた 「ワーク・ライフ・バランス」の先の未来
「かまずよう」で会社の奴隷を辞めてみた 「ワーク・ライフ・バランス」の先の未来 隣接する工房で作るジェラートは、素材を吟味。店頭にはローズマリーハニーやバターピーカンなど、魅力的なフレーバーが並ぶ。左が松本愛子さん、右奥が純さん(撮影/猪俣博史) 「甘夏民家」は築80年以上の邸宅。庭にあった甘夏みかんの木から命名。庭の手入れも自分たちで行っている(撮影/猪俣博史)  海辺のまち、鎌倉・逗子・葉山が、東京からの転出先として大きな注目を集めている。名付けて「かまずよう」。超高層タワーのないこの場所で、いま、「会社員一択」ではない、多様な生き方と仕事観が生まれている。AERA 2021年7月12日号から。 *  *  * 「昨年の5月、6月はステイホームで需要が冷え込みましたが、リモートワークが浸透した夏から、物件が動くようになりました。今は2年前の2、3割増しの価格でも、買い手、借り手がついています」  そう語るのは、JR鎌倉駅西口で不動産業「COCO-HOUSE」を営む西本学央(たかひさ)さん(48)だ。 ■鎌倉・逗子・葉山の人気がコロナ禍で再燃した  コロナ禍が続く中、神奈川県は東京からの転出先として人気が高い。中でも湘南の海沿いにある鎌倉、逗子、葉山エリア──名付けて「かまずよう」は、現在、そんなミニバブルが生じるほど、注目を集めている。  理由の一つは、西本さんの指摘する通り、コロナ禍で出社頻度が減ったこと。週に1、2回の通勤なら、多少時間がかかっても、海、山があり、昔ながらの商店街が息づくまちが人々を惹きつけるのは、不思議ではない。  だが、「かまずよう」人気はコロナ禍で急激にわき起こったものではない。このエリアでは、10年前、東日本大震災の直後から、「ワーク=ライフ」の動きが活発化し、ショップオーナー、マイクロ起業家、フリーエージェントら「会社員」ではない人たちが、自由で自律的な生き方を実践してきた。「ワーク=ライフ」とは、ワーク・ライフ・バランスのさらに先を行く概念だ。「ワーク(仕事)」と「ライフ(人生)」を分けて、労働時間を切り売りするのではなく、両者を不可分のものとしてとらえる点に革新性がある。その価値観がコロナ禍を経て、いよいよ時代にフィットしてきた。  江ノ電「鎌倉」駅のホームから見える御成通り界隈は、昭和の雰囲気が残るタイムスリップゾーンだ。その一角に工房を隣接したイタリアンジェラート店「GELATERIA SANTi(ジェラテリアサンティ)」がオープンしたのは2018年のことだ。オーナーの松本純さん(36)、愛子さん(36)夫妻が、ジェラート作りと経営にあたる。  起業前は、ともに公認会計士として都心にある大手監査法人に勤務していた。ジェラート店とはギャップのある前職だが、二人とも新卒で入社した時から、「就社」という感覚は持っていなかったという。  入社8年目に長い休暇を取って世界旅行に出かけ、ローマで食べたジェラートのおいしさに心を奪われた。その勢いでボローニャにあるジェラート学校の短期講座に通い、帰国後に退社、起業に進んだ。店を開くなら、コミュニティーの交流が盛んな鎌倉、と以前から考えていた。 「会社員時代は、目の前の数字と格闘しながら、自分が誰に貢献しているのかわからなかった。人間的なコミュニケーションへの渇望があって、ショップオーナーに行き着いたと思います」(純さん)  昨年は伊豆のホテルにジェラートとパンのショップも出店し、来春には湘南に新たな工房を設けて、コーヒーや焼き菓子も販売する。この5月には次男が誕生し、公私ともに充実の日々だ。 「店では目の前でお客さまが『おいしい』と喜ぶ姿を見ることができます。それが私たちの幸せにつながっています」と、愛子さんも言葉を添える。  会社員から転身し、「かまずよう」を舞台に独自の仕事を打ち立てている例は、枚挙にいとまがない。  高徳院の大仏さまで有名な長谷は、鎌倉屈指の文化地区だ。この一角にある日本家屋でシェアハウス「甘夏民家」と、週末カフェ「雨ニモマケズ」を運営するのは、不動産会社「Safari B Company(サファリビカンパニー)」の経営者、横山亨さん(48)だ。甘夏民家は妻の孫鎬廷(ソンホジョン)さん(46)の行政書士事務所と横山さんのオフィス、そして二人の自宅も兼ねる。拠点を多機能にすることで、歴史ある邸宅の購入と維持管理の費用をまかなっているのだ。 「風情ある木造家屋を暮らしながら守り、町並みを次代に引き継ぐ方法はないか。それを考え抜いたスキームがこの家です」 ■会社の「奴隷」をやめて愛着ある物件を扱う  横山さんは10代後半から世界放浪を繰り返し、20代後半で大手不動産販売会社に就職。営業マンとして、500軒以上の不動産売買に携わった。その中で、いいとは思えない物件が、儲けのために売られていく場面をたくさん見た。 「何も言えない自分が、会社の奴隷のように思えることがありました。『売れればいい』のではなく、『ここに住んで本当によかった』と言われるものを売りたい。葛藤の中から、自分の仕事のやり方を真剣に考えるようになったのです」  その先に鎌倉で甘夏民家との出合いがあり、8年前に独立して「大家業」をスタートした。現在は都内と神奈川県に計6軒の物件を所有し、店舗やシェアハウスなどを経営する。いずれも愛着のある物件で、自ら手入れをしつつ、自由な時間を作って、「旅する大家」として世界中を回っている。  松本さん、横山さん夫妻の「ワーク=ライフ」は、戦後日本を縛っていた「会社員一択」から抜けて、まちの中で自己決定を行っていく試みでもある。  戦後、日本では高度経済成長とベビーブームを背景に人口が増加。住宅が慢性的に不足して、宅地開発は都市部から郊外へと際限なく広がっていった。  ところが2000年代に入ると、経済が停滞し、少子化・高齢化、人口減少が進行。若い世代は「職住近接」を志向して都心に回帰し、かつてのニュータウンは地域まるごとが老いて、空き家問題にも悩むようになった。  背景が反転する中では、働き方と仕事観、人生のとらえ方、価値観にも転換が必要だったはずだ。しかし、高度経済成長の原理が消えた後でも、「会社員」という一つの選択肢は強固に人々を縛り続け、都市の形態も硬直化していった。  その象徴が10年代に続々と登場したタワーマンションだ。資本主義経済でタワマンブームが華やかに演出される陰で、終身雇用の機能不全、通勤電車の苦痛、価値観の転換という切実な課題は、いったんフタをされてしまう。(ジャーナリスト・清野由美) ※AERA 2021年7月12日号より抜粋
“晩婚活”は短期決戦で! 経験者が語る100日で結婚する心得
“晩婚活”は短期決戦で! 経験者が語る100日で結婚する心得 ※写真はイメージです (週刊朝日2021年7月16日号より) 「いい人がいたら」「いつか結婚したい」と思っていたら、もう50歳、なんて人は少なくない。年齢が上がるほど結婚は難しくなるが、本気で挑めば結果は出せる! ということで“晩婚活”のプロや体験者にその秘訣を聞いた。 *  *  *  世の中は確実に非婚化が進んでいる。国勢調査などによると、50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合は、昔に比べれば格段に増えている。  とはいえ、自らの意思で非婚を選ぶ人がいる一方で、中年以降であっても結婚したいと望む人も少なくない。 「40代以上の会員は以前から多かったのですが、新型コロナの影響で『自粛時に家で一人のときに寂しさを感じた』という人が本気で結婚を考えるようになり、入会者が増えました」  そう話すのは、結婚相談所「最短結婚ナビ」を主宰し、『100日で結婚』の著書がある鎌田れいさん。  では、結婚希望者が増えれば結婚しやすくなるか、というとそういうわけではないようだ。男女ともに相手への条件があり、そう簡単に合致しないからだ。  例えば、男性は初婚だと子どもを望む人が多く、20~30代の女性を希望するが、女性からすれば自分より10~20歳年上となり、敬遠されやすい。 「男性側に経済力があっても、かなり年上でもいいという若い女性と成立するまでには相当な努力が必要です。また、子どもを作る行為は夫婦のコミュニケーションでもあります。夫は年を重ね、妻は女盛りになる。それでも妻を満たしてあげられるのか。そのことを男性会員に指摘すると『その点、僕は大丈夫』って。その根拠のない自信はどこから来るのか……」(鎌田さん)  女性は40歳を過ぎると自分に近い年齢や学歴、年収にこだわる人が多い。しかし、男性は自分より若い女性を希望する。  結婚相談所は、連盟組織と呼ばれる複数の相談所が加盟するネットワークによって会員情報を共有している。小規模の結婚相談所でも、共有する何万人もの会員とマッチングできるため、初めは条件が厳しくてもマッチング自体は可能なことが多く、1~2回なら希望するタイプの相手と会うことができるという。  しかし、実際に会ったときの第一印象や、一言二言話した感じで受け取るイメージで、「ちょっと違う」「無理っぽい」となり、交際にすら至らないケースも多いという。その場合は、相手への条件を見直さざるを得ない。  最近は、婚活アプリでの晩婚活も増えているが、登録情報が正しいとは限らないのが難点だ。既婚男性が独身として登録したり、年収を偽ったりする例などは多いという。 「婚活アプリを使う場合はリスクがあり、最後は自己責任です。年齢が高めの人は結婚相談所で仲人さんを活用するのがお勧めだと思っています」  そう話すのは、自らも再婚した経験があり、晩婚や結婚関連に詳しいライターの大宮冬洋さん。 「結婚相談所は高いお金を払いますが、その分、仲人さんに積極的に相談して自分のことを知ってもらい、アドバイスに従ってみるべきです。仲人さんは会員情報を把握しているから、『あの人が合いそう』と頭に浮かんでいるはず。相手を見つける段階の目利きはプロに任せたほうがいいです。また、交際後も相手が所属する相談所の仲人さんと連携して、交際のフォローもしてもらえるはずです」(大宮さん)  結婚相談所は入会金や月会費、成婚料など数十万円もの費用がかかるのが一般的だ。それには相応の理由がある。 「男女ともに独身証明書、短大卒以上なら卒業証明書などが必要です。男性は収入証明書がないと入会できないため、身元がしっかりしていて、結婚の意思がある人同士でマッチングできるのがメリットです。仲人さんがきめ細かくサポートしてくれるのも良い点です」(鎌田さん)  こうしてマッチングし、お茶や食事に行き、お互いがいいと思えば交際に進むことになる。  次は、いよいよ結婚に向けてのステージだが、ここからもそんな簡単な道のりではないという。 「婚活での結婚は、生活圏内で出会ってからの結婚より困難です。同じ会社やサークルでの出会いは、そこに行けばその人と自然にコミュニケーションが取れます。好きという気持ちが芽生え、気持ちが先導して結婚という流れになります。でも結婚を目的に男女が出会う婚活は違います。結婚というゴールは決まっているのに、付き合い始めた時点では気持ちは空白。この空白を埋める作業が必要で、そのためには生活圏で出会ってからの結婚以上に努力して相手とコミュニケーションを取っていくしかないんです」(同)  鎌田さんは、「この人がいい」という人が見つかったら、結婚というゴールまで短期決戦で集中的に行動するべきだと話す。鎌田さん自身、お見合いを繰り返して夫と出会い、2週間後にプロポーズを受けて結婚というスピード婚を実現した。 「『この人』と思う人に出会えたら、相手を深く知るために、毎日LINEでやり取りし、時間を捻出して週1回は会う。会話や相手の行動を通してお互いの価値観や考え方をすり合わせていきましょう」(同)  大宮さんも、短期決戦という戦略に同意する。 「仕事が忙しい、など言い訳せず、自分が決めた期間だけは婚活を優先すべき。恥を捨ててなりふり構わずするのもポイント。必死になっていると周りも手を差し伸べてくれますから」(大宮さん)  鎌田さんの結婚相談所に入会し、49歳で成婚に至った野村明伸さん(仮名)は、47歳まで恋愛経験がなかった。それでも今の妻と出会ってから100日以内にプロポーズし、結婚した。 「30代のころ、インドネシアに7年赴任していて、結婚は気にしていませんでした。でも、さすがに親に『いい加減に真剣に考えて』と言われて帰国。39歳である結婚相談所に入りましたが、そのときはうまくいきませんでした。僕のコミュニケーション力の不足が原因でした」  その後は婚活の情報を集めてやった気になる“脳内婚活”が続き、気づけば野村さんは48歳になっていた。そんなある日、スピーチセミナーに参加した野村さんは、鎌田さんに出会う。  短期決戦で結婚を目指す鎌田さんの方針に共感し、鎌田さんの相談所への入会を決意した。 「今まで時間を無駄にしてきた分、短期決戦だと結論も早く出せるので、自分にいいと思いました」(野村さん)  入会半年後、10歳年下の今の妻と出会う。彼女には先天性の進行性の難病があることがプロフィルに書かれており、野村さんはそのことも含めて深く理解したいと思った。彼女の友人も紹介してもらい、友人も含めていろいろと話をした。 「踏み込んだ行動だったかもしれませんが、短期間でお互いを知るために必要なことでした」  現在、結婚して6年目になる。 「人生経験を重ねた上でお互いを選び、一緒になっている分、より愛情が強く、深い付き合いができていると思います。若いころの好きと欲望がごっちゃになった恋愛も悪くないのですが、相手を人間として好きになれるのは晩婚の良さだと感じています」  野村さんは、親に言われたことが結婚に向き合う契機になったが、中年以上の独身の子どもを持つ親にできることはないのだろうか? 「基本的に口を出さないほうがいいです。親も年老いてくると、支えてくれる子どもを手元に置いておきたがる傾向にありますが、本当に子どもの結婚を望むなら、親も自立が必要。あと、親が結婚相談所の費用を出している男性は、ほぼほぼ結婚できません。自分の婚活なのに、いい年して親にお金を出してもらっていてうまくいくはずがありません」(鎌田さん)  野村さんは、婚活中に両親から口を出されたことはないが、親戚に見合いを勧められたときは困ったと振り返る。 「叔父に『せっかく見つけてやったんだから絶対に会え』と言われたのですが、全く合わなさそうだったのでお断りしようとしたらえらく怒られて大変でした」(野村さん)  一方、大宮さんは“使えるものは親でも使え”という考えだ。 「自分のことをよく知ってくれているのは親。最終的に決めるのが自分であれば、親のつながりを利用してもいいのでは。ただし、親は子どもが選んだ相手に対して、学歴や会社などに口を出すべきではありません。昔と今では、いい大学やいい会社は変わっています。自分の古い価値観を押し付けないようにしましょう」(大宮さん)  結婚したい、という気持ちさえあれば、年齢は関係ない。 「晩婚は老舗企業同士の対等合併のようなもの。若いころは自分中心で、相手のことを見ているようで見ていなかった。でも年齢を重ねると、相手には相手の考えや世界があることもわかる。だから、相手への理解も速いし、理解できないことへの理解もできます。そういうところは晩婚ならではの良さですね」(同)  鎌田さんは、結婚したくないならしなくてもいいと思っている。 「もし、してみたいと思う気持ちがあるなら、一度は挑戦してもいいのではないでしょうか。必要なのは容姿や条件、恋愛する時間ではなく、絶対に諦めないという心と、期限を決めてそこに自分のエネルギーと情熱を注げるかどうかなんです」 (ライター・吉川明子) ※週刊朝日  2021年7月16日号
「IOCは放送権料でぼったくり、無観客でもよかった」 菅政権との思惑のズレ
「IOCは放送権料でぼったくり、無観客でもよかった」 菅政権との思惑のズレ 橋本聖子氏(撮影・上田耕司)  東京五輪について1都3県は無観客と決めた、 IOC(国際オリンピック委員会)、IPC(国際パラリンピック委員会)、組織委員会、政府、東京都の「5者協議」。8日、東京都中央区の40階建てのガラス張りのビル・晴海トリトンスクエアで開催された。  その後に「関係自治体等連絡協議会」や「橋本聖子会長の記者会見」が予定されていたが、開始時間はどんどんとズレ込み、スタッフから「プレスルームで待っていてください」と言われ、記者らは1時間以上待つことに。すでに夜のとばりがどっぷりと下りていた。  午後11時ごろ、丸川珠代五輪相が協議会を終えて現れると、立ったまま、記者団の取材に応じた。マスクで表情が読み取れないものの、雰囲気は硬く、目線を伏せて、用意した原稿を読んだ。ほんの1週間前、都議選の応援時に元気に候補者とグータッチをしていた時とは雰囲気がガラッと変わっていた。  無観客となる異例の東京五輪。関係者らは入場できるが、丸川氏は次のように繰り返した。 「私からは大会運営関係者について真に必要な人数に限定することとし、より縮減を図るよう強くお願いをしました……具体的な数字等について何か議論があったというわけではありません」  午前0時前には、東京五輪・パラリンピック組織委員会の橋本聖子会長、武藤敏郎事務総長の会見が行われた。  会見前、側にいた人の手から「2020 東京五輪」と書かれた布がすべり落ちるのを見て、橋本氏は「落ちたよ」と教えてあげていた。まさに橋本氏は、すべり落ちそうな五輪をすくい上げる役回り。会見では決定事項を淡々と発表。表情には疲労がにじんでいた。 「橋本さんは、くたくたでしょう。橋本さんは今回に限らず会見では下を向いたまま話すことが多いが、作られた文書を読んでいるのではないか。自分の言葉で話していない印象です。それでは何か危機があった時、相手が納得できるように説明することができません」  このように指摘するのは、今回の東京五輪招致の際の東京都担当課長で、現在は国士舘大学客員教授の鈴木知幸氏だ。  大会直前に無観客開催に舵を切ったわけだが、鈴木氏は1年前から「無観客」が望ましいと主張してきた。 「政府は最初からフルに客を入れて開催しようとし、それがコロナ禍でやむを得ず80%、50%……と減らしていった。それが国民に非常に違和感を与えたんですよ」  鈴木氏によれば、政府のこの“減点方式”が間違いで、最初から「無観客」とし、感染状況に応じて客を増やしていく、“加算方式”にしていれば、これほどまでに国民から批判を浴びることはなかっただろうと言う。  鈴木氏によると実は、IOCは日本ほど、観客を入れることへはこだわっていないのだという。IOCが求めるポイントと日本側のポイントでは、当初からズレがあったと鈴木氏はみている。 「IOCは、感染予防とか観客の問題というのは日本側に投げているんですね。本音としては『観客のアリ、ナシはどうでもいい』のです。一番大事に思っているのは、放送権料と五輪という事業の持続性なのです。テレビ放送ができるならば、コロナ禍であろうが、緊急事態宣言中であろうが、どんな形であってもオリンピックをやってほしいわけですよ」  米ワシントン・ポストでは、バッハ会長は“ぼったくり男爵” と揶揄された。 「それはロサンジェルス大会(1984年)から、IOCは五輪での放映権料やスポンサー料をつり上げて、商業化したからです。あのころにうまみを知り、味をしめたIOCがいまだに同じカラクリでやっている。だから“ぼったくり男爵”と言われる」  IOCの財源を支える組織として、IOCの外郭機関「オリンピック放送機構」がある。 「放送機構を通じて、世界中の放送局が契約している。それがIOCの一番大きな財源ですから。無観客でいいわけです。五輪が開催されて放送権料が入れば」  東京五輪も、こうしたIOCの都合でまわっていく。放送権料が一番重要ならば、会場に観客の有無よりも、大事なのはより多くの人が視聴できる時間帯に競技があること。鈴木氏は欧米で人気の競技のスケジュールに着目する。 「アメリカやヨーロッパのゴールデンタイムに合わせた競技時間になっているんですね」  ハワイやアラスカを除くアメリカと日本の時差は13~16時間。ヨーロッパも日本と大きな時差がある。鈴木氏によると、決勝など目玉協議のハイライトは、欧米の時間帯に合わせて予定が組まれるという。 「バスケットボールは欧米で人気ですから、欧米の視聴者が見られる放送時間にしてくれとなるわけです」  パスケは埼玉県の「さいたまスーパーアリーナ」が舞台。埼玉県はまん延防止等重点措置の状況で、飲食店も時短営業を強いられているが、一番遅い試合は21時からだ。  アメリカでは、陸上と水泳も人気スポーツ。IOCの公式サイトの競技スケジュールでは陸上100メートル男子などは8月1日19時からとなっている。 「陸上の100メートルの決勝は午後10時近くなると思います。水泳の決勝は午前中に終わることが多い。日本の午後というのはアメリカの夜中ですから。アメリカの放送局は放映権料の契約をIOCと結ぶ時、条件として、これだけ払うからIOCに日程的なもの、時間的なものを配慮してくれということを要求しているんですよ」  対して、日本側はこれまで膨大な額を東京オリンピックに投資してきた。 「そうした投資や900億円の入場チケット代についても思いが残りすぎた。それどころじゃないとさんざん言ってきたんですけどね」  結局、完全な形での開催はかなわなくなったものの、組織委の意向が大きい観戦計画の一部は実施される見込み。橋本会長は会見で、茨城県では児童・生徒らによる学校単位での観戦「学校連携観戦」を実施するという。茨城県ではカシマスタジアムでサッカーが行われる予定だ。茨城県に問い合わせたところ、オリンピックパラリンピック課の担当者はこう話した。 「県と組織委員会とで協議した上の結論です。現在、小中高合わせて23校が参加、チケットの枚数は4007枚です。23校のうち18校が鹿島市内の公立の小中学校です。一般のお客さんが無観客になりましたので、学校の生徒だけとなります。バスで往復して、一般の方とはまじわらないで観戦できますから」  また冒頭の丸川氏の会見で語られた大会関係者の縮減だが、大会関係者とは、IOC、IF(国際協議団体)、NOC(各国五輪委員会)の幹部や放映権者ら。各国の政府要人夫妻も来るだろう  組織委の武藤会長はこう語った。 「彼らは観客ではない。この方々は入ることができる。大会関係者の方の中には客席で見られるという方もおられると思いますけど、バックオフィスで自分に与えられた職務を遂行する。じっとしているとは思えませんので移動されると思いますけど、人によって様々だろうと思います」   大会関係者の人数の見直しについては、「何人というターゲットを持っているわけではありません」(武藤氏)  競技場にはそうした関係者向けの“VIP席”もあるという。大会関係者のふるまいも注目されそうだ。(AERAdot.編集部・上田耕司)
生活保護が救うかもしれない眞子さまと小室さんの困難
生活保護が救うかもしれない眞子さまと小室さんの困難 婚約内定の会見を開いた眞子さまと小室圭さん(c)朝日新聞社 ■なぜ、小室圭さんは「親は無関係」と言い切れないのか  秋篠宮家の眞子さまと小室圭さんが結婚する可能性は、2017年に浮上した。同時に、小室さんの母・K代さんに関する数々の「疑惑」も表面化した。婚約は棚上げとなり、現在も膠着(こうちゃく)状態が続く。しかし、現在ニューヨーク留学中の小室さんは、7月、ニューヨーク州弁護士試験を受験する。合格すれば、事態が動き始めそうだ。  いずれにしても、結婚は当事者二人の問題である。しかし、K代さんの存在は、やはり気にかかる。一言で言えば、「息子さんの結婚を通じて、K代さんに公費や皇室費が流れ込む」ということに関する違和感だ。眞子さまは皇族であり、生育や教育に関わる費用は公費から支出されてきた。小室さんと結婚すれば皇族ではなくなるけれども、新生活の開始にあたっては多額の皇室費が使用されることになる。  一般的には、「公金で私財を形成してはならない」と考えられている。この観点から、生活保護の家賃補助で持ち家の住宅ローンを返済することは認められない。また障害者福祉においても、同じ理由で「通学・通勤・営業には使用できない」という原則が貫かれているため、重度障害者の職場でのトイレ介助は職場の責任で行わなくてはならない。近年、就労促進の観点から緩和する動きもあるが、この原則は現在も存在する。生活保護や障害者福祉のこのような現状を考えると、皇族と結婚する息子を通じてK代さんに間接的に公金が注入されることには、やはり違和感がある。  外野の大人としては、二人に「あなた方の人生なんだから、幸せになれるようにベストを尽くしてくださいね」というエールを気持ち良く送りたい。そのためには、名実ともに「小室さんとK代さんは別」と言える状況が必要だろう。 ■小室さんと新しい家族は親を扶養しなくても構わない  そもそも小室さんに、母・K代さんを扶養する必要はない。扶養義務はあるけれども、「可能な範囲で扶養することが望ましい」という弱い扶養義務だ。未成熟の子に対する親、あるいは夫妻間に課せられる「なんとしても」という強い扶養義務ではない。もちろん、同居したり家計を同じくしたりする必要はない。現在の日本の民法は、そのように定めている。名実ともに「親は親、子は子」と言い切れる状況が続くのなら、日本の人々の多くは「まあ、いいか」と納得し、気持ち良く二人の幸せを願えるだろう。  問題は、これから高齢期に向かうK代さんの生活だ。現在のところ、K代さんは自らの生活を遺族年金と就労によって支えているのだが、その生活はいつまでも可能とは限らない。高齢期になれば、突然の病気で多額の支出を余儀なくされることもある。介護を受ける必要も発生するかもしれない。しかし日本には、人生に起こりうるあらゆるリスクをカバーする生活保護という、優れたシステムが存在する。年老いた親の生活を生活保護に委ね、子世代が親と円満な関係を維持して交流を続けることは、非難されるべき選択肢ではないはずだ。  さらに、「K代さんを扶養する義務は、小室さん個人や配偶者ではなく、日本社会にある」という見方も成り立つ。K代さんの経済状況の背景は、日本のジェンダー問題そのものでもあるからだ。 ■K代さんの歩みは日本のジェンダー問題そのもの  K代さんは1966年生まれで今年55歳、学歴は短大卒だ。高校を卒業したと考えられる1984年当時、女子の短大への進学は、あらゆる意味で、4年制大学への進学よりも歓迎されていた。1984年の大学進学率は35.6%、女子の進学率は12.7%だった。しかし短大に限ると、女子の進学率は20.1%に達していた。女子に関して言えば、高校卒業後の進学の選択肢は、「4大」こと4年制大学ではなく、まず短大だったのだ。  2年制の短大は、4年制大学に比べて在学期間が短く、学費も“安上がり”だ。在学期間が短いということは、“早く就職して、給料で家計や弟妹の学費を助けてくれる”という可能性も意味する。職場での出会いを通じて、20代前半で結婚することも期待できる。これらのメリットが、「女子に教育は必要ない」と考える親たちを「短大なら」と納得させていた。ちなみに、男女雇用機会均等法が制定されたのは、1985年である。  K代さんは短大卒業後、横浜市役所職員の男性と結婚して専業主婦となり、男児に恵まれた。まさに、当時の社会や多くの家庭が期待する進路を歩んでいたわけである。しかし、一人息子の小室さんが小学生の時に夫が他界し、シングルマザーとなった。  小室さんは、私立小学校からインターナショナルスクールの中高へ進み、さらに私立大学に進学して眞子さまと出会い、在学中に海外留学もした。当然、多額の学費が必要だったはずである。その学費は、盛んに取り沙汰されるK代さんの金銭トラブルの背景となっている。  K代さん自身には、自らの職業能力によって高い収入を得て経済的に自立する選択肢があったかもしれない。しかし、2000年前後の日本の雇用市場に、職歴も資格もスキルもない30代のシングルマザーを歓迎する雰囲気は、皆無に近かった。そもそも、K代さんと同世代の女性のほとんどは、幼少期や青年期を通じて、「自らの努力によって能力を高めて成果を獲得する」という機会を与えられてきていない。筆者は、K代さんの人生を全面的に支持しているわけではないが、同世代の女性として、「なぜ、そうなるのか」を理解することはできる。  語弊を恐れずに言えば、K代さんは「隠れ貧困女性」として人生を送ってきた。十分な収入のある親や夫に扶養されている限り、外見的には「貧困」ではない。夫が他界した後は、遺族年金によって生活が底上げされている。しかしながら、「自分で獲得した」といえる収入や資産が少ないという意味において、K代さんは「隠れ貧困女性」なのである。K代さんの幼少期、選択の余地なく与えられてきた社会環境や教育は、女性をそのような立場に留め置くものであった。扇情的に伝えられるK代さんのディテールにあえて目をつぶると、「有利な結婚、そして幸せな専業主婦としての生活」というレールの上に乗り続けていたはずなのに、中途でレールが消えてしまい、状況に翻弄されながら何とか息子を育て上げて生き抜こうとしてきた50代女性の姿が浮かび上がってくる。  いずれにしても、K代さんが高齢期とともに「隠れ貧困女性」から「貧困女性」へと移行するのは、誰かに扶養されない限りは時間の問題だ。しかし、日本には生活保護がある。皇室と縁ある人々が生活保護で暮らしてきた実績もある。 ■「私は本当に幸せ」生活保護で暮らした元華族女性も  明治憲法においては、元首である天皇が国を統治するものとされた。天皇とその血縁者である皇族、そして皇族を守り支える華族には、特別な身分に対応する特権の数々が保障された。とはいえ、経済的基盤は脆弱(ぜいじゃく)だったため、明治期から大正期にかけては財閥の華族化が盛んに行われた。皇族・華族には財閥の経済力が流れ込み、財閥は爵位という名誉を得るという「Win-Win」だったわけである。  しかし大正期から、華族の経済的基盤はさらに脆弱化していく。関東大震災や日中戦争や太平洋戦争は、華族をより貧しくすることはあっても、豊かにすることはなかった。財閥華族のみが例外である。最終的には1945年、敗戦とともに華族制度が廃止された。残っていた資産の多くは、高額の「財産税」によって失われることになった。同時に、皇族の“人員削減”も行われた。  読売新聞の記事データベースには、戦後、代々の家屋敷を手放さなくてはならない元華族、人生初の職業生活や事業経営に挑む元華族や元皇族の姿がある。売り上げの横領や詐欺(1949年)、窃盗(1951年)などの容疑者としても、元華族の姿がある。出来事とともに記されているのは、「事業を始めたが成功しなかった」「貧困から家庭が不和に」「家族が重病にかかり治療費がない」「暮らしていけない」といった背景の数々だ。生活保護には、そういう場面を支える役割も期待されていた。  実際に、生活保護で暮らした元華族もいた。「昭和」が終了して約2週間後の1989年1月22日、足立区のアパートの一室で亡くなった松浦董子さん(当時80歳)は、その1人である。松浦さんは華族の家庭に育ち、昭和天皇の妻である香淳皇后の兄と結婚したが、結婚生活の不幸や病気が重なって離婚。働きながら単身生活を続け、高齢期は生活保護で暮らしていた。しかし松浦さんは、簡素な暮らしの中でも人柄や立ち居振る舞いで尊敬を集め、交友が絶えることはなかった。女子学習院の同窓会にも毎年参加し、経済状況の全く異なる元同級生たちと楽しい時間を過ごしていた。「私は本当に幸せです」が口癖だった松浦さんの葬儀には、元同級生たちも参列したという。もっとも、松浦さんが生活保護で暮らしていた当時、高齢者の保護費には高齢者特有の社会生活を考慮した「老齢加算」があり、社会とのつながりを維持しながら心身とも健康な生活を送ることは、現在よりも容易だった。  皇族の姻戚であっても生活に困窮し、生活保護で暮らした事例は、実際にある。その生活は、不幸とは限らない。眞子さまと小室さんの今後に、若干の危惧が混じった関心を向ける外野の大人たちは、まず、生活保護があらゆる人に幸せな毎日を保障する制度であり続けることを願うべきであろう。生活保護がそのような制度であり続ける限り、大人たちは、若い人々に「親は親、あなたはあなたで幸せになって」と心から言えるはずだ。 (フリーランス・ライター みわよしこ)
「サラリーマン人生見えた」50代から奮起 63歳元新聞記者の司法試験合格記
「サラリーマン人生見えた」50代から奮起 63歳元新聞記者の司法試験合格記 母校の日本大学法科大学院の前に立つ上治信悟さん(本人提供) 勉強を始めて最初に買った小六法。何度も条文を読み、書き込みをして意味を理解していった 自室にて(本人提供)  この春から司法修習生となり、弁護士を目指している上治信悟さん(63)は長く事件取材に携わり、海外特派員も経験した元朝日新聞記者。50代で一から法律を学び、9年かけ、4回目の挑戦で昨年の司法試験に合格した。だがキャリアチェンジの道のりは甘くはなかった。合格までの苦闘と、これからへの思いをつづってもらった。  私は朝日新聞社で主に編集畑を歩いてきた。その私が2010年に全く畑違いの知的財産部門のマネジャー(部長)になった。異動を告げられた時、編集に戻る希望が砕かれ、がっくりきた。  不安を和らげるためか「部下は優秀だから、ハンコだけ押していればいい」と言ってくれる上役もいた。しかし、ハンコだけの仕事はつまらない。そこで、著作権の勉強を始め、知的財産管理技能士などの資格を取った。  実際、仕事はハンコだけではなかった。最も時間とエネルギーを費やしたのは渉外である。日本新聞協会新聞著作権小委員会の委員長や幹事として、著作権法改正について他の著作権団体と連携し、文化庁に意見書を出したり、国会議員に働きかけたりした。日本音楽著作権協会(JASRAC)との使用料金交渉は3年かかった。  交渉し、説得するのは新聞記者のころからやってきた。のめり込むうちに面白くなった。ちょうどそのころ、50歳代半ばになり、サラリーマン人生の先が見えてきた。まだまだ働くつもりだったが、当時の定年は60歳。「このまま終わりたくない」と考えていた時、著作権に出会った。そして、「司法試験に合格して知的財産法やジャーナリズムに詳しい弁護士になり、定年後も仕事を続けよう」と決意し、12年、渋谷にある資格試験の予備校「伊藤塾」に夜間通い始めた。  司法試験の受験資格を得るには二つのルートがある。法科大学院を修了するか、予備試験に合格するかである。いずれかの条件を満たせば5年間に5回、受験することができる。私は最初「近道ルート」と呼ばれる予備試験突破を目指した。  ところが、予備試験は1万人以上が受験し、合格者は400人台にすぎない。しかも、合格者の多くは優秀で頭の回転も早い現役の大学生や大学院生である。くたびれた中年の私はかなわない。13、14年と予備試験の短答試験に落ち、論文試験に進めなかった私は、法科大学院ルートに変更し、通えるところを探した。  その時、神保町にある日本大学法科大学院が15年度から夜間にも開講することを知った。受験したところ既修者コース(2年制)に合格したので、上司の許しを得て通うことにした。57歳で約35年ぶりに通学定期を買い、バックパックを背負って通学を始めた。  入学時、私の同級生は未修者コース(3年制)からの進級なども含めて26人いた。フルタイムの社会人は私を入れて5人。男性が4人、女性が1人である。  教員は元裁判官が多く、東京高等裁判所の裁判長や最高裁判所の調査官を務めた大物が並ぶ。学者も含めて先生方は熱心で、丁寧に教えてくださった。当然というべきか、課題が出ることが多く、予習、復習を含めてこなすのが大変だった。土曜日は授業が終わった後、夜遅くまで大学院に残り、レポートを作成した。日曜日は朝から夜まで勉強しないと追いつかなかった。時間に追われる毎日で、社会人はもちろん、子どものような同級生とも強いつながりができた。  17年3月、無事修了した。成績が一番だったので総代として証書を受けとった(すみません。ここ、自慢させてください)。めでたく法務博士になった。あとは合格するだけだった。しかし、司法試験は甘くなかった。  ここで、司法試験について少々説明する。司法試験は例年5月の連休明けに4日間行われる。第1日が選択科目(私は知的財産法)、憲法、行政法、第2日が民法、会社法(商法も一応出題範囲)、民事訴訟法、1日の休みを挟んで第3日が刑法、刑事訴訟法で、ここまでが論文である。第4日は短答の憲法、民法、刑法である。論文の試験時間は選択科目が3時間、他の科目は各2時間で、1枚23行の横書き8枚綴りの用紙に手書きで書く。短答では、受験者の3、4分の1程度を足切りする。4日間合計で19時間55分のマラソン試験である。  最終合格発表は例年9月で近年は約1500人が合格する。2020年の試験は3703人が受験し、1450人が最終合格した。論文試験はすべて長文の事例問題である。たとえば、2020年の憲法の問題を簡単に説明するとこうである。  生活路線バスを守り、一方で一部の観光地などの交通渋滞に対処するため (1)儲かる高速路線バスの運行は、生活路線バスを運行する事業者のみ認める。生活路線バスへの新規参入は、既存の生活路線バスを運行する事業者の経営の安定を害さない場合に限り認める (2)特定渋滞地域において特定時間、域外からの自家用車の乗り入れを原則禁止する、という立法が検討されている。  法律家として(1)(2)の規制の憲法適合性について論じなさい。  憲法の教科書を見ても同じ事例は載っていない。憲法が保障するどんな権利に対する制約かを条文を含めて指摘し、規制の内容や関連する判例を踏まえて違憲か合憲かの判断基準を立て、基準に問題文の事実をあてはめて違憲、合憲の結論を出す。結論はどちらでもいい。論述の説得度に応じて点差が開く。ちなみに、私は規制(1)は憲法22条1項の職業選択の自由、規制(2)は同項の居住、移転の自由に含まれる移動の自由がそれぞれ問題となると考える。  私の試験に話を戻す。17年の順位は3100番台後半で、まったく合格に届かなかった。18年は前進し1900番台前半になった。しかし、「今度こそ」と意気込んで臨んだ19年は2400番近くに下がってしまった。  19年は緊張のため選択科目でボールペンを持つ手が震えた。試験期間中はベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。たいした力もないのにこんな精神状態では受かるはずがなかった。当然の不合格である。  3回連続して不合格になると「次もだめでは」と自分自身に「推定不合格」の烙印(らくいん)を押してしまう。その上、大改正となった民法が20年から試験問題に出るため、勉強をし直さなければならなかった。追い込まれた。  そんなとき、通っていた資格試験の予備校「LEC」で講師に「受験までに論文を200本書いた人で落ちた人は知らない」と言われた。この言葉にすがって、とにかく過去問を起案することにした。軸が細いボールペンでは手が痛くなるので太い万年筆に変えた。  19年9月、鹿児島市の母が脳梗塞で倒れた。見舞いに行った病院でも面会室で論文を書いた。19年11月4日、母が亡くなった。棺のそばでも勉強を続けた。人でなしである。  20年、新型コロナウイルスのため試験日が8月に延期になった。真夏に汗だくになり、冷却シートを貼りマウスシールドをして五反田の会場で試験を受けた。帰宅すると体重が1キロ減っていた。何を食べてもおいしくない5日間が過ぎ、やっと試験が終わった。  19年よりもできたという実感はあった。しかし、推定不合格者として、21年5月のラストチャンス、5回目に向けてフルスロットルで勉強を続けた。司法試験の受験生なら当たり前だがクリスマスも正月もない。  そして、21年1月20日の合格発表日。半休を取りLECで授業を受けていた。休み時間にスマホで合格発表を見て、自分の受験番号を見つけた。しかし、本当に合格したのかと疑った。  徒歩30秒の距離にあり、受験番号を届けていた日大法科大学院の事務室に駆け込むと「おめでとうございます」と言われた。刑事訴訟法の先生で、同大学院に派遣されている年下の検察官が感激した面持ちで「ずっと勉強を続けてこられましたね」と称えてくれた。この先生が徹底的に答案を批評してくれたことを思い出し、ぐっときた。  合格まで9年かかった。こんなに時間がかかるとわかっていたら勉強を始めていなかっただろう。不合格が続くうち、かけた時間とエネルギーを考えて止めるに止められなくなった。いわば「司法試験ジャンキー」である。やっと抜け出すことができた。  上司、同僚は勉強を快く応援してくれた。さりげない配慮や明示、黙示の応援は本当にありがたかった。  家族は司法試験のことをほとんど話題にしなかった。妻は「あんたは死ぬまで勉強を続けてろ」とほざいた。「頑張ってね」と言われたり、お守りを渡されたりするよりもこんな励まし方が私には合っている。  私は定年後にシニア雇用として働いていた朝日新聞社を退職し、3月31日に司法修習生になった。修習期間は1年間で、東京地方検察庁での修習を終え、東京地方裁判所民事部での修習を始めたところだ。検察庁の修習では、実際の事件を担当し、被疑者を調べ、起訴状を起案した。私の子どもと同世代の指導検事から愛情あるダメ出しを受けてばかりいたが、事件記者という第三者だった私が捜査の当事者になることができ、得難い経験だった。  裁判所や弁護士事務所などでの修習を経て、終わりにある試験に合格すれば、22年春に弁護士になる予定だ。この試験ではごく少数だが落第する。ここまできて落第しては目も当てられない。せいぜいさぼらないようにしたい。  合格発表から約半月後、用事の帰りにお礼を言うため、渋谷の伊藤塾を訪ねた。塾長の姿が見えた瞬間、涙があふれ「ありがとうございます。ありがとうございます」とお辞儀を繰り返した。  帰路、不思議でたまらなかった。確かに、塾長は法学部出身ではない私に法律の手ほどきをしてくれた恩人である。しかし、長年言葉を交わしたことはなかったし、恩人はほかにもたくさんいる。それなのになぜ泣いてしまったのか、と。  翌日、風呂に入っていた時「あっ、そうだったのか」と思いついた。塾長を見た瞬間、私は勉強を始めた9年前の私を思い出していたのだ。合格の見通しもないのに「このまま終わりたくない」という気持ちだけで受験を決意した私である。その決意がなければ、合格はなかった。私は9年前の自分に「ありがとう」と言っていたのだ。そう気づいたとき、9年分の満足感が体中に広がった。 うえじ・しんご 1957年生まれ。80年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、朝日新聞社に入社。社会部でロサンゼルス保険金殺人事件(無罪が確定)、連続幼女誘拐殺人事件、自民党元副総裁脱税事件などを取材した後、ニューヨーク支局員として96年の米大統領選を取材するなど、編集部門で約25年間勤務した。販売局を経て2010年に知財部門に異動し、著作権の仕事に携わった。定年後、朝日新聞ジャーナリスト学校で社員を講師に派遣する事務を担った。 ※週刊朝日  2021年7月9日号に加筆

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