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GMO FHD石村社長「信託銀行から大工に弟子入り」 知り合いからも金を借りた8500万円の“買い物”
GMO FHD石村社長「信託銀行から大工に弟子入り」 知り合いからも金を借りた8500万円の“買い物” GMOフィナンシャルホールディングス 代表執行役社長の石村富隆さん(撮影/写真部・加藤夏子)  社長に今日の食事と財布の中身を尋ねる「社長のカネとメシ」、第5回はGMOフィナンシャルホールディングスの石村富隆社長。GMOクリック証券、FXプライム by GMO、GMOコインなどGMOインターネットグループ金融部門のトップだ。「カネとメシ」の話から、臨機応変を地でいくような半生とスピード感のある経営スタイルが浮かび上がった。 *  *  *   GMOインターネットグループが拠点を置く東京・渋谷のオフィスを訪れると、社長の石村さんはトレーナーとジーンズ姿で出迎えてくれた。インタビューの最後に判明したが、このときすでに社長は昼食を携えていた。  石村さんの社会人のはじまりは東洋信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)から。入行は1997年4月、就職氷河期のどん底だった。  初任は渋谷支店。社長として指揮を執る現在の職場までわずか数百メートルの距離だ。それから四半世紀の間、石村さんは何度もやってくる転機をクリアしてきた。 「最初は支店の窓口業務、2年目から法人担当でした。港区や渋谷区などのオフィス街を朝から晩まで回遊魚のように歩き回って、新規顧客を開拓していましたね」  銀行員としてのキャリアを順調に歩んでいるように見えたが、石村さんは退職してしまう。 「従業員5人くらいの工務店で大工さんに弟子入りしました。大学時代、阪神・淡路大震災で瓦礫(がれき)の山になった神戸市で、住み込みの大工仕事をした経験があります。 取材日の「お弁当ポーチ」に入っていたのは、自分で握った「ゆかり」のおにぎり、プロテインバー、なぜか柿の種。これで足りなければ社内に大量ストックされているカップ麺を食べるそう(撮影/写真部・加藤夏子)  銀行員になったのも、当時、弟子入りを志願した親方に『大工の仕事はいつでもできるから、世界を見てこい』と言われたからです」  生涯2回目の職人生活は3年ほど続き、建築の仕事を通じて不動産業界ともつながりができた。ちょうどその頃は、土地やビルの権利、賃貸収入を証券化する不動産ファンドの草創期にあたる。ここで証券化商品を扱っていた信託銀行での経験が生きた。 「懇意の業者が不動産投資を手がけることになり、投資家探しを頼まれたんです。そこでお願いしに行ったのがライブドア(当時の社名はオン・ザ・エッジ)」 財布と呼べるものはイタリアの良質な革小物ブランド「イル ビゾンテ」のカードケースのみ。ザ・キャッシュレスなのに、紙製の「餃子の王将」のスタンプカードが一番手前に入っていた(撮影/写真部・加藤夏子)  ライブドアは銀行員時代に担当した取引先のうちの一つだった。 「株式上場のお手伝いをした縁もあり、旧知の経営陣に不動産投資を提案しました。投資は断られましたが、代わりに入社しないかと誘われて(笑)。  そのときは『嫌です』と断りましたが、半年経って再びライブドアから電話がありました。『不動産投資は失敗だっただろうから、こっちに来ないか』と。今度はOKしました」  石村さんは銀行員から大工へ転職したあとも、ライブドアとは不思議な縁があった。 「FX(外国為替証拠金取引)の新事業をやるから宣伝してくれと頼まれ、東京からチラシが送られてきたことも。ボランティアですよ、なんなんでしょうね(笑)」  大方の人は断りそうだが、石村さんは近隣のマンションにポスティングして歩いたという。  大工からライブドアに転職し、FXを担当した。図らずも自らチラシをまいていた新事業。当時、金融部門で5人目の社員だった。 「FXは当初のシステム開発に失敗し、仕切り直しになりました。それに伴い、システム開発会社のある中国行きを命じられ、2年ほど滞在していました」  ここで、またも事態が急変。粉飾決算の疑いで2006年1月に東京地検が強制捜査に乗り出したのを機に、ライブドアの株主がプライベート・エクイティ・ファンドに変わったのである。それによりFX事業の撤退が決まり、どこかに売却することになった。 「ここでFX事業の売り手探しをしてくれと言われました。でも、買い手は簡単に見つからなかった。そこで発想を変えて、自分で買い取ることにしました。8500万円の買い物です」  発想を変えて、って。軽やかに語るが、その値段……。 「自己資金2000万円では足りず、知り合いからもお金を借りました。当時30代半ば。結婚直後だったので妻は驚いていました」  妻でなくとも、驚く。こうして石村さんはFX会社のトップとなった。米国系金融大手OANDAの出資を得て、OANDA日本法人の社長という肩書だった。そこでまたもや転機が待ち構える。 石村社長をインタビューした会議室に置いてあった招き猫たち(撮影/写真部・加藤夏子) 「GMOインターネットグループ金融部門の立ち上げメンバーの高島秀行さん(現GMOフィナンシャルホールディングス会長)とごはんを食べていたら『英国でリテール(個人向け事業)をはじめるにあたり、人材を探している』と。 『僕にやらせてください』と手を挙げ、英国の『GMO CLICK UK LIMITED(現GMO-Z.com Trade UK Limited)』のCEO(最高経営責任者)になりました。また会社を辞めると聞いて、妻は驚きを通り越し、あきれていました」  GMOフィナンシャルホールディングスの金融サービスはどう進化していくのか。現在、取り扱っている金融サービスは株式やFX、CFD(差金決済取引)、暗号資産など幅広い。低コストで使いやすいだけでなく、デジタルデータ「NFT」などの新分野もいち早く取り入れる。 「ネット証券の登場から約20年が経って、金融商品の幅も広がりました。どの金融商品を売買するにしても、コストは気になりますよね。どこよりも安く便利なものを提供していきたい」  財布とその中身を見せてくれるようお願いしたら、石村さんはカード入れを机の上に置いた。そこには運転免許証やクレジットカードなどが数枚。次に「財布はこっちです」と言いながらスマホを取り出した。現金は1円も持たない完全キャッシュレス生活だ。 「現金が必要な店には行きません。私たちは金融の会社なので、キャッシュレスの不便なところやいいところを見ていくと、ビジネスに役立つのではないかと思って」  日々の生活も実証実験ということか。カード入れの中には、チェーン店の「餃子(ぎょうざ)の王将」の会員カードもあった。庶民派の「演出」ではなく、会社近くの店舗にしょっちゅう足を運ぶという。  ところで今日の昼食は? 腰に付けた黒いポーチからゆかり(赤しそ)のおにぎりを1個取り出した。炊飯器の米を自分で握って、ラップに包んできたそうだ。 「前日のおかずが余っていたら、ジップロックに入れて持ってきます。柿の種は、小腹がすいたら手を汚さずにすぐ食べられていい。プロテインバーは、おやつ」  昼食に時間をかけるより、仕事に全エネルギーを投入したいのだとお見受けした。 ◎石村富隆(いしむら・とみたか)/GMOフィナンシャルホールディングス代表執行役社長。1973年、奈良県出身。大学卒業後、1997年4月に東洋信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)入行。2003年8月、ライブドア(現NHN テコラス)に転職。2007年2月、当時ライブドア傘下のかざかフィナンシャルグループに転籍。2010年10月、My外貨(現OANDA証券)代表取締役。2013年4月、GMOCLICK UK LIMITED(現GMO-Z.com Trade UK Limited)取締役CEO。2017年12月、GMOコイン取締役社長。2018年1月、GMOコイン代表取締役社長(現任)。2018年5月GMO-Z.COM COIN CANADA,INC. 取締役(現任)。2022年1月、GMOフィナンシャルホールディングス代表執行役社長COO。2022年3月、GMOフィナンシャルホールディングス取締役兼代表執行役社長COO、GMOインターネットグループ執行役員(現任) (文/大場宏明、編集/中島晶子) ※『AERA Money 2022夏号』から抜粋
75歳まで我慢すれば84%増になるが…お金のプロがあえて「66歳から年金受給」をオススメする理由
75歳まで我慢すれば84%増になるが…お金のプロがあえて「66歳から年金受給」をオススメする理由 ※写真はイメージです (GettyImages) 1カ月繰り上げで0.4%減、1カ月繰り下げで0.7%増  2022年度の年金改正は、75歳まで年金の受給開始を繰り下げられるようになったことから、最大84%も年金が増やせることに注目が集まっています。しかし、暮らし向きや働き方、健康状態などは一人ひとり異なります。今回の改正で本当に注目すべきは、公的年金が、私たちの老後の暮らしを自分仕様にデザインするための、自在なツールになったということです。  公的年金の支給開始年齢は原則65歳です。ただし、これはあくまでも原則で、希望をすれば早めに受け取る(繰り上げる)ことも遅く受け取る(繰り下げる)ことも可能です。昨年度まで70歳が限度だった繰り下げ受給が、今年4月から75歳まで認められるようになりました。これによって、年金の受給開始時期は60歳から75歳の間で自由に選べるようになりました。まず、繰り上げ・繰り下げの効果を見ていきましょう。  受給開始を1カ月繰り上げるごとに年金額は0.4%減らされ、1カ月繰り下げるごとに0.7%増えます。60歳で受け取り始めると、本来の年金額より24%(0.4%×12カ月×5年)減らされ、75歳で受け取り始めると84%(0.7%×12カ月×10年)の増額となります(図表1)。 「75歳で受給開始して86歳以降も生きる」が一番お得だが  本来の年金額を「100」と仮定してシミュレーションした損益分岐点は、60歳受け取り開始が80歳、70歳開始が81歳、75歳開始が86歳です(図表2)。  受取総額の最大化だけを考えれば、75歳で年金を受け取り始め、86歳以降も生き続けることが最大のお得となります。逆に言えば、受け取り始めてすぐに亡くなってしまうとか、繰り下げ待機中に亡くなってしまうリスクと隣り合わせです。 寿命が分からないのに無理な繰り下げはリスク大  日本人の平均寿命は、男性81.41歳・女性87.45歳ですが、平均と言われてもピンとこないかもしれません。60歳以降の各年齢での死亡者数を確認してみましょう(図表3)。男性は83歳から87歳あたりが、女性は90歳前後がピークとなっています。  ちなみに、繰り下げ待機をしている人が亡くなった場合、遺族は未支給年金を受け取ることができますが、増額した年金額ではなく、本来の年金額が受け取れるのみです。しかも、時効5年の範囲内での受給となりますので、70歳到達以降に亡くなった場合、時効によって消滅してしまう年金が発生します。また、遺族厚生年金は、繰り下げ前の本来の年金額に基づいて支給されます(遺族厚生年金については後述)。  最大のお得を取りに行こうと思っても、寿命は誰にもわかりません。75歳まで年金なしで暮らせるゆとりのある人ばかりではありません。無理に繰り下げをして貯蓄を取り崩したのでは、老後の暮らしを不安定にしてしまいます。  損得で判断したり誰かと比較するのではなく、年金というツールを最大限に活用して、自分の望む暮らしを作り上げていくという発想に転換したほうが建設的ではないでしょうか。そのためにも、年金生活が近づいてきたときに、できるだけ多くの選択肢を手にしておくことが大切です。そこで提案したいのが、「65歳までは働き切る」戦略です。 60~64歳の半数は半分以下の収入で働いている 「な~んだ。そんなこと」と思うかもしれませんが、これは案外簡単なことではありません。自覚的に戦略をもって「65歳まで働き切る」ことのススメです。  高年齢者雇用安定法(高年齢者等の雇用の安定等に関する法律)は、65歳までの雇用確保を事業者に義務付けています。2025年3月31日までは年齢により対象者を限定できる経過措置が設けられていますが、同年4月以降は希望者全員に対する継続雇用が義務化されます。  しかし、「定年は60歳」という企業がほとんどで、60歳以降は再雇用制度等で対応しているのが実態です。現在、60歳から64歳までの就業率は、男性82.7%・女性60.6%です(※1)が、定年前と同種の仕事に就いている人のうち、同水準の賃金を得ている人は15.5%、5割以下に低下した人は48.7%に上ります(※2)。賃金低下を補填(ほてん)するための高年齢雇用継続給付がありますが、2025年4月以降生まれの人は給付率が縮小され、いずれは廃止される方向です。  60歳到達時点での体力や健康状態、職種、賃金、家族の状況、資産状況など、一人ひとり前提条件は異なります。その時に備えて、どのような選択肢があるのかを知っておくことは、今から60歳までにやっておくべきことを知ることにもつながります。 ※1 総務省「働力調査(基本集計)2021年(令和3年)平均」より※2 経済産業研究所「定年後の雇用パターンとその評価―継続雇用者に注目して」(2019年1月) 繰り上げ受給でも年金額を増やす方法  日本人の平均寿命が男性81.41歳・女性87.45歳といいましたが、健康寿命でみると男性72.68歳・女性75.38歳と、一気に短くなってしまいます(※3)。健康寿命とは、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間のことです。  このことを念頭に置くと、多少減額をされたとしても、元気に活動できるうちに使えて、80歳までは逆転されない60歳繰り上げ受給も、十分選択肢になってくると思います。  とはいえ、繰り上げ受給は老齢厚生年金と老齢基礎年金をセットで行わなければならず、繰り上げの手続きをすると減額率は一生変わりません。「平均寿命を大きく超えて長生きしてしまったらどうしよう」と心配になります。しかし、減額率は一生変わらなくても、年金額を増やすことはできます。 「65歳までは働き切る」戦略で、たとえ収入が下がっても、厚生年金に加入して働き続けることによって、年金額は少しずつ増えていきます。しかも、厚生年金保険料も健康保険料も会社が半分負担してくれるのですから、それを手離してはいけません。  配偶者が社会保険の被扶養者になっている場合はなおさらです。しかも、配偶者が年下の場合、それまで第3号被保険者として負担しなくてもよかった国民年金の保険料を、60歳まで払わなくてはならなくなります。  もし、「体力的にあまり無理できない」とか、「他にやりたいことがある」という場合でも、厚生年金の適用拡大が段階的に進んでいますから、週20時間以上働くことで厚生年金に加入し続けられる可能性は高いです(※4)。 ※3 厚生労働省が2021年12月20日開催の「第16回健康日本21(第二次)推進専門委員会」において発表した『資料「健康寿命の令和元年値について」』より※4 労働時間が週20時間以上等の所定要件に該当すれば厚生年金の適用となる。2022年現在は従業員501人以上だが、2022年10月から従業員101人以上、2024年10月から従業員51人以上になる予定。 60歳以降もフルで働きたい人に朗報  反対に、「老後資金が不足気味なのでまだまだフルで働きたい」と思っている人にとっても、改正によって在職老齢年金の支給停止となる水準が緩和されたのは朗報です。  在職老齢年金とは、60歳以降、厚生年金被保険者として働きながら受け取る老齢厚生年金のことです。在職老齢年金を受け取ると、年金額と月給・賞与に応じて年金額は減額され、場合によっては全額支給停止になります。昨年度まで、60歳代前半は年金と給与の合計額が月額28万円を超えると、超えた額の2分の1が年金からカットされました。しかし今年4月から、月額47万円まで全額支給されることになりました(図表4)。  調整されるのは老齢厚生年金だけで、老齢基礎年金は全額受け取ることができます。60歳以降の賃金が下がることを考えれば、支給停止にならずに全額受け取れる可能性が高いのではないでしょうか。 繰り上げ受給は働き続けることとセット  繰り上げは1カ月単位でできますので、60歳から受け取るか65歳から受け取るかの二者択一ではなく、実際に60歳以降の暮らしを始めてみて、様子を見ながら、いつから受け取りを開始するか、柔軟に対応してもよいと思います。  繰り上げ受給のデメリットとしてよく言われるのが、ケガや病気で重い障害を負っても障害年金が受け取れないことです。しかし、厚生年金被保険者として働いていれば、障害年金を請求することは可能です(※5)。繰り上げ受給は働き続けることとセットだと思ってください。  また、繰り上げ受給をしている人が亡くなった場合、遺族に支給される遺族厚生年金は減額された年金額を基に計算されるのではなく、本来の年金額を基に計算されます。  遺族厚生年金とは、「厚生年金の被保険者である間に死亡したとき」などの要件に該当すれば、配偶者などに支給されるものです。支給額は死亡した人の老齢厚生年金の報酬比例部分の4分の3です。つまり、繰り上げにより減額された年金額ではなく、本来の年金額の4分の3が遺族に対して支給されるのです。  デメリットばかりが強調される繰り上げ受給ですが、メリットとデメリットは裏表です。80歳を超えて長生きした場合、65歳から受け取った場合の受取総額に追い越されてしまいますが、年金が支給されなくなるわけではありません。生きている限り受け取ることができます。一方、80歳までに亡くなってしまうことや、まったく年金を受け取ることなく亡くなってしまう可能性もあります。寿命が分からない以上、正解はありません。 ※5 「事後重症請求」は繰り上げ後に申請することができない 繰り上げしないなら「66歳まで繰り下げる」と決める 「長寿家系だし、私は絶対長生きする」「理屈抜きで、繰り上げ受給で年金が減額されるのはイヤ」「とにかく年8.4%増のお得は手放したくない」  など、理由はさまざまでしょうが、繰り下げしたいと考える人は多いと思います。そういう人は、1年だけ繰り下げて66歳からの年金受給開始を目指しましょう。なぜなら、65歳から1年間は月単位で繰り下げることはできず、66歳まで待たなくてはならないからです。この1年間を年金なしで生活できるようにしておけば、それ以降は希望する月から受給を開始できます。  リタイアしたいと思っていても、1年くらいなら「がんばって働こうか」と思えるかもしれません。もし、65歳以降も厚生年金に加入しているなら、毎年10月に改定が行われ、それまでに納めた保険料が年金額に反映されます。 「1年だけ? もっと繰り下げたいのに」と思うかもしれません。「75歳までで年金が84%アップ」と喧伝されていますから、確かに物足りないでしょう。  しかし、60歳からの5年間は現役時代よりも多様性の度合いが進みます。そして、65歳到達時点の自分や家族の姿は、体力や気力、家族の健康、暮らしぶりなど、40歳50歳の働き盛りの自分からは想像もできません。それでも「65歳まで働き切る」戦略で60歳代前半を乗り切り、65歳到達時点で、「あと1年間は年金なしで暮らせる」と思えるよう、今から準備を整えておくのです。 「70歳まで繰り下げ」より「1年繰り下げ」の準備を  2021年4月より、事業主は従業員に対して、「70歳までの就業機会確保」の努力義務を負うことになりました。しかし、漠然と「70歳まで働けるようになるから、年金は70歳まで繰り下げできる」と考えるのは危険です。必ずしも自分が望むような処遇が得られるとは限りませんし、体力の衰えなど、思うに任せないこともあるでしょう。  結果として、もっと繰り下げられるかもしれませんが、はるか遠くを見るのではなく、確実に1年繰り下げを手にするための準備に着手しましょう。  たとえば、60歳までの5~10年は家計をスリム化し、貯蓄のラストスパートをかけるとか、住宅ローンの完済年齢が60歳を超えているなら、60歳以降の返済額を減らすために一部繰り上げ返済をするなどです。  このように、60歳以降に収入が減っても貯蓄を取り崩さなくてすむよう、暮らしを少しずつ整えていきます。働かなくても1年分の生活費が確保できているという状態で65歳を迎えることができれば、辞めてもいいし、楽しく働ける環境にあれば働いてもいい、といった複数の選択肢を持つことができます。66歳以降は月単位で繰り下げができますから、そのときの健康状態や就労の状況によって、柔軟に判断していけばよいと思います。 一括受給には税金や保険料アップのリスク 「そんなに堅苦しく考えなくても、まとまったお金が必要になれば一括受給もできるし、できるだけ繰り下げしたほうがいいんじゃない」と考える人がいるかもしれません。  確かに、繰り下げするつもりで待機していたとしても、気が変われば、さかのぼって一括して受け取る選択肢はあります。  しかし、一括受給すると、待機していた過去の各年に収入があったとみなされます。すると各年の所得にかかる所得税が発生するだけでなく、納付期限が過ぎていることから、延滞税(※6)を払わなければならないケースもあります。さらに、一括して受け取った年金が各年の所得に振り分けられると、住民税や国民健康保険、介護保険の保険料の追納が発生する可能性もあるのです(※7)。  繰り下げ受給するなら、地道に家計基盤を整えて、「そろそろ受け取ろうか」と思ったときに、受給を開始するのが王道だと思ってください。 ※6 納期限の翌日から2月を経過する日の翌日以後については、年「14.6%」と「延滞税特例基準割合+7.3%」のいずれか低い割合※7 国民健康保険と介護保険の保険料の納付は2年で時効 繰り上げと違い、繰り下げには選択肢が多い  繰り上げ受給は老齢基礎年金と老齢厚生年金を同時に行わなくてはなりませんが、繰り下げは別々でもかまいません。  たとえば、在職老齢年金の支給停止基準を超えている場合、停止になった年金については、繰り下げても増額されませんので、老齢厚生年金は受け取って老齢基礎年金だけを繰り下げるという選択肢があります。  また、老齢厚生年金に加給年金(※8)が付く場合、繰り下げ期間中は加給年金を受け取ることができず、繰り下げによって加給年金の額が増えることもありません。そのような場合も、老齢基礎年金だけを繰り下げることを検討します。 ※8 扶養する子どもや配偶者がいる場合に支給される年金 夫婦単位で「年金受給プラン」を考える  配偶者がいる場合、夫婦単位で年金受給プランを考えることが大切です。夫婦ともに仕事をもっているケースでは、それぞれが「いつまで」「どのように」働いていく予定かといったことをすり合わせ、お互いの年金履歴を参照しながら、繰り上げや繰り下げというツールを有効活用できるよう話し合ってください。  一方、妻が家事や育児を担っていたために厚生年金加入期間が少なく、ほぼ老齢基礎年金しかないというケースを考えてみましょう。  専業主婦やパートの妻も「65歳まで働き切る」戦略は有効です。短時間でも厚生年金が適用になる企業で働き、年金額を増やします。事情が許すのであれば、フルタイムで働くことで、年金額のさらなるアップが目指せます。そうして、60歳から65歳までは2人の収入で乗り切ります。  女性は男性より長生きする可能性が高いですから、併せて、繰り下げ受給が有効な選択肢となります。  ここで紹介したケース以外にも、さまざまなパターンがあると思いますが、たとえ思惑が外れたり、予定外のことが起こった場合でも、そうそう悪いようにならないプランにしておくことが大切です。 「できるだけ長く働いて年金を繰り下げしないと老後資金が不足するかも」とか「いつまで働けば安心なのか」など、時間軸が定まらないと不安と迷いの沼から抜け出せません。長生きするかしないかは誰にもわからないので、「65歳まで働き切る」戦略で、一つひとつできることから実行していきましょう。 内藤 眞弓(ないとう・まゆみ)ファイナンシャルプランナー1956年生まれ。博士(社会デザイン学)。大手生命保険会社勤務後、ファイナンシャルプランナー(FP)として独立。金融機関に属さない独立系FP会社「生活設計塾クルー」の創立メンバーで、現在は取締役として、一人ひとりの暮らしに根差したマネープラン、保障設計などの相談業務に携わる。『医療保険は入ってはいけない![新版]』(ダイヤモンド社)、『お金・仕事・家事の不安がなくなる共働き夫婦最強の教科書』(東洋経済新報社)など著書多数。
「おれが妻を養う!」夫の信念が資産形成を邪魔する残念家計の実情
「おれが妻を養う!」夫の信念が資産形成を邪魔する残念家計の実情 ※写真はイメージです (GettyImages)  お金へのこだわりが強い人、と聞くと、どんどん貯金を増やして投資も成功させて……というイメージがあるかもしれません。しかしこだわりというのは方向性を間違うとむしろマイナスに働いてしまうもの。亭主関白というか、大黒柱としての意識が強い、ある男性のこだわりとは。(家計再生コンサルタント 横山光昭) お金に対する考え、行動は常にアップデートを  家計相談に来られる方の中には、お金へのこだわりが強い方もいます。通常は良い方に働くことが多い「こだわり」ですが、少し方向が違うというか、悪い方へこだわりが働いてしまうという人もいます。「お金を貯めるには貯蓄目的の保険がいい」とか、「投資はギャンブルだから、してはいけない」という昔からの先入観的なこだわりの場合もありますし、稼ぐことにこだわって支出については全く考慮しない、というタイプの方もいます。 「こうじゃなきゃダメ」と思い込むよりも、その時の状況に合わせて柔軟に考え、自分自身をアップデートしていけるといいのですが、こだわる方は、自分の考えも行動も、なかなか変えることができません。変われば将来もきっと良い方に変わるでしょうに、もったいないことだと思います。 「自分が稼いで妻を養う」から、妻のパート代は家計に含めない  以前相談に来た会社員のUさん(33)は、亭主関白というか、大黒柱としての意識が高いようで、家庭のかじは自分が取るといったタイプの方でした。ご家族はパートで働く妻(29)のみ。夫婦の貯金を増やして、近いうちに子どもも欲しいし、住宅購入も目指したいと希望されています。  Uさんの毎月の手取り収入は約24万円。妻のパート代は月に7万円ほど入るそうですが、「自分が妻を養いたい」と考えているため、その収入は家計に入れていないそうです。つまり、生活はUさんの収入だけでやりくりし、妻の収入は妻が自由にしています。毎月何にいくら使い、どのくらい貯めているのかなどは、全く把握していません。このような状況で、Uさんは妻の収入を含めず、今のままで何とか貯金を増やしたいと希望しています。   家計状況を見ると、毎月なんとか黒字に収まっているようです。Uさんの収入約24万円のうち、生活費は約23万円。残る1万円は、つみたてNISAに5000円、貯金に5000円を充て、積み立てています。貯金額はUさんの独身時代の貯金も合わせ、約180万円です。  最低限の生活防衛資金はある状況ですが、近いうちに出産まで考えているのなら、その費用は生活防衛資金と別に貯めておきたいもの。妊娠中は検診費用の補助がありますし、出産時には健康保険から出産一時金も支給されます。それで足りない金額は、貯めておかなければなりません。子どもが増えると今よりも生活費が増えてしまう可能性もありますから、それに備えておくことも必要です。 50万円貯めるのに何年かかる?  例えば50万円貯めるなら、毎月5000円を積立貯金するだけでは8年以上かかってしまいますし、投資をやめて貯金に回し、毎月1万円に増額しても、4年以上かかります。貯めるスピードとしては遅いといえます。出産するまでにお金が貯まりきらなければ、一時的に生活防衛資金を出産費用に回すこともできますが、減ってしまった金額は、なかなか元に戻すことができないでしょう。  支出を見直し、貯金可能額を増やそうとしましたが、削減できるのはあと5000円ほど。支出を絞って貯金を増やすのは難しそうなので、収入を増やすことも考えてみますが、副業なども難しい状況にありました。  そうなると、やはり妻のパート収入も合算することがよいと思うのですが、Uさんは自分のモットーというか、信念である「自分が妻を養う」という考えを曲げられず、現状の大幅な改善は見込めません。このままでは、実際に妻が妊娠した時、お子さんが生まれた時などに困ることになりかねませんし、住宅購入を考えることは、いつまでたってもできないかもしれません。  そうならないために、自分の思いを通すことを優先するのではなく、家庭全体の将来を見据えた行動を取ってほしいと思うのですが、なかなか受け入れられません。将来的に給料も上がっていくでしょうから、徐々に良い方向へ向かえるのかもしれませんが、今のままの状態が続き、将来、後悔することにならないだろうかとも思います。  自分が家族を養う、守るという責任感はいいことだと思いますが、将来を含めた全体を見据え、備えていかなければなりません。柔軟性のなさやこだわりも、失敗の原因になっていくものなのです。
慢性痛患者は痛みを気にしすぎ? VRで改善も…痛みの最新事情
慢性痛患者は痛みを気にしすぎ? VRで改善も…痛みの最新事情 慢性痛の治療に使われるVR療法の装置(Parafeed提供)  けがが治ってずいぶんたつのに痛みがなくならない。画像検査で異常がないのに痛みが治まらない。けがと関係ない部位に痛みが広がっていく……。治療が難しいとされてきた、慢性痛のメカニズムと対策がわかってきた。 *  *  *  痛みには大きく分けてけがをしたときなどに起こる「急性痛」と、3カ月以上続く、あるいは再発を繰り返す「慢性痛」がある。慢性痛はがんの治療による痛みや帯状疱疹後神経痛など、慢性疾患によるものもあるが、原因がよくわからないものも多い。持続する痛みによって心を病んだり、仕事を失ったりするケースも報告されている。  このやっかいな慢性痛の正体が近年、明らかになってきた。東京慈恵会医科大学医学部の痛み脳科学センター長、加藤総夫教授によれば、 「原因不明の慢性痛は、脳の神経回路の変化によって起こることがわかってきています。この変化は痛みへの恐怖や不安、怒りやストレスといった社会心理的な要因によっても起こります」  神経回路を変化させる部位の一つとして考えられるのが、「扁桃体」だ。からだや環境に対する警戒や警告をつかさどる部位で、痛みやストレスによって生じる苦しさやせつなさなどにも関係する。  慢性痛の患者の脳では、扁桃体の活動が痛みのない人よりも高まっていることが報告されている。加藤教授らが、顔に炎症があり扁桃体の働きが活性化しているラットの行動を観察すると、顔から遠く離れた足などに軽く触れただけで、すばやく足を引っ込める動きをとった。こうした症状は慢性痛の患者にしばしば起こるという。 「タンスの角に小指をぶつけるとものすごく痛いですよね。後日、そのときのことを想像すると、ぶつけたときの痛みを思い出して嫌な気分になったり、実際に痛みを感じることもあります。あれは痛みの不快感を扁桃体が記憶し、それに反応して警告信号が出ているから。慢性痛の患者さんは痛みを気にしすぎることで、この反応が普通の人よりも過剰に起こっていると考えられます」(加藤教授)  こうした痛みのメカニズムを知ってもらい、「痛みに対する認識を変えること」が改善の第一歩だと加藤教授は話す。この考え方は「認知行動療法」という形で行われている。奈良学園大学保健医療学部の柴田政彦教授は、「痛みが危険なものではないことを知ってもらい、痛みとの付き合い方を見直す方法」と言う。  柴田教授は2015年から、千里山病院集学的痛みセンターで難治性の慢性痛患者を対象に、認知行動療法を取り入れた3週間の入院プログラムを実施している。患者は理学療法士や作業療法士らの指導を受けながら、運動や日常生活に取り組む。痛みのメカニズムを学ぶ講座もある。 「入院では『痛くてもできる』体験をたくさんしていただきます。慢性痛の患者さんは痛みに対して恐怖を持ち、動くことを過剰に避けている人が多く、これが痛みの回復をさらに遅らせることになることがわかっているからです」(柴田教授) 「段階的曝露」で使われる恐怖階層表(柴田教授提供) 「段階的曝露(ばくろ)」という方法は、患者にとって恐怖の対象になる動作をあえてしてもらう。例えば腰痛で「床の物を拾う動作が腰に悪い」と感じている人は、その動きにチャレンジする。想像よりも楽にできることがわかると恐怖心がやわらぎ、少しずつ動けるようになっていくと言う。 週刊朝日 2022年6月3日号より 「欧米の研究では軽度の慢性痛(腰痛)を持つ人に対し、認知行動療法の一種であるPRTという療法を電話で週2回、1時間ずつ4週間実施し、多くのケースで痛みがほぼゼロになったという結果が報告されました。権威ある医学雑誌に掲載されたことで注目されています」(同)  VR(バーチャルリアリティー)を使った治療も試みられている。VRはコンピューターによって作り出された仮想空間を現実のように知覚させる技術だ。  都内在住の青木悟さん(仮名・72歳)は、30代のときから坐骨神経痛の症状に悩まされていた。数秒に1回、「失神する一歩手前の激痛」に襲われる。当時、整形外科では原因不明と言われたが、59歳のときにMRIを受け、腰の仙骨に神経鞘腫(しょうしゅ)という良性腫瘍があることが判明。これが慢性痛の原因とわかった。  しかし、腫瘍は膀胱や神経のすぐ近くにあり、手術で取り除くことが難しい。そこで痛みの専門医を求め、順天堂大学医学部附属順天堂医院の麻酔科・ペインクリニック外来を受診。井関雅子教授のもとで治療を始めた。 ■叫び声をあげる回数が減った  この種の強い痛みに効果がある薬を服用し始めると、かなり改善した。しかし、夕方から夜にかけての耐え難い痛みはよくならない。がんの痛みにも使われるオピオイド系鎮痛薬の服用を始め、増量もしたが夜間痛は続いた。そこで提案されたのがVR療法だった。 「海外では幻肢痛(事故などで手足を失った人が失った部位に強い痛みを感じること)に効果が出ていると聞き、興味を持ちました。『このつらい痛みがよくなるなら何でもやりたい』という気持ちでした」(青木さん) 慢性痛の治療に使われるVR療法の画面(Parafeed提供)  VRでは端末を頭部に装着し、手でコントローラーを操作する。青木さんは上から落ちてきた「ゴムまり」を破裂させるなどのシューティングゲームを1日1回、20分程度行った。最初に効果に気づいたのは、妻の美幸さん(仮名)だったと言う。 「週に1、2回、家内の運転で出かけるのですが、座ると数分で激痛が起こり、ものすごい叫び声をあげるのが常でした。それが治療から半年たったある日、『最近、悲鳴をあげなくなったね』と言われたのです」(同) 慢性痛の治療に使われるVR療法の画面(Parafeed提供)  痛みを評価するNRS(Numerical Rating Scale)というレベル表では、11段階のうち想像できる最大の痛みを10とし、現在の痛みがどの程度かを示してもらう。青木さんは治療前にレベル6~7だったものが3までに半減。薬の量も減らせた。治療を始めて3年たった現在も、この状態を維持できている。  井関教授はこれまで10人程度の患者に試験的に使い、多くのケースで効果が得られているという。 「好きなことに集中すると、脳の痛みを感じる経路のネットワークが減弱することで、痛みの感じ方が弱まります。VRもこれと同じようなメカニズムで痛みが改善されるのではないか、そして痛みを抑制する物質が産生されるのではないかと考えています」(井関教授)  米国ではVR療法を使った慢性腰痛治療が昨年、FDA(米食品医薬品局)に認可された。痛みに悩む人には希望を持ってほしい。(狩生聖子)※週刊朝日  2022年6月3日号
片づけたら「夫はそこまで嫌なヤツじゃなかった」と思えた
片づけたら「夫はそこまで嫌なヤツじゃなかった」と思えた 愛着の持てなかった2階。昭和時代のタンスがそのまま/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.23 ファシリテーションに徹して家族を動かした 夫+子ども2人/専業主婦  「夫は仕事、私は家事育児、それぞれが淡々と役割をこなしていて。会話が少なくても生活が回っていました。夫は口数が少なく自室にこもりがち。報連相(ほうれんそう)もなく、関係は冷える一方でした」  ななさんは夫と2人の子どもと暮らすお母さん。夫婦関係も家の片づけも突破口を見つけたいと思っていました。   夫は自分からは積極的に家庭に関わらない人でした。 「私が大きな物を移動したり、あちこち片づけていても、スーッと無言で横を通りすぎていくんです。家事は私の担当だけど……嫌なヤツ、と思っていました。頼みごとをすると、興味のあることはやるけど、ないことは数年後。期待したら腹が立つからあきらめていました」  夫婦の役割意識は、日々をスムーズに回す一方で、心の距離を生む原因に。  家の片づけはと言うとトライ&エラーの連続でした。互いに「自分の家が嫌」という友達と部屋をチェックしあい「これはなくていいんちゃう?」「こんなんゴミやん」と客観性をとり入れながら物を減らし、頑張るけどリバウンドのくり返し。  夫も片づけが苦手で、物を溜め込む癖がありました。 「たとえば衣類なら、向こうが見えるくらい透けた肌着から穴の空いた靴下まで、もう何枚もありました。捨てようとしたり、彼の物を勝手にさわると怒るんです。私が片づけたらいいんでしょうけど、『ほっといてなんでしょ?』ってバサッと割り切っていたので、夫の部屋は汚部屋でした」  片づけ問題で、2人の間にはますます溝ができていました。 タンスは一つ処分して収納を設置。暮らしにあった部屋に/アフター  ななさんは片づけられない自分に潜在的な罪悪感がありました。およそ築40年の家の2階はリフォームせず昔のまま、愛着がなく活用の仕方もわからない。キッチンはL字型なのに、なぜ食材を切るスペースがこんなに狭いのか。夫の物がいろんな部屋にあって思考停止。環境や家族のせいにしている自分はもっと嫌。そのような折、家庭力アッププロジェクトに参加したのです。  45日間で家をまるごと片づけ終えると、数年来の後ろめたさから解放されたとか。  驚いたことに夫の態度も変わりました。物を運んでいると夫が「持とうか?」とサッと持ってくれる。また何年か先だろうと諦め半分に頼んだ大工仕事は、仕事から帰るとすぐにやってくれた。「そこまで嫌なヤツじゃなかった」と、感謝の気持ちがわいた。  先日も驚いたことがありました。 「夫の部屋に書類を取りに入ったら、ゴミ箱にゴミがいっぱいあるのを発見したんです。これまで物を捨てられない夫のゴミ箱はいつも空だったのに、びっくりしました。  ななさんは何をしたのでしょうか? 「夫に対しても子どもに対しても、私はこうしたいねんけど、どう思う?と意見を聞いたんです。勝手にやっていたみたいな自分がいたと気づいて。子どもは自分で決めたことは続けてくれるし、夫も自分からは動かないけど、何日ならやってくれる?とアポを取ると動いてくれるとわかりました。これまで、そこをすっ飛ばしていたんですね」  部屋のゴールを見つけるため、ファシリテーター役に徹したことが功を奏しました。家族それぞれがこうありたいと思う部屋を宣言すると、みんなの気持ちが未来の家に向きました。ななさんは家族のベクトルを見事に合わせたのです。 「おとなしい夫の本音も聞けて、夫はソファでゴロゴロとしたいことが判明しました。リビングには親戚から譲り受けた某有名メーカーの小ぶりで枠が木製のカチカチのソファを置いていたんですが、夫は前の柔らかくて寝られるソファがよかったんです。『ええーっ!その時に言いや、口付いてるねんから』と衝撃的で。いつの話やと。あのチープなソファが正解だったとは」 奥深い収納は棚の手前を切り“ウォークイン”に。夫の行動力の賜物  夫が自室にこもりがちな理由が明らかに。ソファはゆくゆく買い換えるつもりです。  もちろん1番の勝因は、ななさんが率先して片づけはじめたこと。言い訳ばかりでやらない人と自ら切り開く人、どちらに心を動かされるかと聞かれたら後者でしょう。  部屋がスッキリしない理由は、不要な物が多いことだとわかりました。収納はギチギチでストック品も多く、使う物をしまう場所もなかった。徹底的に減らしました。 「毎日、毎日、同じ引き出しを開けるたび、昨日は必要だった物が今日は要らなくなったりするんです。本当に不思議で。なんで置いていたか思い出そうとしても思い出せないんです」  ゆとりの生まれた引き出しを夫に見てもらうと「えーっ」と驚いていたとか。そして「物が多いんだな」とやっと気づいて、ぐちゃぐちゃの引き出しの衣類を処分しはじめた。夫が物を捨てられるようになったきっかけは妻の行動でした。  2階問題は、片づけの先輩の部屋が参考になりました。プロジェクトには少し前に終了した先輩がサポーターとして参加しています。 「同じくらい昭和な家に住んでいるサポーターさんの部屋の写真を見たとき衝撃を受けて。古くても収納が少なくてもこれだけすっきりと気持ちよく住めるんだなと。これまで部屋のイメージができなかったけど希望が見えました」  思い込みを捨て収納をつくり、ななさんお気に入りの衣装部屋が完成。今ではそこで学校の役員の書類仕事をするくらい集中でき、何かと階段を上がりたくなる空間になっているそうです。 どうすればいいかわからなかったキッチン/ビフォー 収納のストック品などを見直して出ている物を最小限に/アフター  夫婦関係も希望だらけです。 「夫とは会話が増えました。私の接し方はまだまだですが。大工仕事をやってくれたとき、精一杯でかけた言葉が『ようやったな』(笑)。『パパすごーい、ありがとう!』とか言えたらよかったんですけど。でもちょっと照れていました。深い話もできるようになりました。学びたいことがあるので相談したら『僕も好きなことさせてもらったしやってみたら?』と背中を押してくれたんです」  最後まで「夫はそこまで嫌なヤツじゃなかったんです。まだ言うかって感じですけど(笑)」とななさん。講座の最終日は、久しぶりに夫が駅まで迎えにきてくれたと、驚き半分、嬉しさ半分の表情で話してくれました。 ◯西崎彩智(にしざき・さち)1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト®」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。
講師は「母親と赤ちゃん」!? 子育てやワークライフバランスも教える灘中学・高校の「ライフキャリア教育」
講師は「母親と赤ちゃん」!? 子育てやワークライフバランスも教える灘中学・高校の「ライフキャリア教育」 灘中学の片田孫朝日教諭(撮影・松岡瑛理) 「キャリア教育」と聞くと、一般的には進路や就職指導のイメージが強い。近年、学校教育の現場で、その対象が広がり、「ライフキャリア教育」という概念が生まれている。  関西屈指の難関校として知られる灘中学・高等学校(神戸市東灘区)もその一つ。社会科を中心に、ときに他科目の教員とも連携して「結婚」「子育て」「ワークライフバランス」など、身近な課題を取り上げる。その様子を覗いてみた。  4月26日、灘中学の教室で、中学3年の道徳の授業が始まろうとしていた。この日のテーマは「乳幼児の子育て」(第2回)。担当するのは、同校の片田孫朝日(かただ・そん・あさひ)教諭(45)だ。授業の冒頭、片田さんは生徒たちにこう呼びかけた。 「『ワークライフバランス』という言葉を聞いたことはありますか。『仕事』と『生活』、バランスの取れた暮らしをしようという発想にもとづく言葉です。これからの日本では、男が豊かに生きるためにも、女が豊かに生きるためにも、こうした考え方がとても大切になってきます」  片田さんは2020年、長女が産まれたことをきっかけに、4カ月の時短勤務と3カ月の育児休業を取った。男性で育児休業を取得したのは、同校の教員で初めてだったという。共働きであるパートナーが仕事にフルタイム復帰した今、平日は17時半までに学校の業務を切り上げ、子どもの保育園のお迎え、夕食作り、寝かしつけなど、家事全般をこなしている。  初回の授業では、出産が女性の身体に与える負担や、家事・育児が妻もしくは夫のいずれかに集中する「ワンオペ育児」の苦労について語った。  2回目となるこの日の授業では、初回の授業内容について生徒から寄せられた感想を一つひとつ読み上げた。「育児を母親がやるというのは、思い込みだったと思った」「赤ちゃんを育ててみたい」といった声に交じり、片田さんが「気になった表現」として挙げたのが「もし子どもができたら自分も育児を手伝おうと思った」というコメントだ。 灘中学で行われた「乳幼児の子育て」についての授業風景(撮影・松岡瑛理) 「とてもいい意見ですが、『手伝おう』という表現はやめていこう。例えば片田が『僕の妻はよく育児を手伝ってくれる』というと、変に聞こえませんか。そこには、根底に『女が育児を担うべき』『男は補助で良い』という固定観念があります」と語りかけた。  京都大学の大学院で、男性の生きづらさを当事者の立場から研究する「男性学」を研究していた片田さん。どのようなきっかけでジェンダーや働き方のテーマに関心を持つようになったのかについては、 「どちらも、まずは自分自身のテーマでした」  と、振り返る。  日本人の父親と、在日朝鮮人2世の母親の元に生まれた。高校時代まで「片田朝日」という名前で生活していたが、「『日本人』の中にも様々なルーツの人間がいるとわかるようにしたい」という思いから、大学時代に母の旧姓を並べた名前を通称名として使い始めた。  父親は、労働組合の職員で、長く薄給。母親も働き家計を中心となって支えた。 「父はたとえお金にならなくても、やり甲斐をもって働き、自由に人生を謳歌していた。その一方、周囲には社会的に成功した男性もいましたが、働きずくめのその人生は、決して楽しそうに見えませんでした。そんな大人たちの姿を見ながら、『働き方』が男性の生き方に与える影響は少なくないと思うようになりました」  博士課程を修了し、非常勤講師を経て12年に灘校の教員となった。東京大学をはじめ、難関大学への合格者が多く輩出することから「進学校」と見られがちな同校だが、校則も制服もなく、校風はきわめて大らか。教員の授業内容に学校側から注文が入ることもほとんどない。高校受験がなく、教科書に縛られない私立中高一貫校の特性を生かし、同校に着任した後は「一人親家庭」や「貧困」、「長時間労働と過労死」など人権問題を中心に、外部からゲストを招いた講演授業に力を入れてきた。  そんな流れの下、15年から家庭科と共同で開催するようになったのが「赤ちゃん先生」という体験型のプログラムだ。子育てに関心をもち、母親の苦労を知ることを目的に、母親と赤ちゃんを講師として同校の体育館に招く。 灘中学で行われた「乳幼児の子育て」についての授業風景(撮影・松岡瑛理)  講師が自身の出産・子育て体験について話したのち、生徒もほ乳瓶でミルクを与えたり、抱っこヒモを使って抱っこしたりする。18年からは高校3年の授業内でも同じプログラムを行っている。  授業を通じて、次第に赤ちゃんに興味津々となる生徒の様子に手応えを感じている。その一方で、女性を講師に招くことで「育児は女性の仕事」という固定観念を強めるのではないかという懸念もあり、自身の育児体験についても授業内で触れるようになった。 「授業には知的な要素と、情動的な要素の両方が必要だと思っています」  と、片田さんは話す。 「育児について、数字のデータや『男女平等のため』などの正論を伝えるだけでは、情報は右から左へ流れて行きやすい。身近な存在である教師が自分のエピソードも交えながら話すことで、『面白そう』『やるべき』と思ってもらいやすくなる。『やってみたい』という意欲が自然に起こるようになれば、それが一番だと思っています」  5月には、他校の教員らとともにジェンダー教育についての勉強会も立ち上げた。オンラインでお互いの授業内容や情報を共有したり、意見交換を重ねたりしていく予定という。  仕事だけではなく、結婚や出産、育児など、人生にかかわるイベントを包括的に扱う「ライフキャリア教育」へのニーズは、社会全体で見ても強まっている。  父親の支援活動を行うNPO法人ファザーリング・ジャパンは21年10月から12月にかけて首都圏の高校生や大学生343人を対象に「子育て講義のニーズ」をテーマとした調査を行った。その結果、「結婚・出産・子育てなどについて学べる講座・研修があれば受講を望みますか?」という質問に、約71%が「はい」と回答した。「子どもが産まれたら育児休業を取得したいですか?」という質問には約83%が「はい」と答えている。 「仕事か生活か」ではなく、「仕事も生活も」大切にしたい──。これからの社会を担う若者たちの願いを、教育現場はどこまで汲み取ることができるのか、注目される。 (本誌・松岡瑛理) ※週刊朝日オンライン限定記事
「いま何時?」で妻をナンパ 「手の届く注文住宅」がモットーの工務店を経営する夫婦
「いま何時?」で妻をナンパ 「手の届く注文住宅」がモットーの工務店を経営する夫婦  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2022年5月30日号では、大阪府豊中市のひかり工務店で経理を担当する清水美穂さん、ひかり工務店代表取締役の清水洋人さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  夫23歳、妻23歳で結婚。長男(26)、長女(24)は独立し、現在は次男(15)、三男(11)と4人暮らし。 【出会いは?】広島のディスコで、大学生だった夫が「いま何時?」と妻をナンパし、交際がスタート。 【結婚までの道のりは?】大学卒業後に大阪で就職した夫と広島在住の妻は遠距離恋愛に。月に2回しか会えず電話代もかさむ状態を1年半続け「もう結婚しよう」と決めた。 【家事や家計の分担は?】家事はほぼ妻の担当。夫は食器洗いが好きで、長女に「アライグマみたい」と言われるほど熱心に洗う。夫婦の財布は基本一緒。 妻 清水美穂[51]ひかり工務店 経理担当 しみず・みほ◆1971年、広島県生まれ。高校卒業後、会社員として事務職を経験。結婚後は夫の実家の喫茶店を手伝い、2003年からひかり工務店を支える。いまでは社員38人に増え、大阪府豊中市で人気の工務店に成長した  ディスコで夫にナンパされたときは「大阪弁のあやしい人だな」と思いましたが(笑)、それから彼の人生の紆余(うよ)曲折を隣で見てきました。  夫は不動産会社への就職直前にバブルがはじけて内定を取り消され、鉄筋工をしながら建築士の勉強をし、建築の面白さに目覚めたようです。思いがけず早く独立することになったけれど、私は不安を感じませんでした。彼の人となりから「大丈夫だろう」と思えた。だから「やってみたら」と背中を押しました。  私自身も結婚前は仕事を義務感でやっていたけれど、自営をはじめてから働くことに前向きに、やる気になったと思います。「生活がかかっているんだから!」と二人でなんでもやりました。義父母の介護と子育てと仕事を抱えていた時期が一番大変で、上の二人には寂しい思いをさせてしまったと思います。でもいま長男が現場監督として、長女は広報として一緒に働いてくれています。親の背中を見てくれていたのかな、と思うとちょっとうれしいです。 夫 清水洋人[51]ひかり工務店 代表取締役 しみず・ひろと◆1971年、大阪府生まれ。近畿大学工学部卒業後、工務店勤務を経て、2003年にひかり工務店を設立。「手の届く注文住宅」をモットーに設計、施工、リノベーション、アフターメンテナンスをすべて自社で行う  自分が作りたい家を考えたら「冬温かくて夏涼しい家」だったんです。通年温度が一定になるように設計すると意外と電気代が高くならない。デザイン性も高め「手の届く注文住宅」として好評をいただいています。でも平坦(へいたん)な道のりではありませんでした。  32歳で独立した当初は3カ月間、電話が一度も鳴らなかった。妻の手作りのチラシを二人で折り、子どもたちにも手伝ってもらいポスティングしました。建築現場の土を撤去するため深夜までスコップを持って格闘したことも。妻も泥まみれで一緒にやってくれました。  方向性が大きく決まったのは6年前。ホームページをスタイリッシュにリニューアルしたら問い合わせがグンと増えた。センスのいい設計士が入社してくれたこともあります。僕は人に恵まれている。もちろん筆頭は妻です。  年1回の夫婦旅行が趣味。妻には行き先しか教えず、すべて僕が決めます。「絶対、これ喜ぶ!」を想像して計画するのが楽しいんです。 (構成・中村千晶) ※AERA 2022年5月30日号
芳村真理、介護の末に夫を看取る 「大変だったことは全然思い出さない」
芳村真理、介護の末に夫を看取る 「大変だったことは全然思い出さない」  日本ポラロイドやカルティエ・ジャパンなど外資系企業の社長を歴任した実業家、大伴昭さん(享年89)と“おしどり夫婦”として知られた芳村真理さん。10年間の介護の末、2018年に夫を看取った思いは、今も“過程”にあるという。 *  *  *  夫が亡くなってから、もう3年半も経つなんて早いものね。最近になってやっと、夫との思い出が詰まったものを見て「懐かしいな」と思えるようになりました。  家中に夫との思い出が詰まっているから、夫が亡くなってから最初の1~2年はとにかくつらかった。50年間も一緒にいて、「なんでも一緒」が当たり前の夫婦だったので、夫がいない現実に慣れるまでは本当にしんどかったです。外資系企業の社長を歴任し、ビジネスマンとして世界各国を飛び回っていた夫は、妻の私から見てもスマートでかっこよく、頼りがいのある男性でした。出張も多い人だったので、亡くなってからしばらくは、どこか海外にでも行っているような感覚で、「そろそろ帰ってくるかしら」という気分がなかなか抜けなくて。その度に、「あ、もう帰ってくることはないんだ」って足元が崩れるような気持ちになるのね。 「亡くなったんだから仕方がない」と思えるようになったのは、夫の死から3年経ってから。どうやったって、やっぱり3年はかかるものなのね。それまでは夫との思い出があるものは、とても触れられなかった。  例えば、音楽。夫は大の音楽好きで、家ではいつも音楽を流していたので、思い出の曲がたくさんあるの。夫の死後、音がなくてシーンとした空間は居心地が悪いんだけれど、音楽を聴くと涙が止まらなくなるから、しばらくは無音で暮らしていました。庭で育てている山椒も、「佃煮にしたらパパが喜んで食べてたな」なんて思い出すから、とてもつらくて収穫できなかったり。  今はようやく、季節の巡りを感じられる余裕が出てきました。無理に遺品を整理したり、思い出の場所に足を運んだりしなくていいと思うの。時間が癒やしてくれる部分は大きいし、無理に何かしようと思わなくても、じっと過ごしているうちに、少しずつ気持ちの変化が出てくるということで十分だと思います。  夫は厳しかったけれど、私が仕事することを心から応援してくれた人でした。当時の芸能界は、家庭との両立が難しい部分も大きかったけれど、夫が良い方向に導いてくれた。帰りの時間が遅いのも当たり前の業界だったけれど、夫は「当たり前じゃない」とテレビ局と交渉し、契約書も全てチェック。「あくまで家庭がメイン」「土日は仕事しない」「必ずその日のうちに帰ること」などルールが多くて「そんなふうにはできない」と泣きべそをかきながらやってきましたが、逆にそうやってきたから今があるんだと思います。  そんな夫に認知症の症状があらわれたのは、彼が80代を迎えるころのこと。少しずつ症状が進行し、記憶障害に始まり、暴言やひとり歩きも増えていきました。夫が亡くなるまでの10年間、介護してきたことを話すと、多くの人から「大変だったでしょう」と言われるんだけれど、今振り返ると良い思い出しかないのよ。体も大きな人だったし、世話をするのも一苦労だったはずなんだけれど、大変だったことは全然思い出さない。  夫は最後、自分に合った介護施設を見つけることができて、快適に過ごしました。奇麗で快活な女性スタッフが多く、ベランダ付きのゆったりした部屋がある施設で、諦めずに探して本当に良かったと思っています。  今も、朝起きるとき、夫が隣にいるのが当たり前という感覚で目が覚めることがあります。「いなくなっちゃったんだ」ってショックなんだけれど、あのころと同じ感覚が残っていることが嬉しいとも思う。  そうそう、夫が好きで共用で使っていた香水を最近つけられるようになったの。夫が亡くなってからは嗅ぐのも嫌だったんだけれど、今は出かけるときに香りをまといます。そうすると一緒に出かけているみたいで安心するの。そうやって少しずつ、夫の思い出と寄り添いながら過ごしていこうと思っています。 (構成/フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2022年6月3日号
「福原愛」中国での人気にかげり 元夫・江宏傑はタレント&実業家として大成功
「福原愛」中国での人気にかげり 元夫・江宏傑はタレント&実業家として大成功 福原愛  昨年7月に離婚した元卓球日本代表の福原愛(33)。5月9日に台湾メディアは元夫・江宏傑と共同名義で所有していた高雄市内の高級マンションを売却していたことを一斉に報じた。売却時期は離婚から3カ月後の昨年10月。2019年に4600万台湾ドル(約2億円)で購入していたが、900万台湾ドル(約1億7000万円)で手放したという。3000万円以上の損をしても、早く物件を処分したかったようだ。  離婚後も話題に事欠かない2人だが、最近では中国や台湾での世論も大きく変化しており、これまでとは違う流れになってきている。中国事情に詳しいライターの広瀬大介氏は言う。 「福原は昨年2月、既婚男性との不倫疑惑が『女性セブン』に報じられたことで、それまでの清純派スポーツ系女子のイメージが崩壊しました。このニュースは中国や台湾でも連日大きく報じられ、特に台湾では福原に対する厳しい声が多く寄せられていました。一方、中国では不倫疑惑の直後に福原サイドが『週刊文春』のインタビューで、夫の江からモラハラを受けていたことを告白したこともあり、同情的な報道が多かった。過去に遼寧省のチームに所属していた福原の中国びいきもあり、SNSでも彼女を擁護する意見のほうが多かったですね」  だがその後、福原に関するネガティブな報道が続いたせいか、中国国内での世論も風向きが変化しているという。 「3月に福原の不倫疑惑の相手とされる男性の元妻が『週刊文春』に福原のこれまでの説明が虚偽であると証言し、トラブルとなっていることとが中国でも報じられました。元妻は今後、福原に対し慰謝料の請求を検討しており、裁判に発展する可能性も指摘されています」(同)  不倫疑惑が報じられた男性の元妻の証言が明るみに出たことで、中国SNS上には、福原に対する否定的な意見が多くなっているという。 「愛ちゃんの元夫が最低なのは同情するけど、それは不倫する理由にはならないよ」 「彼女は他人の家庭を壊した。子供も2人いるのに。彼女をかばうことはできない」 「中国のタレントは不倫すればメディア出演は禁止され芸能生活は絶たれる。愛ちゃんも中国で仕事するべきではない」 福原が5月14日アップしたウェイボーの写真 ■同じ日に2人がSNSに投稿した内容  一方、対照的なのが元夫の江宏傑だ。江は台湾で「体育会系タレント」としてスター的な存在になっており、台湾の人気番組「全明星運動會(オールスター運動会)」で2年半レギュラーを務め、チームリーダーとして活躍してきた。その間、福原との離婚を経て、2人の子どもを育てるイクメンタレントとしての地位を確立。現在ではバラエティー番組などにも多く登場するようになり、5月には新たに健康サプリメント会社のCMにも起用されるなど、順風満帆なのだ。さらに実業家としての活動も開始。4月には、自身が“人生の夢“と語っていた卓球場の開業を実現させた。また自身がプロデュースする卓球用品ブランド「Onward tt」を立ち上げにも成功している。 「最近、江は台湾メディアの取材で『2人の子どもの責任ある立場として、今後10年は恋愛するつもりはない』と公言しました。シングルファーザーとしての覚悟も口にし、インスタグラムにも2人の子どもとの仲むつまじい姿などが頻繁に投稿されています。そんな江の姿に、中国人の間でも支持が広がっており、微博(ウェイボー=中国版ツイッター)のフォロワー数も今や150万人を超えています。2人が結婚した当初は、2人の年収に30倍以上の格差があったことから、江のことを『軟飯男(ヒモ男)』と呼ぶ声もありました。しかし、不倫騒動後に江は活躍の場を広げ、中国でも徐々に人柄が好感されるようになりました。中国での今後の活動に黄色信号がともる福原ですが、対照的に江は離婚によって飛躍の時を迎えています」(同)  5月14日、福原はウェイボーでシンガポールのユニバーサル・スタジオで遊ぶ様子を報告したが、くしくも同じ日、江は子どもたちに自作の物語を聞かせながら寝かしつける動画をインスタグラムに投稿。2人の対称的な行動に中国・台湾のSNSで物議を醸した。  不倫疑惑や離婚により、2人に対する評価が完全に分かれてしまったようだが、福原の日本での活動に影響はあるのだろうか。芸能評論家の三杉武氏はこう述べる。 「現在30代になった福原さんですが、幼少期から“天才卓球少女”や“泣き虫愛ちゃん”として卓球に打ち込む姿を知っている日本人は、五輪のメダリストに成長した彼女を自分たちの娘や孫、妹のように応援し、成長を喜んできました。元妻の告白など、週刊誌による新たな報道も続いており、福原さんにとっては再び厳しい逆風となっています。一連の疑惑で生じたネガティブなイメージはしばらく尾を引きそうです」  中国、台湾のみならず、今後は日本での活動も、福原にとって厳しいものになるかもしれない。(山重慶子)
東電は「犠牲者を2度殺そうとしている」 東日本大震災から5年9カ月後に起きた“奇跡”と同じ場所で繰り返される“罪”の重さ
東電は「犠牲者を2度殺そうとしている」 東日本大震災から5年9カ月後に起きた“奇跡”と同じ場所で繰り返される“罪”の重さ 遺骨を探し出した木村紀夫(右)と具志堅隆松(撮影/阿部岳)  原発と基地――「国益」の名の下に犠牲を強いられる「苦渋の地」で今、何が起きているのか。政府や行政といった、権力を監視する役割を担うメディアは、その機能を果たせているのか。福島と沖縄を持ち場とする2人の新聞記者が、取材現場での出来事を綴った『フェンスとバリケード』。福島第一原発事故により帰宅困難区域に指定された福島県大熊町で見つかった子どもの遺骨……。著者で沖縄タイムスの阿部岳記者が取材した福島が今も直面している現実について綴った第14章「呼び合う者たち」から一部抜粋してお届けします。 *  *  *■発見  2022年1月2日、福島県大熊町の帰還困難区域で子どもの骨が掘り出された。 「ガマフヤー(沖縄の言葉で壕[ガマ]を掘る人)」具志堅隆松が、黒い土の中に白みがかったものを認めた。長さ3センチほどか。周囲の土を、愛用のねじり鎌でより分けていく。5センチ、7センチ。間違いない。 「木村さん」と声を掛け、後を任せる。  隣にいた木村紀夫が向き直り、スコップで数ミリずつ表土をはいでいく。長い。25センチ。人間の骨で一番長い大腿骨(だいたいこつ)だ。土から取り上げ、両手で包む。  木村はただ、「くーっ」と高い声を発した。笑う。泣く。指は丁寧に丁寧に、骨についた泥をぬぐっている。 「もうちょっと探しましょうか……」。かすれた声。足元を見渡す。「いや、すっげぇ……」  5年前、次女の汐凪の首やあごの骨を見つけてくれたのは、国の収容事業の作業員だった。東日本大震災から5年9カ月が経過していた。父や妻の遺体は見つかったのに、汐凪だけを長く取り残してしまった申し訳なさが先に立ち、涙も出なかった。  首やあごの骨はDNA鑑定で汐凪のものだと判明している。あの時の発見場所から6メートルの距離で見つかった子どもの大腿骨は、汐凪のものであるはずだ。木村は確信した。  やっと自分の手で救い出せた。DNA鑑定に出すと、また手放すことになる。通報して現場確認に来てもらった警察官に、しばらくは一緒に過ごしたい、と伝えた。  その晩は、捜索のために泊まり込んでいた地元大熊町の公共の宿に、遺骨を連れ帰った。自分の寝相がちょっと気になったが、ベッドで一緒に眠ることにした。 ■環境省への問い  汐凪の命は、東京電力福島第一原発事故がなければ助かっていたかもしれない。2011年3月11日、津波が海沿いの自宅を襲った時、汐凪は木村の父と一緒だった。翌日、捜索の消防団員4人が男性のようなうめき声を聞いたと証言している。場所は、後に父の遺体が見つかる田んぼのそば。3月12日の時点で、2人は存命だった可能性がある。  原発に爆発の危機が迫っていた。消防団員の仕事は捜索ではなく、住民の避難誘導に切り替わった。前日から捜索していた木村も、断腸の思いで周辺を離れた。  事故で、原発から3キロの至近距離にある自宅周辺には大量の放射性物質が降り注いだ。捜索の再開は、冬まで待たなければならなかった。厳しい立ち入り制限の中、防護服を着て1人、通い始めた。  何とか見つけ出したい。そんな木村の祈りを打ち砕きかねない話が持ち上がった。国が、除染作業で出る汚染土を集めて保管する「中間貯蔵施設」をここに造ると決めたのだ。予定地には木村の自宅跡地やその周辺が、すっぽり入った。  まだ捜索の終わらない土地が、汐凪の体が、施設の下敷きにされてしまうのだろうか。木村は居ても立ってもいられず、2014年6月、郡山市で開かれた環境省の説明会に参加し、訴えた。 「私自身、土地を売るとか貸すとか、まったく今、考えられない。津波で家族が流されて、今も1人見つからない。ずっと探していくつもりです。そこが私にとって一番、(失った家族)3人とつながれる場所なんですね。それを人に手渡すというのはちょっと考えられない」  マイクを持った環境省の職員は「本当に返す言葉もございません」「非常に心が痛む」などと言葉をつないだ後、こう漏らした。 「申し訳ございませんが、今そういうお話を初めて直接聞かせていただきまして」 三浦英之・阿部岳著『フェンスとバリケード 福島と沖縄 抵抗するジャーナリズムの現場から』(朝日新聞出版)※Amazonで本の詳細を見る  初めて? 国はここに汐凪が眠っていることを知らずに、計画を進めていたのか? 木村は強い衝撃を受けた。  国は故郷に原発を建て、爆発事故で汚染し、さらに汚染土の置き場にしようとしている。それでも、木村は中間貯蔵施設の計画自体に大反対というわけではなかった。よそは受け入れてくれないかもしれない。汚染されてしまった原発周辺に造るのは仕方がないかもしれない。  でも最低限、遺骨収容に配慮があるべきではないか。それに事ここに至って、まだ原発を続けるつもりなのか。 「中間貯蔵施設を造るに当たって、国なり東電なりの誠意というのがまったく感じられない。日本の原発を全て廃炉にするだとか、そのぐらいしてもらわないと」  木村に答えて、環境省の職員は「誠意」という単語を13回使った。しかし、言質は一つも与えはしなかった。  幸い今に至るまで、木村が捜索したい場所は、国が買収した土地を含めて手付かずで残っている。 ■正義は誰の手に  木村は東電の社長にも、問いたいことがあった。2017年10月、東電本社でドキュメンタリー映画の上映会が開かれた。自身も取材を受けていたから、監督に頼んで一緒にトークの部に出ることにした。  ちょうど前日、新潟県の柏崎刈羽原発を再稼働する手続きが一歩進んでいた。福島第一原発と同じように、東電が営業エリアの外に建てた原発だ。そうやって都会が地方に危険を押し付け、電力の恩恵だけを享受してきた結果、事故は福島で起き、汐凪の捜索が阻まれた。 「企業として原発を動かすことはあり得るのかもしれないけれど、個人としてはどう思いますか」。1人の人間として、気持ちを聞きたい。木村の問いに、会場にいた社長が直接応答する機会はなかった。ただ、最後のあいさつで、社長はこんな発言をした。 「電気をつくることは命を守ることです」  この屈辱を的確に表す言葉は、なかなかない。犠牲を強いた者が、その上「正義」を語っている。「なんか、ばかにされた感じがして。多数のために、汐凪は犠牲になったのか」。今もやりきれない思いを心にため込む。  別に東電だけを責めているのではない。事故は、大量の電気と欲望をのみこんで回ってきた現代社会を問い直すきっかけになった。どっぷりつかってきた私たち自身も変わらなければ。報道番組の取材を受け、熱を込めて訴えたのだが。  その部分はカットされた。放送局の内部で、「俺たちのせいにするのか」と怒りだした人がいたと聞く。電気を使っている全員が当事者にされ、責任を問われるから、心を閉ざして身を守るのだろうか。  大多数の国民が、少数の犠牲の上にあぐらをかいている事実から目をそらし、指摘されれば「逆ギレ」する。政府も多数の支持を頼みに、厄介事を押し込める。  犠牲者は国、東電、そして国民に、繰り返し傷つけられる。 「ここは物を言いづらい状況がある。声はなかなか、届かない」。木村の独白は、多数の県民が不条理に声を上げる沖縄から来た私には、か細いトーンで耳に残った。 ■開始20分の奇跡  沖縄で戦没者の遺骨収容を続ける具志堅は、東日本大震災の月命日にある捜索活動がずっと気になっていた。参加するきっかけがないまま2021年4月、沖縄を訪れた木村と出会い、その場で汐凪の捜索の手伝いを申し出た。 「不条理のそばを黙って通り過ぎない」と、具志堅はよく口にする。原発事故も戦争も誤った国策の帰結であり、多数の犠牲者を生んだ。その国が原発の再稼働と戦争準備を進め、過ちを繰り返そうとしている。犠牲者を冒涜し、2度殺そうとしている。  だから福島には、捜索を手伝うためだけに行ったのではなかった。木村と一緒に、不条理を告発するために行った。少数の命を犠牲にして成立する正義など、ない。なるべく長い時間、現場に立ちたかったから、まとまった休みが取れる正月を使うことにした。元旦、那覇空港から福島へ向かった。  同行した私は、隣席の具志堅の行動に驚いた。前の座席の背からテーブルを引き出すや、「骨」を4個転がしたのだ。飲み物を置く丸いくぼみにはまったそれらは、よく見るとプラスチック製の模型だった。  手首に近い所にある手根骨(しゅこんこつ)。塊状で、石ころとの見分けが特につきにくい。具志堅は模型をつまみ上げ、指先で微妙なカーブや突起の感触を確かめては、紙の切れ端に気づいた点を書き込んでいく。紙はいつも持ち歩く手帳に挟んだ。  自宅には全身分の骨の模型がある。夕食後に時間ができると、一部をばらばらにしては組み上げて、と体に覚えさせる練習を繰り返している。客室乗務員の視線は気になったが、具志堅の本気度に対する敬服の念がそれを上回った。  日が暮れて、福島にたどり着いた。具志堅はやはり結果だけを見据えていた。木村と再会のあいさつもそこそこに、5年前に汐凪の遺骨の一部が見つかった状況を詳しく聞き取った。  作業初日となった正月2日は、5年前の発見現場周辺を歩き回った。地形を見極め、雨水が流れる経路を頭に描き、作業に着手する場所を定めた。木村が一通りの捜索を終えたと考えていた周辺だ。よく花を手向けに訪れている場所でもある。  その場所で、開始からわずか20分後、遺骨が見つかった。  木村には信じられない。具志堅も、信じられなかった。「これは奇跡です。お父さんと娘さんが呼び合った結果です」と声を震わせ、目を伏せた。 ■この現場を忘れない  捜索は3日間続き、最終日は雪が舞った。具志堅はまるで子どものようにはしゃいだ。天に向かって口を開き、「入らないかな」と挑戦している。「沖縄に帰ったら、猛吹雪にも負けず作業した、と自慢しなきゃ」「そういえばペンギンやシロクマを見た気もする」  木村はにこにこしながらそれを聞いた。「汐凪はにぎやかなのが好きな子だった。こうやってここにみんなが集まって、笑っているのを見て喜んでいると思う」  具志堅が応じる。「たとえ遺骨が見つからなくても、遺骨に近づこうとする気持ち自体が慰霊になります。祈りが精神的な慰霊だとすると、遺骨収容は行動で示す慰霊です」  具志堅との縁をつないだのは、木村と10年交流してきたフォトジャーナリストの夫妻、安田菜津紀と佐藤慧だった。ある時、安田が木村をラジオのゲストに招き、中間貯蔵施設を造る環境省が汐凪のことを知らなかった話を紹介した。  リスナーから、「驚かない」という反応があった。沖縄戦戦没者の遺骨を含む土砂で海を埋め立て、辺野古新基地を造ろうとする政府のやることだから、と。その通りだ、と安田は思った。  2021年4月、夫妻を中心に運営するNPO法人「Dialogue for People」の取材企画で、木村を誘って沖縄を訪ねた。この時、3人は具志堅に初めて会った。年明けに今度は具志堅を福島に招くことにした。それが、誰も予測し得なかった遺骨発見につながった。  安田は「人間ってすごい」と言った。多数派のエゴを少数派に押し付け、放射能汚染で遺骨も捜索できないような事態を引き起こしたのも人間。でも、その事態を乗り越えて遺骨を土中から救い出したのもまた、人間だった。  人と人のつながりは、時に奇跡を生む。最高の形で、それが証明された。  私がこの場に立ち会えたのも、安田とのつながりのおかげであった。沖縄、ヘイトスピーチなど、関心分野と取材現場が重なっていて、よく顔を合わせるようになった。そんな私に、具志堅の福島行きをセッティングした上で、同行を打診してくれたのだった。  仮にも取材者同士の間柄で、独占できるはずの取材機会を共有するというのは簡単なことではない。それなのに安田も佐藤も、ぜひ記事にして広めてほしい、楽しみにしている、と目を輝かせる。2人は、多様な視点を持ち寄ることの力、不条理をうがつ報道の力を信じている。  三浦英之もそうだった。福島の地方記者として1年で一番多忙な3月11日前後に私を受け入れ、木村をはじめ大切にしている取材相手を紹介してくれた。私が福島に通うきっかけは、三浦が作った。  その三浦が、帰省していた神奈川の実家から、遺骨収容の一行に合流した。安田や佐藤と初対面のあいさつを交わす。志がゆるやかにつながり、広がっていく。  翌4日の作業最終日は、みんなで土を掘り返し、雑草の根っこを引き抜いた。時々、思い出したように木村や具志堅にレンズを向けては、またスコップに持ち替えて黙々と作業する。ある意味で奇妙な、そしてずっと忘れないだろう取材現場。  大腿骨が見つかった後、3日間のうちで遺骨らしきものは見つからなかった。でもそれは、悲しむべきことではないのかもしれない。  木村は「楽しみができた。ここでゆっくり汐凪と向き合っていきます」と話した。春には若者たちを連れて沖縄に行き、具志堅の遺骨収容現場を訪ねようと計画している。  具志堅は、次にまとまった休みが取れるのはゴールデンウィークか、と考えを巡らせている。愛用のねじり鎌とスコップは、福島に置いてきた。  取材者の私たちもまた呼び合い、それぞれの現場を行き来するだろう。  ともに汗をかき、笑い、怒るだろう。
秋篠宮さま「バオバブ部屋」の折り合い 皇族と一人の人間のはざまでの苦悩とは
秋篠宮さま「バオバブ部屋」の折り合い 皇族と一人の人間のはざまでの苦悩とは 2020年11月14日、東京・元赤坂の秋篠宮御仮寓所での秋篠宮ご一家(写真:宮内庁提供)  江森敬治さんが秋篠宮さまに37回も面会して書いた著書『秋篠宮』が話題だ。そこから見えてくるのは「皇族」と「一人の人間」のはざまで苦悩する姿だ。AERA 2022年5月30日号の記事から。 *  *  *  苦境において手を差し伸べてくれる。そんな友を持つ人は幸せだ。だから秋篠宮さまは、幸せな人──話題の本『秋篠宮』を読んで思ったことだ。  著者の江森敬治さんは今年3月まで毎日新聞記者をしていた。が、秋篠宮さまとの出会いのきっかけは取材でなく、妻だった。  結婚前に学習院大学経済学部の副手をしていた妻が、川嶋辰彦教授を通し、高校生だった長女・紀子さんと親しくなった。1990年、紀子さんは秋篠宮さまと結婚。江森さんと秋篠宮さまは翌年2月に初めて会ったが、お互いに妻同伴だった。 ■メディアと皇室の問題  江森さんはその年、宮内庁担当に。3年で担当を離れる時、秋篠宮さまは「これでお会いしやすくなりましたね」と笑った──という話は、江森さんの前著『秋篠宮さま』に書いてある。  出版したのは98年だが、大きく後押ししたのは96年の出来事だったということは想像に難くない。同年4月、秋篠宮さまはタイを私的に訪問。生物学の研究だったが、来日中の米大統領の晩餐会と重なっていたため、大きな批判を招いたのだ。  江森さんは経緯を解きほぐす。同時に、メディアが伝えるのとは違う秋篠宮さまの「素顔」を描写する。そこから浮かぶメディアと皇室、双方の問題点を指摘する。『秋篠宮』で江森さんがしようとしたことの原点だ。  2冊を通してわかるのは、江森さんが秋篠宮さまの良き友であるということで、冒頭にも書いた。そして、良き友を持つのは良き人。そのことも思った。  前置きは以上。本題の『秋篠宮』だ。「はじめに」にこうある。 <私は、本書のための取材を開始した一七年六月から脱稿する二二年一月末までの間に、秋篠宮邸および御仮寓所に合計三十七回、足を運んだ>  17年5月、NHKが秋篠宮家の長女眞子さんと小室圭さんの婚約内定をスクープ。以来、つい最近までの37回だから、話題になって当然だ。17年12月に「小室さんの母の借金問題」が報じられ、18年2月、結婚に関する儀式の延期が発表された。延期を提案したのは眞子さんで、1月初旬には決まっていたことをこの本で知った。延期発表直後に秋篠宮さまが江森さんに言った「二人はそれでも結婚しますよ」と「先のことは、誰にも分かりませんからね」は、多くのメディアが引用している。 1973年11月、東京・元赤坂の東宮御所でペットのヒツジ「コロー」と礼宮さま(当時)  江森さんは、「娘の結婚問題で秋篠宮がうまく立ち回れたとは思えない。父の責任を問う声も、世間から上がった。だが、娘の結婚に際しての父親の態度や取り組みに、正解があるはずがない」と解説する。<父親として、皇族として、悩みに悩み抜いている姿を側で見るのは辛かった>とも書いていた。 ■眞子さんの「自己実現」 「皇族」と「一人の人間」のはざまで苦悩する秋篠宮さまの姿から、現在の皇室の問題を考えてほしい。それがこの本の眼目だ。だから眞子さんの結婚にも、江森さんは皇族の不自由さを見る。一般女性に比べ、恋愛の自由がかなり制約されている。ゆえに眞子さんは圭さんとの恋愛に前のめりになり、周囲の忠告に耳を貸さなくなった、と。  その面もあると思う。が、同性として、それだけかなと思う。「男系男子」で継承していく皇室で、女性皇族は絶対的な非主流。「自己実現」を追い求めると、皇室の外に出るしかない。そのための唯一の手段は結婚だけ。そういう構造の中に眞子さんがいたことを思わずにいられない。  それに拍車をかけたのが、この本で知った働く秋篠宮さま像だ。ジェンダーを理解する、女性にとって良い上司なのだ。  悠仁さまが生まれた直後の記者会見で、女性皇族の役目を「私たち(男性皇族)と同じ」「社会の要請を受けて務めを果たす」「違いは全くない」と明言。皇嗣になってからは侍従、女官という男女別の職種をやめ、宮務官に統一した。江森さんには「これからは、女性の皇嗣職大夫や女性の宮務官長も十分にありえます」と語ったそうだ。  こういう“上司”の下で公務という“仕事”をしながら、眞子さんは“寿退職”を強く望んだ。やはり構造の問題だと思う。が、ここからは違う話をする。  江森さんが描写する秋篠宮邸の内部が不思議だった。例えば珍獣シファカの木彫りなど、マダガスカルに関連するものが並んでいるらしい通称「バオバブ部屋」。秋篠宮さまにとってマダガスカルは、眞子さんと訪れた思い出の地だから、まだわかる。「木彫りのクマの親子が出迎える」という部屋もある。母グマの木彫りは1メートル以上、とあった。お、大きい。3羽の鳥の剥製が並び、にらまれているようだという描写もあったから、きっとこれも大きいのだ。 5月7日、「みどりの感謝祭」の式典に出席した秋篠宮家の次女佳子さま ■シャイで社交ベタ  なぜ? という疑問が氷解したのはこの記述を読んだ時。<珍しいものを部屋に飾っておくことに意味があると、彼から聞いたことがある。部屋に珍品が置いてあれば、それをきっかけに話が弾むことがあるのだという。「自分はシャイで社交ベタだ」と自認する彼らしい工夫だ>  皇室にとって必須であろう「社交」が苦手だという秋篠宮さま。だが、それをしないわけにはいかない。だから変わったインテリアを置き、「自分」と「皇族」の折り合いを付ける。そうして秋篠宮さまは、「一人の人間=自分」と「立場」を何とか両立させている。  組織作りだけでなく、警備体制や被災地訪問の仕方など、秋篠宮さまがさまざまな改革を進めていることも書かれていた。前例にとらわれない改革こそが秋篠宮さまであり、それも自分と立場を両立させる方法の一つなのだろうと思えてくる。  生きていくとは、常に何かとの折り合いをつけることだ。だが、昨今の皇族が切なく感じられるのは、折り合いを付ける大変さが際立っているからかもしれない。そんな風に思いながら読み進めると、衝撃の記述に出合う。 ■ヒツジに生まれたら  最終盤、江森さんは代替わり前から、秋篠宮さまが「抱負」や「決意」を口にしないことを改めて書く。気負わず職務を果たすのだろうとし、秋篠宮さまがふとした時に見せる「素」の話を書く。そして、随分前に口にしたという言葉を再現する。 「今度、生まれてくるとしたら、人間ではなく、ヒツジがいいかもしれない。ヒツジになってひねもすのんびりと草をはんで……ヒツジに生まれてきたら、なんとなく楽しいかもしれない」  幼い頃、ペットのヒツジを可愛がっていたという秋篠宮さま。だとしても、余りに切ない。  だから最後に、秋篠宮家の次女佳子さまのことを。5月7日、佳子さまは「第31回森と花の祭典『みどりの感謝祭』」に出席した。秋篠宮さま、眞子さんと受け継いできた名誉総裁に初めて就任、参加者を前に挨拶した。  佳子さまは、花柄のレースの上下に薄いピンクのジャケットを着ていた。女性皇族の柄ものの服を初めて見た。レースの花にもピンクが散り、とても明るかった。3年前、眞子さんは淡い緑色のワンピースでこの式典に出席した。そちらが普通で無難なのに、佳子さまは変えた。  前例踏襲せず、好みのファッションを選んだ。そう理解すれば、それが佳子さまなりの折り合いなのだと思えてくる。自分と立場。重ならずとも、折り合いをつける。佳子さまの花柄がまぶしかった。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2022年5月30日号
“軍人の妻”合唱団の実話を映画化 「シング・ア・ソング!」の感動とは
“軍人の妻”合唱団の実話を映画化 「シング・ア・ソング!」の感動とは (c)MILITARY WIVES CHOIR FILM LTD 2019  イギリスの人気テレビ番組でも特集された“軍人の妻”合唱団の実話を、「フル・モンティ」のピーター・カッタネオ監督が映画化した「シング・ア・ソング!~笑顔を咲かす歌声~」。合唱団結成を主導した女性を、アカデミー賞ノミネート経験のある現代の名優クリスティン・スコット・トーマスが演じる。  2009年、愛する人を戦況が激化するアフガニスタンに送り出し、最悪の知らせが届くことを恐れながらイギリス軍基地に暮らす軍人の妻たち。大佐の妻ケイト(クリスティン・スコット・トーマス)は、何げなく始めた合唱に、彼女たちが笑顔を見せることに気づく。最初は、人前で歌えなかったり、音程を無視して歌ったりと、心も歌声もてんでバラバラ。しかし、心情を吐露するように共に歌い続けるうちに、同じ気持ちを持つ仲間として互いを認めていく。  そんな合唱団のもとに、戦没者追悼イベントへの招待状が届く。思いがけない大舞台に浮足立つ妻たちだったが、そんな彼女たちの元に舞い込んだのは、恐れていた知らせだった。 本作に対する映画評論家らの意見は?(★4つで満点) (c)MILITARY WIVES CHOIR FILM LTD 2019 ■渡辺祥子(映画評論家) 評価:★★★★ 戦地の兵士と彼らを家で待つ者たちの間で交わされる手紙の言葉を歌詞に使った歌が胸に沁みる。同じ時に月を見上げる約束の夫と妻。コーラスグループの活動は楽しいけれど軍人の妻や恋人というところに不安の影がさす。 ■大場正明(映画評論家) 評価:★★★ ひとりで問題を抱え込んだ大佐の妻は買い物依存症になっている。合唱であれば、妻たちがそれぞれに自分の声を持ち、分かち合える。彼女たちが歌うと、よく知られた曲でもその歌詞に特別な思いが込められ、心を動かされる。 ■LiLiCo(映画コメンテーター) 評価:★★★★ こんな作品に出会うと本当に嬉しい。コミカルに描いているけど、お互いを思う気持ちで泣けます。不安の中で生きなければいけない奥様たち。でも同じ立場の方に刺激を与えて、まねして心の支えになる。応援します! ■わたなべりんたろう(映画ライター) 評価:★★★★ 大衆映画の良さが十二分に横溢。この監督の「フル・モンティ」と同じく、自分の殻を破って前を向くドラマだが、日常が死と隣り合わせなのが相違点。キャラクターの描き方に工夫が凝らされていて喜怒哀楽を共有できる。 (構成/長沢明[+code])※週刊朝日  2022年5月27日号
もし神保町の古書店ビルを所有できたら 原田ひ香が描いた「夢のような話」
もし神保町の古書店ビルを所有できたら 原田ひ香が描いた「夢のような話」 はらだ・ひか=神奈川県生まれ。2005年、「リトルプリンセス2号」でNHK創作ラジオドラマ大賞、07年、「はじまらないティータイム」ですばる文学賞。著書に『三千円の使いかた』『母親からの小包はなぜこんなにダサいのか』など。(撮影/喜多剛士)  思いもよらない遺産相続で神保町の古書店ビルが自分のものになったら……。原田ひ香さんの新刊『古本食堂』(角川春樹事務所 1760円・税込み)は神保町を舞台にした長編小説だ。原田さんはこの界隈に1年ほど住んだことがある。 「神保町は昔からいろいろな人に書かれていて、街の魅力につぶされそうな感じもあったんですけど、古書店の絶版本と食べ物を組み合わせた物語なら、新味を出せるかと」  全共闘世代の古書店主が突然亡くなり、帯広から上京した妹が店を引き継ぐ。親類で国文学専攻の大学院生と切り盛りする店には、悩みを抱えた客が次々に訪れ、亡くなった兄の素顔が明らかになっていく。 「気がついたら古本屋になっていて、小さなビルとはいえ家賃収入もある。お金のことを気にせずに好きな本を売れるというのは一つの夢ですよね。夢のような話を書くのもいいかなと思いまして」  作中には自身が活用している小林カツ代『お弁当づくり ハッと驚く秘訣集』、小学生のときに読んで衝撃を受けた本多勝一『極限の民族』、大学で国文学を専攻した原田さんらしく『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』や『国文学全史 平安朝篇』も登場する。 「どの本を取り上げるかがいちばんの悩みどころでした。品切れや絶版になっている魅力的な本がたくさんあるので、ご紹介したかったんです」  取材で神保町を歩いていて見つけたのが、ちくま文庫『お伽草子』だ。その中の一編、谷崎潤一郎が現代語訳した「三人法師」を古書店の悩める客の処方箋に選んだ。 「お伽草子の中ではあまり有名な話ではないけれど、数百年前の日本人に今とはまったく違う考え方があったことに驚いて、これは入れたいと」  原田さんが大妻女子大学の学生だった約30年前、図書館長の伊藤博教授から、「小さい大学だけど専門書をきちんと買っているから本に関しては自信を持っていい」「古典の研究者は物語を後世に残していく長い長い鎖の輪なのだ」と言われた。 「先生は自分も鎖の輪の一つであり、源氏物語のような古典を残していくのが使命だとおっしゃった。そういう話を物語の中に残したいという気持ちはありました」  原田さんはシナリオライター、プロットライターを経て30代で小説家に。50代を迎え、店じまいも考えようかという矢先に『三千円の使いかた』がヒットして原稿依頼が急増し、5年先まで予定が詰まっている。  執筆は年間3冊のペースだ。家族が出かけた後にカフェで入力専用機「ポメラ」に向かい、スーパーで買い物をして家で昼食。目標の原稿用紙6枚分に達しないときは午後も別のカフェで書く。  本書には「ボンディ」のビーフカレー、「揚子江菜館」の上海式肉焼きそば、「ランチョン」のビールとメンチカツなど、食の魅力もたっぷり描かれている。神保町に飛んでいきたくなるこの小説、好評につき続編の執筆が決まったそうだ。(仲宇佐ゆり)※週刊朝日  2022年5月27日号
参院選出馬の「水道橋博士」が明かした「妻の涙」と「たけしからのメッセージ」
参院選出馬の「水道橋博士」が明かした「妻の涙」と「たけしからのメッセージ」 水道橋博士  夏の参院選にれいわ新選組からの出馬を表明したお笑いコンビ・浅草キッドの水道橋博士(59)。選挙では「反スラップ訴訟」「消費税ゼロ」などを訴えていくとされるが、本当に政治家になる覚悟はあるのか。また、かつて自身が批判していた「タレント候補の出馬」について今はどう思っているのか。その他、師匠であるビートたけしの反応なども含めて、数々の疑問を本人に直接聞いた。 *  *  * 水道橋博士が「出馬表明」したのは、都内でトークショーが行われた18日のこと。れいわ新選組の山本太郎代表からの「れいわで一緒に参議院選戦ってくれるかな」という問いかけに対して「ああ戦います、はい戦います」と答えたのだが、本人の口からは一度も「出馬します」というストレートな言葉は聞かれなかった。  そこで、インタビュー冒頭で改めて聞いてみた。ズバリ、本当に次の参院選に出馬するんですよね? 「えーと、まぁ確実にすると思うんですが……。れいわさんも山本太郎代表の“独裁”ではなく、党できちんと会議をへて候補者を決める過程を踏むので、ワンクッション置かせてもらっている状態です」  では「れいわ」のことはいったん脇において、水道橋博士さんのお気持ちはどうなんでしょうか? 「れいわさんに誘われてなかったら出馬してないですね」  じゃあ、出馬しますと言ってよろしいんですね? 「出馬します」  やっと、スッキリと答えてくれた。  出馬への懸念材料としては、供託金の問題があるという。参院選の立候補に必要な供託金は、選挙区での出馬は300万円、比例区なら600万円と高額で、得票数が一定の水準に達しなければ没収されてしまう。れいわ新選組がこの供託金を負担してくれることが、出馬の条件だという。 「れいわさんが選挙分析をして『水道橋では票が取れないので、供託金は払えない』というなら出馬はしないと思います。その場合、他党から『供託金を払いますから出てください』と言われれば、それはやぶさかではありません。ウチの家計には供託金を払えるような余裕はないので、(今回の出馬は)予定していなかった行動なんです」 トークショーに出演した水道橋博士(左)とれいわ新選組の山本太郎代表(中)と同党の大石あきこ議員(撮影/原田専門家)  出馬を考えたのは、本当にごく最近のことだという。15日、川崎市の溝の口駅前で山本氏の街頭演説があった。そこに博士は「自称ジャーナリスト」として訪れ、山本氏に質問した。 「4月25日かな、松井一郎・大阪市長から訴状が届きました。名誉毀損の裁判を5月30日、大阪地裁でやるんですが、裁判費用は莫大(ばくだい)にかかります。被告になってテレビ、ラジオに出られないということになれば、政敵をテレビ、ラジオに出演させないために訴える方法があるわけです。反スラップ訴訟の法律をつくりたい。れいわさんで今後、反スラップ訴訟の立法化について努力してくれるかをお聞きしたい」  2月13日、博士はツイッターで松井市長を批判したYouTube動画を紹介した。これに対して、松井市長は「水道橋さん、これらの誹謗中傷デマは名誉毀損の判決が出ています。言い訳理屈つけてのツイートもダメ、法的手続きします」とツイッターで応戦。本当に訴訟沙汰に発展したという経緯がある。  博士はこの訴訟について、権力を持つ地位にある者が弱い者の口を封じるために訴訟を起こす「スラップ訴訟」だと主張しているのだ。  博士の質問に対して、山本氏はこう答えた。 「(水道橋さんは)自称ジャーナリストから政治家になったらどうですか。自分自身がスラップの被害者であるならば、その立場に立って立法していくというのはかなり説得力のある話なんです。(供託金は)うちから出しますから、うちから出てください。どうでしょう?」  博士はまんざらでもない様子で「検討します」と応じた。  これが発端となり、博士の「出馬」が現実味を帯びた。 「立候補は(山本氏とのかけあいで生じた)偶然の産物です。それから3日間、出馬のための調整をしました」  博士が最初に相談したのは、妻と娘だった。 「妻には(街頭演説翌日の)16日に打ち明けました。泣いていましたね。本当にかわいそうでした。そういうことが好きなタイプの女性ではないので。妻は『家計の持ち出しになるのは絶対に嫌だ』『子どもの教育費を残してほしい』ということをずっと言っていました」  娘はこう言ったという。 「私も公の仕事に就きたいという希望があるから、パパ、人の道を汚したり、後ろ指をさされるようなことがあったら困ります」  師匠のビートたけしとは「出馬表明」前日の17日午後、直接会って相談したという。その時の様子をこう明かす。 「芸人仲間の原田専門家と2人で待ち合わせ場所へ行きました。実に2年半ぶりの再会になりました。たけしさんはもう75歳なので体調はどうかと思っていましたが、非常にお元気な様子でした。話したのは30分くらいです。たけしさんは政治的な活動には、冷ややかなんです。ご自身も出馬などはなさらないので。私からは『大阪の松井市長に訴えられていて、反スラップ訴訟をやらないことには、僕はただ干上がるだけなので、出馬させてほしい。ただし、たけしさんが芸人として出馬はするなとおっしゃるのであれば、出馬はやめます』と申し上げました」  たけしはこう答えたという。 「おまえのことはおまえで決めていいよ。ただし、オレは一切関係ないし、一切の応援はしない」  たけしとは部屋を出て別れた。 「たけしさんの後ろ姿は、がんばれよと言っているようで、かっこよかったです」  たけしの承諾が得られたことで、18日の「出馬表明」となったわけだが、それを報じた記事のコメントやSNSでは批判も巻き起こった。 「タレントとして仕事が減ったから報酬の高い国会議員になろうとしている」「選挙をネタにしたいだけ」などの批判も少なくなかった。こうした声について、どう思っているのだろうか。 「客観的にみれば、そう受け取れるでしょうし、(批判は)傾聴に値するというか、そう思われるだろうなとは思います。僕もタレント候補に対しては、以前からかなり批判してきましたから。ネットで発信する限り、自分を全否定されたり、気を病むくらいの矢が放たれてきたりすることは当然のことだと思っています」  選挙をネタにしたいだけという書き込みについては、 「芸人は選挙もネタにすればいいんじゃないですか。(立川)談志師匠がそうであったようにね。『囃(はや)されたら踊れ』というのが芸人ですから」 松井一郎大阪市長との裁判における口頭弁論の呼び出し状(一部画像を修正しています)  参院選で最も強く訴えたいことは「反スラップ訴訟」だという。  前述のように、博士は松井市長から名誉毀損で訴えられているが、2月13日のツイートから訴訟に発展するまでの間には、直接話をしようと試みたこともあった。  松井市長が現れる応援演説に出向き、本人にも声をかけたが、ほとんど反応はなかったという。 「知り合いのジャーナリストに聞いたところ、松井市長はジャーナリストだったらいつでも会いますと言っているようでしたので、即座に肩書を“自称ジャーナリスト”に変えて、なぜ僕を訴えようとするのかを松井市長に質問しに行っているんです。公人だから、そうして声をかけられることもあると思うのですが、なぜか反応はしてくれませんでしたね。僕は、絶対に向こう(松井市長)が大後悔するところまでやります。芸人という職業をバカにしてああいうこと(訴訟)をしているわけで、僕はそんなにヤワじゃないぞということは絶対に見せたいですね」  選挙戦では、反スラップ訴訟を軸に「反維新」の包囲網を広げていくつもりだという。また、アントニオ猪木元参院議員が30年以上前に「スポーツ平和党」を旗揚げして参院選に出馬した時のスローガン、「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」も口にしている。 「それはほんとにギャグで言っているだけなんですが、あまり響かないので、もうみなさん、覚えていないのかなと思いました。経済政策としては、消費税ゼロとインボイス反対を訴えていきたいです」  参院選までおよそ2カ月。水道橋博士は客寄せの“タレント候補”で終わるのか、はたまた旋風を巻き起こす新人議員となるのか。これからの活動で試される。(AERA dot.編集部・上田耕司)
「火は自分でおこすもの」「痕跡は残さない」  達人キャンパーたちのコアな世界
「火は自分でおこすもの」「痕跡は残さない」  達人キャンパーたちのコアな世界 【原始のスキルを磨くブッシュクラフト】風向きを見て、立ち木を利用してタープを張る(撮影/写真映像部・松永卓也) 【原始のスキルを磨くブッシュクラフト】火打ち石の火花を育てるのに使うフェザースティックは、小割りした薪を削って作る(撮影/写真映像部・松永卓也)  コロナ禍が続く中、アウトドアの人気も続いている。3密を避けることができるレジャーとしてキャンプ人気が広がるいっぽうで、達人たちのコアな世界がある。AERA2022年5月23日号から。 *  *  *  これまでに何度ブームがきたことだろう。アウトドアがまたもや人気だ。新型コロナウイルスの感染拡大により、国内のレジャーの様相が一変した2020年、年間のオートキャンプ参加人口は610万人(日本オートキャンプ協会「オートキャンプ白書2021」から)にのぼった。 「3密」を避けるレジャーとして注目されたことで多くの初心者が流入し、裾野が大きく広がった。いっぽうでコアな世界を突き進む、「こだわりキャンパー」もまた増えている。 「川のせせらぎと風の音しか聞こえないって、最高でしょう?」  まだ肌寒い3月初旬、木を利用して張ったテントサイトの傍で火をおこしながら、日本ブッシュクラフト協会のメンバーの一人が言った。  茨城県高萩市の小山ダムに隣接する「ブッシュ&レイク in はぎビレッジ」は、市が市域の約8割を占める森林原野を活用する「アウトドアのまち」をめざす取り組みの一環だ。  ブッシュクラフトとは、必要最低限の装備で森へ入り、その場にあるものを生かして生活するテクニックのことだ。寝泊まりするのに適した場所を見つけ、持参した幕(タープ)とロープを使って、立ち木などを利用してテントを張る。金属ポールなど、通常ならキャンプの必需品となる道具はほぼ使わず、その場にある木や落ちている枝を利用する。散り敷かれた落ち葉が、ふかふかの天然のベッドになる。 自然を学ぶ場として  火をおこして暖を取り、川で釣った魚を焼き、持参した食料を温める。焚き火台も使うが、基本は直火だ。  日本ブッシュクラフト協会の相馬拓也代表理事は言う。 「現在、日本のキャンプ場はほとんどが直火禁止で、木を切るのもNGです。禁じられた理由は、利用者に技術がないから。ブッシュクラフトは確実な火の管理や消火法、木を傷めない切り方を実践する技術でもある。この場所を、そんな知識や技術を磨く場にしようと計画中です」 【痕跡を残さない軍幕キャンプ】小池さんのテントサイト。軍幕はドイツ連邦軍のもの(撮影/写真映像部・大野洋介) 【痕跡を残さない軍幕キャンプ】隣の軍幕も覗いてみた。コンパクトな焚き火台でも、天ぷらガードのような「リフレクター」があると熱が室内に反射されて暖かい(撮影/写真映像部・大野洋介)  ブッシュクラフトの知恵は、防災にも役立つ。小さな火花から安全に火を育て管理する技術やナイフの使い方を知ることは、自然を利用する楽しさと脅威を学ぶ機会にもつながる。 「軍幕キャンパー」をご存じだろうか。軍隊式のキャンプを実践する人々のことだ。 「軍隊では、キャンプも軍事行動ですからね。居場所を知られたり、痕跡を残したりしないようにする技術が求められます」  大きな石がゴロゴロする河原で、小池公明さん(60)はそう言った。小池さんは、21年10月現在で全国に約2万人の会員がいる日本単独野営協会の、埼玉支部役員だ。 「私たちが使っているテントは、さまざまな国の軍隊からの放出品です。シンプルで丈夫な木綿の布製で、いわゆる軍幕と呼ばれるものです」  この日、小池さんが使っていたテントは、身にまとえばポンチョにもなる個人用軍用テントだ。かつては米軍のものが主流だったが、ここ数年ヨーロッパ製を仕入れる業者も増えているという。 「昔から軍放出品として販売されていますし、5年ほど前からソロキャン(ソロキャンプ=ひとりでキャンプすること)の流行で注目されるようになりました。年代や国によって迷彩柄のパターンが違うのも、面白いところです」(小池さん) 環境を傷つけない  各国で装備品の素材が変わったり、冷戦が終結すると、こうした装備品が放出され、出回るという。すべて同じ年代、同じ国の装備で揃える人もいる。 「私は昔から好きだったミリタリーテイストを楽しんでいるだけなので、コット(寝台)も使うし、寒いときはニトリのムートンを敷くことも。『軍幕』としてはライトなほうです」(同)  よく見ると、使った人の名前や管理用の記号が書いてあることも。繰り返し補修した不器用な針目を見ると、かつての持ち主だった異国の軍人に思いを馳せてしまう。  小池さんはしみじみ言った。 「いま心から思うのは、こうした軍幕キャンプも、平和だからこそ楽しめる遊びなのだということです」 【レトロがエモいビンテージキャンプ】移動カフェのような黒崎さんのキャンプサイト。並べられた雑貨は家庭用に見えるがすべてアウトドア用(撮影/写真映像部・大野洋介) 【レトロがエモいビンテージキャンプ】この日は(右から)芳野さんファミリー、黒崎さん夫妻、杉山さんが集まった(撮影/写真映像部・大野洋介)  日本単独野営協会はソロキャンパーの集まりで、軍幕はその1ジャンルだ。同協会が標榜するのは「環境を傷つけないキャンプを」ということ。キャンプ大会の際も、個人でキャンプするときも、周辺のゴミ拾いなどを励行している。 お気に入りビンテージ  こだわりの用具を集め、スタイリッシュなキャンプを楽しむひとたちもいる。ビンテージの車やテント、アウトドアグッズをコーディネートして楽しむビンテージキャンプというジャンルがある。  埼玉県在住の黒崎義信さん(46)の愛車は、1967年式のワーゲンバスだ。内部を改装してキャンパー仕様にしてある。テイストを合わせてレトロなデザインに作ってもらったカーサイドタープを張り、同年代のテーブルやランプを並べると、オシャレな移動カフェに見える。 「間違えてコーヒーを買いに来た人もいましたよ」  と、妻の知子さん(47)は笑う。もともとボーイスカウトだった義信さんと、ビンテージものが好きだった知子さんの趣味が合流してこのスタイルが始まったという。 「同じ趣味の仲間や家族たちと車を並べて、いつもこうやってビンテージ村を作るんです。キャンプ場にいても私たちのまわりだけ、タイムスリップしたみたいになります」  それぞれにこだわりのキャンプスタイルがある。芳野忠輔さん(38)、知子さん(38)夫妻は1980年ごろに作られたフランス製のテントを愛用している。食器やランプなども同年代の北欧製で揃えた。  67年式ワーゲンバスキャンピングカーに乗っている杉山亮一さん(46)はキャンプ用品の製造年にこだわっている。車と同じ67年、自分が生まれた75年と、それぞれゆかりのある年式のコールマンのランタン(バースデーランタン)をコレクションしているのだ。 アウトドアをビンテージアイテムでコーディネートした写真をインスタグラムに投稿するうち、同じ趣味を持つ仲間も増えたという。 「生まれる前や幼かったころの文化を、むしろ新鮮に感じるんです。現代の製品にはないセンスと、アウトドアの楽しみが同時に味わえるところが魅力だと思います」(黒崎知子さん)  都会の喧騒を離れ、自然に触れるだけでなく、キャンプにはコアな楽しみ方もある。自分だけの趣味の世界を掘り進んではどうだろうか。(ライター・浅野裕見子)※AERA 2022年5月23日号
「鉄鎖の女性」が浮かび上がらせた現代中国の闇 誘拐と人身売買の悲惨な現実
「鉄鎖の女性」が浮かび上がらせた現代中国の闇 誘拐と人身売買の悲惨な現実 国営の中央テレビが放映した保護されてベッドに身を置く女性  中国の農村で首を鎖につながれた女性が発見された。北京五輪の開催直前に発覚したその事件が中国社会に与えた衝撃は大きい。AERA 2022年5月23日号の記事から紹介する。 *  *  * 「一歩まちがえれば、鎖につながれていたのは自分だったかもしれない」  同情と憤りと共に、中国の女性たちからそんな声が噴き出し、SNS上にあふれた。  中国東部の江蘇省徐州市豊県で撮影された動画がネットに拡散し始めたのは、1月下旬のことだった。  動画には、農村にある粗末な小屋で、女性が閉じ込められている姿が映っていた。  真冬の寒々しく汚い場所で、女性は薄着のまま首に鎖を巻かれていた。歯はほとんど抜け落ち、話しかけられても相手とうまく意思疎通ができないようにも見える。女性は保護され、病院に収容された。  中国の人びとは、この動画に大きなショックを受けた。女性が“夫”とされる男との間に8人の子どもを持ったあと、こうした境遇に置かれていたことも、衝撃に拍車をかけた。  50代の“夫”は、動画アプリ「TikTok(ティックトック)」の中国国内版「抖音(トウイン)」で、子だくさんの父親として自らをアピールしていた。地元ではちょっとした有名人で、企業の宣伝にも起用されたことがある。  動画は、そうして有名になった家庭の様子をSNSで公開しようと、この家を訪ねたとみられる男性が撮影したという。抖音に投稿されて広がり、誘拐や人身売買、性的暴行の被害者ではないか、という疑いの声が一斉にわき上がった。 「鉄鎖の女性」。女性はそう呼ばれるようになった。 ■「一人っ子政策」の影  中国では1980年代、女性の誘拐と人身売買が深刻な社会問題になった。 「一人っ子政策」の影響で男女のバランスが崩れ、女性より男性の数が多くなった農村部で、連れ去られた女性が貧困層の男性と結婚を強いられる事例などが伝えられてきた。  事件の現場となった徐州とその周辺は、そんな誘拐の被害に遭った女性が少なくないと指摘されてきた地域でもあった。 小屋の様子  地元当局は1月28日、誘拐や人身売買を否定する調査結果を公表した。発表文には、女性には精神疾患があり、たびたび理由もなく子どもや老人を殴っていたというくだりもあった。  こうした説明は「虐待を正当化するのか」という反発を招き、内容にも疑義が相次いだ。  地元当局はその後、法律違反の疑いで“夫”を調べていると姿勢を一変させた。また、8人の子どもはDNA鑑定によって、女性と“夫”の実子であることが確認されたという。  2月10日には事件に関する4回目の発表があり、監禁の疑いで“夫”を拘束したことが明らかにされた。DNA鑑定の結果、女性は雲南省出身であることが判明し、女性を誘拐して売った容疑で、40代の女と60代の男も拘束された。  だが、世論はこの内容にも納得しなかった。鎖でつながれていた女性と、雲南省出身の女性とされる写真が、別人のものではないかといった指摘が一向にやまなかった。 ■何度も売り飛ばされる  ごまかしは許さないと市民らが目を光らせるなか、国営の中国中央テレビは2月17日、江蘇省が事件の調査に乗り出すと報じた。それまで調査にあたってきた県と市が一貫性のない説明を続け、県・市のレベルでは、真相を求める世論を沈静化させられないという判断があった模様だ。  江蘇省が2月23日に発表した調査結果によると、女性は44歳で、人身売買の被害に繰り返し遭っていたことが判明したという。豊県トップの共産党委員会書記の更迭など、17人の処分もあわせて公表された。  彼女はどのような経緯をたどって「鉄鎖の女性」にされてしまったのだろうか。発表では、おおむね次のような事情が明らかになった。  雲南省の出身地とされる場所は豊県と約2千キロ離れている。10代で結婚し、2年ほどで離婚。1998年はじめに江蘇省に連れて行かれ、5千元(現在のレートで約9万7千円)で売られた。女性を妻にしたいと考えた男が買い手だったという。  数カ月して行方不明になり、その後、河南省の食堂にいた女性を経営者夫婦が見つけ、1カ月後に近くの工事現場で仕事をしていた2人に売った。さらに別の人物を介して98年6月、女性は“夫”の父親に売り渡された。 首を鎖につながれていた状態(中国メディアのSNSから。画像の一部を加工しています)  女性は99年7月に長男を出産し、2011年から20年にかけて7人の子どもを産んだ。12年に第3子を出産して以降、精神疾患が悪化したという。今回の動画がきっかけとなり、“夫”は虐待の疑いで逮捕された。 「鉄鎖の女性」は、中国にはびこる誘拐と人身売買の闇を改めてクローズアップさせ、政府も対応を迫られている。 ■政府も対応に追われる  全国人民代表大会(全人代、中国の国会に相当)では3月、李克強首相が政府活動報告で「女性・児童の人身売買を厳重に取り締まり、女性・児童の合法的な権利・利益を断固として守る」との方針を示した。公安省は3~12月に、女性や子どもの誘拐、人身売買を集中的に取り締まるという。 「3年以下の懲役」と定められた人身売買の買い手に対する罰則は、軽すぎるのではないかという議論も起きている。売った側と同じく、買った側も最高刑を死刑にすべきだとの意見が聞かれる。  女性権益保障法の改正作業も進んでいる。「地方政府の職員らが業務の過程で女性の誘拐・人身売買の疑いがあることを発見した際には、速やかに公安機関に報告しなければならない」といった内容のほか、学校でのセクハラ防止、結婚・出産を理由にした女性従業員の昇進制限の禁止──などが盛り込まれる見通しだ。 「鉄鎖の女性」の事件は、21世紀のいま、経済発展をとげた中国でこんなことが起きうるのかという驚きの一方で、自分の身に降りかかっていても不思議ではなかったという思いを呼び起こした。  中国が威信をかけて2月に開催した北京冬季五輪と時期を同じくして、人権問題に焦点が当たる事態となった。 ■女性との差はわずか  筆者の印象では、五輪以上に社会の関心を集めたと言っても過言ではない。友人知人を含む中国の市民たちが、この事件に関してSNSに書き込んだ内容の真剣さと投稿量には、目を見張るものがあった。  五輪で国民的スターになった女子フリースタイルスキーの谷愛凌(アイリーン・グー)選手と対比させる投稿も目についた。米サンフランシスコで生まれ育ち、中国代表になった谷選手は三つのメダルを獲得した。 スキー選手でモデルとしても活躍する谷愛凌さん。中国のSNSでは鎖でつながれた女性と比べる投稿が少なくなかった 「谷愛凌を照らし、鉄鎖の女性を照らさないのなら、それは偽物の太陽だ」 「谷愛凌と鉄鎖の女性はほぼ同時に注目され、激しい落差を浮き彫りにした。一人は万能で、一人は犬のような生活」 「谷愛凌のような優秀な人間にはなれないけれど、私、娘、孫娘と鉄鎖の女性の差はほんのわずかだ」  いまも残る出産で女児より男児を好む傾向、男性の結婚難、女性の誘拐……。「一人っ子政策」などがもたらした社会の歪(ゆが)みは大きい。  その象徴として、鎖につながれた女性の姿は人びとの記憶に深く刻まれた。女性が誘拐され、売買される対象であることへの強い憤りも広く共有された。  中国共産党は昨年、結党100周年を迎え、みなが衣食住に困らず、まずまずの暮らしができる「小康社会」を実現したと宣言した。だがその足元には、「鉄鎖の女性」によって白日の下にさらされた農村の悲惨な現実が横たわっている。(朝日新聞瀋陽支局長・金順姫)※AERA 2022年5月23日号
20th Centuryが「週刊朝日」の表紙&カラーグラビアに登場!「V6があって今のトニセンが存在する」
20th Centuryが「週刊朝日」の表紙&カラーグラビアに登場!「V6があって今のトニセンが存在する」  今週の「週刊朝日」の表紙とカラーグラビアには「20th Century(トニセン)」が登場。1995年の結成から昨年11月の解散までV6として26年間を駆け抜けた、坂本昌行さん、長野博さん、井ノ原快彦さんの3人が、本格的に活動を再スタートさせています。井ノ原さん主演のドラマ「特捜9 season5」の主題歌「夢の島セレナーデ」も話題に。インタビューでは、3人が、“6人の変わらぬ絆”と“3人で目指すもの”を語りました。他にも、地域の力で問題に挑むシニアの「困りごと」解決マニュアル、話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を13倍楽しむ方法、史上初めて誕生した現役東大生力士に高まる期待、運動能力調査などで高齢者の体力が軒並み上昇している話題など、盛りだくさんのラインナップでお届けいたします。  3人での活動が本格的にスタートしている「20th Century」。井ノ原快彦さん主演のドラマ「特捜9 season5」の主題歌「夢の島セレナーデ」にある「もがきながらも変わっていこう」というフレーズについて、長野博さんは「やっぱりもがかないと新しいことを生み出せない。でも、いやなことやってたら苦しいけど、そういうわけではない。楽しもうとする気持ちが大事なのかなと思います」。井ノ原さんはこのパートを坂本昌行さんに歌ってもらいたかったとのことで、「後輩や今の時代とどう向き合うかっていう、50代の人たちの思いを代弁しているという意味でも似合うと思って」。その坂本さんは周囲とのかかわり方について、「40代後半くらいから、僕のまわりにいる人が笑顔でいてほしいってずっと思ってて。いやな現場を見て、『なんかさみしいな。俺は違うやり方で進んでいこう』って思ったからかな」。経験を重ねたからこそ、3人それぞれの人生哲学がにじみでるインタビューとなりました。また、「特捜9」について井ノ原さんが語った記事も掲載。キャストやスタッフとのエピソードたっぷりでお届けしています。 その他の注目コンテンツは、 ●「草燃える」の岩下志麻インタビュー 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を13倍楽しむ三谷幸喜脚本によるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が毎回、話題を呼んでいます。源頼朝の妻である北条政子役、小池栄子の演技が好評ですが、昭和のドラマファンにとって大河、北条政子といえば「『草燃える』の岩下志麻!」ではないでしょうか。岩下さんに北条政子、そして「鎌倉殿」について聞きました。「大河フリーク」の松村邦洋さんのインタビューや、鎌倉武士の武装や食生活など、読めば13倍面白くなる(?)お話をどうぞ。 ●現役東大生の力士が誕生 やくみつる「相撲協会理事長を目指せ!」東京大学の現役学生である須山穂さんが角界に入り、大いに盛り上がる東大相撲部。東大相撲部の稽古の内容は? 歴史は? 学業との両立は? 東京都相撲連盟常任理事で東京大学相撲部OB会幹事長の白石浩三さんにお話を聞きました。また、漫画家のやくみつるさんは、大関ではなく「相撲協会理事長を目指せ!」と、今後への期待を語りました。 ●週刊朝日と考える“幸齢者”ライフ! シニアの「困りごと」解決マニュアル運転免許を返納したため買い物に行けない、足腰が弱って重いものが持てない……。高齢になると、生活する上でさまざまな「困りごと」に直面するものです。楽しく快適に暮すために、地域の“資源”で解決できる方法が! 自治体の「緊急通報装置」レンタルや、シルバー人材センターに頼む見守りや付き添いなど、様々なテクニックを紹介します。また、高齢者の体力テストの結果が軒並み向上。“ムキムキ”シニアが増えているという特集もお見逃しなく。 ●6月から業者に犬猫への装着を義務化 「ペットにマイクロチップ」どうする?6月1日に改正動物愛護管理法が施行され、販売業者などに対して、販売前の犬猫にマイクロチップを埋め込むことが義務化されます。飼い主になる際にも所有者の情報を登録しなければいけなくなります。果たしてその影響と、メリット、デメリットはどんなものがあるのでしょうか。ペットのマイクロチップ装着について考えます。 週刊朝日 2022年 5/27号発売日:2022年5月17日(火曜日)定価:440円(本体400+税10%)https://www.amazon.co.jp/dp/B09WQQGY65
サッカー強豪国のコーチとして異例の抜擢 セルビアサッカー男子A代表アシスタントコーチ・喜熨斗勝史
サッカー強豪国のコーチとして異例の抜擢 セルビアサッカー男子A代表アシスタントコーチ・喜熨斗勝史 サッカーには人生の要素が詰まっている。自分の生き方は、すべてこの競技から学んできた(撮影/今祥雄)  セルビアサッカー男子A代表アシスタントコーチ、喜熨斗勝史。サッカーの強豪国がひしめくヨーロッパ。そのワールドカップの最終予選でセルビアが劇的な逆転勝ちをおさめた。コーチを務めるのが喜熨斗勝史だ。ヨーロッパのチームで日本人コーチは異例中の異例。道のりも平坦ではなかった。一つのミスも許されない。勝てなかったらクビ。重いプレッシャーだが、指導者としての高みを目指して挑戦が続く。 *  *  *  ポルトガルの首都リスボンの浜辺に座った喜熨斗勝史(きのしかつひと)(57)は、奔流のような自身の人生をかみしめていた。ホテル群のまたたきが映る真夜中の海岸。数時間前の熱狂がいまだ余韻として身体の中に残っていた。  この日、2021年11月14日の夜、リスボンでは、ポルトガル代表対セルビア代表のワールドカップ最終予選が行われ、アウェー戦に臨んだセルビアが劇的な逆転勝ちを収めていた。これにより、セルビアは、ワールドカップカタール大会への出場を決め、逆にポルトガルはプレーオフへと回らなければならなくなっていた。  喜熨斗の肩書は、「セルビアサッカー男子A代表アシスタントコーチ」。この年の3月に就任して以来、セルビア代表をワールドカップへ導くために監督のドラガン・ストイコビッチ(57)を支え続け、この夜、ひとつのゴールを迎えていた。  深夜の浜辺に座った喜熨斗は、日本に住む妻に電話を入れた。早朝から試合の生中継を見ていた妻の声はうわずり、互いに涙声になった。  喜熨斗が振り返る。 「小学校に上がる前からサッカーを始めて、コーチになるという決断をして、妻をはじめいろんな人に助けられてここまできた。もう、コーチ業としてはマックスだなと思うと同時に、もっと上を目指せるとも感じていた。諦めずに一生懸命、ひとつひとつ積み重ねていくと、こういうことが起きるんだということを、このとき改めて実感していました」  サッカー強豪国セルビア(旧ユーゴスラヴィア)で日本人が代表チームのコーチとして場を与えられることは、異例中の異例だ。極東からやってきたコーチに対して、名門アヤックス・アムステルダムでキャプテンを務めるドゥシャン・タディッチをはじめ、欧州リーグで活躍するセルビア人選手たちが当初、どんな思いを抱いていたかも容易に想像がつく。そんな中、喜熨斗は、限られた時間でスタッフや選手たちからの信頼を勝ち取り、チームになくてはならないコーチとして受け入れられたのだ。 一時帰国した3月、旧知の三浦泰年が監督を務めるJFL鈴鹿ポイントゲッターズの練習に参加。その弟のカズとは長年にわたってパーソナルコーチ契約を結び、自主トレのメニューなどを構成、ベテランを支える(撮影/今祥雄) ■母子家庭で平屋のボロ家 サッカーだけが支えだった  喜熨斗は、歌舞伎役者の家系に生まれた。祖父は二代目市川小太夫、その兄つまり喜熨斗にとっての大伯父が初代市川猿翁と八代目市川中車という生粋の役者一家だった。市川小太夫は、1950~60年代には東映、松竹などで100本を超える映画に出演する人気俳優でもあった。  喜熨斗が物心ついた頃には、アナウンサーだった父と母は別居していて、母と2人での暮らしが続いていた。サッカーを始めたのは、父親不在の中で、「何か人とコミュニケーションがとれるものを」と考えた母が園児だった息子を地元のサッカー教室に入れたのがきっかけだった。  喜熨斗が述懐する。 「母子家庭だったので裕福ではなく、みんなの家は水洗トイレなのに、うちはなんで流れないんだろうと真剣に思っていた。そんな平屋のボロ家に友だちを呼ぶことも恥ずかしくてできなかったし。そんな中での自分の存在価値は、サッカーにしかなかった。キャプテンだったし、うまかったし、そのサッカーを奪われたら自分には何もない、という思いが強かったんです」  11歳の冬、喜熨斗をさらにサッカーへと向かわせる出来事が起きる。親戚から臨終間近の祖父の病院に呼び出され、「勝史、おじいちゃんがもうすぐいなくなるから、嘘でもいいから、跡を継ぐと言ってやれ」と言われたのだ。 「子どもながらにそんな嘘は言えないし、言いたくなかったですが、病室に入ったら、祖父を前に『俺、跡を継ぐから、大丈夫だから』と言っていた。でも、その後もサッカーを続け、跡は継いでないわけで、あのときの嘘は、忘れられない。だから、せめてサッカーだけは、フィールドにしっかり足をつけて、情熱と責任をもってやっていこうと強く思ったんです」  喜熨斗少年に大きな影響を与えたのは、大学を卒業し、下石神井小学校に赴任したばかりの教師、石橋博(73)だった。石橋は、2年生だった喜熨斗の担任になると同時に「下石神井サッカー団」の監督に就いた。  石橋が振り返る。 「6年生のときには、喜熨斗中心のチームをつくっていて、全国制覇したチームと区内の学童大会の決勝で戦って、延長の末、勝ったんです。彼は、ゴール勘があって、相手チームから嫌がられるぐらいよく点をとった。なにしろ負けず嫌いで、能力はひとつ抜けていました」 「サッカーの楽しさを教えてくれた」石橋に感化された喜熨斗は、先生になって、同じようにサッカーを教えたいと思うようになる。  都立高校から日体大へと進んだ喜熨斗は、サッカー部に所属しながら、早くも指導者としての経験を積み始める。練馬区内の小学校のサッカー部で監督に就き、弱小チームを区内3位へと導くのだ。卒業後は、都の教員採用試験を受け、工業高校の教員となり、サッカー部の顧問兼監督となった。同時に、関東1部リーグの選手としてプレーしていたから、まさにサッカー漬けの日々だった。  しかし、サッカーをやりながら体育教師として生きていくという喜熨斗の人生プランは、90年代を迎えると転換せざるを得なくなる。日本初のプロリーグ創設の話が急速に進み始めたからだ。 「プロリーグができるとなれば、サッカーにもっと深くかかわりながら稼げるかもしれないし、なにより、日本代表も強くなるかもしれない。自分もなんとか、そのプロの世界に、と思いました。けれども、Jリーグのスタートのときは29歳。やはり選手ではなく、指導者として入るしかないと思った。それでも、学校の先生じゃなくて、本物のサッカーに関われるかもしれない、という可能性がうれしかった」 ■自分の主張は曲げたくない 風当たりが強くなる  いま一度コーチングの勉強が必要だと考えた喜熨斗は、東京大学大学院総合文化研究科の門を叩(たた)いた。専門は、生命環境科学系身体運動科学。修士課程を終えた喜熨斗は、その後、セレッソ大阪のフィジカルコーチなどを経て、02年、浦和レッズのフィジカルコーチに就任する。  しかし、コーチ人生は、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)とはいかない。  つまずきは、浦和レッズのオランダ人監督、ハンス・オフトとの衝突だった。 (文中敬称略)(文・一志治夫)  ※記事の続きは「AERA 2022年5月16日号」でご覧いただけます。
生前贈与や特例利用で損も!? やってはいけない“老後資金の守り方”
生前贈与や特例利用で損も!? やってはいけない“老後資金の守り方” ※写真はイメージ(GettyImages)  近年、相続トラブルを防ごうと「贈与をしたい」と考える人が多い。 「贈与をしてしまうと取り返しがつかないことがあります。特に生前贈与は近々、特例の期限が来るものがあるので、慌てて実行すると、老後資金を減らすことになりかねません」  そう警鐘を鳴らすのは、相続実務士で相続支援会社「夢相続」代表の曽根惠子さん。  生きているうちに子どもや孫たちに財産を前渡しする「生前贈与」は、相続税対策の柱だが、2023年以降にルールが見直される可能性が高まっている。  21年度、22年度の「税制改正大綱」で示されている考え方が「相続税と贈与税の一体化」。真っ先にメスが入りそうなのが毎年、110万円までの贈与が非課税になる「暦年贈与」だ。ただ相続が発生したときには、被相続人が死亡前3年以内に行った贈与分は、相続財産に含めて相続税を計算する「持ち戻し加算」の仕組みになっている。  専門家の間では、暦年贈与そのものが使えなくなる、あるいは持ち戻し加算の期間は現在3年以内のところ、10年、15年に延長されると推測されている。 ※週刊朝日2022年5月20日号より 「贈与のルールが変更になる前に『駆け込み贈与をする最後のチャンス』と思って、無理に贈与をしてしまう人も多いのですが、もし贈与者が10年、15年以内に亡くなったらその間の贈与した額は相続財産に含まれる可能性もあるので、相続対策をしたつもりが、結局は税負担が増えてしまうということにもなります」(曽根さん)  また、親から子どもに暦年贈与をしたとき、後から「お金が必要になったので贈与はなかったことにしたい」とし、子どもが同意したとしても、贈与は取り消すことはできない。  慌てて財産を渡そうと思う前に、自分たちの介護が必要になったときの「住み替え」などを視野に入れながら、老後資金の計画を立てよう。また相続対策の順番は間違えないほうがいいと曽根さんはいう。  特に注意したいのは、贈与できる期間が決まっている一括贈与の特例。 「住宅取得等資金の贈与」は23年12月31日までに、一般住宅500万円、省エネ等住宅は1千万円まで非課税で贈与できるという制度。  北関東に住む男性(83)は、結婚した孫が住宅を建てるというので、頭金などに充ててほしいと500万円贈与した。ところが、後日、男性は脳梗塞になり倒れてしまい自宅での生活が難しくなり、高齢者住宅に移り住むことになったという。 ※週刊朝日2022年5月20日号より 「入居一時金などの費用は結局、男性の息子夫婦が支払うことになってしまいました。孫への資金援助をしなければと思っても後の祭りで、結局、男性の息子夫婦が介護費用の全額を負担したそうです」(男性の知人) 「教育資金の一括贈与」は1500万円まで、「結婚・子育て資金の一括贈与」は1千万円まで(結婚資金は300万円)の贈与が非課税になり、いずれも23年3月31日までの贈与分が対象となる。 ■「おしどり贈与」思わぬ損失にも  特例を使う場合は、領収証を金融機関に提出する手間があり、贈与者が死亡したときには残額は相続税の対象になる(教育資金は受贈者が23歳未満などであれば対象外)といったルールもあるので、期限まで1年を切った今、無理に特例を使わなくてもいいという。 「教育資金贈与の特例は、使途は教育資金に限られるので、贈与する人が亡くなったら余った分は相続税の課税対象になります。数十万円程度であれば、実費で支払えば、課税対象にはなりません」(曽根さん、以下同)  相続対象になる財産は自宅などの不動産がほとんどという人は意外と多い。「夫が先に死んだら妻が安心してこの家に住み続けられるように」と、生前に共有名義にする「おしどり贈与」も思わぬ損失につながる。 「夫が取得した不動産の名義を妻と共有名義にするとき、不動産登記、不動産取得税の費用がかかり、場所によっては100万円を超えるケースもあります。また、妻が取得した分の土地と建物の評価額が2千万円を超えますと、その分は贈与税がかかります。夫の死後、配偶者が引き継ぐ財産が1億6千万円以下であれば相続税はかかりませんので、夫が亡くなってから自宅の名義を妻に変更したほうが無難です」  今のうちに自宅の名義を子どもに変更しておきたいという人も多いというが、夫の死後、相続トラブルなどで子どもたちと仲違いして妻が住む場所を失う可能性もある。  自宅は相続が発生してから所有権を移転したほうが税金と諸費用は低く抑えることができるので、所有者(夫)の生前に慌てて名義変更をしないほうがいいという。(ライター・村田くみ) ※週刊朝日2022年5月20日号より ※週刊朝日  2022年5月20日号より抜粋
授業参観にTシャツとジーンズで行った夫に妻が激怒! 「親の服装」はどうすべきか論語パパがアドバイス
授業参観にTシャツとジーンズで行った夫に妻が激怒! 「親の服装」はどうすべきか論語パパがアドバイス  小学2年生の息子を持つ40代の父親。授業参観に普段着で行ってしまい、「きれいな服を選ぶべきだ」と妻から叱責されました。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *  *  * 【相談者:8歳の息子を持つ40代の父親】  都内の公立小学校に通う息子を持つ40代の父親です。先日、入学以来、初めての対面の授業参観がありました。仕事の都合で行けない妻に代わって参加したのですが、Tシャツにジーンズという普段着だったので、妻から「信じられない。授業参観や懇談会などの学校行事には、デパートで買ったようなきれいな服を選ぶのが当たり前」と激怒されました。でも7割方の保護者がその辺のスーパーやコンビニに行くような普段着で来ていましたし、きれいな格好のほうが浮いてしまう感じでした。また、保護者のなかには持参したアウトドア用の折りたたみ椅子に座ったり、スマホをいじったりしている人もいて、私はその人たちに比べれば親としてきちんとふるまっていたと思います。授業参観は保護者の服装のお披露目の場ではなく、主役は子どもたちのはず。その感覚でいてはいけないのでしょうか。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「子曰(い)わく、敝(やぶ)れたるおん袍(ぽう)を衣(き)、狐貉(こかく)を衣る者と立ちて、而(しか)も恥じざる者は、其(そ)れ由(ゆう)なるか」 「そこなわず求めず、何を用(もっ)てか臧(よ)からざらん。子路(しろ)終身(しゅうしん)之(こ)れを誦(しょう)す。子曰わく、是(こ)の道や、何(な)んぞ以(も)って臧しとするに足らん」(子罕第九) ・「敬(けい)に居(い)て簡(かん)を行う」(雍也第六) 【現代語訳】 ・孔子はおっしゃった。「やぶれてボロボロの粗末な綿入れを着て、狐や貉(むじな)の上等な毛皮を着た人と一緒に立っても恥ずかしいと思わないのは、子路だろう」 「他人に害を与えず、無理な要求もしていないのに、どうして不善が発生しようか」。子路(しろ)はいつもこの一節を口ずさんでいたが、孔子がおっしゃった。 「それだけでは十分とは言えない。我々の目指す道はもっと遠くにあるのだ」 ・自分の心持ちは慎み深くして、他人に対しては寛大に簡素に接する。 【解説】  対面で授業参観が行われるようになったことは、本当に喜ばしいことですね。子どもが授業に参加しているところを実際に見られることがどんなにありがたいことか、コロナ禍を通して我々は知ったのではないでしょうか。  さて、すでに、コロナ禍以前から「クールビズ」などによって、服装の簡素化は進んでいました。コロナ禍でZoomを使ったリモートワークが増えるにしたがって、スーツを着なくても商談や会議に出席することができるようになりました。  相談者さんが言うように、授業参観も「7割方の保護者がスーパーやコンビニに行くような普段着で、きれいな格好のほうが浮く」というのは新しい時代のスタイルなのではないかと思います。カジュアルな服装は、堅苦しくなく、くつろいだ気持ちも演出してくれますので、みんながカジュアルな服装だと、企画会議などでも、より自由な発想、より自由な発言ができると言われていますね。そういう点では、授業参観にも保護者が、カジュアルな服装で出席するのは、先生も子どもたちにも堅苦しくない雰囲気でいいことであるとは思います。  2500年前から人の生き方の規範として親しまれた『論語』の中でも、服装のことが話題に取り上げられている章句があります。 「子曰(い)わく、敝(やぶ)れたるおん袍(ぽう)を衣(き)、狐貉(こかく)を衣る者と立ちて、而(しか)も恥じざる者は、其(そ)れ由(ゆう)なるか」(子罕第九)  孔子の弟子のなかでも大変な志を持った子路は、ボロボロになった粗末なおん袍(綿入れ羽織)を着ていましたが、高い毛皮をまとった高位高官と会っても、まったく恥じたり、気後れしたりしない人物でした。  しかし孔子は、そんな子路を、見苦しいと思っていたに違いありません。どうしてそんな格好で立派な人物に会っても何とも感じないのかと、聞いたのでした。由(ゆう)とは子路の実名です。  子路は「こんな格好をしていたからって、他人を傷つけるわけでもない。無理な要求をしているわけでもないから、いいじゃないですか」と答えたのです。  孔子はこうたしなめました。「それだけではまだ十分ではない。我々の目指す道はもっと遠くにあるのだ」と。  カジュアルであるということには、もちろんいい点もありますが、それでいいのだとあまりにもくついだ状態が続くと、それに慣れて、心がたるんでしまうと孔子は考えたのです。  スーツは「ホワイトカラーの鎧」と言われることもあります。言い換えれば、スーツは、カジュアルな自分を、非日常の緊張した心に切り替えてくれる道具でもあったのです。古代から現代に至る服装、服飾の歴史を大観すると、簡素化していることに改めて気づかされます。それは繊維製造技術の発達とも無関係ではありませんが、技術の発達に伴って、心がすさむ方向に進むのは残念です。 『論語』には、立派な人の思考と行動のバランスについて「敬(けい)に居(い)て簡(かん)を行う」(雍也第六)という言葉があります。つまり、「自分の心持ちは慎み深くして、他人に対しては寛大に簡素に接する」という教えです。  相談者さんは、父親として授業参観に行くのに、「自分の服装と心とが一致しているのか」どうかを考えることが最も大事なことです。教室にいる先生、児童、保護者に安心感を与えつつ、自分の心は、「子どもを温かく見守る愛情でいっぱいである」という姿勢を、服装で表すことができるようなチョイスをしましょう。そのためには、やはり妻の意見を取り入れて、カジュアルすぎる服装ならば見直すべきでしょう。 【まとめ】  自分の心はあまりにくつろいだ状態よりも、慎み深く。服装と心が一致しているか見直そう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。

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