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記録のためではない大谷のプレー 7月末以降に盗塁数がぐっと伸びた理由
記録のためではない大谷のプレー 7月末以降に盗塁数がぐっと伸びた理由 敵地ではあったものの、大記録の達成に観衆はスタンディングオベーション。歓声は鳴りやまず、大谷はベンチから出て、手を上げて応えた(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)    現地時間19日、ドジャースの大谷翔平選手が50本塁打・50盗塁の「50-50」を達成。 どれほどの偉業なのか、その異次元ぶりを識者が解説する。AERA2024年9月30日号より。 *  *  *  米大リーグ・ドジャースの大谷翔平がまた、見る者の常識を塗り替えた。前人未到のシーズン50本塁打・50盗塁「50-50」を達成した。  達成の仕方もド派手だった。48本塁打49盗塁で迎えた現地時間19日のマーリンズ戦、初回に三盗を決めて50盗塁とすると、4打席目からまさかの3打席連続本塁打。終わってみれば6打数6安打10打点2盗塁の大暴れの活躍だった。MLB日本語公式サイト「MLB.jp」編集長の村田洋輔さんは興奮を隠さない。 「『40-40』を劇的なサヨナラ満塁本塁打で達成したとき、もうあれを超えるものはないだろうと思っていました。それが『50-50』を達成した試合で、米大リーグ史上初の1試合3本塁打で複数盗塁。さらに史上初めて1試合に10打点を挙げて、かつ盗塁を成功させた選手にもなったんです。同じ時代に生まれてよかったと思います」 「50-50」達成の試合で数々の記録まで打ち立ててしまうところに大谷の常人ならざるすごさがある。さらに自身初の1試合3本塁打、加えてこの試合の勝利でチームをプレーオフ出場に導いた。 「現地公式サイトの報道では、大記録達成などすべての要素を踏まえ、『米大リーグ史上ナンバーワンのパフォーマンス』と評されています。この試合にはまさにパワーとスピードを両立した今季の大谷選手が凝縮されていました」(村田さん) 50-20は過去4度だけ 「50-50」はどれほどの偉業なのか。「開幕前にはまったく想定していなかった」と話す大リーグ評論家の福島良一さんがこう解説する。 「1988年にホセ・カンセコ選手が史上初の『40-40』を達成して大きな脚光を浴びましたが、90年代以降の筋肉を増強するステロイド時代、2010年代以降のフライボール革命を経て、本塁打ばかりが注目される時代が続きました」  そこで米大リーグは昨季、ピッチクロックの導入やベースのサイズ拡大などといったルール改正を行い、パワーとスピードのバランスの是正を図った。 「それにともなって盗塁数は増加しました。実際に『40-70』を記録する選手も現れましたが、それでも『50-50』は頭にありませんでした。大谷選手のこれまでのシーズン最多盗塁数は26でしたし、マックスで50本塁打30盗塁が期待できる数字だろうと。異次元の活躍です」 七回に左翼席へ飛び込む2打席連発の50号を放った大谷。"確信歩き"とともに雄たけびをあげた(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)   AERA 2024年9月30日号より    その異次元ぶりは過去の記録と比べるとより一層際立つ。村田さんによれば、これまで50本塁打以上を放ち盗塁が最も多かったのは、1955年のウィリー・メイズと2007年のアレックス・ロドリゲスで24盗塁。大谷の盗塁は群を抜いて多い。 「これまでシーズン50本塁打到達者は、大谷選手を除いて31人。49度達成されていますが、同時に20盗塁が記録されたのは4度だけ。パワーヒッターには基本的に盗塁の役割は求められていないんです。これまでまったく存在していなかった域に大谷選手はいるのです」 あくまでチームの勝利  今季を振り返ってみれば、超大型契約での強豪・ドジャースへの移籍、妻・真美子さんとの結婚と吉報から始まり、右ひじの手術の影響で打者専念になることから打撃成績はどこまで伸びるのかとも期待された。そこに、長年通訳を務めてきた水原一平氏の違法賭博、不正送金事件が起きた。誰もが大谷のメンタル面を心配しただろう。 「今季開幕から1号本塁打まで9試合を要したこともあって、さすがの大谷選手でも精神的な影響があるのではないかと私も心配でした。ただ、昨季と同じように6月から調子を急激に上げ始めて、三冠王も狙えるんじゃないかというほどの好調さ。精神面の日本人離れした強さに脱帽しました」(福島さん)  例年通り、安定して本塁打を量産し、開幕前後の騒動もどこへやら、周囲は大記録達成に向けて騒がしくなっていったが、大谷は記録のためにプレーしているわけではない。あくまでチームの勝利に貢献する。それを裏付けるような時期があったと村田さんは分析する。 「7月末以降、打撃の状態がよくなく打率も落ちていく時期がありましたが、時を同じくして盗塁数がぐっと伸びたんです。打てないなりにチームの勝利やプレーオフ進出という目標のために何ができるか。自身がやるべきことを積み重ねた先に『50-50』があったのだと思います」  とはいえ、記録達成の試合後のインタビューで大谷は「早く決めたいというのがあった。一生忘れられない日になる」と語った。前人未到の道なき道を行く大谷だが、シーズンはまだ続き、「55-55」すら射程圏内。そして、その先には大谷が初めて臨むポストシーズンが待っている。ファンの楽しみはまだまだ尽きない。(編集部・秦 正理) 第1打席に二塁打を放つと早速三盗を決め、50盗塁の大台に乗せた   ※AERA 2024年9月30日号  
菅田将暉「こうやって心理を操るんだな」に黒沢清監督「『ここが地獄だ』的なセリフは得意なんです」
菅田将暉「こうやって心理を操るんだな」に黒沢清監督「『ここが地獄だ』的なセリフは得意なんです」 菅田将暉(すだ・まさき、左):1993年生まれ。俳優、歌手。主な出演作に「花束みたいな恋をした」(2021年)、「ミステリと言う勿れ」(23年)など。公開待機作に「サンセット・サンライズ」(25年1月予定)/黒沢清(くろさわ・きよし):1955年生まれ。映画監督、脚本家。主な監督作に「CURE」(97)、「岸辺の旅」(2015)、「クリーピー 偽りの隣人」(16)、「スパイの妻」(20)、「蛇の道」(24)、「Chime」(24)など(撮影/写真映像部・佐藤創紀)※映画「Cloud クラウド」(監督・脚本/黒沢 清、主演/菅田将暉)は9月27日から全国公開    映画監督・黒沢清と俳優・菅田将暉が、初めてタッグを組んだ。映画「Cloud クラウド」では、転売屋・吉井の「日常」が、悪意にさらされ、破壊されていくさまが描かれる。AERA2024年9月23日号より。 *  *  * ――菅田が演じた吉井は、転売によって金を稼ぐ、いわゆる“転売ヤー”だ。黒沢監督は菅田について開口一番、「うまい人でしたね」と言った。 黒沢清(以下、黒沢):本当にうまい。眼差しは非常に強くて硬いんですけど、喋ると柔らかい。計り知れない個性がなんとも魅力的でした。  吉井は懸命に生きていつつ、だんだん危ないことに巻き込まれていく。心情は脚本には書かれていなかったんですけど、1シーンごとに変化するさまを、トゥーマッチでなく丁度いいところで演じてくれた。僕自身、吉井がどんな感情なのか、いまひとつわからないところも多かったんですが、菅田さんを見て僕自身も知る、みたいなことは多々ありました。 菅田将暉(以下、菅田):吉井としては一生懸命生きているだけなんですよね。なんとなく自分のプランがあって、ちょっと変えたい今日みたいなものと、明日のイメージがある。その連続なので、ひたすらその一つ一つと向き合っていく感じでした。僕としても本当、どうなるかはわからなかったですね。 真面目にコツコツやる 黒沢:吉井はごく真面目に目の前のことをコツコツやる人物です。転売屋って「楽して儲ける」とはかけ離れていて、そうでないとやれない。次から次へと難関を乗り越えていくからこそ、付け込む人が出てきて追い詰められていく。  終盤には「殺す・殺さない」の争いに発展しますが、菅田さんによって吉井に深い陰影と複雑さが生まれ、「人間はこういう感情の流れなんだな」と撮りながらわかった。途中で飛躍しないといけないかと思っていたんですが、ちゃんと確実にここまでいける、ということがわかった。それはアクションシーンに凝縮されています。 ――「楽して儲けたい」「全然楽にならない」「いつからこうなったんだろう」。作中には印象的なセリフがいくつも登場する。不穏さや不気味さが漂う演出も、黒沢監督ならではだ。 黒沢:ラブストーリーは苦手なんですけど、「ここが地獄だ」的なセリフは得意なんですよ(笑)。 菅田:恐怖を感じたところはいっぱいあります。吉井目線なら、誰だかわからない人たちに命を狙われ、しかもその誰だかわかっていない人たち同士が普通に会話をしていることも、怖かったです。 黒沢:現代の日本で「殺す・殺される」関係にはふつうは陥らないだろう人たちがそういう関係になっていく物語なので、吉井を含め、人生が破綻するかしないかの瀬戸際にいるような人たちが集まった感じになりました。今の社会には至るところにギリギリの人たちがいるんだろうなとは実感しましたね。 菅田:それぞれ何かが引き金になってネジが外れていき、吉井をきっかけに狂気を引き起こし、意志が変わっていく。環境によって変わっていくことの恐ろしさも感じました。  監督の演出を見て、「こうやって観客の心理を操るんだな」と勉強になりました。すりガラスの使い方、扉の開け方、全部の演出が面白かった。特に面白かったのは、立ち位置の指定。普段、「この人は距離が近いな」とか「この姿勢で話しかけられるのは嫌だな」という距離感で芝居をすると、不気味さが生まれる。いい意味で違和感が生まれるという発見がありました。 「俺がやりたかった」 黒沢:二人が会話をしていたら、どんな距離でどんな向きで話しているかを決めるのが僕の仕事です。10センチと5メートルでは、言い方も心も違ってくる。その距離は脚本には書いていませんし、僕も現場でやってみないとわからない。いろいろ面白がってやってみて、「こうなるんだ」というのは映画を作る楽しさでもあります。 菅田:そういう演出で、どんどん吉井が生きてきたんだと思います。面白いことに形が整ってくると心も整って、素直にその場にいられるし、素直にセリフが言えるんです。 黒沢:この作品のキャラクターでもう一人、僕が気にしていたのは、奥平大兼くんが演じた、吉井にバイトで雇われた佐野です。物語を転がす特殊な存在で、脚本を書いているときは気持ち良かったんですが、素性が掴めないから演じるのは難しい。まだ世間のイメージが固まっていない人のほうがいいだろうと、奥平くんにお願いした。お願いしてよかったですね。 菅田:怪物的な魅力があって、演じる人で変わる役ですよね。10代から20代前半の俳優がこの作品を見たら、「うわ、俺がやりたかった」って一番嫉妬する役だと思うし、俺も10年前に観たらそうだったと思う。  100人いたら100通りのイメージがある。佐野がどういう人物なのか、吉井目線でもずっとわからなかった。監督と奥平くんとのセッションだと思うんですけど、不思議な落ち着きもあって、すごくよかったです。 黒沢:最初、「わかんなくなったら聞いていいですか」と言われていたので、たくさん聞いてくるな、と思っていたんですが、聞いてきたのは「拳銃の持ち方」だけでした。 そのままでいる感じ ――作中ではSNSを通じて肥大する恨みや憎悪が描かれる。SNSとの付き合い方は? 黒沢:ネットはほとんど見ないんです。最低限、情報を得るために見ることはありますが、自分のことなんかは絶対見ない。ネットを見て不安定になった知り合いが何人かいるんですが、「見なきゃ絶対気にならなかったはずなのになあ」って。 菅田:僕もあまり見ません。いっぱい動いて食べて寝て、目の前の人に真摯に接していたら、見る時間がなくなります。 黒沢:目の前や周りにちゃんとした人がいるかは大切ですよね。ネットが救いになる場合もあるんでしょうけど。 ――映画「Cloud クラウド」について、こう語った。 菅田:こういう映画が好きです。僕が普段よく見ている、バイオレンスな要素のあるサスペンススリラーでもあるので、楽しかったですね。 黒沢:また菅田さんとご一緒できた際には、吉井とは逆の、人を陥れていくような役を演じてほしいですね。最も恐ろしい男にもとてもハマると思います。吉井という役柄のせいもあったかもしれませんが、菅田さんは現場で、存在感を抑えている印象があって。何げなく菅田さんのままでいる感じがとても気持ちよかったです。 菅田:いつも大体そんな感じですね(笑)。撮影現場の空気を俳優が占める割合は大きいと思うので、荒ぶる役の時は荒ぶったり、多少プレイをすることはあります。ただ、今回は、黒沢組の方たちがすごく楽しそうで。黒沢さんのイメージを具現化するために和気あいあいとアイデアを出していて、とても活気のある現場でした。「今も作っている時間だから、それを見てよう」みたいな感じで、見ているのがすごく楽しかったんです。 (構成/ライター・小松香里) ※AERA 2024年9月23日号
“子供が生まれたらどっちが稼ぐ?”ライフスタイルの変化に伴うキャリアの見直しは男女共に
“子供が生まれたらどっちが稼ぐ?”ライフスタイルの変化に伴うキャリアの見直しは男女共に 小西一禎さん(左)と池田心豪さんはこの日が初対面。話題は互いの育った環境にも及び、大いに盛り上がった(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    性別による役割の意識は根強いが、少しずつその意識は変化しつつある。性別ではなく個の能力が発揮できる多様な働き方の実現に必要なこととは。AERA 2024年9月23日号より。 *  *  *  職場や家庭に根強く残る「男性は仕事、女性は家庭」といった性別役割分業意識。正面から向き合っているジャーナリスト/元米国駐在夫の小西一禎さん(52)と、労働政策研究・研修機構 多様な働き方部門副統括研究員の池田心豪さん(50)という、同世代の2人が語り合った。 池田心豪(以下、池田):政府は男性育休や女性活躍を推奨し、新しい役割を男女に求めているけれど、今も男性が家計を支え、女性が家事・育児をするという古い役割から自由になっていません。仕事と家庭のケアの両方が男性にも女性にものしかかり「二重負担」が生じています。  女性が仕事で活躍して収入が増える分、夫は家族を養う稼ぎ手役割から自由になって家事・育児をし、妻はその分家事・育児から自由になれたら良いですね。企業にとっても、男性の労働時間が短くなることで今まで男性に払っていた賃金を節約できますし、女性が今より働く分、要員を確保できます。1人で長時間労働をするより、2人で労働時間を分け合った方が健康面のリスクもなくなります。 小西一禎(以下、小西):本当にその通りですね。新たな視点をもらいました。 池田:日本人男性の働き方の見直しの議論は、既に何周目かです。我々団塊ジュニア世代は、家庭を顧みずに働く男性が過労死したり、定年退職後に居場所がなくなったりすることへの警鐘を聞きながら育ってきました。「自分はそうならない」という思いもあったと思います。  でも、いざキャリアのエンジンをふかしていくと、男性的な組織の磁場は今なお強く、アクセルとブレーキを自由自在に踏み分けられるものではないんですね。 妻の収入が上になって 小西:おっしゃる通りですね。いざ現実を見ると仕事、家族、ローンが頭によぎって思考停止になる。でも、現状モデルでは立ち行かなくなってきている中、何か変わるきっかけを求めている人は少なからずいると思っています。妻の収入の方が上になったり、年下の上司ができたり、自分もしくはパートナーが病気になったりと、何かの変化をタイミングと捉えて一歩行動を起こす。それが水紋のように広がっていったらと思っています。 労働政策研究・研修機構 多様な働き方部門副統括研究員:池田心豪さん(50)(いけだ・しんごう)/1973年、東京都生まれ。博士(経営学)。著書『介護離職の構造 育児・介護休業法と両立支援ニーズ』は第46回労働関係図書優秀賞受賞。4児の父(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   ジャーナリスト/元米国駐在夫:小西一禎さん(52)(こにし・かずよし)/1972年、埼玉県出身。慶応義塾大学卒業。修士(政策学)。2017年、妻の米国赴任に伴い、会社の休職制度を男性で初めて活用。著書に『妻に稼がれる夫のジレンマ』など。2児の父(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   池田:女性にキャリアがあっても、男性の方が収入や社会的地位が高くあるべきだと男性性にしがみつく人と、男女問わず能力が高い人が評価されるべきだとフラットに考える人がしばらく拮抗するのかなと思います。 小西:そうですよね。駐夫時代に現地で知りあった一回り以上年下の男性は、私と同じく駐在員の妻に同行して来ていたのですが、素直に自然に妻のキャリアを応援し、尊敬していて。私は葛藤を抱きながら同行し、現地でも悩んだ身なので、若い世代の価値観に衝撃を覚えました。 池田:日本の男性中心社会は、戦後の日本経済の成長という成功体験とセットになっています。そのため、今も終身雇用と年功賃金で安定した仕事に就くことが人生の成功だと思っているところがある。しかし、男性も雇用と収入の安定にとらわれず、新しい人生の選択ができるようになれば、日本社会の発展にとってプラスになるはずです。研究者や専門職を目指して大学院に進学したり、ベンチャー企業など新興的なセクターに行くのも良いと思います。 会社の雰囲気も変わる 小西:仕事と家事育児を両立させる男性が増えれば、会社の雰囲気も自ずと変わる。それを受けて、会社も体制の見直しをせざるを得なくなり、結果的に長時間労働の是正につながると推測します。OECD(経済協力開発機構)によると、日本は無償労働時間比率における男女比が5.5倍の差があり、夫婦間の家事育児のアンバランスを物語っています。  これまで私は「女性は出産や育児などのライフステージに直面した際、変化を余儀なくされる」といった内容を記事に書いてきたんですが、それはおかしいとこの対談に臨む際に反省しました。ライフステージの節目に男性も変わることで、新たな価値観を見いだしてほしい。その結果、働き方やキャリアの変革にもつながるのではと思います。 池田:そうですね。男性は、今一緒にいる女性は自分より優秀だと感じ、反対に女性は、一緒にいる男性が家事や子育てに向いていると感じ、それを良いと思えたら、その心の声に素直に従うことが大事です。その方が幸せになれると思います。  もちろん伝統的な性別役割と摩擦が生じますので、労力をともないますし、覚悟が問われる面もあります。しかし、実は上の世代も古い価値観と闘ってきましたし、少しずつ社会は変わってきました。ですので、自分の心の声に従っていってほしいと思います。 (構成/フリーランス記者・小野ヒデコ) ※AERA 2024年9月23日号より抜粋  
「妻が出勤した後は子どもと無人島に取り残された気分」 駐夫が経験したアイデンティティーロス
「妻が出勤した後は子どもと無人島に取り残された気分」 駐夫が経験したアイデンティティーロス 小西一禎さん(左)と池田心豪さんはこの日が初対面。話題は互いの育った環境にも及び、大いに盛り上がった(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    産休育休中の女性は、社会との関わりがなくなることにさみしさを感じることもある。では、“稼ぎ手”から“子育てメイン”になった男性の場合はどうだったのか。AERA 2024年9月23日号より。 *  *  *  職場や家庭に根強く残る「男性は仕事、女性は家庭」といった性別役割分業意識。正面から向き合っているジャーナリスト/元米国駐在夫の小西一禎さん(52)と、労働政策研究・研修機構 多様な働き方部門副統括研究員の池田心豪さん(50)という、同世代の2人が語り合った。 小西一禎(以下、小西):45歳で妻の海外赴任に伴い、休職をして“駐夫(ちゅうおっと)”として3年3カ月米国に滞在しました。それまでは、共同通信の政治部記者として連日深夜まで働いていましたが、海外に行き、しかも駐在員の妻に同行する駐夫というレア・オブ・レア的な立場を経験したことで、初めてマイノリティーの視点で物事を考えられるようになりました。もしこの経験がなかったら、今ではジェンダーバイアス全開の権化のようになっていたかもしれません。ゾッとしますね。 池田心豪(以下、池田):日本社会では女性が家計を支えるために働くということについてあまり議論されてきませんでした。でも、直近の令和5年版男女共同参画白書では女性の経済的自立について言及されるようになり、潮目が変わってきていると感じます。小西さんは在米中に退職されましたよね。その時、家族はどういう反応でしたか? 小西:妻からは「あなたの人生だからいいんじゃない」と言われましたね。止められたことも、勧められた記憶もありません。 池田:何かの決断をする時、パートナーの承認は必要ですね。女性も男性も古い性別役割を脱ぎ去ることが許されるようになるという面では、「あなたの人生だから」という一言には思いやりと、お互いの独立心を感じます。  私の両親は共働きで、保育園の送りや高校時代の弁当作りは父が担当していました。その姿をお手本にしている面はあると感じます。小西さんは駐夫時代の経験を生かして、フリーランスとして活躍されている。その姿も併せてお子さんは父親のことをよく見ていると思います。 ジャーナリスト/元米国駐在夫:小西一禎さん(52)(こにし・かずよし)/1972年、埼玉県出身。慶応義塾大学卒業。修士(政策学)。2017年、妻の米国赴任に伴い、会社の休職制度を男性で初めて活用。著書に『妻に稼がれる夫のジレンマ』など。2児の父(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   労働政策研究・研修機構 多様な働き方部門副統括研究員:池田心豪さん(50)(いけだ・しんごう)/1973年、東京都生まれ。博士(経営学)。著書『介護離職の構造 育児・介護休業法と両立支援ニーズ』は第46回労働関係図書優秀賞受賞。4児の父(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   無人島に取り残された 小西:渡米時、子どもは5歳と3歳でした。周りがママばかりの中、授業参観にパパが来ていたことなどをどう思っていたか気になっていたので、これを機に今晩にでも小学生の娘に聞いてみたいと思います。当時の私はスーツを着なくなり、稼げなくなった状況に直面して呆然としてしまいました。これが男性の生きづらさだと思います。まさにアイデンティティーロスでした。 池田:そのロスは帰国する頃にはどうなっていたんですか? 小西:最初は心の振れ幅が半端なく激しく、妻が出勤した後は子どもと無人島に取り残された感覚でした。でも子どもにご飯を食べさせないと生命に関わるので、目の前のタスクをこなしていった感じです。そんな日常を送る中で振れ幅も徐々に軽減されていきました。振り返ってみると、仕事に加え、家事育児の二馬力に夫婦で到達できたことは大きな変化でした。食事のレパートリーも増えました(笑)。 池田:それはいいですね! 男性の育休取得率が上がっていますが、妻が仕事に出ている間に、一日家にいて家事・育児を一人でしている男性はまだ少ないです。 (構成/フリーランス記者・小野ヒデコ) ※AERA 2024年9月23日号より抜粋  
PTA活動「結局、何も変わらず」心が折れて… 過激化する「アンチPTA」に「行き過ぎ」を懸念する声も
PTA活動「結局、何も変わらず」心が折れて… 過激化する「アンチPTA」に「行き過ぎ」を懸念する声も 写真はイメージ/gettyimages)    PTA活動にはさまざまな課題がある。改革は徐々に進んでいるが、残念ながら挫折するケースも少なくない。一方、強硬な手法でPTAを変えようとすることに危機感を覚える保護者もいる。 *   *   * 自分だけではなかった  マユミさん(仮名、50代)は、今春まで長崎県の小学校のPTAで広報部長を務めていた。  マユミさんは以前から、PTAの広報紙のあり方に違和感を抱いてきた。紙面は運動会など、学校行事に参加する子どもの写真のオンパレードで、肝心なPTA活動について伝える内容がほとんどなかった。 「どのPTAもそうだと思いますが、本部役員以外のほとんどの会員は、『PTAが何をやっているのか』を知りません。本来、PTAの広報紙は、PTA活動について伝えるもののはず」(マユミさん)  違和感が決定的になったのは7年ほど前。広報部員だったマユミさんが市のPTA連合会(市P)主催の研究大会に出席したときのことだ。市PはPTAの広報紙について、以下の指針を示していた。 「会員のみなさまにPTA活動の様子や、必要な情報を伝え、関係者の子育てに関する意識を啓発し、さらなる『学び』のきっかけになる」  しかし、他校の保護者から「広報紙は学校行事の『写真集』になりがち」だと、問題が提起された。違和感を抱いていたのは自分だけではないのだ、と思った。 PDF配信を提案すると  マユミさんは3年前に広報部長に就任。「楽しくて役に立つ話題や問題提起のある広報紙を作りたい」と本部に提案した。だが、PTA会長は従来路線にこだわり、提案を却下。「学校行事に沿った、子どもたちの写真がたくさん載った、文字の少ない広報紙にしてください」とした。  広報紙の発行回数を年2回から1回に減らすように指示された。オールカラーで刷られており、印刷会社への支払いがかさんでいた。  そこでマユミさんは、こう提案した。 「PTA活動について広報するには、ある程度の発行回数が必要です。自分たちで広報紙を刷るとか、PDFで配信すれば、費用は抑えられます」 AERAdot.が5月末に行ったアンケートから    だが、これも却下された。「あなたが広報部にいるときはできるかもしれないけれど、いなくなったら続けられない」という理由だった。マユミさんは「いまどき、パソコンを使うなんて、特殊能力でもなんでもないのに」と嘆く。 「PTAってなんだろう?」  2年目、運動会の写真をコラージュした表紙に「PTAってなんだろう?」と文字を入れ、会員に問いかけた。すると、「広報部長は不満があるみたい」と、うわさが広まった。 「ほかの保護者からの『当たりがきつくなった』と感じました」(同)  会長からは「紙面の内容をよくするより、広報紙を作ることでの保護者の交流が目的の一つ」と諭され、PTAの目的に即した広報紙を作りたい、という訴えも「聞かなかったことにされた」 何も変わらなかった  今春、3年間務めた広報部長を退任した。徒労し、心も傷ついた。 「結局、何も変わらなかった。広報部長を引き受けたことを後悔しています」(同)  PTA問題に詳しい大塚玲子さんは近年、各地のPTAで改革が進みつつあることを実感している。課題をひとつずつ整理し、持続可能な運営のために取り組む人たちがいると感じている。だが、一方で、「子どもたちのために」という志を持ち努力をしても、マユミさんのようにうまくいかなかったケースも少なくないという。 「挫折して心が傷つき、『こんな目に遭うのだったらやらなければよかった』と言う人もいる。そこにどんな人がいるか、理解して協力してくれるか、結局は運の要素も大きいのです」(大塚さん) 両者の溝は深く…  従来型のPTAに対し、改革派の怒りも一部で激しくなっている。  2021年、大分市内の公立小学校に通う児童の個人情報を無断でPTAなどに漏らしたとして、保護者が校長を刑事告発した。警察は校長を地方公務員法違反(守秘義務違反)の疑いで大分地検に書類送検した。同様の事案は長野県上伊那地域の高校などでも起きている。  PTAや学校の関係者の実名をSNSにあげ、誹謗中傷する人もいる。     問題意識を持つ仲間と  こうした動きを、京都府在住のテツさん(仮名、50代)は懸念を持って受け止めている。  テツさん自身もPTA活動には問題を感じ、入退会届の整備について、地元の学校長や教育委員会に働きかけてきた。  10年ほど前、娘が通う学童保育所の保護者会の会長を務めていたとき、疑問に思う出来事があった。役員決めの際、ある保護者が「シングルマザーなので、役員はできない」と断った。すると、他の保護者たちから激しく非難され、退所に追い込まれてしまった。 「自治体にも確認しましたが、学童保育所の保護者会は入退会自由ですし、役員の強制はおかしい。入退会届の整備などを、PTAについて問題意識を持つ仲間とともに取り組むようになったんです」(テツさん) 活動の強要「是正したい」  現在、テツさんはPTAに加入していない。2年ほど前から妻が病気になり、27年間続けてきた仕事を辞め、妻の介護をするようになったためだ。 「ぼくの場合も含めて、さまざまな事情を抱えてPTAの役員を引き受けられない保護者がいる。にもかかわらず、くじ引きで無理やり役員を押しつけるなど、活動を強要することがある。それを是正したい」(同)  PTA活動に意義も感じている。この学校のPTAでは、集団登校の付き添い、校門前での子どもたちへのあいさつ、広報紙の作成、卒業記念品の寄贈などを行ってきた。  そこで、テツさんはPTA会費の代わりに「協力金」を支払い、娘はPTA保険の加入などを含めて、会員の子どもと変わらない扱いを受けている。 行き過ぎは誰も納得しない 「PTAをなくしたいという気持ちはありません。目指しているのは、あくまでも話し合いによるPTA活動の適正化です。一部の『アンチPTA』の保護者のやり方は、一般に受け入れられるとは思いません。関係者にも家庭や人権がある。行き過ぎたやり方は誰も納得しない」(同)  強硬なやり方によって、PTAや学校が正当な要求をクレームととらえてしまえば、きちんとした話し合いが行われず、かえってPTA活動の適正化の障害になりかねない。  残念ながら、PTAは一朝一夕では変わらない。まずはPTAの中の人や学校との信頼関係を築き、そのうえで粘り強く働きかけていく必要があるだろう。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)  
つくる光景みせた讃岐うどん「体験価値」で大ヒット トリドールホールディングス・粟田貴也社長
つくる光景みせた讃岐うどん「体験価値」で大ヒット トリドールホールディングス・粟田貴也社長 体験価値を売ることを香川の製麺所で学び、活かしたのがこの店。製麺機や客席の位置、カウンターの高さまで自分で決めた内容が、店内へ入ると蘇る(写真/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年9月23日号では、前号に引き続きトリドールホールディングスの粟田貴也社長が登場し、「源流」である故郷の兵庫県加古川市を訪れた。 *  *  *  23歳で故郷の兵庫県加古川市で開いた焼き鳥屋1号店「トリドール3番館」は、なかなか集客ができなかった。苦闘1年余り、夜中のラーメン屋の賑わいから「深夜市場」をみつけて、客を引きつけた。  2号店、3号店を持つと、違法駐車の一斉摘発から車での来店客が多いと知り、「焼き鳥屋は駅前で」の思い込みを捨て、「郊外市場」で出店を増やす。  父の故郷・香川県の製麺所でみた、小麦粉から讃岐うどんをつくってゆでて出す過程を客が目の前でみる「体験価値」に気がつき、「丸亀製麺」で国内外の「体験市場」を掘り起こす。  すべて、「客が本当は何を求めているのか」への答えだ。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  この8月、「トリドール3番館」や「丸亀製麺」の1号店を開いた加古川市を、連載の企画で一緒に訪ねた。粟田貴也さんが「客が本当は何を求めているのか」との視点の重要さに気づき、ビジネスパーソンとしての『源流』が流れ始めた地だ。  JR加古川駅前の商店街は、店を開いた39年前は小さな商店が集まっていたが、多くの店が入れ替わり、再開発が進んで商業施設もできている。ただ、賑わいは昔のほうが感じた。駅前から歩いて2、3分、路地へ入ると、表情が一変する。「トリドール3番館」があった5軒長屋は姿を消し、駐車場になっていたが、いくつか古い建物が残っている。ここへくれば、やはり様々なことを思い出す。 粟田さん「そんなに親しくしていたわけではないが、生徒会で1年間くらい近づけた記憶はある」 利美さん「彼は高校時代、優等生ではなかったが、人気者でみんなを喜ばせるのが好きでした」(写真/狩野喜彦)   高収入の運転手の職新聞の求人でみつけ朝から晩まで働く  1961年10月、神戸市で生まれた。父は兵庫県警の警察官で、刑事畑を歩んでいた。両親と2歳上の兄の4人家族。3歳のときに父が加古川市に買った家へ引っ越して、県立加古川東高校を出るまで暮らす。高校を出た後も近くに住み、持ち株会社にする前のトリドールの株式を上場した2006年まで、加古川市で過ごした。  中学校に入ったころ、父がくも膜下出血で亡くなった。家計は父の年金と母の内職が支え、奨学金も出て、暮らしに困ることはない。それでも心の底に不安が生まれ、将来は豊かになりたい、何かをしっかりやりたい、と思い始める。  大学受験で1年浪人し、神戸市外国語大学の夜間部へ進む。学費は、日中のアルバイトで稼ぐ。そのなかで店を持つことが夢になるが、軍資金がない。大学をやめて新聞の求人欄で報酬が高いところを探すと、「月収50万円」というトラックの運転手があった。すぐに入社して朝から晩まで働き、気がつくと600万円が貯まっていた。  殺伐とした日々だったが、夜中に近くへ軽トラックの屋台がくるようになり、のぞきにいくと、若い男女が焼き鳥屋をやっている。その男女との会話で心がなごみ、自分も焼き鳥屋を持とうと決める。『源流』の水源が、溜まり始めていた。 「トリドール3番館」の跡地再訪には、一緒に開店した妻の利美さんが同行した。幼稚園から高校まで同じ学年で、利美さんは大学進学でいったん兵庫県を離れたが、アルバイト先の店に客としてやってきて再会した。「いま何しているの?」と聞かれて「店を持ちたい」と言うと、手伝ってもいいニュアンスの言葉が返ってくる。話が進み、開店の数週間前に結婚した。2人の回想は、一致した。  85年8月末、2人で「トリドール3番館」を開く。神戸市や姫路市でも空き物件を探したが、値ごろ感と高校時代の友だちが多い安心感から、故郷を選んだ。広さは8坪で、カウンターに10席と小さなテーブルが二つ。店名は、語感のいい片仮名にしたかったのと「将来、店を三つは持ちたい」との思いから「トリドール3番館」とした。それ以上の意味は、ない。 昭和のニッポン朝まで飲む客らの求めに応じて繁盛へ  でも、周辺に焼き鳥屋があり、何の特徴もない店に、客はこない。「どうしよう」と思って1年余りがたち、軍資金が底をつくころ、前号で触れた深夜のラーメン屋の繁盛を目にする。そこで、他店が閉まる午前零時ごろから勝負した。バブル到来直前の昭和のニッポン、飲み足りない、しゃべり足りないビジネスマンたちがきてくれた。「客が本当に求めているのは何か」を基本に置く、第一歩だ。 『源流Again』では2000年11月に開いた「丸亀製麺」の1号店にも、寄った。「創業店」という看板があり、利美さんが書いた字が彫られていた。90年代末に父の故郷・香川県へいった際、行列ができていた小さな製麺所に入ると、製麺機を据えて客の目の前で小麦粉から讃岐うどんをつくり、ゆでて椀に入れて出している。客は素朴な味はもちろん、できていく過程を楽しんでいた。  衝撃を受け、気がつく。「この体験価値が、客のニーズだ」 「丸亀製麺」1号店へ入ると、店内を指さしながら、四半世紀前の数字がすらすらと出る。 「そのまま焼き鳥をやっていてもよかったのですが、体験価値を知ってしまったので、どこかで実験したいとの思いが募りました。選挙事務所の跡で、図面を鉛筆で引き、大工さんと2人でつくりました。面積は212平方メートルで92席、駐車スペースは43台分でした」 生徒会長で体験した役割分担で目標達成企業運営の原体験に  いままでに「これくらいで、もういいのではないか」と思ったことは、ない。どこまでいっても、さらなる成長を求めた。父が亡くなった中学校時代に芽生えた「豊かになりたい、何かをしっかりやりたい」との思いに、終点はない。  故郷を再訪した日、夫婦の母校の県立加古川東高校へもいった。校門へ近づくと、「懐かしい」を連発する。校内へ入るのは、卒業以来44年ぶりだ。中学校に続いて高校でも生徒会長に立候補し、選ばれる。チームをつくって役割を分担し、共通の目標を達成した。企業運営の原体験をした気が、している。  思い出深い生徒会室に案内されると、現役の役員らがいた。自らの卒業後の歩みを簡単に紹介した後、「加古川の皆さんにお世話になって、ありがとうございます。高校の110周年事業に、何かプレゼントするよ。頑張って下さい」と加えた。  創業期の「客がこない」という場面は、いまでも夢にみることがある。あまりにも強烈で、「客にきてもらいたい」との強い意志に結び付き、客に「体験価値」を共有してもらう手間ひまもやり抜く。もし創業で簡単に成功していたら、そこに至らず、もっと合理的に進めたのではないか。そこからは「丸亀製麺」のコンセプトは、おそらく生まれてこない。  母校や「トリドール3番館」の跡地、「丸亀製麺」の1号店を巡り、そう確認した。利美さんが、ずっと、微笑んでいた。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年9月23日号  
“虎に翼”と“皇室”に見る「女性の自己決定権」 佳子さまの「残念です」は渾身の「はて?」
“虎に翼”と“皇室”に見る「女性の自己決定権」 佳子さまの「残念です」は渾身の「はて?」 今年4月、初めて園遊会に出席された愛子さま。後ろを歩く佳子さまとともに、一人ひとりと目を合わせてにこやかに歓談されていた    寅子は私だ。NHKの連続テレビ小説「虎に翼」の結婚の場面にそう思った。同じ頃、新川和江さんの訃報に接し、思考は女性皇族の自己決定権へと巡り──。皇室と虎つばに通底する「女性の自己決定権」問題とは。AERA2024年9月23日号より。 *  *  *  8月に95歳で亡くなった詩人・新川和江さんの代表作は「わたしを束ねないで」だ。こう始まる。 〈わたしを束ねないで  あらせいとうの花のように  白い葱(ねぎ)のように  束ねないでください わたしは稲穂  秋 大地が胸を焦がす  見渡すかぎりの金色の稲穂〉  訃報に接して再読した。女性の自己決定権を歌った詩だと、強く思った。NHKの朝ドラ「虎に翼」を見ていたからだ。 「虎に翼」は最初から壮大な意図をもった朝ドラだったと思う。  一つは大正3(1914)年生まれのヒロイン寅子(ともこ)(伊藤沙莉)を通し、令和を描こうという意図。寅子のモデルは「日本初の女性裁判所長」三淵嘉子(みぶちよしこ)だが、寅子が卒業した明律大学法科の同級生たちの人生も丁寧に描いた。視聴者が「自分」と重ねる入り口を、エリートの寅子だけにしなかった。  もう一つの意図は、現在と過去の関係を再構築することだと思う。過去と地続きの現在が、刻一刻と歴史をつくっている。そのことを繰り返し訴えていた。戦争は今を生きる人間の「責任」とセットで描かれ、寅子と仲間たちが格闘するのは現在の課題だった。だから「これは私だ」と思えるテーマが必ず巡ってくる。「わたしを束ねないで」と私の関係もそうだった。 自分が消える気がする  新川さんの死は8月20日に報じられた。「虎に翼」はこの週、佐田寅子と星航一(岡田将生)の結婚が描かれた。再婚同士、経済的に自立した同士。「結婚する必要があるのか」と悩む寅子に、義姉(女学校の同級生でもある)は「ゆっくり考えればいい」という。「結婚となれば星家に住んで、星家の人になるんだから」、と。 NHKの連続テレビ小説「虎に翼」で事実婚を選んだ主人公の寅子(伊藤沙莉)と航一(岡田将生)。9月28日の最終回まで目が離せない(写真:NHK提供)    ここでおなじみの「はて?」が出た。きっかけは民法750条。〈夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する〉。司法試験を目指す甥(おい)が口にし、「星寅子」や娘の「星優未」について家族が語り合う。寅子が言った。 「はて? どうして私たちの名字が変わる前提なの?」 「虎に翼」が選択的夫婦別姓を取り扱う。その号砲に心が躍った。何を隠そう、私は事実婚歴33年だ。30歳で結婚した時に婚姻届を出さなかった。小さなきっかけはあったが、「そのうち別姓が選べるだろう」と軽く決めた。それが気づけば63歳。寅子は100%、私だった。  仕事の時だけ「佐田寅子」を名乗る道も、寅子は模索していた。現在、自民党の皆さまなどが推奨する「旧姓の通称使用」だから、これで丸く収まったらヤダなと思っていたら、そうならずホッとした。選択的夫婦別姓を取り巻く今の状況を巧みに織り込むことで、ことの「本質」を明かす。そんなつくりなのだ、「虎に翼」は。  寅子が悩んでいたのは、姓が変わることで、これまでの自分が消える気がするということだ。「星寅子」になれば、「佐田寅子」つまり「弁護士として生きた自分、裁判官として生きてきた自分、たくさん失敗をして前に進んだ自分」、その経歴、歴史が消える気がする、と言っていた。  寅子と航一は「夫婦のようなもの」になると決めた。事実婚の選択だ。明律大学の同期が集まり、裁判の形をとって祝福した。「同じ姓を名乗るか、それぞれの姓を名乗るかは、申立人の夫婦間で自由に決定するべきである」「それは憲法により保障された権利のはずである」 詩を美智子さまが英訳  そうだ、自分のことは自由に決める、名字だって、生き方だって。励まされたようで、少し泣けた。そこに新川さんの訃報があり、「わたしを束ねないで」を再読した。こう終わっていた。 〈わたしは終りのない文章  川と同じに はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩〉 8月に亡くなった詩人の新川(しんかわ)和江さん。戦時中に詩作を始め、1983年、女性のための季刊詩誌「現代詩ラ・メール」を吉原幸子と共に創刊。女性詩人の活動を支援した(写真は2009年撮影)    新鮮な空気が流れてきて、自分は自分だと胸を張りたい気持ちになった。自己決定権という言葉が浮かんだ。「虎に翼」がなかったら、こういうふうに言語化はできなかったと思う。  実はこの詩を英訳した人がいる。上皇后美智子さまだ。「東京英詩朗読会」というサークルに参加し、そこで訳した詩の一つだった。そのことを渡邉允元侍従長の手記(文藝春秋2015年1月号)で知り、驚いた。美智子さまはまど・みちおさんの詩の英訳で世界的に知られている。だが、「ぞうさん」と「わたしを束ねないで」とはだいぶ距離がある。 女性皇族の生きづらさ  これが美智子さまという「言葉の人」の奥深さ。そうとらえ、コラムに書いたこともある。その思いは今でも変わらない。だが同時にこの詩は、図らずも女性皇族の置かれた状況を浮かびあがらせている。その今日的意味を考えるべきではないだろうか、とも思う。  渡邉さんの手記から9年、私たちは小室眞子さんという存在を知ってしまった。政治学者の原武史さんは眞子さんの渡米を「事実上の亡命」と評している。好きな人と結婚するという決断の代償が亡命だとしたら、女性皇族とはどれだけ生きづらい存在だろう。  何度も書いているが、根本にあるのは皇室典範だ。女性皇族については「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とする以外に、規定がない。つまりは寿退社しか決められていない存在、「自己決定権」ははるか遠い。  眞子さんの妹の佳子さまは、ジェンダー平等について積極的に発言している。23年9月、東北大学の「女子大生誕生110周年・文系女子大生誕生100周年記念式典」での挨拶は、ある種の到達点ではないかと思う。 佳子さま渾身のはて?  日本の大学生に占める女性の割合が理工系で低いこと、数学や科学のリテラシーは男性に比べて低くないこと、それらを統計的に説明した上で「せっかくの高い能力が十分に生かされていないことは、残念です」と述べていた。  宮内庁を長く担当するある新聞記者は、皇族が「残念」という言葉を使うことはほとんどないと言っていた。そう、佳子さまの渾身(こんしん)の「はて?」。心で拍手を送りつつ、この「はて?」は、やがて自身に返ってくるのではと心配になる。女性皇族の苦しさを抱えながら、ジェンダー平等に心を寄せる佳子さま。考えれば考えるほど、切ない。  今と切り結べばつらくなる。だからだろうか、愛子さまが担っているのは専(もっぱ)ら「仲良しの天皇ご一家」の要としての役割で、4月から始まった宮内庁のインスタグラムでも、キュートな愛子さまは人気の的だ。  9月3日、「ストラディヴァリウス・コンサート2024ご鑑賞」での愛子さまは光る素材の装いで、もちろんご一家は定番中の定番、リンクコーデだった。  愛子さまは、皇室の「普通さ」を訴える役割も担っていると思う。秋篠宮家の悠仁さまへのバッシングを思えば、無難な選択だろう。それでは愛子さまの「せっかくの高い能力が十分に生かされていない」ことにならないか。老婆心だと承知している。  最後に新川和江さんの「ふーむの歌」を紹介する。 〈ふーむ ふーむ 世界は ふーむでいっぱいだ〉と始まる。〈ふーむ ふーむ ぼくらも ふーむを探そうよ〉で終わる。  女性皇族が「ふーむ」や「はて?」を自由に語れる日は来るだろうか。 (コラムニスト・矢部万紀子) AERA 2024年9月23日号  
PTAで「知らない人が自宅をピンポン」 強制加入問題「気づいたら会員だった」が6割の現実
PTAで「知らない人が自宅をピンポン」 強制加入問題「気づいたら会員だった」が6割の現実 ある日、知らない人が名簿をもって自宅を訪ねてきた(写真はイメージ/gettyimage)  PTA活動にはさまざまな課題がある。PTAの入り口でもあり、最も大きな問題のひとつが「加入」だ。「任意加入」団体であるにもかかわらず、「強制加入」が常態化しているPTAはいまだに少なくないという。 *   *   * 入学説明会で「会員のみなさま」  昨年末、長男の小学校入学説明会でのことだった。  京都府に暮らす中井亮さんは、手渡された文書に、おや、と思った。  文書はPTAの本部役員や地区ごとの地域委員を決めるお知らせで、「会員のみなさま」と書かれていた。 「PTAの会員にまだなっていないのに、役員の選出を求められるなんて。順番としておかしいと思いました」(中井さん)  入学すると、今度は「2024年度学級委員並びに専門部員の選出について」という文書が届いた。「PTA会員様」と書かれたこの文書によると、「4月の授業参観の後でクラス役員などを決める」「役員の免除は基本的になし」と書かれていた。 “免除なし”とは、つまり全員加入が基本、ということだ。  中井さんは衝撃を受けた。 「テレビなどで強制的にPTAに加入させられる学校があるのは知っていて、『地方の学校は大変だなあ』くらいに思っていた。まさか、都市圏にある地元の学校がそうだったなんて」 首相も「入退会は保護者の自由」  PTAは任意加入の団体だ。熊本市の保護者がPTAに対して強制加入は不当として会費の返還などを求めて争った「熊本PTA裁判」で、2016年に熊本地裁は「PTAは入退会自由の任意加入団体である」という前提を示している。昨年3月の参議院予算委員会では、岸田文雄首相が「PTAは任意の団体であり、入退会は保護者の自由」との見解を示した。  AERA dot.編集部が行ったPTAに関するアンケートには、550件の回答が寄せられ、回答者の実に6割が「強制加入」を経験していた。  中井さんの学校では、PTAやその活動についての説明や入会意思の確認を行わないまま、保護者を自動的に「PTA会員」として扱っていた。  中井さんは今年6月に開催されたPTA総会に出席。いくつかの法的根拠を挙げて「強制加入」の問題を指摘した。 AERAdot.が実施したアンケートから   「その場にいた役員たちはぼんやり私の説明を聞いていて、反論はいっさいなかった。けれど、行っていた強制加入については誰も謝罪しませんでした」(同)  結局、役員は「入会届の整備には時間がかかるが、進める」と認めて、総会は終了した。現在、中井さんは推移を見守っている。 校長の反対で挫折  記者も地元の小学校PTAで会長をしていたとき、入会届の整備に取り組んだが、校長に反対され、結局、実現しなかった。  校長は入会届の必要性に理解を示してくれたが、「校長会の意向には逆らえない」という。  校長会のメンバーである周辺の小中学校長にも理由を尋ねると、入会届を整備することで会員が減少し、PTAの規模が縮小してしまうのではないかと口々に訴えた。それだけ学校はPTAを頼りにしていたのだろう。  特に、「入会届は整備しない」という校長会会長の方針は絶対で、一校長としては、それに従わざるを得ないという。なので、記者が所属したPTAではいまだに強制加入の状況が続いている。 自宅に知らない女性が訪問  強制加入には、「個人情報」の問題も付きまとう。子どもの住所や氏名などの個人情報が、保護者の同意を得ないままにPTAに渡っていることがあるのだ。  大阪府在住のトシオさん(仮名、30代)は、子どもが小学校に通いだした昨年4月、こんな経験をした。 「ごめんください」  ある日、自宅にひとりの女性が訪れた。「PTAの地区委員」だという。妻は、「なぜ、見知らぬ人が自宅の住所を知っているのか」と驚いた。  女性から集団登校の登校班の名簿を手渡された。そこにはPTAに伝えた覚えのない子どもの名前や年齢、住所、連絡先などがびっしり並んでいた。  トシオさんが入会の意思を示した覚えはないのに、「個人情報」が学校からPTAに渡った、としか考えられなかった。 「入学式ではPTAの人が出てきて、『PTAの加入は任意ですけれども、例年みなさん参加しております』みたいなことをぼそっと言って終わり。入会の意思確認はされませんでした。『説明がなさすぎる』とはっきり言っている保護者もいました」(トシオさん) AERAdot.が実施したPTAアンケートから   ズバリ、PTAはいる?いらない?(AERA dot.が行った550人アンケートから)   「個人情報の提供は法令違反」  個人情報保護法違反ではないかと、市教育委員会に問い合わせたところ、市教委はこんな趣旨の回答をした。 “学校は入学式の前に入学説明会を開いた。その場で学校がPTAに個人情報を渡す旨の文書を配布し、保護者はそれに了承した”  そうした文書を受け取った記憶はなかったため、トシオさんは市に対し、文書の公開を請求。すると、市教委の担当課長から「謝罪の手紙」が届いた。 「そんな文書はなかったということです。手紙には謝罪とともに、学校が行ったPTAへの個人情報の提供は法令違反なので校長を指導する、とありました」(同) 入会届のある学校は1割 「入会届を整備すべきではないのか」  トシオさんは子どもの学校だけではなく、PTA問題に詳しい市議会議員を通じて、市教委にも働きかけた。10月になってようやく、個人情報の提供について、学校は同意書を作成。それに追随するかたちで、今年の3月末になって、PTAも入会届を整備した。  トシオさんは、市内の全公立小中学校のPTAに入会届があるかについて、文書の公開請求を行った。 「入会届があったのは約1割で、ほとんどの学校に入会届がありませんでした。PTAの規約に『入学したらPTA会員になる』という内容が堂々と書かれている学校もありました」(同)  PTA問題に詳しい大塚玲子さんは「入会届をきちんと整備することが大切」だと指摘する。 「入会届を出すことによって、本人の意思に基づいてPTAに入ることで、PTAがきちんと機能する。個人情報が保護者に無断で学校からPTAに流出するようなことも起こらない」(大塚さん)  PTA加入の入り口となる「入会届」ひとつとっても、さまざまな課題をはらんでいる。AERA dot.ではPTAにまつわる諸問題を取り上げていく。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁) PTA活動はどれくらい負担?  
「理想的な上司と部下の関係」だったのに…33歳の女性がラブホテルに誘われて、初めて「セクハラ」を訴えたワケ
「理想的な上司と部下の関係」だったのに…33歳の女性がラブホテルに誘われて、初めて「セクハラ」を訴えたワケ 彼女が会社を辞めた理由とは…女性との茶飲み話から女性の「心」と「選択」が見えてくる…  現代日本に生きる女性たちは、いま、何を考え、感じ、何と向き合っているのか――。ノンフィクション作家で写真家のインベカヲリ★さんが出会った女性たちの近況とホンネを綴ります。 *   *   * 上司からラブホテルに誘われた  出版社で働く有希さん(33歳/仮名)が、会社を辞めたという。優秀でやる気もあるように見えたのに、一体何があったのだろう。 喫茶店で会うと、彼女はこれまでの経緯を勢いよくしゃべり始めた。 「直属の上司からラブホテルに誘われたんですよ。会社の飲み会の帰りに、2人で歩いていたら本当に突然。人事にセクハラを訴えたけど、席替えだけして終わり。口外禁止にされたので、社内では誰もこのことを知らないんですよね」  上司は、10歳年上。お互い既婚者であり、上司からは妻の話もよく聞かされていたという。とはいえ、実際にホテルへ行ったわけではないので、それだけで退職するというのは私には意外だった。これまで多くの会社を渡り歩いてきた有希さんは、修羅場をくぐってきた印象があったからだ。 30代でのセクハラは初めて 「30代でセクハラを受けたのが初めてだったから、すごく悩んだんですよ。だけど、20代のころからセクハラを受けてきて、いつも流していたことを思い出したんです。しかも、当時の私は、男性から『セクハラされても仕方ないよね』って言われるような振る舞いをしていた。よくしゃべるし、明るく見えるようにしていたし、全然そんなんじゃないのにおじさん好みに合わせてキャラを演じていた。自分の中でずーっと続けてきた外見と内面のズレ、いびつさみたいなものが、今回もまたセクハラを受けるというかたちで出ちゃったのかなって思ったんです」  有希さんが新卒で入った会社は、年配の男性ばかりいる職場だった。まったく女性がいない中に、お酒の飲める若い女性が入ってきたことで、当時はたいそう喜ばれたという。 相手が望む振る舞いをしたほうが人生ラク 「そういう中にいると、男性たちと対等に過ごすんじゃなくて、こっちがちょっと頭パッパラパーみたいな感じでいるほうがいろんなことを教えてくれるんですよ。逆に、きちんと勉強して対等であろうとすると嫌がられる。女性だからやらせてもらえない仕事も結構あったし、性的に見られて気に入られていたほうが、評価が上がって良い仕事を振ってもらえたんです。当時は、『ホテル行こう』って言われても、『また今度ね』みたいなことが平気で言えた。相手が望む振る舞いをしていれば、仕事がスムーズに進むし、人生はラクなんだと思っていました。性的な嫌がらせを、嫌がらせだとさえ思わなければね」  有希さんは上司のセクハラを会社に訴え、出版社をやめた(撮影/インベカヲリ★)     男性が何を求めているか  相手が女性に何を期待しているかが、有希さんには手に取るようにわかったという。それをただ演じるだけなら容易にできた。  しかし、本音を押し殺したままでは長期的な人間関係は築けない。  しばらくすると居心地が悪くなり、転職は増えていった。 自分の振る舞い方がわからない 「男性が何を求めているのかっていうことに対しての反射がないと、自分の振る舞い方がわからなかったんです。でも、20代後半になってくると別に何も求められなくなってくるんですね。そうすると、何をしていいのかがわからない」  社会人1年目で身につけてしまった、「男性社会で生きるための処世術」が、逆に自分を苦しめるようになったのだ。そうした中で上司になったのが、件の男性だった。 「セクハラしてきた上司というのは、部下の女性にどう接してもらえたらうれしいのかが、言葉の端々からわかるタイプだった。すごく久しぶりにそういう上司ができたから、『ここは働きやすい環境かも』って思っちゃったんですよ」 “女”から降りたつもりだった  有希さんは、30代で結婚したことを機に、“女であること”からは降りているつもりだったという。既婚者になれば、性的な目で接してくる男性もいないし、仕事をもらうのに女を武器にする必要もない。その上で、相手の期待に応える振る舞いをしていれば、男性との仕事はスムーズに進むと考えていたのだ。  例えば彼女は、会議中の上司のリアクションを見て、相手によって頷く場所が違うことに気が付いた。トップの機嫌を取るために頷く箇所を変えているのだろうと推測した有希さんは、逆に自分は機嫌を取らなくてもいい相手になろうと考え、主義主張による口論や批評し合う関係を避け、彼がトップにするような振る舞いを自分がその人だけにするようにしたという。 望み通りの上司と部下だったのに 「そこからは懐に入るような感じでしたね。たまに、夫の話で惚気(のろけ)たりして、わざと夫婦円満アピールをしながら、うまく立ち回ることを考えていたんです」  実際、上司と部下の関係としては望み通りだった。職場の男性の中には、フェミニズムを揶揄する者も多かったが、その上司はどんな提案も真摯に受け止め、率直なアドバイスをくれた。互いに励まし合い、取引先とトラブルが起きると、矢面に立ってくれるような上司だったという。 「だけど結局、性的に見られているんだなってことがわかってショックでした」  こうして初めて、有希さんは会社にセクハラを訴えたのである。 コップの水があふれた瞬間に 「でも、その上司も可哀想と言えば可哀想なんですよ。今まで私がいろんな男の人にやってきた振る舞いのせいで、セクハラを受けてきて、その怒りが積もりに積もって、コップの水があふれた瞬間にセクハラをしてきたのが、たまたまその上司だったから。もう同じことは繰り返したくないし、一つの区切りにしたいと思ったんですよね」  有希さんは、体形がほっそりしていて、メイクも服も華やかなタイプだ。話は容姿のことに移った。 「私は目を二重に整形しているし、体重をキープするために下剤をずっと飲んでるんです。それも結局、男性の望みに短期間で無理やり合わせた結果なんですよ」 彼氏がいたほうが「生きやすくなる」  子どものころの有希さんは、今とは違いふっくらしていたという。親子げんかをすると、よく母親から「デブ」や「ブス」という言葉を投げられた。しかし、高校までは女子校に通っていたので、外見で困ることはなかったという。 「女子同士だと、外見でスクールカーストが決まるわけじゃないし、太っているから友達と会話しづらいなんてことはないじゃないですか。でも、大学に進学してサークルに入ったとき、母の言っていた『デブ』とか『ブス』ってこういうことだったのかと理解しました。見た目が可愛いとか、痩せているとか、“男の人から期待されたものを返す”という生き方のほうが、面倒臭いことが起こらない。彼氏がいないとつらいとかじゃなくて、いたほうが生きやすくなるんです」 日に下剤60錠で内臓はボロボロ  そこから無理なダイエットを始めたが、絶食だけでは限界がある。大学時代から下剤を飲むことを覚え、毎日60錠飲むことが習慣になった。それが現在まで何年間も続いていたのだ。 「だから、内臓ボロボロ。健康診断で、腸がほぼ動いていないと言われて、病院に通うようになりました。それが1年前くらいかな。20代のころだったら、『それでもいいや』って開き直っていたと思うけど、なんかそのときに、『あんまり自分をいじめないであげよう』って思ったんですよね。だって、内臓が動いてないっておかしいじゃないですか。心臓だって動かなかったら死ぬわけですから」 ”自分いじめ”をやめた  つまり、セクハラを会社に訴えることも、“自分いじめをやめる”一環だったのだ。 「上司からすれば、『なんだこいつ、人が変わったみたいだな』って感じると思うんですけど、私の中ではつながっているんです。『ラブホテルに行こう』なんてこれまで何度も言われてきたし、前の会社では、接待で体を触られたり、無理やりキスされたりすることもあった。でも、そのときは耐えられていたんです。なのに、どうして今回はこんなにショックを受けているのか、自分でも最初はわからなかったんですよ。だけど、この問題は女性に生まれてきたことが大きいじゃないですか。このままだと自分が可哀想だし、自分を守ってあげられるのは私だけだと思ったんです」  結局、上司にペナルティーはなく、有希さんはその後、別の出版社へ転職した。この訴えが、女性が男性社会で生きることの困難さを意味しているなど、上司は気付くこともないだろう。  話し終えた有希さんは、諦めを含んだように笑っていた。 (構成 ライター インベカヲリ★)
「客は何を求めているのか」に気づいた「深夜市場」 トリドールホールディングス・粟田貴也社長
「客は何を求めているのか」に気づいた「深夜市場」 トリドールホールディングス・粟田貴也社長 以前は新店を出す際は必ず場所をみにいって頭に店の姿を描いた。ハワイ店でもそうだ。ワイキキ海岸を走り、空き店舗を発見して、すぐに構想が湧いた(写真/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年 9月16日号より。 *  *  *  故郷の兵庫県加古川市で、国鉄(現・JR)の加古川駅から近い路地裏に焼き鳥屋「トリドール3番館」を開いて、2年目に入った1986年の初秋だ。夜がふけて店を閉め、小腹が空いたので帰途につく前、近くのラーメン屋へ寄った。  驚いたことに、深夜を迎えても、店の前に席が空くのを待つ客が並んでいた。入ると、飲み足りないのか、ラーメンを食べる前にビールとつまみを口にする客が少なくない。まだしゃべり足りないのか、楽しげな会話が飛び交う。はっ、として「客は、こういう時間に、こういう場を求めているのか」と頷く。飲食店経営の原点に触れ、「深夜市場」を開拓していく。  85年8月、23歳で「トリドール3番館」を開店した。焼き鳥屋は「鳥」という漢字を使って「鳥なんとか」とする名が多いが、それではつまらないと思って「鳥」を片仮名にした。下に付けるのは語感がいい「ドール」を選び、「長い将来で、こんな店が3軒持てたらいいな」というのが描いた姿だったので「3番館」とした。  加古川市は神戸市の西へ約40キロ、播磨と呼ばれる地域の東部で、南は瀬戸内海に面している。兵庫県警の警察官だった父と母、二つ上の兄の4人家族だったが、中学校へ入ってまもなく父がくも膜下出血で倒れ、2カ月後に44歳で亡くなった。  母の内職と父の年金で生活に困ることはなく、十分に食べることができなかったわけではない。でも、子ども心に「美味しいものを、おなかいっぱい食べたい」と思っていたし、将来への不安はあった。豊かさや立身出世の「成功」への憧れも、芽生えていく。 中学校と高校では生徒会長に(写真/本人提供)   マーケティング不在開店日だけ賑わってあとは客足が落ちる  大学は自宅から通える神戸市外国語大学の夜間部へ進み、日中はアルバイトを重ねるなか、「店を持ちたい」との思いが生まれる。目標はケーキ屋、珈琲店と替わり、客との対話も楽しめる焼き鳥屋に定めた。  店は床面積が8坪で、カウンターに10席と小さなテーブル席が二つ。幼稚園から高校まで一緒で、結婚したばかりの妻の利美さんと2人で始めると、開店した日は母校の恩師や友だちがきてくれて賑わった。でも、ご祝儀の来店が一巡すると、客足は落ちる。暇な日が続き、「どうしよう、どうしよう」と悩むが、いい知恵は出ない。1年間、客がこない日が多かった。  妻が妊娠したが、アルバイトも雇えず、1人で店を続ける。  そんななか、ラーメン屋で知ったのが「深夜市場」だ。店は周囲と同様に午後5時に開けても、勝負はよそが閉店する深夜の12時から。やってみると、客は12時まではこなくても、そこから次々にきた。飲み屋街のバーやスナックが閉まると、客とママや従業員が連れ立ってくる。昭和の終わり、日本経済が黄金期を迎え、ビジネスパーソンたちは「朝まで飲み、しゃべる」という場を求めていた。  暇な日続きだったので、ともかく賑わうことがうれしい。ここで「客は何を求めているか」が何よりも大事だ、と気づく。粟田貴也さんがビジネスパーソンとしての『源流』になった、とする体験だ。  1961年10月に神戸市に生まれ、3歳のときに父が買った加古川市の家へ引っ越した。大学時代、アルバイトを重ねていたときに本屋で立ち読みした雑誌に、神戸市のケーキ店で当てた社長の記事に「サクセス」という言葉があり、豪邸と高級車の写真もあった。「これだ」と、中学生のときに抱いた「立身出世」への思いが蘇る。  店を持つ資金を貯めるため、大学はやめて、新聞の求人広告欄で報酬が最も高かったトラックの運転手になった。早朝から夜遅くまで働いて、あとは独身寮で寝るだけ。でも、『源流』の水源が溜まり始めていた。 深夜にきた屋台男女2人との会話が人間らしい時間に  ある日、ふと、潤いが生まれた。夜になると、独身寮の需要を狙って、軽トラックの焼き鳥屋の屋台がきた。のぞいてみると、店の男女2人としゃべるのが楽しく、人間らしい時間を持てる。客の前で焼き鳥を焼きながら、言葉を交わす。「トリドール3番館」のモデルが、そこにあった。  深夜市場で稼いで1号店を軌道に乗せ、妻が考えたサラダやオムレツが当たって、3年目は満席で客が外で待つようになる。近くに持った2号店も、メニューを工夫して客を増やす。次の転機は、7年目に開いた3号店で起きる。ある夜、近くで違法駐車の一斉摘発があり、客の誰かが「駐車禁止の取り締まりだ」と言うと、多くが出ていった。「そうか、みんな、車できていたのか」と気づく。  確かにアルコール類はあまり出ていなかったが、てっきり駅を利用する客が寄っている、と思っていた。実は自宅から車できている人が多いと知り、「それなら家賃が高い駅前に店を出さなくても、郊外に駐車場付きで出したら、もっときてくれるのではないか。酒抜きで食べてもらえばいい」と、今度は「郊外市場」を狙う。  加古川市内のバイパス近くのマンションの1階に出した4店目が、家族連れで大ヒット。ファミリーレストランのブームが落ち着いたころで、いくつも店が売りに出た。主要な道路に面して駐車場も広く、出店にぴったりで、店が増えていく。 「店を三つは持ちたい」という夢は、超えた。ただ、何か、すっきりしない。「深夜市場」に続いて「郊外市場」で成功しても、店の差別化に確固たる自信へ至っていない。競争相手の登場に、どこかおびえていた。 集客力に驚いた「体験価値」を売る讃岐うどんの製麺所  進路が大きく拓けたのは、父の故郷の香川県丸亀市。90年代末に寄ったとき、長い行列ができた店が目に入る。讃岐うどんの小さな製麺所だ。客は椀を手に、醤油をかけた素朴な味のうどんを食べていた。セルフ方式で、県外ナンバーの車もきていて、集客力に驚いた。  そのとき、自分の勘違いに気づく。いい品、美味しい品を出せば客にきてもらえると思ってきたが、製麺所は商品だけでなく「体験」が売り物だ。目の前で小麦粉からうどんができて、ゆでて出るプロセスを、客は共有する。その「体験価値」のために、みんな、きていた。「新しい業態だ。やってみよう」と答えを出す。『源流』からの流れが、勢いを増していく。  2000年11月、加古川市に「丸亀製麺」の1号店を開く。店に製麺機を据え、選び抜いた小麦粉を置く。「これこそ、客が求めているものだ」と確信するまでに、年月は要らない。出店は続き、07年3月期に売上高の約4割を占め、2011年5月には、全都道府県へ出店した。  ホノルルに海外1号店を出したのが2011年4月。「客は何を求めているか」の重要さは、世界のどこでも変わらない。「体験価値」の創造には手間ひまがかかり、いまどきの経営者の大半はやらない。でも、配膳ロボットなど新技術を使った効率化よりも、「時代遅れ」にみえても客の目の前でつくる形を大切にして、差別化を貫く。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年9月16日号
6歳息子がスーパーのセルフレジを使いたがるのは「迷惑行為」か「社会勉強」か? 夫婦の対立に”論語パパ”がアドバイス
6歳息子がスーパーのセルフレジを使いたがるのは「迷惑行為」か「社会勉強」か? 夫婦の対立に”論語パパ”がアドバイス   「論語パパ」こと、中国文献学者・山口謠司先生  スーパーのセルフレジでバーコードを読みたがる6歳の息子に対し、父親が「周りの迷惑になるから」とやめさせたところ、妻に「社会勉強になるのに。子どもの気持ちをくんであげられないのか」と責められました。幼い子どものセルフレジ使用は社会勉強か、迷惑行為か。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の疑問に答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *  *  * 【相談者:6歳の息子を持つ30代の父親】  幼稚園年長の6歳の息子を持つ30代の父親です。子どものスーパーのセルフレジ使用について妻と意見が割れています。息子は乳児期から意欲的な性質で、スーパーにいくと必ずセルフレジのバーコードをスキャンしたがります。妻は「社会勉強になるし、やる気を伸ばしてあげなきゃ」と積極的にやらせるのですが、後に待つ人の列が長くなってイライラします。そもそもセルフレジは、客が有人レジに並ぶ手間を省いたり、店員のコストをカットしたりと、効率化のためにあるのに、ままごと感覚で子どもに使わせるなんて「迷惑行為」だと思います。妻になんて言えば納得してやめてもらえますか。   【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「子曰(しいわ)く、祝鮀(しゅくだ)の佞有(ねいあ)りて、而(しか)も宋朝の美有らずば、難(かた)いかな、今の世に免(まぬが)るること」(雍也第六)   【現代語訳】 ・孔子先生はおっしゃった。「宋朝ほどの美貌だけ持っていても、祝鮀のような雄弁の才がないと、今の世の中の恐ろしさを免れ、生き抜くのは難しい」(雍也第六) ※祝鮀…衛の君主・霊公に仕えた祭祀の官。雄弁家。 宋朝…宋の政治を支えた公子朝。色男で有名。 *  *  * 【回答】  お答えします! 相談者さんの妻の言う通り、小さい時から柔軟にセルフレジを扱う練習をさせた方が、息子さんの教育につながると、私は思います。  いずれ世の中はほとんどすべてのスーパーなどで、セルフレジか無人のレジになってしまうと予想されませんか? そんな時代になって、あわてて「なんだ、この無人レジは? 子どもが触ると人の迷惑になる。どうすればいいんだ?」なんて騒いでもどうしようもありません。  古代中国の思想家・孔子は、『論語』でこう言っています。 「祝鮀(しゅくだ)の佞有(ねいあ)りて、而(しか)も宋朝の美有らずば、難(かた)いかな、今の世に免(まぬが)るること」(雍也第六)  直訳すると「宋朝ほどの美貌だけを持っていても、祝鮀のような雄弁の才がないと、今の世の中の恐ろしさを免れ、生き抜くのは難しい」という意味です。  祝鮀は、衛の君主・霊公に仕えた人物で、時代を読む才知にあふれ、雄弁な名臣でした。宋朝とは、宋の公子で、色男で有名な人物。孔子は「才知がなくて、宋朝のように容姿の美しさを売り物にしているかぎり、世の中の危難を乗り越えることはできない」と説いたのです。  研究者によって時代の見方はさまざま異なりますが、孔子が活躍した紀元前500年前ごろは、「古代」と呼ばれる中国でも「春秋時代」から「戦国時代」へという時代の転換点に当たります。  そのころ、周という王朝に変化が起こっていました。はっきり言えば、王朝のトップに君臨する王の「権威の失墜」です。王の地位を脅かす原因は、民衆の身近な生活の変化や技術改革にありました。周王朝の王が定めた古代の「封建」という政治制度は、血縁をもとにして成り立つものでしたが、すでに「血縁」は薄くなり、血のつながりがない「他人」となった各地の覇者が武力によって、近隣の諸国を奪い合う時代になっていたのです。  こうした「武力」は、技術の革新によってもたらされたものでした。青銅器の時代から鉄の時代へと、転換しようとしていたのです。  こうした政治制度の変化と技術の革新は、現代の社会情勢にもピッタリと当てはまります。中東、ウクライナなどで起こる紛争や戦争、そしてわたしたちの生活のなかに浸透してきているAIなどの技術革新です。  さて、相談者さんの6歳の息子のスーパーのセルフレジ使用に話を戻します。  スーパーのセルフレジは、コロナ禍での「非接触」に対応するために、また、働き手不足を解消するために、時代の要請に応えるように導入されたものです。今、パソコンや携帯が使えないと仕事も人間関係もうまく構築・維持ができないのと同じように、スーパーのセルフレジが使えない人は、生きていくこともできない時代がやってきたのです。  孔子が言うように、この世の中は、美しく振舞うだけではなく、才知を働かせて、技術の革新にも対応ができるようにしておかなければならないのです。  相談者さんは、父親として「妻にやめさせる」と考えるのではなく、ぜひ客の少ない時間帯などを選んで、息子さんにバーコードの読み取りを任せてあげてください。  セルフレジが使えない高齢者の方々もこれから増えるでしょう。もしかしたら、相談者さん自身が、セルフレジを使えずに困る人になる可能性もあるのです。息子さんもはじめは慣れないから「ままごと感覚の迷惑行為」になるかもしれませんが、人にセルフレジの使い方を教える達人になれるかもしれませんよ。  さあ、子どもも大人もみんなで、できるだけセルフレジを使って、豊かな発想で時代を生き抜きましょう! 【まとめ】 「迷惑行為だからやめさせる」のではなく、客の少ない時間帯に練習させてあげて。時代に即した柔軟な対応を。    
「官能的ともいえる素晴らしい手打ち麺」 埼玉のラーメン店主が追求する至高の一杯
「官能的ともいえる素晴らしい手打ち麺」 埼玉のラーメン店主が追求する至高の一杯 らーめん かねかつの「らーめん」は一杯1100円。具は鶏チャーシュー2種類、豚チャーシュー、三つ葉、ネギ。麺は極太縮れの手打ち麺(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。今回は埼玉を代表する塩ラーメンの人気店「中華そば 葵」の店主・梅原さんの愛する名店「らーめん かねかつ」をご紹介する。  JR北浦和駅から徒歩約2分。官能的ともいえる素晴らしい手打ち麺とホロホロ鳥の豊潤なスープで人気を博す名店がある。「らーめん かねかつ」だ。「食べログ」では3.91点を誇り、埼玉県のラーメン店では堂々の2位につく(2024年9月12日現在)。  店主の大友勝さんは福島県いわき市出身。幼少期は福島県を中心に展開するチェーン店「会津っぽ」に家族でよく行き、ラーメンを食べていた。東京で一人暮らしをしたいという理由で大学を受験し、上京する。  しかし、勉強が嫌でバンドに明け暮れる日々。結局、大学2年で中退してしまう。バンドをやるなかで、「将来サラリーマンにはなりたくない」と思い、「就活をしないなら大学に行っていても仕方ない」と思ったのであった。 「らーめん かねかつ」店主の大友勝さん(筆者撮影)  19歳からは当時東京・町田にあった「魯山人」というラーメン店でアルバイトをした。厳しい現場で、ラーメンの基礎を勉強し、平ざるで麺上げをしていた。この頃からラーメンを作る楽しさを覚えていった。  26歳までアルバイトをしながらバンド活動を続けていた。だが、いよいよ就職をしなくてはと思い立ち、焼き鳥店で働き始める。鶏のさばき方やスープの取り方などを勉強していく中で、「いつかラーメン屋になれたら」という思いが湧いてきた。その後、居酒屋に転職し飲食の勉強を続けた。  ラーメン屋として独立するためには製麺を勉強せねばと思い、28歳で東京・太田区にある製麺所・丸山製麺に入社する。いつか独立した時に自家製麺をやるべく、3年間製麺をしっかりと学んでいった。この間も複数のラーメン店でアルバイトをし、独立に向けての準備を進めていったのである。  当時、町田にあった「69‘N’ROLL ONE」で食べたラーメンに衝撃を受け、独立するならばインパクトのある醤油ラーメンで勝負したいと思っていた。もともとはラーメン居酒屋をやろうと思っていたが、ラーメン一本で勝負する「69‘N’ROLL ONE」の嶋崎店主に刺激を受け、醤油ラーメンの試作を進めていった。   店主の大友さんがらーめんを作る様子が目の前で見られる、ライブ感あふれる店内(筆者撮影)  腕試しのために2012年、ラーメンの新人を発掘するイベントにいくつか出場するものの、敗退。自信のあるラーメンができていただけにとても悔しく、泣き明かした。  だが、ここで止まってはいられないと、ラーメン作りと平行して物件探しを始めた。  開業資金が貯まっていなかったため、都内でオープンすることは難しく、埼玉県川口市に見つけた家賃の安い物件に決める。駅前ではなく住宅街の中で土地勘もなかったが、多少駅から遠くても人が呼べるぐらいの店になれなければだめだろうと思い、思い切って出店することにした。  こうして13年4月「らーめん かねかつ」はオープンした。店名は尊敬する祖父の名前をもらったものである。 「らーめん かねかつ」/埼玉県さいたま市北浦和3-1-6/10時〜15時 営業(食材なくなり次第終了)日祝定休/営業情報は店のX(@yourmonky)でも発信中(筆者撮影)  オープンの時祝い花が出ていたので近隣の人たちが何人が見に来たものの、初日からお客さんは全然来なかった。その後、ラーメンファンの知人が食べに来てくれるようになり、そこから少しずつ口コミが広がるようになる。さらに、同年の『ラーメンWalker』の新店紹介のコーナーで見開きで紹介され、翌14年の『川口市Walker』でも見開きで紹介された。次第に地域の人たちにも知られるようになった。 「かねかつ」はオープン当初から常にギリギリの戦いであった。  当初はスープに比内地鶏の親鶏の丸鶏を使っていたが、ある日業者さんが引退することになり、ものが入らなくなってしまった。その後、川俣シャモに切り替えたが、これも取れる量に制限があって使えなくなってしまう。  こうして、最終的に出会ったのが「ホロホロ鳥」である。高価で供給も安定しておらず、不安はあったが、いざ試作して食べたらこれしかないと確信した。他と同じことをやりたくないと考える大友さんはホロホロ鳥を使うことに決める。結果、農場と直接契約することで数を確保することができた。 ホロホロ鳥の丸鶏を中心に醤油感をしっかりきかせた分厚いスープは絶品だ(筆者撮影)  スープだけでなく、麺もこだわりを見せる。 「もともとは製麺所から麺をとっていましたが、どうしても自家製麺をやりたくて、15年からは麺を手打ちに切り替えました。本当は製麺機を置いて自家製麺にすることを考えていたんですが、場所がなく手打ちをするしかなかったというのが本当の話です」(大友さん)    手打ち麺の奥深さを知ったのは、町田にある名店「白河手打中華そば 一番いちばん」で食べた一杯に衝撃を受けたことがきっかけだ。食べに行ったときに挨拶をすると、なんと店主の金原煌遺さんが製麺を教えてくれることになった。これ以上ない先生に直接教えてもらい、試行錯誤を重ねオリジナルの手打ちの太麺が出来上がった。  その後、『ラーメンWalker埼玉』で3年連続2位を受賞。19年、スープをホロホロ鳥に変えてからさらに評価が上がり、20年『TRYラーメン大賞』名店部門2位を受賞する。  忘れてはいけない「かねかつ」の人気トッピングは「得肉三昧」だ。ホロホロ鳥のむね肉ともも肉、イベリコ豚の肩ロースを別皿で贅沢に食べられる人気メニューである。 「これはまず初めに『肉三昧』というネーミングが降ってきたんです。他で聞いたことがない名前だったので、これはいけるな、と。盛り付けも特徴を出して提供したら人気メニューになりました」(大友さん)  ホロホロ鳥はガラの数があまり出ないので丸鶏で仕入れ、肉はチャーシューに、ガラをスープに使っている。他と同じことは絶対にやりたくないへそ曲がりな性格がオリジナリティを生んだのである。 (筆者撮影)  いよいよ軌道に乗ってきた頃、建物の老朽化で取り壊しが決まり、移転を余儀なくされる。せっかくなので、今の店でできていないことを実現させようと物件探しを始める。  4席しかなかった席数を倍にすること。店内に待ち席を作ること。厨房から店内が見渡せること……。いくつか条件を出して探していくと、北浦和駅前の新築物件に出会った。  ゼロから店を作ったのでお金はかかったが、妥協せずに理想を追求することを優先した。こうして22年「かねかつ」は移転する。コロナをきっかけに、密でない開放的な空間のお店ができた。 「妻と二人でやっていますが、提供できる杯数の限界までは来ています。ですが、二人で作っている雰囲気が良いと言っていただいているので、このままの形でいきたいと思います。あの頃の『69‘N’ROLL ONE』の嶋崎さんにどれぐらい追いついているんだろう?と今でも思いますが、これからもおいしい一杯を追求していきます」(大本さん) (筆者撮影)    大友さんの目標は生涯現役。創業から50年後の2063年でも厨房に立っていることが目標だという。ラーメン屋は目の前でおいしいと言ってもらえる幸せな職業。今後もお客さんとのライブ感を楽しみながらラーメンを作っていく。(ラーメンライター・井手隊長)
3児の母、小雪が語る“2拠点生活”での子育て 「人に感謝できる人になってくれたら」
3児の母、小雪が語る“2拠点生活”での子育て 「人に感謝できる人になってくれたら」 小雪さん 撮影:植田真紗美 ヘアメイク:若林幸子(MARVEE) スタイリスト:カドワキジュン子(impress+)  映画やドラマではクールな美しさが光る俳優の小雪さん。プライベートでは3人の母であり、近年は農業にも取り組んでいるといいます。田舎と都会の2拠点生活を通して、子どもたちに伝えたいこととは? 小学生のママパパに向けた子育て情報誌「AERA with Kids24年秋号」(朝日新聞出版)からご紹介します。 教科書ではなく、暮らしの中で知る経験を大切にしたい  数年前から、田舎と都会の2拠点で生活をしています。12歳の長男を筆頭に、11歳の長女、9歳の次男の3人の子どもたちは、農家さんのお手伝いもして、自然の中での生活が中心ですね。  いい意味で本当に「何もない場所」なので、野菜を育てたり、保存食を作ったり、想像力を働かせてゼロからイチを生み出す面白さがある。子どものうちにたくさん体験をしてほしいですね。  もちろん都会には都会の良さもあります。子どもでも身近に芸術に触れる機会が多かったり、自分の中にあるものを引き出して表現できるのは都会ならでは。  わが子たちも「都心は自分でいろいろなところに行けて楽しい」と言うこともあれば、「この野菜がこんな値段で売られているんだ。こっちなら自分で作れるのに」「都会は便利だけど、便利さにまみれちゃうね」などと言うこともあって、子どもなりの視点を持っています。両方を体験して、いろいろ感じてほしいですね。  農家の方たちは毎日働いていて、季節に応じてお野菜を干したり、魚をさばいて干物にしたりとお忙しく、頭が上がりません。雪の下に野菜を埋めて天然の冷蔵庫として利用するなど、知恵が豊富で学ぶことばかり。そうしたことを教科書ではなく、暮らしの中で知ることができるのは貴重な経験だと思っています。 ドラマ「スカイキャッスル」の世界観は、「まったく無縁のもの」  今回、出演するドラマ「スカイキャッスル」は、高収入家庭の子どもたちの受験戦争を描いた作品。私は過去に影を持つ受験コーディネーターの役ですが、ドラマの世界観も、演じるキャラクターも、普段の私とはまったく無縁のもの。正直、共感できるポイントはほとんどないです(笑)。だからこそ、まったく別の世界だと思って楽しんで演じています。 小雪さん 撮影:植田真紗美 ヘアメイク:若林幸子(MARVEE) スタイリスト:カドワキジュン子(impress+)  実際に、受験熱は日本でも高まっていますね。“良い大学”を出て、“良い会社”に就職するのが成功という固定観念が、社会にはまだまだ深く根付いているように思います。ただ、実際のところ、「生きる力」があるかどうかを考えると、どうなのかな、と。  私は体験学習こそが子どもを成長させるし、人も成長させると思っています。やっぱり頭で考える以外のことが、人生ではたくさん起きますよね。自分なりの想像力を持って仕事をしたり、事業を起こしたりする人たちもいます。  誰かに決められた枠にとらわれるのではなく、自分が何をしたいか、どういう道に進みたいかをまず考えることが大事。基本的な読み書きができて、ある程度の計算ができたら、あとは、自分のやりたいことを見つけて頑張るほうが、最終的には良い教育になるんじゃないかと思っています。  きっと、今の子どもたちが大人になるころには、今ある職業が減って、想像もしなかった職業が増えているはず。“インフルエンサー”や“ティックトッカー”なんて、昔はいなかったですもんね。 「今は、『いいね』の数で広告収入を得る時代なんだよ」と息子に教えてもらって、「なるほどね」と驚きました。 「ありがとう」と「お願いします」は、子どもの前で私が率先して言うように  子どもが3人いれば、やっぱり大変な時もありましたが、彼らももうずいぶん大きくなって、自分で考えられるようになってきました。なので私が怒ったりすることはあまりないですね。  うちはスマホもSNSも基本はOK。現代の子たちのコミュニケーションツールだから、取り上げても仕方がない、と思っています。ただ、家庭のルールはある程度決めていて、その理由も説明します。 「明日学校だよね。何時には起きないとダメだよね。そのために何時に寝ないと起きられないよね。じゃあ、何時までゲームができる?」と最後は問いかけて。 「まだもう少し起きていても大丈夫」「金曜日は夜遅くてもいい」など、彼らなりの考えもある。  寝坊をして起きられず、遅刻をしたら怒られるのは本人。そこは自己責任で見守っています。  あとは、人に感謝できる人になってくれたら。「ありがとう」と「お願いします」をきちんと言えるように、まずは私が、子どもの前でこの言葉をしょっちゅう口にするようにしています。いつも聞いていたら、子どもたちも言えるようになるかな、と。そのくらいの感覚でいないとお母さんも疲れちゃいますよね。  生活に関しては、夫のほうが厳しいので、お父さんのルールはお父さんのルールとして守らなくちゃいけない。それも子どもたちはよくわかっていて、「お母さんならここまでは許される」など、あれこれ考えて、楽しんでいるようです(笑)。 (取材・文/玉居子泰子) 小雪さん 撮影:植田真紗美 ヘアメイク:若林幸子(MARVEE) スタイリスト:カドワキジュン子(impress+) 〇小雪/1976年生まれ。神奈川県出身。95年、ファッション雑誌「non-no」の専属モデルとして活動を開始。98年俳優デビュー。数々の映画やドラマに出演し、2005年映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で第29回日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。現在、3人の子どもを育てながら、農業にも挑戦する。 〇木曜ドラマ「スカイキャッスル」 テレビ朝日系 毎週木曜夜9:00〜放送中 テレビ朝日提供  高級住宅街のセレブ妻たちが繰り広げるマウントバトルを描いたストーリー。名門大学附属高校の合格をめざす親子と、膨大な報酬を経て受験生をサポートする、小雪さん演じる「受験コーディネーター」の存在。謎めいたコーディネーターは、彼らを成功に導くのか、それとも……。教育のあり方や子育ての大切さを、改めて考えさせられる作品。
自民党総裁になる有力なルートは? 東大卒、官僚から転身、世襲、慶應出身…歴代首相と“候補”を徹底比較
自民党総裁になる有力なルートは? 東大卒、官僚から転身、世襲、慶應出身…歴代首相と“候補”を徹底比較    自民党総裁選が迫ってきた。自民党総裁就任イコール日本国総理大臣を意味するのだから、27日の投開票の結果には日本の将来がかかっている。誰が総理のいすに座ることになるのか。歴代の首相のプロフィルから自民党総裁になるための有力なルートを探ってみた。 *  *  *  8月末までに立候補に意欲を示しているとされるのは、自民党国会議員12人(11日までに齋藤健と野田聖子の立候補断念が判明)。現在、推薦人を集めている。 石破茂(元党幹事長 衆議院・鳥取1区) 加藤勝信(元官房長官 岡山5区) 上川陽子(外務大臣 静岡1区) 小泉進次郎(元環境大臣 神奈川11区) 河野太郎(デジタル大臣 神奈川15区) 小林鷹之(前経済安全保障担当大臣 千葉2区) 齋藤健(経済産業大臣 千葉7区) 高市早苗(経済安全保障担当大臣 奈良2区 ) 野田聖子(元総務大臣 岐阜1区) 林芳正(官房長官 山口3区) 茂木敏充(党幹事長 栃木5区) 青山繁晴(参議院・比例) (衆議院・参議院、50音の順)  歴代総理の前に、まず、この12人の出身校や海外大学留学(中退も含む)、職歴などのプロフィルから、「総理を目指す政治家」の特徴を調べてみた。 ◆出身大学:東京大6人、慶應義塾大2人、上智大1人、早稲田大1人、関東学院大1人、神戸大1人。 ◆海外大学に留学:ハーバード大5人、コロンビア大1人、ジョージタウン大1人(いずれも中退を含む) ◆出身高校:慶應義塾高校2人、以下1人で公立高校4人(足利、大泉、畝傍、下関西)、私立高校5人(開成、田園調布雙葉、関東学院六浦、静岡雙葉、淳心学院)、国立高校1人(東京教育大附属駒場)  東京大、ハーバード大と日本とアメリカのトップ校に通っていたのが上川陽子、小林鷹之、齋藤健、林芳正、茂木敏充の5人である。うち小林は大蔵省(財務省)、齋籐は通産省(経済産業省)出身であり、東大、官僚、ハーバードと三拍子そろった、絵に描いたようなエリートコースを歩んだ。  ちなみに、東京大を卒業し官僚になり国会議員に転身し総理になったケースは、岸信介(56、57代)、佐藤栄作(61~63代)、福田赳夫(67代)、中曽根康弘(71~73代)、宮沢喜一(78代)などがいる。 総裁選への立候補を表明した小泉進次郎氏  留学経験があるのは上記の5人に加えて2人。河野太郎は慶應義塾大を中退してジョージタウン大、小泉進次郎は関東学院大を経てコロンビア大(大学院)で学んだ。   また、野田聖子が通っていた上智大外国語学部比較文化学科の前身は上智大国際部であり、タレント・芸能人の出身者には范文雀、ジュディ・オング、南沙織、アグネス・チャン、早見優、西田ひかる、クリスタル・ケイ、青山テルマ、はな、川平慈英、デーブ・スペクターなどがいる。キャスターでは安藤優子、山口美江、小牧ユカなどが学んでいた。昔からグローバル化を進めてきた大学出身である。国際感覚があることも、備えるべき資質の一つといえそうだ。  続いて大学卒業後の進路。商社が2人、メディアが2人いる。  林は三井物産、茂木は丸紅に就職した。青山繁晴は共同通信、茂木は丸紅勤務後に読売新聞、マッキンゼーに転職している。上川は三菱総合研究所研究員を経て留学し、アメリカでは上院議員の政策立案スタッフを務め、大統領選挙運動にも参加している。茂木、青山、上川の親族に政治家はいない。彼らはメディア、コンサルタント、シンクタンクなどの勤務を通じて政治の世界にかかわるようになり、「わたしがこの国を良くしたい」と国会議員を志すようになったのは想像に難くない。  なお、これまで企業勤務経験がある総理には、橋本龍太郎(82、83代)は慶應義塾大から呉羽紡績(現・東洋紡)、安倍晋三(90、96~98代)は成蹊大から神戸製鋼所、羽田孜(80代)は成城大から小田急バスといったケースがある。だが、3人はいずれも二世、安倍氏は三世議員でサラリーマン経験は短く、早々に親の地盤を継いで国会議員となった。 コバホークこと小林鷹之氏は開成出身  次に出身高校を見てみよう。  石破、河野は慶應義塾高校(塾高)で、いずれも世襲議員である(以下、三代、四代続く議員がいるがすべて“世襲”と称す)。国会議員は慶應義塾が大好きなようで、子どもを同校に通わせるケースが見られる。慶應義塾高校、慶應義塾大出身には世襲議員が少なくない。塾高→慶大の中曽根康隆、中曽根弘文、福田達夫、岸信千世の父または祖父、曾祖父は総理大臣をつとめた(福田は父と祖父の両方が総理)。石原宏高、奥野信亮、高村正大などの父または祖父は大臣経験者である。  コバホークという異名が定着しつつある小林は開成出身である、岸田文雄の後輩にあたる。開成は官僚、国会議員を多く送り出した。霞が関、永田町で働く同校OBは「永霞会」という同窓会組織を作っている。開成出身の自民党の国会議員は8人いる。だが、前回、岸田が総裁選に立候補したとき、第1回投票で岸田に票を入れた開成OBの議員は少なかったという。同窓より所属派閥の立場が優先された形だ。今回も小林は開成OBからの票は期待できそうもない。  齋藤健は東京教育大附属駒場高校(教駒、現・筑波大附属駒場)から東京大に進んだ。2022年11月、齋藤は第2次岸田改造内閣で法務大臣に就任した。前任の大臣も筑駒OBで警察庁出身の葉梨康弘だったが、「外務省と法務省は金にも票にも縁がない」「法務大臣は死刑のはんこを押したときだけニュースになる地味な役職」などと失言し、その責任を問われ事実上、更迭されてしまう。  同時期、山際大志郎・経済再生担当大臣が旧統一協会との関係を取りざたされ辞任し、その後任には教駒OBの後藤茂之が就いた。岸田内閣で教駒OBが2人、大臣になったわけだ。   野田聖子は田園調布雙葉を中退して、アメリカのハイスクールに通った。帰国後、上智大外国語学部比較文化学科(現・国際教養学部)で学び、卒業後は帝国ホテルに就職している。田園調布雙葉の3学年下には皇后陛下(当時は小和田雅子さん)がいた。長嶋茂雄さんの次女の長島三奈さん、佐田啓二の長女で俳優の中井貴惠も同窓である。 サラブレッドといわれる林芳正氏  以上が、総理を目指す政治家のプロフィルだが、実際に総理の座に就いた政治家はどんな経歴なのか。ここで歴代総理の出身校を見てみよう。 高校は次のとおり(旧制中学校を含む)。 ◆学習院高等科 4人 近衛文麿(34、38、39代)、東久邇稔彦(43代)、細川護熙(79代)、麻生太郎(92代) ◆群馬県立高崎高校 2人 福田赳夫(67代)、中曽根康弘(71~73代) ◆麻布高校 2人 福田康夫(91代)、橋本龍太郎(82、83代) ◆島根県立松江北高校 2人 若槻礼次郎(25、28代)、竹下登(74代) ◆山口県立山口高校 2人 岸信介(56、57代)、佐藤栄作(61~63代) 出身大学ランキングは次のようになっている(各大学で最近の3人)。 ◆東京大 19人 中曽根康弘(71~73代)、宮沢喜一(78代)、鳩山由紀夫(93代)など ◆早稲田大  8人 福田康夫(91代)、野田佳彦(95代)、岸田文雄(100、101代)など ◆京都大 5人 近衛文麿(34、38、39代)、片山哲(46代)、池田勇人(58~60代)など  歴代総理の出身校や職歴などのプロフィルから、総理になるための有力なルートとして、東京大卒業、官僚からの転身、世襲、慶應義塾出身といった要素が浮かび上がる。  今回意欲を示している中で、加藤勝信は二世(妻の父が議員)、東京大、官僚出身と三拍子揃う。林芳正は加藤より年齢が若く二世、東京大卒、ハーバード大大学院修了で地元からサラブレッドと呼ばれる。しかし、歴代総理と経歴が似ているからといって彼らが最有力というわけではない。彼らは小泉進次郎に存在感でやや遅れをとっているし、旧派閥の論理で動くかもしれない。日本の舵取りをしっかりまかせられる総理の誕生を願う。自民党総裁選は9月12日告示、27日投開票である。(教育ジャーナリスト・小林哲夫) (政治家、芸能人・タレントは敬称略/河野太郎、安倍晋三、福田達夫は三代、岸信千世、小泉進次郎は四代続く国会議員) 
「未来の年金」に新兵器 モデル世帯から個人単位の根金額へ 「分布推計」のすごい威力
「未来の年金」に新兵器 モデル世帯から個人単位の根金額へ 「分布推計」のすごい威力   厚生労働省の社会保障審議会の年金部会。公的年金の将来の見通しを示す「財政検証」の結果が7月に公表された    厚生労働省が7月に発表した年金の推計値。初めて1人当たりの平均年金額の見通しが示されるなど、より具体的に将来を想像できるようになったという。これで年金に対する不安は解消されるのか。AERA 2024年9月16日号より。 *  *  * 「年金制度に画期的な指標が誕生しました。この指標をアピールしていけば、若い世代の年金不信を変えられるのではと思います」  こう話すのは日本総合研究所特任研究員の高橋俊之氏である。高橋氏はつい2年前まで厚生労働省で「年金局長」を務めていた。年金制度を知り尽くした元行政サイドのトップが太鼓判を押す指標なのである。  高橋氏が高く評価するのは、「分布推計」という手法を使って厚労省が個人単位の年金額をシミュレーションしたことを指す。7月に発表された、年金財政の「健康診断」といわれる財政検証の中で初めて公表された。  いったいどんな点がすごいのか、順を追って見ていこう。  年金と言えば、誰にとっても最大の関心事は「いつから、いくらもらえるか」だろう。「いつから」は「65歳~」が標準だが、「いくら」という個人の年金額の目安を示す公的な指標は実はどこにもなかった。 「モデル」が現実と違う  財政検証や毎年の年金額改定の際に「モデル世帯」の年金額が発表されるが、このモデル世帯が現実にはありえない夫婦──20歳から60歳までの40年間、平均賃金で働く夫と、同じ40年間、専業主婦だった妻──が想定されている。  そう聞くだけで、共働きが主流で、単身世帯も増えている実態と合っていないことがわかるが、ほかに指標がないこともあって、あたかも「これが標準」であるかのような取り上げ方がマスコミなどでされてきた。  モデル世帯は1980年代に考え出され、年金財政が苦しくなって「マクロ経済スライド」という支給抑制策を取らなければならなくなってからは、その抑制度合いを測る指標としても使われるようになった。具体的には法律で、モデル世帯の年金額(以下、モデル年金)は現役男子の平均手取り収入額の「50%」を下回らないこと、と定められている(難しい言葉だが、この比率のことを「所得代替率」という)。そしてその基準が守られていることを5年ごとに確かめるのが財政検証の役割である。 AERA 2024年9月16日号より    もともと個人がもらう年金とは何の関係もないうえに、支給抑制策を行う結果として「モデル年金の所得代替率は、現在の約60%が将来的に約50%に向けて下がっていく」という見通しが財政検証のたびに繰り返し打ち出された。  冒頭の高橋氏が言う。 「その結果、モデル年金を通して国民の間に『年金は減っていくものだ』という抜きがたいイメージができてしまいました」 実データを使って推計  そんな状況の中で登場したのが「分布推計」による個人単位の年金額なのである。財政検証の資料によると、実に大掛かりな推計が行われたようだ。全被保険者の2割を抽出し、過去分は実際の年金記録を使い、それをもとに将来分のシミュレーションも行い、個人ごとに記録を積み上げて生年度別に年金額の見通しを計算したとしている。  ニッセイ基礎研究所上席研究員の中嶋邦夫氏は、過去分に実データを使っている点が評価できるとする。 「分布推計による年金額のいいところは各世代が実際にもらってきた給料を反映していることです。今後働く期間分も推計で入っていて、実際の受給額をよりイメージしやすくなっています」  確かに個人単位で試算しているから、さまざまな分析が可能になる。財政検証でも実に多彩な見通しが示された。  まずは年金制度とのかかわり方である。これから増えるのは、雇われて働く厚生年金の加入者という。「厚生年金期間中心」(厚生年金の加入期間が20年以上)が男性では現在の約8割から約9割へ、女性でも4割弱から7割台半ばに増える(財政検証が示した四つの経済前提のうち、専門家らが「一番、手堅い」とする今後もほとんど経済成長しない「過去30年投影ケース」の数字、以下同じ)。  生年度別の加入期間の分布でも、それが裏付けられる。男女とも若年世代になるほど「厚生年金期間40年以上」「同30~40年」のシェアが高まっていく。  その結果、個人単位の年金額はどうなるか。グラフが生年度別の65歳時点でもらえる男女の1人分の平均年金額(月額)の見通しである。今年度65歳になる1959年度生まれの男女はそれぞれ月額14.9万円、9.3万円の年金を受給できる。それが現在50歳、40歳、30歳の男女では、男性が14.1万円→14.1万円→14.7万円で、女性は9.8万円→9.9万円→10.7万円となる。 AERA 2024年9月16日号より   年金額が増える見通し 「ざっくり言って『男性はほとんど減らない、女性は増える』と概観できます」(高橋氏)  経済前提がもっといい場合は、平均年金額は男女とも若年世代になるにつれよりはっきりと上昇していく。  また、世代ごとの年金額の分布をみると、若年世代になるほど男女とも月額10万円未満の低年金者が減っていくことがわかる(グラフ)。特に女性では「10万~15万円」の層と「15万~20万円」の層が急激に増えるなど、男性より年金額の上昇が顕著に表れている。  平均年金額や年金額の分布がこのような結果になるのは、長く働いて厚生年金への加入期間が延びるからにほかならない。加入期間が延びると名目の年金額は増える。マクロ経済スライドが行われていて、その分年金額が少なくなったとしても、増えたところからの減少だからマイナスの影響を緩和できる。  先の日本総研の高橋氏は、こうした効果を年金額の見通しに組み込めたことが「画期的」とする。 「モデル年金では就労期間が20歳から60歳までの40年間に固定されていました。その中でマクロ経済スライドを実施するのですから、所得代替率が下がるのは当たり前です。しかし現実は違っていて、人々は60歳を過ぎても就労するなどより長く働くようになっています。これまでより長く働く分や40年を超えて働く分を年金額の見通しに組み込めれば、減少部分をどんどん補えます。分布推計は、その効果を目に見えて理解できるようにしてくれました」  そして、それが冒頭の年金不信を払拭する可能性につながればと期待する。 「所得代替率が下がっていくモデル年金の図ばかりを示されてきたので、若い世代で年金不信に陥る人が増えてしまいました。そんな人々にこの結果を示せば、『年金は減るばかりではないんだ』ということに気づいてくれるのではないでしょうか」(高橋氏) 将来の備えにも使える  もちろん、いいことずくめではない。女性の年金額が大きく増えることばかりが注目されているが、ニッセイ基礎研准主任研究員の坊美生子さんによると、女性の低年金は若年世代になっても変わらず続きそうだという。 AERA 2024年9月16日号より   「結婚・出産後も働き続ける女性が増え、厚生年金の加入期間も30歳以下では今の65歳より10年以上延びるのですが、年金額の分布では月額10万円未満の割合が今の7割弱が30歳では約45%に、20歳でも36%程度にしか減らない見通しです。賃金格差が原因である男女の年金格差も解消される見通しではありませんでした」  第一生命経済研究所研究理事の小川伊知郎氏は、だからこそ若い世代はこの分布推計を活用して、将来の備えをしてほしいと力説する。 「『ねんきん定期便』で送られてくる自分の年金の加入実績をもとに、年金額をネットで簡単に試算できる『年金シミュレーター』を使って試算すれば自分の将来の年金額がある程度わかります。それを今回の分布図にあてはめたりして、仮に同世代の平均より少ないとわかれば、貯蓄・投資を増やすなど自助努力を生活に組み込んでいくのです」  分布推計による個人単位の年金額試算は、今後の財政検証の「定番」になっていくとするのが専門家たちの一致した見方だ。であるならば、国側には試算方法の「進化」を望みたいし、私たち受け手の方は活用法を磨いていくべきだろう。(編集部・首藤由之) ※AERA 2024年9月16日号  
悠仁さま 生クリームワッフルをモグモグ 「ライブ会場」とヒット曲にノッてジャンプ!18歳の「文化祭」は、「トンボ」のオリジナルTシャツで
悠仁さま 生クリームワッフルをモグモグ 「ライブ会場」とヒット曲にノッてジャンプ!18歳の「文化祭」は、「トンボ」のオリジナルTシャツで 18歳の成年を迎えて、両陛下へのあいさつのため皇居に入る秋篠宮家の長男、悠仁さま。愛子さまも勤務先から帰宅し、ご一家そろって悠仁さまの成年を祝福された=2024年9月6日午後5時過ぎ、東京都千代田区  9月7、8日。秋篠宮家の長男、悠仁さまが通う筑波大学付属高校(文京区)では文化祭「桐陰祭」が開催された。3年生の悠仁さまにとって高校生活最後となる文化祭。悠仁さまのクラスはピザ屋を出店し、卒業生や生徒の家族など来訪者でにぎわう初日には、秋篠宮ご夫妻も来場し、息子の青春を見守った。 *    *    *  2日目の「桐陰祭」も終わりに近づいた9月8日の夕方。高校の前庭に設置されたステージでは、ダンス部によるパフォーマンスが生徒たちを盛り上げていた。 全身でリズムを取りながら、思いきりジャンプ  マイクを手にした女子生徒が、カナダ出身のシンガーソングライター、カーリー・レイ・ジェプセンのヒット曲『Call Me Maybe』をバックに、「イチ、ニ、サン、シ‥パン、パン、パン」とリズムを口ずさむ。舞台上ではダンス部の生徒たちがゆっくりとダンスのお手本を見せて、観客のみんなも一緒に踊るように呼びかけた。  来場客などによると、同級生たちと店じまいをしたクラスのテントの下で、ステージをみていた悠仁さまも、ダンス部のマイクに合わせて、腕を挙げ、左右の手を回し、両手をふって練習タイム。  いよいよラストのダンスとなる『Call Me Maybe』が流れ、ダンス部の生徒たちがステージで熱のこもった踊りを披露。会場は在校生たちの手拍子と「ワーッ」といった声援で盛り上がる。  椅子に座っていた悠仁さまもお友だちと一緒に立ち上がった。全身でリズムを取りながら左右の腕を順番に回し、上げた両腕を左右に揺らしてから思いきりジャンプ。  お友だちと高校生活、最後となる「桐陰祭」を存分に楽しむ18歳の悠仁さまがいた。 悠仁さまたちのクラスが出店したピザの模擬店のテント上に飾られた、生徒たちの手作りによる精巧なピザのオブジェ。薄皮のミラノ風ピザがパリッと焼けて美味しそう!=2024年9月、東京都文京区、読者提供  最終日の悠仁さまは、背中に「HISAHITO 01」のロゴがプリントされた白いTシャツを着用していた。「桐陰祭」では、クラスごとに作製したオリジナルTシャツがあり、背中には、銘銘が名前や好きな言葉などをプリントしている。「HISAHITO」Tシャツは 2年生の文化祭でも着用していたものだ。  初日に着用していたTシャツは、さらに悠仁さまの個性があふれる仕様になっていた。背中側には、「Anisoptera 1310」のプリントがある。「Anisoptera」とは、トンボ亜目を指すことから、悠仁さまのトンボ愛があふれるオリジナルTシャツであった。  来場者などによると、2日間の「桐陰祭」では、お友だちと笑顔で過ごす姿があった。  悠仁さまが所属するクラスは、手作り窯で焼きたてのピザを提供する「ピッツァスモールワールド」の模擬店を前庭に出店。12等分されたマルゲリータとジェノベーゼが一切れずつセットになって150円と、リーズナブルで「小さな」ピザ屋さんだ。 悠仁さまは、調理室でピザ作り?  屋台テントの上には、新聞紙と段ボールなどで制作した、熱々のピザの巨大オブジェが飾られており、生徒の意気込みの高さが伝わる。 「手作り窯で焼きたてがウリだけあって、ミラノ風のパリッとした薄皮にアクセントがついた味で美味しく、2日間とも早めに売り切れました。悠仁さまは、調理室でピザを作る裏方を担当していたようで、販売の係では見かけませんでした」(来場客)  2日目、悠仁さまのクラスのピザ屋さんは13時台には売り切れとなり、生徒たちはそれぞれ他のクラスの催し物を楽しみに校内に散っていった。 生徒たちが制作した「桐陰祭」のゲート=2024年9月、東京都文京区、来場者提供  悠仁さまが目指したのは、「スィーツ店」。お友だちの男子生徒と一緒にワッフルの模擬店の列に並び、ほどなく入店。  居合わせた来場者によると、男子生徒と二人で席に座ったのち、ホイップクリームが添えられた美味しそうなワッフルを手に模擬店から出てきたという。食べ歩きは禁止のため、屋内のスペースでお友だちとワッフルをモグモグ。 ライブ会場でうちわを手にリズムを   そのあと向かったのは、体育館の地下で開催される校内の軽音団体による「TOーIN FES KEION LIVE」の地下会場だ。 「女の子がボーカルを務めるバンドの演奏がちょうど始まり、悠仁さまはうちわでリズムを取りながら、演奏を楽しんでいました。ライブ会場にいた男性教員が、『どんどんノッて、楽しんで』といった風に、両手を大きく広げて悠仁さまにコミカルなジェスチャーを送っていた光景が、ほほ笑ましかった。あたたかな雰囲気で高校生活を送っているのだなと感じました」  と目を細めるのは、居合わせた来場者。  両日ともピザの模擬店が売り切れになったあとは、テント下や木陰で食べ物をつまみながら、リラックスした様子でお友だちと談笑していたという。  2日目の閉場後に人気投票の結果が発表された「桐陰グランプリ」。悠仁さまたちのクラスのピザ店は残念ながら受賞を逃したようだが、貴重な青春のひとコマとなったに違いない。 (AERA dot.編集部)  
サレ妻「笹崎里菜」がバラエティー出演で見せた“強心臓” 自虐ネタで“露出を増やす”戦略も?
サレ妻「笹崎里菜」がバラエティー出演で見せた“強心臓” 自虐ネタで“露出を増やす”戦略も? 笹崎里菜アナウンサー。夫・中丸雄一との出会いの場となった「シューイチ」の公式YouTubeチャンネルでロケでの食レポの反省を告白/日テレ公式チャンネル【公式】シューイチ 笹崎アナの反省会&ロケ裏話(2月4日放送分)より    8月に、夫のKAT-TUN・中丸雄一が都内のアパホテルで20代の女子大生と密会していたことが「週刊文春」で報じられ、“サレ妻”と呼ばれるようになった元日本テレビの笹崎里菜アナ(32)。妻としてこのスキャンダルをどう乗り越えるか世間の注目が集まっている。  9年近く在職した日本テレビを2023年末で退職しフリーとなり、24年1月に中丸との結婚を発表した笹崎アナ。人気アイドルの妻という“勝ち組”感が漂ったのもつかの間、夫が女性スキャンダルで活動休止に追い込まれる予期せぬ事態に見舞われている。  笹崎アナといえば大学時代、日テレから15年度入社の内定を受けるも、過去にホステスのバイトをしていたことが問題視され、内定が取り消される騒動が発生。それに対して彼女は内定の有効性を主張して日テレを提訴するという大胆な行動に出て、和解が成立。その結果、日テレに入社したという経緯がある。  波乱の社会人デビューとなった笹崎アナについて、エンタメ誌の編集者はこう語る。 「執念で日テレに入社した笹崎さんは、ラグビーワールドカップ日本大会の担当に抜擢されるなど、アナウンサーとして見せ場もつくりました。しかし、入社時の騒動があったことで、“腫れ物アナ”のイメージを引きずってしまったこともあり、局アナとしてはいまいちブレークしきれませんでした。人気アイドルとの結婚という誰もがうらやむポジションをゲットしましたが、今度は夫への“文春砲”という困難に直面。そんな彼女にネット上では『笹崎アナはそういう星の下に生まれたのか?』と同情する声も散見されます」 笹崎アナは日テレ時代にラグビーワールドカップ日本大会の担当に抜擢された/日テレスポーツ【公式】YouTubeチャンネル/【#日テレ女子アナラグビー部 】#杉原凛 アナ × #笹崎里菜 ヘッドコーチ 〜前編〜より   “サレ妻”佐々木希との違い  なお、中丸は「文春」報道を受けて先月、専属契約しているSTARTO ENTERTAINMENTの公式サイト上で謝罪コメントを発表。そこには《何より、妻に対しては悲しい思いをさせてしまい、後悔の念しかございません。妻からは「しっかり自分と向き合って」という言葉をかけてもらいました》と笹崎アナに対する思いもつづられていたが、8月19日配信の「週刊女性PRIME」によれば、笹崎アナが“離婚しない条件”として中丸に「反省コメントを出させた」という。  騒動後、さっそく笹崎アナは動きだす。9月2日放送のクイズバラエティー番組「ネプリーグSP」(フジテレビ系)に解答者として出演。笹崎アナはあっけらかんとした表情で「ちょっと今、いろいろあるみたい、私」と自虐ネタを投じるなど、自ら矢面に立った。  こうした笹崎アナの姿に、ネット上では「さすが、日テレを訴えて入社するほどの強心臓の持ち主」「笹崎さん強い妻だね。渡部建の不倫騒動時の佐々木希を思い出した」といった声も見受けられた。前出の編集者が話す。 「佐々木さんは騒動後のインタビューで“離婚という選択肢はなかった”と告白していますが、今回、困難を乗り越えようと前を向く笹崎さんと重なった人も多いようですね。ただ、佐々木さんは騒動の時も自身のSNSのコメント欄は開放し続けていましたが、笹崎さんは“文春砲”の前日までにそっとコメント欄を閉鎖。世間からの言葉に『自分は耐えられない』と判断したのではないでしょうか」 「イメージよりいい子」という声も  笹崎アナについて、芸能評論家の三杉武氏は次のように話す。 「入社に至る経緯から、最初は局内でも腫れ物扱いする人がいたようですが、地道に努力を重ねて仕事仲間や周囲から信頼を勝ち取り、『よく頑張っている』『一緒に仕事をする前のイメージよりいい子』といった声も同局の局員や番組スタッフから耳にしました。中丸さんとの交際・結婚に関しては同局の『シューイチ』での番組共演がキッカケということもあり、比較的好意的な見方も多かった印象です。それだけに、夫の密会騒動には同情的な声も多いですし、図らずも注目度はアップしています。中丸さんが謹慎を発表するなか、経済的な部分で家庭を支える必要もあるでしょうし、今後は露出を増やす戦略を考えているかもしれません」  1月に配信された「CLASSY.」のインタビューでは、「友達は狭く、深くタイプで、3人しかいません(笑)」と語っていた笹崎アナ。佐々木は騒動時、所属事務所の女性マネジャーに励まされていたというが、笹崎アナにも支えとなる人がいることを願うばかりだ。 (小林保子)
【「光る君へ」本日34話】じれったいほど奥ゆかしい藤原彰子がゴッドマザーになる日
【「光る君へ」本日34話】じれったいほど奥ゆかしい藤原彰子がゴッドマザーになる日 敦成親王の生誕50日を祝う藤原道長(下中央の男性)。敦成親王を抱くのが道長の妻・倫子、向かい合って座るのが彰子、右下隅に見えるのが紫式部とされる/東京国立博物館/ColBase  NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長の娘・彰子が一条天皇の中宮となり、まひろ(紫式部)は彰子の女房として、藤壺で「源氏物語」を書き始めた。9月8日放送の第34話の予告によれば、「源氏物語」は宮中の話題をさらう一方で、この物語をきっかけに一条天皇と彰子の仲を深め、彰子の懐妊を――と願う道長の目論見通りには事が進まないようだ。  この藤原彰子、現段階では不自由な暮らしを強いられる奥ゆかしい女性として描かれているが、実際は、道長の権勢を支えて一族に栄華をもたらし、後に二人の天皇の母となって「大女院」とも称された人物だ。  彰子に始まる道長の婚姻政策について、『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)はこんなふうに解説している。 ***  道長の権勢を支える大きな力となったのが婚姻政策である。一条天皇の中宮となった長女・彰子は、敦成親王・敦良親王という皇子を生み、後年、二人が後一条天皇・後朱雀天皇として即位し、摂関家にかつてない栄華をもたらすこととなる。  一条天皇に代わって即位した三条天皇の中宮も、道長の娘・姸子であった。しかし、三条天皇は道長を敵視し、たびたび対立した。そこで道長は、三条天皇の病につけこんで退位を迫り、孫の後一条天皇を即位させて摂政に就任。皇太子には敦良が立てられ、道長は天皇と皇太子の外祖父となった。  政治力のある彰子は、幼い後一条天皇の母后として天皇大権を代行し、道長は実質的な摂関として重要事項を決定し、後一条天皇と道長の長男・頼通の政権をも支えた。  1018(寛仁2)年には、三女・威子が後一条天皇の中宮に、次女・姸子が皇太后となり、太皇太后となっていた彰子とあわせて、未曽有の一家三后を実現し、道長の栄華は頂点に達した。道長が有名な「望月の歌」を詠んだのはこの時である。  そもそも、道長の兄・藤原道隆の娘で、一条天皇の寵愛を受けた中宮・定子に対抗する形で入内した彰子。彰子の立后を後押ししたのは、小野道風・藤原佐理とともに「三跡」と称される能書家・藤原行成だとされる。有能な官僚でもあり、藤原斉信・公任、源俊賢らとともに一条天皇を支えた「寛弘の四納言」に数えられている。  彰子が入内した当時、一条には皇后・定子がおり、本来なら中宮は立てられないはずだが、故実に通じた行成は、先例を調べて彰子の立后を正当化し、前代未聞の「一帝二后」を実現。道長に栄華の道を開いたのである。 *** 『平安 もの こと ひと事典』(著 砂崎 良/監修 承香院)の「彰子」の項にも、彰子が皇子を2人も生んだことが、「道長と藤原氏の最盛期を実現させた」とあり、さらにこう続く。「出家後は上東門院と名乗って87の長寿を保ち、政治にも影響力を発揮しました。そのサロンでは紫式部、和泉式部、赤染衛門らが活躍しています」。  紫式部は「源氏物語」を著しただけではなく、彰子の出産の様子や道長らとの交流など宮廷生活を「紫式部日記」に記した。和泉式部は敦道親王との恋愛を情熱的につづった「和泉式部日記」を、赤染衛門は女流歌人として多くの歌を残した。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂 永井優希)
「ジャニーズ問題と玉音放送」「ひとしとたけし」……高橋源一郎が物事の本質を見出す一冊
「ジャニーズ問題と玉音放送」「ひとしとたけし」……高橋源一郎が物事の本質を見出す一冊 たかはし・げんいちろう/1951年、広島県生まれ。作家。88年の『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2012年の『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞など受賞歴多数。近刊に『DJヒロヒト』『「書く」って、どんなこと?』など(写真/加藤夏子)    AERAで連載中の「この人のこの本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。  ジャニーズ問題と玉音放送。料理家・土井善晴さんの味噌汁と親鸞の「南無阿弥陀仏」。最新の話題や流行、いま広く支持されている作品と過去の傑作、出来事を同時に論じたコラム・シリーズ「これは、アレだな」から早くも3冊目の書籍化が本書。同時代に生まれているものと過去の人間の英知を合わせて考えることで、話題の本質が見えてくる一冊となった『「不適切」ってなんだっけ これは、アレじゃない』。著者の高橋源一郎さんに同書にかける思いを聞いた。 *  *  *  好奇心と経験。そのいずれも豊富に持つ著者が、最新流行とそれに関連する過去の作品を同列に並べ、週刊誌の連載というハイペースで次々に論じていったら……。世にも楽しいコラム・シリーズの書籍化第3弾が本書だ。 「ぼくはミーハーな人間だと思います。それに、傑出した才能はその時代にいちばん人気のあるジャンルに集まるから、いま流行っているものが面白くないはずがないんです」  高橋源一郎さん(73)はそう語る。「サンデー毎日」の連載「これは、アレだな」は、映画やマンガ、アニメ、舞台に本と、ジャンルを問わず、いま評価されている作品を追いかけつつ、そこから想起された過去の傑作を呼び出して一緒に論じるスタイルを取っている。一例を挙げれば、宮藤官九郎脚本のテレビドラマ「不適切にもほどがある!」を取り上げ、この「不適切」という概念の考察から、かつて社会党の浅沼稲次郎委員長が刺殺された事件に際して書かれ、その「不適切」さが批判された大江健三郎の小説『セヴンティーン』『政治少年死す』や深沢七郎『風流夢譚』について書いている。 『「不適切」ってなんだっけ これは、アレじゃない』(1760円〈税込み〉/毎日新聞出版) ジャニーズ問題と玉音放送。料理家・土井善晴さんの味噌汁と親鸞の「南無阿弥陀仏」。最新の話題や流行、いま広く支持されている作品と過去の傑作、出来事を同時に論じたコラム・シリーズ「これは、アレだな」から早くも3冊目の書籍化が本書。同時代に生まれているものと過去の人間の英知を合わせて考えることで、話題の本質が見えてくる   「人間の好みって、どの時代でも、そんなに変わらないんです。30年前、60年前とだいたい同じものがヒットしている。新しさってちょっとしたマイナーチェンジに過ぎず、ほんとうに新しいものはほとんどありません」  とはいえ、歴史には時々、例外が現れる。 「たとえば、カフカの小説は、それまで書かれたどんな小説にも似ていない特異なものでした。宮澤賢治の作品もそうです。まれにそういう天才が現れます。それはもしかしたら、同じ文学という枠組みの中では比較できるものがないけど、音楽とか、同時代のまったく別ジャンルの作品と比べると何かが見えてきたりするのかもしれません」  流行作と過去作を比較検討する本について聞く中で、こんなふうに何にも似ていないものに話が及ぶのは面白い。それにしても、快活に語る高橋さんだが、長期連載のパワーの源はなんだろうか。 「ネタのストックなんてまったくありませんよ。だから常にアンテナを全開にしてないといけなくて、それがいいんです。常にそう考えているので、“なんか面白いことないか”とワクワクしていた中高生の頃に戻る感覚があります。それと、家族の存在も大事です。“最近のアニメ、なにが面白い?”と息子に聞くと、ドバーッとリストが出てきます。また妻も子どもも、ぼくの好みをよくわかっていて、音楽にしても映画も本も、“お父さん、これ好きだと思うよ”なんて教えてくれる。この連載のおかげで彼らと話す時間が増えて、家庭円満になりました(笑)」  旺盛な探求心と、長年の読書をはじめ観たり聴いたりの蓄積、そして家族のサポート。「これは、アレだな」は、当分、続きそうである。(ライター・北條一浩) ※AERA 2024年9月9日号
「日々の会話は楽しいアイデアが生まれる企画会議みたいなもの」 食品サンプルのクリエイター夫婦
「日々の会話は楽しいアイデアが生まれる企画会議みたいなもの」 食品サンプルのクリエイター夫婦 若松信也さん(右)、若松桃子さん(撮影/写真映像部・上田泰世)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2024年9月9日号では、ハンドワークス レナインの若松信也さんと若松桃子さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  夫28歳、妻25歳で結婚。長男(9)、次男(7)、長女(2)、妻の母、犬1匹、猫2匹の6人と3匹で暮らす。 【出会いは?】妻の履歴書の写真を見た夫が、一目ぼれ。絶対結婚するなと思った。 【結婚までの道のりは?】先輩である夫は、新卒の妻が入社した半年後、アプローチ。3年間付き合って、2010年10月10日の大安に結婚した。 【家事や家計の分担は?】夫は子どもの送り迎えや動物の掃除、お世話をすることをメインで担当する。その他は妻が行う。家計は妻が管理している。 夫 若松信也[42]ハンドワークス レナイン アーティスト わかまつ・しんや◆1982年、愛知県生まれ。デザイン系専門学校を卒業後、名古屋の食品サンプル会社に就職し、製造を担当後に、夫婦で開業。サンプルは土産物店、デパ地下のショーケースなどに置かれている他、東京都庁45階で都SEENとのコラボ商品も販売中  僕たちは24時間ずっと一緒なんです。朝からずっと工房で二人で作業しています。 「夫婦二人きりでいたら息が詰まる」とよく聞きますが、朝から晩まで色々しゃべります。子どものこととか、仕事のこととか。  たまに意見がぶつかることはありますよ。僕が突っ走ったとき、いつもは「いいんじゃない」と言う妻がそうは言わない。僕は内心、ブレーキをかけられたなと思います。でも、何が引っかかるのか妻の意見を聞いているうちに冷静になり、一晩寝たら「その通りかも」と思うことが度々あります。  原石を見つけて「どうだ!」と言うのが僕。その原石を見て妻は調べたりデザインを考えたりして「こうすればもっといいんじゃない?」と、磨いて宝石にするんです。  子どもの教育方針も工房の経営方針も、基本的に夫婦で向いている方向がほぼ一緒なんだと思います。日々の会話はお互いが楽しくなるアイデアが生まれる企画会議みたいなものかもしれません。 若松信也さん(右)、若松桃子さん(撮影/写真映像部・上田泰世)   妻 若松桃子[39]ハンドワークス レナイン クリエーター わかまつ・ももこ◆1985年、広島県生まれ。四国大学に進学、養護教諭免許を取る。名古屋の食品サンプル会社に就職。2016年12月、実家のある広島県呉市で、夫とともに食品サンプル会社を開業。食品サンプル制作体験教室も開いている  食品サンプルの会社の先輩だった夫は、模型制作などが好きで、ずっとモノ作りをしていたいタイプ。通勤時間ももったいないと思ってる。私もモノを作るのが好きなので、いつか夫婦で独立しようと話していました。  2人目を妊娠した時、私たちだけで子育てをするのは大変だなと思ったので、母に相談したんです。私の父は早くに病気で亡くなっており、実家のアトリエが空いていたこともあり、そのタイミングで実家で工房を開くことになりました。  会社員時代に「これしか作りたくない」みたいな、変なこだわりがなかったことがよかったと思います。職人とはいえ、いろんな仕事をさせてもらいました。1人目を妊娠した時には、経理に異動させてもらうことができ、その経験が独立してから役に立っています。  私たちは食品サンプルを制作する職人ですが、別々のことも学んできました。だから、相手が得意なことは、お互いに任せたいなと思っています。 (構成/編集部・井上有紀子) ※AERA 2024年9月9日号  

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