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【2024年下半期ランキング 皇室編2位】愛子さまのメイクの目元が女性らしく華やかに! 「完璧メイク」の佳子さまに、オリエンタルメイクが「神秘的」な元皇族は?
【2024年下半期ランキング 皇室編2位】愛子さまのメイクの目元が女性らしく華やかに! 「完璧メイク」の佳子さまに、オリエンタルメイクが「神秘的」な元皇族は? 上皇ご夫妻の卒寿を祝う音楽会に出席した天皇家の長女愛子さまと秋篠宮家の次女の佳子さま=2024年7月10日、皇居・東御苑の桃華楽堂    2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。皇室編の2位は「愛子さまのメイクの目元が女性らしく華やかに! 『完璧メイク』の佳子さまに、オリエンタルメイクが『神秘的』な元皇族は?」(8月30日配信)だった(※肩書年齢等は配信時のまま)。 *   *   *  天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが、4月に日本赤十字社での勤務をスタートしてから、まもなく半年になる。新社会人生活は多忙のようで、両陛下の那須(栃木県)でのご静養には同行せず、皇居の御所でお留守番となった。一方で愛子さまのメイクには変化が見え、大人の女性らしさが増していると、ファッションの専門家は指摘する。  上皇ご夫妻の卒寿を祝う音楽会が7月、皇居・東御苑の音楽堂で開かれた。  演奏を披露したのは、上皇ご夫妻とゆかりのある音楽家で、おふたりと天皇ご一家、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、黒田清子さん夫妻らも集まり、和やかな空気に包まれた催しとなった。愛子さまと佳子さまが隣に座って笑顔で会話を交わすなど、ほほ笑ましい光景も見られた。  社会人となった愛子さまの「変化」について、長年パリコレで取材を続けてきたファッション評論家の石原裕子さんはこう話す。 「4月の入社式では、大学生の爽やかな表情がまだ残っていましたが、新社会人生活も数カ月たった7月の音楽会では、大人の女性らしい、しっとりした落ち着きが感じられます」   切れ長の美しい目元 学習院大学文学部の卒業式に臨む愛子さま。「アイメイクも目尻をすこしはねさせるくらいのワンポイント。春風のような可愛らしいお化粧がよくお似合い」と専門家=2024年3月20日、東京都豊島区の学習院大、代表撮影/JMPA    大きく変わったポイントは、目元だという。  これまでも白系のラメでハイライトをつけるのが「定番」だった。しかし、音楽会ではアイメイクの表情がガラリと変わっていたという。  印象的なのは、奥二重を生かした切れ長の美しい目元だ。上下のまぶたから目尻までアイラインを引くことで華やかさが増した、と石原さんは指摘する。 「はっきりと黒い線が出るアイライナーよりも、自然な影をつけられるアイシャドーを使うことで、ナチュラルだけれども華やかな目元になっています」  弓なりに整えられた眉も、丁寧に色をのせることで、目元のメイクと美しく調和しているという。    ふだんの愛子さまは、卵形の輪郭と若い素肌を生かしたナチュラルなメイク。 「卒業式では、目尻をすこしはねさせるぐらいのワンポイント。春風のような可愛らしいお化粧が、振り袖と袴によくお似合いでした」(石原さん)   初の園遊会出席となった愛子さま。目元はアイシャドウを多く用いて、ふんわりと優しい仕上がり。コーラルピンクの口紅が桜色の洋装によく映えている=2024年4月23日、東京・元赤坂の赤坂御苑、松永卓也撮影(朝日新聞出版/JMPA)   ふんわり優しいメイク  愛子さまが初めて出席した、2024年春の園遊会。大きな皇室行事であり、両陛下と皇族方は、招待者を接遇する立場。愛子さまは、さくら色の洋装にコーラルピンクの口紅がよく映えていた。場にふさわしく、しっかりとメイクをしているものの、アイライナーよりもアイシャドーを多く用い、ふんわりと優しい仕上がりだった。 「園遊会では、目の『きわ』に、細い筆で描かれたラインの上にポンポンとお粉を置いていらっしゃる。アイライナーのようにはっきりと線が出るのは、お好みではないのかもしれませんね」    愛子さまは、場に合ったメイクの使い分けが明確だ。  今年5月、ご一家で栃木県の御料牧場に滞在した際には、取材カメラの前の愛子さまは、ほんのりお化粧をほどこしているものの、休日にふさわしい自然な仕上がり。  ご一家が到着したときに笑顔を見せた愛子さまの写真を見て、石原さんはこう話す。 「愛子さまは、お母さまと同じ、ぷっくりと花びらのような形のよい唇。雅子さまも愛子さまもお笑いになるときは、口をあけてほんとうに楽しそうな表情をなさる。笑うたびに白くきれいな歯がのぞく飾りのなさもあいまって、見る人をホッとさせてくれるのでしょう」    6月には、故・三笠宮崇仁さまの次男、桂宮宜仁さまの「十年式年祭」が、都内の豊島岡墓地で営まれた。  初めて参列した愛子さまは、目元にいつもの白いラメの入ったアイシャドーとアイラインをうっすら入れているものの、祭祀にふさわしく、控えめなメイクだった。   佳子さまのパーフェクトメイク 春の園遊会に出席した佳子さま。眉を太めに仕上げ、大きな目がより印象的に。衣装に合わせて目元とほおにもオレンジ系の色をのせるなど完璧なコーディネート=2024年4月23日、東京・元赤坂の赤坂御苑、JMPA    自然な仕上がりをお好みの愛子さまの一方で、佳子さまは「ご自身の魅力をよくご存じ。隙のないパーフェクトメイク」が特徴だと、石原さんは話す。  大きな二重のぱっちりとした目が魅力的な佳子さまは、太めの眉にクルンと巻いた上下のまつげが印象的だ。下のまつげまできっちりとマスカラが塗られるなど、完璧なメイク。  公務の経験が豊富な佳子さまも、場に合わせた装いが上手だ。  たとえば、手話を披露する場では、手の動きが相手に見えやすいように深い青やワイン色、グレーなど濃い色の服装を選ぶなど、メイクと服装の足し算をしていることが伝わってくる。     【こちらも話題】 〈2024年上半期ランキング 皇室編3位〉愛子さま大統領との午餐デビューで待ち遠しい宮中晩餐会 雅子さまや佳子さまらの美しいドレスとティアラ姿 https://dot.asahi.com/articles/-/227336   英国留学から帰国した秋篠宮家の長女、小室眞子さん。長く重めの黒髪をたらし、ひと重の目元を黒々と塗るオリエンタルメイクで「変身」した姿は注目を集めた=2015年9月、羽田空港    愛子さまと顔立ちが近いのが、秋篠宮家の長女の小室眞子さんだ。きれいな奥二重やひと重をもつおふたりは、切れ長のアイメイクがよくお似合いだと、石原さんは話す。  眞子さんのメイクが大きく変化したのは英国留学時代だ。2015年9月末、英中部レスター大学大学院での留学を終えて帰国した眞子さんは、海外の東洋系のモデルや女優によくみられるオリエンタルメイクで登場し、話題を集めたのだ。  24歳の誕生日を間近に控えた眞子さんの「変身」ぶりに、世間は驚いた。 「カラスの濡れ羽色のような東洋人の黒髪は、海外では神秘的に見られます。このときの眞子さんは、長い黒髪を日本人形のように垂らし、ひと重を生かして目元を黒々と塗るアジアンメイクです。眞子さんは、ご自身のオリエンタルな顔立ちに、オリエンタルメイクが映えて神秘的に映ると、英国留学時代に気づかれたのでしょう」(石原さん)  帰国したのちは、やや薄めになったものの、神秘的なオリエンタルメイクは眞子さんの個性になった。    メイクや装いには、その人の心の機微や細やかな変化があらわれる。  愛子さまからは春風のような可愛らしさと凜とした強さ、佳子さまからは、パーフェクトな美貌とこまやかな配慮、眞子さんは神秘的な魅力―――。それぞれの装いから、それぞれの人柄が伝わってくるようだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま 2490円でも7万円でもワンピースに「清潔感」と「品ある可愛らしさ」の理由は「永遠に愛されるタイムレス」な装い https://dot.asahi.com/articles/-/231450  
【2024年下半期ランキング ライフ・経済編3位】「友達の家に遊びに行けない」小学生が急増中 都会に住む親が「行っちゃダメ」と禁止する理由とは?
【2024年下半期ランキング ライフ・経済編3位】「友達の家に遊びに行けない」小学生が急増中 都会に住む親が「行っちゃダメ」と禁止する理由とは? 小学生の遊び方も「昭和」の時代とはすっかり変わった。画像はイメージ(GettyImages)    2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。ライフ・経済編の3位は「「友達の家に遊びに行けない」小学生が急増中 都会に住む親が「行っちゃダメ」と禁止する理由とは?」(7月18日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *   *   * 「本当に申し訳ありませんでした。もう二度と行かせませんから」  突然、息子の友達の母親からこんな謝罪をされ、Aさんは面食らった。東京・中央区に住む50代の自営業者であるAさんは、妻と小学校3年生の息子と3人家族だ。教育熱が高く中学受験も盛んな地域だが、子どもたちの「遊び方」にも独特のルールがあることにAさんは驚いた。 「息子が小学校に入ってしばらくしてからのことです。休日に近所の公園で遊んでいたのですが、息子が友達を『ウチで遊ぼうよ』と誘ったようなのです。その流れで、いきなり7人くらいの友達を家に連れてきたことがありました。私も妻も飲み物やお菓子を出したりして、その日は何事もなく終わりました。ところが彼らは帰宅して、ご両親に『今日、友達の家に行ったよ』と報告したのでしょう。その後、大騒ぎになってしまったのです」  小学校に入学したばかりだった時期だったので、Aさんの妻の“ママ友ネットワーク”は保育園時代ものがほとんどだった。ところが遊びに来た友達の中には、別の保育園から来た子や、幼稚園から来た子も含まれていた。そのため、ネットワークに入っていない親からは「見知らぬ親子の家にお邪魔してしまった」ことが大きな騒動になったという。 「その中の1人のお母さんが、とにかく私たちにお礼を言わなきゃと思われたのでしょう。LINEやSNSをフル稼働させて、私たちのことを知っている人はいないかといろんな人に聞いてまわったようです。結局、妻のママ友に“共通の知人”がいたようで、そのママ友を通じて丁寧なメッセージをいただきました。そして、その子はその後、わが家には来なくなりました。息子が誘っても『ママに友達の家に行っては駄目だって言われている』と答える友達もいるようなので。私たちの時代とは意識が大きく違うのだなと思いました」 「もう二度と行かせませんから」  またある晩、Aさん家族が家の近くにあるファミレスで食事をしていたときのこと。近くの席で、家に遊びに来たことのある男の子も両親と食事をしていた。息子と男の子が最初に気づき、親も会釈して、家族同士の会話が始まった。 「会話をするうちに、『家に遊びに来てくれたことがあったよね』という話になりました。すると男の子のお母さんが『はっ!』という表情になり、深々と頭を下げられたんです。そして『あとで息子からお宅にお邪魔したと聞きまして、本当に申し訳ありませんでした。もう二度と行かせませんから』と丁寧に謝罪されたんです。予想もしなかった展開で、何と言っていいのか分かりませんでした」  50代のAさんが小学生だったころは、当然ながら年号は昭和だった。学校で友達と今日はどっちの家に遊びに行くかを決め、相手の家に行く時は自転車で飛びだした。低学年の時は土曜日が“半ドン”だったため、昼食を食べて友達の家に行ったり、友達が家に来たりした。そんな思い出を脳裏に浮かべ、まさに「昭和は遠くなりにけり」を痛感したという。  実際、小学生が友達の家に遊びに行くことが減った、という調査結果がある。  2019年、厚生労働省は小学校3年生を対象に「放課後に過ごす場所」を調査し、約2万4000人から回答を得た。その結果、「放課後に友達の家に行く」は01年度に生まれた子は50・6%だったが、10年度に生まれた子では29・1%に減少したという。 お菓子やジュースにも気を遣う  その背景として指摘されたのは、働く母親の増加と、それに伴う学童保育の充実だ。しかしAさんが経験したのは土日の出来事で、多くの親は休日だろう。Aさんの実感としては「友達の家に行くな」と子どもに指示する親は増えており、公園で見知らぬ母親がママ友に「家に友達を呼んでほしくないから、自分の子どもにも行くなと言っている」と話しているのを見たこともある。  もちろん、時代が変わったといえばそれまでかもしれない。昭和なら自宅でお菓子やジュースを子どもたちに出すことは何ら問題なかったが、今はそれですらトラブルに発展する可能性がある。 「遊びに来た友達のご両親がお菓子やジュースを摂ることにどんな考えを持っているかわからない。だから簡単には出せないようになってしまいました。それこそ何らかのアレルギーを持っているかもしれない。子どもの友達が遊びに来ると、身構える親は増えているのではないかと思います」(Aさん)  公立小学校で23年間教員を務めた、教育評論家の親野智可等氏はこう話す。 「子どもにとって“自分の家”は世界の全てです。ところが友達の家に行くことで、わが家の当たり前は友達の家では当たり前でないことに気づきます。言葉遣い、礼儀作法、食事、何もかも違います。子どもにとってはまさに多様性を学ぶ貴重な機会であり、彼らが友達の家に遊びに行くことは、大人が海外旅行や留学をしたりすることと同じと言えます」 教育評論家の親野智可等さん   先生の家庭訪問もできなくなった  友達の家へ遊びに行けなくなることの“デメリット”はこれに限らない。 「親に虐待されている子どものケースを考えると分かりやすいでしょう。幼い時から虐待を受けている子どもは、その状態を当たり前だと思い込んでしまいます。ところが友達の家で暴言を吐いたり暴力を振るわない親の姿を見ることで、自分の置かれている状況を客観的に、正しく把握できるようになります。その結果、担任に相談しようと考えたり、児童相談所に助けを求めようと決心したりするチャンスが増えるはずです」(親野氏)  自分の子どもが友達の家に遊びに行くのは教育上も大きな効果があるはずなのに、なぜ躊躇する親が増えてきたのか。親野氏は「ここ10年くらいの傾向だと思う」としたうえでこう語る。 「プライバシーはもちろん尊重すべきですが、いきすぎて孤立を招くのも望ましくありません。子どもばかりでなく、教師も家庭訪問ができない時代になりました。家庭訪問は子どもたちの指導に極めて有益で、学校だけでなく自宅での姿を見ることで、子どもの理解が飛躍的に深まったものです。まさに“百聞は一見にしかず”ですが、保護者も教師も、そして子どもたちも、昭和のような“濃密な人間関係”を構築することは不可能になってしまいました。今の時代でも子どもたちがもう少し気楽に友達の家に遊びに行くにはどうしたらいいのか、教師も家庭訪問のようなことを再開できないか、もう一度、社会全体で考えてみる必要があるのかもしれません」(親野氏)  多様性の時代と言われる今、子どもたちが「自分の家」しか知らないことは正しいのだろうか。一人の親としても自問してしまう。 (井荻稔)
「妻の地雷がわからない」ひろゆき&ゆか夫妻がデリカシーのない夫へおくる、妻を怒らせる根本問題
「妻の地雷がわからない」ひろゆき&ゆか夫妻がデリカシーのない夫へおくる、妻を怒らせる根本問題    ひろゆきさんとゆかさんは、何もかもが合わないデコボコ夫婦。付き合い当初から喧嘩も絶えなかったそう。そんな経験をヒントに、渾身のアドバイスをお届けします。 *   *   * 質問06  ゆかさんひろゆきさんこんにちは。  妻の地雷がわかりません。  妻と一緒にイルカショーを見に行ったときのことです。2人で楽しんだあと、私が何の気なしに「人間の都合でかわいそうだよね」とつぶやいたところ、みるみる不機嫌になり「私はそうは思わない!」と口論にまで発展したのです。  日常的にこういうことはたまにあり、私が妻の気に食わない発言をするたびに、「デリカシーがない」、「そういう言い方は下品」などと言われ、いちいちしっかり揉めます。  こちらとしては、妻を不快にさせる意図はまったくなく、思ったことを言っているだけ。ただの感想です。仕事では気を遣ってコミュニケーションをとっているので、家庭くらいはリラックスして会話したいという思いもあります。  妻の言う「デリカシー」とは何なのでしょう? 妻の地雷を踏まずに会話をするにはどうしたらいいのでしょうか。   ゆかの回答 ・妻の言うデリカシーとは何?→「妻に聞け」 ・妻の地雷を踏まずに会話をするにはどうしたらいいか?「多分無理。擬音や宇宙語で喋ってみたら?」 「思いやりの心を持って接しよう」と言うのは簡単ですが、実際にそれが適切にできるかというと必ずしもそうではなく、たとえ気を配っていても配慮に欠ける言動は起きうる。だから、意図せず相手を不快にさせてしまうことってまぁあるし、仕方ない場合もあるよねというものだと思います。  問題はその頻度と相手との関係性で、「夫婦」というある程度特性を把握できるであろう間柄で、日常的に同じような揉め事が繰り返されているのであれば、質問者さんは、悪意はなくてもデリカシーに欠ける言動はしていて、かつ、それに気付くのが苦手、あるいは気付いても直すのは面倒な人の可能性があります。  で、どちらかというと、質問者さんは「仕事では気を遣ってコミュニケーションをとっている」と書かれているので、本当は配慮はできるけれど、家にいる相手(=妻)にまで、気を遣いたくないというのが本音なんじゃないかなと思いました。   ゆかさん&ひろゆきさんの日々が描かれたコミックエッセイ『だんな様はひろゆき』(原作:西村ゆか、作画:wako)は6万部突破!    相手の方が、感情のコントロールや言語化が苦手な人である可能性も考えられるのですが、質問で、相手の問題点は指摘するものの、それに対して自分はどういう対応を取ったのかが書かれていないことが気になりました。  他にも「不快にさせる意図はまったくなく、思ったことを言っているだけ。ただの感想」という発言は「だから相手がどう思うかなんて知らない」というふうにも受け取れますし、「仕事では気を遣ってコミュニケーションをとっているので、家庭くらいはリラックスして会話したい」という部分も、前述の通り「家にいる妻にまで気を遣いたくない」とも聞こえます。 「家庭くらいリラックスしたい」はみんな同じです。家庭は、あなた“だけ”がくつろげる場所じゃないし、家族は、あなた“だけ”のリラックスを助ける存在でもないわけです。  ちなみに、デリカシーについては、正解が一律でなく対応が難しい側面はあるものの、一般的に仕事では多くの人が出来うる限りのデリカシーを発揮して問題回避をしています。自分の言動がキッカケで、顧客を失ったり昇給の機会を逃したり、損害が発生するのは普通は避けたいからです。  また逆に、プライベートだと、ある程度距離のある相手に過度なデリカシーを求めることもあまりありません。久しぶりに会う友人、時々会う親戚など、その場をやり過ごせばまたしばらく会わなくなる相手に、目くじら立てて怒る人も少ないものです。  要は、いつも顔を合わせなければならない相手が、繰り返し配慮に欠ける言動をするから、腹が立つし導火線も短くなる、ということなのだと思います。  というわけで、デリカシーって難しい、そこまで努力もしたくない、でも相手とは一緒にいたいし会話もしたいという場合は、もう通常のコミュニケーションは諦めて、ひろゆきくんがよく使う「しゅっしゅ!」「モフモフ」などの擬音・宇宙語で会話をしてみてはいかがでしょう。  相手もいちいち腹を立てるのが馬鹿馬鹿しくなると思いますし、根本的解決ではないものの、揉め事自体は多少減ると思います。  険悪な状態が減れば、地雷の数は減らなくても、これ以上増えることもないので、普通に会話できる時間も増えてくるかもしれません。     ひろゆきの回答  本心を口にしないタイプの人と暮らすには、予測能力がないと争い事が増えたりします。  奥さんは、イルカショーを楽しんでいたのだと思います。そこでイルカショーを否定する発言を聞くと、イルカショーを楽しんでいる自分が否定されたかのように感じるタイプなのだと思います。「イルカショーにお金を払う貴方のような客が居るから、人間の都合で攫われて閉じ込められて、芸をやらされるイルカは可哀想だよね」とも捉えられるわけです。 「そこまで考えて発言したわけではない」と思うかもしれませんが、相手はそのように理解する可能性があるわけです。例えば、イルカショーが誰かの招待だったとして、招待してくれた人に「人間の都合でかわいそうですね」と言ったとしたら、時と場合を弁えない発言だと受け取る人が多いです。この状態を「心配りが出来ない」=「デリカシーがない」というわけです。  また、「不快にさせる意図はまったくなく、思ったことを言っている」というのは、言い訳にもなっていません。太った人に「デブ」と呼ぶ事で聞いた人が不快になるように、「思った事を言ってる」としても免罪符になりません。  貴方が不快にさせる意図がなくても、他人を不快にさせたのであれば「不快な発言をした」と見なされます。意図の有無ではなく、発言の有無で判断されます。 「家庭くらいはリラックスして会話したい」は、分かりますが、家族に不快な思いをさせているという事実とは向き合った方が良いと思います。「私はリラックスしたいので、貴女は我慢してください」という条件を奥さんが同意するのであれば、問題は 起きないかもしれません。でも、不機嫌になり口論に発展してるようなので、奥さんはその条件を飲む気はないようです。  仕事では問題が起きてないようなので、本当はデリカシーのある人なのだと思います。「これからデリカシーのないことを言うけど、良い?」と確認をとってから思った通りのことを言うとお互いにストレスが少なくなると思います。  ちなみにうちの彼女は「外じゃ絶対言えないから」と言った後に、なかなか酷いことを家庭では言っています。     夫婦で話し合ってみた ゆか「あれ、なんか最後にサラリと私の悪口混ぜてね?」 ひろ「悪口ではないような……」 ゆか「なんだろう? 暴露かな」 ひろ「2人とも、質問者さんは、気が遣えない特性ではなく、家で気を遣いたくない人って見なした感じだね」 ゆか「そうね。そして、ひろゆき君のほうが、気を遣おうと思えば遣える人だと見なしていて、私はもうちょっと難しそうだな……って感じで見ていた」 ひろ「仕事では出来てるって事だから、能力はあるんだと思うんだよね」 ゆか「そこは同意。でも仕事ではできるけど、家庭ではデリカシーの能力を使う気がないのなら、自分の行動を変える気がないのと同じだと思うよ。『やればできる』って言って何もしないのは、その能力がないのと一緒。  家庭では自由にしたいって希望のほうが強そうに感じたのと、後は相手の不機嫌を、自分のデリカシーのない発言よりも、重く受け取っている気がしたんだよね。 『思ったことを言っているだけ。ただの感想』なら、『人間の都合でかわいそう』って意見に対して『私はそうは思わない!』も妻の感想じゃない。  その後『口論にまで発展した』って書いてるけど、実際は単に異なる意見を言ってるだけだったかもしれない。でも、そういう反論を『不機嫌になった』、『怒られた』って受け取る人っているじゃん。そうすると、質問者さんが気を遣うって難しそうだなと」 ひろ「確かに、質問者さんは『自分は正しい』と前提で物事を捉える人な気がしたんだよね。思ったことを言ってるだけで、悪くない。『妻を不快にさせる意図はまったくなく』みたいな。自分が悪くないのだから、揉めるのは相手が悪いからだ』という論理な気がするんだよね。『家庭は自分がリラックスする場所』とかね」 ゆか「そもそも本当に気を遣わずに、自由にいたいのなら、1人で生きるのが一番だと思うんだよね。気を遣いたくないという人に限って、誰かと一緒に住むという矛盾がある」     配偶者より自分のほうが偉いと思っていませんか? ひろ「日本の多くの会社って、上下関係があって、上位の人の言うことに従うし、理不尽でも部下は受け止めるというシステムだったりする。んで、この仕組みが家庭でも適用されると考える人が、時代や地域性によって現れる気がするんだよね」 ゆか「せめて家庭くらい、リラックスしてくつろぎたいと誰しもが思っているのに、それを無報酬で誰かが自分のために整えてくれると思っているなら、お花畑な発想だと思うね。   そういう人が『これからデリカシーのないことを言うけど、良い?』と、事前に確認を取って物を言うことができるのか? そもそも何がデリカシーの欠如に当たるのかを、仕事以外のシーンできちんと判断できるのか?が、私は大いに疑問なんだよね」 ひろ「仕事で出来てるから、能力はあると思うよ。使う気がないだけ。おいらが、日本語を話す能力があるけど、家で使わないのと一緒かな」 ゆか「仕事でデリカシーのない言動をした場合は、信用や経済的損失に直結するから、デメリットが明確だよね。対して、家庭の場合は、質問者さんから見ると妻が機嫌が悪くなるってだけで、自分のお金が減るわけでもない。  実際は相手の信頼は減っているし、お互いに嫌な時間を過ごすという損失があるけれど、それは『相手が勝手に怒っている』と言うふうに責任転嫁してしまえば、自分に何かデメリットがあるわけでもない、と解釈する人もいる」 ひろ「奥さんは口論をして反撃してるわけだから、口論を望むか、自分の行動を変えるか?だよね」 ゆか「なので、君がよく使う『しゅっしゅ』とか『モフモフ』とかの宇宙語かなと……。こうした揉め事が起きた時には、互いの感情の言語化力が求められるから、まず 質問者さんだけですぐにできることを書いてみた。  次に、妻の地雷を踏まずに会話をするにはどうしたらいいのでしょうかっていうのが質問だから、口論のない会話がしたいと思うんだよね。  そもそも『デリカシーがない』も『そういう言い方は下品』も、単なる指摘で感想かもしれない。別に人格否定しているわけじゃないし。デリカシーって曖昧なものだけど、そこは『具体的に何が気に障ったの?』、『どう言えば良かったの?』って聞けば済む話だし」 ひろ「言ったあとは、怒ってるから会話が難しいパターンとか」 ゆか「テキストで送ってみるとかでも良いんでないかね。別にその場ですぐ解決する類の問題でもないし」 ひろ「せやね」     気兼ねなく話せる相手でストレスを発散しよう ゆか「他にも、好きに発言できるのを受け止めてくれる相手の存在っていうのもポイントの気がする。『これからデリカシーのない事を言うけど、良い?』みたいに、事前に確認せずとも無礼講が許される相手というか。君がよくいじる人でいうと、ひげおやじさん、乙武洋匡さんみたいな」 ひろ「当人同士の関係性の中で許容されるかどうかって話だから、こういう関係があるから僕も大丈夫だ、みたいな話ではないけどね」 ゆか「質問者さんは、ある程度好き勝手に物を言いたい人だと思うんだよね。でも仕事の時はそれが抑えられてる。だから、どこかで気を遣わずに思ったことを言いたい。  で、ある程度配慮が働く人の場合は、言う前にワンクッション置くことができるけど、家庭ではその力を発揮できない(したくない)となると、不快にさせる意図なく感想を言ってるだけなのに、それを抑圧したってストレスをためる気がする」 ひろ「それが奥さんが許容できるときと、出来ないときのバランスじゃない?」 ゆか「だからこそ、奥さんじゃなく別の相手に言えばいいんじゃないかなって。受け手がどう思うかの問題なら、聞く相手が不快になるならその人にはしないほうが良いけれど、言っても気にしないって人なら、別にいいんじゃない?って話」 ひろ「 思ったことを言って意図せず怒らせてしまうことって、大勢と会話をしてたら起きると思うんだよね。なので、それがわかってないというのは、そもそも人間関係の中で雑談をした回数の少ない人なんじゃないかな……と」 ゆか「この前、君の大学時代のお友達が久々に遊びに来てさ、深夜ノリで、ち◯この話2人で嬉しそうにしてたじゃん。リアルじゃなくてもテキストとかで、気兼ねなくアホな話をできるといいよね」 ひろ「飲み会で、酔って寝てるてっちゃんのち◯こをみんなでいじった話ね。そういう許される関係性と環境と、許されない場合の区別がつける癖があるかどうかかね」   ひろゆき「宇宙語はおすすめしない」 ゆか「あとはなんだろ、Xで不謹慎アカウント作って自由に喋るとか?」 ひろ「ネットで匿名で愚痴を書くはありかもね」 ゆか「愚痴が誰かの攻撃に向かないように注意しながらね。ちなみに、気になっていたんだけど、宇宙語はオススメしないの? そもそもは、意図しない揉め事を回避するための君の発案だと思っていて、私は割と良いアイデアだと思うんだけど」 ひろ「他人に薦めていいのか、よくわからないんだよね。うちの場合は、うまくいってるけど、再現性があるのかよくわからない」 ゆか「私は言語化ちゃんとできるし、逆境の中からプラスを見つける能力も高いですからね」 ひろ「もへ」 ゆか「じゃぁ、宇宙語は、じゃあ、やりたきゃやってみても良いけど、オススメはしない、みたいな感じかな?」 ひろ「ぬふ」   総括 ・「何がダメだった?」「どう言えば良かった?」妻のデリカシーを探ってみよう ・無礼講で喋れる相手を他に作ったら? ・ネットの匿名垢で、デリカシーを気にせず自由に喋るのもアリ(不謹慎が誰かの攻撃に向かないように注意!) ・宇宙語は、試してみても良いけどオススメはしません(byひろゆき)   【お悩みを募集中!】 連載「西村ゆか&ひろゆきの夫婦のトリセツ」では、夫婦・パートナーにまつわるお悩みを募集しています。ご応募はこちらのフォーム から!(https://publications.asahi.com/feature/nishimura/)   西村ゆか/Webディレクター。東京北区出身。インターキュー株式会社(現GMOインターネットグループ株式会社)、ヤフー株式会社を経て独立。2015年よりフランス移住。著書に『だんな様はひろゆき』(wakoとの共著、朝日新聞出版)、『転んで起きて』(徳間書店)がある。 ひろゆき/1976年、東京都生まれ。1999年、インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」を開設し、管理人になる。2005年、株式会社ニワンゴの取締役管理人に就任し、「ニコニコ動画」を開始。2009年に「2ちゃんねる」の譲渡を発表。2015年、英語圏最大の匿名掲示板「4chan」の管理人に。主な著書に、『論破力』(朝日新書)、『1%の努力』(ダイヤモンド社)などがある。     【こちらも話題】 妻を愛せなくなった夫に「話し合わないほうがいい」 ひろゆきさん&ゆかさんの真逆の解決策  https://dot.asahi.com/articles/-/234150  
【2024年下半期ランキング 政治・社会編4位】【訃報】稀代の風刺画家、山藤章二さん死去  「週刊朝日」を後ろから開かせ続けた45年
【2024年下半期ランキング 政治・社会編4位】【訃報】稀代の風刺画家、山藤章二さん死去  「週刊朝日」を後ろから開かせ続けた45年 山藤章二さん(撮影・岡田晃奈)  2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。政治・社会編の4位は「【訃報】稀代の風刺画家、山藤章二さん死去 「週刊朝日」を後ろから開かせ続けた45年」(9月30日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *   *   *  イラストレーターで稀代の風刺画家であった山藤章二さんが9月30日、老衰で亡くなった。87歳だった。葬儀は未定。週刊朝日で「ブラック・アングル」を45年、「似顔絵塾」を40年にわたって連載した(いずれも2021年終了)。「ブラック・アングル」などで様々な作風を駆使した風刺画やパロディー画を発表し、「現代の戯れ絵師」を自称していた。  遺族によると、最近は次のように過ごしていたという。 「ブラック・アングルの連載を終えた後は、締め切りのない日々を穏やかに過ごしていました。昨年の阪神優勝も大変喜んでいました。最愛の妻と、毎日一緒にテレビを見て、茶飲み話をし、時々手を繋ぎ、本当に仲の良い夫婦でした。昨年末、妻に先立たれてから急に元気がなくなったように感じています」 週刊朝日の「奥座敷」で生まれたブラック・アングル  山藤章二さんが「週刊朝日」で「ブラック・アングル」の連載を始めたのは1976年。その前は週刊朝日の表紙を2年担当していたが、それほど評判は芳しくなかった。 「表玄関の表紙に山藤さんの“毒とエスプリ”はキツすぎるが、他誌に盗られるのは悔しい。奥座敷の最終ページを差し上げます。毒でもエスプリでも十分に発揮してくださいよ」  と、当時の編集長が口説き、「ブラック・アングル」が誕生する。   76年4月30日号のブラック・アングル  ちょうど田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕された年だった。武者小路実篤さんの死去とロッキード事件の角栄・児玉・小佐野各氏の“金友関係”を組み合わせた「仲よき事は美しき哉」(76年4月30日号)は大きな話題となった。山藤さんは田中元首相について、『自分史ときどき昭和史』(岩波書店)に書いている。 〈スタートしたばかりの漫画の絵柄としては、とりあえず〝角さんだのみ〟だった(略)政治家個人にこれほど大衆の関心が集まったことはない(略)「ブラック・アングル」のスタートは、時の利とヒトの利を得ていた〉 政治家の顔が個性的な時代だった。  岸田劉生の代表作「麗子像」が大平正芳首相の顔になった「麗子微笑」(79年5月4日号)。小沢昭一さんがこの絵が好きで、 「あれ見てると元の麗子の顔がどうしても思い出せないのよ!!」 79年5月4日号のブラック・アングル  画風模写、切り絵、ヘタウマ絵、マチエール絵、和紙絵などの手法、テクニックを駆使して描き、落語や俳句、川柳、狂歌、パロディー、語呂合わせで鍛えた言葉を添える。なにより圧倒的なセンスで他の追随を許さず、「週刊朝日を後ろから開かせる男」と呼ばれた。 鏡に映る顔が「山藤の描く顔に似てくる」  山藤さんのファンは作家や芸能人、文化人にも多い。そのひとり、山口瞳さんの「山藤の前に山藤なく……」(80年)という文章がある。銀座を山藤さんと並んで歩いていると、向こうから酔った野坂昭如さんが現れ、すれ違いざまに山口さんにいった。 「ヘッ、よく描かれようと思って……」  当代の似顔絵師にお世辞を使ってやがると、いいたげだったという。  その野坂さん曰く、 「山藤の描くわがご尊顔はヒトというよりチンパンジーに近いのだが、ふと鏡を見れば、映っている顔はどんどん山藤の描く顔に似てくる」 「ブラック・アングル」の快進撃が続くなか、山藤さんは81年から週刊朝日で「山藤章二の似顔絵塾」の連載も始め、塾長として読者から寄せられた似顔絵から誌面に掲載する作品を選別し、論評した。美男美女をきれいに描いた作品はまず採用されない。あらゆる手法がOKで、奔放なデフォルメ作品が誌面を飾り、山藤塾長は描かれたモデルから苦情を貰うこともしばしばだった。 週1回、フラリと現れる山藤さん  私が山藤さんの担当になったのは1985年だった。「ブラック・アングル」が始まって9年、「似顔絵塾」が始まって4年である。  円熟期の山藤さんには新聞、雑誌などの注文が殺到し、テレビにもよく登場されていた。そんな多忙な山藤さんが、週に1回、朝日新聞社にフラリと現れる。 甲子園球場で高校野球を観戦する山藤さん(1998年8月)   「ブラック・アングル」の打ち合わせで、編集部員が4、5人集まって、山藤さんとおしゃべりをする。話題のニュース、スキャンダル、政治家、犯罪、芸能(とくに落語)と話題が次々に飛ぶ。静かに聞く山藤さんが、時に鋭く質問する。  そして翌日、打ち合わせでは全く話題にものぼらなかった「ブラック」が編集部に届けられる。毎週、魔術を見る思いだったが、描き始めるのはきまって締め切り前日の夜中だったという。ひらめきが必ず降りてきて、それを圧倒的なスピードで仕上げていく自信があっての離れ業だったようだ。 距離感を保った「タイガース愛」  ダンディな山藤さんだが、85年は浮かれ気味でもあった。阪神タイガースが21年ぶりにセ・リーグ優勝を決め、日本一になった年でもあった。ただし、山藤さんのタイガース愛は、実にクールだった。横浜スタジアムに試合を一緒に見に行ったことが何度かあるが、七回ごろに、山藤さんはすっと帰ってしまう。 「阪神が勝ってるうちに急いで帰ったほうがいい。負けていたら逆転はまずない。中華街もしまっちゃうからさ」  阪神とも適当な距離を保つのが山藤さんらしい。  キレキレの山藤さんに疲れが見えてきたのは、70歳代半ばからだと思う。 「最近の政治家の顔を描く気がしないんだよ」  ということが多くなり、その時期にいただいた手紙にはこうあった。 〈マッカーサーは「老兵は死なず…」と言いました。(略)「週刊朝日」からいつか引退しなくてはなりません。これは致し方のないことです。いまのまま、居座っていいのか、どうか迷っています〉  80歳前後からは右ひざが痛み、歩きづらくなった。手術や長期入院にも耐えつつ描いた「ブラック」だが、さすがに昔日の輝きが薄れてきたのを本人がいちばんわかっていたと思う。  21年12月に「ブラック・アングル」は2260回、「似顔絵塾」は1990回で終了することになった。  山藤さんは『自分史ときどき昭和史』に書いている。 〈私の選んだ道は諷刺であり、皮肉であり、滑稽である。すべて観察と距離感を必須とする世界だ。ホドのよい賢さと愚かさ。ホドのよいマジメさとフマジメさ。ホドのよい協調性と孤立性。ホドのよい自信と不安。こういった二律背反するものの微妙なバランスの上で成り立っている商いである〉  自分を分析しつくし、辞め時もスマートな山藤さんだった。  山藤さんはその後、ときどき文章を書き、絵を描きつつも、公式的な活動は控えていた。コロナ禍であまり外出することもなく療養していた。87歳の生涯で、私たち多くのファンに笑いと示唆を与えてくれた山藤さん。ありがとうございました。 山藤章二さん(撮影/写真映像部・東川哲也)   (週刊朝日OB・村井重俊)
「未婚の母でレズの写真家」が赤裸々に語る 「エアドロ痴漢」の哀しみと「鬼畜」だった曽祖父のこと
「未婚の母でレズの写真家」が赤裸々に語る 「エアドロ痴漢」の哀しみと「鬼畜」だった曽祖父のこと (撮影/インベカヲリ☆)  現代日本に生きる女性たちは、いま、何を考え、感じ、何と向き合っているのか――。インベカヲリ☆さんが出会った女性たちの近況とホンネに迫ります。 *   *   *   未婚の母でレズの写真家と書いていい  写真家として活動する珠かな子さん(36)は、小学2年生の息子と関西で暮らしている。過去には写真モデルをしており、私は10年ほど前に雑誌の企画で撮影したことがあった。その日は、撮影以来の再会だ。  待ち合わせ場所に立っていると、横断歩道の向こう側で電動ママチャリに乗りながら手を振っているかな子さんの姿が見えた。鮮やかなファッションに満面の笑みで、街なかでもひときわ華やいで見える。 「息子との生活は、本っ当に楽しいんですよ!」  会うなり子どもの話が止まらず、幸せそうなオーラが全身から漂っていた。  そして、サラリと言う。 「私のことは、未婚の母でレズの写真家と書いてくれていいですよ」 「エアドロ痴漢」の腹立たしさ  その日は、私に話すことをメモしてきてくれていたらしい。ファミレスで一息つくと、まずは駅構内で遭遇するというエアドロ痴漢の話題から始まった。  エアドロ痴漢とは、iPhoneのエアドロップ機能を利用して、知らない相手に猥褻な画像を送り付ける行為のことだ。今では表示設定を選べる機能もついたが、以前は、油断するとすぐに送られてきたという。 「エアドロをオンにしていると、スマホに『サキ』とか『ユキ』みたいな可愛い系の名前がダーッと表示されるんですよ。駅とかだと人がいっぱいいるし、みんな携帯見てるから、誰が送っているかなんてわからない。試しにタップしたら、黒人のイチモツが映っているんです」  だが、まわりに黒人男性はいない。かな子さんは、そのことも腹立たしいという。 「本人の画像でもなければ、自分の名前ですらない。大阪の新世界だと、知らないおじちゃんが『姉ちゃんおマンコしとるか!』って叫んでるんですよ。それを見習えって思う」 何かがくすぶっている  そのおじちゃんは、周囲から白い目で見られている。同じセクハラでも、罪を引き受けているかどうかという違いだ。  しかも、画像を送った当人ですら、受け取った相手がわからない仕組みだという。これでは、宙に向って痴漢しているようなものだ。 「エアドロ痴漢には、ゴールがない。好きな女の子と手をつないでチューしたいとかじゃないわけでしょう。何も満たせないけれど、何かがくすぶっている。それって悲しいなって思う」  かな子さんは、そのことを憂えていた。  写真家の珠かな子さん(写真/インベカヲリ☆) 「私の欲求といえば、漠然と売れたいとか、買ってないけど宝くじには当たりたいとかですよ。ストレートな欲求じゃないですか。叶えられるじゃないですか。彼らは欲求が綺麗じゃなくて、目的がわからないところが怖い」  もっとも、これは世間に蔓延している雰囲気でもある。  ネットを開けば、若者が自傷行為や自殺を実況中継していたり、SNSで政治的な発言をした芸能人が叩かれていたり、不可解な事件が起きるたびに陰謀論が囁かれたりしている。人々の鬱屈した感情が洪水のように溢れてくるのが現代だ。 スマホってドラえもん 「なんか死にそうな人がいっぱいいるし、みんな病んでるし、元気がないし、SNSは怖い」  かな子さんは、そのことに違和感を持っているようだ。 「私は、ギリ昭和生まれの学年なんです。小学校高学年の頃にウィンドウズ98が現れて、『おっせえな』と思いながらネットに接続していた。でも今は、スマホで何でも素早く調べられる。スマホってドラえもんですよね。みんなドラえもんがほしいと思ってたじゃないですか」  不思議なポッケで願いを叶えてくれる。21世紀も四半世紀になり、結局ドラえもんはいなかったとばかり思っていたが、スマホがドラえもんだと言われれば確かにそうだ。 「行きたい国があったら見られるし、髪の毛をピンクにしたいと思ったらピンクにする方法や、ピンクにできるお店を探せる。私が5歳だったときには考えられへん。ドラえもんと暮らせてハッピーと思ってるのに、これのせいでみんな不幸になってるんですよ」     便利なはずのドラえもんを、多くの人が正しく使えずにいるのだろう。 意識がなくなる前に電話をかけてきた友達  かな子さんが、こうして「幸せ」について考えるのは、写真を始めるきっかけにもなった、ある出来事が関係しているようだった。 「19歳のときに、高校の同級生だった友達がオーバードーズで死んじゃったんです。その子は、意識がなくなる前に、私ともう1人の友達に電話をかけてきたんですね」  しかし、かな子さんはどうしていいかわからず、すぐには行動に移せなかった。しばらくして、彼女の実家の電話番号を思い出し、母親に電話で伝えると、すぐに発見され救急車が呼ばれたという流れだった。 「胃洗浄もしたけどダメだったみたい。病院で会ったときには脳死の状態で、顔が2倍くらいに膨らんでいました。その子のことは何年経っても悲しいし、真面目に話すと今でも涙が出る」  そう言って涙を拭いた。  かな子さんには、助けられたかもしれない友達を助けられなかったという自責の念があるようだ。 「でも、人を1人死なせてしまって、人を1人産んだというのは、自分の中ではバランスが取れたのかなと思う。作品制作より、そこで救われている部分はあるのかなって」 息子は「俺、毎日幸せや」  話は自己肯定感のことに移った。 「0歳でも1歳でも、誕生日を祝われた記憶って自覚がなくても覚えているらしいんですよ。お祝いされると、ハッピーになってメンタルが安定する。日本ほど裕福じゃない国でも、お祝いのパーティーは激しかったりするじゃないですか。そういう話をテレビで見て、息子の誕生日はめちゃくちゃお祝いするようにしているんです。もうヤバイくらい」  スマホの動画を見せてもらうと、部屋いっぱいに埋め尽くされた風船や、手作りの巨大くす玉を前に、ぴょんぴょん跳びはねている子どもの姿が映っていた。 「息子が『俺、毎日幸せや』みたいなことを言うんですよね。私もそう言われて幸せだから、お父さんがいなくても幸せだろうなって思ってる」 曽祖父と祖父の物語  かな子さんは、最初から未婚で子どもを産んでいる。それは、育った環境とも関係しているようだった。話は、壮大な家族物語へと移った。 「死んだ祖父は、曽祖父から捨てられた人だったんです。曽祖父は詩吟をやっていて、剣道の段を持つスゴい人だったらしいんですが、妻が病気になったら、子どもと一緒に家から追い出すという鬼畜っぷりを発揮したんですね」  話が曽祖父の代までさかのぼることに驚いたが、どうやら父方の「家系の業」は、そこから始まっているらしい。 「で、それを哀れに思った詩吟の師匠が、弟子の尻ぬぐいとして、弟子の妻と子の面倒を見ることになったんです。祖父は、その師匠のお嬢さんと結婚したんですよ」  母と自分の世話をしてくれた師匠の娘と結婚する――。恩返しめいた何かを感じるが、曽祖父の性格は、祖父にもしっかりと受け継がれていたようだ。 ※後編へ続く (構成・ノンフィクション作家 インベカヲリ☆)
【2024年下半期ランキング 皇室編5位】信子さま「皇族費は月10万円しか受け取っていない」と訴えていたことも 彬子さまとの母娘の溝と三笠宮家「新当主」の行方
【2024年下半期ランキング 皇室編5位】信子さま「皇族費は月10万円しか受け取っていない」と訴えていたことも 彬子さまとの母娘の溝と三笠宮家「新当主」の行方 2024年の秋の園遊会で、「三笠山」に並ぶ皇族方=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA    2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。皇室編の5位は「信子さま『皇族費は月10万円しか受け取っていない』と訴えていたことも 彬子さまとの母娘の溝と三笠宮家『新当主』の行方」(11月23日配信)だった(※肩書年齢等は配信時のまま)。 *   *   *  101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さま。一般の納棺にあたる儀式「お舟入(ふないり)」が11月16日、東京・元赤坂の赤坂御用地にある三笠宮邸で営まれた。26日に文京区の豊島岡墓地で執り行われる、本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」で、宮内庁は孫の彬子さまが喪主を務めると発表した。その一方、百合子さまの長男寛仁さまや三笠宮崇仁さまなど、これまでの三笠宮家の皇族の死去に伴う一連の儀式に参列していないのが、寛仁親王妃の信子さまだ。そこには長年の確執があり、三笠宮家の「新当主」問題にも影響しそうだ。  16日の「お舟入(ふないり)」の儀式は、百合子さまが長くお住まいだった三笠宮邸で営まれた。孫で故・寛仁親王の長女の彬子さまと次女の瑶子さま、高円宮妃久子さまと長女の承子さまら親族が見守る中、百合子さまのご遺体がひつぎに移された。  続いてご遺体に別れを告げる「拝訣(はいけつ)」が営まれた。天皇、皇后両陛下の長女愛子さま、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さま、常陸宮妃華子さまらが加わり、お別れの拝礼をした。  三笠宮家の行事として営まれた一連の儀式には、参列していない皇室メンバーもいる。  慣例により参列しない天皇陛下と皇后雅子さま、そして上皇ご夫妻は、前日に引き続き16日も儀式の前に弔問に訪れた。  そして、三笠宮家の一員であるにもかかわらず、参列していなかったのが、百合子さまの長男の妻である寛仁親王妃の信子さまだ。    信子さまは前日の15日、弔問のために車で赤坂御用地に入った。信子さまだけが外から車で訪れたのは、信子さまは2009年以降、家族と「別居」しているためだ。  百合子さまの容態が悪化したことで、孫の彬子さまは訪問先の英国から帰国。高円宮妃の久子さまも奈良県や米国訪問を中止するなどして、入院先の聖路加国際病院へ駆けつけていた。 「しかし、信子さまとご家族の断絶は続いたままで、百合子さまのお見舞いに訪れた姿は確認されていません。15日も赤坂御用地を車で訪れていますが、今回も弔問はできなかったという話も聞こえてきます」(事情に詳しい人物)   信子さま(当時の麻生信子さん)との婚約会見では寛仁さまが「7年前に結婚を僕が申し込んだが、若すぎると反対された。7年目にして実現した」と話し、7年越しのプロポーズが話題に=1980年4月、宮内庁   「宮家へ戻るとストレス性ぜんそくが再発」  信子さまと家族の溝は、なぜ生じたのか。  信子さまは、明治の元勲である大久保利通を親戚に持ち、九州財界を代表する名家に生まれ育った。兄は麻生太郎元総理だ。  1980年11月に“ヒゲの殿下”と親しまれた寛仁さまと結婚。当時、「長年好意を寄せ続けた寛仁さまが、7年越しの恋を実らせた」と、熱愛ぶりが話題になった。だが、十数年で破綻することになった。  信子さまは2004年以降、気管支ぜんそくによる入退院を繰り返し、軽井沢での療養生活に。09年秋には宮内庁が「宮邸にお戻りになると、ストレス性ぜんそくが再発する恐れがある」という主治医の見解を公表。信子さまは入院先から宮邸に戻らず、宮内庁分庁舎として使われていた旧宮内庁長官公邸で暮らし、寛仁親王家では寛仁さまと彬子さま、瑶子さまの3人が生活するようになった。    複数の関係者によると、寛仁さまは長い闘病の末、12年に亡くなったが、それまでの数年、信子さまが病院へ見舞いに訪れることはなかった。息を引き取る直前にようやく足を運んだが、すでに寛仁さまは意識がない状態。まだ意思疎通できたころの寛仁さまの意向や周りの反対から、信子さまは病室に入れなかったともいわれる。  そして寛仁さまの葬儀の喪主は、彬子さまが務めた。妃の信子さまではなく娘が喪主となった理由について、宮内庁は当時、筆者の取材に「寛仁殿下のご意向」と答えている。   「母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい」  その後の寛仁親王家は、混乱が続いた。  寛仁さまが亡くなって1年を経ても当主が決まらず、寛仁親王家は消滅。母娘3方は百合子さまを当主とする三笠宮家に合流した。   2007年秋の園遊会に臨んだ寛仁さまと瑶子さま。寛仁さまは、留学で学んだ英国ファッションの著書も出されており、シルクハットを手にダンディな装いがお似合い=2007年10月、赤坂御用地、JMPA    寛仁親王家をめぐる混乱については、彬子さまが「月刊文藝春秋」(2015年7月号)に載せた手記「彬子女王 特別手記 母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい」でも触れている。   寛仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない。父が亡くなってからも、何度も「話し合いを」と申し出たが、代理人を通じて拒否する旨が伝えられるだけであった。    彬子さまは信子さまについて、公務に復帰するのであれば、三笠宮両殿下にお詫びとご報告をしてほしい、ともつづっていた。  16年の三笠宮崇仁さまの葬儀でも、高齢の百合子さまに代わり、彬子さまが喪主代理を務めた。信子さまは、三笠宮さまが亡くなる1カ月ほど前に、入院中の聖路加国際病院を訪ねたが、このときも面会はできていない。もっとも、この一件も「面会できない状況だとご存じのはず」と、三笠宮家側は不信感を募らせたようだ。   信子さま「月10万円の皇族費しか…」と訴え 24年秋の園遊会に臨んだ信子さま。帯からのぞく翡翠のような玉飾りは、おそらくご愛用の懐中時計=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA    この年の夏には、信子さまと三笠宮家の間で、あるトラブルも起きていた。  彬子さまも妹の瑤子さまも不在中だった旧寛仁親王邸の三笠宮東邸を、信子さまが訪問。弁護士と鍵の専門業者を連れてきていた。  宮邸の職員は信子さまに「扉は開けられません」と繰り返したが、鍵の専門業者が通用口の鍵を開けて信子さまは邸内に入り、荷物をまとめて宮邸をあとにしたのだ。    事情を知る人物によれば、この「騒動」で信子さまはご自身の「正当性」を主張されていたようだ。  当時、信子さまは、ご自身に年間1525万円が支給されている皇族費について「月額10万円しか受け取っていない」と訴えており、日常の費用は三笠宮東邸に請求していたという。 「妃殿下は『月額10万円では、新しい物品をそろえることができない。自分の荷物を取るために鍵を開けざるを得なかった』と正当性を主張されていたようです」  宮内庁も、長年にわたる宮家内の愛憎劇に頭を悩ませているようだという。   2024年の秋の園遊会に臨んだ彬子さま。日本美術の研究者として活躍し、英国留学生活をつづったエッセイ「赤と青のガウン」は異例のベストセラーとなっている=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA   妻以外の女性皇族は「当主」になれないのか  宮殿行事や皇室行事で、隣に並ぶ信子さまと彬子さま、瑤子さまが、互いに目を合わせたり、母娘でほほ笑ましく談笑したりする光景を目にしたという話は、あまり聞こえてこないようだ。  そしてこれから問題となるのは、三笠宮家の「当主」問題だ。    戦後の皇室において、宮家の男性皇族が亡くなった後は、故・秩父宮妃勢津子さま、故・高松宮妃喜久子さま、高円宮妃久子さま、そして三笠宮家では宮妃の百合子さまが当主を務めてこられ、妻である宮妃以外の女性皇族がなった例はない。  そもそも「当主」はどのように決まるのか。  元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは、「当主」について法律で定められた規定はないと話す。  ただし、生活には資金が必要で、それぞれの皇族には、「皇室経済法」に基づいて、品位保持のための「皇族費」が国から支給されている。同法には「独立の生計を営む親王」を基準に、妻は2分の1、子どもは減額されるとある。 「つまり、その家の生計の中心になる皇族がいわゆる『当主』です。それぞれの皇族費の額はさておき、まずはご家族と宮内庁が話し合い、どなたが『当主』になるかの合意が必要です。その結果を天皇陛下にご報告し、了承が得られれば、内閣総理大臣や衆参両院議長ら8人で構成される皇室経済会議に諮ることになります。そして、皇室経済会議で『独立の生計を営む皇族』として認定されれば、その皇族はいわゆる宮家の『当主』となります」  皇族の身位によって支給される皇族費の額面の増減はあるが、「独立の生計を営む皇族」については、同法6条2項の「皇族が初めて独立の生計を営むことの認定は、皇室経済会議の議を経ることを要する」という規定があるのみだ。   寛仁親王妃信子さまの療養先となっている宮内庁分庁舎。下の1棟が旧宮内庁長官公邸で、もう1棟は旧侍従長公邸。25年度から始まる改修工事には13億円が計上されている=2009年、東京都千代田区三番町   13億円で改修する信子さまのお住まい  では、誰が三笠宮家の「新当主」となるのか。  もともと三笠宮家については、長男の寛仁さまが継承することを想定し、寛仁さまは宮号を受けないまま寛仁親王家として独立した生計を営んできた経緯がある。 「これまでの慣例に従えば、寛仁親王妃の信子妃殿下ですが、寛仁親王を含め三笠宮家の皇族のお見舞いにも葬儀に伴う儀式にも参列できていらっしゃらない。そうした方に当主が務まるのかといえば、難しいでしょう」(前出の宮家の事情に詳しい人物)  親王妃以外の女性皇族が「当主」になった例はないが、法律上は内親王、女王も「独立の生計を営む」皇族になることが想定されている、と山下さんは分析する。となれば、信子さま以外にもこれまで親王が亡くなった宮家を支えてきた彬子さま、瑶子さまのいずれにも可能性としてはあり得る、という。 24年秋の園遊会に臨んだ瑶子さま。金髪ピンクメッシュのまとめ髪と、「裏葉柳(うらはやなぎ)」のやさしい地色の訪問着が品良く調和している=2024年10月30日、赤坂御苑、JMPA    また、山下さんは「三笠宮家」とは別の宮家ができる可能性もある、と話す。  というのも三笠宮家の3方の女性皇族は、3つの「宮邸」をお持ちだ。 「故・百合子妃殿下がお住まいだった三笠宮邸、旧寛仁親王邸である三笠宮東邸、そして信子妃殿下がお住まいの、旧長官・侍従長公邸だった宮内庁分庁舎の3つです」  そして信子さまがお住まいの宮内庁分庁舎は、バリアフリーなどの改修工事が予定されており、宮内庁は25年度の概算要求に約13億円の予算を計上している。 「多額の国費をかける改修工事が意味するのは、宮内庁も含めて周囲は信子妃殿下の終のお住まいと考えてのことでしょう。信子妃殿下、彬子女王殿下、瑶子女王殿下がそれぞれ『独立の生計を営む皇族』として、別々の宮家の当主としてお暮しになる可能性もあると思っています」(山下さん)    26日には、豊島岡墓地で百合子さまの本葬にあたる「斂葬の儀」が執り行われる。果たして信子さまは参列されるのか。そして、三笠宮家をめぐる「新当主」の行方が注目される。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 三笠宮百合子さま101歳で逝去 「美しい日本語を話す方」「華族として結婚」した最後の妃殿下  https://dot.asahi.com/articles/-/240440    
悠仁さま 来春から通う筑波大学は「エリートコース」で大正解? 英マンチェスター大学留学という道も
悠仁さま 来春から通う筑波大学は「エリートコース」で大正解? 英マンチェスター大学留学という道も   筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格した秋篠宮家の長男、悠仁さま。4月からは、筑波キャンパスで大学生活がスタートする=2024年7月、秋篠宮邸、宮内庁提供    秋篠宮家の長男、悠仁さまが、筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格し、4月から入学することになった。悠仁さまが通う筑波大付属高校からの進学先としては、偏差値で見れば「中堅」クラスに思えるが、生物学を学ぶうえで高い評価を受けている環境だという。皇室の王道である英国の大学への留学制度もあり、悠仁さまには大正解の進路のようだ。 *   *   *  秋篠宮ご夫妻は11月25日、トルコ訪問を前に記者会見し、紀子さまは周囲をゆっくりと見回しながら、はっきりとした口調でこう述べられた。 「やはり長男には、若い時に、もし機会があれば、海外で生活を送り、また、そこの大学で、学校で学ぶ機会があれば良いのではないかと話すことがあります」  そして、悠仁さまの留学の可能性について、秋篠宮さまと前向きな話をしていると明かした。  高校3年の悠仁さまの進学先は世間の関心も高く、候補のひとつとして注目されていた筑波大の推薦入試を数日後に控えた時期だっただけに、「留学への異例の言及」とニュースに取り上げられた。    筑波大で推薦入試があった11月28、29日、大学の周辺には、受験に訪れる悠仁さまの姿をとらえようと待機するマスコミ各社の姿があった。  そして合格発表があった12月11日、宮内庁も悠仁さまが合格したことを発表。秋篠宮さまがトルコ訪問を前の会見で「大学に入ったら学びたいと言っているのが自然誌分野」と触れていたように、筑波大学の生命環境学群は、悠仁さまの希望通りの大学だった。   「エリートコース」でも偏差値50のワケ  悠仁さまの合格に対し、SNSではお祝いの声が上がる一方、「全国トップクラスの高校なのに――」といった声もあがっていた。  というのも、大学予備校のサイトを見ると、国立大学の理工系学部でも偏差値が60台後半、70以上という学部もあるなか、たとえば河合塾のサイトで公開されている筑波大生命環境学群の偏差値は50台だ。  だが、東京大など国立大、医学部といった難関大学専門の受験塾を経営する人物は、筑波大学生命環境学群は「決して中堅校ではなく、優秀な大学」と話す。   もうすぐ6歳になる悠仁さま。にっこりと誇らしげな表情でバッタを手に持つ場面は、「生物学者」として第一歩を踏み出した時期の一枚=2012年8月、秋篠宮邸、宮内庁提供    理工系と文系の学部を偏差値の「数字」だけで比べると、文系のほうが一般的に高く、理工系よりも難易度が高いように見えがちだ。しかし、文系と理系で母集団の学生の学力レベルが異なるため、正確に比較するには補正が必要。「理系の偏差値と文系とでは、全く別物」と、前出の大学受験塾の経営者は言い切る。  そして、筑波大学を受験する学生の学力は、地方の進学校ならば上位レベル。筑波大学の生命環境学群の学問分野は、他の大学では農学部に近いが、同じ程度の難易度の学部としては神戸大学の農学部、岩手大学の獣医学部、そしてすこし上に北海道大学の農学部が位置するという。 「筑波大学は教員の数が多く、生命環境学群も教授がひとりひとりの学生をきめ細かく指導してくれる環境だと聞いています」(前出の大学受験塾経営者)  大学関係者の間でも評判は高く、大学教授や大手の民間研究施設の研究者といった、いわゆる「エリートコース」を進んだ卒業生も少なくないという。   那須御用邸で秋篠宮さまと虫捕りをする悠仁さま。狙いを定めるお2人の緊張感が伝わる場面だ=2010年8月、栃木県、宮内庁提供   「生物学では、国内最高の環境のひとつ」 「理系のうち、医学部や薬学部、工学部の電子工学分野など、大学を出た後に高い給料がもらえる『実学部』は偏差値が上がるが、虫(生物)、星(天文)、石(地質学)といった分野は、どうも高給取りとは無縁ですね」  そう笑うのは、広島大学大学院統合生命科学研究科の長沼毅教授だ。筑波大学第二学群生物学類(現・生命環境学群生物学類)を卒業しており、悠仁さまの「先輩」ということになる。  悠仁さまが進もうとしている学部は、特に生物学を学びたい学生にとっては国内で最高の環境のひとつだと太鼓判を押す。  長沼さんは、大学や大学院には専門分野に特化した人材を育てる役割がある一方で、専門以外の知識にも触れさせることが重要と指摘する。  そして、現在の筑波大は大学院との連携が強化されており、生命環境学群は生物学にとどまらず、生物を取り巻く環境や地球全体について学べるようカリキュラムが組まれているという。 「生物学を学ぶ上で基礎となる古典の知識と生物の分類、そして生物の遺伝情報であるゲノムや進化学まで一か所で網羅できる環境は、ここだけでしょうね」   筑波大学のウェブサイトに掲載された10平方メートル(6畳)19410円の学生宿舎の個室。洗面台とベッド、勉強机が備えられたシンプルな部屋=筑波大学公式ウェブサイトより      フィールドワークが豊富なのも特徴だ。  同大は、伊豆半島南部には海洋生物学を研究できる「下田臨海実験センター」、長野県には生物科学や地球科学、農学など自然環境に関する研究施設「山岳科学センター菅平高原実験所」を持つ。  悠仁さまのOGにあたる編集者は、フィールドワークが充実した環境だったと満足気に振り返る。 「いまも同じかわかりませんが、夏休みなどには単位も取得できる野外実習が豊富にあり、1年から3年までは、かたっぱしから応募しました。そして、大学4年目は、下田臨海実験センターの寮に住み込んで研究に没頭したのもいい思い出です」  大学では他学部の授業も履修し、学ぶことの楽しさと興味の幅が広がったという。 筑波大学生命環境学群との交換留学制度がある英マンチェスター大学。広場と取り囲むように並ぶ歴史を感じさせるクラシカルな建物=マンチェスター大学公式ウェブサイトより   悠仁さまマンチェスター大学留学の可能性  長沼さんは、筑波大学で生物学を学ぶ大きな魅力のひとつが、英マンチェスター大学の生物科学部との交換留学制度だと話す。 「マンチェスター大学は、生物学研究の中心地のひとつです。学部(学群)生のうちからマンチェスター大学にパイプを持つ大学はなかなかありませんし、本来であれば雲の上の存在の教授陣から指導を受けることができる。生物学の研究者を志す学生にとっては大きなチャンスです」  皇族のなかには、故・桂宮さまがオーストラリアの国立大学の大学院に、高円宮家の三女・守谷絢子(あやこ)さんは、カナダのカモーソンカレッジとブリティッシュ・コロンビア大学へ留学された経験がある。どちらも英王室とつながりのある英連邦加盟国だが、皇室では英王室とのパイプを構築する側面もあることから、英国に留学するケースがほとんどだ。  悠仁さまも、皇位継承順位2位の皇族として、マンチェスター大学へ留学することになるのだろうか。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 生物学はロイヤルの教養であり「帝王学」だった 悠仁さまと昭和天皇 少年時代のセミやトンボ、チョウの「昆虫標本」に共通点 https://dot.asahi.com/articles/-/233075      
紀子さま 悠仁さまとの「熱意の二人三脚」ゴールの筑波大合格  「対抗意識で東大受験などない」と、支え続けたご友人とブレーンの存在
紀子さま 悠仁さまとの「熱意の二人三脚」ゴールの筑波大合格  「対抗意識で東大受験などない」と、支え続けたご友人とブレーンの存在 紀子さま58歳の誕生日を前に=2024年8月、東京・元赤坂の秋篠宮邸、宮内庁提供    筑波大付属高校3年の秋篠宮家の長男の悠仁さまが、筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格し、4月から入学すると、宮内庁が発表した。悠仁さまが小さなころから、二人三脚で教育にたずさわってきた紀子さま。その教育が実を結んだ結果となった。 *   *   * 「長男が好きなこと、学びたいことに取り組み、自分の興味を大事に持ち続けてほしいと願っています。学ぶ場所は、長男自身がしっかり考え、決めたことを尊重したいと思っております」  秋篠宮妃の紀子さまは9月の誕生日にあたり、悠仁さまの進路についての質問に対して、このように文書で回答した。  そして悠仁さまが選んだ進学先は、筑波大学の生命環境学群生物学類だった。    悠仁さまが受けたのは、11月28、29日に筑波キャンパスで行われた「学校推薦型選抜」。大学共通テストなど筆記試験のある推薦入学とは異なり、出身学校長の推薦に基づいて提出された書類と小論文、そして面接の結果を総合的に判断して合格を決める形式で、生物学類の入学定員80名のうち募集枠は22名だ。  筑波大学の募集要項によれば、学校長の推薦を受けるためには、「学習成績概評Aランク」(評定平均5.0~4.3)、同大学の一般入試に合格できる学力、国際的なテーマを課題とした探究的な学習や国際交流活動などのうち、いずれかの条件を満たす必要がある。悠仁さまはAランクの成績だったと報道されている。   「対抗意識で大学を決めるなど考えられない」  悠仁さまの進路をめぐっては、悠仁さまが小学生のころから候補の大学名が取り沙汰され、東京大や、秋篠宮さまが農学部の客員教授を務めていた東京農業大など、さまざまに報じられてきた。なかには「紀子さまは、雅子さまと愛子さまへのライバル心から、悠仁さまの東大進学を目指している」といった報道もあった。   秋篠宮家の長男、悠仁さまが18歳の成年を迎えた。男性皇族の成年は1985年の秋篠宮さま以来39年ぶり=2024年7月、秋篠宮邸、宮内庁提供    紀子さまの古くからの友人は、今回の悠仁さまの筑波大合格の発表を受けて、こう首を振った。 「悠仁さまの進学先について、妃殿下から『東大』をはじめ、どちらか特定の大学に進学させたい、といった言葉を聞いたことはありません。しかしながら、どういうわけか『東大をひたすらに目指す』などといった報道がなされることに、妃殿下の友人として、ただただ当惑するばかりでした」    学習院を選ばなかった秋篠宮家だが、外の世界にはご一家を支える友人や相談できるブレーンとなる人たちもいた。東大の施設に滞在したことがあるとして、悠仁さまのためにそのコネクションを活用するのでは、といった報道もあった。  批判的な噂があがるたびに、秋篠宮家と交流のある研究者のひとりは、風評へのいら立ちを吐露していた。 「たしかに秋篠宮さまがご家族で東大の演習林に滞在され、山登りをなさったこともあります。しかし、それは悠仁さまが生まれる前の話で、幼い眞子さんや佳子さまが、追いかけ回すマスコミを怖がったためです」  それをもって悠仁さまの東大進学と結びつけるような話ではないと、きっぱりとこう話していた。 「秋篠宮家は、悠仁さまのご興味と意思を第一に尊重なさるご家庭です。対抗意識で、ご長男の進学先を決めるなどということは、まず考えられません」  悠仁さまが通う筑波大付属高校は、毎年30~40人の東大合格者を出すトップ校だが、学力至上主義で進学先を選んだのではなく、生徒の個性や興味、そして多様性を尊重する校風が大きかったのだろうと、前出の友人は振り返る。   軽井沢で秋篠宮ご一家が過ごした際に、悠仁さまを優しくあやす紀子さま。悠仁さまは、ホテルのオーナーが飼っている大型犬のヘンリーのフワフワの背中にゆっくりと触れると、ご夫妻を振り返ってうれしそうに笑った=2008年、長野県軽井沢町、JMPA   窓口で月謝を払う紀子さま  紀子さまは、一般的な家庭と同じように、悠仁さまが小さな頃から教育熱心な「母」として、我が子を支えてきた。  子ども向けの遊び場や文化活動の拠点である東京・青山にあった国立総合児童センター「こどもの城」の幼児向けの講座に、悠仁さまが通ったこともあった。  紀子さまは、長女の眞子さんと次女の佳子さまら3人の子育てと公務で、目の回るような毎日。そんななかでも、悠仁さまの送り迎えの際に「こどもの城」の事務の窓口に顔を出し、自身で月謝を納める紀子さまの姿があった。    悠仁さまは、皇族として初めてお茶の水女子大付属幼稚園から小中学校に通った。紀子さまは、清掃活動やPTA活動にも積極的に参加されていた。 「わりと学校にいらしていました。掃除でもチャキチャキとご自分から動かれるタイプで、同級生らしきお母さまとも仲良く、ニコニコされながら立ち話をされていました。忙しい身でいらっしゃるのに、悠仁さまをよくサポートされているなと感心していました」(お茶の水女子大附属小の保護者)  悠仁さまが高校生になっても、紀子さまは同級生の母親らと会えば笑顔で手を振り合い、長時間立ち話をするなど、気さくな付き合いをし、教員とも円滑な関係を築いてきた。  小学生の頃から昆虫が大好きで、図鑑を熱心に読んでいたという悠仁さま。知識欲は旺盛で、不思議さや驚きを体験できる化学の実験に興味を示していた。  都内の国立科学博物館で開催されていた実験のワークショップでは、紀子さまが見守る中、悠仁さまが参加していたこともあった。周囲の参加者は、帽子をかぶっていた悠仁さまに気づくこともなかったようだ。   6年生の林間学校に参加した悠仁さま。途中で雨に遭い、アウトドアブランドのレインウェアを着てにっこり=2018年8月、福島県・裏磐梯高原、宮内庁提供    秋篠宮さまや紀子さまは、悠仁さまを連れて国内各地を訪れる一方で、中学生の時期には、悠仁さまが「ひとり旅」で長野県などを訪れることもあった。  ご両親は、自分たちは公務で忙しいが、12歳の悠仁さまには自然と触れ合い、土地の風土を肌で感じ、情緒を育む経験を積んでほしい、というお気持ちだったという。  紀子さまは、悠仁さまが高校に入学した2022年9月のご自身の誕生日にあたっての文書で、人びととの交流の大切さに触れるとともに、自身のテーマを見つけ、進む道を拓いていってほしいとつづっている。   「筑波大も候補と聞いていましたが」と稲の先生  悠仁さまの「稲」の先生である、茨城県の農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)シニアエグゼクティブリサーチャーの矢野昌裕さんは、悠仁さまの合格の知らせに、 「まずは筑波大学の入学試験合格、おめでとうございます」  と喜んだ。そして、 「筑波大学も候補に挙がっていることは聞いていましたが、都内からは距離があるので、選択肢ではないのかと思っていました。大学では、自然・生物に関する知識を吸収され、ご興味をさらに深められることを期待します」  皇族である立場ではさまざまな制約もあると思いますが、これまで以上に交友の幅が広がる大学で、さらなる成長と活躍を、とエールを送った。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 生物学はロイヤルの教養であり「帝王学」だった 悠仁さまと昭和天皇 少年時代のセミやトンボ、チョウの「昆虫標本」に共通点 https://dot.asahi.com/articles/-/233075      
「妻が死んでくれた」と動画配信した67歳の暮らし 今の自由は妻と過ごした時間があったからこそ
「妻が死んでくれた」と動画配信した67歳の暮らし 今の自由は妻と過ごした時間があったからこそ 築40年の賃貸住宅。この「秘密基地」から、ぺこりーのさんはYouTubeの動画配信をしている(撮影:大澤誠)    連載「だから、ひとり暮らし」では、時代の変化とともに増える単身世帯を深掘りし、それぞれの生き方と価値観を描いてゆく。今回は、年金を受け取りつつYouTube収入を得ながら自由を謳歌する、東京・世田谷区の賃貸住宅で暮らす67歳のぺこりーのさんを取材した。 妻亡き後の日々を語る動画が話題に  ぺこりーのさんという名前を知らなくても『ようやく妻が死んでくれた』というドキッとするタイトルの動画を、目にした人は多いかもしれない。実はぺこりーのさんが最初にYouTubeにアップしたのがこの動画で、現在は累積で約858万回も再生されている。 「老後には有り余る時間と自由がある。足りないのはお金だけ」と語るぺこりーのさんは、妻亡き後のひとり暮らしの日常をYouTubeを通じて発信している。彼はいわゆるYouTuberとして、時には年金額を凌ぐ収入を得ているのだ。 ぺこりーのさん/さまざまな会社の役員を務め、60歳の定年を迎えた後、妻との死別でひとり暮らしになった。現在はフリーのコンサルタント兼YouTuber。登録者数7.51万人の登録者がいる『年金一人暮らしのぺこりーの』を運営するほか、著書に『妻より長生きしてしまいまして。』がある(撮影:大澤誠)   「料理をしてるだけ、酒を飲んでるだけの動画に自分の言葉を乗せているのですが、驚いたことにどんどん再生回数が伸びていくんですよ。最初は『モノは試し』という意識だったのが、すぐに『これ、いけるかも』に変わりました」(ぺこりーのさん 以下の発言すべて) 築40年の賃貸「秘密基地」から発信  築40年の賃貸マンションを「秘密基地」と呼ぶ彼の日常も、視聴者には大きな共感を呼んだ。 「ひとり暮らしをするようになって、家族で住んでいた家から、このマンションに転居しました。部屋は広くないけれど、自分が好きなことをするには十分。料理をしたり、布団にごろっと横になって酒を飲んだり。そんな時間を動画にして、多くの人がそれを見てくれるなんて、贅沢ですよね」  世田谷区のなかでも小さな駅の前に建つマンションは、スーパーへもアクセスが良い。築40年だけあって古い建物だが、2DKの部屋には動物をモチーフにした絵画が飾られ、カラフルで明るい雰囲気だ。 知り合いの画家の作品を気に入って一括購入。何枚も同じ画家の作品をつなげることで統一感とリズムが出る(撮影:大澤誠)   「絵は全部で15万円で知り合いの画家から買いました。飲み屋で会話した流れで『俺が全部買うよ』ってね。こうやって並べると統一感があっていいでしょう。あとはオープン収納にカラフルな日用品を並べて、インテリアのアクセントにしています。缶や瓶も統一感をもたせると、並べているだけでもかわいいんです」 ゆいまる君は14歳。「お互い老人同士です」(撮影:大澤誠)    機能的で整頓された部屋は居心地が良さそうで、飼い犬のゆいまる君も自由にあたりを歩き回り、くつろいだ表情を見せていた。 老後を年金とYouTube収入で生きる理由  ぺこりーのさんがひとり暮らしを始めたのは、60歳のとき。それまでは企業の役員としてコンテンツマーケティングの分野で培ったスキルを、存分に発揮してきた。当然のように60歳を越えても、企業からの引き合いはあったそうだ。 YouTube撮影に使っている相棒のカメラはニコン製(撮影:大澤誠)   「60歳になった頃には企業のデジタル部門での再雇用の話もありましたけど、それはやめようと思って。企業に就職すると確かに収入は安定するけど、また時間に縛られるじゃないですか。  もう、誰かに管理される生活には戻りたくなかった。それなら、もっと自由に、自分のスキルを生かして稼ぐ方法を考えたほうがいいと思ったんです。  それに、私の場合特別支給の老齢厚生年金の資格があったので、11万円程の年金受給の資格がある。ところが企業に再就職すれば、それはもらえず、まだまだ年金を払う立場でいることになる。それならフリーランスで、年金をもらいながら働く方がいいと思いました」  その考えにいたった裏には、早すぎる妻の死があった。 「妻が亡くなったのが、僕が59歳のとき。彼女は58歳でした。再就職せず年金をもらいながら個人事業主になる道を選んだのは、妻がいなくなったことで、時間の使い方を見直した結果です。  娘も独立していて、家族のために働く理由がなくなった。これからは、収入が減ったり安定を失ったりしたとしても、自分が楽しいと思えることに時間を使おうと決心したんです」  そんなぺこりーのさんの話を聞くと、早々に妻の死を乗り越えたかのように見えるかもしれない。  しかし、実際はその真逆だった。 「妻が亡くなったあとは、本当に何もできませんでした。料理を作る気力も、掃除をする気力もない。ただ、毎日どうにか生きているだけで精一杯のありさま。どれくらいそうだったのか、もう覚えてないくらい……」 キャビネットには妻の写真と、彼女への感謝のメッセージ。そしてお供えのビール。「お骨は粉骨にして、ここに置いてあります」(撮影:大澤誠)    妻の死は突然だった。 「妻の晩年を考えると、最期まで明るい人だったなと思うんです。アイロンをかけたり、僕のためにご飯を作ったり、犬を育てたり。そんな日々のなかで、実は彼女の心臓は病に蝕まれていた。  僕の健康に気づかってばかりいたけれど、自分のことには無頓着なところがあったのかもしれません。  彼女の最期の1年間が『晩年』だったと気付いたとき、もっと楽しいことを一緒にしてあげればよかったと後悔しました。でも亡くなってしまってしばらく経つと、後悔以上に、妻が日々もたらしてくれていた幸せに、感謝の気持ちが湧いてきたんです」  その後、少しでも心が動くことをしようと始めたのが料理。さらに料理を作っているところや、それをつまみに酒を飲んでいるところを動画にしてみようと考えた。 「最初は本当に小さな一歩でした。料理をしてみよう、酒を飲んでみよう。我が家は一緒に食べたり飲んだりすることが大好きでしたから。  妻の残してくれたレシピのノートを見ながら、自分なりに料理を始めました。妻の味を再現できたらうれしいし、新しいレシピに挑戦したら妻に報告できることが増えます。そのうち、それを誰かに見てもらえたら面白いかなと思って動画配信を始めたんです」 「好きなことで生きる」という選択は、動けなかった彼を救った。 「人はね、楽しいこと、好きなことを見つけないと本当に動けないんです。愛する人を失った悲しみって、動く気力を全部奪っていく。  だからこそ、好きなことで少しでも心を動かして、体をそこに追いつかせる。それが僕にとっては料理や酒だったわけで、誰にでもそういうものがあると思います」 老後のお金と人生の選択肢  ぺこりーのさんのYouTubeチャンネルで、最も反響が大きいのは老後のお金に関する投稿。「どうやって生計を立てているのか」「老後の生活が不安」という視聴者からのコメントが後を絶たないそうだ。 「みんなお金のことが気になるんですよね。僕も最初はそうで、年金11万円だけで暮らせるのかって不安でした。でもね、なければないなりに生きていくしかないんです。  それに小さく稼ぐ方法なら、頑張って探せば結構あるもんです。近所を見まわせばスーパーなどのパートの募集は結構あります。転職サイトみたいな、人が殺到するところで探そうとするから、難しいんじゃないのかな」  昨今老後不安から、貯蓄や投資を勧める向きがある。しかしぺこりーのさんは、貯めるよりも稼ぎ続ける方が大切だという。 「できるだけ若いうちからひとり立ちできるスキルを、できれば複数にわたって磨いておくことです。  僕は会社員経験を生かして、フリーのコンサルタントとしても働いています。またYouTuberとして稼ぐのには、会社員時代に培ったコンテンツマーケティングの知識を生かしている。  会社で長年働いて得たスキルって、実は相当なもの。それを必要とされる場は、年齢を重ねていたとしても、きっと見つかると思いますね」  ぺこりーのさんも貯蓄を増やそうと、過去に証券会社の人に勧められて投資信託を始めたことがあったという。 「『これをやれば安全にお金が増えますよ』なんて言われてね。でも全然ダメで、気がついたら元本も危うくなってて。もう撤退したのですが、冷や汗ものでしたよ」  新NISAやiDeCoを含めれば、今は投資が基礎的な生活防衛の手段と思われている。しかしぺこりーのさんは過信は禁物だという。 「結局、人に勧められたことを鵜呑(うの)みにしちゃダメ。自分がよくわからないことに手を出すと、たいてい痛い目を見ます」  どれだけ貯蓄があろうと、それを取り崩すだけの老後は心もとない。投資だって、絶対安全なものなどない。それならば老後に自分の得意なこと、好きなことでフリーランスとして稼げるスキルを磨いておくのも、重要な生活防衛の手段なのだ。 「幸せだった」そして今思うこと  ぺこりーのさんが取り組む「心が動くこと」の中心には、いつも妻や娘の存在がある。それは妻が亡くなり、娘がひとり立ちした今も同じことだ。 「ひとりになった今も、妻との幸せな思い出はいつもそばにあります。今の時代、『コスパが悪いから結婚しない』なんて話を聞くけど、それは共感できないですね。僕は妻と過ごした時間があったからこそ、今こうしてひとりでもやっていけるのだと思っています」 パートナーが使っていたステンレス鍋。某通販のセットで30万円ほどしたそう。「当時は新婚とはそういった道具を買ってあげるものかなと思って、高いなと思いつつ購入しました。でも、モノはいいですよ」(撮影:大澤誠)    人生の選択肢が増えた現代、ひとりを貫くライフスタイルがあってもいい。ただ、本当はパートナーと生きたい、家庭を持ちたいと思っているのに、それがかなわない理由が、経済状況や社会的な環境にあるとしたら、改善されなければならない。  家族への愛情や幸せな思い出がそこかしこににじむ、ぺこりーのさんのひとり暮らしの部屋を見て、そう感じた。 「思い出」と「好き」に囲まれて暮らす部屋 ここでテレビをみたり犬と戯れたり。テレビ番組はアニメが好き(撮影:大澤誠)   (蜂谷 智子 : ライター・編集者 編集プロダクションAsuamu主宰)
【2024年下半期ランキング 政治・社会編8位】折田楓氏より前に斎藤知事から「助けてください」と懇願された選挙コンサルタントの後悔 「こんなことなら私がやればよかった」
【2024年下半期ランキング 政治・社会編8位】折田楓氏より前に斎藤知事から「助けてください」と懇願された選挙コンサルタントの後悔 「こんなことなら私がやればよかった」 折田楓氏(noteより)    2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。政治・社会編の8位は「折田楓氏より前に斎藤知事から「助けてください」と懇願された選挙コンサルタントの後悔 「こんなことなら私がやればよかった」」(11月29日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *   *   *  兵庫県知事選で再選を果たした斎藤元彦知事(47)に降って湧いた「公職選挙法違反疑惑」は、いまだに収まる気配がない。発端はPR会社「merchu」代表の折田楓氏(33)が「note」にアップした記事だった。記事は、斎藤氏が同社に知事選での広報戦略全般を“仕事として”依頼したように読める内容だったが、騒動になると折田氏は記事の一部を書き換え、Facebookの投稿をすべて削除した。斎藤氏側も「ボランティアという認識だった」と弁明した。実は、斎藤氏は折田氏に接触する前、別の選挙コンサルタントに「助けてください」と依頼していた。なぜここまで騒動が大きくなってしまったのか。当該の選挙コンサルタントが今回の「問題点」を語った。 「私はひとりぼっちで街頭に立ちます。応援してくれませんか。助けてください」  今年9月末、斎藤氏から電話でこう懇願されたのは、選挙コンサルタントの藤川晋之助氏だ。藤川氏はSNS戦略を駆使して7月の東京都知事選で善戦した石丸伸二氏の選挙参謀を務めるなど、選挙のプロとして名が知られる人物だ。藤川氏はこう振り返る。 「最初に接触があったのは、斎藤さんが初めて街頭に立つ前でした。斎藤さんも頼る人がいなかったのでしょう。私の知り合いの大学教授を通じて、『斎藤さんが困っているので助けてあげてほしい。電話させていいですか』という相談があったんです。私が承諾すると、すぐに斎藤さん本人から電話がかかってきました」  当時の斎藤氏は、パワハラ疑惑などで県議会による不信任決議が可決されたことで失職、裸一貫で出直し選挙に臨もうとしている時だった。まだ世論も味方につけておらず、孤独な戦いを挑むことに不安も大きかったのだろう。 「ほそぼそとした声で、大丈夫かなと思いました。私は『しっかりしてください。あなたは全然悪くないから、大丈夫。同情するわけではないが、あなたのことをパワハラだと言うなら、私だってパワハラの10乗くらいになりますから』などと冗談を言って、私なりに元気づけようとしました」  しかし、この時期は兵庫県知事選に日本維新の会の前参院議員の清水貴之氏が出馬することが取り沙汰されており、藤川氏も“斎藤支援”を約束できる状況ではなかった。 「私も東京維新の会の事務局長を務めた経験がありますので、清水さんが出るとなれば浮世の義理があります。斎藤さんには『清水さんが出馬する場合は、表立って応援できないから』と答えました」 斎藤知事と写る折田楓氏(noteより)   まさかシロウト同然のPR会社に頼るとは…  結局、清水氏は出馬することになり、斎藤氏からの依頼は断ることにしたという。  このエピソードからもわかるように、斎藤氏は9月末の時点で、自分を助けてくれる選挙プランナーをいろいろと探していたようだ。そこで接触していたのが、PR会社「merchu(メルチュ)」の折田楓社長だった。  斎藤氏の代理人が11月27日の記者会見で語ったところによると、折田氏夫妻と会い、同社事務所を訪れて打ち合わせをしたのは9月29日とのこと。藤川氏に電話があったのは、その前だった。 「私としては、まさか選挙のシロウト同然のPR会社のキラキラ社長に頼るとは思いもしませんでした。結局、こんなつまらないことで足を引っ張られるのであれば、私が(広報戦略を)やってあげれば良かったと思っています」(藤川氏)  折田氏が今回の騒動となる記事をnoteに投稿をしたのは11月20日のこと。「兵庫県知事選における戦略的広報」と題した記事で、「広報全般を任せていただいていた立場として、まとめを残しておきたいと思います」と書き記し、こうつづっている。 <兵庫県庁での複数の会議に広報PRの有識者として出席しているため、元々斎藤さんとは面識がありましたが、まさか本当に弊社オフィスに起こしくださるとは思っていなかったので、とても嬉しかったです>(現在はnoteから削除)  そして、テーブルを囲む斎藤氏と折田氏、スタッフと思われる数人との写真を掲載していた。  また折田氏は「ご本人のSNSとは別に」4つのアカウントを立ち上げ、「私のキャパシティとしても期間中全神経を研ぎ澄ましながら管理・監修できるアカウント数はこの4つが限界でした」とも記している。  こうした折田氏の投稿は瞬く間に“炎上”。公職選挙法が禁じる「インターネットを利用した選挙運動の対価としての報酬支払い」に該当するのではないかと指摘され、SNSなどで批判が殺到した。  これに対して、斎藤氏の代理人は「(斎藤氏は)SNSの利用についての説明を受けた」が「広報全般を任せたというのは事実ではない」とし、「金銭はポスター、チラシ代など5項目についての71万5000円以外一切ありません」と会見で説明したが、折田氏の投稿とは食い違っている点が少なくない。 選挙コンサルタントの藤川晋之助氏(撮影/上田耕司)   選挙プランナーは「私が全部やった」なんて言わない  一連の投稿について、藤川氏はこう嘆く。 「選挙プランナーは、選挙後に『私が全部やりました』なんていう発言は絶対にしません。何か聞かれても『私はあまりお役に立てていません』と言うものです。それなのに、彼女(折田氏)は自己顕示欲が爆発し、承認欲求を満たそうとしてしまった。これが最大の失敗です。彼女は企業のPRには慣れているかもしれませんが、選挙に携わってきた人ではない。体質が違うんですよ。公職選挙法はとてもややこしくて複雑ですが、そういうことを知らないで発言していたのでしょう」  折田氏は斎藤氏の選挙カーに同乗したり、選挙期間中は斎藤氏にずっと帯同していたとされている。こうした折田氏の動きに関して、藤川氏はこう話す。 「会社の役員や取締役は特別職なので、ボランティアで選挙運動を手伝うのであれば大丈夫です。しかし、会社の従業員まで選挙運動をやって、それに対して社長が給料を払っていたら運動員の買収になってしまいます。仕事として請け負った場合、従業員がポスターを作ったり、チラシのデザインをしたりするのはOKですが、街頭演説の選挙カーの上に乗ったり、写真を撮ってSNSにアップしたりするのは選挙活動となり、グレーゾーンになってしまいます」  この点に関して、斎藤氏の代理人は会見でこう説明している。 「演説会場に社員さんがおられたことまでは確認しているが、その社員さんが何をしていたかは確認できていない。選挙運動には関わっていない」 「PR会社の社員さんが仮に選挙運動に関わっていたとして、PR会社が対価として給料を支払っていたら選挙違反にあたるかというと、それはそうだと思います」  一方、折田氏は県の重要会議のメンバーでもあり、「地域創世戦略会議」「兵庫県eスポーツ推進検討会」「次世代空モビリティひょうご会議」などで委員を務めていた。現職の県会議委員が知事選に関与し、報酬を得ていたことを問題視する声もある。  斎藤氏の代理人によると、「公職選挙法には違反していない。(折田氏は)現在も兵庫県の委員を務めていますが、県とは委託契約で、請負い契約ではありません。(報酬は)3年で約15万円」と説明するが、藤川氏はこう話す。 「彼女は行政にコネクションを持っているのでしょう。県関係の仕事に従事しながら、選挙で特定の候補を応援して報酬をもらうことは、かなりグレーだとは思います。この状況だと、誰かが告訴すれば受理せざるを得ないと思いますが、もし裁判になれば、新たな判例が出るかもしれません」 正々堂々と表に出てくればいい  折田氏はこれまで複数の自治体からPRを任された実績を公表しているが、今回のような騒動の後でも、変わらずにPR活動ができるものなのか。藤川氏はこう指摘する。 「内情について平気でしゃべられたら、クライアントはたまったものではありません。信用を回復するためにも、『私は悪くない』と思っているのであれば、正々堂々と表に出てきて説明すればいいんです。『選挙のことをよくわかっていませんでした。社長個人がボランティアでやっていたので大丈夫だと思っていました。世間をお騒がせして申し訳ありません』と言えばいい。それも言えないのだとしたら、やはり何かあるんじゃないかと疑われても仕方がありません」  そして、最後にこう続ける。 「私は斎藤さんは逸材だと思っているし、3年間ずっと改革を進めてきた。それが評価をされて選挙で民意を得たわけですから、こんなことでダメになるよりは、一日も早く疑惑を晴らして県政に邁進してほしいと思っています」  PR企業のトップとして、民意を得た県知事として、折田氏と斎藤氏の双方に自分の言葉で説明する責任がある。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
22年間で51万円減、増えない手取り 家計「苦しい」8割、ランチ食べない日ある人も
22年間で51万円減、増えない手取り 家計「苦しい」8割、ランチ食べない日ある人も AERA 2024年12月16日号より    年収の壁をめぐる問題が国会で焦点化しているが、そもそも日本人の「手取り」はなぜ増えないのか。生活防衛の対応策や処方箋は「待ったなし」だ。AERA 2024年12月16日号より。 *  *  * 「昇進しても手取りが増えない」「インフレになっても手取りが増えない」  こんな悲鳴のような声が巷にあふれている。先の衆院選では「手取りを増やす」と訴えた国民民主党が躍進した。春闘やボーナスの時期に「歴史的な賃上げ」と報じられても実感が湧かず、格差の拡大を実感するばかり、という人も少なくないだろう。  日本人の「手取り」はどう推移してきたのか。  ファイナンシャルプランナーの深田晶恵さんの試算によると、年収700万円の会社員(専業主婦の妻と15歳以下の子ども2人と想定)の場合、2002年の手取り収入は587万円だったのに対し、24年は536万円。この22年間で51万円減少している。  手取りは増えるどころか、1割近くも減っていたのだ。要因は社会保険料の値上げや、所得税・住民税の配偶者特別控除の一部廃止、子どもの扶養控除の縮小・廃止などが挙げられるという。 実質賃金は目減り  そもそも日本全体の平均年収はバブル経済がはじけた1990年代以降、デフレのため四半世紀にわたって停滞してきた。この数年は円安などに伴うインフレを機にベースアップによって労働者が実際に受け取る「名目賃金」が増えても、物価上昇分を差し引いた「実質賃金」は目減りしているのが実情だ。  厚生労働省が11月に発表した9月分の毎月勤労統計調査(速報)によると、働き手1人あたりの実質賃金は前年同月より0.1%減り、2カ月連続でマイナス。5月まで過去最長の26カ月連続マイナスだった実質賃金は、ボーナスによる押し上げ効果で6、7月はプラスに転じたが、その後は2カ月連続のマイナスだ。電気・ガス料金の補助金が復活して消費者物価の伸びを抑制してもなお、賃金の上昇が追いついていない。 AERA 2024年12月16日号より   「手取りの減少」は年金を受給する高齢世代にも及ぶ。  深田さんの試算によると、年金収入300万円(企業年金含む)の手取りは、1999年に290万円だったのが2024年には253万円。25年間で37万円マイナスと、減少率は1割を超えている。これについて深田さんは「介護保険や国民健康保険の保険料負担増に加え、老年者控除の廃止など高齢者向けの増税策が主な要因」と指摘している。 家計「苦しい」8割  働き手の意識を示す、こんな調査結果も出ている。  エデンレッドジャパン(東京都港区)が今年9月に20~50代のビジネスパーソンを対象に実施した調査によると、家計が「苦しいと感じる」との回答は8割近く。4割以上が「昨年よりさらに苦しい」と感じていることが分かった。お小遣いについては「変わらない」「やや減った」「かなり減った」と回答した人が8割を超えた。99.3%が物価上昇を実感し、84.9%が節約を意識している実態も浮かんだ。  働き手の苦境はランチ事情にも表れている。  同調査で、勤務日のランチ代の平均は424円で昨年の400円より24円アップしたものの、勤務日に使えるランチ代については、3人に1人(32.5%)が「減った」「やや減った」と回答。「勤務日にランチを食べないことがある」と回答したのは26.7%で、調査を始めた22年以降、最も高い比率になった。  ランチ代がアップした背景について同社は「飲食店のランチ代平均はこの2年で705円から929円と200円以上高騰している」と指摘。その上で、賃上げがあってもランチ代の支出を控える傾向や欠食率の高さを重視する。天野総太郎社長は「今年の春闘賃上げ率は、バブル期以来の高水準となり、消費回復や成長につながる好循環への期待が高まりました。しかし、その裏側でビジネスパーソンの約7割が属する中小企業と大企業の格差が顕著になり、日本経済の二極化という課題も浮き彫りになっています」と話す。  こうした中、「インフレ手当の新たな選択肢となる福利厚生サービス」を掲げるのが、同社のICカード「チケットレストラン」だ。従業員は手取りが増加し、企業は税負担を抑えられ、双方向にメリットがあるという食事代補助サービス。23年の新規導入企業数は前年比247%、契約法人数は現在約3千社と好調に推移している。  仕組みはこうだ。会社の食事代補助分は「社員負担が会社負担額を上回る」「会社負担が月3500円+税を上回らない」の2点を満たせば、所得税法上、非課税所得になる。チケットレストランはこの条件に収まるよう、食事代補助として毎月上限7千円分の電子マネーがチャージされたICカードを従業員に配布。Uber Japanのデリバリーサービスや全国のコンビニ、牛丼チェーンなどを含む全国25万店舗で利用でき、勤務形態も出社・在宅にかかわらず公平に利用できるメリットがある。  同社によると、近年、特に人手不足が指摘されているIT、建設、運輸、医療業界からの問い合わせが多く、中小企業との契約が多いのが特徴。「年収の壁」などで手取りを増やすのが困難な契約社員、パート、アルバイトなど非正規の従業員への還元策として活用する企業も増えているという。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年12月16日号より抜粋  
「光る君へ」いよいよ最終回 まひろとの対峙シーンが称賛「黒木華」倫子役がどハマリしたワケ
「光る君へ」いよいよ最終回 まひろとの対峙シーンが称賛「黒木華」倫子役がどハマリしたワケ 黒木華    最終回に向け、盛り上がりを見せるNHK大河ドラマ「光る君へ」。主人公・まひろ/紫式部(吉高由里子)と生涯のソウルメイト・藤原道長(柄本佑)の関係性や2人のやりとりに毎週ドキドキする視聴者も多い中、佳境に入った同作で注目を浴びているのが黒木華演じる道長の北の方(正妻)・源倫子だ。  黒木の出演が発表された際は、色白の肌や切れ長の目元などが“平安顔”でピッタリすぎるとの声がSNSで多く上がったが、いざ物語がスタートすると「上品さと豪華な衣装がベストマッチ」「黒木華さんの演技、柔らかな中にもスパイスピリリでいいですね!」など、期待を裏切らない彼女の演技にさらなる絶賛の声が相次いだ。 「黒木さんが映ると画面が一気に華やかになるんですよね。雅ではんなりとした空気感をまとった彼女の演技力により、一気に平安時代にタイムスリップした気分にさせられます。出演当初は無垢(むく)でおっとりした“良いところのお嬢様”という雰囲気でしたが、道長の正妻となり、回を追うごとに貫禄と“怖さ”が増していきました。『まひろと道長の関係に感づいているのでは?』と考察を楽しむファンも増えていました」(テレビ情報誌の編集者)  この倫子の“怖さ”こそが視聴者を引き付けてやまない理由だろう。たとえば、彼女の「フフフ」という笑い声。心から笑っているわけではなく、裏に含みを持たせた感じがするうえ、目がまったく笑っていないのだ。第43話(11月10日放送)では、自身が道長から愛されていないことや、道長には心から愛する女性がいると疑い苦しんだ時期もあったことを道長へ吐露。  しかし、道長のおかげで孫が天皇になるかもしれず、そんな悩みを吹き飛ばしてくれたと感謝の意を述べたのが、「私とて、いろいろ考えておりますのよ。ですから、たまには、私の方もご覧くださいませ」と言い、「フフフフフ……」と不気味にほほ笑んでみせたのだ。この笑い声に対してSNSでは「笑う場面に背筋凍った」「正妻の怖さと寛大さ」などの声が上がり、視聴者を震撼させた。 和服姿の黒木華   樹木希林さんもべた褒め 「倫子のド直球な質問にドキッとする視聴者も多いようです。11月24日放送回で、まひろは源氏物語を脱稿し、ずっと夢だった諸国を巡る旅に出ることを決め、道長に別れを告げます。道長は引き留めますが、まひろの思いは変わらず、大落胆。体調が優れないこともあり、出家を決める道長に思い直すよう倫子は説得するのですが聞き入れてもらえませんでした。その際、『藤式部(まひろ)がいなくなったからですの?』と衝撃的な質問を投げかけたのです。これには『倫子さま切り込んだね…。やっぱ気づいてたんだ』『倫子さまが不憫すぎる!!』と倫子の心情を察し、同情するようなコメントも相次ぎました。そして12月8日放送回では、『私が気づいていないとでも思っていた?』と倫子がまひろに問いただすシーンが流れたのですが、肝を冷やす展開に最高潮の盛り上がりをみせていました」(同)  見事な倫子ワールドを作り上げ、視聴者を引きつける魅力的なキャラクターとなったのは、ひとえに黒木華の演技力に尽きるだろう。  母に連れられ、幼いころから地元の児童劇団で演技をしていたという黒木。褒められたのがうれしくて演技にのめりこみ、その後、演劇の名門として知られる追手門学院高校に進学し、1年生から3年生まで主演を務めた。当時の演劇部の顧問は『目立たない、もの静かな子だな』という第一印象を抱いたそうだが(『女性自身』14年3月11日号)、基礎練習を見て他の部員とは違う演技力や表現力に驚いたと話している。土日も練習漬けで休みがないという厳しさだったが、黒木は一度も休んだことはなかったという。 「高校卒業後は、京都造形芸術大学に進学しました。大学在学中に野田秀樹氏の舞台でデビューし、瞬く間に舞台、映画、ドラマと活躍の場を広げていきました。14年には『小さいおうち』でベルリン国際映画祭の最優秀女優賞を取り、世間を驚かせました。黒木さんのすごいところは、どんな役を演じてもその物語の世界になじんでしまうこと。そして、見ている人に本当にそこに存在する人物と思わせてしまうことにあるのではないでしょうか。黒木さんには大物俳優たちも一目置いていて、特に樹木希林さんは生前『まだ28歳ですが、しなやかでとても強い。これから日本を背負って立つ役者だと思います』と映画共演時に絶賛していました。まさにその言葉どおり、国民的女優になりつつあります」(映画関係者) 黒木華   大阪出身で「お笑い好き」の一面も  11月に公開された映画「アイミタガイ」では、突然親友を失ってしまうウエディングプランナー役を好演している黒木。映画の口コミサイトやSNSでは「黒木華さんの雰囲気が映画全体を包み込んでいるような、とても優しい映画でした」などと、高い評価を得ている。エンディング曲では歌声も披露しており、「癒やされた」との声が多く上がっていた。  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は、黒木華についてこう述べる。 「近年の主演作で印象的だったのは2019年のドラマ『凪のお暇』です。それまでの自分と人間関係を捨て、新しい環境で生き直す主人公をとても魅力的に演じ、作品に奥行きと深みを与えていました。また、昨年公開の映画『せかいのおきく』では、時代劇かつ全編モノクロ映像という制約にもかかわらず、抜群の演技力でカラー映像にも匹敵する存在感を発揮していました。おしとやかでおとなしそうなイメージの一方で、大阪出身でお笑い好きという一面も持っており、以前取材をした際には、時間があると(お笑いの)新顔をチェックしていると語っていました。そんなギャップも魅力の一つになっていると思います。今年、事務所を退所しフリーになったこともあり、これから先、より自由度の高い表現や演技を見せてくれることに期待しています」  12月15日にいよいよ最終回を迎える「光る君へ」。倫子様のラストスパートから目が離せない。 (高梨歩)
「103万円の壁」「106万円の壁」って何?  給料の手取りに関係する年収の「5つの壁」と、上手な付き合い方
「103万円の壁」「106万円の壁」って何?  給料の手取りに関係する年収の「5つの壁」と、上手な付き合い方 (写真はイメージ/GettyImages)  税金や社会保険料の支払いが発生する「年収の壁」についての議論が活発に行われています。政府・与党は「103万円の壁」の見直しを決めており、「106万円の壁」も撤廃される方向です。しかし、これだけではなく「130万円」「150万円」……といくつもの壁があります。子育て世帯における年収の壁との上手な付き合い方について、ウェルスプラン代表取締役で社会保険労務士、ファイナンシャルプランナー(CFP®)の佐藤麻衣子さんに聞きました。 社会保険への加入を「魅力的」と考える人は多い  2024年10月の総選挙で「手取りを増やす」を掲げ議席数を大きく伸ばした国民民主党が提案しているのが、「103万円の壁」を178万円にまで引き上げることです。政府・与党は「103万円の壁」引き上げを決めており、今後どこまで引き上げるかが議論の焦点になっています。  そもそも「年収の壁」とは「年収がこの金額を超えると、税金や社会保険料の負担が増えます」という境目のことで、大きく五つあります(別図)。ここでは、モデルとして、夫が会社員、妻がパート従業員というケースを例に考えてみます。  すでに引き上げが決まった「103万円の壁」は所得税に関わるものです。妻の年収が103万円以下であれば、夫の扶養の範囲となり、所得税がかかりません。といっても、103万円を多少超えても所得税の負担は大きくはありません。  例えば、年収104万円になった場合、超えた1万円に税率5%をかけた500円が納税額になります。ただ、夫の勤務する会社によっては、103万円を超えると家族手当などの支給対象から外れるケースもあります。 図表/佐藤麻衣子さん提供  次が「106万円の壁」で、社会保険料に関するものです。従業員51人以上の会社が対象で週20時間以上働く場合、最低賃金が高い地域では年収が106万円(月額8万8000円)を超えることから「20時間の壁」ともいわれます。この金額を超えると夫の扶養から外れ、妻に厚生年金や健康保険の保険料負担が生じます。手取りが減ることからパート従業員などの「働き控え」につながっているといわれる壁です。ただ、佐藤さんは次のように話します。 「106万円の壁を超えると、社会保険料の負担が生じて手取りが減るデメリットばかりがいわれているようですが、社会保険に加入すれば、年金の上乗せや出産手当金、病気やけがで会社を休んだときの生活の保障となる傷病手当金が給付されますし、保険料を会社が半額負担してくれるメリットのほうが大きいと私は考えています。厚生労働省のアンケート調査でも、パート従業員の約6割が『社会保険に加入できる求人』を『魅力的』と考えています」  次の「130万円の壁」も社会保険料に関わるものです。従業員50人以下の会社で働く場合でも130万円を超えると夫の扶養から外れ、国民年金、国民健康保険に加入しなければなりません。会社の保険料負担はありませんから、手取りにかなり影響してきます。ただ、佐藤さんはこう話します。 「従業員数50人以下で、本来はパート従業員のような短時間勤務の人は会社の社会保険に入れないような規模の会社であっても、人手確保のためにパート従業員が会社の社会保険の適用を受けられるようにしているところもあります。こうした会社で働けば、社会保険の本人負担は減ります」 「106万円の壁」と「130万円の壁」を超えた場合を試算  では、実際に壁を超えると手取り額はどのように変わるのか、佐藤さんにわかりやすく試算してもらいました(図)。東京都江戸川区在住を想定し「20時間の壁(いわゆる106万円の壁)」と「130万円の壁(会社の社会保険に加入できない場合)」について、手取りの差を比較しました。  まず「20時間の壁」をみてみましょう。週20時間を超えて働き、なおかつ年収が106万円を超えるケースと、週19時間勤務のケースを比較します。週19時間勤務の場合、年収は114万9044円になります。所得税・住民税が引かれ、手取りは112万3744円で、約2万5000円減ります。これが週20時間勤務になると、年収120万9520円、手取りは101万9271円で約19万円の減少となります。一方、出産や傷病の際には、それぞれ手当金が日額2180円給付され、障害・遺族年金などの給付対象にもなります。  次に「130万円の壁」(会社の社会保険に加入できない場合)では、夫の社会保険の扶養内の年収129万円では、手取りは123万6860円。年収が130万円になると、国民年金・国民健康保険の加入義務が生じ、手取りは94万7864円となります。約35万円も減ってしまいます。社会保険の給付もありません。こうしたことから、「130万円の壁」を特に意識して働く人が多いようです。  年収の壁として130万円の次にくるのが「150万円の壁」と「201万円の壁」です。それぞれの額を超えると夫の配偶者特別控除が減ったり、なくなったりして夫の税負担が増すことになり、世帯年収に影響してきます。 「壁」にとらわれすぎず働くことも大切  ここまで手取りに関係する年収の壁についてみてきました。目先の手取りを減らさないようにするには壁を超えないよう、勤務時間を短時間に抑えるということも必要になってくるでしょう。ですが、「自身のキャリア形成や中長期のライフプランも考えてほしい」と佐藤さんは強調します。 「世の中の人手不足は深刻で、時給も上昇しています。私の知っている事務系の会社ではアシスタント的な仕事で時給1600円ほど。そうしたなかで壁を超えないようにしようと思えば、そのぶん勤務時間を減らさなくてはいけなくなります。一方で子どもの教育費は上昇していますから、今後の受験などに備えておくことも必要です。子育てと働くことの両立は大変ですが、支援制度も以前より厚くなっていますし、キャリアを積み上げていきたいと考えている女性も多いと思います。年収の壁にとらわれすぎず、働くことをもっと前向きに考えてもいいのではないかと私は思います」 (文/西島博之) 佐藤麻衣子さん(写真/本人提供) 〇佐藤麻衣子(さとう・まいこ)/ウェルス労務管理事務所代表、株式会社ウェルスプラン 代表取締役。社会保険労務士、CFP®認定者。法人向けに仕事と生活の両立のための労務コンサルティングや企業型確定拠出年金の導入に関する企業研修などを行う。
「困ったときに『助けて』と言えたら」 没イチ・バツイチが集う東京・四谷のシニア食堂が目指すもの
「困ったときに『助けて』と言えたら」 没イチ・バツイチが集う東京・四谷のシニア食堂が目指すもの (撮影/大崎百紀)  小さな「シニア食堂」が11月28日、都内にプレオープンした。ふだんは「バー」という店内で、ビュッフェスタイルの昼食をとり、会話を楽しんでいるのは60~70代のシニアたちだ。 *  *  * 坊主バーがシニア食堂に  本日のメニューは、山形の玉こんにゃくの炒り煮、里芋・セレベスとネギの煮物、パパイアと根菜、さつま揚げの煮物、鯖の南蛮漬け、無農薬冬野菜のサラダ、杏仁豆腐、バウムクーヘン。 「この煮物に入っているのは、パパイアだって」 「鯖は豊洲市場で今朝買ってきて作ったんだって」  東京・四谷三丁目エリア。僧侶が運営するバーとして話題の「坊主バー」が、この日は食堂に早変わりした。  シニアが集い、会話と食を楽しんでいる。半数以上が没イチ(配偶者に先立たれた人のこと)・バツイチ・独身者のいずれかだ。   伴侶を亡くしてまだ数年の人もいれば、10年以上経つ人もいる。 ずらりならんだ食堂のメニュー(撮影/大崎百紀) 交流の場になることを目指して  食後、49歳の時に妻を亡くした中川興和さんがギター演奏を始めると、店内に残っていた10人ほどの客たちが口ずさみ、小さな演奏会が始まった。照明が落とされ、まったりとした雰囲気になった。 「僕の演奏で誰かが喜んでくれるなら」  中川さんは没イチになってからベースギターを始めたという。  この「シニア食堂」は、いわゆる「定食屋」ではない。シニアによるシニアのための食堂だ。食事をしながら、不安や悩みを吐露したり、共有したりすることで、生きる力を与え合い、「新たな一歩」を踏み出していく――。そんな交流の場になることを目指して、シニア生活文化研究所の小谷みどりさん(55)が立ち上げた。 「誰かと話したい人が気軽に来られるような場にしたいんです。単身高齢者が増えていけば、社会的孤立者は増加します。廉価で共食の場をつくることで、一人暮らしの高齢者が集い、人とつながって笑顔になり、生きる力にもつなげることができたら、それが一番うれしい。スタッフの多くが離別や死別、子どもが引きこもりなどの、不安や悩みを抱える経験や、つらい体験をしてきているだけでなく、専門職の経歴を持つ人も少なくないんです」  小谷さん自身も没イチだ。42歳の時に突然死で夫を失った。 シニア生活文化研究所の小谷みどりさん(撮影/大崎百紀)   単身高齢者を支援するには  その翌年、先立った配偶者の分も2倍人生を楽しむことを目的に「没イチ会」を立ち上げた。50歳の誕生日を迎える1週間前に25年以上勤めた会社を辞めた。現在は死生学に関する講演会を全国各地で行い、武蔵野大学と身延山大学の客員教授も務める。地元では消防団の活動をしたり、小学校で児童の支援員をしたりもする。  地域でゴミ拾いのボランティアをしていた時に、「裕福とは言い難い単身高齢者を多く目の当たりにし、どうやったら彼らを支援できるのだろうと考えるようになった」ことが、シニア食堂を始めるきっかけだという。  1日15人限定で、ランチの代金は1人300円。食材の用意も調理も小谷さんが中心になり、ボランティアスタッフとともに行う。野菜は無農薬野菜ファームをするバツイチシニアや、家庭菜園をする「ご近所さん」から購入したりするという。費用は小谷さんが負担し、補助金の申請はしていない。本格オープンは来年の1月で、月2回程度の開催を予定しているという。 気負わず話せる環境に  ここ数年、全国各地で「シニア食堂」が注目されるようになった。  たとえば、東京都は2023年度から新規事業として「TOKYO長寿ふれあい食堂推進事業」を進めている。地域住民らが主体となって実施する会食活動を育成・支援する区市町村に補助をしていて、それにより地域交流の場としての「シニアふれあい食堂」が目立つようになった。しかしながら「なかなか行きづらい」「存在自体を知らない」「タイミングが合わない」という声もある。 「(行政やNPOが主導するシニア食堂が)増えているのはたまたまかな。『没イチ会』に入りたいという声を聞いたことも理由だし、全国で講演をするたび、自分のお墓の悩みとか、切々と質問をする方も多くて、『こういう(終活の)悩みって、相談する場所もないんだなって』って思ったのも大きいです。ここに来てくれたら、私が聞きますよ」(小谷さん)  独り身だからこそ、同じ境遇の人にこぼせる悩みもある。気負わず話せる環境があるということは、孤立した人にとって大きいのだろう。 「たとえ没イチじゃなくても、どんな人でも来てほしいと思っています」(小谷さん)    小谷さんに誘われて、シニア食堂にやってきた75歳の独身男性は話す。 12月の営業は12月12日(木)と26日(木)の予定。参加費は300円(食事、お茶、お菓子代)、参加資格はおおむね65歳以上(会場に階段あり)。会場:坊主バー(新宿区荒木町6-42 AGビル2階) 午前11時半開場、12時食事開始。15時までおしゃべり会 「自分で『孤独だ』って言っている人はガードが堅くて閉鎖的。自分のことも話さないから話も広がらないし、人脈も広がらない。やっぱり、外に出る、いろんなところに顔を出すって大事だと思いますよ。私は毎週カラオケに行き、ヨガも週1ペース。旅行も1か月に1回、美術館にも毎月行っている。こんなふうに自分で決めたルーティンがあると、『今日何をしようかな』と悩むこともない。シニア食堂に初めて来ましたが、ここに来るのもルーティン化するかもしれませんね」  地元では参加者の平均年齢が70超というコミュニティーガーデン活動の代表をしているという。 黙っている人はほとんどいない  プレオープンのこの日、食堂は午前11時半に開いたが、午後2時を過ぎても半数以上が店内に残っていた。  黙って食事をしている人はほとんどいない。 「私の母も実は没イチ…」 「伴侶を失った悲しみの癒し方?やはり時間じゃないかな」  飛び交う言葉。誰かが誰かの聞き役となり、その聞き役もまた誰かに悩みを話す。没イチもバツイチも独身者も、僧侶も、視察に訪れていた役所職員にも、笑顔があった。 これで300円!シニア食堂のメニュー(撮影/大崎百紀)   老後の不安なくなるはず  会話をしながら食事することが、人間にとっていかに重要か。  今年10月に亡くなった料理評論家の服部幸應さんは世界初となる「食育基本法」の成立に尽力したが、生前のインタビューでは、「独居老人もなるべく外に出て、会話の中に入って食事をするほうが良いでしょう」と、「孤食」を避け、大勢で会話をしながら食事をすることの大切さを語っていた。  小谷さんは言う。 「老後の心配をする人は多い。お金を貯めて、今使うことをしない。私は老後の不安を抱えて生きるよりも、今使いたい。今やりたいことをして暮らす。人のためにお金を使い、困っている人がいたら、その人を助けたいんです。困っている人や、孤独な人がいる。たとえ一人になっても、困った時に『助けて!』って自然と言える人が増えていったら、老後の不安なんてなくなるはず。そういう人をみんなで支える場が必要だと思います」 (編集部・大崎百紀)
【2024年下半期ランキング エンタメ編10位】ジャニーズ妻の“治外法権”と言われた「瀬戸朝香」 夫・井ノ原快彦を支える“おしどり夫婦”の現在地
【2024年下半期ランキング エンタメ編10位】ジャニーズ妻の“治外法権”と言われた「瀬戸朝香」 夫・井ノ原快彦を支える“おしどり夫婦”の現在地 ドレス姿がまぶしい瀬戸朝香(写真:KCS/アフロ)    2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。エンタメ編の10位は「ジャニーズ妻の“治外法権”と言われた「瀬戸朝香」 夫・井ノ原快彦を支える“おしどり夫婦”の現在地(7月23日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *  *  *  7月2日、都内で行われた将棋の藤井聡太七冠の棋王就位式に、俳優の瀬戸朝香(47)が登場したことが話題となった。2人は同じ愛知県瀬戸市出身とあり、「ついに瀬戸の2大スターが顔を合わせた!」と世間が盛り上がると同時に、「瀬戸朝香」という芸名にも注目が集まった。  瀬戸は藤井棋王との対面を待ちわびていたようで、祝辞の中でこう語った。 「藤井棋王に本日初めてお会いすることができて、私は本当にこの日を待ち望んでおり(略)よく地元に帰ったりするんですけれども、そこらへんを歩いていれば『藤井棋王に会えるのかな』なんて思いながら、お買い物したり食事したりしていたんです」  これに対し、藤井棋王も「瀬戸市出身でよかったと、改めて感じております」と返した。  この日、瀬戸はシックなノースリーブのセットアップ姿で登壇。SNSなどでは「相変わらず美しい。全盛期の頃から時が止まったように若々しい」「久々に見たけど、落ち着いた話し方と気取らないキャラクターが昔からすてき」といった賛辞が相次いだ  一方で、瀬戸市広報大使も務める瀬戸に対し、「瀬戸出身だから瀬戸朝香って芸名なのかな?」「出身地と名字が同じなのは偶然?」と芸名に興味を示す人も目立った。瀬戸の芸名について、エンタメ誌の編集者が次のように説明する。 「中学時代に地元でスカウトされ、芸能界入りした瀬戸さんですが、当時のマネジャーが芸名の名字に悩んだ末に『瀬戸市からとって瀬戸朝香で』と言ったという話は有名です。以前、テレビ番組でこのエピソードを明かした瀬戸さんは、『ふざけんなって思って。地元の名前を軽く付けたなと、やってくれちゃったなと思って。瀬戸市は大好きなんですけど“瀬戸朝香で~す”なんて軽く言えないって思った』とぶっちゃけて笑いを誘っていました」 ベビーカーのイベントに出席した瀬戸朝香(2014年)   ジャニーズ妻としては異例のママタレ化  芸名に不満を抱えつつもデビューした瀬戸は、1994年放送の月9ドラマ「君といた夏」(フジテレビ系)のヒロインに抜擢され、大ブレーク。  稲垣吾郎とダブル主演を務めた連続ドラマ「東京大学物語」(テレビ朝日系)や草なぎ剛と同じくダブル主演を務めた「成田離婚」(フジテレビ系)をはじめ、数々の作品で好演し、俳優としての実力を発揮した。  また、プライベートでは95年放送の主演ドラマ「終らない夏」(日本テレビ系)で共演したV6(当時)の井ノ原快彦と交際し、2007年に結婚を発表。この時の異例の対応について、前出の編集者はこう振り返る。 「旧ジャニーズ事務所のタレントの妻といえば、夫がアイドルという特性上、夫婦共演はタブー。家庭や子どもをネタにするママタレ活動も“ほぼNG”の状態が長らく続きました。こうしたなか、瀬戸さんは結婚会見に井ノ原さんとそろって登場。さらに、10年と13年に出産してからは、ベビーカーのイメージキャラクターを務めたり、子育てについてメディアで語ったりと、唯一“治外法権”のような存在でした」  そんな瀬戸は近年、21年12月に放送された「ドクターX~外科医・大門未知子~」(テレビ朝日系)の第8話にゲスト出演し、「約3年ぶりの女優業復帰」が話題になった。そして、22年5月末に30年間所属した芸能事務所を退社すると、同社と業務提携しつつ、フリーとして活動を開始した。 瀬戸朝香(写真:ロイター/アフロ)   デビュー時は「4000校」の中から発掘された  それから約半年後、23年1月放送のバラエティー番組「行列のできる相談所 3時間SP」(日本テレビ系)に出演すると、放送数日前のブログで「今年は、昨年よりも活動の場を広げていきたいと 思っていますのでお知らせが 沢山できるよう頑張ります」と宣言。しかし、その後は目立った芸能活動は見られない。その理由を前出の編集者が語る。 「瀬戸さんが活動の場を広げると宣言した直後、旧ジャニーズ事務所の性加害問題が社会問題となり、夫の井ノ原さんを取り巻く状況が激変しました。昨年12月、井ノ原さんは旧ジャニーズ事務所の後継会社・STARTO ENTERTAINMENTの幹部に就任し、現在も俳優兼経営者として奮闘しています。そうしためまぐるしい変化もあって、今の瀬戸さんは自分のことよりも『家族を支えることを優先したい』と考えているのではないでしょうか」  最近は自身の姿をインスタグラムに投稿しているほか、数年前に立ち上げたアクセサリーブランドのディレクター業も務めている様子の瀬戸だが、芸能評論家の三杉武氏はこう話す。 「瀬戸さんといえば、前所属事務所が4000校ほどの中学・高校を対象にかわいい子を調査するなかで、瀬戸市で評判だった14歳の瀬戸さんに辿りついたという逸話が有名です。また、井ノ原さんとの結婚に関しては、交際中に1度は破局するも、約5年後に偶然再会し、復縁してゴールインを果たすというドラマチックな展開も話題になりました。近年は育児に加えて、井ノ原さんが大変な状況ということもあってか、芸能活動はセーブ気味ですが、今後ドラマや映画などでのさらなる活躍も期待したいですね」  前述の棋王就位式では「女優の瀬戸朝香です」とあいさつ。瀬戸が再び俳優として活躍する姿を待ち望むファンは少なくないはずだ。 (小林保子)
【2024年下半期ランキング 皇室編10位】愛子さまのそばでいつもニコニコの天皇陛下 「注意されても嬉しい」笑顔に見える絆
【2024年下半期ランキング 皇室編10位】愛子さまのそばでいつもニコニコの天皇陛下 「注意されても嬉しい」笑顔に見える絆 秋季雅楽演奏会を鑑賞する天皇陛下と長女愛子さま=2024年10月20日午後、皇居の宮内庁楽部、代表撮影    2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。皇室編の10位は「愛子さまのそばでいつもニコニコの天皇陛下 『注意されても嬉しい』笑顔に見える絆」(11月9日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *   *   *  天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまは、10月11日に佐賀県を訪問し、初の単独地方公務に臨み、30日には秋の園遊会、11月5日には文化勲章の受章者を招いた皇居での「茶会」に初めて出席された。4月に社会人となり、お出ましや公務が増える愛子さまだが、そばで見守る天皇陛下はいつもにこやかな笑顔だ。そこには、娘の成長を喜ぶ父の顔があった。  10月20日に「秋季雅楽演奏会」を鑑賞した天皇陛下と愛子さま。お二人での鑑賞は2回目だったが、天皇陛下はずっと笑顔だった。  皇居にある宮内庁楽部に到着されると、正面、左、右に笑顔で会釈をされ、天皇陛下は愛子さまの方に視線を少しだけ向け、「さぁ、座りましょう」という合図のように左手をほんの少し動かされた。天皇陛下は柔和な優しい表情を愛子さまに向けられた。  演奏会の途中、愛子さまが天皇陛下に向かって熱心に話しかける姿があった。天皇陛下も愛子さまに顔を向け、何度も何度もうなずかれていた。愛子さまとご一緒されるときの天皇陛下の笑顔はいつも輝いている。    そんな愛子さまに向ける天皇陛下の笑顔は「天皇陛下が子育てに参加されてきた証」と、愛子さまが生まれた2001年から皇室番組の放送作家として活躍するつげのり子氏はいう。  特に愛子さまが幼い頃は、娘が可愛くて仕方ないというパパの顔の笑顔があふれていた。何度も愛子さまの特集番組を手掛けてきたつげさんが、愛子さまに向けた天皇陛下の“ベストスマイル”のひとつは、02年8月、愛子さまがまだ8カ月のとき。   頬をピシャピシャに笑顔  栃木県の那須御用邸で静養中、沼ッ原湿原を皇太子ご夫妻(当時)と愛子さまは訪れた。愛子さまは、天皇陛下の背負うベビーキャリーの中で、ごきげんのニコニコ笑顔。それ以上の笑顔だったのが天皇陛下だった。 「散策中はベビーキャリーに愛子さまをのせているので、陛下からはその表情は見えないのですが、はしゃぐ愛子さまの様子が伝わったのでしょう。その重みも愛おしいと思われたのかもしれません」  愛子さまが小さな足をバタバタさせる動きや重み、背中に伝わる温もり……愛子さまの全てが愛おしいという天皇陛下の笑顔には、私たちの心も和む。   栃木県の那須御用邸に滞在中、沼ッ原湿原を訪れた皇太子ご夫妻(当時)と愛子さま=2002年8月、栃木県那須塩原市  さらに、このとき、つげさんの記憶に強く残っているのが天皇陛下のお顔をピシャピシャたたく愛子さまだ。 「散策の途中で休息され、雅子さまに抱っこされた愛子さまが陛下のほほに手を伸ばし、ピシャピシャとされました。そのとき、陛下は愛子さまが可愛くてたまらないというのが伝わってくる笑顔をされていましたね」  最近の出来事では、今年の夏、那須のご静養のときも、愛子さまが天皇陛下の顔にとまった蚊を払う瞬間が報じられた。そのときも天皇陛下はとても嬉しそうな笑顔をされていた。   愛子さまに注意されても嬉しい  愛子さまとご一緒のときだけでなく、父娘の何気ないエピソードを語られるときの天皇陛下の笑顔もまた印象的だとつげさんは話す。平成20年の皇太子さま(当時)のお誕生日記者会見のときのことだ。  その年の3月に学習院幼稚園を卒園される愛子さまの“成長エピソード”を記者から質問され、最後にこう語られた。 「愛子と一緒に手を洗っているときに,私が手に石鹸(せっけん)を付けている間に,水を出しっぱなしにしてしまい,愛子に水を止めるように注意されたことがあります」(平成20年「皇太子殿下お誕生日に際し」より)  この日の記者会見で、一番の笑顔だった。「娘に注意されても嬉しい」という笑顔だったとつげさんは振り返る。 「このとき、愛子さまは6歳でしたが、陛下が水の研究をされているのを、もしかしたらご存じだったかもしれません。洗面所で『お父様、お水は大切にしましょうね!』と愛子さまから言われ、陛下は『これは、愛子に一本取られた!』と思われたのではないでしょうか」  パパを注意するまでに成長した愛子さま。このときの喜ぶ笑顔には「天皇陛下も愛子さまもお互いに尊敬し、尊重し合っていることを感じます」とつげさんは話す。  来月12月1日に23歳のお誕生日を迎える愛子さまだが、その成長を喜ぶ天皇陛下の笑顔がすでに思い浮かぶようだ。 (AERA dot.編集部・太田裕子)   【こちらも話題】 愛子さまと佳子さま 息ぴったり!のご公務と「紅白コーデ」 園遊会で雅子さまが「振り返らなかった」理由とは? https://dot.asahi.com/articles/-/239390
うまいラーメンを作るだけでは「1000円の壁」は越えられない… 亀戸の若手店主がこだわる“味5割・伝え方5割”
うまいラーメンを作るだけでは「1000円の壁」は越えられない… 亀戸の若手店主がこだわる“味5割・伝え方5割” 亀戸にある「麺 ふじさき」の醤油らぁ麺は一杯1400円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。今回は埼玉を代表する名店「らーめん かねかつ」の店主・大友勝さんの愛する名店「麺 ふじさき」をご紹介する。  JR総武線・東武亀戸線の亀戸駅北口から徒歩10分。亀戸天神社の近くに至高の醤油ラーメンがいただける人気店がある。「麺 ふじさき」だ。「食べログ」では3.83点を誇り、亀戸・平井エリアのラーメン店では堂々の1位に君臨している(2024年12月5日現在)。  店主の藤﨑みづきさんは茨城生まれで、高校進学にあわせて上京する。部活で柔道に明け暮れていたが、たまの休みを利用して東京のラーメンを食べ歩いていた。ちょうど品川駅のラーメン集合施設「品達」がブレイクし始めた頃、で「なんつッ亭」や「つけめんTETSU」の行列に並んではラーメンを食べていた。豚骨魚介のつけ麺が大好きで、「大つけ麺博」にも通っていたという。  醤油ラーメンの魅力に気づいたのは、駒沢オリンピック公園で行われていた「東京ラーメンショー」がきっかけだ。東北のラーメン店が出店していて、そこで食べた醤油ラーメンに衝撃を受け、ハマっていった。その後神奈川の大学に進学したので、「麺や食堂」や「いちばん一番」など名店を食べ回るようになった。  この頃から将来はラーメン屋になりたいと考えていた藤﨑さんは、大学で経営学部に入学する。学生結婚をしたあと、まずは一度就職しようと商社に入った。ここで2年間社会人としての型を身につける。その後、妻の実家のある船橋に移り住み、船橋の人気ラーメン店「まるは」で働き始める。24歳の頃だった。 「将来独立する時は絶対に清湯系(あっさり系)のお店をやろうと思っていましたが、いろいろなラーメンを出しているお店でラーメンの大枠を学ぼうと『まるは』さんに入りました。レシピをまねしてもそこの2号店になってしまうので、あくまで自分の味は自分で作ろうということで基本を学ぶために修行に入りました」(藤﨑さん)   「麺 ふじさき」店主の藤﨑みづきささん(筆者撮影)  1年間で「まるは」グループのいろいろな店舗に行かせてもらい、白湯系から清湯系まで広く学び、エリアマネージャーにお店の運営についても教えてもらった。1年経ち、店の先輩に「清湯の専門店に修行にいきたいです」と相談すると、同じ千葉の「とものもと」が移転で人を探しているかもしれないと繋いでくれた。ここから「とものもと」での修行が始まる。 「『とものもと』は“お客さんを大事にしよう”という気持ちが滲み出ているようなお店です。ラーメンの作り方、接客、そして商品すべてに『とものもと』が入っています。味ももちろんですが他のいろんなところに魅力を感じるお店でした」(藤﨑さん) 「とものもと」での1年7カ月の修行を終え、いよいよ独立に向けて動き出した。物件を探すうちに、魅力的な内装を手がける会社を見つけた。山翠舎という古民家の解体をしている会社で、昔使われていた古木や柱を利用したその内装に藤﨑さんは惚れ込んだ。山翠舎に物件探しも含めてお願いし、亀戸の物件を見つけた。駅から少し離れた場所だったが、うまいラーメンを作ればお客さんは来るだろうという自信があった。  こうして2022年9月「麺 ふじさき」はオープンした。スープに鶏と水しか使っていないいわゆる「水鶏系」のラーメンで、高級感溢れる一杯を提供する。 具はチャーシュー2種類、メンマ、ネギ。麺は細めストレートの自家製麺(筆者撮影)  プレオープンの時からお客さんは集まり、ラーメンファンや「とものもと」の常連客、地元のお客さんなどたくさんの人が集まった。しかしオープン景気は終わり、年明けから一気に売り上げが落ちていく。春頃まではなんとか耐えたが、このままではダメだと藤﨑さんは次の手を考えはじめる。 「水鶏系を辞めることにしました。まずは昆布を加えその後貝柱や乾物などを試していきました。ひとつずつうま味のデータを取り精度を高め、夏からは豚を試しました。何度で何時間炊くとどうなるのか、どれぐらいの量を炊くと良いのかなど失敗と成功から具体的なデータを取って抽象化していく作業を続けていきました」(藤﨑さん) 「麺 ふじさき」/東京都江東区亀戸2-8-11アドリーム亀戸101/火曜定休/営業情報は店のX(@men_fujisaki)でも発信中(筆者撮影) ■「おいしいからといって、お客さんはきてくれない」  とにかく量を試し、抽象度を上げていくことで少しずつ精度が高まっていった。ラーメンをリニューアルしたことで『TRYラーメン大賞』でも評価され、冬場からお客さんが増えてきた。そのまま春頃まで好調だったが、5月から一気にまた売上が落ちてしまう。 「お客さんは、ラーメンがおいしいからといって来てくれるわけではないことに気付きました。味以外の部分がよくないのではないかと、ラーメン以外の部分に目を向け始めました。“味5割・伝え方5割”で、おいしく食べていただくためには“伝え方”の部分も大事なのだと考えを改めました」(藤﨑さん) 「麺 ふじさき」の券売機。お子様らぁ麺(400円)から特上らぁ麺(塩・醤油各2300円)まで幅広いラインナップ(筆者撮影)  おぼんのセッティングや照明、BGMなど空間全体をブラッシュアップしていき、「伝え方」にも磨きをかけていった。マーケティングの要素を取り入れることで、より店全体のことを考えられるようになった。ラーメン業界では、1杯の価格が1000円を超えると心理的に「高い」と感じてしまう「1000円の壁」問題がよく議論になる。だが、藤﨑さんが目指すのは「1000円の壁」より上のレイヤーだ。うまいラーメンを作るだけでは、ここは乗り越えられないことを悟ったのである。 「“味”と“伝え方”の両方をちゃんとしていかないと、これからの店は続かないと思っています。繁盛しているお店はみんなここがちゃんとしているんです。三ツ星のレストランはシェフだけでなくサービスにも人を使います。自分たちの作っているものをちゃんと伝える方法を知っているんです。私も自分なりの最適解を探していこうと思います」(藤﨑さん)  飲食店は味だけではなく総合力が大事だと藤﨑さんは言う。単価をそれなりにいただいている以上、お客さんの期待度も高くなる。その上で、味以外の努力もしていかなければ、いいお客さんは離れてしまうのだ。藤﨑さんは、店を訪れるお客さんのレベルが高いと日々感じており、そこに店が追いつかねばという気持ちで毎日ラーメンを作っているという。 「麺 ふじさき」店主の藤﨑みづきさん(筆者撮影)   「いざこの店がなくなったとしても誰も困らないだろうなと思うんです。今はスマホで注文すればおいしいものが何でも届く時代ですし、レシピもネット上にいくらでも転がっています。その中で、個人店にしかできないことを探していきたいです。私には『自分のラーメンで人を幸せにしたい』という夢があるので、このお店がどうやったら社会に必要とされるのかという社会的意義を考えていきたいんです。そうしないと個人店は生き残れないと思います」(藤﨑さん)  今までのラーメン店では体験できない食事体験や、家で食べるラーメンとは明らかに違うクオリティのラーメンを目指していく。ラーメンを通して、人々が今まで知らなかった世界観を作り上げていきたいという。  そこには、ラーメン屋という職業自体を他業種に負けないレベルにしていかないと、優秀な人材がラーメン業界には来ないという危機感もある。 「すべてを向上させていくことで、次のレイヤーが見えてきます。大好きなラーメンの次の可能性を見つけるために、できる限り努力していきたいと思います」(藤﨑さん)  若き店主の並々ならぬ思いに胸がいっぱいになる。ラーメン界の未来を考える店主の紡ぐ一杯は、その努力の結晶なのである。(ラーメンライター・井手隊長) ※AERAオンライン限定記事
4人の子のパパ・岩隈久志が語る、野球を始めた息子への思い「気になることはたくさん。でも口は出さない」
4人の子のパパ・岩隈久志が語る、野球を始めた息子への思い「気になることはたくさん。でも口は出さない」 岩隈久志さん プロ野球やメジャーリーグで活躍した岩隈久志さんは、長女(20歳)、長男(15歳)、次女(13歳)、三女(1歳)の4人のお子さんのパパです。これまでの子育てや中学から野球を始めたという息子さん、現在携わる中学野球チームへの思いを聞きました。※前編<元大リーガー・岩隈久志が語る長女と“20歳差”第4子の子育て「うんちのオムツ交換、初めてやりました」>から続く 家では子どもと遊ぶ係 ――ご長女が生まれたときの球団は近鉄(大阪)、その後楽天(仙台)、シアトル・マリナーズへと移り、環境が変わるなかでの子育ては大変なことも多かったのではないでしょうか。  妻は本当に大変だったと思います。学校が変わったり、病院が変わったり苦労したと思うんですけど、そこを僕には見せないところがあって。子どもたちも転校をいやがったり、文句を言ったりするようなことはなくて、すぐに順応してくれました。たぶん妻は、僕のいないところで子どもたちに、僕の仕事の話をしてくれていたんですよね。子どもたちは野球選手という仕事をよく理解してくれていたと思います。 今年結婚22周年を迎えた岩隈さんご夫婦(インスタグラムより) ――アメリカでの生活(2012~2018年)はどうでしたか?  子どもたちと外でのびのびと遊べたのがよかったです。ホームゲームでナイターの日は、午前中子どもたちと思いっきり遊んでいました。公園が広大で、家に庭もあったので、ジャングルジムやトランポリンを置いて。息子とキャッチボールをすることもありました。アメリカは試合が終わったら「はい、終わり。また明日」という感じでオンとオフの切り替えがはっきりしているんですよね。家族が試合後にグラウンドに入れることもあって、子どもとリラックスして過ごせる時間が多かったような気がします。 シアトル・マリナーズのホーム球場で野球を楽しむ岩隈一家(提供) ――お子さんたちにとって岩隈さんは、たくさん遊んでくれるお父さんなんですね。  僕は遊ぶ係。それは日本にいるときも変わらないですね。現役の野球選手は肩を守るために、子どもが赤ちゃんのときから別の部屋で寝る選手が多いのですが、僕はずっと家族と一緒に同じ布団で寝ていました。抱っこも右肩ではしないですけど、左肩でたくさんしてきました。 第4子が誕生し、6人家族となった岩隈家(提供) 息子の野球には口を出さない ――息子さんは高校生になって寮に入り、野球をされているそうですね。  そうなんです。よく連絡がきて、投げ方のこととか相談されます。 ――野球を始めたきっかけは?  僕がすすめたことはないんですが、中学生になって自分からやりたいと言い出して「じゃあ、がんばれ」と。それはうれしかったですね。 球場で幼い息子さんを抱きかかえる岩隈さん(提供) ――岩隈さんは野球を知り尽くしているからこそ、息子さんのこともいろいろと気になるのではないでしょうか。  それはもう、気になることはたくさんあります。でも口は出さずに見守るようにしています。僕が育ってきた時代とは環境も違いますし、自分で感じて考えて、トライしてほしいと思っています。 ――口を出さずに見守るのは、大変ではないですか?  もっと上のレベルを目指してほしいとか、もっと真剣にやってほしいという気持ちはあるんですけど、それを言ったら野球が楽しくなくなってしまうかもしれない。せっかく自分からやりたいと思ったことを、そういう言葉で止めたくないんですよね。今、息子のほうから僕に野球のことをいろいろ聞いてくれるのは、これまで口を出さなかったおかげかなと思っています。 ――野球を楽しくやってほしいという思いがあるんですね。  もちろんこの先プロを目指したいとなったら、そのときは「本当に厳しい世界だよ」という話は、絶対にしないといけないとは思っています。 野球の裾野を広げたい ――2022年から中学硬式野球チーム「青山東京ボーイズ」を立ち上げて、運営や指導に携わられています。どういう経緯でチームをつくられたのですか?  現役を引退したので、次は野球の技術や楽しさを伝えていくことに力を注いでいきたいんです。野球人口が減ってきているので、裾野を広げていきたいという思いもあります。 ――中学生を対象としたのはなぜですか?  思春期で自分自身と向き合う時期でもあるので、野球の技術を教えるだけではなく、自分で考えて動くことの大切さを伝えていきたいと思いました。あいさつをしっかりするとか、人間性の部分も育てていきたいですね。僕ら首脳陣は例えば、この大会で優勝するとか、目標は決めません。目標は子どもたち自身で決めるように促しています。 岩隈さんが立ち上げた中学硬式野球チーム「青山東京ボーイズ」(インスタグラムより) 今年初優勝を果たした「青山東京ボーイズ」(インスタグラムより) ――中学生を指導していて、どんなことを感じますか?  素直に取り組んでくれる子が多いですね。中1だとまだ小学生っぽい感じもありますけど、1年生から3年生で本当に成長の幅が大きいので。どんどん成長していく姿を見られるのは、すごく楽しいです。 ――子どもたちの野球離れの1つに、少年野球チームの勝利至上主義が指摘されることもあります。  打てたとき、ボールをキャッチしてアウトにできたときの喜びがあるからこそ、野球は続けていけるものだと思います。その経験をできるだけさせてあげたいですが、実際に試合に出られるスタメンは9人です。なるべく均等にと思ってはいますが、大会ではある程度レギュラーを固定しないといけない。  僕らは練習のときから各選手の打率などを必ず記録していて、なぜ試合に出られるのか、なぜ出られないのか、数字で示すようにしています。今は小・中学生もチームを選べる時代ですよね。強いチームだからではなく、純粋に野球が好きとか、楽しみたいという子と一緒にやっていきたいと思っています。 ――野球をやっている小学生やその保護者に伝えたいことはありますか?  野球に限らず楽しいと思うことはどんどんチャレンジして、自分がこれだと決めた好きなことは諦めずにがんばってほしいなと思います。親御さんは子どもに対して不安や心配もあると思いますが、口を出し過ぎず、見守ってあげてほしいです。 (構成/中寺暁子) ※前編<元大リーガー・岩隈久志が語る長女と“20歳差”第4子の子育て「うんちのオムツ交換、初めてやりました」>から続く 〇岩隈久志/1981年生まれ。東京都出身。1999年に堀越高校からドラフト5位で近鉄に入団。2004年に最多勝、最優秀投手に。05年に楽天に移籍、開幕投手を任され、球団初勝利投手となる。08年に21勝を挙げて最多勝と初の沢村賞を獲得。11年オフに海外FA権を行使し、シアトル・マリナーズと契約。メジャー2年目開幕から先発ローテーションの一角に定着、15年には日本人2人目となるノーヒットノーランを達成。16年には自己最多の16勝を挙げる活躍をみせた。18年にマリナーズを退団、同年12月に巨人に移籍。20年に現役引退を表明。21年からマリナーズの特任コーチに、22年からは中学硬式野球チーム「青山東京ボーイズ」の運営、指導に携わる。野球解説者としても活動。  
元大リーガー・岩隈久志が語る長女と“20歳差”第4子の子育て「うんちのオムツ交換、初めてやりました」
元大リーガー・岩隈久志が語る長女と“20歳差”第4子の子育て「うんちのオムツ交換、初めてやりました」 岩隈久志さん  プロ野球やメジャーリーグで活躍した岩隈久志さん。2023年7月にSNSで第4子となる3女の誕生を報告。「長女とは20歳差という漫画のような岩隈家」と綴り、話題になりました。3女が生まれてからのご家族の様子や、生まれてすぐに手術をしたという長女の闘病について聞きました。※後編<4人の子のパパ・岩隈久志が語る、野球を始めた息子への思い「気になることはたくさん。でも口は出さない」>へ続く うれしさと不安があった第4子の妊娠 ――昨年誕生した第4子となる娘さんは、もうすぐ1歳半ですね。最近はどんな様子ですか?  すごく楽しく子育てできています。赤ちゃんってかわいいですよね。歩き出したので目が離せないですけど、上の子たちも面倒を見てくれるので助かっています。 ――上の3人のお子さん(長女20歳、長男15歳、次女13歳)と4番目のお子さんでは、育児への関わり方は違いますか?  そうですね。上3人が小さかったときは現役だったので、シーズン中は遠征もあって、帰ると子どもたちは寝ていることが多くて。オフの期間もキャンプで2カ月間くらい家をあけますし。今は引退しているので、妻と3女と3人で1日過ごすこともあります。一緒にお昼寝したり、夜は寝かしつけたり、お風呂も入れています。うんちのオムツ交換は、3女ができて初めてやりました。 ――うまくできましたか?  これまでは子どもがうんちしたら妻を呼んでいたんですけど……(笑)。妻がやるのを見てはいたので、うまくできました。今のオムツは匂いがあんまりしないし、進化していますね。 ――4番目のお子さんができたとわかったときは、どんな心境でしたか?  びっくりしましたよ(笑)。もちろんうれしい気持ちもありましたけど、不安もありました。ずっと末っ子で育ってきた次女が甘えん坊で。何年も前に「もし赤ちゃんができたら」って話が出たら「絶対イヤだ」と言っていたので、どうなるかなと。 ――お子さんたちにはどのように発表されたのですか?  子どもたち全員に集まってもらって、妻から伝えました。聞いた瞬間は「えっ、本当?」と驚いていましたけど、受け入れるのは早かったですね。すぐにみんな喜んでくれました。次女も喜んでくれたので、安心しましたね。大人になっているんだなって実感しました。 第4子の誕生で6人家族となった岩隈家(提供) 産まれたばかりの第4子を抱っこする岩隈さん(インスタグラムより) ――出産は立ち会えましたか?  立ち会えなかったのですが、病院には付き添っていたので、生まれてすぐに抱っこできました。赤ちゃんの小ささにびっくりして、上の子たちが生まれたときのことを思い出しました。 ――お子さんたちの反応は? 「かわいい!」って、赤ちゃんを囲んでみんなすごくいい表情をしていました。次女は絶対嫉妬すると思っていたんですけど、実際はまったくなかったですね。今も本当にかわいがっていて、学校から帰るなり「起きてる?」って確認して、遊び相手になってくれたり、お手伝いをしてくれたり。家のことも前よりやるようになったかもしれないですね。家族みんなで3女をかわいがって育てているという感じです。 第4子をかわいがるきょうだいたち(提供) 長女は生後2カ月で手術 ――ご長女は国の指定難病にかかっていたことを公表されています。いつごろわかったのですか?  妻のお腹にいたときから、指摘されていました。生まれてきたことによって、娘に大変な思いをさせてしまうかもしれないと考えたこともありました。でも早く見つかったのが、結果的にはよかったんです。生後2カ月のときに手術を受けることができましたから。退院の日に医師から「この病気は15年間異常なしで初めて完治といえます」と告げられました。 ――その後の生活は病気による影響などはあったのでしょうか。  普通に生活はできました。疲れやすいところはあったので、無理をさせないようにというくらいで。定期検査が最初は月に1回、そこから3カ月に1回、半年に1回、1年に1回と間隔があいていきましたが、検査結果を聞くときは毎回ドキドキでしたね。とにかく1年1年、無事に育ってほしいという思いが強かったです。 ――岩隈さんはどのようにサポートされてきましたか?  初めての子だったこともあって、妻に「大丈夫だよ」と声をかけるくらいしかできなくて……。毎回の検査を泣かずに乗り越えた娘、それに付き添った妻が、本当にがんばってきたと思います。 ――無事に15歳を迎えたときは、どのような思いでしたか?  うれしかったですね。とにかく本人がよくがんばってくれたな、って思います。 昨年20歳を迎えた長女と岩隈さん(提供) 妻がいないと生きていけない ――病気の子どもとその家族が滞在できる施設であるドナルドマクドナルドハウス(寄付金によって運営)へのサポートなど、福祉活動もされていますね。  マクドナルドハウスは、仙台(東北楽天ゴールデンイーグルス)にいたときに娘が通院していた病院にあって。病院には娘がお世話になったので、少しでも力になれたらと思っています。病気と闘っている子の力になりたいという思いは、現役のときからずっとあって、それは引退した今も変わりません。 ――難病があるご長女、その下の3人のお子さんを育ててきた奥さまには、どのような思いがありますか?  感謝しかないです。家のこと、学校のこと、病院のこと、全部やってくれて、子どもたちには大事なことをしっかり伝えてくれて。僕は妻がいないと生きていけないくらいなので、一緒にいてくれてありがたいなと思います。 ――お子さんたちにはどんなことを伝えてきましたか?  周りの人たちに感謝の気持ちを忘れずに生活していくということです。勉強ができる、できないよりも感謝や思いやりの心が大事だということを妻とも話し合ってきましたし、子どもたちにも伝えてきました。 現役時代から岩隈さんと家族を支える奥様とのツーショット(提供) 子どもたちはみんなパパっ子 ――SNSでもご家族の仲のいい様子が伝わってきます。2番目の息子さんは高1、3番目の娘さんは中1で思春期ですが、パパをイヤがるようなことはないですか?  ないですね。次女からは「髪を乾かすから一緒について来て」とか「乾かして」とか言われます。息子は今は寮に入っているのですが、よく連絡をくれます。ありがたいことにみんなパパっ子ですね(笑)。 ――お子さんたちを叱ることはありますか?  しつけの部分は妻がしっかりしてくれていたので、僕はフォローにまわるという感じです。妻が叱ったあとは、ママが叱ったのはなぜか、理由をやさしくわかりやすく伝えるようにしています。 シアトル・マリナーズ時代、球場にて家族5人ショット(提供) ――厳しい勝負の世界にいた現役時代、ご家族はどのような存在でしたか?  結果がすべての世界ではありますが、勝ち負けに一喜一憂することなく、野球を楽しく続けられたのは、家族のおかげです。僕1人ががんばっていたわけではなく、家族みんなでがんばって、戦ってきたなという感覚がありますね。 ――試合が終わって帰宅したとき、お子さんたちはどんなふうに迎えるのですか?  勝ったときは「おめでとう!」、負けたときは「次、がんばってね」とか。遠征から帰ってくると、遅い時間でも起きて出迎えてくれることもありました。子どもたちの顔を見たくて僕のほうから起こしちゃうこともあるんですけど(笑)。本当に、家族一緒に戦ってきましたね。 (構成/中寺暁子) ※後編<4人の子のパパ・岩隈久志が語る、野球を始めた息子への思い「気になることはたくさん。でも口は出さない」>へ続く 〇岩隈久志/1981年生まれ。東京都出身。1999年に堀越高校からドラフト5位で近鉄に入団。2004年に最多勝、最優秀投手に。05年に楽天に移籍、開幕投手を任され、球団初勝利投手となる。08年に21勝を挙げて最多勝と初の沢村賞を獲得。11年オフに海外FA権を行使し、シアトル・マリナーズと契約。メジャー2年目開幕から先発ローテーションの一角に定着、15年には日本人2人目となるノーヒットノーランを達成。16年には自己最多の16勝を挙げる活躍をみせた。18年にマリナーズを退団、同年12月に巨人に移籍。20年に現役引退を表明。21年からマリナーズの特任コーチに、22年からは中学硬式野球チーム「青山東京ボーイズ」の運営、指導に携わる。野球解説者としても活動。  
国産米の高騰で「外国産米」の人気高まる 「もっと流通させろ」の声に輸入商社が口を閉ざすワケ
国産米の高騰で「外国産米」の人気高まる 「もっと流通させろ」の声に輸入商社が口を閉ざすワケ 米の価格高騰が続いている。外国産米が注目を集め始めているが…(写真はイメージ/gettyimages)    国産米の高騰を背景に、安価な外国産が注目されている。スーパーでも米国産米や台湾産米などを見かけるようになった。令和の輸入米はどんな味わいなのか。ズバリ、おいしいのか。3種類の外国産米を食べ比べてみた。 *   *   * 台湾産米の販売を始めた  米の価格高騰が続いている。農林水産省によると、10月末時点での新米の販売価格は、前年同時期と比べて約6割も上昇した。これまで安かった米ほど値上がり幅は大きく、約2倍になった米もある。  10月中旬、大手スーパー「西友」は台湾産米の販売を始めた。5キロ2797円。同社によると、発売直後から売れ行きは好調で、品薄になっている店舗が多いという。  台湾産米の販売はSNSでも話題になった。 「となりに置かれた『あきたこまち』(5キロ)より1000円も安くてビックリです」 「高値が解消されるまでこのお米で乗り切ろうと思います」 「さっそく、炊いて食べてみたら、若干甘味が少ない感じがしましたが、私はグルメでもお米マイスターでもないので、フツーにおいしくいただきました」 「台湾産米で十分だよ。もっと流通させろ!」 西友店頭に並んだ台湾産米「むすびの郷」=発売日の11月14日撮影、西友提供   決め手は「ジャポニカ米」であること  SNSのコメントは肯定的なものが多く、輸入米が敬遠された30年前の「平成の米騒動」と比べて隔世の感がある。1993年の記録的な冷夏、深刻な米不作から、政府はタイ米を緊急輸入した。タイ米は細長い形状の「インディカ米」で、炊きあがりに粘りがない。なじみの薄い米は敬遠され、在庫が倉庫に大量に積み上がった。  西友の担当者はこう話す。 「台湾産米を選んだ決め手は、国産米と同様『ジャポニカ米』であること。社内でさまざまな外国産米を食べ比べた結果、ふっくらした食感が国産米に非常に近いと判断しました」  ディスカウントストアやネット通販を中心に、米国産やベトナム産、豪州産などの米の販売も広まっている。 米国産「カルローズ」とは  会員制大型量販店「コストコ」は今夏、米国産のジャポニカ米「カルローズ」を販売した。5キロ1998円。円安にもかかわらず、台湾産米よりもさらに安い。  カルローズとは「カリフォルニアのバラ」に由来する愛称。かつて太平洋を渡った日系人が工夫を重ねて育ててきたブランドでもある。赤い花が描かれたパッケージは米国のスーパーではおなじみだ。昔、記者が米国に留学していたときも、毎日カルローズを食べていた。十分おいしく、不満を感じたことはなかった。   左からベトナム産、台湾産、米国産の米=米倉昭仁撮影  USAライス連合会によると、カルローズは「SUSHI RICE(スシライス)」として、海外では広くすし店で採用されている。中食・外食産業向けに米飯を提供する事業者の団体、日本炊飯協会の三橋昌幸事務局長も、「カルローズはすし用の酢飯として国産米とそん色ない」と評価する。  協会が行った食味検査では、高級すし店で使われる「ササニシキ」には及ばなかったが、回転ずし店で使われることの多い「はえぬき」との有意差はなかった。 おかずと一緒に食べ比べ  記者は3種類の外国産米(米国産「カルローズ」。台湾産とベトナム産は複数原料米)を購入し、「あきたこまち」と実際に食べ比べてみた。  まずは生米の見た目。台湾産米はやや白っぽい部分が目立ち、透明感は他の米に比べて少ない。米国産米は、やや粒が大きい以外はあきたこまちに一番近い。ベトナム産米にはオイルをまとったような光沢があり、触った感じも滑らかだ。  炊飯の水加減は米に対して、1割増し。1時間水に浸して炊いた。アツアツのご飯を家族にも協力してもらい、食べ比べた。  台湾産米の白飯はあきたこまちよりもやや硬く、しっかりした食感。「ほどよい甘みのある、素朴な味」(10代の息子)。  米国産米のご飯はあきたこまちと同様の粒立ちで、つやがある。台湾産米よりさらにしっかりした食感だった。  ベトナム産米のご飯の粒はやや崩れている。あきたこまちよりもやわらかく、あっさりした味わいだ。  おかず(アジの塩焼き、ホウレン草のおひたし、煮豆、豆腐の味噌汁)といっしょに食べると、「どのごはんもおいしい。特に優劣は感じない」(20代の娘) ご飯の比較。あきたこまちと比べて台湾産米と米国産米はやや硬く、ベトナム産米はやわらかい=米倉昭仁撮影   差が出たのは「塩むすび」  それぞれの米で塩むすびをつくり、炊きあがりから3時間後に食べ比べた。 「見た目からしておいしそう」と妻が言ったのは、あきたこまち。口にすると、もっちりしていて、粘りがある。台湾産米と米国産米は冷えるとさらに硬さが増し、少しボソボソしている。逆にベトナム産米はちょっとべとつく感じだ。  台湾産米と米国産米は「チャーハン向きかもね」と妻が言う。さっそく実行。刻んだ玉ネギを炒め、溶き卵を加え、半分ほど固まってきたところで冷えたご飯を加え、手早くかき混ぜて炒める。さて、味は? 「炒めたご飯がパラパラで、おいしい!」(家族) シンプルに塩むすびにしてみた。冷えた状態ではあきたこまちがもっちりしている=米倉昭仁撮影   外国産米は広がりゆくのか  つまり、それぞれに個性はあるが、主食として遜色ない。外国産米の人気は今後、さらに広まっていくのだろう。  ところが、関係者の口は意外に重く、複数の大手輸入商社から取材を断られた。ある商社の担当者は、こう打ち明ける。 米国産米のチャーハンは口の中でサラッとほぐれる=米倉昭仁撮影   輸入量の上限は10万トン 「今、輸入米の需要がハンパないんです。国産米の高騰に外国産米も引っ張られて、入札競争がヒートアップしている。弊社にも『安価な外国産米を入手したい』という問い合わせがたくさんきていますが、思うように買い付けられない。今後も一般消費者向けに流通を継続できるのか、微妙なところです」  根本的な理由は、輸入量が限られていることだ。政府は輸入できる主食用米の上限を10万トンに定めている。今年度の国内の主食用米の生産量は約670万トン。輸入米はその約1.5%にすぎない。  輸入米の入札は基本的に年4回行われる。先月行われた入札では2万5000トンの枠に対して、その3倍を超える7万7094トンの申し込みがあった。  国別でみると、落札数量の6割弱を米国産米(ほぼカルローズ)が占め、1万4462トン。次いで豪州産米の7996トン。ちなみに、台湾産米には2400トンの申し込みがあったが、落札できた数量はゼロだった。   「つゆだく牛丼」と好相性  外国産米の主な需要はレストランなどの外食産業で、「一番身近な例は牛丼店」(商社の担当者)だという。  価格維持のためかと思いきや、味へのこだわりという面も大きいようだ。  牛丼チェーン「吉野家」では、国産米を中心に米国産米をブレンドした米を使っているという(一部店舗では国産米のみ)。その理由を吉野家ホールディングスの担当者はこう話す。 「軟らかく粘りの強い米はごはんとしてはおいしいが、牛丼にすると、たれを吸ってべたついてしまい、いわゆる『たれ通り』が悪い。一方、米国産米は粒立ちがよく、程よい粘りと甘みを併せ持つ」  つまり、牛丼と相性がいいのだ。つゆだくならなおさらだ。  ラーメンチェーン「幸楽苑」は、国産米の白飯を提供しているが、チャーハンにはパラっとした食感に仕上がりやすい米国産米を使っているという。 国産米ではまかないきれない  日本炊飯協会の三橋さんによると、日本人好みの米として作られた米国米だけでなく、最近は他の外国産米も食味のレベルを上げてきているという。  先の商社担当者は言う。 「今後、外国産米の需要はますます高まるはずです。政府は10万トンの輸入枠をもっと広げてほしい」  今年6月、全国米穀販売事業共済協同組合が公開した「コメ流通2040年ビジョン」によると、2040年における米生産者は約30万人で、20年比で65%減。30年代には需要を国産米だけでは賄いきれなくなる可能性があると指摘する。  日本の主食、「米」をどう確保するのか。対策は待ったなしだ。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)

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