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優秀だけど何かヘン? 東大卒の“困ったさん”たち
優秀だけど何かヘン? 東大卒の“困ったさん”たち
「頭がいい=仕事ができる」とは限らない? (※写真はイメージ)  日本の学歴社会の頂点に君臨してきた「東大法学部」。政財官に人脈を伸ばし、国を支えてきたえたエリートたちの母体だ。良くも悪くもスタイルを変えてこなかった「象牙の塔」にも、時代の激変の波は押し寄せる。偏差値序列社会は終わるのか。かつて「砂漠」と称された東大法学部はいま、脱皮の時を迎えている。AERA 2017年3月27日号では、東大法学部を大特集。  基本スペックは「ずば抜けた頭脳」。それだけに、いろんな意味で周囲とは違う人。それがトーダイさん。あなたのそばにも、いるかも。 *  *  * 「あなたのまわりの東大法学部卒について聞かせてください」。アエラネットでの呼びかけに答えてくれたのは45人。20代から60代までと幅広かったが、全体を通して多かったのが「とにかく頭がいい」「記憶力が抜群」。そして「どこかズレている」「プライドが高い」という声。 「すごくできる人とまったく使いものにならない人の両極端」(56歳・女性) 「立派な人も多いが、対人スキルが著しく不足している人も」(49歳・女性)  という言葉からも分かるようにちょっと変な人が多い。  とはいえそんな中でも、頭脳も人柄も「超人的」というトーダイさんもいるらしい。なんとも羨ましい限りじゃないか。さっそく編集部に寄せられた「目撃情報」を紹介したい。 「中学・高校の後輩。毎年クラス委員に選ばれるほど優等生で友人も多い。何にでも積極的で前向き」(39歳・女性) 「事務処理能力は高く、つまらない仕事も淡々とこなす」(47歳・男性) ●有能・無能も規格外  頭脳も性格もピッカピカ。こ、これでイケメン、イケ女なら……。恋に落ちちゃう。  友人の夫が東大法学部卒だという55歳の女性もベタ褒めだ。 「とにかくポジティブ。仕事以外のネットワークもすごくて、健康な体づくり、オペラ鑑賞、神社巡り……いくつものコミュニティーに参加。SNSでつながる友人は約3千人。相談事にも嫌な顔ひとつせず、知識や情報は惜しみなく与える。何かを『引き寄せる人』ですね」  こんな神様みたいな人いるんですねえ。奥様が羨ましい。そして昼夜を問わずによく働く。 「すごいキャパを持った官僚の友人が何人かいる。月150時間を超える残業もザラ。日曜夜の飲み会の後、日付が変わる前に、そのまま霞が関へ出勤していった」(25歳・男性)  もちろん、「頭がいい=仕事ができる」とは限らない。  旧財閥系企業の秘書室に勤務していたという67歳の女性の話。 「役員は東大の法・経済学部卒で占められていたが、それで経営が順風満帆だったかといえば、さにあらず。日本有数の技術を持ちながら解散に追い込まれ、不採算部門を整理するにも決断ができず。連日会議で『何とかしろ』と叱責するばかり」  欠点を自覚しながら、開き直る暴れん坊もいる。 「私の上司ですよ。『東大法学部は勉強は好きだがコミュ障が多い。ワタシもコミュ障だ! 判断力にもコミュニケーションにも全く自信がないから、よろしく!』って。どうしたらいいんですかね……」(37歳・男性)  ……。ここまでくると、もはや言葉が出ない。「使えない」のも困る。 「一度にたくさん処理できない。一つのことにかかわっていると、目の前で電話が鳴っても気づかないほどで、使いものにならなかった」(66歳・女性) 「アメリカに赴任しても、英語もろくに話せない東大法学部卒がいました。アメリカ人からは相手にされず、現地のエリート大卒には及びもつかない。結局、日本人同士集まって受験の思い出話ばかりしていた」(年齢不明・女性) ●愛すべき変人さんも  海外まで行って受験の思い出話って……。もちろん、困った人ばかりではない。浮世離れした言動で周囲を困惑させつつも頼りになる、愛すべきトーダイさんもいる。 「娘の塾の担任。あらゆる教科を教え、志望書作成・面接練習など全てをやりこなす頼れる存在。ただ、かなり偏ったご趣味のゲームオタク。遊んでいないせいか、高校生の好きなスポーツや芸能情報は全く知らない」(54歳・女性) 「さる弁護士。本を読めば一発で全て頭に入り、司法試験も学生時代に合格。しかし、この人のいる打ち合わせに『大桶』で寿司を出すと、他人の遠慮もお構いなしに、ウニとイクラを全部食べちゃう」(67歳・女性) 「身近にいます! 父です。頭が良すぎて変人。だけど、56歳になっても努力を惜しまず、いつも勉強してます。ゴルフしない。お酒飲まない。よく、ピーポーピーポーって言いながら廊下を小走りしてる」(25歳・女性)  ピーポー父さん。腹巻きしてそう(イメージ)。 「いつも夕食は自宅近くの老人福祉施設併設の食堂でとるという知人。高齢者に親近感があったりするのかなあと思ったら 『あそこで食べるのが一番、栄養バランスがとれていて、安いから』。そして銭湯が安らぎ。『節約してないのになぜかお金が貯まる』そうです……」(46歳・女性)  そ、そりゃあよかった……。 ●転身するときも大胆  変人ならではの発想が、キャリアを広げるケースもある。59歳の男性の知人は、 「東大卒業後、アメリカの大学で医学博士号・心理学博士号を取得。経営コンサルとして名だたる大企業の指導にあたり、多くのビジネス書を上梓」  そんなスーパーエリートが、ある時突然仏門に入り、東京・八王子のマンションに寺を開山したのだとか。 「奥様が難病にかかったのがきっかけだったようです。治療法が確立されておらず『人智が及ばない領域かもしれない』『どんな奇跡にもかならず因果はあるが、因がわからなくても果が出ればそれでよし!』と思って帰依したとか」  今は大学で学んだ心理学と仏教のいいとこ取りをしてコンサルにあたっているという。  言いたい放題というのも何なので、最後に当事者の声も。 「何かにつけて東大東大って、もうウンザリです。東大なんて勉強すれば誰でも入れるのに」(42歳・男性)  ……。やっぱり「トーダイ税」と思って言われといてください。(ライター・浅野裕見子) 【トーダイさんの4分類】 <学歴武装系> 学歴が最大の武器かつアイデンティティー。常に「大学どこですか?」の質問に臨戦態勢。必殺技は受験時の苦労話。辟易させるものの、攻撃力は弱い <イラっとくる系> マルチタスクが苦手。うまくいかないと「発注の仕方が悪い」と、なぜか周囲サゲ。「使えない」などと思われていようとは夢にも思わない。酒乱傾向強し <ハイパーオタク系> 趣味は多彩。行動原理の自分基準感はハンパない。理解不能な言動も少なくないが、基本的に愛されキャラ。タモリ倶楽部に呼ばれるのが夢。平地でも転ぶ <神ってる系> 知識量はスパコン並み。判断・洞察・行動力あり。人に優しく、謙虚。嫉妬心さえ引き寄せない。高いIT親和性。もはや、神。もしや、ヘンタ……(以下略) ※AERA 2017年3月27日号
東大
AERA 2017/03/22 11:30
【ドラマのミカタ】無茶振りを求める6人の脇役
【ドラマのミカタ】無茶振りを求める6人の脇役
●『GALAC(ぎゃらく)』最新号のご案内 AmazonでGALAC4月号を買う  このところ堤真一、唐沢寿明、阿部寛ら50代主演俳優に対する無茶振りのような連ドラ企画が続いている。さすがに苦労するだろうと思いきや、さもありなんと思わせるその技量には、ただ魅了されるばかり。本人たちからすれば「この程度は無茶振りではない」のだろう。  一方、当作は正真正銘の無茶振り。日ごろ主演を引き立て、作品に安定感を添えている6人のバイプレーヤーに難題が投げかけられた。  ベースは、主演、本人役、シェアハウスでの共同生活という無茶振り3点セット。慣れないポジションで、世間が抱く自分のイメージを、似たキャリアの俳優と、演じ合わなければいけないのだ。実際、彼らほどの手練でも塩梅とさじ加減に試行錯誤している姿が垣間見える。  さらに彼らの頭を悩ませているのが、各話のテーマ。共演NG、キャラかぶり、文春砲、名作パロディー、アクション中のケガ、勘違い監督、撮影中止などの“俳優あるある”をどう演じるのか。いずれも視聴者が「一度は噂を聞いたことがある」ものだけに、どんな着地点を見せるのか、俳優としてのセンスが問われる。  そして、彼らの演技をより難解にしているのは、31歳の松居大悟による脚本・演出。バイプレーヤーたちは、ふたまわりも年下の手のひらで、転がされているのか。それとも転がしているのか。虚実の間をゆく彼らの演技を見れば見るほどわからなくなっていく……。そんな曖昧さが、当作の魅力なのかもしれない。  とはいえ、女子会ならぬ“おっさん会”で少年のようにじゃれ合う姿を見るだけでも十分面白い。演技と素の割合はさておき、それらはふだん彼らが見せない脱力した姿であり、仕事疲れのたまる金曜深夜にしっくりくる。  ここまで彼らは誰一人として前に出たがらず、他のメンバーを押し出すような自然体の演技を見せてきた。その姿は「さすが歴戦の兵」であると同時に、「戦友6人の間にライバル心はない」のだろう。その意味で当作は「彼らにとって無茶振りではない」のかもしれない。いや、むしろバイプレーヤーたちは無茶振りに慣れていて、「もっとやってくれよ」と求めている気さえしてくる。彼らの存在は単なる品質保証ではなく、攻めの一手になりうることを再確認したテレビマンは多いのではないか。  よく「テレビ東京だから実現できた企画」という声を聞くが、本当にそうとは思えない。「おっさん6人じゃ駄目」「実現できないでしょ」なんて反対されるんだろうな。そんな各局プロデューサーのあきらめ顔が浮かんでしまう。 ※『GALAC(ぎゃらく) 4月号』より 木村隆志(きむら・たかし)/エンディングの「バイプレトーク」は文句なしの素。裏話や無駄話も楽しいが、「鶴瓶のスジナシ」のように、映像を振り返りながらのフリートークも見たい。
dot. 2017/03/21 16:00
しりあがり寿「これ以上不安を描く必要がない」3.11後の変化とは?
しりあがり寿「これ以上不安を描く必要がない」3.11後の変化とは?
しりあがり寿(しりあがり・ことぶき)/1958年、静岡県生まれ。81年に多摩美術大学グラフィックデザイン専攻を卒業後、キリンビールに入社し、パッケージデザインや広告宣伝等を担当。85年に単行本『エレキな春』で漫画家としてデビュー。パロディーを中心にした新しいタイプのギャグ漫画家として注目を浴びる。94年に退社し、独立。2002年から朝日新聞夕刊で4コマ漫画「地球防衛家のヒトビト」を連載。06年から神戸芸術工科大学芸術工学部教授。近年では映像、アートなど多方面に創作の幅を広げている。西家ヒバリ(さいけ・ひばり)/1959年、神奈川県生まれ。多摩美術大学油画専攻卒業後、デザイン事務所、ブティック勤務を経て85年に結婚。91年に単行本『底抜けカフェテラス』でデビュー。幼少期の憧れだった少女漫画家とは百八十度違うギャグ漫画家になる。98年に長女を、2002年に長男を出産。代表作に『韓流時代劇にハマりまして』(小学館)など。(撮影/岡田晃奈)  パロディーを中心にした新しいタイプのギャグを世に送り出した漫画家のしりあがり寿。そして、妻は多摩美術大学時代に出会った漫画家の西家ヒバリ。2人ともギャグ漫画家という異色な夫婦に起きた3.11以後の変化とは? ※「しりあがり寿は日常もギャグ漫画? 『背もたれバターン』『雪駄→藁』…」よりつづく *  *  * ――夫は94年、36歳のときに会社(キリンビール)を辞め、漫画家一本でやっていく決意をする。 夫:管理職になる年代になってきていたし、サラリーマンとして出世する気はなかった。上に立って人を叱ることもできないし。あのとき西家さん、まったく反対しなかったよね? 妻:うん。人生一度っきりだし。好きなことやっていいんじゃない?って。 夫:吉田戦車さんとか次の世代が出てきたころで、このままだと漫画の仕事がなくなっちゃう気もしたし。 妻:私は会社を辞めたときよりも、家を買ったときが冒険だったと思う。しりさんはゲームの三国志にハマってて領土をふやす感覚で、「よし! 買っちゃおうぜ!」って。さすがに「大丈夫かな」と。 夫:でも、建築士さんに「将来仕事がなくなって、家を人に売らなきゃならなくなったときのために、半分で切って売りやすいように造ってください」って頼んだ(笑)。 妻:そこは気弱なんだよね。 ――幸い、夫の仕事は順調だった。東海道中膝栗毛を大胆にアレンジした『真夜中の弥次さん喜多さん』、OLの仕事ぶりを愉快に描いた『O.SHI.GO.TO.』、シュールな『ヒゲのOL藪内笹子』『流星課長』などで人気漫画家となる。 妻:サラリーマン経験があってこその漫画も多いよね。 夫:当時のサラリーマン漫画ってパターンが決まってたんです。嫌みな上司とダメな平社員。スポ根ものを営業に置き換えたり。でもサラリーマンの世界って、もっと多様でおもしろい。実際にその中にいて、学校の延長みたいな気がしていたので、見たままを描いただけなんですけどね。 妻:どんな漫画を描いていても、基本淡々と変わらない。すごいマジメな顔してギャグ考えてるよね。 夫:そりゃあねえ(笑)。 ――91年、妻は夫のアドバイスを受けてギャグ漫画家としてデビュー。連載を持ち、忙しい日々を送るが、7年後に状況は一変する。 妻:しりさんが急に「子どもがほしい」と言いだした。 夫:いたほうがいいんじゃないかな、って。 妻:それまでは自然にできなかったらそれでもいいかと思っていたんですけどね。子どもを持つとなったら責任も大きい。「覚悟決めなきゃ!」と思いました。 ――妻は98年に長女を、2002年に長男を出産。以後は仕事よりも子育てが優先になっていく。 妻:私、二つのことを一緒にできないんです。ひとつに没入しちゃうので。 夫:PTAも任せっぱなしで、すみません。 妻:昔は「もっと仕事に専念したい……」とキリキリしたこともありました。でもだんだんスキルアップしてくるものなんですね。育児をしながら描いたり。 夫:俺が家にいても散らかすだけだし。 妻:でも私が単行本の仕事をしてるとき、子どもを連れてスペインに行っちゃったことがあったよね。 夫:あれはせめて協力しようと。一人で漫画を描かせてあげようと……。 妻:家で仕事しながら「悲し~!」って(笑)。まあ、ご飯作らなくてよかったから、いいのかなあ? 夫:そうそう。 妻:なんか騙されてる気がする(笑)。 ――夫は02年から朝日新聞夕刊で4コマ漫画の連載をスタート。3.11以降は原発など社会問題について、より積極的に発信しているように感じるが──。 夫:いや、昔から時事的な感じは意識していたんです。「作品に時代を映したい」というイメージはずっとあって。一本の巨樹によって東京が崩壊する『ジャカランダ』でも「このままじゃダメじゃないか」ということを描いてきたし、『ゲロゲロブースカ』は「これからの世界に子どもを残したい」という思いで描いた。 妻:少子化対策漫画、と銘打って。 夫:でも「このままじゃダメだ!」みたいなことばかり描いていると、読者にいやがられちゃうんですよ。さあ、どうしようかなと思っていたら……。 妻:3.11があって。 夫:逆に「希望を描こう」と思いましたね。それまでは不安ばっかり描いてくさしてたけど、あんなことが起こったら、これ以上不安を描く必要がない、と思った。でもいまだになかなか希望が見つからない。そこからちょっとモヤモヤっとしちゃってはいるんです。 妻:最近は作品について話し合ったりしないね。「なんか4コマ漫画のネタない?」って聞かれるくらい。 夫:「最近、お母さん仲間で話題になってることない?」って。 妻:「野菜高い!」とか。 夫:参考になります。 ――出会いから40年。これからも二人の漫画家人生は続く。 妻:漫画家って定年がないのはラッキーかも。 夫:まあ、うちは子どもが遅かったからね。もうちょっとがんばらないと。 妻:もうちょっとだよね。いま上の子が美術大学を受験中で、下の子は高校2年。 夫:「そのうち家族史漫画出そう」って言ってるんだよね。子どもが絵を描いてくれるようになったらやりたいよね。 妻:楽しみ~。 ※週刊朝日  2017年3月24日号より抜粋
夫婦善哉
週刊朝日 2017/03/18 11:30
特集|【東京の桜の名所】お仕事帰りにも!夜桜のライトアップを楽しもう
特集|【東京の桜の名所】お仕事帰りにも!夜桜のライトアップを楽しもう
咲いたと思ったら、あっという間に一斉に散り落ちてしまう桜。何かと忙しい時期ではありますが、今年の桜は一度だけ! しっかり楽しんでおきたいですね。そこで今回は、お仕事帰りにもおすすめの「東京の夜桜」をご紹介します。高層ビルやスカイツリー、川や遊園地等々、美しくライトアップされた幻想的な桜とともに、東京の春を堪能しませんか?日本一人気のお花見スポット・目黒川 都心の桜並木!六本木をお散歩 東京ミッドタウン・ガーデンの桜 東京ミッドタウン及び隣接する港区立檜町公園には、ソメイヨシノを中心に、旧防衛庁時代から受け継いだ約45本のサクラを含む約150本のサクラがあり、開花に合わせたイベント期間中は桜のライトアップが行われます。開花前はピンク色、開花後は白色のライトで照らされた桜の木は、館内の一部のレストランからも見ることが可能! 旬の料理を味わいながら夜桜を堪能するなんて、スペシャルな夜が過ごせそうですね。 公式サイト 六本木ヒルズ毛利庭園・六本木さくら坂の桜 回遊式の日本庭園である毛利庭園は、都会にいながら四季おりおりの自然を楽しめる場所です。開発前からこの地に根を張るサクラの木を見上げながら、のんびり散策。また、六本木さくら坂では開発と共に育ってきた桜並木が楽しめます。開花時期にはライトアップ(六本木さくら坂は17:30〜22:30、毛利庭園は17:30〜23:00)も行なわれ、夢見心地でお散歩できますよ。 公式サイト アークヒルズさくらまつり2017 アークヒルズ外周通りの桜坂からスペイン坂へ続く並木道には、150本のソメイヨシノが並んでいます。開花期間中のライトアップでは、通りを挟んで空を覆うように広がる「サクラのトンネル」が! 全長700mにも及ぶ眺めは圧巻です! 公式サイトサクラのトンネルロード☆ 川沿いの大人気夜桜に酔いしれる 隅田公園桜まつり 東京スカイツリーのビュースポットとして、デートや観光に人気の公園。隅田川花火大会や流鏑馬(やぶさめ)等の行事でも有名です。公園内には約600本のサクラが咲き誇り、隅田川の両岸を約1kmにわたって桜並木が続きます。川と夜桜、桜色に光るスカイツリーとおぼろ月! 春の夜ならではのコラボですね。水上バスや屋形船に乗って川からのんびり夜桜を楽しむ、お花見クルーズもおすすめです。 公式サイト 中目黒桜まつり 全国1位の人気お花見スポットとされる目黒川。約4kmにわたり、川沿いを桜並木が続きます。ライトアップされて水に映る花のシルエットや散り落ちた花びらが浮かぶさまは、日本の美そのもの。昼とは違う妖艶な姿は記憶に深く残る美しさです。大きな公園などはありませんが、周辺にはお洒落で個性的なお店がいっぱい! お花見の途中でグルメやショッピングを楽しんでみては。 公式サイト(めぐろ観光まちづくり協会)東京ならではの春の風流があつまる景色 ジェットコースターで絶叫お花見はいかが!? としまえん サクラナイト 急上昇・急降下する絶叫マシンから、「機械遺産」に認定された回転木馬まで、家族みんなで楽しめるアトラクションが充実した遊園地です。春には約500本のソメイヨシノが咲き誇り、ライトアップされた「桜」 大小さまざまなランタンによる「イルミネーション」そして「乗り物」と、遊園地ならではのお花見を満喫できます。 公式サイト よみうりランドの桜 全長180mの桜並木をはじめ約1000本のサクラが咲き乱れ、ジェットコースターや観覧車、ゴンドラからのお花見が楽しめます。なかでも人気N0.1コースター「バンデット」は、この時期だけお花見コースターに大変身!? 最高時速110kmの猛スピードでサクラの中を疾走します! 「史上最速のお花見」を体験してみては。 公式サイト夜の遊園地は大人の時間です♪ 人気の「しだれ桜」もライトアップします! 六義園「しだれ桜と大名庭園のライトアップ」 和歌の浦の景勝や古今和歌集に詠まれた日本の名勝を八十八境として取り入れた庭園で、国の特別名勝に指定されています。六義園のシンボル的存在のシダレザクラは、なんと高さ約15m、幅約20m。薄紅色の花が流れ落ちる滝のように咲き誇ります。ライトアップは期間限定。夜空に浮かび上がる迫力満点の姿をお見逃しなく! 公式サイト特別名勝・六義園のしだれ桜
tenki.jp 2017/03/16 00:00
ディズニー・チャンネル『マル★カツ定食』が4/1リニューアル! 新MCの“M!LK”にインタビュー
ディズニー・チャンネル『マル★カツ定食』が4/1リニューアル! 新MCの“M!LK”にインタビュー
ディズニー・チャンネル『マル★カツ定食』が4/1リニューアル! 新MCの“M!LK”にインタビュー  全国のケーブルテレビ、およびBS・CS放送などで放送中のディズニー・チャンネル オリジナル・バラエティ番組『マル★カツ定食』。“ティーンの○○(マルマル)活動を応援する”ことを掲げる同番組が、5人組ボーカル・ダンス・ユニット、M!LKを新MCに迎え、4月1日よりリニューアルする。 M!LKメンバーも、MCのほか様々なコーナーを通してティーンを応援。初回放送から、メンバーの個性に合わせた様々なトライアルに挑戦する。また、今後は、「サポ★カツ」(サポート・カツドウ)で、学校や街に出かけ、様々な活動をサポートする予定。今回は初回の収録を終えたばかりのM!LKの5人にインタビュー形式で話を聞いた。 <M!LKインタビュー>--今回、お仕事の話があった時、どう感じましたか? 塩?太智:僕はディズニーが本当に好きなので、すごく嬉しかったです。まさに昨日も、東京ディズニーシーの「ビッグバンドビート」が当たって、遊びに行ったくらいなんです! 佐野勇斗:太智くんには負けるんですが、僕もディズニーが大好きなので、一緒にお仕事をさせて貰うことで、もっとたくさんディズニーについて知りたいですね。 板垣瑞生:ディズニー・チャンネルとご一緒することで、どんなことが出来るのか、僕ら自身も楽しんで番組を作っていきたいです。 山?悠稀:おうちでディズニー・チャンネルを見ることもあったので、それに自分が出ると思うと少し緊張もあったんですけど、でも嬉しかったです。 吉田仁人:やっぱりディズニーって夢を与えてくれる場所なので、その中にM!LKも入って、いつかM!LK自身も夢を与えられる存在になれたらと思います。 --皆さん、ディズニーが大好きなんですね。今まさに最初の番組収録を終えられたところですが、実際の現場はいかがでしたか? 板垣:スタッフの皆さんが明るくて、すごく楽しい現場でした。新しいディズニーの情報を、少しだけ早く教えて貰えるのも楽しいですし、それを皆さんに伝えることが出来るのも良い経験だなと思います。 塩?:今回、僕は(メインの)MCをやらせて貰って、今までもM!LKのみんなでMCをすることはあったけど、自分一人でやるとなると、不安なところもあって…でも、『ディズニー365』の収録現場でアドバイスを貰ったよね? 佐野:(MCの)COWCOWの多田さんに「しっかりとアシストしてくれる人がいれば、MCがどれだけグチャグチャなことをやっても大丈夫」って、アドバイスを貰ったんです。 塩?:だから今日は飛ばしまくりました!これからも、もっともっと飛ばしていきます。 --確かに初回から飛ばしてましたね。吉田さん、山崎さんは今日の収録はいかがでしたか? 吉田:メンバーの知らない一面も知ることが出来て、すごく楽しかったです。今まで色んなバラエティ番組を観ていて「楽しそうだけど、難しいんだろうな…自分たちに出来ることじゃないかもしれないな」って思ってたんですけど、実際にこういう機会を頂いて、何より楽しいんだなと思いました。その場にいる自分自身が楽しいので、その楽しさを画面を通して伝えられるように表現できたら良いな、と今日の収録でも意識していました。 山?:普段なかなか経験できないようなことが出来たのが、すごく楽しかったですね(笑)自分は話すのがそんなに得意ではないので、他の4人が頑張っているのを観て、一緒に楽しんでました。 --M!LKの皆さんは、これまでバラエティ番組には? 佐野:レギュラーで出させて貰うのは初めてですね。 塩?:そうですね。今回の『マル★カツ定食』では僕達が“応援する”っていう形ですけど、これまでに関わってきた番組はどちらかと言うと、歌やパフォーマンス力を上げるために、僕達が“応援される”形が多かったので、本当に対照的な感じですね。 --グループとして、今後やっていきたいことの中に、バラエティ番組はありましたか? 佐野:すごくありました。色々やってみたいことがある中でも、こういう番組はすごくやりたかったので、本当に夢が叶った感じですね。 塩?:しかも、大好きなディズニー・チャンネルっていうね。 佐野:そうだね。夢と夢の融合ですよ、本当に。 --今後、番組を通して、さらに色々な経験が出来ると思います。『マル★カツ定食』は「ティーンの○○活動を応援する番組」ということですが、皆さんのいまハマっている○○活動があったら教えて下さい。 塩?:最近テスト期間が終わって、ルービック・キューブにハマってます。電車の中でも、寝る前も、一人で「カラカラカラッ!」って。 板垣:6面全部揃えられるの? 塩?:それが出来るんですよ! 一同:おぉ~! 塩?:いつか『マル★カツ定食』で披露したいですね! 板垣:僕は高校生になって、本と漫画をすごく読むようになりました。漫画は一日50冊ちかく読めるくらい好きですね。前に、お芝居の現場で、明るいことをやらなきゃいけない時に、明るい漫画を読んで助けられたので、それ以来たくさん読んでます。 佐野:僕は英語の発音の勉強です。英語の発音って二十歳までに鍛えたほうが良いらしくて、少しでも時間があったら練習してます。昔から英語を喋れるのがカッコいいなと思っていて、高校時代にはニュージーランドにホームステイしました。 山?:僕は服を買うことにハマってます。好きな古着屋さんがいっぱいあるんです。自分でめっちゃ調べて、お店に行って在庫があるかを確認する時が一番幸せですね(笑) 吉田:僕は古着…はなかなかハードルが高いんですけど(笑)、夜、走ることにハマってます。走ってると、イヤなこととか全部忘れて無心になれるんです。そうやって何も考えなくて良い時間を今、一番大切にしてますね。テスト期間も毎日20分くらいは走って、気分転換してましたね。 -- 最後に、番組を楽しみにしている方へのメッセージをお願いします。 塩?:僕達自身も楽しんで撮影しているので、観ている方も本当に自然と笑みが溢れるような面白い番組になってるんじゃないかなと思います。同世代の出演者の方々も本当に共感できることを仰っていて、たくさんの方に観て頂きたいなと思います。 板垣:番組を通して、色々な人に「いまディズニー・チャンネルって、こんな楽しいことをやってるんだ!」って情報を伝えていきたいです。僕自身もこの番組をきっかけに、ディズニーのことをもっと勉強したいです。 佐野:僕も、大好きな『トイ・ストーリー』だけでなく、他のディズニーのキャラクターも好きになって、ディズニーの魅力を伝えつつ、僕らの魅力も皆さんにお伝え出来たらなと思います。 山?:今回からM!LKが参加させてもらえることになって、たくさんの方に色々な情報を伝えられたら良いなって思いますし、観ていて楽しい番組にしたいなと思います。 吉田:僕達のことを知ってる人も、知らない人も楽しめる番組になるんじゃないかなと思います。僕達M!LKも、すごく魅力的な5人だと僕の中では思っているので(笑)、僕達の良さも知ってもらって、ディズニー・チャンネルの良さももっと深く知ってもらえる楽しい番組になったらなと思います。 2017.3.4 ディズニー飯倉スタジオにて取材・文:佐藤優太(Billboard JAPAN) ◎番組情報ディズニー・チャンネル『マル★カツ定食』4月1日(土)リニューアル・スタート 毎週土曜18:00~18:30URL:http://www.disney.co.jp/tv/dc.html
billboardnews 2017/03/15 00:00
マイケル・ファスベンダー「ダークで複雑」なイケメンの素顔
マイケル・ファスベンダー「ダークで複雑」なイケメンの素顔
1977年生まれ。これまでで一番の難役はと聞くと、「スティーブ・ジョブズ」と即答。「187ページの脚本にすさまじいテンポ。あれはきつかった」(撮影/山本倫子)  アクション大作とヒューマンドラマ。タイプの異なる2本の映画とともに、来日した。複雑でダークな役そのままの人かと思いきや──。  スクリーンではいつも眉根をよせて苦悩している。「それでも夜は明ける」の残忍な奴隷農園主や「シェイム」でのセックス中毒のビジネス・エグゼクティブ、悲劇の王マクベスに異能の人スティーブ・ジョブズ。ダークで極端な役柄が多いのだ。  ところが、現れたのはジャンパー姿のナイスガイ。朴訥(ぼくとつ)なアイルランド訛(なま)りの英語でよくしゃべり、神経質さのかけらもない。公開中の「アサシン クリード」はゲームが原作のアクション映画。しかも主役のみならず、プロデュースも担った。シリアスな演技派から「売れ線」に振り切りました? 「いやいや、ゲーム原作だからってバカにしちゃダメだよ。この物語は、自分たちは優れた人種だから劣った人間を支配してもいいと考えるエリート集団のテンプル騎士団と、それに抵抗する者たちの対立を描いている。現代にも通じるだろう?だから興味を持ったんだ。いまのキッズはゲームを通じて歴史にハマったりするんだって。ゲームは動体視力や反射神経の訓練にもなる。何ごとも程度問題だよ。僕だってテレビを見てるとバカになると言われて育ったけど、テレビから学んだことは多いしね」  にこやかに、しかし大マジメに返されてしまった。 ●備えておけば楽しめる  ドイツ人の父と北アイルランド出身の母との間に生まれ、アイルランドの田舎町に育った。レストランを営む両親は、俳優という道に猛反対した。 「父は大学にさえ行けばいい仕事に就けると信じてる世代だから、進学しろとうるさかった。僕たちの世代は大学出たっていい仕事なんてないのにさ」  自力でイギリスの演劇学校に通うも鳴かず飛ばず。20代はドラマの端役やCM、バーのアルバイトで食いつなぎ、30歳になってようやく、映画「ハンガー」のハンストで獄死したIRA闘士役でブレークした。このときは5週間で20キロ減量した。 「下積みが長くてやっとつかんだチャンスだったからね。絶対に失敗したくなかった」  演技の「完璧さ」には定評がある。役柄に応じた肉体改造や外国語の訛りの習得は当たり前。マクベスを演じたときはシェークスピアの英語のせりふが一言一句、頭に入っていて、撮影中、台本に手を伸ばすことはなかったと言われる。もちろん完璧なスコットランド訛りだった。 「映画は撮り終わったらやり直しがきかない。だから事前にやるべきことは怠りなくやるんだ。準備不足のせいでうまくいかなかったら、自分が許せない。準備が足りなくて予想外の展開に対応できないのもいやだ。完璧に備えておけば、現場で楽しめるしね。もちろん、準備している間は恐怖と不安と緊張で大変なんだけど」 ●半端ない色気の源は  演技をするのは物語を伝えたいから。「それでも夜は明ける」のときは台本を読んで泣いた。 「数千万人ものアフリカ人が奴隷にされた歴史を伝える物語。僕が演じた奴隷支配人は大事な役で、演じるからにはきちんと形にしたかった。映画館を出たお客さんが人間とは何だろう?って考えてくれるといい。映画のそういう力が好きなんだよ」  5月末に公開される「光をくれた人」も同じだ。 「感動作と言われるけど、善人たちの行き違いで生まれる人間ドラマ。その古風な作風が、むしろ新鮮だと思ったんだ」  超イケメンなのに写真撮影も有名人扱いも苦手。フツーの人だけど「役者バカ」。そんなギャップの数々が半端ない色気を放っていた。(ライター・鈴木あかね) ※AERA 2017年3月13日号
AERA 2017/03/11 16:00
5分で逃げれば助かる 津波避難のための教訓
5分で逃げれば助かる 津波避難のための教訓
東日本大震災後、東北沿岸部で進む防潮堤建設工事(気仙沼市朝日町)。用地が限られる市街地では、直立の形になる。「まるで刑務所のようだ」と批判の声もある(画像は一部加工)(撮影/編集部・澤田晃宏) 津波からこう逃げた(AERA 2017年3月13日号より)  東日本大震災、そして福島第一原発の事故から6年。熊本地震からも、まもなく1年がたとうとしている。いずれの地でも復興は道半ばで、いまも多くの人々が不自由な暮らしを強いられている。しかしその現実の一方で、「風化」は確実に進んでいる。4大都市圏のハザードマップと不動産の値動きを重ねあわせると、「人気の街」の災害危険度がはっきりとあぶり出された。帰宅困難者対策には「東高西低」の傾向が見て取れた。AERA3月13日号は、6年後のいまだからわかったことも含め、「震災時代」を生きるために知っておくべきことを特集。  国の有識者会議が最悪32万人死亡と想定する南海トラフ巨大地震。とりわけ津波による死者は23万人と見積もられている。東北で生死を分けた津波からの避難に、教訓を学んだ。 *  *  *  あの日のサイレン、人生2度目の大津波警報だった。宮城県気仙沼市でアミューズメント施設などを運営する丸和専務の尾形長治さん(34)は、海岸近くの自宅兼事務所で仕事をしていた。大きな揺れに緊張したが、初めて大津波警報を聞いた2010年のチリ地震を思い出した。そのときは気象庁は最大3メートルの津波を予想したが、魚市場などが冠水した程度だった。  運営するボウリング場に行き、従業員に帰るように伝え、自宅に戻った。大事な書類などを2階に運ぶ途中で、1階から轟音とともに波が入ってきた。  2階の屋根に上った。翌日夕方に、自衛隊に救助されるまで流される家や車を見ながら、そこにいた。第1波が2階まで達したときは、死を覚悟した。  尾形さんはこう振り返る。 「早く逃げても渋滞にはまり、波にのまれた人もいる。逃げ遅れても近くに高台があり、助かった人もいる。心理的に海から離れようとするが、早く高い場所に逃げるのが一番です」 ●自宅近くで犠牲に  3・11の大津波、生死を分けたのは何だったのか。静岡大学防災総合センター教授の牛山素行さん(48)は、気仙沼市から犠牲者に関する情報提供を受け、人的被害の傾向を分析した。犠牲者の63%が60歳以上と、中高年以上に被害が集中しているほか、犠牲者の自宅と発見場所にも特徴が見られた。犠牲者の11.6%が「居住地敷地内」で犠牲になり、「居住地から500メートル以内」を合わせると47.2%を占めた。牛山教授はこう話す。 「気仙沼市は宮城県石巻市、岩手県陸前高田市に次いで被害は大きかったが、浸水域人口に対する犠牲者数は3.4%。被害の大きい陸前高田でも1割程度で、多くの人が助かったとも言えます」  そして、こう続けた。 「積極的に避難しなかった人、あるいは避難の意思はあったができなかった人が亡くなったと考えられます」  避難の意思はあったのに、できなかった人に何が起きたのか。気仙沼市議の今川悟さん(41)はこう話す。 「あの日は避難する車に加え、街に戻る車もあり、渋滞がさらにひどくなった。結果、逃げられなくなり、気仙沼の遺体の約6%は車内で見つかりました」  気仙沼市街地に第1波が達したのは、地震から40~50分後。一度避難はしたが、津波がこないことを理由に片づけなどで家に戻った人も多かった。教訓としたいのは、幼稚園・保育所や学校の子どもの迎えだ。  60代の女性は被災時、地元のスーパーで買い物をしていた。孫の迎えは女性の担当。急いで学校に向かうと、先生が避難場所に移ってから引き渡すと保護者に説明をしていた。なかには指示を聞かず、車で連れて帰る人もいた。後日、そのうちの1人が子どもと波にのまれたことを知った。  被災後、学校に子どもを迎えにいった三陸新報社の三浦一樹さん(36)もこう振り返る。 「結果的に助かったが、先にたどり着いた知人が自分の息子を連れて帰り、戸惑った」  対策はとられている。気仙沼市教育委員会指導主事の藤山篤さんはこう話す。 「震災後は予告なしの避難訓練を実施するほか、保護者も参加する『引き渡し訓練』もしています。津波警報が解除されるまでは学校に保護者は迎えに来ないよう『つなみてんでんこ』を徹底しています」 ●事前に避難救助を約束 「つなみてんでんこ」とは「津波が来たら、取る物も取りあえず、肉親も構わずに、各自てんでばらばらに一人で高台に逃げろ」との意味だ。津波被害に苦しんできた三陸地方に伝わる教訓だ。14年度から学校で使用する防災学習シートでも、改めて意識付けをしている。  気仙沼市で局地的な被害が出た場所の一つに介護老人保健施設「リバーサイド春圃」がある。2階に避難したお年寄りを津波が襲い、当時136人が施設にいたが、46人が亡くなった。職員だけでの避難は困難だった。こうした災害弱者をどう助けるかも、課題の一つだ。  川口清美さん(49)は、市内のイオンで買い物中だった。地震後、頭に浮かんだのは、難病で自宅で寝たきりの息子(当時4)だ。周囲は停電している。息子の呼吸器が止まれば、息ができない。自宅に戻り、何とか救急車をつかまえ避難できたが、 「当時、旦那は職場。子どもを抱っこして、一人で呼吸器やたんを吸う吸引器などを持って避難するのは無理だった」  震災後、川口さんは災害時、近隣の企業に避難の手助けをしてもらえる協力を得ている。  てんでんこや、こうした事例は南海トラフ地震の教訓になるだろう。ただ、南海トラフ地震では、10分未満で津波が到達すると予測される地域も多い。気象庁によれば、東日本大震災の本震で震度4以上を観測した揺れの時間は約2~3分。避難にかける時間は限られる。  静岡県は、駿河湾の奥まで津波を引き起こす断層が延び、南海トラフ地震で最も大きな人的被害が出ると予測される。津波の第1波が4分で到達するのは沼津市。市教育委員会によれば、沿岸部の学校では、被災時には学校が連絡するまで児童を預かることを周知し、引き渡しも親族など5人を学校に事前登録するなど、気仙沼の教訓は生かされている。 ●2分で津波が到達  てんでんこや災害弱者の対策はどうか。市危機管理課の担当者はこう話す。 「沿岸部では地震発生後10分で浸水するエリアもある。揺れている時間を考えると、5分後に逃げるのが絶対条件。年に3回の避難訓練に加え、避難路を見直す地域でのワークショップも開催しています」  地域の防災担当者で改めて避難路を見直し、夜間避難のための照明設置や避難路の拡張を進めているという。ワークショップに参加した常葉大学社会環境学部長の池田浩敬教授は、避難訓練時に住民にGPSを携帯させ、自宅から避難所までの足取りを調査。それをもとに津波避難のシミュレーションをした。 「揺れ始めて5分後に避難したとしても逃げ遅れがあり、さらに5分遅れれば津波に追いつかれる人数が地区によって5~10倍になる。逃げ始めるまでの時間をいかに早くするかが被害を最小化するカギだ」  南海トラフ地震で最も早く津波が到達すると予測されるのは和歌山県串本町。最短2分で1メートルの津波が押し寄せる。町内の幼稚園では毎日、100メートル先の高台に避難する練習をしている。震災後、16メートルの津波避難タワーを新設し、高台に上がる新道建設も始まった。 「本人自体が助かるかわからないという想定で、他人を助けられるか。高齢者の避難には課題が残ります」(串本町職員)  期待されるのが、第1波を防ぐために始まった堤防のかさ上げ工事だ。これにより、連動型巨大地震でも津波の到達を約10分遅らせることができる。10分稼げれば、避難も可能だ。危機感を持ち、早く、高くに逃げる。それしかない。(編集部・澤田晃宏) ※AERA 2017年3月13日号
地震東日本大震災
AERA 2017/03/11 07:00
年収1600万円以上が約半数! 医者のリアルな「お金」と「仕事」
年収1600万円以上が約半数! 医者のリアルな「お金」と「仕事」
勤務時間やお金など、医師の「リアル」を探ってみた (※写真はイメージ) 「超難関」といわれる医学部受験を突破した学生のほとんどが、医師を目指しているはずだ。ただ、医師と一口に言っても、外科、内科、産婦人科など、医師にとって「所属部署」にあたる診療科の選択次第で、その後の人生を左右する。厚生労働省などのデータを基に勤務時間やお金など、医師の「リアル」を探ってみた。  医師になったら選び取らなければならないものがある。それが診療科だ。  医師にとっての診療科は、一般会社の営業、事務、経理、総務、人事などに当たり、キャリアの分かれ道になる。診療科によって年収や勤務時間などが変わるため、診療科選びがその後の人生を左右するといっても過言ではない。  発売中のアエラムック「医者・医学部がわかる」では、厚生労働省「医師・歯科医師・薬剤師調査」(2014年)などのデータに基づき、医師の性別や開業医、若年世代の割合を診療科別に算出した。  まず、「女性医師の比率」を見てほしい。皮膚科や眼科など、比較的リスクの低い診療科に女性が集中していることがわかる。反対に、外科系の整形外科医、外科医、救急医がワースト3となっている。出産や育児を考慮して勤務時間が比較的短い非外科系を選ぶ女性が多いという。 【女性医師の比率】 1位 皮膚科医 46% 2位 麻酔科医 38% 2位 眼科医 38% 4位 小児科医 34% 4位 産婦人科医 34%  一方、外科医と整形外科医では9割以上を男性が占め、事実上の“男性社会”となっている。重労働になりがちな外科系では女性が活躍しにくいという側面もある。「医師数の34歳以下比率」「勤務時間」を見ると、最も勤務時間が長い救急医は、医師数の34歳以下比率でもトップに立つ。男性比率も88%と高く、若い男性医師たちが救急現場を支えていることがわかる。 【34歳以下比率】 1位 救急医 35% 2位 麻酔科医 29% 3位 放射線科医 23% 4位 外科医 18% 4位 小児科医 18% 4位 産婦人科医 18% 【勤務時間(週)】 1位 救急医 54時間 2位 外科医 53時間 3位 小児科医 52時間 4位 産婦人科医 49時間 5位 整形外科医 47時間  同書では、これらの調査とは別に、医師専用コミュニティーサイト「MedPeer(メドピア)」の協力を得て、16年12月、現役医師534人にアンケートを実施。医師の実情をさらに掘り下げた。  まず、1日の平均勤務時間は「8時間以上10時間未満」が43%と最も多く、次いで「10時間以上12時間未満」が23%だった。やはり、医師の勤務時間は短いとはいえないが、これは、当直勤務の影響が大きい。  夜間の救急対応に備え当番医が病院に泊まり込みで待機する当直は、救急患者を受け入れる病院や手術の多い病院では必然的に回数が増える。診療科で言えば、救命救急科だけではなく、不慮の事故に対処することの多い整形外科や形成外科、病状が急変した場合に緊急処置が必要とされる脳外科、心臓外科、そして分娩に対応する産婦人科や医師不足の小児科なども多いことで知られる。  さらに、24時間対応の病院では勤務時間外でも患者の急変などに対応するオンコール待機が回ってくる。精神的な拘束時間は純粋な勤務時間だけではないことを心しておこう。  大学病院を辞めて地元で開業した、40代のある男性医師は、こう話す。 「仕事の面白さから言ったら大学病院だったが、当直がきつく、給料も安かった。勤務医は都心より地方のほうが人手不足で忙しいが、給料はアップする傾向がある。どの診療科でも、開業に踏み切る理由は生活の質と収入を求めた結果が多い」  続いて、収入面。同書では、厚労省「医療経済実態調査」(15年)を基に、一般に「高収入」と言われる開業医の実態も調べた。  それによると、医師全体に占める「開業医比率」と「開業医の年平均報酬額」のどちらも、眼科医がトップに立つ。年間報酬では、3千万円の大台に乗せている。超高齢社会を迎えて、眼科医の需要はさらに高まることが推測される。 【開業医比率】 1位 眼科医 64% 2位 皮膚科医 60% 3位 耳鼻咽喉科医 59% 4位 内科医 44% 5位 産婦人科医 41% 【開業医の年平均報酬額】 1位 眼科医 3273万円 2位 耳鼻咽喉科医 3005万円 3位 整形外科医 2942万円 4位 小児科医 2916万円 5位 皮膚科医 2778万円  前述のメドピア調査では、勤務医を含めた医師全体に「平均年収」を尋ねた。すると、「800万円未満」の回答が全体の7%だったのに対し、「1600万円以上」が半数近くの46%もいた。「2000万円以上」に絞っても、ざっと23%もいる。  医師は、やはり“高給取り”と言えそうだが、“体力勝負”であることも忘れずに。 ※週刊朝日 2017年3月10日号
働き方病院
週刊朝日 2017/03/06 07:00
【ニッポン洋食ものがたり】家庭料理の代名詞? ロールキャベツ
【ニッポン洋食ものがたり】家庭料理の代名詞? ロールキャベツ
ひき肉や野菜などの具材を、キャベツの葉で包んだロールキャベツ。家庭料理としても、洋食屋さんのメニューとしてもおなじみですね。 「ベーコンで巻く」「いや、かんぴょうで巻く」「おでんに入れる」など、皆さんお気に入りの食べ方があるのではないでしょうか? そろそろ春キャベツが出回る季節。今回は、日本の食卓に根づいたロールキャベツの歴史をお届けします。具材の味わい、とろけるキャベツ……格別の美味しさです そもそも、ロールキャベツの起源とは? 「大きな葉っぱ」で、「肉などの具材を包む」……ロールキャベツの原型とも言える料理が最初に作られるようになったのは、現在のトルコやギリシャの付近。 この地域では古くから、ぶどうの葉っぱで肉や米を包んだ料理が作られており、それがオスマン帝国の拡張などによって東ヨーロッパや中央アジア、アラブ世界に広まりました。 その過程で、ヨーロッパでは古くから栽培されていたキャベツの葉が使われるようになったと考えられています。 ロールキャベツ風の料理は現在も各地で愛されています。 たとえば、ルーマニアで広く食べられているのは、酢漬けのキャベツを使ったロールキャベツ「サルマーレ」。具材にはお肉と、お米が使われるのがポイントです。 ハンガリーでも同様に、ひき肉とお米が入ったロールキャベツが食べられています。 もちろんトルコやギリシャでもロールキャベツは健在。 トルコ料理の「ドルマ」(トルコ語で「詰めたもの」の意味)には、キャベツの葉やぶどうの葉、パプリカをくりぬいて具材を詰めたものなど、バリエーションがたくさんあります。 他にも中東や北アフリカなど、この「ドルマ」の影響を受けたと思われる料理が各地で作られています。ぶどうの葉で具材を包んだ「ドルマ」 なぜ日本で、家庭料理として定番化した? ロールキャベツを作るのは、ちょっと手間がかかる……そう感じる方も多いのではないでしょうか。 日常的に料理をする方でも「忙しくてなかなか作れない」という方もいらっしゃるかもしれません。 しかし、この「手間がかかる」ことが、日本の食卓にロールキャベツが普及した一因だった可能性があります。 1950年代から60年代にかけての、高度成長期。 主に男性が外で働き、女性は主婦として家を守る、こうした家庭が主流になっていった時代です。また、当時の企業には「勤続年数が長い女性を煙たがる」風土があったといいます。 家にいる以外に選択肢がない女性たちは、いかに家事労働に取り組むか、知恵を絞るようになりました。 それは、かつて水汲みや火おこし、農作業、夜なべ仕事などに追われていた時代とは、まったく別の種類の家事労働です。 そして、そんな「別の種類の家事労働」の代表格が、「手間をかけて料理をすること」だったのです。 ロールキャベツは、こうした時代の空気の中で、主婦が腕をふるう家庭料理の代表格としてもてはやされました。 上記を裏づけるような、興味深いデータがあります。 1960年代の前半、いったん減った女性の家事労働時間が、1970年代になって再び長時間化したというのです。 ガスや水道などのインフラ整備が進み、冷蔵庫や炊飯器が普及し、生活は格段に便利になったはず。 にもかかわらず家事労働時間が増えたのは、料理に手間をかけるようになったのが理由の一つだと考えられています。 時代の変化で、ロールキャベツの役割も変わった? やがて時代が移り、男性も女性も同じように社会参加する時代が到来。スーパーマーケットやデパ地下のお惣菜として、あるいは冷凍食品として、ロールキャベツを買い求める人が増えていきました。 「イチから作るのは面倒だから」と、買ってきたロールキャベツを我が家風に味つけしたり、「プロが作った料理のほうが美味しい」と外食にこだわったり……。 それぞれの生き方、考え方で、色々な楽しみ方ができる時代になったということかもしれません。 メインのおかずにも、「あと一品」のおかずにも、便利に使えるロールキャベツ。 日本では年間おいしいキャベツが出回りますが、まもなく春キャベツの旬。久しぶりにロールキャベツを手作りするのもいいですね! 参考:阿古真理「昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年」(筑摩書房)おでんに入れるのも美味しい! 色々な味つけに合うのもロールキャベツの魅力
tenki.jp 2017/03/05 00:00
中島みゆき、倉本聰脚本の新ドラマに楽曲書き下し「冷や汗がダダ流れなお仕事でした」
中島みゆき、倉本聰脚本の新ドラマに楽曲書き下し「冷や汗がダダ流れなお仕事でした」
中島みゆき、倉本聰脚本の新ドラマに楽曲書き下し「冷や汗がダダ流れなお仕事でした」  2016年に20年振りのベストアルバム『前途』をリリース、『夜会』の舞台に立つなど精力的に活動を行っていた中島みゆきが、4月から始まる倉本聰脚本の新ドラマの主題歌「慕情」を書き下していたことが分かった。  今回中島みゆきが新曲「慕情」を書き下ろしたのは、『北の国から』などの数多くのドラマを手掛けた倉本聰がシニア世代に贈る、渾身のドラマ『やすらぎの郷』。舞台となるのは、テレビの全盛期を支えた俳優、作家、ミュージシャン、アーティストなど“テレビ人”だけが入居できる老人ホーム『やすらぎの郷 La Strada(ラ・ストラーダ)』。かつて一世を風靡したシナリオライター・菊村栄(石坂浩二)を中心に、このホームに入居した往年の大スターたちが直面するさまざまな問題をユーモラスに描く作品。テレビ朝日が新しい挑戦として新設する帯ドラマ枠の第1弾ということもあって、出演陣も超豪華な顔ぶれだ。  この豪華作品の主題歌、新曲「慕情」は、大人の心を揺さぶる中島らしいメッセージソングに仕上がったが、今回主題歌のオファーを受けた中島は“感激”しながらも、不安と戦慄の狭間にいたことを綴っている。 ― 中島みゆきです。この度は『やすらぎの郷』の主題歌を、とのお話をいただきまして、心から「嬉しいわぁ!」と、感激いたしました。だって、倉本さんの脚本ですもの。ねぇ?で、その後(あと)で心から「困ったわ!」と、戦慄いたしました。だって、倉本さんの脚本ですもの。ねぇ?倉本さんがね。ひと言ひと言を、命を削るようにして紡いでいらっしゃるんですから。そこへ徒(あだ)や疎(おろそ)かな歌詞など書いてはならない……と思えば思うほど、もう、冷や汗がダダ流れなお仕事でした。はい。 はたして採用していただけるのかどうか、ギリギリまで不安でしたが、めでたく決まりまして、ありがとうございます。 作品の仕上げが、ちょうど私の「夜会」という長期公演の時期と重なってしまいましたので、締め切りをさんざん伸ばしていただきまして、申し訳ないことでした。 さて、いよいよドラマの放送ですね。とっても楽しみに待っています。―  なお、同曲の発売は現在未定となっている。 ◎番組情報ドラマ『やすらぎの郷』2017年4月3日スタートテレビ朝日系24局 毎週月~金 昼12:30 ~ 12:50放送
billboardnews 2017/03/02 00:00
将来の「認知症」を予防できる意外な方法
将来の「認知症」を予防できる意外な方法
動かない生活を続けていると、脳が徐々に退化し始めます (※写真はイメージ)  自らの足で歩かず車や電車に乗り、家事には電化製品をフル活用。そして、クリック一つで自宅に必要なものが届く。「そんな生活は脳を退化させる」と指摘する人がいた。走ることで脳が鍛えられ、認知症予防にもなるという。  階段があってもエスカレーターの行列に並び、ランチも近場で済ませ、買い物もついついネットで……。あなたも思い当たる項目があるのでは?  関西福祉科学大学教授で理学療法士でもある重森健太さん(39)の指摘は恐ろしい。 「動かない生活を続けていると、脳が徐々に退化し始めます」  運動と脳に何の関係が?とピンとこない人もいるだろう。運動することで血の巡りがよくなれば、新鮮な酸素が脳に運ばれ活性化する。実は運動することで脳こそが鍛えられるのだと重森さんは言う。 「現代の生活は快適かもしれませんが、将来の認知症のリスクが高まります」(重森さん)  認知症の中で最も患者数が多いアルツハイマー型は、アミロイドβというタンパク質とタウ・タンパク質が徐々に蓄積し、脳神経細胞を死滅させてしまうことで起きるとされている。 ●脳に効果的なのがラン  特にアミロイドβは認知症発症の20~40年も前から脳への蓄積が始まるとされ、認知症を防ぐためには、30~40代から運動によって脳を鍛えておくことが重要だという。  重森さんによると、脳に最も効果的な運動が「ランニング」。適度に心臓に負担がかかる有酸素運動によって、脳内が新鮮な血液で満たされ、脳細胞も増える。また、走る際に筋肉を動かすことで感覚器が信号を出し、それによっても脳が活性化される。足は身体の中でも感覚器が集中している部位。走ることがもたらす効果は大きい。  走った後の脳内の血流反応を見ると、特に反応が大きいのが海馬と前頭葉だという。海馬は記憶をつかさどる器官。前頭葉は脳の司令塔とも言われる部分だ。海馬は、かつては年齢とともに萎縮し衰えていくとされていたが、走ることで元の大きさに戻ることが、米ピッツバーグ大学のカーク・エリクソン博士(心理学)の研究で明らかになっている。  運動としての「効率のよさ」も重森さんがランニングを勧める大きな理由だ。野球やサッカーなどに比べて運動量にムラがなく、時間を決めて一定のペースで進めることができる。 ●記憶力にも集中力にも  もちろん、やみくもに走ればいいというわけではない。重要なのは強度で、脳に刺激を与える最低ラインは「運動強度60~80%のランニングを1日20~30分×週3回×3カ月」だ。  運動強度は心拍数(脈拍数)で測ることができる。  一般的な成人の安静時の心拍数で正常値の目安は、1分間に60~100回の範囲だ。平均値は、成人男性で1分間に65~75回程度、成人女性で70~80回程度。自分の安静時心拍数が分かったら、計算式(カルボーネン法)でランニング時の目標心拍数を導き出せる。計算式なんて面倒くさい!という人は、「ボルグスケール」という手法がいい。何ということはない、「ややきつい」という感覚が得られればOK。酸素をたくさん使ったいい運動をしているということになる。  脳に効く走り方の「こつ」もあるという。  まずは、「記憶力を鍛える」走り方。走るだけで海馬には効いているのだが、より記憶力を高めるには、コースマップづくりをするのがいい。決まったコースを走るより、新たなことに挑戦する環境が記憶のトレーニングになる。  英の認知神経学者、エレノア・マグワイア博士がロンドンのタクシー運転手の海馬を調べたところ、一般の人と比べて神経細胞が多かった。また、ベテランドライバーほど、より多かったという報告もある。  目的地を決めて自由に走った後、走ったコースを思い出してノートに記録してみよう。地図上で新しいコースを計画してその通りに走ったり、同じコースを逆から走ったりするのもいい。体を動かした後は記憶力が20%もアップするという研究結果もある。記憶と運動は切っても切れない仲。勉強前のランニングもオススメだ。 「集中力を高める」走り方もある。集中力を高めるには、前頭葉を鍛えることがポイント。走るだけで鍛えられるのだが、さらに効果的なのは「ながら動作」だ。二つのことを同時に行うと、おでこの端の部分にあるとされる前頭葉のワーキングメモリーが活性化される。  重森さんが勧めるのは「ひとりじゃんけんラン」だ。走りながら両手でじゃんけんし、身体の前に出す手が後ろの手に勝つようにする。やってみると、うっかり足が止まってしまいそうになるほど難しい。信号や歩行者が目に入らなくなってしまう可能性もあるので、慣れないうちはランニングマシンや室内でトライしてほしい。「しりとりラン」「計算しながらラン」なども、「ひとりじゃんけんラン」と同様の効果がある。  仕事中などに集中力が続かないなと感じたときは、普段はしない動作をすることでこれまで使っていた脳を休めることができる。自分の歩幅で後ろ向きに進む「後ろ歩き」や、直線をイメージして、足のつま先とかかとをくっつけて歩く「継ぎ足歩行」もオススメだ。 ●その場駆け足で企画  三つ目は、「発想力を鍛える」走り方。企画やアイデアが思い浮かばず煮詰まってしまったとき、そのまま椅子に座って考え続けるよりも、運動強度90%でダッシュしたほうが、名案が浮かびやすくなる。  無酸素運動で心拍数を一気に上げて、その後に一息ついたとき、新鮮な酸素を含んだ血液が前頭葉に大量に送り込まれて活性化し、ひらめきが生まれやすくなる。社内を全力疾走するわけにはいかないだろうから、「その場駆け足」をやってみよう。腕をしっかり振って、足は太ももの付け根から上げる。しっかり腕を振って階段を駆け上がる「階段ダッシュ」でもいい。 「赤」「看板」などとテーマを決めて、それを探しながら走ると、いつものランニングコースの景色の中で新しい発見があったり、アイデアが湧いたりすることもあるという。  四つ目は、「感覚を鍛える」走り方だ。感覚や空間認知をつかさどる頭頂葉。どのぐらい足を上げれば段差を越えられるか、どれくらい手を伸ばせば目の前のものをつかむことができるかといった感覚を鍛えて自分の体を正しく認識すれば、最高のパフォーマンスを発揮できる。  有効なのは、「大股走り(早歩き)3分+小股走り(早歩き)3分」というセットを繰り返すことや、階段を上がるときに1段、2段、1段、2段と1歩で上がる段数を変えることだ。 ●朝昼夜のランの効能  脳を鍛えるランニングの効果を最大化させる「走りどき」は朝。重森さんによれば、「朝ラン」で脳のリズムが整い、完全に覚醒した状態で仕事や勉強に臨むことができる。一日の早い段階で代謝を上げると基礎代謝が上がり、ダイエット効果も期待できる。ちなみに、脂肪燃焼が目的なら「空腹時」がさらにいい。  昼ランや夜ランにもそれぞれメリットがある。  ランチタイムに走れば、脳に酸素が送り込まれて眠気覚ましになるし、夜ランは成長ホルモンの分泌を促進し、筋力アップに効果がある。ただ、走った後は交感神経が優位になっているため睡眠を妨げてしまう恐れがある。寝る間際には走らないようにしたほうがいいだろう。  まだ走ろうという気が起きない人へ。ランニングは心も強くするということをご存じだろうか。ストレスから私たちを守る働きをするのが「コルチゾール」というホルモン。このコルチゾールを長時間放置すると脳の海馬や扁桃体にダメージを与える。滞留を防ぐには、走ることだ。  幸せを感じるホルモン「セロトニン」も分泌される。運動がうつ病患者の症状改善に効くという研究は各国でなされている。  仕事や子育てで「走る時間なんて取れない」という人もいるだろう。  スポーツウェアに着替えて走るのはハードルが高いというなら、生活の中のちょっとした工夫で運動量を増やしたり、普段の動きに変化をつけたりすることで、脳に刺激を与えることを提案したい。  ちょっとした心がけで運動量は増える。まずは、ジッと座っている毎日から抜け出そう。 (編集部・深澤友紀) ※AERA 2017年2月27日号
健康病気
AERA 2017/02/27 07:00
亡くなった赤ちゃんも陣痛を起こして産む… 悲しい出産の現場
亡くなった赤ちゃんも陣痛を起こして産む… 悲しい出産の現場
空に帰っていく赤ちゃんたちがいる。たとえおなかの中で亡くなっても、短い一生だったとしても、この世に生を受けた尊い命には変わりない(撮影/植田真紗美)  赤ちゃんの誕生は喜びと慈しみに包まれる大きな幸せだ。だが、悲しい出産の現実もある。たとえ産声があげられなくても、長く生きられなくても、小さな命の輝きは、かけがえのないものだと知ってほしい。AERA2月20日、27日号で反響を呼んだ連載「みんなの知らない出産」をお届けします。 *  *  *  妊娠すれば元気な赤ちゃんが生まれるはず。そう思っている人は少なくないだろう。でも実際はさまざまな形の出産があり、悲しみの中で出産に臨む妊婦もいる。  出産や陣痛の痛みは、「鼻の穴からスイカが出てくるよう」「ダンプカーがおなかや腰の上を走るよう」などと表現されるほど激しい。それでも、女性たちはもうすぐ赤ちゃんに会えると思えばその痛みを乗り越えられる。だが、産声を聞けないのに、その苦しみに耐えなければならない女性もいる。  都内に住む女性(29)は4年前、第1子を妊娠した。出産予定の産婦人科は個人病院ながら最新機器を導入し、壁のスクリーンに好きな映像を流し、アロマをたきながら出産できると評判の病院だった。  妊娠30週(8カ月)の妊婦健診。いつものように内診台に上がり、院長の男性医師がおなかの赤ちゃんの様子をエコーで確認する。  普段、胎児の様子を教えてくれる院長が、画面を見つめたまましばらく何も言わない。  残酷な宣告が沈黙を破った。 「赤ちゃんの心臓が止まっています」 ●亡くなった赤ちゃんも陣痛を起こして産む  その後の記憶がない。院長からの説明も耳に入らず、気がつくと病院の外の歩道に倒れ込んで泣いていた。  近くに住む実家の母に迎えに来てもらい、病院に電話して再度説明を聞いてもらった。亡くなった赤ちゃんも、生きている子と同じように陣痛を起こして産まなければならないと知った。  翌日入院すると、まだ出産準備に入っていない子宮口を無理に開くため、水分を入れると膨らむ「ラミナリア」を子宮頸管に差し込まれた。激痛が走る。1日かかって三十数本も入れた。  出産の痛みは生きて生まれてくるから受け入れられるものだと思う。赤ちゃんが死んでいるのに、どうやって耐えればいいというのか……。亡くなったとわかった途端に、主治医が院長から別の医師に代わったのも「死んだ子はどうでもいいのか」と悔しかった。  入院2日目には陣痛促進剤も追加したが、微弱陣痛が続く。夜になって突然強い陣痛が来て、ついに生まれた。癒やしの映像もアロマもなく、産声も聞こえない、静かで悲しい出産だった。  看護師に連れてこられた息子は、ソラマメのような形の金属トレーに敷かれた紙に載せられていた。そのトレーには「未滅菌」と書かれたシールも貼られている。絶句した。  普通の赤ちゃんだったら絶対こんな扱われ方はしないだろう。冷たいよね、かわいそうに、と涙があふれた。  廊下から響くほかの赤ちゃんの声がつらくて部屋から一歩も出られなかった。幸せオーラに満ちた病院の中で、ただ一人別世界にいる気がした。  退院後、おなかを痛めて産んだのに、赤ちゃんがいない現実を受け止められない。もう一度会いたい、どうして私を置いていってしまったの──。一日中涙があふれてくる。  毎日、お骨に話しかけていると、夫から「もうやめなよ」と言われた。夫婦げんかも増えた。いま振り返れば夫もつらかったのだと思えるが、当時はそう理解する心の余裕もなく、離婚。支えてくれたのは、両親や弟、そして同じ経験をした仲間との出会いだった。  昨年再婚し、いま第2子をおなかに宿している。  妊娠がわかると、多くの人は赤ちゃんが新たに加わる家族の未来をあれこれと思い描く。その未来に、誕生とは正反対の赤ちゃんの死が待っていようとは想像もしないだろう。  この50年で死産の件数は激減したが、それでも2015年に2万2617件あった。出生数は100万5677件で、100の出産のうち2.2件、50人に1人以上が死産という割合だ。  日本では死産は、戸籍法で妊娠12週(4カ月)以後の亡くなった赤ちゃんの出産のこととされているが、流産に比べて死産の実態を知る人は少ない。 ●死産の25%が原因不明 誰にでも起きること  なぜ死産が起きるのか。妊娠22週(6カ月)以降の死産の原因を見ると、赤ちゃん自身の病気は2割強。そのほかは常位胎盤早期剥離やへその緒のトラブル、感染症などで、25%は原因不明だ。聖路加国際病院女性総合診療部医長の山中美智子医師は言う。 「死産の大半が、予測がつかず、突発的に起きている。誰にでも起きる可能性があります」  流産は赤ちゃんがお母さんのおなかの外では生きていけない妊娠22週より前に妊娠が終わることをいう。日本産科婦人科学会のホームページによると妊娠の15%前後が流産に至るとの統計もあり、厚生労働科学研究班の調査では、妊娠歴のある35歳から79歳の女性のうち4割近くが流産を経験していた。  都内のテレビ局に勤める女性(35)は、流産をしたときに助産師から「よくあることだから落ち込まないで」という励ましに、かえって傷ついたという。 「こんなに悲しいのに、悲劇のヒロインにもなっちゃダメなのか、と心の行き場がなくなってしまった」  おなかの中に確かに宿っていた命を失う喪失感は計り知れないほど大きい。  誕生しても、生後4週未満に亡くなる「新生児死亡」もある。  赤ちゃん自身が病気を持っている場合も多く、妊娠中にわかれば、中絶するのか産むのか、誕生後も、延命治療をするのか家族でゆっくり時間を過ごすのか、家族は難しい決断に迫られる。 ●分娩後休むこともなく 子の生死の決断迫られる  横浜市の女性(36)は5年前、妊娠22週(6カ月)の時に赤ちゃんの心臓に病気が見つかった。難しい手術が何度も必要で、成功しても長く生きられるかはわからないという。中絶可能な21週6日を過ぎていたが、医師は「希望すれば手術します」と言った。違法なことを医師に提案させてしまうほど生きるのが難しい病気なのだと悟った。  わずかな可能性を信じて、妊娠を継続し、予定日5日前に自然分娩で出産。 「やっと会えたね」  10カ月頑張って生まれてきてくれた我が子に会えた喜びもつかの間、分娩で疲れた体を休めることもできないまま、医師の説明を聞き、子の生死を決断しなければならない。  娘の体重は1600グラムあまり。入院先の病院では、過去に同じ病気でこれほど小さい赤ちゃんの手術の実績はないという。夫とも話し、小さな体にメスを入れるのは残酷な気がして、「手術はしません」と医師に伝えた。  治療の代わりに家族の時間を手にした。胸に抱いた娘に搾乳した母乳を飲ませる。2歳だった長女も一緒に宿泊し、家族4人で並んで眠る。ずっと願っていた「普通」の幸せの形だった。  生後約1週間が過ぎ、医療的措置をせずに頑張って生き続ける娘を見ているうち、手術して長く生きてほしいという気持ちが芽生え、医師に「今からでも手術を」と頼んだ。生後14日目。手術中の心不全が原因で亡くなった。  いったんは手術をしないと決めたことで一緒に過ごす時間が持てた。生きる望みを最後まで失わずに手術にも挑戦できた。娘は短くても濃密な人生を生き、今も家族の中で生き続けている。  赤ちゃんの病気や死。それは、ただ悲しい出来事というばかりでなく、親として悩み苦しむ中で自己の奥底にある嫌な感情と向き合わなくてはならない、残酷な試練でもある。  2年前に第1子を生後数時間で亡くした神奈川県に住む女性(32)も、自分の器の小ささを突きつけられたという。  妊娠6カ月の妊婦健診で肺がほとんど形成されていないことが分かり、子ども専門の病院に転院。さらに詳しい検査を受けることになった。染色体検査の前に、医師に「ダウン症の可能性はありますか」と聞くと、「ダウン症だったら大丈夫ですよ」と言われた。  確かに、生まれても生後1年以内に9割が亡くなる18トリソミーや13トリソミーなどの染色体の病気と比べて、ダウン症なら長く生きられる可能性は高い。社会で活躍している人もいる。それでも思わず口に出てしまった。 「中絶はできないんですか」  妊娠が分かってすぐの頃、夫と出生前診断について話し合った。大学時代に視覚障害者のボランティアをしていたこともあり、「子どもにどんな障害があっても育てよう」と覚悟を決めたつもりだった。だが、いざ現実となると怖くなった。一瞬でも「中絶」を考えた自分に心底幻滅した。  死産になるかもしれないし、生まれても長く生きることができないかもしれない。それならおなかの中にいる間から育児をしようと夫婦で決意し、水族館やクラシックコンサートなどにも出かけた。家族3人の存在を常に感じた幸せな日々が、今も心の支えだ。 ●「妊娠は女性の幸せ」価値観を押しつける友人  一方で、この頃友人を一人失った。流産などの不安から職場などで妊娠を公にしていなかったが、その友人は「妊娠は女性として喜ばしいことなのに、どうしてオープンにしないの」「みんなに祝福してもらえばいいのに」などと価値観を無理に押し付けてくる。赤ちゃんの病気が分かっても友人に言う気になれず、出産後に「あなたの言葉がずっと負担だった」と伝え、以降、距離を置いている。  誰もが幸せな妊娠・出産ができるとは限らない。そのことが社会で広く共有されていないことで、苦しむ女性たちがいる。15年12月に死産を経験した川崎市の女性(32)は言う。 「妊婦さんって幸せの象徴だと思われていますよね。でもそう思えない人もいるんです」  妊娠23週(6カ月)のとき、おなかの息子の心臓や肺に異常が見つかった。さらに胎児水腫もわかった。  夫は仕事が忙しく、近くに頼れる身内もいない中で、フルタイムで働き、保育園に通う娘の送迎や子育てに加えて毎週の通院に追われる日々。その上、検査のたびに深刻な状況を伝えられる。街で元気そうな赤ちゃんや妊婦を見るたび、「なんで私の赤ちゃんだけ……」と目を背けた。  クリスマスイブに帝王切開を予定していたが、入院当日の朝、息子は亡くなった。年明けに無痛分娩で産むことが決まったものの、クリスマスの夜に破水し、翌朝病院へ。土曜日で麻酔科医が確保できないため無痛の処置はできず、2日間陣痛と闘った。このとき「最後まで苦しめるなんて」と、息子を憎らしいとさえ思った。  心身とも苦しい妊娠・出産だった。けれど今は、度重なる余命宣告をはねのけ、妊娠36週まで生きた息子を誇らしく思う。4歳だった娘も一生懸命おなかの赤ちゃんを応援してくれた。息子にとっておなかにいた期間は立派な人生だったと思える。 「私のようなことは誰にでも起こり得るし、無事に生まれるということは本当に奇跡的なことだと、もっと知ってもらいたい。それが、戸籍にも存在しない息子が、生きた証しになると思う」 (編集部・深澤友紀) ※AERA 2017年2月20日号
AERA 2017/02/23 11:30
[連載]アサヒカメラの90年 第15回
[連載]アサヒカメラの90年 第15回
1983年4月号表紙。作品は本宮透。編集長は谷博 『昭和写真・全仕事 series10 植田正治』(朝日新聞社)表紙。編集は岡井輝雄 1980年8月号 秋山亮二「ニューヨーク通信II」から。 1980年5月号 江成常夫「花嫁のアメリカ」から 1982年1月号 北島敬三「NEW YORK」から 1982年3月号 渡辺兼人「既視の街」から。 倉田精二『FLASH UP』(白夜書房)1980年。 1982年4月号大島洋「新たな『写真論』への模索」 1983年2月号「ベルナール・フォーコンの世界」から 1983年4月号 杉本博司「劇場」から 写真雑誌の苦境  1977(昭和52)年の2月号から編集長を務めた岡井輝雄の在任期間は、81(昭和56)年5月号までの4年4カ月で、歴代編集長のなかで3番目の長さである。意欲的な岡井が、さまざまな企画を打ち出したのは前号のとおりだが、なかでもコンテストを通じたアマチュアの誌面参画には熱心だった。公募のみで本誌を構成する「大特集」や月例ページの増大( 80年7月号)を図り、初級写真部門では自らが選者を務めもした。  その背景には本誌をとりまく環境の厳しさがあった。要因のひとつは、撮影機材のコンパクト化や自動化への流れである。75年にAF(自動焦点)機構とストロボを備えたコンパクトカメラの「コニカC35EF」が、翌年には電子化を進めたキヤノンの一眼レフ「AE-1」がヒット商品となっていた。以降も自動化は進み、81年11月、AF機構をボディーに組み込んだ一眼レフ「ペンタックスME-F」が発売されて、一眼レフのAF時代が幕を開けた。感材では76年に富士写真フイルムから、ISO400の高感度カラーネガフィルム「フジカラーF .II400」が発売された。  これら画期的な新製品が「ニューフェース診断室」やテストリポートで取り上げられると、大きな注目を集めた。だが中長期的にみれば、それは販売部数の向上に寄与しなかった。ノウハウ習得の必要性を減じさせたため、かえってライト購読者が離れたのだ。「朝日新聞出版局史」によれば、79年上半期に8万7千部だった本誌の販売部数は、83年には6万5千部に、85年ごろには5万6千部程度に減じている。それは復刊後の最大部数を記録した、60年代後半のおよそ半分程度の数字なのである。  また技術開発競争によって、中小のカメラメーカーが市場から淘汰(とうた)された。ミランダカメラ(76年)、ペトリカメラ(77年)、コムラーレンズ( 80年)などは倒産し、興和(78年)やトプコン(81年)は一般用カメラ事業から撤退した。69年の日本写真機工業会の加盟メーカーは41社だが、85年には18社まで減少している。かたや大手は事業の多角化や、広告戦略の分散化が重なり「写真雑誌への掲載広告は急速に減っていった」(「朝日新聞出版局史」)のである。もちろん状況はライバル誌も同様で、写真表現の動向に影響を与えた「カメラ毎日」は85年4月号をもって廃刊するのである。  老舗の総合写真雑誌が苦しむのをよそに、80年前後は史上空前の雑誌創刊ラッシュが訪れている。とくに写真を軸とするビジュアル誌が多く、新しい写真誌も相次いで登場した。ライトな青年層をねらった「カメラマン」(78年 モーターマガジン社)と「キャパ」(81年 学習研究社)。海外志向の強い「フォト・ジャポン」(83年 福武書店)。篠山紀信を中心に写真による総合誌をめざした「写楽」( 80年 小学館)と荒木経惟をフィーチャーしてポルノや写真雑誌の枠を解体する「写真時代」(81年 白夜書房)などで、「写真時代」は創刊号10万部が完売したことを本誌は報じた。また、見開き一点ものの写真を売りにする写真週刊誌「フォーカス」(81年 新潮社)は、創刊まもなくスキャンダラスな方針に転換して部数を拡大していた。  岡井編集長は、こうした環境のなかでアマチュアリズムを復興させようと奮闘し、販売部数も一定の成果を収めた。ただし、彼の仕掛けたコンテストからユニークな作品が生まれてくることは極めて少なく、「最近の写真表現がパターン化してくるのはどうしてでしょうか」( 80年5月号編集後記)と嘆く。それでも81年1月号からは編集後記に代わって「編集長のメッセージ」の欄を設け、アマチュアに写真の楽しみを熱く説き、最終回となった5月号では読者にこう呼びかけるのである。「(写真の)趣味性のなかにこそ個性的な創造の可能性が秘められていると思います。両者を対立的にとらえないで、趣味の中からモノを創り出す作業を考えていただきたいのです」  その後、岡井は出版局プロジェクト室で『昭和写真・全仕事』(全15巻)の刊行などを手掛け、一方ではエッセーや評論、写真家の評伝などを精力的に執筆していく。  この岡井の後、本誌の編集長は85年までに徳本光正から、谷博、相沢啓三へと代を継がれている。それぞれ1年半ほどの短い任期である。 ニュードキュメンタリー  この80年代初頭の誌面を活気づけたのはドキュメンタリーだった。80年12月号の桑原甲子雄、重森弘淹、柳本尚規による座談会「80年に写真は何を語ったか 図式化されないニュードキュメントの定着」では、社会的な現実に目を向けた作品が話題の中心となっている。本誌の掲載作品では藤原新也の「四国遍土」(1~3月号)、江成常夫の「花嫁のアメリカ」(4~6月号)、秋山亮二の「ニューヨーク通信」(7、8月号)などで、ほかに土田ヒロミの「ヒロシマ」シリーズなども評価された。  柳本は、それらの作品が、自らの方法論に懐疑を持ちながら撮り進められていると指摘。重森はその背景に信じるべきイデオロギーの喪失があるとして、「物差し喪失の時代に自分の感性をよりどころにしなければもうドキュメンタリーが成り立たないところへは来ている」と推察している。  こうしたニュードキュメントの傾向は、ことに「花嫁のアメリカ」によく表れていよう。占領下で米兵と結婚し、アメリカに嫁いだ戦争花嫁を現地に訪ねたポートレート作品は、80年末に本誌増刊号として一冊にまとめられている。江成はそこで「相手のプライバシーを侵すことにどれだけ耐えうるか」を自らに問いつつ撮影に取り組んだと記している。江成はこの労作で81年の木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)を受賞し、翌年からは中国残留日本人孤児をテーマに「小日本人」を連載する。  新人として、このころ注目されたのは、ともにWORKSHOP寫眞学校の森山大道ゼミ出身の、倉田精二と北島敬三だろう。倉田は80年に写真展「ストリート・フォトランダム・東京75~79」で岩合光昭の「海からの手紙」(「アサヒグラフ」連載)とともに木村賞を受賞。北島は翌年に自主ギャラリーCAMPでの個展シリーズ「写真特急便・東京」で同賞の最終候補となり、日本写真協会賞新人賞を獲得している。倉田は東京の夜の盛り場の人々をフラッシュで浮かび上がらせ、北島は東京の路上を行き交う多様な人々を、出合い頭に、正面から鋭くとらえていた。  その北島は81年の夏にニューヨークに渡り、3カ月間スナップを撮り歩いた。この写真は「NEW YORK」と題されて、本誌82年1月号で19ページにわたって掲載された。  暴力的に街をとらえた同作に「カメラ毎日」の西井一夫が解説を寄せ、北島の見事さは「被写体を感じ撮った“見る感性”」にあり、「あらかじめのイメージにとらわれずに光景に立ち向かっている」からこそ、対象の力強さがストレートに出ているのだと述べた。さらに、北島に大きな影響を与えた森山が60年代後半そうであったように、北島は「80年代の同伴者になるだろう」と予測した。  この号では、写真展評で評者の長谷川明が北島を高く評価するほか、重森も座談会「82年の展望のなかで」で大きな成果と位置づけている。そこで当然、北島はこの年の木村賞の本命とみられていたが、最終選考で受賞を逸す。  82年に選ばれたのは渡辺兼人で、対象作品は作家の金井美恵子との共著『既視の街』(新潮社)と同名の写真展だった。何の変哲もない街の一角を、正方形の画角に収めた静かなその写真は、見るたびにいくつもの違った感触と想像が立ち上がってくる。その写真的に「ものを見る〈力〉」(渡辺義雄評)が評価されたのだった。  一方の北島は11月に写真集『New York』(白夜書房)を出版し、翌年、ついに木村賞を受賞。6月の授賞式では、写真の師にあたる森山に感謝を述べている。その森山も、このころようやく浮上しはじめたようだった。復活を印象づけたのは82年4月号から翌年6月号まで連載された「犬の記憶」である。これまで暮らした土地を巡り、写真と言葉でその生い立ちを再構成するという企画は、写真を撮り続けることの意味を自身に問うことでもあった。最終回で森山は、記憶を追うことは「これから遭遇する風景に対して、記憶をきっかけとして予見する、その意味を問い直す行為」だと悟り、「写真は記憶であり、そして写真は歴史である」と結んでいる。  森山のかつての盟友、中平卓馬も別の意味で再起していた。連載「決闘写真論」の翌77年、中平は急性アルコール中毒による逆行性記憶喪失になり、かつての鋭い言葉を失った。だが肉体が回復すると、写真家としてはほぼ毎日、自宅周辺で写真を撮り、プリントを焼く日々を送るようになっていた。  そして、中平は本誌78年12月号に再起作「沖縄 写真原点1」などを発表し、83年1月には写真集『新たなる凝視』(晶文社)を出版した。それは「歴史」に目を向けた森山とはあまりにも対照的な、現在しかもち得ない写真家の、鬼気迫るような写真群だった。 アメリカの新しい写真  中平の膨大な写真すべてに目を通し『新たなる凝視』を編集したのは、80年に写真論誌「写真装置」(写真装置舎)を創刊した写真家の大島洋である。その創刊号に、80年代は「眠りこけてきた『知』との決別の年代(とき)」になるだろうと書いた大島は、本誌82年4月号の時評欄にも「新たな『写真論』への模索」を寄稿して、「写真の歴史がつくりあげてきた文脈や、写真の価値体系と写真の制度の読み直しの作業」に取り組む必要を強調した。すでに「写真の加速度的変容は、写真表現の歴史がこれまでつくってきた基準では律することができないところまできた」からである。  機材の技術革新が進み視覚メディアも多様化してちまたにあふれている。公的、社会的、私的のすべての領域において、目に見えるものすべてが、あらゆる手段ですでに撮りつくされ、提示されている。このような社会状況の認識のなかで、写真を語りうる新たな言葉が求められていた。  たしかに80年前後から写真をめぐる言説は広がり、芸術評論誌の「ユリイカ」(青土社)80年10月号で「特集:写真とは何か」が組まれるなど、社会学的な文脈や文化論として語られるようになっていた。ことに刺激を与えたのは、アメリカの批評家スーザン・ソンタグの『写真論』( 79年 晶文社)、フランスの記号学者ロラン・バルトの『映像の修辞学』( 80年 朝日出版社)と『明るい部屋』(85年 みすず書房)などの翻訳書であった。  それに応じたように海外の“ニューウェーブ”と総称される、新しい写真表現のムーブメントも紹介され始めている。  ことに81年から本誌で連載された、ニューヨーク在住の美術家小久保彰の「ニューヨーク通信」では、サンディ・スコグランド、ジョン・デボラ、ウィリアム・ウェグマンなどのコンストラクティッド・フォトがよく取り上げられている。それらは広告イメージの引用や流用などによって画面を構成する、キッチュな遊戯性を強く打ち出した作品群だった。このほか「マルチプル・イメージ」「ビッグピクチャー」「ニューペインティング」「中性的な性」といった動向も紹介された。総じて、これらは現実の投影としての写真への批判を含む、いわば「反写真」であり、写真と美術のクロスオーバーから生まれたジャンルだと小久保は述べている。  83年には巻頭で「現代アメリカ作家シリーズ」が連載され、小久保の記事と連動して作品が掲載された。8月号には、この連載とは別にロバート・メイプルソープがはじめて取り上げられている。美術ジャーナリストの高野育郎は、セックスをアートに昇華させたこの青年こそ「アメリカ現代写真界の今やヒーロー的存在」だと解説した。  パリの写真シーンも注目された。フランスでは50~60年代にかけアンリ・カルティエ=ブレッソンやロベール・ドアノーらが活躍したが、その後、アメリカに比べて停滞が続いた。それが70年代後半から商業ギャラリーが増加し、77年に開館したポンピドゥー・センターでも写真の収集と展示が始まった。さらに80年には隔年で「パリ写真月間」がスタートするなど、行政の肝いりで写真文化の振興が図られるようになった。現地の活発化する模様は、82年から連載された「ヨーロッパ通信」などで、写真エージェントの倉持和江や、パリ在住の写真家白岡順らが紹介した。  当時、パリで最も注目されていたのは、マネキンを使い少年期の記憶をファンタジーとして再現するベルナール・フォーコンだった。83年2月号の巻頭「ベルナール・フォーコンの世界」では、ヨーロッパ的なコンストラクティッド・フォトといえるその作品が、16ページで紹介され、作家で木村賞の審査員も務めた安部公房との対談が企画された。  そして海外の写真家のなかに交じって、83年4月号では、杉本博司の「劇場」が、珍しい“観音開き”のレイアウトで掲載されている。これは2月にツァイト・フォト・サロンで開催された個展のタイミングに合わせたもので、アメリカで活躍し、ニューヨーク近代美術館にも作品が収蔵された作家として注目されたのだった。
dot. 2017/02/21 00:00
第64回 ステレオサウンドの編集者/カメラマン、ヤスさんにインタビュー その3
第64回 ステレオサウンドの編集者/カメラマン、ヤスさんにインタビュー その3
SONYベータビデオテープL-500UHG 「エスカレーション」が入っているCD『河合奈保子ゴールデン☆ベスト A面コレクション』 写真集『河合奈保子写真集 再会の夏 (マガジンハウス・アーカイブス) 』 ヤスさんの秘蔵品、河合奈保子のサイン入りLP『LOVE』 「“河合奈保子のエスカレ―ションって、なんていい曲なんだろう”って感動しました。アイドルの世界には、曲から入ったんですよ」  アイドルの取材に撮影に動き回る男、ヤスさんへのインタビュー。その第3弾をお届けしたい。 「アイドルを撮ること」をテーマにした前回は、おかげさまで多大な反響をいただいた。今回は時計の針を大幅に戻し、ヤス少年がいかにアイドルの世界を発見したかについて会話を進めてゆく。「VHS対ベータ」「3倍」「ドレミファドン」「レッツゴーヤング」といった言葉(※あえて注釈は付けなかった。若者のみなさん、どうか自力で調べてください)にピンと来たあなたも、そうでないあなたも、ぜひお読みいただければ幸いだ。 ■一直線に河合奈保子です。抜群に歌がうまくて、ルックスもタイプだった ――幼いころからアイドルに関心があったんですか?  どちらかというとアニメに夢中でした。「超時空要塞マクロス」とか「うる星やつら」とか「機甲創世記モスピーダ」とか「サイボーグ009」とか。 ――では、いつごろからアイドル好きに?  それは修学旅行がきっかけだったんです。バスの中でカラオケ大会が始まるんですよ、そうするとクラスの女の子たちが「明星の歌本」(※集英社のアイドル雑誌の付録で、その時その時の新曲の歌詞が載っている)とかを見て、はやりの歌を歌う。そのなかに、河合奈保子さんの《エスカレーション》を歌った子がいたんです。それを聴いて、“なんていい曲なんだろう”って感動しました。アイドルの世界には、曲から入ったんです。 ――同級生が歌うアイドルのカヴァーを聴いて、アイドル・ポップスに関心を持ったということですね。すごく珍しいケースだと思います。そうした場合、その同級生を好きになりそうなものですが。同じクラスなんだし、簡単に会えるし話せるし。  あはは、そこはヲタクというか“まっすぐに見れないの、案外内気な人”なんでしょうね。曲のインパクトは相当なもので一直線に河合奈保子です。当時はスマホなんてなかったから、自宅に帰るまで必死に“河合奈保子”“エスカレーション”って唱えて、本屋へ行って雑誌を買い漁りました。 ――クラスメイトより、河合奈保子のほうに関心が行ってしまった。  そうです。いい歌だなと思って調べて、河合奈保子本人の歌唱(当時はもちろんテレビを通して)を聴いたらすごくうまいと思った。当時もアイドルはいっぱいいたけど抜群に歌がうまいぞ、と。なおかつルックスも僕のタイプだということで、一気にファンになったんです。1983年のことですね。その頃、「マクロス」も朝の6時に再放送をしていて(日曜の本放送はほとんど見られなかった)、母にビデオデッキを買ってもらって、最初は「マクロス」を録画するのが目的だったんですが、そのうち河合奈保子も録るようになって。河合奈保子をきっかけにいろんなアイドル番組も見るようになりました。 ――最近、再評価の機運があるじゃないですか。往年の写真を集めたフォトブック『月刊平凡 GOLDEN BEST!! Vol.1 河合奈保子写真集 再会の夏』も売れ行き好調だそうです。  遅いですよっ! 80年代のアイドルってけっこう芸能界に残っていて、今も歌手やママさんタレントとして活動している方が多いんです。でも河合奈保子は長い間休業を続けていて、テレビにも一切出てこない。 ――そこも根強い人気を保っている理由のひとつなんでしょうか。ところでビデオはVHS派でしたか、ベータ派でしたか?  ベータです。「ビデオコム」というオーディオヴィジュアル雑誌が季刊から隔月刊に変わった頃で、その新聞広告を見かけたんです。「ビデオコム」はハード的な記事も充実していて、僕にはさっぱりでしたけど、“どこそこの回路を切断したら、画質が向上した”なんていう特集があって面白かったので、購読するようになったんです。そこからAV(オーディオヴィジュアル)に目覚めてしまって。(宣伝するとHiViは1983年創刊です(笑)) ――なぜベータに?  1983年はちょうどビデオの音質向上元年とも言える年で、先手を打ったのがソニー。SL-HF77というベータHiFi1機を出したんです。デザインもよかったし、ダイレクトドライブ機構だったので反応もキビキビしていた。さらに、コマ送りもできてと、マニア心をくすぐるには充分な仕様だったんです。価格も相当なものでしたけど(笑)。いま思えば、リモコンが別売りってすごいですよね(6000円)。 ■1コマでもCMが入るのが嫌だったし、1コマでも本編が欠けるのは嫌だった ――僕は今まで一度もベータのテープを手にしたことがありません。VHSのテープとはどう違うんですか?  ビデオもカセットと同じように、磁気テープに信号を記録していきます。ただカセットと違って映像記録を行なう磁気ヘッドは回転していて、動いているテープに対し、斜めに信号を書き込んでいくことで、相対速度を上げて高い周波数の信号を書き込めるようにしているんです。だけど、音声のほうはカセットと同じくテープの端の部分に固定ヘッドで記録していきます。  ベータの場合、最初の録画モードはβIと言って、秒速4センチだったんです。たとえば「L500テープ」は、カセットの中に500フィート分のテープ(※1フィート=約30.48センチ)が入っているという意味で、それを秒4センチで記録していくと、60分の録画ができる。それに対してVHSはテープサイズがでかい上に、秒速3.3センチ(標準モード)。でも2時間録れる、と。当時はカセットテープの速度が秒4.76センチでしたから、まぁ音質はそれほどひどくはない、という感じで。  ただ時代の要請は長時間録画に向かっていて、録画モードが増えていくと当然テープスピードはどんどん落ちて行き……。標準で2時間録れるVHSに対し、ベータは標準で1時間。ということでソニー(ベータ)は「βⅡ」モードを開発して秒4センチを秒2センチにして、2時間録れるようにした。そうしたらVHSは「3倍モード」を開発して6時間録れるようになった。でもそうなると音はどんどん悪くなっていく。そうした時代に登場してきたのが高音質モデル、ベータHiFiやVHS HiFiだったんです。それで飛躍的に音が良くなって、CDと同じ20Hz~20kHzの記録を可能にしたんです。 ――それで「マクロス」や河合奈保子を録っていたわけですね。  はい。「マクロス」は2時間テープ(L500)だと、CMをカットすれば5話入りますが、カットしないと4話しか入りません。βⅡは500フィートを毎秒2センチで動かしているので、計算すると125分。CMカットした本編が1話25分以内なら、なんとか5話入る計算なんです。当時はテープがとても高価(1本5000円)だったので、1本のテープになるべく多く録画するためには、生放送を見ながら、生編集(CMカット)するしか手立てはなかったんです。そのために、1話目を見ながらストップウォッチ片手に放送のタイムコード表を作って、2話以降はそれを元に生編集するわけです(笑)。「マクロス」で言えば、ちょっとうろ覚えですけど、6時00分00秒にオープニングが始まって、それが90秒。提供のアナウンスに続いて1分間のCMがあって、6時02分40秒に本編が始まります。Aパート、アイキャッチがあってCM60秒、アイキャッチ、Bパート、エンディング、CM、予告。ストップウォッチ片手にリアルタイム編集です(笑)。HF77の場合、再生一時停止→録画一時停止に持っていくと10コマぐらい戻るので、それを勘案して再生一時ポイントを決めます。1コマでもCMが入るのが嫌だったし、1コマでも本編が欠けるのは嫌だったので、そこは毎回真剣勝負でした。 ――オープニングやエンディングは、一度録画すればいいのでは?  それが、オープニングは毎回同じですけど、エンディングは各話に携わったスタッフや声優さんの名前が出てくるので、毎回違うんですよ。だからエンディングは必ず録っておくんです。困ったのは「レイズナー」でしたね。毎回オープニングにアバン(映画・ドラマ・アニメなどでオープニング前へ挿入される部分。アバンタイトル)が入るんです。ただ、入るところは決まっていたので、そこだけ録ってましたけど。 ――歌番組の場合は?  アニメより面倒でしたよ。河合奈保子の名前が新聞のラテ欄に書いてあっても、その番組のどこに出てくるかわからない。だから録画ボタンに手をかけて、ずっと待っているわけです(笑)。さらにCM中も気が抜けない。河合奈保子が出るCMが流れるかもしれないから。「アクアミー」(※ライオンのシャンプー)とか「からまん棒」(※日立の洗濯機)とか、いろんなCMに出ていたので。 ――当時の歌番組では、松田聖子や小泉今日子も常連だったと思うのですが、それは一切カットして、河合奈保子だけを録画していたのですか?  最初はそうでしたね。とにかく、テープが高かったので(笑)。でも、他のアイドルも見ていくうちにいいなと思って、録り始めるようになったんです。2時間テープだと20~30曲ぐらい入るんですよ。日曜日にテープを新調したら「クイズ・ドレミファドン!」から始まって、「スーパーJOCKEY」に行って、「レッツゴーヤング」で締め。月曜は「ザ・トップテン」「夜のヒットスタジオ」で、火曜は「ドリフ大爆笑」……と延々と録りまくるわけです。ビデオデッキ、フル回転ですよ。そこに週15本ぐらいのアニメ録画も重なって……。 ――少し後に出てきた、おニャン子クラブ(85年デビュー)はどうでしたか?  ハマれなかったですね。80年代後半で僕が好きだったのは島田奈美、畠田理恵、水谷麻里、松本典子、「メガゾーン23」の宮里久美、後藤恭子、太田貴子とか。90年代になると仕事が忙しくなってほとんどアイドルは見てないです。96年には河合奈保子も結婚・休業(97年)してしまったので、そこで第1次アイドル人生は終了。だから、初代TPDもほぼ知らない(笑)。  90年代の終わりにビデオ雑誌の編集部に入って、ソフト部門を担当するようになって、まずは監督とか女優さんの取材から、第2次アイドル人生が始まったんです。今は少なくなってきましたけど、当時は一つのソフトメーカーで、映画ソフトもアイドルソフトも扱っているところがあって(ポニーキャニオンとか、バップなど)、たまたま当時お付き合いのあった宣伝担当の方が両方を受け持っていることも多かったんです。そこで、「僕、実はアイドルも好きなんです」……という話をすると、今度○○○○のイベントしますとか、発表会見をしますから来てください、と呼ばれるようになったのがきっかけですね。当時はまだ「ファイブスターガール」とか「ミスマガジン」、「日テレジェニック」があったので、その取材をするようになってグラビアにも取材の幅を広げて行きました。2000年代後半になるとロコドルブームが起きて、ロコドルが映画に出るようになってきたんです。すると、主演女優の取材=ロコドルの取材という形になって、じゃあ今度ライヴにも来てください、という流れから、いまのライヴ取材にたどり着いた、と(笑)。Tパレに加入した当時のLinQとかも撮ってましたよ。  次回はいよいよラスト。「女優撮影のコツ」、「ガールズ演劇の奥深さ」、「ウェブサイト“ヤスのアイドルラブ”作成のきっかけ」等についてもうかがった。お楽しみに! [次回2017年3/20(月)更新予定]
2017/02/21 00:00
難民の“地獄”と、交わらない島の生活 巨匠ロージ監督×島村菜津が語る
難民の“地獄”と、交わらない島の生活 巨匠ロージ監督×島村菜津が語る
映画監督 ジャンフランコ・ロージさん(53)/1964年エリトリア生まれ。ニューヨーク大学フィルムスクール卒業。メキシコの麻薬カルテルの殺し屋を追う「El Sicario,Room164」で注目される。「ローマ環状線、めぐりゆく人生たち」でドキュメンタリー初のヴェネチア国際映画祭金獅子賞(撮影/写真部・岸本絢) ノンフィクション作家 島村菜津さん(53)/しまむら・なつ/1963年福岡県生まれ。東京芸術大学芸術学科卒。イタリア在住。スローフード運動を紹介した『スローフードな人生!』(新潮社)で注目される。近著に『スローシティ 世界の均質化と闘うイタリアの小さな町』(光文社新書)など(撮影/写真部・岸本絢)  生死の際にいる難民と、島民の生活。この二つの世界は交わることがない。ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作「海は燃えている」を携えて来日したジャンフランコ・ロージ監督に、島村菜津さんが聞いた。 *  *  *  イタリアのランペドゥーサ島と聞けば、欧州に逃れるアフリカ難民が流れ着く島ぐらいしか日本人にはイメージが浮かばないかもしれない。その島のドキュメンタリー映画なら、報道されない情報や当事者の肉声といった内容を想像しがちだろう。ところが、この映画はそうした期待をあっさりと裏切る。  物語には島でのびのび育つ少年が登場する。だが、少年は片方の目が極端な弱視だった。一方で難民の姿は、島民の背景のように描かれ、二つの世界は交わることなく進む。唯一、その接点にいるのが20年来、難民たちを看続けてきた医師だ。映画は難民問題を「情報」として捉えるのではなく、国を追われ、国境を自由に越えられない人々の苦境を、自分の頭で考え、感じることを喚起する。ドキュメンタリーの新たな地平を開く画期的な作品だ。 島村(以下、島):監督は島に1年半も暮らしながら、作品を仕上げたそうですね。あのサムエレという少年を見いだすのは大変でしたか? ●少年の内部の変化が鍵 ロージ(以下、ロ):サムエレとの出会いは、僕のひとめぼれのようなものでした。彼はいつも独りで、背中を丸めてとぼとぼ歩いている。かといって暗くもない。まるで少年の原型のような無邪気さで、現代人とは思えないような世界に生きている。彼に出会って、物語を構成し直すことにしたんです。映画の最大の出来事は、サムエレの弱視と、これが治っていくこと。少年の内部の変化を通じて何かを描けたらと考えたんです。 島:少年が鳥に語りかける場面は、魔術的ですらありますね。 ロ:「特撮か」とも言われたけどね。あの場面で少年は鳥と何を話したのか。少年はそれまでパチンコ遊びで撃っていた鳥をもう殺さない。その変化に映画の鍵があるのです。 島:後半、撮影中に起きた難民船の悲劇が挿入されますね。 ロ:イタリア海軍の船には20日ずつ2度、乗りました。僕が死者たちの撮影に躊躇していたら、船長に、船底へ下りて撮影するのが君の義務だと言われた。あまりのショックと怒りで撮影を終えました。 島:真っ白なシーツを敷き、夫の写真と聖像にキスしてまわるおばあさんの場面は美しいですね。 ロ:あれは死の場面を撮影した後、挿入しました。その後の20分は沈黙です。亡き夫への島の風習です。死への弔い、僕の好きなロッシーニの音楽もそう。喪に服すかのような沈黙、そして変容です。 島:ランペドゥーサ島の女性市長は熱心な難民擁護派として有名です。けれどもEUは昨年のテロ多発を契機に、難民を受け入れすぎるイタリアに難色を示していますね。監督は、それまでは知られざる“海からの何者をも受け入れる“ような島の人々を描きたかったそうですが、豊かな幸を与えもすれば、瞬く間に命を奪う夜の海に身を委ねる漁師の姿は、象徴的でした。あれもメタファーですね。 ●想像絶する難民の地獄 ロ:もちろんです。サムエレの戦争ごっこ、架空の敵への不安、よく見えない片方の目、それがやがて見えるようになること……。すべてがメタファーです。漁師が生きる海の流動性、しなやかさもすべてです。 島:昨年、伊パレルモ市長に会って話を聞きましたが、アフリカ難民は、船に乗るまでも貧困や飢餓、渡航費用の強奪、強姦、内臓売買のために子どもが殺害されるなど想像を絶する地獄を経験した人が多い。しかも小さな船に定員の3倍も乗り込む。息苦しい船底に押し込まれるのは、密航仲介業者に支払う金額が少ない人たちでしたね。 ロ:小さな難民船で、30万~50万ユーロの儲けだそうです。非人道的な許し難い組織犯罪です。 島:映画には、鮮烈な“難民ラップ”を歌う青年が登場しますが、あの逸材はいったいどこで発見したんですか? ロ:みんな歌いはするけど、あの青年の才能は特別です。僕はナイジェリア移民の青年たちと海上で出会い、彼らは難民センターの部屋にも招き入れてくれた。彼の歌は、10万の言葉を尽くすよりも饒舌だったでしょう。 島:本当に。ところで監督は、アフリカのエリトリア生まれなのですね。かつてのイタリアの植民地ですが、ご両親は何をされていたのですか? ロ:父はムッソリーニ時代、世界恐慌で打撃を受けた企業救済のため組織されたイタリア産業復興公社に勤めていました。母も外交官でしたが、結婚して退職しました。 島:10代でご両親と別れ、ローマに移住されたそうですね。 ロ:12歳の時です。姉が重い病気になって、イタリアで治療もしましたが、結局他界して……。 島:イスタンブールにも住まわれていますね。 ロ:父の仕事の関係です。 島:監督がアフリカ生まれで、東の古都にも暮らした経験から、生粋のイタリア人とは違う鋭い視点、広い視野を持ち得たのではないかと思ったのです。壁がない。どんな人種にも民族にも、職業にもまったく垣根がない。 ロ:映画というのは、世界的言語ですから、垣根のなさは深く心がけています。 ●「日本の大学で教鞭を」 島:様々な都市で暮らされましたが、居心地がいいのは? ロ:いわゆるお国自慢の“イタリア人気質”もいいところばかりではないし、他者とのほどよい距離感という点でニューヨークが一番かな。オバマ前大統領は「壁をつくる国家は孤立するだけだ」と言っています。人と人の間に壁をつくる人も、自らを牢獄に閉じ込めるだけです。歴史を振り返れば、壁は常に壊されてきた。だから最近の米国の風潮は非常に残念ですね。 島:監督は、英国のケンブリッジ大学やニューヨークなどの大学でも教鞭をとられ、日本の大学でも教えながら、映画を撮りたいという希望もお持ちですね。 ロ:若い頃、仕事で東京に約1カ月滞在しましたが、この社会についてよくわからないことがある。だから学生に教わりながら考えてみたいんです。 島:ウンベルト・エーコは、21世紀は欧州で有色人種が多数派になると予言しましたが、映画はハリウッド中心に西洋中心史観のままです。滅ぼされるマヤ文明側から描くスペイン人なんて観たことがない。アジア人もまだ自らの文化を表現することが苦手です。監督の目で見つめた日本をぜひ観てみたいです。 ●姿はないが真実がある ロ:実は次の映画は中東のある国で撮るんだよ。 島:えっ、どこですか? ロ:それはまだ秘密です。 島:楽しみですね。影響を受けた映画監督はどんな方ですか? ロ:ドキュメンタリー映画はあまり観てないんですが(笑)、小津(安二郎)が好きです。彼のカメラワークと独特の間ですね。あとは溝口(健二)、ルイス・ブニュエル、ピエトロ・ジェルミです。でもこの1年はいろんな国を映画のプロモーションで巡ったので1、2カ月はゆっくり休みたいです。 島:緻密に構成される監督ですが、フィクションを撮らないかとは言われませんか? ロ:この映画も、難民だけを描いたわけではなく、光と影、死と生、変化と成長、様々なテーマがある。現実の人々を撮り、再構成することで力強い物語に変える作業に夢中なのです。ありふれた日常が日常でなくなるような、超現実的、抽象的で、不確かなもの。イタロ・カルヴィーノが、はっとして振り向いた時、もうその姿はない。だが、そこに何らかの真実がある、というようなことを書いているけど、余韻というのか、そんな映像を目指しているんです。 島:今日は貴重なお話をありがとうございました。またお会いしましょう。 (構成/ノンフィクション作家・島村菜津) ※AERA 2017年2月20日号
AERA 2017/02/18 16:00
「なぜ私だけ?」いまだに続く共稼ぎ夫婦「妻の不公平感」
福井洋平 福井洋平
「なぜ私だけ?」いまだに続く共稼ぎ夫婦「妻の不公平感」
水道もガスも整っておらず、電化製品も普及していなかったころの家事は今以上に重労働だった。今は楽になったはずだが、負担感は減らない/東京都大田区「昭和のくらし博物館」で(撮影/門間新弥)  日進月歩の家電の進歩で、家事は驚くほど楽になって…いないのはなぜだ! 気が付かぬうちに“メタボ化”した家事は時に苦役だ。家事は本来生きること。私たちの手に、家事を取り戻そう。AERA 2017年2月13日号では、「家事からの解放」を大特集。  家電の進化は女たちを重労働から解放し、共働きが増えて「女は家庭」ではなくなった──はずだったのに。毎日の生活につきまとう家事を、いつ誰がやるのかという大問題が、新たなストレスを生んでいる。 *  *  *  朝5時半。キッチンに立った会社員の女性(35)は、寝起きの頭が怒りに満ちていくのを感じた。昨夜、片づけたはずのシンクに使用済みのグラスと皿と箸が置かれていたのだ。  あいつか……。  晩酌する夫の姿が頭に浮かんだ。これぐらい洗ってくれよ。箸をシンクに直置きしないでって言ったのに。誰かが片づけてくれるなら私だってもっと楽しく料理ができるのに。考えるほどイライラが募る。子どもができてから、家事は急激に増えた。苦にならない家事なんてない。生きていくためにやるしかないから仕方なくやっているということを、夫はわかっているのだろうか。  怒りに任せて口を開こうとして、思いとどまる。子どもたちを起こす前に、洗濯機を回して朝食を作り、身支度を済ませなくてはならない。その後も子どもの朝食と着替え、連絡帳書きをこなし、保育園が開く時間ぴったりに子どもを預け、急いで電車に乗っても出勤時間ギリギリ。夫と話す数分も惜しかった。 ●夫はゆっくり朝風呂  子どもをせっつく声は焦りで次第に怒鳴り声に。罪悪感も気持ちを暗くした。そのそばで、夫は日課どおり20分はトイレにこもり、ゆっくりと湯船につかるのだ。家事といえば洗濯物を干すだけで、自分の準備をしてサッと家を出てしまう。 「洗濯物干しも、私が家事と育児をすべて抱えたまま職場復帰して倒れ、頼み込んでやってもらった。家事ぐらい自分で気づいてやってほしいのに。なぜ私だけがこんなにやらなければならないんでしょうか」  淡々と分担を話し合いたいけれど、頭を整理する時間もない。小さなイライラをのみ込んでいるうち、気づけば冷静に向き合えない状態になってしまった。  普段はわかり合えているはずの夫婦も、家事のことになると一転、闘争へと発展しがちだ。 「若い世代の人たちには、私たちのような不毛な争いをしてほしくない」  そう話すのは、関西地方でフリーランスとして働く50代の女性だ。夫は女性の社会進出については推進派なのに、自分の家のことは妻にすべてやってほしいと譲らなかった。 「それなら俺と同じぐらい稼いでこい」 「あの奥さんは仕事も家事もできているのに」  モラルハラスメントに耐えられず、一緒に暮らすことをあきらめた。その後、家事がトラウマになり、今もキッチンに立つのが苦痛だという。古い世代の人だから、と女性は言うが、冒頭の女性のように20代、30代でも状況が変わったとは思えない。  食事をして、お風呂に入り、着替えて、寝る──。毎日の生活について回る家事が、こんなにもストレスを生むものだった時代はあっただろうか。技術の発達で重労働ではなくなったはずなのに、やらなければ咎められ、分担争いは家族を暗黒のストレス状態へと突き落とす。この苦しさの正体は何なのか。  ひとつは先の女性2人のように、圧倒的な不公平さに納得できないことだろう。アエラ編集部が行ったアンケートでは、全体の8割弱の人たちが「家事が負担」だと答えた。しかも、女性では8割超、未成年の子どもがいる女性に限ると9割近くが負担感を訴える。もちろん「洗濯物を外に干すのは気持ちがいい」「料理は好き」などの声もあり、人によって、または作業の内容によって好き嫌いや得意、不得意がある。だが、それにかかわらず毎日一定の作業をこなさなければならないという義務感も、精神的な負担になっているようだ。  人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」では家事をひとつの「労働」ととらえ、それを担う妻に給料を支払うという契約結婚の夫婦を描き、大きな反響を呼んだ。そこでは家庭は「企業体」、夫婦は「共同経営責任者」と定義され、夫婦2人の「共同経営責任者会議」では、夫のリストラや妻の再就職による家計の見通し、その場合の家事分担などが話し合われるという斬新な内容だった。 ●やらなきゃ「怠け者」  そこで、今回のアンケートでは、家事に給料が払われるとしたら月にいくらもらいたいか(または払うか)も質問。夫婦の場合、「お互いさまなので対価は求めない」と平等に評価する答えのほか、夫と妻に傾斜をつけて互いに数万円ずつ払い合うスタイル、「手取り30~40万円ほしい」と会社員のフルタイム勤務と同程度の評価を求める立場まで、さまざまだった。中には「お金をもらってもやりたくない」という人も。自分や家族が行う家事をどう評価するかは個人差がとても大きく、作業のレベルや頻度も違う。「逃げ恥」のように、それらをすり合わせることが、実は時間を要するわずらわしい作業になるのだ。 「家事をしない」選択を許さない風潮も苦しさを増大させる。特に女性への風当たりは強い。 「家事から解放されたいと思う人を、世間は『怠け者』と責めずに、もっと理解すべきです」  そう話すのは四国在住の契約社員の女性(48)だ。料理嫌いで、毎日、朝食はカロリーメイト。昼はスライスチーズと食パンと牛乳。夜は世間体のためだけに一汁二菜を作る。そのことは誰にも言わない。それどころか栄養士の資格まで取り、「できるけどやらない女」を装っている。そこまでするのは、家事一切は女の仕事とされてきた幼いころの記憶があるからだ。 ●忙しすぎて限界  九州の田舎では、冠婚葬祭のたびに、本家の女衆が数日かけて掃除をして、数十人分の料理や飲み物の準備をした。当日は大皿に盛られたフルコースの手料理が食卓を埋め尽くす。一方で、大きな魚を引っ提げて登場した男たちは居間にどかっと座って酒を飲むだけだった。 「手間暇をかけることが真心だとされていて、料理を買うなんて許されない。まして料理嫌いなんて言えない。今はまだ、うまくバリアーを張って生きていくしかないんです」 「家事を上手にこなすのが女の鑑(かがみ)」。そんな価値観は、限られた条件のもとで成り立っていた専業主婦全盛期の遺産だ。誰もが忙しい一億総活躍時代。日本中の家庭から悲鳴が聞こえてくる。 「疲れた身体でお金をかけずに家事をしていくのは大変」 「思いつく家電をすべて導入しても日々を回すのが精いっぱい」 「忙しすぎて自分の体調の悪さにも気づかず、仕事納めの翌日に倒れた」  この大問題を解決する方法が、きっと何かあるはずだ。(編集部・金城珠代、福井洋平) ※AERA 2017年2月13日号
働き方働く女性夫婦
AERA 2017/02/07 11:30
糖質制限・コンビニ食はNG? ダイエットにもいいアンチエイジング食
糖質制限・コンビニ食はNG? ダイエットにもいいアンチエイジング食
ポーラ西国分寺ショップでオーナーを務める三星玲子さん。「化粧品販売は夢を売る仕事。だからこそ、いつも奇麗にしていたい」と話す。指先まで、お洒落に抜かりがない(撮影/工藤隆太郎)  今は若く元気でも老後は体がボロボロ…誰しもそんな事態にはなりたくないはずだ。世の中の現役バリバリな高齢者になるには――アンチエイジングの専門医に元気な老後を迎えるための食事法を聞いた。 「仕事することが最高に楽しくて、やめられないです」  東京・西国分寺のポーラショップでオーナーを務める三星玲子さん。81歳でありながら、同ブランドでビューティーディレクターとして活躍する約5万人の中で、生涯売り上げトップクラスだ。会うとその活力に圧倒された。とにかく元気で笑顔が絶えない。現在も同世代を中心に約80人の顧客を抱え、活躍しているというのもうなずける。 「お客さんと話している時間がいちばん楽しい。好きという気持ちだけでここまで続けてきました。体の不調もないし、自分で選んだ仕事は最後までやりたい」  三星さんの一日は、朝5時に起床し、自宅近くの公園で近隣の人々と行うラジオ体操から始まる。どんなに寒くても、毎日続けている。  その後、朝食を食べ、掃除、洗濯などの家事を済ませる。食事は三食とも手作り。朝と昼はしっかり食べるが、夜は控えめにしている。駅まで10分ほど自転車をこぎ、店に着くのが朝9時半。夕方6時まで、みっちり仕事をこなす。  店でじっとしていることは少なく、顧客の元を訪ねるなど、動いている時間が多い。帰宅すると夕飯の支度をし、入浴後には肌の手入れを欠かさない。 「美容でいちばん大切なのは、洗顔。いくら高価な基礎化粧品を揃えても、毛穴の汚れをしっかり落としてからでないと、肌は栄養分を吸収してくれません」  夜は10時半には就寝し、翌日に備える。まさに“現役バリバリ”の生活ぶりだ。 「じっとしているより、動いているほうが楽しいんです。だから日曜日もほとんど休みません。お客さんに夢を与えたいから、いつもお洒落に奇麗にしていたい。明るく前向きでいるために暗い話やマイナス発言はしません」  イキイキと元気な三星さんの暮らしぶりには、31歳の記者も見習いたい点がたくさんある。では、今回の取材で聞いたアンチエイジングの専門家らの話を紹介しよう。  まず気をつけたいのが食事。『習慣力で若返る!』などの著書がある人気ドクター、日比野佐和子さん(46)=Rサイエンスクリニック広尾院長=は言う。 「特別な治療やケアをするのではなく、ちょっとしたことに気をつけるだけで、若さに差が出てきます」  日比野さん自身、肌年齢22歳、血管年齢30歳、骨年齢24歳、視力2.0と、驚異のアンチエイジングを体現。20代といっても通用する容姿の持ち主だ。  日比野さんは一日の食事の中で、血糖値が急激に上昇しないことを意識しているという。まず、具体例を一つ。脂質と糖質のバランスが取れた朝食をしっかり食べること。朝食の栄養分には、起床時の血糖値を上げ、内臓や神経、脳の働きを正常に戻す働きがある。 「エネルギー消費量を高める食事の分量は、朝食5:昼食3:夕食2の割合がおすすめ。朝食を抜いて、空腹の時間を長く取りすぎると、昼食や夕食の後の血糖値が上昇しやすくなります」  さらに同じメニューの食事でも、食べる順序を変えるだけで血糖値の上昇は抑えられ、太りにくくなるという。その目安となるのが、食後の血糖値の上がり方を数値で示した「GI値」だ。低GI食品の代表的なものが、食物繊維の豊富な野菜やキノコ類、ナッツやチーズなど。定食なら、いきなりご飯やパンから食べ始めるのではなく、サラダや汁物から先に食べ始めると良い。 「小腹が空いたら、ナッツをつまみましょう。血糖値の上がりにくい午前中に1回、夕食までに1回、間食として食べるのがおすすめです。食べすぎを防ぎ、血糖値の上昇を抑える効果も期待できます」  油選びですすめるのが、「亜麻仁(あまに)油」や「えごま油」などのオメガ3系油。亜麻仁油には高血圧や心臓病、がんの予防効果のほか、アレルギー症状を抑える働きがあるとされる。えごま油には認知症の予防や美肌効果があげられる。 「体内の脂質バランスを整えることは、加齢臭対策にも有効。皮脂腺やアポクリン腺から発生するニオイ物質の大半は、脂質から作られます。良質な油をとることを基本に、肉や乳製品など動物性脂肪はとりすぎないようにしてください」  積極的にとりたい食材として日比野さんが特にすすめるのが、卵、ヨーグルト、トマト。卵黄に含まれる成分は目の老化を防ぐ働きがあると言われ、老眼や白内障予防に役立つ。紫外線やパソコン、スマホの液晶画面から発せられる青白い光=ブルーライトへの抵抗力を高める効果もあるという。 「卵をはじめ、良質なタンパク質を朝に食べると、睡眠の質を高めるのにも有効です。腸内で脂肪が細胞に送り込まれるのを抑え、エネルギーに変える働きのある“やせ菌”を増やすためにも、ヨーグルトは積極的に摂取して。電子レンジ(600W)で40秒程度温めると、有効成分の吸収率も高まります。若々しい肌を保つには、トマトに含まれる色素成分リコピンが効果的。悪玉コレステロールの酸化を抑え、血流を改善するほか、太りにくい体質作りにも役立ちます」  コンビニなどに多く置かれる、袋詰めされたパンやスナック類、即席めん類など多くの添加物の入った「超加工食品」を食べることに警鐘を鳴らす声も。元順天堂大学大学院医学研究科教授の白澤卓二さんは、「40代半ばからは特に、超加工食品に注意して」と指摘する。 「多くの人は、自分でも驚く量の添加物、砂糖を超加工食品から摂取しているはずです。理想的な食事は、玄米に焼き魚、味噌汁、納豆、お新香の和食。60歳を過ぎたら外側より内側の美しさが大切。健康を保つ上で最も大事な食事をおろそかにしてはいけません」  話題の糖質制限ダイエットは、「溌剌(はつらつ)力」を奪うという声もある。男性医学(メンズヘルス)を専門とする順天堂大学大学院医学研究科教授の堀江重郎さん(泌尿器外科学)は言う。 「糖質制限ダイエットでやせたけれど、見た目が老けてしまったという人も多い。これは糖質制限によるホルモン物質の低下が主な原因です。年をとればなおさら、きちんと糖質をとりながら運動をすることが大事。安直に糖質制限すると、活力を奪いかねないので注意してほしい」  日本抗加齢医学会理事長を務める慶応義塾大学医学部教授の坪田一男さん(眼科)は、1日2リットルの水分摂取を推奨する。 「現代人は水分が不足しがち。渇いてから飲むのでは遅い。食事で500ccの水分は摂取するとして、残り1.5リットル(500cc×3)を1日の中にうまく配分してとること。水分をしっかり補給していれば、体調が整いやすくなりますよ」 ※週刊朝日  2017年2月10日号より抜粋
シニアダイエット美容
週刊朝日 2017/02/07 07:00
Airbnbのホストに必要なのは英語力ではなかった!
Airbnbのホストに必要なのは英語力ではなかった!
ホストに求められるのは、英語力よりも、ゲストが日本を満喫するための気配りや手助けだ (※写真はイメージ)  時代とともに言葉が生まれ、意味が移り変わっていくのは日本語も英語も同じ。それなのに、英語は高校や大学で学んだまま。この言い方で、ちゃんと伝わっているんだろうか……。そんな不安を抱えているあなた。単語選びやちょっとしたあいづち、発声で、あなたの英語は見違えるのだ。AERA 2017年2月6日号は、SNS時代に生まれた新しい単語、名スピーチに共通の「心を動かすポイント」と共に、「惜しい」英語からの脱却法を特集している。  旅行や出張の滞在先を探すゲストと部屋を貸したいホストを結ぶAirbnb。東京五輪のホテル不足解消策としても注目される。気になるのはホストに必要な英語力だ。 *  *  *  東京・六本木にほど近い自宅2階の和室に、100組近い外国人ゲストを迎えてきたという男性(41)は、その経験から、Airbnb(エアビーアンドビー)のホストに必要な英語力についてこう話す。 「中学校の教科書レベルの英語で十分。自己紹介文はインターネットの辞書で例文検索をすれば書けるし、そもそもゲストは日本人の英語力に期待していません」  IT企業を経営している。ホストとしてAirbnbに登録したのは3年前。以来、必要に迫られて英語を話したり書いたりしているが、 「ネイティブのゲストと話していると、何か話すたびに『Sorry?』と聞き返されます(笑)。それでも楽しくやれているし、ゲストから英語力の低さを指摘されたことなんて、一度もない。自分のことを『英語ができない人』とは、思わなくなりました」 ●できるだけ早く返信  そもそも英語が母国語ではないゲストも多く、Airbnbのやりとりに関して言えば、「惜しい英語」がむしろ標準なのだ。  ゲストがわからないことはその都度説明すればいいので、特別なマニュアルやハウスルールは作っていない。ただし、後でクレームにならないように、 「僕自身も同じ家で暮らしていることや他のゲストが来る可能性もあることなどを伝える定型文は、予約が確定する前に送ることにしています。そのうえで、この部屋にするかどうかはご自身で決めてください、と。これでいままで、トラブルになったことはありません」  外国人は物言いがストレートだというのも日本人の先入観だと男性は言う。 「彼らだって部屋を貸してくれた恩を感じているから、苦情や要望はオブラートに包んで伝えてくるし遠慮もします」  書くにしろ話すにしろ、メッセージの最後を「Thank you」「Thanks」と締めくくれば、全体の印象が和らぐことも、外国人ゲストとやりとりする中で覚えた。  都内で三つの物件をAirbnbに登録する会社員の男性(44)は、下北沢のアパートを訪れたオーストラリア人ゲストが、狭い路地に古着屋や雑貨屋、飲食店が並ぶ駅前の風景を見て、 「こういう街に泊まってみたかったんだよ!」  と目を輝かせたことが忘れられない。ゲストたちは、Airbnbに「安さ」とは違った価値を求めている。 「例えば下北沢は、ローカルな雰囲気も楽しめて、新宿や渋谷へのアクセスもいいから、外国人旅行者からの人気が高い。でもホテルや旅館がない。だからAirbnbなんです」  ホストに求められるのは、ゲストが日本を満喫するための気配りや手助けだ。  空港から都心へのアクセスは「説明が一番楽なのはリムジンバス」だが、JRのパスを購入済みのゲストも多いので、電車での経路も必ず伝える。顔を合わせてすぐに「野球のチケットを取りたい」「この辺でおいしい寿司屋は?」と積極的に話しかけてくる欧米人に比べ、アジア人は口数が少ないので、緊張した様子なら「何時に日本に着いたの?」「今日は何をする予定なの?」と話しかける。  心がけているのは、問い合わせのメールにはできるだけ早く返信することだ。 「ゲストにとって大切なのは、ホストの英語力より対応力。すぐに回答できない質問には、ひとまず『調べて後から連絡しますね』と返信するようにしています」  都内の飲食店で働く男性(27)の自宅は、世田谷区にある1Kのアパート。ベッドとソファが1台ずつの部屋を、ゲストと共有するシェアルームとして登録している。 「ベッドはゲストに貸して、自分はソファで寝ます。ゲストは大半が男性だから、洗濯物も置いといてくれれば、自分のと一緒に洗っちゃいますね(笑)」  ウェブサイトの紹介文には、部屋のアピールポイントや、仕事柄、帰宅が深夜になること、近隣が住宅街であることなどを書き、文章だけでは伝えにくい家までの道順は、予約確定後に最寄り駅からの経路をiPhoneで撮影したムービーを送信して説明している。 ●困りそうなことを想像  英語力は「旅行では不自由しないけど、自信があるというほどでもない」というこの男性。以前、米ロサンゼルスへ旅行したときに「カウチ・サーフィン」を体験した。旅行者に自宅のカウチ(ソファ)を宿泊場所として無料で提供する、という発想から始まったインターネット上のコミュニティーだ。 「見ず知らずの自分を受け入れてくれたことがうれしかったし、最高の思い出にもなった。自分も日本へ来る外国人に同じことができないかな、と」  宿泊代は1泊3千円前後。日本人との交流を求めて訪れたゲストと、ときにワインを飲みながら趣味の音楽の話で盛り上がり、帰宅が遅くなる日はまめにメールやLINEを送る。 「メッセージは『寒かったら、エアコンをつけていいよ』とか『おなかがすいたら、近くのスーパーに行ってみて』とか、自分の不在時にゲストが困りそうなことを想像して、書くようにしています」  外国人ゲストが滞在後にAirbnbのサイトに書き込むレビューは、単語や表現の勉強にも役立つ。特に参考になるのが、ホストや街に対する「ほめ言葉」のバリエーション。果たして自分の住んでいる町は、外国人的にどうなのか。試みに自宅の最寄り駅名で空室検索してみると、50件以上の物件がヒットした。  いくらなんでも、ただの住宅街。「退屈!(boring!)」なんて書かれてたりして……と思ったが、都心から離れているところがかえってよかった様子。なるほど、こういう見方もあったか。(ライター・木下昌子) ※AERA 2017年2月6日号
旅行
AERA 2017/02/04 11:30
46%が年収1600万円以上! 現役医師534人調査でわかった「リアル」
46%が年収1600万円以上! 現役医師534人調査でわかった「リアル」
【グラフ1:1日の平均勤務時間】回答総数534人/有効回答が30人以上の診療科に絞り、それ以外は「その他」にカウントした/「外科」「整形外科」「内科」の数値は、複数の診療科で申告されていても、同系統の診療科と認められた場合は統合した 【グラフ2:平均年収】回答総数534人/有効回答が30人以上の診療科に絞り、それ以外は「その他」にカウントした/「外科」「整形外科」「内科」の数値は、複数の診療科で申告されていても、同系統の診療科と認められた場合は統合した  医師に対する目が厳しさを増す昨今、もはや世間一般が抱くイメージほど、医師は割に合う仕事ではない? アエラムック『AERA Premium 医者・医学部がわかる』では、医師専用コミュニティーサイト「MedPeer」の協力を得て、現役医師534人に一斉アンケートを実施。「1日の平均勤務時間」や「平均年収」など、「リアル」な数字がわかった。 *  *  *  医師の働き方は、病院などに雇用されて働く「勤務医」と、自ら病院を経営する「開業医」に大きく分かれる。勤務医は規模の大きい病院で最新の医療技術を学んだり専門性の高い症例を数多く経験できたりするなどのメリットがあるが、当直や院内の人間関係などわずらわしいことも多い。一方、開業医は、患者の診療に加え自分で病院を経営しなければならない。しかし、当直は地方自治体の当番程度で、勤務時間は自由に調整できる。  大学病院を辞めて地元で開業した40代男性A医師によれば、「仕事の面白さから言ったら大学病院だったが、当直がきつく、給料も安かった。勤務医は都心より地方のほうが人手不足で忙しいが、給料はアップする傾向がある。どの診療科でも、開業に踏み切る理由は生活の質と収入を求めた結果が多い」という。  とはいえ、半数の医師が6~8時間の睡眠時間を確保し、45%は月4~6日の休日を取得している。「以前は当たり前だった当直明けの連続勤務をなくすなどの改善も始まっている」(同)。 ■若手医師の生活を支えるアルバイト  医師免許を取得し晴れて医師となると、いよいよ研修医生活がスタートする。しかし、研修医期間はいわば見習い期間。薄給は覚悟しなくてはならない。若手医師たちの生活を支えるためになくてはならないのが外来や当直、健診などのアルバイトだ。  アルバイトの解禁は、初期研修期間(2年)は研修に専念することが法律で義務づけられているため、後期研修期間からとなる。この時期の給与は研修する病院にもよるが、額面で月15万~20万円程度が相場。実質使える金額は十数万円で、親からの仕送りでしのいでいる医師たちも多い。また、大学病院の勤務医の給与は役職がついてもそれほど高額にはならないため、中堅でも関連病院(いわゆる外病院)にアルバイトに行くのが慣例になっている。  当然だが、アルバイトは本来勤務している病院の休日や勤務明けの夜に入れることになる。若い研修医にとっては、見学ではなく実際に患者を担当し、生の臨床を経験できる貴重な学びの場でもある。 ■開業医は3人に1人が「8時間勤務」  グラフを見てほしい。データから医師を取り巻く厳しい現状がわかる。30代の45%が10時間以上、外科医の19%が12時間以上も働いている。その一方、開業医はおよそ3人に1人が8時間未満で仕事を終える。眼科や整形外科では、それぞれ半数以上の医師が8時間以上10時間未満の勤務だった。また産婦人科では、46%もの医師が10時間以上働いていることがわかる。  次に、現役医師に「平均年収」を尋ねた。800万円未満が全体の7%しかいない一方、1600万円以上が半数近くの46%もいる。2000万円以上に絞っても23%を占めており、やはり医師は「高給取り」の仕事のようだ。 ■患者の笑顔が最高の喜び  医師は何に仕事のやりがいを見いだしているのか。調査の結果、1位は何といっても、「患者さんに感謝されること」だった。  医師は、患者一人ひとりの人生の重要な局面に立ち会い、目の前の患者の人生を背負ってベストと思われる治療を決めていかなくてはならない。その結果患者の期待に応えられ、笑顔で感謝されることは、医師にとって無上の喜びなのだ。調査でも、貯金や収入をやりがいに挙げる医師は皆無だった。 「収入や仕事を求めて志望しても続きません。医師をやりたい人であればとてもやりがいのある職業です」(50代男性、麻酔科・漢方医学) 「どんな仕事でも苦しいことやつらいことはありますが、命に関わる仕事なので責任は重大です。周囲の声で何となく、という気持ちでは長続きしません。本当になりたいのか、自分としっかり向き合って進路を決めてください」(50代女性、精神科)  一方、日々進歩する医療の世界では、昨日の常識が今日は通用しないことも多い。 「医師という仕事は生涯勉強で自己を精進させ続ける必要がある。患者さんのため、世のため人のためという精神が大前提」(50代女性、乳腺・内分泌外科)  医学部を卒業すると他業種に就くことは難しくなり、後で転職もしづらい。受験前に一度自分と向き合い、医師という「聖職」に身をささげる覚悟のほどを確かめておきたい。(文/山口茜、調査/メドピア株式会社) ※アエラムック『AERA Premium 医者・医学部がわかる』より
大学入試朝日新聞出版の本読書
dot. 2017/02/04 07:00
二十四節気「立春」。今年も春は着実に近づいて
二十四節気「立春」。今年も春は着実に近づいて
春が立つと書いて「立春」。旧暦ではこの日が一年の始めとされ、八十八夜や土用など、雑節の基準日にもなっています。東風が吹き、氷が薄くなり、鴬の初音も聞こえるころ。本日は穏やかな晴れ予報の地域も多く、暖かい陽ざしに春の訪れを感じる一日となりそうです。 春の気立つをもってなり。冬から春へ、余寒の候でもあります 暦のうえでは、今日から春。まさに春到来の予兆が感じられるような二十四節気「立春」を迎えました。暦便覧には「春の気立つをもってなり」と記され、天文学的には太陽が黄経315度の点を通過するとき。旧暦の新年もちょうどこのころで、立春に最も近い新月の日となります。 これから日ごとに気温が上昇し、陽光のまばゆさが増し、芽吹きの季節を迎えますが、まだまだ寒い日も多く、東京でも2月、3月に雪が降ることもめずらしくありませんね。 「冴返る」という季語があるように、暖かいと思った数日後には一転して寒波に包まれ、強く冷え込む日もあったりで、油断できません。 そんな立春後の寒さのことを「余寒(よかん)」といい、夏の「残暑」と対になる言葉。立春後の再三冷え込む折、「余寒の候」「余寒お見舞い申し上げます」と記し、お便りを出してみても素敵です。 2月8日は、浅草浅草寺などで針供養会が行われます 日本の年中行事のなかで、独特だなと思うもののひとつに「針供養」があります。むかしは針供養の日は一日針仕事を休んで、針を床の間に飾り、折れた針を集めて淡島神社へおさめたものだそうです。 (もともとは、和歌山にある淡島神社で漁師たちが、釣り針の折れたものを海底に沈め海神を慰める習俗からはじまったとか) そんな家庭の針仕事はもとより、仕立て屋や足袋屋、洋裁学校など針を扱う業種の人々も針を休め、針箱の掃除をしたと聞きます。 2月8日は、浅草浅草寺にある淡島堂などで行われる針供養会の日。三宝に乗せられた豆腐に針を刺し、人々が祈りと感謝を捧げる様子が見られます。 以前一度だけ体験したのが、細い細い絹糸をより合わせ、一針ひと針さしていく日本刺繍。 今や職人も殆どいなくなった手作りの希少な針を使っていて、繊細な繍いはこれでないと、というお話しを聞きました。このように針を日々使う人たちにとって、使い慣れた針は、とても大切なもの。手で縫うことがあたり前だったむかしの名残と、手仕事の大切さがひしひしと感じられます。 早春にまず咲くからこの名が?…マンサクの花も咲くころ 立春を告げる花のひとつにマンサクがあります。 この名の由来には諸説あり、梅に先駆けて山々にまず一番に咲くことから、「まず咲く」が転じて「マンサク」となったと言われたり。かの植物学者・牧野富太郎によると、金色の花が枝いっぱいに咲く姿が「豊年満作」を連想させるから、マンサクとなったという説も。早春を代表する花木のひとつとして、全国各地の庭木として広く親しまれています。 黄色く、か細い花びらは間近で見ると縮れていて、まるで春の到来を喜んで踊っているような。西洋では「女魔法使い」「鬼婆」などの意味の名で呼ばれているというから、ずいぶん印象が変わってきます。けれども、黄金色の花をたくさんつけた枝を見れば、稲穂の実りを今年も願いたいという気持ちから、やはり、豊年満作のマンサクなのだなと思えてきます。 節分の翌日である立春。かつて後漢時代の中国で行われていた行事では、大勢の官僚たちが青い衣をまとい、都洛陽の東の郊外へおもむき春を迎えたとだとか。 春を表す方角が東、色が青(青春の語源でもあります)から生まれたのであろうこの壮麗な習わしに思いを馳せつつ、今日は青い服を選んで外出してみましょうか。暖かい陽差しに誘われ散策すれば、鴬の初音が聴こえるかもしれません。
tenki.jp 2017/02/04 00:00
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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