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『MILES AHEAD』公開直前! プロデューサーで甥っ子のヴィンスが語る映画への想いとは
『MILES AHEAD』公開直前! プロデューサーで甥っ子のヴィンスが語る映画への想いとは
『MILES AHEAD』公開直前! プロデューサーで甥っ子のヴィンスが語る映画への想いとは  2016年12月23日に公開となる映画『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』。ロバート・グラスパーの手掛けた本作のサウンドトラックが【第59回グラミー賞】にノミネートされるなど公開前から注目を集める本作だが、映画のプロデューサーでもありマイルス・デイヴィスの甥でもあるヴィンス・ウィルバーンJr.が11月に来日した際のオフィシャルインタビューが到着した。 ―映画『MILES AHEAD~』は史実とフィクションが入り交じり、時代が行き来します。なぜ、このような構造になったのでしょうか。ヴィンス・ウィルバーンJr.(以下ヴィンス):ドン(ドン・チードル)と脚本家のスティーブン・ベーグルマンは「ありがちな伝記映画はつまらない」と話していたんだ。音楽要素だけではなく、銃をぶっぱなすようなアクションがあって、フランシスとのロマンチックなラブストーリ―もある。そういったエンターテイメントとして楽しめるものが作りたいと思っていた。(ラストシーンにも出演している)ハービー・ハンコックは完成した映画を見て、「まるでマイルスの夢の中を歩いているみたいだ!」と言っていたよ。とてもうまく表していると思う。―本作のプロデューサーとしての役割についてはいかがでしたか?ヴィンス:僕の最も大きな仕事はドンを選んだことだ。その後はドンと楽曲に関して、シーンごとにどの曲を使うのかということをかなり細かくやりとりをした。彼は僕だけではなくエリンやシェリル(マイルスの実子)とも連絡を取り合っていたし、その他サイドマンやフランシスにも実際に会いに行って、熱心にリサーチをしていた。ドンがマイルスの声をできるだけ正確に模倣したいっていうから、マイルスが以前BBCから受けたインタビューの音源をドンに渡したんだ。深夜に「もしこの場面だったらマイルスはどういう風に言ったと思う?」って電話口でお互いマイルスの真似をし合ったりもしていたよ(笑)。―劇中に出てくるマイルスの家の様子は親族からみていかがでしたか?ヴィンス:それが恐ろしく似ているんだ!子供の頃は毎年夏になるとNYにあったマイルスの家に泊まりに行ったんだけど、その家に本当にそっくりだった。撮影中シンシナティにあるセットをエリンと一緒に訪ねた時は、マイルスになり切ったドンが芝居をしている姿をみて、エリンは言葉を失っていたし、僕はそれに圧倒されて涙がこぼれたよ。―音楽的なディテールへのこだわりについてはありましたか?ヴィンス:サウンドトラックを手掛けたロバート・グラスパーとも何度も話し合いをした。グラスパーにとって映画のスコアを手掛けるのは初めての経験だったが、マイルスは新しいチャレンジに対してリスクを恐れない人だったから、その精神を受け継ぐ意味でもグラスパーを起用したよ。結果としてヒップホップとジャズの懸け橋となるような音楽性を活かした素晴らしいものを作ってくれた。ファロア・モンチのヒップホップ「Gone 2015」をサントラの最後の曲として選んだのは、マイルスの遺作『DooBop』でヒップホップを取り入れていたからだ。もしマイルスが生きていたら、きっとそうするだろうと思えるものができたから、すごく満足しているよ。◎公開情報 『MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間』2016年12月23日(金・祝)よりTOHOシネマズシャンテほか全国順次ロードショー監督・主演・共同脚本・製作:ドン・チードルプロデュース:ヴィンス・ウィルバーンJr.出演:ユアン・マクレガー、エマヤツィ・コーリナルデイ音楽:ロバート・グラスパー配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
billboardnews 2016/12/19 00:00
毎日よりも週1~2回! ランニングを続けるには
毎日よりも週1~2回! ランニングを続けるには
マリンタワーを背景に走るランナーたち(横浜市) (c)朝日新聞社  記者生活約10年、職業柄、夜のつきあいが多く、わかっちゃいるけど暴飲暴食がやめられない。そう言われてみれば、この仕事についてから体重が10キロ増えた。腰回りは90センチを超え、堂々のメタボ体形だ。 「このままではいけない……」。数年前から危機感はあったが、酒を飲んでは忘れることの繰り返し。久しぶりに会う友人から、あいさつ代わりに「おなか出たね~」と言われることも日常茶飯事となってしまった。  記者は現在、37歳。中年真っ盛りとはいえ、まだ間に合うはず。ランニングを始め、かつての体のキレを取り戻すのだ! そう自分に言い聞かせたのが、今年9月だった。  その結果は……。2日連続で5キロを走ったところ、下半身を中心に激しい筋肉痛が襲い、膝を痛める始末。走るどころか、階段の上り下りもつらくなってしまった。惨敗だった。  中年男性がランニングを始めることは、かくも難しきものか。そこで、ランニング学会会長で、市民ランナーのコーチもしている大阪体育大学名誉教授の豊岡示朗さんに話を聞いてみた。 「ランニングは、基礎となる筋力が最低限必要です。ですが、長年運動不足の人は走るために必要な筋肉が衰え、『ロコモティブ症候群』になっています。激しい運動を突然始めると、膝や足首などに痛みを引き起こしてしまうのです」  メタボだけでなく、自分の知らない間に「ロコモ」にもなっていた……。もはや笑い話にすらならない。  日本整形外科学会によると、予備軍も含めたロコモ人口は4700万人。40代以上の5人に4人が該当する。ロコモの人は年をとると要介護になる危険性が高く、適度な運動が対策として推奨されている。  豊岡さんは言う。 「ランニングは、ダイエット効果だけではなく、ストレス解消、高血圧や糖尿病の予防にもつながります。だからこそ、いきなり長い距離を走るのではなく、少しずつ負荷を高めていかなければなりません」  初めから体力に見合わないトレーニングをして、すぐにランニングをやめる人は多いそうだ。  スポーツメーカーのデサントが実施したアンケートによると、ランニングやジョギングを1年以上継続できた人は、全体の23.6%だけだった。なかでも、半年以内に断念した人は、毎日走るなど高い頻度で運動していた人が多かった。  ところが、最初から4日に1回、つまり週1~2回のペースで走る人に限ると、43%が1年以上ランニングを続けていた。  アスレチックトレーナーで、『やってはいけないランニング』の著書がある鈴木清和氏は、こう話す。 「そもそも、ランニングはとても過酷なスポーツ。だから、走るのは週2回で十分です。量は少なくても、質のいいトレーニングを続ければ、半年後にはフルマラソンを完走できるようになりますよ」 ※週刊朝日 2016年12月23日号より抜粋
ダイエット
週刊朝日 2016/12/16 07:00
間もなく最終回! あなたもきっと陥る「逃げ恥ロス」への備え方
間もなく最終回! あなたもきっと陥る「逃げ恥ロス」への備え方
間もなく最終回! あなたもきっと陥る「逃げ恥ロス」への備え方 (c)朝日新聞社  クリぼっちに冬季ウツ。今年は冬の憂鬱に、「逃げ恥ロス」が加わる。ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が、12月20日で終わってしまう。 「逃げ恥終わったらぽっかり心に穴が開きそう」 「無事に年を越せるのか。新年以降、何を支えに暮らせばいいのか」  まだドラマも中盤の11月上旬、すでにSNSには終了後の喪失感=ロスを怖がるファンの悲痛な叫びがあふれていた。「逃げ恥」は、TBS系で火曜夜10時から放送中のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の略称だ。  ドラマでのロス現象といえば、「あまちゃん」のあまロス、「あさが来た」の五代(ディーン・フジオカ)ロスが思い出される。いずれもNHK朝の連続テレビ小説で、月曜から土曜まで週6回の放送が半年間続いた末に起きた。暮らしのリズムに入り込むぶん、「ロス」に陥る危険性は高い。一方の「逃げ恥」は週1放送の3カ月クール。朝ドラを上回る強い中毒性があったということか。 ●ムズキュンと合理主義  まずは、ドラマの内容をおさらいしておこう。原作は海野つなみの漫画で、脚本は「図書館戦争」シリーズや「重版出来!」の野木亜紀子。実は、これだけでドラマ通にはたまらない組み合わせだ。  主人公は新垣結衣(28)演じる森山みくりと、星野源(35)演じる津崎平匡(ひらまさ)。大学院卒で内定ゼロ、さらに派遣切りにあったみくりが、家事代行の仕事で「35歳恋愛経験なし」という平匡と出会い、仕事として「契約結婚」をするというラブコメディーだ。夫は雇用主で妻は従業員。恋愛感情のないただの雇用関係のはずが、一緒に暮らすうちに……と物語が展開していく。  都内に住む30代の女性は、小学3年生の娘(9)と親子で「逃げ恥」を楽しんでいる。 「夜10時開始は娘には遅いので、録画して週末にゆっくり見ます。先に見てしまうと怒られるんですが、2回、3回と見ても楽しめる。星野源さんが好きで見始めましたが、ハマったのは、みくりさんの家事に対する考え方。家事を労働としてとらえ、その対価をもらうという考えに、全力で拍手を送りたいです」  一方の娘は、 「ひらまさは優しいから好き。みくりちゃんの妄想がおもしろくて、引きずりこまれちゃう。(ドラマは)一生続いてほしい」  といい、恋ダンスを練習中だ。  最大の見どころは、みくりと平匡のじれったくて初々しい恋模様。「ムズキュン」なる新語も生まれたが、国内外のドラマに詳しい作家の柚木麻子さんはこう話す。 「私は、ムズキュンというよりも、二人が理詰めでコミュニケーションをとるところに魅力を感じました。二人とも合理主義で理屈っぽくて、それがいい。日本の恋愛ドラマって、恋愛センスのある人しか参加しちゃいけない空気がありますが、見事にそれをひっくり返した」  みくりの脳内妄想が、さまざまな作品や番組のパロディーや画面分割などで展開されるつくりも秀逸だ。 「米ドラマ『アリー my Love』以降、その手法が日本でも導入されましたが、ことごとく失敗してきた。成功したのは初めてと言えるんじゃないでしょうか」(柚木さん) ●羽生も踊る恋ダンス  ネットを使った情報発信の巧みさ、さまざまな楽しみ方が用意されている点も新しかった。  星野源が歌う主題歌「恋」にあわせて登場人物たちが踊るエンディング「恋ダンス」の公式動画は、YouTubeでの再生回数が6500万回を超えた。振りの解説や「踊ってみた」動画も多数投稿され、フィギュアスケートの羽生結弦や吉本新喜劇のメンバーなどが踊る動画も話題になった。  古田新太演じる平匡の同僚・沼田やみくりが作る料理のレシピが実際のクックパッド上に掲載され、作って楽しむこともできる。 「つまらない番組はSNS使いも下手。『逃げ恥』はこれ以上やるとうざいという線を越えない、絶妙なバランスを心得ている」(柚木さん)  だからこそ柚木さんは、「ロス」についてもさほど心配していないという。 「恋ダンスに平匡の同僚・日野(藤井隆)が入っていないのはなぜか、という声がSNSであがったら、すぐに日野が踊るバージョンが追加された。制作陣がちゃんと視聴者の声に耳を傾けている。だから、続編を希望する声をあげれば、きっとその声に応えてくれるはずです」  スピンオフへの期待も高まる。確かに、沼田、日野に加え石田ゆり子演じるみくりの伯母・百合ちゃんと大谷亮平演じるみくりのもう一人の雇用主・風見、そしてみくりの友人でシングルマザーのやっさんなど、登場人物はいずれも魅力的で、誰を主人公にしても成立しそうだ。  制作陣の思いをTBSの那須田淳プロデューサーが代弁する。 「登場人物たちは、みんなちょっとずつ変なところ、ダメなところがある。いろんな生き方があって、でもどの選択も正しいんだよ、と言ってあげるようなドラマにしたかった」 ●ハッピーエンドの形  誰も否定されず、どんな生き方も肯定される。そんな心地よさがあるからこそ、視聴率は一度も落ちることなく、1話では10.2%だったのが9話では16.9%(いずれも関東地区)にまで上がってきた。 「逃げ恥」では、家事代行サービス「ベアーズ」の高橋ゆき副社長が家事指導・掃除の監修を務めるが、同社はドラマの影響で、利用希望とみくり世代のスタッフ応募の両方が増えたと発表している。  はたして最終回はどうなるのか。二人の恋の行方は?  前出の小3女子(9)は、 「みくりちゃんがお手伝いさんじゃなく、ちゃんと夫婦になってハッピーエンドがいい」  と無邪気に語ったが、家事は対価を払うべき労働であるという問題提起がされた以上、無償で妻が夫に家事を提供する従来型の結婚がこのドラマではハッピーエンドにならないことを、大人は知ってしまっている。  ほら、こんなにハマらせて、どう責任を取ってくれるんですか、那須田プロデューサー! 「さみしいのは現場も同じで、ハードスケジュールだったけどもう終わっちゃうのか、もうちょっと作りたいな、っていう気持ちが僕らにもあります。登場人物たちはみなさんの心の中に残ってくれるはずなので、こんなときあのキャラならどうするかな、と思い出してください。みくりの妄想力をお手本に」  柚木さんは、こんな楽しみ方もあると話す。 「すぐに『逃げ恥』の二番煎じドラマが出てくるはず。でもハードルは相当高いし、視聴者の目もかなり肥えた。『逃げ恥』みたいに作ればいいんでしょ、とお金も頭も使わずに作ったら、絶対にバレます。どこがチャレンジしてくるのかな、と意地悪な気持ちで楽しみにしています」 (編集部・高橋有紀) ※AERA 2016年12月19日号
ドラマ
AERA 2016/12/13 11:30
力士から漫画家、プロ野球からパティシエに、スポーツ選手の意外なその後の人生
力士から漫画家、プロ野球からパティシエに、スポーツ選手の意外なその後の人生
カフェオーナー パティシエ小林敦司(こばやしあつし)さん(43)/1972年、東京都生まれ。90年広島入り。2001年にロッテに移籍するも1年で引退。11年、代官山に「2-3Cafe Dining」をオープン。自家製ベイクドチーズケーキや生パスタ、トマト鍋などで人気を集める 相撲漫画家 琴剣淳弥(ことつるぎじゅんや)さん(56)/1960年、福岡県生まれ。本名は宮田登(みやた・のぼる)。86年秋場所で引退すると、以後自らの相撲経験を元にした相撲漫画を多く執筆。現在はスポーツ報知などで連載6本を持つ シルク・ドゥ・ソレイユパフォーマー シンクロナイズド・スイミングミックスデュエット アメリカ代表北尾佳奈子(きたおかなこ)さん(34)/1982年、京都府生まれ。9歳でシンクロをはじめ、20歳でシンクロ日本代表。2005年に競技から引退後、アメリカのクラブチームを経て、06年に「シルク・ドゥ・ソレイユ」入りしパフォーマーに  2020年東京五輪に向けて現役トップアスリートの動向に注目が集まるが、アスリートの命は決して長くない。残りの人生のほうが長いことを考えれば、勝負はまだ先にある。  プロであれ、オリンピアンであれ、引退したスポーツ選手のうち、指導者や解説者になれるのは、ほんの一握りのスターだけ。日の当たる第一線を退いた多くの元選手は、右も左も分からない現実社会に投げ出され、社会人としての一歩を踏み出した途端に苦労するというのはよく聞く話である。  しかし、現役時代と異なる道に進み成功している人も少なくない。プロ野球投手からパティシエに、力士から漫画家にと驚きの転身を遂げた人もいれば、シンクロナイズド・スイミングから「シルク・ドゥ・ソレイユ」のパフォーマーへと、それまでのキャリアを生かしてステップアップした人まで道はさまざま。すべての人に共通するのは好きなことへの思いや強い意志だが、信じた道を突き進めば努力次第で道は開けるのか。  おしゃれなカフェや雑貨店が並ぶ東京・代官山。その路地の一角でカフェ「2-3Cafe Dinig」を営むのは、元プロ野球選手で広島の投手だった小林敦司さん(43)である。 「引退後に飲食店をやる人は多いですが、カフェでケーキを作っているのはさすがに僕だけじゃないですか(笑)」 ●プロ11年でわずか1勝  小林さんはオーナーでありながら、パティシエとしてケーキも作れば料理人としてパスタも作るなど、店に関わることはすべてこなすという。 「元選手で経営だけをやる人も多いですが、スタッフなどとのトラブルも多いと思うんです。すべて自分でできればそういう問題もないだろうし、人に物も言えていいかなと思ったんです」  小林さんは1990年にドラフト5位で広島に入団。2001年にはロッテに移籍するも、プロ11年でわずか1勝に終わった。それでも99年、東京ドームで巨人時代の清原和博を相手に頭部死球を与え乱闘寸前になったときの投手といえば、思い出す人は多いかもしれない。  引退後は、父親の経営する和食店を継ぐつもりだった。だが、実際に手伝いを始めると親子の甘えが出てしまったのを嫌って、カフェの道に。 「(経営者の)息子が言いたいことを言ってしまえば、ほかのスタッフに迷惑がかかるじゃないですか。そんなとき母も別のお店をやっていたのですが、夜の仕事がしんどくてカフェをやりたいと言い出したので、それならそっちを手伝おうと思ったんです。当時は料理も何もできないですよ。でも、カフェを出すならケーキぐらい作れたほうがいいかなと思い、ケーキ店でアルバイトを始めたんです」 ●同僚はみな20代前半  履歴書を書いたのは、その時が初めて。職歴には広島東洋カープの文字。しかし、ケーキ作りに元プロ野球選手という肩書は一切通じなかった。  32歳の元プロ野球選手が選んだアルバイト先はタルトで有名な「キルフェボン」。いま思えば、カフェのオーナーになるうえで一番つらかったのは、その時期だったと振り返る。 「同僚はみな20代前半の女子ばかり。それがうれしいと言う人もいるかもしれませんが、クリームの混ぜ方ひとつ知らなかったわけですから、そんな彼女たちに毎日ネチネチ怒られるわけですよ。野球界では、入団年ではなく年齢の上下で先輩か後輩かが決まりますし、さすがに抵抗がありました(笑)」  しかし、そこで投げ出してしまえば、どこに行っても同じ。自分の店を持ちたいと考え始めたこともあって、早く仕事を覚えることに集中したという。 「キルフェボン」で5年弱、その後もイタリアンレストランやカフェなどでアルバイトを掛け持ちしながら約10年の下積みを経て、11年4月にチーズケーキが売りの店を開いた。  オープンから約5年半。場所がら元プロ野球選手の店ということで訪れる人はほとんどいないという。ただ、だからこそやりがいもある。 「自分は、プロでたいした結果も残してないし、この場所で元プロ野球選手だったと言ってもね(笑)。野球の打者なら3割打てば一流ですが、ケーキで残りの7割がダメじゃお客さんは離れてしまう。来てくれたすべてのお客さんにおいしいと言ってもらえるように完璧を目指したいんです」  元プロ野球選手のなかには、一般社会に出てもプライドが邪魔してか苦労している人も少なくない。小林さんは何がよかったのか。 「人生にはどこかで踏ん切りをつけないといけないときもある。大事なのは、そこでいかに踏ん切れるか。僕は引退してから一度も野球をやっていません」 ●「ちゃんこしかない」  元力士の引退後の職業として有名なのが「ちゃんこ鍋店」の経営である。そんななか、日本相撲協会公認の漫画家としてスポーツ紙や相撲雑誌に多くの連載を持っているのが琴剣淳弥さん(56)である。  福岡県出身の琴剣さんは少年時代から手塚治虫の「鉄腕アトム」などにのめり込む根っからの漫画好きだったが、体が大きかったこともあり15歳で佐渡ケ嶽部屋に入門。76年春場所で初土俵を踏むと約10年現役として相撲を取ってきた。しかし、力士としては幕内昇格を果たせず「三段目」が限界だった。 「力士になったものの、私自身どこかで強くなれないという思いがあったんでしょう。もちろん、それ以上にいつかは漫画家になりたいという思いがありました。部屋に入ったばかりの頃は、兄弟子に見つかり、絵を描く道具を捨てられたこともありました(笑)」  漫画家への道のキッカケは現役時代に先輩力士が後援会で配るグッズの似顔絵を描いたことだった。それが評判となりスポーツ紙からの依頼で、現役にもかかわらず場所中にイラストを用いたコラムを連載するなど角界でも名物力士として知られるようになった。  86年に引退。その頃には漫画家デビューともいえる雑誌の連載も決まっていたが、それだけでは食っていけない。 「引退から数年後には“若貴ブーム”もあって、元力士の漫画家としてテレビでも取り上げられるなど、仕事の依頼が殺到し、生活が一変した時期もありました。ただ、ブームはすぐに終わってしまいました……」  多くの元力士と同じように「ちゃんこしかない」と思ったことも1度や2度ではなく、実際に自身で店を構えたこともあった。ただ、そんなときに背中を押してくれたのが3歳年下の妻だった。 「一度は店をたたみ、当時病気がちだった妻と育ち盛りの2人の子どもを食べさせるために肉体労働に就いたこともありました。でも、あるとき妻が言ったんです。『あなたが本当にやりたいことは何なの?』って」 ●50歳を過ぎてから 「当たって砕けろ」で描いた相撲の絵を国技館に置かせてもらえないかとお願いした。すると、少数だが置いてくれることに。 「それが縁で11年に東日本大震災があってからは相撲協会と一緒に各地の巡業を回り、ボランティアで被災地の子どもたちの似顔絵を描いてきました。そうしたことが評価されて2年ほど前からは自分がイラストを描いた商品を相撲会場に置かせてもらえるようになったんです。まさか自分の商品が国技館で売れるとは思ってなかったですし、相撲協会が元力士だった私を“身内”として認めてくれたのが何よりうれしかったですね」  人気力士が描かれたマグネットは、一場所で約6千個も売れるとか。また、ジャポニカ学習帳の表紙のイラストを手掛けると、そちらも人気を博した。現在はスポーツ紙や雑誌の連載に加え、相撲中継のゲスト解説やラジオ出演と仕事は多岐にわたる。 「苦労もありましたが、50歳を過ぎてからこんな形で夢がかなうとは。でも、やっぱり一つの夢を追いかけるとかなうんですよね。これからもいまの仕事を極めたい。私ができるのは漫画で相撲を伝えること。それしかできないし、それを伝えていくのが私の使命です」 ●辞めるという“賭け”  シンクロナイズド・スイミング・チームの日本代表として04年アテネ五輪で銀メダルを獲得した北尾佳奈子さん(34)は現在、世界的なエンターテインメント集団「シルク・ドゥ・ソレイユ」のパフォーマーとして活躍している。  カナダのモントリオールに本拠を置く「シルク・ドゥ・ソレイユ」にはいくつものショーがあるが、北尾さんが出演するのは米ラスベガスを拠点にする水をテーマにしたショー「O(オー)」。  人工湖での噴水ショーで有名なラスベガスの一等地にあるベラージオホテルで行われる「O」は、巨大プールを舞台にしたアクロバットあり、シンクロナイズド・スイミングあり、ダイビングありのまるで水中のオペラのようなショーで「シルク・ドゥ・ソレイユ」の中でもとくに高い人気を誇っていると評判だ。  北尾さんは、05年の世界選手権を最後に23歳の若さで現役を引退。同世代のチームメートの多くは次の北京五輪を目指したが、そんな気分にはなれなかったという。 「辞めたときは大好きなシンクロがもう一生できないという不安でいっぱいでした。でも、シンクロが好きだったからこそ、辞めるという“賭け”に出たんです!」  なんだか矛盾する話だが、どういうことか。 「五輪に出て、メダルを取るという夢を果たせたのですが、どうもスッキリしなくて。自分が見せたいシンクロができなかったというか、これまでやってきたシンクロでは自分が思い描いていたものが全うできないと思ってしまったんですよね」 ●週に2日も休み  そんな折にタイミングよく日本であったオーディションをキッカケに06年に「シルク・ドゥ・ソレイユ」に入団。もちろん、入団したからといって誰もがショーに出られるわけではない。 「“O”のショーに出られるスイマーは16人のみで、その時点ではあくまで候補者リストに名前が入っただけ。空きが出なければショーには出られませんし、まずはトレーニングキャンプに招集されて、そこで実力や性格を判断されて、仮契約から本契約という手順を踏むことになります」  同じ芸術性を競うフィギュアスケートのようにプロへの道がないだけに、「O」のパフォーマーはシンクロを生かせる唯一の職業に近い。そこでパフォーマーとして10年のキャリアを積んできた。現地でアメリカ人男性と結婚し、出産も経験。「O」のショーは、1日2回、年間およそ470もの公演が予定され、基本的にはメンバー全員が参加するというハードさだ。だが、選手時代、1日10時間近く水の中で厳しい練習を乗り越えてきた北尾さんにとって苦痛に感じることはほとんどないという。 「選手のときは連休が年に1、2回あるかないかでした。それに比べたらいまは週に2日も休みがあるので(笑)。ショーはだいたい19時と21時半の2公演で、昼間は自由になる時間も多くあります。現役時代は、なかなかシンクロを楽しみながらやることはできなかったのですが、ここではたとえ間違ってもみんな笑顔。いまは自分の好きなことが仕事にできていることを本当に幸せに感じています」  そして、北尾さんは“賭け”に勝った。五輪に出たことで感じたモヤモヤした気分を晴らすべく、男女混合のミックスデュエットのアメリカ代表として現役に復帰したのだ。 「現役を辞めてこっちに来たときから、シンクロに限らずいろいろ勉強してきて、いままたシンクロに戻ってこられたんです。ミックスデュエットは新しい種目ですし、よりショー的な要素が多くなっているので、自分のやりたかったシンクロに近い。もちろん、いまそれに挑戦できるのは、日本のシンクロがあったからこそなんですけどね」  もちろん、「シルク・ドゥ・ソレイユ」は続けたまま。今年9月には全アメリカ大陸大会に出場し、来年ブダペストで行われる世界選手権への出場もすでに内定している。 「(五輪で銀メダルを獲得も)不完全燃焼だったからこそ」と北尾さんはいまも挑戦を続けている。  三者三様。それでも、それぞれ楽しそうに話す姿から充実ぶりは伝わってきた。3人はいまも“現役”として人生を生きているのである。(ジャーナリスト・栗原正夫) ※AERA 2016年12月12日号
働き方
AERA 2016/12/12 11:30
実は超ハードワーカーだった"鬼平"、死因は過労死?
実は超ハードワーカーだった"鬼平"、死因は過労死?
 歌舞伎役者・中村吉右衛門さん主演で大ヒットした時代劇『鬼平犯科帳』が、12月3日21時より放映の『鬼平犯科帳THE FINAL』(フジテレビ系列)を最後に、シリーズの幕を下ろします。 1989年の放映開始以来、28年の長きにわたりお茶の間で愛された同作は、作家・池波正太郎さんの同名小説が原作ですが、2013年には小説とコラボしたPA「鬼平江戸処」(東北自動車道上り線羽生パーキングエリア)もオープン。江戸の街並みを再現した施設内では同作の世界観を体験できるほか、物語に登場する「五鉄の軍鶏鍋」や「一本饂飩」などの料理の数々も味わえるとあって、人気を集めたのをご記憶の方も多いのではないでしょうか。 新書『「火附盗賊改」の正体 』によれば、"鬼の平蔵"こと長谷川平蔵は、火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官を務めた実在の人物。 幼名を銕三郎と言い、若い頃は父の遺産で放蕩三昧、「本所の銕(ほんじょのてつ)」と呼ばれた札付きのワル。42歳で火附盗賊改に抜擢された後は、自ら与力・同心を引き連れて放火や強盗などの凶悪犯を捕縛し、歴代長官の中でも抜群の功績を残しました。 事件を裁く以外にも平蔵が心血を注いだのが、一大プロジェクト「人足寄場(にんそくよせば)」の設置でした。犯罪者を取り締まる日々の中で、貧困ゆえに犯罪に走る者が多いこと、そして再犯率も高いことに気付いた平蔵は、"たとえ犯罪者であっても、公的援助を受けて、手に職さえつければ社会復帰できる"という信念を抱くようになります。 そこで幕府に提言し、身元引受人がいない軽罪の犯罪者を収容し、大工・鍛冶屋・紙漉きなど本人の適性に合った職業訓練を受けられる更生施設「人足寄場」を創設し現場監督に立ったのです。こうした犯罪者の社会復帰を目指した取り組みは、世界初の犯罪者自立支援プロジェクトと言われています。 実は火附盗賊改の仕事は、役高1500石に、役料40人扶持ほどで、町奉行に比べて日陰の立場。さらに奉行所のように役所があるわけでなく、個人負担で自邸に吟味所を設置する義務があるなど、職務に励めば励むほど出費の方が上回るポストでした。とくに平蔵の場合は、本来の業務の範疇を超えた「人足寄場」に私財を投じた以外にも、市井の情報を入手するために、自邸で毎日大釜で飯を炊いては無宿者に振舞うなど、身銭を切ることの方が多かったのだとか。 当時、火附盗賊改に就任した者には、過酷な業務に報いるために、この役目を3年も務めれば、遠国奉行などの実入りの良いポストに昇進させる措置が取られていました。しかし、平蔵は火附盗賊改を足掛け9年にもわたって務めたにも関わらず、奉行に出世することもなく、在任中に51歳で病死しています。 凶悪犯を震え上がらせた武闘派・鬼平の姿だけでなく、刑死させた犯罪者の菩提を弔ったり、誤認逮捕を自腹で償ったりしていたことなど、人間味あふれる平蔵の素顔も伝える同書。今夜放映のドラマも、江戸の治安維持のために激務に明け暮れた平蔵の生涯を知ったうえで鑑賞すれば、感慨もひとしおなのではないでしょうか?
BOOKSTAND 2016/12/03 20:30
「一緒に夜も過ごしてみないと」熟年婚活の今を家田荘子がレポート
「一緒に夜も過ごしてみないと」熟年婚活の今を家田荘子がレポート
近年活況をみせる熟年世代の婚活。成功させる秘訣とは? (※写真はイメージ)  パーティーにバスツアーと、熟年世代の婚活がにぎやかだ。年齢を気にしないで、結婚の機会を、そして幸せをグッとたぐり寄せる秘訣とは。参加者のホンネを探り、「熟年婚活」の今を作家の家田荘子氏がリポートする。 *  *  * 「お時間となりますので、男性の方、お一つずつ席のご移動をお願いします」  進行役の女性の声かけで、男性たちはすみやかに女性の左側へと移動を始めた。丁寧にお辞儀をする男性もいれば、無愛想な男性や緊張で固まっている男性も。一方で女性は優しい笑みを浮かべ、感じがいい。  ここは新宿駅南口前にある結婚相手紹介所「茜(あかね)会」の「サロンパーティー」の現場である。  約5分ごとに男性が移動して相手が代わると、2人はまず、職業や趣味などを記入したプロフィルカードを交換する。気に入った相手の場合、女性の笑う回数が増え、声が大きくなる。膝(ひざ)の距離を女性に近づけ、早くも肩にボディータッチする厚かましい男性も。苦手な男性の場合、女性の顔が後ろに引いていく。「息子の嫁」「お子さん」「孫」「若いですねぇ」といった言葉が幾度となく聞こえてくる。婚活サロンパーティーといっても、男性のみ53歳から64歳という年齢制限付きなのだ。 「茜会」は、創業以来56年間、中高年の出会いサービスを続ける。男性は40代から80代、女性は30代から70代が入会し、会員数は4千人に上る。初期費用はコースによって3万5千円から12万6千円(税別)まで七つあり、入会審査には独身証明書類や住民票などが必要で、既婚者が紛れ込む心配はない。  今回は参加費3千円で、男女各10人程度のお菓子お茶付きサロンパーティーである。 「相手を探していること、健康であること、経済的に自立し、自分ですべてできる方。この三つの条件がそろわないと、茜会(ウチ)には来られません。社会と接点を持ちたい方もいらっしゃいます。それが若い人の婚活とは違いますね」  と、茜会の川上喜彦社長は言う。もともとは川上氏の母親が、中高年者のお見合いをお世話していたことから始まった。 「年老いた親御さんがいる、介護の必要な親がいる、未成年の娘さんがいる、死別した夫の位牌(いはい)を持っている、財産のせいで子供が反対する……。中高年の結婚って、しがらみだらけ。自分が変わらないと婚活はうまくいきません」  そう言われて、サロンパーティーを眺めると、確かに不利な条件を抱えた人が多く、選ぶのは難しそうだ。  男性が席を一周し終えると、「希望カード」に気に入った相手の名前を記入する。投票所のように無言だ。男性は黒いボックス、女性はピンクのボックスにカードを入れ、退室する。マッチングした場合、後日、茜会事務局から相手の連絡先が郵送され、自由な交際に発展する。今回は2組のカップルが成立した。  私は、千葉県在住の女性が退出の際に残した言葉が気になった。 「看護師長として仕事に没頭してきたから家庭をダメにしちゃって離婚しました。定年近くなって、そろそろ自分の幸せを手にしてもいいかなと入会したんです。でも、そこらへんの男性はポンコツばかり。女性らしい女性を求めるから、私みたいな人を良しとする男性は、そういません」  半生を遮二無二仕事に費やし、社会で活躍してきた女性ほど、婚活では敬遠されやすいのが現実らしい。特に65歳以上の男性といえば「男は仕事、女は家庭」が当たり前で育った世代である。そういえば、大手出版社で働いていた私の知人女性も、婚活パーティーで会社名を告げただけで、男性が全員引いたと言っていた。今、活躍する40~50代の女性が、第二の人生を求めて婚活を始めた時、はたして包容力ある男性に出会えるのだろうか。  そこで私は、茜会大阪支店で出会い、結婚に至った二人の65歳の女性から、成功の秘訣を聞かせてもらうことにした。 「息子のお嫁さんとうまくいかなくて、人生を変えてみようかなと入会したんです。でも、サロンパーティーで、男性から『収入はいかほどで?』って聞かれ、びっくりしちゃって。『もうやめたい』って事務局に言った後、最後に出会った人からОKが出たんです」  張りのある低い声でしゃべる長谷川さんは、澄んだブルーのシャツに白いパンツを合わせ、おしゃれだ。関西大学卒で、和装洋品店卸業の会社役員を務める年収700万円の夫(67)と出会ったのは、長谷川さんが入会して8カ月後のことだった。  長谷川さんは「相手を尊敬できなくなって」、25年前に離婚した。一方、15年前に「嫁の代わりはいても親の代わりはいない」と言う夫にプッツリ切れて離婚したのが、長谷川さんの友人の恵子さん。 「娘が出産した時に、『これからはお母さんの人生を楽しんで、結婚したら?』って言ったんです。お茶飲み友達ならいいかなと入会した最初の会はひどくて。五十数万円も払い、パーティーの度に1万円。出会いがないまま2年経った時、やめますと言ったら、1人紹介されて9カ月つき合ったけど、サクラで……。それで長谷川さんに誘われて茜会に入ったんです」  恵子さんは薄化粧で、黒白柄のワンピースがよく似合う、こざっぱりとした女性。現在は産婦人科病棟で、ルームアテンダントをしているが、婚約者の家の改築が終わり、婚姻届を出したら、寿退社の予定だ。  茜会の場合、書類審査でОKが出ると、男性から女性に電話をしてお見合いの日を決める。ところが、長谷川さんの相手は、すぐに電話をかけてこなかった。 「失礼な人だわと思ってたら、『海外旅行へ行ってました』って、やっと電話が来て。会ったら話が弾んで『今度、旅行に行こう』って誘われたんです。『どこへ行きたい?』と聞かれたから、気軽に『イタリアのクレモナ』って言ったら、トントン拍子に進んじゃって。これは大変だ、って娘に会ってもらいました」  相手は、海外にスキーに行くほどのアウトドア派。出会って間がなくても、旅行へ行けば、同じホテルの部屋で過ごすことになる。 「たまたま淡路島のホテルの無料宿泊券があったから、『行きませんか?』って誘ってみたんです。だって、一緒に夜も過ごしてみないとわからないでしょう? 食事の仕方も見ることができるし……」  男性の食事の仕方がきれいかどうかは女性にとって大切なポイントである。淡路島のレストランで食事をすませ、その夜、2人は初めて結ばれた。  64歳で再婚する人生設計はなかったが、食事をしたりする男性には不自由していなかったと長谷川さんは言う。しかし、更年期をすぎた年齢でも、できるものなのだろうか。その時のことを尋ねると、一瞬、長谷川さんは言葉に詰まった。頬がほんのりピンクに染まっていく。 「そうですね。やっぱり男性やからね……」  長谷川さんは言葉を何度も切った。 「受け入れる気持ちがあるかどうかだと思います。その人に対して、何か不安があったりするとできないと思いますから」  その笑顔は、女性としての自信にあふれていた。  生活は大阪と京都で半別居状態だが、 「私も仕事をしてるから、ストレスがたまらなくて最高の状態です」  大阪からわざわざ千葉県佐倉市まで夫と出かけて買ったというメガネの奥で、長谷川さんは目を細めた。  そんな長谷川さんを穏やかに眺める恵子さんも、「再婚なんて頭にない人生設計を立てた」一人だった。それでも、茜会に入ると、お見合いをくり返していた。娘からは、 「理想ばかり言ったら、あかんねん。若くないんだから、ある程度妥協せんと」  とアドバイスを受け、けしかけられて勇気を持った後に出会えたのが、現在の婚約者で神戸の高級住宅地に住むツトムさんだった。 「梅田で会って、ハイキングとかウォーキングとか、野菜を作ってる話とか、コーヒー一杯で2時間も話し込みました。仕事が終わった後でおなかがすいてるのに言えないまま……」  相手は、大手生命保険会社を定年退職後、両親が建てた家と畑で年金生活を送る男性だった。しかし、彼は結婚についてはまったく触れようとしない。 「私、どういう風に思われてるのかわからなくて……。彼が何も言ってくれないから、焦りがあったんだと思うんですね。居酒屋でご飯食べながら、『今住んでる所は家賃が高いから、少し安い所へ移って生活する計画を立ててます』って、伝えたんです。そしたら『偉いなぁ。僕なんか、何にも立ててない。結婚2年で離婚されて失敗してるから、もうちょっと待って』って言われました」  2カ月後、スーツを着た彼は、恵子さんを同じ敷地に住む兄に会わせ、それから両親の墓前に連れていって、「将来、一緒になろうと思うからよろしく」と紹介した。そこで気の短い恵子さんが酔っ払ったついでに「ホテル行こか」と誘ったが、「いや、明日早いから帰るわ」と逃げられた。  出会いから7カ月後、恵子さんは「朝早く花見に行くから、前の日に(ウチ)来ない?」と招待された。 「年寄り向きのペアのパジャマと枕カバーが用意されてました。○○○(量販店)で買ってきたって。でもセンス云々(うんぬん)よりも、優しいなって思いました」  居合わせた全員が声を上げて笑った。 「では、その夜?」  と尋ねると、 「3回目くらいですね」  恵子さんは、頭の中で数えるように宙を見つめた。それから、 「びっくりしました。この年で、そういうことあるんかって。昔から、そういうことにあまり興味なくて嫌だったんです。でも『絶対、断ったらあかんのや』って自分に言いきかせて」  戸惑いを隠せないまま一気に言った。  20代の結婚と違い、人間ができ上がっている者同士の結婚は、違うものが多すぎて、とても難しいと言われている。ところが長谷川さんも恵子さんも幸せそうで、肌もツヤツヤしている。その後、恵子さんの彼は、築40年の家を数千万円もかけて、新婚生活のためにリフォームを始めた。 「選んでいただいてありがとうって感謝の気持ちが大切。それと、言うべきことは、はっきり伝える」  恵子さんは、真顔でうまくいくコツを語った。続いて長谷川さんが、 「相手の家族の悪口は言わないこと」  と、穏やかにつけ加えて笑った。妻としての頼もしい落ちつきが感じられた。  茜会大阪支店長の笹原郁美さんは「60代の結婚が一番難しい」と言う。茜会大阪では、60代の成婚は長谷川さんが初めてである。 「60歳から65歳って、一番収入が下がる時なんです。『年収じゃない』って、その年代を求める女性には、お話をするんですけど、大卒とか、背が高いとか、女性の求めるものは若い時と変わらないんです」  ちなみに嫌われる男性は、「優柔不断。上から目線。過去の女性や妻のことを言う人。何も行動しない人」だそうだ。  長谷川さんと恵子さんは、一歩前へ出たから、結婚のチャンスに出逢(であ)えたのではないだろうか。恋や結婚は、年齢に関係なく、自らの手でつかみにいくものなのである。 ※週刊朝日  2016年12月9日号
シニア婚活
週刊朝日 2016/12/03 07:00
12月3日は「カレンダーの日」。暦には多くの歴史がありました。
12月3日は「カレンダーの日」。暦には多くの歴史がありました。
新年まで残りわずかとなりました。みなさんは2017年のカレンダーの準備はできていますか?この季節から並び始める色とりどりのカレンダーに、来年への期待を膨らます人たちも多いのではないのでしょうか。 私たちが日頃使用しているカレンダーは、「グレゴリオ暦」を用いて作成されています。世界標準として使われているグレゴリオ暦ですが、一般化されるまでには多くの歴史が積み重なっていました。 今回は、そんな「暦」の歴史についてご紹介します。 太陰暦:バビロニア帝国の僧侶が発見した「月の満ち欠けの周期」 私たちが日頃から使っているカレンダーは、「グレゴリオ暦」という暦法によって作られています。しかしこの暦法が一般的に用いられるまでには、多くの紆余曲折があったのです。 暦が用いられるようになったのは、古代バビロニア帝国の僧侶たちの発見がきっかけとなっています。彼らは毎晩夜空を見上げる中で、ある発見をしました。「月の満ち欠けが一定の周期をたどる」ということです。これをきっかけに、月の満ち欠けを利用した「太陰暦」という暦が発明されました。 バビロニアの僧侶たちがこの発見をした頃、日本は縄文時代。暦はそんなにも昔に登場していたんですね。バビロニア帝国の僧侶による「月の満ち欠け」の発見 太陰太陽暦:8月なのに冬の寒さ?太陰暦の弱点 月の満ち欠けの周期に基づいて発明された太陰暦ですが、この暦法には一つの弱点がありました。というのも、太陰暦では1年が354日。地球が太陽の周りを1周する365日という周期とズレてしまうのです。この11日のズレはバカにできません。3年もすれば約1カ月のズレが生じます。そのため、何の調整もせずに太陰暦を使用していると「8月なのに冬の寒さ!」なんていうことになってしまうのです。 この問題を解決するために発明されたのが、「太陰太陽暦」です。3年に一度13カ月ある年を作ることで、3年ごとに生じる1カ月のズレを調整することにしたのです。 この暦法は後に中国へ伝来し、日本に伝えられることとなりました。太陰暦の弱点を補ったのは太陰太陽暦 日本書紀に記された、暦博士の渡来 日本に暦が伝来したのは、6世紀から7世紀頃と言われています。 日本書紀には、暦を作成するために欽明天皇が百済から「暦博士」を招こうとしていたことが記されています。暦博士とは律令制の官職の一つで、暦の作成は暦博士によって行われていました。暦を作成するための理論や計算を研究する「暦学」という学問が伝えられたのは、後の推古天皇の時代。その時に渡来した暦博士によって伝えられたのが「太陰太陽暦」です。 今となっては私たちの生活から切っては切れないものとなっている暦ですが、暦が一般化していなかった時代にはどのような時間が流れていたのでしょうか。ちょっと想像がつきませんね。欽明天皇陵 グレゴリオ暦が使用開始された12月3日は「カレンダーの日」 日本に太陰太陽暦が伝えられてから、中国暦や西洋暦なども参考にしながら様々な暦が作成されました。その中の一つである天保暦は、それまで実施された太陰太陽暦の中で最も精密であったと言われています。 天保暦でいうところの明治5年11月9日、改暦が決定されました。グレゴリオ暦の使用することが決まったのです。諸外国と足並みをそろえるためとか、政府が13カ月分の給料が払えないほどの財政難に陥っていたなど、改暦には様々な理由があったようです。そして実際に改暦が施行されたのは、決定から23日後の12月3日。急な改暦に、日本では大きな混乱が生じたそうです。たしかに「1カ月後に改暦するよ」と言われたら、「仕事の締切は?」「来月の旅行の予定は?」なんて困ってしまいますよね。 ともあれ、グレゴリオ暦がすっかり馴染んだ昭和63年、全国団扇扇子カレンダー協議会によって12月3日が「カレンダーの日」とされたのです。
tenki.jp 2016/12/03 00:00
30~40代女性に薄毛の悩み急増…男性とは違う特徴とは?
30~40代女性に薄毛の悩み急増…男性とは違う特徴とは?
頭部全体にわたって毛髪が薄くなる症状に悩む30~40代の女性が増えているという (※写真はイメージ)  女性の薄毛の悩みは、今や30~40代にも及んでいる。仕事や子育て、介護といった心身の疲れによるホルモンバランスの崩れやストレス、さらに食生活の乱れや睡眠不足などが原因とみられる。薄毛改善の奮闘ぶりと、専門家のアドバイスを紹介する。 「びまん性の薄毛」  女性に多い、頭部全体にわたって毛髪が薄くなる症状だ。これに悩む30~40代が増えているという。 「男性の場合、頭髪の左右の生え際や、つむじのあたりに顕著な脱毛が見られます。女性は要因はさまざまですが、びまん性の薄毛が大きな特徴です。男性のように分け目を変えても薄毛が全体に広がっているので、見た目の解決にならないという人が多いです」  こう説明するのは、薄毛治療専門の銀座HSクリニックの北嶋渉院長。 「鏡で見たときに、頭頂部や分け目の薄さが気になる」「薄毛のせいで実年齢より老けて見える」など、クリニックを訪れる患者の悩みは絶えない。びまん性薄毛の原因について、北嶋院長は、老化や産後のホルモンバランスの変化、貧血、内臓疾患、ストレス、過度のダイエットなどを挙げる。  一方で、 「まれに膠原(こうげん)病などの全身疾患が原因の患者がいますが、ほとんどの場合は原因を特定するのが難しいです。ストレスを数値化できないこともその理由です」(北嶋院長)  リクルートライフスタイルの2014年2月の「薄毛に関する意識調査」によると、20~59歳の男女2万203人(男性1万169人、女性1万34人)が回答し、女性は30代から薄毛に悩む人が増え、40代以降は女性のほうが男性よりも気にしていることがうかがわれる。 「新規来院患者の男女比で言えば、ここ3年間は、女性の割合が増加傾向です。12年までは2割だったのに比べ、13年以降は3~4割と上昇しています」(同)  では、薄毛に悩む女性たちは、どのような“努力”を重ねてきたのだろうか。  甲状腺の機能が低下する、軽症の橋本病を患っているクリエーターの湯川奈緒子さん(仮名・47歳)は、10年前のある夜、バスルームの鏡に映った頭のてっぺんの薄毛に驚いた。 「ホルモン療法をしていないのに、薄毛が目立ち、全体に広がっていて……。誰にも相談できず、悶々(もんもん)としていました。同居中の彼が使っていた男性用育毛剤で頭皮マッサージをしましたが、あまり効果がなく、シャンプーをオーガニック系に替えたり、頭皮のヘッドスパを試みたりしました。5年前には女性用育毛剤の『リアップリジェンヌ』(大正製薬)を使用したところ、ついに1カ月でてっぺんに産毛が生えてきて! 朝晩2回使用すると、半年後には鏡を見ても気にならない程度に回復しました」  小学校教諭の菊川真由子さん(仮名・45歳)は2年前から分け目の地肌が目立ってきた。身長が150センチで、頭の地肌を周囲の目線にさらす機会が少なくない。薄毛を改善する方法をネットで探した。 「プラセンタ(胎盤エキス)が効くそうですが、頭皮へのプラセンタ注射は痛そうです。そこでプラセンタ含有のコスメで定評のある会社の育毛剤を半年前から使ってみたら、髪の根元からしっかりと立ち上がるようになりました。分け目の薄毛も少しずつ目立たなくなり、ボリュームがアップしたように見えます。頼りになるので、しばらく使ってみます」  4年間に5千人以上の頭髪を診断した毛髪診断士の大川あつ子氏は、育毛剤やプラセンタの効果を次のように語る。 「男性と女性では、薄毛の原因が違うほか、ヘアサイクル(毛周期)も違いますから、男性用育毛剤を女性は使用しないほうがいいですね。日本皮膚科学会が公表するガイドラインによると、『リジェンヌ』はミノキシジルという有効成分が含まれていますから、女性の薄毛にも最も効果が期待できるとされています。育毛剤は1日2回、毎日使って、半年ほどで効果がみられると考えるといいでしょう。プラセンタは女性ホルモンの働きをアップする効果があるとされています」。錠剤などでプラセンタを摂取するのも有効だそうだ。  髪本来のパワーをよみがえらせる働きがある薬草ヘナのケアで、半年で薄毛を改善したのは、銀座のクラブオーナーママの林真央さん(仮名・48歳)。31歳のときに離婚が原因で頭髪が真っ白になった。それから黒髪に染めていたが、10年前にオーナーママになってから、和装のヘアセットで頭皮に負担がかかるように。数年前から前髪が薄くなり、枝毛や白髪も増えた。3年前には橋本病を患い、現在治療中だ。 「今年の春ごろ、薬草ヘナを知り、毎月1回、ヘナ専用のサロンでケアをしてもらっています。初回の翌日、セットで訪れた美容院から『髪の毛一本一本に立ち上がりがある』と驚かれました。ヘナにはデトックス効果があるせいか、頭痛も緩和されました。現在は、月1回のヘナ染色のほか、毎日ヘナのオイルでマッサージをしています。シャンプーもエッセンスもヘナエキス入りを使っています」  ヘナの効用について、林さんを担当するヘナ専用のサロン美容師が次のように話す。 「5千年の歴史を持つインドの伝承医学・アーユルベーダでは、ヘナは万能の薬草です。葉を採取して頭髪に使うだけでなく、やけど(1度、2度程度)、すり傷などの傷の手当てに使われています」  ヘナに含まれるローソンという成分が、髪の毛の奥に浸透して、傷んだ部分を修復してくれるトリートメント効果があるほか、髪への修復作用、解毒作用、染毛作用を発揮するという。 「薄毛の治療そのものではなく、自然治癒力を促し、髪本来の力を高めてくれます。そのため根元からボリュームがアップします。林さんは純度の高いクラスのヘナを使用されていますので、すぐに効果が表れました」(前出の美容師) (作家・夏目かをる) ※週刊朝日 2016年12月9日号より抜粋
美容
週刊朝日 2016/12/02 07:00
藤田嗣治・パリで絶賛を浴びたただ一人の日本人画家
藤田嗣治・パリで絶賛を浴びたただ一人の日本人画家
12月に入り、寒さも一層厳しくなり、冬の到来を改めて実感します。先日は54年ぶりに観測された11月の初雪には驚かされましたね。さて、先の11月27日は画家・藤田嗣治が生まれて130年を迎えた日。藤田は1886年(明治19年)に東京府牛込区(現在の新宿区)新小川町で生まれました。 第一次世界大戦後の1920年代の西洋画壇で絶賛を浴びた藤田でしたが、日本では思いの外受け入れられることがありませんでした。「日本が私を捨てたのだ」といってフランスを生きる場に選んだ藤田の生涯を顧みたいと思います。フレスコ画 聖母子像 オカッパ頭にロイド眼鏡、奇矯なふるまいには理由が 藤田嗣治が生まれた1886年は明治維新を越えて初代総理大臣となった伊藤博文が国会の開設や、大日本帝国憲法の制定にむけて準備をしている、まさに日本という国の体制が作られている時代でした。 二人の姉と兄、四人兄弟の末っ子として生まれた嗣治は「玩具のように可愛がられた」と回想しています。父親は陸軍軍医で、後に森鴎外の後を継ぐ陸軍軍医総監となる軍人の家でした。しかしながら母方の従兄弟に洋画家の岡田三郎助、劇作家の小山内薫、甥に音楽、舞台評論家の葦原英了、建築家の葦原義信といった芸術家を多く生み出す家系でもありました。 14歳の時、医者にしたいという父の希望を知った嗣治が画家になりたい旨を手紙に託し父に送ったところ、父から画材を買うようにと50円という大金を与えられた、というエピソードがあります。お堅い軍人だけの顔だけではない、本人の希望と才能を受け入れるおおらかな教育方針を持つ父親像を見ることができるのです。 18歳、東京高等師範付属中学卒業後にフランス留学の希望を父に申し出ますが、森鴎外の助言で東京美術学校西洋画科に入学します。これは画家としての成功を考えてアカデミックな土台を持つことを良しとした鴎外の親心だったようです。しかし当時の画壇は、フランス留学から帰国した黒田清輝を中心とした絵画論による革新運動が急進的に行われており、この流れに素直に乗れない嗣治にとって大学での勉強は失望ばかりの日々だったようです。そんな中でも岡本一平(岡本太郎の父)など個性的な友人との交流は、この後も嗣治にとって大切な楽しい思い出となったそうです。 24歳で東京美術学校を卒業後文展に応募するも落選を3度繰り返します。その頃嗣治は鴇田とみと大恋愛をして26歳の時に初めての結婚をします。しかしその結婚も長くは続かず27歳の時、父親から3年間の送金を約束をもらいフランスへ単身留学します。 パリで落ち着いた町はモンパルナス。当時はまだ閑散としていて家賃の安さから若い画家たちが集まり始めていました。その中にはロシアからシャガール、イタリアからモディリアーニ、ブルガリアのパスキン、ベラルーシのスーティン、ポーランドのキスリングといった人達がいます。パリで出会った美術と自らの民族や国民性を造形に取り入れたスタイルを確立していった画家達で、嗣治とともにエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれました。 28歳、渡仏してすぐに1914年に第一次世界大戦が起き送金が止まり窮乏生活をしいられます。そんな中でも画業に打ち込むことは忘れず常に画を描くことを一番に勉強に励んだと回想しています。そんな中でトレードマークのオカッパ頭できあがります。床屋にいくお金がないので髪の毛が伸びるたびに自分切っていったそうです。嗣治は知る人のないパリで美術を学び生活していくために、自分をいかに演出しアピールすることが大切かを感じ取り、プライドを捨てて人々に交わり、交友関係を作り上げていったようです。派手な衣装を身につけたり、パーティに呼ばれて何か踊れと言われれば喜んで日本の踊りをおどって喝采をさらったということです。このような振る舞いはおとなしい日本人から見れば奇矯なものに写ったことでしょう。こうした努力もあってピカソに紹介されるという幸運にも恵まれアパートを訪ねます。この時キュビズムに出会い強烈な印象をうけます。パリは東京美術学校でならった黒田清輝の印象派はすでに時流から去り、キュビズム、シュールレアリスムといった新しい絵画が登場してきていたのでした。 嗣治は30歳になり父親との約束の3年が過ぎます。この時父に手紙を送り留学継続を宣言し父からの送金も断ります。自力でパリで画家として成功することを心に決したのです。日本においてきた妻とみと正式に離婚します。 1918年終戦を迎えたパリは芸術活動が再開されます。ヨーロッパやアジアから成功を目指し人々が集まってきました。戦後の好景気に文化の香りを求めてパリにやって来たアメリカ人は裕福な人が多く芸術家のスポンサーとなりました。そんな平和と豊かさに溢れたパリのようすを嗣治は『巴里の横顔』で「お祀りの後で女が母になる事も珍しくない」と語っています。モンパルナスは夜ごと乱痴気騒ぎが繰り返され、ハッシッシなどのドラッグがカフェで取引され画家たちもアトリエで吸引したといいます。これは1929年の世界恐慌まで続きます。後に「狂乱の時代」と名づけられたパリは、嗣治が脚光を浴びた1920年代とまさに重なります。フジタの肖像-Ismael Nery 絶賛された嗣治の独創「乳白色の肌」の秘密 1919年終戦で再開されたサロン・ドートンヌに出品した6点全てが入賞する、という快挙を嗣治は33歳でとげます。2年後の1921年には「自画像」「私の部屋、目覚まし時計のある静物」「裸婦」の3点をサロン・ドートンヌに出品され絶賛を浴びます。「私の部屋」は自身のアトリエの様子が描かれています。白い壁には3枚の皿が飾られ、その下の棚には目覚まし時計、ロイド眼鏡、パイプなど愛用の品々がおかれ、穏やかで落ち着いた画家のまなざしが感じられます。パリの評論家からは「物の細部を描く細かなタッチは藤田ならでは」と高い評価を受けました。この作品は終生愛して身近に置いていましたが現在はフランス国立近代美術館にあります。このように嗣治は次々とパリ画壇を驚かせる作品を発表し続けます。 なによりも藤田嗣治が世界に認められたのは独自の表現方法を獲得したことによります。「画家は古い伝統を破って自らの画風を確立すべき」という思いを画を学び始めたときから持っていたと思われます。パリに来てからもまわりの才能に刺激されながら、人の模倣ではない独自の表現を探し続けていた結果得られたのが「乳白色の肌」。その代表作が「寝室の裸婦 キキ」です。 裸婦は西洋美術では重要なテーマのひとつになります。実はこの肌の表現は嗣治は浮世絵からヒントをえたようです。嗣治のエッセイ『腕一本』に次のような一文があります。 「春信・歌麿などの画に表れる、僅かに脚部の一部分とか膝のあたりの小部分を覗かせて、あくまでも肌の実感をえがいているのだという点に思い当たり。初めて肌というもっとも美しいマチエールを表現してみんと決意した」 これが嗣治の独創「乳白色の肌」誕生のきっかけだったようです。 長い間その技法は謎に包まれていましたが、2000年以降に行われた藤田作品の油彩画の修復に際して、キャンヴァスに独創が秘められていたことがわかりました。 通常のキャンヴァスは2層からなりますが、嗣治のは3層ありました。第一層目は通常の膠。第二層目から通常キャンヴァスに使われない硫酸バリウムが検出されました。さらに第三層目には鉛白と炭酸カルシウムを塗り重ねていたのです。鉛白は白の顔料として最もよく知られており、鮮やかな白い色を出すので下地にもよく使われています。もう一つの炭酸カルシウムは鉛白と同じ白の顔料ですが、オイルで溶かすと黄色味を帯びた発色をします。嗣治はこの炭酸カルシウムと鉛白を混ぜ合わせていたのです。膠の上に三種類の顔料で作る二層の下地を重ねててきたキャンヴァスは、黄色と白の微妙な配合によって鮮やかな白にあたたかさがほんのりと加わります。嗣治のたゆみない努力のたまものではないでしょうか。この炭酸カルシウム、実は和光堂株式会社の「シッカロール」が使われていたことが、土門拳氏による制作の様子を撮影した写真によりわかっています。このような身近なものが美しい画の材料となることなど想像にも及びませんね。 もう一つ、嗣治がパリの評論家を驚かせたのはその流麗な輪郭線でした。身体や眉毛や鼻の輪郭など繊細で美しい黒い線は肌の色を際立たせているのです。これを描くのに日本画の面相筆と墨を使うという工夫をしました。穂先が細長く弾力と粘りのある毛で出来ているため細かく長い線を描くことが出来るからです。 このように嗣治はパリで日本人である自分を最大限に生かして、西洋画の世界に記される新しい技法を作り上げたのでした。シッカロールと面相筆 フランスでの栄光と日本での挫折 1925年嗣治39歳の時フランスよりレジオン・ド・ヌール勲章とベルギーからレオポルド一世勲章を受けます。レジオン・ド・ヌール勲章はナポレオンが1802年に制定したフランスで最も権威ある勲章で、軍事や文化的功績に対して与えられます。 フランスでの大きな成功のなか、嗣治には自分の芸術を日本で認めてもらいたいという思いがありました。しかしこれはなかなか叶えられません。 1929年43歳の時に17年ぶりの帰国を果たします。しかし思うように目的を達成することはできず、冷たい批判と誤解のなかパリへ戻ります。ふたたび日本に戻るのは1933年のこと。この日本滞在で嗣治は大画面の壁画制作に取り組みます。この間に生涯の伴侶となる君代夫人と出会い5度目の結婚をします。その後1939年に53歳で渡仏しますが、第二次世界大戦勃発で1940年に帰国します。1945年の終戦まで嗣治は戦争画と取り組むことになります。 そのきっかけとなったのが1941年55歳の時の『吧爾吧(ハルハ)河畔之戦闘』です。これはノモンハン事件において、歴史的大敗の責任をとった元陸軍中将、荻須立兵の依頼によるもので、戦死した部下の霊を慰めるためにという個人的な依頼でした。縦1.4メートル横4.48メートルの大作は緑の草原と青空、その地平線の果てまで描かれる前進する日本軍兵士と、前景にソ連軍の戦車によじ登り銃剣で入口をこじ開けようとする兵士の姿が大きく描かれています。 この他にも1943年『アッツ島玉砕』、1945年『サイパン島同胞臣節を全うす』次々と大きな画を仕上げます。いずれも孤島での玉砕を暗い色調で描いた悲惨なものですが、嗣治のすぐれた描写力と構成力は見る者に作品のエネルギーを伝える大作となりました。記録画巡回展が青森で催されたとき、嗣治は『アッツ島玉砕』の前で年老いた男女が膝をつき祈り拝み、御賽銭を画に投げて供養を捧げる姿に遭遇し、今までに感じたことのない衝撃を受けます。ふだん絵画を見ることなど無い人々が自分の描いた画に手を合わせて拝んでいる。これほどの感銘を与えることができた事に大いに心打たれ「数多く描いてきた画の中でも尤も快心の作」と語っています。 戦争が終わるとGHQは、戦争画の美術的価値を認め「日本占領」のテーマに絵画収集に動きます。その協力を申し出られた嗣治は、まさに自分が適任であると喜んで引きうけました。 一方軍国主義者の公職追放や戦争犯罪を裁く極東軍事裁判がの準備が始まるとると、GHQからの責任追及を怖れた日本人美術関係者が自主的に責任者をリストアップし始めます。そのやり玉に挙がったのが嗣治でした。嗣治は旧知の画家に「戦争画を描いた画家の代表として、当局に出頭して欲しい」と告げられるのです。日本のために一生懸命描いてきた自分を、やはり拒否しようとする美術界の仕打ちを知り落胆します。そして潔く責任を引きうけます。この時の日本美術界に対する失望は生涯消えぬ傷となり、やがて日本との決別を心に固めることになります。君代夫人に嗣治は「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」と何度も語っていたということです。嗣治に対する誤解と中傷は最後までなくなることはありませんでした。 1949年63歳の3月羽田からアメリカへ出発。ニューヨークで1年過ごします。その間に戦後の代表作となる「カフェ」で黒いドレスを着た女性を描き、久しぶりに「乳白色の肌」が甦ります。 1950年パリへ到着しますが、待っていたのはかつて嗣治が華やかに活躍したパリではありませんでした。美術界も戦後になると抽象的な作品に人気が集まるようになり、中心もニューヨークへと移りつつありました。そんな中でも嗣治はパリ、アルジェ、マドリッドで個展を開いて画の精進を続けていきます。 この頃の多くの作品に子供が描かれています。額の広い無表情でどの顔も造作が同じな少女や少年たち。その独特の顔はみなさんもおなじみと思います。子供の絵について嗣治は「本当にこの世の中に存在している子供ではない。私の画の子供がわたしの息子なり娘なりで一番愛したい子供だ」といっています。子供に恵まれなかった嗣治にとっては、心の中の子供ゆえに人形のような同じ顔に描かれたのかもしれません。 1955年68歳で嗣治は君代夫人とともにフランス国籍を取得し帰化します。そして保持することのできた日本国籍を抹消します。受洗したノートルダム大聖堂 神に抱かれて過ごした晩年 1959年72歳の時、パリから北東へ約130キロシャンパーニュ地方の中心都市ランスにあるノートルダム大聖堂で君代夫人とカトリックの洗礼を受けます。この時に与えられた洗礼名が「レオナール」、尊敬するレオナルド・ダ・ビンチから取った名前でした。こうして神の子となった嗣治はレオナール・フジタとなりました。 1964年78歳の時にパリで最後の個展を開きます。その翌年「一生の終止符を打つ」仕事としてランスに平和の聖母礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ペ)の建設を決意します。礼拝堂内部の壁四面にはフレスコ画で聖母子像、受胎告知、東方三博士の礼拝、キリストの磔刑など聖書のテーマを描きました。この時すでに癌を患っていましたが、全身全霊を傾けてこの神聖な主題にもとづくおよそ100㎡に及ぶ壁画を3ヶ月弱で完成させます。 1966年8月に礼拝堂は完成した後、パリで癌治療のために入院します。入退院を繰り返し1968年1月29日スイスのチューリッヒ病院で亡くなります。81歳でした。 嗣治の死をパリの国営テレビニュースは「モンパルナスの歴史はこうして少しずつ死んでいく」と伝え哀悼の意を表しました。 32年間嗣治とともに暮らした君代夫人は、その後日本に生活をもどします。嗣治の作品を大切に保管し2009年になくなります。 画家として認められ、画を描いて生きていくことをもっとも大切にした嗣治は、自分の絵を守るために日本を捨てましたが、美術に国境はなく普遍であると信じていたにちがいありません。 今年も残りわずかとなりましたが、もし興味を持たれましたら、 藤田嗣治の展覧会へと足を運ばれてみてはいかがでしょうか? ○「レオナール・フジタとモデルたち」 2016年9月17日(土)から2017年1月15日(日)DIC川村記念美術館 ○「生誕130年記念 藤田嗣治展 -東と西を結ぶ絵画-」府中市美術館 2016年10月1日(土)から12月11日(日) 参考文献: 近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔』 (講談社文芸文庫) 藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』 (平凡社ライブラリー) 林洋子 『藤田嗣治生涯と作品』(東京美術 もっと知りたいシリーズ)聖母礼拝堂 ランス
tenki.jp 2016/12/02 00:00
思い出と期待が交錯する ──  12月の詩歌
思い出と期待が交錯する ── 12月の詩歌
先週は東京で11月では史上はじめての積雪がありましたが、箱根の降雪を報じるテレビのニュース画面に、降りしきる雪の中で静かにたたずむ、とある美術館のツリーが映りました。 その様は、まさしくロマンチックなホワイトクリスマス!でしたが、クリスマスまであと1カ月。明日から一年の終わり・12月を迎えます。 そこで今回は、年末の行事や風景を題材にした詩歌を選んでみました。クリスマスシーズン到来! 何となく昔を思い出す年の瀬 年末に独特の気分を言うときに使われる季語が「年の暮れ」です。「歳晩」などとも言います。昔は商店などの支払いも年末にまとめてでしたから、その気苦労もありました。孝作の句はそのころの雰囲気が主題です。三鬼句の「玻璃窓」はガラス窓のこと。昔のガラス窓は外の風景が微妙に歪んで見えたものです。 12月に入ると忘年会が始まりますが、俳句では「年忘れ」といいます。万太郎は、どこか古い料亭で忘年会でしょうか。仕事納めは「御用納め」。 〈ぜにかりにゆく家のあり年の暮れ〉瀧井孝作 〈玻璃窓を鳥ゆがみゆく年の暮〉西東三鬼 〈紙屑をもやしていても年の暮〉細見綾子 〈拭きこみし柱の艶や年忘〉久保田万太郎 〈酔(すい)の眼も歌ふも艶(つや)や年忘れ〉上野信夫 〈何もかも御用納めの風邪ぐすり〉有働亨忘年会シーズンですが、ビールの酒税、どうなるのでしょう? 年の暮れは、今年あったことだけでなく、何となく昔のことが思い出されるものです。和歌ではこんなふうに詠まれます。 〈隔てゆく世々のおもかげかきくらし雪とふりぬる年の暮かな〉藤原俊成女 遠い昔の情景を雪をかき集めるように思い出しているのでしょう。「雪」と「かき」「ふる」は関連した言葉を読み込むという「縁語」という和歌技法です。「ふる」は「降る」と「古い」が重ね合わされる「掛詞」です。 クリスマス、イルミネーションと初雪、新しいカレンダー クリスマスは言うまでもなく、キリストの誕生日です。「降誕祭」「聖誕節」などとも呼ばれます。クリスマスケーキが「聖菓」です。 〈聖菓切るキリストのこと何も知らず〉山口波津女 〈子へ贈る本が箪笥(たんす)に聖夜待つ〉大島民郎 最近ではクリスマス近くになると、あちこちでイルミネーションが点灯されます。そういえば、夜空にチラチラと舞う雪はまるでイルミネーションのようですね。 先週関東で降った初雪は早朝でした。雪が振り始めるときには、心せかされるような気分がします。 〈初雪を見てから顔を洗ひけり〉越智越人 〈初雪や外出の刻(とき)せまりつつ〉星野立子 〈初雪や水仙の葉の撓(たわ)むまで〉松尾芭蕉 雪が降りかかると植物の葉が重みでたわみます。芭蕉の句とは信じられないような、近代的な味わいの句です。 新しい年の予定帖、カレンダー、日記帳などが売り出されるのもこの時期です。 〈書かざれどすでにわがもの新日記〉山口波津女 〈暦買ふうしろの日々の重くあり〉藤田湘子 新しいカレンダーの後半を見ると、なんだか気が重くなる、という湘子の句です。 過去の思い出と新しい年への期待が交錯する季節、風邪に注意して新年の準備をしましょう。横浜赤レンガ倉庫のイルミネーション
tenki.jp 2016/11/30 00:00
深刻な食糧不足の裏にある“不都合な真実”と“希望” <アフリカン・メドレー>
深刻な食糧不足の裏にある“不都合な真実”と“希望” <アフリカン・メドレー>
マラウイ第2の都市ブランタイアにほど近い町チロモニ。Seiboはここに活動の拠点を置き、給食支援活動を行っている(チロモニ・マラウイ 2016年/Chilomoni,Malawi 2016) 椅子と机はほとんど備えられておらず、床に車座になって給食を食べていた。給食を残す子はいない(チロモニ・マラウイ 2016年/Chilomoni,Malawi 2016) 土壌侵食から地割れが生じたケース。このすぐ先に、かつては森があった(チチメンベ・マラウイ 2016年/Chichimembe,Malawi 2016) 植えられたグルーガムの木の苗。グルーガムの木は、土地に再び養分を与えてくれるものだと、フィスカ二は少し誇らしげに話していた(チチメンベ・マラウイ 2016年/Chichimembe,Malawi 2016) 立ち枯れたトウモロコシ。ハイブリッド種のものだ。化学肥料を十分に与えなければ、この種は育つことができない(チチメンベ・マラウイ 2016年/Chichimembe,Malawi 2016) ローカル種のトウモロコシ畑。チチメンベでは、ハイブリッド種を減らし、ローカル種のみの畑に戻せるよう、フィスカ二たちが中心となり、老若男女が一丸となって畑に向き合っていた(チチメンベ・マラウイ 2016年/Chichimembe,Malawi 2016)  広大なアフリカ大陸のうち25カ国を訪ねてきた、フリーランスライターで武蔵大学非常勤講師の岩崎有一さんが、なかなか伝えられることのないアフリカ諸国のなにげない日常と、アフリカの人々の声を、写真とともに綴ります。  世界で5本の指に入る最貧国といわれるアフリカ南部のマラウイ。偶然の出会いから、そのマラウイで深刻な食糧不足が起きていることを知り、現地を訪れることになる。何度も唸(うな)らされることになった今回の訪問で、岩崎さんが感じたアフリカの問題と魅力とは? *  *  *  この夏、自宅近くのバーで、ひとりのアイルランド人と出会った。よどみなく日本語を話す彼は、私がたびたびアフリカの国々を訪ねていることを知ると、「マラウイには行ったことがありますか」と言って、ビールの入った自分のグラスを近づけてきた。  デクランは、マラウイの保育園で給食支援活動を行うNPO法人「せいぼジャパン(以下、Seibo)」の代表だ。今、マラウイは、天候不順による食糧不足が深刻な状況なのだとデクランは言う。 「マラウイに行ってもらえませんか。岩崎さんに、マラウイを見てきてほしいのです。現地スタッフに岩崎さんのことを話しておきます。まだ今日の時点では約束できませんが、でも、私の心のなかでは、ほとんど決めた上でのお願いです」  あまりに唐突な申し出に、私は半信半疑だったが、デクランの話に誇張や怪しさは感じられなかった。  これまでに2度、私はマラウイを訪ねた。南北に細長く、東側に沿うマラウイ湖をいただく内陸国のマラウイは、どの地域を訪ねても田舎で質素だが、しかしまた、どの地域を訪ねても緑豊かで、人々が擦れていなかったことが印象に残っている。  自宅に戻り早速調べてみると、2013年ごろから干ばつと多雨がマラウイ各地で散発的に繰り返されていた。国連WFP(世界食糧計画)によると、その影響でマラウイの人口の約40%が、食糧の緊急支援を必要とする状況に置かれる可能性が高いとされている。  マラウイでいったい、何が起こっているのか。デクランの申し出を受け、現地を訪ねた。  例年よりも早めの秋風を感じ始めた9月に日本を発ち、マラウイ第2の都市ブランタイヤの空港に到着した私は、Seiboが事務所を置く同国南部の街チロモニへと向かった。車窓から見える景色から、深刻さは感じられない。通り沿いには野菜や干し魚を売る光景が見られ、自動車の往来も多い。私は、支援機関の車両が頻繁に行き来し、やせ細った人が座り込んでいるような状況が目に入ってくるのかもしれないとかまえていたが、そのような風景はなかった。  Seiboは、チロモニを拠点に、2015年からチロモニ周辺の保育園で給食支援活動を始めた。1日1食しか食べられない子どもが多いため、5歳以下の子どもたちに保育園での給食支援を続けている。幼い未就学児の心身の成長を促すことで、その後の小学校就学へと子どもの成長を確実につなげ、マラウイの未来を担う人材を育むことがねらいだ。現在は、保育園だけでなく、小学校での給食支援へと活動を広げようとしている。  今回のマラウイ滞在中、チロモニの保育園と、同国北部ムジンバ県ムズズ地区に点在する小学校を、Seiboの現地スタッフとともに訪ねた。給食が子どもの成長を助けるだけでなく、給食目的とはいえ保育園に子どもを預けるようになったことで、両親が家事や仕事に専念できるという効用もあることを知った。  また、ムズズでは朝食を食べる子どもはほとんどおらず、昼食として持たされるのもせいぜい麩(ふ)菓子程度だ。そのため、空腹で朝から始まる小学校の授業に集中できず、足が遠のく子どもが多いこともわかった。保育園や小学校で得られる1食がもたらすものは、想像以上に大きいのだ。  子どもたちが十分に食べられている状況でないことは、保育園に子どもを通わせる両親や、小学校の先生たちの話から伝わってくるが、人口の40%もの人々が飢餓に陥る寸前だとの緊迫感を、チロモニとムズズで感じることはなかった。子どもたちの顔には笑顔が見られ、大きな騒ぎ声も訪ねる先々で聞こえてくる。やせ細った体つきの子どもを見ることもなかった。  昼も夜も、ひとりで街歩きをした。  種類は豊富ではないが、人々が日常的に口にする野菜は道端で売られており、シマと呼ばれるトウモロコシの粉末をお湯で練った主食に、肉や小魚をあわせた食事を提供する定食屋は、あちこちで営業をしている。夜になれば、人々はバーで、現地でライセンス生産されているビールのカールスバーグをゆっくりと味わい、ビールは高くて手が出せない人は、チブクと呼ばれるトウモロコシの発酵酒を手に、語らいを楽しんでいる。  街を歩いていても、外国人の私に刺さるような視線が向けられることはなく、昼も夜も、街でたかられることもなかった。一見するかぎりでは、食糧不足に窮しているようには、私には見えなかった。  食糧不足の度合いは、どの程度なのだろうか。食糧不足がほんとうならば、どうやってしのいでいるのだろうか。天候不順が原因ならば、天候が回復すれば、食糧不足はすぐに収まるものなのだろうか。緑豊かなマラウイで、そもそも、なぜ食糧不足が起こったのだろうか。ごく限られた日数の滞在期間中、私の疑問は増えるばかりだった。  食糧が不足していることは、事実のようだ。チロモニの街を歩きながら、すれ違う人に声をかけ世間話をしながら、食糧不足が生じているかをたずねてみると、誰もが頷く。Seiboのデクランによると、マラウイでは、8割を超える国民が自分の畑を持ち、自分で食べる野菜や穀物を自家栽培しているという。マラウイに暮らす人々にとって、畑仕事は日常の一部であるため、天候不順による取れ高不足は、広く、自分自身の問題として受け止められている。  マラウイ北部ムジンバ県のカブク小学校長によると、主食となるトウモロコシの生産量は、自身の畑においてはここ数年、半分から3分の1に減ったという。チロモニでもムズズでも、取れ高が激減したとの声は聞いたが、ゼロになったという声を聞くことはなかった。  また、天候不順の発生具合は地域によって異なり、ある地域では多雨が続き、別の地域では干ばつが発生するなど、地域差が大きいことも、南北ふたつの街を訪ねたことでわかった。  また、たくさんの人と話をするなかで、「肥料を買うこともできない(だから自家栽培を再開できない)」「肥料の問題があるから(だから食糧不足が起こった)」との声を、たびたび耳にした。私は当初、肥料と食糧不足がどう繋がっているのかがわからなかったが、より詳細な説明を求め続けることで、少しずつ、その意味するところが見えてきた。  事態は少々込み入っている。私が現地で聞いた話をまとめてみたい。  かねてマラウイでは、在来種の種と有機肥料を使って農耕が続けられてきた。土地は肥沃(ひよく)で、年に3回の収穫が、恒常的に見込まれてきた。  そこへ、この種を使えば、従来の倍の収穫が得られるとの触れ込みで、外国企業がハイブリッド種の種を紹介。当初は無料で配布されていたらしい。実際にハイブリッドの種を蒔いてみると、確かに倍のトウモロコシが取れた。しかし、このときに取れたトウモロコシを蒔いても、まるで育たない。再び同じ土地でハイブリッド種を育てるには、異なる種類の種を蒔かなければ育たないように、操作された種だった。  再びハイブリッド種の種を求めても、無料なのは初回のみ。人々は、種を購入しながらトウモロコシを栽培するようになっていった。その後も、在来種の4倍、8倍の収穫が期待できるとの触れ込みで、ハイブリッド種の売り込みは続けられていった。  在来種よりもはるかに多くの収穫が得られるものの、ハイブリッドを使い続けるにつれ、土地はどんどん痩せていく。そこで、これまで使われることのなかった化学肥料が導入されるようになった。化学肥料もまた、購入する以外に入手方法はない。自己完結できる自家栽培から、ハイブリッドの種子と化学肥料を購入しながら、自家栽培を続けるスタイルへと、マラウイの農業は変化していった。  マラウイの人々が食糧問題について語るなかで「肥料」と言っていたのは、この化学肥料のことだったのだ。そして、ハイブリッド種を育てるためには農薬も必要だ。しかし、農薬もまた、無料で与えられることはなく、購入しなければならない。  天候不順のせいで食糧不足が生じた結果、種と肥料と農薬を買う余裕も無くなってしまったことが、農業を再開させにくい状況を生んでいるようだった。  ならば、再び在来種の種と有機肥料を用いた農耕を再開すればいいとも思うが、そう簡単な話ではないようだ。  ハイブリッドがマラウイを席巻した結果、在来種はほとんどなくなった。そのため、種を探すことが極めて困難な状況なのだという。また、いったん痩せた土地を、化学肥料なしで再び肥やすためには、ひどく時間がかかるとも聞いた。元に戻したくても、すぐには戻せないジレンマを、人々の話に感じた。  ムズズでSeiboが活動を始めようとしている小学校を紹介してくれたのは、現地スタッフのフィスカニだった。彼はムズズ大学で言語学と地理を学ぶ大学1年生。私はフィスカニに、これまで聞いた話と私の理解が正しいものなのかを確認すると、「それは正しいのだけれど、(この事態を理解するためには)まだ知っておかなければならないことがあります」と言い、順序立てて説明をしてくれた。  マラウイでは、調理やれんが造りなどに用いる焚き木を得るため、森林を伐採し続けていた。森の木を切り倒した後になんのケアもしなかったせいで、土壌侵食があちこちで発生した。つまり、土地が痩せてしまう事態は、ハイブリッド種だけがもたらしたものではないということだった。  そこへ、天候不順が発生。痩せた土地は雨に流され、雨が降らなければサラサラの砂状となり、すぐに自力では復興しにくい状況が生まれてしまったという。また、散布される農薬はあらゆる虫を殺すほどに強力なため、生態系が変化してしまうことが強く危惧されることも、フィスカニは話していた。  チロモニにある就業支援センター「ビーハイブ」のセンター長ピーター氏からは、また別の話を聞くことができた。 たとえ微額でも、より多くの現金収入を求めてトウモロコシなどの食物から、タバコやコーヒーといった換金作物の栽培に転向した農家が多いという。しかし、極めて厳しい価格交渉のもと、換金作物から得られる金は限られ、食糧を潤沢に買える状況ではない。かといって、急にまたトウモロコシを育てることはできない。 「現在の食糧不足が発生した理由は、天候不順だけが原因ではありません。天候不順は、あくまでもきっかけにすぎない。マラウイの食料不足は、人為的飢餓、人為的飢饉(ききん)とも言えましょう」  ピーター氏はそう話して、目を落とした。街では、政治的飢餓だという人もいた。帰りの飛行機で隣り合わせた、マラウイで長く医療に従事するエチオピア人医師は、こう話していた。 「マラウイの状況を見ていると、マラウイの農業は、いったい誰のための農業なのかという気持ちになります。彼らがどれだけ働きに働いても、そこで生み出される富は、マラウイの民のものになっていません」  マラウイに長く携わってきたある日本人援助関係者は、「単なる食料不足という話じゃないんです。極めて構造的な問題です」と話していた。私は彼の言に、深く頷いた。  私にはもうひとつ、気になっていたことがある。この厳しい状況のもと、マラウイの人々は、食料不足と農業危機を、どうしのぎ、どう対処しているのだろう。  フィスカニによると、「助け合い」でギリギリしのいでいるとのことだった。主食となるトウモロコシに事欠けば、互いに貸し借りし、時には少量を与え合うことで、互いに飢えをしのいでいる。畑に蒔く種や肥料についても、助け合いでしのいでいるらしい。  農業については、畑を見せてもらうのがなにより理解の近道だと思い、フィスカニに相談すると、彼が携わっているチチメンベ村周辺の畑を、快く紹介してくれた。  国道から脇道を進んでいくと、まず土壌侵食の実態が見られた。「ほら、こんなふうに流されてしまっている」とフィスカニが地面を指さす。  立ち枯れたトウモロコシが並ぶ畑も、いくつも見られた。化学肥料を与えなければ、どれだけ育てても収穫にはいたらない。人の背の高さまで育ったトウモロコシが、そのまま枯れてしまっている光景は、実に悲しい。 「私たちは、失敗から学びました。時間はかかるけれど、また元のやり方に戻せばいい。そのための試みを、私たちははじめています」  ため息ばかりをついていた私に、フィスカニはそう話しながら、別の畑を紹介してくれた。  木々を切り倒した後の土地には、グルーガムの木の苗が植えられていた。グルーガムは、大地を再び肥やしてくれるという。種を直接蒔いても十分に育たないため、廃品のプラスチックチューブを使って、グルーガムを苗の状態まで栽培することも、行われていた。  化学肥料から有機肥料への回帰も、積極的になされていた。畑をベルギーワッフル状に耕し、そのマス目ひとつひとつに、牛の堆肥がまかれている。「自然のものはいいんだと、わかったんです」フィスカニはそう言って、はにかんだ笑顔を浮かべた。 「教育というのは、とても大切なものです。学んだからこそ、こうやって元に戻す試みを始めることができました。そして、学んだことを皆に伝えることもまた、大切だと思っています」  フィスカニは、カゾンバ地区青年団の一員としても活動をしている。農業を復興させるためのノウハウを学び、チチメンベ村をはじめカゾンバ地区の畑を元に戻すために、そのノウハウを還元しているという。カゾンバ地区青年団は支援を受けることなく、マラウイ人の青年が自発的に集まり組織されたものだ。農業の復興においてもまた、助け合いの精神が発揮されることで、この危機的状況をしのごうとしていることを知り、私は、唸るように感心した。  このマラウイ滞在中、現地の方々と話をしていると、「マラウイは貧しいからね」と言われることが何度もあった。統計の取られた年度にもよるが、数字のうえでは、マラウイは世界で下から数えて5本の指に入る最貧国ではある。そして彼らはほぼ必ず、こう続ける。「でもマラウイは、『アフリカの温かい心』と呼ばれている国でもあります」  私は、マラウイに貧しさを感じない。構造的な問題によってどれだけ土地が痩せようとも、マラウイの人たちのこころは、決して痩せてはいない。助けあいを目に耳にするたび、私はそう感じた。  フィスカニにチチメンベの畑を見せてもらった私は、13キロほど離れたムズズの宿へ戻るため、国道で乗り合いタクシーがやってくるのを待った。ほどなく車がライトをパッシングしながら通りがかので、手を上げて止め、車内に乗り込んだ。  車内には、運転をする男性と、着飾った女性が2人。聞くと、これからムズズで友人の結婚式に参加するところなのだという。豪華さはなくとも艶やかな衣装が、実に美しい。女性の1人から、「さあ、あなたをどこで下ろして差し上げればよろしいでしょうか」と聞かれた。バス乗り場近くで下ろしてくださいと話すと、私たちはムズズに詳しくないから道を指示してほしいという。この車はタクシーではないことに気づいた私は、結婚式への旅路を邪魔してしまったことを詫び、私を乗せてくれたことへのお礼を伝えると、彼女はこう話した。 「謝ることはありませんよ。これがマラウイのやり方ですから。私たちに感謝してくださった気持ちをわすれないでください。そしてあなたも、アフリカで困った人を見かけたときは、私たちがそうしたように、助けてあげてくださいね(注:彼女は『マラウイで』とは言わず『アフリカで』と言った)」 「約束します」と私は応じ、車を降りた。  なんどもため息をつき、なんども唸ったマラウイ滞在だった。食糧危機を目の当たりにしながらもなお、むしろよりいっそう、マラウイに、アフリカに、私はひかれた。 岩崎有一(いわさき・ゆういち) 1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。ニュースサイトdot.(ドット)にて「築地市場の目利きたち」を連載中
アフリカン・メドレー
dot. 2016/11/28 11:30
スポーツだけでなく、パソコンや家事でも起こるひじの痛み 原因と治療法は?
スポーツだけでなく、パソコンや家事でも起こるひじの痛み 原因と治療法は?
一時的に練習を休んで痛みが治まっても、また練習に熱中すれば痛みが起こる可能性も(※イメージ写真) 「ひじが痛い」「手術を勧められた」。整形外科の患者によくある悩みを、部位ごとに分けて専門医に聞きました。今回は「ひじの痛み」についての回答を詳しく紹介します。 【Q】長年剣道を続けていますが、最近、稽古のときにひじが痛みます。とくに、竹刀を振るときに右側のひじの内側が痛くなります。練習以外のときはそれほど痛くないのですが、ひどいときはコーヒーカップが持てなくなることも。なぜ痛むのでしょうか? 痛みが治まるまで、稽古は休んだほうがいいですか?(男性・50代) 【A】筋肉が骨に付いている部分の炎症。痛むときは練習量を減らして <回答者:JCHO大阪病院 副院長 冨士武史医師>  このようなひじの痛みを、医学的な総称として「腱付着部炎(けんふちゃくぶえん)」といいます。「上腕骨外側上顆炎(じょうわんこつがいそくじょうかえん、通称:テニスひじ)」や「上腕骨内側上顆炎(通称:ゴルフひじ)」などと同じように、筋肉が骨に付いている部分(腱)に繰り返し負担がかかることで、炎症が起こっている状態をいいます。  剣道だけでなく、テニスやゴルフなど、スポーツをする人に多くみられます。また、スポーツ以外でも、重い荷物の持ち運びやパソコン作業などの仕事、家事や育児など、同じ動作の繰り返しにより、筋肉に負担がかかることで、同じような痛みが起こる可能性があります。  剣道で考えれば、例えば、竹刀を左手で持って素振りを繰り返すことで左腕のひじが痛くなったり、抜き胴の練習を繰り返すことで右腕のひじが痛くなったりと、練習の方法によって左右どちらの腕にも、そして、ひじの内側、外側のどちらにも起こる可能性があります。  基本的には、痛みが強いときにはしばらく休ませることが治すための早道といえます。ただし、一時的に休んで痛みが治まっても、また練習に熱中すれば痛みが起こる可能性があります。痛いときには練習量を減らし、練習の前後には、手首や指、痛む部分の筋肉を伸ばすストレッチをしながら乗り切れるといいですね。  治療としては、炎症や痛みを抑える消炎鎮痛薬(飲み薬)や湿布薬を使います。発症したばかりの急性期には、アイシングをして冷やすと痛みをやわらげることができます。試合の前など、速やかに痛みを抑えたいときには麻酔薬などの局所注射をすることもありますが、よほど大事な試合でなければ休むことをすすめます。ひじの内側は、すぐ横に神経が通っているため、影響を避けるためにも注射は慎重におこなう必要があります。また、ひじにかかる負担を減らすためにバンドを装着することも有効な場合があります。  保存療法を続けても痛みが半年以上続く場合や、夜間などにも痛む場合などには、手術を検討することもあります。ただし、腱付着部炎は、使いすぎによる炎症なので、多くの場合、安静と保存療法でよくなります。そのため、手術などが必要になるケースはまれといえるでしょう。 ※週刊朝日MOOK「痛い!首腰ひざのいい病院2017」より抜粋
シニア健康家事朝日新聞出版の本病気読書
dot. 2016/11/24 07:00
ザ・レモン・ツイッグス、LAで行われたデビュー・アルバム発売記念ライブをレポート
ザ・レモン・ツイッグス、LAで行われたデビュー・アルバム発売記念ライブをレポート
ザ・レモン・ツイッグス、LAで行われたデビュー・アルバム発売記念ライブをレポート  NYロングアイランド出身のインディロックバンド、The Lemon Twigs。メンバーは19歳のブライアンと17歳のマイケルの兄弟を軸にキーボードのダニーとベースのミーガンで、今年10月14日にデビュー・アルバム『Do Hollywood』を発表した。  数年前のFoxygenのtourで彼らのマネージャーから「もうすぐデビューする素晴らしい才能ある子達だよ」と紹介されたのが彼らを知ったきっかけだった。当時彼らはFoxygenの前座をしたり、地元NYやLAでミニショーを行いながらアルバムを制作中だった。プロデュースはFoxygenのジョナサン・ラドー。2014年に曲作りをスタートし、Foxygenのファンだった彼らがジョナサンにデモをオンラインで送ったのがきっかけで、即ジョナサンが気に入り全面プロデュースが決まった。後にジョナサンとともにスタジオでレコーディング。そしてマネージメント・カンパニーもジョナサンの紹介でFoxygenと同じところに決まったのである。(ハドソン・モホークやPhoenixも抱える会社である)  またBeckやエリオット・スミス、ジェニー・ルイス、ホワイト・ストライプスのアルバムジャケットを撮影したことで知られる有名フォトグラファーのオータム・デ・ワイルドが彼らのLAでの公演を見て気に入り、アルバムジャケットを撮影していることからも彼らがレーベルやマネージメントに特に目をかけてもらっているだけでなく、他アーティストも魅了するビッグな新人ということがわかる。レポートはそんな彼らのアルバム発売前日にLAのアミーバレコードストアで開かれたスペシャル・リリース・パーティーの模様をお届けする。  10月13日、 ロサンゼルスの老舗レコードストアの一画に設けられた小さなステージ。観客はステージ前の1メートル満たない狭いスペースとレコードが陳列されている場所からバンドの登場を待った。  アミーバレコードのスタッフが「これから紹介するのは10代のとても才能あるバンドThe Lemon Twigs!僕は仕事柄、アーティストのレコードを星の数ほど聴いてきたけど、彼らのアルバムは旋風を巻き起こすことまちがいないと言い切れるよ!」と紹介し、ブライアン、マイケルそしてキーボードのダニーとベースのミーガンが登場。ブライアンが「僕たちのアルバムが発売されることにとてもエキサイトしているよ。今夜はアルバムの曲をたくさん演奏するから楽しんでね」と語りショウがスタート。  ショウの前半はブライアンがボーカル&ギターでマイケルがドラムを担当し、後半は逆になるというスタイルで演奏。兄弟よりもレトロファッションのダニーはキーボードと電子ピアノの2段スタイル、そして紅一点のベースのミーガンは控えめだけど一番クールだ。「I Wanna Prove to You」ではダニーのコーラスのドゥワップとマイケルスネアドラムのリズムが50年代のオールディーズ調を更に引き立てる。マイケルは肩よりも高い位置にスティックを構え、じっと兄のブライアンを見つめる。兄弟ならではの息のあったセッションが始まる。  「Horoomata」の冒頭でのブライアンとマイケルのハモりは兄弟ならではの美しいハーモニーを披露。静かなメロディから一転ポルカ風のリズムになりスタッカートとレガードを使い分けブライアンがポルカステップを踏み、マイケルはザ・フーのキース・ムーンさながらにドラムを叩きながら片手でスティックを回す。かと思えば、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」のごとくクラシックに変化を遂げた。  そしてキーボードのダニーのソロから始まるシングル「These Words」 キーボードに合わせクルクル回るブライアン。この曲ではダニーはコーラスも担当。ブライアンのギターソロにミーガンの緩やかなベースラインが導く。それとは対象にアグレッシブでリズミカルなドラムがキーボドのソロを促す中盤。ここではブライアンのライブ用にアレンジした早弾きとマイケルのジャジーな感じをメタルパワーでドラムを叩く姿が印象的だった。  「As Long As We’re Together」からは、リードシンガー&ギターをマイケルが務めた。幼いことからマンハッタンへ電車で45分かけてギターレッスンに通っていたという2人のギターの腕は10代とは思えぬほど洗練されていてプロフェッショナルである。サビの「As Long We’re Together」では、美しいメロディを奏でながらもマイケルの激しい歌い方に呼応するかのごとく左足を高く蹴り上げるパフォーマンスを披露。そこへブライアンのドラムロールが入り、マイケルはダニーのキーボードとセッションし「That’s right!」と叫びまた高々とジャンプ&足上げを繰り返す。ソフト路線からエネルギッシュな演奏にそれまでおとなしかった観客の興奮を誘った。  その後の「Hi+Lo」でもマイケルの躍動する足上げパフォーマンスは止まらない。幻覚を誘発するようなサイケデリックロック調の出だしの後、サビの「High and low for you」は80年代のパンクロックとモダンなブリティッシュロックのようでこのサビがマイケルのコーラスとブライアンのウィップラッシュが繰り返される。ライブでしか体験できない臨場感だった。  そして兄弟だけでビートルズの「Theres A Place」をカバー。ブライアンがキーボードとボーカルをつとめ、マイケルがコーラス。アップテンポな原曲をスローにアレンジ。これがビージーズ風になっていて彼らのアレンジ能力にも感心させられた。  ラストソングの「Loving Touch」が始まる前にアンプの音の出力を確かめる様子のマイケル。曲が始まり前奏の間も曲中も彼の足上げパフォーマンスは幾度となく繰り返される。そしてそれまでソフトなプレイを続けていたブライアンもプレスロールし、ダニーとミーガンもリズムに合わせ首を左右に振ったりジャンプしたりし4人の熱いプレイがいよいよクライマックスへ。こうなるとマイケルはもう止まらない。ジャンプと足上げを繰り返し最後はアンプへのぼりドラムロールを待ってステージへジャンプ!観客の歓声とともにステージが終了した。  アルバム全曲演奏プラスカバーまで披露し、アルバムリリース記念のミニライブとは思えないショウと、気を抜かない彼らのパフォーマンスに始終興奮しっぱなしの時間であった。  終演後、サイン会が行われアルバム購入者やファンと束の間の交流を楽しんだり、会場に来ていたUSツアーをサポートするバンドで公私ともに仲の良いStarcrawlerのメンバーのアローとオースティンと共に記念すべきデビュー・アルバム発売を祝っていた。  ブライアンが「プロデューサーのジョナサン(Foxygen)はクラシックだけど最新の機材も使うんだ。だから僕らの曲がまるっきり60~70年代のようだとも思わないんだ」というように、『Do Hollywood』は、普遍的で完璧に思えるけどどこか儚く、50~70年代のボップロックを彷彿させるが、彼らなりに現代風にアレンジし、またサザンロックやサイケデリック、ソウル、グラムロックの要素もミックスされており、その世代を知る人にとっては懐かしく感じ、若い世代にとっては違和感なく衝撃的で鮮烈なアルバムなのである。 そして彼らのソングライティング能力と演奏技術、ライブパフォーマンスは10代という年齢を考えたら信じられないくらい洗練されていて、なおかつ若い彼ららしい向こう見ずで怖いもの知らずのエネルギッシュなパフォーマンスに誰もが魅了される。現代の音楽シーンに一石を投じる新たな才能の登場として活躍が期待されるだろう。 ◎CD情報The Lemon Twigsデビュー・アルバム『Do Hollywood』2,400円(tax out) 4AD / Hostess Text & Photo:ERINA UEMURA
billboardnews 2016/11/24 00:00
奥野真哉 生誕50年記念ライブ開催目前! 40名を越える豪華ゲスト陣に加えてシークレットゲストも!?
奥野真哉 生誕50年記念ライブ開催目前! 40名を越える豪華ゲスト陣に加えてシークレットゲストも!?
奥野真哉 生誕50年記念ライブ開催目前! 40名を越える豪華ゲスト陣に加えてシークレットゲストも!?  恵比寿LIQUIDROOMでの奥野真哉(ソウル・フラワー・ユニオン)生誕50年記念ライブイベント【奥野真哉 生誕50年祭 「今宵かぎりの雑種天国」】の開催が12月2日と目前に迫る中、ゲスト陣のドレスコーズ 志磨遼平、THE STARBEMS 越川和磨、シシド・カフカと奥野真哉による緊急座談会が実現。また、その中でさらなるサプライズを匂わせる発言があり、話題を呼んでいる。  この春、仙台、東京、大阪にて開催され、1966年生まれのミュージシャンが勢揃いし、大きな話題となった10年に1度のビッグイベント【ROOTS 66 -Naughty 50-】をバンマスとして取り仕切り、その存在感を示したキーボーディスト・プロデューサーの奥野真哉。その生誕50年を祝うイベントとして、これまでに総勢40名を越える豪華ゲスト陣の参加が明らかになっている。そのラインナップは、朝倉真司、ウエケン、ウエノコウジ(the HIATUS)、うつみようこ、大森靖子、加藤ひさし・古市コータロー(THE COLLECTORS)、クハラカズユキ、越川和磨(THE STARBEMS)、小松シゲル(NONA REEVES)、佐藤タイジ(シアターブルック / TAIJI at THE BONNET)、シシド・カフカ、志磨遼平(ドレスコーズ)、TAISEI・NAOKI(SA)、田中和・田浦健(勝手にしやがれ)、地球三兄弟(奥田民生・YO-KING・桜井秀俊)、ちわきまゆみ、トータス松本(ウルフルズ)、中田裕二、畠山健嗣(H Mountains)、ピエール中野(凛として時雨)、フラワーカンパニーズ、PES(RIP SLYME)、MAGUMI・杉本恭一・tatsu(LA-PPISCH)、真心ブラザーズ、真城めぐみ、Mr.PAN・Mr.LAWDY・Mr.GULLY (THE NEATBEATS)、YOKOLOCO BANDと現在の日本のシーンを象徴する人気ミュージシャンばかり。夏フェスすら凌駕する面々が奥野真哉という稀代の才能の節目を祝福するため、LIQUIDROOMに集結して共に音楽を鳴らす奇跡の一夜なのだ。  さらに、ドレスコーズ 志磨遼平、THE STARBEMS 越川和磨、シシド・カフカを招いての緊急座談会を実施。記事内では各々が語る奥野真哉の魅力や真髄から、笑いありロックファン必見のエピソードの数々が披露されている。また、中には奥野真哉と志磨遼平が「大きな仕事」と居住まいを正してビッグ・サプライズを匂わせる一節もあり、当日はかなりの大物シークレットゲストの登場が示唆されている。  なお、当公演の情報解禁と同時に公開され、人気マンガ家 和田ラヂヲによるキー・ビジュアルでも話題をさらった特設サイトでは、奥野真哉本人からの意気込みも掲載されている。「50年に一度くらいドカンとやってみたい!」という発想からはじまった、日本の音楽史に刻まれるであろう歴史的なステージを是非目の当たりにしてほしい。 ◎【奥野真哉 生誕50年祭 「今宵かぎりの雑種天国」】2016年12月2日(金)恵比寿LIQUIDROOMOPEN 17:30 / START 18:30出演:奥野真哉ゲスト:朝倉真司、ウエケン、ウエノコウジ(the HIATUS)、うつみようこ、大森靖子、加藤ひさし・古市コータロー(THE COLLECTORS)、クハラカズユキ、越川和磨(THE STARBEMS)、小松シゲル(NONA REEVES)、佐藤タイジ(シアターブルック/TAIJI at THE BONNET)、シシド・カフカ、志磨遼平(ドレスコーズ)、TAISEI・NAOKI(SA)、田中和・田浦健(勝手にしやがれ)、地球三兄弟、ちわきまゆみ、トータス松本(ウルフルズ)、中田裕二、畠山健嗣(H Mountains)、ピエール中野(凛として時雨)、フラワーカンパニーズ、PES(RIP SLYME)、MAGUMI・杉本恭一・tatsu(LA-PPISCH)、真心ブラザーズ、真城めぐみ、Mr.PAN・Mr.LAWDY・Mr.GULLY (THE NEATBEATS)、YOKOLOCO BAND チケット:前売 5,050円(税込、整理番号付き、ドリンク代別)http://bit.ly/2cNCxyN
billboardnews 2016/11/22 00:00
スキーの季節がやってきた!! 北海道|スキー場オープン情報【2016.11】
スキーの季節がやってきた!! 北海道|スキー場オープン情報【2016.11】
北海道では11月上旬にドカ雪が降り、秋を満喫しないうちに冬になってしまったような日が続いていました。その後平年並みの気温が続いたものの、山では順調に雪が降り積もり、いよいよスキーのシーズン到来です!! パウダースノーが楽しめる北海道のスキー場。11月中旬から続々とオープンしています!! 高速4人乗りリフト新登場!!【札幌国際スキー場】11月18日(金) オープン 初級者から上級者まで楽しめる3.6kmのロングコースや、最大幅100m以上の広々としたファミリーゲレンデが魅力です。今シーズンは新たに、高速4人乗りリフトが登場。また、ICカードを利用したオートゲートを導入し、ますます便利に快適に楽しむことができます。女子更衣室にはパウダールームが新設されたほか、靴を脱いでくつろげる休憩所やキッズルームも充実。お得なパックは4種類(バスパック、ランチパック、温泉入浴パック、親子パック)。毎週木曜日のシニアDAYでは、北海道在住の55歳以上の方がリフト・ゴンドラ1日券が1500円になります。 【札幌国際スキー場】 ●コース数/7 ●リフト数/3(他にゴンドラ2) ●所在地/北海道札幌市南区定山渓937番地先 ●総合案内/011-598-4511(代表) ●リフト券(通常料金・1日券)/一般4500円・シニア(55歳以上)3500円・グランドシニア(65歳以上)3000円・中高生2200円・小学生1000円 〈札幌国際スキー場〉オフィシャルサイト8人乗りゴンドラ。秋は紅葉を遊覧。 23時まで営業!!【スノークルーズオーンズ】11月18日(金) オープン 札幌市内から車で25分、銭函ICから5分と、抜群のアクセス。また、地下鉄宮の沢駅と麻生駅から毎日無料送迎バスがあるので、車がなくても安心です。日本海を見下ろしながら滑ることができる、景観抜群のスキー場で、1~3月の土日祝日は朝8:00から営業。ナイターは毎日23時まで営業しているので、仕事帰りでも楽しむことができます。ファミリーで楽しめるキッズパークは毎日無料開放。気軽に手軽に楽しめるスキーエリアです。 【スノークルーズオーンズ】 ●コース数/8 ●リフト数/2 ●所在地/北海道小樽市春香町357番地 ●総合案内/0134-62-2228 ●リフト券(通常料金・1日券・ナイター可)/大人3200円・シニア&小人2200円 〈スノークルーズオーンズ〉オフィシャルサイト札幌から車で25分!! 昼も夜も楽しめる。 標高1000m超!!【サッポロテイネ】11月19日(土) オープン 標高1023mの山頂からは札幌市街や石狩湾を見渡すことができ、最良のパウダースノーや6kmの超ロングな初級コースも楽しめます。上層のハイランドゾーンは、札幌オリンピックの舞台となった女子大回転や男女回転のコースがあるほか、圧雪車が入らないワイルドな急斜面も人気。中腹のオリンピアゾーンは、初心者でも滑れる1枚バーンのコースのほか、恐竜キッズパークやビギナーズクロスなどのアトラクションも充実。札幌市街地から車で30分、手稲ICから10分とアクセスも抜群。 【サッポロテイネ】 ●コース数/15 ●リフト数/9(他にゴンドラ1) ●所在地/北海道札幌市手稲区手稲本町593 ●総合案内/011-682-6000 ●リフト券(通常料金・1日券)/大人5200円・シニア&中高生4200円・小学生以下2600円 〈サッポロテイネ〉オフィシャルサイト聖火台オーシャンダイブ。石狩湾を見下ろす絶景の急斜面。 毎日パウダースノー!!【キロロスノーワールド】11月23日(水祝) オープン予定 今年で25周年を迎えた比較的新しいリゾート地。降雪の少ない冬でも3m、多いときには5mを超える積雪に恵まれます。毎日のように雪が降るので、いつでもふかふかのパウダースノーを楽しむことができます。全21コース、最長滑走距離は4.05km。2つの山稜にはビギナーからベテランまでが楽しめる多彩なゲレンデが整備されていて、3つのエリアがスキーの楽しさを伝えます。 ほとんどのリフトにフードと足かけがついているので、雪が降っていても快適に山頂へ行くことができます。スノーパーク、スノーシュートレッキングツアー、スノーセグウェイ、スノーバギーなどのアクティビティも充実。 【キロロスノーワールド】 ●コース数/21 ●リフト数/8(他にゴンドラ1) ●所在地/北海道余市郡赤井川村常盤650番地先 ●総合案内/0135-34-7118 ●リフト券(通常料金・1日券)/大人5500円・シニア&中高生4900円・小学生2800円 〈キロロスノーワールド〉オフィシャルサイトナイターも充実!!
tenki.jp 2016/11/20 00:00
長時間労働よりコワイ!過労死招くのは、こんな眠り方
長時間労働よりコワイ!過労死招くのは、こんな眠り方
睡眠不足の状態で瞬発的な反応を調べたら…(AERA 2016年11月21日号より) 「水曜日はノー残業デー」には意味がある(AERA 2016年11月21日号より)  労働災害(労災)の認定では「時間外(残業)や休日の労働時間」が重要視される。どれだけ長く、休みなく働いていたかに目がいきがちだが、認定基準は「蓄積された疲労が解消できる睡眠時間を確保できていたか」が根拠となっている。 「睡眠時間は短いけれど、乗り切っている」という人は要注意だ。睡眠時間と睡眠の質には、強い相関関係があり、睡眠6時間未満の人は脳卒中や心筋梗塞を発症しやすいからだ。「睡眠のメカニズム」に、その答えはある。 ●短時間睡眠と突然死  睡眠には「ノンレム睡眠(深い眠り)」と「レム睡眠(浅い眠り)」の周期があることは知られている。  私たちは眠るとすぐノンレム睡眠に入り、およそ15分後からは「デルタ波」という脳波が出始める「徐波睡眠」、いわゆる“爆睡”が始まる。この時間帯は成長ホルモンによって、新陳代謝を促しながら傷ついた細胞を修復し、疲労を回復している。  その後、レム睡眠とノンレム睡眠は交互に起こる。レム睡眠のときは脳が覚醒し、体の神経が高ぶり呼吸や心拍が速くなり、血圧も上がる。やがて、起床前になると体が起きる準備をするため、レム睡眠が長く続く。このとき、夢を見ることが多い。レム睡眠には体をリラックスさせ精神的なストレスを解消する効果もある(※注1)。これが通常の睡眠リズムである。  だが、ストレスフルな状態で起きている時間が長くなると、疲労回復のために徐波睡眠がより長くなる。その結果、レム睡眠が短くなるので、神経が高ぶる。心拍数の増加や血圧の上昇を引き起こし、体へ過剰な負荷がかかることが実験で明らかになっている(※注2)。1997年に研究結果を発表した大原記念労働科学研究所の佐々木司上席主任研究員は、こう説明する。 「実験では、健康な男子大学生に毎日5時間の睡眠を12日間続けてもらいました。その結果、初日に約58拍だったレム睡眠中の1分間の心拍数が、3日目には約68拍に増えた。これは寝ていても体を休められていない状態を表しています」  この短時間睡眠による体への負荷が繰り返されると、脳卒中や心筋梗塞を引き起こす要因となる。  時間外労働削減のため、週半ばの水曜日に「ノー残業デー」を設ける組織や企業があるが、これは睡眠リズムの観点からも理にかなっている。  海外の研究で睡眠時間が異なる4種類の群(9時間、7時間、5時間、3時間)をつくり、一瞬の反応が必要な作業をしてもらったところ、3時間の群は日に日に反応速度が遅くなり、特に3日目に大きく低下した。つまり、短時間しか眠れないほど忙しくても、3日目は早く帰って寝たほうが効率がいい。 ●夜勤は体に過剰な負担  睡眠の質を大きく低下させ、過労死につながる要因はこのほかにもある。  夜勤やシフト勤務の人は、午前中や昼間などに睡眠を取らなければならない。だが、人間には本来、「眠りやすい時間帯」と「寝つきが悪い時間帯」があり、特に朝10時頃と夜7時頃は眠りにつきにくい(※注3)。しかも昼間はサーカディアンリズム(体内時計)の影響で寝たり起きたりする断続的な眠りとなりやすい。たとえ夜勤専従でも、眠りを促すホルモンであるメラトニンの分泌量が夜間より減少し、眠りにくくなる(※注4)。  さらに、夜勤は人間がもっとも眠い時間帯に起きて緊張しながら仕事をするため、「酒気帯び運転以上に危険」な状態を示す研究結果(※注5)もある。この研究では、深夜1時から作業成績が明らかに低下し、3~7時までは血中アルコール濃度0.03%(酒気帯び運転基準)時よりも成績が悪くなった。  看護師には夜勤が多いため、日本看護協会は2013年、ガイドラインを発表した。 「ストレスによるうつ病」と不眠にも、強い相関関係がある。特に、過去の不快な記憶や将来への不安は不眠につながりやすい。海外の研究では、「将来に不安を持っている人は持っていない人と比べて、徐波睡眠の時間が最大3分の1まで短くなった」と結果が出ている(※注6)。 注1)Gujar et al(2011) 注2)佐々木司、酒井一博(1997) 注3)Lavie(1985)、Strogatz(1987) 注4)Sack et al(1992) 注5)Dawson、Reid(1997) 注6)Kecklund、Akerstedt(2004) (医療ジャーナリスト・福原麻希) ※AERA 2016年11月21日号
ゴールデンウィーク過労死
AERA 2016/11/17 16:00
日本中に蔓延する「過労死寸前」の声 追い込まれた!逃げ出した!もうやめて!
野村昌二 野村昌二 熊澤志保 熊澤志保
日本中に蔓延する「過労死寸前」の声 追い込まれた!逃げ出した!もうやめて!
心や体が悲鳴をあげるまで働く必要なんかない。仕事は人生の一部でしかないのだから(撮影/写真部・東川哲也) 労災申請の多い業種 トップ10/過労に伴う脳・心臓疾患(アエラ2016年11月21日号) 労災申請の多い業種 トップ10/仕事のストレスに伴う精神障害(アエラ2016年11月21日号)  東京大学を卒業し、社会人として一歩を踏み出したばかりの24歳の女性が、過労のためにうつ病になって、命を落とした。「働くのつらすぎでは」「眠りたい以外の感情を失った」という言葉を残して。彼女だけではない。仕事に人生を乗っ取られてしまうかのような過酷な働き方に苦しむ人が、日本中にいる。日本の職場は変わらなければならない。 *  *  * 「自分がやらなければ審査が止まり、被災された方に迷惑をかけてしまう。休みたいと考える余裕すらありませんでした」  一井唯史(いちいただふみ)さん(35)は、傷病休職期間切れで、11月5日に勤務先の東京電力を解雇された。  2003年に東電に入社。11年9月には原発事故賠償業務の法人部門に、13年2月には法人部門の賠償を統括するチームに異動になった。統括チームは、当初は6人。専門知識、緻密な分析力、論理的な思考力が求められ、ミスが許されないプレッシャーもあった。1人は心神喪失が激しくなり、4人が別の業務を兼務したことで、一井さんの負荷は急激に増えた。  13年3月の残業時間は89時間。休日の持ち帰り仕事とサービス残業を合わせると169時間。睡眠時間は、1日4時間を切った。6月になると吐き気と視野狭窄(きょうさく)に襲われ、布団から起き上がれなくなった。  7月に賠償業務を離れたが、めまいや記憶障害が続き、9月に「うつ状態」と診断されて休職。一井さんによれば会社は「私傷病」扱いとした。今年10月下旬、労働基準監督署に労災申請し、労働環境の悪化に歯止めをかけたいと実名での告発に踏み切った。東電は「個別の事案」だとして、取材に詳細を明かさなかった。一井さんは言う。 「心身がボロボロになるまで働きました。それでも仕事のせいではないと言うのでしょうか」 ●8割超が身近に過労死  今年10月7日、母親の幸美さん(53)の記者会見で、電通の新入社員だった高橋まつりさん(当時24)が昨年、過労の末に自殺していたことが明らかになった。1カ月後の11月7日には厚生労働省が労働基準法違反の疑いで電通を強制捜査。ネットには、「電通だけじゃない」の声があふれた。  アエラが10月から11月にかけて行った過重労働に関する緊急インターネット調査には111人が回答。「仕事が理由で心身に不調を感じたことはあるか」の問いに83%が「ある」と答え、「電通社員の自殺についてどう思ったか」の問いに「自分には関係のない話だと思った」と答えた人は17.8%しかいなかった。82.2%の人たちには、「過労死」が身近にあった。  日本中で仕事が人々を破壊している。仕事のために心身の健康も家族や恋人も失い、命さえも落としてしまう人たちがいる。  例えば工事費の積算や査定を行う会社に勤めていた男性(26)は、「下請け」として取引先に振り回され続けた。急な仕事で土日はつぶれ、デートもキャンセル。それなのに、手にした残業代は「技術手当」2万円のみで手取りの16万円では生活できず、知り合いの飲食店でアルバイトまでした。  昨夏、とある金曜日の夕方に、取引先から連絡があった。 「計画の変更があったので、週明けまでに図面をチェックして積算をお願いします」  送られてきたのは500ページもの資料。土日に徹夜で作業して間に合わせたが、さらに、 「変更があるので、明朝までに直してください」  期限延長を上司に頼んだが聞き入れられず、男性は「もう知りません」と投げ出して帰宅。泥のように眠った。  翌朝、出勤途中でうずくまり、駅のトイレで吐いた。昼近くに会社に着いたが、職場のドアが開けられない。近くのコンビニのトイレで泣いた。受診した精神科で、うつ病と診断された。 「楽観的な自分が、まさかうつ病になるとは思わなかった」  有給休暇を使って休んだが回復せず、1カ月半後に退職。あと半年で退職後に受給していた傷病手当が切れる。仕事を探しているが、建築業界が怖い。他の業界で一から働くのも怖い。 「友人たちは結婚したり家を買ったりしているのに」  そう思うと、心はどこまでも落ちていく。 ●私は能力がないのだ  マスコミで働く女性(30)は職場でひとり、思いつめた。4年前のクリスマスの夜のことだ。 「私、この仕事には向いてない。転職しようかな。死んだら楽になれるのかな」  あこがれて入った会社だ。大きな企画が通って全国を飛び回り、直近の2カ月は休みなし。月の残業は150~160時間に及んだ。それでも残業は、1日8時間、週40時間を超えて労働者を働かせる場合に労働基準法36条に基づいて労使が締結する「36(サブロク)協定」で定めた上限時間以内で申告するのが職場の慣習。おかしいと思っても、希望の部署に行けなくなる不安から声をあげる人はいなかったという。  能力がないのだと自分を責めるようになり、女性は思わず電話口の向こうの友人に叫んだ。 「会社なんか辞めてやる」  友人は言ってくれた。 「今は正常な判断ができていないから、休んでから考えよう」  約1カ月後、仕事の山を越えたところで5日間の休みを取ってやっと人心地ついた。 「長時間労働を続けていると、正しい判断ができなくなる。電通の高橋さんは、1年で会社を辞めたら『社会人失格』だと思われて今後いい仕事には就けない、と逃げ場がなかったんじゃないでしょうか」 ●張りつめたものが決壊  先の建設業界の男性の場合は取引先の無茶なオーダー。このマスコミの女性のケースでは職場の理不尽な慣習。過重労働でギリギリまで注がれたコップの水のように張りつめた人々の心身は、何かをきっかけに決壊し、あふれ出す。地方放送局勤務の男性(47)は、過去の自分を思い出すたびに、そう思う。  当時29歳。記者として活躍していた。夜討ち朝駆けは当たり前。複数の事件を掛け持ち、月の残業が250時間という毎日が1年続いていた。 「ポケベルも携帯電話もポリ袋に入れて風呂に持ち込んでいました。新聞や雑誌を出し抜けると、うれしかった」  明るくおしゃべりな性格で恋人もいた。家族との仲もよかった。だが、彼女と別れ、事業に失敗した父に数百万円を用立てたことをきっかけに家族と気まずくなると、話し相手がいなくなり、孤独に陥った。そして、ネタが取れず苦労するのは日常茶飯事だったのに、 「死んでしまえば、このプレッシャーから逃げられる」 「死ねば言い訳しなくて済む」  という考えにはまり込んでしまった。土曜日に部屋を片付け、日曜日には実家で両親と夕食を取って、月曜日、出勤はせずにロープと精神安定剤を買って、玄関のドアノブで首をつった。連絡が取れないと案じた会社が実家に連絡。夜、父親に発見された。奇跡的に助かり後遺症も残らなかった。男性は訴える。 「高橋まつりさんのことはずっと引っかかっていた。過労によるうつや自殺を心が弱いせいだと思ってほしくない。無理に無理を重ねていると、小さな躓きで大きくバランスが崩れる。誰にでも起こることなんです」  自治医科大学名誉教授の加藤敏医師も、こう指摘する。 「過重労働による不調やうつは個人の性格よりも職場の環境要因が大きい。私はこれを『職場結合性うつ』と呼んでいます。現代社会の仕事の過密さや拘束力は、30年前と比べものになりませんから」  メールや携帯電話ですぐに連絡が取れる。会社の利益が優先される。効率化と経費削減で人員はギリギリ。失敗に対しても不寛容。日本の社会と職場は、労働者の心身の不調を誘う特性を備えてしまったのだ、と。  そしてそのしわ寄せは、経験の浅い若者たちに向かう。 ●目標設定が高すぎる  都内に住む30代の男性は、2年前まで広告会社でウェブ広告を担当。「目標」に苦しめられた。  会社はこの分野に力を入れていた。前年同期比140%という目標が設定され、達成できないと朝礼で徹底的にダメ出し。明け方まで働き、また午前7時には出社する毎日。休日出勤も多く、企画書の出来が悪いと責められるので、常に仕事のことが頭から離れなくなった。 「何をしても楽しくない。生きている意味がわからなくなった」  140%を達成すると、目標は150%に。次は180%に。絶望し、転職を決意した。  前出の調査では、パワハラを訴えた人も多かった。  日本精神科産業医協会共同代表理事の渡辺洋一郎医師は、仕事による負荷は仕事の量だけでは測れないと話す。 「仕事量と裁量の有無に加え、同僚や上司のサポートの有無も、人が受けるストレスに大きく影響しています」  行き過ぎた指導や人格攻撃が自尊心を蝕(むしば)み人を壊す、と。 ●もう行かなくていい  医療事務として働いていた女性(37)は20歳当時、パワハラにあった。先輩女性に一人では無理な業務量を言い渡され、生産性のない説教が毎日3時間続いた。先輩と仲のいい上長は彼女の報告をうのみにし、面談でこう言い放った。 「人とコミュニケーションできないのは、親にちゃんと愛されてこなかったからでしょう」  確かに両親は厳しかったし、忙しかった。私は愛されてこなかったの? 次第に自信を失い、いじめ抜かれた末に異動になったが、立ち直れずにめまいを発症。ある夜、実家に電話をかけて泣きじゃくった。 「今すぐ、帰ってきなさい。もう職場には行かなくていい」  翌日、荷物をまとめて実家へ。父は職場からの電話も取り次がず、対応してくれた。 「あのとき逃げなかったら、私もどうなっていたか。父が助けてくれたんです。つらい時もただ黙って抱きしめてくれた」  現在は人間関係にも恵まれ、情報サービス関連会社で働く。  過重労働の原因は、職場の機能不全や上司のスキル不足にあるという声も多く寄せられた。 園長が代わった途端に職場がブラック化したというのは、元幼稚園教諭の女性(47)だ。 「思いつきで指示を出す。お遊戯会の前日に、衣装や大道具を作り直せと言うんです」  あっという間に労働時間が長くなった。何より耐えられなかったのは、準備もなく障害児を受け入れたことだ。補助金欲しさとしか思えなかった。 「子どものことをちゃんと考えれば受け入れ態勢を整えるべきです。経験者もいないのに研修も設けず、きれいごとばかり」  大好きだった子どもを見るのもつらくなり、退職を決意した。その年、彼女のほかに2人がその園を辞めた。 「小さな職場は、経営者や一人の上司の資質に左右されてしまう。苦しんでいる人は多いのではないかと思います」  11月は過労死等防止啓発月間だ。高橋まつりさんの件などで強制捜査を受けた電通は「22時消灯」を続けている。だが、仕事量や働き方を見直さなければ意味がない。 ●今度こそ変わらなきゃ  長時間労働が常態化していた前職を辞め、香港の会社に転職したSEの男性(37)は言う。 「現職と前職では仕事量がまるで違う。いまの上司から渡されるのは、週40時間の労働に見合う量。残業はしないのが普通で、残業する人は仕事ができないという風潮にもなります」  ドイツでコンサルティングの仕事をする女性(33)は日本で働いていた当時、上司に社則の暗唱や夜の会食を強要された経験がある。日独では、管理職の意識と役割が違うと感じる。 「ドイツでは管理職に部下の仕事をコントロールする責任があって、終わらなかった仕事も抱え込む必要はありません」  日本は、国際労働機関(ILO)の常任理事国だが、1日もしくは1週間の最大労働時間を定めた条約を批准していない、長時間労働大国だ。過労死や労災問題に詳しい玉木一成弁護士は、多くの日本企業に労務管理の意識が欠落していることを問題視する。 「労務管理は経営者と管理職の最も重要な職務であり責任。業務量が多いなら、人を増やすか業務を取捨選択する。本来、長時間労働にはコストがかかるが、サービス残業、裁量労働制やみなし残業制を乱用し、『残業させても対価を支払わなくていい』という発想が染みついている」  今度こそ、変わらなければ。 (編集部:熊澤志保、深澤友紀、野村昌二) ※AERA 2016年11月21日号
働き方転職過労死
AERA 2016/11/15 11:30
主婦が起業、副業で翻訳出版…「朝活」で人生が変わる!?
主婦が起業、副業で翻訳出版…「朝活」で人生が変わる!?
朝は気分爽快で、邪魔が入らない自分の時間。有効活用すれば人生が変わる? (※写真はイメージ)  一日のスタート、朝の時間をムダにしていませんか。早起きして体と脳を動かし始めると、日中の活動もスムーズに進みます。朝は気分爽快で、邪魔が入らない自分の時間。朝を生かす人の声に耳を傾けると……。 「朝活で、人生が変わりました」と話すのは、東京都内在住の50代主婦、青木美智子さん。  約6年前、通っていた速読教室の講師に紹介されて朝の読書会に参加して以来、魅力に目覚めた。  さまざまな朝活イベントに顔を出すようになり、3年前には好きな本を紹介し合う朝の読書会を自ら始めた。青木さんは言う。 「専業主婦は、人脈が狭くなりがちです。人の紹介やSNSを通じ、10~70代のさまざまなバックグラウンドの人が参加してくれます。普段接する機会のない人と話せ、自分では選ばない本の話を聞けるのも、刺激的です」  本の紹介という「ネタ」があるので、話題を探す必要がない。気後れせずに話せるのもメリットだ。  青木さんは朝活を通じ、「イベントスペースのある古本屋を開きたい」との夢を抱くようになった。10月、理想の物件に出合って契約。今は夢の実現に向け、開業準備を進めている。  夫の高夫さん(60)も一足早く、朝活で自分を変えていた。自動車メーカー勤務の会社員だが、朝の時間を生かし、翻訳家・ビジネス書作家として活躍する「違う顔」を持つ。  30代のころ、仕事に役立てようと得意の英語を生かして読んだ海外のビジネス書に感銘を受けた。「多くの人に紹介したい」。そう思って、出版社に翻訳出版を提案。以来、翻訳や執筆を始め、朝7~9時に作業している。遅めに出社できるフレックス勤務をフル活用し、机に向かう。 「会社に行けば、山積みの仕事の片づけで終わり、将来の自分に投資する余裕がない。朝はだれにも邪魔されず、じっくりアイデアを練るなど、集中できる。執筆だけでなく、本業の企画書づくりもしています」  10月には15冊目の訳・著書『仕事に追われない仕事術』(マーク・フォースター著)を上梓した。朝時間を生かし、訳書を地で行く時間管理をしている。  図解コンサルタント、池田千恵さんも「朝活で劇的に人生が変わった」。  2度の大学受験失敗を機に早起きに目覚め、半年の早朝勉強で慶応大に入学。外資系企業などを経て、2015年に朝型勤務のコンサルティング会社を設立した。その名も「朝6時」。 「いつもより早起きできたら、ちょっとうれしいですよね。これも立派な成功体験。小さな達成感を毎日積み重ねると自信になり、チャレンジ精神も芽生えます」  池田さんの考える朝時間のメリットは、大きく二つある。一つは精神的、時間的な余裕。早く一日が始まり、段取りを考え、自分の時間を持てる。もう一つは、前向きになれることという。 「朝は幸せホルモンとも呼ばれるセロトニンの分泌が盛んになり、おだやかで生産的な気持ちになれます。仕事で失敗すると、夜は落ち込みますが、朝にクヨクヨするのは意外と難しい。『会社を辞めてやる』とふて寝しても、朝になったら『上司の言うことも一理ある』と思えるものです」  家事と仕事の両立にも、朝の時間をいかに使うかが重要になる。  5、3、1歳の3児を育てつつ、フルタイムで働くブロガー、りか子さん(30代)。3年前から、夜9時半に寝て、早朝4時に起きる日々を送っている。 「以前は睡眠時間を削って家事や育児をしていたのに、どれも中途半端でした。夜は子どもと早く寝て、家事を朝にまわしたら、スムーズにこなせ、自分の時間も持てるようになりました」  4時に起きると、まずコーヒーをいれる。お菓子を楽しみながら読書したり、パックなど時間のかかるスキンケアをしたり、自分の時間を過ごす。  5時からは家事の時間。洗濯、夕飯の下ごしらえ、掃除、朝食の用意と手際よくこなす。モットーは、頑張りすぎないこと。掃除は片づけ程度にし、朝食は納豆や残り物などで簡単にすませる。  6時になると、子どもを起こして食事や登園の支度。7時45分に家を出て保育園に送り、出勤する。 「肌の調子が良くなり、『3人も子どもがいるように見えない』と言われることが増えました。何より、心に余裕ができ、子どもにイライラしなくなったのがうれしい」(りか子さん)  よいことずくめに見える朝時間。ただ、「パテカトルの万脳薬」を本誌で連載中の脳研究者、池谷裕二・東大教授はこう指摘する。 「朝は仕事がはかどると感じる人はそれでいいのですが、脳は必ずしも朝に最大のパフォーマンスを発揮する仕組みになっているわけではありません」  朝の時間は、主に家事などの単純作業や運動、読書など受動的な行動が向いている。趣味の時間にするのも良いという。 「昼や夜と比べて朝は脳が処理できる仕事量が少ないので、体を動かしながら覚醒させるのが合理的。それでも、夜にした仕事を朝にチェックするのは理にかなっています。寝る前にインプットした情報は寝ている間に記憶に定着し、整理されるからです」  これからの時期、朝は寒くて暗く、早起きがつらそうだ。どうすれば、決めた時間にすっきり起きられるだろうか。  4時起き主婦、りか子さんはベッドで目薬をさし、目をシャキッとさせる。その後、枕元に用意した暖かい靴下と羽織りものを身につけ、ベッドを出る。 「朝6時」社長の池田さんは「タイマーで暖房がつくようにしておく。寝坊すると無駄になるので、それがプレッシャーになります。起きてから食べるお菓子など、ごほうびを用意しても」と話す。  一方で、池谷教授は「起きる時間は休日も含めて毎日同じ時間に。休日の遅起きは自分で時差ぼけ状態をつくるようなもので、脳の働きに悪影響を与えます。疲れがたまっているならば昼寝を」とアドバイスする。 ※週刊朝日 2016年11月18日号
週刊朝日 2016/11/15 07:00
再配達や年中無休、本当に必要ですか? 過剰品質が働く人を追いつめる
再配達や年中無休、本当に必要ですか? 過剰品質が働く人を追いつめる
仮設感満載の競技場で行われたリオ五輪だが、結果は成功。公共交通機関の到着時刻予測表示も丁寧すぎる包装も、過剰ではないのか(撮影/編集部・深澤友紀、熊澤志保、片桐圭子)  何度でも無料で頼める再配達に、年中無休のスーパー。当然のサービスだと思っていませんか?  いま、午後8時3分。  会社員の女性(38)は、都内のオフィスでパソコン画面に表示されている時刻を確認した。 「今日受け取るのは、諦めよう」  会社から女性の自宅マンションまでは約1時間。昨日ネットで注文した10キロの米の配達を、今日の「午後8-9時」と時間を指定して依頼していた。でも、仕事が終わらない。夫も帰宅は遅くなるという。 「明日の朝食はパンにしよう。お米は再配達してもらえばいい」  数年前までは買い置きしていたトイレットペーパーや米、水などを、最近はなくなるギリギリのタイミングでネット注文するようになった。注文した翌日には間違いなく、早ければ当日にも商品が届くので、収納スペースの少ないマンション暮らしには大助かりだ。重いものは玄関の中まで運んでもらえるし、「午後8-9時」の指定にすると、9時ぎりぎりに来てくれるのもありがたい。受け取れなくたって、何度でも再配達を頼める。 「ネット通販を近所のスーパーのように利用していて、もう宅配なしの生活は成り立ちません」 ●8時50分に帰ったのに  ネット通販の一般化で、国内の宅配便の数は年々増加している。昨年度は37億4500万個と過去最高。5年前と比べて16.3%も伸びている。  宅配便数の増加とともに、注文の内容も水や米などの重いもの、肉や魚などの生ものが増え、配達員の負担は増した。 「なにより、再配達と時間指定のサービスが配達を難しくしています」  大手宅配会社の首都圏営業所勤務の配達員(61)はそう話す。  時間指定があるために、効率のいいルートで回ることができない。一つの荷物を届けるために1時間近く道端で待機することもある。同僚は午後8時すぎまで待って配達したのに、 「仕事を終わらせて8時50分に帰宅したら、8時15分に不在票が入っていた。どうして9時に配達できないのか」  というクレームが届いた。再配達依頼の電話で、 「出かけるので今すぐ配達して」 「今日は午後4時から4時半の間に届けて」  と細かい時間を指定されるのも、とてもきついという。  最近まで10年以上、宅配会社のセールスドライバーとして働いていた30代の男性は、転職の理由をこう話す。 「年々苦しくなってきて、あと30年これを続けることが想像できなくなった」  朝は7時すぎに営業所に出勤し、荷物を積み込み、8時に配達に出発。1日100~150個の荷物を配達し、同時に集荷もする。「午後8-9時」という時間帯には20~25個配達しなければならないことが多く、間に合わないこともあった。営業所に戻って伝票の整理や着払いの精算などを済ませると、退社時間は午後10時を過ぎる。 ●時間指定なのに不在  生ものの配達では不在の家に何度も足を運ぶことも少なくない。受け持ちエリアには古い大きな団地があり、エレベーターはない。東日本大震災以降、水の注文が一気に増え、2リットル6本入りケースが二つくくられた25キロ弱の段ボールを5階まで運ぶこともある。時間指定通りに訪ねているのに不在だと、「ふざけんなよ」と心の中で叫びたくなる。男性は言う。 「荷物は人の手が届けるもの。利用者が便利になるほど、運ぶ側の労働環境は劣悪になっていくんです」  国が2014年に実施した調査で、宅配便の2割が再配達になっていることがわかった。さらに15年の調査では、1回目の配達で受け取れなかった理由について、「配達が来るのを知っていたが再配達があるので不在にした」という人が4割もいた。国の試算では、トラックドライバーの1割にあたる年間9万人に相当する労働力が、再配達に費やされている。 ●そこまでするべきか 『仁義なき宅配 ヤマトvs佐川vs日本郵便vsアマゾン』の著者で物流に詳しいジャーナリストの横田増生さんは言う。 「時間指定や再配達は企業側から言い出したサービスですが、利用者はその裏でドライバーたちがどれだけ大変な思いをしているのか、想像できていない。『送料無料』が当然と思う人も増え、発送する企業による宅配料金のディスカウントでドライバーの給与も下がっています」  ネット販売をする側も苦労している。  都内にあるアパレル企業では、通販事業者に購入者の問い合わせには24時間以内に回答するよう求められ、社員と役員が交代で土日や祝日も出勤するようにした。確かに、アマゾンの出品者向けサイトにはこうある。 「お問い合わせは、週末や祝日を含め24時間以内に回答してください」  アパレルの男性(49)は言う。 「そこまでしなければいけないのか、と疑問に思います」  年を追うごとに過剰になるサービスと、実態を知らずにそれに甘える消費者。同じことは、小売りの世界でも起きている。  大手スーパーが経営する地方都市の大型ショッピングモールに中古品売買の店を構える男性(59)。店の営業時間は、スーパーに合わせざるを得ず、朝9時から夜9時まで。しかも年中無休だ。夫婦と息子、パート2人で店を回すが、親類の結婚式や葬式にも家族全員では参加できない。盆も正月もなく、旅行も難しい。それでも、セキュリティーや顧客にとっての利便性などでメリットが大きく、スーパーを出ていけないという。 ●1日休んでもプラス  大型スーパー内で働いて37年。当初は休館日が年に36日あったが徐々に減り、00年に大規模小売店舗法が廃止されて閉店時間や休館日の規制がなくなった結果、現在は0日だ。長時間労働による日々の疲労に加えて売り上げ不振が続くと胃が痛み、食も進まなくなる。男性は、 「スーパーは大手2社の競争が激しく、現場の人たちに無理を押し付けている。百貨店、スーパー、コンビニにはそれぞれの役割があり、スーパーが年中無休で朝から夜まで店を開ける必要もないと思うんですけどね」  とぼやいた。 『日本の消費者はなぜタフなのか』の著書がある中央大学の三浦俊彦教授は、 「もはや知られたことですが、日本の消費者は商品やサービスへの要求が世界一厳しい」  と指摘する。そんな消費者がいたから日本の製造業は競争力をつけることができたのだが、 「日本企業は先回りして商品やサービスを開発することで、消費者を甘えさせてしまっている」  消費者の利便性向上や売り上げ競争のために、サービスは手厚くなる一方。だが、それを見直そうという動きも、少しずつ出始めている。  今年1月、百貨店最大手の三越伊勢丹ホールディングスが首都圏の伊勢丹、三越の計8店舗で前年まで初売りを行っていた2日の営業を取りやめた。従業員らの負担軽減が目的だ。5年前、老舗「虎屋」の黒川光博社長ら百貨店に出店している企業が「休業日を増やして」と申し入れていた。  同ホールディングスによると、1月2日を休業にしたことで、社員や出店企業の販売員3万人弱が休めたという。昨年までは初売りの準備で元日も出勤する人がいたが、そんな人たちも休めた。社員や販売員からは「百貨店に入った以上、お正月はないと思っていたのでうれしい」「1月3日の初商いはやる気を持って臨めた」という声が寄せられたという。顧客からのクレームもなく、1月2日に休業した基幹店の伊勢丹新宿本店と三越銀座店では、一日分の売り上げがゼロになったにもかかわらず、1月全体の売り上げは前年同月比でプラスだった。  来年は1月2日に休む店舗を首都圏では9店舗に増やし、全国でも新たに札幌、名古屋など6店舗の休業が決まっている。  オーストリアに住む団体職員の女性(51)は3年前に渡欧した当時、ほとんどの店が日曜に営業しないことや、不在の場合は宅配物を自分で取りに行かなければならないことに戸惑った。でも、慣れるとそう困ることではなかったし、日曜日に公園でくつろぐ家族連れを見ると、 「あの人もスーパーの従業員かもしれないな」  と、自分も幸せな気持ちになるようになったという。 「サービスを提供してくれる人にも生活がある。それを尊重しようと思えば、期待するサービスが受けられなくても不快だと思わなくなりました」  電通の新入社員の女性の過労自殺が労災認定された翌月、あるブログが話題になった。筆者は約15年間、コピーライターとして電通に勤務し、昨年退職した前田将多さん(40)。「広告業界という無法地帯へ」と題して、 「恐ろしいのは電通でもNHKでも安倍政権でもない。どこにでもいる普通の人たちだ」  と書いた。 ●相手の時間を奪わない  電通が午後10時以降の残業を禁止したことについては、 「クライアントは容赦なく『あれしろ』『これもしろ』『明日までに』『朝イチで』と押し付けてくる。どうすればいいというのだ」  前田さんは電通にいたころ、ある企業の幹部に、「出演する女性の帽子が気に入らない」とでき上がったCMの撮り直しを求められたことがある。衣装はすべて事前にチェックを受けていたし担当者には撮影にも立ち会ってもらったのに。意味のある仕事なら長時間労働も苦ではなかったが、納得できない仕事で徹夜するのは苦しかった。  前田さんは自戒も込めて言う。 「クライアントは『神』とされ、現場の社員や協力会社のスタッフはむちゃな要求に非人間的な努力で応えている。でも、彼らも人間です。何げない要求が相手の時間を奪い、追い詰めることがある。みんな、そのことを想像してほしい」 (編集部・深澤友紀) ※AERA 2016年11月21日号
働き方転職
AERA 2016/11/14 16:00
「ドンに重要案件を通しておくのは幹部の常識」都職員の本音
「ドンに重要案件を通しておくのは幹部の常識」都職員の本音
「伏魔殿」とも称される都庁。職員は何を思い、本音はどこにあるのか(撮影/写真部・長谷川唯)  4年間で4人目の長を迎えた都庁。華々しい“小池劇場”が繰り出す物語の展開を、首都の守り人たちはどんな思いで見つめているのか。職員の声を聞いた。 ──小池知事就任から3カ月。仕事ぶりをどう見るか Aさん(50代男性):判断はまだ早い。いろいろ知事の動向が取り上げられているが、具体的な考え方は予算に反映されると考えるのが妥当では。 Bさん(40代男性):直接接触がないので本当のところは分からないが、何か良いほうに変わるという期待感という意味では、大きな成果をあげていると思う。 Cさん(40代女性):就任から休みなく働き、マスコミを使って、いわゆる小池劇場を演出する手法は率直にすごいと思う。知事主導で短期間に求心力が形成されつつある。まずまずの滑り出しでは。正直、職員には厳しいことも多いが……。 Dさん(40代女性):就任後すぐ、管理職はみな「イクボス(部下や同僚のワーク・ライフ・バランスを重視する上司)宣言」を出させられた。今まで各部署への知事からの指示は少なかったので驚いた。どの分野にも切り込んでくるのでは。それが知事の独裁になるか、都政を自然な形で変えていくのか興味はある。 Cさん:都政改革組織を作り、外部の専門家を活用する手法は石原知事の1期目と似ている。ただ、職員は信頼されていない印象。大事な決定など、一切職員が入らず決まるとの話も聞く。 ──小池知事は「都政改革」を強調。必要性はあると思うか Aさん:最も必要なのは閉鎖性の打破。身内だけでまとまると、内部の論理を優先しがちになる。 Bさん:直接都民と接触しない職場がほとんど。都民ファーストの切り口から、業務を見直すことには意義がある。 Cさん:面倒な仕事、所管の決まっていない仕事を避ける傾向が目立ってきている印象はある。これが組織の最大の弱点では。 Eさん(40代女性) 日常業務の課題としては、中途半端な電子化による業務の煩雑化。導入したシステムがあっても使いこなせていない。結局紙で資料を作成して、結果をシステム登録するなどの無駄が横行している。 Dさん:予定調和、根回しが多過ぎる。「ご検討ください」などとしながら、現場で方針変更のしようがないことが多々ある。民間なら1年程度で完成する施設が5年は費やされる。長期化によるコスト増を、職員があまり気にしていないことも心配だ。 Cさん:ただ、都庁はこれまで職員定数や監理団体数の削減など、かなりの努力で行革を進めてきた。そこが小池知事に理解されていない、との印象はある。 Bさん:職員は歴代の知事の下、それぞれの指示命令系統の中で意向を達成すべく忠実に職務をこなしてきた。単に押しなべての現状否定には違和感を覚える。 Cさん:たとえば築地市場移転や五輪の業務を担ってきた職員は、基本的に非常にがんばってきた。尽力した職員が困難な立場になるようなことがあると、今後厳しい業務を担う職員がいなくなるのではないか。 ──4年間で4人目の知事 Bさん:実務上は大きく変わらない。ただ、知事交代のたび、基本計画がやり直しになるなど、マンパワーや時間に無駄が出る。 Cさん:新知事の意向にかかわる事務作業や議会との調整が発生する。築地市場や五輪会場問題も、次々と代わる知事や議会勢力図の塗り替えの影響を受けていると思う。当事者の職員には大きな負担がかかっている。 ──現在の都議会審議の課題は Aさん:拘束時間の長さ。議員に事前説明や資料提供するために議会や議員の自宅へ資料を届けたり、委員会に出席したり、深夜まで事務方が待機するのは当然と受け止められている。 Bさん:都議会での厳しい議論をもとに、政策やそのスケジュールが決まる。仕組みは非常に有意義だ。だが議員の能力や姿勢にも左右される。野党の中には、ネガティブチェックばかりして、自分が行政の無駄を改善したかのようにアピールする議員もいた。もっともな内容であれば意義があるが、本質と異なるミスリーディングなものもあった。このあたりは都民にしっかり見ていただき、次の都議選で反映してもらうしかない。 Eさん:あまりに利権やしがらみが大きく見え、一職員が何か改善について意見できるようなことはないと感じる。 Cさん:知事サイド、執行機関側の施策については、質疑などで議会のチェックが入って機能している。課題だと思うのは、議員定数や政務活動費の領収書等のネット公開など、都議会側での決定事案。ここが弱い。外部委員による検討組織を設置すべきでは。 ──都議会の“ドン”について Cさん:ドンは存在する。重要案件を、内田茂議員、高島直樹議員に話を通しておくことは都の幹部職員の常識だ。だが、ドンの存在によって円滑な職務遂行に支障をきたしたことは、経験上ない。  与党議員といっても、案件によって考え方がそれぞれ異なる。ドンが会派をまとめ、国政との太いパイプを駆使して動いてくれることで、執行側が助けられてきた面は大きい。知事交代が続く中、五輪等の 大きな施策を進めていかなければならず、そうせざるを得なかった事情もあると思う。 Bさん:自分が知る範囲では、役職に就いている議員も含め与党の方には非常に丁寧にご対応頂いており、頭が下がる。意見も多くはもっともで、大きな刺激を受けている。むしろ野党に横柄な議員が多く、ひどい対応をされたことが何回もある。 ──小池都政の今後をどう見る Aさん:明確なビジョンと具体化する実行力を期待したい。 Dさん:どこかで大きな力につぶされ、中途半端に終わらないか。これからが正念場。改革の結果の重大さを都職員も含めて受け入れる覚悟がなければ。 Eさん:強力なトップダウン、それを受け入れる職場風土が必要不可欠だと思う。 Bさん:今の知事は職員よりも外部を信用しているように見える。正直者が馬鹿を見るような不信感が蔓延しないよう、職員とともに歩む姿勢を打ち出してほしい。知事の意向がより明確になれば、職員も不要な臆測をすることなく、マンパワーを集中できる。努力の結果が伝われば非常に喜ばしいし、我々のモチベーションにも繋がる。 Cさん:知事交代が続き、職員も都民も疲弊した。小池知事には、安定した堅実な都政運営を期待したい。 (編集部・渡部薫) ※AERA 2016年11月14日号
AERA 2016/11/11 11:30
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