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[連載]アサヒカメラの90年 第17回
[連載]アサヒカメラの90年 第17回
1989年1月号表紙。表紙特撮は篠山紀信 1985年9月号 篠山紀信「’85夏 東京 ニューヨーク」から 1985年9月号 篠山紀信「’85夏 東京 ニューヨーク」から 1989年1月号 篠山紀信「シノラマ 東京 1989 夜」から 1989年1月号 篠山紀信「シノラマ 東京 1989 夜」から 1989年1月号 篠山紀信「シノラマ 東京 1989 夜」から 1987年3月号「 特集ニューランドスケープ 6人の若手写真家が試みる『新しい風景』オムニバス」から。小林のりおの作品 1987年3月号「 特集ニューランドスケープ 6人の若手写真家が試みる『新しい風景』オムニバス」から。柴田敏雄の作品 1988年11月号 武田花「眠そうな町」から 1989年4月号 椎名誠「旅の紙芝居」から アサヒ カメラ9月増刊「最新風景写真講座」表紙 中村征夫『全・東京湾』表紙 シノラマ登場! 篠山紀信のシノラマが本誌に初登場したのは1985(昭和60)年9月号だった。「’85夏 東京 ニューヨーク」は、新宿のビアガーデンの「女ずもう」ショーと、磯崎新の手がけたニューヨークのディスコ「パラディウム」の熱気を、ミノルタのα-7000を3台連結してとらえた作品である。都市の風俗をこの手法で撮る理由を、篠山はこう語る。 「いまの都市の状況はいままでの撮り方ではとらえきれなくなっている。カメラの目はひとつ、人間の目はふたつ。では三つ以上の目で見たら世界はどうみえてくるか……」  シノラマというネーミングは、映画用語の「シネラマ」に篠山の名前をかけたものだ。3台の35ミリのムービーカメラを使って撮影し、それを3面のスクリーンを使って映写するシネラマは、観客の体ごと映像に引き込こむ上映法である。  篠山は写真でもこの視覚効果を求め、70年代から音楽と写真を融合させたマルチプロジェクションなどを試みていた。やがて82年にカメラを連結させて撮影する手法にいきつき、それをシノラマと命名。以降、主題を世界の都市にもとめ、85年までに「NEW YORK」「SEOUL」「TOKYO」「ROMA」の4部作を、写真集や雑誌で発表していた。  本誌では翌86年からシノラマが新年号の目玉企画として登場し、年を追うごとに撮影のスケールが精巧かつ大規模になっていった。  まず86年1月号掲載のローマの「貴族の館」では3台の35ミリ一眼レフを横位置に使い同時にシャッターを切り、空間的な広がりを強調。それが翌87年の「スタジオ」では1台の4×5判カメラを三脚に固定し、360度首を振って撮影した写真を連結、絵巻物的になっている。篠山はこの撮影にあたり、イメージの連続性を複雑にし、多元的な視点を獲得するために、事前に精密な絵コンテをつくって撮影にのぞんだ。本作はシノラマでの初のヌード作品でもあり、映像表現としての「『シノラマ・トリック』の完成を期し」(本誌「撮影ノート」)た意欲作だった。  さらに同年4月号の「東京千米」では、「無秩序に巨大化した都市・東京のアメーバ的状況をとらえ」ようと4台の一眼レフによって180度近い画角を得て空撮に挑んだ。88年1月号の「はつゆめ 後藤久美子」ではファンタジックな物語世界を展開して、読者の目を楽しませた。  圧巻は89年と90年の1月号の「シノラマ 東京」だった。前者は東京の「夜」をテーマに開発の進む湾岸部と古い飲み屋街という対照的な風景のなかで、後者は新鋭建築家髙﨑正治による近未来的建築「結晶のいろ」を舞台に撮影されている。いずれも無表情なヌードモデルと超絶技巧的なライティング、練られた画面構成で「アメーバ的な東京」の内部を妄想的に表現したものだ。  ことに後者の舞台となった「結晶のいろ」は、法令違反によって一度も使用できず、撮影後にとり壊されている。篠山は、この幻の建築の解体現場でも撮影を行っており「TOKYO NUDE」として90年5月号で発表した。  TOKYOシリーズは92年まで続き、その間、写真集『TOKYO NUDE』(90年 朝日新聞社)や『TOKYO未来世紀』(92年 小学館)が出版されている。空前のバブル景気に沸いていたこの80年代末、シノラマは非常な速度で変容していく東京そのものを体現していた。 新しいランドスケープ  シノラマの大がかりな撮影スタイルは関心を集め、本誌には現場リポートや解説も掲載され、89年1月号には飯沢耕太郎が「TOKYO ナイトトリップ『シノラマ』がとらえた新しい都市の眺め」を、90年1月号には義江邦夫が「撮影現場から」を執筆している。そのうち飯沢は、巨大な再開発によって変貌していく東京を、近未来SF映画「ブレードランナー」や「未来世紀ブラジル」のデストピア的なイメージに重ね、シノラマは「ぼくたちの感覚を引き裂き、思考の枠組みを破砕してしまうようなアナーキーな力を潜ませた都市の眺めにこそ」ふさわしい手法だと述べた。  同時に、最近「変質していくTOKYOの風景に敏感に反応している」若手写真家の仕事が目立つとして宮本隆司、小林のりお、山根敏郎の名を挙げている。当時、宮本は解体中の近代建築を「つかの間の廃墟」として撮影した「建築の黙示録」や魔窟といわれた香港の「九龍城砦」などを、小林は郊外に広がるニュータウンをニュートラルにとらえたシリーズを、山根は東京湾岸の開発風景をとらえた一連のシリーズを発表していた。彼らは篠山の熱気とは異なった静かなまなざしで、変容する都市とその周辺の風景を見ていた。それは建築学的な視点による都市環境の眺め、つまりランドスケープとしての描写だった。  若手写真家のランドスケープ作品は、87年3月号「特集ニューランドスケープ」や、89年4月号での評論家の加藤哲郎による「1990年の鏡と窓」でも大きく紹介されている。前者は小林のりお、米山恭子、伊奈英次、のろまさる、谷口雅、柴田敏雄の6人が紹介され、飯沢が論考「箱庭のリアリティー 風景写真の現在」を寄せた。一方の加藤は、風景を無機質に描写する若手をニュートレンド派と呼び、6人のほか畠山直哉、築地仁、三好耕三、吉村晃(朗)、大西みつぐ、蓑田貴子、杉本博司らを挙げ、共通して「『個』と対象の関係、環境との俯瞰図的な関係」を保持していると指摘している。  興味深いことに飯沢と加藤は、ランドスケープ作品に、ふたつの同じ画像の印象をダブらせ語っている。それは人工衛星が撮影した地表の画像と、86年のチェルノブイリ原発事故のもようを知らせた電送写真である。精密で無機質な鳥瞰図と不鮮明な事故現場からの画像という、相反するイメージが若手写真家のランドスケープには同居している。それは、急速に近未来化していく東京の風景と、その果てに来るだろうカタストロフィへの予感だった。  さて、こうした作品がいかに関心を持たれ、支持されたのかは88年から96年ごろまでの木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)に表れている。つまり先に挙げられたなかから宮本隆司『建築の黙示録』『九龍城砦』(89年)、柴田敏雄「日本典型」(92年)、大西みつぐ「遠い夏」「周縁の町から」と小林のりお「FIRSTLIGHT」(ともに93年)、畠山直哉『LIME WORKS』「都市のマケット」(97年)が受賞者となったのである。  また、彼らの多くはギャラリーでのオリジナルプリントでの展示に力を注いでいたから、写真美術館時代にふさわしい作家でもあった。 写真美術館への戸惑い  昭和天皇の崩御によって昭和64年は1週間で終わり、8日から平成元年となった。長い昭和時代の終幕は、日本人それぞれに深い感慨を抱かせ、あらゆるメディアで昭和史の読み直しが盛んに行われた。本誌では90年に「写真人の昭和」が企画され、昭和期に活躍した写真家、企業人、技術者らを訪ねその証言を記録している。  一方で、この年はダゲールによる写真術の公開から150年という節目でもあった。世界各地で大規模な記念イベントが開かれ、日本でも「写真150年展 渡来から今日まで」などが開催されている。本誌はそれにあわせ6月号で特集「写真150年」を組んで、日本の写真術の黎明を振り返った。  この記念すべき年を挟み、もっとも注視されていたのが写真美術館の誕生だった。88年に川崎市市民ミュージアムが、89年には横浜美術館という写真部門をもった美術館が開館し、90年6月には写真と映像の総合的な施設として東京都写真美術館が第一次開館を果たしている。また東京国立近代美術館も写真作品の常設展示を始めた。  ほかにも、90年には写真を含むジャンル横断的な展示を行う茨城の水戸芸術館や、長野県安曇野市の田淵行雄記念館も誕生。同年4月から半年間、大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」では「花博写真美術館」が伊藤俊治の監修で設けられている。  続々と誕生する写真美術館について、本誌はニュース欄や特集で詳しく伝えた。ことに88年10月号「徹底取材『いよいよやってくる「写真美術館」時代』では、各地域での取り組みも紹介されている。戦前の関西写壇の発掘に力を入れる兵庫県立近代美術館、京セラを通じて千点もの写真コレクションを入手した京都国立近代美術館、あるいは意欲的な「日本現代写真史展」の開催を企画している山口県立美術館などである。さらに90、91年には「世界の写真美術館」が連載され、世界各国の施設がリストアップされた。  これらの美術館では写真史の文脈を概観する展示が行われる一方、コンストラクティッドフォトに代表される現代美術としての表現を展観する企画も盛んだった。「現代美術になった写真」(87年 栃木県立美術館)、「脱走する写真― 11の新しい表現」(90年 水戸芸術館)、「移行するイメージ 1980年代の映像表現」( 90年 京都・東京国立近代美術館)、「日本のコンテンポラリー 写真をめぐる12の指標」(90年 東京都写真美術館)などである。これらの展示は、美術関係者には好評だったが、一般的な写真ファンからは戸惑いが示された。写真関係者のなかには、美術史に写真史が吸収されることを危惧する人たちも少なくなかった。  そこで90年10月号では、特別よみもの「現代美術と写真との“危険な関係”」が企画され、「写真を過剰なまでに現代美術にとり込もうとする動きとはいったい何なのか」を写真家の大島洋、美術評論家の高島直之、文化論の赤坂英人の3人が、それぞれの立場から論じている。このなかで読者には大島の論考「いま、写真にこだわること」が響いたのではないか。 「写真は絵画や現代美術との境界領域に活路を見出すことのみに汲々となるのではなく、物を見ることに徹し、身体そのものを目にすることによって、しかもそれを一度ひっくりかえして、なおかつ写真にこだわることによって、もっともっと写真の楽しさや面白さは夢見られてよいと思う」「あえて頑迷さの役割を演じて」大島はこう述べ、論考の最後を「写真はこれから独自の道を模索する、その入り口についたばかり」と結んだ。 ネイチャーフォト  この80年代末の本誌のグラビアには、明るく健康的な作品が多い。沢渡朔、渡辺達生、小沢忠恭らの爽やかな色気を放つヌードやポートレート、叙情性をもった淺井愼平、稲越功一らの作品などが読者の目を引きつけている。  また新人では、88年11月号に初登場した武田花の「眠そうな町」が新鮮な印象を与えた。再開発時代に取り残された、人影の消えた町々を撮った縦位置のモノクロのスナップは、同じ世代のランドスケープの作家とはまた違った懐かしくも不思議な都市の姿を描写していた。武田は、このシリーズで90年に木村賞を受賞した。  モノクロのスナップといえば、椎名誠の「旅の紙芝居」が89年4月号から始まっている。この朗らかな紀行エッセイは安定したファンを獲得、92年の「人間劇場」を経て、93年からは「シーナの写真日記」として現在にいたる超長期連載となった。  もっとも支持を集めていたのは、前号も触れたように、自然を対象とした写真家である。88年から2年間続いた企画「シリーズ〈ネイチャー〉」ではベテランの薗部澄をはじめ、竹内敏信や宮嶋康彦などの多彩な風景作品が掲載され、90年には竹内の「ヨーロッパ新風景」が連載された。さらに、人気にともない撮影地のガイドやハウツー記事も、より詳細で充実したものになっている。  こうした誌面を求めていたのは、おもに時間的にも資金的にも余裕のある中高年だった。自然相手では最適な撮影環境になるまでロケ地で長く待つ場合も多く、精度の高い最新のAF一眼レフカメラや交換レンズが求められる。こうした条件を満たせる中高年層が熱心に作品づくりに励んだことで、プロとアマチュアの境界は薄くなった。風景写真はブームとなり、専門誌が創刊されたり、90年9月には本誌増刊「最新風景写真講座」が出されたりするなど出版界の追い風ともなった。  風景写真ブームの一方で、生態学的な観察をもとに、自然と人間との関わりをテーマとした、スケールの広がりを持った写真家の仕事も際立っていた。木村賞の受賞者でいえば、中村征夫(88年)、星野道夫(90年)、今森光彦(95年)らがそうである。  中村は開発の代償として汚染が進んだ東京湾をめぐり、海中生物と人の暮らしをルポした『全・東京湾』(87年 情報センター出版局)を発表。星野はアラスカに腰を据えて、野生動物を軸に現地の人々の文化的変容をみつめた。そして今森は、自然と共生する伝統的な暮らしの場を里山と名づけ、昆虫を軸にそのありさまをとらえたのだった。これらは文化人類学的な意味を持った作品として評価されている。  この80年代末から90年代初め、都市へ向かうランドスケープと自然へ向かうネイチャーフォトという志向の違いはあっても、若い写真家たちは共通した認識と危機感を持っていた。人間がつくりだした環境に対する彼らの鋭い批評性が、その作品に結晶していたのである。
dot. 2017/04/24 00:00
ぐっちー「働き方革命、まずは終身雇用を廃止しないと」
ぐっちー ぐっちー
ぐっちー「働き方革命、まずは終身雇用を廃止しないと」
ぐっちーさん/1960年東京生まれ。モルガン・スタンレーなどを経て、投資会社でM&Aなどを手がける。本連載を加筆・再構成した『ぐっちーさんの政府も日銀も知らない経済復活の条件』が発売中。  経済専門家のぐっちーさんが「AERA」で連載する「ここだけの話」をお届けします。モルガン・スタンレーなどを経て、現在は投資会社でM&Aなどを手がけるぐっちーさんが、日々の経済ニュースを鋭く分析します。 *  *  *  働き方改革とかいう妙なキャッチフレーズが出てきて、どうもおかしな方向に話が向かい始めました。  今や「残業をなくせ」という圧力があちこちから出てきています。一方で、多くの会社員からは「残業代がなくなったら食えない」というような声が上がるようになって、消費支出の減少の原因になりつつあるというのです。なんのこっちゃ、と言いたくなります。議論が完全に迷走しているといっても過言ではありません。  アメリカの場合は、就業者は二つに分かれており、労働法であるFLSA(公正労働基準法)に準ずる者と、そこから完全にExempt(除外)される「ホワイトカラー・エグゼンプション」という就業者がいます。  FLSAに準ずる労働者は、最低賃金や残業時間などが厳しく決められており、アメリカで経営している立場から言うと、このルールを破ると会社がなくなりかねないほどの厳しさで罰せられます。  しかし、これでは仕事にならない分野があることは確かで、私のいたウォール街がまさにそうで、自らの立身出世、将来のために必死になって働いてもいいよ、という人がいます。実際ウォール街で本気で仕事をやれば24時間世界中のマーケットを相手にするわけです。それは法令違反になるのか、などと言い出したらきりがないわけです。  研究者なども同様で、最先端の論文を書くために徹夜しているのに、それが法令違反と言われても困ってしまいますよね。そういう人たちをとても厳しい労働法の基準から外すホワイトカラー・エグゼンプションというカテゴリーがアメリカには存在します。  この「24時間就業者」という立場を受け入れる代わりに、高い給料と将来の出世という果実を得ることができるのです。ですからウォール街と日本の金融機関の給与を比較することは根本的に間違いで、前者は「24時間就業者」ですから高くて当たり前。最低でも年収2500万円は取ることになります。  同じような仕事を年収800万円でさせようとするから問題になるわけで、要は終身雇用と年功序列を廃止してからでないと、議論が迷走することは確実。働き方改革は、まずこの慣習を法律でやめさせる以外にはない、というのが実情というところでしょう。 ※AERA 2017年4月24日号
ぐっちー働き方
AERA 2017/04/23 16:00
メガネで頭痛や肩こりが治る!? 50代記者も実践「失敗しない老眼鏡の作り方」
メガネで頭痛や肩こりが治る!? 50代記者も実践「失敗しない老眼鏡の作り方」
眼に病気はないか。細隙灯顕微鏡検査をする 他覚的屈折検査で、ピントが合うかをチェック 遠くが見えるか、自覚的屈折検査で調べる  自分に合った老眼鏡、もっていますか? 「いや、まだ見えてる」と腰が重い人、安いメガネでその場しのぎをしている人、肩こりや頭痛が悪化していませんか? 遠近両用レンズなら近くも遠くも見えて便利だが、度数の決め方やレンズの選び方にコツがある。週刊朝日MOOK『老眼&白内障完全ガイド 眼のいい病院2017』では、老眼に悩む記者(51)が遠近両用レンズの老眼鏡作りに挑戦した。 *  *  * 「よし、遠近両用を作ろう」と決意したのは49歳のとき。1枚のレンズで近くも遠くも見えるのだから便利そう。同じチェーン店で視力検査をして購入した。1万4千円なり。ところが、完成したメガネをかけると……世界がゆがんだ。慣れるまで1、2カ月かかると店では言われたが、本の文字列がひし形に見え、足元が不安になる。1カ月待たずにお蔵入りとなった。  実際、周囲にも「遠近両用メガネは使えない」という人は少なくない。この原因はいったいどこに? 「遠近両用のレンズはゆがみやすい性質があるのは確かです。でも、レンズの性質と度数の決め方が正しければ問題はないはずです」  そう話すのは、日本眼鏡学会理事長で、眼鏡光学の専門家の畑田豊彦氏だ。  遠近両用メガネには、レンズの上部に遠くを見る「遠用部」があり、下部に手元を見る「近用部」がある。遠用部と近用部の間の中間部分はゆるやかに度が変化する。視線を動かすことで遠中近のさまざまな距離を見るため、目の動きがレンズの構造に合っていないと、ゆがみが出やすい。 「最新式のものほどゆがみが生じにくいです。そのぶんコストもかかっているので、質と値段は比例します。価格の安いレンズは、その人に合わない設計のものや、最終調整が雑な可能性が高いと思います」(畑田氏) ■見え方で肩こり、頭痛、うつ病に  もうひとつの問題は度数だ。遠近両用は、遠用部と近用部で度数が違う。この差を「加入度数」と言い、数字が大きいほどゆがみが生じやすい。ちなみに記者のメガネは+2.25Dだった(Dは屈折力の単位)。  畑田氏は、担当するスタッフの経験値のほか、メガネを作るルートが明快ではないことも問題だという。本来は、まず眼科に行って検査を受け、処方箋(指示書)をもらってメガネ店に行くことになっている。しかし、現状では直接メガネ店に行ってメガネを作ることもできる。 「老眼世代は、視力低下の背景に緑内障や白内障などの病気が存在する可能性があります。まずは眼科で診察を受けるべきなのですが、レンズやフレームのアドバイスは、メガネ店のほうが丁寧にできるという側面があるのも事実です」(同)  では、メガネの処方に定評のある眼科で検査をしてもらうのがいいだろう。梶田眼科(東京都港区)の梶田雅義医師を訪ねた。  事情を話すと梶田医師は、「頭痛や肩こりなど、からだの不調はありますか?」と聞く。  はい、もちろん。肩こりは職業病でバリバリだし、夜になるとテレビを見るだけで眼の奥が痛む。梶田医師はその原因が老眼にあると話す。 「遠視ぎみの人は『自分は目がいい』と思っていますから、老眼になっても裸眼で見ようとピント調節にがんばりすぎて、からだの不調になって表れるのです」  その背景には、多種多様な距離(とくに近い距離)にピントを合わせることが急増している現代の社会環境があるという。昔なら、目から40センチ程度先の手元に焦点が合えばよかったが、スマホ画面は25センチ先、パソコンは60センチ先、テレビは2~4メートル先とまちまちだ。  ピント調節の役割を担う水晶体は、その距離が変わるたびに必死で厚みを変える。しかも老眼世代は水晶体が硬くなっているから、なおさら負担になる。 ■裸眼でテレビも見えていなかった  記者も梶田医師のもとで処方箋を作ってもらうことにした。検査は4種類で、どこの眼科でもおこなう基本的なものだ。結果を見て、梶田医師はこう言った。 「近くも遠くも、よく見えていませんね」  は? 近くはともかく、遠くはよく見えるはずですけど……。 「眼からの情報は脳で処理されるので、経験と勘で見えた気になっているだけです。現在、あなたの場合、裸眼で焦点が合う一番近い点は、5メートル以上先です」  まるでサバンナで暮らす民族……。いや、彼らは遠くも近くも見えるが、記者は裸眼ではテレビにもピントが合わない。衝撃だった。  遠くも見えていなかった記者の場合、遠用部にも+0.5Dの弱い度を入れる必要があるという。ピントの引き寄せをラクにするためだ。近用部は+1.75D。加入度数は+1.25Dと大幅に下がった。テストレンズを試着したが、遠くから近くに視線を移動しても、驚くほどゆがみを感じない。  では直接、メガネ店で視力検査をしても「快適なメガネ」を作ることは可能か。前出の畑田氏は言う。 「可能です。ただし日本には、適切な視力測定やレンズの選定などをおこなう人の国家資格がありません」  欧米やオーストラリア、韓国など多くの国には国家資格制度があり、眼科医と眼鏡士の仕事のすみ分けができている。日本も眼鏡専門学校などで学び、実践で経験を積んだ優秀なメガネ店員は多いが、極端な話、知識のない人がメガネを作っても問題にはならない。  国内での目安のひとつに、公益社団法人日本眼鏡技術者協会の「認定眼鏡士」資格がある。7800人余りが認定され、ホームページで店舗検索もできる。 【使うときに気をつけたい5カ条】 1.裸眼は禁止 遠視ぎみの人ほど脳が「裸眼が一番いい」と認識しているので、朝布団から出るまえにメガネをかけて「これが普通の状態」と脳に認識させること。 2.遠くを必死に見ない 遠用部に度が入ると、遠くの看板などが見えにくいと感じることも。でもそれは、裸眼で遠くを見ていたころの名残。レンズの調節力に任せてリラックスして見るうちに、遠くもよく見えるようになるので、かけはずしはしないこと。 3.レンズの位置に注意 見えにくさを感じたら、レンズと目の位置がずれている可能性もある。メガネ店で調整してもらおう。 4.5年程度で度数見直し 40代半ばから50代後半までは老眼が進行する。60代で安定するまで、3回はレンズの買い替えが必要。 5.慣れたら二つ目も 働く世代に、オフィス内で焦点の合う「中近レンズ」や、パソコン画面と手元の両方を見る「近近レンズ」は便利。「遠近」に慣れたら考えてもいい。 (文・神素子) ※『老眼&白内障完全ガイド 眼のいい病院2017』より
健康朝日新聞出版の本
dot. 2017/04/23 07:00
第116回 映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』一夜限りの絶響ライヴとぴあの記憶
第116回 映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』一夜限りの絶響ライヴとぴあの記憶
映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』DVD) 『ザ・ウォール』ピンク・フロイド ロック・バンドZELDA(ゼルダ)の楽屋での小澤亜子(ドラム)と高橋佐代子(ボーカル)。左側が小澤。後ろで写真を撮っているのが小熊一実  音楽映画を、ライヴハウスの大音量で、スタンディングで見ることも可能という上映会がある。なかなか自宅では大きい音で、しかも大画面で見ることができないので、こういう企画はありがたい。そこで映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』を上映するというので、書いてみたい。  この映画、もともとはピンク・フロイドの1979年発表の『ウォール』というアルバムを映画化したものである。アルバムの『ウォール』は、全英3位・全米1位を記録し、全世界で3000万枚以上の売り上げを記録した。  映画の『ピンク・フロイド ザ・ウォール』は1982年にイギリスで製作された。主演はロック・バンド「ブームタウン・ラッツ」のボーカル、ボブ・ゲルドフ、脚本はピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ、監督はアラン・パーカーだ。わたしは監督のアラン・パーカーの処女作『小さな恋のメロディ』(1971年)を観ていたので、驚くと同時に「なるほどな」と思ったことを覚えている。  映画『小さな恋のメロディ』は、幼い少年少女の初恋と大人の感覚のずれを描いた映画だった。少年と少女は、ただお互いを好きだから、ずっと一緒にいたいから、結婚をしようと思うのだけれど、大人たちは「なんという破廉恥な」と大騒ぎするという話である。主人公の二人を演じたマーク・レスターとトレイシー・ハイドも人気者になったが、わたしにとって大きいのは、この映画でビー・ジーズとクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの音楽を知ったことだ。だが、この映画の話題は、別の機会に話そう。  話を戻すと、アラン・パーカーは最初から、映画と音楽の関係をわかっている監督だったのだ。ほかにも、映画『ダウンタウン物語』では、カーペンターズの《雨の日と月曜日は》などの作曲者としても知られるポール・ウィリアムスの音楽を使い、『フェーム』でも音楽とダンスをテーマにしている。    映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』が発表された1982年、わたしは株式会社ぴあで仕事を始めていた。その頃、ぴあ株式会社が発行していた情報誌「ぴあ」は、当時の調査で、100%の大学生がその名を知っているというくらいポピュラーな情報誌だった。  インターネットなどなかったあの時代、どの映画館でどんな映画を上映しているのか、好きなアーティストのライヴは、いつ、どこで開催されるのか、情報誌「ぴあ」で探すのが一番効率がよく、確実だった。  そのぴあが情報誌だけに収まらず、街の中に情報発信基地を作ることになった。それはPMO(ぴあ・メディア・オデッセイ)と名付けられ、新宿アルタ、池袋西武、六本木WAVEに設けられた。当時、開発が進められていた日本電信電話公社(今のNTT)の「キャプテンシステム」のショー・ルームの役割を果たしていた。まだ、インターネットが現れる前の話だ。  キャプテンシステムとは現在のインターネットの走りのようなもので、紙媒体ではなく、通信網を使ってモニターで情報を検索するシステムだった。ぴあの創設者にして代表取締役の矢内廣は、このメディアの出現を脅威に感じた。このようなものが現れたら、印刷媒体であるぴあの存在意義はなくなってしまうのではないか、と。そして、矢内の取った行動は、このキャプテン・システムに自ら参加することだった。  このキャプテン・システムを実際に操作できる場所として、上のPMOが設置されたのだ。そのなかでも新宿アルタの5階にもうけられたPMOには、キャプテン・システムに加えて、当時現れてきたMTVも紹介していた。ビデオ・デッキとレーザーディスク(LD)を備え、海外で作られた最新のMTVをビデオとLDで紹介した。デュラン・デュランやDEVO、デヴィッド・ボウイなどのプロモーション・ビデオだ。  わたしは、PMO3カ所のうち、2か所の無人店舗のメンテナンスと、スタッフが常駐していたアルタのシフト管理などを担当していた。わたし以外のスタッフは、この頃、女性だけのロック・バンドZELDA(ゼルダ)にドラマーとして加入した小澤亜子が集めてきた。彼女が当時通っていた日本女子大の友人たち5~6人だった。  全員、魅力的で、頭のよい子たちだったのを覚えている。仕事は、ビデオ・テープやLDの再生が終わったら、巻き戻して再度再生することと、キャプテン・システムの使い方に迷っている人がいたら、説明してあげるといった程度のものなので、その間は本を読んでもよいということになっていた。その中の1人が、学校の宿題といって、ポケコンを使って勉強しているのを見てわたしは驚いた。彼女は、物理学科だった。最近、亜子と話したら、みんな今でも活躍しているようだ。  それから亜子に紹介され、レコード会社の依頼でZELDAのライヴ写真を何回か撮影した。ただ残念なことに、すべてカラーのポジで撮影し、レコード会社の担当の方に渡してしまったので、わたしの手元には白黒で撮影したスナップしか残っていない。  アルタのPMOは、売上のないショー・ルームだった。けれど、ある時を境にしてその役割は大きく変わることになる。  この頃、ぴあ株式会社が新しい雑誌を発行することになった。「月刊カレンダー」という誌名だった。創刊準備号の表紙を松任谷由実(ユーミン)が飾り、創刊号はフランソワ・トリュフォーが飾ったと記憶している。  その販促ツールとして、卓上カレンダーや月刊カレンダーのロゴ入りセメント袋(こういったものを小脇に抱えるのが流行っていた)などを作製した。それらの販促グッズが好評だったので、PMOで販売しようということになった。販促グッズなんて売れるのだろうか、などという意見もあったが、低価格に抑えたこともあって、これが意外に売れた。毎日、数千円の売り上げになった。調子に乗って、当時、イラストパズル「ぴあパノラマ館」をぴあに連載していた、おおやちきイラストの「ごきぶりぶりぶり」(おおやちきのイラストが施されたごきぶり取り)など、雑誌の読者プレゼントも売った。  そんなある日、映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』のチケットを売ることになった。ロードショーではなく、イベント型の上映で、わたしの記憶ではアルタのPMOでのみの販売だったはずだ。そのためチケットは次から次に売れ、1日で数十万円の売り上げになることもあった。  同じスペースで、売り上げゼロから、1日で数十万円も売り上げるようになったのには驚いた。使い方次第なのだな、と思ったものだ。そして、それから2年後の1984年、オンラインでチケットを販売するチケットぴあが開始する。まずは劇団四季のロングラン・ミュージカルの『キャッツ』のチケットを売り始めた。アルタのPMOは、ぴあステーションと名前を変えた。そして『キャッツ』のチケット発売日には、数百万円の売り上げを上げた。    この2~3年の体験は、わたしにビジネスの面白さを教えてくれた。そしてわたしの青春は終わり、社会人へと変貌していった。 [次回5/17(水)更新予定] ■公演情報は、こちら http://www.110107.com/s/oto/page/pink-zekkyo?ima=5211 ■その他、過去のライヴ絶響上映情報は、こちら。 http://www.110107.com/s/oto/diary/movie/list?ima=5211
2017/04/19 00:00
「仕事がしたくてたまらない人」に変わる、たった一つの質問
「仕事がしたくてたまらない人」に変わる、たった一つの質問
「気分」起点サイクルモデル/人生の大目的である「夢」としっかりつながることができれば、いつも気分上々で過ごせるようになる。その結果、出来事、感情、思考、行動、すべてに良い循環が生まれる(『やっぱり、気分を上げればすべてうまくいく』より) 藤由達藏(ふぢよし・たつぞう)/夢実現応援家。株式会社Gonmatus代表取締役。「人には無限の可能性がある」をモットーに、作家・シンガーソングライターから経営者・起業家・ビジネスパーソン、学生・親子まで幅広い層に、夢実現の個別対話や対話型研修、創造性・才能開発のワークショップを提供している。1991年早稲田大学卒業後、文具・オフィス家具メーカーPLUSに入社。全プラス労働組合委員長として、労働組合活動にコーチングの要素を取り入れ、組合員に対するセミナーの講師を務める。2013年9月、独立。チームフロー(代表・平本あきお氏)スタイルのコーチングを核に、各種心理技法や武術、瞑想法、労働組合活動、文芸・美術・音楽創作等の経験を統合し、独自の「夢実現応援技法」を確立。企業、労働組合、業界団体からの講演依頼も多数。ユーモアを交えて熱く語るスタイルが親しみやすいとの定評がある。著書にシリーズ累計で40万部を超えるベストセラーとなった「結局」シリーズ(『結局、「すぐやる人」がすべてを手に入れる』<青春出版社>など)がある  好きでついた仕事のはずなのに、毎週日曜日の夜は「明日から仕事、1週間は長いな~」と思う人も多いのではないでしょうか。一方で「仕事がしたくてたまらない」「毎日仕事をしても疲れない」という人もいます。その違いはどこから来るのでしょうか?  自分を仕事好きに変える「たった一つの質問」があると、プロコーチの藤由達藏さんは語ります。『やっぱり、気分を上げればすべてうまくいく』(朝日新聞出版)の著者でもある藤由さんに、その秘訣を聞きました。 *  *  *  夜、ベッドやふとんに入ってから、「ああ、また明日も仕事か……」などとため息をつきながら眠りに就いていませんか?  一生懸命仕事に取り組んでも、常に成果が上がるとは限りません。むしろ、思い通りにいかないことの方が多いでしょう。そうわかっていても、うまくいかないことが続くと、いつしか仕事に疲れてしまい、知らぬ間に悲観的になり、原因や出来ない理由を探してしまいます。  こうした負のスパイラルに陥ると、マイナス思考から抜けられなくなり、仕事に行くのが憂うつになってしまいます。  そんなときは、次の質問を自分にしてみてください。 「この仕事の目的はなんだろう? 私は何のためにこの仕事をしているんだろう?」  まずは、今の仕事を始めたときのことを思い出してください。その仕事の将来性に期待し、そこで自分の能力を十分に発揮して、成果を挙げたいと思っていたあのころの思いを。  そして、小さくとも実績をはじめて残せたときの喜びを、その時の場面をありありと思浮かべてください。その場面の中にこそ、「仕事の上位目的」が隠れているのです。 ●大目的につながれば、悩まなくなる  仕事の意義や人生に悩んでいた人でも、「仕事の上位目的」を探り、人生の夢である「大目的」を見つけ出し、しっかりとそれを確信することで、仕事や人生にほとんど悩まなくなります。 「うわぁ、問題山積。気持ちが萎える」と言っていた人が、「課題はたくさんあるけど、一つ一つクリアしていくことが仕事の大事なステップであり、喜び」というように変わります。課題があっても、それが大目的とつながっていることを実感できれば、悩むことなく、一歩、一歩、楽しみながら進んでいけるのです。 ●大目的が見つかる「ワーク」  そうは言っても、自分の人生の「大目的」なんてよくわからない、という人も多いかもしれません。そんな人は次の「ワーク」を試してみてください。 【10年間活躍できる「夢」を描くワーク】 (1)過去の「ワクワク体験」の具体的な場面をありありと思い出して味わう。その体験をひと言で表す。 (2)過去の「好きだったこと」の具体的な場面をありありと思い出して味わう。その体験をひと言で表す。 (3)過去の「得意だったこと」の具体的な場面をありありと思い出して味わう。その体験をひと言で表す。 (4)過去の「なりたかった憧れの人物」にまつわる具体的な場面ありありとを思い出して味わう。その体験をひと言で表す。 (5)1から4までのそれぞれ「ひと言」で表されたあなたの「価値観」が完全に実現された、何の制約もない将来の場面、「心躍る未来像」を思い描きます。 (6)何の制約もない10年後の場面に、見えるもの、聞こえるもの、胸の内で感じるものを深く味わってみる。 (7)味わってみて気づいたこと、感じたことをひと言で表す。それが「譲れない価値観」です。  このようにして「心躍る未来像」と「譲れない価値観」を導き出します。「夢」とは、「譲れない価値観」を具体化した「心躍る未来像」です。  このような「夢」をしっかりと持つことができれば、日々の仕事、そして人生に悩むことがぐっと少なくなります。もし、今の仕事や人生に迷っていたら、ぜひ、このワークを試してみてください。(プロコーチ・夢実現応援家 藤由達藏)
仕事朝日新聞出版の本読書
dot. 2017/04/10 07:00
高倉健が一番、愛した日本刀とは?
植草信和 植草信和
高倉健が一番、愛した日本刀とは?
人間国宝の刀匠、故・宮入行平の鍛刀道場(長野県坂城町)で。健さんはずっとここを訪れたいと思っていたその願いがかなった (c)朝日新聞社 寄贈された高倉健さんの日本刀を手にする宮入小左衛門行平さん(左)と山村弘・坂城町町長 (c)朝日新聞社 高倉健さんから日本刀を贈られたチャン・イーモウ監督。「高倉さんが私に与えてくれた言葉、それは一生忘れることのないもの」と語る (c)朝日新聞社 高倉健さんが寄贈した日本刀の一つ。安土桃山時代の名工堀川國廣作の脇差。長さ1尺2分9寸(坂城町鉄の展示館蔵)/撮影:井上一郎  高倉健ほど日本刀が似合う俳優はいないだろう。事実、高倉健は日本刀をこよなく愛し、自身も数振り所持。刀匠の作品を親しい人に贈ることもあったという。高倉健と個人的な交流があった植草信和氏が健さんの日本刀愛に迫った。 *  *  *  僕が初めて健さんと会ったのは、1975年だった。当時僕は映画雑誌「キネマ旬報」の編集部に属していて、そこでの「新幹線大爆破」の座談会に健さんが出席してくれることになったのだ。僕は恐れ多くも司会を仰せつかった。  当日、喜び勇んで東京都練馬区大泉の東映撮影所に出向いた僕を、健さんは所内の自室に招いて、珈琲を淹れてくれた。大スターが目の前で、しかも手ずから淹れてくれたことに感激し緊張していたので、残念ながら味の方はさっぱりわからなかった。健さんの俳優仲間の八名信夫さんは、ドキュメンタリー映画「健さん」のなかで、「あんな不味い珈琲はなかったよ」と明言しているのだが……。  その後、82年に写真集『高倉健 望郷の詩』(芳賀書店)の編集を担当することになった。  健さんの魅力を刻印し、健さんが歩んできた半世紀が浮かび上がってくるような本にしたい、そんな取りとめのないことを考えて何度か打ち合わせをした。  当時の高倉プロモーションは東京都港区赤羽橋交差点側のガソリンスタンドの2階にあった。キネマ旬報社は神谷町の東京タワーの側だったので歩いて数分の距離にあり、打ち合わせには便利だった。打ち合わせが終わると数分の雑談が許され、それが嬉しかった。  それからかなり時間が経って出版された、野地秩嘉氏の力作『高倉健インタヴューズ』(小学館文庫)という本の中で語られている、健さんの日本刀についての考えを知り、得心したことがあった。 「日本刀は心が安らぐんですよ。夜中に引っ張り出して、すーっと抜き身にして、ぽんぽんって打ち粉を打って、眺めます。刃物ってのはただの道具なんですが、日本刀だけはそんな機能を通り越した美しさを持っているように思います」  夜中、ひとり日本刀を凝視している健さんの姿を思い浮かべながら、意に反して映画俳優を生業としてしまった高倉健、あるいは小田剛一(本名)という人間について考えてみると、何か腑に落ちるものがあった。 「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている。俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。映画にはその生き方が出る」と語るストイックな健さんは、「機能を超越した美しさを持つ日本刀」の刀身に、己の俳優人生の内省を映し出し、それを見つめていたのではないだろうか、と。  また、日本刀について、「父が縁側に座って刀の手入れをしている後ろ姿が頼もしく、またとてつもなく好きだった。今にして思えば父と刀がオーバーラップして、日本人の魂を象徴する刀の魅力にとりつかれていたのかもしれない」とも語った健さんは、そこに愛してやまなかったご両親の在りし日と、故郷福岡の風景を見ていたのではないか。  そのように、日本刀を魂の研ぎどころとしていたらしい健さんは、いろいろな人に日本刀を贈っている。  もっともよく知られているのは、中国映画界のみならず、今や世界的な巨匠になったチャン・イーモウ監督へ贈ったエピソードだ。 「高倉さんとは1本の映画を撮っただけですが、彼が私に与えてくれた影響はとても大きなものです。高倉さんは私に日本刀も贈ってくださいました。彼から、刀は持ち主を守ってくれるものだと聞いています。その日本刀は今も私のオフィスの1メートルと離れていないところに置いてあります。高倉さんが私を守ってくれるような気がします」  健さんはチャン・イーモウと、「単騎、千里を走る。」(2006年)という映画を作っている。  ふたりの交流はそれ以降も続き、08年、チャン・イーモウが北京オリンピックの開会式・閉会式の演出を引き受けたときに、健さんが自ら刀匠に依頼して打ってもらったひと振りの日本刀を、励ましの意味を込めて贈ったのだ。  そのとき健さんは、「日本刀は『守護と支持』を意味しています。言葉では何といっていいのかわからないけど、これが自分のあなたに対する気持ちです」とチャン・イーモウに語ったという。  長野県坂城町に「鉄の展示館」という施設がある。  県内でただひとりの人間国宝だった宮入行平刀匠が亡くなったとき、次男の小左衛門行平氏はその作品の多くを町に寄付して、父の刀を鑑賞できるようにした。それを受けて町が造った施設が「鉄の展示館」だ。  健さんと宮入小左衛門行平刀匠は日本刀をとおして深い交流があり、健さんの遺族が同町に、彼が所蔵していた刀剣類を寄贈した。寄贈品は安土桃山時代の名工堀川國廣作の脇差や、宮入小左衛門行平作の短刀など、刀剣類8点と刀掛け、日本刀専門書籍類だった。  同館では、健さんが亡くなった翌年の15年9月に「高倉健さんからの贈りもの(日本刀)」という展示会を開催、多くの人が詰めかけたという。  小左衛門行平氏は、「高倉さんは仕事の選択や人との関わりなど、“縁”をとても大切にしていたように見受けられた。毎年欠かしたことのない善光寺参りの道中でもあり、多少なりとも縁のあるこの地で遺愛の品の公開を喜んでくださっていると思う」と語る。  多数寄せられたリクエストに応えて、同館は16年4月にも「高倉健と宮入小左衛門行平の絆」展を開催している。映画の中では、「日本侠客伝」で初めて日本刀で悪親分を斬り捨てた健さんはその後、数え切れないほど人を殺めた。そのなかには、「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝」シリーズなど、健さん扮する橘真一、花田秀次郎ら主人公が、日本刀と寄り添うように描かれた名作も多い。  日本刀がもっとも似合うスターだった健さんの日本刀に対する思いのなかには、劇中で心ならずも日本刀(白鞘も多い)で斬り殺した悪役たちへの鎮魂の意味もあったのではないか。  そんな想念を抱かせる、「健さんと日本刀」なのである。 ※週刊朝日MOOK『武将の末裔 伝家の宝刀』より
朝日新聞出版の本歴史
dot. 2017/04/09 11:30
アニメ「けものフレンズ」の仕掛け人が語る大ヒットの秘訣
アニメ「けものフレンズ」の仕掛け人が語る大ヒットの秘訣
多くの「アニマルガール」が登場するけものフレンズ (c)けものフレンズプロジェクトA けものフレンズの魅力を語るプロデューサーの福原慶匡さん。アニメ制作会社ヤオヨロズの取締役でレコード会社つばさプラスの代表取締役なども務める(撮影・多田敏男)  今年、ネット上で話題をさらったアニメといえば「けものフレンズ」だ。テレビ東京の放送は終わったが、ブルーレイディスク(BD)付きの「オフィシャルガイドブック」が順次発売される予定だ。「あなたは◯◯なフレンズなんだね!」といった「けもフレ構文」も広まり、作品の勢いは衰えていない。けものフレンズを制作している会社「ヤオヨロズ」の取締役で、プロデューサーの福原慶匡(ふくはらよしただ)さん(36)に、作品のヒットの秘訣を聞いた。 ――テレビ放送ではファン同士が盛り上がっていました。  リアルタイムで放送を見ている人は、すぐにネットで感想を書き込んでくれました。昔僕たちも少年ジャンプなどが発売されるといち早く読んで、学校で話しました。人気ドラマやアニメもみんな見ていて、意見交換が当たり前のようにできていました。いまは作品の種類が増えたので、みんながいっしょに楽しめるものは、年にいくつかしか出てこなくなってしまいました。けものフレンズは皆さまのおかげでそのようなポジションの作品になれたので、ありがたかったです。 ――ブログやツイッターで、多くの人が感想を発信しています。  配信サイト「ニコニコ動画」では、コメントの書き込み数が増加。3月25日のニコニコ生放送「1話~11話振り返り一挙放送」では270万超と、アニメスペシャルとして過去最高となりました。ネットでは過去最高ともいえる盛り上がりになり、すごくうれしい。ファンが応援してくれた結果の数字です。たつき監督はニコニコ動画などに自主制作の作品を投稿した経験があり、動画を上げるとどんな反応があるのか、細かく把握しています。各カットの長さも、コメントを入れやすくしている。そうしたことが、みんなが集まる作品につながりました。音楽の分野もユーザーが使うメディアは、変わってきています。昔は最終調整するときは、大きなスピーカーで聴いていました。いまは、スマホのイヤホンで聴くこともあります。  アニメも同じで、スマホやパソコンなど視聴環境は変わってきています。そういう変化も踏まえて逆算し、つくっています。 ――作品では「トキ」など絶滅危惧種の目に輝き(ハイライト)を入れず差別化するなど、細部までこだわりが感じられます。  ぱっと見てもわからないでしょうが、キャラクターをまねて描こうとしたファンが気づいたのではないでしょうか。この子だけ目にハイライトがないと。これはたつき監督が言っていることですが、「100人に1人」ぐらいに気づかれるコントロールがちょうどいい。100人に1人が気づいてくれれば、ネットで残りの99人に知らせてくれるんです。「1000人に1人」だと最後まで気づかれないかもしれません。「2人に1人」だと自慢にならないでしょう。「100人に1人」を実現しているたつき監督の手法は、横から見ていて、今までの経験が物を言っていると思います。 ――けもフレ構文もはやっています。 「すごーい」などのフレーズは造語として面白いわけではなく、サーバルちゃんが独特の言い方でしゃべるところに魅力があります。たつき監督が音響監督らと苦心して、声優の尾崎由香さんに演出したたまものだと思います。  芝居の振れ幅の中で、アドリブを取り入れることもあります。アルパカ・スリがなまるのは、声優の藤井ゆきよさんアドリブでした。ライブ感を生かしたセリフが取れたら、絵の方を合わせていきます。 ――原作はないのでしょうか。「サンドスター」や「セルリアン」といった謎の存在が気になります。  お話としての原作はなくて、コンセプトデザインは「ケロロ軍曹」で有名な漫画家の吉崎観音さんです。背骨になるシリーズ構成は吉崎さんとたつき監督が話し合って、決めていきました。シナリオや演出などはたつき監督が担当しています。  登場する動物は、みんなの知識の壁を壊すことも狙って選んでいます。主人公はライオンやウサギというメジャーな設定もいいですが、サーバルが主人公だと「そんな動物もいるんだ」と視野が広がる。アルパカもアルパカ・スリと種類をあえて特定することで関心を持ってもらえる。  作品ではサーバルについて「ネコ目ネコ科ネコ属」と分類群も表示しています。フェネックは「ネコ目イヌ科キツネ属」で、ネコなのかイヌなのかわからないというコメントもありました。おやっと思って調べてみると、食肉目をネコ目に改めたという情報が得られるはずです。そういう知識を掘り下げることが好きなアニメファンもいるので、うまくつながった気がします。  謎は作品を見続けるモチベーションになります。現実世界でも宇宙の謎などがすべて解明されているわけではないですよね。作品では謎解きを重視している訳ではなくて、もともとのコンセプトは「癒やし」です。見続けることで、キャラクターを愛してくれればいい。  吉崎さんは幅広い世代に見られるものを目指しました。アニメでも、のんびり見られるゆるさが評価されていると思います。 ――一般的なアニメより、制作者が少ないことも特徴ですね。  ヤオヨロズは約10人と小規模ですが、できるだけ自分たちでつくっています。その分融通が利くので、後から「こうした方がいいよね」と作り直しやすい。ソフトウエア開発において短い間隔で修整しながら進めていくアジャイル方式です。一般的なアニメだと、この場面がダメだと思っても、予算や納入期限の関係で修整できないこともあり得ます。  たつき監督が周りを心配せずに、自由に決められる部分も大きい。僕がマンガの編集者で、たつき監督は漫画家といった感じです。  メインの声優さんも、フレッシュな人たちを中心に選びました。たつき監督のやり方を先入観で否定せず、一緒に頑張ってくれるチームをつくりたかったからです。 ――たつき監督の負担も大きいのでは。  少人数ゆえに体力面は大変ですが、心理的にはどうでしょうか。お金をもらってなくても自分で動画をつくる人なので、仕事と趣味の境目がわからないぐらいです。ずっとアニメのことばかり考え続けるのは、端から見るとすごいことですが、本人は好きなことをやっているだけかもしれません。  「プロのスポーツ選手になるには1日20時間練習が必要」と秘訣を言っても、実際にはみんなできないわけです。天才肌の人は、こうしたことが普通にできる。僕も仕事上、いろんな天才と呼ばれる人を見て来ましたが、たつき監督もその行動様式を持っています。アニメを作るのが本当に好きなんでしょうね。「努力」には嫌なことを我慢してやるニュアンスがある。語弊はありますが、努力をしていないのかもしれない。 ――アニメをきっかけに動物園に行く人が増えました。作品で飼育員さんが動物の生態などを説明する部分は、福原さんも取材したんですよね。  作っている立場だとキャラクターに愛情が湧いてくるので、動物に関心をもってくれるのはうれしい。お客さんが増えたとすれば、少しは役に立てたのかなと思います。  飼育員さんの説明を入れるのは、たつき監督からの提案でした。監督の意図を組んで取材するならまず僕がやるべきなので、直接聞きに行きました。  自分がやったことがない仕事について聞くのは面白かった。説明部分は30秒にまとめないといけないので、伝えられなかった内容もたくさんある。えさをやるために朝早く来て夜遅く帰るなど、みなさん頑張っていた。飼育している動物のことをまるで人間の友達のように「あの人は」なんてしゃべってくれました。  未確認生物のツチノコについては、岐阜県東白川村の「つちのこ館(やかた)」の館長なら実在を信じているのでお願いしました。お話ってみんなが没入することで魅力が高まるので、さましちゃいけないという気持ちがあるんです。ツチノコなんているわけないとなったら、見ていられない。魔法をかける仕事をやっているのに、自ら魔法を解いてはいけない。夢を見せる仕事としてのマナーですかね。  作品も完全なSFではなく、あえて動物園の実在の場所など、リアルもちょっと混ぜ込んでいます。僕らの現実の暮らしとアニメの世界が溶け合っている。きっと世界のどこかにジャパリパークがあると思ってもらえた方がいい。 ――最終回が放送されても人気は続いています。テレビアニメの第2期への期待も高まっていますが。  アニメは深く関わってくれるコアなファンが多い。ネットにはテレビの視聴率では計れない熱量がある。「視聴熱」がわかれば、かなりいい数字になったのではないでしょうか。  ファンがイラストや小説、コスプレなどに取り組む二次創作も広がっています。ルールを守って、放送後はみんなの心の中で続きを楽しんでもらえればいいと思います。 ――オフィシャルガイドブックも人気ですね。  3月25日発売の第1巻は、一部の書店などでは品切れになりました。ファンのお手元にいち早く届くよう増刷して対応しています。今後も1カ月に1冊のペースで第6巻まで発売する予定です。  通常のアニメではBDとして発売しますが、今回は書籍として出しています。そのため、ほかとの比較は難しいですが、冬に放送されたアニメの中では上位だと思います  書籍として出す戦略は、KADOKAWAさんが決めていました。アニメビジネスの構造が変化しているなか、新しい試みです。これまではBDやDVDの特典として、ブックレットがつくことが多かった。今回はブックレットの特典としてBDがついていて、主従関係が逆になっています。  僕は音楽の仕事もしています。音楽の分野では「握手券」といった特典が定着し、CDとの主従関係が変わっている側面もあります。音楽の分野はほかよりも、ワンテンポ早く変化が訪れます。そこで学んだことを、アニメに取り入れました。大きな流れとしては、「情報は無料で体験は有料」ということがあります。  音楽はネット配信でタダで聞く人が多くなりました。CDの売り上げは減るかもしれませんが、ネットを通じてライブに来てくれる人は増えています。  アニメでも声優さんのイベントや上映会など、ファンが同じ場を体験することで、盛り上がれるものがあるといい。 ――次の作品のご予定は?  新作の映像作品をつくることは、発表した通り決まっています。いまの段階で言えるのは、「僕もたつき監督もサーバルやかばんちゃんのこれからの映像をたくさん作りたいので、作品を応援してくれると嬉しい」ということです。 (取材/本誌・多田敏男) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2017/04/08 16:00
「介護離職」から「下流老人」とならないために! 知っておきたい3つの制度
「介護離職」から「下流老人」とならないために! 知っておきたい3つの制度
介護のためとはいえ離職しない方が得策?(※写真はイメージ)  親の介護のために長年勤めた会社を離職……。苦渋の選択ですが、介護をする本人の今後の生活を考えると、離職しない方が得策です。頼りになる「介護休業制度」「介護休暇」などの制度について、介護のプロ、白十字ホームの西岡修さんが著書『家族に介護が必要な人がいます 親の入院・介護のときに開く本』で教えてくれました。 *  *  *  総務省の「就業構造基本調査」によると働きながら親の介護をしている人で、最も多いのは50代で全体の約10%、次いで60代が約9%、40代が約4%です。働き盛りで、会社で重要なポジションを占めるこれらの年代の人々が介護離職をすると、本人だけでなく会社にとっても大きな損失となります。そのため、近年は介護離職を減らすために、福利厚生制度の充実や退職者の再雇用制度などを導入している企業も増えてきていますが、全体的に見るとまだまだ少ないのが現状です。  しかし、2012年度から「育児・介護休業法」が従業員100人以下の企業にも適用されるようになり、「介護休業制度」「介護休暇」「所定外労働の制限の制度」「所定労働時間短縮などの措置」「深夜作業の制限の制度」などを中小企業で働く人も利用できるようになりました。これらの制度を上手に活用して、仕事と介護を両立させられれば、介護離職のリスクも減らせます。 ■介護休業は介護の準備期間に  介護休業は、要介護状態にある家族1人につき通算で93日、3回を上限として取得できます。対象となる家族は、配偶者、父母、子、配偶者の父母、祖父母・兄弟姉妹および孫です。ただし、日々雇用者や雇用期間が1年未満の労働者、1週間の労働日が2日以下の労働者、93日以内に雇用期間が終了する労働者は、取得することができません。  休業できる期間は約3カ月ありますが、これでは少ないと感じる方もいるでしょう。しかし、介護休業を直接介護をするために充てるのではなく、仕事と介護を両立させるための準備期間と考えれば、十分な長さではないでしょうか。  介護保険の申請やケアプランの作成・検討、施設への入所や各種サービスの手続き、家屋のバリアフリー化など、なるべく安心できる介護生活をスタートさせるにはさまざまな面で入念な準備が必要です。1~2カ月間、しっかり介護休業をとって家族や医師、介護スタッフの協力のもとで万全の体制を整えておけば、その後の介護生活が双方にとって充実したものになります。なお、介護休業は開始予定日の2週間前までに、事業主に書面で申請する必要があります。事業主が適当と認めた場合は、ファクスや電子メールでの申請も可能です。 ■緊急時の対応は介護休暇を利用  介護休業はまとまった休みが取れますが、事前の申請が必要なので急病やケガなどの緊急時には対応しきれません。こんな時には「介護休暇」を利用するといいでしょう。  介護休暇は、要介護状態にある家族1人につき1年に5日、2人以上の場合は10日まで取得できます。当日に口頭で申請できるほか、半日単位(所定労働時間の2分の1)での取得が可能です。対象となる家族は介護休業と同じですが、日々雇用者や雇用期間が6カ月未満の労働者、1週間の労働日が2日以下の労働者は取得できません。  なお、介護休暇は、有給休暇とは別に取得することができます。どちらも働く人の当然の権利なので、うまく組み合わせて活用しましょう。 ■勤務時間を調節する  各種サービスを適切に選び、介護休業や介護休暇をうまく使えば仕事と介護の両立はかなり楽になるでしょう。しかし、介護生活は長期戦です。介護の体制が固まって、ある程度の見通しが立ったら、勤務時間を見直して調節することも大切です。  育児・介護休業法では、要介護状態にある家族を介護する労働者に対して所定労働時間短縮などの措置をとることが義務づけられています。具体的には、(1)所定労働時間、つまり勤務時間の短縮、(2)フレックスタイム制度、(3)始業・就業時間の繰り上げ・繰り下げ、(4)労働者が利用する介護サービス費用の助成またはそれに準ずる制度のいずれかの措置をとることが義務づけられています。  これらによって捻出した時間を、デイサービス・デイケア・病院への送迎、あるいはかかりつけ医、ケアマネージャー・ヘルパーさんなど介護スタッフとの相談などに充てれば、精神的・身体的な負担もかなり軽減されることでしょう。  また、所定外労働の制限の制度では、労働者が介護のために請求した場合、対象家族1人につき介護の必要がなくなるまで残業の免除が受けられます。さらに、深夜作業の制限の制度では、申請すれば午後10時~午前5時の深夜労働も免除されます。これらの制度は、いずれも企業が守るべき最低限の基準を定めたものですが、場合によっては、よりよい休業・休暇制度を設けている事業所もあります。まずは就業規則を確認してみましょう。また、休業や休暇に関する内容が就業規則にない場合でも申請すれば利用できますので、上司や担当部署に相談してみましょう。 ■職場の理解を得ることも大切  ここまで紹介したさまざまな制度は、いずれも法律で定められたものなので、利用することに躊躇する必要はありません。ただし、これらを最大限に活用するには職場の理解を得ることも重要です。「親や配偶者が要介護状態であることを人に知られたくない」「職場のみんなが頑張っている時に自分だけプライベートで休むのは申し訳ない」と思うのも無理はありませんが、自分が介護する生活を送っていることをきちんと伝えずに介護休暇をとったり、勤務時間の繰り上げ・繰り下げをしたりすると、同僚や部下、得意先からの信頼を失うことにもなりかねません。復帰後の勤務状況に悪影響を及ぼすこともあるでしょう。  とくに、介護休業制度を利用する場合は、長期間休むことになるので自分の都合だけで決めるようなことは避け、まずは職場の上司に相談しましょう。介護休業は労働者の権利ですが、職場から1人少なくなることで、周囲の負担が増大することも忘れてはなりません。この場合も「介護」と「仕事」の二者択一で考えるのではなく、双方がウィン・ウィンになることを目指すべきです。譲歩できることとできないことを明確にしたうえで、休業を始める時期や期間、業務の引き継ぎ、復帰後の勤務形態などをしっかり話し合って決めましょう。また、上司との相談が済んだら同僚や部下、場合によっては得意先にもきちんと伝えましょう。  前に介護はチーム体制を築くことが大切だといいましたが、仕事についても同じです。そもそも、仕事こそチーム体制で行うべきもので、1人で悩んでいると能率が下がり、やがて職場全体に影響してきます。世間では、高齢化や介護をめぐる問題は特別なことではないという認識が広まりつつあります。介護生活のスタートが決まったらなるべく早い段階で報告し、今後、迷惑をかけることを伝えておけば、周囲からの理解や同意も得やすくなるし、思わぬトラブルが起きた時でも快く協力してくれることでしょう。 西岡修(にしおか・おさむ) 社会福祉法人白十字会白十字ホーム・ホーム長。1978年大正大学卒業後、白十字ホームに生活指導員(現生活相談員)として就職。1995年白十字ホーム副ホーム長。2001年から現職。東京都高齢者福祉施設協議会会長。大正大学非常勤講師。NPO法人YWCAヒューマンサービスサポートセンター理事
シニア介護を考える朝日新聞出版の本終活
dot. 2017/04/08 07:00
3大鉄道博物館の世界に大人も途中下車
野村昌二 野村昌二 塩見圭 塩見圭
3大鉄道博物館の世界に大人も途中下車
上から、鉄道博物館、リニア・鉄道館、京都鉄道博物館。本州のJR3社が手がける、鉄道博物館。ワクワクする世界が広がる  本州のJR3社に昨春、鉄道博物館がそろい踏みした。東日本は0系、東海はリニア、西日本は動くSL。それぞれの個性が競い合い、鉄道の魅力を発信する。  黒光りする巨大な蒸気機関車(SL)、ブルートレイン、大正時代に製造された通勤型電車。1階の「ヒストリーゾーン」に足を踏み入れると、全国各地で活躍した電車や列車など36両が目に飛び込んでくる。ゾーンの奥には、「団子っ鼻」の愛称で親しまれた0系新幹線があった。 「ポーーー!!」  正午、C57形SLの汽笛が館内に響き渡ると、子どもたちから歓声が上がった。ヒストリーゾーン中央の転車台に載った、その流麗なSLはかつて「貴婦人」と呼ばれていた。  JR東日本の「鉄道博物館」。2007年10月、同社の創立20周年記念事業のメインプロジェクトとして、鉄道の街、大宮駅にほど近いさいたま市大宮区にオープン。年間の来館者数は約80万人にもなり、「鉄博」の愛称も定着した。 ●10周年でリニューアル  館内には、往年の名列車以外にも、国内最大級の鉄道模型のジオラマ、世界で初めて導入することになったSLのシミュレーターと、まさに鉄道ワンダーランド。この鉄博で今、開業10周年を記念して、来年夏を目指したリニューアル作業が進む。  同館の大信田尚樹(おおしだまさき)館長は言う。 「従来の鉄道博物館は、車両展示が主体でした。リニューアル後は、鉄道が多くのサービスと技術の集合体で成り立っていることをお見せする博物館として生まれ変わりたい」  改装第1弾として3月18日にお目見えしたのが「DD13形式ディーゼル機関車」。かつて操車場や駅で列車の入れ替え作業に使われた。日本のディーゼル機関車の発達の礎を築いた名機関車の一つだ。今後、ヒストリーゾーンは「車両ステーション」に名前を変える。鉄道を楽しく学べたラーニングゾーンは4月27日、科学の視点から鉄道を学べる「科学ステーション」に生まれ変わる。  改装後の目玉の一つが、本館2階のジオラマだ。7月半ばの完成を目指し、作業が佳境に。  プロジェクトを担当する、同館の岩見隆則さんは胸を張る。 「以前あったジオラマを解体して、新しいコンセプトで作り直しています」  幅25メートル、奥行き約9メートル。広さは改装前とほぼ同じだが、これまで以上にリアリティーを追求。周回する新幹線や在来線など計15路線のレールの総延長は1200メートル。そこを、車両をつないだり離したりする「分割併合」する新幹線や、充電して走る蓄電池車も走る。それまで客席とジオラマを仕切っていたガラスを取り払い、臨場感も出す。レール側面をサビ色に塗装し草むした感を出す工夫も。  18年夏には、本館に隣接した新館が完成する。地上4階で延べ床面積は約6千平方メートル。鉄道の様々な職種を紹介する「仕事ステーション」、鉄道技術の移り変わりを紹介する「歴史ステーション」、30年後の鉄道を想像する「未来ステーション」の、三つのステーションで構成される。 「新館の4階はフードコート。走る本物の新幹線をちょっと下に見おろしながら、食事を楽しめます」(岩見さん)  同館で出色なのは、収蔵された鉄道に関する品々。その数、約67万点と群を抜く。小は乗車券から大は車両まで。勝海舟が墨で描いたとされる蒸気機関車の絵や、大隈重信から伊藤博文に宛てた文書を含む鉄道古文書(国指定重要文化財)といった貴重な史料も少なくない。  学芸員の香月(かつき)良太さんが言う。 「博物館として大切なことは、鉄道の歴史や人々の暮らし、技術の発展、変遷をみなさまにお伝えすることが一つ。もう一つが、それを50年、100年と、後世まで語り継いでいくことだと思います」 ●スピードにこだわり  名古屋駅からあおなみ線で約25分、話題の「レゴランド・ジャパン」の近くに、JR東海の鉄道博物館「リニア・鉄道館」はある。名古屋市の金城埠頭開発計画に参画し、11年にオープンした。毎年約50万人が訪れる。  お目当てはなんといっても高速車両の展示。エントランスを入るとすぐ、光を落とした展示空間の中で三つの車両が浮かび上がる。蒸気機関車、新幹線試験電車、そして超電導リニア。それぞれの時代で世界最高速度を記録した実物のスピードランナーたちだ。  この「シンボル展示室」にある蒸気機関車は、1954年に時速129キロを出した「C62形式」。もともと木曽川橋梁の強度を測るために試験で走らせたものだったが、そこで狭軌の蒸気機関車による世界最高速度を出した。「超電導リニアMLX01-1」は、95年製造のもの。03年に山梨リニア実験線(山梨県)で当時の世界最高速度581キロを出した。近未来的な長いノーズには「座らないでください」という注意プレートも。時代に求められて最先端を走った「本物」には、鉄道ファンでなくても心が震える。 ●見たら幸せになる黄色  この3両に続いて歓声が聞こえるのは、歴代の新幹線や在来線など39両が並ぶ車両展示室だ。2階のデッキから眺めると、先頭部をずらしてV字になるようにレイアウトされている。0系新幹線の食堂車、大正時代から昭和18年まで関西本線で使用された「ホジ6005形式蒸気動車」など、レアな車両も多い。この展示は車内見学や写真撮影がしやすいと好評だ。  車両の一部は船で運ばれ、すぐ裏の港から館内まで敷いたレール上をゴロゴロ入ってきたそう。圧巻の車両群の中でも目立っていたのは黄色い新幹線、通称「ドクターイエロー」。 「この中で一つだけ違う使命を帯びていますからね」  そう語るリニア・鉄道館副長、西田良和さんの思いも熱い。実際の新幹線の速度で走行しながら、架線や信号の検査・測定をする事業用新幹線だからだ。 「どうも90年前後の論文で『ドクターイエロー』という名の記述が見られ始めたようです。新幹線の設備を見るお医者さんなので抜群の表現。この車両が安全を守っているんです」  夜間でも視認性が高い黄色の車体で、今も700系をベースにした「ドクターイエロー」が10日に一度ほど昼夜を走る。「見たら幸せになれる」なんて都市伝説もあり、子どもたちにも人気だ。ここでは0系ベースのかわいい子が常時見られる。9月までは「ドクターイエローの軌跡」展も開催中だ。 「現在、車輪で走行しております。まもなく超電導リニアが浮上いたします」 「超電導リニア展示室」のミニシアターでは、山梨リニア実験線をイメージしたCG映像を使った走行体験が始まった。かすかな振動の変化で、飛行機が飛び立つときのような、車輪が車体に格納される感覚がわかる。最高時速500キロで走るトンネルの中の車窓は、照明の明かりが線のように流れ、まるでドラえもんに出てくる「タイムマシン」のようだった。 ●あの名CMを再現  日本最大級を誇るジオラマに、2027年開業予定のリニア中央新幹線「名古屋駅」が早くも登場した。このジオラマは開館当初から力を入れてきたもので、約220平方メートルに東海道新幹線16両フル編成など、450車両70編成を保有し、走らせている。リニア実験線を含め、東京から新大阪までを表現したレール総延長は約1千メートル。名古屋駅に次々と発着する新幹線のダイヤはデジタル運行システムならではのリアルさがある。ガラスで遮られていないので、精密な情景をマクロで撮影できるのも楽しい。  ちなみに、最近仲間入りした隠れキャラは、リニア名古屋駅のホームで待つ「牧瀬里穂」。かつて放映された「クリスマス・エクスプレス」のCMを新駅で再現したそうだ。 ●動くSLに興奮  昨年4月29日、日本でもっとも新しい鉄道博物館「京都鉄道博物館」がグランドオープンした。延べ床面積3万平方メートル、車両は53両と、いずれも国内最大。元々この地にあった「梅小路蒸気機関車館」と、大阪・弁天町にあった「交通科学博物館」を一体化して開業した。  京都鉄道博物館総務課の上田和季さんは言う。 「鉄道ファンをはじめ、家族で楽しく学んでいただける、地域に根差した博物館を目指しています」  館内には初代新幹線「0系」をはじめ、寝台特急ブルートレインの食堂車、豪華寝台列車「トワイライトエクスプレス」など、鉄道史に輝くスターが勢ぞろい。本館2階には鉄道の運転士のお仕事を体験できる運転シミュレーターや、国内最大級の鉄道ジオラマが広がる。  圧巻は、何といっても「扇形車庫」(国の重要文化財)に並ぶSL。転車台の奥におよそ20両のSLがこちらをにらむようにズラリと並んで壮観だ。  梅小路運転区総括助役の長澤浩一さんは言う。 「SLの検査修繕には熟練の技が必要。技術の伝承にも力を入れ、今は若い人も育っています。16人いる作業員のうち5人は30代です」  検査修繕は、同館のオープンより少し前に完成した検修庫「SL第2検修庫」で行っている。そこでは「デゴイチ」の愛称で知られるD51形の本線復帰を目指し定期検査の真っ最中。今年4月頃には作業を終え、走行試験の後、本線運転を復活するという。入館者の多くは家族連れだが、若いカップルの姿も。この「鉄の聖地」は、3月4日に来館者数130万人を突破した。初年度は120万人の来館を見込んでいたが、当初の予想を上回るペースだ。  しかし、「博物館として真価を問われるのは2年目です」(同館)と先行きを楽観していない。まったく同じ内容だったら必ず飽きられてしまうからだ。同館では1周年を記念し、様々なイベントを仕掛けていく。SL第2検修庫一般初公開(4月29、30日)をはじめ、500系新幹線の車内初公開(~4月9日および4月の土・日・祝日)、駅弁大会(5月3、4日)など、毎週末何らかのイベントを開催する。  上田さんは言う。 「日本の歴史における鉄道がどのような役割を果たしたのか学んでいただきたい。だけど、個人的には、『楽しかった』『また行きたいねえ』と思っていただければうれしいです」  同館に入社して2年。大学院でバイオテクノロジーを学び将来は研究者になろうと思っていたが、SL好きが高じて、同館に来たという変わり種だ。 「機械の塊が力強く走る姿が好きです」  そう熱く語る。  鉄道を愛する気持ちと遺産を後世に伝える使命──。鉄道博物館で働く職員一人ひとりの思いが、宝箱のような空間を作り上げていく。 (編集部・野村昌二、塩見圭) ※AERA 2017年4月10日号
鉄道
AERA 2017/04/06 11:30
漫画「カレチ」が描く国鉄職員の世界
福井洋平 福井洋平
漫画「カレチ」が描く国鉄職員の世界
坂本衛(さかもと・まもる)/中学卒業後、町工場を経て国鉄入社。旅客規則を丸暗記するなど猛勉強し、倍率10~15倍の車掌試験に合格(撮影/楠本涼)  国鉄が解体し、7社のJRが発足して30年。株式上場を機に、脱テツドウにシフトする会社があれば、お先真っ暗な未来にアタマを抱える会社あり。現在のリストラなど働く人たちの労働環境悪化は、国鉄解体に原点があるとの指摘も。「電車の進化」などさまざまな切り口で30年を検証していく。AERA4月10日号では「国鉄とJR」を大特集。  国鉄へのバッシングがピークだった時代、そこで働く国鉄職員たちは、いったい、どんな思いでいたのか。昭和の鉄道マンを題材にした漫画「カレチ」を手掛けた池田邦彦さんや、「カルチ」のモデルにもなった元国鉄職員の坂本衛さんに、当時の思い出を振り返ってもらった。 *  *  *  最盛期(1965年)には46万人の職員を抱えていた国鉄。田舎の小さな駅にも駅長がいて、貨物列車の車掌や踏切警手など今は失われた職場が多くあった。  漫画家の池田邦彦さん(51)は『カレチ』で長距離列車に乗務する客扱専務車掌、通称「カレチ」を主人公に様々な国鉄職員のエピソードを描いた。「国鉄末期は、未熟な職員がフレームアップされすぎている」と池田さん。子どもの時、東京・目白駅で山手貨物線を眺めていると駅の助役が感慨深げに「鉄道好きか?そうか、鉄道好きか」と声をかけてきた光景が忘れられない。 「当時は国鉄職員へのバッシングがピークだった。鉄道好きの子どもの存在が救いだったんじゃないでしょうか」(池田さん) 『カレチ』のモデルの一人が、『昭和の車掌奮闘記』(交通新聞社)などを書いた坂本衛さん(82)だ。大阪車掌区に所属し、大阪~青森間などの長距離列車に搭乗した。 「不正乗車や料金収受漏れがないようにと必死でした。客に絡まれたりもしましたが、他の客が見ている前で下手に妥協もできない。止まるべき駅を飛ばさないようにも気を使いました」  雪で動かない列車の客のために近くの旅館に炊き出しを頼み、それが来る前に発車を命じた指令に「文句があるなら出てきなはれ」とケンカも。「こんな面白い仕事はない」と打ち込んだ坂本さんだが、民営化を機に退職。国鉄マンの働きが悪く、経営を傾けたとの見方に異を唱える。 「一昼夜働いて昼間帰るシフトが多く、『いつも昼間に見るけどいつ働いているんですか』と勘違いされた。そんな積み重ねが悪いイメージにつながった」 (編集部・福井洋平) ※AERA 2017年4月10日号
鉄道
AERA 2017/04/06 07:00
国鉄の解体はリストラの原点だ
野村昌二 野村昌二
国鉄の解体はリストラの原点だ
国鉄解体前夜、いったい何があったのか(※写真はイメージ)  国鉄が解体し、7社のJRが発足して30年。株式上場を機に、脱テツドウにシフトする会社があれば、お先真っ暗な未来にアタマを抱える会社あり。現在のリストラなど働く人たちの労働環境悪化は、国鉄解体に原点があるとの指摘も。「電車の進化」などさまざまな切り口で30年を検証していく。AERA4月10日号では「国鉄とJR」を大特集。  国鉄解体前夜、何があったのか。国鉄OBたちの証言をもとに、鉄道員の人生を翻弄したその実態に迫る。 *  *  *  国鉄という組織ほど、政治に翻弄(ほんろう)された公営企業はなかった。  戦前は鉄道省に属し、終戦直前に新設の運輸省鉄道総局に移管された国鉄。1949年6月に公共企業体としてスタートし、高度経済成長で輸送力を飛躍的に伸ばした。だが、自動車と航空機の時代の到来で、64年には赤字に転落。借金漬けの構造から抜け出せぬまま、問題を先送りするだけの再建計画が繰り返し作られた。組織内の危機感は薄かった。  国鉄当局は70年、生産性向上運動、いわゆる「マル生運動」を導入する。労使が協調し経営を立て直すものだったが、当局側が現場管理職を通じ、組合脱退を強要していた事実が明るみに出る。翌71年10月、磯崎叡総裁(当時)が不当労働行為を認めて陳謝すると、現場の力関係は組合側に大きく傾いた。  国鉄時代、東京南鉄道管理局人事課に勤めていた丸山祐樹さん(70)=交通道徳協会理事=は、連日のように各労働組合と団体交渉をしていたと振り返る。 「徹夜交渉はしょっちゅう。やるかやられるかの世界でした」 ●闘う労組は国労だけ  当時国鉄には、主要組合として国鉄労働組合(国労、組合員約24万人)、国鉄動力車労働組合(動労、約4万3千人)、鉄道労働組合(鉄労、約4万3千人)の三つがあった。このうち国労と動労は総評(社会党)系で分割民営化に反対、鉄労は同盟(民社党)系で労使協調路線。しかし86年1月、「鬼の動労」の異名をとった動労が突然、雇用確保と組織温存のため民営化賛成へと方針を転換。動労は「牙が抜けた」と評され、「闘う組合」は、国労だけとなった。反対姿勢を貫く国労によって、職場の規律は崩壊した。首都圏の貨物職場で働いていた国鉄OB(60代)は言う。 「70年代半ばごろにはトラック輸送に押され貨物の仕事が減ってきました。半面、勤務時間内の作業手待ち時間が増えてきたので、国労の職員たちが何を始めたかというと、チンチロリンとかマージャン。お金はもちろん賭けていた」  国鉄で在来線の運転士をしていたJR職員(50代)も、勤務時間中に飲酒をしていた運転士を目撃している。たがが外れ、現場に悪慣行がはびこっていた。この点について、現在も約1万人の組合員を抱える国労はこうコメントを寄せた。 「中には『好ましからざる行為』を行っていた職員もいたことは事実です。しかし、一部国鉄職員の行為があたかも国鉄職員全体の行為であるかのように恣意的にゆがめられ、悪意に満ちた喧伝や報道が行われたことが異常でした」(国労本部書記長の唐澤武臣さん) ●クビ切りは組合で選ぶ  そこに国鉄の不祥事が追い打ちをかけた。ヤミ手当の受給に、機関士の酒気帯び運転……。マスコミは国鉄の批判キャンペーンを展開。分割民営化に世論もなびいた。一方、国鉄では毎年1兆円の赤字が出て、出血が止まらない。こうして国鉄はついに解体されることになった。  誰を国鉄に残し、誰に転職を促すか──。国鉄内で「選別」が始まり、水面下で「リスト」作りが行われた。  民営化前、関西で列車乗務の仕事をしていた男性は、「50歳以上は会社を辞めてほしい」と圧力をかけられた、と振り返る。彼は辞め、残った同僚もすぐにJRを去った。最近、その理由を教えてくれたという。 「乗務が終わって職場に戻ったら、上司になった後輩から『ぼちぼち辞めたらどうや』と毎日言われる。みじめやった、と振り返っていました」  国鉄の内部事情に詳しい国鉄OB(60代)はこう証言した。 「社員を選別する際、その一つにどの労働組合に所属しているかが重要な要素だった」  このOBによれば、管理部門の人事担当には「K、D、T」という隠語があったという。Kは国労、Dは動労、Tは鉄労の意。隠語は元々、駅長や助役など現場責任者や管理者が使っていた。組合への直接介入は、不当労働行為に当たるからだ。声に出して言えない時は、指で“影絵のキツネ”を作った。逆にすると「K」に見えた。 「分割民営化の1年くらい前から『〇〇はKだ』『△△はDだ』という言葉が人事担当者間で露骨に飛び交ってた。なぜ労働組合で選別するかって? それが一番分かりやすいからですよ」  また別の国鉄OB(70代)はこう言った。 「優秀な社員と組合運動ばかりしている人だったら、どっちを残しますか」 ●総評つぶしが狙い  国鉄改革は、何のための「改革」だったのか。首相として国鉄改革に政治生命をかけた中曽根康弘氏は、国鉄解体の狙いをかつて本誌でこう語った。 「総評を崩壊させようと思ったからね。国労が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に意識してやったわけです」(96年12月30日号)  ルポライターで、86年に『国鉄処分』の著書を出した鎌田慧さん(78)は、国鉄解体の本質は(1)民活(民間活力)(2)国労つぶし──この2点にあったと指摘する。 「『民活』という名で公共性をなくし、大企業が国鉄財産を乗っ取ることを考えた。そのためには、国労という最強の抵抗勢力であった労働組合が邪魔だった。そこで楔を打ち込み、壊滅を図ったのです」  国鉄当局は86年7月、全国に「人材活用センター」を設置。余剰人員と見なされた1万5千人の職員を送り込むと、草刈りやペンキ塗りなど本業とは関係のない仕事をさせた。センターは「首切りセンター」とも呼ばれ、将来への不安を抱いた職員が何人も自殺した。JRが発足すると、7628人を「清算事業団」に回し、3年後、最後までJR復帰を訴えた1047人のクビを切った。うち、国労組合員は966人を占めた。  北海道名寄市の佐久間誠さん(62)は、JRに不採用となりクビを切られた一人だ。 「自分を全否定された気がしました」  地元の高校を出て19歳で国鉄に入社、名寄保線区に配属となった。当時、鉄道の街と言われた名寄駅には140人近い職員がいた。全員が国労。佐久間さんも自然の成り行きで国労に入り、仕事を真面目にこなし、ごく普通の組合運動をしてきた。それが、理由も明らかにされず、86年7月に「人材活用センター」に入れられ、結局、採用拒否にあった。 ●労働者の人権を軽視  どうしても不採用に納得がいかず、90年4月、同じくクビになった職場の仲間36人で名寄闘争団を組織した。慣れない建設現場で日雇いアルバイトなどをしながら生計を立てた。闘争団は各自の稼ぎや寄せられたカンパをプールし、再分配する仕組みを作った。月収は10万円程度。4歳と2歳の2人の子どもがいて生活は大変だったが、郵便局で働く妻が応援してくれた。 「こいつら赤旗を立てると言われ、アルバイト先を探すのも大変でした。この先どう生きていこうか、精神的に追い込まれていきました」  それでも歯を食いしばって最後まで頑張れたのは、いわれなき差別に対する闘いでもあったからだ。JR不採用問題は2011年7月、国労が闘争終結を決定し、24年間に及んだ闘争に終止符を打った。15年に名寄市議に初当選し、街の活性化と生活インフラの充実を訴える佐久間さんは、こう振り返った。 「失ったものは歳月だよね。労働者として一番の働き盛りに闘争の人生を歩んできたから」  先の鎌田さんは言う。 「国鉄解体は、いまのリストラの原点。国鉄解体後、組合の力は弱くなり、働く者の生活や人権が顧みられなくなった。その結果、労働者のクビ切りが簡単に行われるようになった」  鉄道員の人生をもてあそび、多くの犠牲から生まれたJR。今後どのような軌跡を描くのか。 (編集部・野村昌二) ※AERA 2017年4月10日号
鉄道
AERA 2017/04/05 16:00
五月みどり、野際陽子、八千草薫…「最高の女優たち」が若き日を振り返る!
五月みどり、野際陽子、八千草薫…「最高の女優たち」が若き日を振り返る!
"五月みどり(さつき・みどり)/東京都生まれ。幼少期から日本舞踊、三味線に親しみ、1958年歌手デビュー。61年、「おひまなら来てね」が大ヒット。女優としても倉本聰脚本のドラマ「昨日、悲別で」等に出演し高い評価を得る(写真/写真集『平凡プレミアムselection―今も輝き続ける女優たち 8人の女』から)" "野際陽子(のぎわ・ようこ)/富山県生まれ。立教大学卒業後、1958年NHKにアナウンサーとして入局。62年退局後は司会や女優として活躍。「キイハンター」「長男の嫁」「トリック」など、人気ドラマに多数出演する(写真/写真集『平凡プレミアムselection―今も輝き続ける女優たち 8人の女』から)" "八千草薫(やちぐさ・かおる)/大阪府生まれ。1947年に宝塚歌劇団入団。在団中から映画「宮本武蔵」のお通役などで評判を呼ぶ。退団後、多くの作品に出演。97年紫綬褒章、2003年旭日小綬章受章(写真/写真集『平凡プレミアムselection―今も輝き続ける女優たち 8人の女』から)"  倉本聰が「いま実現可能な、最高の女優陣」を集めたと話題になっている新作ドラマ「やすらぎの郷」。五月みどり、野際陽子、八千草薫──今も昔も美しい女優たちの若き日の姿を、本人たちが語る思い出と共にお届けする第2弾! ■五月みどり 「ハイヒール」が若さの秘密  これは、映画「銀座の次郎長」(1963年)を撮影していた時かしら。レコード「一週間に十日来い」もヒットしていたので、毎日のように、こうしたグラビア撮影がありました。  この頃は、今のようにスタイリストさんはいませんでしたから、水着も花飾りの帽子も、自分で用意しました。  私、見ていて楽しくなるような、洋服や靴や雑貨なんかを集めるのが好き。こうして今でもお仕事できるくらい健康でいられるのは、おしゃれに興味というか、好奇心があるからかもしれません。  この前、下駄箱を整理していたら、私の持っている靴、ほとんどがハイヒールだったの。ハイヒールを履いていると、緊張するというか、自然と姿勢が良くなるでしょう。お洋服だって、靴に合わせるから、だらしない格好はできない。そういうことを意識することが、老けこまない秘訣なんじゃないかしら。 ■野際陽子 60代、70代は“なかなか”な年代  1963年頃ということはNHK退局後に、TBSで「女性専科」の司会をしていた頃ですね。ご存じない方もいるかと思いますが、私、最初は今でいう女子アナだったんです。でも、あまり優秀ではなかった(笑)。ニュース原稿を読み間違えたり、時間ギリギリにスタジオに入って汗だくでカメラの前に立って、視聴者から「あの人は具合が悪そうだった。大丈夫ですか」って心配されたり。  でも、充実していましたね。恋も失恋もしました。  その頃から今まで、女優としてやってこられたのは、健康法や美容法で、「これいい」と思ったら、割合素直にすぐやってみたのがよかったのかしら。自分なりに「これは効き目がある、こっちはそうでもない」とか考えるのが、好きなんです。  私は今、80代ですが、60代、70代は人生の中でもなかなか素敵な年代ですよ。人生を思いきり楽しんでください。 ■八千草 薫 毎日スタジオの隅で泣いていました  まだ宝塚歌劇団の娘役だった1955年頃かしら。あんまり覚えていないけれど、こういうモデルさんのようなこともしていたんですね。  この頃は、宝塚の舞台と、東京の劇場や映画スタジオとの往復で、毎日クタクタでした。当時は、新幹線も飛行機もないから、大阪から東京への移動は夜行列車で8時間半もかかって。そんな生活が悲しくて、毎日のようにスタジオの隅で泣いていました。でもそれが当たり前。  一般的には女優って、きれいな服を着て台詞を言うだけで、あまり動かないように思われていますが(笑)、昔は掃除や手伝いで動き回るのが普通で、私も子供の頃、雑巾で家の廊下を端から端まで拭いていました。今もなるべく家の中のことは、自分でするようにしています。  今でも動ける体でいられる理由は、それかもしれません。 ※週刊朝日 2017年4月7日号
週刊朝日 2017/04/04 11:30
コーヒーで眠気をとばすとヤバイ これだけの理由
コーヒーで眠気をとばすとヤバイ これだけの理由
 全米で話題沸騰中の21の睡眠メソッドを集約した、『SLEEP 最高の脳と身体をつくる睡眠の技術』。食事、ベッド、寝る姿勢、パジャマ――。どんな疲れも超回復し、脳のパフォーマンスを最大化する「睡眠の技術」に注目です! ●「コーヒーを飲むと眠れなくなる」は本当  カフェインは神経系に強い影響を与える刺激物だ。神経系がクリスマスツリーのように点灯すれば、上質な睡眠はとても得られない。とはいえ、コーヒーを好む人はとても多い。  学術誌『ジャーナル・オブ・クリニカル・スリープ・メディスン』に、カフェインが睡眠に及ぼす影響についての重大な見解が掲載されていた。 「仕事を終えた帰り道にマグカップ1杯のコーヒーを飲むと、睡眠に悪影響が生まれ、その影響力は寝る前にカフェインを摂取する場合と同等と思われる」  その実験では、複数の被験者に異なるタイミング(寝る間際、寝る3時間前、寝る6時間前)でカフェインを摂取させた。すると、全員の睡眠が大幅に阻害されたことがはっきりと数値に表れたという。要するに、寝る直前はおろか、寝る6時間前であっても、カフェインを含むコーヒーやお茶を飲めば睡眠が阻害されることが明らかになったのだ。  寝不足の悪循環は、まさにこのようにして始まる。カフェインのせいで十分な睡眠がとれなければ、目覚めても疲れがとれていない。疲れがとれていなければ、これまで以上にカフェインが欲しくなる。カフェインの量を増やせば、睡眠の質と量はさらに悪化する、というわけだ。  カフェインには二つの特徴がある。一つは、コーヒーや紅茶、チョコレートなど、カフェインが含まれているものは総じて美味しいこと。そしてもう一つは、人体との親和性が高いことだ。カフェインを摂取すると、身体も心も状態が上向きになる。だからこそ、中毒性があるのだ。 ●カフェインはエネルギーにならない  一方、多くの人が誤解しているようだが、カフェインがエネルギーになることはない。目覚めているあいだじゅう、脳細胞は活発に動いている。その結果、「アデノシン」と呼ばれる副産物が生まれる。アデノシンを単なる老廃物だと思ってはいけない。脳は絶えずアデノシンの増減に目を光らせている。というのは、脳と脊髄にあるアデノシンとその受容体の結合が一定レベルに達すると、とたんに身体が眠気を催すのだ(眠気とまでいかなくても、リラックスした気分になる)。そこへカフェインがやってくるとどうなるか。  カフェインには、アデノシンの受容体と結合できるという特異な性質がある。これは、カフェインとアデノシンの構造がよく似ているからだ。普通なら、受容体の周りは本物のアデノシンでいっぱいなので、身体は休息モードに移行する。しかし、そこへカフェインがやってくると、いつまでたっても帰らない親戚のように居座る。カフェインはアデノシンではないので、疲れを感じさせる作用は起きない。その結果、脳と身体の細胞は活動を続け、本当は眠いのにそうと気づかない。  脳や身体が目覚めている状態で活動を続ければ、アデノシンはどんどん生成される。だが、カフェインが居座っている限り、アデノシンは正常に代謝できない。そうすると、体内の働きも変わらざるをえなくなり、神経系内でストレスホルモンが増大する。脳や臓器は休息や回復の指示を正しくもらえず、働き過ぎてしまう。  カフェインの影響力は長く続くので、完全になくなるのに数日かかることもある。人体でのカフェインの半減期は5~8時間だと言われている(個人の体質による)。「半減期」とは基本的に、一定時間(例:8時間)が過ぎた後でもまだその半分の量が体内で活動しているという意味だ。  たとえば、体内におけるカフェインの半減期が8時間だとしよう。その場合、200ミリグラムのカフェイン(普通のコーヒー1、2杯ぶんに相当)を摂取したら、8時間後もその半分(100ミリグラム)は体内に影響を及ぼすことになる。さらに8時間後でも50ミリグラム、さらに8時間後でも25ミリグラムが体内で作用する。寝る6時間前に摂取したカフェインですら睡眠を阻害した理由はこれにあったのだ。 ●コーヒーと上手に付き合う方法  カフェインは身体に強い影響を与える刺激物であり、元気の源として大事に扱えば、ちゃんとそうなってくれる。ただし、カフェインの恩恵に最大限あずかりたいなら、体内に残留しない頻度で摂取するよう身体を慣らす必要がある。ここからは、カフェインを味方につける方法に話を移そう。 ・コーヒーは午後2時まで  カフェインを身体に入れる「門限」を決めよう。寝るときは、体内からカフェインがほぼなくなった状態でないといけない。お勧めの時間は午後2時。カフェインに敏感な人はもっと早くてもいい。心配なら、カフェインは一切とらないほうが賢明かもしれない。 ・午前中のカフェインは身体のリズムを整える  カフェインによって分泌される睡眠阻害ホルモン――コルチゾールは日中の生体リズムを整えるうえで重要な役割を果たすこともある。コルチゾールは本来、日中にたくさん生成され、夜になるとほとんど生成されないホルモンだ。日中の生成量が下がった、生成サイクルが完全に逆転したという人は、カフェインのとり方に気を配ることで本来のサイクルに戻りやすくなる。
ダイヤモンド・オンライン 2017/04/03 00:00
「たとえ長く生きられなくても…」NICUで闘う赤ちゃんたち
「たとえ長く生きられなくても…」NICUで闘う赤ちゃんたち
我が子の生きる力を信じ、頑張りを見守り続けた日々が、その後の家族の支えだ。NICUは単なる治療の場ではなく、親たちが子どもの障害や病気を受け入れ、ともに生きていく覚悟を育てる場でもある(撮影/山本倫子) 出産予定日より3カ月早く生まれた実ちゃんの成長を見守る宮本心さん。「この子のおかげで、家族のきずなが強くなったなと思います」(編集部・深澤友紀) フォローアップ外来で大城朔太郎君を診察し、「足腰が強い。驚くべき成長を見せてくれていますね」と豊島医師。家族と成長の喜びを分かち合うことも大切にしている(編集部・深澤友紀)  AERA2017年2月20日号から3回連載した「みんなの知らない出産」には多くの反響が寄せられた。生まれた子どもがNICUに入院した経験について触れた声も多かった。今回は、必死に生きようとする赤ちゃんの命の現場、NICUの物語。  深夜2時。寝室にアラームが鳴り響く。隣で寝る夫を起こさないように、すばやく布団から出ると、搾乳器を手元に引き寄せた。  千葉県内に住む女性(36)の赤ちゃんは新生児仮死で生まれ、NICU(新生児集中治療室)へ搬送された。女性は冷凍母乳を届けるため、3時間ごとに母乳を搾る。  夜中に搾乳していると、涙が溢れる。他のママたちは、赤ちゃんの泣き声で起きて、直接おっぱいをあげているんだろうな……。  スマートフォンの画面に映る入院中の我が子を見て、涙を拭う。今、母親の自分にできることはこれしかない。搾乳と器具の消毒に約1時間。2時間後には、また次のアラームが鳴る。  この世に命を授かることができても、生まれつきの病気や早産、お産で調子が悪くなったことなどが理由でNICUでの治療が必要になる赤ちゃんがいる。その割合は約30人に1人と言われ、多くの母親が、元気に産んであげられず赤ちゃんに痛くて苦しい思いをさせてしまっていると自分を責める。後遺症への不安も消えない。こうした心の負担に加え、体への負担も大きい。 ●明日が来るかわからない この子の命を見守りたい  冒頭の女性も、産婦人科の退院翌日から自分で車を運転し、往復1時間かけて1日2回、NICUへ面会に通った。面会は午後と夜に計5時間半。搾乳にも1日8時間かかる。産後1カ月は安静にしたほうがいいと言われるが、そんな時間はない。赤ちゃんと離れていても、搾乳で夜も満足に寝られない。悩みを共有できるママ友もいない。心も体も追い込まれていった。  横浜市に住む安原幸子さん(41)も7年前に次男・遼君がNICUに入院中、孤立感を深めていったという。  福岡の実家近くの産院で里帰り出産した。遼君は泣き声を上げず、ドクターカーで子ども専門の病院へと運ばれた。翌朝、搬送先の病院で聞いた病名は「気管無形成症」。自分で呼吸することが難しく、しかも重度だった。医師の説明は難しかったが、長くは生きられないことだけは理解できた。  この子には明日が確実に来るかわからない。親として我が子の命をしっかり見守りたいと、毎日NICUへ会いに行った。問題は2歳の長男の預け先だった。感染症のリスクなどから子どもの同伴は認められておらず、面会中は預けなければならない。1カ月間は夫が仕事を休んで交代で面会に行けたが、サポートを続けてくれていた実家の両親からは「亡くなってしまう次男より、長男をもっと大事に」「面会に行かない日をつくりなさい」と言われた。他に預かってくれるママ友も福岡にはいない。里帰り先で自治体の一時保育が利用できるのか、調べる時間もなかった。  遼君は38日目に旅立った。安原さんは言う。 「当時、面会の間だけでも預かってくれるボランティアがいれば、里帰り先でなかったら……。あの子のためにもっと何かできたかもしれない、と今でも考えてしまうんです」  NICUをめぐっては、10年ほど前にベッド不足による妊婦のたらいまわしが社会問題化し、その後に整備が進んだ。厚生労働省の「医療施設調査」によると、2008年に2310床だったNICUのベッド数は、14年に3052床と、6年間で約1.3倍に急増した。ただ、新生児科医の数はほぼ横ばいで、医師一人当たりが担当する病床数が増加し、増えたベッドを十分に活用できていないのが現状だ。  治療が最優先。だから面会時間は限られ、赤ちゃんに会えるのは両親のみ。そうしたNICUが一般的だが、両親を孤立させず、新生児だけでなく家族も支える「ファミリーセンタードケア」を目指す病院も出てきている。その代表が神奈川県立こども医療センターだ。 ●家族も医療に参加するファミリーセンタードケア  ここでは医療者が子どもの現状と将来のリスクの可能性もきちんと伝え、診療方針の決定には家族も参加する。また、NICUは希望すれば24時間面会が可能で、きょうだいも赤ちゃんに会うことができる。家族で宿泊もできる「ファミリールーム」もある。  神奈川県に住む宮本心さん(36)は出産予定日より3カ月以上も早く破水し、同センターに運び込まれた。医師からは、このまま生まれると、命は助かっても子どもに何らかの障害が残る確率が50%以上だと言われた。  少しでも長くおなかにいさせてあげたい。病院のベッドの上で一日中時計の針を見つめていた。入院して3日目、赤ちゃんのしゃっくりを胎動で感じた。横隔膜や肺ができ始めたのだと涙が出た。その4日後に実ちゃんを出産。「生まれちゃった」と思った瞬間、医師たちの「おめでとう」の言葉に救われた。  現在は2歳の長男を院内ボランティアや近くの保育預かり施設に預けながら、往復2時間かけて面会に通う。赤ちゃんがそばにいないことやストレスからか、一時期母乳がほとんど出なくなった。相談に乗ってくれたのが、助産師でもある布施明美看護科長(56)だ。背中をさすられ、話を聞いてもらううち、気持ちが軽くなった。再び出るようになった母乳は、冷凍庫に入りきらないほどになった。布施さんは言う。 「自分のせいだ、と思い詰めるお母さんもいますが、誰も悪くないし、世界に一つの命が誕生したことに意味があるとお伝えします。赤ちゃんやお母さんの頑張りや声なき心の声を聴き、その思いをご家族に伝え、ご家族が赤ちゃんを大切に迎えられるよう支援することも、NICU看護師の役割だと思っています」  日本の小児医療は世界トップレベルの救命率を誇る。国連児童基金(ユニセフ)の「世界子供白書2015」によると、日本での5歳未満の子どもの死亡率(13年の推定値)は1千人あたり3人で、世界で下から2番目の数字だ。数百グラムで生まれた子も救命できるようになったからこそ、豊島勝昭新生児科部長(48)は「NICUは命を救うだけに留まっていてはいけない」と言う。 「ご家族を置き去りにせず、親御さんも参加していると思えるチーム医療を目指したい。なぜなら、赤ちゃんの生きる力や頑張りを感じ、見守った日々が、退院後に社会の中で生きづらさを感じたときに、家族で乗り越える力になっていくと信じているからです」  プロ野球・読売巨人軍の村田修一選手(36)は書籍『がんばれ!!小さき生命たちよ』の中で、早産で生まれ、同センターのNICUに入院した長男・閏哉さんについてこう書いている。 「早産で生まれたからには、普通の出産で生まれた子どもとは成長の仕方もまったく同じというわけにはいかないだろう。(略)でも、これまで何度も大きな手術などを乗り越えてきた閏哉の強さを思い起こせば、ほかの子と比べる必要はないし、人の目を気にする必要もない」 ●赤ちゃんの頑張りをお兄ちゃんにも見てもらう  同センターでは3年前からきょうだい面会や父親も過ごしやすいNICUづくりに取り組み始め、年間入院数が340から2割以上増加した。入院期間が短縮されたためだ。もちろん病院側が無理に退院を促すのではなく、これまで受け入れの覚悟ができずに退院を先に延ばしがちだった家族側が、「早く家族一緒に暮らしたい」という気持ちになれたからだと考えられるという。  15年秋に451グラムで生まれた大城朔太郎君は、4カ月余り同センターのNICUに入院した。父・和洋さん(38)と母・麻耶子さん(37)は振り返る。 「きょうだい面会ができたから2歳上の想助にも、朔太郎が頑張っている姿を見せられてよかったし、家族全員であの場にいられたことで家族のつながりが強くなったと思います」  また、NICU退院児への支援は少なく、子どもの発達の相談や悩みを共有する場所もほとんどない。適切な情報にたどり着かず、必要な療育を適切な時期に受けられないケースもある。  そこで同センターでは、退院後のフォローアップ外来にも力を入れる。妊娠中に母児間輸血症候群が判明し、出産後に直之君(3)が同センターに運ばれた追川かおりさん(40)は「発達が遅れていて不安だったけど、外来で相談できるから心強い」と言う。  同センターではさらに、早産児の育児を応援するホームページを準備中だ。担当する野口聡子医師(38)は言う。 「病気や障害があっても、どう対応すればいいか、誰の力を借りればいいかがわかっていれば家族の笑顔が増えるのではと考えています。笑顔の多い家族の中で育つことは、お子さんの発達の促進にもつながり、さらに家族の幸せにつながります。その好循環の一助になるようなホームページにしたい」  医療を尽くしても救えない命もある。同センターでは、限りある命を家族で過ごす時間も大切にしている。 ●限りある命だからこそ家族で過ごす時間大切に  神奈川県川崎市の小泉由紀子さん(47)は13年前、長女・凪沙ちゃんの妊娠中に羊水が増えすぎて、同センターに転院。検査の結果、凪沙ちゃんは染色体の病気で心臓に大きな穴が開いているのがわかった。手術も難しいと言われたが、結婚して13年目に授かった命を絶対にあきらめたくなかった。  生後2日目の夜、医師から「状態がよくないので、親子で過ごせるファミリールームに移りませんか」と提案されたときも、命をあきらめたくない思いで断ったが、深夜、再び利用を勧められ、部屋に移ることにした。  初めて持てた親子3人だけの時間。凪沙ちゃんを抱いていた夫の淳一さん(52)が突然泣き出した。 「この子は本当に幸せなんだろうか」  由紀子さんは「幸せだよね」と凪沙ちゃんの頭をなでて、2人に寄り添った。点滴や管も外してもらい、翌朝早く、凪沙ちゃんは由紀子さんの腕に抱かれて旅立っていった。 「お医者さんや看護師さんが何度も勧めてくれたから、穏やかに3人で過ごすことができた。今でもあの時間が私たちを支えてくれています」  神奈川県に住む森武史さん(35)と真実子さん(35)の長男・瀬名君は2年前、生まれてすぐ染色体の病気がわかり、同センターへ転院。長く生きることは難しく、主治医から「家族の時間を大切に」と退院の選択肢も伝えられた。真実子さんは当初、病気なのに退院なんて理解できなかったという。  だが徐々に三つ上の長女と一緒に家族4人で生活したいと思い始めた。その願いを、同センターの新生児科医たちが尽力して支え、生後2カ月で退院。自宅に連れて帰ったとき、「やっと家族になれた」と思えた。  瀬名君は5カ月半を生ききった。武史さんと真実子さんは瀬名君を写した6千枚の写真でアルバムをつくり、感謝を込めてNICUへ届けた。 「先生方のおかげで、あの子が生涯で一番長く過ごせたのが自宅でした。家の中や家族の心に残るたくさんの思い出は、瀬名の生きた証しです」 (編集部・深澤友紀) ※AERA 2017年4月3日号
出産と子育て
AERA 2017/03/31 11:30
博物館・美術館でお花見してみませんか?【インテリジェンス特集|東京2017】
博物館・美術館でお花見してみませんか?【インテリジェンス特集|東京2017】
待ちに待った桜の季節、そして知的好奇心が目覚める春です! 博物館や美術館で「お花見」しながら、知性と感性を磨いてみませんか。庭園が特別公開されたり、展示作品で桜を堪能できたり、期間限定のカフェメニューが登場したりと、施設ごとにさまざまな趣向で桜を楽しめます。今回は、東京都内にある桜の名所のそばに位置する「インテリジェンス・スポット」をご案内いたしましょう!「日本三大夜桜」でもある上野恩賜公園の桜 東京国立博物館(台東区) 東京国立博物館 桜で有名な上野公園内の文化施設のなかでも、とくにおすすめなのがこちら。日本と東洋の文化財を所蔵する、日本最古の博物館です。その展示ときたら、夢かと思うようなお宝揃い! そして春恒例の「博物館でお花見を」と題するイベントが開催されています。今から400年前のお花見の様子が描かれた国宝の屏風など、桜をモチーフにした作品がいっぱい。約10種類の桜が咲く庭園も公開され、期間中の4日間はライトアップも。日本人にとって桜は古くから本当に特別な存在なんだな!と、実感できるスポットです。 ・『博物館でお花見を』  2017年4月9日(日)まで ・春の庭園解放 2017年5月7日(日)まで 公式サイト ※施設・ライトアップ日時などイベントの詳細は公式サイトをご参照くださいふだんは入れない庭園を自由に散策できますよ 世田谷美術館(世田谷区) 世田谷美術館 四季折々の自然豊かな砧公園の一角に佇む美術館です。“芸術とは何か”という根源的なテーマのもと企画される、幅広いジャンルの展示と、さまざまな体験講座やワークショップが魅力。広々とした公園なので、親子でお花見とアートを楽しむにも最適な環境ですね。館内には砧公園を一望できるレストランもあり、桜を眺めながらゆったりくつろげます。連続テレビ小説でも話題となった、花森安治の仕事を紹介する展覧会も開催されています。 ・『花森安治の仕事ーデザインする手、編集長の眼』 2017年4月9日(日)まで 公式サイト ※施設・イベント詳細は公式サイトをご参照くださいアートが生活の一部だと感じられます 東京国立近代美術館(千代田区) 東京国立近代美術館 北の丸公園内にある国立の美術館です。明治時代後半以降に創作された、近現代美術作品をコレクションしています。桜の名所である皇居に近く、千鳥ヶ淵からの散策で巡るにも絶好のスポット! 『所蔵作品展 MOMATコレクション』では、川合玉堂《行く春》(4月16日まで展示)などの桜の名品が公開されます。貴重な作品を一度に鑑賞できるのは、年に一度のチャンス。4月1日・2日には無料巡回バス「さくらカルガモ号」が運行されるので、車窓から皇居周辺の桜の名所を楽しみながらの来館もできますよ。4月2日は無料観覧日となり、参加型プログラムの開催も。また、お花見時期は前庭に休憩所が特設されます。館内で販売されるお花見弁当やスイーツ、高級茶とともに、春らんまんのひとときを楽しんでみるのはいかがでしょう。 ・『美術館の春まつり』 2017年4月9日(日)まで ・『所蔵作品展 MOMATコレクション』 2017年5月21日(日)まで 公式サイト ※施設・イベント詳細は公式サイトをご参照くださいボートに乗ってお花見しながら展示作品の感想など♪ 郷さくら美術館(目黒区) 郷さくら美術館 東京でもっとも人気のあるお花見スポットとして知られる目黒川。そのほとりにあるのが、現代日本画を中心に収集している郷さくら美術館です。館内では全国の桜の名所・名木を描いた日本画作品が咲き誇り「1年を通じて満開の桜を鑑賞できる」スポットとなっています! 親密な空間だからこそわかる、桜の繊細さ。屏風作品などの大画面に広がる桜の、圧倒的な空間美。季節や時間、お天気も超えて、日本の美のエッセンスに触れてみませんか。 ・『第5回 郷さくら美術館 桜花賞 展』2017年5月28日(日)まで 公式サイト ※施設・イベント詳細は公式サイトをご参照ください昼と夜。それぞれに美しい桜並木です
tenki.jp 2017/03/31 00:00
“借金取り”匿名座談会「包茎手術の代金は回収率が高い」
“借金取り”匿名座談会「包茎手術の代金は回収率が高い」
かつては自宅まで集金にくる消費者金融も多かった。「多重債務者の家は昼も光が漏れないように窓がカーテンで覆われていた」(元消費者金融マン) ※イメージ写真  非正規社員、失業、高齢化、病気――。いま、奨学金や住宅ローンなどの借金返済に困る人が増えている。明るい未来を担保にして借金が出来る時代は終わりつつあるのか。AERA 2017年4月3日号では「借金苦からの脱出」を大特集している。  借金を取り立てる側の人々は、債務者とどのように向き合ってきたのか?“督促OL”や元消費者金融マンら、取り立てのプロが一堂に会した。 *  *  * ──まず、最近の“取り立て屋事情”について教えてください。 榎本:私は信販会社のコールセンターでキャッシングの返済を滞納している方などへの督促業務を担当しているのですが、ここ十数年でガラッと働く環境が変わりましたね。以前は、窓もない一室に電話を並べて毎時60本も督促の電話をかけ、夜9時からは督促のお手紙を書いて、日付が変わる前ぐらいに帰宅していました。電話口でお客様から罵倒されるのも日常茶飯事なので、どんどん人が辞めていく職場でした。けど、ブラック企業が社会問題になってからは、オペレーターのメンタルケアに力を入れる企業が増え、PC上でトークスクリプトを見ながら督促の電話をかけるかたちになり、大幅に業務が効率化されました。ただ、それでも人手不足は深刻ですが……。 武田:私が以前、働いていた大手消費者金融は毎年1千人採用して、1千人辞めていきました(笑)。今、私が担当している年金の収納業務は採用希望者が多く、辞めていく人が少ない。この仕事は年金制度というシステムを支えるために必要な業務じゃないですか?だから、定年退職された方などが、「お国のためにやりたい」と時給1千円程度で頑張ってくれる。 ●金融庁から「社長呼ぶぞ」 金子:取り立てそのものはやりづらくなりましたよね。私が家賃滞納の回収を行っていた十数年前は、平気で滞納者の名前をマンションの掲示板に貼り出したり、鍵を交換して追い出してしまったりすることも少なくなかった。でも、2000年代から追い出し行為に対する裁判があちこちで起こるようになって、強引な回収はしにくくなりました。まあ、その点は消費者金融のほうが厳しいと思いますが。 武田:かつては自宅や職場にも平気で取り立てに行っていましたが、06年にアイフルが執拗な取り立て行為で全店業務停止処分を食らいましたよね。その流れで貸金業法が改正されて一気に締め付けが厳しくなりました。少し強引な取り立てをやったら、すぐに苦情が入って、金融庁から「改善しないと、社長呼び出すぞ!」と本社に電話が入る……。 ●カードローンの増長 金子:今は消費者金融よりも、銀行のカードローンのほうが問題視されてますよね。昨年10月には日弁連がカードローンの適切な審査体制づくりを求める意見書を金融庁に提出して、今年1月には金融庁が銀行首脳を呼び出した。その直後に、綺麗にカードローンの電車広告がなくなりました(笑)。消費者金融からの借り入れと異なり、銀行のカードローンは借入額を年収の3分の1までとする貸金業法の対象外。それをいいことに、銀行は15%程度の高利でカードローンの貸し出しを増やしまくって、今ではその残高が消費者金融を上回る5兆円に達している。昨年は13年ぶりに自己破産の申請件数が増えましたが、その一因がカードローンです。 ──借金を取り立てるコツみたいなものはあるんでしょうか? 榎本:『督促OL 修行日記』にも書いたのですが、新人時代に最初に学んだのは、「約束の日時を相手に言わせること」でした。「◯日までに払ってください」と言うと、上から目線と感じて怒りだす人も多い。相手に支払期日を決めさせても、約束を破られることがあるんですけど、そのときは「お客様が◯日に入金してくださると言うから、お待ちしていたんですよ」と罪悪感を刺激する。「いくらだったら、すぐにお支払いいただけますか?」と問いかけるのも効果的。追い立てるのではなくて、質問を投げかけて相手に決めさせると、「自分で約束したから」という心理が働きやすいですね。 金子:確かに、一昔前は「支払いが遅れると信用に傷がつきますよ」と脅しをかけることも少なくありませんでしたが、今は「こちらも困っているんです」と罪悪感を煽る取り立て文句を使う人が大半ですね。 武田:押しの強い取り立ては諸刃の剣です。消費者金融でもクレジットカードでもそうなんですけど、一度脅しめいた取り立てをされると、「ここは面倒だから、さっさと返済して、今後は使うのやめよう」となる。でも、実際には継続的に利用してくれないと利益にならない。消費者金融なら利子分だけの返済でも、4年で元金が回収できてしまうんですから。面白いことに、回収率の高い店舗は営業が弱いという傾向が鮮明に出る。その地域で「取り立てが厳しい」という噂が立って、新規の貸し出しが伸びなくなるんです。早く回収するのではなく、時間をかけて回収しようと考える人のほうが優れた取り立て屋です。 ●「あんた、ストーカーね!」 ──でも、優しく接したところで、なかなか感謝されることのないお仕事ですよね……? 榎本:10年近くやっていて、お客様に感謝されたのは片手で数えるほどです(笑)。「信用に傷がつく前に連絡してくれてありがとう」って。あとは、「殺す」と言われたり、ストーカー呼ばわりされたり……。 ──ストーカー? 榎本:基本的に督促の際には本人以外に、こちらの会社名を名乗れません。携帯電話にかけても連絡が取れず、自宅にかけるときは「榎本ですが、◯◯さんいらっしゃいますか?」とお話しするんです。それで、電話口でお客様の奥様らしき人と「どのような関係の方ですか?」「いや、仕事の関係で……」と、何度かやり取りしていたら「あんた、ストーカーね!」とののしられたんです(笑)。 武田:会社名を本人以外に告げられないせいで、私はヤクザの事務所で大変な目に遭いました。債務者は組の事務所を所在地にしていたんです。取り立てに行ったら、いきなり組長の部屋に通されて、その債務者を呼んだうえで、「あなたはどういった関係の方なんですか?」と聞かれました。でも、本人以外に会社名を名乗れないし、「借金の返済の件で……」とも言えない。すると、組長が債務者に「この人とは、どういう付き合いだ?」って聞く。けど、債務者はあちこちから“つまんで”て、私がどこの取り立てなのかわからないんです。それであたふたしていると、私の目の前で組長が債務者をボコボコにし始めた。結局、4時間ぐらいリンチしているところを見させられました。ビビって会社名を言っていたら、「規則違反だろ?」とつけ込まれていたかも。実際、それでフロント企業への不正融資の片棒を担がされたサラ金もありました。 金子:消費者金融ならではのお話ですけど(笑)、そういう細かいルールがこの業界にはいっぱいある。年金の収納勧奨をやっているサービサーが多くありますが、年金の未収はサービサー法に定められた債権の対象外。だから、「払ってくれ」という言葉は使えないんです。「未納分についてご相談させてください」としか言えない。もし、「日本年金機構から委託を受けて」という電話がかかってきたら、「払えって言ってるのか?」と言ってみてください。絶対、「いや、ご相談のお電話で……」としか言ってきません(笑)。 ●優良顧客は自衛隊員 ──いろんな債務者を見てきたと思いますが、返済を滞納する人の共通点はありますか? 金子:借金を返さないのは、だらしない人の一言に尽きます。家賃の滞納もそう。契約の際に、いついつまでに戸籍謄本や収入証明を送ってくださいと伝えて、期日を守らない人はだいたい家賃の支払いも遅れる。 武田:元消費者金融の立場で言うと、必要なお金を計算できない人は、多重債務者になりやすい。例えば、10万円借りたいと言ってきたお客さんに、「あなたなら最大50万円までお貸しできます」と伝えますよね。「じゃあ、50万円借ります」って言う人は、だいたい返済が遅れる。自分の収入は捕捉できているのに、支出に関しては捕捉できていないという人も多い。なんで返済できないんですか?って聞くと、「いや、子どもの塾代が3万円かかるのを忘れてまして……」とか「給食代が払えなくなってしまうので……」とか、平気で毎月発生する支払いを理由にするんです。そういう人の家に取り立てに行くと、独特のすえたにおいがする。あちこちからつまんで取り立てが来るから、窓を常に閉め切っていて、換気をしていない。 ──逆に、“いい債務者”は? 榎本:督促をやらせてもらっていたなかでは、「回収率100%」の債権がありました。それは、包茎手術の代金です……。クレジットカードで支払ったつもりが、銀行口座の残高不足で引き落とせなかった方の督促業務が回ってくることがまれにあるんです。「医療費のお支払いが済んでいないのですが……」とお電話すると、「何の話かわからない」と答えることが多いんですけど、「◯◯クリニックでの手術代が……」とお伝えすると、「すいません!すぐ払います!」となる(笑)。 金子:コンプレックスに関する債権は回収率が高いと言いますよね。美容整形や植毛代の回収はラクと聞きました。 武田:消費者金融の優良顧客は、自衛隊員でしたね。防衛省共済組合貯金という積立金があるので、消費者金融の返済を滞納していることが上官にバレた場合には、「積立金を解約して一括返済しろ」と言われるらしいです。だから、まず回収できないことがない。海上自衛隊だと、船に乗って何カ月も日本に帰って来られない。返済なんてできませんよね?どんどん返済が遅れて、消費者金融は利子が稼げる(笑)。 榎本:今までのような督促業務は難しくなってくるかもしれません。というのも、債務者の高齢化も進んでいて、お電話で話をしていても、耳が遠くて聞き取れないという方が増えてきているんです。若い方はSNS世代で電話に出ない方も増えています。今後、コールセンターでの督促業務はやりにくくなってくるかもしれませんね……。 (ジャーナリスト・田茂井治) ※AERA 2017年4月3日号
AERA 2017/03/30 16:00
借金を合法的に“チャラ”に、自己破産のほうが早く立ち直れる
借金を合法的に“チャラ”に、自己破産のほうが早く立ち直れる
自己破産は自己再生のための術にすぎない(撮影/写真部・岸本 絢)  非正規社員、失業、高齢化、病気――。いま、奨学金や住宅ローンなどの借金返済に困る人が増えている。明るい未来を担保にして借金が出来る時代は終わりつつあるのか。AERA 2017年4月3日号では「借金苦からの脱出」を大特集している。  返しても返してもクビが回らず、自殺を考えたり、犯罪に手を染めたりなんて言語道断。堂々とやり直す一歩を踏み出そう。 *  *  * 「借金をなくすのと減らすのは違います。なくすためには自己破産しかないけど、減らすための選択肢はたくさんあります」  こう話すのは『借金なんかで死ぬな!』(朝日新聞出版)などの著書で知られる吉田猫次郎さん(48)。大学卒業後、準大手商社で会社員として充実した日々を送っていたが、家業の連帯保証人になったことから7千万円以上の借金を背負い、壮絶な体験の末に自力で借金を激減させた経験を生かし、講演や執筆活動とともに事業再生コンサルタントとして活躍している。  借金を減らす選択肢は症状の軽い順に(1)低金利への借り換え(2)任意整理(3)個人再生手続き──の3段階。 「任意整理は弁護士か司法書士が間に入るので、本人への取り立ての電話がなくなる。返しても返しても利息に取られて減らなかった借金が大部分は利息ゼロの3~5年の分割払いで完済できるようになります。裁判所に申し立てて行う個人再生手続きは、利息だけでなく元金も5分の1ぐらいにバッサリ減って、住宅ローン付きの家だけは守れます。だからある意味劇的に負担が軽くなる」(吉田さん)  これらの段階は、返済を継続できる収入がある程度必要になり、その条件も満たさない場合、最後の手段として自己破産という流れになる。字面からして衝撃的で、真面目な人には許容しがたい「破産」だが、実際は自己再生のための術にすぎない。 「完済してやろうと意地を張っていましたが、破産してようやくリセットできた。クレジットカードが持てなくてローンも組めないけど、生活に支障はない。破産したほうが人生早く元通りになる」 ●7年かけて4億円返済  こう語るのは、最大7億円の個人負債を背負い、7年かけて4億円を返済したものの、5年前に自己破産した大田竜馬さん(51)。訪問販売業界の伝説のセールスマンとしてテレビのバラエティー番組で特集されたこともある大田さんは、独立して立ち上げた住宅リフォーム会社(本社・大阪府)が大成功し、グループ企業十数社、ピーク時の売り上げは月間10億円に達し、従業員は500人を超えた。ところが商法をまねたリフォーム会社が乱立、高齢者を狙ってまともな工事もせずに屋根裏や床下の修繕と称して高額な部品を売りつけていた業者が2005年、詐欺容疑などで逮捕される事件が続発した。いわゆる「悪徳リフォーム」として社会問題化した一連の事件である。 「オリジナルの当社は、60歳以上には売らないなど営業マン全員から誓約書を取ったうえで、きちんとしたリフォームを積み重ねてきたからこそお客様の信頼を得て急成長した。税金も完納して毎年税務署のハンコをもらっていました。でも05年1月18日、全国の事業所に一斉に国税の調査が入った」  最初から隠すようなものは何もなかった。調査は3カ月で終わり、経費として認められなかった分の課税700万円程度を追徴されただけだった。 「すでに悪徳業者の行状が新聞などで報じられている時期だったこともあり、国税が入った瞬間からクモの子を散らすように社員が辞めていき、あっという間に50人もいなくなりました」  東京と大阪を中心に15カ所の営業所の家賃、約100台の営業車やコピー機・ファクスなどのリース代や駐車場代は丸々残った。風評被害で「だまされた、カネ返せ」と申し出てくる客には全て全額返金で対応した。 ●払っても払っても… 「家賃やリース契約はすぐには解約できないから、例えば5年リースの車なら乗る人間がいないのに5年間支払い続けなければならない。銀行の融資もあっという間にストップした。会社は整理しても負債は代表者の私にかかってきます。法人税や消費税も過去の分がいつまで経っても追っかけてくる」  仕入れ業者にも、銀行にも、信販会社にも、税務署にも、払っても払っても借金はなくならない。税務調査の日から1年ほど経った真冬の深夜、大田さんはマンションの7階自室のベランダの手すりの上に立っていた。 「無意識だったんでしょうね、ふっと我に返ると地面を見ていて、ビックリして手すりをけってベランダ側にもんどりうって助かった。自殺しようと考えたつもりはないんですけど」  その日から、後ろ向きになるのをやめた。空手の指導員も務めていた猛者の大田さんは言う。 「逃げれば相手も調子づいてパンチも痛いけど、バーンと前に出て受け止めたらそれほど痛くない。卑屈になる必要はないと思って、それからはどんな相手にも前に出て交渉ですわ。自慢じゃないけど私は住所も携帯番号も一切変えていません」  マンション販売や解体の仕事も始め、返せる借金は返し、訴えられた民事訴訟では全て代理人をつけずに裁判所に出廷した。 「10件以上訴えられて、判決が出たものは全て敗訴。仕方ないですよね。裁判所の執行官が差し押さえに来ても、持っていくものがないから『執行不能』で終わる。債権の回ったサービサーからも頻繁に連絡がありましたけど、最後は友だちになります。『判決取ったらいいやん』と言う私に、大抵は『裁判は時間かかるんですよ。頼むから破産してください』と言ってくる。損金で処理できるから先方はそっちのほうがいいんでしょう」 ●現実を受け入れる  大田さんが破産に踏み切ったのは、東日本大震災がきっかけだった。人脈をたどって岩手県の沿岸部で解体、土木工事をすることになったからだ。 「裁判の度に大阪に戻ってくるわけにもいかなかったし、中途半端な気持ちでは被災地の方々にも向き合えないと思って、旧知の弁護士に頼んで自己破産の手続きをしました。あれからもう5年たって、最初は友人にお願いしていた社長も私が引き継いでできているし、税金もちゃんと払っています」  大田さんのような破天荒な例は一般的とは言えないかもしれないし、いま現在、多重債務者が急増しているわけではない。消費者金融全盛で、闇金が跋扈していた00年代前半と比べれば、法規制も増えている。 「最近は住宅ローンや低金利の銀行系カードローン、あとは子どもの学資ローンのような、生活に直結する借金で首が回らなくなっている人が多いと感じますね。住宅ローンもここ3年ほどバブルのころより審査が緩くて、一時期の米国のサブプライムローンのような問題が潜在化していると感じます」(吉田さん)  昔も今も変わらない傾向と対策がある。返しきれない大借金を抱えた人は、返そうとしているうちはとてもつらいが、返せない現実を受け入れてしまえば解決策が自ずと見えてくる。 「先ほどの(1)~(3)は会社員用。自営の人には裏ワザもあって、返さずに訴えられてから和解するとか、裁判で敗訴して差し押さえられても、次第に失うものがなくなり、結果、債権者が回収を諦め、大幅な減額和解に至ったような事例もあります」(吉田さん)  真面目に生きていても、社会状況やちょっとした不注意に足をすくわれ、もがいていくうちに蟻地獄にはまっていく人には、目に見える救済の手を差し伸べるのが成熟した社会と言えるのではないか。 (編集部・大平誠) ※AERA 2017年4月3日号
AERA 2017/03/29 11:30
ルポ・奨学金に奪われた未来、仕送り激減、ブラック企業への就職…
ルポ・奨学金に奪われた未来、仕送り激減、ブラック企業への就職…
契約社員の男性(30)の元に届いた催促通知。「どうせ支払えない」と数年間、封さえ開けていないものもあった(撮影/写真部・松永卓也)  非正規社員、失業、高齢化、病気――。いま、奨学金や住宅ローンなどの借金返済に困る人が増えている。明るい未来を担保にして借金が出来る時代は終わりつつあるのか。AERA 2017年4月3日号では「借金苦からの脱出」を大特集している。  奨学金の返済が重く、人生設計を変えざるを得ない若者が増えている。背景にあるのは学費の高騰や仕送り額の激減、非正規雇用への就職などだ。 *  *  *  学生生活やアルバイトに関する質問に、にこやかに応じていた大学院生の吉川隆さん(仮名、24)の口元が、にわかに緊張した。家族のことを尋ねたからだ。  一見おしゃれで“意識の高い”、今どきの男子に見える。ただ身なりに人一倍気を使うのも、自分の暮らしぶりを悟られたくないという思いからだと明かす。友人を家に呼ぶのも、昔から苦手だった。 「奨学金を借りられたのは、正直嬉しかったです。それまで自分で人生を選択できたことってほとんどなかったので」  父は10年ほど前から職を転々とし、現在は無職。母は非正規で働く。生活保護家庭ではなかったが、物心ついてからはずっと「生活していくこと」が優先で、やりたいことは二の次だった。大学進学で親元から離れて自由になれる。初めて感じる解放感だった。  ただ地方出身のため、進学には学費のほか、家賃や生活費など多額の費用がかかる。独立行政法人「日本学生支援機構」(旧・日本育英会)の奨学金を月約17万円借り、さらに多い時でアルバイトを月20日ほど入れた。留学をしたりサークル活動を満喫したりする友人をうらやましく思うこともあったが「生きる世界が違う」と諦めた。  そんな生活でも「もっと勉強したい」という思いだけは消えなかった。親からは「現実的な道を選べ」と就職を勧められたが、奨学金を借り続け、大学院進学を決めた。結果、貸与総額は1千万円以上に膨らむ見通しだ。卒業後、月々の返還額は5万円を超える。返還期間は20年だ。 ●2人に1人が奨学金 「僕、返せない額だとは思ってないですよ。開き直らないと、仕方ないじゃないですか」  明るくふるまう吉川さんだが、周囲の「大人」から、こんな言葉をかけられたことがある。 「暇があるなら、さっさと働けばいいのに」 「ちゃらちゃら遊んでるんじゃないぞ」  かつての大学生のイメージを押し付けられるのには違和感があるが、どうせ理解してもらえない。孤独感がいつも胸にくすぶる。  大学進学という自由を手にするための切符である奨学金。そのプラチナチケットの代償は、若者の肩にずしりとのしかかる。今や学生の2人に1人が奨学金を利用している。最も利用者数が多いのが、日本学生支援機構の貸与型奨学金だ。無利子の第一種と有利子の第二種があり、第一種には成績などの要件が課される。  なぜ奨学金を借りる人が増えているのか。背景には学費の増加と親の収入減がある。  2015年度の授業料は、私立大学の平均では、86万4400円。国立大学で53万5800円と、30年前と比べると、国立、私立共に2倍近く上がっている。  これに反比例するように下降傾向にあるのが、1世帯当たりの平均所得だ。厚生労働省の国民生活基礎調査によると、14年の1世帯当たりの平均所得は541.9万円。1994年の664.2万円から100万円以上も下がっている。  親の収入減は、もろに学生の懐にはね返る。仕送り額の推移をみると、「月10万円以上」は98年には6割以上だったのが、15年には半分の3割に。「仕送り0円」も増加している。 ●夢の仕事に就いたのに  親も、そして大学も、学生が「将来性」を担保に借金を背負い、大学に通うことを当てにしている。ただ、未来永劫、健康で働き続けられるという保証はない。 「今は返還を猶予してもらっていますが、病気がいつ治るかわからないので……。時々、私、死ぬまで払い続けなきゃいけないんじゃないかって不安になります」  小柄で華奢な肩が、小さく震えた。中学生からの夢だった保育士を退職せざるを得なくなった桜井里美さん(仮名、23)だ。大きな瞳でじっとこちらを見つめ、時折柔らかな表情でほほ笑む彼女は年齢よりずっと大人びて見える。  父はリーマン・ショックの影響で早期退職を余儀なくされ、以来現在まで無職。母も非正規で収入が安定せず、学費に充てるために日本学生支援機構に第一種と第二種の併用を申請。ただ、成績などの要件がある第一種の枠から外れ、第二種のみの貸与となった。  短大に入学後、週に3、4日飲食店でアルバイトし、帰宅は23時を過ぎることも。保育実習などとの両立は体力的にきつかったが、夢に向かって勉強できる毎日は充実していた。  卒業後、晴れてスタートした保育士の仕事。ある程度厳しい職場だとは覚悟していたが、現場は想像以上に壮絶だった。  勤務は平日が基本だったが、土曜保育や日曜のイベントのための準備に追われ、ほぼ連日連勤に。上司からは「残業するな」と指導されていたため、園児の衣装やお遊戯の準備、資料作成を自宅に持ち帰り深夜まで残業に追われることもあった。 「同僚のSNSを見ると、自宅で残業する写真が載っていたので『当然なのかな』と思っていました」 ●パワハラで鬱状態に  仕事量とギスギスした人間関係に次第に神経がむしばまれ、不安や憂鬱にさいなまれ続ける適応障害に。職場の変更を願い出て、配置転換はかなったものの、異動先で上司からパワハラにあってしまう。  保護者や園児の前で、上司から「指導の仕方がおかしい」「いても迷惑だから、さっさと帰れ」と大声で叱責され続けた。自分の仕事に自信がなくなり症状が悪化、鬱状態に。それでも辞められなかったのは、少なからず奨学金の返還というプレッシャーがあったからだ。 「大きい額の借金をいつまでも背負っていたくなくて、『早く支払ってしまいたい』という焦りもありました」  3年目を過ぎ、さらに体調が悪化。悔しかったが、もう体が言うことをきかない。退職を決め、かわいがっていた園児にも別れを告げた。現在は、奨学金の返還猶予を申請し、治療をしつつアルバイトで働いている。  奨学金が、ブラックな職場にも留まり続けてしまう、負の原動力になる。同じ力学が、性風俗産業で働く女性にも働いている。  風俗で働く女性のセカンドキャリアを支援する一般社団法人「Grow As Peopile」が15年に風俗で働く女性377人を対象にした調査によると、働き始めた動機を「学費や奨学金返還」と答えたのは52人と10%を超えた。風俗の平均月収は約40万円。月に数日働けば、奨学金返還の悩みは解消される。  一方、代表理事の角間惇一郎さんはこう明かす。  「学生時代、風俗で働いていた人は『就職すれば辞められる』という人も多いのですが、奨学金の支払いがあることで、完全に辞められないケースもあります」  風俗は店舗型が2割に対し、8割は無店舗型(デリヘル)。デリヘルは、一度登録すれば好きな時に働けるので、一定期間働かなくなっても、再び戻って働く人も少なくないという。 ●突然仕送りがストップ  一方、奨学金を借りる人には、増加傾向にあるひとり親家庭で育つ人も少なくない。経済的に不安定な状態の学生は、親の都合に振り回されやすくなる。  両親が小学生のころに離婚し、母子家庭で育った田中英子さん(仮名、21)。母は非正規で働き、収入が安定しない。大学の学費は、離れて暮らす父が負担してくれる約束だった。交通費や教材費などに充てるため、第一種奨学金を申請。無利子で月約5万円の貸与が認められた。 「奨学金を借りることは、既定路線という感じ。ほかに選択肢なんてありませんでした」  当初は、交通費や携帯代などに使うだけで、奨学金のほとんどは貯めたままにしていた。ところが、1年生の秋ごろ、突如父からの振り込みが途絶えた。貯金額はこの先の学費を支払い続けるには到底足りない。  このままでは、大学に通えなくなる──。急遽、有利子の第二種の併用を申請。月10万円を追加で受け取ることになった。  なぜ急に振り込まれなくなってしまったのか。はっきりとした理由は今もよくわからない。 「父のことは、家族の中でタブーみたいになっていて……母や兄にも相談できる雰囲気ではありませんでした」  結局、半年後に突然、父から振り込みがあった。親の事情に振り回され、ばかばかしい思いもあったが、 「子どもとしては、親の都合に対応していくしかないですよね」  諦めたように、そうつぶやく。  もちろん、奨学金により大学や大学院に通うことができ、夢をつかむことができたと語る人も少なくない。 「今、『返せない』とか、とやかく言う人の声が大きいじゃないですか。僕はお金を借りておいて、返せないというのは通らない話だと思うんです」  そう憤る鈴原修二さん(仮名、38)は、ロースクールに通うため、総額800万円の奨学金を借り、昨年無事に司法試験に合格した。 ●「借金と知らなかった」  司法試験に合格するまでの浪人期間、返還猶予の申請が通り、弁護士になる夢をかなえることができたという。  確かに、延滞者の中には、奨学金が借金であることを十分に理解しないまま、身の丈に合わない額を借りてしまう人もいる。  日本学生支援機構の調査(14年度)によると、3カ月以上の延滞者は約17万人に上る。「返還義務をいつ知ったか」という問いに対し、「申し込み手続き前」と答えた割合が、無延滞者は9割だったのに対し、延滞者はわずか5割。延滞者の1割近くは「延滞督促を受けてから」と答えていた。  延滞をめぐるトラブルも後を絶たない。旧・日本育英会の奨学金は、04年に独立行政法人である日本学生支援機構に移管。独立行政法人は、厳しくその収支状況がチェックされる。  このため、一定期間延滞した場合、債権回収業者に回収業務が委託されるなど、従来よりも厳しい「取り立て」制度に変更された。 ●相談の6割は保証人 「息子が奨学金を返還していないようだ」「延滞分を一括で支払えと言われて困っている」  若者の労働問題を扱うNPO「POSSE」には、奨学金の保証人となっている、親や親戚からの相談が相次いでいる。実に相談全体の6割に上り、借りた本人と連絡が取れないケースも少なくない。  日本学生支援機構では、4カ月以上延滞した場合、債権回収会社に督促を委託。9カ月を過ぎると、支払い督促申し立ての予告書を発送。この通知が届いて初めて、子どもが奨学金を返還していないことに気づき、相談してくるのだという。事務局長の渡辺寛人さんはこう明かす。 「奨学金は親や親戚に債務が移る、『時限爆弾』のような存在に。若者の問題として切り離せるものではなくなっています」  また、奨学金に関する訴訟を多く担当する弁護士の岩重佳治さんは、相次ぐトラブルの本質を、こう指摘する。 「現在の奨学金制度は返済能力を無視して、多額のお金を貸しています。リスクがある中で貸すことが前提なら、無理な返還を強いるべきではありません。返還ルールをもう少し柔軟にするだけで、返還で困る人は減ります」  いまや奨学金は我々に最も身近な「借金」になった。返せない人は追いつめられ、必死で返し続ける人は強い不公平感を抱く。奨学金を起点にした、社会の分断が生まれている。 (編集部・市岡ひかり) ※AERA 2017年4月3日号
貧困
AERA 2017/03/28 16:00
「スポットコンサル」で副収入 「副業天国」に乗り遅れるな!
「スポットコンサル」で副収入 「副業天国」に乗り遅れるな!
池田明宏さん 池田さんが手がけたネクタイピン 広報担当の稲増さんは日曜限定のカフェ  人口が減り、人材不足が深刻化するなか、企業は人材探しに必死だ。国が掲げる「働き方改革」のテーマの一つとして、副業などを促す動きが出ている。働き方はどう変わっていくのか。副業の世界に入っていった人々の視野には何が映っているのか。  いま副業が注目されている。多くの人がインターネットを通じて仕事の依頼を探したり、商品を転売したりしている。「民泊」や不動産投資もはやっている。目的もちょっとした小遣い稼ぎから、自分のキャリアアップまでさまざまだ。  仕事の紹介サービス大手、ランサーズ(東京)の「フリーランス実態調査」(2016年)によると、会社員ら雇用されている人のうち副業をしている人は約400万人に上り、増加傾向だ。  企業でも昨年、ロート製薬(大阪)が社員の副業を認める「社外チャレンジワーク制度」を導入した。IT系や人材関連の企業を中心に、解禁の動きは広がっている。  政府も人手不足の緩和につながるなどとして、後押ししている。  多くの企業は本業に専念してもらうため、いまも就業規則で副業を禁止している。政府が参考として公開している「モデル就業規則」でも、「許可なく他の会社等の業務に従事しないこと」と原則禁止になっている。政府は副業が企業にとっても利点があることを示し、モデル就業規則も近く原則容認に変える方針だ。  副業の選択肢はさまざまで、チャレンジする人は増えていきそうだ。ただ、注意点もある。  リクルートキャリアが2月に公表した調査では、兼業・副業を容認・推進している企業は全体の22.9%にとどまる。8割近くは禁止しており、会社に黙ってやると、処分される可能性もある。就業時間外の過ごし方は原則自由だが、会社側と相談してから始めよう。  労働時間は合算されるため、長時間労働につながる恐れもあり、健康管理が必要だ。  利益が上がると納税の義務も生じる。副業を始めるなら、こうしたことに注意して、トラブルは避けたい。  電気通信会社のエムテックス(横浜市)に勤務するエンジニア池田明宏さん(41)。基板の回路図を設計し、電子機器の測定をするが、作家「きんべい」として、木製のネクタイピンやヘアクリップを、ハンドメイドマーケットのサイトで販売する。  きっかけは3年前の夏。社がハンドメイドの音楽プレーヤーの開発に乗り出し、試作品開発を任された池田さんは思案していた。手に握りしめていたアイスの棒を凝視し、ひらめいた。アイスの棒をネクタイピンにしてSNSに投稿すると好評だった。音楽プレーヤーのネット販売の調査を兼ね、売り始めた。  改良を重ね、野球のバットの素材でもあるメープル材を使用。工程には3週間かかる。レーザーカットと刻印を外注し、出てきたヤニを洗浄し、乾燥後にヤスリをかけ、接着剤で金具をつける。メッセージもユニークで、「あたり」「はずれ」「Pardon the pun(ダジャレを許して)」……。昨年はネクタイピン約300本、ヘアクリップ約100本を売った。  ハンドメイドの世界では、どこかで見たような商品は見向きもされない。アイデアのメモ書きは習慣となった。社内では池田さんに続き、同僚が革製品を手がけるようになった。  JR西荻窪駅から歩いて10分ほどの住宅街に、日曜日限定のカフェがある。仕事の紹介サイト大手「クラウドワークス」(東京)で広報を担当する稲増祐希さん(29)が運営する「Nyara Cafe」だ。  クラウドワークスでは全社員に副業を認める制度を昨年導入した。他社に雇用されないフリーの仕事であれば、申請もいらない。仕事の技術を生かして、動画やアプリの製作をしている社員もいる。稲増さんは大学時代に複数のカフェでアルバイトをした経験があり、カフェのオーナーと知り合い、定休日の日曜日だけ借りて、開店資金や賃料を抑えられた。会社での仕事は忙しく、残業もあるが、週1日好きなことをやれると思えば苦にならない。 「同僚から『よくやるね』と言われるが、将来本格的に店を開こうと思っているのでいい経験になります。営業時間を午前10時から午後4時までと短くして、月曜日の仕事に影響が出ないようにしています」  カレーやデザートも自分で調理するが、食材のロスもあり、もうけは1日で数千円しかないこともしばしば。だが、利益は重視していないといい、 「地域の住民を含め幅広い人とつながれる。お客さんから情報を得られるので、本業の広報の仕事にもプラスになる」(稲増さん)  副業を認める企業は増えているが、実際に踏み出す人はまだ少数派だ。稲増さんは言う。 「まわりに遠慮して始めない人もいるが、好きなことからやってみたらいい。会社以外に自分の居場所を見つけられるのは、心の余裕にもつながります」  副業を始める際に便利なのがネットを通じて仕事を紹介するサービスだ。大手IT企業で働く岡直哉さん(27)は、大手のランサーズに2015年夏に登録した。ランサーズによると、累計で約20万社が仕事を発注している。  会社で培ったウェブデザイナーの技術を生かす仕事をしている。アパレル系企業や飲食店の運営会社などから、ホームページの制作を発注された。レストランの来店者を増やしたいといった要望に沿って、効果的なデザインを考える。 「仕事内容が似ているので、副業での経験を本業にフィードバックすることができる。いろんな依頼を受け、社内だけで働くより大きな経験値を得られる」  匿名登録をやめると、信頼感を得たのか、依頼が増えた。 「多くの企業が発注しているので、自分に合った仕事を探しやすい。個人が企業と契約すると支払いなどでトラブルになる可能性があり、仲介会社を通したほうが楽だった」(岡さん)  副業を続けるにはスケジュール管理が肝だ。本業で忙しい平日は避け、土曜日にまとめてこなし、日曜日は休む。 「デザインを考えるのが好きなので、土曜日に働いても苦にはならない。自分の能力が社外で通じるのか確認できる喜びもある」  現在は月に2件ほどのペースで請け負い、1件あたり10万円前後で、月に合計約40万円稼いだこともあった。もうけは貯金に回し、結婚資金の足しにした。  仕事の経験や知識を生かしたコンサルタントの道もある。大手建設会社の幹部で50代の男性は、昨年夏、専門知識を持つ個人に話を聞けるサービス「ビザスク」(東京)に登録した。ビザスクによるとアドバイザーは約3万人いて、7割が現役の会社員だという。  男性は資材調達の経験を生かし、これまでに3回、スポットコンサルタントをした。平日の夜に企業のオフィスや喫茶店で1時間ほど質疑応答する。  質問内容は資材の買い手が重視するポイントを聞かれることが多い。例えば住宅設備の場合、価格や省エネ性能、納期などいろいろな要素があり、優先順位を考える。どのような設備が求められているのか、長年の経験をもとに助言する。 「相手もプロなので厳しい質問をぶつけられる。それに答えることが、これまでの経験や知識の棚卸しになる。頭の中で曖昧(あいまい)になっていたことが客観的に整理できる」  手数料を引かれても1回あたり2万~3万円の収入があった。家族からも外食や買い物の費用にまわせると期待されている。  注意点は業務上の秘密を漏らさないようにすること。自身の仕事に関することは、質問されても答えなくて構わない。  日本では、こうしたスポットコンサルは発展途中だが、海外では広がっている。男性はビザスクとは別に、米国の企業からネットを通じて依頼があり、助言したこともある。 「会ったこともない人とネットで仕事の情報をやりとりすることは、日本ではまだ抵抗感がある。だが、経験豊富な50~60代の会社員の意識が変わってくれば、スポットコンサルは拡大していくはずだ」 ※週刊朝日 2017月3月31日号より抜粋
仕事
週刊朝日 2017/03/27 07:00
性暴力サバイバーの証言 友人の友人に、友人の父に…加害者も被害者も作りたくない
野村昌二 野村昌二
性暴力サバイバーの証言 友人の友人に、友人の父に…加害者も被害者も作りたくない
刑法改正案のポイント(AERA 2017年3月27日号より) 石田いくみさん/性暴力被害に遭って、いま人生に絶望している人に伝えたい。「傷痕があっても不幸になるわけじゃないよ」(撮影/編集部・深澤友紀) 柳谷和美さん(48)/性暴力被害はなかったことにできないけれど、「笑って幸せに生きることが、加害者の恐怖や支配から脱すること」(撮影/編集部・深澤友紀)  被害者の対象となるのは女性だけ。被害者の告訴がないと罪に問われない。法定刑は強盗罪より軽い。これが、現行刑法における「強姦罪」だ。性犯罪の厳罰化を含む刑法改正案が閣議決定された。社会を動かしたのは、体験を告白し続けた性暴力サバイバーたちだ。 *  *  *  性暴力被害は被害が外からは見えにくいため理解されにくいが、被害者の半数以上がPTSDを発症するというデータもある。この発症率は災害や事件、事故などによるトラウマ体験と比べても高い。その理由について、精神科医として女性の性暴力被害者の臨床に関わってきた宮地尚子・一橋大学大学院教授はこう説明する。 「性暴力の被害は、加害者と密着し距離がとても近い。そのため、視覚や聴覚、嗅覚、触覚などあらゆる感覚が侵襲され、被害者の体全体に恐ろしい記憶が刻印されてしまうのです」  自分の体そのものが性暴力を思い出させる「フラッシュバック」のきっかけになることもある。自責や自己否定によって追い詰められ、自殺や自傷行為を繰り返す被害者も多い。「魂の殺人」と呼ばれるゆえんだ。  そして性暴力被害者たちは、社会の無理解によってもう一度、「二次被害」という名の被害に遭うことも多い。  勇気を出して家族や友人などに打ち明けても、「なぜ逃げなかったの?」「なぜついていったの?」と非難される。被害自体を軽視されることもある。「誰にも言わないほうがいい」などとアドバイスされると、「これは恥ずかしいことなのだ。自分は汚れた存在だ。価値がないんだ」などと思い込み、ますます自分を責めてしまう。  公益社団法人被害者支援都民センターで臨床心理士として被害者の支援にかかわる齋藤梓・目白大学専任講師は言う。 「性暴力被害は被害者自身が自責の念を抱いていることが多く、こうした『二次被害』がそれに追い打ちをかける。被害者はいっそう自分を責め、他人を信用できなくなり、社会生活を送れなくなってしまう人もいます」  内閣府の2014年度の「男女間における暴力に関する調査」によると、女性の約15人に1人がレイプされる経験をしていた。被害者のうち24.8%の人が心身に不調をきたし、18.8%の人が自分が価値のない存在になったと感じ、16.2%の人が異性と会うのが怖くなったと答えている。引っ越したり、仕事や学校を辞めたり休んだりして生活が一変した人もいた。 ●暴行・脅迫要件は残った 「ヤマトミライ」の名前で性暴力被害の講演活動をしている石田いくみさんも、性暴力に人生を狂わされた一人だ。  20歳の頃、3人の男に集団で強姦された。加害者は初めて会った友人の友人。「殺すぞ」と脅されて、「生きてここから帰るため」抵抗できなかった。  バスガイドを夢見ていた。アルバイトで学費を稼ぎながら短大で観光を学んでいたが、短大にもアルバイトにも通えなくなった。異性への恐怖が募り、男性の運転手と2人で行動することが多いバスガイドもあきらめた。就職が決まらないまま卒業。その後も、採用面接を受けるたびに空白期間の理由を聞かれるが、うまく説明できない。事件のことを言えずにいた親からは「フラフラしている」と突き放され、「人生ってこうやって壊れるんだ」と絶望した。  数年後、経済的にも精神的にも追い込まれ、国道で寝転がった。急停止した車から降りてきた男性を前に、「死にたかった」と泣き崩れた。自らと対話する「コーチング」と出合ったのはその後のことだ。「性暴力被害者だって幸せになっていい」と思えたことが転機になり、性暴力被害当事者の談話会「サバイバルサロンぷれぜんと」を主宰している。  今回の刑法改正案で、改正を望まれながらそのまま残ってしまったことがある。「暴行又は脅迫を用いて」強姦した場合に強姦罪が成立するという「暴行・脅迫要件」だ。  先の内閣府の調査では、女性のレイプ被害者のうち警察に連絡・相談した人はわずか4.3%しかいなかった。勇気を出してレイプ加害者を告訴しても、裁判の場では「明らかな暴力性」がなければ有罪とされにくく、加害者が「脅迫したつもりはない」と主張すれば無罪になることもある。異性と2人でお酒を飲んだだけで「性交に同意した」と判断されることもある。「暴行・脅迫要件」があるためだ。  裁判の場では、「被害者が強く抵抗したかどうか」が問われるが、前出の一橋大学・宮地教授は、「抵抗は恐怖を感じたときの反応として一般的ではない」と指摘する。人は心が耐えられないほどの恐怖や危険を感じたとき、体が動かなくなることがある。「フリーズ反応」というが、この場合、加害者は暴力を振るわずとも目的を達することができてしまう。被害者が「抵抗しなかった」「逃げなかった」ことを理由に、加害者の責任が問われないのはおかしい。 ●大学生同士が伝え合う  3月15日、「キャンパスレイプを止めよう!」と題して、お互いを尊重する性のあり方を考えるイベントが開かれた。昨年、慶應義塾大学、千葉大学、東京大学などの学生らによる集団レイプや集団わいせつ事件が相次いだことを受けて、企画されたものだ。大学生を中心に、若者たちが、「性行為における同意」について話し合った。  主催団体の一つ、「ちゃぶ台返し女子アクション」の大澤祥子さん(26)はこう呼び掛けた。 「アメリカやイギリスでは、性行為には同意がなければならないとされていて、そういう教育もされている。女性も性の主導権を握っていいし、性行為では相手の意思を尊重することが大切だということを大学に戻って周りの人に伝えてほしい」  性暴力被害者で、親子カウンセラーとして活躍する大阪府の柳谷和美さん(48)も言う。 「加害者も被害者もつくらないために、自分も相手も尊重し、嫌なことは嫌と言える人間を育てていくことが大切です」  5歳のときに隣に住む友だちの父親から、7歳のときに当時16歳のいとこから、性暴力の被害を受けた。中学・高校時代は「自分は汚い子やから生きている価値がない」と自暴自棄になり、夜遊びを繰り返した。恋人からもDVを受け、中絶2回。誰にも言えずに30年以上、苦しみ続けた。  子育てに悩んでカウンセリングを受けたことを機に「私は私のままでいい」と自分を認められるようになり、「苦しみを知っている私だからできること」を伝えようとカウンセラーになった。柳谷さんは言う。 「加害者だって、私にあんなことをするために生まれてきたんじゃない。性暴力の被害者として、人が人を傷つけることのない社会を実現していきたい」 (編集部・野村昌二、深澤友紀) ※AERA 2017年3月20日号より一部抜粋
AERA 2017/03/23 16:00
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