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食材つき情報誌「食べる通信」 編集長は元リーマン
食材つき情報誌「食べる通信」 編集長は元リーマン
山口沙弥佳さん(34)/「つくりびと~食べる通信fromおおさか~/大阪府」編集長/リーマン・ブラザーズでは地方銀行担当の営業ウーマン。朝6時から深夜0時まで働くこともザラだった。いまは、生産者を訪ねて大阪府全域を走り回る(撮影/藤岡みきこ) 赤木徳顕さん(52)/「神奈川 食べる通信/神奈川県」編集長/2016年から岩手大学でソーシャルベンチャーを教える赤木さん(中央)。一貫して、「スモールネットワークシステムの構築」に興味を持っている(撮影/編集部・石田かおる)  2013年に東北で生まれた「食べる通信」。誌面はいずれもオリジナリティー豊かだが、目を引くのが陣頭に立つ編集長たちだ。金融やITの先端を走っていた彼らがなぜ惹きつけられるのか。 「片手はダメ。下に両手を入れて丁寧に引き上げて。折れたら商品にならないから」  河内れんこんの生産者に収穫の手ほどきを受けるのは、「つくりびと~食べる通信 fromおおさか~」の編集長、山口沙弥佳さん(34)だ。冬だというのに汗だく。泥の中のれんこんを掘り出すのは、思いのほか重労働だった。 「れんこんの収穫はワイルドに見えて実に繊細。改めて、大変手間のかかる作業だということがわかりました」  こう話す山口さんは10年前は「ヒルズ族」。京都大学経済学部を卒業後、米投資銀行リーマン・ブラザーズに就職した。 「大学では医療経済学を専攻しました。お金を特定の場所に停滞させるのでなく、循環させることが世界の貧困対策にもつながると思ったからです」  しかし入社3年目、産休中に会社が倒産。副社長などを招いた結婚式の2週間後だった。破綻はニュースで知った。  夫が暮らしていた関西に移り住み3児の母に。再就職は厳しく、悶々と専業主婦を続けた。食に意識が向いたのは長女が3歳のとき。きちんとした「だし」の取り方をみせたいと思い立ち、かつお節を削るところからやってみせた。だしの香りが立ったとき、娘は言った。 「『クサッ!』って。これはまずい、と思いました」  味覚や身体は食べたものによって形づくられる。それなのに、「何を食べるか」を選択しようにも世の中には食の情報があふれ、何を信じ、どう教えればいいのかわからなかった。行き着いたのが、「知産知消」。 「ときどき、母方の田舎から野菜が届く。結局、知っている人が作ったものを食べるのが一番の安心なんです」  調べると、大阪には漁師が千人以上いて、農家もたくさんある。生産者とつながることで多くの消費者に「身近な田舎」を持ってほしい。昨年5月、子育て世帯をターゲットに、絵本付き「食べる通信」を創刊した。  全国で発行される「食べる通信」。山口さんは創刊号で「泉州水なす」を特集した。B5判16ページの冊子に食材が4人分、水なすを主人公にしたオリジナル絵本も付いて3980円。以後、奇数月に発行し、偶数月には料理教室や生産地バスツアーなどを企画している。ヒルズ族から生産者と消費者をつなぐ「食べる通信」の編集長への転身で、山口さんが求めたものは何だったのか。 「リーマンの破綻は、実体と離れた信用経済の破綻でした。現場に足を運び、自分の目で見て、触れて、話を聞く。不便で効率が悪くても、そんな原点に返ることが必要だと思うんです」 ●間に入ることで事件 「神奈川食べる通信」の編集長を務める赤木徳顕さん(52)は、IT起業家からの転身。昨年12月初旬には、築300年のかやぶき屋根の古民家に「神奈川食べる通信」の読者と生産者が集まって餅をつき、具だくさんの豚汁を作った。食材の中には11月号で特集した「苅部大根」もあった。 「苅部大根を丸ごと1本おいしく食べる調理法は?」 「お餅がカビないようにするにはどうしたらいいですか?」  頬張りながら会話もはずむ。  赤木さんは大学を卒業後、野村総合研究所に就職。1995年にマサチューセッツ工科大学スローン経営大学院に留学し、シリコンバレーに駐在した。2000年に鮮魚販売のネットビジネスを起業したのが食との最初の接点。05年に横浜に地産地消レストランを開いたのは、こんな思いからだ。 「生産者と消費者の間に多くの工程が入ることで、雪印などの食をめぐる事件が起きていた。両者を直接つなぐことが大事だと思いました」  しかし、店に足を運べる人の数は限られ、思い描くような、地産地消をサポートするコミュニティーの確立にまで発展させることは難しい。ジレンマを抱えていたころに「食べる通信」を知り、14年11月、都市部では初となる創刊を果たした。  楽なスタートではなかった。 「東北食べる通信の読者が1500人。500人くらいはすぐ集まると思ったのですが……」  県内のコミュニティースペースを行脚して座談会を重ねた。 「すると、自分だったら特集の生産者に会いに行く、という人がいたんです」(赤木さん)  産地と消費地が近いのが都市部の強みだと気づいた。宅配ではなく生産現場を訪ねて「食べる通信」を受け取ることもできるようにするなど、現地体験型の神奈川方式を生み出した。 ●社会が動くさまを実感  取材した日、イベントの参加者は約20人。その一人で読者の野田雅子さん(46)は言う。 「10年以上住んでいますが、神奈川について何も知らなかった。食べる通信のイベントでいろんな場所を知ることができ、生産者の知り合いもできて楽しい」  赤木さんも言う。 「生産者と消費者が一緒に料理をし、食べ、語り合う。まさに僕が描いてきた地産地消の究極のイメージです」  前職までのスケール感と、ギャップが大きすぎませんか? 「以前の僕が相対していたのは数字。いまは、小さくてもそれぞれが自律的かつ有機的に動くことで、社会が動くさまを実感できる。ワクワクします」  英訳付き「やまぐち食べる通信」を発刊する和田幸子さん(57)も約20年間、メリルリンチ、JPモルガン、モルガン・スタンレーなど、名だたる外資系金融機関を渡り歩いた。旅した国は30カ国。現在は、東京・神楽坂で食のセレクトショップを営みながら山口県に通う日々だ。 「旅行は好きでしたが、国内を旅することはほとんどなかった。山口は、三方を海に囲まれた“食材の宝庫”。地元の人たちが『当たり前』として見過ごしているものの中に、宝ものがいっぱいあると感じました」  昨年3月の創刊号で取り上げたのは、地鶏の「長州黒かしわ」と海水を原料に伝統の製法で作った「百姓の塩」。外資系金融時代、ニューヨークやロンドンで触れたのとはまた別の「異文化」に直面しているという。 「よそ者の疎外感を感じることもあります。でも、異文化だからこそ好奇心がかきたてられ、都市と地方、世界と地方の懸け橋になれるのではないかという思いも募る。今後は東京と山口での2拠点生活を考えています」  将来的には、食を中心にして旅行業にも広げていきたい。 「地方は手つかずの魅力がまだたくさんあるフロンティア。先端の仕事についていた人ほどクリエイティビティーが刺激され、引き寄せられるのだと思います」(和田さん)  昨年11月下旬、宮城県の「東松島食べる通信」編集長、太田将司さん(43)は東京・銀座にいた。老舗和食店「銀座こびき」で、秋号に掲載するちぢみほうれん草を使った料理を撮影するためだ。テーブルには、3代目の金子大史さんが作ったちぢみほうれん草料理が並ぶ。カメラを手に撮影するのも、取材、執筆するのも太田さんだ。 ●中心を突き抜けて外へ  ブランド家具店などで働いてきた。11年夏、東日本大震災で津波の被害を受けた東松島市に行き、ボランティアの夏祭りを手伝った。帰り道、多くの家屋が倒壊したままの光景を目にした。震災からすでに数カ月。衝撃を受け、移住した。 「漁師の仕事を初めて見たとき、嫉妬するほどかっこいいと思った。彼らの仕事は命につながっていますから」(太田さん)  14年2月の「東北食べる通信」が東松島の海苔漁師を特集。漁師の思いに触発された同市アンテナショップのスタッフが「もっと彼の海苔を売りたい」と言うのを聞いて思ったという。 「町おこしのツールに使える」  3誌目の「食べる通信」として創刊した。メインターゲットは東松島市民だが、創刊号から黒字。400人弱の読者の半数以上を市外在住者が占め、東京の人気シェフが腕を振るう。 「中の人たちが楽しめないようでは、外の人も楽しめない。内側へ内側へとグルグル人を巻き込んでいったら、いつの間にか中心を突き抜けて外側に渦巻きが広がっていきました」(太田さん)  各地の「食べる通信」が共有するのは、「社会を少しでもよくしたい」という等身大の思い。グローバルを知るからこそローカルの魅力がよくわかる。その複眼が、何かを動かしていく。 (編集部・石田かおる) ※AERA 2017年2月6日号
AERA 2017/02/03 16:00
ブラック厚労省に「働き方」問う資格なし
ブラック厚労省に「働き方」問う資格なし
1月18日20時41分。日比谷公園側から厚労省を見上げた。「国会が始まると出歩く暇もないので、今週は友人と会う予定を毎晩入れてます」と話す職員も(撮影/澤田晃宏)  国会が始まった。安倍晋三首相が1億総活躍のための最大のチャレンジとする働き方改革の議論も進む。一方で、所管する厚労省のブラック公務は置き去りに……。  通常国会が始まる前々日の1月18日、記者は厚生労働省内で取材をしていた。この日は水曜日。超過勤務(以下、残業と表記)縮減の取り組みとして、内閣府は厚労省を含めた全省庁に対し、毎週水曜日は定時退庁するように促している。大臣の答弁準備のための仕事もなく、早く帰りやすい日だったようだ。  20時5分前になると、退庁を促す館内放送が流れた。20時になると一斉に電気が消えたが、間髪を入れず再び電気がついた。その前後、パソコンに向かう職員の視線が動くことはない。いつものことなのだろう。外に出てビルを見上げる。半分くらいは明かりがついていた。  職員のAさん(30代)は、 「定時退庁日はメールでも案内が届きますが、もはや迷惑メール。帰れるなら帰ります」  手元に厚労省のある課の残業記録がある。時期は2016年3月だ。 ●2割強は過労死ライン 「局や課、業務の担当により仕事量は大きく異なるが、年度末は予算編成の時期で、年間を通じて最も忙しい時期」(50代の職員Bさん)という。とはいえ、過労死ラインの月80時間を超えて残業している職員が課全体の半数を超え、100時間以上の残業者も1人や2人じゃない。  こんなことがありうるのか。激務の国会業務を担当する職員のCさん(30代)に尋ねると、 「答弁の資料を揃え、朝に大臣へ説明をするまで業務は続く。昨年の臨時国会期間中は退庁が早くて22時。週2、3回は日付をまたぎ、期間中は自宅で夕食を食べたことがない」  そもそも長時間労働の是正は政府の目玉政策「働き方改革」の大きな柱だ。所管の厚労省による大手企業の摘発が続く。昨年の電通に続き、今度は三菱電機とその労務管理担当者が入社1年目の社員に違法な残業をさせたとして労働基準法違反の疑いで書類送検された。塩崎恭久厚労大臣は13日の記者会見で、 「労働時間の管理が不適正な企業はしっかりと監督指導をしていきたい」  と監督省庁として指導を強化する考えを示したが、自分たちの足元はどうなのか。女性職員のDさん(20代)はこう話す。 「実際に支払われた給料を自分でメモした勤務時間で割ると、700円以下だった。電通の件は他人事ではない。親にも心配され、中小企業でもいいから転職しなさいと言われている」  霞が関で働く国家公務員の労働組合でつくる「霞が関国家公務員労働組合共闘会議」(霞国公)が行ったアンケートによれば、過労死ラインを超えて残業する人は全体の約9%だが、省庁別にみると、ワースト1は21.3%で厚労省(旧労働省の職員)。ワースト2も20.8%で同じく厚労省(旧厚生省の職員)だ。 ●ハンコで勤怠管理 「他省庁に比べ、生活に密接した業務を担当する厚労省は関連法案も多く、残業が多い。省庁で業務量に差があり、勤務時間だけではなく、残業代の不公平感も問題だ」(40代の職員Eさん)  先のアンケートで「残業手当に不払いがある」と答えた人は回答者全体では42.4%だが、厚労省では約8割。どのような勤怠管理が行われているのか。  まずは出勤時、出勤簿の自分の名前がある欄にハンコを押す。タイムカードなどはない。パソコンを立ち上げると、局や課により細部は異なるが、ログインの時間が共有フォルダ内のエクセルファイルに自動入力される。ログオフした際も同様に自動入力されるが、必ずしも「パソコンが起動している時間イコール勤務時間」ではないため、勤務時間は別途に手入力が必要となる。エクセルファイルは誰もが開ける場所にあるからこそ、冒頭の残業記録も一職員の手によって記者に渡ったのだ。  さて、残業をする場合はどうしているのか。内閣人事局の担当者は、こう説明する。 「理由や業務の見込み時間を事前に上司に報告し、承認を受ける。各省庁の人事課長レベルでの申し合わせはある」 命令を受け残業する  だが、決まったルールはない。最終的には勤務時間管理員が先のエクセルファイルなどの記録をもとに「超過勤務等命令簿」を作成し、幹部の押印をもって残業が認められる。職員の押印は必要ない。職員のFさん(40代)は言う。 「給与明細に残業時間数は明記されているが、自己入力した勤務時間分、満額出ているとは思えない。超過勤務手当の予算が決められており、その範囲内でしか手当は支給されない」  さらには、残業の考え方が、民間企業とは異なる。日本国家公務員労働組合連合会の鎌田一書記長が、こう説明する。 「労働基準法では時間外労働を行わせるには労使の三六協定が必要ですが、国家公務員は管理職の命令が要件となり、人事院が上限目安を定めているが、仕組みとしては無制限に時間外労働をすることができる」  ただ、厚労省も長時間労働が常態化する現状を見過ごしているわけではない。 「休むのも仕事です。今度こそ本気です。」  そんなキャッチコピーを掲げ、15年から省内の働き方改革に取り組んでいる。 「ワーク・ライフ・バランスを重視するいまの若者に、滅私奉公的な霞が関の働き方ははやらない。採用が決まっても、親の反対で駄目になったケースもある。霞が関全体で危機感を持っている」(ある人事関係者)  そうした背景もあるからだ。  大臣官房人事課の飯田剛調査官はこう話す。 「希望する者にテレワークを活用させたり、定時退庁や休日出勤などに関する具体的な目標を掲げたりした。人事評価にも取り入れ、管理職も早く帰るように声をかけるようになった」  省内の改革チームが意識づけに出したのは、二つの数字だ。全職員の65%が毎月1日以上の年次休暇を取得。そして原則20時までに退庁することだ。   だが、前者は昨年で70%と成果は出たが、完全退庁時刻は平均6分間短縮したものの、20時を5分過ぎている。 ●21時から答弁を作成  省内の努力にも限界はある。  先の霞国公のアンケートによれば、残業の理由は「業務量が多いため」(59.5%)がトップ、次いで「国会対応」(29.4%)となっている。  職員のGさん(30代)は人手不足だと指摘する。 「私が入省した約15年前は係長の下に係員が3人いた。今は一人係長も珍しくなく、係員がいても地方からの研修生や非常勤職員。同じ業務量を期待することはできない」  15年度から毎年2%(5年間で10%)の公務員削減という国の方針のもと、削減した定員の重点部署への再配置を行っているが、負担が減ることはない。  業務のなかでも大きな負担になっているのがアンケートでも多かった「国会対応」だ。国会や委員会での答弁作成は霞が関の役人が担っている。内閣人事局の調べによれば、全ての議員からの質問通告(質問者が政府に質問内容を通告すること)が出揃う全省庁の平均時刻は20時56分。この時点ですでに定時を大きく回っている。  Cさんはこう愚痴った。 「質問内容があいまいだと、関連するだろう局や課はすべて待機させないといけない。議員のツイッターやブログもチェックして関心事を調べ、局内の待機態勢を縮小する努力はするが、そもそも委員会の開催が決まるのは前日であり、限界がある」  国会で「働き方改革」が議論されるなか、職員の多忙な日々も始まっている。  取材したうちの一人はこうもこぼした。 「夏場の会期延長はつらい。原則20時で冷房は切れ、30度を超えるなかでの勤務になる」  男性の若手職員のなかには、夜になると、Tシャツ、短パン、サンダル姿で仕事をする姿も目立つという。たとえ時間を区切っても、長時間労働の根本的な原因が解決しない限り、働く環境も悪くなるばかりだ。 (編集部・澤田晃宏) ※AERA 2017年2月6日号
働き方
AERA 2017/02/01 07:00
VRが孤食を救う? おばあちゃんと食卓を囲む「バーチャン・リアリティ」とは
VRが孤食を救う? おばあちゃんと食卓を囲む「バーチャン・リアリティ」とは
簡易VRビューアーの利用イメージ(南あわじ市提供) 独立国「あわじ国」のポスター。上沼恵美子官房長官の存在感がすごい(南あわじ市提供)  慌ただしく仕事や学校などに向かう朝、疲れて帰ってきた夜、1人でご飯を食べるのが、なんとなく寂しい時がある。そんな時にのぞいてみたいのが、淡路島にある兵庫県南あわじ市が、2017年1月11日からインターネット上で配信しているVR(バーチャルリアリティ)動画「あわじ国バーチャン・リアリティ」だ。  スマートフォン(スマホ)で「おばあちゃんと朝ごはん編」を再生すると、おいしそうな三角のおにぎりや卵焼きが並んだ食卓に、おばあちゃんが野菜たっぷりの味噌汁を持ってくる。 「よう寝れたか?ぎょうさんおあがりや」。優しく声をかけてくれるおばあちゃん。「じいちゃんもな、ほんまに楽しみにしてたんやで。なあじいちゃん」。おばちゃんの目線の先、右側にスマホを振ると、縁側で碁を打つおじいちゃんが「よう帰ってきてくれた」と笑う。食事の途中には、ご近所さんがレタスを持ってきてくれる。「あっ帰ってたん!久しぶりやねえ」。和やかに食事は進む。  お次は「おばあちゃんと夜ごはん編」。タマネギのステーキや淡路ビーフステーキ、「淡路島3年とらふぐ」の刺身など、南あわじ市の特産品を使った料理がずらりと並ぶ食卓を、おじいちゃん、親せき、ご近所さんたちと囲む。 「おいしいか~?」「仕事はどうなんや?体を大事にして頑張ってなあ~」。ここでもおばあちゃんは優しい。総勢約20人のにぎやかな食卓は、まるで里帰りした時のようだ。デザートのプリンを待ち切れずにせがむ子どもたちを見て、動画を見ている“私”の子ども時代を懐かしむおばあちゃん。まさに「バーチャン・リアリティ」だ。 「おばあちゃんには社会的な役割があると思うんですよ。一親等の父母とは違う優しさがあり、声をかけられると癒やされる、落ち着く、勇気がわいてくる。特産品と共に、そんな一面も伝えたい」  こう語るのは、南あわじ市食の拠点推進課課長、喜田憲和さんだ。市が樹立した架空の新国家「あわじ国」の活動を通して、特産品のPRに携わっている。今回のVR動画も、その一つだ。  1970年代後半から80年代ごろにかけて、全国各地で自治体などによる、町おこしを目的とした“ミニ独立国”の建国ブームが起こった。ブームはその後、市町村合併などで終息したが、南あわじ市は、地域のPR策として独立国に着目。市出身のタレント、上沼恵美子さんの協力を得て、2016年1月、あわじ国として独立を試みる動画を配信、続いて独立の是非を問うインターネット投票を行った。  投票の結果、独立賛成派が圧勝し、16年3月にあわじ国が始動、上沼さんが“官房長官”、中田勝久市長(17年2月に退任予定)が“大統領”に就任した。以来、市は特設サイトでタマネギやそうめん、うにしゃぶといった特産品、鳴門海峡の渦潮などの名所を紹介している。  今回のVR動画は、1人でご飯を食べる「孤食」の解消に取り組みつつ、市の特産品を効果的にPRしようと企画した。おばあちゃんが登場する朝ごはん編と夜ごはん編のほか、渦潮を楽しめる「うずしおクルーズ」、淡路人形浄瑠璃を取り上げた「淡路人形座」の計4本の動画を作成した。  いずれも360度のVR動画で、スマホを上下左右に動かせば全方向の映像が見られる。市販のビューアーを顔に着ければ、臨場感たっぷり。おばあちゃんたちとの交流も、よりリアルに心に刺さる。動画はパソコンでも楽しめる。また、市に1万円以上のふるさと納税を寄付した人のうち、希望する先着200人に、あわじ国オリジナルの簡易VRビューアーをプレゼントする。  喜田さんによると、VRは撮り直しができないため、動画の撮影、特に大勢が出演する夜ごはん編の撮影に苦労したという。出演しているのは、子どもたちを含めほとんどが一般の市民。リハーサルを重ね、一発勝負で臨んだところ、なんとか成功したという。喜田さんは「動画をきっかけに田舎の良さや文化、食の宝庫である淡路島を知ってほしい」と話す。  あわじ国の官房長官、上沼さんはVR動画の公開に際し、こんなコメントを寄せている。「おなじ家族の中でも、ともに食卓を囲めない状況が多いと聞きます。それは、あまりにもさびしいではありませんか。もっと、食べることをみなさんに楽しんでほしい。みんなで食べると、もっと、食事はおいしくなる。日本の食卓に、笑顔とおいしさがあふれますように」  仕事や家事などで疲れていても、私たちにはおばあちゃんがついている。あわじ国の「バーチャン・リアリティ」は、明日へ向かう背中をそっと押してくれるかもしれない。(ライター・南文枝)
dot. 2017/01/28 16:00
こたつで猫と一緒に丸くなる? 今こそ行きたい“あったカフェ”9選
こたつで猫と一緒に丸くなる? 今こそ行きたい“あったカフェ”9選
【暖炉カフェ】ダルブルズ・バー/ドライフルーツの盛り合わせ800円、ラム(ハバナクラブ7年)のロック1000円(撮影/写真部・東川哲也) 【こたつカフェ】猫の居る休憩所299/こたつの中で猫が寝ていることがあるかも!(撮影/写真部・加藤夏子)  一年でもっとも寒さが厳しい時期。足先から手の先まで、凍えるカラダを温めてくれる暖炉やこたつ、足湯が楽しめるカフェ&バーをご紹介! *表示価格はすべて税込みです。 【暖炉カフェ】 ■えの木てい  横浜に居留していた外国人のお屋敷が、戦後、カフェに。暖炉も前の持ち主が使っていたときのまま。パチパチと薪がはぜる音を聞きながら自家製ケーキに舌鼓を打っていると、洋館に招待されたお客様の気分になる。 住所:神奈川県横浜市中区山手町89-6/営業時間:11:00~18:30L.O./定休日:なし*暖炉に火が入るのは冬季・不定期 ■entotsu Bistro&Cafe  薪ストーブの販売会社が、その良さを知ってもらいたいと経営するカフェ&レストラン。お店の奥に備え付けの大きな暖炉があり、加えて薪ストーブが1台置かれている。 住所:東京都杉並区下高井戸2-6-2/営業時間:カフェ 平日11:00~17:00(16:30L.O.)、土日祝10:00~17:00(16:30L.O.)、ディナー 17:00~22:00(21:30L.O.)/定休日:月のディナータイム、火*暖炉に火が入るのは冬季 ■ダルブルズ・バー  1982年のオープン時から設置されている暖炉。漆喰で塗られた壁や天井は、油煙ですすけていて、レトロな雰囲気満点だ。ラム酒専門バーなので、年代ものや、ダイキリやモヒートなどラムベースのカクテルも秀逸。暖炉の前で、ぜひゆっくり味わいたい。 住所:東京都港区白金台5-3-1 2F/営業時間:19:00~翌2:00/定休日:日*暖炉に火が入るのは11月初旬~4月末頃まで 【こたつカフェ】 ■猫の居る休憩所299  20匹の猫が暮らし、自由に触れ合える店の畳スペースに、四つの円形こたつが並ぶ(予約可)。約2000冊の漫画が揃い、こたつに入ると出られなくなること必至! 中で猫が寝ていることがあるかも。 住所:東京都豊島区東池袋1-23-9 近代BLD.10号館5F/営業時間:11:00~22:00/定休日:なし/利用料金:10分200円(平日2000円、土日祝3500円が時間料金上限)、中学生以上利用可 ■cafe Stay Happy  世界を旅した夫婦が営むカフェ。バックパッカーが集うドミトリーに似た雰囲気で、グアテマラの布がかかったこたつも違和感なし(予約可)。有機野菜の料理やオーガニックワイン、世界のビールなどが味わえる。 住所:東京都世田谷区代沢2-29-14 2F/営業時間:13:00~24:00(日~22:00)/定休日:火、第2水 ■LONCAFE 湘南江の島本店  日本初のフレンチトースト専門店。相模湾を一望できる絶景を生かすべく、窓は一年中全開。そのため、冬はテーブルクロスの中にヒーターを入れ、暖が取れる“洋風こたつ”を用意。夜景も見応えあり。 住所:神奈川県藤沢市江の島2-3-38 江の島サムエル・コッキング苑内 *江の島サムエル・コッキング苑へは別途入場料が必要(大人200円)/営業時間:平日11:00~19:30L.O.、土日祝10:00~19:30L.O./定休日:なし 【足湯カフェ】 ■ベーカリー&テーブル箱根  目の前が芦ノ湖という素晴らしいロケーションのなか、手作りパンやスイーツを楽しみながら、温泉の足湯につかれるという、目でも口でも足でも楽しめるスポット。子どもから大人まで大人気なので、休日は行列覚悟で。 住所:神奈川県箱根町元箱根9-1/営業時間:パーラー10:00~17:00、カフェ8:30~16:30L.O./定休日:なし*足湯はパーラー(テイクアウト)か、カフェで注文すると無料で利用可能 ■HOGUREST  都会のビルの中、まるでオアシスのような空間が広がる。清潔感のある店内には、ビジネスパーソンが、仕事の合間のリフレッシュに次々と訪れる。足湯をしながら、お茶を飲めるだけでなく、本や雑誌を読んだり、パソコンで仕事をしたりできる。 住所:東京都台東区台東4-8-5 T&T御徒町ビル3F/営業時間:11:00~21:30L.O./定休日:なし/利用料金:足湯60分+ワンドリンク780円、湯もみ(足湯+肩マッサージ)5分+ワンドリンク1320円 ■もみの気ハウス 渋谷道玄坂店  健康の第一条件である「頭寒足熱」を体感してほしいと始めたマッサージ店内の足湯カフェ。アーユルヴェーダに基づいたハーブティーも供され、「汗がかけてスッキリした」「足が軽くなった」と人気。 住所:東京都渋谷区道玄坂2-28-3 道玄坂クラトスビル7、8F(受付、足湯カフェは8F)/営業時間:11:00~翌5:00/定休日:なし/利用料金:足湯45分+ワンドリンク1080円~、湯もみ(マッサージ)は別途5分540円~ ※週刊朝日  2017年2月3日号
ねこ
週刊朝日 2017/01/28 11:30
「愛人じゃだめなの?」 渡辺えりの夫が結婚で親から言われた言葉
「愛人じゃだめなの?」 渡辺えりの夫が結婚で親から言われた言葉
演劇という創作活動で戦い続ける渡辺えりさんと土屋良太さんは、世間の物差しでは測り切れない、強い絆で結ばれている。(※イメージ)  渡辺えりさんと土屋良太さん夫婦の出会いは、渡辺さんが主宰する劇団の養成所だった。その後、二人は結婚したが妻40歳、夫28歳と、その年の差は一回り。しかし、演劇という創作活動で戦い続ける渡辺えりさんと土屋良太さんは、世間の物差しでは測り切れない、強い絆で結ばれている。 ※「渡辺えり『死の恐怖から逃れるため』 演劇始めた理由語る」よりつづく *  *  * 妻:20歳のころから8年間、本気で交際していた人がいたんです。結婚も考えていたけれど、結局別れることになって。それから40歳になるまで、恋愛らしい恋愛をせずにきたんです。 夫:仕事が充実してきて、それどころじゃなかったんだよね。 妻:そのうちに、すごく好きな人が現れた。年下の銀行マンで、お互い忙しいけど、毎週のようにデートして。3カ月ぐらい付き合ったところで、その彼がイギリスに転勤することになり、私は一緒に行くつもりでいたんです。劇団も解散しなくちゃ……なんて考えてた。 夫:僕らにとっても座長の結婚は大問題でした。解散は寂しいけど、幸せになってもらわなくちゃって思ってましたし。 妻:ところが相思相愛だと思っていたのは私だけだったんです。デートしていたのも「話が面白いから」。 夫:その別れの場面に、僕、荷物持ちしていて、立ち会っちゃったんです。えり子さん、才能のあるすごい人なのに、そういうことにはとんと疎いというか。少女のように泣きじゃくるのを見て、なんかかわいそうな人だなという同情心から守ってやりたいという気持ちに。 妻:それで付き合うようになったのよね。 夫:それでしばらくしたら、「土屋君、いつ結婚する?」。食事しながら、さらっと言うんです(笑)。 妻:そもそも、結婚を焦ってたんです。そろそろ子供を産みたいとも思っていましたし。 夫:うろたえましたよ。そうか、結婚かあって。腹をくくって、佐渡島の実家に電話して。母親に「渡辺えりさんと結婚する」って報告したんです。 妻:反対された? 夫:まず、絶句(笑)。で、ようやく口を開いたと思ったら「愛人じゃだめなの?」。今度はこっちが仰天ですよ。まさか親の口から「愛人」なんて言葉が出るとは思ってもみなかった。 ――劇団内での恋愛は禁止。これは妻が定めたルールだった。だから二人の交際は極秘。だが、マスコミがかぎつけて……。 妻:普段から団員に言ってたんです。恋愛は禁止。結婚するならいいよって。 夫:それで早々に婚姻届は出したんだけど、公演も近づいてたし、内緒にしてたんですよ。そうしたら、どこから漏れたのか、マスコミがやってきて。 妻:すぐ近くに筒井道隆さんが住んでたんです。帰ると記者がたくさん詰めかけてるので「ありゃー。筒井さん何かやらかした?」って思ったら、私を待ち構えてる人たちだった(笑)。 夫:明日の新聞には載せますって言われて、その前には劇団に発表しなきゃ、と。本番1週間ほど前の一番忙しいときだったのに。 妻:みんな徹夜続きで、ぼろぼろになりながら、稽古場で作業してたんだよね。一番年長の俳優から発表してもらったんだけど、みんなの反応がおかしくてねー。 夫:「何? 何? どういうこと?」って騒ぐやつやら、「あー。おかしいと思ったんだよー」って言うのやら。特に僕ら男性の団員からすると、女性の座長は憧(あこが)れの対象でもあって。疑似恋愛というか、マドンナ的なところもありましたから。 妻:実際、その後辞めていった人もいたもんね。 夫:まあ、衝撃だったとは思います。  それまで僕は家賃1万7千円のアパートに住んでたんです。それも3カ月も滞納して。大家さんに「結婚するんです」って言ったら「ええーっ?」って。そりゃそうですよね。1万7千円が払えないやつが結婚なんて。 妻:で、私のマンションで暮らすようになって。 夫:そのころの僕は何にもできませんでした。みそ汁の作り方さえ知らなかった。相変わらず経済力もない。あまりの格差に落ち込みましたね。少しでもイーブンな関係でいるために、なんとかしなくちゃとは思うんだけど、プライドが邪魔して気持ちだけが空回り。今では朝ごはん作って出す、ぐらいはしますけど。 妻:別居したこともあるもんね。 夫:そうそう。アパートを借りて本格的に出ていった。1年ぐらいだったっけ。 妻:すぐ近所だったけどね。うちから椅子とか持ち出したでしょ。朝、起きてみたら椅子がないから「あらー?」(笑)。 夫:そうなんですよ。出ていったものの、飼い犬のことが気になっちゃって、ちょくちょく寄っては餌をやったり散歩させたりしてた。 妻:気が付いたら帰って来てたね。 夫:だって家のほうが居心地いいんだもの。 妻:もう離婚しようっていうのは、お互い何度もあったと思いますよ。結局、子供にも恵まれなかったし。でも、子供がいないから離婚、っていうのはおかしいでしょ!って思いなおして。 夫:創作活動を続けてるから、ここまでこられたと思いますね。芝居がなかったら、一緒に居なかったと思う。二人とも演劇が好きで、話が好きで、あれこれ語り合うのが本当に楽しい。 妻:私が彼の才能の芽を摘んでるって思う人がいるみたいで、心外なんですよ。力はあるんだから、どんなことにも挑戦して、どんどん活躍してほしい。それができる人なんだから! 夫:必死で芝居に取り組む、戦友ですね。今月は久しぶりに、一緒の舞台があって、楽しみです。 妻:この時代、いろんな価値観がめちゃくちゃじゃないですか。特に、福祉が行き渡ってない!って痛感するんです。だから今回の舞台は、日本で老いるとはどういうことか、友情とは何か、がテーマ。でも、ドタバタのコメディーなの。 夫:今回もえり子さんの家族がモデルになっていて、僕は彼女の弟の役どころ。 妻:いつだって自分の作る芝居だけは現実を追いたい、って思ってるんです。テレビや映画にも出ていて、なんで今さら小劇場なの?って言う人もいるけれど、自分たちにしかできない芝居がやりたい! そう思ったら、小劇場しかないんですよ。 夫:それが僕ら夫婦の絆でもありますしね。 ※週刊朝日 2017年2月3日号より抜粋
週刊朝日 2017/01/27 11:30
医療費、介護費の負担もズシリ…75歳高齢者で下流老人急増も
医療費、介護費の負担もズシリ…75歳高齢者で下流老人急増も
日本老年学会と日本老年医学会の「高齢者は75歳以上」という提言が波紋を呼んでいる。(※イメージ)  日本老年学会と日本老年医学会の「高齢者は75歳以上」という提言が波紋を呼んでいる。現在、65歳を基準にしている社会保障の制度が多く、基礎年金の支給が始まり、介護保険で原因に関わらずサービスを受けられるのは65歳以上だ。もし実現した場合、その基準も引き上げられるのではないかと懸念されているのだ。さらに、自分で資産を運用する個人型の確定拠出年金(DC)に、今年から原則として誰でも入れるようするなど、政府は社会保障のカットに向けて対策をとっている。 「自助努力」や「自己責任」で人生の後半を築き上げる社会が到来した場合、晴耕雨読の生活や、趣味やボランティアに力を入れる理想の「老後」は夢物語になるのはいうまでもない。  社会福祉士で『続・下流老人』(朝日新書)などの著作があるNPO法人ほっとプラスの藤田孝典代表理事は「政府は財源がないのでなるべく社会保障の対象者を減らしたい。年金は当てにできず、ずっと働き続けるよう求められる」と警告する。  実は、いまも日本の高齢者は働き者だ。13年の就業率を国際的に比べると、ドイツは5.4%、米国は17.7%なのに、日本は20.1%。65歳以上の5人に1人は働いている。高齢者の基準が上がれば、さらに増えるのは間違いない。  働く理由も自己実現のためというより、収入が必要なため仕方なく働いているケースが目立つ。蓄えた資産を取り崩せばいいと思うかもしれないが、持つものと持たざるものとの差は大きい。1億円を超える富裕層がいる一方で、蓄えがない世帯も少なくないのだ。  厚生労働省の国民生活基礎調査(13年)によると、貯蓄が500万円未満しかない高齢者の世帯は4割超。そのうち2割弱は貯蓄がないとしている。  藤田さんは「富裕層もいるので全体でみると貯蓄の平均値は高いが、実際は余裕のない世帯が多い。年金だけでは暮らしていけず労働力を売るしかない高齢者は、いまもたくさんいるのです」という。  仕事も、事務職といった人気の求人はほとんどない。採用に積極的なのは、飲食関係や警備、清掃や介護など賃金が低めできついとされる分野だ。工事現場での交通整理、飲食店やコンビニエンスストアなどで深夜も頑張る人がいる。働きすぎで体調を崩し、藤田さんのところに相談に来る高齢者も多い。「生涯現役」のかけ声のもとで死ぬまで働くことが普通になれば、こうした「過労老人」は急増していく。  働けなくなれば生活保護を受けることも選択肢だ。受給しているうち高齢者の世帯は16年3月に5割を超えた。制度ができた1950年以降で初めてだ。  だが、財政の余裕がないとして受け付けに消極的な自治体もある。藤田さんによると、生活保護の基準に当てはまるのに実際には受けていない人は、いまの受給者の6~7倍はいるという。保護が受けられないまま食べるものがなく、万引きや無銭飲食をして捕まった人もいる。  藤田さんは、セーフティーネットからこぼれ落ちる人はますます増えると危惧している。 「地域の活動などで人間関係を豊かにし、いざというとき頼れる人をつくっておくことが大事でしょう」  社会保障制度に詳しい慶応大学の駒村康平教授(社会政策)も、米国を例に、健康と収入の負の連鎖が深刻になると心配する。米国では医療保険制度の問題もあって、所得階層や住む地域によって健康の格差が広がっている。 「日本でも同じような傾向が見え始めている。高齢者の定義を見直しても、社会保障を一律にカットするのはよくない。セーフティーネットを充実させることが必要。高齢者だからというだけでは優遇されず、健康で所得のある人には現役並みの負担を求める一方で、働けない人には公的に助成する。まだ時間がある。いまから準備すべきです」 ※週刊朝日  2017年2月3日号より抜粋
シニア
週刊朝日 2017/01/25 07:00
保活戦線 ポイント基準の変更で早期復帰がムダになる?
保活戦線 ポイント基準の変更で早期復帰がムダになる?
保活で繰り広げられるポイント獲得競争(AERA 2017年1月30日号より) 保活で繰り広げられるポイント獲得競争(AERA 2017年1月30日号より)  激戦区ではいっこうに楽にならない保活戦線。何とかして入園を勝ち取るべく、親たちはポイント稼ぎに血道を上げている。しかし基準が変わって……。 「せっかく育休を切り上げて早く復帰したのに、意味がなくなってしまうんですよ」  東京都江東区に住む会社員の女性(37)はため息を漏らした。無認可の保育園に預けている長女(8カ月)のため、昼休みには毎日、せっせと搾乳している。  0歳児を抱えながらのフルタイム勤務は、夜間の授乳のせいで眠気との闘いだ。健診や予防接種で有休もどんどん減っていく。しかし、そんなつらさも、「認可外加点」を稼ぐためだと言い聞かせることで頑張れた。それが、水泡に帰すことになろうとは……。 「保育園落ちた日本死ね!!!」という母の叫びが話題になったのは2016年2月。しかし、親たちはいまも、妊娠中から過酷な保活を強いられている。「保育園を考える親の会」の代表を務める普光院亜紀さんによれば、 「いまは待機児童の多い自治体はものすごく頑張って保育園を新設しています。でも、それ以上に入園申請をする人が増えている。増え続ける需要に供給が追いついていません」 ●育児休業加点を新設  入園希望者を公平に審査するため、多くの自治体で導入されているのが、「ポイント制」だ。子どもの入園を希望する世帯が「どれだけ保育を必要としているか」が点数化され、点数が高い人ほど優先的に入園できる仕組みとなっている。  細かな仕組みは自治体によって異なるが、基本は「両親ともにフルタイム勤務」で満点。近年、都内を中心に激戦エリアでは「満点」でもなかなか認可保育園には入園できない。同点の場合、世帯年収が低い、区内の居住年数が長い、などのほうが優先される。どうにかして入園したい親たちは、プラスアルファの加点をつけるために、しのぎを削っているのだ。  これまでは、育休を早く切り上げて仕事に復帰し、子どもを認可外施設に預けて「認可外加点」を得るのが必勝セオリーだった。冒頭の女性が狙ったのもこの「認可外加点」。彼女が戸惑っているのは、競争の激化に伴って加点基準が変化しているからだ。  女性の場合、自宅近くに無認可の保育園が新設され、運よく入園させることができた。生後3カ月の首がすわるかすわらないかのうちに子どもを預けて復帰することには抵抗があったが、「認可外加点がつく」「認可外施設に預けている期間が長いほど優先される」と自分に言い聞かせて、復帰に踏み切った。  しかし、16年秋にいざ認可保育園に申し込もうとすると、17年度入園の申し込みから、「育児休業加点」が新設されることを知らされたのだ。  育児休業加点とはどんなものか。江東区こども未来部保育課入園係に問い合わせると、 「本当は育休をしっかり取りたいのに、入園を有利にするためだけに早く切り上げて認可外加点を得ようとする保護者が増えました。そのため、育休をしっかり取りたい人も、切り上げて復帰する必要がある人も同点になるように、加点基準と優先基準を見直しました」(担当者)  とはいえ、いきなり認可外加点と育児休業加点が共存となると、この女性のように無理に育休を切り上げた世帯から悲鳴が上がるのは必至だ。江東区では周知期間を設け、17年度は2歳児クラス以降の申し込みに対し育児休業加点を適用、18年度以降は1歳児クラスでも同様に適用し、育休を切り上げて認可外施設に預けた場合と、入園ぎりぎりまで育休を取った場合が同点になるようにしている。  つまり、17年度なら0歳児クラス、18年度なら1歳児クラスに入ることになる女性の子どもの場合、認可外加点が有利に働くのは今年だけだ。4月の入園を逃すわけにはいかない。 ●きょうだい加点見直し  多くの自治体で設定されている「きょうだい加点」も揺れている。こちらは、上の子が認可保育園に在園中に下の子も入園を希望するとつくポイント。複数の子どもがいる場合、きょうだいが別園だと親の負担が重くなる。もともとは、それを同園にするために設定されているのだが、「第1子が入園しにくくなる」という指摘があった。  第2子以降が保育園に入りやすければ、認可保育園に入れた人は安心して第2子以降を産める。だが、認可保育園に入れなかった人は壮絶な保活を二度と繰り返したくないと第2子をあきらめる。そんな格差が生まれる可能性がある。新規園に集まるのはほとんどが第1子という状況も決して珍しくはない。  東京都世田谷区ではこういった指摘を受けて、「世田谷区子ども・子育て会議」できょうだい加点の見直しについて議論している。これをなくせば、複数の子どもを持つ親や持ちたい親からは間違いなく悲鳴が上がるだろう。加点をなくすのか、加点はしても低い点数にするのか、はたまた上の子どもと同じ園を希望する場合だけきょうだい加点がつくようにするのか。どのような措置にするかは、慎重に議論されているようだ。 ●設定はどんどん細かく  前出の普光院さんによると、加点基準の設定は細かくなる傾向にあるという。横浜市では、「ひとり親世帯等で65歳未満の同居親族がいない場合はプラス3点」「ひとり親世帯等で65歳未満の同居親族がいる場合はプラス1点」などとなっている。こうした細分化は、さまざまな声を反映した結果なのだろう。  川崎市に住む女性(32)は、 「加点があっても、自宅近くの園には入れないかもしれない」  と話す。第1子である長男(4カ月)の認可保育園入園を希望しているが、駅前に住んでいるため、自宅近くの園は軒並み人気が高い。9月生まれの長男は、入園申請締め切りの11月中旬までに認可外保育施設に預けることも難しく、認可外加点を取りにいくこともできない。頼みは、夫の単身赴任に伴う加点だ。それでも子だくさん世帯にはかなわない。川崎市では同点のときの優先項目に、「養育している子どもが3人以上の世帯」があるからだ。  川崎市こども未来局子育て推進部保育課にこの項目ができたいきさつを聞くと、従来、優先項目は世帯年収だけだったが、「収入だけで入所を判断しないでほしい」という市民からの意見を受けて、横浜市や東京都といった近隣他都市の利用調整基準を参考にし、16年4月入園の申請から加えたのだという。 ●キャリアアップは不利  世田谷区で長男(4カ月)の入園を申請中の会社員女性(33)も肩を落とす。 「0歳の4月での第1希望の園への申し込み人数が、世田谷区全体で去年より約100人も増えていました。3年前、結婚を機にマンションを買ったときには、営業マンに『世田谷区は保育園を増やしているから、3年後には待機児童は解消されますよ』と言われたのに……」  自宅から徒歩5分以内のところに2園が新設されるのだが、周辺はマンション建設ラッシュで子育て世代が続々流入していて焼け石に水。世帯年収で不利になるであろうことに、不満を感じているという。 「長年、キャリアアップを目指して頑張ってきたのに、保育園入園の審査では不利になる。これじゃ、いつまでたっても女性管理職は増えませんよね」  夫と妻の年収比率が8対2の世帯と5対5の世帯を比べて、前者のほうが少しでも世帯年収が低ければ優先されるというのもおかしな話だ、とこの女性は主張する。保育園に入れず妻が仕事復帰できなかった場合の世帯年収へのダメージは、後者のほうが大きいからだ。  目黒区在住のフリー編集者の女性(44)は、長女(11カ月)を港区の認証保育園に通わせながら、4月の認可保育園入園を希望している。彼女の場合、ネックは「自営業」であることだ。自営業の場合、フルタイムで働いていても、会社員と同等の就労条件だと認められにくい。そもそも目黒区では、居宅内労働は、居宅外労働よりも基準点が低く設定されている。 「在宅で子どもを見ながら仕事なんて、無理。電話している横で赤ちゃんが泣いたら相手に迷惑ですし、取材しながら授乳するわけにもいきません。子どもの世話をしたことがない人が考えた点数設定としか思えません」 ●不満の声は必ず上がる  その月の労働時間と収入が必ずしも連動しないため、「本当に仕事をしているのかどうか」も証明する必要がある。  就労状況を報告する書類には、1週間分のスケジュールを書かなければいけないのだが、女性はそれに加えて、実際に作っていた制作物と銀行の通帳のコピーも添付した。結局、外勤が多いということでフルタイム会社員と同等の点数がつくことになったが、会社が発行する就労証明を1枚出しさえすれば簡単に認めてもらえる会社員は、恵まれていると感じてしまう。  自治体によってさまざまなポイントや基準が設定されている保活。公平な点数設定を目指しても、不満の声は必ず上がる。保育園の絶対数が足りない限り、戦略的に動いて加点を得ようとする人と、競争が過熱しすぎないようにと加点設定を変える自治体のいたちごっこは続く。  この無意味な闘いは、いつまで続くのだろうか。(ライター・今井明子、編集部・金城珠代) ※AERA 2017年1月30日号
AERA 2017/01/24 11:30
草なぎ剛「全てが思うほどうまくはいかない。でも、それが人生」
草なぎ剛「全てが思うほどうまくはいかない。でも、それが人生」
ドラマ「嘘の戦争」で、天才詐欺師を演じている草なぎ剛さん。仕事に対する思いとは? (※写真はイメージ)  放送中の連続ドラマ「嘘の戦争」で、天才詐欺師を演じている草なぎ剛さん。撮影中は終始ハイテンション、主役自ら現場を盛り上げる気遣いの人だ。仕事に対する思いや結婚観まで、笑顔で語ってくれた。 ──20年経って、仕事や演技に対する思いに変化は?  いろんなお仕事をさせていただきましたが、自分としてはまだまだひよっこというか。たとえば高倉健さんとか、200本以上の映画に出ていらっしゃるじゃないですか。それに比べたら駆け出し、いつもスタートラインみたいな気持ちです。みんなを引っ張っていかなくちゃいけない年齢なのかもしれませんが、若い俳優さんから刺激を受けることも多いし。  ドラマのお仕事って、僕にとってはそうしょっちゅうあるものじゃない。新しい現場に入ると、新学期を迎えたような気分になって、背筋がピンとします。「初めて主役をやったときにはもうちょっと台本を読み込んでたんじゃないか」「慣れてしまっている部分はないか」。そんなことを考えますね。  僕はすぐ怠けちゃうし、本当にハナクソなので(笑)、どうにかハナクソから脱出したいという気持ちでやっています。周りに恵まれて、いろんな人に支えてもらって、どうにかこうにかいいお芝居ができるんじゃないか、いい作品を作れるんじゃないかと思って、一生懸命やっています。 ──インタビューなどでは、「仕事が好きだ」「楽しい」と語っています。  僕は仕事が好きなんだと思います。仕事があるから家賃とか光熱費とか払えるし、好きなものも買えるからね(笑)。  もちろん仕事だから楽しいことばかりじゃないけど、ツライことも楽しむくらいじゃないと。ツライことの先には、もっといいことがあるんじゃないかと思っている。実際あるしね。 ──大変なときの気持ちの切り替えは?  とりあえず早く寝て、「朝の空気吸おうぜ」みたいな。それから、「なんで自分だけが」と思わないようにしています。人それぞれ、大変さを抱えて生きている。「みんな同じなんだ」と思うと、すごく楽になります。空もつながっているしね。  まあ、そうは言っていても何かあるとまた、「ああ、ヤダなぁ」と思ったりするんですが。人間だもの。相田みつをさんじゃないけど(笑)。 ──今の自分は、駆け出しの頃に思い描いていた自分に近づいている?  東京で働くっていうのは、夢でしたからね。初めて原宿に行ったときの感動は今でも忘れられないし、撮影のためにこういう都内のスタジオに来ると、大げさじゃなくていまだに「おおっ」と思うんです。僕は埼玉の春日部の出身ですが、春日部にはこういうところ、ありませんから(笑)。  デビューしたての頃に自分で思い描いていたよりも、今の自分はうまくいっているんじゃないかな。もちろん、全てが思うほどうまくはいかないみたいだ♪と、「夜空ノムコウ」の歌詞が一瞬よぎりますが、それが人生。いろいろありつつ、いま僕はここにいる。  ちょうど仕事もプライベートも、楽しい時期なのかもしれない。20代、30代を経て、40代に入って、人生の楽しみのレベルが上がってるなと感じます。 ──17年は、いろんな意味で草なぎさんにとって新たなスタートになりそうです。  まずはドラマですね。ドラマって節目のタイミングにあって、一生懸命やっているうちに自分のなかで何かしら答えが見えてきたりする。だから撮影してるうちに、何か見つかるかもしれない。  16年はいろいろあって、ファンの方にも心配をかけてしまい、申し訳なかったなと思っています。でも前向きに、ポジティブに、目の前の仕事に集中していきたい。そうすることで応援してくれる方々に、少しでも恩返しができればと思っています。 ※週刊朝日  2017年1月27日号より抜粋
週刊朝日 2017/01/24 07:00
ライフ・清水信次会長「政財界交友録」蓮舫氏の父、祖母との絆
ライフ・清水信次会長「政財界交友録」蓮舫氏の父、祖母との絆
戦後、活気づく大阪の闇市 (c)朝日新聞社  栄華を誇ったダイエー、西武グループなどが消え、死屍累々の中、合併再編を繰り返す流通業界。昨年は鈴木敏文セブン&アイ・ホールディングス会長の退任で激震が走った。激動を生き抜いたライフコーポレーションの清水信次会長兼CEO(90)が語る「生き残る」秘訣とは? 「蓮ちゃん」  清水氏は民進党代表の蓮舫氏をこう呼ぶ。  スーパー「ライフ」の前身となる、パイナップル缶詰、バナナ、ココアなど米国占領軍物資を販売する事業を清水氏は1950年代から手がけていたが、その仕事を通じ、蓮舫氏の父親、謝哲信氏と知り合った。  台湾国籍でバナナなどの貿易商だった謝氏は1994年、62歳で亡くなったが、家族ぐるみの交際は現在に至るまで続いている。  2016年9月15日、その蓮舫氏が女性初の民進党代表に選出された瞬間、会場には清水氏の姿があった。  蓮舫氏は翌日、フェイスブックでこう綴っている。 《昨日の党大会に、ライフコーポレーションの清水信次会長がお越しくださいました。父の親友です。台湾の祖母とも、父とも仕事をしてきた清水会長は私が生まれた時から、私のことを「蓮ちゃん」と呼んで可愛がってくれています。昨日、とても温かい言葉をいただきました。本当にありがたいことです》  民進党代表選前後から二重国籍問題でたたかれた蓮舫氏を清水氏は笑顔で「気にするな。がんばれ」と励まし続けた。清水氏はこう振り返る。 「私の顔を見て、蓮ちゃんは涙ぐんでたね。お父さんが亡くなってますので、私は父親代わりのようなもの。彼女の結婚式、弟の結婚式にも出席してますよ」  蓮舫氏の父、謝氏との出会いは1950年。  大阪市内にある住居兼店舗で店番をしていたある日、同志社大の帽子、学生服姿の青年が入ってきた。 「こんにちは、清水さんですか。清水さんがバナナやパインを扱っていると聞いて来ました」  この青年が若き日の謝氏だった。謝氏は清水氏にこう身の上を語った。 「『うちの母が台湾で大一貿易というバナナやパイナップルなどの青果物の会社をやっています。僕はそれを輸入する福光貿易という会社をやっています。それを大阪で引き受けてもらえませんか』と、誰の紹介もなしに本人が飛び込んできたのです」  謝氏の母、すなわち蓮舫氏の祖母、陳杏村氏は1910年、台湾生まれの実業家。日本統治下の上海で英米のたばこを売り、成功した人物だ。 「陳杏村さんは女傑だったね。上海のたばこ会社の社長をやり、日本軍相手にたばこの製造販売で儲けたお礼にと、日本軍に戦闘機『杏村1号』『杏村2号』を寄付した。その戦闘機が中国軍をやっつけたので、戦後、中国で銃殺刑になりそうになったが、日本国籍だったので助かった。陳さんは台湾に戻って起業し、バナナ輸出で大成功したんだ」  日本では国内のフルーツ保護を理由にバナナの輸入規制があったが、1963年になって輸入自由化したため、業者間の競争が激化した。蓮舫氏の祖母らは台湾バナナ輸出のため、日台の政治家を支援する政商として知られるようになる。  謝氏の日本でのビジネスパートナーは、東京・永田町でバナナ輸入会社「砂田産業」を営んでいた砂田勝次郎氏。元防衛庁長官で、自民党総務会長などを歴任した重鎮、砂田重政氏の次男坊で実兄は砂田重民元文部相と政界に太いパイプがあった。 「勝次郎さんも自民党総務会長などを歴任した河野一郎さんの秘書で、農林省とはツーツー。兄の重民さんも大蔵省、通産省にパイプがあったんやね」  砂田氏も前号で触れた三菱、住友、三井など旧財閥系企業の支援でできた政財界のサロン「国策研究会」のメンバーで、清水氏は謝氏の紹介で砂田氏と知り合い、親しくなっていった。 「出会った当時、謝さんは同志社大3年生くらいだったが、卒業後、東京へ進出した。銀座の『赤い靴』というキャバレーの上に事務所を設け、母親が台湾から輸出するバナナのビジネスを手伝っていました」  1950年に朝鮮戦争が勃発したことを機に、GHQに抑えつけられていた日本社会が変わると直感し、清水氏も上京した。  謝氏らとバナナを輸入するための組合「日本バナナ輸入協会」などを1955年に設立。台湾を支配した蒋介石中華民国総統(当時)の盟友で、元陸軍中将の根本博会長のもと、清水氏が副会長を引き受けた。同年にGHQが命じた財閥解体令が廃止され、三井、三菱、住友、伊藤忠らの大手総合商社が息を吹き返し、転機が訪れた。 「バナナやパイナップル缶詰を直接、仕入れられるようになり、儲かりましたが、海外支店など巨大なネットワークを持つ商社と戦っても勝ち目がない。これまでためたカネで新しい事業を起こそうと決意しました」  清水氏は復員後、大阪で闇市を開き、横須賀の米軍基地の中にあった食品スーパーなどで買い付けをした経験があった。 「ああいうものを日本でつくりたいな」という憧れを昔から抱いていたので、スーパーをつくろうと一念発起。欧米のスーパーマーケットを視察した後の1961年、ライフ1号店を大阪府豊中市に出店した。 「豊中に両親の隠居のための土地を251坪持っていた。そこにつくったんです。当時はすでに明治屋さん、紀ノ国屋さん、ダイエー、イトーヨーカ堂もスーパーを出していた。それらに負けぬようお金をかけ、オープンした店舗は大繁盛した。しかし、蓋をあけてみれば、ぜんぜん利益が出なかった。それからが大変でした」  スーパーというのは、大量仕入れによる原価低減、10店舗以上を出店してチェーン化してようやく利益を出すビジネスモデルとなっていた。清水氏はバナナなどの輸入業を続けながら、死にものぐるいで3号、4号店を出し、10年がかりでついに10店舗まで拡大させた。そこでようやく利益が出るようになり、今ではライフは全国に262店舗を出している。  清水氏はそんな苦労を「屁みたいなもの」と言う。 「戦時中、九死に一生を得た体験、闇市での壮絶な商いに比べると、苦労とは言えんわなあ」  清水氏は1926年、三重県津市に生まれ、旧制大阪貿易語学校を卒業した。学校では剣道部に所属し、教士六段の腕前を持つ。 「剣道部の師範の先生が私を『戦技特別研究要員』にしてくれて、兵隊になるのを1年遅らせてくれたんです。その間に剣道部の部員15人が戦死しました」  1944年4月、18歳のとき、陸軍の徴兵検査を受けた。 「あのころはみんな、学校を卒業し、18歳に達したら軍隊に徴兵された。甲種合格と聞いたとき、これはやばい、歩兵として戦地に送られ、殺されるか、機関銃で敵を殺すか。どちらも嫌だった。人間もね、動物なんです。生き残るには、一を聞いてピンとくる勘が何より大事。運がいいだけでは助からないものだよ」  生き残る方法を必死で考え、幹部候補生のテストを受験した。 「最前線の一兵卒よりも、幹部なら生き残れるのではないかと思ったんです」  陸軍の幹部候補生の試験を受け、合格した。先に入隊していた兄と同じ千葉県・津田沼の鉄道隊に1945年、配属された。 「199人いる1期生のうち生き残ったのはたったの15人くらい。あとは全員戦死した。私はほんのちょっとのズレで後回しになり、2期生になったので、命拾いした」  戦況は悪化する一方で、B29爆撃機が日本の上空を飛びまわった。鉄道隊では来る日も来る日も血だらけになってレールや枕木を担がされて走り、艦砲射撃、銃弾、砲弾により、多くの戦友を目の前で亡くした。 「そんな中、私が受けた訓練は、手に地雷を持って、そのまま敵の戦車の下に飛び込み、自爆するというものでした」  国民総玉砕かと思われたが、8月15日の敗戦をむかえ、8月28日、「復員命令」が出た。  もともと、清水氏の両親は大阪市・天満で乾物、缶詰、青果などを販売する食料品店を営んでいた。大阪に到着し、梅田や天満の界隈を歩いたが、見渡す限り焼け野原。せっかくたどり着いたわが家も焼失していて、途方に暮れるばかり。 「家がないんだから、防空壕で生活した。雨が降ってくると、阪急電鉄のガード下へ移動した」  路上ではやせ衰えた戦災孤児があふれ返っていた。朝起きると、飢え死にして、動かなくなった死体が転がっているのを目にした。  ゴーストタウンのような街で、梅田駅前の闇市のある一角だけは、活気に満ち満ちていた。 「復員したときに身につけていた水筒や毛布を地面に並べたら、あっと言う間に売れた。このとき、あっそうか、モノさえあれば買い手がつくんだと気づいた。ましてや食料品はなおさら。私はこうして闇市で露天商人を始めました」  親譲りの商売人。闇市は非合法だったが、露天商人の提供する食品で、人々は飢えをしのいでいた。 「店先にたばこや、漁師から売ってもらった魚を並べて売ってました。屠場へ行って分けてもらった牛肉をレストランに卸す仕事もしていたね」  汚い露店でも、どんぶりを突き出し、客がやってきた。立地のいい場所ほど繁盛するのは商売のセオリーだった。 「露天商人たちがいい場所を争って、暴力事件も起きていた。殺気だっていた」  韓国人や中国人の同業者たちは戦勝国だから、比較的いい場所を取って韓国、中国の国旗を立て、ここは自分たちのシマだとアピールし、独占したという。 「こっちも一人じゃ太刀打ちができないから、復員兵を3人くらい集めて、警察へ行き、場所取りの仲裁をしてくださいと頼んだ。このとき、警察官からは『命令が出ないから動けない』と突き放された」  清水氏ら露天商人は「戦争で生き残って、闇市で殺し合いをして死んだらシャレにならない」と話し合った。「俺だけのシマ」とか欲張らないで、みんなで分け合うルールをつくった。 「今の流通業界でやってるのと同じことを話し合っていたね(笑)」  商売は軌道に乗り、終戦から8カ月後の1946年、大阪市・天満の15坪の店舗兼自宅に「清水商店」の看板を掲げた。  夜汽車で東京に行き、アメ横で占領軍の横流し物資を買い占め、大阪へ持って帰ると飛ぶように売れた。 「それからは東京−大阪を夜汽車で行ったり来たりする生活をしていました。だんだんと欲が出てきてね。アメ横の卸さんのそのまた大もとの仕入れ先から直で仕入れたら、もっと利幅が出るだろうと思って大もとを調べました」  食品を追っていくと、東京都千代田区のある有名なビルに辿り着いた。 「ビルの一室を訪れると、GHQにある司令官マッカーサーと一緒に日本へやってきた米兵の幹部の部屋だった。日本人の担当通訳がついていたので、取引を始めたいと伝えました」  時代をつくったスーパー経営者たちは、戦後の闇市から出発した人たちが多い。スーパーのカリスマと呼ばれた、ダイエー創業者・中内功氏は神戸の薬屋のせがれだった。戦争では、フィリピンの戦地で死線をくぐり抜けて生還。戦後は、兵庫県・三宮の闇市からスタートした。 「みんな闇市からがんばった。イトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊さんだって、北千住(東京)の闇市で、バラックのような店をつくって、メリヤス肌着を売っていた。関西中心のスーパー・イズミヤ創業者の和田源三郎さんは大阪の焼け跡に掘っ立て小屋を建て、繊維品を売った」  清水氏はライフを立ち上げる前、大阪の千林にできたダイエー1号店、神戸の2号店へ偵察に行った。  創業者の中内氏は、2号店で自らトラックからバナナを下ろしたり、大きな樽からコンニャクを掴みだして客に売っていた。 「中内さんが亡くなるまでお付き合いしましたが、ダイエーの売上高が1兆円を超えたとき、パーティーがあり、私も出席しました。中内さんは『清水さん、1兆円なんて、とば口だ。次は4兆円狙うよ』と威勢が良かったね。実際、ダイエーの売り上げは3兆円を超えましたが、3兆数千億円までくると、途端にダメになり、現在はイオンの子会社になってしまった。商売はまず、足るを知ることが大事だと思う。留まるを知る。100歩のところを50歩で留まる。必ずものには終わりがきます」  無印良品、ロフトなど新しい発想で一世を風靡した西武セゾングループ創業者・堤清二氏。詩人であり、流通業の雄だったが、西武百貨店はそごうと合併した後、セブン&アイの子会社になった。スーパーの西友はアメリカの流通業ウォルマートの傘下となった。 「堤さんは頭がいいし、私もわりと親しくさせていただいて、食事に行ったりしていた。『いっぺん、あなたの社長室が見たい』と言ったら、『ああいいですよ』と言って、私を招待してくれたことがあります。部屋の中が白で統一されていて、ひんやりした感じがして、あれっと思ったものです。堤さんは親会社の西武鉄道をバックに、西武百貨店、西友、良品計画、外食産業などいろんなことをやったが、4兆円を超えたところで中内さんと同じように崩壊した。堤さんが亡くなって残ったのは良品計画とカード会社だけ。人間の欲望ってきりがないもの。もっともっと大きくしたいと思ったらつぶれちゃう」(本誌・上田耕司、森下香枝) ※週刊朝日  2017年1月27日号
週刊朝日 2017/01/23 11:30
真冬に熟睡したければ「エアコン」をこう使え!
真冬に熟睡したければ「エアコン」をこう使え!
【図1】睡眠環境マトリクス  『一流の睡眠』では、忙しいビジネスパーソンが仕事のパフォーマンスを落とさないための眠り方について、32の具体策を紹介しています。本稿では、本の中では触れられなかった「寒く乾燥しやすい冬に、どう快適に眠るか?」という話をしたいと思います。(構成:山本奈緒子 聞き手:今野良介) ●冬の睡眠不足が夏より危険な理由  冬の睡眠不足は、夏以上に体へのダメージが大きくなります。湿度が下がって乾燥すると、空気中のウイルスが活動しやすくなります。さらに、空気が乾燥すると、喉の粘膜が乾燥して炎症をおこしやすくなり、ウイルスを防御する力が衰えてきます。ただでさえ体調を崩しやすい環境下に、睡眠不足で免疫力が低下すると、なおさら風邪やインフルエンザにかかりやすくなるのです。  さらには、寒い時期は美味しいものが増えますから、食べ過ぎてしまい、太りやすくなります。夜更かしや睡眠の乱れは、食欲に関連するホルモンのバランスを乱し、体重増加に拍車をかけます。正月明けに体調を崩して体重も増加してしまった、という人も少なくないでしょう。また、睡眠不足は、血圧を不安定にする可能性があります。さらに、冬は外気と建物内の気温の変化が激しいために血圧が変動しやすいですから、心筋梗塞や脳梗塞のリスクも高まります。冬の睡眠不足は危険の宝庫なのです。  最近、「お風呂は何度で入るとよく眠れますか?」とか「寝室のエアコンは切ったほうがいいですか?」といった冬の睡眠環境についての質問を受けることが少なくありません。しかし、そのたびに私は答えに窮してしまいます。睡眠環境とは、寝具、パジャマ、お風呂の入り方、布団のかけ方など、多くの要素が複雑に入り混じっているからです。どんなに高機能なマットレスを買っても、隣で寝ている人のイビキがうるさかったら、熟睡することはできないでしょう。  つまり、睡眠環境を作る無数の要素の中から、まず「どこから改善するのか?」を決めて、その結果を1つひとつ検証しないと、「何が原因で眠れないのか?」が判然とせず、結果として睡眠が改善されないということになりやすいのです。 ●「睡眠環境マトリクス」の左上から対処していく  そこで、是非やっていただきたいのが、「睡眠環境のマトリクス」を作ることです。縦軸と横軸を書き、横軸の左右を「内部環境」と「外部環境」、縦軸の上下を「コントロールできる」と「コントロールできない」として4象限に分割し、4つの枠に、1つひとつの要素を当てはめていくのです。(※【図1】参照)  左上の「(1)コントロールできる内部環境」には、パジャマや寝具、お風呂の入り方など、自分次第でいくらでも工夫できる事柄が当てはまります。右上の「(2)コントロールできる外部環境」は、隣で寝る人のイビキや、お子さんの夜泣きなど、自分以外の人の問題だけれども、寝室を別にするなどの対策が取れる事柄が当てはまります。  一方、左下の「(3)コントロールできない内部環境」は、性格が合わない上司へのストレスや明日のプレゼンに向けた不安などの仕事上の悩み、すでに罹患してしまった風邪、女性のホルモン周期による不眠など、自分自身のことながら簡単には調整できない事柄が当てはまります。そして右下の「(4)コントロールできない外部環境」とは、たとえば家が国道沿いにあって騒音がすごいなど、ほとんどどうしようもないような事柄が当てはまります。  このように4分割すると、(1)から(4)に進むに連れて、コントロールが難しくなってくることがわかります。だからこそ、まずは自分の工夫次第で改善できる、左上の「コントロールできる内部環境」から着手すべきなのです。ただし、「睡眠の妨げになっていると感じやすい順番」は、(4)から(1)と逆であるという点に注意が必要です。  たとえば(4)の代表例「近所の騒音」に対処するには引っ越すしかありませんし、(3)の仕事のストレスは、自分だけではどうしようもありません。(2)のパートナーのイビキに対処するために別の部屋で眠ろうとしても、それを相手に伝えるとなれば、人間関係上のストレスが生まれるでしょう。だからこそ、まずは(1)の「コントロールできる内部環境」から手をつけるのが最も効率的なのです。 「コントロールできる内部環境」の中にも、いろいろな要因があります。ポイントは「1つずつ変えていくこと」です。まずはパジャマを変えてみて、ぐっすり寝られたかどうか確認する。次に枕を変えてみる。その次に室温を変えてみる……。多くの人は、いきなりすべてを変えようとするので、何が眠れない原因で、どの対策に効果があったのかが分からなくなってしまうのです。  さて、そうした前提を踏まえたうえで、冬の代表的な「コントロールできる内部環境」について、対策を考えてみましょう。 ●風呂から上がった「30分後」にリビングのエアコンを消す  冬は外気温が寒いですから、体温の調整が難しくなります。そこで、睡眠前の体温調節法として、まずは心地よく眠気を誘うお風呂の入り方を知っておきましょう。ポイントは、「浴室の中とリビングの気温差を少なくすること」です。急な温度変化があると、体は刺激を感じて覚醒しやすくなったり、血圧の急上昇・急降下につながります。  まず、バスタブのお湯は、必要以上に熱くする必要はありません。体が温かいと感じればOK。39度~40度で充分でしょう。お風呂から出て、リビングでくつろぐ方も多いと思います。そのために、お風呂から出たときのリビングの温度をコントロールするのです。エアコンを20度台前半くらいの寒いと感じない温度でつけっ放しにしておいて、お風呂を出た30分後くらいに切るのがよいでしょう。というのは、入浴によって上がった体温は、30分後くらいから下がり始めるからです。お風呂から出て、30分ほどくつろいでから寝室に行くイメージです。人は緩やかな体温の低下とともに眠たくなっていきますから、体温低下の波と室温の差が広がりすぎないようにすることが、心地よい眠りを得るための秘訣なのです。 ●寝室の暖房器具は「オイルヒーター」がベターな理由  そして、リビングから移動する寝室の環境も重要です。寝室内があまりに寒いと、睡眠を妨げます。私は仕事で東北の寒冷地にある病院寮に住んでいたことがあるのですが、そこは窓が広すぎて、暖房を入れても部屋がしっかり温まらなかったため、寒さで毎晩何度も目を覚ましていました。  さらに、冬は気温が低くなるだけでなく、空気が乾燥もしますから、夏に比べて睡眠中に喉が乾燥しやすく、ウイルスが吸着して風邪をひきやすくなります。また室内は乾燥していても、布団の中は湿度が高くなるため、意外に汗もかいています。  そこで私は、オイルヒーターをおすすめします。湯たんぽや電気マットを使っている方も多いかと思いますが、寝ているときは熱さを感じにくいために、布団の中で局所を温めすぎると低温ヤケドを起こしやすくなります。ですから、湿度をあまり変化させず部屋の空気全体を暖めるオイルヒーターがベターなのです。  寝具やパジャマは、吸水性が高くて湿度がこもらないものがよいでしょう。となると綿素材のものがおすすめですが、綿は肌触りが冷たく感じる人も多いため、自分が心地良いと感じるものを選んでください。 ●「今以上にストレスをかけないこと」が良質な睡眠につながる  このように「コントロールできる内部環境」を1つずつ潰していって、それでも睡眠が改善しない場合に初めて、「(2)コントロールできる外部環境」や「(3)コントロールできない内部環境」の改善に移行していきます。  多くの人にありがちなのが、いきなり「(3)コントロールできない内部環境」から着手しようとするケースです。仕事や上司のストレス、女性のホルモン周期といった「コントロールできない内部環境」に関しては、睡眠環境をどうこうすることよりも、「今以上にストレスをかけないこと」がポイントです。  ストレスが高いな、と思った時には新しいワークスタイルを取り入れない、重大な決断をしないことが大切です。他人が関わる要因は、改善することそのものに大きな負担がかかります。ストレスが上乗せされるような状況をできるだけ避けて、「嵐が過ぎ去るのを待つ」「できるだけ考えないようにする」という姿勢も選択肢に入れておいてください。それだけでも、かなり気持ちがラクになり、眠りやすくなるはずです。
健康
ダイヤモンド・オンライン 2017/01/23 00:00
ほっこり!あたたか。 鍋が恋しい寒さです
ほっこり!あたたか。 鍋が恋しい寒さです
大寒がすぎ、東京にも雪がちらつきました。いよいよ寒さも本番です。日本海側に降った大雪が心配されます。雪下ろしには十分お気をつけ下さい。 この寒さの中、やはり熱々の湯気があがる鍋に心ひかれますね。大勢でワイワイと囲む鍋は冬ならではのお楽しみ。共に寒さを乗り切る元気も出てきます。でも、鍋料理って昔からこんな風にみんなでつっつきあって食べていたのでしょうか? 江戸の定番は「ひとり鍋」でチビリチビリ 最近では「好きにたべられるから、鍋はひとりにかぎる!」という人や「ひとり暮らしだからひとり鍋」というようにひとりで鍋をする方も増えています。ところがお江戸の時代、職人たちは仕事のあとのお腹を満たすために屋台に寄ったり、居酒屋でその日の疲れを癒したりとおおいに食を楽しんだようです。ですからこの時代の鍋は「ひとり鍋」。チビリチビリと酒を飲りながら鍋をつついたのです。これで翌日からの働く元気を養ったのでしょうね。 江戸も後期になると、肉を滋養のある薬として食べていたようです。しかし、肉食はおおっぴらにはできませんでしたから、「山くじら」と称して看板をだして商う店も出てきました。歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれていますね。 「雪の日に七輪に咲く冬牡丹」 七輪から上がる火に煮えた鍋の中の猪の肉。身体が温まってくる美味しさを感じます。「びくにはし雪中」出典:国立国会図書館 主婦が守る家庭の囲炉裏 では、家庭では鍋料理は食さなかったのでしょうか? 都市部では時代劇などでよく見られるように、食事は一人ひとりのお膳で食べていました。一方農村では、囲炉裏で煮炊きをすることが多かったのです。囲炉裏のまわりには串刺しにした魚や、お米をつぶして作るきりたんぽをさして焼いたりもしていました。自在鉤にかけた鉄鍋に材料を入れて作る料理は、秋田のしょっつる、山梨のほうとうなど、今でもみんなに親しまれています。鍋で作った料理を囲んでさあごはん、という時、鍋から自分勝手によそったりしてはいけません。その家の主婦が杓子(しゃくし)で取り分けるのを、おとなしく待たなくてはいけないのです。男は家長として権力をもっていましたが、食べ物に関しては主婦が杓子権をもって采配を振るっていました。限られた食料を大勢の家族で過不足なく食べられるように、心を配っていたのです。主婦は一家の切り盛りの中心、昔から偉かったんですね。 鍋料理がさまざま生まれた明治時代 今私たちが食べている鍋が誕生したのが明治の頃。 水だけで煮て、あとからタレをつけて食べる「水炊き」。出汁で煮ながら食べる「寄せ鍋」。鍋の縁につけた味噌で食べる「どて鍋」。醤油や砂糖でこく味付けした「すき焼き」。そしてゆっくり時間をかけて煮ておいて食べる「おでん」は「関東炊き」ともいわれます。どれもこれもおなじみですね。 面白いのは肉の食べ方です。文明開化の明治に「牛肉食わぬは開けぬ奴」と競って牛肉をたべました。しかし、西洋風のステーキやシチュウではありませんでした。江戸時代からの肉の調理方法、味噌と醤油をあわせたタレに肉をつけて田畑を耕す鋤(すき)で焼いていたところから「すき焼き」が生まれたとか。日本人の味覚は貪欲に西洋を受け入れていったのですね。今では牛丼に進化した「牛鍋」も同じ頃に登場しています。 すき焼きも牛鍋もその頃はまだ一人鍋スタイルで食べていたようです。 みんなで鍋を囲むようになったのはいつ? こうして見てみると、日本人が鍋をみんなで囲んで食べるようになったのは随分と最近のようです。「お膳を囲む」は家庭団らんを表すことばですが、この「お膳」がひとりのものから家族で囲む物になったのは、明治も終わり頃のようです。そう、「ちゃぶ台」の登場です。家族がちゃぶ台のまわりに座り、揃ってご飯を食べるようになって、みんなが囲んで食べる鍋へと進化しました。関西では七輪が真ん中にはまるちゃぶ台もあったとか。 やはり、鍋はみんなの中心にあって、それぞれが自分の箸で好きなものを取り、器に移してふぅふぅいいながら食べ、身体も心も芯から温まる日本の冬にはなくてはならない存在ですね。 さあ、今夜は誰と一緒に鍋を食べますか? それとも、ひとりでじっくりと楽しみますか。冬の夜長をあたたかにお過ごし下さい。
tenki.jp 2017/01/23 00:00
夜咄の灯あかり軒の雪あかり:俳句歳時記を楽しむ
夜咄の灯あかり軒の雪あかり:俳句歳時記を楽しむ
寒さ極まる中、仕事も用事も早々に切り上げて家路に戻りたい今日この頃ですね。とはいえ長い冬の夜、できれば家族や気のおけない仲間と、寛いだ時間を過ごしたいもの。今日はそんな気分の季語「夜咄(よばなし)」をご紹介しましょう。 夜咄の一会に揺るる影法師 夜咄とは、狭義では茶道で12月から3月ごろまでに行われる「夜咄茶事」のこと。茶事とは、席入りから懐石料理、お菓子、濃茶、薄茶までの一連の流れを指す、いわばおもてなしのフルコースです。夜咄茶事は、日没後にはじまり、蝋燭の灯りでゆったりと行うというルールがあります。冷える夜長の季節に、温められた部屋の揺らめく光の中で行う茶事は、まさに幽玄の世界。そんな時間を表現した句には、やはり趣深い余韻があります。 ・夜咄の庵(いほり)裏(つつ)みし靄ならむ      瀧井孝作 ※1 ・夜咄の灯あかり軒の雪あかり            古賀まり子※2 ・夜咄の障子を水のしろさとも            上村占魚※3 ・夜咄や秀衡塗(ひでひらぬり)に顔寄せて      峰尾北兎※2 ・夜咄の一会に揺るる影法師              山崎久美江※2 秀衡塗の句は、奥州藤原氏発祥の漆塗りと金箔による器を鑑賞するにも、暗いので顔を寄せて懸命に目を凝らすさま、そして蝋燭のうす灯りに浮かぶ名品を表現した、茶の湯ならではの描写です。そして影法師の句も、茶道の基本「一期一会」を、蝋燭の中で揺れる人影が交流する場として描いていますね。 夜咄は重慶爆撃寝るとする 一方、季語としての夜咄は、冬の夜炉端でくつろぎながら話に興ずることも意味し、「炉辺話」とも同義です。夜の長い冬ならではのお愉しみで、まさに万事ゆったりと楽しむことを前提とした夜咄茶事に通じますね。 ・炉話の百貫目とは牛のこと        後藤綾子 ※1 ・夜咄は重慶爆撃寝るとする        鈴木六林男※2 百貫目の句は、炉辺の気軽なお喋りの中で話がだんだん大きくなる、百貫目とは何か、それは牛のことだ、というユーモラスな内容のようです。鈴木六林男は、出征体験ののち、戦争句、社会性俳句で注目された俳人。重慶爆撃の句は、懇親旅行の宿でしょうか、先輩もしくは同僚のいささか尾ひれがついた戦時の手柄話にうんざりして、さっさと寝てしまう。のんびりした季語を用いながら強い思いを表した、まさに現代句です。 夜咄や信太の狐こつと寐ね 夜咄の句には、狐や狸が登場する季重なりのものも散見されます。また、夜咄茶事でも、これらの動物をモチーフにした道具も用いられます。つい話に花が咲いた上に千鳥足になった深夜の帰宅で、狸や狐に化かされないように、との意味もあるのでしょう。 ・夜咄のなべて貉(むじな)と狐狸(こり)のこと        品川圭介※2 ・夜咄や信太(しのだ)の狐こつと寐(い)ね          岡井省二※3 信太は、今の大阪府和泉市にあった信太村。信太の狐といえば、伝説で安倍晴明の母とされている狐、「葛の葉」を意味します。五七五の中で、冬の夜から一気に時を遡る世界を描くことができるのですから、俳句とは奥深い世界ですね。ちなみにこの伝説をもとに作られたのが、人形浄瑠璃および歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまんおおうちかがみ)。 夜咄茶事は、ぜひ体験をお勧めしたい行事です。また正式な茶の湯ではなくても、香り高い飲み物を薄明りの中で味わってみてはいかがでしょう。蝋燭がなくとも、揺らめく光を放つ機器は数多くあります。仄かな灯りの中での夜咄は、五感が研ぎ澄まされた、格別な時間となることでしょう。 <引用と参考文献> ※1 読んでわかる俳句 日本の歳時記 冬・新年(小学館) ※2 カラー版 新日本大歳時記 冬(講談社) ※3 カラー図説 日本大歳時記 (冬)(講談社)
tenki.jp 2017/01/22 00:00
[連載]アサヒカメラの90年 第14回
[連載]アサヒカメラの90年 第14回
1978年9月号表紙 撮影は藤原新也。中堅気鋭の12人が各号で撮り下ろす企画だった 1977年1月号「リアルタイムフォトグラフィー コンタックス映像訪問」から。 1976年5月号「写真集・なぜ出すのか作るのか」から 1976年8月号 高梨豊「人形町」から。 高梨豊『町』(朝日新聞社)。装丁・レイアウトは亀海昌次 1978年4月増刊「日本の写真史に何があったか─アサヒカメラ半世紀の歩み」 1979年9月号 山岸章二・写真時評「ニュー・フランクネス」遺稿。 (左)1978年4月号 大特集「アッジェ再発見」。(右)石原悦郎の寄稿記事。 1979年10月号 十文字美信「金のなる樹 布哇・影」から 1978年4月増大号 藤原新也「逍遙游記」から。木村伊兵衛写真賞受賞作を掲載 1979年10月号 石内都「連夜の街」横須賀編から ミニ・コミュニケーションの挑戦 「写真家は写真だけ撮っていればよい時代は、過ぎたと思うんです。撮ると同時に見せること、その装置について考えざるを得なくなってます。ワークショップで僕がやってきたのは、技術指導、表現指導じゃなくてね、テレビ時代に即応した写真メディアの提案です」  本誌、1977(昭和52)年1月号、コンタックスのPRページ「リアルタイムフォトグラフィー コンタックス映像訪問」に登場した東松照明は、最近の活動についてインタビュアーの石岡瑛子にこう語っている。「ワークショップ」とは、東松が起点となり荒木経惟、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光が集って、74年に新宿で開講した「WORKSHOP寫眞学校」を指す。6人の講師がそれぞれゼミを持つ寺子屋形式の私塾である。  ここで東松が提案した「写真メディア」とは、彼らが60年代から実践してきたことだ。つまり東松は出版社「写研」を設立、森山は「プロヴォーク」参加ののちに個人誌「記録」を発行、荒木は私家版の写真集『センチメンタルな旅』や「ゼロックス写真帖」などのゲリラ的な展開を行ってきた。また細江の提唱するオリジナルプリントも、新しい写真メディアへの挑戦だった。彼らはその一環として実験的な展示も繰り返していた。その舞台を提供したのは73年に古美術商の清水弘が荻窪に開業したシミズ画廊で、同年の荒木の「廃墟に花」展や、翌年の荒木と多木浩二の企画による「写真についての写真展」や森山の「プリンティングショー」などが開かれた。ことに「写真についての写真展」は、本誌74年8月号の特集「イベントとしての写真展を考える」とも連動した企画だった。  こうした試みは鋭意な若者たちを刺激し、写真メディアの自作はムーブメントとなっていった。口火を切ったのは、72年に九州産業大学出身の黒沼康一や百々俊二による「地平」や、東京造形大学の島尾伸三らの「number」といったミニ・コミ誌である。「地平」の創刊号冒頭の「見たいのはきみの写真ではなく、きみの写真が開示する世界なのです」という一文は、彼らの情熱をよく表していよう。  76年には同人ギャラリーの開設が相次ぎ、新宿に「フォトギャラリー プリズム」「IMAGE SHOP CAMP」「フォトギャラリーPUT」が、那覇には「写真広場あーまん」が誕生した。「プリズム」は東京造形大と東京綜合写真専門学校の卒業生が主体で、「CAMP」と「PUT」は、それぞれワークショップの森山ゼミと東松ゼミ卒業生が立ち上げている。また「あーまん」のメンバーは、東松からの影響を受けていた。  個人による写真集の自費出版も増え、70年代半ばには、年間30冊以上もの写真集が本誌に届くようになった。76年5月号の「しゃしん・いま」欄では、自費出版の動機を探る覆面座談会「写真集・なぜ出すのか作るのか」が企画された。ここでは平地勲の『温泉芸者』(のら社)や土田ヒロミの『俗神』(オットーズ・ブックス社)などの制作費用も紹介されている。さらに8月号の「レーダー」欄では評論家の渡辺勉が「最近の私家版写真集をめぐって」で、山村雅昭の『植物に』(TBデザイン研究所)などを成果として、「自家版の氾濫」を期待するとエールを送った。  だが、一方ではこうした同人活動は自閉的だとの指摘もあった。この点を乗り越えようとしたのが、同人グループ間のネットワーク化を目指し、「写真通信」を発行していた多摩芸術学園出身の矢田卓らの「写真国」だった。彼らの成果は、77年10月に横浜で開催した、「今日の写真・展‘77」展である。48人もの若い写真家が参加したこの展示を見た渡辺は、本誌12月号の展評で「森山大道や北井一夫以降、著しく低迷している二十代の若者たちに、改めてある種の希望がかけられる」と評価している。 岡井編集長の誌面改革  77年はミニ・コミの話題が盛り上がったものの、全体的に「不作の年」とされた。そのなかで目立ったのが、高梨豊の「町」シリーズだった。  高梨は74年に、35ミリ判カメラによる身体的な都市論の集大成である『都市へ』(イザラ書房)を発表すると、75年1月から4×5判の大型カメラに持ち替え、東京の下町の古い街区や建物の撮影をはじめた。自分の呼吸や身ぶりを消し、対象の存在感を引き出すことを狙ったのだ。このシリーズは本誌で断続的に発表されて77年12月号掲載の「谷中」で完結を迎え、同時に大判の『町』(朝日新聞社)が出版された。多木浩二は、同年1月号の連載「イメージの劇場」でこのシリーズを取り上げ、これまでの表現的な主張の強いスタイルが消え、イメージも断片化したと指摘。前作は「真実に近づくことと、内面の表出」を企図していたが、『町』では読み手に多くを委ねていて、この受容性こそが「われわれを不思議に汲みつくせない多様な意味の宇宙に引き込む」のだと述べた。  さて、この不作の77年から本誌の舵をとったのは、2月号から編集長となった岡井輝雄である。岡井は「見て面白く、撮る面白さを味わえる身近な雑誌」(同号編集後記)を目標に掲げ、誌面の刷新を図った。濱谷浩、秋山庄太郎、大竹省二、渡辺義雄といったベテランが新テーマを撮り下ろす「挑戦シリーズ」、プロとアマの垣根を超えた「激突!! 中堅プロVSアマチュア最高峰」や「新人登場」、小中高生を対象にした「ぼくらは写真が大好きだ」などを企画した。ベテランのネームバリューで注目を集めながら、多くの読者に誌面への参加を促したのである。その方針は「アサヒカメラ読者の会」を立ち上げ、全日本写真連盟とともにオール朝日フォトフェスティバルを始めたことからも見えてくる。  岡井は、翌78年には「編集部は待っています. あなたが主役です」というキャッチフレーズを掲げ、公募のみの大特集「日本列島‘78」(10月号)などを企画する一方、若い読者の写真観を知るために「写真評論」懸賞も募集している。さらに積極的だったのは写真史の読み直しで、「土門拳―その周囲の証言」や各地域の写真館の歴史をひもとく「営業写真館・人国記」、あるいは80年の「名取洋之助は何を残したか」といった連載を企画している。この志向は増刊号により明確で、78年4月の「日本の写真史に何があったか│アサヒカメラ半世紀の歩み」や79年7月の「われら写真世代35年 カメラが描いた戦後風俗史」には多くの証言やデータが掲載され、資料性の高いものとなった。  77年から78年には戦前から本誌を支えてきた金丸重嶺、渡辺勉、伊奈信男、秋山青磁が相次いでこの世を去っている。そのため、この2冊は本誌の歴史の転換点を示すモニュメントともいえる。 新たなビジョンへ  先人たちの訃報よりも、岡井がショックを受けたのは、翌79年7月の「カメラ毎日」前編集長山岸章二の急逝だったそう。前年に毎日新聞社を退職した山岸は、岡井自身の熱心な依頼に応じ、1月号から写真時評「ニュー・フランクネス」を連載していた。  この年の山岸は、4月にニューヨークの国際写真センターで19人の日本人写真家による「自写像・日本」展をキュレーションしていた。そこで連載ではリチャード・アヴェドンの7ページにわたるロングインタビュー(4月号)や、「自写像」展に参加した写真家の座談会(7月号)などが掲載されている。国際的に先駆的な仕事をしていた山岸の死は、日本の写真界全体にとっても大きな損失だった。  一方で、この山岸と交錯するように、78年4月号の本誌に初登場したのが石原悦郎である。石原は、大特集「アッジェ再発見」に「入手したアッジェの写真について 徹底した職人気質が生んだプリント」を寄稿し、特集に掲載された彼所有のオリジナル・プリントは、パリの著名なラボマンであるピエール・ガスマンによるもので「あらゆる意味で原板に忠実」だと誇らしげに書いた。このとき石原の肩書は「ツァイト・フォト・ギャルリ主宰」だが、約1カ月後の4月20日、東京・日本橋で開業した日本初のオリジナルプリント画廊は「ツァイト・フォト・サロン」だった。本誌によれば、当時のプリントの価格設定は、アジェとドアノーが15万円、カルティエ=ブレッソンが50万円、日本人では土門が8万円、篠山紀信が5万円である。  石原は以降も彼が所有するマン・レイ、ブラッサイ、ケルテス、ビル・ブラントなどの作品を、本誌の特集や連載の素材に提供している。ことに80年10月の増刊『巴里PHOTO』には、ディレクターとして全面的に係っているオリジナルプリントの可能性を否定する人々の多かった当時、石原は本誌を通じて啓蒙とPR活動を行ったのだった。  翌79年1月、このツァイト・フォト・サロンで初の日本人写真家の展示「KAZUOKITAI」展が開かれた。北井一夫は石原から、10年後はオリジナルプリントでの展開がスタンダードになる、また写真家の価値はプリントを美術館が収蔵することで決まるようになると言われ、直観的にそれを信じたのだった。  この石原の見通しは、やがて現実になるのだが、違っていたのは10年よりもさらに時間を要したことだろう。その間、石原の画廊もオリジナルプリントの展開に懸けた写真家たちも、多くの苦闘を経験しなければならない。  同年の7月号では、日本写真美術館設立促進委員会が結成され、国立の写真美術館の設立を求める要望書を文化庁に提出したことが報じられている。 大型新人登場!  79年になると、不作から脱したようだった。まず中堅と位置づけられる写真家が連載で新たな展開をみせた。富山治夫の玄界灘の暮らしの風景をとらえた「風紋・波紋」、広告畑の十文字美信が日系ハワイ移民をテーマとした「金のなる樹 布哇・花」(6月号から全6回)などは、歴史に埋もれた人々の時間を表現していた。なにより誌面に活気を与えたのは、藤原新也、石内都、田原桂一という新人たちだった。彼らに共通するのは、異なった表現ジャンルを経験したのち、カメラを手にしたことである。つまりこれまでの写真の文脈とは違う地点からスタートしたのだ。  まず藤原のきっかけは、東京藝術大学油画科在学中の69年に「アサヒグラフ」に告知された、海外旅行の体験記の募集を見て編集部を訪れたことだ。このときフィルムと旅費を得てインドを放浪し、翌年3月に「〝インド発見.100日旅行」を発表するとその文才が注目された。さらにインドやチベットへの旅を重ね「印度行脚」(73年)、「天寿国遍行」(76年)、「逍遙游記」(77年)などを連載すると、鮮やかな暗さをもった写真が人気を呼んだ。  新進の紀行作家は、本誌「話題の写真をめぐって」でもたびたび話題に上っていたが、作品の初掲載は78年1月号の「朝鮮半島」と遅い。その藤原が同年の木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)に満票で選ばれると、岡井編集長は「たぐいまれな大型新人の登場」と絶賛した。藤原は翌年には「ゆめつづれ」(4月号)と「自宅周辺」(10月号)を発表、翌々年に連載「四国遍土」(1月号から全3回)が掲載されると、その濃厚な終末観が読者を引きつけた。  多摩美術大学でテキスタイルを学んだ石内は、74年に友人の矢田卓らの同人展「写真効果」で写真に興味を持った。そこで翌年9月の同展に初めて出品すると、東松照明と荒木経惟に褒められ、本格的に取り組むようになる。その2年後には、思春期を過ごした横須賀の風景を痛々しいほどの粗いトーンで切り取った作品で初個展「絶唱・横須賀ストーリー」を開き、新進の女性写真家とみなされた。  さらに78年、古びた木造アパートを撮影して写真集『A PARTMENT』(写真通信社)にまとめると、女性初の木村賞の受賞者となった。藤原と同じく全員一致の判断で、審査員の桑原甲子雄は「作者の肉体的生理に近いものが画面をくまなく彩っている」ことが、見るものを吸引するのだと評した。石内は、受賞発表の翌5月号から、各地の旧赤線地帯の建物を訪ねる新しいシリーズ「連夜の街」を断続的に発表する。  その石内とともに木村伊兵衛写真賞の候補に挙げられたのが田原である。彼の名前が初めて本誌に載ったのは78年7月号の展評欄で、評者の森永純が日本初個展「窓」を絶賛した。さっそく翌号には「海外で脚光を浴びる異色写真家」として作品「光景」とインタビュー記事、さらにフランス国立図書館のJ・C・アマニーの田原評が掲載されている。  京都生まれの田原は、72年にツトム・ヤマシタの劇団「レッド・ブッタ・シアター」の映像・照明デザイナーとしてヨーロッパ公演に同行したが、途中、パリに残った。それから持っていたカメラで部屋の窓から空を撮り始めたのは、日本とは違う「黒墨のような空の青さ」に惹かれたからだという。やがて77年にはアルル国際写真フェスティバルの新人大賞を受賞するなど、現地で作家として認められた。  田原が木村賞を逃したのは、岡井の選評によると「写真が絵画的な美術に近づきすぎる感じ」がしたからだという。 田原が、ついに同賞に選ばれるのはこの6年後である。この間、新しい写真メディアで育った世代が、写真をめぐる風景を徐々に変えていくのである。
アサヒカメラの90年
dot. 2017/01/20 00:00
文系は中央大、理系は豊田工業大… コスパのいい大学の選び方
文系は中央大、理系は豊田工業大… コスパのいい大学の選び方
公務員試験対策講座が人気の中央大学 (c)朝日新聞社 職種別平均収入ランキング※1 内閣人事局資料から編集部が推計※2 総務省「地方公務員給与実態調査」から編集部が推計※3 東京商工リサーチ「国内銀行94行(2016年3月期)『平均年間給与』調査」※1~3以外は厚生労働省「平成27年賃金構造基本統計調査」から編集部が推計(週刊朝日 2017年1月20日号より) 学部系統別学費の平均大学通信調べ(2016年春)。2部・夜間は除く。公立大は2015年参考(週刊朝日 2017年1月20日号より) 学部系統別の実就職率ランキング大学通信によると、全国566大学を対象とした調査を元に編集部が作成(週刊朝日 2017年1月20日号より) 「地獄の沙汰も金次第」と言うが、今では「子供の将来も金次第」。教育費用がふくれあがるなかで、大学選びに失敗すれば、親子で人生設計を狂わされかねない。そこで本誌は、最新データと専門家の意見をもとに「コスパのいい大学」を調査。より賢い「本当の大学の選び方」を紹介する。  今、大学関係者の間で「2020年問題」が危惧(きぐ)されている。20年は東京五輪・パラリンピックが開催され、お祭り騒ぎになっているはずだが……。  日本銀行は「建設投資は、17~18年ごろにかけて大きく増加した後、20年ごろにかけてピークアウトしていく」(「2020年東京オリンピックの経済効果」)と予想する。近年、大卒就職率は回復基調が続くが、あと何年続くかは不透明なのだ。  教育情報を提供する「大学通信」の安田賢治ゼネラルマネージャーはこう話す。 「景気の減速が予想されると、企業は採用人数を抑えるでしょう。現在の就職活動は学生側の『売り手市場』ですが、20年はターニングポイントとなります」  こんな先行き不透明な時代だからこそ、将来性があり、収入の安定した職業に就きたい。他方、学費を工面する親にとっては、わが子が望む大学に行かせたいと願いながらも、「できるだけコストは抑えたい」というのが本音ではないか。  そこで本誌は、将来に期待できる職業別の収入と、その職業に就くために必要な学費を想定できる、二つの調査を紹介したい。  一つは、厚生労働省などのデータを基に編集部が作成した「職種別平均収入ランキング」だ。  ランキングの上位には医師や弁護士、公認会計士といった資格取得までの難易度が高い「士業」が多い。ただし、収入の高い士業は学費が高いのが難点だ。そこで、表も参考にしてほしい。これには、学部系統別学費の総費用平均を掲載している。  私大医学部であれば、卒業するまでの総費用平均は3320万8552円。一方、国立大医学部は242万5200円で済む。  弁護士を目指して私大法学部に進めば、423万9789円。他学部より費用は安いが、司法試験に向けてロースクール(法科大学院)に進学すると、さらに2年分の学費がかかる。なお、司法試験はロースクールを卒業しなくても、予備試験に合格すれば受験資格は得られる。だが、予備試験は狭き門で、合格率は3.9%(16年)。ロースクールに通わずに弁護士になるのは容易ではない。  先々の学費を見越すのは、不況に強いと言われる理工系学部も同じだ。 「理工系学部の学生は、大学院で修士号を得てから就職することが多い。総費用平均の590万5753円だけではなく、追加で2年分の学費も準備しておく必要があります」(安田氏)  将来性があり、安定した収入の得られる職業に就くには、学費の負担は避けられない。だからこそ、“コスパのいい大学選び”には確度の高い情報が欠かせない。リクルート進学総研の小林浩所長は言う。 「政府は来年度から返済の必要がない『給付型奨学金』を導入しますが、大学には様々な奨学金の制度があります。例えば早稲田大の『めざせ!都の西北奨学金』や青山学院大の『地の塩、世の光奨学金』は、合格発表前に交付を約束する『予約型』で、安心して進学できます」  学費が安い理系大学と言えば豊田工業大。初年度納付金が93万2千円と、私大の文系学部より“お得”だ。これは、大学の収入の半分近くがトヨタ自動車による寄付で賄われているからだ。  根強い人気の公務員就職対策も、大学によって費用に差が出る。『大学ランキング2017』(朝日新聞出版)によると、国家公務員一般職の合格者数は、早稲田大(318人)に次いで中央大(213人)が2位につける。好成績の理由を教育ジャーナリストの小林哲夫氏はこう分析する。 「中央大は文系学部が多摩キャンパス(東京都八王子市)にあり、生活費が安い。公務員試験講座も学内で安く受講でき、資格取得のために別の学校に通う『ダブルスクール』も必要がない。そのため、地方出身者から人気があります」  学費以外の出費がコスパに響く場合もある。ここ数年の人気の高まりで新設が相次いだ国際系学部は、海外留学を義務付けることが多い。そのため、入学前に計画を立てないと、思わぬ出費に困ることになる。 「米国に1年間留学すれば、住居費や生活費、往復の飛行機代だけで数十万円かかりますし、就職活動でも、英語が堪能という理由だけで採用されるわけでもありません。むしろ、ベトナムやミャンマーなど経済成長が期待されるアジア圏の言語に対し、企業側のニーズは高い。英語以外のプラスアルファを身につけることを考える必要があります」(安田氏)  大学選びで気になる指標の一つが就職率だろう。左の表は、学部系統別の実就職率(就職決定者数÷<卒業生数−大学院進学者数>×100)のランキングだ。トップは看護系学部で、他学部に比べて実就職率の高さが際立っている。  16年2月に公表されたリクルート進学総研の調査でも、看護師の人気は高い。女子高生が就きたい職業と、女子高生の保護者が就いてほしいと思う職業は、共に看護師が1位だ。 「女性は結婚、出産、育児などでキャリアが制限されますが、看護師であれば、年齢や地域に関係なく就職先があり、一定の収入が見込めます。薬剤師や栄養士も同様です」(小林所長)  ただし、大学を選ぶ際に気をつけたいことがある。前出の小林哲夫氏は言う。 「16年の看護師国家試験の合格率は89.4%ですが、大学によって差が大きい。なかには合格率が7割台の大学もあります。しかも、偏差値が高ければいいというわけではない。大学を選ぶ前に合格率は確認しておくべきでしょう」  少人数教育が魅力の大学もある。私大医学部は、学費の高さに目を奪われがちだが、東京女子医科大は教員1人当たりの学生数の少なさは2.4人で1位(『大学ランキング2017』)。法政大も少数精鋭の教育を目指す。 「法政大が08年に創設したグローバル教養学部は、募集定員が100人と他学部より少ない。文学部や法学部といった歴史のある学部を抑えて、看板学部となっています」(小林氏)  文学部でも、大学によっては就職が決して不利なわけではない。大学通信の調査によると、ノートルダム清心女子大文学部の実就職率は95.0%で、文学部で1位。2位の名古屋女子大(94.4%)、4位の武庫川女子大(92.1%)といった女子大文学部は、理系学部に劣らない好成績だ。 「文学部といっても、社会学や歴史学など学べる内容は幅広い。ユニークな人材も多く、そのような環境で大学生活を過ごせば人間の成長にもつながります。就職先も多種で、『文学部=就職に不利』ということではありません」(同)  これまで「コスパのいい大学の選び方」を紹介してきたが、情報があふれる時代では「選択が難しい」と感じた人もいるだろう。前出の小林所長は言う。 「費用をかけて資格を取得しても、就職後に『思っていた仕事と違った』と辞めてしまうこともあります。そうならないために、親や教師は、大学で学ぶ主役である子供と、どのような勉強が必要で、どれだけの費用がかかるのか、様々なデータを交えながら『将来の人生プラン』について語ることが大切です」  大学卒業後に「天職」と思える職業に就ければ、それが“最もコスパがいい”。後悔のない選択を。 ※週刊朝日 2017年1月20日号
大学入試
週刊朝日 2017/01/16 07:00
北川景子「服10着」、ガッキー「パーカー好き」…人気女優の“庶民的”ファッション事情
北川景子「服10着」、ガッキー「パーカー好き」…人気女優の“庶民的”ファッション事情
北川景子  1月5日に放送された『櫻井・有吉THE夜会』(TBS系)に女優の北川景子(30)が出演し、プライベートにおける生活ぶりが明らかとなった。「北川景子の失敗しない人生の裏技」と題したコーナーでは、北川の数々の生活の工夫を紹介。ファッションに対する工夫では、「洋服は10着ぐらいしか持たない」と発言。部屋を整頓しておきたいため、衝動買いはほとんどせず、買い物中に新しい服が欲しくなった時は「2着買いたかったら、2着処分できるのがあるか考えてから買う」という。しかも、洋服は捨てずに業者に買い取ってもらい、食器などに関しても必要な物以外は買わないという。  「女性がなりたい顔」などのランキングで毎回上位に入り、ドラマや映画に引っ張りだこの北川。女優という仕事柄、洋服をたくさん持っていそうなイメージもある。そんななか、手持ちの洋服を10着に抑えているとはかなり驚きだが、「北川だけでなく、ファッションに対して節約し、堅実にお金を使っている女優は多いですよ」と語るのはあるファッション誌の編集者だ。 「昨年、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で再ブレークした新垣結衣(28)もそうです。バラエティー番組で私服を披露したことがあったんですが、一番好きな服は『パーカー』って言ってました。意外と庶民的なファッションスタイルですよね。本人曰く、重ね着をしないと心細くなってしまう性格みたいで、小さいパーカーの上に大きいパーカーを着ることもあるとか……。ファッションモデルとしても活躍する菜々緒(28)も同じく、セール品で1500円のワンピースを着こなし、自身のインスタグラムに公開して話題になったこともある。フォロワーから『そんな格安で買うの? 私たちと同じ感覚でうれしい!』との声も上がったほどです」  確かに、女優なのにお高くとまることなく、一般人と同じ感覚でセール品を買うところは好感が持てる。さらに意外なところでは、10代女子のファッションリーダーとして人気が高い広瀬すず(18)も、洋服代にあまりお金をかけていないという。 「ツイッターやブログで私服をアップしているのですが、コーディネートに取り入れているブランドは『MOUSSY』『EMODA』『WEGO』などが多い。一般的な女子高生から見たら安いとはいえないかもしれませんが、『MOUSSY』や『EMODA』はトップスやボトムを数千円から購入することができ、『WEGO』に至っては元古着屋だったブランドで、1000~2000円台の商品も多い。そんな、お手軽価格なアイテムを愛用しているんです」(前出のファッション誌編集者)  くわえて、過去に一世を風靡し、今やセレブ妻となった“あの女優”も庶民的な一面があるという。 「2005年、ドラマ『電車男』に出演して大ブレークした伊東美咲(39)です。09年に推定年商2000億円とも言われる大手パチンコ機器メーカーの社長と結婚し、一昨年には第2子を出産しましたが、安売りで有名なベビーショップで買い物をしている姿を報じられました。ベビーカーを押しながら慣れた手つきで商品をカゴに入れていたとか。それぞれ、単に安い物を買うということではなく、オシャレを楽しみながら洋服代を節約しているとは思います」(スポーツ紙の芸能担当記者)  華やかな世界に身を置く人気女優たちだが、私生活では節約に努める普通の女性と変わらないようだ。そこがまた、女性からの支持につながるのかもしれない。(ライター・丸山ひろし)
dot. 2017/01/13 11:30
扇千景 結婚してすぐに義母にいわれた「外泊どすえ」
扇千景 結婚してすぐに義母にいわれた「外泊どすえ」
扇千景が義母から告げられた「外泊」の意味とは? (※写真はイメージ)  夫は人間国宝の坂田藤十郎。妻は桐花大綬章も受章した、元参議院議長・扇千景。それぞれの道で頂点に上り詰めた夫婦の素顔は、「カンコ」「ボンちゃん」と呼び合うほど仲の良い、穏やかなものだった。 *  *  * 妻:今の芸能記事を見ると、「梨園の妻」って、すごく大変みたいで。かわいそうだなあ、って思いますね。 夫:そうだねえ。 妻:夫がちょっと浮気をしたぐらいで書き立てられる。 夫:私たちの若いころとは時代が違うんですね。 妻:結婚してすぐのころ、歌舞伎の顔見世興行が京都であるんですけど、義母がね、言うの。「カンコ(寛子・妻の本名)ちゃん、ボンちゃん(坊ちゃんの意)が家に帰って来るのは、初日と千秋楽だけどすえ。あとは外泊どすえ」って。 夫:「外泊」ね。 妻:それが当たり前の世界。やきもちなんていちいち焼いてたら、こっちの身が持ちませんよ。この人のお父さん(二代目中村鴈治郎)なんて、外にお子さんが2人もいて。亡くなったときには遺産相続で大モメ。 夫:あはは。 妻:そのとき、この人に言ったんですよ。あなたも、もし誰かいるなら今のうちに言ってちょうだい。ついでに対処しますから!って。 夫:さすがにそれはないから。安心してください。 ――大スターだった夫と、新人俳優だった妻 夫:初めて会ったんは、映画の撮影現場やったな。 妻:昔、シネラマっていう、ワイド画面の映画があって。アメリカから日本へ、そのシネラマの撮影が来る、と。それを当時二代目中村扇雀だったこの人が見学に来る、ってことになった。報道陣も詰めかけてね。 夫:この人、舞妓さんの格好で、その映画に出てたんですよ。 妻:私はまだ新人で。その他大勢の一人。当時の中村扇雀って言ったら、アイドル並みの人気でしたから。宝塚の先輩たちは色めき立って大騒ぎ。でも私、彼のこと、全然知らなかったんですよ。話しかけられても、へぇーってぐらいで。 ――それ以来、映画での共演の回数も増えていった。やがて夫から、夜ごとの電話アタックがスタート。 妻:私は神戸の実家暮らしで、父はとても厳格でした。夜な夜な電話が来るから、「誰からだ!」って。答えるよりしょうがないから、「扇雀さんです」って言うと、「あいつはだめだ、どれだけ女がいると思ってるんだ!」って(笑)。 夫:それでも、時間をみつけてはデートしたな。私が自分からデートに誘ったのは、この人が初めてだったんですよ。 妻:結婚の話も、私たちの間では早くから出てたんです。でも、彼から条件がある、って言われて。 夫:結婚したら、仕事は辞めてくれ、と。 妻:こっちはやっと、俳優になれたばっかりですよ。冗談じゃないわ。 夫:どうしようかって、ずるずるとつきあってるうちに……。 妻:私が妊娠したんです。悩みましたね。 夫:お世話になっていた作家の川口松太郎先生に相談しに行ったね。 妻:子供を産んで、シングルマザーになって俳優を続けようと思ったんですよ。 夫:でも、川口先生が「子供にとって父親がどんなに大切なものか、わかるか?」とおっしゃって。 妻:両方の親は私が説得するから、任せておきなさい、って言ってくださった。 夫:結婚式なんかしなくていい。その代わり、その金で二人で世界一周してきなさい。きっとそれが二人の今後に役に立つから、とも。 妻:そしたら今度は、中村の家が結婚式は絶対にやりなさい!と。「歌舞伎役者が結婚のお披露目をしないなんて、あり得ない」 夫:そしたらまた川口先生が「まかせとけ!」(笑)。 妻:帝国ホテルで立派なお式を挙げていただきました。 ※「扇千景『3時のあなた』での出馬表明がまさかの… 出馬秘話を明かす」へつづく ※週刊朝日 2017年1月6-13日号
夫婦
週刊朝日 2017/01/10 16:00
【大晦日】新年はいつから始まる?
【大晦日】新年はいつから始まる?
今日、12月31日は大晦日。今年最後の日です。除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べて、夜中の0時を回れば日付が変わって、新しい年が始まります。でも、午前0時に新年が始まるという考え方が一般化したのは、明治時代に入ってからといわれています。本来は、大晦日の夜から、新年を迎える行事が始まっていました。夜を徹して行われる行事、うっかり早寝してしまったりすると、特に女性にとっては恐ろしい神罰(?)もあったようです。新年の始まりは日没から?大晦日の夜のあれこれをご紹介 大晦日とは? 一年の最終日、12月31日のことを、大晦日(おおみそか)といいます。 晦日(みそか)というのは、その月の最終日のことです。 「みそ」というのは、30という意味です。 30歳のことをしばしば「三十路(みそじ)」ということもありますが、同じようにかつては30日のことを「みそか」といっていました。 ただし、暦の上では毎月、必ずしも30日ぴったりというわけではありません。そこでそのうち、その月の最終日のことを晦日と呼ぶようになり、12月の晦日を特に「大晦日」と呼ぶようになったそうです。 月の最後の日を表す言葉としては、「つごもり」というものもあります。 月の満ち欠けをもとに暦を決めていた時代では、月末に月が出ることはありませんでした。そこから、毎月の最終日には「月が隠れている」、すなわち「月隠(つごもり)」という呼称も生まれ、12月の「つごもり」を「大つごもり」というようになりました。晦日とは30日のこと 大晦日の夜と新年は一続き? さて、今では新しい年の1月1日は、「午前0時を境に始まる」という方が大半だと思います。除夜の鐘を聞きながら午前0時をまわったところで新年の挨拶をするというのが、一般的な新年の迎え方なのではないでしょうか? しかし、かつては大晦日の夜と新年の朝は連なっているもので、それらの間には現在のような、明確な区切りはありませんでした。 もともとは新しい一日のはじまりは日没からと考えられていました。 日が沈むと新しい一日が始まる。 つまり新しい年も、12月31日の日が暮れたところから始まるという訳です。新しい年が始まるのは何時から? 「寝正月」は良いこと? さて、大晦日に年神様を迎え入れる準備を整えた後は、日没から夜明けに掛けて年神様を家に迎え入れる、新年の祭りが始まります。 この神聖な夜にはお迎えした年神様に失礼がないように「一晩中起きている」という習わしもありました。 さらに、もしもこの夜に早く寝てしまうと、「白髪になる」とか「しわができる」といった言い伝えなども地域によってはあるようです。 早めに眠ってしまうことで老化が進んでしまう……。恐ろしいペナルティーですが、かつては数え年といって、新年を迎えると誰もが一斉に、1歳ずつ年を取っていました。 ちなみに、「寝正月」という言葉がありますが、夜を徹して新年を迎える行事があったため、元旦は寝ていても良いとされていたようです。 「三が日」というように、現在では1月1日から3日まで、お正月の儀礼は3日間かけて行うのが一般的です。 しかし、本来のお正月は1日だけ。 1月2日からはもう普通の日、仕事始めが行われていたそうです。 新年のお祝い(お休み?)が一日だけというのは、少しもの足りない気もします。 参考:『知っておきたい日本の年中行事事典』(吉川弘文館)、『日本の暦と年中行事 和のしきたり』(日本文芸社)、『日本人祝いと祀りのしきたり』(青春出版社)新年を迎えたらきちんと睡眠
tenki.jp 2016/12/31 00:00
第62回 ステレオサウンドの編集者/カメラマン、ヤスさんにインタビュー その1
第62回 ステレオサウンドの編集者/カメラマン、ヤスさんにインタビュー その1
東京パフォーマンスドール「WE ARE TPD」 notall(ノタル)「#Socialidol」 WHY@DOLL「菫アイオライト」 ミライスカート「千年少女~Tin Ton de Schon~」 ハコイリムスメ「ハコいっぱいのプレゼント」 Party Rockets GT「Time of your life」 dela「DELAX~dela best~」 ヤス氏を魅了してやまない福岡のグループ、I'S9(アイズナイン)。10月15日の4周年記念ライヴでの集合フォト I'S9のメンバー、miyuのソロ「恋音」 SUPER☆GiRLS「恋☆煌メケーション!!!」 「ライヴでは、そのつど光ってる子をメインに撮ってるところがありますね」  さいきん、撮影可能なアイドル・ライヴが増えてきたような気がする。  notall(ノタル)やキュレーションズのように全編動画も静止画も撮影可能なグループあり、いちごみるく色に染まりたい。のように1曲限定で携帯の静止画だけOKの場合もあり。東京パフォーマンスドールも「ダンスサミット“DREAM CRUSADERS”」で、フラッシュ・タイムと称する数分間の撮影時間を設けた。 「俺の推しを、俺自身のセンスでかわいく撮りたい。そうするにはどうしたらいいのか?」。  そう思っている方も数多くいらっしゃるだろう。ぼくもうまく撮ってみたい。そこで今回は、ステレオサウンドON LINEのコーナー「ヤスのアイドルラブ」を担当し、年間60万枚以上ものアイドルや女優の撮影を行なっているヤスさんに直撃取材を試みた。ヤスさんとの出会いについては端的にまとめると、 1)僕が雑誌「ステレオサウンド」でジャズの紹介記事を書いていた 2)それとは別に「ヤスのアイドルラブ」を愛読していた 3)ぜひお目にかかりたく、僕の担当編集者にヤスさんとの間をとりもってもらった という感じだろうか。初めての顔合わせ&初仕事は2013年春にラフォーレミュージアム六本木で行なわれたアップアップガールズ(仮)のライヴ。以来、いろんなアドバイスをいただきながら、今に至っている。  僕は時おり仕事の約束が飛んだりすると、いきあたりばったりで自宅を飛び出して渋谷や新宿などに出かけ、カンで選んだライヴや演劇や映画に当日券で入ることがある。そして、そのときに大発見・要注目だと思った歌手や女優などがいると、ヤスさんに伝える。そうすると、かなりの確率で返ってくるのは、「ああ知ってます。前に取材しましたよ」というひとことだ。そんな慧眼の持ち主に、まずは今年のアイドル・シーンについて俯瞰していただいた。 ■見せ場があるときは、そこをしっかり撮る ――2016年も、残りわずかです。「この1年、とくに躍進の目覚ましかったアイドル」「来年がさらに楽しみなアイドル」をいくつか、カメラマンでもあるヤスさんの視点から挙げていただけますか?   東京パフォーマンスドールの成長にはものすごく目を見張るものがありました。2015年の初めに見た頃はアグレッシヴさがまだまだ足りないなって思っていたんですけど、だいたい3か月おきぐらいに見てきて、今春の「ダンスサミットネイキッド」を見たときに、「これは来たな」と思ったんですよ。それぞれのメンバーの動きのキレがものすごくいいし、撮影しているこっちの位置を把握して目線が来るという視野の広さを感じました。ライヴ中に視線が来るというか、撮っている人間のことが分かるのは、(演者に)心の余裕があるということなので。余裕があるとパフォーマンスにもキレが増すんです。9月の「ダンスサミット“DREAM CRUSADERS”」(TSUTAYA O-EAST)は歌もダンスも見せ方もさらに素晴らしくなっていて、今、TPDはものすごくいい状態にいると思います。 ――TPDは9人グループです。でもヤスさんはひとり。あの緻密なフォーメーションダンスを、どうやって撮っていくのですか?  基本的にダンスって、曲に合わせて動くじゃないですか。密集したり、ソロパートがあったり。初見の曲だと戸惑うんですけど、2、3回見ると「この箇所は、誰それのパフォーマンスがいい」とか、分かってくるんです。見せ場があるところは、そこをしっかり撮る。初見の曲でも、ふと(アイドルを)見ていると「これから飛ぶぞ」って顔をしているときがある。それがわかったら、引いて(ジャンプの場面を)撮る。そういうのはありますね。TPDに限らず、その都度その都度のライヴで特別に華のある子がいるんですよ。脇(あかり)さんのダンスがすごく良いときもあるし、別の時には「(橘)二葉ちゃんもいいな」とか、「上西(星来)さんもいいな」とか。そのつど光ってる子をメインに撮ってるところはありますね。 ――そのライヴで、誰が光り輝くかは事前にはわからない。  わからないですね、それは感覚なので。きらめきみたいなものだから。11月に新宿BLAZEで行なわれた「ダンスサミット“DREAM CRUSADERS”」のときは(小林)晏夕ちゃんの生誕も兼ねていたので、晏夕ちゃんを主に撮ってましたけど(笑)。 ――ほかに、来年楽しみなアイドルは?  一定の顔ぶれで2~3年ぐらい活動してきたグループが伸びるときには急に伸びるような気がします。僕がよくライヴを見ているグループだと、アイドルネッサンス、notall(ノタル)、WHY@DOLL、ミライスカートあたりがそうですね。ミライスカートは曲もいいしダンスもいいしメンバーもいいんですけど、年内でひとり卒業して体制が変わるので、今後の活動に予測のつかないところはあります。 ――1月5日には新体制によるライヴ「新春イベント「HAPPY NEW MIRA!!!」」が地元で行なわれるとのことです(京都メトロ)。さらにいい方向に変化することを楽しみにしています。  メンバーが変動すると言えば、2016年のハコイリ?ムスメは、それがちょっと激しかった感じがします。でも、すごくいいパフォーマンスを続けていると思います。「サウンド・オブ・ミュージック」みたいな振り付けのある曲には感激しましたね。とても好きなグループです。 ――notallについてはどうですか? 結成は2014年ですが、ぼくは今年知って心を掴まれました。notallを知ることができて、人生の喜びが増えた感じです。  notallはライヴも面白いし、キャラも面白いし、曲もいいし、メンバーたちの性格もいいです。もともと写真撮影OKのグループですから、視野が広いんですよ。ふつうの(写真撮影禁止の)グループが結成3、4年かかって獲得できるようなステージ上での目配りをすでに持ってるような感じですね。撮ってるとポージングしてくれるんですよ、なーちゃん(片瀬成美)とか結構来るんです。ステージ上で客席を見る余裕がパフォーマンスに反映しているなという気がしますね。 ■I'S9は80年代を過ごしたアイドル・ファンの心にも響くはず ――ヤスさんは、Party Rockets GTにも注目なさっています。  きっかけは、Whoop!e whoop!eという3人組グループなんです。最初に取材した当時は、よくあるアイドル・グループのひとつかなという感じ。それが2年前に横浜アリーナで行なわれた「@JAM EXPO」に出て、ものすごいパフォーマンスを見せてくれたんです。「これは良いな」と思ってたら、Whoop!e whoop!eがParty Rocketsと合体してParty Rockets GTになった。知り合いからチケットを譲ってもらって(Party Rockets GTの)初ワンマンに行った時は、旧パティロケ組と旧ウピウピ組とHIMEKAちゃんの3つに分離した状態にも見えたんです(4月17日、新宿BLAZEで行なわれた<Party Rockets GT LIVE ~Dream on Dreamers~>)。でも今年の9月、幕張メッセの「@JAM×ナタリーEXPO 2016」で見たら、ものすごいんですよ。曲もいいし、5人の息も合って、ダンスのフォーメーションがすごくよくなってきた。とくにHIMEKAちゃんのダンスには圧倒されましたね。前に取材したときは中学生で、今は高3。HIMEKAちゃんは今年のミスiDにエントリーして、10人の中に選ばれました。 ――僕は今後がさらに楽しみなグループとして、虹のコンキスタドール、つりビット、奥澤村、PPP! PiXiONも加えたいですね。名古屋の、さくらシンデレラもいいオリジナル曲に恵まれています。  名古屋ではdelaが素晴らしい。サウンドプロデューサーの近藤薫さんがすごくいい曲を書いています。僕の推しの早見(紗英)さんは留学のために年内で活動を休止するんですが……。 ――レースクイーンの仕事もしている片岡かずささんや、リーダーの沢井里奈さんが盛り上げてくれると思いますよ。「ヤスのアイドルラブ」では最近、福岡のI'S9(アイズナイン)の記事も多いですね。  話すと長くなるんですが、2012年にライムベリーのT-Palette Records加入を発表するライヴがありました(10月28日、東京・四谷ライブインマジックで行なわれた〈usa☆usa学園ライブ58〉のこと)。そのときに福岡からやってきて、ソロで歌ったのが保坂朱乃(あやの)さん。「すげぇかわいい」と思いました。音は全部外れてましたけど、すごく楽しそうに歌っていて。取材したのはそれから2年後かな? そのときに「一緒に取材をどうですか」と頼まれたのがI'S9でした。ライヴを見て、すぐ気に入りました。曲調が1980年代の王道アイドルソングっぽくて、当時を過ごした私にはすごく響くものがあったんです。それに、「常に全力に」というのをモットーに活動していて、どんなときでもお客さんに対して最高のパフォーマンスを届ける。I'S9にはすごく魂を感じますね。大体月一ぐらいで東京に来るので、その時は他を差し置いても取材に行きたいと思うし、福岡では年一ぐらいで大きなワンマンをしますので、その時は、日帰りで行っています(次回は2017年2月19日)。撮影していても視野が広いし、今は卒業してしまいましたけど、前リーダーのりさぴょんとか、すーちゃんとか、ゆうちゃんからは、けっこうアイコンタクトがありました。 ――女優でこのひとは注目株だ、というのは?  最近取材した中では浜辺美波さん。東宝のシンデレラガールですね。女子高生たちが対戦型麻雀に情熱を傾けるテレビドラマ「咲-Saki-」の主役で、2月に劇場版も公開されます。かわいいし、性格もいいし、演技に対する真摯な姿勢もいいです。 ――性格って大事なのでしょうか?  性格の良し悪しと売れる売れないは別の問題かもしれないですけどね。在京の事務所が推している子はメディアもいっぱいとりあげてくれるので、人気が出やすいですし。ほかに気になる女優は台湾出身のヤオ・アイニンちゃん。以前日本に来た時に注目されて、ファッションモデル的な活動もするようになって今度、2月公開の『恋愛奇譚集』という映画で日本初主演です。なかなかキュートな子ですよ。あとは「咲-Saki-」で浜辺さんと共演したSUPER☆GiRLSの浅川梨奈さん。「1000年に一度の童顔巨乳」と言われているので、どんな子なのかなと思ったらぶっちゃけ系のハキハキした子で、話も面白かった。スパガ愛もすごくて、「私はスパガを有名にするためにいろんな活動をして、スパガに恩返ししたい。スパガがすごくメジャーになったらお菓子屋さんになる」って言ってました。あとはNHKの朝の連ドラ「べっぴんさん」にも出ている土村芳(かほ)さん。芳根京子さん、谷村美月さん、ももクロの百田夏菜子さんと共演しています。取材した時に、演技に取り組む姿勢がすごく真摯だなと感じました。実は彼女、島崎遥香さん主演の映画「劇場霊」に出ていたんです。劇場の小道具係で、人形を探して持ってきて、夜の劇場で魂を吸われて死んでしまう役。それが土村さんでした。そのときから印象に残っていて、ずっと取材したいと思ってたんです。それがやっと実現したという感じですね。 次回は、いよいよ「アイドルを撮る」の本題へ。写真用語もガンガン飛び出す熱いトークをお楽しみに! [次回2017年 1/23(月)更新予定]
2016/12/28 00:00
ボブ・ディラン「ママチャリで街めぐり」ツアー・マネジャーが語った来日スター驚きの素顔
ボブ・ディラン「ママチャリで街めぐり」ツアー・マネジャーが語った来日スター驚きの素顔
オフィスでホール&オーツからプレゼントされたギターを弾く高橋氏(撮影/写真部・堀内慶太郎)  来年設立50周年を迎えるウドー音楽事務所。ボブ・ディラン、デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー、リンゴ・スターなど多くのスーパースターを招聘してきた。来日中のスターの管理をするのはツアー・マネジャーの仕事。40年以上、ツアマネを務めた高橋“TACK”辰雄代表がその素顔を語った。  2016年末、話題をさらったのは、ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランだ。  その実像はミステリアスだが、1978年の初来日公演以来、ディランをずっと担当しているのは、高橋氏だ。 「78年の初来日のときは京都観光に行って、金閣寺でみんなで写真を撮ったりしましたけど、取り巻きが多くて、僕の名前は覚えてもらえなかったですね。直接口をきく機会はなかったです。でも、何回目かに来日したとき、『ハイ! タック』と名前で呼んでくれたのは嬉しかったですね。『覚えてくれていたんだ』って思いました(笑)」  近年は頻繁に来日公演を行い、1都市で複数回公演を行うことが多いディランだが、彼が日本でどういった過ごし方をしているのか気になるところだ。 「10年のツアーの大阪滞在中に自転車をレンタルして、昼間だと目立つので、夜にボディーガードと2人で街をめぐってましたね。それで、東京でまた何日も自転車をレンタルするなら買ったほうが安いということで、大阪でレンタルしたその自転車をそのまま安く買って、トラックで東京に運びました。それをホテルに置かせてもらって、夜になるとボディーガードと2人で出ていっていました。普通のママチャリなので、誰もボブ・ディランだとは気づかなかったでしょうね。あと、散歩もしますよ。16年のツアーでは代々木公園を散歩しましたし、その前の14年にはオフの昼間に日本武道館のある北の丸公園を散歩してました。東京のお台場のZepp公演のときは、会場に着く前に途中で車を降りて、30分くらい歩いて、また車に乗って会場に入ったこともありました」  さらにディランにはこんな意外な一面があった。 「大阪公演のときには宝塚まで行って、宝塚歌劇団の公演を見たことがありましたし、東京で歌舞伎座にも何回か行っていますね。そういう日本文化には興味があるみたいです。新宿に映画のポスターを専門に売っている店があって、昭和の初期のころのレトロっぽいポスターを何枚も買って帰ったことがありました。映画そのものより、そういう日本らしいデザインに興味があったんだと思います。  そんなディランも人から見られたり、騒がれたり、指をさされたりすることが好きではないようです。ジョン・レノンの例もあるので、セキュリティー面でも気を配っているというのがあります。なるべく人に会わないようにするために、飛行機もプライベート・ジェットで来ます」  食事に関してもディランは外に食べに行ったりはしないという。 「以前はホテルのルームサービスが多かったですね。白身魚とかスープとか頼んでましたけど、16年の公演では、シェフを連れてきていたので、会場の調理場で作って、ライブの前に少し食べて、さらにそこで作ったものをホテルに持って帰って部屋で食べてました」  さらにステージでもディランならではのエピソードがあった。 「14年のZeppダイバーシティ東京公演でモニターのパワーサプライが壊れてしまって、モニターからの音が一切聞こえなくなってしまったんです。それで、いったん中断して、機材の調整をするので、20分くらい休憩したんですけど、『これはマズい。ディランが帰っちゃうかも……』と思ったんですよ。そうしたら楽屋でディランが、『昔はモニターなんてナシでやっていたんだから、この状態でいいからやろうぜ』と言ってくれて、安心しましたね。機材とか環境よりプレイすることが重要なんだなと思いました。それで、PAのパワーサプライから電源を取って、モニターからディランの声だけ何とか出せたんです。他のメンバーも自分たちの楽器の音は生で出して、モニターからディランの声だけ聴きながら、最後までやりました。(構成/ライター・Jun Kawai) ※週刊朝日  2016年12月30日号より抜粋
週刊朝日 2016/12/26 11:30
オスプレイ墜落 沖縄の怒りに再点火した米軍の支配者意識
オスプレイ墜落 沖縄の怒りに再点火した米軍の支配者意識
墜落した機体 (c)朝日新聞社  沖縄で立て続けに起きた2件のオスプレイの重大事故は、県民が抱いていた不安と怒りに再点火した。辺野古基地の工事再開、米軍の北部訓練場で「オスプレイパッド」(離着陸帯)の建設を巡る反対運動が激しさを増す中、不信感が渦巻く現地をジャーナリストの桐島瞬氏がルポした。 *  *  *  オスプレイの墜落事故が起きたのは、米軍普天間飛行場の移設が計画されている名護市辺野古にある大浦湾に接する海域。12月13日午後9時50分ごろ、第11管区海上保安部に「オスプレイが着水した」との情報が入った。別の1機が普天間飛行場に胴体着陸したのは、わずかその1時間半後だった。  米軍や関係者によると、陸地から約30キロ離れた空域で、2機のオスプレイと他のヘリの合計3機が空中輸送機から給油を受ける訓練を実施していた。給油には空中でホースを使って2機を接続する必要がある。訓練の途中、何らかの原因でプロペラが傷つき、機体が制御不能になったものと見られている。  今回の墜落事故を米海軍はもっとも深刻な「A級」と評価し、オスプレイが国内で起こしたトラブルでは初めての重大事故となった。原因は米軍が解明中だが、軍事ジャーナリストでオスプレイに搭乗経験もある世良光弘氏は、操縦者のミスが引き起こした可能性が高いと分析する。 「空中給油は、輸送機が後方に伸ばす長いホースをオスプレイの先端から伸びる筒状の受油装置で受け止めて行います。微妙な作業のため、成功するかどうかは2機のパイロットのあうんの呼吸が必要。タイミングや向きが合わずに給油装置が切れてプロペラに絡まり、機体にトラブルが発生したことも考えられます」  特に夜間帯であれば難易度の高い作業。ミスが起きてもおかしくない。 「もともと軍用機が一般機よりもハードなことをやるのは仕方なく、運用面でのリスクは宿命のようなところがある」(世良氏)というから、今後も同様の事故が起きる可能性があるのだ。  住民に直接の被害は出なかったとはいえ、今回の事故で県民の間には不安と不信が広がった。墜落現場の目と鼻の先にある名護市安部(あぶ)区の住民は、口々に「起こるべくして起きた事故」と表情を曇らせた。  當山真寿美区長は、普天間飛行場の辺野古への基地移設後を心配する。 「基地が移設されたら集落の真上が飛行経路になる。今回はそうなる前の事故。これでは今後も同様のことが起こる可能性が絶対にあるとしか言えない。住民の方々も不安がより大きくなった。できたらオスプレイには飛んでほしくない」  在沖縄米軍トップのローレンス・ニコルソン四軍調整官は安慶田(あげた)光男沖縄県副知事の抗議に逆切れし、面談の場で「県民や住宅に被害を与えなかったことは感謝されるべきだ」などと声を荒らげた。この態度にも異論を唱えた。 「事故が起きた時に魚を捕るために海に出て墜落を近くで目撃した住民もいた。落ちた場所は子供や大人たちも普通に遊ぶ場所。被害が出なかったのは偶然に過ぎません。こちらが怒ることなのに、ああいう言い方をする司令官がいること自体、信じられない」(當山氏)  沖縄県民がいらだつ理由はほかにもある。米軍は事故原因の究明など独自に定めたチェックリストに問題がないと判断できるまで沖縄でのオスプレイの飛行停止を決めた。だが、整備と点検のために、今月第4週にも伊江島に駐機中の1機を普天間飛行場まで飛ばすと日本政府に通告していた。その後は飛行停止措置を続けるとはいえ、事故から1週間での飛行は県民感情を逆なでする。  また、日本側は墜落した事故機体の捜査もできない。両政府が取り決めた日米地位協定で、「公務中の事故」は米側に第一次裁判権があるからだ。  事故後、海上保安本部は捜査協力を申し入れたが、米軍からの返事はないという。事故翌日に現場を訪れた稲嶺進名護市長も、警備を行う地元警察によって立ち入りを制止された。2004年に沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した際にも日本側は一切捜査ができない苦い経験をした。今回もそれが繰り返された。  事故から2日後に現場を訪れると、付近の道沿いや空き地には、多数の米軍車両が止まっているのが見えた。浜の入り口に乗り入れた軍用の大型車両の隙間をくぐり抜けて海辺に出ると、米軍が規制線を張り、そのなかで回収した機体の破片を並べていた。  全身防護服に防毒マスクのようなものを装着した米軍人が機体の切断作業を行う姿もあった。ヘリのプロペラ付近には放射性物質が使われているともいわれ、そのためなのか。  機体が沈む現場から10メートルほど離れた場所にも米軍の規制線が張られ、中に入れるのは米軍関係者だけ。その外側で沖縄県警が警備を担当する。  警察官の一人は「米軍の墜落事故で我々の余計な仕事が増えた」と吐き捨てるようにつぶやいた。  今回の事故を受けて、名護市議会はオスプレイの配備撤回と、米軍普天間飛行場の辺野古への移設中止を米政府に求める決議を賛成多数で可決した。オスプレイは普天間飛行場に24機が配備。東村と国頭村にまたがる米軍の北部訓練場にも、六つのオスプレイのヘリパッド(離着陸帯)工事が進む。米軍は21年までに横田基地にも10機を配備。自衛隊も19年度以降に17機を佐賀空港へ配備する計画だ。  だが、機体が登場した90年代に事故が多発し、危険な機種というイメージが植え付けられているうえ、今回の事故でさらにマイナスのイメージがついた。  そのうえ、独特の低周波騒音が健康被害を生じさせる可能性も指摘されている。  琉球大学の渡嘉敷健准教授(環境建設工学)は米軍ヘリの騒音を心理的、物的影響などに分けたうえで解析。するとオスプレイは他のヘリ(CH46)よりトータルで約2割も騒音が高いことが分かった。 「ヘリモードのときに音と低周波が大きくなる。名護市の小中学生にアンケート調査をしたところ、7割以上がヘリの音が気になり、4割がオスプレイ音を怖がったり気持ち悪がったりしていたことが分かりました。低周波被害の実情を多くの人に認識してもらうことが重要です」  11月に東村の民家を訪ねるとオスプレイが数分おきに飛行し、騒音は最大で99 デシベルを記録した。100デシベルは電車が通るときのガード下と同じで、聴覚機能に障害をきたすレベルと言われる。  辺野古と北部訓練場に伊江島補助飛行場を加えると、沖縄北部を覆うように三角地帯ができる。そこで飛行訓練が行われることになれば、住民は墜落事故の危険性や騒音問題と日々向き合いながら暮らさなくてはならない。沖縄国際大学の佐藤学教授(政治学)が言う。 「オスプレイに限らず、米軍機はいまや沖縄を縦横に飛んでいる。先日も宜野座村の集落付近で物資を吊り下げた訓練がありましたが、こうしたやりたい放題が続けば、またいつどこで墜落などが起きるか分かりません。事故を防ぐためには、海兵隊が沖縄から引き揚げるしかないのです」  国内の米軍施設の74%が集中する沖縄の負担は減るどころか高まるばかり。沖縄以外の人たちの基地問題への無関心も手伝い、県民の怒りは沸点に達している。 ※週刊朝日 2016年12月30日号
安保法制沖縄問題
週刊朝日 2016/12/21 07:00
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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