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松原智恵子、監督に竹内結子、蒼井優と“3姉妹”と言われたワケ
中村千晶 中村千晶
松原智恵子、監督に竹内結子、蒼井優と“3姉妹”と言われたワケ
松原智恵子(まつばら・ちえこ)/1945年、名古屋市出身。61年、映画のヒロインとなり、吉永小百合さん、和泉雅子さんとともに「日活三人娘」として人気者になった。映画「ゆずの葉ゆれて」(2016年)で第1回ソチ国際映画祭主演女優賞受賞。19年公開作に「笑顔の向こうに」(榎本二郎監督)、「君がまた走り出すとき」(中泉裕矢監督)、「長いお別れ」(中野量太監督、5月31日公開)がある。テレビ朝日系「やすらぎの刻~道」(倉本聰作)にも出演する (撮影/大野洋介) 松原智恵子さん (撮影/大野洋介)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら。著名人が岐路に立ち返る「もう一つの自分史」。今回は、優しくスカートを揺らしながら、取材場所に現れた松原智恵子さん。「可憐」「ふんわり」という言葉がぴったりだが、実は行動力と決断力はたしか。仕事でも私生活でも「決めるところは決める」タイプなのかもしれない。デビューから60年近くたったいま、その胸中に浮かぶものは? *  *  * ――名古屋で暮らしていた15歳のとき、日活の「ミス16歳コンテスト」に自ら応募したという。  2人の姉がそれぞれ「ミス」を獲っていたんです。そんなとき、たまたま新聞で日活の「ミス16歳コンテスト」の募集を見て、じゃあ自分も、と思いました。  まだ15歳だけど数え年なら16歳かな?と勝手に解釈して、軽い気持ちで応募したんです。入選のご褒美が東京見物で、それが目当てでもありました。いずれ東京に出たいと思っていたので、これはいいチャンスになるかな、と。 ――見事、入選を果たし、ほかのミスたちとともに東京見物に繰り出した。  当時流行していたジャズ喫茶に連れていってもらったり、日活の撮影所の見学もしました。そのとき、なぜか私ともう一人だけ呼ばれて、お化粧をされて、カメラテストを受けたんです。  そのあと「日活に入りませんか」とお話をいただきました。女優を目指していたわけではなかったけれど、躊躇(ちゅうちょ)はありませんでした。15歳だったし、なんでも挑戦してみたかったのです。東京に親戚の家があったので、そちらに下宿しながら日活に通うことになりました。  日活は最初から女優として本気で育ててくれるつもりだったようで、通いはじめて1週間もたたないうちにセリフのある役をいただいて、映画の主演も決まりました。両親も「それならば」と理解してくれました。 ――16歳で映画デビュー。吉永小百合さん、和泉雅子さんとともに「日活三人娘」として活躍するようになる。  2人と一緒に仕事をしたのは年に1回くらいです。ほとんどが雑誌の写真撮影でした。ライバルなんて意識はまったくありませんでした。  というのも、次から次へと仕事が来るので、自分の仕事をこなすこと、高校に通うことで精いっぱいで、そんな意識を抱く暇もなかったんです。  撮影が休みの日には高校に通って、大学の夜間部に進学しました。もしかしたら、大学生の役が来るかもしれない。そのためには経験を積んでいたほうがいい、と考えたのです。  小百合ちゃん、雅子ちゃんとはいまも仲良しです。年に一度は小百合ちゃんが声をかけてくれて、みんなで集まる会をやってきました。 ――16歳にしてスタートした女優業。演技のレッスンも少しは受けたが、ほぼゼロに近い状態で飛びこんだという。苦労はなかったのだろうか?  下手なりになんとか、がんばりました(笑)。すべて、現場で身につけたと思っています。  例えば鈴木清順監督はご自身で動きまで指示しながら「こういうふうにするんだよ」と、演技を教えてくださいました。  ほかの監督とのお仕事でも、とにかく監督の言うことをよく聞いてやってみる、という形で学んできた。本当に「撮影所で育った」という感じなんです。  バレリーナの役、サーカスのブランコ乗り……いろんな役をこなしました。サーカスのバイク乗りの役もありましたね。遠景の檻の中をバイクで走るんです。実際に檻の中で走るのは別の方ですけど、アップのシーンでは自分で運転をしました。  撮影前に練習をすることも多かったですが、そんなに大変とは思わなかった。まだ若かったから。  ただ、苦手だったこともあります。強く人にものを言うことができないんです。パッと感情を爆発させたり、怒らなきゃいけない役は難関でした。 ――27歳での結婚は、大きなターニングポイントだった。4歳年上で、ジャーナリストの黒木純一郎さんとの出会いは、週刊誌の取材。  密着取材で出会ったんです。第一印象は行動的、という感じでしたね。話しやすかったですし、話を引き出すのも上手だなと思いました。  最初は彼の事務所のバーベキューやキャンプに誘われて、みんなで集まっていました。あまり大勢で行動した経験がなかったので、ワイワイとした雰囲気で過ごすのが楽しかった。  お付き合いが始まり、3年くらい交際して、結婚することになったんです。日活からは「まだ早い」と引き留められましたけど、気にはしなかったですね。「仕事は続けます。ただ、1年間は世界各国をまわる新婚旅行に行かせてください」とお願いしました。 ――互いにわりと温和な性格で、1年間に及ぶ新婚旅行中も、ケンカをしなかったという。  結婚前から女優の仕事を続けていい、と言ってくれましたし、いまもいろいろ気遣ってくれます。  彼の仕事は午後から夜にかけて行われることが多かったので、私が朝早い仕事のときは起こさないようにそーっと帰ってきたり、家にいてもそーっと静かにしてくれています。  結婚による仕事への変化は、あまりなかったと思います。39歳で長男を出産したときには少しお休みをいただきましたが、翌年4月には、テレビ番組のレギュラーとして完全に復帰しました。 ――仕事も子育てもしっかり両立させる。いまで言うワーク・ライフ・バランスを、80年代から自然に実践してきた。  そんなに深刻に捉えない性格なんですよね。だから悩まないし、役を引きずったりするタイプでもない。監督の言うことを聞いて素直にやります。  最初からそうだったので、いまでも監督に「こうしてほしい」と言われるほうが安心できるんです。最新作「長いお別れ」の中野量太監督もそういう方だったので、昔の日活時代の監督のような感じがしてやりやすかったです。 ――映画「長いお別れ」は原作者・中島京子さんの実体験をモチーフにした作品だ。松原さんは、認知症を患い日々変わってゆく夫(演じるのは山崎努さん)を、2人の娘とともに支える妻・曜子を演じる。  認知症という題材をあたたかく、ユーモラスに扱った、とてもすてきな作品なんです。  でも最初に脚本を読んだ瞬間は、ものすごく胸にドン!ときてしまった。認知症や介護、別れ……これから自分たちが進む未来そのものが描かれているようで、ちょっと落ち込んでしまったんです。  曜子さんの優しさや明るさをどう表現すればいいのか、悩んでしまった。でも中野量太監督が「認知症になっても落ち込んでいるばかりではなく、人は前を向いて進むもの。曜子さんはそんな感覚を自然に持っているお母さんなんです」と言ってくださった。何度も優しく叱咤激励していただいて、演じることができました。  娘役の竹内結子さん、蒼井優さんとは初共演。2人ともすごくしっかりしていました。  そのなかで、私が一番頼りなかったのかな。監督には「撮影中も現場でも母と娘というより3姉妹、しかも松原さんが一番下の妹のようだった」と言われてしまいました(笑)。 ――中野監督は、宮沢りえさんが主演した作品「湯を沸かすほどの熱い愛」で、さまざまな賞を受けた実力派だ。  中野監督はやわらかくて、優しいんです。私と同い年のお母さんがいらっしゃる、と話してくださいました。撮影中も絶対にダメって言わないんです。「松原さん、いいですね! いいですね~! でもこうしたほうが、もっといいかな?」と、上手に自分が思う方向へと、役者を運んでいくんです。  この映画のストーリーは本当に身につまされるもの。次はもう、自分が介護される番なんですよね。夫と二人で日々の生活のなかで転んだり、入院することがないようにしようね、と気をつけています。健康のためにはバランス良く食べること。そして何かと用事を見つけて出かけることも大事。最近は散歩をして、より意識的に歩かなければ、と思っています。 ――デビューから60年近くなった。まだまだ仕事を続けていく、と微笑む。  常にいただいた役柄に集中して一生懸命にこなしてきました。殺人犯の役もやりましたしね。そこに至るバックボーンがしっかり描かれていれば、やる意味があると思うんです。  私には自分から「これがやりたい!」と言い切れるものがないんです。こういう役がやりたい、とアピールするタイプでもない。それでもやっぱり演じることが好きなんですね。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日  2019年6月7日号
週刊朝日 2019/06/01 11:30
“いま話題”の出版社と作家の関係がわかる! お仕事漫画『ぽんぽこ書房』
“いま話題”の出版社と作家の関係がわかる! お仕事漫画『ぽんぽこ書房』
川崎昌平(かわさき・しょうへい)/1981年生まれ。埼玉県出身。作家、編集者。東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。主な著書に『ネットカフェ難民 ドキュメント「最底辺生活」』『小幸福論』『重版未定』など。(撮影/大野洋介)  ぽんぽこ書房の文芸誌「小説玉石」の編集部員は、ワンマン社長から休刊を告げられる。入社6年目のコン藤リンを中心に、休刊を覆そうとする部員の奮闘からこの漫画、『ぽんぽこ書房 小説玉石編集部』(光文社、1000円※税抜)は始まる。 「出版界でも文芸の編集者は特殊で、黒衣の度合いが高い。どんな仕事なのか私自身が知りたかったし、読者も知りたいんじゃないかと思いました」  と作者の川崎昌平さん。  やはり編集者を主人公にした『重版未定』に続いて、文章だけより親しみやすい漫画で表現した。川崎さんは内容に合わせて文章も絵も描くことができるのだ。  キャラクターはキツネ、ブタ、カッパなどの姿をしているが、内容はリアル。この漫画を連載していた「小説宝石」の担当者に取材し、文学賞の受賞パーティーで作家に話を聞いて文芸編集者の日常を描いた。  作家からいい原稿が届けば編集者をやっていてよかったと涙を流し、行き詰まった新人作家を励まし、ときに缶詰めにし、ベテラン作家の釣りに付き合う。  要所要所に詳細な注があるので、「ゲラ」「印税」といった業界用語、何部売れたらヒットなのか、文芸誌の役割、作家と編集者が文学賞の発表を待つ「待ち会」など、出版界、文芸界の仕組みがよくわかる。  さらに一話ごとに、著者が自分の漫画について文章で解説を加えている。 「自分の作品にのめり込まないのが私の特技。いつでも突き放せるんです。だって編集者ですから」  川崎さんはデザイン系の会社で美術書や広報誌の編集をしている。文芸という異なるジャンルを取材してひかれたのは、著者と編集者がひたすらいい作品を目指す姿だった。  当たり前のことのようだが、出版界では売り上げのため、刊行点数を稼ごうと急いで本を作ることも少なくない。 「小説は一人の作家が書いて一人の編集者が受け止めて、コツコツ作っていく。お金がほしかったら、みんなこの業界にいませんよ。作品をいちばんに置く。その当たり前を再確認できたのが、描いていていちばん楽しかったところです」  編集の仕事のほかにも、大学で日本文学を教え、夜11時からの2時間で漫画や本を執筆している。小説は学生時代から書き続け、文藝賞の最終選考に残った作品もある。パソコンには未発表の長編が8作、短編が50作、企画書とプロットが100本以上入っているそうだ。 「きのうまでなかったことをやろうとしている人が好きなんです。自分もきのうと違うものを作らなきゃということですね」  文芸畑の取材を進めるうちに、経済効率からすると将来が危ぶまれる文芸の世界を守り、そこにある熱い火種を残したいと思うようになった。  より多くの人に知ってほしくて、ソフトカバーにして本の価格を下げた。川崎さんの熱意から生まれたぽんぽこ書房。本好きのための熱気あふれるお仕事漫画だ。(仲宇佐ゆり) ※週刊朝日  2019年5月7日号
週刊朝日 2019/05/31 17:00
地方なのに「採用には困ったことがない」 漁業に革命を起こすシングルマザーの働き方改革
地方なのに「採用には困ったことがない」 漁業に革命を起こすシングルマザーの働き方改革
父親ほどの年齢の漁師から新卒まで、坪内知佳は幅広い年代の漁師をたばねる(撮影/写真部・馬場岳人)  山口県の沖合に浮かぶ萩大島で、よそ者、当時24歳、シングルマザーでありながら、漁師たちをたばねて会社の社長になった女性がいる。事業成功までの波瀾万丈な道のりを描き話題を生んだ著書、『荒くれ漁師をたばねる力』の著者・坪内知佳さんだ。刊行から1年半、彼女のパワーは衰えるどころかさらに進化を見せている。改めて振り返る“荒くれ”たちとの日々と、彼女がいま描く「夢」とは――。 *  *  * 「うち、採用には困ったことがないんですよ」  坪内知佳はサラリとそう言った。彼女が代表を務める株式会社「GHIBLI(ギブリ)」は、山口県萩市にある。全国規模で人不足が叫ばれている昨今、地方の中小企業で採用に困っていないと公言できる企業は少ないだろう。  ギブリは地方に拠点を置く、高給のIT企業などではない。旅行部門、コンサルティング部門があるが、メインの事業は鮮魚販売部門。詳しくは後述するが、それにしても「おしゃれ」とか「人一倍稼げる」という仕事ではない。なのになぜ、「ギブリで働きたい」という希望者が絶えないのか。そのヒントは、坪内の次の一言からうかがえる。 「みんながみんな、想い合える世の中であってほしいんですよ。一生に一度の人生だから、好きなスタッフと楽しく仕事したいし、気持ちよく生きたいじゃないですか。みんなの人生がそうあってほしいんです」 ■漁師からの意外な相談  さかのぼること10年前の2009年。当時23歳、シングルマザーだった坪内は、やむを得ない事情もあって故郷の福井県には戻らず、女手ひとつ、子どもを生んだ萩市で生きる決意を固めていた。そのために高校、大学時代に必死に磨いた英語を活かして翻訳事務所を立ち上げたことが、予想外の出会いを生んだ。  萩市の観光に関するウェブの翻訳の仕事を請けたのが縁で、地元の旅館の仲居さんの語学指導と、繁忙期のサポートをすることに。その年の12月、忘年会シーズンで忙しい宴会場の手伝いをしている時、萩の港から船で数分、日本海に浮かぶ萩大島の松原水産という船団で漁労長をしていた長岡秀洋と知り合った。  翌年1月、長岡から呼び出されて指定された喫茶店に向かうと、長岡のほかに同じ萩大島で船団を持つ2人の社長が同席していた。なにか仕事をもらえるのかなと軽く考えていた坪内は、3人から話を聞いて驚いた。 「魚が獲れなくなって先行きが不安だから、新しいことがやりたい。でもなにをどうしたらいいかわからないから協力してほしい」  若くて、よそ者で、英語を流ちょうに話す彼女なら、なにかいいアイデアがもらえるかもしれないと思ったのだろう。  それまで漁業のことなど微塵も考えたことがなかった坪内だが、本当に困っている様子の3人を見て心を決めた。原因不明の病で「余命半年」と宣告された19歳の時、「私が今死んだとして、どれだけの人が本気で惜しんでくれるだろう。もっと人のために生きればよかった」と後悔した。後にその病の原因が特定されて生き長らえることができたが、あの日の後悔を忘れていなかったのだ。 ■取っ組み合いのケンカ  ここから、若きシングルマザーと荒くれ漁師という異色のチームの挑戦が始まった。萩大島の漁師をまとめ上げて萩大島船団丸を結成した坪内は、獲れた直後の魚を船の上で加工し、港から契約先に直送する「鮮魚BOX」を考案した。  坪内が「船上直送」と名付けたこの事業には、逆風が吹き荒れた。排除される中間業者からの脅し。加工や配送なども担当することになった漁師たちの不満。加えて、ゼロから開拓しなければならない取引先。逆境のなか、坪内と漁師たちは何度もぶつかり合い、時には取っ組み合いのケンカをしながら、這いつくばるように前進してきたのだ。  この暗中模索の時期も、坪内に迷いはなかったという。 「この仕事を始めた時、私は子どもの故郷であるこの島や海を守りたいと思いました。そのために、自分が正しいと思うことを1日1日、1分1秒をこなしていくだけです。人の役に立ち、誰かの何かにかみ合った時に、会社って勝手に大きくなるものだと思います」  この取り組みは広く注目を集め、全国から問い合わせが殺到。そこで坪内は2014年にギブリを立ち上げ、船団丸の鮮魚販売だけでなく、他社へのコンサルティング部門と視察に対応するための旅行部門を設けたのだ。 ■オフィスに子ども部屋  船団丸の始動から9年が経った今、「鮮魚BOX」の契約件数は500件を超えた。そして坪内は現在、高知、北海道、鹿児島のクライアントとともに漁業の六次産業化に携わっており、2018年からはニーズの縮小などの課題を抱える真珠の事業もスタートした。  あまり知られていないことだが、この成長の過程で、坪内は子育て中の女性、シングルマザーの女性などを積極的に雇用してきた。  萩市の平屋に構えたギブリの事務所の1室は子ども部屋になっている。ギブリの女性スタッフ6人、それぞれの子ども計8人が遊んだり、休んだりするスペースとして使われていて、子どもたちがここで1日を過ごすこともある。  オフィスでは、夕方になると誰かひとりが大量の夕飯を作り始める。オフィスで子どもと食べてもいいし、家族分を自宅に持ち帰ってもいい。仕事を終えた後に夕飯の支度をしなくてもいいように生まれたシステムだ。  誰かが夜に開かれるセミナーに参加したいといえば、別のスタッフが子どもの面倒を見る。仕事が立て込んで残業が必要な日は、子どもも含めてみんなでご飯を食べる。食後には、子どもたちを風呂場に連れて行き、並べて身体と頭を洗う。そうしたら、時間が遅くなっても子どもは帰って寝るだけ。 ■自分が社員だったらどうしてほしいか  新しいというより、どこか懐かしい温かさを感じるこの働き方は、シングルマザーの苦労を知る坪内だからこそのアイデアを取り入れたものである。 「判断の基準は、自分が会社員として働くとして、どういう経営者だったらついていこう、一生懸命働こうと思えるか。自分が社員だったらこうしてほしいということをしているだけなんですよね。一緒に働くんだから、みんなで助け合えばいいじゃないですか。うちは、スタッフが妊娠しようと出産しようと、結婚しようと離婚しようとかまいません。副業もウェルカムだし、月に何割だけとか、単発でお願いする外部のスタッフもいます」  結果的に、ギブリは合理的かつ人の温もりを感じさせるフレキシブルな職場になった。それと、様々なメディアに取り上げられて有名になった鮮魚販売事業の魅力がかけ合わさって、「採用しなかった年がない」というほど人材を惹きつけるようになったのだ。  このインタビューは、坪内が真珠の事業で連携している溝の口のジュエリー店で行われた。そこにはジュエリーデザイナーの子どもも、ギブリのスタッフの子どももいた。それが当たり前といった様子で受け答えをしていた彼女は、最後にこう言って笑った。 「私の採用基準は、話していてピンとくるかどうか。学歴なんかあてになりませんから。人間には欠点があって、長所があります。そのなかで同じ一輪の花や、ちょっとした景色を一緒に『きれいだな』って感動できる仲間が好き。その人たちと私は生きていきたいんです」
朝日新聞出版の本読書
dot. 2019/05/30 16:00
軽井沢にある喫茶「新宿スカラ座」 伝説のオーナーはなぜ歌舞伎町を去ったのか
軽井沢にある喫茶「新宿スカラ座」 伝説のオーナーはなぜ歌舞伎町を去ったのか
かつて歌舞伎町のシンボルだった「スカラ座」(撮影/古市智之) 中軽井沢にある現在の「スカラ座」(撮影/白石義行) オーナーの林さん(撮影/白石義行)  JR軽井沢駅の観光案内を眺めていると、突然現れた「新宿」という文字に目を疑った。中軽井沢の駅前にある、新宿の文字を冠したそのお店は「新宿スカラ座」という喫茶店。かつて歌舞伎町のコマ劇場近くに店を構え、ツタの絡まる外観やレンガ造りの暖炉、薄暗い店内やゴシック調の制服に身を包んだ店員の雰囲気、そして100人以上収容可能というその広さが魅力だった喫茶店の名前が、なぜか軽井沢の案内板に書かれていたのだ。  少し怪しげなたたずまいと歌舞伎町という立地が合っていたのか、スカラ座は魔力のような吸引力を持っていた。コマ劇場での出演を終えた役者の市原悦子や、新宿で打ち合わせをする作家の向田邦子がスカラ座で時を過ごした。クラシカルな内装と薄暗い独特の雰囲気が好まれ、映画のロケにもたびたび使われた。17年前に営業を終了したが、閉店当日は名残惜しむお客さんたちが押し寄せ、その様子がテレビで放送されたこともあった。  あのスカラ座なのか?半信半疑で案内図を頼りに中軽井沢の店に向かった。出迎えてくれたのは林岱山(はやし・だいさん)さん(71)。歌舞伎町にあった店の最後のオーナーその人だった。林さんは歌舞伎町の店を閉めたのち、土地の権利を持っていた新宿西口の小田急エース内で同じ店名で規模を縮小して営業を再開した。しかし林さんの体調悪化もあって西口の店を閉め、軽井沢へ隠居することとなる。ところが転居後、あまりに何もない毎日に「これではボケてしまう」と、体調に支障のない範囲での店の再開を決めたという。  林さんに、スカラ座を通して見た「歌舞伎町の昭和と平成」を聞いた。 ■最初は「名曲喫茶」として始まった 戦後から10年近く経った昭和29年(1954年)にスカラ座は産声を上げている。 「あのお店は父親が戦後、新宿西口で生糸や衣類を売る商売を起こして財を成し、歌舞伎町の土地を買ってオープンしたのが始まりでした。100台のスピーカーや豪華なシャンデリア、レンガ造りの暖炉と、ほとんど父の道楽のような店でした。最初はクラシック音楽を聴きに来る『名曲喫茶』として始まっています。私は寿司職人として家を出て、新宿に自分の店を出していたのですが、40歳を過ぎた昭和60年前後に父親に請われ、スカラ座を手伝うようになりました」  当時の歌舞伎町は人いきれに包まれた街だった。昭和31年(1956年)には歌舞伎町のランドマークとなる新宿コマ劇場が完成。最新の映画や流行の演劇、演歌歌手やキャバレーの女の子を目当てに、若者や年配層を問わず街に押し寄せていたという。 「店がオープンした当時は新宿駅の東口から歌舞伎町まで、人の頭で真っ黒に埋め尽くされているような風景の毎日でした。ウチのお店も人であふれていて、最盛期で1日で300人くらいは入ったことがあると記憶しています。当時は娯楽も少なく、クラシック音楽を良いスピーカーで聴くことが娯楽だったので、満席で座れなかったお客さんが店の階段に座って音楽を聴いていたんです」  100席以上のスカラ座を滞りなく営業するため、従業員も最盛期はドアマンやレジ、フロント、レコード係など26名に及んだ。24時間営業だったオープン当初は、クラシックを聴きに来る人に混じり、朝には学生やサラリーマン、昼にはデート前のカップルや休憩中のサラリーマン、夜には同伴のホステスやヤクザなどの客で賑わっていた。 ■バブル景気、そして崩壊  人波であふれていた昭和の歌舞伎町だったが、平成に入ると街の様子が徐々に変わり始めたと林さんは回想する。 「バブル期に、それまで『名曲喫茶』だったスカラ座の看板を『CAFE』に変えました。時代の変化によって、スカラ座が音楽を聴きに行く店から、カップルのデートの場になったり、同伴の場になったり、暴力団員の打ち合わせの場に変わっていったこともその要因です。とはいえ、早慶戦やメーデーの日には学生や労働者で、店は相変わらずにぎわっていました」  平成の時代に入りバブルが崩壊する。再開発の波が押し寄せる中、歌舞伎町は変わらず怪しい魅力を保ち続けたように見えていた。しかし、林さんは変貌を遂げる歌舞伎町に心が離れていくのを感じていたという。街には暴力沙汰などのトラブルを処理する警察の姿が目立つようになり、それに対応するように50台という異様な数の監視カメラが街に設置された。 「悪質なキャッチが横行し、ぼったくりのお店が続出しました。それに対して防犯の垂れ幕やのぼりが通りにあふれ返る。歌舞伎町はこういう街じゃない、と感じ始めたのです」 ■コマ劇場も姿を消した  スカラ座が閉店を決めたのは平成14年(2002年)。丸ごと店を買い取るという申し出もある中「他人にスカラ座はあげたくない」と、林さんは建物の解体を決断する。同時に歌舞伎町との決別を決めていた。 「もう歌舞伎町はコーヒーを売る場所ではなくなっていました。店を閉めた直接の原因は従業員が集まらなかったことや、大きな店を維持するのに手間がかかったことが理由です。従業員にしても、来てくれれば誰でもいいというのではなく、あの雰囲気に合わせて仕事ができる人でないと駄目なんです。店は木造でしたので、あの場所で火事を出さないためにも、経費と神経を使わなければいけない。もう少し規模が小さければ続けていたかもしれませんが、店が大きすぎました」 スカラ座の閉店後、林さんは歌舞伎町には一切足を踏み入れていない。 「普通の人が行く街ではなくなったように思いますね。食事に行きたい店があるわけでもないですし、歌舞伎町でなければ観られない映画があるわけではないのです」  歌舞伎町のシンボルでもあったコマ劇場も平成20年(2008年)に姿を消し、人だかりが絶えなかったコマ劇場前広場も、深夜になると人もまばらになった。令和という新しい時代に入り、歌舞伎町にどんな思いがあるのか聞いてみた。 「元に戻って欲しいですね。ノスタルジーから昔に戻って欲しいと言っているのではなく、寿司屋でもキャバクラでもいいから、しっかりした理念を持ったオーナーがやっている店が増えていって、活気があって人であふれる街に戻ってほしいという思いがあります」 (取材・文/白石義行)
dot. 2019/05/28 17:00
職場を襲うメンタル不調、なぜ今年は「6月」が危険なのか?
職場を襲うメンタル不調、なぜ今年は「6月」が危険なのか?
※写真はイメージ(gettyimages) 浅賀桃子(あさか・ももこ)/コンサルティング会社勤務などを経て心理カウンセラーとして独立・起業。メンタル不調やキャリアの相談などに応じる(写真:本人提供) 6月に2週間以上不調が続いた人は?(AERA 2019年6月3日号より)  メンタル不調に陥るリスクは、今年特に6月が高い。例年にない10連休で5月病が続出。余裕のない職場に、その影響がドミノ倒しのように押し寄せる。「6月病」は決して他人事ではない。 *  *  *  都内のPR会社に勤務する男性(28)の仕事量が急激に増えたのは、1年ほど前の連休明けから少したったころだった。  連日続く深夜までの残業。結婚したばかりだった妻からは、「私たち新婚だよね?」と寂しそうに言われた。申し訳ない思いはあったものの、社内全体が忙しさで覆われていて、自分の業務量が多いとはとても口に出せなかった。 「きっかけは、同僚の1人が出社しなくなったことでした」  1週間ほどの連休明け、そのまま出社しない社員がいた。翌日も、その翌日も出社せず、電話もつながらない。休暇中は海外旅行に行くと話していたので、旅先で事故に遭ったのではとみんなで心配した。  結局、会社がイヤになって「飛んだ(無断で退職した)」だけだとわかったが、業務は同僚たちで引き継がなければならない。ちょうど、無断退職した彼が所属するプロジェクトではクライアント企業の新製品発表会が目前に迫っていた。  多数の報道陣やバイヤーを集めて行われる発表会の準備は多忙を極める。特に、そのクライアントは要求レベルが高いことで有名だった。メンバーそれぞれが自分の仕事を抱えるなかで、彼の担当分の業務が加わった。しかも、彼の担当業務がどこまで進んでいてどんな状況なのかは誰も把握していなかった。 「業務の進捗状況を確認しなおすところから始めなければなりませんでした。同じプロジェクトのメンバーは、それこそ寝る間もありませんでした」  男性は、出社しなくなった社員と同じプロジェクトで働いていたわけではない。しかし、そのPR会社ではそれぞれの社員が同時並行で複数のプロジェクトに参加するため、1人メンバーが抜けるとプロジェクトのほかのメンバーが忙しくなり、そのメンバーが担当する別のプロジェクトにも遅れが出る。社員が「飛んで」から1カ月もたった頃には、玉突き的に社内全体がオーバーワーク状態に陥った。以来、1年近くたった今も男性の業務量は高止まりしている。 「会社は人を採用しようとはしていますが、業界全体が人手不足でうまくいっていません。たまに入社する人がいても指導に時間を割かれ、そうしているうちに別の社員が限界を迎えてやめていく。終わりのないトンネルにいるような感覚です」  このままでは、いずれ自分も限界を迎えてしまう。転職サイトを開くのが日課になった。転職エージェントにも登録し、毎日のように届くメールをチェックする。いい求人さえあれば、すぐにでも転職するつもりだ。  4月から新生活が始まり、張り切ってスタートダッシュしたものの連休明けにはやる気がなくなる「5月病」はこれまでも多く聞かれた。だが、いまはそれだけにとどまらない。冒頭の例のように余裕のない職場が広がる中、1人の5月病の穴を埋めるために周囲の人までオーバーワークに陥り、メンタル不調に陥ることがある。5月病に影響を受けた「6月病」が広がりつつあるのだ。  企業カウンセリングなどを手掛けるベリテワークスの代表で心理カウンセラーの浅賀桃子さんは、構造的な問題を指摘する。 「いま欠員をすぐに補充できる会社はまれです。さらに、各企業には独自の慣習や仕事の進め方があります。仮に経験者を採用できても、ある程度自信を持って判断できるようになるには3カ月から半年程度かかります。その間は既存社員に負荷がかかる。人手不足で指導もままならず、その状況から抜け出せなくなる企業が多いのです」  職場をむしばむ負の連鎖。今年は、特に6月が危険な理由がある。過去に例のない10連休だ。浅賀さんは言う。 「長期の連休明けは不調を訴え出社できなくなる人が多い時期です。休みと仕事の切り替えができない人はもちろん、休み中に冷静に考えて自分の働き方はおかしいと感じる人もいる。逆に、休めなかった人も他人と比べてやる気を失いやすいんです」  連休明けに出社できなくなった人の影響が徐々に職場じゅうへ広がり、6月に顕在化しかねないというのだ。  日本能率協会総合研究所の昨年の調査によると、連休明けの5月、20歳以上の男女の約7割が頭痛や倦怠感など何らかの不調を感じていた。そして、そのうちの7割近く、全体で見ても約半数は6月になっても2週間以上の不調が続いたという。不調が続いた割合が多い順に、30代男性、50代女性、40代女性だった。 (編集部・川口穣、小長光哲郎) ※AERA 2019年6月3日号より抜粋
AERA 2019/05/28 07:00
OTC化を望む声も 時代遅れの日本のアフターピル事情
熊澤志保 熊澤志保
OTC化を望む声も 時代遅れの日本のアフターピル事情
アフターピルの避妊成功率は90%ほどで、100%ではない。有効時間も薬により異なる。多くの国でOTC化されているノルレボは72時間以内、エラは120時間以内に服用(撮影/倉田貴志)  望まぬ妊娠を避けるための「アフターピル」。緊急用途の薬だが、日本では入手しづらい。薬のオンライン処方が解禁されるが、専門家からは、市販薬にすべきとの声も上がる。 *  *  *  平日の深夜2時、神奈川県在住の女性(26)は青ざめた。コンドームが破れてしまった。パートナーとの性行為中の、思わぬアクシデントだった。  避妊に失敗した場合、一定時間以内にアフターピル(緊急避妊薬)を服用すれば、妊娠の可能性を大きく下げることができる。朝からは仕事がある。女性は夜間でも処方してくれる病院をネット検索して、予約。不安な思いで一日を過ごし、退勤後1時間かけて東京・新宿のナビタスクリニックへ。到着は夜8時。30分後には、医師から説明を受け、アフターピルを飲んだ。 「まだ妊娠は考えていなかったので、ほっとしました。都市部に住んでいて、よかったとも思いました」(女性)  望まぬ妊娠を避けるためのアフターピルは、イギリスやオーストラリアなど世界76カ国では薬局などで購入できる一般用医薬品(OTC)だ。アメリカ、カナダ、フランスなど19カ国ではコンビニやガソリンスタンドでも販売している。だが、日本では医師の処方が必要だ。  ナビタスクリニック理事長の久住英二医師は、日本のアフターピル事情は時代遅れだという。 「緊急用途の薬だというのに、必要なときに入手しづらい。2016年度の人工妊娠中絶件数は16万8千件にのぼり、年齢は20~40代が多い。中絶した人の多くは、成人した社会人です」(久住医師)  避妊に失敗したとき、「もしかして」のために、仕事を休んでまでクリニックを受診する人はそう多くない。近くに病院自体が少なく受診が難しい、近所に知られる懸念から来院をためらうなどのケースもあるという。  3月、厚生労働省はアフターピルのオンライン処方解禁の方針を決めた。だが、4月に行われた検討会の議事録によると、「産婦人科専門医に限定」「犯罪被害者に限る」「3週間後の産婦人科受診を義務化」など、極めて限定された内容に、疑問の声が上がりはじめている。  ナビタスクリニックは、すでに昨年9月からアフターピルのオンライン処方に踏み切っている。現在、月200件ほどある処方の約1割がオンライン経由だ。利用者は、産婦人科の予約がいっぱいで受診できない、仕事を急に休ませてもらえない、夫が避妊に協力してくれないなどの事情を抱える。レイプされたという女性もいた。  久住医師は、アフターピルはオンライン処方だけでなくOTC化の必要もあると言い、「医師が処方しなければならない科学的な根拠はない」とする。 「堕胎薬ではなく、プロゲステロンというホルモンと同じ働きをする薬。排卵を遅らせ、子宮内膜の状態を変え、着床しづらい状態にします。副作用は頭痛や吐き気、胃の痛みなど一過性。将来子どもがほしいときに障害になる薬ではありません。OTC化すべきです」(久住医師)  日本では17年に厚労省でOTC化が検討され、パブリックコメントで9割以上が賛成だったが、見送られた。 「『日本は性教育が進んでいないから、安易な使用が広がる』という理屈はあまりにおかしい。妊娠は女性単独では成立しない。妊娠の責任を女性一人で負わなければならない状況を、少しでも軽減すべきです。アフターピルが広がると『女性の性生活が乱れ、性感染症が増えるのでは』などと言う人に、知ってほしいことがあります。アフターピルが市販されても性感染症は増えなかったという海外の報告があります」(久住医師)  女性クリニックWe!TOYAMA代表の種部恭子医師もOTC化の必要性を語る。 「アフターピルを必要とする背景には、DVやレイプ被害が潜むことも多い。薬局で薬剤師が売るよう制度を整え、必要な人に対面で声をかけるなどして、援助につないでほしい」(種部医師) (編集部・熊澤志保) ※AERA 2019年5月27日号
セックス
AERA 2019/05/24 17:00
月給17万円から年俸1000万円も 過酷すぎるプロ野球「審判」の世界
岡本直也 岡本直也
月給17万円から年俸1000万円も 過酷すぎるプロ野球「審判」の世界
雨の中、グラウンドで協議する審判団 (c)朝日新聞社 パ・リーグ審判員として29年、NPB審判技術指導員を8年つとめた山崎夏生氏(写真:本人提供)  野球経験者ならば「審判は石ころと思え」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。華やかなプロ野球選手の報道の裏で、日々、野球と向き合い、選手と向き合い、黙々と仕事をこなしているのが審判だ。プロ野球を数十年見続けているファンでさえ、審判の世界を理解しているのはごく一部だろう。パ・リーグ審判員として29年、NPB審判技術指導員を8年つとめた山崎夏生氏にベールに包まれた審判の世界を語ってもらった。 *  *  *  NPBには現在、61人の審判が所属している。現役の審判が55人、現役の審判を指導する技術指導員が5人、その全てを統括する審判長が1人という内訳だ。審判には、元プロ野球選手が多いのではないか? そんなイメージを抱く人も少なくないだろうが、審判になった元プロ野球選手は2001年を最後に現れていない。理由は、その過酷さが背景にあるのではないかと言われている。 「審判になるには、2013年12月に開校したNPBアンパイア・スクールを受講しなくてはいけません。募集は年に1度。130~170人の応募者の中から一次審査を通過したおよそ60人が受講できます。審判を目指す人がほとんどですが、審判技術向上のために中学・高校の野球部の顧問やアマチュア野球で指導的立場にある人なども参加します。少数ですが、女性の参加もあります。アメリカの審判学校が5週間かけて行うメニューをおよそ1週間で行うため、受講内容はハード。朝9時から実戦に即したプレーへの対応、投球判定などを学び、夜は座学で講話やルールの勉強、毎日テストも実施します。毎年何人かはリタイアしますね」(山崎氏)  スクール終了後、成績優秀と認められた受講生のみ「NPB研修審判員」として採用される。採用人数は毎年わずか3~4人、研修期間は1~2年だ。「NPB研修審判員」になると、独立リーグである四国アイランドリーグplusやBCリーグに派遣される。NPBの指導員や独立リーグの審判部長が、球審、塁審としての動きをスタンドからチェックし、基礎を徹底的にたたき込む。毎年10月に宮崎で行われるフェニックス・リーグを最終試験とし、合格を果たせば「NPB育成審判員」として採用される。  ちなみに給料はというと、「NPB研修審判員」は、月17万円の6カ月契約、年俸は102万円。「NPB育成審判員」は、年俸345万円だ。近年、審判を目指す元プロ野球選手が減っているのは、こういった厳しい環境が関係しているという。 「現役審判55人のうち、元プロ野球選手は13人。かつて審判は元プロ野球選手がほとんどでした。ルールも熟知しているし、運動能力も高いため、優遇もされていました。現役時代の給料を考慮してもらったり、すぐに1軍の試合に出られたりね。しかし、それでは公平性に欠けるということもあり、今ではNPBアンパイア・スクールの受講が必須となりました。優遇などはなく、全員同じスタートです」(山崎氏) 「NPB育成審判員」に昇格すれば、2軍の試合にも出場ができる。最長3年の育成期間内でみごと最終試験に合格をすれば、「本契約」が決まる。年俸も385万円にアップする。しかし、1軍の試合に出場するには、まだ長い道のりがある。 「プロ野球選手は、1年目からレギュラーになれることもありますが、審判の世界では無理です。審判で大切なのは『経験』です。いろんな修羅場を経験し、あらゆるプレーに遭遇し、ジャッジの引き出しをもたないといけません。たとえ1軍の試合に出られたとしても、最初は月2、3試合から。残りの日程は2軍で経験を積みます。1軍の試合にレギュラーで出場できるようになるには、研修・育成期間を合わせると最低10年はかかるでしょう」(山崎氏)  さらに山崎氏は、審判という仕事の大変さについて、こう続ける。 「審判は、選手と違い、イニングの表裏すべてに出場しています。選手は表裏どちらかはベンチに座り休めますが、審判には休憩はありません。特にエネルギーを消費するのは球審。前夜は、ベテランでも緊張のあまり寝付けないこともあります。ストライク&ボール、アウト&セーフ、ファウル&フェア、デッドボールや危険球の判定など、塁審と違いジャッジの数も多い。球審には、先発投手が完投するのと同じくらいの疲労度がありますよ」  たとえ「本契約」になったとしても審判の契約期間は1年。サラリーマンのような正社員待遇は存在しない。しかし、体力的、技術的に問題がなければ55歳前後まで契約更新の可能性もあるという。  もし1軍の試合に定着することができれば待遇面は一気に跳ね上がる。「1軍通算出場試合数500試合+年間72試合以上出場」の条件クリアが必須だが、最低保証年俸は750万円までアップ。さらに出場手当も上積みされる。配分は、球審3万4000円、塁審2万4000円、控え審判7000円だ。年間を通じて活躍すれば、出場手当だけで200万円を超える。すべてを合算すれば、年俸1000万円超えも夢ではない。  審判としての一日のスケジュールも気になるところだ。 「ナイターの場合だと、午前中は、ジムなどに行きトレーニングする人が多いですね。近所をジョギングする人もいます。球場入りするのは、15~16時。球審担当者は、もう少し早めに入り、選手が練習するブルペンに入ったりバッティングケージの後ろについたりして、ボールへの目慣らしをします。その後、休憩を挟み、18時になれば試合開始です。試合後は、反省会を開くので、球場を後にするのは23時くらいになります」(山崎氏)  続けて、山崎氏は選手との交流についても興味深い話を聞かせてくれた。 「選手との交流は一切ありません。かつては、一塁ベース付近で談笑したりする姿も見かけられましたが、今は私語・談笑は禁止。飛行機の移動やホテルも別々です。遠征先の居酒屋などでバッタリ会ってしまうことはありますが、一緒にお酒を飲むことは絶対ありません。仲が良い選手に有利な判定をしているなどの疑惑の目を向けられては困るからです。昔と違い、選手と一定の距離感はできていますが、野球界の仲間という意識はお互いがもたないといけないと思っています。お互いに尊重しあい、リスペクトしあって、プロ野球という良い商品を提供しなきゃいけない。良い試合のためには、良い選手、良い審判が必ず必要なんです」  我々野球ファンは、華やかなプロ野球選手の活躍の裏で、こうしたもう一つのドラマがあることを忘れてはならない。まだ今シーズンは残り100試合ほどもある。選手だけでなく、時には審判に注目してみるのも野球の魅力発見につながるのではないだろうか。(文/AERA dot.編集部・岡本直也)
dot. 2019/05/23 16:00
フィリピン戦没者遺骨収集“日本人ゼロ”疑惑…厚労省が隠蔽した真実
フィリピン戦没者遺骨収集“日本人ゼロ”疑惑…厚労省が隠蔽した真実
レイテ島で日本軍の揚陸拠点だったオルモックに残る、通称コンクリートハウス。独立歩兵第12連隊第3大隊の約250人が立てこもったが、米軍の攻撃で全滅した(撮影/編集部・大平誠) フィリピン・セブ島で、収集した骨を「空援隊」が焼いた後、取り残したとみられる骨の数々。焼いた骨からは、鑑定に資するDNAは抽出できないという(撮影/編集部・大平誠) 最後にレイテ島に上陸し、消息が最も謎に包まれている第68旅団の遺族。何度も現地を踏査し、遺骨収集の困難さを知るほど、慰霊巡拝に軸足を移す人も多い(撮影/編集部・大平誠)  日本人の遺骨は一体もない──。前代未聞の不祥事に揺れる厚労省の海外戦没者の遺骨収集事業。昨年8月に公開された鑑定結果からは、同省が隠蔽を試みた事実が浮かびあがる。遺骨収集は何のために行うのか。9年前、遺骨混入疑惑を最初に報じた記者が取材した。 *  *  *  約310万人の戦没者を出した第2次世界大戦終結からまもなく74年。海外の戦没者約240万人のうち、これまで収容された遺骨の概数は128万柱に過ぎず、半数近くがいまだ異国の地に眠っている。  1952年から開始された海外戦没者の遺骨収集事業は、南方から旧ソ連、モンゴルなどにも拡大、現在も厚生労働省所管で継続している。しかし、最激戦地のフィリピンでの事業は2010年から約8年も中断した。収集された遺骨の大半がフィリピン人のものだったのではないか、という疑惑が報じられたからだ。遺骨収集とはなんのために行うのか、いたずらに数を増やせば達成なのか。戦争がなかった平成という元号をまたぎ、昭和への記憶が薄れる令和という時代の初頭に、この問題を疑惑として最初に調査報道した記者として、改めて考え直したい。  まず、遺骨混入について振り返る。  約51万8千人が犠牲になったフィリピンから収容した遺骨の概数は、今年3月末現在で14万8530柱。政府派遣団による収集は74年度の1万6826柱をピークに下がり続け、平成の半ばには年に数十柱というレベルまで低迷した。ところが、NPO法人「空援隊」が政府派遣団に加わった07年度から収容数が急回復し、同隊が単独で「未送還遺骨情報収集事業」(フィリピン分)を受注した09年度は、7740柱と飛躍的に増大した。  従来は遺族会など協力団体から得た情報をもとに、厚労省が自ら集骨に出向いていたが、集骨自体を空援隊に丸投げ。さらに、遺骨鑑定からフィリピン大学の考古学教授を外し、住民らの宣誓供述書に基づいて集めた遺骨を博物館の学芸員が鑑定したものを、厚労省が追認する形にしたことが、収集数のV字回復につながったようだ。  だが、現地では、空援隊が遺骨を買い集めているなどの情報や、先祖の骨が大量に盗まれる被害が報告されるなど、トラブルが相次いで発覚。私はフィリピンに飛んで証言を集め、10年3月、週刊文春に「フィリピン人の骨が千鳥ヶ淵に埋められる!?」という記事を執筆した。  約半年後の同年10月、NHKが検証番組を放映し、追いかける形で新聞各紙や民放各局が次々にこの疑惑を報じた。これを受け、厚労省はフィリピンへの遺骨収集派遣を中断。約1年後の11年10月5日の検証報告書で事業の大幅見直しを発表した。宣誓供述書の廃止や遺骨への対価の支払いをしないことを徹底することなどが検証報告書の概要であり、事業再開にあたってはフィリピン政府との間に必要な覚書を締結すると定めたものだった。 ●“日本人の遺骨なし”を厚労省は7年後に公表した  いっぽう、「検証」結果としては、フィリピンで発生した盗骨事件と遺骨帰還事業とを関連づける具体的な証言は確認されず、宣誓供述書の内容が虚偽だったことは確認されなかった、などと玉虫色の報告にとどめていた。  厚労省がフィリピンでの遺骨収集事業の再開を発表したのは、18年5月8日のことだ。8月31日には、唐突に「フィリピン国内に保管している遺骨のDNA鑑定結果について」とする表題の報道文をリリース、三つの調査機関に依頼した遺骨の鑑定結果を公開した。報告から約7年も隠蔽(いんぺい)していた結果を公表したのは、2週間前のNHKのスクープがきっかけだ。  NHKが独自ネタとして「戦没者遺骨“日本人の遺骨なし”鑑定結果を公表せず 厚労省」と報じたのは、8月16日の夜7時のニュースだ。厚労省が鑑定を委託した3人のうち、山梨大学の安達登教授ら2人の専門家が「日本人と見られる遺骨は一つもなかった」とする結果をまとめていたと伝えた。同省が現地で保管されていた311体の遺骨を三つに分けて別々の専門家に鑑定を委託、うち1人の鑑定をもとに11年10月「フィリピン人と見られる遺骨が半数近く混入していたが、日本人と見られる遺骨も含まれていた」とする検証報告書を公表したことに触れ、安達教授のコメントをこう伝えている。 「3人の専門家に鑑定を委託したのに、このうち1人の結果だけを公表するのは都合の悪いデータを隠す意図的な情報操作と受け取られてもしかたがない。遺骨収集事業の今後を考えるうえで重要なデータを、なぜ公表していないのか理解できない」  311体のうち、130体を解析し、厚労省が論拠にしたのが、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授(62)の報告だ。報告書の日付は11年9月28日。71体の鑑定結果を山梨大の安達教授が翌12年10月12日に報告し、残りの110体の鑑定結果を同15日に山形大学の専門家が報告している。  3人の専門家の鑑定手法は異なる。斎藤教授が行ったのは、「ミトコンドリアDNA解析」と呼ばれ、母親から子どもに遺伝する特徴がある細胞小器官のミトコンドリア内のDNAを用いた手法だ。この解析によると、日本人と見られる個体が5、フィリピン人と見られる個体が54で、残りはDNAが抽出されないものや、タイプが特定できないものなどだった。  この斎藤教授の報告をもとに、厚労省は翌月に「日本人のものも含まれていた」とする、中途半端な検証報告書を公表。翌年上がってきた山梨大、山形大の2研究機関からの鑑定結果はひた隠しにしてきた。  考えられる理由は一つ、山梨大と山形大で行った「核DNA解析」はミトコンドリアDNA解析よりも格段に精度が高く、かつその鑑定結果に日本人と見られる個体が皆無だったからだ。核DNA解析は、当初から斎藤教授が強く推奨したにもかかわらず、厚労省が頑として受け付けなかったという。 ●不確かな手法を要請「一切学会発表するな」  私は4月下旬、快く取材に応じてくれた斎藤教授に会うために、静岡県三島市の遺伝学研究所を訪れた。 「もう8年ぐらい前になりますね。厚労省には、一切学会発表するなとくぎを刺されましてね。『普通われわれが行う核DNAでやったら、遺族までわかりますよ』と何度も勧めたのに、ミトコンドリアでやってくれの一点張りでした。当時の値段だと、核DNAなら1体10万円、ミトコンドリアだと1体3万円が必要だったのですが、当時厚労省は1体当たり3万円までしか出せないと」(斎藤教授)  自身のレポートが厚労省のホームページ上で公開されていた事実も、斎藤教授には伝えられていなかった。  鑑定した遺骨は真剣に捜された結果、もたらされたものなのか。斎藤教授に感想を尋ねると、こう答えてくれた。 「全然そうは思えないですよ。私たちは慎重を期したので、『一応否定はできませんよ』と数%は日本人である可能性を残しました。しかし、状況から判断すると、フィリピン人の骨を日本人の骨だと言われて、全部ガセをつかまされた可能性が大きいんじゃないですか。あくまで私の推定ですけど」  レイテ島の戦いなど、玉砕続きだった最激戦地フィリピンにおける遺骨収集とはなんなのか。遺族はどう感じているのか。30年以上にわたってフィリピンを足しげく訪れ、遺骨収集や慰霊巡拝を行ってきた亀井亘さん(76)に聞いた。亀井さんの父は広島県出身のベテラン通信兵で、3度目の従軍中の1945年6月27日、ルソン島北部山岳地帯のボントックで13人の仲間と共に戦死した。満34歳の曹長で、通信暗号班長を務めていたという。 「父の場合は戦死の状況を見ていた人も多く、記録もかなり正確だったとみられます。しかし、現地はもともと戦闘的民族の居住地域で、討ち取った敵兵の首を自分と一緒に埋葬させるような風習もあった。何年もかけて人脈を作って、現地で交渉も重ねましたが、結局父ら部隊の遺骨の確たる情報には行き当たりませんでした。レイテ島など帰還兵もまれな地域では、戦死した時期や場所も不明確なケースがほとんどで、遺骨捜しはなおさら困難です」  一連の経緯について、厚労省の現在の担当部署である社会・援護局事業課事業推進室に、再三面談取材を申し入れたが応じてもらえず、文書での質問と回答になった。この中で、空援隊との関係については、「今後も含め、お尋ねの団体と情報交換することや遺骨収集事業を委託することは行いません」と回答があったが、反省や総括にあたるコメントは見当たらなかった。 ●戦艦大和に眠る遺骨を遺族に返せるかもしれない  フィリピンで遺骨収集を行った空援隊には、一時40人以上の現職国会議員が超党派で顧問議員団(会長、阿部知子衆院議員)を形成していた。顧問として群がっていた国会議員たちは、現在ホームページ上からも名前が消えている。阿部知子氏の議員会館事務所に取材を申し入れるとともに詳細な質問状を送ったが、締め切り日までに回答はなかった。  空援隊からは、8項目の質問に対して詳細な回答があった。基本的に、遺骨は現地で厚労省職員に引き渡しており、サポートをしていたに過ぎず、その厚労省が独自に持ち帰って鑑定されたものに関して意見はない、というスタンスだ。質問状と回答全文は空援隊のホームページにアップされているので、読者にはご参考いただきたい。  厚労省は昨年10月に調査団を派遣し、日本兵のものと思われる遺留品と一緒に発見された8検体をDNA鑑定のために日本に持ち帰るとした。  この間、空援隊はNHKを相手に訂正・謝罪放送などを求める民事訴訟を起こし、上告審まで争ったが、敗訴が確定。厚労省に対しては立て替え金の請求と遺骨の返還を求める2件を東京地裁に提訴し、和解している。 「国の責務として一柱でも多くの御遺骨を収集し、御遺族のもとにお届けしたいと考えております」  堂々巡りの末に混乱を重ね、遺骨を収集する手法を見いだしてもいないのに、厚労省はこう繰り返すだけだ。  前出の遺伝学研究所の斎藤教授は、鹿児島県沖270キロで米軍の攻撃を受け、水深約350メートルの海底に沈没した戦艦大和に注目している。乗組員約3千人のうち救助されたのは276人だけで、多くが沈没したままの艦内に眠っているとみられる。斎藤教授は言う。 「ロボット潜航艇を使ってサンプリングできれば、DNAを抽出できる。大和は乗組員名簿もありますから、照合してご遺族にお返しすることも可能になるはずです。国内で唯一地上戦があった沖縄でも、まだたくさんの遺骨が眠っていて、これも核DNAを用いて遺族と照合すればわかります。遺族を特定してお返しできる遺骨の収集こそ、国の責務でやるべき仕事と思います」 (編集部・大平誠) ※AERA 2019年5月20日号
AERA 2019/05/20 07:00
ちょうど50年前に廃止された「玉電」最終日の「三軒茶屋」 大渋滞に巻き込まれた路面電車の最期
諸河久 諸河久
ちょうど50年前に廃止された「玉電」最終日の「三軒茶屋」 大渋滞に巻き込まれた路面電車の最期
三軒茶屋を発車して、世田谷線との分岐点に差し掛かる玉電近代化のエースデハ200型。玉電の右側を走るのは日産ブルーバード510クーペで、後部を併走するのが日産ブルーバード410と「ブルーバード」の全盛期でもあった。三軒茶屋~三宿(撮影/諸河久:1969年5月10日)  2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、いまや若者に人気の街として知られる「三軒茶屋」界隈を走った路面電車、東急玉川線だ。 *  *  * 「あの時代は良かった」などと無粋なことを言うつもりはない。だが、ちょうど50年前と言われれば、どうしても「あの日」を思い出してしまう。  1969年5月10日、渋谷と二子玉川園を結んでいた路面電車「東急玉川線」が廃止された。「玉電」の愛称で地元の利用者に親しまれただけでなく、その先進的な機能や美しいフォルムは路面電車や鉄道愛好家の間でも人気を集めた。  若い読者の方にはその雄姿が想像つかないはずだが、廃止から半世紀が経ったいまでも、JR渋谷駅には玉電の名残がある。駅西側に「JR玉川改札」という改札口があるが、これはかつて「東急玉川線」のホームと連絡していたからだ。「玉川改札の玉川ってなに?」と疑問に思った利用者がいるかもしれないが、玉電に由来していることは年配の方しかわからないだろう。 JR渋谷駅の玉川改札。かつて「玉電」との乗り換えで使われていた呼称がそのまま残っている(撮影/AERA編集部・井上和典 協力/東急百貨店、東京急行電鉄)  写真は玉川線運転最終日の1969年5月10日、三軒茶屋交差点を走る渋谷行きの玉電デハ200型だ。この日は土曜日であったが、現在のように「土曜日=休日」という図式ではなく、せいぜい半休か通常出勤の事業所がほとんどであったから、人も自動車も平日と変わらぬ賑わいを見せていた。 ■「三軒茶屋」の由来  古来、世田谷の地は鎌倉街道、大山道、登戸道など江戸から相州に向う街道筋にあたり、ことに「三軒茶屋(さんげんぢゃや)」は大山道(現・玉川通り/国道246号線)と登戸道(現・世田谷通り)の追分(分岐点)として、交通の要衝であった。  三軒茶屋の呼称は、昔この地に「角屋」「田中屋」「信楽屋(後年石橋楼となる)」の三軒の茶屋があっとことが由来となっている。正式に「三軒茶屋町」の地名となったのは、1932年に世田谷区になってからのことだった。 現在の三軒茶屋駅付近。手前が国道246号線で、左奥が世田谷通り。車だけでなく通行人も多い場所だ。高速道路の高架が空を遮っている(撮影/AERA編集部・井上和典) ■玉電の誕生  渋谷~三軒茶屋~玉川を結ぶ電気鉄道が計画され、玉川通りに玉川電気鉄道による玉川線が敷設されたのは1907年だった。玉川線は世田谷地区初の鉄道であり、当初は多摩川の砂利の運搬手段として計画され、開業時は1067mmの軌間で敷設された。  1920年には東京市電との乗り入れを念頭に置いた1372mmの軌間に改軌された。これが功を奏して、関東大震災後の帝都復興事業では、東京市電の貨物電車が市内から渋谷を通って多摩川川原へ直通し、復興用の砂利輸送にあたることができた。  その後、玉川電気鉄道は1938年に東京横浜電鉄の傘下に入り、1942年からは東京急行電鉄・玉川線となったが、地元の人々は「玉電」の呼称で親しんだ。1969年5月の玉川線廃止後、世田谷線(三軒茶屋~下高井戸)約5000mが存続され、都電荒川線と共に都内に残る路面電車として走り続けている。 下り玉川通りは渋滞の嵐。視界を妨げる排気ガスの中を縫うように走る二子玉川園行きデハ80型と続行する下高井戸行きデハ150型。右手前には日野TH17型ボンネットトラックも見える。三宿~三軒茶屋(撮影/諸河久:1969年5月10日) ■最終日の玉川通りや世田谷通りは大渋滞  地元では100m道路と呼ばれていた片側三車線(玉電の軌道敷を加えると四車線)の玉川通りに架かる歩道橋から最後の玉電を撮影した。当時の三軒茶屋界隈は首都高速3号線の高架道路ができる前で、上空には広々とした空間が広がっていた。  写真の中央奥が世田谷通りで、片側二車線の道路は車でごった返している。その右側には三軒茶屋から分岐して下高井戸に向う世田谷線のホームが写っている。このホームに隣接したビルには「不二家」の売店とレストランが入っており、「土曜日がドーナツの特売日だった」と友人が語ってくれた。  ちなみに、玉川・世田谷の両線が健在だった時代は下高井戸行きが赤、二子玉川園行きは白の方向板を掲げていた。夜間になると車両前頭上部にある青色標識灯を二子玉川園方面は右側、下高井戸方面は左側と、それぞれ片側を点灯させて信号手の分岐の識別に使用していた。また方向板の赤白の違いは、乗客の誤乗車防止にも役立っていた。  左端の「協和銀行」(後年協和埼玉銀行→現・りそな銀行)の手前に写っているのが、分岐点の三軒茶屋で電車運行を操車する信号塔だ。信号手はここに登って交通信号と玉電の分岐器を始発から終電まで操作していた。車の排気ガスや夏の猛暑をいかに凌いだのか、エアコンなど無かった時代背景を勘案すると、実に大変な仕事であった。 安全地帯がなかった三軒茶屋停留所の乗降風景。写真のデハ80型(車輪径810mm)は高床式のため、幼児やお年寄りの乗降は難儀だった。混雑時には係員が派遣され、中間の扉も使用された。この停留所に近接した「綿元寝具店」「大和一文字金物店」「乾物のあだち商店」は、今も同所で盛業中なのが嬉しい。(撮影/諸河久:1969年5月10日)  同じ歩道橋から後側に当たる渋谷方を写した別カットをご覧になれば一目瞭然だが、並行する高速道路がなかったこの時代は、一般国道の交通渋滞は酷いものだった。玉電が走る軌道内には車が雪崩のように入り込み、定時刻の運行を妨げていた実態がおわかりになるだろう。 ■「デハ200型」はLRTの先駆け  このデハ200型は1955年に東急車輛で製造された玉電の近代化に呼応する新鋭車だった。たまご状張殻構造の車体で超軽量化を計った連接路面電車で、中間一軸台車は他に例を見なかった。車輪径510mmで床面高さ590mmという超低床と、「PCC車」のような高加減速を実現させた。今日各地を走る低床・バリアフリーの路面電車「LRT」の先駆け的存在だった。スペイン国鉄の連接客車にちなんで「和製タルゴ」と呼ばれ、大きな正面二枚窓の外観から「ペコちゃん」ともニックネームされた。  残念なことに、1960年代から始まった路面交通事情の悪化により、その性能を存分に発揮できず、1969年の玉川線廃止と運命を共にして、15年の活躍に幕を下ろしている。 ■撮影:1969年5月10日 ◯諸河 久(もろかわ・ひさし)1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定鉄道
AERA 2019/05/18 07:00
高校時代に1千冊を読破 作家を夢見た皮膚科医がコラムニストとしての肩書を持った理由
高校時代に1千冊を読破 作家を夢見た皮膚科医がコラムニストとしての肩書を持った理由
図版=AERA 2019年5月20日号より、写真=楠本涼  大企業の「副業解禁」の潮流を、ビジネスチャンスにしようとする取り組みが始まっている。本業に縛られることなく、収入を増やす目的で副業する人もいれば、社会貢献や人脈開拓を目的として複数の仕事や活動をする人も増えてきた。複数の仕事をこなすから、副業というより複業。「陰でこそこそ」の副業のイメージは、もう古い。自分磨きのために堂々と大っぴらにやる──そんな意識が芽生えつつある。政府が推奨するいわゆる「働き方改革」もひと役買っている。  本業で使うお仕着せのデザインの名刺も悪くない。だが、自分がやりたいことに近づくために作る副業の名刺だからこそ、2枚目の名刺にさまざまな気持ちがこもる。  医師とコラムニスト、二つの顔を持つ大塚篤司さん(42)も、自身が描いていた「作家」という夢に近づこうとしていた。  大塚さんは、京都大学医学部特定准教授として診療と研究、そして学生への指導で忙しい日々を送りながら、さらにコラムニストとしてウェブで連載を持ち、SNSでも積極的に医療情報を発信している。  基本的に朝8時から夜8時頃まで大学病院で過ごし、執筆は夜だ。以前は研究に夢中になり、日付が変わる頃に帰宅という生活で、ときには明け方に帰宅することもあった。しかし、30代前半、過労で心身を壊して半年ほど休職してからは、仲間と協力して研究を進め、一人ですべてを抱え込まないようにしている。それでも春や秋の学会シーズンには毎週末のように講演に呼ばれる。出張の移動中も貴重な執筆タイムだ。隙間時間も無駄にしないよう、スマホで原稿を書く。  二つの肩書を持つようになったのは、一つの挫折がきっかけだ。  40歳のとき、ある大学の教授選に出て、最終選考まで残ったが敗れた。研究業績では優位だったものの学閥の壁に阻まれた。そのとき、自分の努力ではどうにもならないことに振り回されるのはやめて、主体的に生きようと決めた。  本当に自分がやりたいことは何か、数カ月間考えた。小さい頃からの夢の一つが「作家」だった。小学1年生で学校の図書室の本をほぼ読み終え、高校時代には3年間で約1千冊読破した本の虫。いつか書き手になりたいと思っていた。  18年6月に本名を公開してブログを始めた。専門のアトピー性皮膚炎やほくろのがん「メラノーマ」の話題のほか、一人の医師として、迷いや悔いなども素直な気持ちで発信した。これが根拠ある情報だ、と相手に押し付けるのではなく、共感者を増やしていこうと心がけたためだ。それは、医師になった頃、正論を説いてもニセ医療情報に苦しむ患者たちを救えなかった経験があったからだ。  ツイッターを始めると情報が拡散。同年9月からニュースサイトで連載が始まった。難解な医療情報でも読者にわかりやすく綴られた記事がヒット。SNSを通じて一般に広まっただけでなく、同業である医師の間でも“二つ目の顔”として周知されるまでになった。  昨冬からはSNS上でつながった医師たちと共に、医師と患者の新たな関係を築こうと、イベントを開催。医療の発展に貢献するには教授になるしかないと思いこんでいたが、今、同じ志を持った医師たちとチームのように活動し、「自分がやりたかったのは、こういうことだ」と実感している。  この春、新たに企画したのが、学校での出張授業だ。 「インターネット上には明らかに間違った医療情報が多くあります。昨年はインスタで医療者が発信を始めましたが、今後ほかのSNSで医療デマがあふれたら、そのたびに医療者がそこへ移って発信し続けるのは大変ですし、そもそも届いていない人も多く、ネットでの情報発信だけでは限界を感じます。情報の受け手が医療リテラシーを高めて、誤った情報を見ても惑わされないようにしたい」  4月中旬にSNSで呼びかけると、すぐに小学校数校から応募があった。医師、コラムニストに続く“三つ目”の肩書も生まれそうだ。(編集部・深澤友紀) ※AERA 2019年5月20日号より抜粋
AERA 2019/05/17 07:00
中央アジア「独裁」第一世代、表舞台去るも…体制は大きく変わらない事情
川口穣 川口穣
中央アジア「独裁」第一世代、表舞台去るも…体制は大きく変わらない事情
AERA 2019年5月13日号より  27年3カ月権力の座にあった大統領が辞任する。そんな大きなニュースがあった割には、静かな夜だったという。  3月19日、カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領(78)がテレビ演説で辞任を表明した。最大の都市、アルマトイで暮らす公務員女性の元には、夜7時過ぎからメッセンジャーアプリ「ワッツ・アップ」経由で次々にメッセージが入り始めた。「大統領がやめるらしい」。家路を急ぐ車のなかでラジオをつけると、すでに大きなニュースになっていた。  ナザルバエフ前大統領はソ連時代の1989年、カザフスタン共産党の第1書記となり、91年の独立とともにカザフスタン共和国初代大統領に就いた。以来、ときに独裁と批判されながらも、選挙では常に圧倒的な得票率で再選されてきた。 「ニュースを聞いても最初は冗談としか思えなかった。辞任を喜ぶ人は大勢います。でも、そんな危険なことをわざわざ大声では叫びませんよ。街はいつも通りでした」(前出の女性)  国内外で驚きをもって受け止められた辞任のニュースだが、「必ずしも予想外ではない」と、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの宇山智彦教授(中央アジア政治)は言う。 「前大統領は長年の懸案だった仕事を片付けている印象がありました。代表的なのは、ロシア的なキリル文字で表記されていたカザフ語をラテン文字化したことでしょう。そして今年2月には、憲法に規定がない任期途中での辞任が可能なのか、憲法評議会に問い合わせています。政治課題を解決しつつ、機会をうかがっていたという印象です」  91年、ソ連崩壊の直前に相次いで独立した中央アジア諸国には、共産党指導層出身の独裁者がズラリと並んだ。極端な個人崇拝に基づく統治を行ったトルクメニスタンのニヤゾフ前大統領(2006年死去)や反政府派を厳しく弾圧したウズベキスタンのカリモフ前大統領(16年死去)などは、国際的にも批判を浴びた。ナザルバエフ前大統領の辞任で、彼ら「第一世代」は表舞台から姿を消すことになる。  だが、中央アジアから「独裁」が去ったわけではない。トルクメニスタンでは2代目のベルディムハメドフ大統領が先代に準ずる個人崇拝体制を築いているし、タジキスタンでは3代目で94年以来職にあるラフモン大統領が強大な権力を持つ。なぜ、独裁が続くのだろうか。 「ソ連崩壊の混乱のあと、中央アジア諸国は権威主義的な体制下で安定を回復しました。近隣のロシアや中国でも権威主義的な政治のもとで経済が発展しています。現地の多くの人々は自国の体制がおかしいとの認識を持ちづらいのです」(宇山教授)  カザフスタンでも、退任したナザルバエフ前大統領がこれまで通り権勢をふるうとの見方が支配的だ。後任のトカエフ大統領は、初の大仕事として首都名を前大統領のファーストネームであるヌルスルタンに変更した。大統領でありながら、前大統領の忠実な部下のようにふるまっている。  アルマトイの大学に留学中の井上日南子さん(21)によると、大学内にある前大統領の肖像画は撤去されず、新聞でも動静が大きく報じられているという。(編集部・川口穣) ※AERA 2019年5月13日号より抜粋
AERA 2019/05/13 17:00
稲垣えみ子「この低成長時代、議員ってものすごーく無力なんじゃないだろうか?」
稲垣えみ子 稲垣えみ子
稲垣えみ子「この低成長時代、議員ってものすごーく無力なんじゃないだろうか?」
稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行 選挙に真面目に取り組むと翌日の投票結果を見るのが待ち遠しい。いろいろ考えさせられます(写真:本人提供)  元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。 *  *  *  統一地方選挙という単語を新聞社に入社するまで全く知らず、最初に配属された支局で先輩に散々叱られた。「選挙は民主主義の根幹である。それを知らずして新聞記者になったのかオマエは!」と。全くその通りで、私は民主主義などというものを全然わかっていなかった。えらく場違いなところへ来てしまったと縮み上がった。  ……などと過去形で書いているが、じゃあ今は分かっているのかというと、いまだにわからないのである。  ということを、先日行われた統一地方選挙で痛感する。  会社を辞めると地元にリアルに関心が湧く。何しろここが私の家であり仕事場であり仲間のいる場所である。地元が良くならなければ私も良くならぬ。というわけで、我が地元の区議選ににわかに関心を抱く。  だがしかし。真剣に関心を持ってみれば、全てが謎であった。いくつか列挙する。 ・ほぼ全ての候補者が「子育て支援の充実」「高齢者が安心して住める街」などと公約している。なら現実はとっくにそうなってるはずなのになぜそうなっていないのか。 ・何かを建てた、整備したなどと実績を挙げる人がいるが、原資はその方の資金ではなく我らの税金である。つまりは、今や財源は限られているのである。そこにお金を使えば他のことが削られたはずなのである。それは何なのか? それはいいんだろうか? ・そもそも選挙カーで名前を連呼する選挙運動がわからない。4年も任期があり、その間に区民の助けになることを積み上げていれば、次もお願いしますと自然に当選するのではないでしょうか。「普段(4年間)勉強サボってましたけど一夜漬けでテスト乗り切りたいんでヨロシク!」と自ら宣言しているようにも見えてしまうんだが……。  といろいろ考えてフト思う。この低成長時代、もしかして議員ってものすごーく無力なんじゃないだろうか。  ちなみに投票はした。投票だけじゃ何も変わらん。そう思いながら投票した。良い経験であった。 ※AERA 2019年5月13日号
稲垣えみ子
AERA 2019/05/13 11:30
人工透析は自宅でできる! “最新遠隔診療”はこれまでと何が違う?
人工透析は自宅でできる! “最新遠隔診療”はこれまでと何が違う?
撮影/写真部・片山菜緒子 腹膜透析を始めた後に血液透析に移行したり、その逆も可能。腹膜透析に週に1回の血液透析を併用する方法もある (週刊朝日2019年5月17日号より) ホームPDシステム かぐや/機能のポイント (週刊朝日2019年5月17日号より) 日本大学板橋病院 腎臓・高血圧・内分泌内科教授 阿部雅紀医師  公立福生病院(東京都福生市)で昨年、人工透析治療をやめて女性患者が亡くなった件がメディアで報じられ、人工透析治療に対する注目が集まっている。人工透析には、「血液透析」と「腹膜透析」の2種類があり、腹膜透析は自宅でできることから、自由度が高く患者の負担が少ない治療とされている。その腹膜透析には、遠隔診療が可能な機器も登場している。 *  *  *  現在、わが国の慢性腎臓病(CKD)の患者数は約1330万人と推計され、国民の10人に1人が慢性腎臓病を患っていることになる。低下した腎臓の働きを補う治療「腎代替療法」には、大きくわけて「腎移植」と「人工透析」がある。  腎移植は、成功すれば最も普通に近い生活ができる治療法で、日本ではドナーが不足しているという問題があるが、血縁者や夫婦間で生体腎移植をおこなうという方法もある。  人工透析には、血液透析と腹膜透析の2種類がある。  血液透析は長年の歴史があり、実施施設が全国にある。週3回、1回4時間の通院が必要だが、日中だけでなく夜間や深夜の透析を実施している施設もあり、仕事をしながら治療できる。  腹膜透析は、自分でセットをおこなう必要があるが、さらに自由度は高い。大がかりな設備はいらず、透析バッグと装置を滞在先に持参したり、送ったりすることができれば、世界中、どこにでも行くことができる。山間部などで血液透析のクリニックが近くにない地域でも、腹膜透析を導入する患者が増えている。  三つの治療は相反するものではなく、一つの治療から別の治療への移行、併用ができるものもある。  これら三つの治療法から、患者は自分のライフスタイルに合わせた方法を選ぶことができる。ただ、日本では、実施されている透析の多くが血液透析で、腹膜透析が少ない現状がある。透析を受けている患者33万4505人(2017年末時点)のうち、腹膜透析を受けている人は9090人、わずか2.7%だ。  このような課題をクリアするために、国も適切な治療選択の推進を支援している。18年度の診療報酬改定では、「腎代替療法導入期加算1、2」という項目が新設され、病院が患者に十分な説明をおこなうことを促している。  また、腹膜透析の機器の技術も進化しており、遠隔診療が可能な機器も登場している。  ここからは最新機器を導入する病院と患者の事例を紹介しよう。  東京都在住の会社員・村上和也さん(仮名・36歳)は16年の12月上旬、夜間に高熱とともに全身の疲労感、吐き気などの症状に襲われた。我慢できないほどのつらさに、日本大学板橋病院の救急外来を受診したという。 「インフルエンザかな」  と思っていたが、検査の結果、末期腎不全の状態で、すぐにでも透析が必要だと言われた。実は村上さんは中学1年生のとき、学校の尿検査がきっかけでIgA腎症が見つかり、地元の病院で薬物治療を受けていた。11年ごろに尿たんぱくが陰性になり、薬をいったん中止することが決定。しかし、それを機に、通院をやめてしまっていた。 「油断していたんですね。仕事も忙しく、病気のことはほとんど忘れていました。実際、自覚症状もなかったので、病気が悪くなっているとは思いませんでした。ですから透析にも抵抗がかなりあって、主治医、複数の先生からの説得にも1カ月半、いやだとねばりました。何度も話し合い、納得できたうえで導入を決めましたが、今ふり返っても、このときが精神的に一番、つらかったですね」  営業職であり、日中の外出が多いため、寝ている間に腹膜透析をおこなう自動腹膜透析(APD)を選択。18年1月にカテーテルの手術を受け、APDを開始した。 「思っていたよりも自然に受け入れることができました。在宅透析でも時間が拘束されることはストレスですが、透析をすると体調がよくなることも実感しています」  主治医である阿部雅紀医師のすすめで村上さんは、19年2月からAPDを最新の装置に変更した。遠隔機能が付いた装置、「ホームPDシステム かぐや」だ。  これまでの装置と何がどう、違うのだろうか。実はこの装置と主治医がいる病院は24時間、365日、サーバーでつながっているのだ。そして、透析液の種類や透析液の量などは主治医が専用のパソコンから遠隔操作で設定する。  患者は音声とアニメーションが案内するモニターの表示に従って、ボタンで治療を選択し、指示された番号(バーコード)のついた透析バッグを装置につなぐ。  設定と違う透析バッグが入るとアラームが鳴り、先の操作に進むことができない。透析を開始するとその状況は医師に自動送信される。阿部医師はかぐやのメリットについて、次のように話す。 「この装置が出るまでは、患者さんには日々の透析の状況をノートに記入して外来日に提出してもらっていました。透析をサボって記入だけしてくる患者さんがいても、こちらにはなかなかわかりませんでした。かぐやではこの点がすべてチェックできるので、主治医としては安心です。また、日々の除水量も画面に反映されるので、患者さんの外来日にはこの記録を元に、水がたまりすぎてきたら、透析液を変えたり、量を増やしたりします」  処方の変更も遠隔操作でおこなう。 「遠方の患者さんで来院が難しい場合でも、遠隔診療により適切な治療を継続できます。北海道の道北では腹膜透析の病院が少なく、患者さんの頻回な通院が難しいため、このシステムが役立つと聞いています」(阿部医師)  カテーテルの注液や排液がうまくおこなわれない場合、アラームが鳴り、そのデータは同時に病院にも送信されるようになっている。  なお、透析時間は長いほうがからだに負担がかからない。かぐやでは透析時間も医師があらかじめ設定するが、最大四つのパターンを入れることができる。  村上さんの場合、6時間と8時間の二つが設定されている。 「村上さんの場合、睡眠時間がとれない平日は6時間、土日で長めの睡眠がとれそうなときは8時間で実施するようにアドバイスしています」(同)  村上さんもこう話す。 「以前の装置では時間の設定変更の必要が生じた場合、再度、設定し直さなければなりませんでした。かぐやはその必要がなく、ボタンでいずれかを選ぶだけ。年代を問わず、誰にでも使いやすいと思います」  阿部医師の外来では現在、8人の患者がかぐやを使用中。なかには80代の患者もいるが、操作の困難を訴える人はいない。かぐやの導入により、今後は在宅医療が必要な高齢患者などにもAPDが利用しやすくなると、期待されている。  実はかぐやの遠隔機能では透析治療の主治医以外に、訪問診療の医師や訪問看護師などとサーバーでつながることができる。 「かぐやには患者さんが血圧や体重を入力する画面があります。在宅医療の医師がこの数値をチェックすることで、体調の情報が収集できます。また、在宅医療の医師や訪問看護師が除水量をチェックし、『いつもより少ない』となれば、腎臓の主治医に連絡が行くでしょう。患者さんのデータはこちらでもチェックしていますが、より強固な形でサポートできるので、患者さんにとっては、強い安心感につながると思います」(同) (ライター・狩生聖子) ※週刊朝日  2019年5月17日号
週刊朝日 2019/05/13 11:30
純烈、ファン拡大より大切なものは…リーダー酒井が明かす原点
松岡かすみ 松岡かすみ
純烈、ファン拡大より大切なものは…リーダー酒井が明かす原点
酒井一圭(純烈)さかい・かずよし/1975年、大阪府生まれ。2010年に「涙の銀座線」でデビューした、戦隊ヒーロー出身のメンバーが中心のボーカルユニット「純烈」リーダー。94年「横浜ばっくれ隊」をはじめ、多数の映画に出演。ドラマでは96年「中学生日記」、00年「仮面ライダークウガ」、01年「百獣戦隊ガオレンジャー」、02年「子連れ狼」など多数。特技は「目覚ましをかけないで時間どおりに起きること」 (撮影/慎芝賢) 純烈の酒井一圭さん(左)と林真理子さん (撮影/慎芝賢)  戦隊ヒーロー出身の俳優にして、“スーパー銭湯アイドル”として新境地を切り開いた「純烈」リーダーの酒井一圭さん。昨年には悲願の紅白初出場を達成するも、元メンバーのスキャンダル問題で、再スタートを切りました。純烈のこれまでと今に、作家の林真理子さんが迫ります。 *  *  * 林:リーダーはもともと戦隊もののヒーローだったんですよね。でも、撮影で大ケガをして、そのとき前川清さんが夢枕に立ったことが歌手になるきっかけだったとか? 酒井:いろんな要素があって、それも大きなきっかけです。もしあのケガがなかったら、たぶん俳優さんの道しか考えられなかったと思うんです。あのとき僕は32歳で、子どもが2人いました。もう若手でもないし、何の親孝行もできず、どうやって嫁と子どもを食わせればいいんだろうと思って追い込まれてたときで。そんなときに前川さんが夢に出てきて、「よし、ムード歌謡をやろう」って思ったんです。 林:なんでムード歌謡だったんですか。私が子どものころは、和田弘とマヒナスターズとかのムード歌謡が全盛で、すごくいい感じでしたけど。 酒井:オリコンのシングルチャート第1回の1位って、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」だったんですよ。マヒナスターズの映画が石原裕次郎さんの映画と同時上映されてたんです。 林:ああ、そうだったかもしれない。 酒井:今のEXILEみたいな、ああいう男性グループのトップが当時のマヒナスターズで、それが歌謡曲の時代になり、さらにジュリーさんの時代、やがてジャニーズさんになってきて。そんな中で、小さいころによく聞いていた歌がよみがえる世代が、50~70代の方たちじゃないかと思ったんですね。 林:なるほどね。 酒井:それで、(純烈メンバーの)白川(裕二郎)と小田井(涼平)と、このあいだやめた友井(雄亮)を、僕が夜中のファミリーレストランに呼び出して、まだみんな事務所がバラバラだったので、一人ひとり口説いたんです。今のままお互い俳優としてやっていっても、僕らが大河ドラマとか朝ドラとか、大きな作品にメインどころとして加わるのは難しいし、脇役だって劇団から這い上がってきた腕利きが頑張ってる中に加わるのは難しいだろうと。だからみんな力を合わせてムード歌謡をやって「紅白」を目指そうという話をしたんです。それで皆さんに注目していただいて、何かオファーをいただいたらまた少し俳優に戻ってもいいじゃないかと。 林:ほぉ~、それで純烈が結成されたんですね。まだ売れなかったころは、健康センターに歌いに行くとお風呂に入れて、ごはんも食べられて、泊まることもできたんだそうですね。 酒井:それは今もずっとです。貧しかったときは、お風呂に入れて、まかないもつく仕事ってすごくありがたかったですね。前乗りして泊まることもできますし。初めて行ったときに、メンバーを集めて「この現場、絶対取る。だからみんな歌手じゃなくて、健康センターの従業員だと思え」と言ったんです。お客さんたち全員をもてなすという感覚ですね。 林:へぇ~。 酒井:それは今もしみついていて、たとえばボートレース場に呼ばれて歌う機会もあるんです。ファンのおばちゃんたちは、ボートレースなんかやったことないんですけど、純烈としてはそこに呼ばれている以上、舟券を買ってもらわなきゃいけない。だから「次はラストソングです。歌い終わったあと、俺たち舟券を買いに行くから、おばちゃんたちも一緒に買いに行こう」と言って、200人ぐらいみんなでゾロゾロ買いに行くんです。おばちゃんたちに舟券の買い方も教えて。 林:それは呼んだほうとしてはかなりうれしいことですね。 酒井:行った場所の魅力を伝えることも含めてやってるんで、ボートレース場なんか5年以上続けて呼んでもらってます。 林:じゃ、今度は「純烈と一緒に行く出雲ツアー」とか……。なんで出雲なんだ(笑)。 酒井:いいですね。どこ行ってもついてくる“追っかけ”のおばちゃんたちがいるので、みんなで旅してるという感覚がありますね。 林:だけど中にはしつこいおばちゃんもいるんでしょう? 酒井:います、います。新幹線に乗ってたら、隣に座ってるおばちゃんが腕を組んでくるんです。そんなときは「いや、それはダメ。それやったらあかん」って言います。僕はリーダーなので、たとえば白川のファンのおばちゃんにも「あいつ、そういうの嫌いやねん。だからやめとき」とか言いますよ。そしたらおばちゃんは、「ごめんなさい。私、白川さん好きで好きで、しばらく会ってなかったからついグイグイ行っちゃって」とか(笑)。それを「あかん、あかん」って制す役割でもあります。 林:そういうマナーも教えるんですね。ライブでは、ファンの方からハンカチを差し出されると、汗を拭いたりするんですよね。 酒井:そうです。お風呂に入って、サウナにも入って、代謝がよくなった状態でライブをやるので、1曲目を踊っただけでもう汗びしょびしょなんです。5~6曲歌ってお客さまの席にお邪魔したときには、握手すると汗がお客さまの飲み物とかお食事に垂れちゃうんで、おしぼりをお借りして汗を拭いてたんです。それでだんだんおばちゃんたちがハンカチを貸してくれるようになったんですね。それが広がっていって、バラエティー番組で「(純烈が)汗を拭いたハンカチ、ジップロックに入れて冷凍してます」と言ったファンの方がいらっしゃったんです。 林:純烈といえばという有名な話ではあるけど、スゴい話ですよね。 酒井:ええ。それを見てみんながそれをやるようになっちゃって、だったら汗拭き用のタオルを発売しちゃおうというんで、売り出したら飛ぶように売れちゃって。 林:おばちゃんたちにとって純烈の皆さんって、息子というより、若いときに口もきけなかった初恋の人なんですよね、きっと。冷凍したままの状態の(笑)。 酒井:アハハハ、そうかもしれないです。それぐらい少女というか、カワイイんですよね。コンサートだとその“カワイイ”が見えないんですけど、健康センターだと距離感が近いから見えるんですよ。おばちゃんの“カワイイ”が僕らの原動力というか、「お母さんの世代なのに、なんでこうなるんだろう」という。 林:今、中高年の女性がいちばん自由になるお金を持っているし、忠誠心強いし、親切心もいちばんあるかもしれない。 酒井:健康ランドのライブの前にお風呂に入ってると、知らないお父さんに「俺の女房、前から何列目にいるから、握手してやってくれよ」みたいなことを言われるんです。「わかりました。でもお父さん、純烈に興味ないでしょう」って言うと「申し訳ないんだけど、俺は興味ないんだ」って。よくよく聞くと、純烈を応援してくださる女性って病気された方が多くて、旦那さんが心配してついてきてるんですね。 林:まあ……、幸せな奥さんですね。でもリーダーは、ときどき意地悪なことも言うんでしょう? 「まだ生きてるのか」とか、毒蝮三太夫さんみたいに。 酒井:すごく言います(笑)。おばちゃんが客席から話しかけてきたりするんで、どんどんやりとりしていって、「そのおばちゃん、つまみ出せ」みたいなことは平気で言いますね。みんなワーッとなって、おばちゃんも負けじと「つまみ出せるもんならつまみ出してみなさいよ」って。そういう役を買って出られるおばちゃんがいるんですね。 林:テレビとか動画だけでは物足りなくて、そうやって肉声を求めてライブに参加する楽しみ方を見つけたんですね。でも、こんなにスターになっちゃうと、おばちゃんたちに「遠くに行っちゃったみたいで寂しい」とか言われませんか。 酒井:ええ、健康センターに行く回数がちょっと減ったんですね。杖をついたおばあちゃんとか、地元しか行けない方がいらっしゃるんですが、なかなか会いに行けなくなってるというのが現状なんですよね。 林:若い人はどうなんですか。おばちゃんだけじゃなくて、ファンの拡大もしないと。 酒井:若い人も増えました。10代とか20代の人がムード歌謡の「私バカよね」(「心のこり」)とか、「いつまでたっても駄目なわたしね」(「よせばいいのに」)みたいな曲を歌うようになってきて、若い人が握手会にあらわれるんですよ。「あなたいくつ?」「18歳です」「お母さんと一緒に?」「一人で来ました」って。 林:まあ、そうなんですか。 酒井:僕の中では計算外というか、わかんない人たちが出てきたなという感じがありますね。僕としては、ファンの拡大というより、「今日この目の前にいる人たちのことしか考えるな」とメンバーに伝えてるんです。健康センターとか500人ぐらいのキャパで、みんなと握手したりハイタッチできるような会場でやるのが本来の純烈であって、「どんどんでかくなっていくのが純烈だとは思うな」と言ってます。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年5月17日号より抜粋
週刊朝日 2019/05/12 08:00
「愛のコリーダ」公開後、藤竜也“2年間仕事なし”当時の心境は?
「愛のコリーダ」公開後、藤竜也“2年間仕事なし”当時の心境は?
藤 竜也(ふじ・たつや)/1941年、北京生まれ。大学時代に日活に入社。62年に「望郷の海」でスクリーンデビュー。76年に「愛のコリーダ」(大島渚監督)で第1回報知映画賞主演男優賞受賞。近作に「人生、いろどり」(2012年)、「私の男」(14年)、「龍三と七人の子分たち」(15年)、「お父さんと伊藤さん」(16年)、「光」(17年)など多数。19年公開作に「初恋~お父さん、チビがいなくなりました」(5月10日公開、小林聖太郎監督)、「空母いぶき」(5月24日公開、若松節朗監督)などがある (撮影/写真部・小原雄輝) 藤 竜也さん (撮影/写真部・小原雄輝)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら。著名人が岐路に立ち返る「もう一つの自分史」。俳優・藤竜也さんが登場します。渋みと色気をまといつつ、ときにニコリともせず、観客をプッと噴き出させる。そんな魅力的な役者の出発点は「デートの待ちぼうけ」からでした。 *  *  *  大学時代にデートで待ちぼうけをくらってね。「ちっとも来ないなあ」なんて思ってたら、中年の男性が近づいてきて「俳優に興味はありますか」と。もともと映画は好きで、ずいぶん見ていた。「お金になるよ」と言われてね。「そんなにいい話があるかな?」と思いながら渡された住所を頼りに日活に行ったんです。  重役さんが数人待っていて「君、名前なんていうの」「伊藤竜也です」「伊藤は芸名にはピンとこないね。『伊』を取れよ」。それで「藤(ふじ)」。面接なんてものでもなかったけど、そのまま俳優になっちゃった。まあ大学にもほとんど行かない学生で「これから、どうしたもんかな」と思っていたところだったから、渡りに船っていうかね。 ――21歳のとき、小林旭主演の「望郷の海」でスクリーンデビュー。その後も石原裕次郎主演の「夜霧のブルース」などに出演を重ねるが、数年は試行錯誤の連続だったという。  芝居なんて右も左もわからないから、困っちゃってね。最初の3、4年はカメラが回ると自分の足が地に着いているのかわからないような、そんな状態でした。でもやるならば、ある程度の落とし前をつけないとダメだなと思ってね。自分なりに「演技とはなんだろう」と考えはじめた。簡単にはわからなかったですけどね。 ――最初の転機となったのは、1969年の「野獣を消せ」。基地の街を舞台に、過激な暴力と非道を繰り返す若者グループのリーダーを演じた。  台本を読んだときに「これは、できそうだ!」って感じがしたんです。僕に決まっていた役じゃなくて、たまたま手に取った台本を拾い読みしちゃったんですけどね。このどうしようもなく悪い青年って俺じゃないか? この役を理解できる、と感じた。それで「俺、あの役やりたいんだけど」と周囲に言っていたら、監督の耳に入って役をいただけたんです。  映画というものは、やっぱり大なり小なり時代を反映しているんです。当時は若者たちが既成のものを否定するような、ものすごいエネルギーがあった。そういう時代の空気を役へのアプローチにして、狂気ともいえるような“野獣”を演じた。これがひとつの転機だったかな。役者を続けていけそうだ、と切り口がわかったというかね。 ――76年、さらに大きな転機が訪れる。大島渚監督の「愛のコリーダ」だ。阿部定事件をモチーフに男女の情愛を官能的に描き、映画史に残る名作であるとともに問題作ともされている。  やはり大島さんとの出会いは大きかったです。「愛のコリーダ」は結果的に問題作として扱われ、僕も世間にそういう“ラベル”を貼られもしたけど、逆にそれがバネになりましたしね。  毎日、飯を食うようにセックスをしてる二人。そういうふうにほれ合うのっていいな、こういう切り口のラブストーリーもあるのか、と思った。あの切り口で一種の“純愛”を描く、大島さんはすごいなと。大島さんは撮影中に「こうしろ」とかの演技指導は一切しないんです。「愛の亡霊」(78年)と2作で使っていただいたけど、どちらでも「ダメだ」とかいっぺんもなかった。  役者にとって代表作というものを持てることは僥倖ですから。それが僕にとっては「愛のコリーダ」だったと思います。 ――海外でも高く評価された「愛のコリーダ」だが、日本では物議を醸し、その後、出版物をめぐる裁判にも発展していく。  あの映画は出資者がフランスで、フランス映画。日本映画じゃないから、映画そのものではわいせつ罪に問えなかった。そこで大島さんが出した台本と写真の入った豪華本が「わいせつだ」と起訴されたんです。  僕のほうも公開後、次の「愛の亡霊」までの2年間、一本も仕事がなかったんです。でもまったく気にならなかった。すがすがしいものでしたよ。「やるべきことをやって、それで終わるならそれでいいじゃん」と思っていた。  仮にあのとき「これから、自分は社会的にどうなるんだろう」とか何かで怖がって演じたら、演技もダメだったと思うんです。僕はこの物語を純粋な話だと心から思ったんです。  それに自分が賭けたんだから、それでダメになったらそれでいい、と。  実際、あの2年間、毎日が楽しくて仕方なかった。当時はスカッシュに凝ってましてね、毎日スカッシュざんまい(笑)。もう結婚して息子もいたのに全然気にならなかった。すごいエネルギーがあったんです。「大丈夫だ!」という根拠のない自信みたいなものがね。それに周囲にネガティブな見方をされると、それをポジティブにしてやろう、乗り越えてやろう、と燃えるじゃないですか。  で、2年後に大島さんの「愛の亡霊」に出演し、その後にNHKの銀河テレビ小説で主役の話がきた。 ――実は68年、日活のスターだった芦川いづみさんと結婚したときも、冷たい目で見られたという。藤さんが、俳優として現在ほどの地位を築く前のことだ。  彼女とは一緒に仕事をして、まあそういうことになって、1カ月くらいで結婚したんです。どんなところがよかったかって? そりゃあわかりませんよ(笑)。言葉で説明できないでしょう。でも1カ月ですから、なんとなくね、お互いに何かを感じたんでしょうね。  結婚後、女優をやめる、というのも彼女の意思です。これはよほどがんばらなきゃ、と思いましたよ。  でもね、当時はスタッフもみんな僕のこと「無視!」ですよ。そういうのがね、僕は好きなんですよ。どちらかというと打たれ強いのかもしれない。そういう状況になるとアドレナリンが出るんです。「ようし、おもしれえじゃん!」みたいな。それに少数だけど僕を支持してくれる人もいてね、むしろ結婚後のほうが野心的な役をもらえるようになりました。 ――俳優人生も56年。さまざまな役を演じてきた。新作「初恋~お父さん、チビがいなくなりました」は結婚50年ほどになる夫婦が主人公。藤さんは飼い猫の「チビ」を可愛がる倍賞千恵子さん演じる妻に、ある反乱を起こされてしまう“亭主関白”な夫を演じている。  ちょうど、うちも結婚して50年なんです。夫婦で寄り添ってきた老夫婦の空気がどんなものかというのは毎日、実生活でやっていますから。ただ、この主人公はあまり細やかでないし、普通の話ができない男。彼にしてみれば、居間で新聞を読んでいると、妻がそこにいる。そんな空気に幸せを感じながら、日々暮らしているわけです。「この人がいなくなったらどうしよう」なんて考えてるかもしれないけど、ちゃんとした言葉で「ありがとう」と言えない。でも、僕はちゃんと言ってますよ。年を取れば取るほど、妻には優しくなりますね。「本当に申し訳ないことばっかりしてきた。ありがとう!」って。  父を子供のころに亡くし、僕は母子家庭で育ったんです。母は何軒かのレストランで働いて、3人の子を育ててくれた。だから「父像」はわからない。それにいくら夫婦でも「本当にこの夫で、こんな父親でよかったのか? もう少しまともであってほしかったのでは?」なんて心のひだまでは問えませんよ、怖くて。 ――自身、映画で猫と関わるシーンはほとんどないが、実は猫好きで3匹飼っていたことがある。50代から陶芸に凝り、個展も開くほどの腕前だ。  陶芸は足掛け20年くらい趣味でやっていましたけど、もうやめました。作品展をやったりしてると、だんだん趣味を超えて「作らなきゃ」となる。そうなると負担になってきちゃうんだね。  俳優の仕事もね、なるべく少ないほうがいいと思ってる。食っていける程度あれば、それ以上のお金はいらないし、やりすぎると飽きるんですよ、きっと。たくさん仕事をしすぎると、僕みたいなつたない才能の男はたぶんダメになっちゃうんです。  泉のようにわき出る才能がある人はずっとやり続けてもいいんだろうけど、僕はそうじゃない。自分に合ったやり方でやらないとね。だからエネルギーをためて「ああ、俺はこのままだったら、将来は飲んだくれのジジイじゃないか! なんとかしないと!」と渇望したときに俳優をやる。そうすると勃起するんですよ、精神がね。だからそのエネルギーをためているときに、陶芸をしたり、絵を描いてみたりするんです。  役にはもちろん没入します。だって、それが楽しいんだもん。自分の肉体を貸してほかの人間を描いていくなんて、絵描きみたいなものですから。体がまさに筆になるわけで。  役に苦しむこともありますよ。何もしていないと1カ月なんてあっと言う間だけど、役で苦しんでいるときは、1日がなかなか終わらない。時間が「伸びる」感覚ですよ。おもしろいよね。  年を重ねても、一つの仕事をいただいて、それに入るときのみずみずしい感じは、はじめたころと何も変わってないですね。ただ、いまは仕事をいただいたら、それをやりきるまで死んじゃいけないな、と思いますけどね(笑)。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日  2019年5月17日号
週刊朝日 2019/05/11 11:30
10連休の疲れを解消! ストレッチ&隠れ疲労チェック
10連休の疲れを解消! ストレッチ&隠れ疲労チェック
イラスト・坂本康子 ストレッチ指導・池田佐和子 (週刊朝日2019年5月17日号より) イラスト・坂本康子 ストレッチ指導・池田佐和子 (週刊朝日2019年5月17日号より) 「隠れ疲労」チェックも忘れずに! (週刊朝日2019年5月17日号より)  10連休となったゴールデンウィーク中、さまざまな場所に出かけ、体を休めるどころか、かえって疲れがたまったという人も多いのではないだろうか。疲労はいつまでも引きずりたくないもの。ライフジャーナリストの赤根千鶴子氏が、体がラクになる疲労回復法を、プロに聞いた。 *  *  *  長い休みが終わった。休み中の観光や娯楽で疲れた体は、できるだけ早めに回復したい。健康運動指導士で女性パーソナルトレーナー第一人者の池田佐和子さんは、まず足や腰の疲れをとることが大切だという。 「観光地をいろいろ巡ったり、山歩きを楽しんだりして、普段あまり使っていない筋肉を動かした方も結構いらっしゃると思います。筋肉疲労はためないことが一番です。特に足腰の疲れを回復しないでいると、そのうち“歩くこと”自体が億劫になり、運動量が減って、筋力低下を招くことにつながります」  筋力が低下すると体はどんどん動かしにくくなり、運動量はますます減ってしまう。そんな負のスパイラルに落ちないようにするには、体を早く元通りにすることだ。池田さんに足腰の疲れを解消するストレッチを教えてもらった。 「まず『歩き疲れ』を解消する、足のストレッチを行いましょう。初めに行うのは、裏ももストレッチです。裏もも(=ハムストリング)に疲れがたまっていると、この部分はどんどん伸びが悪くなり、膝に余分な負担がかかるようになってしまいます。そうならないうちに、しっかり伸ばしてみましょう」  仰向けになって、タオルでサポートしながらゆっくり脚を上げてみよう。脚が真上にきたら、タオルの両端を自分の体のほうに向かって静かに引っ張ってみる。裏ももがじんわりと伸ばされていくのを感じるだろう。そしてそのまま爪先を下に向けると、ふくらはぎもキューッと伸びる。このストレッチを行うだけで、足のだるさはだいぶ軽減されるはずだ。  そして次に行うのが、前もも(=大腿四頭筋[だいたいしとうきん])のストレッチ。 「大腿四頭筋は、膝を伸ばす動きの主働筋です。ここに疲労がたまっていると姿勢も悪くなりますし、それが腰痛にもつながっていきます。ここは自分で“痛(いた)気持ちいい”と感じるくらいまでグッと伸ばしてみましょう」  床に横になり、体が前後にフラつかないようにゆっくり前ももを伸ばす。このストレッチを両脚行うと、びっくりするほど足腰がラクになる。 「疲れて硬く縮んだ筋肉は、“しっかりほぐす”という意識を持つことが、何よりも大切なのです」  最後に行うのは、足首ストレッチだ。足首が疲れて硬い状態だと、ふくらはぎも硬くなる。ふくらはぎが硬いと、下肢に流れた血液やリンパを心臓に戻す“足の筋ポンプ作用”も弱くなる。 「すると当然のことながら足に老廃物もたまりやすくなっていくので、ズドンとむくんだ足につながっていきます。足首の疲れをとるには“曲げる”と“反らす”を繰り返して、足首を柔らかくほぐすことです」  このストレッチは場所を選ばず、どこでもできる。 「柔軟な足首は、正しい姿勢の基盤でもあります。しっかりほぐして、体が余分なトラブルを抱えないようにしましょう」  これら一連のストレッチで「歩き疲れ」はばっちり解消! 「このあとは柔らかい筋肉と、よく動く関節をキープし続けることを心がけてください」  さて、続けて「運転疲れ」を回復するストレッチも紹介してもらおう。車の運転をしていると、どうしてもすわりっぱなしになるのでまず腰に負担がくる。またハンドルを握る時間が長かったのであれば、肩にも疲れがたまっているはずだ。 「そんな方にまずやっていただきたいのは、サイドベントです。頭の後ろに両手を添えて、息を吐きながら上半身を右にゆっくり倒してみてください」  このとき気をつけることは二つある。前かがみにならないように胸を広げて行うことと、体の側面を腰からきちんと伸ばすことだ。これを意識して行えば、腰痛・肩こりの改善になる。  そしてサイドベントの次は、ローテーションだ。これは背骨を中心とした回旋運動。このストレッチも、体をゆっくり腰からひねることが大切だ。 「そして背骨を中心として、“背骨の両サイドをきちんと伸ばしている”という感覚を持って行うようにしてください。ストレッチは正しいフォームで行わないと効果が半減してしまいます。時間の余裕のあるときに行って、のびやかな体にリセットしてください」  さて、「疲労」は決して自覚症状のあるものばかりではない。目に見えない小さな疲労が体の中にたくさんたまって、心も体も蝕んでいることも十分あり得る。「40代以降になったらどんな方も、『自分は多少の無理をしても平気』などと思わないことです」と語るのは、『最高の疲労回復法』の著者で日本循環器学会専門医の杉岡充爾さんだ。ゴールデンウィークの遊び疲れなどないという人も、下記の隠れ疲労チェックをやってみよう。チェック数がもし16個以上ある場合は、体は実はかなり深刻な状態かもしれない。 【隠れ疲労チェック】 □ 肌のかゆみが出やすい □ 手のひらや指先の赤みが強い □ 深夜ほど良い仕事ができることが多い □ 最近、しみが目立つようになった □ 頭痛持ちである □ 以前は軽々持てたものも重く感じる □ くるぶしがむくむ □ 太りやすく、やせにくい □ お風呂に入っても足先が冷える □ 昔と比べて風邪が長引きがち □ 朝、目の下が腫れている(クマがある) □ 花粉症に悩まされている □ フルーツをよく食べる □ 肩こり、首のコリがある □ 虫歯や歯槽膿漏など歯のトラブルがある □ 他人に対してイライラが増えた □ 自分の時間があまりない □ 朝イチから全力で活動を開始する □ 食事のタイミングが不規則 □ 職場やプライベートで人間関係に不満がある チェック数が1~5個⇒「隠れ疲労」レベル1、6~10個⇒「隠れ疲労」レベル2、11~15個⇒「隠れ疲労」レベル3、16~20個⇒「隠れ疲労」レベル4 出典・『最高の疲労回復法』(杉岡充爾・著/大和書房) 「疲労が重なってくると緊張状態が続き、血流もホルモンバランスもどんどんくずれていきます。そして心臓の血管が極度に緊張した状態になったとき、突然血管が詰まって『疲労による心臓発作』が起きることもあるのです。隠れ疲労レベルが4だった方は早急な生活改善を検討してほしいですね。またレベル1だった方も決して安心はしないでください」  疲労を回復していくには、ストレスと戦うホルモン「コルチゾール」が正しく分泌される生活を心がけてほしいと杉岡さんは言う。 「コルチゾールは腎臓の上に小さくのっている『副腎』という臓器から分泌されます。コルチゾールがたくさん分泌されるのは朝です。これは体を眠っている状態から起動状態に切り替えるために分泌されるのです」  この分泌サイクルは、生物学的にはどんな人にも当てはまるという。ゆえに体にとって一番理想的なのは、「夜は早めに寝床に入り、朝になったらきちんと起きることです。そして毎日の寝る時間、起きる時間はなるべく一定に保ち、サーカディアンリズム(体内時計)が極端にくずれないよう心がけてください。夜更かしをして昼夜逆転の生活を続けたり、なんとなく体がだるいからと昼過ぎまで寝だめをしたりすると、コルチゾールは正しく分泌されません。そうなるとストレスも疲労もたまる一方になるので、気をつけてください」  日中は、5分くらいの睡眠をとるのが「脳疲労」のオフにいいという。昼食後、横になるのではなく、机などに突っ伏して目を閉じたり、うたた寝するだけでもかまわない。 「このような5分くらいの睡眠を『マイクロナップ睡眠』と言います。これで体の疲れがとれるわけではありませんが、ホルモンバランスを整える効果はあるので、午後の職場で感じるストレスなどは軽減することができるでしょう。脳が疲れていると、判断力も鈍りますから仕事も家事も効率が悪くなり、疲れが倍増するだけです。昼間はこのように少しの睡眠をとって、脳をリセットしましょう」  そして体が疲れ気味のときは、午後の甘いおやつは控えめにすることも大切だ。 「よく『甘いものを食べると疲労回復する』と言われていますが、甘いものをパクパク食べて血糖値が急激に上昇すると、副腎から無理してコルチゾールを絞り出す作用を招きます。そうすると結果的に『副腎疲労』が増し、逆効果になってしまいます。甘いものを食べると脳の中でベータエンドルフィンという神経伝達物質が分泌され、一時的には疲れを忘れることはできますが、根本的な疲労回復にはつながらないのです」  逆に控えないほうがいいのは、「定期的な運動です。体が疲れ気味だから動かない、家から出ない。これでは血流の悪い体になって、慢性的な倦怠感が抜けなくなります。無理する必要はありませんが、毎日少しのウォーキングでも欠かさないことです。きちんと運動して血管を拡張し、全身の血流がスムーズな状態を保てるようにしましょう」。  副腎にも血管にも余分な負担がかからない生活を心がける。それが杉岡さんが考える“隠れ疲労を体に抱え込まないポイント”と言えそうだ。 ※週刊朝日  2019年5月17日号
週刊朝日 2019/05/10 17:00
「人の言うことを聞くだけが全てじゃない」ラッパー・Zeebraが黒人カルチャーの原点から考える生き方
Zeebra Zeebra
「人の言うことを聞くだけが全てじゃない」ラッパー・Zeebraが黒人カルチャーの原点から考える生き方
Zeebra(ジブラ)/東京を代表するヒップホップ・アクティビスト。ヒップホップ専門ネットラジオ局「WREP」では生放送「LUNCHTIME BREAKS」(平日12~13時)のMCを、テレビ朝日「フリースタイルダンジョン」(毎週火曜日深夜1時29分~)ではオーガナイザー兼メインMCを務める。事務所のスタッフの仕事ぶりを「チェックするふり?」(撮影/写真部・松永卓也) アスパラガス/日本にもたらされたのは江戸時代。当初は観賞用だったが、明治以降、食用に転じた。グリーンアスパラガスにはカロテンやビタミン類が多いほか、スタミナ増強に効果のあるアスパラギン酸も豊富。ホワイトアスパラガスは栄養面では及ばないが、柔らかでとろみのある独特の食感が特徴(撮影/写真部・松永卓也)  ヒップホップ・アクティビストのZeebraさんが「AERA」で連載する「多彩な野菜」をお届けします。1997年のソロデビューからトップとしてシーンを牽引し続け、ジャンルや世代を超えて多くの支持を得ているZeebraさん。旬の野菜を切り口に、友人や家族との交流、音楽作りなど様々なエピソードを語ります。 *  *  *  ホワイトとグリーンは育て方の違いだそうですが、料理屋さんで「今日、いいの入ってますよ」って言われるのは必ずホワイトアスパラ。付加価値が高い扱いです。トロッとやわらかくて。チーズと一緒に焼いたグリエールなんて、大好物です。でもあれ、日が当たらないようにずっと土なんかをかぶせられて育つんですよね。抑圧されてかわいそうと感じるのは僕だけでしょうか。  連想するのは、かつてマルコムXが話していたことです。アメリカで黒人が奴隷として使役されていたころ、お屋敷の中の仕事をする奴隷は主人と生活を共にし、命令には絶対服従。結果、主人が病気になったら「私も病気ですか?」と聞いちゃうぐらいだったそうです。一方、畑で綿花栽培などをする奴隷は、主人の愚痴をぶつくさ言いながらやっていて、そんな中から黒人独自のカルチャーが発展していったと言われています。人の言うことを聞くだけが全てじゃないってことですね。もちろん、お屋敷でも畑でも、奴隷制度そのものが許されないのは言うまでもありません。 ※AERA 2019年5月13日号
Zeebra
AERA 2019/05/09 11:30
ラーメンの鬼と呼ばれた佐野実“最後の弟子”が作る「師匠を見返したい一杯」
井手隊長 井手隊長
ラーメンの鬼と呼ばれた佐野実“最後の弟子”が作る「師匠を見返したい一杯」
「GOTTSUらーめん」は一杯980円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介するこの連載。今回紹介するのは、ミシュランガイド東京のビブグルマンを5年連続で受賞した「RAMEN GOTTSU」の店主が愛する一杯。それは今は亡きラーメンの鬼・佐野実さんの最後の弟子が作る、決意のこもったラーメンだった。 ■トレンドから外れても魚介豚骨を追求した理由  練馬にある「RAMEN GOTTSU」は、濃厚な魚介豚骨ラーメンのパイオニア「渡なべ」で修行した齋藤雅文さん(38)が2013年3月にオープンした。濃厚魚介豚骨系は03年ごろから大ブームを巻き起こしたが、名店の味を真似たお店が乱立、新規オープンすれば「またおま系」(「またお前か」の略)と揶揄され、オープン時、すでにブームは終焉を迎えていた。  しかし「渡なべ」の味に惚れ込んでこの世界に入った齋藤さん。独立するなら濃厚魚介豚骨系と決めていた。 店主の齋藤雅文さん(筆者撮影) 「『六厘舎』さんや『とみ田』さんを真似したお店がたくさんありましたが、今はだいぶ淘汰されてきたと思います。魚介豚骨系のブームは終わりましたが、味自体には深い魅力があります」(齋藤さん) 魚介の旨味に豚骨で厚みをつけた濃厚なスープは、確かにわかりやすい美味しさだ。齋藤さんは、根強い人気を誇る濃厚魚介豚骨ラーメンの中で、オリジナリティを出そうと考えた。 魚介豚骨ラーメンは濃厚で食べごたえもあるだけに、食後にどうしてもある種の罪悪感が残る。齋藤さんは、まずその罪悪感を消すことに注力した。ドロドロ感やくどさ、油感は消したいが、スープの濃厚さは保ち、クリーミーに仕上げたい。ゲンコツ(豚の膝関節)を使わずに、背骨と鶏ガラでスープの厚みをかせいだ。タレには濃い味わいの再仕込み醤油を3種類ブレンドして、スープに負けないビターな醤油ダレを完成させた。 こうして「GOTTSU」の大人な魚介豚骨ラーメンが完成した。無骨な男くさいイメージを払拭し、女性客にも受け入れられた。お店の外装・内装は、ラーメン店とは思えぬオシャレなデザイン。友人に頼んで、自分の居心地がいい空間を作ったことが功を奏し、女性のおひとりさま需要にもマッチした。 RAMEN GOTTSU/東京都練馬区練馬1-29-16 1F、営業時間:昼11:00~15:00、夜18:00~21:00。定休日:日曜日の夜、月曜日と第3火曜日(筆者撮影)  ミシュランガイド東京のビブグルマンに選ばれると、外国人観光客も増えてきた。ここで「RAMEN GOTTSU」という横文字表記の店名が生きてくる。 「横文字で書いたらお店の雰囲気に合うなと思っただけだったんですけどね。外国人観光客を取り込もうなんて当時は全く考えていませんでした」(齋藤さん)  こうして有名店の仲間入りをした「GOTTSU」。齋藤さんはとにかく、自分のラーメンが好きなんだという。週に5日食べているが、全く飽きない。日頃から自分で作って、食べているからこそ細部に気づき、日々ブラッシュアップできる。今は多店舗展開も考えていない。 ネギをねじりながら乗せる「GOTTSU」の齋藤さん(筆者撮影) 「魚介豚骨は現在ラーメン界のメインストリームからは離れ、狭い世界となりました。工場で作るのではなく、お店で毎日炊く魚介豚骨をもう一度文化として広げたいです」(齋藤さん) 愛する魚介豚骨にもう一度火を灯すべく、「GOTTSU」は今日もトップを走り続ける。そんな齋藤さんが愛し、「一番通っている店」として挙げたのは、“ラーメンの鬼”と呼ばれた故・佐野実さんの最後の弟子が紡ぎ出す、汗と涙の一杯だった。 ■ラーメンの鬼が弟子をとる意外な“基準”  13年12月に中野の鷺ノ宮駅近くにオープンした「らぁ麺 すぎ本」もまた、「ミシュランガイド東京2017」から3年連続ビブグルマンを獲得している名店だ。鶏、豚、魚介をバランスよく合わせたスープは旨味が複合的で、まろやかな中にもキレがある醤油ダレと合わさり、得も言われぬ美味しさを繰り出す。 GOTTSU齋藤さんのお気に入り「醤油ワンタンらぁ麺」は950円(筆者撮影)  店主の杉本康介さん(41)の最初の就職先はカラオケボックスチェーンだった。エリアマネージャーとして各地の店舗を巡る日々。仕事に不満はなかったが、会社で出世しても雇われの身は続く。それよりは、自分で商売をやってみたい。自分は社長になるんだ、そう思うようになった。  ちょうどその頃、アメリカのドーナツチェーン店「クリスピー・クリーム・ドーナツ」が日本にも進出、新宿に1号店をオープンし、連日大行列を作っていた。独立の前に新しい会社が大きくなる流れを身をもって学びたいと考えた杉本さんは、入社を決意する。30歳の頃だった。  新宿店に2年間勤め、お店が成長していく様子やノウハウが積みあがる過程を見ることができた。そしてこの頃から、「ラーメンで独立したい」という思いが湧いてくる。実は杉本さん、高校の頃からラーメンの食べ歩きを続けるラーメンフリークでもあった。横浜家系ラーメンの「壱六家 横須賀店」(現在は閉店)に衝撃を受け、「吉村家」「環二家」など家系の名店を回りに回った。ラーメンのガイド本を買うようになってからは家系以外も食べるようになり、1日2杯ペースで食べ歩いた。10年間、年500杯ペースで食べてきた大好きなラーメン。これを仕事にできたらどんなに幸せだろう、そんな思いだった。  杉本さんには、35歳までには独立したいという思いがあった。ラーメン業界で一番厳しいお店で修行し、ダメなら諦めもつくと考え、32歳のときに「支那そばや」の門をたたいた。 「支那そばや」は“ラーメンの鬼”とも呼ばれた佐野実さんが1986年に創業したお店だ。スープ、麺だけでなく、具材・器・製法など全てにおいて妥協を許さない姿勢はテレビにも取り上げられ、ラーメンファンのみならず一般にも広く知られた存在だった。  面接を受けに杉本さんがお店に向かうと、佐野さん本人が待っていた。給料や働き方、志望動機などをすっ飛ばして、佐野さんは一言こう言った。 支那そばやの山水地鶏ワンタン醤油らぁ麺(筆者撮影) 「お前、ラーメンが好きなのか」  反射的に「はい」と答えると、 「じゃあ、いつから来る」  面接はこれだけだった。  こうして杉本さんは、10年春から「支那そばや」で働き始める。佐野さんからは「3年はやれ」と言われ、杉本さんも当初はそのつもりだった。しかし、修行は想像以上に過酷だった。労働時間は15時間、しかも食事以外はほとんど座ることはできない。家に帰って寝ていても、足がつることもしばしばだった。他の従業員はみんな当たり前の顔でこなしているように見えたが、自分はとてもじゃないけど、3年はもたない。 「1年でマスターするしかない」  誰よりも早くお店に行き、仕事の前に自分で買ったネギを刻んで練習した。麺の代わりにタオルを濡らして湯切りの練習もした。営業中は師匠や先輩の手つきを見て、見よう見まねで毎日一人で特訓した。 しばらくして、佐野さんから突然声をかけられる。 「これで練習してみろ」  そう言って、タオルを使うくらいならと、安価な材料で作った練習用の麺を渡してくれた。嬉しかった。さらに気合を入れて練習する日々が続く。こうして徐々に腕を上げていった杉本さんは、お店のラーメン作りも任せてもらえるようになった。 「すぎ本」の杉本さん(筆者撮影)  修行開始から1年が過ぎ、ラーメン作りの技術はかなり身についた。杉本さんは「他を見てみたい」と佐野さんに退職を申し出た。「去る者追わず」が佐野さんのスタイルだと思っていたが、行きつけの寿司屋に呼ばれ、こうたずねられた。 「今、お前が他に行っても勉強になんかならないぞ。何が不満なんだ」  給料がもう少しほしいことと、製麺を覚えたいことを伝えると、了承してくれた。こうして修行を続けるなかで、大切なことに気付いたという。 「食材の扱い方やスープの温度、炊き方すべてに意味があるのに、僕はただの“作業”としてやっていたんです。なぜその工程が必要なのかということまで、考えるようになりました」(杉本さん)  それ以来、ラーメンへの向き合い方も変わった。3年半に及ぶ「支那そばや」での修行を経た13年6月、いよいよ独立したいと佐野さんに告げると、佐野さんはこう言ってくれた。 「俺と同じものはできないだろうが、お前には俺より美味いものが作れるかもな」  杉本さんにとって、最高の褒め言葉だった。こうして杉本さんは独立に向け、歩き始める。物件を探し始めて数カ月、西武新宿線鷺ノ宮駅の近くに、家賃・広さをクリアする場所が見つかった。土地勘はないが、駅からも近いと勢いで出店を決めてしまった。13年12月「らぁ麺 すぎ本」はオープンした。 ■師匠が弟子に放った言葉  味のコンセプトは、老若男女が食べられるバランスのとれたラーメン。地元に根付く味を目指した。オープン初日に来てくれた佐野さんは、ラーメンを口にして一言こう言った。 すぎ本/東京都中野区鷺宮4-2-3、営業時間11:30~15:00、18:00~21:00、月曜のみ11:30~15:00、火曜定休(筆者撮影) 「普通のラーメンだな」  悔しかったと同時に、見透かされていると感じた。思っていたようなラーメンを作れていなかったのだ。開店1カ月は「支那そばや」出身ということでお客さんも集まったが、すぐに客足は厳しくなった。お客が1日に30人しか来ない日もザラであった。  杉本さんは師匠を見返したい一心でラーメン作りに励んだが、悲劇が起きる。14年4月、佐野さんが亡くなった。突然のことだった。  納得できるラーメンを食べてもらえないまま、お別れとなってしまった。“佐野実 最後の弟子”として、自分でこれからの道を見つけていくしかないのだ。  杉本さんは業界内で切磋琢磨できる仲間を見つけ、情報交換をしながら、ラーメンをブラッシュアップしていく。味も少しずつ仕上がっていき、客足も戻ってきた。なかでも食材選びにはとくにこだわった。 「佐野さんはインターネットもない頃から、ラーメンのために一人で食材と向き合っていました。知れば知るほど遠い存在です。でも、自分には佐野さんのDNAが根付いていると信じ、それを誇りにラーメンを作っています」(杉本さん)  美味しいという噂は口コミで広がり、やがて行列を作る人気店に。ついにはミシュランガイド東京2017でビブグルマンを獲得するまでに至る。佐野イズムを受け継いだ杉本さんは、味の研究に余念がない。 「GOTTSU」の齋藤さんは、「すぎ本」のラーメンについてこう語る。 「出身店の良さが色濃く出ているという点で、自分との共通点を感じます。一方で、『支那そばや』とはまた違う杉本さんらしさも感じる。まろやかな中にもキレのある醤油スープは本当に美味いです。仕事も丁寧で、常連になりたいなと思わせてくれるお店です」(齋藤さん)  杉本さんも「GOTTSU」齋藤さんのこだわりには目を見張る。 「とにかく熱い男です。どんなことがあってもお店を絶対に休まず、妥協しない。ラーメン屋としては理想の姿ですが、これがなかなかできない。具材の燻製や、ネギの切り方、ねじり方など、普通のお店の何倍もの手間がかかっています。それをほとんど一人でやっている。濃厚系のラーメンで頂点までいった人ですね」(杉本さん)  師匠の技術を受け継ぎながらも、自分の味を出して高い評価を受けている二人。これはなかなかできることではない。こういったお店が、新たな時代を引っ張っていくに違いない。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2019/05/05 13:00
雅子さまを追っかけて26年!一般参賀は前日から並ぶ主婦たちの原動力とは?
上田耕司 上田耕司
雅子さまを追っかけて26年!一般参賀は前日から並ぶ主婦たちの原動力とは?
 愛子さまが小さいころの一枚(白滝富美子さん提供) 愛子さまが生後半年後くらいのころ。集まってきた人たちに陛下がお披露目した(吉田比佐さん提供) 皇太子時代の陛下と愛子さま(白滝富美子参提供) 葉山で犬を散歩させている人と談笑する両陛下(吉田比佐さん提供) 幼い愛子さまを抱いて笑顔をみせる雅子さま(白滝富美子さん提供) 長野県でのスキーから東京に帰ってきた雅子さまと愛子さま(吉田比佐さん提供) 広川オリエさんの思い出の一枚(広川さん提供)  ご公務やご静養地の様子を写真に収める皇室の追っかけ。雅子さまの追っかけは年配の主婦が多いとか。一様に「あの笑顔に癒やされる」と話し、人生の活力になっているという。シャッターチャンスをうかがって長時間外で待つこともあるが、失礼にならないように離れたところから見守るのが基本だ。追っかけ主婦たちの活動の実態に迫った。 *** 「雅子さまは最近、東宮御所の正門から出入りしています。体調がすぐれなかった時期は、私たちが待っている門とは別の門からお出になっていた」  追っかけを26年間続ける、神奈川県の白滝富美子さん(78)は、写真を撮ることを通して見た雅子さまの変化をこう話す。最近は表情が明るくなってきたという。  雅子さまの出入りを待って、白滝さんは半蔵門で長時間も待つこともある。 「上皇さまや美智子さまに会いにいくときは、皇居の半蔵門から入っていきます。以前は、皇居の半蔵門の門の中の敷地に私たちを入れてくれていたんですが、オウム真理教の地下鉄サリン事件から、警備が厳しくなった。最近は門の前の舗道で最前列が4人と決められています。後から来た人は2列目以降となります。私は最前列を取るために、3時間前から並んでいます」(白滝さん)  新年一般参賀と天皇誕生日一般参賀では、場所確保のために前日から並ぶという。 「真夜中から並びます。ホテルに宿泊して2日がかりですよ。いい場所が取れないので」(同)  白滝さんが追っかけの世界に足を踏み入れたのは、1993年1月の両陛下の婚約発表がきっかけ。当時、たくさんの一般人が、雅子さまのご実家の小和田邸前に”見物”に集まった。 「私も友達と一緒に見に行きました。その友達は、その一回きりでしたが、私は、病みつきになって小和田邸へ毎日通った。そのうち、東宮御所の門へも行って、雅子さまがお出かけする様子をカメラに収めるようになりました」(同)  最初はズームもない1万円のコンパクトカメラで撮影した。ご静養地の葉山(神奈川県)、那須(栃木県)、下田(静岡県)と方々へ出かけるうち、1年間のうち半分が雅子さまを追いかける日々になり、レンズが取り換えできるカメラに買い替えた。 「雅子さまは最初、車の中から手を振るしぐさもぎこちなく、写真を撮ると、手のひらが口元にかかっていることが多かった。だんだんと慣れて、今はそういうことはなくなりましたね」(同)  主婦・吉田比佐さんは、雅子さまと陛下の1993年6月のご成婚から26年間追い続けている。当時は20代だったが、現在は50代。 「やさしいチャーミングな笑顔を見るだけで、嫌なこともすべて忘れちゃいます」(吉田さん)  追っかけの活動に家族の理解は得られているのだろうか。吉田さんは94年5月に会社員の夫と結婚した。 「私が追っかけをしているのを知っていて結婚したので、主人は何も言いません。わりと自由に好きなように出してもらっています。夕方のお出かけの時は、お酒のおつまみだけ用意して出かけますよ」(同)  追っかけ主婦たちの間では、雅子さまのファッションも注目の的だという。 「葉山の海岸で雅子さまが着ていた、赤と白の縦ストライプのシャツがあまりにもかわいかったので、同じものを探したんですよ。同じものではないけれども、渋谷でそっくりのシャツをみつけたので買いました」(吉田さん)  吉田さんは、陛下が幼い愛子さまを大事に抱いている様子や、ご静養地で地元の人と会話を交わす様子などさりげない表情をカメラに収めて来た。気になるのは、その情報の正確さ。どういう方法で得ているのだろうか。 「追っかけ仲間から教えてもらったり、ご夫妻が地方に行かれる時は県や市に問い合わせたりします」(同)  そんな吉田さんだったが、雅子さまが体調を崩された時には一時的に活動を休止した。 「雅子さまが公務をお休みになり、お出かけもほとんどなくなったころは、4年くらい、私も追っかけを休みました」(吉田さん)  前出の白滝さんも同じく活動を休んだ。それでも、雅子さまの公務復帰とともに「現場」に戻って来た。 「雅子さまが体調を崩されたのをきっかけに、私も追っかけの活動を休み、仕事を始めました。でも今では仕事をしながら追っかけをしています」(白滝さん)  白滝さんによると、雅子さまの追っかけは12人ほどで、女性がほとんど。最近は20代の男性も見かけるが、多くは高齢化しているという。 「追っかけは昔から続けている人が多いので、高齢化してきています。私は理解のある左官業の夫が3年前に亡くなった。私は体が動けなくなるまで、ずっと雅子さまの追っかけを続けるつもりです。それが元気の秘訣だから」(同)  高齢でやむなく、諦める人もいる。千葉県に住む広川オリエさん(84)は20年間追っかけ主婦をしたが、6年前に辞めた。一人息子が独立し、定年退職した夫と2人で暮らしている。 「血圧が高く、糖尿やぜんそくの持病もあるんです。クスリを飲みながら『雅子さまと会える日』を生きがいに追っかけをしてきましたが、もう長時間待ったりすることに体がついていけなくなりました」  広川さんの一番の思い出写真は葉山でご静養中の雅子さまを撮った写真(1996年6月29日撮影)。愛子さまが生まれる前のことだ。。1メートルほど先にいた雅子さまに、広川さんが「写真一枚いいですか」と話しかけると、しゃがんでいた雅子さまは立ち上がり、広川さんがシャッターを切るのをじっと待っていたという。  そのとき、雅子さまから「今朝お見えになったんですか」と声をかけられた。 「そうです。これからも皇居の門でお迎えさせていただきます」  広川さんがそう答えると、雅子さまは「ありがとう」とほほ笑まれたという。  あくまで控えめな、追っかけ主婦たち。それでも雅子さまは彼女たちの存在に気づいているという。車の中から見かけると、必ず窓を開けてくれるそうだ。 「雨の日でも、窓を開けてくださる。そう思うから、たとえ雨の中でも待っていられるんです。報道カメラマンしかいないときは雅子さまは車の窓を開けない場合もあります。私たち一般人がいるから、窓を開けてくださるんですよ」(白滝さん)  前出の吉田さんはこう語った。 「上皇さまと美智子さまとは握手したことがあるんですが……。皇后になられたのですから、機会があるのでは。夢は雅子さまと握手することなんです」(吉田さん)  平成から令和に時代が移っても、追っかけ主婦たちの活動は続く。 (本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/05/03 16:00
逆転の発想!「嫉妬するアホ」の攻撃をかわす方法とは?
逆転の発想!「嫉妬するアホ」の攻撃をかわす方法とは?
 理不尽な存在との付き合い方を描いた『頭に来てもアホとは戦うな!』がシリーズ75万部を突破した。悩める人々を救ってきたこのベストセラーが、知念侑李(Hey! Say! JUMP)主演でドラマ化され、好評放送中だ。  ドラマ化を記念して、原案者の田村耕太郎と、脚本を担当する吹原幸太が、放送に先駆け、各回のエピソードに登場するアホの特徴や、かわし方について議論する。今回は「男の嫉妬」について。 ■ますます窮屈になって嫉妬が生まれやすい日本社会 吹原:今回のテーマは「男の嫉妬」です。主役の小太郎の成功に嫉妬した同期の男性が、小太郎の足を引っ張ろうとします。 田村:自分にも経験があるのですが、嫌がらせの仕方も卑劣で驚きました。 吹原:田村さんは、どんなことをされましたか。 田村:信じていた人が私を貶める噂を流していたり、反対に、公の場で身に覚えのない私の失敗談を喧伝したりされました。 吹原:それは困りますね。 田村:政治や経済の世界では、内々に決まっている事柄を新聞やテレビにリークして発表させ、その決定自体を白紙に戻すなんてことも普通に行なわれます。いわゆる新聞辞令というやつですね。その発端は、嫉妬から来ることも多いんです。 吹原:そうだったんですか! 田村:私が『アホとは戦うな!』を書いたのは2014年のことでした。ありがたいことにロングセラーとなり、最近になって本の売れ行きがさらに好調なのですが、その理由がよくわかります。 吹原:どういうことでしょうか。 田村:日本の椅子取りゲームが激しくなっているんですよね。人口が減少し、一方で高齢化し、会社の規模も小さくなり、みんながポジション争いに躍起になっています。つまり、日本は窮屈になってきていて、そんな社会では、嫉妬アホをはじめとした、さまざまなアホに遭遇しやすいんですよね。 ■嫉妬をかわすために身につけるべき処世術 吹原:そんな社会でどう生き抜けばいいのでしょうか。 田村:とにかく目立たないことです。特に、仕事の評価が相対的な環境で働いている人は、身を潜めるのをおすすめします。「なんで自分が認められないんだ」と嫉妬を燃やすアホに目を付けられると、足を引っ張られることになりますから。 吹原:僕が脚本を書いているときに思い出したのは、子どもの頃のことでした。僕には4歳離れている姉がいます。当然、小さい子に手が掛かりますから、僕が両親によく面倒をみてもらっているのに気づいて、嫉妬していたんでしょう。よくいじめられていました(笑)。  それでどうしたのかというと、徹底的に相手の懐に飛び込んだんですよ。おままごとで犬役を姉から命じられても、屈辱に思うことなく、すごく楽しんで演じ、親にも「犬役をやらせてもらったよ!」とうれしそうに報告したりして(笑)。そうすることで、姉の態度が軟化した気がします。 田村:原案本にも書いていますが、それは「負けたふり」をすることで、相手を気持ちよくさせる対応策ですね。完璧な作戦です。 吹原:昔飼っていた犬は、僕が怒っても反抗するのではなく、シッポを振ってかえって懐いてくるんです。恭順してくれると、こちらとしても受け入れざるをえないんだなと実感しました。そして、僕が姉にしたことは正しかったんだと実感しました(笑)。 ■嫉妬は人類に必要な感情でもある 吹原:ただ、嫉妬すること自体は、すごくいいことだと思っています。嫉妬を燃やすということは、逆に言えば、その相手を目標にしているということですから。そんな時、相手の足を引っ張るのではなく、自分を成長させる方にエネルギーを燃やしたいものです。 田村:まさにおっしゃるとおりです。長い人類の進化のなかで、生存に必要だからこそ、嫉妬が人の感情として残っているのだと思います。逆に言えば、嫉妬の感情を持たなかった人は、淘汰されてきたのではないでしょうか。 吹原:なるほど。 田村:ただ、嫉妬にも、海外との日本の違いはありますね。海外の嫉妬は、仕事のポジション争いに限定しているように感じます。一方で、日本の場合は、そういうポジションが絡まなくても、嫉妬をしてくる人がいるんです。 吹原:なぜなのでしょうか。 田村:日本は余裕がある社会だからでしょうね。シンガポールは生き馬の目を抜く社会で、気を抜いたらもう社会的に脱落してしまいます。でも、日本はそこまで厳しい社会ではないので、他人の日常にまで関心を向けることができるんでしょうね。 吹原:そこまでハッキリと違うんですね。 田村:ポジションが絡んだ嫉妬は、本当に生死がかかっています。 吹原:ちなみに、田村さんご自身が嫉妬したことは? 田村:今はあまりないですが、政界にいたときはありましたね。こんなに自分ががんばったのに、なんであの人が登用されるのがわからないと、眠れない夜を過ごしたこともありました。 吹原:そんなときはどうしたのですか。 田村:ひたすら耐えましたね。それができたのは、自民党の参議院幹事長などを歴任した青木幹雄先生が、「いつか君の時代が来るから、じっと待つように」と教えをくださったからでした。今でも、その教訓を胸に生きています。
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dot. 2019/04/29 17:00
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