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グーグル元社員が考案「気が散らないiPhone」って?
グーグル元社員が考案「気が散らないiPhone」って?
※写真はイメージです (GettyImages)  ニールセンデジタルの調べ(2018年12月)によると、日本人がスマホを見ている時間は、1日平均3時間超という。平均でこんなにも長いのかと驚かれる人もいるかもしれないが、グーグルで最速仕事術「スプリント(デザインスプリント)」を生み出し、世界のビジネスパーソンの働き方に革命を起こしてきたジェイク・ナップは、新著『時間術大全――人生が本当に変わる「87の時間ワザ」』において、人が毎日それくらいスマホを見てしまうのは当然のことだと言う。 なぜならいま世界では、スマホのアプリ開発会社から、ネットフリックスまで天才エンジニアたちが、世の人々の「1分、1秒」の注意を奪うため、日夜しのぎを削っているからだ。  もはや人間の意志の力では、アプリや動画、ゲーム等の「注意泥棒」に抗することは不可能に近いという。しかし、テクノロジー企業に奪われているこうした時間を減らすことができれば、もっと充実を感じられることや、もっとリラックスできることにたっぷりと時間を割くことができる。では、どうすればいいのか。同書からその秘訣を紹介したい。 ●iPhoneから「気を散らすもの」を消してしまう  僕らが時間と注意を取り戻すために実行した戦術のなかで、おそらくいちばん単純でいちばん強力なものは、スマホからSNSや動画、ゲーム、メールなどの気を散らすアプリを削除して「気が散らないiPhone」をつくることだろう。  僕らは2人とも2012年からこの「気が散らないiPhone」を使っているが、アプリのない日々をただ耐えしのぐのではなく、すばらしい時間をすごしている。よい仕事をし、毎日を満喫している。  もっとも、こんなやり方をしていることを知られると、おかしなやつだと思われることも多い。なぜ、僕らはただスマホをガラケーに変えてお金を節約しないのか?  つまり、こういうことだ。気を散らせるアプリを全部取り除いても、スマホはやっぱり魔法のデバイスなのだ。  マップからカーナビ、ミュージック、ポッドキャスト、カレンダー、カメラまで、時間を奪わずに生活の質を高めてくれるアプリはたくさんある。  それに白状すると、僕らはスマホに惚れ込んでいる。僕らは時間オタクというだけじゃない、ガジェットオタクでもあるのだ。本書の共著者JZは2007年に初代iPhoneを買うために行列したし、ジェイクはその10年後、iPhone Xを発表当日に予約するために真夜中まで起きていた。僕らはスマホを愛している──たんに全部の機能をいつもは使いたくないというだけだ。  気が散らないiPhoneを使うと、現代のテクノロジーを満喫しつつ、いまより(少しだけ)単純だった時代、ときたまプラグを引き抜いて集中を保つことができた時代に、時計の針を戻すことができる。  もちろん、気が散らないiPhoneは万人向けじゃない。SNSもブラウザもメールもないスマホなんてどうかしていると思う人もいるだろうし、僕らより自制心が強い人がいることも認める。  ポケットからスマホを取り出したいという強烈な衝動に悩まされない人や、メールやニュースフィードに振り回されず、しっかりコントロールできている人もいるだろう。  とはいえ、どんな人も指先1つで情報をたえず更新することに、多少の認知コストを払ってはいるはずだ。  僕らほどあからさまな注意散漫の問題を抱えていない人も、スマホのデフォルトを変更すれば、さらに集中しやすくなる可能性が高い。  だから、すでにスマホをコントロールできているという人も、短い実験のつもりで、気が散らないiPhoneを試してほしい。使い続けなくても、ふだん無意識に受け入れてしまっている習慣を見直す機会にはなる。  これから、iPhoneを「気が散らないiPhone」に変えるやり方を簡単に説明しよう。 ●ステップ1:「ソーシャル系アプリ」を削除する  最初にフェイスブック、インスタグラム、ツイッターなど(この本が書かれたあとで発明されたものも含む)を削除する。大丈夫、あとで気が変わったらごく簡単に再インストールできる。 ●ステップ2:「その他の無限の泉アプリ」を削除する  ゲーム、ニュースアプリ、YouTubeのようなストリーミング動画アプリなど、おもしろいコンテンツを無限に供給してくるアプリ(本書では、すべてひっくるめて「無限の泉」と呼んでいる)を全部削除する。あなたがとりつかれたように更新してしまうアプリや、知らないうちに時間を無駄にしているアプリはすべて削除する。 ●ステップ3:「メールアカウント」を削除する  メールは魅力的な「無限の泉」であり、世の「多忙をよしとする風潮」の象徴でもある。それに外出中スマホできちんとした返事を書くのは大変だから(時間的制約があるし、タッチスクリーンで文字を入力するのはわずらわしい)、気苦労の種になることも多い。遅れを取らないようにスマホでメールをチェックしているのに、遅れを取っていることを確認するだけで終わっている。スマホからメール機能を取り除けば、かなりのストレスも一緒に取り除ける。  メールアカウントはたいていデバイスに深く組み込まれているから、メール機能を無効にするだけでなく、スマホの設定からメールアカウントも削除してしまおう。  脅すような警告が表示されるかもしれない(「本当にメールアカウントを削除していいですか?」)が、ひるんではいけない。気が変わったときのために、必要なアカウント情報を記録しておけば大丈夫〔訳注:大事なメールや連絡先等がなくなると困る方は、それらの保存もおすすめします〕。 ●ステップ4:「ウェブブラウザ」を無効にする  最後に、気を散らすものの万能選手こと、ウェブブラウザを無効にする。このためには、たぶん設定に分け入って機能をオフ(機能制限)にする必要があるだろう。 ●ステップ5:「それ以外のすべて」を残す  先にも言ったが、スマホのアプリには、すばらしいものがたくさんある。僕らを注意散漫の渦に引き込まずに、生活をまちがいなく便利にしてくれるアプリだ。  たとえばマップのアプリには無限のコンテンツが含まれているが、適当に選んだ都市の地図をいますぐ眺めたいという衝動に駆られる人はそんなにいない。スポティファイやアップルミュージックなどの音楽ストリーミングアプリも、比較的害は少ない。楽曲やポッドキャストは無限にあるが、突然、ビートルズの曲を全部聴き倒したいという強迫観念に襲われることはそうないだろう。ウーバーやカレンダー、天気、旅行などのアプリも同じだ。  要は、ツールアプリと、使いたくてうずうずしないアプリは残しておく。 ●24時間、トライしてみる 「気が散らないiPhone」は実験として試すこともできる。一生使い続けることを誓う必要はない。24時間、1週間、1ヵ月でいいからやってみよう。  メールやブラウザがどうしても必要になるときもあるだろう。そういう状況になったら、用事に必要なアプリを一時的に有効にすればいい。肝心なのは、スマホに使われるのではなく、主体的に使うこと。そして用事が終わったら、その機能を「オフ」に戻そう。  気が散らないiPhoneを、あなたもきっと気に入ると思う。始めたばかりの読者もこう言っている。 「機能を減らしたスマホを1週間使っているが、最高の気分だ。もっと不便かと思っていたが、そうでもなかった」  別の読者は、気が散らないiPhoneの使用前・使用後のスマホ利用時間をアプリで追跡して驚いたそうだ。 「メールとサファリを無効にしてから、スマホに向かう時間が1日2時間半かそれ以上減った」  これはかなりすごいことだ。簡単な変更のおかげで毎日1、2時間も取り戻せるなんて!  気が散らないiPhoneの何よりも大きな見返りは、主体性を取り戻せることだ。無意識に受け入れてしまっているデフォルトを変えさえすれば、スマホはあなたのしもべになる。本来そうあるべきなのだ。 (本原稿は、『時間術大全――人生が本当に変わる「87の時間ワザ」』<ジェイク・ナップ、ジョン・ゼラツキー著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社>からの抜粋です) ●僕らは何者で、これはいかなる本か?  僕らはジェイクとJZだ。イーロン・マスクのようなロケット開発をしている大富豪でもないし、ティム・フェリスのようなハンサムな教養人でも、シェリル・サンドバーグのような天才的経営者でもない。  時間管理法の本といえば超人が書くものか、超人について書かれたものと決まっているが、この本には超人はいっさい登場しない。僕らは読者のみなさんと同じ、ストレスにやられたり気が散ったりする、あやまちを犯しがちなふつうの人間だ。  僕らがちょっと変わった視点をもっているのは、長年テクノロジー業界でGmailやYouTube、グーグル・ハングアウトなどのプロダクトの構築に関わってきたプロダクトデザイナーだからだ。  僕らはデザイナーとして、抽象的なアイデア(「メールが自動的に振り分けられたらよくないか?」など)を現実世界の解決策(Gmailのプライオリティボックスなど)に変える仕事をしてきた。そのために、テクノロジーが生活のなかでどういう位置づけにあり、生活をどう変えているのかを理解する必要があった。  この経験をとおして、スマホやラップトップ、テレビなどにあふれている便利なサービスはなぜこんなに魅力的なのか、こうしたテクノロジーに主導権を奪われないようにするにはどうしたらいいかについて、僕らなりの考えをもつようになった。 ●時間は「デザイン」できる  そうして数年前、僕らは時間という目に見えないものを「デザイン」できることに気がついた。でもその気づきをテクノロジーや事業機会として開拓するより先に、僕らの人生のいちばん意味のあるプロジェクトやいちばん大事な人たちとの時間にあてはめることにした。  毎日、自分にとっていちばん大事なことのために、少しだけ時間をつくろうとした。多忙こそ正しいとみなす世の風潮を見直し、やることリストと予定表をデザインし直した。無意識に受け入れているあらゆる習慣を見直し、テクノロジーを利用する時間と方法をデザインし直した。  僕らの意志力には限りがあるから、どのデザインも簡単に実行できるものでなくてはならなかった。また約束を全部断るわけにはいかないから、制約条件のなかで動いた。実験と失敗、成功を重ね、やがて答えにたどりついた。  本書では、僕らが編み出した原則と戦術を紹介しつつ、僕らの犯したヒューマンエラーや、オタクっぽい解決策についても語ろうと思う。 ジェイク・ナップ(Jake Knapp) 著術家、IDEO客員研究員。グーグルで、あらゆる仕事を最速化する仕事術「スプリント(デザインスプリント)」を生み出し、Gmailの改良に生かすなど大きく貢献。その後GV(旧グーグル・ベンチャーズ)のデザインパートナーとして、スプリントをスラックやウーバー、23andMeなどで150回以上にわたり実行し、プロダクト構築を助ける。2017年より現職。現在もレゴ、ニューヨーク・タイムズなどにスプリントをコーチングしている。スプリントは世界中に広まり、国連や大英博物館を含む多くの企業や組織が事業戦略として活用している。著書に世界的ベストセラー『SPRINT 最速仕事術』(ジョン・ゼラツキー、ブレイデン・コウィッツと共著、ダイヤモンド社)がある。 ジョン・ゼラツキー(John Zeratsky) YouTube、グーグルなどのテクノロジー企業で、デザイナーとして「時間」を再設計するミッションに没頭してきた。GVのデザインパートナーを経て、現在は「ウォール・ストリート・ジャーナル」「タイム」「ハーバード・ビジネス・レビュー」「WIRED」他で執筆。ハーバード大学、IDEOなどの舞台に100回以上にわたって登壇するなど、スピーカーとしても活躍している。 櫻井祐子(さくらい・ゆうこ) 翻訳家。京都大学経済学部経済学科卒、大手都市銀行在籍中にオックスフォード大学大学院で経営学修士号を取得。訳書に『SPRINT最速仕事術』『第五の権力』『0ベース思考』(以上、ダイヤモンド社)、『NETFLIXの最強人事戦略』(光文社)、『選択の科学』『CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見』(以上、文藝春秋)、『OPTION B 逆境、レジリエンス、そして喜び』(日本経済新聞出版社)などがある。
ダイヤモンド・オンライン 2019/07/16 18:05
高校生のママ「超ヒマなんですけど!」 千秋が問いかける“子育て後の日々”
高校生のママ「超ヒマなんですけど!」 千秋が問いかける“子育て後の日々”
千秋(ちあき)/タレント、歌手。10月26日生まれ、千葉県出身。O型。2003年5月に長女を出産。タレント、声優、歌手、デザイナー。バラエティ番組を中心に、『ノンストップ』(CX系)、アニメ『ドラえもん』(ANB系)のドラミ役などで活躍中。また、「チロル社」、「LOVE STONE」のデザイナーも努める。公式インスタグラム@chiaki77777、公式twitter@cirol777、公式ブログ「苺同盟」http://ameblo.jp/chiaki-777/  タレント・千秋さんが自身のインスタグラムで「(子どもが)中高大学生のママたちは、どう過ごしていますか?」と問いかけたことが反響を呼んでいる。自身も高校生の娘を持つ母。中学生になったころから急に時間ができ、嬉しい反面戸惑ったと打ち明け、この時期に名前を付けるなら?などと呼びかけた。コメント欄には同じく子育て中の女性を中心に100件を超える声が寄せられている。  どうしてあえて「時間があること」を訴えたのか? 本人に聞いてみると深い理由があった。  円満離婚、帝王切開、ミルク育児……。千秋さんが「隠さないで声を大きくしよう」としてきた理由とは。 *  *  * ――まずは、子育てが忙しかった時期について教えてください。どのように仕事と両立してきたのでしょうか。  出産の1カ月前まで仕事をしていて、産後は2カ月後に仕事へ復帰しました。仕事の間は基本的には母に預けていましたが、ほかにも24時間対応の保育園など2つ登録して、友達にもどんどん預けていました。周りの友達には「私も預かるから、預けていい?」ってお願いしていたんだけど、みんな私には預けてくれなかった。心配なのかな(笑)。  だから仕事の前に車で2時間かけて友達の家に行って、娘を預けて、仕事して、終わったらまた2時間かけて迎えに行ってってこともありましたね。でも私は全然大変だとは思ってなかった。逆に、せっかく預けてきたから頑張ろうって、仕事をするありがたみは感じるようになっていました。 ■目標は「憧れじゃなくて踏み台になるようなママ」 ――1998年にポケットビスケッツとして紅白歌合戦に出場して、2003年に娘さんを出産されています。仕事も忙しい時期だったのでは?  もともとそんなに仕事が忙しい方ではないんですが(笑)、子どもを産んでからは仕事は週の半分にしようと決めていました。子どもといる時間を週の半分は取りたかったからです。 それとは別に、子どもを産んだら注げるエネルギーは子どもに50%、仕事に50%になってしまうかなと思っていたんですが、結果的にはそれぞれに100%になった。自分のパワー全体が200%に増えた感じです。  もちろん時間は半分になるんだけど、自分の中では両方に100%の力で向き合っていて、合わせて200%の力を出せました。出産のために入院しているときも原稿を2つ抱えて「終わんない、終わんない」って言っていたし、娘が幼稚園に上がるころまで多いときには連載が7本あって、ずっと締切に追われていたんです。いま思うとあんな忙しいときに、よくやってたなと思います。  いまは時間があるのに連載は持っていません。何か連載のお仕事ありませんか?(笑)。バランスって取れないものですね。 ――エネルギーが200%になったのは、何か理由があったんでしょうか。  仕事に目標ができたんです。ママになるってわかったときに雑誌とかを見ると、スタイルも顔もきれいで、料理が上手で、教育熱心で仕事もバリバリやっているような完璧な女性ばっかりだった。でも、絶対そういう人ばかりじゃないはずだから、私はみんなの憧れじゃなくて踏み台になるようなママになればいいと思ったんです。  バラエティー番組でふざけていて、「あの人、本当に子育てできるんだろうか?」って思われる私みたいな人が一生懸命やっていたら、「千秋ができるなら私もできる!」って思ってもらえるといいなと。  日本の女性って、一つの方向にしか評価されなくて、それができなきゃ普通以下、ダメな人みたいになっちゃうところがある。おこがましいんですけど、私がいろんな多様性があることを証明していこうと思ったんですね。  私はモデルさんみたいな外見じゃないし、料理が苦手だったけど80歳で良妻賢母になればいいって考えて、そういう声を発信するのが当時の目標でした。 ■「円満離婚」を定着させたかった理由 ――確かに、新しい母親像でしたよね。  円満な離婚があるって見せたのも、その一つです。日本では離婚したら「お父さんは天国に行っちゃった」って教えたり、二度と会わないってことが多いけど、離婚を考えていたときにアメリカの友達から現地のことを聞いたんです。  向こうでは平日はステップファーザー(継父)、土日は実のお父さんと過ごすのも普通で、お父さん同士が互いの家に送り迎えするんですよね。そこには新しい奥さんとかほかの兄弟もいるんだけど、みんなが納得している。そういう子がクラスの半分ぐらいいるんですって。お父さんの顔も知らないとか、忘れちゃったっていうのじゃなくて、「今日はどっちのパパ?」「今日はこっち」って普通に言えるのって、良いなと思いました。  当時は、離婚後に一緒にディズニーランドに行ったりすると、すぐ「復縁か!?」ってニュースになったんだけど、全然そうじゃなくて。夫婦ではないけれど、娘の父と母としての役割はちゃんとやりたいと思っているんです。娘は離婚しても週1回は泊まりに行ってますよ。  そういうことを初めて聞くとみんなギョッとすると思うけど、何回も言うと慣れてくるし、この10年ちょっとで芸能人でもそういう人は増えてきましたよね。それに、悩んでいる人が「あ、あの手があった!」とか思ってくれたらいいなと思います。別に離婚を進めているわけじゃないけど、苦しくてずっと我慢しているぐらいだったら、次のステージに進んで、シングルでも子どもに対してちゃんとママができるよって伝えたい。 ――「円満離婚」という言葉も定着しましたよね。反響もあったんじゃないですか。  離婚したのは子どもが幼稚園に入る前ごろだったんですが、小学校を卒業するころに、話したことがないママ2人に「あの方法があるんだって勇気づけられて離婚できた」って言われました。苦しい思いをしているよりは、女性にとっては良かったなと思う。だって人生は1回しかないんだから。  娘を帝王切開で産んだことも、母乳が出なくてミルクで育てたことも、「はーい! 私はそうでした」って明るく声を大きくしようと思ってやってきました。日本では医学的な根拠が無いのに、信じられていることってまだまだあるから。  少数派だとしても、新しい考えとか違うやり方があるんだよって見せることで、解決のヒントになればいいなと思っています。 ■子育て一段落しても就職できない… 戸惑う中高生のママたち ――なるほど、今回の「中高生のママ」問題もその一環なんですね。いつから戸惑いを感じていたんですか。  娘が中学生になったとき、急に時間ができて「なんだこれ!?」って思ったんです。小学生のころよりも朝は早く出て行って、帰りも遅く帰ってくる。最初の1、2週間は「たくさん昼寝ができる!」って思っていたんだけど、それが続くとだんだん暇だなと……。  それまでは週末や夏休みも、ディズニーランドとかコンサートに付き添っていたけど、今は友達と行動するようになって、私の出番は無くなってしまった。小学校まではPTAで忙しいこともあったけど、中学校に入ったらそれも急に何も無くて……。嬉しい反面、どうしたらいいのか戸惑いました。  ママ向けの雑誌とか番組は子どもが赤ちゃんから幼稚園ぐらいまでの情報ばかりで、その後は急に介護や熟年離婚の話になる。ママになった人全員が体験することなのに、情報が全然無いなと思ったんです。  私は仕事があるけど、周りの専業主婦のママたちはもっと戸惑っていました。働こうとしても、年齢を理由に面接にも進めなくて、なかなか就職できないそうなんです。だから自分で仕事を立ち上げるか、親の仕事を手伝うかパートしかない。パートもそんなに長い時間は入れてもらえないから、あんまりお金にならないらしいし。  2013年に「ハローサーカス」(ハンドメイド作品の期間限定ショップ)を始めたのも、専業主婦の人たちの才能が作品として世に出て、誰かに買ってもらえたら自信が付くし、収入にもなったら良いなと思ったからです。  男女の差を無くすための制度はいっぱいできているけど、日本の女性たちがどれだけ自分を犠牲にして、家事や子育てをしてきたかっていうのはまだまだ大きな問題だと思います。香港とかだと朝も夜も外食が多いみたいですし、アメリカだったらレディーファーストで、旦那さんが子どもの世話をしてくれるということもあるけど、日本ではずっと「女性が働くなら家事も両方やって当然」みたいな状態のまま。女の人が働くならパワーを200%にしなきゃいけなくて、それは全員がやれるわけじゃない。しかも子育てに専念していた人たちは、それが一段落しても就職は難しいわけです。  私は再婚して新しい家族をはじめから組み立てるという使命もあるし、リスタートでもあります。主人の周りの友達もできて、新しい考え方はすごい勉強になるし、新しい趣味もできたけど、それが無かったらもっと途方に暮れていたと思います。  娘が高校生になってから、このことを改めてインスタに投稿してみたら、すごく長いコメントもいっぱい来て、やっぱりみんなそう思っていたんだ、深刻なんだなって感じました。 ――コメントは100件以上付いている投稿もありますね。印象に残っているのは?  介護が始まっているという人もいたし、家族全員のお弁当を作っているから子育てが終わった気がしないという人も、自由時間のご褒美だよって言ってくれる人もいました。まだ子どもが小さくてバタバタしているけど忙しいのは今だけなんだと思って頑張れるっていうコメントもありました。私が「超ヒマなんですけど!」って言ったら、中学生まであと何年ってカウントダウンもできるようになるし、将来そういう時間が来るとわかっていたら、きっと無我夢中な時期の過ごし方も違ってくると思うんです。  私は同じように思っている人がたくさんいるとわかって心強いし、中には資格を取り始めたとか、スポーツを始めたとか、前向きな人もたくさんいてヒントをもらいました。 ――千秋さん自身はこの時間をどう過ごしていく予定ですか。  もともと集落や村のしきたりにまつわる昔の怖い話が好きなので、図書館で民俗学の本を片っ端から読んで、都市伝説なのか事実なのかを調べたり、ノートに書いたりしています。いろんな分野に興味が湧いて、大好きな映画『風と共に去りぬ』の時代背景にある奴隷制度とか南北戦争、ネイティブインディアンのことも知りたくなって、次はアメリカの歴史の棚を全部読みたいです。  読書は娘に絵本を読んだ以来なんですが、最近は人気の小説も読んでいます。自分でジャケ買いしても面白くないから(笑)、誰かに勧めてもらったものとか本屋さんが一押ししているものを読んでますね。映画も好きなので、デビューのときに始めた「年に100本観る」というのを再開しました。  子どものおかげでせっかく200%になったパワーを100に戻すのはもったいないから、私は半分を自分のために使おうと思っています。外見を磨く人もいるだろうし、私は磨いても変わらないので(笑)、知らないことを知りたい! 「子育てが一段落したママたち」に何か良いネーミングを付けて、月1回ぐらいみんなでいろいろ報告し合ったり、情報交換できるようにしたいなと思っています。 (聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)
出産と子育て夫婦
dot. 2019/07/15 11:30
Mr.マリック、「インチキ」と批判も 復活支えた二人の有名人とは?
Mr.マリック、「インチキ」と批判も 復活支えた二人の有名人とは?
Mr.マリック(みすたー・まりっく)/1949年、岐阜県生まれ。88年、日本テレビ系「11PM」に初出演。「木曜スペシャル」にも出演し、「超魔術」が注目を集める。以降、テレビ番組やライブショーなどで活動を続ける。8月4日、愛知県豊橋市のホテルアソシア豊橋で「超魔術誕生30周年記念」のディナーショーを開催 (撮影/石野明子) Mr.マリック (撮影/石野明子)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら。著名人が岐路に立ち返る「もう一つの自分史」。今回はMr.マリックさんが登場。その名を聞くだけで、「きてます!」「ハンドパワー」といった言葉を思い浮かべる人も多いでしょう。エンターテイナーとしての出発点は、中学生のときの「魔法使い」との出会いでした。 *  *  *  中学2年のときに転校生が来たんです。で、隣の席に座った。その子は授業中、机の下で学生帽を膝に置いてコソコソやっている。「何してるの」と聞くと「秘密」って。  写生大会で川に行ったとき、その子が河原の石を拾って、手の中でパッと消したんです。その石を「見ててごらん」と川に投げたと思ったら、空中でパッと消えた。なんだこの子は、と思った。魔法使いが転校してきた!ってね。 ――彼の家に行くと、手品グッズだらけ。マジシャン一家だったのだ。  彼とお父さんは名古屋のマジックサークルに所属するプロ級のマジシャンだったんです。その子に助手のようにくっついて、マジックを教わるようになりました。  もともと引っ込み思案で、人前で何かをできる子じゃなかった。参観日でも手をあげなくて親に怒られるくらいでね。でもマジックを見せると、みんながすごく驚いて笑うのが心地よかったんです。 ――高校生になると毎週末、一人で名古屋のデパートに行き、手品グッズの実演販売を見つめ続けた。  見て覚え、とにかく練習しました。難しかったのはトランプやコインを操る方法です。自分の指先だけでやらなければいけないですから。  うちの親父は家で洋服の仕立てをするテイラーでした。後から「手先が器用だね」と言われると、ああ親父がそうだったからなぁって思います。あと、子どものときの出会いが大きいですね。マジシャンは指がしなやかで皮膚が柔らかいうちにやらないとダメなんです。20歳を過ぎてからでは難しい。 ――でもマジシャンで食べていけるとは思わなかった。高校を卒業し、ガス器具メーカーに就職。土日には変わらず手品グッズの実演販売を見に行く日々。そんなとき、「この仕事をしてみないか」と誘われた。  たまたま実演販売のベテランの方が辞めたんです。「朝から晩までマジックができる!」と、親を説得して、会社を辞めました。  実演販売をこなすうちに、プロのマジシャンになりたいと思い始め、腕試しをしたくなったんです。年に一度開かれる大会で東海一になり、全国大会でも優勝した。ハワイでの世界大会にも進んだんです。 ――23歳でクロースアップマジックの部門で優勝。「プロになれる」と喜んだ矢先、衝撃を受ける。  このとき、ゲストで来ていた本場の一流マジシャンを生で見て、「僕には無理だ」と悟った。美女が宙に浮くイリュージョンや、大がかりなトリック。外国人のマジシャンはスタイルもよく、衣装も所作も音楽も洗練されていてカッコいい。  これから100年やったって、この人たちには及ばない。ショックを受けて、マジックの実演販売もやめてしまったんです。  3カ月くらい漠然と日々を過ごしました。いい加減、仕事をしなきゃならない。かといって新聞で求人欄を見てもマジック以外にやりたい仕事がないんです。そんなとき、手品メーカーが新商品を売り出すことになり、実演販売員として採用されて、東京に出てきたんです。 ――新商品はデパートで飛ぶように売れた。妻となる人にも出会った。  そこのおもちゃ売り場にいたのがカミさんです。なんて働く子だろう、飯も食わずにと思った。彼女の家に転がり込んで、しばらく一緒に住んで24歳のとき結婚しました。  そこから14年間、実演販売一筋でした。朝から晩まで好きなマジックができて、これでやっていけるだろうと思った。「マリック」と名乗り始めたのもこのころです。  そのうちに手品グッズの専門店を開いたんです。海外から手品グッズを仕入れて売った。テレビ局の人が「新春かくし芸大会でタレントに手品をやらせたい」と買いに来て、それでタレントさんに手品を教えるようになったんです。 「少年隊」に飛行場で軽飛行機を消すというイリュージョンをやってもらって評判になりました。プロデューサーに「こういう番組を作って僕にやらせてもらえませんか」と企画したら、「無名だからダメ」と。じゃあ有名にならなければ、と。 ――自分の名前でお客さんを集めて、ショーをしたい。品川にあるホテルのラウンジが夜景が見えて素敵だった。ここでやろう、と思いついた。  当然のように「手品なんてダメダメ」と。歌手のディナーショーをやるような場所ですからね。「ノーギャラでいいから」と粘って、試しにやらせてもらったんです。  舞台に出ていったら、お客さんは全員後ろを向いていた。みんな夜景を見てるんです(笑)。仕方がないので「目の前でマジックが見たい方は、テーブルまで行きますので声をかけてください」と引っ込んだ。そうしたら「見たい」という方が出てきたんです。  お客さんの目の前で、お客さんの時計を借りて「針がグルグル動きますよ」とやったら、お客さんが「きゃあ!」と驚く。悲鳴が上がると、ほかの人が「なんだろう」と自分のテーブルに呼んでくれる。デパートで毎日立ちっぱなしで実演販売をしていたから、数十組のテーブルをまわってマジックを見せることもまったく苦じゃなかった。 ――評判を呼び、ホテルチェーンとの出演契約も決まった。そこに噂を聞いた「11PM」のプロデューサーと構成作家がやってきた。 「これ、マジックだと言わずに黙ってやってたら、超能力に見えませんか?」と、そのプロデューサーが言ったんです。転機でした。流行していた「超」という言葉と「魔術」を合わせた「超魔術」が誕生した。「ハンドパワー」もお客さんから言われた言葉がきっかけなんです。 「不思議ですね、なにか手から出てるんじゃないですか、ハンドパワーですね」と。 ――1988年、「11PM」に登場すると電話が鳴りやまないほどの大反響。89年から「木曜スペシャル」が放送され、一躍時の人になった。サングラスをかけ、さっそうと登場し、「きてます!」が流行語にもなる。だが、逆風も吹きだす。  自分では「超能力」なんて一言も言ってない。でもあのころは「超能力だ」と信じられて、大騒ぎになった。インチキだ、とバッシングを受けました。  海外の人はマジックを一種のジョークだととらえています。でも日本人に、例えばロープを渡すと、ものすごく調べる。「騙されないぞ」と真面目に思うんですよね。で、不思議なことをすると、また疑う。  当時、渋谷や川崎のライブハウスでやっていたんです。300人くらいの前に出ていくでしょう。半分の人は手を合わせて僕を拝んでるんです。でも、半分の人は暴露本を手に「トリックを見破ってやる!」と待ち構えている。「何をやってるんだろう?」とストレスを感じて、テレビに出られなくなってしまった。 ――しばらくテレビから遠ざかるが、93年からバラエティーに進出し、復活を遂げた。つらい時期もさまざまな人に助けられたという。  木梨憲武さんが僕をマネした「Mr.ノリック」というキャラクターを作ってくれて、子どものファンが増えました。マギー司郎さんはどんなにバッシングされても、蹴散らしてくれました。感謝しています。 ――マリックさんを悩ませたのがスプーン曲げだ。それは70年代、ユリ・ゲラーの登場に遡る。  あのころデパートで実演販売をしていると、お客さんが「あれはどうやってるんですか」と聞くんです。「どうやってるんでしょうねえ」と答えていたら、ある女性が「うちの子、あれをやるんです」と。その人の家に行くと本当に段ボール1箱分、曲がったスプーンが入っていた。子どもが曲げたことにショックを受けたんです。「これはマジックじゃないな」と。  秘密を知ろうとアメリカに行きました。ユリ・ゲラーはさまざまな方法で曲げているトリックだと、教えられました。  でも段ボール箱1箱分曲げた子は違いますよね。それが解せなくて、初代・引田天功さんにも聞いたら、「あれは暗示だ」と教えてくれました。暗示にかかると人は10円玉だって曲げることができるんだ、と。その後、8年くらいかけてスプーン曲げを身につけました。いま、ライブでみんな一緒にスプーン曲げをやっています。できる人は、たくさんいますよ。 ――世の中で一番おもしろいのは不思議なこと、と語る。新しいマジックを考え、鍛錬を怠らない。  人の驚く顔を見るためにこの仕事をやってきたようなもの。子どものころに手品を見せたら、みんながびっくりして笑った。あんな瞬間をずっと追い続けたいのです。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日  2019年7月19日号
週刊朝日 2019/07/13 08:00
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渡辺豪 渡辺豪
虐待で子どもを死なせない大原則「48時間ルール」が守られない 札幌の2歳児衰弱事件でもなおざりにされた背景を検証
札幌市の女児衰弱死事件の現場。国は48時間を超えて子どもの安否確認ができない場合は立ち入り調査の実施を求めていたが、その検討もされていなかった (c)朝日新聞社 鳥取県内に三つある児童相談所の中核的機能を持つ中央児童相談所。今後もスーパーバイズ機能や市町村との連携強化などレベルアップを図るという(撮影/編集部・渡辺豪) 虐待による子どもの死亡事件で通告後に対面での確認を…(AERA 2019年7月15日号より)  児童虐待のサインは、今回も見逃された。札幌市の女児衰弱死事件で、虐待の通告を受けてから48時間以内に子どもの安全を対面で確認するという大原則がなおざりにされていた。どうしたら守られるのか。 *  *  *  札幌市で池田詩梨(ことり)ちゃん(2)が衰弱死し、母親と交際相手の男が保護責任者遺棄致死などの容疑で逮捕された事件で浮き彫りになったのは「48時間ルール」の機能不全だ。 「泣き声が普通じゃない」  札幌市児童相談所は4月に近隣住民から情報提供(通告)を受けた際、母子と会えず、原則48時間以内に子どもの安全を対面で確認するという基本ルールが守られていなかった。虐待対応の「入り口」が作動しないのはなぜか。  その要因を探る前に、48時間ルールの原点をたどろう。全国に先駆け、埼玉県が1999年に導入したきっかけは「不名誉なランキング」だった。  児相が虐待通告を受理しながら虐待死に至った事例が、埼玉県は97年度4件で全国ワースト──。埼玉新聞が99年3月に報じたこの記事が引き金となり、まもなく県内の児相所長が集まって自主的に「48時間ルール」を決めた。  99年11月に衆議院で開かれた「青少年問題に関する特別委員会」。参考人招致されたのは埼玉県中央児相の今井宏幸所長(当時)だ。ルール導入の動機を問われた今井所長は、よどみなくこう答えた。 「行政の遅延、不作為は怠慢だと考えました」  傍聴席には、「全国ワースト」の記事をスクープした当時の埼玉新聞記者でジャーナリストの小宮純一さん(61)もいた。小宮さんはペンを持つ手が震え、涙がこぼれたという。 「行政の不作為を内部の人間が認めるのは大変勇気がいること。今井所長の並々ならぬ気迫が伝わりました」  今井所長は後日、48時間ルールを提案した背景には、1人の部下の影響があったと明かした。その部下が、越谷児相副所長だった藤井東治さんだ。2004年8月にクモ膜下出血で亡くなった藤井さん(享年56)と生前親交のあった小宮さんには、亡くなる前の年の暮れに酒席を共にした記憶が焼き付いている。「48時間」の意味を問うと、藤井さんは訥々とこう語ったという。 「どんなに厳しい状況にあっても48時間は生き延びてくれ。そしたら必ず助けに行くからっていう、子どもとの約束なんだ」  厚生労働省は当初、児相の負担などを考慮し、「埼玉方式」を一事例として紹介するにとどめていたが、07年に児童相談所運営指針を改正し、全国的なルールとした。だが、このルールは努力目標にすぎない。運営指針は「48時間以内とすることが望ましい」との表現にとどめている。離島など限られた交通手段しか使えない地域や、該当世帯を特定できないケースもあるため、一概に強制できないからだ。  しかしだからといって、このルールの形骸化を見過ごすわけにはいかない。  厚労省によると、過去の虐待による死亡事件のうち、「通告時の目視による安全確認」を行わなかったケースは、13年度から16年度までの4年間で計20例に上る。虐待の可能性を把握しながら、虐待死を防げなかったのは札幌のケースに限らない。 ●命に関わる安全確認は、仕事の最優先事項だ  一方で、多くは48時間以内に安全が確認され、最悪の事態を未然に防いでいるのも事実だ。  約15年前の冬、首都圏でこんな「事件」が起きた。 「未就学の女児がいる母子家庭で母親が帰宅していない」  児相に寄せられた電話に応対したのは40代のベテラン職員だった。  ネグレクト(育児放棄)が疑われる通告は、虐待に直結するシグナルだ。すでに日が暮れかかっていた。一刻の猶予もない。とっさにそう判断した職員はすぐに、別の職員を伴って現場に駆けつけた。  8畳ほどのワンルーム。暗がりの室内で電気ストーブのオレンジの光が目に付いた。すぐ前にティッシュの箱が転がり、側面が焦げていた。女児は少し離れたベッドで寝入っていた。母親の帰宅を待たず女児を緊急保護した男性職員は当時をこう振り返る。 「安全確認があと数時間遅れれば、間違いなく火災が発生していたでしょう。女児が焼死してしまうリスクも高かったと思います」  このケースはたまたま職員がすぐに動ける状況だったため奏功した。現場では「即応」を基本に、常にフレキシブルな対応が求められている。 「救急車や消防車は通報後すぐに現場に駆けつけます。児相の安全確認もこれと同じ。48時間以内であればいい、というわけではありません」  児童福祉が専門の東京通信大学の才村純教授(70)はこう話し、子どもの命にかかわる48時間ルールの順守は「仕事の最優先事項」と位置づけられているかどうかの問題だと強調する。7月1日には仙台市で、2歳の長女を数日間、自宅に放置して死なせたとして、25歳の母親が逮捕された。このケースでは虐待の通告はなく、周囲は手を差し伸べることができなかった。せめて、虐待を疑わせる情報提供があるのなら子どもを死なせる事態は防ぎたい。その基本となる48時間ルールをめぐる認識が児相内部で共有されていないのはなぜか。 「担当者が多忙を極める日本の現状は異常です。疲弊のあまり、基本ルールを守る感覚すら麻痺してしまう可能性も否定できません」(才村教授) ●ルールを定着させるには、まずは職員が定着すること  全国の虐待通告件数は99年度は1万1千件余だったのが、17年度は13万3千件超にはね上がった。1人当たりの担当件数が20件前後の米国、英国、カナダなどと比べ、日本では100件を超えるケースも珍しくない。6月の記者会見で「職員1人当たり100以上の案件を抱えており、非常に厳しい」とうなだれた札幌市児相の高橋誠所長の姿も記憶に新しい。  児相の虐待対応は、子どもの安全確認で終わらない。親との面談が不可欠だが、たいてい日中は電話に出てもらえない。手紙を書いても返信がない。仕方なく夜間や休日に訪ねる。会うのにひと月かかることも。そうなると、時間外勤務は際限なく広がる。そんな中、「全ての通告に48時間以内の安全確認を」と号令をかけられても、「対応は不可能」との悲鳴も上がる。  政府は19~22年度の4年間で児童福祉司を現在の3千人から5千人体制にする対策を決めた。しかし、それで解決が図られるわけでもないという。 「新人がどっと入ってきて研修教育に追われ、虐待対応がおろそかになるようでは本末転倒です」(才村教授)  前述のように、48時間ルールは虐待対応の入り口にすぎない。場合によっては親子を引き離す「介入」も必要だ。その際、重要なのは専門的な知識や技術に加え、それぞれの職員が培ってきた勘や経験だと才村教授は言う。  例えば、親子が一緒にいる場合、子どもを見る親の目が鋭い、親がそばに寄ると子どもがおどおどする、といった「場の空気」を察知する能力も現場職員に求められる。こうした判断を迫られる虐待対応を任せるには「最低10年」の経験が必要とされる。  だが、全国の児童福祉司の45%は3年未満の勤務経験しかない。一般行政職の職員を数年で配置転換する自治体もあれば、激務のため専門職の若手が離職してしまうケースも絶えない。才村教授は言う。 「48時間ルールを定着させるには、まず職員が定着しないといけません。国は人材育成の長期ビジョンを描く必要があります」  一方、虐待対応の抜本的な改革が必要との指摘もある。前出の小宮さんはこんな思いを吐露する。 「もし今、藤井さんが生きていたら、『48時間ルールはもう古い』と言うのでは」  虐待通告が急増する中、画一的に「48時間以内」の厳守を求めるのは実効性のある対応とはいえなくなっている、というのだ。そもそも埼玉県が48時間ルールを導入した際も「時間を区切る」のが主眼で、48時間という数字に虐待対応のデータや医学的裏付けはなかった。小宮さんは言う。 「今求められているのは、通告窓口を一本化して内容を1件ずつ吟味し、対応の優先度を判断できる人材(スクリーナー)の配置と、円滑に担当機関へ振り分けるシステムの構築です」  課題は認識していても、予算や人員の確保がおぼつかないのが多くの自治体の本音だろう。そんな中、「48時間」よりも厳しい「24時間ルール」を設定している自治体がある。厚労省によると18年4月現在、群馬県、福井県、鳥取県、長崎県、堺市の5自治体。その一つ、鳥取県の事例を紹介したい。 「本県では児童相談所のレベルアップを図ってきており、国のルールでは48時間で対応するところを24時間にして、基本的にはこの範囲内で対応できています」  6月19日の鳥取県議会一般質問。児童虐待への対応を問われた平井伸治知事はこうアピールした。  00年度に県内で起きた児童虐待死事件などを契機に、初期対応の見直しを図ったという。ただ、鳥取県の場合、その以前から手厚い児童福祉政策を続けてきた伝統がある。 ●苦しい状況からの脱却、早いに越したことはない  昨年度までは、管轄区域の4万人に1人配置する国の基準を4人上回る19人の児童福祉司を配置。今年4月には、1人増員し計20人体制にした。22年度までに4万人から3万人に1人に見直す国の新たな配置基準に率先して対応した形だ。加えてこの20人は、社会福祉の専門職として採用された職員ばかりなので、専門性の蓄積や組織の意思統一も図りやすいという。県中央児童相談所の川本由美子所長(56)は言う。 「24時間だから翌日の何時までに確認すればいいみたいな感覚は、どの職員にもありません。その日のうちに、という使命感が体に染み付いています」  鳥取県内には三つの児相があり、地域との連携も強い。学校は午前中の通告を徹底。警察からの通告は、正式な書類が届く前に口頭で説明を受けた時点で対応する。とはいえ、24時間ルールを厳守していても、リスク判定を誤り、虐待死事件を防げなかったケースを過去に経験している。県の担当課長補佐の西村耕一さん(44)は、「24時間」を旗印に掲げ続ける意義をこう唱える。 「24時間ルールはあくまで一つのツールにすぎません。それでも、子どもの立場で考えれば、苦しい状況から回避できる機会は少しでも早いに越したことはありません」  虐待通告の年間対応件数が1万件を超える東京都や大阪府などの大都市圏と比べると、鳥取県は18年度422件(このうち虐待認定は80件)と圧倒的に少ない。  地域によって事情は大きく異なるが、子どもの命を守るため「一刻も早く」対応しなければならないのは共通の使命だ。児童虐待にはここまでやればいいという線引きはない。行政の優先順位をどこに置き、児童虐待にどう向き合うかが問われている。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2019年7月15日号
AERA 2019/07/11 11:30
「パタリロ」怪演でアンチゼロの加藤諒 個性派脱し実力派俳優に昇華
高梨歩 高梨歩
「パタリロ」怪演でアンチゼロの加藤諒 個性派脱し実力派俳優に昇華
変幻自在のキャラクター、加藤諒 (c)朝日新聞社  俳優の加藤諒(29)が主演を務める「劇場版 パタリロ!」が6月末から公開され、話題を呼んでいる。大ヒット映画「翔んで埼玉」の原作者でもある魔夜峰央の人気漫画を実写映画化した本作。独特の世界観で「実写化は難しい」と言われてきたが、魔夜が「彼なら!」と加藤に太鼓判を押しただけのことがあり、再現度の高い作品に仕上がったようだ。  実は2016年と18年の舞台でもパタリロ役を演じている加藤。人気漫画の実写化には賛否の声がつきものだが、彼が演じることに対して、否定的な声はほとんどが聞こえてこない。加藤本人も「アンチ的なコメントが全然なくて、本当に嬉しかった」(bizSPA!フレッシュ/6月30日付)と語っているほど。ときに辛辣な意見が飛び交うSNS上でも「加藤諒のパタリロは奇跡と言っていいほど適役」「ハマリ役すぎてウケる」など、その配役と演技に絶賛の声が相次いでいる。  そんな加藤だが、今年だけでドラマ7本、映画3本に出演している売れっ子だ。子役時代から変わらず活躍しているイメージだが、決して順風満帆ではなく、“暗黒時代”もあったという。 「加藤さんは『あっぱれさんま大先生』(フジテレビ)で芸能界デビューをし、トレードマークの太い眉毛と、子役としてはレアなオネエ口調キャラとして注目を浴びました。しかし、学生時代は、学業を優先させる方針の事務所だったことに加え、インパクトのあるキャラクターのせいか、なかなかオーディションに合格できず仕事がないことに悩んだ時期もあったそうです。それでも『今後もエンターテイメントの世界にいたい』という気持ちは強く、これまで知らなかった裏方の仕事を学び、その大変さを知る目的で多摩美術大学に進学をしたと語っています。ちなみに多摩美時代、アルバイトの面接も受けまくったそうですが、10社受けて10社落ちた経験もあるそうです」(テレビ情報誌の編集者)  先日、出演したトーク番組「ごごナマ」(NHK、6月18日放送)では、私生活での意外なミニマリストぶりを明かし、話題になった。  加藤は自身を「熱しやすく冷めやすい性格」だと語り、料理のマイブームが過ぎると、料理関係のものは不要と感じて調味料だけでなく、冷蔵庫や電子レンジまで捨ててしまったというのだ。これにはMCの船越栄一郎たちから「(冷蔵庫は)生活必需品でしょ?」「冷たい飲み物はどうするの?」などと突っ込みが入ったものの、「冷たいものはその場で飲み切る」と加藤節を炸裂させ、スタジオの笑いを誘っていた。またベッドの足が折れたことをきっかけに部屋の断捨離が始まり、今、部屋にはテレビ、DVDレコーダー、ヒーターしかなく、床にバスタオルを敷いて寝ていることを告白していた。 ■7月新ドラマでは瀬戸康史の先輩役に抜擢  一方で、元アイドルから“アプローチ”されているという意外なエピソードも。 「番組や映画などで共演している元AKB48の島崎遥香さんから何度も連絡先の交換をせがまれているのに絶対に教えないというエピソードもお互いのファンの間では有名です。これについて加藤さんは『いつも偶然携帯電話を持ってないときに連絡先を聞かれる』と弁明していましたが、もはや鉄板のネタになっているようです」(同)  ときに「変人キャラ」として注目を浴びることが多い加藤だが、仕事に対する姿勢はいたって真面目のようだ。一度、一緒に仕事をした人から、「もう一度仕事がしたいな」と思ってもらうには、実力はもちろん「人柄」も大切だと考えているそうで、どんなに忙しくても感じの悪い対応はしないよう心掛けているという(ライブドアNEWS/3月15日付)。小さなころから芸能界で仕事をしている彼だからこそ、感じることができる仕事への向き合い方こそが、ここまで愛されキャラとなった要因のひとつかもしれない。  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は加藤の魅力についてこう分析する。 「坊主頭に学ラン姿という強烈キャラを演じた、菜々緒主演のドラマ『主に泣いてます』(2012年)や、謎のヒーローに変身し小学校の教室でキレキレのダンスを披露するNHK Eテレの『で~きた』、そして犯罪者を専門に狙う窃盗団のリーダーを演じた映画『ギャングース』(2018年)など、演じる役の幅はとんでもなく多彩です。『個性派俳優』としてそのルックスにばかり目が向いてしまいますが、ジャンルのまったく異なる役を違和感なく演じ分けられる実力派俳優です。高校では声楽を専攻し、美大出身なので美しさや表現へのこだわりは相当強い。役に対しても自分の中で完璧に追究してから演技に臨んでいるのではないでしょうか。また7月クールの深田恭子主演の新ドラマ『ルパンの娘』(フジテレビ系)では、瀬戸康史演じる刑事の先輩として出演します。どんな演技を見せてくれるか非常に楽しみで、まだまだ底知れぬ可能性を秘めている若手俳優の一人だと言えるでしょう」  一度見たら忘れないインパクトや、笑い・寂しさ・狂気の演技力は20代俳優ではトップクラス。替えがいない唯一無二の強烈な個性と表現力で、これからも加藤の快進撃は続くことだろう。(高梨歩)
dot. 2019/07/09 17:00
氷川きよし “ビジュアル系”に挑戦したワケ
松岡かすみ 松岡かすみ
氷川きよし “ビジュアル系”に挑戦したワケ
氷川きよし [COVER STAFF:撮影/松永卓也(写真部)、スタイリング/伊藤典子(hoop)、ヘアメイク/藤原羊二、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO]  今年、デビュー20周年の節目を迎えた氷川きよし。演歌歌手として不動の地位を築く一方、最近ではビジュアル系の衣装とメイクでアニメソングを歌い話題を集めるなど、新境地を開拓中だ。演歌歌手という従来の枠にとらわれず、挑戦を続ける現在の氷川の思いに迫った。 *  *  * ──デビュー20周年を迎えた今の心境は。  この20年間、ファンの方々に喜んでいただけることを目指して、チームで一丸となってやってきました。今の自分があるのは、応援し続けてくれたファンの皆さんのおかげです。デビュー時は22歳だった自分も、今年9月で42歳。これからの氷川きよしを表現するにあたり、もっと音楽の幅を広げていきたい。 ──「ドラゴンボール超」(フジテレビ系)の主題歌(「限界突破×サバイバー」)を歌う姿など、最近では「ビジュアル系」と称されたり、新たな姿を見せています。  とにかくやりたいことが多いんです。「平成の股旅野郎」というキャッチフレーズでデビューし、これまでは「やだねったら、やだね」(箱根八里の半次郎)、「ズンドコ」(きよしのズンドコ節)とか、「演歌歌手」というカテゴリーの中に収まっていないといけないという空気感があったと思うんです。もちろんそれはありがたいことなんですけど、自分はそれにそぐうために頑張ってきたというのが正直なところです。デビュー当時は、右も左もわからず、周りは大人だらけで、プロデューサーやスタッフを信じてやってきました。一流の人たちに育ててもらい、守ってもらって、今の氷川きよしがあるんです。  デビュー20周年を迎えて、さらに飛躍を誓い、恩返ししていくためにも、これから自分ができること、やりたいことは何かと考えたときに、演歌を歌いながらも、いろんなジャンルの作品を歌っていきたい。僕自身はどこも目指してなくて、純粋に、自分が自然に表現したいと思えるものをやりたいと思ったんです。 ──具体的に、どんなことを表現していきたい?  今まではお客様に喜ばれるものを歌ってきて、ヒット曲にも恵まれましたが、これからは「人生を歌う」というテイストも入れたい。一曲、一曲、自分の人生を重ねながら歌っていきたいです。歌の世界に合った主人公を演じぬいて、ステージでその生きざまを見せられたら。一つの型にはまらない氷川きよしを見せられたらと思います。 ──“氷川きよしらしさ”として語られるお茶目な部分も含めて、これだけ三枚目がサマになる人も、他にいないと言われます。  ダサさ加減とか、可愛らしさ加減とか、天然っぽいところとか、どこか抜けていて、完璧じゃない未完成な感じとか……そういうものを全てひっくるめて氷川きよしらしさ。本当の自分は、もうちょっとセクシー系なんですけどね(笑)。 ──お茶の間でおなじみの氷川きよし像と、素顔の氷川さんとは全く違う?  うーん、氷川きよしもあり、素もありという感じですね。デビューするとき、プロデューサーから「馬鹿にされればされるほど、世間から顔と名前を覚えてもらえる」と言われたんです。デビュー曲で「箱根八里の半次郎」を歌うことになったときも、「きよしのズンドコ節」のときも、正直その世界観がよくわからなかった。だけど「茶髪にピアスの今どきの若者が、演歌? 股旅?となる。そのギャップが面白いんだ」と言われて、結果的にそれがヒット曲になりました。 ──3月には、新曲「大丈夫」と「最上の船頭」を両A面でリリースしました。 「大丈夫」は「ズンドコ節」と同じような匂いというか、昭和テイストでほっとする懐かしい感じの曲。氷川きよしテイストで、どこかちょっとコミカルで元気が出る歌です。歌は年代によって好みが分かれるのも面白いところ。70~80代になると「最上の船頭」のようなしっとりした演歌がいいという人が多いけど、40~60代は、「大丈夫」のテイストが好きという人が多いですね。 ──年齢を重ねるごとに変わってきた部分はある?  40代になってから、歌うことが純粋に楽しいと感じるようになりました。自分が思い描いたものが形になることの面白さというか、「こういうメッセージを込めたい」という自分のビジョンやイメージ、こだわりがあるので、それが実際に形になっていく過程がすごく楽しい。自分の感性をようやく信じられるようになってきたんです。「これでいいのかな?」という迷いがなくなってきた一方、「これでいいんだ」という確信が強まりました。 ──何か転換点はあったのですか?  去年開催した「氷川きよしスペシャルコンサート2018」(東京国際フォーラム)で、20周年に向けての一つのステップを踏めた気がします。演出や衣装まで、徹底的に自分の意見を詰め込んで、いろんなことをやらせてもらいました。オープニングから度肝を抜くような演出で、大きな羽を背負って、白い天使のようなイメージで「冬のペガサス」(18年)を歌いました。シャンソンを歌うときには、お客様がその世界にスッと入ってこれるように貴婦人っぽいイメージの服を着て、会場からどよめきが起きたり(笑)。長く応援してくださっている方々からはびっくりもされたんですけど、いろんな人から「すごく良かった」と言われて、本当に嬉しかった。「これも自分なんだ」と確信が持てたときに、人は喜んでくれるんだ、挑戦することの醍醐味ってこういうことなんだと思いました。これからは、手探りながらも、表現したいことを表現させてもらいたい。一つのカラーの中にとどまってたら、広がらないですから。 ──多忙な日々の中での息抜きは?  お料理ですね。仕事が終わって夜11時とかに帰っても、なんかやっぱり作るんですよ。無心になれるし、リセットできるから。一日中作っていても苦にならないんです。最近はピザを生地から作るのにハマってます。夜、急に思いついて小麦粉にイースト菌を入れてこねて、1日寝かせて、生地を麺棒でのばして……。ピザ用の“おソース”も自分で作ってあるんです。おソースを塗って、トマトをスライスして、チーズをかけて、オーブンで30分ぐらい焼いて食べるんですけど、おいしいですよね。やっぱり自分で一から作るのはすごく楽しい。めんどくさいけど、自分で作ったっていう手作り感がいいですよね。 ──これから「デビュー20周年記念コンサート」も控えています。  日本武道館で7月11、12日に、大阪城ホールで9月6日に20周年記念コンサートを開催します。満員のお客様に氷川きよしの20周年を見ていただきたい。これが最後と思うぐらいの意気込みで挑みたいと思います。 ──今後も、いろんな氷川さんが見られそうですね。  はい。自分は、演歌の枠を超えて、あくまで歌手で、アーティストでありたい。それを貫きとおすことが革命なのかなと思うし、冒険することで喜んでくれる人もいる。つらさや悲しさ、苦しさという思いを、歌によって喜びに変えられるというのは、歌い手として無上の喜び。一曲一曲、自分で主人公を演じて、いろんな色を表現できる歌い手になりたいです。 (取材・構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年7月12日号
週刊朝日 2019/07/08 08:00
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小長光哲郎 小長光哲郎 鮎川哲也 鮎川哲也
無理せず2週間で4キロ減! 55歳記者がダイエットで実践したこと
こんなあなたは内蔵脂肪過多かも(AERA 2019年7月8日号より) ダイエット中の食生活(AERA 2019年7月8日号より) 七つのアドバイス(AERA 2019年7月8日号より) 図=AERA 2019年7月8日号より(イラスト:土井ラブ平) 「やせてはいないが、太ってはいないはず」。そう思っていたら、実は内臓脂肪型肥満だったことが判明した。期間は2週間。無理はしたくない。だが、結果は出したい──。 *  *  * 「内臓脂肪を測ってみませんか」  6月初旬、アエラ編集部のデスクから声をかけられた。聞くと、内臓脂肪特集で実際にダイエットして内臓脂肪を減らしてくれる人を探しているらしい。 「基準値を超えてそうな人がいいんです」  つまり、太っているように見えたということか──。心外である。身長163センチ、体重はここ最近は量っていなかったが、60キロ台半ばくらいだろう。やせてはいないが、絶対にデブではない。家に体重計はないが、体脂肪を測定する機器はあり、自慢じゃないが体脂肪率は常に10%台前半をキープしている。 「期待に応えられないかもしれませんが」  そう伝え、とりあえず内臓脂肪を測定してみることにした。  6月11日、東京・浅草橋にある朝日生命成人病研究所附属医院に向かう。体重を量ると67.2キロ。ここ最近の暴飲暴食がたたったのか、史上最高値だ。続いて内臓脂肪量を調べる「ファットスキャン」を受ける。腹まわりの断面図を撮り、内臓脂肪の面積が100平方センチメートルを超えると「内臓脂肪型肥満」とされるらしい。前日にファットスキャンを受けたK記者は、53.7平方センチと言っていた。彼は細身だから、自分は80平方センチぐらいだろうか。  だが、結果は119.5平方センチ。基準値を超えている。診断結果にはこう書かれていた。 「あなたは、『内臓脂肪が多い』状態です。この状態で、高血糖・高血圧・脂質異常のうち二つ以上を合併している場合、『メタボリックシンドローム』と診断され、動脈硬化の危険性が高い状態と考え……」  実は、血圧はかなり高い。一時期、上は200を超え、医師からは「いつ死んでもおかしくない」と言われた。以来、降圧剤を飲み続けているが、これも内臓脂肪のせいだったのか……。  予想外の結果にショックを受けた。しかし、これで企画には挑戦できる。ダイエット開始だ。  期間は原稿締切日までの2週間。事前に、順天堂大学の小林弘幸医師から受けていたアドバイスをまとめたメモが、編集部から届いていた。 ●七つのアドバイス (1)朝起きたら水を一気飲み 水は胃を刺激し活性化させる。同時に水で胃が下がり、腸の運動を促す (2)毎朝体重を量る 今の体重を意識することができ、基準とする体重より重いか、軽いかで、その日の食事の量をコントロールできる (3)野菜など食物繊維があるものから食す ベジファーストで血糖値の上昇を抑える。汁物や大豆製品でもよい (4)5階までは階段を上がる 適度な負荷がある階段は、有酸素運動として最適。ジムに行かずとも、日常生活のなかでトレーニングができる (5)目標の体重になるためには一度集中する 期間を区切ることでモチベーションを保て、結果につながりやすい。ただし、リバウンドには注意が必要 (6)夕食は軽めに。とくに具だくさんの味噌汁はおすすめ 味噌は整腸効果が期待でき、栄養価が高いスーパーフード。そこに野菜などの具材を多く取り入れるとなお良い (7)夕食は21時までに済ませる 寝ている間に蓄積される脂肪を少なくできる。できれば遅くとも寝る3時間前までに夕食を済ませるのがいい  それほど大変ではないような気がする。これだけで結果を出せるのか心配になるほどだ。とりあえずは明日からのダイエットに備え、病院帰りにラーメンを食べて帰った。  ダイエット1日目、朝起きてまず水を飲む。水を飲むことで胃が刺激されて下がり、腸の活動が促されるらしい。これまで朝食を食べる習慣はなかったが、「バナナ1本でもいいので朝食を食べること」(小林医師)と言われ、朝食をとることに。腸内環境を整える食べものを取り入れるとさらにいいということで、ヨーグルトにハチミツをかけ、食物繊維が豊富なシリアルをプラスした。これにときどきバナナというのが、朝食の定番となった。  この日の昼はコンビニのサンドイッチで済ませたが、夜はしっかり自炊。豆腐のステーキ、トマトサラダ、納豆だ。ベジファーストを実践するため、サラダから食べる。タンパク質もたっぷり、納豆もついて腸内環境対策も万全だ。ただ、仕事から帰ってきて作ったため、21時過ぎの夕食となってしまった。  家に帰り、くつろいでいるとアルコールがほしくなる。それまではほぼ毎日、500ミリリットルのビール2缶とチューハイ1缶を飲むことを日課としていた。つまみにはコンビニのから揚げやサラダ。おなかいっぱいのほろ酔い気分で寝るのは至福の時間だった。  だが、やるからには結果を出したい。酒は適量なら問題ないともいうが、アルコールで食が進むのはたしか。この2週間は我慢しよう。代わりに内臓脂肪を減らす成分を含むというノンアルコールビールを飲む。それなりに満足できるから不思議だ。  2日目。体重を量ると、さっそく1キロ減っていた。幸先がいい。毎食腹7分目を守ったが、つらさはない。夕食は鶏肉のステーキときんぴらごぼう、そして納豆。仕事から帰った後に作ったため、やはり21時を過ぎてしまった。  ダイエット3日目、小林医師から直接アドバイスを受ける機会があった。この時点で、すでに体重は2キロ減、65キロになっていた。順調だ。 「いい感じに減量できていますね。身長を考えると理想体重は57~58キロでしょうが、60.5~61キロくらいで十分です。あまりに脂肪が少ないと、冬は寒いし、疲れやすくなりますから」  21時前に夕食をとるのが難しいことも、相談してみた。 「18時までに食事をして、改めて仕事をしてもいい。21時を過ぎるときには、控えめにしてください」  小林医師から強調されたのが、「頑張りすぎはよくない」ということ。ダイエットがストレスになり、逆効果になるそうだ。  そういえば数年前、ダイエットのために週に2~3回、約10キロ走っていた時期があった。効果が出なかったので毎日10キロ走ることにしたら膝を壊し、結局やめてしまったのだ。 「ジョギングを始めたり、ジムに通ったりする必要はないですよ。それよりも、階段を上るとか、ひと駅歩くなどして日常の行動をダイエットに結びつけた方がいい。頑張る必要なんてありません。ダイエットなんて簡単ですよ」  本当だろうか……。ともかく、体を動かすようにしよう。座ってばかりの仕事は明らかに体に悪い。ひと駅といわず、2、3駅先までは歩くと決めた。そして編集部がある7階までは、階段を使う。いつか息が切れなくなる日はくるのだろうか……。  池谷医院院長の池谷敏郎医師からのアドバイスも届いた。 「内臓脂肪はたまりやすいけど、減りやすい。119平方センチあるなら減らしがいがある。すぐに変化しますよ。食事が9割ですが、結果を出そうと量を減らしすぎると、筋肉もいっしょに落ちてしまいます。タンパク質を十分にとり、適度な有酸素運動をしてください」 「すぐに変化する」という言葉に励まされる。  6日目、仕事で外せない飲み会があり、ビールをジョッキ2杯飲む。つまみは野菜中心に、天ぷらも少々。炭水化物系は我慢した。翌朝、恐る恐る体重計に乗ったが、前日通りをキープ。  1週間もすると、ダイエット生活が定着し始めた。無理をしている気もしないし、とくにつらくもない。過酷なダイエットプログラムが組まれていたら、力尽きて続かなかったに違いない。小林医師の「ダイエットなんて簡単です」という言葉が実感できるようになった。そして体重は3キロ減。効果が表れ、楽しくなってきた。  一番驚いたのは、血圧の変化だ。降圧剤を飲んでも160程度だった血圧が、117まで下がっていたのだ。ここ数年、こんな数値は見たことがない。  効果が出ると、さらに結果を求めたくなった。1日8千歩を目標に、毎日歩いた。歩数計が3万歩になる日もあったほどだ。歩くだけでは物足りないので、朝夕に30回ずつ腹筋運動をすることにした。ただし、腹筋運動は内臓脂肪にはほとんど効果がないということを、後日知るのだが……。  2週間後、2度目のファットスキャンの日が来た。目標は100平方センチを切ることだ。 「見るからにやせましたね」  と放射線技師の先生がにこやかに言う。検査後待つこと10分。内臓脂肪量は「101.7平方センチ」──。  100は切れなかったが、15%も減少している。体重は63.3キロで約4キロ減。BMIは25.3から23.8へ。「肥満1度」から「普通体重」になった。  測定後、前出の朝日生命成人病研究所の春日雅人所長・院長に話を聞くことができた。まずは、ダイエット前の測定結果について。 「BMIが25.3で内臓脂肪が119.5平方センチもあるのは、典型的な隠れ肥満ですね」  春日所長・院長によると、夜遅くまで仕事をして、その後つまみをたくさん食べながらお酒を飲み、そのまま疲れて寝てしまうというのが、内臓脂肪を蓄積する典型的な生活パターンらしい。以前の自分に、あてはまることばかりだ。そして、2週間の成果についても見てもらう。 「2週間でこれは、すごいですよ。こうして結果が出ているので、血圧以外にも、血糖値、コレステロール値など、いろんな数値が改善している可能性が高いですね」  ただ、早く減量しすぎたことで、筋肉がやや落ちていることも指摘された。結果を出したくて少し頑張りすぎたところはある。次の段階に進むには、どうしたらよいか。 「重要なことはこの状態を半年ほど維持することです。それができたら、その時の体重から3~5%ほどを減らせればいい。内臓脂肪100平方センチを切ることを目標にしましょう。筋肉を維持しつつ、ゆっくり減量するのがのぞましいです」  鏡に映る姿を見ると、自分でもやせたことを実感できる。腹囲は90センチから80センチに。ベルトの穴が二つも内側に移動してしまった。  こうして身体が改善された今なら、自信をもって言える。 「ダイエットなんて簡単だ!」 (実践者・ライター鮎川哲也、編集部・小長光哲郎) ※AERA 2019年7月8日号
ダイエット
AERA 2019/07/07 11:30
「売り上げは1日5杯だけ…」 新宿のラーメン店がミシュランの星を獲得できた最大の理由
井手隊長 井手隊長
「売り上げは1日5杯だけ…」 新宿のラーメン店がミシュランの星を獲得できた最大の理由
「神田 勝本」の味玉清湯(しょうゆ)そばは一杯930円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介するこの連載。高級ホテルの総料理長からラーメン職人に転身して名店を作り上げた「勝本」の店主が愛する一杯は、ミシュランガイドの星を長年狙い続けた店主が紡ぐ、誰にも真似できない一杯だった。 ■ラーメン業界に激震 「醤油」「塩」「味噌」に次ぐ第4の“タレ”は…  京都全日空ホテル(現・ANAクラウンプラザホテル京都)の元総料理長・松村康史さん(59)はホテルの料理人としての36年のキャリアにピリオドを打ち、人生最後のステージにラーメンを選んだ。2015年3月に水道橋に「中華そば 勝本」をオープン。その後、「神田 勝本」(神保町)、「銀座 八五」(東銀座)を含む3店舗を展開し、連日行列の人気店となっている。だが、その道のりは決して平たんではなかった。 中華そば 勝本/東京都千代田区三崎町2-15-5 三崎町SSビル1F/11:00~22:30/日曜日定休/筆者撮影  フレンチで研鑽を積んだ松村さんが最初にぶつかったのが、スープの壁だった。美味しいブイヨンは作れたが、それではラーメンのスープとしては上品すぎる。600軒ものラーメン店を訪れて研究を重ねるなかで、ラーメンらしく仕上げるためには、フレンチにはない雑味やえぐみというワイルド感が必要だと気付く。試行錯誤の末、「中華そば 勝本」「神田 勝本」では、長年培ったフレンチの技法を封印することを決意。そこで生まれた旨味の深い調和がとれた上品な中華そばは、お客さんからの評判も良かった。  しかし、松村さんの考えるゴールはさらに先にあった。18年12月に東銀座にオープンした「銀座 八五」で松村さんは、“カエシ(タレ)”を使わないラーメンを作ってしまったのだ。これにラーメン業界は激震した。  ラーメンの基本的な作り方は、丼にカエシを入れ、そこにスープを注いで、麺と具を入れるというものだ。例えば、醤油ダレに鶏ガラや煮干などのスープを注げば醤油ラーメンができあがる。 中華そば 勝本の麺箱や自慢のお米(筆者撮影)  新店では新たなチャレンジをしたいと考えていた松村さんは、「醤油」「塩」「味噌」に次ぐ“第4のタレ”を作ろうと模索していた。だが、インパクトのある調味料はなかなか見つからない。失敗に向かおうとしていたそのとき、松村さんは思いついた。 「タレがなくても、ラーメンは作れるに違いない」  松村さんは味の決め手であるカエシ(タレ)を排除し、ダシの素材の味だけで勝負することを目指した。 「銀座 八五」の味玉中華そばは一杯950円だ(筆者撮影)  ラーメンにタレを入れる文化は、カエシとだしを合わせた日本蕎麦の「そばつゆ」の製法を応用したもので、そもそも西洋料理にはタレを使うという感覚がない。松村さんはホテル時代の技術を生かし、名古屋コーチンと鴨をメインに、昆布、椎茸、イタヤ貝、ドライトマトなど様々な食材の味を重ね、旨味を膨らませていく。スープに塩味を加える際には、中華の上湯(シャンタン)スープの技法を応用して、生ハムのダシで味を調えた。あくまで主役はスープであり、その旨味と風味を邪魔しないよう、具材も最低限の味付けにしている。チャーシューの上にはペッパーキャビアを振りかけた。 「八五」のラーメンを初めて食べた時の衝撃は忘れられない。さらに、何度食べても同じ感動があるからすごい。ホテルの総料理長から転身し、「ラーメンらしさとは何か」を追い続けてきた松村さんが、ホテル時代の技術を使い、あえてラーメンの定義を覆す一杯に挑戦した。それは今まで誰も食べたことのないラーメンで、たちまち話題となり連日大行列を作っている。今年の「TRYラーメン大賞」などの賞レースにも間違いなく顔を出してくるラーメンであろう。 中華そば 銀座 八五/東京都中央区銀座3-14-2 第一はなぶさビル1F/11:00~15:00(L.O.14:30)、17:00~21:00(120食ほどのスープ無くなり次第、営業終了)/定休日は水曜、第2・4木曜(筆者撮影)  今やラーメンは日本が世界に誇る国民食だが、その一方で後継ぎがなく、のれんを下ろす名店もある。今後は、ラーメンの地位向上を目指していきたいと松村さんは言う。 「“料理人”としてのラーメン職人がもっと現れてほしいと思うし、家族に誇れる職業にしたい。我々が出しているラーメンがどんどん美味しくなれば、自ずとそうなっていくんじゃないかなと思います」(松村さん)  来年は東京オリンピック・パラリンピックもあり、さらに多くの外国人観光客が日本を訪れることが予想される。日本のラーメンを広く伝えるチャンスだ。松村さんは「まずはラーメンを食べてほしい」と意気込みながら、今日もラーメンを作り続ける。  そんな松村さんの愛する一杯は、「八五」オープンのきっかけにもなった新宿のラーメンだ。 ■1日5食しか売れない“閑古鳥”ラーメン店がミシュラン一つ星を獲得! SOBAHOUSE 金色不如帰/東京都新宿区新宿2-4-1 第22宮庭マンション1F 105/月~金11:00~15:00、18:30~22:00、※昼夜共に材料切れ次第終了/土曜・日曜定休(臨時休業はTwitter:@ptwgqjbfwgjwで要確認)/筆者撮影  18年11月、東京都新宿区の路地裏にある一つのラーメン店が「ミシュランガイド東京2019」の「一つ星」を獲得した。「SOBAHOUSE 金色不如帰(こんじきほととぎす)」である。3種の素材を生かしたトリプルスープが特徴で、「そば(醤油)」は豚骨と蛤と乾物系、「真鯛と蛤の塩そば」は真鯛と蛤と乾物系を合わせている。それぞれのスープに浮かんでいる3種の特製ソースを溶かして味を変化させながら楽しめるラーメンだ。  店主の山本敦之さん(45)は高校を卒業後、建築関係の仕事に就いた。元々ラーメンが好きで、「永福町大勝軒」(杉並区)や「ちばき屋」(江戸川区)などによく食べに行っていた。ある日、店主がラーメンを振る舞う姿を見て、ラーメンを作るという仕事の魅力に気付く。自分が心を込めて作ったラーメンをお客さんが美味しそうに食べて笑顔で帰ってくれる――。素晴らしい職業だと感じた。  自分の進むべき道はラーメンだと感じた山本さんは、26歳だった00年10月、修行生として「永福町大勝軒」に入店。店主に会いに行っては何度も断られ、7回にわたる面接を経てのことだった。厳しい現場で必死に修行を続け、丸1日休んだ日は正月のたった1日だけだったと振り返る。 「SOBAHOUSE 金色不如帰」の店主の山本敦之さん(筆者撮影)  いつかは自分のお店を持ちたいと自宅でもラーメンの研究に励み、理想の味を追求していった。通常、「永福町大勝軒」では5年で修業生を終えるところ、卒業を前に4年半で退職。独立に向けて動き始めた。  物件探しの末、06年1月に幡ヶ谷に「SOBAHOUSE 不如帰」をオープンさせる。テーマは「蛤を使ったオンリーワンのラーメン」。やるからには誰も作ったことのない新しいラーメンで勝負したかった。とにかく1番になりたかったのだ。  しかし、開店から2年間は閑古鳥が鳴き続けた。1日に5食しか売れない日もあり、家財道具を売り払って何とか家計をやりくりする日々。山本さんが描いた「オンリーワン」は、お客さんに受け入れてもらえなかったのだ。 「いくら自分が美味しいと思っても、お客さんに伝わらない味では仕方がない。それは分かっても、自分の味がお客さんに理解してもらえない状況はとても苦しかったです」(山本さん)  他では食べたことのない、山本さんならではのラーメン。だが、新しすぎるからか受け入れてもらえない。もっとわかりやすく、美味しいスープを作り上げるべく試行錯誤の日々が始まった。最初の2年間は思うように結果が出ず、開店3年目にしてようやく一日40杯ほどを売り上げるようになった。だが、それでもお店として採算は取れない。 「金色不如帰」の真鯛と蛤の塩そばは一杯900円(筆者撮影)  全国からあらゆる食材を取り寄せ、蛤のスープと合わせてみる。ただ寸胴の中で合わせるのではなく、スープを別々にとってから、後で合わせるダブルスープ方式、さらには3種類のスープを別々にとって合わせるトリプルスープ方式まで試した。何度も調整を重ね、山本さんのラーメンは完成した。当時、蛤に豚と乾物系を合わせたスープは他になく、トリプルスープの手法をラーメンで取り入れたのも初めてだった。独立5年目にして、ようやく一つの手ごたえを感じた。  14年10月には、さらに磨きをかけて「金の不如帰」になりたいという思いから、店名を「SOBAHOUSE 金色不如帰」に変えた。この年には「ミシュランガイド東京2015」にラーメン部門が新設され、「金色不如帰」はビブグルマンを獲得する。 「ビブグルマン」はミシュランガイドの指標の一つで、東京の場合、5000円以下で食事ができるコストパフォーマンスの高い店に与えられる。  ミシュランガイドにラーメン部門ができる前から、山本さんはミシュランを意識していた。「いつかはガイド誌で評価されるラーメンを作りたい」という思いで、自身のラーメンをブラッシュアップさせていたのだ。 「金色不如帰」の真鯛と蛤の塩そば  ビブグルマンを獲ってからは“星”の獲得をひたすらに目指した。ラーメン好きのお客さんだけでなく、食のプロをも唸らせる一杯を作らなくては――。こうしてさらなる改良を続け、蛤のダシを前面に出しつつも、食材の旨味やダシ感を5段階で感じられるような仕掛けを施した。  しかし、ビブグルマンは獲得できるものの、ミシュランの星は遠かった。15年には巣鴨の「Japanese Soba Noodles 蔦」、16年には大塚の「創作麺工房 鳴龍」が一つ星を獲得。自分のラーメンには何が足りないのか、自問自答する日々が続いた。  その答えは“麺”だった。スープや具材は他の誰にも真似できないものを作り上げている自負はあったが、場所の関係もあり、製麺所にオーダー麺をお願いしていたのだ。  自家製麺を取り入れれば、天候や湿度などに合わせて麺を打てる上に、原価を下げることもできる。その分、スープもブラッシュアップできると考えた。ミシュランの星に向けての最後の課題は自家製麺だ。山本さんの心は決まった。18年5月に幡ヶ谷のお店を閉め、新宿御苑前に移転する。製麺のために広いスペースを確保し、スタッフの休憩場所も作った。 ついにミシュラン一つ星を獲得(筆者撮影)  念願の自家製麺を使って作るラーメンは、素晴らしいものだった。北海道の小麦「春よ恋」を中心に国産小麦をブレンドした中細ストレートの自家製麺はしなやかで、喉越しも良い。山本さんの求めていたものを全て結集させた、まさにオンリーワンな一杯が完成した。こうして「金色不如帰」は満を持して待望のミシュラン一つ星を獲得した。  ミシュランの星は、ただ狙うだけで獲れるものではない。誰もやっていないことを追求し、具現化してきた山本さんの13年という長い道のりが、ミシュランの星という形で評価されたのだ。「ミシュランガイド2019」で一つ星を獲ったラーメン店は、同店を含めて3店舗だけである。 「勝本」の松村さんは、「八五」のオープンのきっかけの一つとして「金色不如帰」の名前を挙げる。 「今までラーメンに使われたことのない食材にチャレンジし、ラーメンの枠を広げた功績がすごいと思います。蛤にインカベリー、ポルチーニ、(イベリコ豚の)ベジョータを合わせるなんて誰が考え付くでしょう。それぞれの食材の旨味だけではなく、複合的な旨味、そして丼の中の味の変化まで演出しています。まさに世界に通用する一杯ですね。私が『八五』で他にないラーメンを作ろうと立ち上がるきっかけを与えてくれました」(松村さん)  山本さんも松村さんの腕を高く評価する。 「安易に高級食材をうたったり、色気を出してわざわざ新しいものを作ろうとするお店が多い中、『八五』のラーメンは美味しいものを追求した結果新しいものができた、という感じがします。自分のラーメンもそうですが、こういった旨味の組み立て方はゼロから作ってきた人にしかわからないものです。松村さんのラーメン作りの技術を後進の皆さんにも伝えていってほしいと思います」(山本さん)  他にない新たなラーメンで、世界を相手に戦う二人。成長し続けるラーメン界の最先端に彼らがいることは、間違いない。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2019/07/07 11:30
“殺されない”老人ホームの見分け方7カ条
“殺されない”老人ホームの見分け方7カ条
今年3月、入所者への暴行容疑で職員が岐阜県警に逮捕された岐阜県内の特別養護老人ホーム (c)朝日新聞社 “殺されない”ための注意7カ条 (週刊朝日2019年7月12日号より)   いまや老人ホームでは、入所者への虐待のみならず、“殺人”にまで発展するケースが見られるようになった。常勤医不在の4カ月の間に入所者11人が死亡するという、ずさんな施設があることも明るみに出た。“殺されない”ための老人ホームの見分け方について、専門家の声を紹介する。  惨劇を防ぐための独自の取り組みも始まっている。 「訪問する日時は一切、前もって伝えず、抜き打ちで調査を行います」  こう話すのは、公益財団法人「Uビジョン研究所」の本間郁子理事長だ。同研究所では、施設サービスの質の確保と向上を目指し、主に「施設評価」を実施している。評価するのは、夜間の抜き打ち観察など17の項目。最終審査を経て、報告書が作成される。  ある施設を本間理事長が抜き打ち調査したときのエピソードが印象的だ。 「抜き打ち調査ですから、柱の陰からそっと職員の会話にも耳をそばだてます。ある施設で、入居者が粗相して床を汚物で汚してしまったのですが、入居者が『私、やっちゃった……』と自分を責めるような言い方をしたのです。すると職員はこう優しく言いました。『失敗ではありませんよ。それより寒くないですか』。自然に入居者のことを気遣うことができる、素晴らしい職員だと好印象を持ったことは言うまでもありません」  施設の経営者、職員など施設に関わる全ての人からヒアリングも行うという。 「介護の仕事は営利主義ではできません。いかに入居者に、つまり人に誠実に関わっているか。うれしかったり、悲しかったりということはデータではなかなか推し量れません。直接我々、第三者の目がとても重要になってきます」  昨今の高齢者ホームでの虐待事件について、本間理事長は構造的な問題だと指摘する。 「20代の職員が80代の入居者とコミュニケーションを図るのはやはり難易度が高い。そこで大事なのは介護職員の教育の重要性です」  Uビジョン研究所でも一般職員・役職者用と立場に応じた研修プログラムを実施している。高齢者虐待防止法の意味を読み解いたり、グループワークで課題を洗い出したりして、当事者意識を強くしてもらうことを心掛けているという。 「特養ホームの運営資金は50%が税金、40%が介護保険、そして自己負担が10%で賄われています。つまり公的資金が9割を占めている。行政が質を担保する義務があるのです。誰がどのように介護サービスの質を担保していくかということが今改めて問われています」(本間理事長)  ちなみに施設評価は、施設の人数に応じた料金プランとなっている。  満を持して施設に入居したものの、“殺されて”しまっては元も子もない。“殺されない”ためのポイントは何か。  淑徳大学の結城教授によると、確実にチェックすべき点は次の4つに絞られるという。 (1)地域住民との交流 (2)職員の離職率 (3)看護が24時間体制か (4)建物の豪華さに惑わされない (1)ではボランティアなど地域住民との交流が活発な施設は、あらゆることをオープンにしても良いという姿勢を持つ施設と判断できるという。閉鎖的な施設では目が届かず、職員による虐待が生まれやすい。職員も良い意味で見られているという緊張感を常に持つ。 (2)では、質の高い施設は離職率も低く、労働環境が良いと推察できる。見学の際に離職率を尋ねたときの反応からも読み解くことが可能だという。 「しっかり離職率を開示する施設は合格。逆に隠そうとしたり、口ごもったりしたりする施設は要注意です」(結城教授) (3)では、看護師が24時間在勤している施設は少ないが、すぐに誰かが駆けつけてくれるかなど、在勤していなくても緊急時の体制がしっかりとしているかどうかを確認するべきだという。 (4)は文字通り、「羊頭狗肉」(見かけが立派で実物は違う)に注意すべきということである。  外岡弁護士は、二つの点に着目すべきと指摘する。 (1)「小規模多機能型居宅介護」の活用 (2)施設経営者の経歴や理念 (1)は介護保険における地域密着型サービス。利用者は事業所に登録して、事業所のケアマネジャーと相談しながら「通い」「泊まり」「訪問介護」の3つのサービスを用途に応じて受けることができる。定員も29人と小規模で、外岡弁護士の親族も利用していたという。 「厚労省は特養などの老人ホームを増やそうとしているが、個々のライフスタイルにより適しているのが小規模多機能型。地方に多く都市部に少ない。ひとつの事業所で3つのサービスが利用できるのが強み」 (2)について、外岡弁護士はこう言う。 「施設の代表の経歴、介護についての考え方をホームページなどでしっかり確認すること。そもそもなぜ介護の仕事を志したのか。施設運営が営利主義に傾くと虐待などが生まれやすくなる。福祉の理念を持っている人かどうかが見分けるポイント」  Uビジョン研究所の本間理事長はこう主張する。 「介護人材不足はますます進んでいくでしょう。施設に入ると、人材難で集まってきた不適格な担当者によって命まで奪われてしまう。そのためには施設に頼りすぎず、在宅での介護をぎりぎりまで続けることが大事」  これから老人ホームを選ぶ際に最も必要なことは、受け身で待つのではなく、モノを買うのと同じように主体的に自分の目線で選ぶことなのかもしれない。(本誌・羽富宏文) 【“殺されない”ための注意7カ条】 (1)地域住民との交流 (2)職員の離職率 (3)看護が24時間体制か (4)建物の豪華さに惑わされない (5)「小規模多機能型居宅介護」の活用 (6)施設経営者の経歴や理念 (7)ぎりぎりまで在宅介護を (専門家への取材をもとに編集部作成) ※週刊朝日  2019年7月12日号より抜粋
シニア介護を考える
週刊朝日 2019/07/05 07:00
鈴木涼美×峰なゆか、世の男たちに物申す!? J-WAVE番組『BKBK』公開収録トークイベント
鈴木涼美×峰なゆか、世の男たちに物申す!? J-WAVE番組『BKBK』公開収録トークイベント
 下北沢の「本屋B&B」で6月27日、トークイベント「クズ男がそんなことで許されると思うなよ~J-WAVE『BKBK』公開収録トークイベント」が開催されました。イベント名にある通り、J-WAVE、火曜深夜26時30分からの番組『BKBK』の公開収録も兼ねたトークイベントです。  同イベントは、6月5日に発売となった『女がそんなことで喜ぶと思うなよ~愚男愚女愛憎世間今昔絵巻』(集英社)の刊行記念として行われました。同書は、セクシー女優としても活躍した文筆家の鈴木涼美さんによる「現代男女世相論」。恋愛、結婚、不倫、ハラスメント、フェミニズムなどの切り口から、女性視点よるさまざまな「男女」が語られています。  イベント当日は、J-WAVE番組『BKBK』のナビゲーターを務める(下写真左から)原カントくんと大倉眞一郎さん、そして同書著者の鈴木涼美さん、同書イラストを手がけた峰なゆかさんが登壇。本書についてはもちろん、「男女」に関するさまざまなエピソードが惜しげも無く飛び交いました。  最初に話題となったのが、「クズ男がそんなことで許されると思うなよ」という今回のイベント名。名付けたのは鈴木さんで、「原さんの顔を思い浮かべてパッと出てきました」と解説。なんでも「原さんは、究極的に女に対する愛情がない人」なのだそうで、どうやら原さんに対して「遊びまくっている男」としての認識を鈴木さんは持っているようです。イベント冒頭からこのような発言が飛び、参加者もハラハラしながら見守ることに。一体どんなことが暴露されるのか、そしてどんなイベントになるのでしょうか......。  続いて話題は「本を書いたきっかけ」へ。鈴木さんは「もともとはSNS上で、私が30代になった途端に、おじさんとかが『女は30代が最高だよ』なんて言い出したんです。でもその人たちって、私が20代のときに本気で口説きに来て、しかもフラれているわけ。30代になったからっていけると思うなよ。30代なめんなよ。腹たつなと思って。私が(友人たちと)リアルな場で言っている悪口みたいなことを文字起こししようと思って書きました」と笑いを交えながら話します。  また本書では、60歳を超える鈴木さんのお父さんが「30代の女が良い」と発言したエピソードが紹介されていますが、これがイベントでも話題に。著者の鈴木さんは「(お父さんが)さすがに50代の女性はちょっと......と言っているんですが、60代の人が50代に対してその発言ってまったく納得できない」と怒り混じりに言及。これに対し、今年62歳を迎える大倉さんも「まったく納得できない」と同意しながらも、「何かあるかもしれない。想像はしてしまう」と意見すると、鈴木さんは「男の人って往生際が悪いし、おめでたい」とばっさり。鈴木さんの歯に衣着せぬ物言いに会場からは笑いが巻き起こります。  この日、一番の盛り上がりを見せた話題は「結婚」についてでした。まず話を振られた、現在34歳の峰さんは「今は(結婚したいとは)思わない。今すぐ死にそうな金持ちの老人とかだったら結婚したい(笑)」と発言。会場からは驚きの声も。  そんななか、鈴木さんから原さんに「どんな女性を選ぶか」という質問が。原さんは「後々ややこしくなりそうな人はちょっと......。そもそも結婚願望が今のところないんですよ。その子の人生もあるし、うかつなことはできない......」としどろもどろに返答すると、鈴木さんから「うかつなことをしてますよ!」と意味深な発言が(!)。鈴木さんは原さんのことをどこまで知っているのでしょうか......。  原さんの発言を受け、鈴木さんはさらに持論を展開。「この本にも書いたんですが、善人で、仕事ができて、ものすごく結婚を焦る必要もないけれど、ほんわかと結婚願望があるみたいな女性って、男の人から『この子は大丈夫だろう』と思われて遊ばれるんですよ。常識もあるし、今まで社会で揉まれているから、『結婚してよ』って迫らない。迫らないから良い女って思われる。だから遊ばれる。実際はギャーギャー迫る女の方が強いんですよ」  「逆にギャーギャー騒ぐくらいしないと......。本か何かで『就活や受験戦争と同じように婚活を勝ち抜かないと、結婚できない』みたいなことを見たんですが、確かにそう思います。男の人の夢って、ある種、一人の女性に縛られないで、何の責任も負うこともない状態。でもみんなそこまでの自信はないし、それなりの罪悪感が普通の人の心にはあるから、そういう風にはならない。そういう状況にいる男の人に対して『結婚もいいかも』って思わせることって、善人の女性にはできないと思うんですよ」(鈴木さん)  鈴木さんの考えに峰さんも同意。「私もギャーギャー言ったもの勝ちっていうのは思っていて。年収3000万円の男性に会うと必ず『奥さんと結婚した決め手って何ですか』って聞くようにしているんですが、一番多かった答えが『結婚してしてって言われたから』だったんです」と峰さん。鈴木さんも「周りから固められたとか、プロポーズせざるを得ない状況を作られたとか」と補足します。さらに峰さんは「断る方が面倒くさいみたいな。そもそも結婚したくない男は、結婚すると縛られて面倒くさいと思っているので、それをさらに上回る面倒くささを作り出せばいいんですよ」と話していました。二人の意見に納得した参加者も多かったのではないでしょうか。  この日は、最後まで鈴木さんと峰さんによるトークを中心に盛り上がりを見せました。イベントではほかにも「彼女がいて浮気しまくっている男性と、好きとは言うけど付き合わずに遊ぶ男性はどちらが誠実か」や、不倫と浮気についてなどさまざまな議論が繰り広げられました。一部(いや、一部どころではない?)放送禁止に限りなく近いトーク内容もありましたが、番組は無事オンエアされるのでしょうか。気になる方はぜひ『BKBK』の放送をチェックしてみてください。また、鈴木さん著、峰さんイラストの著書『女がそんなことで喜ぶと思うなよ~愚男愚女愛憎世間今昔絵巻』も気になった方はぜひ手に取ってみてください。 【番組情報】 81.3FM J-WAVE『BKBK』 放送日時:毎週火曜 26時30分−27時 オフィシャルサイト:https://www.j-wave.co.jp/original/bkbk/
BOOKSTAND 2019/07/01 18:00
森永卓郎の珍品博物館「B宝館」が危機!? 「そろそろ限界が近づいている」のワケ
森永卓郎の珍品博物館「B宝館」が危機!? 「そろそろ限界が近づいている」のワケ
森永卓郎さんが館長を務める「B宝館」。収蔵品は12万点に増えたが、「そろそろ限界が近づいている」と森永さん(撮影/高井正彦)  社会に出て二十余年。脇目も振らず仕事に邁進してきたツケで体はボロボロ、いつまでも元気だとタカを括っていた親は見る間に衰え、会話も噛み合わなくなってきた──。  齢50の声を聞く頃になれば、誰しもがこんなふうに身につまされる「老い」と自らの来し方行く末。何を残し、何を片付けるのか。百人なら百通りのやり方が、そこにあるはずだ。だからこそ若い時分に見つめ直したいことがある。 「コレクションに関しては、きちんと保管していただけるのであれば無償でお譲りしますと全国の自治体に呼びかけていて、実際にいくつかの役所の担当者が動いてくれたことはありました。ただし、移転費用に加え1年に維持経費が数百万円かかることから、議会を通らないと難しい、というのが現状ですね」  自らが子どもの頃から集めたミニカーやお菓子の付録のおもちゃなど約10万点を展示する「B宝館」を開設して5年。経済アナリストの森永卓郎さん(61)の収蔵品はさらに増え、今や12万点に達した。次から次へと“難民”を受け入れているからだ。 「コレクションを維持できずに、捨てるに捨てられず相談しにくる人が絶えません。基本的にB宝館にないもので展示可能なものは引き取ってはいるのですが、毎月のように寄贈があってすごい勢いで増えているのでそろそろ限界が近づいています」  しかし、地方自治体はどこも財政難で前述のような状況。太陽光発電所をつくったので、B宝館の赤字は、ある程度穴埋めできている。 「私が今死んじゃっても20年間は運営を継続できるぐらいの収入はあるけど、その先はどうなるかわかりません」  人生の“整理”を考えはじめた森永さんだが、実は「死」を意識せざるを得ないほど、一時期、体調が悪化していた。主治医に「余命1年」「3カ月以内に失明」と宣告されるほどの深刻な糖尿病に悩まされていたのだ。  そもそも森永さんを不健康にしていたのは多忙ゆえの極端な睡眠不足と暴飲暴食だった。頼まれた仕事を断らない性格の森永さんは、『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)を著した2003年ごろから仕事が飛躍的に増え、最大でラジオとテレビのレギュラー番組17本、新聞や雑誌などの連載36本を抱え、さらに06年からは獨協大学経済学部の教授も務めるようになった。この仕事量をこなすため、午前2時に起床して深夜0時に就寝するまで働き続けた。 「朝起きた瞬間からカツ丼食べて、コーラの1.5リットルのペットボトルを一気飲みするような毎日でした。1日平均6500キロカロリーぐらい摂取していましたね」  その後、トレーニングジム「ライザップ」のCMキャラクターになり、3年前に20キロの減量に成功。体重70キロを切って以来、体形も変わらず健康を維持している。  そんな森永さんの人生観を変えたもう一つの出来事が、11年の東日本大震災だった。 「震災の直後に親父が亡くなって、なぜだか通帳が一冊も見つからない。母はその6年ぐらい前に亡くなっていたし、誰に聞いても父名義の預金が全くわからずにすごく苦労しました。たまたま震災が起こって仕事が軒並みキャンセルになり8カ月間ぐらい時間ができた。そこで徹底的に調べてリストを作り、支店ごとに照会をかけて割り出していきました。全部見つかったかどうかはわかりませんが、仕事がキャンセルにならなければ一つもわからなかったかもしれない。それで痛い目を見たので、私たち夫婦同士は口座のリストだけは作ってお互いで持ち合うようにはしています」  50代で整理しなければならないことに気づけたことで、心に少し、余裕ができたと話す。  親との関係で自らの人生を見つめ直す機会は、40~50代を境に増していく。親の生前整理に時間を取られて、自身の生活に大きく影響が出てしまうことも珍しくない。親世代が示した人生の片付けの難しさは、翻って若いうちにどれだけこなすかがカギにもなることを教えている。(編集部・大平誠) ※AERA 2019年7月1日号より抜粋
AERA 2019/06/28 07:00
映画「天気の子」で主人公とヒロインを演じた2人が日本気象協会で天気に触れる
映画「天気の子」で主人公とヒロインを演じた2人が日本気象協会で天気に触れる
「天気の子」醍醐虎汰朗&森七菜が、気象予報士のお仕事体験! その1 2019年7月19日に公開されるアニメ映画『天気の子』。新海誠監督の最新作ということもあり、大きな話題になっています。天気といえば日本気象協会──ということで、主人公とヒロインの声を務める2人が来訪、天気予報の現場見学や気象キャスターのお仕事などを体験しました。映画と現実両方の「天気」に触れてどんな思いを抱いたか、これから6回にわたって密着レポートをお届けします。日本気象協会へ来社された、森嶋帆高役の醍醐虎汰朗さん(右)と天野陽菜役の森七菜さん(中央) 空を晴れにできる少女と家出少年の物語 あの『君の名は。』から3年。新海誠監督が新作映画に選んだテーマは「天気」でした。家出して東京へやってきた高校生・森嶋帆高(もりしまほだか)と、祈るだけで空を晴れにできる不思議な力を持った少女・天野陽菜(あまのひな)。天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄されながらも自分たちの生き方を選択しようとする少年少女の姿を描きます。前作に引き続きRADWIMPSが音楽を担当することもあり、製作発表されたときからさまざまなニュースメディアで採り上げられてきました。 この「天気」と深く関わっているのが日本気象協会。そんなつながりから、声を務めた2人──森嶋帆高役の醍醐虎汰朗(だいごこたろう)さん、天野陽菜役の森七菜(もりなな)さん──の日本気象協会訪問が実現したのです。実際の気象情報を発信している現場も体験してもらい、どんな感想を持ったかを聞いてみたい……と案内役として待ち受けたのは、気象予報士でテレビの気象キャスターも務めている奈良岡希実子(ならおかきみこ)さん。天気のプロと新進気鋭の若手俳優がどんなコラボレーションを見せてくれるのか、とても楽しみです。 東京・池袋のサンシャイン60にある日本気象協会のエントランスから、スタートしました。 280万人のフォロワーに天気予報を発信 奈良岡さんが醍醐さん・森さんをまず案内したのが予測・解説部門が在席する広いフロア。ここは24時間体制で動いていて、平日の日中は約30人の気象予報士が天候の予測や解説業務を行っています。夜通し眠らない体制に感動した2人の視線は、やがてフロアの窓際に吸い寄せられました。 「うわぁ、すごい眺め」「あ、あれは新宿の空!」と歓声を上げます。それもそのはず、ここはビルの54階。東京全体が見渡せるのです。新宿の空に目を留めたのは、映画で新宿上空の景色がとても印象的に描かれているから。まるで映画のワンシーンのような光景が窓の向こうに広がっていたのでした。予測・解説部門のフロアの様子 「じゃあそろそろこちらへ」と奈良岡さんは2人をとあるデスクへ案内します。そこは、日本気象協会が運営する天気予報専門メディア「tenki.jp」で、気象予報士が日々の気象情報の解説をお届けする人気コンテンツ『日直予報士』を発信している現場でした。日直予報士はtenki.jpのTwitterアカウントでも日々ツイートされています。 「フォロワーって何人くらい?」という森さんに「280万人」と奈良岡さん。「では、今から記事の配信ツイートをやってみますか?」と振られた森さんは、「280万人にですか……」とやや不安そうです。それでも、「明日天気になーれ」とかわいく言いながら送信ボタンをポチッとクリック。280万人のフォロワーさんは、その配信記事の「中の人」が森七菜さんだったことは知るよしもない、でしょうね。 森さんが送信したツイートがこちら醍醐さんと森さんが日直予報士を配信しているデスクへ到着 森さんが日直予報士の記事配信ツイートの送信ボタンをクリック 天気図を操作、トレインチャンネルに驚き さて、予測・解説部門での「中の人」体験はもうひとつ。 「これ、何に見えますか」と奈良岡さん。「よく見るやつですね」と醍醐さん。 そう、新聞に掲載する天気図を制作しているところです。「ちょっと修正してみてください」という声に、醍醐さんは不安そうに「低気圧」の文字や前線記号を動かしてみます。「上手ですね」と褒められると「新聞に載るんですよね」とまんざらでもなさそうでした。 手作業だった天気図制作も今は9割がた自動処理で出力されます。それでも最後は人間の手で微調整する必要があると聞き、森さんも感慨深げでした。醍醐さんと森さんが天気図を作成する様子を興味深げに見学 次に見学したのは、あるモニター。「あ、電車で見たことあります」と2人が反応します。そう、首都圏のJR車両のドア上モニターに流れる『トレインチャンネル』です。 山手線、中央線、南武線など走るエリアに対応して天気予報の地点情報が違っていること、途中で流れてくる電車のアニメの車両数やパンタグラフの形状も実際の走行車両に合わせていると聞き、「凝ってますね〜」と醍醐さん。醍醐さんが実際に天気図を修正している様子 予測・解説部門の広いフロアには、他にもさまざまな役割を受け持つ部署が。ふだん何気なく見聴きしている天気予報や気象情報は、こうやって作られ発信されていることを知ってもらえました。 でもこれはまだ序の口。これから行く場所にはさらに天気予報といえば…のお馴染みのシステムがあるんです。またこの連載でレポートしますね。トレインチャンネルの説明を受ける醍醐さんと森さん
tenki.jp 2019/06/28 00:00
【群ようこさん連載】まいにち食べる(4)
【群ようこさん連載】まいにち食べる(4)
イラスト:オカヤイヅミ ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  これまでは夏の暑さは根性で乗り切れると考えていたが、そうではないと今年になって、思い知っている。以前は夏にクーラーをつける日はまれだったのに、7月からほとんど毎日、朝から寝る前まで寝室につけている。気温が35度を超えると、居間で寝ているうちの20歳の老ネコが、ここにもクーラーをつけろと訴えるので、スイッチを入れる。どちらも設定は28度である。  昔とは違って気温の変化が甚だしいし、自分たちをとりまく環境も変化しているので、クーラーなしの夏は難しくなってきているのだなと感じた。しかしそれでも私は生きて行かなくてはならない。幸い、夏バテをしたことがないので、それだけが救いなのだ。  先日、近所のスーパーマーケットに行ったら、女性が赤ん坊を抱っこした30代半ばくらいのカップルが、カートを押しながらやってきた。彼女は目の前の棚を見ながら、 「もう、面倒だから、毎日、そうめんだけでいいよね。簡単だし」  と力のない声でいった。私がぎょっとして顔を見ると、精気がなくて顔色もあまりよくなく、とても疲れているようにみえた。すると男性は、 「うん、いいんじゃない」  と返事をしていた。授乳中だと睡眠不足にもなるだろうし、赤ん坊を抱っこすると暑いから、夏だとより辛いのではないだろうか。しかしそれで毎日そうめんでは、体が持たないのではと、おばちゃんは心配になってきた。  酷暑でも食べるべきものを食べていれば、体は何とかなるものだ。最初はだめでも、少しずつ食べよう、口に入れようと習慣づければ、それなりに食べられるようになると聞いたことがある。しかし意識的に食べようとする意欲がないとそうはならない。ちょっとでも今よりいい方向に体調を持っていこうとする気持ちはないのだろうか。たとえば食欲がないのであれば、今の自分はどのようにしたらいいのか、持っているであろう手元のスマホで調べれば、いくらでも親切な人たちが教えてくれるのに、それすらしない。食べることの大切さに対して意識が低いのだろう。なかには病気で食べたくても食べられない人もいるし、そういった人はとても辛いだろうとお察しするけれど、そうではないのに面倒だからとか、ケーキでも菓子パンでも、食べてお腹がふくれればいいというものではない。  そんな私が猛暑、酷暑続きの日に何を食べているかというと、とにかく火を使う時間を少なくというのが鉄則である。一般的な家庭では火を使わなくても済む電子レンジを駆使するようだが、うちにはないので直火を避けるしかない。朝は具だくさんの味噌汁に御飯というのは変わらない。ただ夏場には味噌の製造元が販売している添加物が少ないフリーズドライを使っている。  私が食べる御飯の分量から比べると1個では多いので、半分に割る。残りは明日の分である。御飯も土鍋で少量炊き、夏場は冷蔵庫に入れている。だから冷や御飯である。その御飯をお椀に入れ、その上にフリーズドライの味噌汁を砕いたものをのせる。そして適当な量の水を鍋に入れ、沸騰したらそこに細かく切った野菜を入れて柔らかくなったら海藻を入れて、お椀に御飯がひたるくらいの量をそそぐ。そしてぐるぐるとかきまぜておしまい。フリーズドライの味噌汁の具に不足しているものを、湯の中に入れてバランスをとっている。  豚肉を一切れ入れることもあるし、卵、サバの水煮、いわしの水煮、鮭缶などを入れることもある。冷や御飯なので味噌汁もほどよくぬるめになって食べやすい。とにかく何でもありの味噌汁で、見てくれは悪いけれど、最小限の労力で最大限の効果を上げる方法だと思っている。  昼食はある程度、きちんとしたものを食べたいのでやむをえず火を使う。ある日の御飯のおかずは、にんじん、玉ねぎ、キャベツ、ブロッコリー、鶏胸肉を煮て、少なめに汁気を残したもの。「茅乃舎」の野菜だしのパックを破って、中身の3分の1と醤油で味をつけ、食べる直前にその上にオリーブオイルをかける。それに御飯と海苔。海苔は鹿児島県出水産のものを1日1枚、食べるようにしている。  夜はアスパラガス、ゴーヤ、ほうれん草、ブロッコリー、きのこなど、その時期の野菜と、エビ、トマト、とけるチーズ、昼御飯のときに余った少量の鶏肉などを、下処理が必要な場合は軽く火を通し、キャンプ用の蓋付きスキレットに詰めて火にかけて放置である、つまり蒸し焼き状態で台所に張り付いていなくても済むので助かるのだ。私はひとり暮らしなので直径12センチのものを使っていたが、最近、御飯も入れて焼きめし状態にもできるように、直径15センチのものも購入した。これに刺身がひと皿加わることもあるし、魚の水煮缶が加わることもある。とにかくたりないものを小皿で追加方式なのである。  フライパンで炒める場合は油は使わずに水炒め方式で蒸し焼き、炒めた場合も味付けは仕上げに少量のサラダドレッシングを垂らすのみ。なぜサラダドレッシングかというと、お中元でいただいたからである。昨日は玉ねぎしそドレッシング、今日はごまだれドレッシングと楽しんでいる。私は生野菜をほとんど食べないので、こうやってドレッシングを消費する。ふだんは塩少量のみで味付けをする。塩は味がまろやかでおいしいので釜炊きの「粟国の塩」を使っている。自分の好みの塩を選ぶのも楽しいかもしれない。また食通の友だちから、おいしい胡麻ふりかけをいただき、それをかけても趣が変わってよかった。  1年を通じてこんな感じの食事で、外食もほとんどしないし、質素な食生活なのだが、今年は果物に奮発した。珍しく仕事がぎちぎちに詰まっていて、休みは元日しかとれず、毎日、原稿を書く日が続いた。それがやっと一段落したので、この暑い夏はひたすら自分を甘やかすことにしたのである。  さくらんぼ、ライチ、すいか、桃、パイナップル、マンゴー、シャインマスカットを堪能して、つい最近は知り合いから見事なメロンをいただいた。ほとんどは常温で食べる。今年は果物大尽である。清水の舞台から飛び降りたつもりで、1個2千円の桃、5個を購入して食べたら、あまりのおいしさに、目の前の桃に抱きつきたくなったほどだった。もちろん果物には果糖が含まれているけれど、人工的な甘味を加えていない、心からおいしいと感じるものを食べると、酷暑も乗り切れそうな気がする。  今年は特にテレビでもラジオでも、熱中症予防をよびかけているので、経口補水液を作ってみた。以前はスポーツドリンクを買っていたが、あまりの甘さに閉口して2倍に薄めて飲んでいた。インターネットで見つけた経口補水液の分量は、水500ミリリットルに対して、塩1.6グラム、砂糖20グラム、レモン汁少々で、すぐに作れる。うちには白砂糖がないので、メイプルシュガーを使ったのだけれど、それでも飲んでみたらとても甘い。スポーツドリンクほどではないが、やはり甘いのだ。  一方、薬局やドラッグストアで販売している経口補水液は塩味が勝っているらしい。どうしてこんなに甘いのかと、またインターネットで調べてみたら、そうしないと小腸で吸収されないのだそうだ。そういえばスポーツドリンクは飲んでも胃に溜まらないが、水は同じ分量を飲むと胃に溜まった感じがしていたなあと思い出した。  手作りの経口補水液も甘くて飲みづらいので、子供の頃は夏をどうやって過ごしていたかを思い出し、麦茶を作った。作ったといっても近所のスーパーで水出し用のものを買ってきて、ポットに入れただけである。昔は夏になると、母親が大きなやかんにいっぱい麦茶を煮出して、それをそのまま食卓の上にどんと置いていた。そしてそこから各自コップに注いで飲んでいた。たまに砂糖と塩をほんの少し入れてもらって、甘くして飲むのも大好きだった。しかし今の私には甘すぎるのは辛いので、麦茶ポットにほんの少しの塩を入れて飲んだ。やっぱり経口補水液よりも麦茶のほうがおいしかった。  友人の、料理はすべて手作りする女性も、やはり夏は麦茶だといって、ちゃんと粒の麦茶を煮出す、正統派の麦茶を作っておいた。すると20代後半の娘さんと、20代半ばの甥が、コップに注がれたその麦茶の匂いを嗅いで、 「変な匂い」  といったのだとか。甥のほうはずっと運動部の寮に入っていて、 「寮のおばちゃんが作っていたのと、同じ匂いがする」  という。その寮母さんは大きなやかんにその匂いがするものを作ってくれていて、それを飲んでいる部員もいたが、彼はペットボトルのお茶を飲んでいた。 「それがこの麦茶でしょう。寮母さんはちゃんとしたものを作ってくれていたのに。わざわざペットボトルの麦茶を買って飲んでいたの?」  と彼女は呆れた。おまけに娘さんも甥も、「ペットボトルの麦茶はくさくないから、そっちのほうがいいね」  などというので、彼女は激怒していた。 「まったく、本物がどういうものかわからないんだから、恐ろしいわよね。ちゃんとしたものが変な匂いなんて、いったいどういうことかしら」  そこで私は、ずいぶん前にお茶屋さんの店頭からほうじ茶を焙じる匂いが漂ってきたら、 「臭い、臭い」  といいながら走って逃げた女性たちや、つわりでもないのに、御飯が炊ける匂いが大嫌いとか、青畳の匂いを嗅ぐと気持ちが悪くなるので、和室はいらないといっている人たちの話をした。すると彼女は、 「何かが間違っている」  とまた怒った。  知り合いの主婦はアイスティーが好きなのだが、ペットボトルかパック入りのものを買うという。たしかに家で作ると、上手に急冷しないとにごったりすることもある。 「自分で作るといい香りがしないし。売っているもののほうが、ずっと香りがいいから」  というので、 「それは香料を添加しているからでしょ」  といったら、彼女はきょとんとしていた。世の中には香料というものがあり、様々な食品に添加されているのを知らなかったらしいのだ。50歳にもなり、子供もいるというのに、そういう人もいるのだなあと私も驚いた。  ペットボトル飲料は手軽だし、出先で購入するにはとても便利だが、麦茶みたいに家で手軽に作れて、ボトルに入れて持って歩けるようなものでも、家庭で作られなくなってしまったらしい。麦茶パックを入れたり、ボトルを洗うことすら面倒になってしまったのか。基本的な事柄を知っていて、そのうえで何を選ぶかはその人の自由だ。しかし基本的な物事を知ろうともしないのは、大人としてどうなのかなと私は思う。  夏は食欲がなくなる人も多くなるが、バランスよく食べないとのちのち響いてくる。私が10年前に体調を崩したのも、食事はちゃんと食べていたが、そのうえに食べたいだけアイスクリームの類を食べたからと自戒している。とはいえ、たまにはアイスクリームも食べたい。果物だけでは満足できないときは、週刊誌で読んだ、食べて大丈夫な安心できる素材のアイスクリームのベストスリーを思い出しながら、スーパーマーケットに買いに行くのである。 ※『一冊の本』2018年9月号掲載 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
dot. 2019/06/27 14:30
追悼 京マチ子さん、佐々木すみ江さん…大女優に訪れた最期
上田耕司 上田耕司
追悼 京マチ子さん、佐々木すみ江さん…大女優に訪れた最期
石井ふく子さん(左)と京マチ子さん=2006年10月撮影 (c)朝日新聞社 昨年の誕生日で破顔一笑する佐々木すみ江さん=所属のアルファエージェンシー提供  何歳になっても変わらない「らしさ」があった。ずっと貴婦人のようだった大女優。動けるうちは動きたい、と努めた90歳。よく生きて、よく逝った著名人の最期を追う。 ■京マチ子 看取った女優語る「何歳になっても貴婦人」  愛称ワンタン。  往年の大女優をして「ワンタンがいなければ生きられない」と言わしめた女優がいる。渡辺陽子さん(79)。5月12日、京マチ子さん(享年95)を看取った。 「京さんは3年くらい前から血流が悪くなり、股関節を悪くして歩くのが困難になっていらした。肺にも水がたまって、病院に通っていました。美しかった足も紫色に腫れて。だけど、杖をつくのは嫌っておっしゃって、壁やテーブルをつたって歩いていました」  京さんは大阪府出身で、普段の会話は関西弁。 「かめへん、かめへん」 「無理したらあかんよ」  という調子だった。  OSSK(大阪松竹少女歌劇団)に入り、大映に引き抜かれ、数々の映画に出演した。  映画「羅生門」(1950年)、「雨月物語」「地獄門」(53年)で、数々の国際映画賞を受賞。56年には米映画「八月十五夜の茶屋」でマーロン・ブランドと共演し、米ゴールデングローブ賞主演女優賞の候補入りするなど、国際派女優の先駆けだった。  京さんと渡辺さんは66年に帝劇で上演された「源氏物語」に共に出た。  若いころから、市川さんというマネジャーが京さんの才能を見いだし、身の回りの世話をしていた。その市川さんが約7年前に亡くなり、渡辺さんは京さんと急速に仲良くなる。いつしか毎日のように自宅に通うようになったという。  京さんは7年ほど前から、女優の若尾文子さん(85)、奈良岡朋子さん(89)、テレビプロデューサーの石井ふく子さん(92)らと同じマンションに住んでいた。 「4人ともバラバラに住み石井先生の新年会に出席していたんですが、縁というのは不思議なもので、年がたって人間関係が絞られていくうちに同じマンションに住むようになったんです」 「京さんは何歳になっても、きれいにお化粧してピアスをしていた。部屋の中もコーディネートして清潔に優雅に暮らし、最後まで貴婦人でした」  ただ、石井さんが演出した2006年の「女たちの忠臣蔵」以降は、表舞台に姿を見せなかった。  昨年7月には歩くのが難しくなったことなどから、一人で東京・渋谷のケア付き高級マンションに引っ越した。部屋はそれまで住んでいた部屋の半分くらいの45平方メートルだが、食事のルームサービスが付き、医者が訪問し、看護師が常駐。 「今年3月には都内の病院に9日間、入院していました。肺と足の水を抜く治療をして、足の腫れは引いたんです。退院されてケアマンションに帰ったときにはみなさんから『お帰りなさい』と歓迎され、『ここでずーっと暮らしていたいの』と言ってました」  再度、体調を崩したのは今年のゴールデンウィークに入ったころから。「物が食べられなくなり、好きなリンゴジュースを飲んでいたんですが、それも飲めなくなり、水だけになった。脱水症状になって呼吸も苦しくなり、言葉数も少なくなっていきました」  渡辺さんは、京さんが亡くなる2日前の5月10日に石井さんに連絡を入れ、11日には石井さんが京さんのもとを訪れた。 「石井先生は1時間以上、京さんの手を握っていました。これまでの思い出が走馬灯のようによみがえったのでしょう。石井先生は、素のままの個人として矢野元子さん(京さんの本名)とわかちあえるものがあったんだと思います」  京さんは石井さんを心待ちにしていたらしく、「ワンタン、ありがとう、うれしい」としみじみ語った。  翌12日午前9時半、容体急変の知らせがあり、渡辺さんは駆けつけた。 「まだ体が温かかったけど、息があったのかどうかわかりません。ドクターもやってきて、午後0時18分、臨終となりました」  京さんは生前、「延命治療はしないで」と、周囲に話していた。2日後の14日に荼毘(だび)にふされた後、赤坂近辺の和食料理店で、「石井先生たち、ごく親しい6人でお食事をして別れを惜しみました」。  京さんはハワイが好きで毎年のように訪問した。 「私も4~5回、ご一緒しましたが、シャワーツリーの花が好きで、『空気と風がいい』と言っていましたね。昔からの友人がいっぱいいて」  ホノルル郊外に墓もあり、やがて納骨するそうだ。 「ワンタン、と今でも京さんから呼びかけられているようです。私が思う以上に、京さんは私のことを思ってくれた。生涯のかけがえのない日々をいただいた」 ■佐々木すみ江 「動けるうちは仕事を」突然の幕に遺作4作も  90歳になっても先々の仕事の話があった。でも突然、人生の幕は下りる。女優佐々木すみ江さんは2月17日、自宅で倒れ、救急車で病院に搬送されたが、帰らぬ人となった。  今秋公開予定の映画「惡の華」などが遺作となった。井口昇監督は昨年11月の群馬県桐生市でのロケを振り返った。 「佐々木さんはにこやかで、肌艶も良く、お悪そうなところはなさそうで予定どおり撮影が終了しました」  佐々木さんの役どころはヒロインの祖母で孫の友達を明るくもてなす役。 「この作品には、“大人”が出てくるシーンが少ない。だからこそお芝居のしっかりした女優さんに出てもらいたかった」(井口監督)  所属事務所アルファエージェンシーのマネジャー齊藤真純さんは言う。 「佐々木さんは携帯電話、メールの打ち返しも速く、スマートフォンの普及とともにスマホに変え、メールも動画も駆使するほど時代の流れに敏感で、新しいものに目を向けていました」  最後の映画のロケ地は広島県呉市。こちらは2020年公開予定の映画「記憶屋」。亡くなる1カ月前の1月18日だった。このとき、台本4ページもの長いセリフを完璧に覚えていたという。  健康にはとても気を使っていたという。 「健康食品をまめにチェックしていたし、テレビの健康番組も大好きでした」  中でも、手作りの「レモン酢」は常備していた。 「きれいに洗ったレモンを輪切りにして、氷砂糖とお酢を耐熱ガラス瓶に入れ、電子レンジで温めてから、常温で氷砂糖が溶けていたらできあがり。水や炭酸水などで割るのですが、私も飲んでいます。ある日、テレビの情報番組を見てすぐ、『レモン酢に使うお酢はリンゴ酢のほうが体にいいみたいよ』と電話で教えてくれたこともあります」  佐々木さんは1951年に劇団民芸の研究生となり、舞台をメインに活躍。71年の民芸退団後はテレビドラマへの出演が増えた。  アルファエージェンシーの万代博実社長と佐々木さんの出会いは40年前にさかのぼる。 「前の事務所を辞めた佐々木さんが、うちに入りたいと来られたので、喜んでご一緒させてください、と」  83年には「ふぞろいの林檎たち」(TBS系)で、小林薫と中井貴一の母を演じ、子供が産めない嫁につらく当たる姑役が評判に。2007年に放送された井上真央主演の「花より男子2」(同)に出演。メイド頭・タマを演じた。  08年のNHK大河ドラマ「篤姫」では篤姫の乳母役を好演し、代表作の一つに。冒頭の井口監督が佐々木さんと仕事をしたのは2度目で、最初は深夜ドラマ「神様のイタズラ」(BS-TBS)だったという。 「女子中学生とおばあちゃんの体が入れ替わってしまうというコメディーでした。佐々木さんは女子中学生のように『イエーイ』『まじすごい』と言い、かわいらしいしぐさをしてくれました」  万代社長が語る。 「年を重ねても自分に厳しく、コメディーやシリアスな役でも、こわもてやチャーミングなおばあちゃん役でもなんでもこなした」  たしかに90歳になったが、広い守備範囲を生かし、「体が動くうちは仕事をしたい」と周囲に語っていた。「惡の華」「記憶屋」ほか2作、撮影済みの遺作があり、今年から来年にかけて公開される。(本誌・上田耕司) ※週刊朝日  2019年7月5日号
週刊朝日 2019/06/27 08:00
辻・加護コンビの劇的復活! 「子どもたちのアイドル」が背負った苛酷な運命
宝泉薫 宝泉薫
辻・加護コンビの劇的復活! 「子どもたちのアイドル」が背負った苛酷な運命
加護亜依(左)と辻希美、2004年撮影 (c)朝日新聞社  W(ダブルユー)が復活した。ハロー!プロジェクト全盛期を彩った辻希美・加護亜依によるユニットである。3月に行なわれたハロプロのイベント「ひなフェス 2019」にも登場していたが、6月26日「テレ東音楽祭2019」でじつに13年ぶりとなる地上波のテレビでの共演を果たした。その場面を見た人は、30代になったふたりに時の流れをしみじみと感じたのではないか。  というのも、ふたりはここ20年間で最も注目を浴びた「子供」たちだからだ。2000年3月、モーニング娘。のオーディションに合格したときはまだ12歳の小学生。その前年に加入した後藤真希も最年少メンバー(13歳・中2)として話題になったが「ゴマキ」が大人っぽいタイプだったのに対し「辻加護」は年相応、ともすればむしろ子供っぽいタイプだった。そこを最大の武器に、ふたりは芸能界を席巻していくわけだ。  同年5月、モー娘。のシングル「ハッピーサマーウェディング」でデビュー。7月には矢口真里、ミカとともに身長150センチ以下が条件のユニット「ミニモニ。」を結成して、翌年1月、シングル「ミニモニ。ジャンケンぴょん!」をリリースした。ふたりにはロリコン嗜好の男性ファンもついたが、誰よりも支持をしたのは小中学生あるいはそれ以下の女子だ。国民的グループでお姉さんたちに混じって歌い踊り、自分たちと変わらない小柄な体型ではしゃぐ姿に親しみと憧れを抱いたのである。 ■双子じゃないけど双子みたい  ハロプロはこれをチャンスと見て、低年齢層へのアピールを強めた。コミックやアニメ、ゲームとの連携を積極的に行ない『ミニモニ。もじかずプリントだぴょん!―もじ・かずぐんぐんドリル』のような幼児向け学習絵本も出版された。なかでも、象徴的だったのが「バカ殿様とミニモニ姫。」名義で出されたCD「アイ~ン体操」だろう。ミニモニ。と志村けんとのコラボだ。  アイドルとドリフターズ的笑いの歴史は長く、年頃の女性が恥ずかしそうにコントを演じるのはおなじみの光景でもあった。しかし、辻加護の場合は「昔、好きでした」ではなく「今も大好き」という世代。そろってお笑いが趣味でもあり、ふたりは嬉々として「アイ~ン」などのギャグに全力投球した。こうした姿を、低年齢層の女子たちがこぞってマネすることに。こうして、空前絶後の「子供たちの子供たちによる子供たちのためのアイドル」が誕生したのである。  これにより、アイドルというもの自体にも質的変化が発生。二次元文化との融合やコミカルなポップ化が進み、可愛くて楽しいものというイメージがますます確立した。2000年以降のアイドルブーム、そして海外でもアイドルがウケるようになった背景に、ふたりの貢献は計り知れない。  さらに、ハロプロはふたりの後継者作りにも着手した。8歳でキッズオーディションに合格した鈴木愛理や、9歳でエッグオーディションに合格した和田彩花などはまさに、辻加護チルドレンとでも呼びたい存在だ。昨年3月、ハロプロのツアーに加護がOBゲストとして出演した際、鈴木はこうツイートした。 「なんてことだ、、、加護さんとステージで歌えるなんて、15年前の自分は想像もしていなかったな。。。憧れでもあり、いちファンでもあった加護亜依さん。今日は楽屋でもあり得ないくらいはしゃぎまくって、楽しすぎました」  また、辻加護には「双子じゃないけど双子みたい」(加護)というアピールポイントもあった。そのあたりを活かしたのが、前出の「W」だ。2004年に、ザ・ピーナッツのカバー「恋のバカンス」でデビューし、デュオの名曲ばかりを集めたアルバムをリリースしたりもした。昭和歌謡のキラーコンテンツだった双子モノは平成のJポップでは流行らなくなったが、それっぽいものへの需要は消えておらず、Winkとともにテイストを変えて継承したかたちだ。  とまあ、大成功を収めたふたり。14歳にして長者番付に名を連ねるという快挙も達成した。が、幼くして富や名声を得た子供が挫折を味わいがちなのも世のならいだ。その挫折をもたらしたのは、それぞれの「反抗期」もしくは「背伸び」である。 ■喫煙、DV、離婚、再婚……  2006年、写真誌がこんな記事を掲載した。 「衝撃スクープ 女のコ御用達の『バージニアスリム』を手に! 元『モー娘。』加護亜依『未成年深夜のタバコ現場』撮った」  これにより、加護は謹慎。しかも翌年、また喫煙写真を撮られたことから、事務所をクビになってしまう。その後、芸能活動は再開したものの、不倫を報じられた俳優の元妻に慰謝料を要求されたり、同棲していた恋人が恐喝未遂で逮捕されたり、そのショックから自殺未遂騒動を起こしたりもした。  それでも、この恋人とできちゃった婚をして、1児の母に。しかし、夫からDVを受けるなどして離婚した。とまあ、若くしてスキャンダルまみれになってしまったわけだが、翌年、別の男性と再婚、数ヶ月後に第2子を出産している。  一方、辻の場合はというと、2007年、俳優・杉浦太陽とできちゃった婚。ところが、このタイミングが悪かった。リーダーを務める新ユニット「ギャルル」の結成直後だったため、プロ意識を問われることに。ただ、これを機に、彼女はママドル路線へと思い切り舵をきる。出産時点でハタチという若さに加え、ブログの活用、ベビー服ブランドの立ち上げ、夫とのラブラブアピールなど、打つ手が次々と当たり、人気ママドルとなった。  とはいえ、逆風にもさらされる。後藤真希の母の葬儀に、頭のリボンとミニ丈が斬新な喪服で参列したり、藤本美貴の結婚式に、花嫁のお株を奪うような白いドレスで現れたりしたことが、マナー知らずと批判された。家事や育児についても、世の女性全体が姑と化したかのような厳しいチェックが行なわれ、しばしば炎上したものだ。  しかし、辻はブレなかった。4人の母となった今も、ブログやインスタ、ユーチューブで独自の可愛いママドルぶりを発信している。そういう意味では、加護もいつどこで芸能界からドロップアウトしてもおかしくない苦境にいながら、踏みとどまってきた。両者に共通する打たれ強さはどこから来ているのか。 ■常人とは違うメンタル  それは生育環境で培われた性格プラス、デビュー後の経験だろう。12歳から大人にまじって仕事をしてきたことによるたくましさが加わり、常人とは違うメンタルが備わったと考えられる。  ただ、このふたりほどでなくても、30代となれば、どんな女性もそれなりの経験をしてきているはずだ。そういう人たちにとって、ふたりは無邪気だった子供時代を思い出させ、その人生の歩みに興味や共感を抱かせる存在でもある。それがこうして、13年ぶりにコンビで登場するというのは、なかなか感動的な出来事だろう。  もちろん、その感動を誰よりも味わったのは本人たちに違いない。加護はテレビでの復活が決まったあと、自身のブログに、 「いいの!?いいの!?いいんでしょうかー!?という気持ちですが、楽しんでいただけるように準備しますね」  と綴った。一方、スキャンダルまみれの加護を気遣い続けた辻は3月にステージでの復活を果たしたあと、ブログにこう書いた。 「一緒に立つステージは凄く安心感があり、自分にもの凄いパワーが出ます」  十数年前、アイドル史上最強ともいうべき破壊力で、時代の寵児となったふたり。その破壊力ゆえに苛酷な運命も味わうことになったが、その人生の糸は再び交わった。W(ダブルユー)の復活パフォーマンスは、そんな友情物語の名場面としてファンの心に刻まれたことだろう。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
dot. 2019/06/27 07:00
快進撃のキンプリ「王道のイメージくつがえしたい」 メンバーで唯一「休みが長いとしんどい」と答えたのは…?
快進撃のキンプリ「王道のイメージくつがえしたい」 メンバーで唯一「休みが長いとしんどい」と答えたのは…?
※写真はイメージ(gettyimages)  昨年5月のデビューから一年。シングルが3作連続でオリコンランキング1位を獲得するなど、快進撃を続けるKing&Princeの待望のファーストアルバム「King&Prince」が6月19日にリリースされる。AERA初登場となる彼らがグループのいまと未来を語った。 *  *  *  メンバー全員にとって、待望のファーストアルバムだ。 永瀬廉(以下、永瀬):デビューからずっと楽しみにしていて、やっと出るという感じです。僕らもどんな曲がくるのかわくわくしたから、ファンの皆さんはもっと楽しみにしてくれていたと思う。早くこのアルバムの曲でライブがしたいですね。 平野紫耀(以下、平野):海外のミュージシャンの方と一緒に作った曲もあり、さまざまなジャンルが入った、オールマイティーの作品になりました。初回限定盤BにはJr.時代の曲も入っている。いままでの僕たちがつまっています。 高橋海人(以下、高橋):King&Princeらしさは保ちつつ、振り幅を作れたと思います。昔から応援してくれていた人たちと僕たちの夢がひとつかなった。新しくファンになってくれた人たちには、僕らを知ってもらえる。楽しみ方はたくさんあると思います。 岸優太(以下、岸):僕らにとって、間違いなく「心のアルバム」になりました。ファンの皆さんにとっても「心のアルバム」になってくれるといいなと思います!! 神宮寺勇太(以下、神宮寺):「言ってやったぜ」みたいな顔してるけど、何も上手じゃないよ(笑)。  注目は「Naughty Girl(ノーティ・ガール)」。ファンキーなダンスチューンで、ミュージックビデオではキレのあるヒップホップダンスを披露している。グループの新境地だ。 神宮寺:このアルバムの中でも特にお気に入りの1曲です。1年くらい前から、リリースを楽しみにしていました。 平野:僕らはアイドルグループとして「王道」と言われることが多いんですが、いい意味でみなさんのイメージをくつがえしたいという思いがあって、リード曲にしました。 永瀬:振り付けは、もっとこうしてほしいとか、それぞれが提案しました。振付の方と相談しながら積み上げていく作業はとても楽しかったですね。 岸:音の取り方とか、リズムとか、僕らの細かい提案をきちんと汲み取ってくれて、本当にいいチームと音楽を作ることができたと思っています。 平野:歌も踊りも第一級のグループになりたいから、ダンスレッスンも実は現在進行形で入れています。この曲のMVを撮ってから、いろいろな方にダンスがうまくなったねと言われるようになりました。 高橋:がんばってがんばってデビューしてここまで来たので、妥協したくない。自分たちの最善を出せるようになるまで、思いは伝えるようにしています。 神宮寺:(岸、永瀬と歌う)「Letter」も、耳に残るコードとか、色々希望を出しました。 岸:知らなかった!  永瀬:(ハミングしながら)あれ、いい歌だよ。 平野:レコーディングは、「Big Bang」が大変でした。化学反応になったかな。 高橋:ビッグバンしたかな。時間をかけて作りました。 神宮寺:もちろん全曲、聞き飽きないと思います。  この1年で、メンバーを取り巻く環境は大きく変わった。プロ意識やファンへの思いは、デビュー前より深まった。 永瀬:この1年で受ける取材が増え、バラエティー番組にもそこまで緊張しないで出られるようになりました。いい意味で現場の雰囲気に慣れてきたのかな。 岸:どんな仕事が来るのか、頻繁にサプライズがあるんです。音楽番組もトーク番組も、これまで自分が視聴者として見ていた番組に出られるのは、うれしいですね。 神宮寺:自分から「成長した」と言うのはあまり好きじゃなくて。いつまでも「もっと頑張らないと」と思っていたいから。 永瀬:ほんとうは? 神宮寺:全部成長したよ!(笑)あと、ファン層が広がったのもうれしいです。地方ロケでも、子どもに握手してくださいと言われることが増えました。 平野:ファンとの関係も少し変わりました。Jr.の頃もファンの皆さんと向き合っていたんですけど、デビューしたことによって、今まで以上にファンの方と向き合える関係になれたような気がしています。 高橋:グループをどう作っていくか、守っていくか、みんながハングリーに考えるようになったかな。メンバー同士で話し合ったり、勉強のためにライブを観に行ったり、結構しています。 岸:ジャニーズでいる以上、みんな、表現者として何事にも磨きをかけることを意識しているんです。いつまでも高みを目指していきたい。 神宮寺:僕も、みんなに見えない陰で、何かしら自分の糧になるものをやり続けるということは決めています。何かっていうのは、僕は秘密です(笑)。  多忙な毎日、どうリフレッシュしているのか。 永瀬:ゲームと友達と遊ぶことに限ります。仕事終わりに、夜遅くても行きます。僕、フットワークが軽いんです。 岸:サッカーをやってたからか、軽やかだよね。 神宮寺:僕は飲みに行くことですね、タピオカを。休みの日には並んでますよ。並ばないと飲めないので。 岸:天気がいい日、都内を颯爽(さっそう)と自転車で駆け回ることですね。 高橋:湯船に浸かること。一人だけの空間で好きな音楽をかけて熱唱しています。 平野:性格的にせっかちですぐ行動に移さないと心配になるんです。休みが長いとしんどくて、仕事している方が落ち着くから、去年はすごく落ち着きました。  King&Princeが紡ぐ物語は始まったばかりだ。 神宮寺:世界の観光地に行ったら、ちらほら周囲に気づいてもらえるくらいになりたいですね。 永瀬:わかる。「Are you King & Prince?」って。 神宮寺:それと、コンサートは大切にしていきたい。7月からのツアーを楽しみにしています。歌うのも踊るのも好きだし、しゃべることもできるし、それをファンの皆さんに見ていただくのも楽しい。 永瀬:僕は今月からソロでラジオをやらせてもらうことになりました。個々の活動も僕らを知ってもらう近道の一つだと思うので、ソロ活動も大切にしてグループに還元できるようにしたい。グループの冠番組をやってみたい。体を動かしてかっこいいところも、おちゃめなところも見せられるような番組がいい。僕らのすべてを見せたいです。 高橋:一人の仕事の時もグループの存在を感じるけど、やっぱり、6人の仕事になるとうれしいですね。 岸:グループとしては、先輩たちが築いてきた軌道にのりつつ、自分たちで新しいものも築いて、これまでにないグループになりたい。自分たちの発信で作っていきたいですね。目標は「なんでも経験」です。 永瀬:どんな仕事に臨むときも、気負いすぎず自然体で臨めればと思っています。 平野:「メンバーの誰が好き」と言ってくれるのもとてもうれしいんですけど、「King&Princeが好き」と言われたい。ファンでない方にも愛されるグループでありたいですね。 高橋:そして、みんなが笑っていられるのが一番ですよね。僕ら全員で、King&Princというジャンルを作っていけたらなと思っています。 平野:みんなでしゃべるCMがあるんですが、実はほぼアドリブなんです。僕らの素のまま。そんな関係が30代、40代、50代になっても続いていけばいいなと思っています。 (編集部・小柳暁子) ※AERA 2019年6月24日号
AERA 2019/06/25 11:30
難関国立大卒、大手企業内定し30年以上ひきこもり 57歳男性が社会に問う「恥とは何なのか」
難関国立大卒、大手企業内定し30年以上ひきこもり 57歳男性が社会に問う「恥とは何なのか」
外出するのはハレの日だと言う、ぼそっと池井多さん。「ひきこもりに見えませんね、と言われるのを目指して昨日の夜から準備しました」(撮影/AERA dot.編集部・金城珠代)  ひきこもり状態だった50代の男がスクールバスを待つ子たちの列に刃物を振り回し、20人を殺傷し自殺。その3日後、「運動会の音がうるさい」と苛立っていた40代のひきこもりの長男を、元事務次官の男が殺害した。川崎市と東京・練馬で連鎖するように起きた2つの事件から、もうすぐ1カ月が経とうとしている。ひきこもりや「8050問題」にこれほど注目が集まったことはこれまで無かっただろう。23歳から30年以上、断続的にひきこもり状態が続き、「ぼそっと池井多」という名前で活動する男性(57)は「事件から少し時間が経った今だからこそ、当事者として伝えたいことがある」と、自身の体験を語り始めた。事件から何を学ぶべきなのか。 *  *  *  6月1日、ひきこもりの長男(44)を父親が殺害した――。そのニュースをテレビで見ながら、池井多さんの頭にふと浮かんだのは4、5歳ごろの家の中の風景だった。 「夕食は何を食べたい?」と母に聞かれ、「何でもいい」と答えた。 「じゃあ、ナポリタンスパゲッティーは?」  うんとうなずく。こうやって聞いてくるときも、母の中には既に決まった答えがあることはわかっていた。食べたいわけでもなく、出されても食は進まない。それを見た母は怒って、平手で頬を数回叩かれた。「食べたくないなら食べなくていい」と、スパゲッティーは取り上げられ、シンクに捨てられてしまった。  仕事から帰ってきた父に、母はうそをつく。 「この子が『こんなもの食えるか!』ってシンクに捨てちゃったのよ。お父さん、殴ってやって」  台所の床に座らされ、背中を丸めて両腕で頭を抱えた。両親の顔は見えず、父親がズボンのベルトを抜くキュッという音がする。恐怖と屈辱の中、背中をベルトで数発打たれ痛みが走った。夕食のメニューに限らず、理不尽な“制裁”を受けることは日常だった。今振り返ると、あれは母が「あなたは誰を信じるの?」と父を試す踏み絵でもあった。手を下す父はどんな表情だったのだろう。何を考えていたのだろうか。  殺された40代の長男と自分がダブって見えた。一方で殺人者となった父親への「どんなことがあっても殺してはダメだ」という批判も、薄っぺらく感じた。  事件を受け、当事者団体や支援団体などがひきこもりへの偏見を助長するような報道を控えるよう声明を発表。しかし、そこに留まってはいけないとも感じると池井多さんは言う。 「自分は被害者になり得る。それだけじゃなく、加害者にもなり得ると感じます。誰だって凶暴な気持ちになることはあり、そういう意味では私だって犯罪者予備軍なのでしょう。実際に川崎事件の後は当事者仲間から、明日は自分があのようなことをしてしまうのではないかと不安でたまらないというメッセージがたくさん届きました。事件から時間を経た今だからこそ『清く正しく美しいひきこもりだけではない』ということを伝えたい。私が知る中にも、親が資産家でスポーツカーを乗り回し、派手なスーツを着て複数の女性を連れ歩くようないわゆる“道楽息子”もいますし、暴力的で壁は穴だらけ、両親もアザだらけという状態の家もあり、そういう人たちは当事者会にもなかなか顔を出しません。『今日殺すか、明日殺されるか』という極限の状態で悩んでいる人たちを黙殺せずに対応を考えていかなければいけない。犯罪者予備軍と、実際に犯罪を犯す人の間には千里の隔たりがあると思うのです」(池井多さん)  池井多さんは、8050問題を当事者の立場で考える「ひ老会(ひきこもりと老いを考える会)」や、子の立場・親の立場から互いの本音をぶつけていく「ひきこもり親子 公開対論」などのイベントを開くほか、「GHO(世界ひきこもり機構)」という団体を立ち上げ、SNSなどを通してインタビューした世界のひきこもり当事者の声を発信をしている。この日もきちんと櫛でとかされた髪、清潔感のある半袖のシャツを羽織り、時折、含蓄あるジョークを織り交ぜながらゆっくりと語る様子は“部長の休日”風でさえある。3ヵ国語に堪能で、バイオリンとピアノもひける。「ひきこもり」と言われて違和感を覚えるのは、記者自身がステレオタイプなひきこもり像を持っていたからだろう。一口にひきこもりといっても多様である。それを体現するかのような存在だ。  しかも、時間とともにその状態も変わっていく。池井多さんは大学時代に「外こもり(自宅以外の場所でひきこもること)」、30代で「ガチこもり(外との関わりを断ち、自宅・自室から出ない状態)」を経験し、現在も必要なとき以外では外出しない「ひきこもり」だ。何をきっかけに、どんな思いで過ごしてきたのか。  初めて自宅から出られなくなったのは23歳のときだった。就職が内定していた大手企業の入社式を目前に控えた朝だった。布団から起きられず、一歩も外に出られなくなった。内定を辞退し、2年間は大学を留年。アパートから家賃の安い寮に移り、学費を稼ぐために必死で外に這い出て、塾でアルバイトをした。精神科でうつ病と診断を受け、治療も始めた。しかし、卒業するとまた動けなくなった。 「挫折体験をきっかけにひきこもる人は多いのですが、私はそうではありません。当時は理由もわからず、どうしていつも自分はこうなってしまうのだろうと苦しんでいました。後になって、母親が望むような人生を歩いていくことを拒否していたのだと気付きました」  父は高卒で会社員になり、四年制大学を卒業した母は自宅で学習塾を営んでいた。物心ついたときから母は父に聞こえるように、 「お父さんみたいになっちゃいけない。○○大学に入りなさい」 と難関国立大学の名前を繰り返した。英才教育として幼少期からバイオリンを習わされ、学校のテストは98点でも「なぜ100点じゃないの」と責め立てられた。思い通りにならないことがあるたびに、母は包丁を手に 「お母さん、死んでやるからね」 と脅された。その言葉は「お前を殺してやる」と言われるよりも何倍も怖く、身動きが取れなくなった。小学校低学年には死にたいと思うようになった。母が選んだ中高一貫校に通ったが、そこで出会った同級生は何代も続く家元の子や資産家、医者の子など生活レベルの違う家の子ばかり。強迫神経症に悩まされながら、なんとかコミュニティーに食い入ろうと、高校では生徒会長も務めた。  大学の合格発表は1人で見に行った。自分の受験番号を確認し、合格を知って人生の宿題をやり終えたと感じた。そして、母と子の関係をひっくり返してやりたい、これまでの苦痛を与えてきたことを謝ってもらいたいと手ぐすね引きながら帰宅した。 「あの大学は英語のレベルが高いから、明日から英語を勉強しなさい。お前なんか到底ついていけないんだから」  合格を伝えた直後の母の言葉に、何かがプツッと切れてしまった。どんなに走っても、報酬が無いどころか、ゴールテープはどんどん先に行ってしまう。 「頑張っても損だという感覚がこのときに生まれたのかもしれません。大学では授業にも出ず、キャンパスで友達をつくることもなく、バイトで資金を稼いでは海外に逃亡していました。母が望むレールを歩くのがバカらしくなったんです」  それが「外こもり」の始まりだった。インドの奥地や中国、中近東。東南アジアにある安宿の一室で本を読んだり、物を書いたり寝たりしながら、1日1回だけ食事を取る。観光地を見て回ったり、ショッピングや食べ歩きを楽しむことはない。母親が嫌な顔をすればするほど、海外へ逃げた。それが面白がられたのか、就職活動では学生から人気の企業としてランキング上位にいるような大手3社から内定を得た。それでも仕事をすることを体が拒否した。  大学卒業後に再度ひきこもるようになったときは自殺も考えたが、幼少のころにテレビで内戦や貧困、疫病などに苦しむアフリカの子どもたちが放送されるたびに、母親からいつも 「ご覧なさい。あの子たちはこんなに不幸なのよ……。それに比べて、あなたは食べ物も学用品も与えられて何不自由なく暮らしているのに、今日も怠けていたじゃない」 と責められていたことを思い出し、アフリカに渡った。どうせ死ぬなら本当に不幸な人を見るべきだと考えたからだ。カイロやナイロビに6カ月ずつ、南アフリカで1年など各地の安宿に滞在しながら、外こもりは5年近く続いた。外界との接触が少ない生活の中でも、宿を拠点に売春を営む女性たちや物売りをする子どもたちと話すこともあり、貧しくても不幸ではないと感じた。それどころか子どもたちは天真爛漫で、日本よりストレスが少ないようにさえ見えた。  帰国してから知人のすすめで、アフリカで見聞きしたものを文章にすると、ジャーナリストとして賞を受けた。国際ジャーナリストという肩書で働くようになったが、次第に仕事が苦しくなり、恩師の急逝などをきっかけに「ガチこもり」となった。カーテンを締めても、光が揺らめくのを見ると、その外に人の行き来を感じ「世界の動きから自分だけが置いていかれている」と苦しくなる。電灯の光でも肌がピリピリと痛む気がして、雨戸を閉めてろうそくの明かりだけで生活した。風呂も1カ月は入らない。食事は深夜にスーパーで買いだめしたカップラーメンを1日1回食べる。そんな日が4年続いた。  以前は家族で暮らしていた3LDKの団地に独りで住んでいたため、家賃は6万8千円。貯金も底をつき、ホームレスになる覚悟をして場所まで決めていたが、病院のケースワーカーの勧めで家賃の安い1Kの部屋に引っ越し、生活保護を受けることにした。  いまも週に1回程度、当事者イベントなどで必要なときにしか外出しない。「子どもが部屋から出てこない」という親から相談を受け、同じひきこもり当事者として会いに行き、ドアの外から話しかけ話を聞くこともある。当事者の声を社会に伝える活動は、フランスやイタリアほか世界中のひきこもりにまで対象を広げ、多言語に翻訳した記事を発信している。室内にいながら世界とつながっているのだ。 「ずっと海外とやり取りをしていて、久しぶりに外に出て日本語の会話を聞くと『帰ってきた』と感じることもあります(笑)。室内留学ですね。私の場合は、ひきこもりを極めることが逆に社会参加になっている。賃金労働ではないし、社会に認められる働きではないかもしれませんが、これも働いているうちなのでは?という感覚はあります」  それでも無職、ひきこもり、生活保護という表面的なことだけで自分のすべてを判断されることが多いという。「あなた何してる人?」と人に聞かれるのではないか、後ろ指をさされていないか。特に近所の年配女性は自分の母親とダブって体が硬直するほど怖い。体調が良いときに飲みに行くと、名前も職業も偽る。一歩外に出ると非合法活動をしているような気分だという。  自身の家族とは20年前から顔を合わせていない。40代のひきこもりの息子を殺害した元事務次官の父、熊沢英昭容疑者は何を思っていたのかと繰り返し考えている。 「あの父親はいろんな角度から考えたのだと思います。日本のトップ官僚としてこんなことで練馬区の行政を煩わせてはいけない、家庭内で処理することが一国民としての責任の取り方だと考えたのかもしれない。そうだとしたら『ひきこもりを恥と考える根拠は何ですか?』と聞いてみたい。取り調べが終わったら、ぜひ『ひきこもり親子 公開対論』でその苦悩を語ってもらいたい。それが彼にとって罪を償う一つの方法だと思うんです。そして家族から恥の意識を取り払うことが、日本のひきこもり問題の解決への近道なのではないかと考えています」  親子が家族が本音で向き合い、お互いを知る場をつくる。お金にならない“仕事”を背負いながら、池井多さんは今日もひきこもっている。(AERA dot編集部・金城珠代)
dot. 2019/06/25 11:30
<対談インタビュー>SUGIZO×miwa『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』や楽曲「A Red Ray」を語る
<対談インタビュー>SUGIZO×miwa『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』や楽曲「A Red Ray」を語る
<対談インタビュー>SUGIZO×miwa『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』や楽曲「A Red Ray」を語る  『機動戦士ガンダム』の誕生から今年で40年。現在TVシリーズで放送中の『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』の主題歌のプロデュースをLUNA SEA/X JAPANのSUGIZOが担当し、オープニングをLUNA SEA、そしてエンディングをSUGIZOプロデュースで女性アーティストをフィーチャーしたコラボ楽曲で彩る。第1弾のGLIM SPANKY、第2弾のコムアイ(水曜日のカンパネラ)とのコラボでガンダム史に燦然と輝く名曲のカバーを響かせた彼が、第3弾ではオリジナル曲「A Red Ray」でmiwaとコラボ。今回、その新曲リリース前に2人を直撃し、楽曲について語ってもらった。 その他画像 ――「機動戦士ガンダム40周年プロジェクト」に関わられるとなったときのお気持ちを教えてください。 SUGIZO:もちろんとても感無量ではあるんですけれども、そもそも想像もしていなかったですよね、僕自身が。『機動戦士ガンダム』(以下ファーストガンダムとも表記)は40周年ですが、僕自身もファン歴40年。ガンダムに対して仕事で関わることになるとは夢にも思っていなかったです。 ――miwaさんは「ガンダムシリーズ」に対してはどのような印象を抱かれていらっしゃるでしょうか? miwa:わたしが子供の頃は(ファーストガンダム以降の)新しいシリーズが放送されていて、『機動戦士ガンダムSEED』を見ていた世代なんですが、今回は『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星』(以下『THE ORIGIN』)の曲を、ということでファーストガンダムよりも前のお話でしたから一から勉強させていただくような気持ちで作品に触れさせていただきました。物語自体がすごく大人っぽいですし、なかなか1回では理解をするのが難しいくらいに人間ドラマが詰まっていて、私が10代の頃に出会っていたならまた印象が違っていたのかなと思いつつ本当に深い作品だなぁ、と感じます。その『機動戦士ガンダム』という素晴らしい作品の長い歴史の中に携わらせていただけることに対して、ちょっと震えるような気持ちもあります。 ――その作品に関わられることになった“主題歌”。楽曲でどのように表現をしようとお考えになったんでしょうか? SUGIZO:長い間、僕はガンダムに影響を受けているので、僕の音楽のテイストとか音楽から見える景色とか、自分が音楽を生んでそこに乗って旅をしたい感覚や宇宙的な憧れ、実はあらゆるところが知らず知らずのうちにガンダムに起因しているんですよね。自分の音楽観や音楽に対する哲学のベーシックな部分にガンダムはかなり大きくて。自分が気持ちのいいことを自然に表現すればそれがガンダム的になると認識しています。音楽観の重要な部分をガンダムから学んだというか、発想を植え付けていただいたというか。なので、今回の作品を作るにあたり、自分がこの作品に影響を受けて今ここにいるわけだから、何も考えずに自分が一番気持ちいいと思うこと、自分が一番得意なことを表現すればマッチングしないわけがない、と自分に言い聞かせて作業していきました。 ――そして完成したエンディング第3弾がmiwa さんとの「A Red Ray」。miwaさんらしさを引き出しつつ『THE ORIGIN』の世界に浸透させるためにどのようなお考えで楽曲を制作されたのでしょうか? SUGIZO:一般的なmiwaちゃんのイメージって、すごく元気ではつらつとしていて、応援歌を歌う可愛い女の子。でもただ元気なだけじゃない部分は、実はこれからのmiwaというアーティストにとってすごく重要なんじゃないかなっていう気がしていて。そこを拡げて今までから一歩、その先に踏み出したmiwaちゃんと表現できたらいいね、という話から制作をはじめました。今回はLUNA SEAがTM NETWORKの「BEYOND THE TIME(メビウスの宇宙を越えて)」をカバーするので、エンディングはオリジナル曲となりました。作詞についてはちょっと脅しもかけてね(笑)。「ガンダムだからね? 哲学的だよ」って。そういうものを作ろうね、というやりとりをしていましたね。 miwa:すごく素敵な楽曲をご提供いただいたので、歌詞を書くときにもSUGIZOさんに相談をさせていただいて、沢山アドバイスをいただいて作っていきました。わたしがガンダムに触れてみて思ったガンダムの世界観だったり、言葉だったり、というのをご提案させていただいて、歌詞の世界観を作っていきました。歌詞でも歌い方でも、人間的な深みを出すというのはこれから30代に向けて自分に必要な要素だと感じていて、そこの殻は破っていきたいと人としても音楽をやる身としても考えていたので、チャレンジさせていただける楽曲との出会いにすごくワクワクしました。 ――そんなmiwaさんはフランスで開催の【JAPAN EXPO】に出演されるということで、海外のガンダムファンの熱を感じられますね。 miwa:そうなんです。ガンダムブースにもお邪魔しようかなと思っています。それにこの「A Red Ray」は初披露になるので、楽しみです。 ――では最後にメッセージをお願いします。 miwa:今回の作品は今までのガンダムの前の時代の作品で、ここから見ていくとファーストガンダムでのガンダムが登場する瞬間がどう生まれたのかがわかって、そのときの感動を味わえるので、ぜひご覧になっていただいて、「A Red Ray」も聴いていただきたいです。 SUGIZO:僕は世界中の人と繋がりたい。どんな宗教でも習慣でも民族でも、違いはもちろんあって、でも違いがあっても仲間になれるし、友だちにも家族にもなれると思うから。そういう理想を体現しているのが『機動戦士ガンダム』という作品な気がしています。なので色んな国の人と(主題歌で)繋がりたいし、色んな国の人に(『THE ORIGIN』を)見てもらいたい。そしてmiwaの歌を世界中の人に聴いて欲しいです。 取材・文:えびさわなち 撮影:Wataru Nishida(WATAROCK) 撮影場所:THE GUNDAM BASE TOKYO (C)創通・サンライズ ◎リリース情報 SUGIZO feat. miwa「A Red Ray」 2019/6/25配信スタート ◎イベント情報 【GUNDAM 40th FES."LIVE BEYOND"】 2019年9月7日(土)17:00開場/18:00開演 2019年9月8日(日)16:00開場/17:00開演 会場:千葉・幕張メッセイベントホール 9月7日出演者(50音順):西川貴教、森口博子、LUNA SEAほか 9月8日出演者(50音順):澤野弘之/SawanoHiroyuki[nZk]、森口博子、LUNA SEAほか チケット:全席指定9,800 円(税込) ※出演者は予定なしに変更となる場合がございます。 ※出演者変更に伴うチケットの払戻しは致しかねます。 ※3歳以上有料 ◎番組情報 『機動戦士ガンダムTHE ORIGIN 前夜 赤い彗星』 毎週月曜午前0:35(日曜深夜)~、NHK総合テレビにて放送中 ※関西地方は、毎週月曜午前1:09(日曜深夜)~放送中
billboardnews 2019/06/25 00:00
グーグル社員が自分のスマホからGmailを削除したワケ
グーグル社員が自分のスマホからGmailを削除したワケ
※写真はイメージです(GettyImages)  グーグルで最速仕事術「スプリント(デザインスプリント)」を生み出し、世界の企業の働き方に革命を起こしてきた著者が、今度は、時間を最大限に有効に使うメソッドを生み出した。それをまとめたのが『時間術大全――人生が本当に変わる「87の時間ワザ」』(ジェイク・ナップ、ジョン・ゼラツキー著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)だ。同書はたちまちのうちに話題となり、世界16ヶ国で刊行が決まっている。  著者のジェイク・ナップはグーグルで、ジョン・ゼラツキーはユーチューブで、人の目を「1分、1秒」でも多く引きつける仕組みを研究し続けてきた「依存のプロ」だ。  そんな人間心理のメカニズムを知り尽くした2人だからこそ、同書の時間術はユニークかつ、きわめて本質を突いている。「人間の『意志力』などほとんど役に立たない」という、徹底して冷めた現実的な視点からすべてが組み立てられているのだ。  さらに、「いくら生産性を上げても、ひたすら他人の期待に応えているだけ」で、自分のためになっているわけではないという。では、このテクノロジー全盛のスピードの速すぎる世界で、人生を本当に豊かにするには、いったい時間をどう扱うべきか? 本稿では同書から特別にハイライトを紹介したい。 ●気がつくとスマホを見ている  あれは2012年のことだ。リビングルームで息子が木製の電車セットで遊んでいた。ルーク(当時8歳)はせっせと線路をつなげ、フリン(赤ん坊)は機関車によだれを垂らしていた。そのときルークがふと顔を上げて、言ったのだ。「パパ、どうしてスマホを見てるの?」  ルークは僕をとがめるつもりはなく、ただ不思議に思ったのだろう。でも僕はうまく答えられなかった。もちろん、その瞬間にメールをチェックする理由が何かあったはずだが、大した理由じゃない。その日は子どもたちとすごす時間を朝から楽しみにしていて、やっとその時間が来たというのに、僕はうわのそらだった。  そのとき、頭のなかで何かがカチリとはまった。僕はこの一瞬だけ気が散っていたんじゃない。問題はそれよりずっと根深いのだ。  来る日も来る日も、僕はただ目の前のものに反応していた。予定表に、受信したメールに、際限なく更新されるネット上のコンテンツに。家族との時間がどんどんこぼれ落ちていったが、何のために? あともう1つメッセージに返信し、あともう1つやることリストから項目を消すために?  これに気づいた僕は、心底がっかりした。なぜって、僕はそれまでバランスのとれた生活をめざして努力してきたつもりだったからだ。 ●iPhoneから「気を散らすもの」を削除する  このころ、僕は生産性と効率性の達人を自負していた。勤務時間をそこそこに抑え、毎晩夕食に間に合う時間に帰宅した。理想的なワークライフバランスだと思っていた。  でももしそうなら、なぜ8歳の息子にうわのそらだと見抜かれたんだろう? 仕事をコントロールできていたはずなのに、なぜいつも気ぜわしく、気が散っていたのか? 朝200通あった未処理メールを深夜までにゼロにしたからといって、充実した1日だったと本当にいえるのか?  そして僕は、はたと気づいた。生産性を高めたからといって、いちばん大事な仕事をしていることにはならない。たんに他人の優先事項にすばやく対応しているだけなのだと。  僕はネットをいつも気にしていたせいで、子どもに正面から向き合っていなかった。本を書くという「いつかやりたい」大きな目標も、ずっとあとまわしにしていた。実際、1ページもタイプしないまま数年がすぎていた。誰かのメールや誰かの更新情報、誰かのランチ画像の海で立ち泳ぎするので精一杯だった。  僕は自分にがっかりしただけでなく、猛烈に腹が立った。怒りにまかせてスマホからツイッター、フェイスブック、インスタグラムのアプリを削除した。ホーム画面から1つアイコンが消えるたび、心の重しが取り除かれるような気がした。  それからGmailのアプリを見て歯ぎしりした。当時僕はグーグルにいて、Gmailのチームで何年も開発に取り組んでいたのだ。僕はGmailを愛していた。それでも心を鬼にした。そのとき画面に表示されたメッセージを、いまも覚えている。信じられないとでもいうかのように、本気でアプリを削除するつもりなのかと聞いてきたのだ。僕はゴクリと唾を飲み込み、「削除」をタップした。 アプリがなくなったら不安や孤独を感じるのではないかと思っていた。その後の何日かで、たしかに心に変化があった。といっても、ストレスを感じたんじゃない。むしろホッとして、解放感を覚えていた。  ほんの少しでも退屈するとiPhoneに反射的に手を伸ばすクセがなくなった。子どもたちとの時間は、いい意味でゆっくりすぎていった。 「なんてこったい」と僕は思った。「iPhoneですら毎日を豊かにする役に立っていなかったのなら、ほかはどうなんだ?」  僕はiPhoneと、iPhoneがくれる未来的な能力を愛していた。でもその能力とセットでやってきたデフォルトをそっくりそのまま受け入れたせいで、僕はポケットのなかのピカピカのデバイスにいつも縛られていたのだ。 ●「リセット」できるものを洗い出す  自分の生活にはほかに考え直し、リセットし、デザインし直さなくてはならない部分がどれだけあるだろうと考えた。何も考えずに受け入れてしまっているデフォルトはどこにある? そして主導権を取り戻すにはどうしたらいいのか?  iPhoneの実験のすぐあとに、僕は新しい仕事に移った。まだグーグルにいたが、社外のスタートアップに投資を行うベンチャーキャピタル、グーグル・ベンチャーズ(現GV)の所属になったのだ。  そこで初日に出会ったのが、ジョン・ゼラツキーという男だ。 最初、ジョンのことを嫌いになろうとした。ジョンは僕より若いうえに、正直ルックスも僕よりいい。そのうえいけ好かないのは、いつも穏やかなところだ。ジョンがストレスに苦しむ姿なんて見たことがない。  重要な仕事を予定より早く終わらせ、サイドプロジェクトの時間まで見つけている。早く起き、早く仕事をすませ、早く帰宅する。いつもにこやかにほほえんでいる。なんでそんなことができるのか?  とはいえ、僕は結局ジョン、通称JZと仲よくなった。JZとはとてもウマが合うことがすぐわかった――いまでは兄弟同然だ。  JZ も僕と同じで、多忙をよしとする風潮にうんざりしていた。僕らは2人ともテック好きで、技術系サービスのデザインに長年関わっていた(僕がGmailのチームにいたとき、JZはYouTubeにいた)。だが僕らはそうしたサービスに膨大な注意と時間が浪費されていることにも気づき始めていた。  そしてJZも僕と同じく、この現状を何とかしなければと思っていた。JZはこの問題に関しては、オビ=ワン・ケノービ的存在だった――ローブの代わりにチェックのシャツとジーンズを身にまとい、フォースの道の代わりに「システム」を信奉しているという点だけが違った。 ●気を散らすものを遠ざける「システム」  彼の説く「システム」は神秘的ですらあった。まだ具体的なかたちにはなっていなかったが、「そういうものがたしかにある」とJZは信じていた。「システム」とは要するに、気を散らすものを遠ざけ、エネルギーを保ち、もっと時間をつくるためのシンプルな枠組みだ。  ちょっと引くだろう? 僕も最初はそうだった。でも彼が「システム」について語るのを聞きながら、いつしか激しくうなずいている自分がいた。古代人類史や進化心理学にくわしいJZは、僕らの狩猟採集民としてのルーツと、めまぐるしい現代世界とのあいだの大きなギャップに、問題の一端があると考えていた。  また彼はプロダクトデザイナーの視点から、この「システム」を機能させるには、意志力だけに頼って気を散らすものと戦い続けるより、デフォルトを変更してそういうものから距離を置くしかないと考えていた。  そうか、と僕は気づいた。この「システム」とやらは、もし本当に完成させることができれば、まさに僕が求めていたものになる。  そんなわけで僕はJZとタッグを組んで、冒険の旅に乗り出したのだ。 ●僕らは何者で、これはいかなる本か?  僕らはジェイクとJZだ。イーロン・マスクのようなロケット開発をしている大富豪でもないし、ティム・フェリスのようなハンサムな教養人でも、シェリル・サンドバーグのような天才的経営者でもない。  時間管理法の本といえば超人が書くものか、超人について書かれたものと決まっているが、この本には超人はいっさい登場しない。僕らは読者のみなさんと同じ、ストレスにやられたり気が散ったりする、あやまちを犯しがちなふつうの人間だ。  僕らがちょっと変わった視点をもっているのは、長年テクノロジー業界でGmailやYouTube、グーグル・ハングアウトなどのプロダクトの構築に関わってきたプロダクトデザイナーだからだ。  僕らはデザイナーとして、抽象的なアイデア(「メールが自動的に振り分けられたらよくないか?」など)を現実世界の解決策(Gmailのプライオリティボックスなど)に変える仕事をしてきた。そのために、テクノロジーが生活のなかでどういう位置づけにあり、生活をどう変えているのかを理解する必要があった。  この経験をとおして、スマホやラップトップ、テレビなどにあふれている便利なサービスはなぜこんなに魅力的なのか、こうしたテクノロジーに主導権を奪われないようにするにはどうしたらいいかについて、僕らなりの考えをもつようになった。 ●時間は「デザイン」できる  そうして数年前、僕らは時間という目に見えないものを「デザイン」できることに気がついた。でもその気づきをテクノロジーや事業機会として開拓するより先に、僕らの人生のいちばん意味のあるプロジェクトやいちばん大事な人たちとの時間にあてはめることにした。  毎日、自分にとっていちばん大事なことのために、少しだけ時間をつくろうとした。多忙こそ正しいとみなす世の風潮を見直し、やることリストと予定表をデザインし直した。無意識に受け入れているあらゆる習慣を見直し、テクノロジーを利用する時間と方法をデザインし直した。  僕らの意志力には限りがあるから、どのデザインも簡単に実行できるものでなくてはならなかった。また約束を全部断るわけにはいかないから、制約条件のなかで動いた。実験と失敗、成功を重ね、やがて答えにたどりついた。  本書では、僕らが編み出した原則と戦術を紹介しつつ、僕らの犯したヒューマンエラーや、オタクっぽい解決策についても語ろうと思う。 (本原稿は、『時間術大全――人生が本当に変わる「87の時間ワザ」』<ジェイク・ナップ、ジョン・ゼラツキー著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社>からの抜粋です) ジェイク・ナップ(Jake Knapp) 著術家、IDEO客員研究員。グーグルで、あらゆる仕事を最速化する仕事術「スプリント(デザインスプリント)」を生み出し、Gmailの改良に生かすなど大きく貢献。その後GV(旧グーグル・ベンチャーズ)のデザインパートナーとして、スプリントをスラックやウーバー、23andMeなどで150回以上にわたり実行し、プロダクト構築を助ける。2017年より現職。現在もレゴ、ニューヨーク・タイムズなどにスプリントをコーチングしている。スプリントは世界中に広まり、国連や大英博物館を含む多くの企業や組織が事業戦略として活用している。著書に世界的ベストセラー『SPRINT 最速仕事術』(ジョン・ゼラツキー、ブレイデン・コウィッツと共著、ダイヤモンド社)がある。 ジョン・ゼラツキー(John Zeratsky) YouTube、グーグルなどのテクノロジー企業で、デザイナーとして「時間」を再設計するミッションに没頭してきた。GVのデザインパートナーを経て、現在は「ウォール・ストリート・ジャーナル」「タイム」「ハーバード・ビジネス・レビュー」「WIRED」他で執筆。ハーバード大学、IDEOなどの舞台に100回以上にわたって登壇するなど、スピーカーとしても活躍している。 櫻井祐子(さくらい・ゆうこ) 翻訳家。京都大学経済学部経済学科卒、大手都市銀行在籍中にオックスフォード大学大学院で経営学修士号を取得。訳書に『SPRINT最速仕事術』『第五の権力』『0ベース思考』(以上、ダイヤモンド社)、『NETFLIXの最強人事戦略』(光文社)、『選択の科学』『CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見』(以上、文藝春秋)、『OPTION B 逆境、レジリエンス、そして喜び』(日本経済新聞出版社)などがある。
働き方
ダイヤモンド・オンライン 2019/06/24 14:58
ホスト帝王ローランドに東大卒占い師…王子様の“刺さる”言葉
ホスト帝王ローランドに東大卒占い師…王子様の“刺さる”言葉
 たとえ自分より若い世代の人であっても、勢いのある人の言葉には、心がゆさぶられることがあるものだ。いま各界で注目を集めている、3人の王子(!)に猛烈アタック。イキのいい金言、ざくざく獲れてます。心のサプリメントとして、ぜひご活用を! ライフジャーナリストの赤根千鶴子氏がリポートする。 *  *  * ■現代ホスト界の帝王ROLANDさん ROLAND/1992年生まれ。東京都出身。ホストクラブ「THE CLUB」オーナー。タレント、実業家。サッカーの名門・帝京高校サッカー部出身。大学を早々に自主退学し、18歳でホストに。初の著書『俺か、俺以外か。』(KADOKAWA)も大人気(撮影/鈴木芳果)  ここは新宿・歌舞伎町。モノトーンで統一されたシックな店内に流れているのはクラシック音楽だ。ホストクラブ「THE CLUB」に流れる空気は、まるで“サロン”のよう。 「金曜日のBGMはクラシックにしているんです。ホストは全員ブラックのタキシードを着て、フォーマルスタイルでおもてなしさせていただく日にしています」  あ・ら・まー。オーナーのローランド様がいきなり登場。で、でかいですね。 「態度ですか?」  いえ、背丈のことですってば(笑)。  ローランド伝説はあげればキリがない。そのちょっと“俺様”な発言がテレビで大受けし、一躍人気者に。昨年7月の自身のバースデーイベントでは6千万円以上の売り上げを記録。名言録が書籍として発売されれば、わずか1カ月で10万部超えの大ヒット。文字どおり“飛ぶ鳥落とす勢い”の活躍ぶりだが、こうして直接お会いしても、この方にはフワフワ浮かれたところがない。におうなあ……。 「えっ、何かにおいますか? うさん臭いとか(笑)」  いえ、逆です。どこかお坊ちゃま臭い。 「俺は決してお坊ちゃま育ちではないですが、やりたいことをやらせてもらえる環境で育ってきました。それはとてもありがたいことだと思っていますし、両親には心から感謝しています」  ミュージシャンである父からは、人生を生き抜くには三つのコツがあると教えられてきた。一つ。まず女性に勝とうなどとは絶対に思うな。尊敬の念を持って、尻に敷かれろ。二つ。ほめ言葉は額面どおりに受け取れ。猜疑心など持たないほうが、人生はラクである。三つ。三つ目は、自分自身で考えよ。1から10まで親から教わったのでは、自分の力で生き抜くことはできない。三つ目のコツは常に自分自身で考え、気付くべきときに気付く人間であれ。  かっこいい! ローランドパパ! 「まあ、この三つ目のコツに関しては、俺のつたない人生経験ではまだ見つからないんですけれどね」  18歳でホストになったのは、大学に自分の居場所はないと判断したからだ。一度しか生きられないのに、なんとなくキャンパスライフを送っている暇はない。ダイナミックに人生を変えるなら、ホストだ。そして自分で起業するなら、一生困らないだけのお金をためてからだと心に決めたのだ。 ROLANDさん(撮影/鈴木芳果) 「人間って、お金に困ると心に余裕がなくなってしまうでしょう。でも仕事をする動機がお金以外に何もなかったらおもしろくないじゃないですか。金儲けよりやりがいを追い求める仕事のほうが、自分は楽しいと思うので。でもそう考えると、まあこれくらいあったら生きていけるかなあというものは、きちんと手元にあったほうがいいかなと考えたのです」  いまローランド様はホストクラブのほか、メンズ美容サロンなど、さまざまなビジネスを展開している。 「『来てよかった』『楽しかった』。そんな“夢”を提供できる空間の完成度を今後もっと高めていければと思っています。エンターテインメント事業が俺の天職ですから」 ところでローランド様の背景に広がる英文字。これはアップル創業者、故スティーブ・ジョブズのスピーチの一節(Stay hungry, Stay foolish=貪欲であれ、愚か者であれ)では? 「そのとおりです。スタンフォード大学の卒業式で行った祝辞の一節ですよ」  そういえば、ジョブズも早々に大学を中退し、起業家として名を馳せた人物だ。 「好きなんです。シンプルな生き方を追求した人ですし、仕事をする上でお金より世の中に衝撃を与えることを一番の目標にしていたところを尊敬しています」  なるほど。ローランド様の“無駄をよしとしない”合理主義は、ジョブズの影響を受けていたのか。  ではローランド様。最後に人生を前向きに生きる極意についてレクチャーを。 「後ろ向きに生きることは非常に生産性のないことです。たとえばデパートという目的地があったとしましょう。後ろ向きでそこまで行くのは危険ですし、簡単なことを自ら難しくしているのと同じです。だから嫌なことがあっても後ろは振り向かないこと。前を向いて歩けば、すんなり目的地に行けますから。いま目の前にあることに意識を集中して、というのがローランドからのアドバイスです」  頭角を現す人間は、やはり人の心に刺さるものを持っているもの。ローランドとは、筋の通った“一筋縄ではいかない男”なのである。 ■いまをときめく天才振付師・ダンサーTAKAHIROさん TAKAHIRO(たかひろ)/東京都出身。2006年にダンサーとして米国プロデビュー。07年から日本でも活動開始。欅坂46などさまざまなアーティストの振り付けを担当。近年は演出家としても活躍中。近著に『ゼロは最強』(光文社) 写真=(c)篠山紀信  女性アイドルグループ「欅坂46」の最新シングル「黒い羊」のミュージックビデオは圧巻だ。大人の心にこそ、響いてくるものがあるように思う。  そこに描かれているのは、真っ白な羊の群れに同調できない黒い羊の孤独であり、葛藤。自分を捨てて、群れて生きればラクだろう。だがそれが「自分」の人生か?群れの色に染まるな。プライドを捨てるな。孤高に生きよ。欅坂46の歌とダンスパフォーマンスから伝わってくるのは、そんな力強いメッセージだ。  振り付けを担当したのはTAKAHIROさん。TAKAHIROさんは欅坂46をはじめ、多くのアーティストの振り付けや舞台演出を手がけている。意外なことに、18歳までダンスとは無縁の人生だったという。 「勉強もスポーツもうまくいかない、自己肯定感の低い人間でした。正直、僕なんかいてもいなくても同じ。周りもたぶんそう思っていたと思います」  しかし大学入学前にたまたま見たテレビで人生は一変した。 「タレントの風見しんごさんが踊り、歌う姿に衝撃を受けたのです。バック転したり、床の上を背中でくるくる回ったり。体ひとつでこんなことができるなんて。僕には何の取り柄もない。でももし僕にもこんな動きができるようになったら『すごい』と認めてもらえることもあるのじゃないかな。そう思って、ダンスを始めたのです」。それは、今までやりたいこともなかった人生に“能動スイッチ”が入った瞬間だった。  大学卒業後は渡米し、NYのダンススクールで3年間体に基礎をたたき込んだ。「独創性はあっても基礎が全然なってないと、僕を馬鹿にしてくる人もいました。だから必死で」  努力の甲斐があり、2009年には歌手・マドンナのワールドツアー専属ダンサーに抜擢されるという栄誉に輝く。07年から、日本での活動も開始。その才能はとどまるところを知らず、いまやTAKAHIROさんが創り出す世界はひとつの演劇として高い評価を得ている。  TAKAHIROさんのモットーは、自分を常に「背水の陣」に置くことだ。 TAKAHIROさん(撮影/写真部・掛 祥葉子) 「自分であえて、振り返れば川しかないところまで追い詰めるのです。もう逃げられない。ここで戦って、勝つしかない。そういう状況になったときの人間の内側から出てくるエネルギーは、実はすさまじいものであったりします。その繰り返しが、自分の活動の枠を広げる原動力になっているんじゃないかな」  また、亡くなった父の言葉も大切にしている。 「いつも『なんでもやってみましょう』という言葉を口にする、とてもポジティブな人でした。実は僕も父も好きな歌があるんです」 「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」  親鸞の歌で、桜は明日も咲いているだろうから今日見なくても大丈夫と思っていると、夜のうちに嵐で散ってしまうかもしれないという意味だ。 「今やろうと思ったことは、今やれるときにやらなければ。明日でいいと思ったら、チャンスはきっと逃げてしまいます。『やってみましょう』という思いは、そのときに形にしていくこと。それが自分の新しい人生を切り開くことにつながると思います」  TAKAHIROさんは存在だけでなく、その言葉ひとつひとつの中にもエネルギーが宿っている人なのだ。 ■東大法学部卒のタロット占師ムンロ王子さん ムンロ王子(むんろおうじ)/ハイブリッドパフォーマー。東京大学法学部を卒業後、大手コンピューター会社勤務を経て独立。IT会社を経営しながら趣味で始めたタロット占いが評判となり、注目を浴びる存在に。フェイスブックで情報を発信中 (撮影/小暮 誠)  かわって、いま中高年の女性たちに人気の占師・ムンロ王子さんにも檄を飛ばしていただこう。 「今や人生は100年時代なのよ。60過ぎたくらいで『私の人生なんか、いまさら』と言ってたら、あとの40年どうするのよ。子どもや夫を生きがいのすべてにしてはだめ。人生の第二章は自分のために、そして社会のために生きなきゃ」  王子の肩書は正しくは“ハイブリッドパフォーマー”。IT企業の経営の傍ら、タロット占師、シャンソン歌手、朗読家としても活動しているという「年齢不詳」の男性だ。  テレビ等ですでに有名な話だが、王子は東大法学部卒。趣味で始めたタロット占いが当たると噂になり、気づけば10年で1万人を占っていた。いまは都内の複数のカルチャースクールでタロットカードの授業も受け持つ人気ぶりだ。 「タロットは78枚のカードからその人の現在、過去、未来を読み解くもの。私が皆さんにしていることは正確に言えば『占い』というより『カウンセリング』に近いと思います」  王子は皆に説く。 「子育てが終わっても、それは人生のゴールではありません。企業に定年はあっても、人生に定年はないのです。経験は財産です。その財産は社会のために役立てるべきだし、そうやって社会に関わることが自分の存在価値を生むの。若い世代のためにボランティア活動に尽力したっていいじゃないですか。私のしていることも、精いっぱいの草の根運動ですよ」  次の一歩が踏み出せない人たちの背中をそっと押し続けてあげられればと思っている。 「どうせ死ぬんだから頑張らない、なんて言っていたら、いつまでたっても何も始まらないのよ」 (ライフジャーナリスト・赤根千鶴子) ※週刊朝日  2019年6月28日号
週刊朝日 2019/06/24 11:30
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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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