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「ラーメンを食べるな!」と言われた一流ホテルシェフが55歳でキャリアを捨て、ラーメン屋を始めた理由
井手隊長 井手隊長
「ラーメンを食べるな!」と言われた一流ホテルシェフが55歳でキャリアを捨て、ラーメン屋を始めた理由
くろ喜の「特製醤油そば」は一杯1500円。こだわりのラーメンだ(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介するこの連載。和食やイタリアンで経験を積み、季節に合わせた旬の食材で作るラーメンが人気の「饗 くろ喜(もてなし・くろき)」の店主が愛するラーメンは、高級ホテルの元総料理長が料理人生の全てをかけて作った一杯だった。 ■“1000円の壁”を超えたラーメンを作る理由  店主・黒木直人さん(47)は和食やイタリアンの世界で21年の経験を積み、ラーメンの世界に飛び込んだ。2011年6月に浅草橋にオープンした「饗 くろ喜」が提供する季節の食材を丼に落とし込んだ「旬」のラーメンは、まさに黒木さんにしか作れない一杯。たくさんのラーメンファンを魅了している。グルメサイト「食べログ」では3.96点をマーク。全国のラーメン店51768件のなかで8位となっている(19年6月15日現在)。 饗 くろ喜/東京都千代田区神田和泉町2-15/11:30~15:00、18:00~21:00。水曜は11:30~15:00。麺がなくなり次第終了/水曜夜、日曜、祝日定休/筆者撮影  これほど人気のラーメンをミシュランガイドが放っておくわけがない。「ミシュランガイド東京」では2017、2018と2年連続でビブグルマンを獲得している。しかし、実は黒木さん自身は掲載を断り続けてきた。 「『くろ喜』のラーメンはまだまだミシュランガイドに載るレベルに達していません。載せないでくれとお願いしましたが、2年間載ってしまったんです」(黒木さん)  実際、「くろ喜」が掲載された誌面には写真がなく、「No Image」になっている。世間の評価に左右されず、自分の目標だけを見ている黒木さんの姿勢が見て取れるエピソードだ。  その姿勢はラーメンの“値段”にも表れている。現在、塩そばは1000円、醤油そばは1200円。決してお手頃とは言えない。前回、「和食とイタリアンを極めた浅草橋の行列店店主が最後に“ラーメン”を選んだシンプルな理由」(2019年6月9日配信)で紹介した際にも、この価格に驚きの声が上がった。 店主・黒木直人さん。一杯ずつ丁寧に仕上げる姿は職人技だ(筆者撮影)  ラーメンには「1000円の壁」という課題がある。どんなに美味しくても1000円を超えるとお客さんから「さすがに高い」と思われてしまう。多くのラーメン店は原価や人件費の高騰と戦いながら、必死で“1000円以内”を守っているというのが現状だ。  しかし、「くろ喜」は常識にとらわれない。本当に美味しいものにこだわり抜き、手間暇かけて丁寧に一杯のラーメンに仕上げていく。当然、値段も他の店に比べて高くなる。自分のラーメンにこだわり続けた結果、オープンから3年、「1000円の壁」を超えることになる。 「美味しいものを表現するのに、値段は関係ありません。ファストフードとは違うことを見せつけて、ラーメンには1000円以上の価値があるということを証明したかったんです」(黒木さん) 丼手前に吹かれた醤油もこだわりの一つ。スープを飲むと、まず醤油の香りと旨味がふわっと広がり、そこにスープの旨味が遅れてやってくる(筆者撮影)  黒木さんが目指すのは「上質」と「本物」。安くて美味しいことも大切だが、料理には「上質」なものが必要だと考えているという。 「『労力を惜しまず作る』というのは簡単ですが、実行するのは大変なこと。それに、従業員の生活もあります。作っている側に余裕がないと、お客さんの満足度も上げられないと思うんです。だからこそ、しっかりお金をいただくというのは大切だと思います」(黒木さん) 「1000円の壁」によって、本当はもっと美味しくできるのに妥協してしまうのはもったいない話だ。安くて美味しいラーメンが存在する一方、「くろ喜」のような上質なラーメンもあっていいと思う。  常に時代に合ったラーメンを作っていきたいという黒木さんだが、悩みもある。和食やイタリアンなどさまざまな料理を経験してきたことから、どんな食材でもラーメンに仕上げることができる。だからこそ、ゴールが見えないのだ。「何がラーメンなのか」という答えのない問いと戦いながら、日々新しいラーメンを追求し続けている。支店や店舗展開は考えず、一料理人として生涯厨房に立ち続けたいという。  そんな黒木さんが愛するラーメンは、一流ホテルの総料理長まで務めたラーメン職人が、人生をかけて作る一杯だった。 ■「ラーメンを食べるな」と言われたホテルシェフの挑戦 神田 勝本/東京都千代田区猿楽町1-2-4/11:00~17:00/日曜日定休/筆者撮影  京都全日空ホテル(現・ANAクラウンプラザホテル京都)の元総料理長・松村康史さん(59)は、36年という長きに渡り、ホテルのシェフとして腕を振るってきた。そんな松村さんが料理人人生の最後に選んだのが「ラーメン」だった。15年3月に独立し、水道橋に「中華そば 勝本」をオープン。今では、「神田 勝本」(神保町)、「銀座 八五」(東銀座)を含む3店舗を展開している。  1959年に京都で生まれた松村さんは、高校卒業後に調理師の専門学校に入学。当時は、ナポリタンのような西洋料理を日本人向けにアレンジした洋食が流行っており、京都でも日本風にアレンジしたフレンチやイタリアンが注目を集めていた。松村さんも、洋食の料理人を目指すことを決意した。  専門学校卒業後、19歳で比叡山国際観光ホテル(現・星野リゾート ロテルド比叡)に入社。皿洗いや野菜の皮むきなどのから始まり、2年間の下積みののち、3年目から徐々に料理をさせてもらえるようになる。鶏や魚のさばき方から、カレーのルゥの仕込みまで、料理の基本を1から身につけることができた。 店主の松村康史さん(筆者撮影)  27歳のときに、新規オープンする京都全日空ホテルに転職。総料理長の下に、各セクションの料理長がおり、入社時、松村さんは85人いる洋食部門の下から15番目ぐらい。宴会料理やブライダルを担当し、最終的には全ての料理を統括する総料理長にまで上り詰めた。  料理人として順風満帆にキャリアを重ねた松村さんだったが、ホテルがANAクラウンホテルに売却されるタイミングで退職を決意する。55歳のときだった。  松村さんはそれまで、15000~20000円という価格帯の高級フレンチを作ってきた。だが、もっと安い値段で本当に美味しいものが提供できたらどれだけ素晴らしいだろうと考えた。丼の中で前菜からメインディッシュまで完結し、気取らず食べられるラーメンに惹かれた。ホテルの上司からは「ラーメンは味が濃いから食べるな」と言われていたが、松村さんは京都の名店「新福菜館」「本家第一旭」「天下一品」などをこっそり食べ歩いていた。そして料理人として最後のステージに「ラーメン」を選んだ。  ホテルの総料理長だった自分ならすぐに美味しいラーメンを作れるだろうと高を括っていたが、現実はそう甘くはなかった。美味しいブイヨンは作れるのだが、上品すぎるスープに麺が入るとバランスが変わって“ラーメン”にはならない。今までの料理で取り除いてきた、えぐみや雑味がラーメンでは旨味に変わることもわかってきた。上品さを保ちながらもラーメンとして成立する一杯を目指し、研究を重ねた。 最初にオープンした「中華そば 勝本」の「味玉濃厚煮干しそば」(筆者撮影)  試行錯誤の結果、松村さんは「煮干」を極めようと考えた。「永福町大勝軒」など東京の煮干ラーメンの名店を食べ歩き、煮干の使い方を学んでいった。東京で食べ歩く中で、勝負すべき場所が京都ではなく東京であることにも気づく。 「東京のラーメンはレベルが違います。わざわざ電車を乗り継いで、並んでまで食べたいラーメンがたくさんある。ラーメンで勝負するなら、東京しかないと思いましたね」(松村さん)  2年半の準備期間を経て、15年3月、水道橋に「中華そば 勝本」をオープンする。名古屋コーチンに煮干や削り節を合わせて作った本格的な中華そばは、濃厚ながらも調和のとれた上品な一杯だ。麺は老舗の浅草開化楼が特注麺を作ってくれた。「勝本」という店名は、松村さんが敬愛する俳優・渡辺謙さんが主演映画「The Last Samurai」で演じた「勝元盛次」の役名から拝借した。武士の精神でラーメンと向き合いたいという気持ちと、東京で「勝」って日本一になるという決意が込められている。 中華そば 勝本/東京都千代田区三崎町2-15-5 三崎町SSビル1F/11:00~22:30/日曜日定休/筆者撮影  満を辞してのオープンだったが、繁盛したのは最初の1週間だけだった。オープン景気が過ぎると客足は一気に引き、日の売り上げが10万円に届かない日が続いた。味の不安定さが原因だった。  レシピを何度も見直し、味のブレをなくしていった。味が安定するようになると売り上げも上がり、1年後には午後4時になっても行列が生まれるまでになった。  16年2月には神保町に「神田 勝本」をオープン。1号店よりもさらにあっさりとしたラーメンとつけ麺を提供している。 「神田 勝本」の味玉清湯(しょうゆ)そばは一杯930円(筆者撮影) 「くろ喜」の黒木さんは、「神田 勝本」の味玉清湯(しょうゆ)そばと豚ほぐし、白飯をいつもセットで注文するという。スープは鶏に焼きアゴ、平子煮干、片口鰯、宗田鰹、胡麻鯖に醤油ダレ、柚子がほのかに香る。じんわり美味しく奥行きもあり、具のどれもがバランスよく整っている。何の違和感もなくすっと入ってくる美味しさで、素晴らしい一杯だ。ご飯はつやつやに光る魚沼産こしひかり。出汁に使った鰹節などで作ったふりかけも付いてきて、豚ほぐしとともにご飯に乗せて食べるのがまた絶品なのだ。「清湯」と書いて「しょうゆ」と読ませる演出もニクい。 箸には一膳ずつ紙がまかれている(筆者撮影)  味はもちろんだが、とにかくホスピタリティが徹底しているのが「勝本」だ。年配者や女性でも入りやすいようにと、高級割烹のような店内では真っ白な白衣(調理服)を着た従業員がおもてなしをする。席に着けば、まずおしぼりが出てくる。箸の先には一膳ずつ紙が巻いてあり、松村さんがホテル時代に身につけた「お客様をお迎えする」という気持ちがあらゆる部分に表れている。 「店のしつらえは、味と同じぐらい重要です。料理は五感を使って楽しむもの。味覚以外にも気を配らなくては一流とは言えません」(松村さん)  カウンターを見渡すと全員女性という日もあるという。店構えをしっかりすることで、客層を広げることにもつながっているのだ。 黒木さんがセットで注文する豚ほぐし、白飯(筆者撮影) 「くろ喜」の黒木さんは、松村さんを目標にしている。 「どこを取っても本当に上質ですよね。お店のしつらえはもちろん、仕事の一つひとつが本当にきれいです。エッジの効いたネギの切り方、振り柚子、ご飯はピカピカで湯気まで出ています。流行り廃りに左右されない、しっかりしたものを提供されています。ラーメン業界出身でないのに『超』ラーメンを出している。すごい方です」(黒木さん)  松村さんも黒木さんの食材への向き合い方を高く評価している。 「調味料や麺を主役に置かず、旬の素材を主役にしてラーメンに落とし込むというのは、今までのラーメンにない考え方です。まさにラーメンを『料理』として捉えています。これまでのラーメン文化を超えるものを作っていると思います」(松村さん)  それぞれの道で料理を極めた二人が作るラーメンは、常識にとらわれない新たな風をラーメン界に吹かせてくれている。(ラーメンライター・井手隊長) ※「くろ喜」の「喜」は「七」を三つ並べたものです。 ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2019/06/23 11:30
鉄道車両を個人で買ったらお値段は? 輸送、設置に多額の費用も
鉄道車両を個人で買ったらお値段は? 輸送、設置に多額の費用も
ポッポの丘開設のきっかけ、昭和63年製いすみ200形の「車両価格」は200万円(撮影/安藤昌季) 車両の一部は農産物直売所として開放。いすみ200形内の「カフェTKG」では人気の卵かけご飯も楽しめる(撮影/安藤昌季) ディーゼル機関車DE1030が2両のブルートレインを牽引する(撮影/安藤昌季) 10t入換動車に牽引された4両の車掌車にも乗車できる(撮影/安藤昌季)  長年走り続けて役目を変えた鉄道車両。その多くが引退とともに廃車解体されてスクラップとなる。ごく一部の車両だけが解体を免れ「保存車両」となる。  保存車両は「動態保存」と「静態保存」があり、「動態保存」は、主に蒸気機関車など、産業遺産的な価値を有する車両を現役に近い状態で維持するもので、多額の経費がかかる。  例えば、名古屋市は明知鉄道が保有するC12形蒸気機関車を、観光の目玉とするために動態保存化しようと試算したが、初期費用だけで5億7000万円が必要との試算が出された。C12形は旧国鉄が保存する本線用蒸気機関車では最も小さな形式だが、それでもこの費用である。現役時のように元気に動く保存車両を、いつまでも見たいのは鉄道ファンの夢ではあるが、動態保存についてはとても個人の手に負える金額ではない。  一方、保存車両を動かさずにレール上に置いておく「静態保存」は、鉄道博物館などの企業による保存施設だけではなく、個人でも保存している人が存在する。  では、本当に鉄道車両を個人が保有しようとした場合、どのような障害があり、どれくらいの経費がかかるのか。千葉県いすみ市で22両の保存車両を保有する、鉄道リゾート施設「ポッポの丘」を運営する、ファームリゾートISUMI 鶏卵牧場の村石愛二社長を取材した。 ■車両により千差万別な残存価額 《鉄道車両の購入方法ですが、まずはこちらから鉄道会社に問い合わせをします。断られることも多いですが、譲渡してもいいという話になることもあります。合意できれば条件面の話となりますが、有償譲渡の場合は、残存簿価で価格が異なります。数十万円~数百万円(以後数字は全て税抜)程度と、車両ごとにまちまちです。  ただ、鉄道会社によっては、処分が決まっていたり、譲渡に応じてもらえないこともありますね。あと、最近では鉄道会社自身がホームページで「車両の引き取り先を募集する」ケースもありますので、条件が整うなら応募されるのもいいのではないでしょうか。  こうした仕事をしていると、ノウハウを持つ方々と知り合いになります。話を伺っていると、個人だと断られるケースもありますが、保存の実績があったり、法人だったりすると話が変わる場合もあるようです(経験上、大きな鉄道会社は話が非常に通りにくいことが多いです)。  ポッポの丘開設のきっかけは、いすみ鉄道の鳥塚前社長に「いすみ200形を200万円で買わないか」とのお話をいただいたことです。当時は輸送や保存のノウハウがなく、JR貨物北陸ロジスティックス株式会社様には大変お世話になりました。最近では、車両輸送にノウハウがあるアチハ株式会社様にもご協力をいただいております。  ただ、鉄道車両の保存は正直に申し上げて大変なことです。最低限の条件として「車両を展示するためのスペース」が必要です。その場所にトレーラーが入らないと、車両を搬入できませんから、都会では無理なのではないかと思います。  また、保存車両が仮に無償譲渡だとしても、輸送や設置には多額の費用がかかりますし、手間もかかります。大山ケーブルカー丹沢号の保存に際しては、「大山ケーブルカー丹沢号保存会」が設立され、まず現地から大山の麓までヘリコプターで車体を輸送し、そこからトラックに積み替えてポッポの丘に移動させました。その際、ヘリで運べるのが3.5tまでということで、5tの車体がフレームだけにバラされました。そこから復元しようとしていますが、元通りにするのに非常に手間取っている部分もありますね。  輸送経費ですが、鉄道車両の輸送にはトレーラーが必要です。これはレンタルで1日100万円かかります。長野や郡山の車両センターからポッポの丘に車両を輸送した際には、先導車や後導車も必要で、夜間通行しかできないため3日間を要しました。トレーラーのレンタル代で計300万円が、さらに設置するたの50~60tのクレーン車が2台、トータルで400万円かかりました。  最初に保存したいすみ200形を設置した時は、北陸からいすみ鉄道で活躍しているキハ52形を輸送した際の輸送車で運んでいただきましたが、いすみ鉄道国吉駅からポッポの丘までの9キロメートルを輸送するのに160万円くらいかかっています。  また、車両設置に伴い線路を敷設しなければなりません。ポッポの丘の場合は、JR外房線の浪花駅にあった側線のレールを譲っていただいたのですが、1mが4万円で、50m設置したので200万円が必要でした。これとは別に、線路の下に敷く砕石や鉄板も用意するため、諸経費を考慮すると、いすみ200形1両の設置に輸送費、車両費、線路設置費が各200万円くらい。計600万円くらいが必要でした。  色々と申し上げましたが、鉄道車両の輸送は「元々あった場所の条件」もあるので、「確実にいくら」と申し上げることは難しいです。  例えば銚子電気鉄道からデハ700形を輸送した際には、笠上黒生駅近くの踏切警報機などを一時外して対応しています。終電から始発までに作業を完了しなくてはならず、その配慮も必要でした。箱根登山鉄道のモハ2形をお預かりしていたこともありますが、これも積み出しが大変だったと聞いています。  また、注意が必要なのは車両の維持費です。鉄道車両は屋根と雨どいから痛みます。そうすると車両が変形するので、ガラスが割れてしまうのです。  ポッポの丘では常時、屋根の穴や雨どいを溶接し、雨漏りを防いだり、各部をパテで補修したりしています。車両の状態にもよりますが、塗装代も込みで、最低でも5年に一度は1両100万円かかると考えたほうがいいと思います。  この金額はポッポの丘が多数の車両を保持していることにより、継続的な仕事が見込めることで割り引かれている部分がありますから、個人の方が1両だけ保有する場合などは、もう少し高いのではないかと思われます。  それと、税金を忘れてはいけません。固定資産税として、買取価格+輸送費に対する課税が行われるのです。この辺りは自治体により扱いが変わるのですが、鉄道車両を「仮設住宅」としてもらえれば、税金が安くなります。一般の住宅と同じ扱いをされると、永続的な建物ということになり、継続的に税金が発生します。  ポッポの丘は法人なので、資産償却することで経費を抑えていますが、個人の方が保有されると大変なのではないでしょうか》 ■地元の業者に頼まないとトラブルに  さらに、今回の取材を進める中で、村石社長と繋がりがある鉄道車両保存活動をされている方にも話を伺うことができた。 「私の場合、鉄道車両の解体を目撃して、いてもたってもいられない思いを抱いたことが、保存活動のきっかけです。その後鉄道趣味の集まりで、関係者の方と知り合いになり『お金と土地があれば、保存できる』という話を聞きまして。保存活動を進めるうちに、実績があるからと相手側から話が来る機会も増えました」  また、この方は匿名を条件に、実際の保存活動についても語ってくれた。 《どこから買った、何を保有しているということがトラブルになることがあるので、匿名はご容赦ください。保存における大きな注意点は、やはり「土地」です。鉄道車両は非常に重く、事前に地盤を固めるなどの対策をしないと、地盤沈下することもあります。車体に台車がなければ重量が分散するためそのまま置くこともできますが、台車がある場合は線路を敷く必要があります。  輸送日数が増えるごとに数十万円単位で必要資金が増えますし、運ぶ時、設置する時もクレーン車が必須で、最低でも数十万円はかかります。なお、超大型貨物となりますから、警察に道路使用許可を得る必要があり、当然時間もかかります。  また、地元業者を使わないと、トラブルが起こりやすい印象があります。私たちが関わった案件の平均でいうと、1両の保存には、輸送費だけで計300~500万円程度がかかっていますね。機関車は重いので、1000万円ほど必要でした。なお、今は東京五輪を控えて輸送費も高騰しています。  こうして無事に保存できても、鋼鉄製の車両だと、さびとの戦いが待っています。さびを取り、パテ埋めしてペンキで塗装し直しますが、業者に依頼したときは、1両で200万円くらいでした。設置状態にもよりますが、もちろん固定資産税がかかるケースもありますよ》  このように、鉄道車両はなかなか安い買い物ではなさそうである。だが、前向きな話もある。ここ数年で、インターネットを介して募金を集める「クラウドファンディング」が注目を集めている。  直近では、2019年3月に、寝台特急「なは」で使われていた24系寝台車を、香川県善通寺市に輸送して宿泊施設にしたいという「岸井うどん」さんのクラウドファンディングがあった。  このクラウドファンディングは441名の支援者から965万円を集め、無事成立している。「岸井うどん」は元々ビニールハウスの店舗なのだが、そのノウハウを活かし、ビニールハウスで車両を覆うことで、風雨による痛みを避けて維持費を軽減する計画である。  このようなインターネットの普及により、かつてよりは鉄道車両の保存へのハードルが下がったことは確かである。ノウハウが交換されることで、貴重な産業遺産が後世に残される機会が増えるように、願ってやまない。(安藤昌季) ○安藤昌季(あんどう・まさき)1973年、東京都台東区生まれ。乗り物ライター兼編集プロダクション「スタジオサウスサンド」代表。「教えてあげる諸葛孔明」(角川ソフィア文庫)や「旅と鉄道」「鉄道ぴあ」など、歴史や乗り物記事の執筆・企画・イベントを多数手がける。
鉄道
dot. 2019/06/22 07:00
「若者に投資してほしい」高等教育無償化に声を上げる学生たち
「若者に投資してほしい」高等教育無償化に声を上げる学生たち
FREEの学費・奨学金実態調査結果発表会(2018年12月、東京・新宿駅東口アルタ前)。FREEが実施しているアンケートは、FREEのウェブサイトから回答することができる。現時点で約2千人の回答が集まっているが、1万人分の回答を集めることを目標としている(写真:FREE提供) 岩崎詩都香さん(左)と中野典さん(2019年5月、東京・新宿の日司連ホール)(撮影/編集部・小柳暁子) 大学(専門学校)や学部を選ぶとき、学費を判断基準にした?(AERA 2019年6月24日号より) 奨学金を利用している?(AERA 2019年6月24日号より)  低所得世帯の子どもを対象に高等教育の負担を軽減する関連法が可決・成立した。しかし条件付きの無償化だ。教育支出が主要国最下位の日本。学生が声を上げ始めた。 *  *  *  朝、8時半に家を出て、9時半に出社。17時半まで働き、18時15分から授業。授業が終わるのは21時25分だ。  東洋大学国際学部第2部2年生の嶋田侑飛(ゆうひ)さん(20)は、この4月から正社員として働き始めた。月12万円の有利子奨学金を1年間借りていた。これだけあれば学費も払え、生活もできる。しかし4年借りた場合、元金だけで576万円。とても返せないと思い、借りるのをやめた。 「そんなに借金を背負っても、給料のいい会社に就職できるかわからない。いま働くしかないという感覚です」  夜間部を選んだのは昼間部(第1部)と比べて授業料が年額53万5千円と比較的安いからだ。 「この選択は良かったと思っています」  バイトをかけもちするより、1カ所で正社員として働けば給料が奨学金以上になり、賞与や家賃補助も出る。睡眠時間は約6時間。毎日心身ともに疲弊している。職場の理解があるからこそ学業と仕事の両立ができていると思う。働きながら学ぶということの大変さを、身をもって感じる日々だ。  東京大学文学部3年生の岩崎詩都香(しずか)さん(20)は、8歳のとき父親が他界し、6人きょうだいの末っ子として母子家庭で育った。 「家が大変だったので勉強しなきゃという思いが強かった。貧困の連鎖を抜け出したいし、母を楽にさせてあげたいと思って」  東大では2008年度から給与収入400万円以下の世帯の学生は授業料全額免除になる制度が導入されており、岩崎さんも年額53万5800円の学費が免除されている。仕送りはなし。生活費は無利子の奨学金とバイトでまかなっている。  しかし周りを見ると、貧困世帯ではない家庭の友人が学費のために大学進学を諦めたり、大学に入ってもバイト漬けの学生がいたりする現実があった。  親の世代の収入が右肩上がりで学費を負担できた時代はよかったが、平均世帯所得は1994年の664万円から、16年には560万円に減少。一方、この40年間で国立大の授業料は3.72倍の約54万円、私大は2.7倍の約88万円になった。  学費値下げや奨学金制度の改善を求める行動の必要性を感じ、岩崎さんらは学生アドボカシーグループ「高等教育無償化プロジェクト」(通称FREE)を18年9月に立ち上げた。現在約30大学の学生が活動に参加している。  メインの活動は「学費・奨学金に関する実態調査」というアンケートの実施だ。受験期、入学時から将来までと、時間軸に従って質問事項を並べており、自分の学生生活を振り返りながら回答してもらう。「アンケートに答えながら悲しくて泣けてきた」と言う学生もいたという。  FREEの事務局長で東京大学農学部4年生の中野典(つかさ)さん(22)は、こう言う。 「こんなことをしても意味がないと言われると思ったが、拡散しておくよと言われたり、授業で協力してくれたり。活動が歓迎されていると思った」  アンケートの結果からは、学生が置かれたシビアな現実が浮かび上がってきた。  中央大学商学部4年生の白石桃佳さん(21)はこう語る。 「学生がやりたいことを経済的理由で阻まれないようにしたい。少子高齢化で若者が高齢者を支えることを求められるが、それなら若者に投資してほしい」  18年12月には、東京・新宿駅東口アルタ前で実態調査の結果発表会を行った。とても寒い日だったが参加者は100人を超え、道行く人たちも足を止めて耳を傾けてくれた。「自分も学費で困っている」と話しかけてくれる学生もいた。 「学生の夢の実現や学びたいという思いが、経済的な理由で阻まれることが社会にとってプラスになるのか」(中野さん)  学費が値上がりし自己負担が増えていく中、自分が益を受けるから自分で費用を負担するという受益者負担の考えが一般的になり、自己責任論が強くなっていく。そうすると、自分が学費を払っているから免除になっている人は許せないといった不寛容な考えになったりする。学生自身も大学で学ぶのは自分のためで、それを社会に還元しようという意識にならない。公的負担を増やすことで、大学での学びとそれを社会に還元することが結びつくのではないか──。中野さんはこう考えている。(編集部・小柳暁子) ※AERA 2019年6月24日号より抜粋
AERA 2019/06/21 07:00
「放送大がなかったら心が折れていた」難関大中退の女子大生が抱く夢
「放送大がなかったら心が折れていた」難関大中退の女子大生が抱く夢
【放送大学在学、アルバイト】小澤茜さん/放送大学がなかったら、バイト先の紳士服店で正社員になることを目指していたと思います」と語る(撮影/編集部・澤田晃宏) 放送大学の沿革(AERA 2019年6月24日号より)  さまざまな理由で大学進学を阻まれる若者たちがいる。懸命に学び続けようとする彼らの「学びのセーフティーネット」になっているのが、放送大学だ。なぜ、放送大学を選んだのか。 *  *  *  母子家庭に育った。家計に余裕がないことは知っていた。それでも、高校時代は塾にも通わせてくれた。大学に進学できると思っていた。神奈川県大和市の小澤茜さん(19)は振り返る。  現役合格を目指して勉強し、東京理科大学理学部と立教大学理学部に合格した。母親は小澤さんに言った。 「お金は出せない」  祖母の助けがあった。一人っ子の小澤さんのために40万円を貯金していてくれた。夜間部の学費は昼間部より60万円ほど安いこともわかった。小澤さんは自宅外通学では最高額の月6万4千円の奨学金を借り、東京理科大学理学部第二部への進学を決めた。  8時に起き、9時半~14時に紳士服店でアルバイト。16~21時に大学で授業を受け、23時に帰宅する。そんな生活は、半年も続かなかった。 「母親との関係が冷え、下宿先から大学に通いました。教科書代や交通費の負担も大きく、後期の授業料約40万円を準備できませんでした。バイトをしながらでは予習や復習の時間も取れず、中退を決めました」  それでも、勉強を続けたい。小澤さんの思いを繋ぎ留めたのが、放送大学だった。入学料は2万4千円。大学卒業までに必要な授業料は70万6千円で国立大の平均の3分の1以下。それも、入学時に全額支払う必要はなく、履修する単位分(1単位5500円)を学期ごとに支払う。最大10年間の在籍も認められ、働きながら勉強を続けられる。2018年10月、小澤さんは放送大学に入学した。 「放送大がなかったら、心が折れていたと思います。勉強をしながらお金を貯めて、国立大学の3年次編入を目指したい。宇宙工学を学び、宇宙に関する仕事に就きたいです」(小澤さん)  文部科学省と総務省が所管する通信制大学・放送大学は1983年に開学した。教養学部のみの単科大学で、約8万4千人(学部)が在籍する。入学試験はない。授業はBSテレビやインターネットを介して行われる放送授業のほか、全国57カ所の学習センターやサテライトスペースで対面の面接授業がある。放送授業と面接授業を合わせ124単位以上修得し、4年以上在学すれば学士の学位を取得できる。  開学から36年。変化もある。岩永雅也副学長はこう話す。 「本学の学生調査では、学生の入学目的は開学から長らく『大卒資格を得たい』がトップでしたが、最新の調査(18年)では『教養を身につけたい』がトップです。開学当初は入学者の約7割は高卒者で、大学進学を逃した人たちの機会を保障するセーフティーネットとしての役割が中心でしたが、現在は学部学生の約4割が四大卒以上。放送大学の役割も変わりつつあります」 (編集部・澤田晃宏) ※AERA 2019年6月24日号より抜粋
大学入試
AERA 2019/06/20 17:00
初夏の暑さを忘れる古都の知恵 裏路地の町家で快適読書時間を
ナカムラユキ ナカムラユキ
初夏の暑さを忘れる古都の知恵 裏路地の町家で快適読書時間を
奥の小庭へとひんやりと風が通り抜け、町家のほの暗さが心を落ち着かせる雨林舎  国内外の人々を惹きつけてやまない京都。その四季折々の魅力を、京都在住の人気イラストレーター・ナカムラユキさんに、古都のエスプリをまとったプティ・タ・プティのテキスタイルを織り交ぜながら1年を通してナビゲートいただきます。愛らしくも奥深い京こものやおやつをおともに、その時期ならではの美景を愛でる。そんなとっておきの京都暮らし気分をお楽しみください。 *  *  * ■初夏に訪れたい、本が似合う喫茶と快適読書時間  蒸し暑い京都の夏の始まり、陽射しがじりじりと照りつけるような日や雨が降る日は、ひんやりとした部屋の中で、本を読みながらのんびりしたくなります。思い出すのは、小学校の初夏の夕暮れ時、木造校舎のほの暗い図書室、ギシギシとなる木の床、古い紙の匂い。窓際の隅っこの席に座り、誰にも邪魔されることなく本を開く時の安らかな心持ち。その頃から本に囲まれる空間は、たまらなく好きです。JR二条駅の裏側の路地、町家が軒を並べる一角にある喫茶店「雨林舎」は、その時の感覚を思い起こさせてくれます。町家のほの暗さと緑があふれる小庭へと吹き抜ける風が心地良く、気取りない空間に読み込まれた本が並ぶ書棚。お気に入りの本を携えて、ふらりと立ち寄りたくなる場所です。今回は、京都の夏の始まりに味わいたいお菓子と共に、快適に読書時間を過ごせるアイテムをご紹介致します。 雨林舎(うりんしゃ)/ホットケーキW(2枚、はちみつかラズベリージャム)756円、アイスクリーム+162円、コーヒー486円/075‐822‐6281/京都市中京区西ノ京小倉町22-12/営業時間11:00~18:00/定休日:月・火曜 ■白いポンポンをつけた帽子のよう 何度でも食べたくなるアイスクリームのせホットケーキ   「雨林舎」と言えば、ホットケーキの存在は欠かすことが出来ません。食べ終えた後から無性にまた食べたくなるのです。いつも揺るぎなさを感じる、しっかりとした気骨あるホットケーキ。それは、店主の奥田千帆さんらしさのようにも感じます。私にとっては頑張ったあとのご褒美のような存在で、少し元気がない時には、夢にまで現れます。この仕事が一段落したら、ホットケーキを食べに行こう…常々、頭の隅っこから離れない味です。普段は二枚重ねにバターとハチミツが定番ですが、暑い日にはバニラアイスクリームをのせていただきます。その姿は、まるで白いポンポンをつけた帽子のようです。熱々のホットケーキの上のアイスクリームがじわじわと溶けていき、生地に染み込んだ所を頬張ると、じゅわっとバニラとバターと粉の風味が広がり、何とも言えない幸せな気持ちに包まれるのです。 プラッツ/三角まくら6480円(7月より価格改定で7020円)/075‐861‐1721/京都市右京区嵯峨天龍寺造路町5/営業時間10:00~19:00/定休日:木曜不定休 ■快適な読書時間へ変えてくれる本のお供 三角まくら  面白い小説を読み始めると止まらなくなり、夜中から明け方にかけて読み切って、読書疲れを起こすことも度々ありました。それからは、一冊に集中し過ぎてしまわないように、いろんなジャンルを3冊から5冊、平行して読むようにしています。読書人生50年、そう言えばこの所椅子に座って長時間読書することが少々辛くなってきました。腰よりも首に負担がかかっていると感じるのです。そんな時にプラッツ店主が教えてくれたのが「三角まくら」です。寝転んで頭を預ければ、肩までしっかりと支えてくれるので、長時間の読書がとても心地良く首が疲れないのです。中身は二層構造になっているので、うつ伏せで読みたい時、胸の下で抱え込むようにしてもずれることがなく、しっかりとした安定感があります。嵯峨嵐山にある明治時代創業の「プラッツ」は、世界遺産・天龍寺の御用達であり、全国の有名旅館や料亭の京座布団も手掛けています。熟練の確かな職人の技が、長時間の読書を快適な時間へと変えてくれるのです。 長久堂(ちょうきゅうどう)/水無月378円/075‐712‐4405/京都市北区上賀畔勝町97-3/営業時間9:30~18:00/定休日:1月1・2日(年内無休) ■厄除け、暑気を払う氷の形に見立てた水無月  1年のちょうど半分にあたる6月30日は夏越し祓(なごしのはらえ)の日。京都の各神社では、半年間の邪気や穢(けがれ)を祓い、無病息災を祈願し、気持ちを新たにする神事「茅の輪くぐり」が行われます。そして、この日食べる習慣となっている和菓子が「水無月」です。6月になると京の町のあちこちの和菓子店に「水無月」の文字が貼り出され、京都人にとってはとても馴染み深い夏の和菓子なのです。古来、宮中では氷室という氷の貯蔵庫を利用し、氷を口にして暑気を払っていましたが、庶民にとっては手の届かないものでした。そこで氷の形に見立てた和菓子を作り、厄除けを行なったと言われています。深泥池(みどろがいけ)のほど近く、1831(天保2)年創業「長久堂」の水無月は、歯切れ良く柔らかで、上品な甘さの外郎の上に、ぎっしりと隙間なく丹波産大納言が敷き詰められています。切り口は氷の断片を思わす程美しく、表面の透明な寒天が、まるで薄氷が張っているかのように涼やかなのです。 「文庫ブックカバー・リーヴル(本)」3402円/プティ・タ・プティ/075‐746‐5921/京都市中京区寺町通夷川上ル藤木町32/営業時間:10:30~18::30/定休日:木曜 ■読書時間の良き相棒 本柄のブックカバー  今回のプティ・タ・プティのテキスタイル/title:リーヴル「本と珈琲」  壁一面の本棚と珈琲をイメージしたテキスタイルです。好きな場所に椅子を移動させて、珈琲を片手に本をゆっくりと読む時間。色とりどりの本がリズミカルに並ぶ本棚に、手を伸ばしページを開く瞬間のワクワクとした気持ちも表現しています。書店員、図書館勤務、製本業、本に関わる様々な仕事の方がこの柄を愛用してくださっているようで、とても嬉しいです。この柄に一番しっくりと馴染むのは、やはりブックカバーですね。チャーム付きのしおり紐もついています。通勤電車の中や喫茶店での読書時間の良き相棒となってくれるブックカバーです。 本に囲まれてくつろぐ初夏の読書時間 ■涼やかな緑あふれる窓際で本とじっくり向き合う時  子供の頃の読書風景を思い出してみると…本をたくさん抱えて部屋の中の隅っこの窓の横にもたれかかり、お菓子と飲み物を横に置き、時間を忘れて本を読み耽って楽しんでいました。思えば、あの頃の延長線上に今もいて、本と戯れているのかもしれませんね。涼やかな緑あふれる窓際、読みたい本がぎっしりと詰まった書棚のそばで、心地いいまくらに身体をゆったりと預け、お気に入りの本を読み耽ってみませんか? (撮影/竹下さより、編集協力/江下祥子) ナカムラユキ 京都市在住。イラストレーター、テキスタイルデザイナー。著書に『京都さくら探訪』(文藝春秋)『京都レトロ散歩』(PHP)他多数
ナカムラユキ
dot. 2019/06/19 11:30
認知症リスクを低下させる「親指パチン」って? 医師に聞いた!
認知症リスクを低下させる「親指パチン」って? 医師に聞いた!
認知症リスクを減らす! 転倒・骨折を防ぐための「親指パチン」筋トレ (イラスト/坂本康子 週刊朝日2019年6月21日号より) 脳の血流アップのための一分間耳たぶマッサージ (イラスト/坂本康子 週刊朝日2019年6月21日号より) 骨を刺激して、脳を活性化するホルモン「オステオカルシン」の分泌を促そう! (イラスト/坂本康子 週刊朝日2019年6月21日号より)  なんだか最近、人の名前が思い出せない。約束を忘れていて大慌て……といったことがないだろうか。脳の老化のサインを感じたら、早めに対策を。毎日の暮らしの中で実践できる、認知症予防法を紹介する。ライフジャーナリスト・赤根千鶴子氏がリポートする。 *  *  * 「あれ、若いときとはどうも違うなあ」。人が脳の衰えを感じるひとつのターニングポイントは40歳前後だと、認知症予防医の広川慶裕医師は言う。 「40歳ごろは高血圧、糖尿病、脂質代謝異常症などの生活習慣病が起き始める年齢ですからね。実は認知症と生活習慣病には大きな関わりがあります。なぜなら、脳の機能低下の一番の原因は血管の老化だからです」  血管の老化が始まると、まず末梢まできちんと血液が行き渡らなくなる。 「そして動脈硬化が起きれば血管自体の壁が厚くなり、血液と細胞との間で物質のやりとりもスムーズにできなくなります。細胞は血液から十分な栄養素を取り込めないとエネルギーが作れなくなり、少ないエネルギーに見合った働きしかできなくなる。これが『脳の機能低下』という形で表れてくるのです」  今まで100あったエネルギーが80になってしまったら、脳は20%パワーダウンした活動しかできない。そしてこれが進行していくと、最終的には認知機能が損なわれてしまうのだ。 「また40代以降は脳にダメージを与える疲労物質『アミロイドβペプチド』がたまり始めるということも覚えておいてください」  アミロイドβペプチドは脳の神経細胞のまわりに蓄積する異常なたんぱく質で、毎日産生されている脳の老廃物。認知症の中で6割を占めるアルツハイマー型認知症は、このアミロイドβペプチドが蓄積され、神経細胞にダメージを与えることが原因で起こると考えられている。人間にはもともとアミロイドβペプチドを排出する機能がある。が、40代以降はその機能も弱まってくる。そしてアミロイドβペプチドが蓄積されていくと、気づかないうちに脳の機能は少しずつ失われていってしまうのだ。 「またアミロイドβペプチドが蓄積すると、脳の血管内で炎症が起き、血管の老化がますます促進されてしまいます。アミロイドβペプチドは睡眠時に排出されることがわかっていますから、どんな年代の方でも1日に最低5時間は眠るように心がけてほしいです」  だが何よりも大切なのは、やはり、しなやかな血管を保つこと。 「血管がしなやかで、血流もスムーズであれば、アミロイドβペプチドの排出機構もよく働きます。血液中の栄養素も脳に行き渡りますから、栄養不足による脳の機能低下も防げます。しなやかな血管を守っていくにはとにかく高血圧、糖尿病、脂質代謝異常症を遠ざけることです。そのためには定期的な健康診断は必ず受けること。そして少しでも悪い数値があったらその改善を図っていくことが、認知症予防の第一歩です」  また、脳の老化のサインに敏感になることも広川医師はすすめる。 「脳の変化は必ず何らかの形になって、日常生活の中に表れています。『もう年だから仕方ない』『忙しいから仕方ない』などと言い訳したり、『自分は大丈夫』と根拠のない自信を持たないことです」  疲労感や眠気がひどい、聞き返すことが増えた、反応が遅くなった、探し物が多い、やる気が出ない、甘いものがやめられない、つまずきや足がもつれることが多くなった、注意力が衰えた、朝までぐっすり眠れない「中途覚醒」や夜更かしが増えた、人の話や物語のストーリーが追えなくなった。以上のような症状で思い当たるものが多い場合は、要注意だ。 「『おかしいな』という状況は放置してはいけません。最初に気になった段階で、医療機関に相談しましょう。『認知症であること』を調べにいくのではありません。『認知症ではない』ということを確かめに出かけることが大切なのです」  そして脳の機能低下を防ぐには、日々の暮らしの中で運動と食事に気をつかうことも重要だ。広川医師が著書『脳が若返るまいにちの習慣』(サンマーク文庫)の中から、脳の老化防止につながる運動やマッサージを教えてくれた。「親指パチン」は、足の筋肉を刺激する運動。足には大きな筋肉が集中しているので、足の筋力の低下は全身の血流に影響を及ぼす。足を鍛えることは、脳にとって、とても大事なことなのだ。 「また、高齢の方がつまずいて転倒したり、骨折したりして寝たきりになると、それが引き金となって脳の老化が一気に進んでしまうことも。認知症のリスクを減らすためにもぜひ今日から、『親指パチン』筋トレを始めてほしいと思います」  そして脳の血流を上げるために行いたいのは「一分間耳たぶマッサージ」だ。 「脳に近い顔の筋肉をほぐすことで、血流アップを図るのです。私自身、朝起きたときや仕事の合間など、気がついたときに毎日行ってます」  骨の刺激は、脳を活性化する骨ホルモン「オステオカルシン」の分泌を促すために行う。 「近年医学界では、骨の役割の重大さについて新たな発見が続いています。オステオカルシンは骨を上手に刺激すると分泌され、脳を活性化して記憶力を改善する働きがあることがわかっています」  骨を効率よく刺激するのに一番いいのは「かかと落とし」だ。 「かかとをトントンと床に打ちつければ、振動が全身に伝わるので、体中の骨にまんべんなく刺激を与えられます」 つま先立ちして、かかとをストンと落としたり、つま先を上げてかかとだけ着地した状態で足踏みしたりしてみよう。オステオカルシンほか、数種類の重要なホルモンは腕や足の「長骨(ちょうこつ)」から分泌されることがわかっている。 「かかと落としと足踏みをメインで行いながら、腕たたきで手の骨を刺激することを習慣にしていきましょう。何事も常に意識することが大切なのです」 (ライフジャーナリスト・赤根千鶴子) ■脳の血流アップのための一分間耳たぶマッサージ (1)両耳をつまみ、真横に引っ張って3秒キープしたら手を離す。上方向、下方向も同様に行う。 (2)両耳をつまみ、上から下へグルグル回す。そのあと、下から上へ向かってグルグル回す。 (3)耳の穴の前にある小さな出っ張り(耳珠<じじゅ>)を揉む。 ■認知症リスクを減らす! 転倒・骨折を防ぐための「親指パチン」筋トレ (1)はだしで椅子に座り、片方の足を少し前に出す。 (2)出した足の親指をできるだけ上げ、人さし指にこすりつけるようにしながら、床をパチンとたたく(音が出るくらい強くたたけるようになるのが理想)。両足それぞれ10回ずつ行う。 ■骨を刺激して、脳を活性化するホルモン「オステオカルシン」の分泌を促そう! (1)椅子の背や壁などにつかまり、肩幅に足を開いて立つ。背すじを伸ばしてゆっくりつま先立ちになる。そして足の力を抜き、かかとを一気にストンと落とす。転倒しないようにバランスをとりながら、50回ほど行う。かかとの衝撃が頭に少し伝わるくらいの強さが目安。 (2)つま先を上げて、かかとだけ床についた状態で足踏みをする。ふくらはぎの血行がよくなりムズムズするくらいまで50回程度繰り返す。慣れるまでは椅子の背や壁につかまって行う。慣れてくると、腕組みをしたままでもできるようになる。 (3)開いた手の側面で、腕をトントンたたいて刺激する。腕全体を刺激したら、反対側も同様に行う。テレビを見ているときなど、いつ行ってもかまわない。 ※週刊朝日  2019年6月21日号より抜粋
週刊朝日 2019/06/17 08:00
宇垣美里はコスメと舞台…意外な“沼”にハマった著名人4人
宇垣美里はコスメと舞台…意外な“沼”にハマった著名人4人
宇垣美里(うがき・みさと)/神戸市出身。2014年、TBSに入社し、今年4月からフリーアナウンサーに。写真はオスカープロモーション提供 [左]三上真史(みかみ・まさし)/新潟市出身。NHK Eテレ「趣味の園芸」に出演中。写真はワタナベエンターテインメント提供 [右]たむらようこさんと塩コショウ入れ(本人提供) 中に出てくるFUJI GS645S(本人提供)  いま、「沼」が静かなブームだ。三省堂現代新国語辞典で調べると、従来の意味に加えて、新たにこう加えられている。「趣味などに、引きずりこまれるほどのめり込んでいる状態のたとえ」。そんな沼にハマった人たちを紹介する。 【コスメ沼&舞台鑑賞沼】フリーアナウンサー・宇垣美里  コスメは集めだしたらキリがないですね。  やはり、肌にのせたときの変身感。「きょうの私、何てオシャレなの」と無敵になれる。スイッチが入る瞬間が好きです。  ブランドでもチョイスしますし、デパ地下コスメ、ドラッグストアのコスメも、値段は関係なく良いと思ったものを手に取っていますね。  舞台鑑賞は、友人に誘われた宝塚がハマるきっかけでした。  上京してからは、さまざまな舞台に足を運んでいます。  特にミュージカルが大好き。  同じ舞台を何度も見ます。アドリブなど、回によってお芝居が微妙に変化しているところを見つけて楽しんでいます。  やはり生の迫力からもらえるエネルギーは私の心の財産ですね。生きてるなって思います。  だからチケットが取れなかったときはものすごくへこみます。  今後ハマりそうな沼は「香水」。  ひとつひとつに物語があるらしく、ハマってしまいそうだなとすごく気になっています。 【園芸沼】俳優・三上真史  園芸と出会ったきっかけは両親です。  物心ついたときから、実家の庭でガーデニングを手伝っていました。  そして、園芸沼にハマったのは一人暮らしを始めたときで、身の回りに自然が欲しくてベランダでガーデニングを始めました。  園芸の一番の魅力は、やはり育てることです。  愛情をかけて育てれば、その分しっかり応えてくれますし、花が咲いたときの喜びは格別です。  せわしない現代で、花や緑に触れることは貴重な癒やしの時間でもあります。  それに、植物は「自分の鏡」だと思っています。  心に余裕がなくなると世話もなおざりになり、植物もしおれてしまいますから。  また、育てるだけでなく収穫する楽しみもあります。  食べられる花はサラダに入れたり、湯船に浮かべたりと、楽しみ方は無限大です。  新元号が令和になりましたが、令和には花を咲かせるという意味が込められているそうです。  つまり令和は園芸の時代!  皆さんも園芸沼で花を咲かせてみてはいかがでしょうか。 【塩コショウ入れ沼】放送作家・たむらようこ  塩コショウ沼にどっぷりハマってます。あ、食べるほうじゃありません、塩コショウの入れ物、特に人形タイプのものを集めてます。陶器でできた2匹の可愛い猫の置物(ハート)かと思ったら片方の頭からは塩が、もう片方の頭からはコショウが出てくるというアレです。  ナメてはいけません。この沼は深いんです。例えばハワイの土産物屋で見つけた美女の上半身の置物。丸い胸の部分が取り外せて右のおっぱいからは塩、左のおっぱいからはコショウが出てきます。スパイシーおっぱい。赤ちゃんもお父さんも泣きますよコレ。  ほかにも女性の足首から下だけの足。右足が塩、左足がコショウです。なぜ足を塩コショウ入れに!? 果てはゼンマイ仕掛けで動くムダ機能付きまであるんです。  初めて興味を持ったのは20代のころ。ニューヨークの蚤の市で見つけた「足」に心奪われました。  塩コショウ入れ沼の延長線上に将来の夢もあります。塩コショウ入れで劇団を作りたいのです。すでに帽子などの小道具から出演者、ペット役までそろってます。  塩コショウを入れたこと? ありません。魅力は「用の美」ならぬ「無用の美」なのですから。 【カメラ沼】小説家・鳴神響一  風景写真を趣味にしてすぐの30歳のころ、ほしかった中判一眼レフは標準レンズセットでも30万円もしました。GS645Sは固定レンズ付きで実売8万円だったので、なんとか手に入れました。  フォーカスも露出もマニュアルの完全機械式でした。  すぐに降雪間近の尾瀬でキャンプをして、夜明けの中田代の写真を撮りに行きました。  日が昇ると、高級一眼レフのカメラマンたちが「シャッターが下りない!」と騒ぎ始めたのです。  電気式カメラ群は酷寒のためバッテリー低下を起こしていました。  僕は余裕でシャッターを切りました。  尾瀬の写真は二つの写真展で入選。東京駅の丸の内ホールでも展示されました。  この小さな成功のせいで、カメラ沼にハマりました。  四半世紀の間に、クルマ1台が買えるくらいカメラとレンズをそろえる羽目に陥ったのです。  いまは時間がありません。仕事場周辺数百メートルの風景しか撮れなくて、とても寂しいですね。 (本誌・羽富宏文) ※週刊朝日  2019年6月21日号
週刊朝日 2019/06/16 17:00
サッチャー時代に絶大な支持受けた「ザ・スミス」 映画で描かれるバンド結成前夜
サッチャー時代に絶大な支持受けた「ザ・スミス」 映画で描かれるバンド結成前夜
MARK GILL/英・マンチェスター生まれ。短編映画「ミスター・ヴォーマン」(2012)で、アカデミー賞短編映画賞にノミネート。本作が長編デビュー作となる(撮影/植田真紗美) 「イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語」/「ダンケルク」のジャック・ロウデン主演。全国公開中 (c)2017 ESSOLDO PICTURES LIMITED ALL RIGHTS RESERVED. 「コントロール デラックス版」発売元:スタイルジャム 販売元:NBCユニバーサル・エンターテイメント 価格3800円+税/DVD発売中 (c)Northsee Limited 2007  AERAで連載中の「いま観るシネマ」では、毎週、数多く公開されている映画の中から、いま観ておくべき作品の舞台裏を監督や演者に直接インタビューして紹介。「もう1本 おすすめDVD」では、あわせて観て欲しい1本をセレクトしています。 *  *  * 「ゆりかごから墓場まで」と謳われたイギリスの社会福祉政策。その政策の舵を真逆に切ったマーガレット・サッチャー政権下の1980年代、不況に喘ぐ若者から絶大な支持を受けたバンドがあった。マンチェスターの労働者階級出身のバンド、ザ・スミスだ。本作はフロントマンのスティーヴン・モリッシーを主人公にバンド結成前夜を描く。監督のマーク・ギルもマンチェスター出身。自身もかつて音楽活動をしており、映画監督としては本作が長編デビュー作となる。 「僕ならこのストーリーは語れると思ったし、失敗したとしてもやるべきは僕だという自負がありました」  国民保健サービスで無料で支給される黒縁メガネをかけ、グラジオラスの花を振り奇妙なダンスを踊りながら、辛辣な社会批評に彩られた歌詞を歌い上げるモリッシーは、サッチャリズムの時代のヒーローだった。 「ザ・スミスはポップバンドではあるが、それまでのポップバンドとはまったく違っていました。モリッシーの声は何百万人もの労働者階級の若者たちを代弁し、彼らの落胆、彼らの疎外感に声を与えた。そういう若者たちに一縷の希望を与える存在でした」  そんなモリッシーのまだ「何者でもない」時代を描く本作。インタビューや歌詞、友人の日記といった資料を読み込んでリサーチをしながら、モリッシーの周辺の人物へのインタビューを重ねた。しかし脚本には監督自身の経験も多分に投影されているという。 「スティーヴンが職場で働いているシーンなどは想像して書きました。自分の経験をモリッシーというフィルターを通して映画に投影しているという感じです。僕自身も仕事中にサボって本を読んでいたんだけど、同僚の女の子に『何を読んでいるの?』じゃなくて『何で読んでいるの?』と聞かれたこともある(笑)」  映画で描かれたサッチャー政権の時代から、ブレグジットに揺れる現在まで、イギリス社会は本質的にはあまり変わっていないという。 「当時も今も大人たちが若者世代を苦しめる決断をしている点は変わらない。SNSは今の若者たちに声を与えました。80年代の若者にはSNSがなかったからサブカルチャーが生まれたんだと思う」 「イングランド・イズ・マイン」というタイトルは、ファーストアルバム「ザ・スミス」(84年)に収録された「スティル・イル」という、アンチ・サッチャリズム的な曲の歌詞の一節だ。 「モリッシーは自らの生存権を主張するときに、『イングランドは僕の国』と言った。大人が子どもに強いてきた常識の中で生きるのではなく、もっと求めよ、それがあなたたちの権利だと若者に言っているんです」  日本を舞台に写真家・深瀬昌久を追った作品も構想しているという。 「ということで、日本語を頑張らないといけないんだよね(笑)」 ◎「イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語」 「ダンケルク」のジャック・ロウデン主演。全国公開中 ■もう1本おすすめDVD「コントロール デラックス版」  マーク・ギル監督はミュージシャンとしてのキャリアが長く、1990年代後半にはジョイ・ディヴィジョンのベーシスト、ピーター・フックのバンド「モナコ」にも在籍していたことがあるという。  ザ・スミスと同じくマンチェスターで結成されたジョイ・ディヴィジョンは80年、ボーカリストのイアン・カーティスの突然の自死によって解散を余儀なくされる。バンドのアメリカツアーの出発前日のことだった。バンドはその後ニュー・オーダーと名前を変えて活動する。短い活動期間に残された2枚のアルバムは、イアンが書く文学的な歌詞とストイックなサウンドで後のバンドに大きな影響を与えた。本作は23歳で自ら命を絶ったイアンの半生を端正なモノクロ映像で描いている。  若くして結婚し子どもも持つが、バンドが成功し多忙になるにつれて持病の発作に苦しみ、妻と恋人との板挟みにも苦しむ。そんな苦悩の中で紡がれた珠玉の音楽は、本作の中でも聴くことができる。  監督は多くのミュージシャンを撮影してきた写真家のアントン・コービン。イアン役のサム・ライリーが、繊細さと激しさが共存するキャラクターを見事に演じている。 ◎「コントロール デラックス版」 発売元:スタイルジャム  販売元:NBCユニバーサル・エンターテイメント  価格3800円+税/DVD発売中 (編集部・小柳暁子) ※AERA 2019年6月17日号
AERA 2019/06/16 16:00
多様化する父子像 俳優・石田純一が語る「昔の自分なら考えられなかった」こととは?
中村千晶 中村千晶
多様化する父子像 俳優・石田純一が語る「昔の自分なら考えられなかった」こととは?
AERA 2019年6月17日号より  父の日を前に、父子関係や、父親の楽しさや苦労を描いた映画が続々と公開されている。20、30、50、60代と、ほとんどの年代で子どもを授かるという経験をした俳優の石田純一さんに、映画を通して見る父と子の関係性について、話を聞いた。 *  *  *  俳優の石田純一さん(65)は、20、30、50、60代で父親になるという貴重な体験をしてきた。 「20歳で息子(いしだ壱成さん)が生まれたとき、僕は留学を考えていた。結局一人でアメリカに行き、妻と子どもと一緒に住むことはなかった。36歳で娘(すみれさん)が生まれたときは仕事が忙しく、自ら子育てにタッチしようとしなかった。すみれにはいまだに『パパはなんにもしてくれなかったよね』と言われますが(笑)、当時は時代の空気もそうでしたし、僕自身も『父親とはたとえ不在であっても存在感を出せるものだ』と思っていました」(石田さん)  だが、今は妻・東尾理子さんとの間に生まれた6歳、3歳、1歳の3人の子どもたちの面倒をみることも多くなった。 「夕べも一晩中起きている1歳の娘に付き合って、一睡もさせてもらえなかった。それでも許せるのが不思議ですよね」(同)  父として積極的に育児に参加するようになり、映画のなかの「父と子」に自然に目が向くようになったという。最近、感銘を受けたのは「アマンダと僕」(6月22日公開)。姉の死で姪っ子を育てることになった青年が“父”になっていく過程を丹念に追う。 「自分の子でもない姪っ子を育てるなんて、昔の自分なら考えられなかった設定。でもいまは、それをやらざるを得ない状況になる青年に共感できる」(同)  今年2月に日本で公開された「ファースト・マン」(18年)にも印象的な父と子のシーンがあった。69年、人類初の月面着陸を果たしたニール・アームストロングを描いた映画だ。 「アームストロングがいよいよ月に行く前夜のシーンが素晴らしかった。幼い息子たちとしっかり向き合って握手を交わす様子に感涙しました。僕自身も最近までは『何も示さなくても、いつか子どもはわかってくれるだろう』と思っていたし、それが美学でもあった。でもそんなものは男の自己満足で子どもには通用しない。子どもにはちゃんと向き合ってあげたほうがいいんだと改めて思わされた」(同)  父と子どもとの関係は、時代や自身の変化でいかようにも変わる、と石田さん。 「“父親像”として完全なものなんて絶対にないと思うんです。でも、いまは子どもたちの人生に付き合い、ともに生きていくのが父親だという感覚を昔よりも強く持っているし、映画を見ても感じるようになった」  大正大学准教授で男性学が専門の田中俊之さん(43)も言う。 「映画は時代や現実を映すものであると同時に、『こうあってほしい』という理想を描くものでもある。学べることは多いと思います」 (フリーランス記者・中村千晶) ※AERA 2019年6月17日号より抜粋
AERA 2019/06/15 17:00
輪島功一が焼き鳥店ではなく“だんご店”を始めた理由は?
輪島功一が焼き鳥店ではなく“だんご店”を始めた理由は?
輪島功一(わじま・こういち)/1943年、樺太生まれ。25歳のときプロボクサーに。3年後、世界タイトルに初挑戦し、王座獲得。タイトルを奪われても、2度にわたって世界王座に返り咲く。そのがむしゃらな戦いぶりは見る者を熱狂させ、「炎の男」の異名をとった。引退後は「だんごの輪島」を開業。現在は東京・西荻窪で「輪島功一スポーツジム」の会長として後進の育成に努めている (撮影/岡田晃奈) 輪島功一さん (撮影/岡田晃奈)  著名人が人生の岐路を振り返る「もう一つの自分史」。今回は1970年代、プロボクサーとして日本中の注目を集めた輪島功一さん。もしボクシングと出合わなかったら、あのときあの試合を戦う選択をしていなかったら……。過酷な少年時代を過ごし、ただ自らを信じ、自らに挑み続けた男が、その哲学を語りました。 *  *  *  東京に行けばどうにかなる。そう考えて、高校を中退して何のアテもなく北海道から出てきた。いくつか仕事を変わって、ボクシングを始めたときは建設会社で働いてた。  当時は東京オリンピックの建設ラッシュでね。人の何倍も働いて、歩合制だったから、半年でサラリーマンの年収の何倍もためたんだぜ。  現場から帰る途中、車の窓から「三迫ボクシングジム」って看板が見えてたんだよね。若いから体力も余ってたし、いっちょやってみるかって。酒やばくちに使っちゃうより、体動かしてクタクタになって寝ちゃえば、無駄遣いしなくて済むかな、とも思ったしね。  中にリングがあって、大勢がグラブ持って練習してる。「あと4カ月で25歳なんですけど、それでもできますか」って聞いたら、「金さえ払えばいいんだよ」なんて偉そうに言われたよ。  ジムにいるのは、一発当ててやろうっていう16、17歳の若いのばっかり。25歳っていったら、同い年のファイティング原田が引退するのとほぼ同じ頃だからね。コーチも先輩も相手にしてくれない。やりたきゃ勝手にやってろって感じだった。  コノヤロー、だったら注目させてやるって、誰にも負けないぐらい練習に打ち込んだんだよね。ほかのヤツがコーチに教わっているのをさりげないふりして聞いてさ。 「試合したい」って言い続けたら、ボディービル上がりのムキムキなヤツと戦うことになった。参ったな、って思ったけど、ガンガンいったら1回でKO勝ちしちゃった。 ――デビュー戦から12連勝。うち11戦がKO勝ち。全日本ウエルター級の新人王になり、日本王座も獲得した。ガッツ石松は同じ年のライト級の新人王だった。  勝ち出すと現金なもんでね、周囲の目も変わってくる。コーチがついて指導してくれるようになったし、ジムの後援会の人が、高い肉を食わせてくれたりね。自分だって、もしかしたら世界チャンピオンになれるんじゃないかって思いはじめたよ。  ただ、世界戦に挑戦するには、世界ランキングに入らないといけない。そしたら東洋チャンピオンと対戦する話を会長が持ってきた。  勝てば世界ランク入りできるってね。でも、ノンタイトルでノーギャラだって言うんだ。ちょっと迷ったけど、「やります」って言ったよ。会長、びっくりしてたね。  俺も日本チャンピオンだったから、そりゃねえよって話ではあるんだ。それでもやらなきゃチャンスはつかめない。あんとき断ってたら、どうなってたかなあ。チャンスなんて人生でそう何度もあるもんじゃないからね。  目先の金なんてどうでもよかった。こっちは年寄りボクサーだから時間がない。とにかく必死だったんだよ。 ――その試合にKO勝ちした輪島は勢いを得て、1971年10月にカルメロ・ボッシ(イタリア)と戦い、判定勝ちで世界ジュニアミドル級のタイトルを獲得する。実は東京に出てくるまでの少年時代も闘いの連続だったという。  生まれたのは樺太。敗戦で北海道に引き揚げてきた。オヤジは向こうで材木の仕事を手広くやってたんだけど、引き揚げるときのゴタゴタで全財産を失っていた。  旭川の北のほうにある士別って町で暮らしたんだけど、冬は零下30度、35度になるところでさ。家の中で凍死してもおかしくはなかった。小学校6年のとき、漁師をやってる親戚のとこへ養子にいったんだ。「腹いっぱい食えるぞ」って言われてね。  夜中は船に乗り、朝方帰ってきて、そのまま学校へ。ふとんで寝た記憶はあんまないな。授業中はほとんど寝てたね。だけど成績はけっこうよかったんだぜ。5、5、5、4とかだった。ホントだよ。  振り返ればつらい生活だけど、そんなふうに思ったことってなかったなあ。恨み言言ってもしょうがない。そのときにやれることをやればいいんだ、誰にも負けないぐらいがんばればいいんだ、ずっとそう思ってやってきた。  そのまま漁師になるのかなと思ってたけど、ひとつ問題があったんだよ。とにかく船酔いがひどかった。4年ぐらいやったけど、こりゃもうダメだと思って、高校1年のとき逃げ出して士別の家に帰った。  士別に戻ったが、「何となく高校を出ても、中途半端なことしかできない」と思い、上京を決意したという。  東京に出て7年目ぐらいにボクシングを始め、28歳で世界チャンピオンになった。6回防衛したけど、7回目に15回KO負け。自分では立ち上がれないほど、コテンパンにやられた。病院に運ばれて、そのまま入院だよ。  あのときはオーバーワークで、体が動かなかった。相手に負けたわけじゃない。  そう信じていたから、あそこで引退するわけにはいかなかったな。  3日で病院を飛び出して家に帰った。点滴じゃなくて、口でものを食べないと胃腸が弱っちゃう。最初は食べたものを吐いてたけど、徐々に食べられるようになってきた。  もう結婚しててね。「これ以上やって死んじゃったらどうするの」ってカミさんには反対された。そのうち何も言わなくなったよ。「バカじゃないの」って思ってたらしい。いや、バカなんだけどさ(笑)。 ――敗北から7カ月後、同じ相手に雪辱。ふたたびタイトルを獲得した。初防衛戦で韓国の柳に7回KO負けを喫したが、8カ月後にまたも雪辱を果たし、みたびチャンピオンになった。  もう引退したほうがいいって言う人はたくさんいた。3度目の世界チャンピオンになったときも、このまま引退しろ、そうすればいつまでもチャンピオンでいられる、なんて言う人もいた。実際そういう辞め方をしたボクサーもいたけど、俺とはわかり合えないな。「あいつはまだ金が欲しいのか」なんて声も聞こえてきたけど、意に介さなかったよ。  金の問題じゃないんだ。  勝って辞めるなんて、勝負師としてそんなひきょうなことができるか。参った、もう戦えない。そうなってから辞めるのが勝負師じゃないのか。勝ったまま辞めたら、ボクシングやってきた自分に申し訳が立たない。そう思ったんだ。  3カ月後にスペインのデュランに負けたときは、「さすがに、もう引退だろう」と誰もが思ったらしいけど、まだいける自信があった。やり切った、とは思えなかった。これまでだって「勝ち目はない」と言われた試合に勝ってきたんだしね。  だけど、34歳のロートルが4度目のチャンピオンになれるほど、ボクシングは甘くなかったね。ニカラグアのガソとやったんだけど、11回KO負け。初めてタオルを入れられて、俺のボクシング人生も、そこでジ・エンドです。  もっとスマートなやり方もあったかもしれない。でも、俺はそういう不器用なボクシング人生を送ったことを誇りに思ってる。誰にも負けないぐらいがんばった。それは自信を持って言える。  余力なんて残さずに全力をぶつけないと、ホントのところは何にも手に入らない。第一、やってても面白くないじゃない。 ――引退後に選んだ道も、世間の意表を突いた。輪島が始めたのは、おだんご屋さん。知り合いの店で修業を積んだのち、「だんごの輪島」をオープンした。  焼き鳥屋をやらせてやるって人もいたんだよ。5店舗ぐらいなら、資金も従業員も用意してやるってね。だけど、酒の商売をやったら、客とケンカしちゃうかもしれない。ほら、すぐカッとしちゃうほうだからさ。  その点、だんごなら心配ない。近所のおばちゃんたちが、毎日楽しみに寄ってくれる。カミさんとふたりで店を切り盛りして、1本25円ほどのだんごを買ってもらって、たまに新しい商品を考えたりして、楽しかったな。今はカミさんの妹夫婦に任せてるんだけど、けっこう近所の人にひいきにしてもらっているみたいだよ。  今は「輪島功一スポーツジム」に来ている若い選手が、成長して活躍してくれるのが楽しみだね。  それと、ぜひ言っておきたいんだけど、裁判所は(確定した死刑判決の再審開始が認められた後、取り消された)袴田巌さんを早く無罪にしてやってほしい。彼は元ボクサーなんだけど、本当にああいうことはあっちゃいけないんだ。  ボクシング界全体で支援活動をしてきて、だんだんわかってきたんだけど、偏見が捜査に影響してるんだよね。「ボクサーだから、やったに決まってる」って。今でもボクサーっていえば荒くれもののイメージがあるけど、それが悔しくてさ。 ――もう一度20歳に戻ったとしたら、またボクシングをやっただろうか。  ボクシングを選んだかどうかはわからないけど、がんばればがんばっただけ何かをつかめるっていう道に、きっと進んだだろうね。  とにかくボクシングに全力で打ち込んだから、運を引き寄せることができたと思ってる。ほかのスポーツや仕事だったとしても、がむしゃらに不器用にやっただろうね。そんなやり方しかできないから。  ただ、漁師だけは無理だったな。人生、努力じゃどうにもならないこともあるんだよね。 (聞き手/石原壮一郎) ※週刊朝日  2019年6月21日号
週刊朝日 2019/06/15 08:00
女友達同士の“ゆる同居” 伊藤比呂美と枝元なほみの場合
松岡かすみ 松岡かすみ
女友達同士の“ゆる同居” 伊藤比呂美と枝元なほみの場合
写真右から、詩人の伊藤比呂美さん、料理家の枝元なほみさん。6月のある夜、枝元さん宅で“自撮り”してもらった  シェア生活には、完全に生活を共有するのではなく、自分の生活を守りながら、“ゆる~く同居”を楽しむ手もある。40年来の女友達同士で“ゆる同居”を謳歌している、詩人と料理家の暮らしに迫った。 *  *  * 「彼女といると、生き返ったみたいな気がするの」  こう話すのは、詩人の伊藤比呂美さん(63)だ。離婚後、アメリカで3人の娘を育て上げ、現在は熊本を拠点に創作活動を続けている。昨年から、早稲田大学の教壇に立つ伊藤さんは今、週の半分が東京暮らし。東京での拠点は、40年来の友人である料理家、枝元なほみさん(64)宅だ。  アメリカに住んでいたころから、東京に来るたびに枝元さん宅に滞在していた伊藤さん。早稲田大学から教授のオファーが来たとき、都内に住居を持たない伊藤さんが真っ先に「ずっと泊めてくれる?」と確認したのが、枝元さんだった。これまで幾人かの男性と付き合っては別れを繰り返し、同棲経験もあった枝元さんだが、結婚歴はなく独身。伊藤さんは3年前に28歳年上のパートナーをアメリカで見送り、二人とも一人暮らしだ。そんな中で突如浮上した二人の“ゆる同居”は、枝元さんの「もちろん!!」の一言で始まった。  枝元さんの住居兼仕事場の都心のマンションは約150平米。伊藤さんが来ても、レイアウトは一切変えず、ベッドも家具も、何も増やしていない。 「スペースを空けて、ひろみちゃんの部屋を作ろうか?って言ったんだけど、断固として何も変えるなって言うから……。だからひろみちゃんの寝床はソファのまま。完全に生活を共有しているわけじゃないから、家賃や光熱費はもらう筋合いがない」(枝元さん)  伊藤さんは、自身の東京暮らしを“野良猫みたいな居候生活”と表現する。 「お互いに仕事してるし、枝元の家で、ゆっくり二人が顔を合わせる時間って、実はあんまりない。私の帰宅は夜10時を過ぎることが多いし、朝6時ごろには家を出て大学に行く。まるですれ違いの夫婦みたいでしょ?(笑)」  二人の暮らしは、つかず離れず、あっさりしたもの。恋人や夫婦にありがちな、相手に対する「所有欲」が皆無な分、「こうしてほしい」の類が一切ない。帰りが遅くなっても、「遅くなるから連絡しなきゃ」などとは互いに思わない。面倒を見るとか、世話を焼くという概念がないのだ。 「生活が全般的に“手酌”スタイル。全部ほっといてくれるのが、本当にありがたい。しがらみも要求も何もない関係って、すごい楽ですよ」(伊藤さん) “ゆる同居”を始めて1年。互いに仕事中心の一人暮らしは、どうしても殺伐とする感覚があったが、今ではそれぞれが代えがたい居心地の良さを感じている。 「パートナーが亡くなって、子どもも巣立って、今になると、私寂しかったんだなって思う。家に帰ったら、誰かがいて話せる。それだけのことが、涙が出るほどうれしい。相手は自分をすっかり出して話せる友達ということも、どれだけ幸せか……」(伊藤さん)  枝元さんもこう頷く。 「ありがたいと思うのは、“今日こんなことがあってね”と言える相手がいること。生活を完全には共有せず、相手の生活には踏み込まない同居って、“いいとこどり”だなと思う」  あくまでそれぞれの生活のベースはほかにあるから、互いに「一緒に住んでいる」という感覚はない。60歳も過ぎ、自分の生活ペースはでき上がっている。だけど、ずっと一人はやっぱり寂しい。だから自分の生活は確保した上で、気の置けない友達のところに、ゆる~く居候する。枝元さんは、朗らかにこう笑う。 「友達とゆるく暮らしてみるって、思うほど難しいことじゃない。家族とか一人の暮らしにこだわりすぎて、閉鎖的になる人って結構いるけど、年をとった自分のテリトリーに誰かが入ってきてくれるって、ありがたいことですよ」 (本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年6月21日号
週刊朝日 2019/06/14 11:30
「座席鉄」厳選! 優先ポイント別、鉄道「いい席のススメ」
「座席鉄」厳選! 優先ポイント別、鉄道「いい席のススメ」
あまり視界が開けない展望席最前列の窓際(撮影/安藤昌季) グループ旅行などで座席を向かい合わせにする場合、横長の窓の列車では柱が中央に来ない座席を選ぼう(撮影/安藤昌季) 背もたれの可動式枕、レッグレスト、インアームテーブル、背もたれのテーブルを出した状態(撮影/安藤昌季) 限定メニューもチェックポイントに加えたい(撮影/安藤昌季)  筆者は乗り物ライターを生業としているが、鉄道の趣味趣向を分類するなら「座席鉄」である。「座席鉄」とは聞き慣れない言葉だと思うが、鉄道を中心とする乗り物の座席にこだわり、その居住性を楽しむという鉄道趣味である。乗り物に乗る場合、接している時間が最も長いのは外観ではなく、座席を中心とした居住性の部分である。だから「座席」にこだわることは、旅を快適に楽しくするすべだと考えている。 「座席鉄」ではない皆さまも、例えば映画館に映画を見に行く際には、座席選びにこだわったりはされないだろうか。どの席ならスクリーンが見やすいのか、お手洗いに行きやすいのか、など考えられるのではないかと思う。乗り物もまったく同じであり、座席選びには意味があると考える次第である。 ■新幹線や特急列車の「よい座席選び」  何をもって「よい座席」とするのかは、乗車する人の条件でも異なる。例えば東海道新幹線普通車にビジネスで乗車して、車内でノートパソコンを使いたい場合と仮定してみよう。  この場合、望ましいのは「電源とテーブルの確保」である。東海道新幹線は、ほぼ全列車がN700系新幹線で運行されている。この車両は、近年の新幹線車両の大半と同じく、窓側のA席、E席に近い側壁と、車端部のデッキと接した最前列、最後列の壁面にコンセントが設置されている。つまり、2人掛けの通路側と、3人掛けの通路側、真ん中の席を確保した場合は、電源の確保が難しいということになる。理論的には窓側の人に声掛けをした上で、トリプルタップと延長ケーブルを用意して自席まで伸ばすこともできようが、実行にはなかなか勇気が必要である。  つまり、インターネット予約、もしくはみどりの窓口で「電源のある座席を選んで指定する」のが望ましいということになる。1人の出張ならこれでいいのだが、電源のある席が満席のとき、あるいは1人ではなく、3~4人で乗車するとしたら、また違ってくる。  車内で仕事をする必然がある場合は、グリーン車という選択肢もある。グリーン車は全ての座席にコンセントがあるので、電源確保を悩む必要はない。また、肘掛け内にテーブルが存在するので、多人数で座席を向かい合わせにして会話する場合でも、テーブルを確保できる。  出張費でグリーン料金は出ないという会社も多いだろうが、例えば100キロ以内の近距離なら普通車指定席+760円でグリーン車に乗車できるので、個人的には「電源確保のために、個人的に出費する」という範囲だと判じる。特にJR東日本やJR九州ではグリーン料金が安いので、100キロ以内では+510円、200キロ以内までなら+1,550円でグリーン車に乗車可能である。  なお、最近では普通車でも急速にコンセントを装備した車両が増えている。普通車でも全ての座席にコンセントを装備した、特筆すべき新幹線・有料特急列車について触れておきたい。 「JR東日本・西日本」 北陸新幹線、中央線特急、常磐線特急、成田エクスプレス 「JR四国」 8600系、2600系、2700系で運行される特急 「私鉄特急」 小田急電鉄ロマンスカーGSE、東武鉄道リバティ、京成電鉄スカイライナー、西武鉄道ラビュー、近畿日本鉄道しまかぜ、青の交響曲、南海電気鉄道サザンプレミアム ■グリーン車を手軽に利用する方法  なお、発券のためにはみどりの窓口に行く必要があるが「必要な区間だけ」グリーン車を利用する切符も発券できる。例えば、東北新幹線の東京駅~小山駅だけグリーン車を利用し、小山駅からは列車内を移動して普通車指定席で仙台駅まで乗車するといった切符も可能である。  この場合、特急券は東京~仙台駅間で4750円、グリーン料金が100キロ以内の1030円となるので、合計で5730円となる。全区間を普通車指定席なら、5260円、全区間をグリーン車なら8850円かかるので、割安にグリーン車に乗車できる(ただし、上記のケースなら「グリーン車から普通車に乗り換える境界線」である小山駅に停車する列車でなければ、こうした切符は発券できない)。  ほかには、タバコが苦手な人は対策が必要である。東海道・山陽新幹線N700系では3号車(博多寄り)、7号車(東京寄り)、15号車(博多寄り)と、グリーン車である10号車(東京寄り)に喫煙ルームがある。喫煙ルームは隔離されたスペースではあるが、匂いに敏感な人は上記の車両は避けた方がいい。 ■「旅を楽しむため」の「よい座席選び」  旅を楽しむためには、居心地・乗り心地の良さが大切である。ご存じの方もいるかとは思うが、列車の乗り心地は車両内の場所によって明らかに違う。車端部が最も騒音と振動が大きく、車両の中央部分は一番揺れが少ない場所なのだ。  近年では多くの列車で「列車名 座席表」とインターネット検索すると、どのような座席配置になっているのか表示されるようになった。同じ料金なら、乗り心地が良いに越したことはない。ならば、座席配置を見ながら、なるべく車両の中央部にある座席番号を指定して予約したい。特に乗り物に酔いやすい人を連れ歩く場合は、揺れにくい場所である車両中央部を意識したほうがよいだろう。  なお、「車両中央部の乗り心地がいい」のは、通勤電車やバスでも同じである。ラッシュ時で少しでも揺れないことを意識したり、夜行バスに長距離乗車したりする場合は、乗車位置を注意したほうがよりよいだろう。  そして、乗り心地と同じくらい旅を楽しむうえで大切なのが、「眺望性」である。  わかりやすい眺望性は「前面展望」である。小田急ロマンスカーや、名古屋鉄道パノラマスーパーのように展望席が設置されているなら、選んで座席を予約したい。基本的には最前列の座席が最も見晴らしがいいのだが、この場合でも、窓際はあまりいい席ではない。窓を支える柱が視界に入るので、窓側の視界はあまり開けていないのである。通路側最前列なら、左右に広がる視界全体が景色となるので、もっとも展望が楽しめる。窓側最前列を予約するより、2列目の通路側座席を予約した方が、展望を重視するならいい席なのである。  また、前述した「乗りたい列車 座席表」での検索時に、ホームページ(HP)によっては「車両の窓の位置」がイラストで描かれていることがある。観光列車でも改造によって誕生した列車は、窓と座席の位置が合わないことがあるので、せっかくの旅行なのに景色を楽しめないこともある。これも、窓に合った座席番号をメモするなどして、できればよい座席を予約したいものだ。  なお、座席1列に1つ窓がある列車であれば、どの座席でも眺望性は大差ない。しかし、特急列車で多くみられる「座席2列に横長の窓があるタイプ」の列車であれば、「横長窓に対して、後列に位置する座席」のほうが、断然眺望性に優れる。座席を向かい合わせにする場合でも、横長の窓がどの列の座席にかかっているのかを注意することで、窓柱が向かい合わせ座席のど真ん中に位置することを避けられる。上記の「車両中央部がもっとも揺れない」と組み合わせて、「車両中央で、かつ横長の窓の後列になる、窓側の座席」が、鉄道の旅を楽しむ上では最善の座席だろう。 ■「気が付きにくい」座席設備  鉄道車両の座席は細かなギミックの宝庫である。例えばJR東日本の特急・新幹線車両の一部には「座面スライド機構」がある。これは、座席の座面部分を前にスライドさせることで、座席をリクライニングさせた際に無理のない着座姿勢になる機構だ。  肘掛けにリクライニング以外のボタンが付いていれば、座面スライドである可能性が高い。かなり座り心地を改善させる機能なのだが、存在に気づかないのか乗車時に見る限りでは使われていないことが多い。だから、最新のE5系、E6系、E7系新幹線では廃止されてしまったのは残念である。  逆に、こうした最新型新幹線・特急車両の多くで「枕」が装備されている。この枕は「上下の位置調整が可能」なので、自分の体に合わせて位置調整をしたほうがより快適だ。  また、多くの座席には「ドリンクホルダー」が付いている。たまに「肘掛けにドリンクホルダーが装備されている」といった変わった装備位置の車両もあるので、まず位置を確認するといいだろう。  グリーン車(などの優等設備)の座席を中心として、足のせ台が付いていることが多い。足のせ台は前の座席に設置されているタイプの「フットレスト」と、自分の座席の座面と接続し、太ももやふくらはぎを支えるタイプの「レッグレスト」がある(山陽新幹線のN700系「さくら」「みずほ」グリーン車には両方装備されている)。  フットレストの設置場所はわかりやすいが、レッグレストは肘掛けなどに設置された操作パネルを触らないと、使えないものが多いので注意が必要だ。レッグレストは使用すると快適性を相当向上させるし、座席を向かい合わせにしても使用できるメリットもある。積極的に活用していきたい設備だ。  なお、こうしたグリーン車では、肘掛けの内部にテーブルが収納されていることも多い。これはテーブルを展開した方が便利なので、確認しておこう。 「シートサービスの活用」も、旅を楽しくする工夫だ。小田急ロマンスカーや東武特急では「ホームページに記されたサービスメニュー」を電話で予約することで、自分の座席までお弁当などを届けてくるサービスがある。どちらも品質が高く、ここでしか注文できないメニューもあるので「とっておきの旅」を盛り上げるイベントとして、注文してみてはいかがだろうか。 ■快適性を向上させる工夫  鉄道やバスは公共交通機関なので、個人の体形に合わせた座席とは限らない難点がある。自分に合わない背もたれや座面の座席は、座り心地が悪くなり、疲れやすくもなる。携帯用まくらか、ミニクッションを旅行道具に入れておくのも手である。  背もたれの形状が合わず、首が浮いてしまうケースや、腰に隙間ができるケースなどで、ミニクッションが隙間を埋め、座席の座り心地を確実に向上させてくれるだろう。また、眠って疲労を回復させたい場合は、アイマスクの持参も効果的である。疲れた体に列車の振動は、時として快適すぎる場合がある。快眠が悪夢にならぬよう、目覚ましアラームは忘れずに!   ●安藤昌季(あんどう・まさき)/1973年、東京都生まれ。乗り物ライター兼編集プロダクション「スタジオサウスサンド」代表。『教えてあげる諸葛孔明』や『旅と鉄道』『鉄道ぴあ』など、歴史や乗り物記事の執筆・企画・イベントを多数手がける。
鉄道
dot. 2019/06/10 11:30
現代社会の問題を小説で問い続ける意味「そこに救いはあるのか?」
現代社会の問題を小説で問い続ける意味「そこに救いはあるのか?」
 1988年に架空戦記物でデビューし、書き下ろし時代小説で人気を博してきた六道慧さんの警察小説が話題になっている。現代社会が抱える諸問題を、小説の形で発表している思いに迫った。 *  *  * ――六道さんの小説の中で、DVは大きなテーマの一つなのでしょうか?  そうですね。DV、虐待、老人問題、そして、その先にある貧困。これらは、常に追っていきたいテーマです。特に現代では、貧困によって弱くなった者が、さらに弱い者から奪うという図式ができあがってしまっています。そうした、私自身がもともと気になっていたテーマを、実際に発生した事件を念頭に置きながら書いています。  私が問いたいのは「そこに救いはあるのか?」ということです。文章を書く者として、そうした疑問を読者に投げかけるしかありません。だからといって、解決できるという話でないので、「そうした事件を忘れてはいけない」「自分の心に刻み付けて覚えていてほしい」という思いが強くあります。小説内の出来事でも、現実の事件でも、「実際に自分の身に起きたらどうするのか?」。そう考えるだけでも、何かが変わると信じていますから。  たとえば、家庭問題を考えた場合、すべてを児童相談所や警察に任せてしまっていいのでしょうか。児童相談所では、特に首都圏において、問題が一気に押し寄せていて、人手不足は深刻です。その結果、事件が起きた後に世間から、「見過ごしたんだ」とか「間に合わなかった」などと言われてしまう。でも、彼らだって、人間ですから、怖いと思って引いてしまうこともあるでしょう。そうすると、警察の介入を許容することになりますが、それによって、かえってこじれてしまうこともあります。家族の問題はとてもデリケートですから。 ――児童相談所と警察が組む必要があると考えますか?  東京では区によっては、すでに組んでいるところもあると思います。児童相談所が対応しているところに、すぐ警察が来て仲裁に入ったり、逆に児童相談所を警察が呼ぶといったニュースを見たことがあります。  今では混在になっているかもしれませんが、警察では女性だけのチームがあったこともありました。ストーカー事件などでは、被害者の大半が女性ですから、女性警察官の方が相談しやすいでしょう。男性警察官が対応したことにより、「あなたが綺麗だから」と言われた事例もあります。この言葉自体がセカンドレイプですが、それを知ってしまったら、警察に行くのを躊躇いますよね。  その他の事件でも、基本的に狙われるのは子供、お年寄り、女性などの弱者です。その中でも、今は子供が一番ひどい。「子供たちの問題をどうする?」という気持ちを常に大人は持ってないといけないんです。 ――『殺愛 巡査長・倉田沙月』でも、不良少年たちが独居老人からお金を奪っていきます。  弱い者が、さらに弱い者に被害を与えるという典型です。表には出ないだけで、こうしたことは、すでに起きているかもしれません。最近、よくニュースで取り上げられますが、介護施設でも目の届かないところで何が起きているのだろうかと不安になります。もちろん、普通に運営している施設が大半だと思いますが、表に出ないのでわからない。そういう意味では、自分が被害者になるかもしれません。逆に言えば、知らずに加害者になることだってあり得るのです。  現代は、ピリピリした社会になってきてしまっていますね。もう少し、子供たちが安心して暮らせる社会にできればと思います。小説を書いている間にも、子供が犠牲になった様々な事件が飛び込んできました。昔も、おかしな事件はあったけれど、これほどひどくはなかったように思います。これが普通ではないということを、作家もマスコミも繰り返し訴えていくしかないんです。 ――最近の事件でも問題になっているように、「引きこもり」は現代社会の大きな課題のひとつです。  8050問題と言われますね。50代の子供が引きこもり、それを80代の親が面倒を見ることを指します。ただ、親はいつまでも元気ではありませんから、親がいなくなった時、どうするのかは難しい問題です。    私も最近知ったのですが、この問題ではNPOが活躍しているようです。NPOが主体となって、親を亡くした引きこもりの男性を立ち直らせているんです。まずは、働き方の問題。彼らは、どうやって働いたらいいかが分からない。すごいと思ったのは、NPOでは、彼らの生活を考慮して仕事を考えていることです。部屋でずっとパソコンを使っているなら、在宅でできるパソコン関係の仕事をすることで、生活していけないか。また、彼らは夜、家族が寝静まった後に、コンビニに行って買い物をしたりしているんです。だったら、コンビニで働いてはどうかと提案していました。「コンビニまでは行けるんですよね。夜でもいいから、買い物に来ていた時間をアルバイトにしませんか?」と言うことで、一つの解決策として示していけます。  ――これからの作品でも、テーマやスタンスは変わりませんか?  そうですね。作家としては、問題提起することしかできませんから。解決しなければならない問題が山ほどあって、「こんな時、あなたはどうする?」と。それによって、類似事件が起きないようにする。ゼロにするのは無理かもしれないけど、できるだけ起きないようにする。声をあげていくことによって、作品を手にしてくれる人が出てくるかもしれません。作品を読んで、少しでも自分なりの解決の糸口を見つけてもらえればと思います。
朝日新聞出版の本読書
dot. 2019/06/09 11:30
カンヌ男優賞俳優、ペネロペ・クルスと夫婦共演「家族の秘密」めぐるサスペンス
カンヌ男優賞俳優、ペネロペ・クルスと夫婦共演「家族の秘密」めぐるサスペンス
「誰もがそれを知っている」アスガー・ファルハディが監督・脚本。全国順次公開中 (c)2018 MEMENTO FILMS PRODUCTION - MORENA FILMS SL - LUCKY RED - FRANCE 3 CINEMA - UNTITLED FILMS A.I.E. JAVIER BARDEM/1969年、スペイン生まれ。英語作品に初主演した「夜になるまえに」(2000)でアカデミー賞主演男優賞にノミネート、「ノーカントリー」(07)でアカデミー賞助演男優賞受賞。その他の出演作に「海を飛ぶ夢」(04)、「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」(17)など(WireImage/Getty Images) 「BIUTIFUL ビューティフル」発売元:ファントム・フィルム 販売元:アミューズソフト、価格3800円+税/DVD発売中 (c)2010 MENAGE ATROZ S. de R.L. de C.V., MOD PRODUCCIONES, S.L. & IKIRU FILMS S.L.  AERAで連載中の「いま観るシネマ」では、毎週、数多く公開されている映画の中から、いま観ておくべき作品の舞台裏を監督や演者に直接インタビューして紹介。「もう1本 おすすめDVD」では、あわせて観て欲しい1本をセレクトしています。 *  *  * 「ノーカントリー」や「007 スカイフォール」などで悪役を熱演し世界を凍り付かせたスペインの名優、ハビエル・バルデム。新作「誰もがそれを知っている」はイランの誇る名監督、アスガー・ファルハディの家族サスペンスドラマ。妻であるペネロペ・クルスとの共演も見どころだ。 「もちろん役について話しあうが、子どもがいるから家では日常会話が中心だよ。だから家の外でキャラクターになりきるんだ。妻と一緒に仕事するのは喜びだった。一緒に役になり一緒に役から抜け出る。24時間役になりきるより、はるかに創造的だと思うな」と妻との共演について語る。  ペネロペ演じるラウラが、妹の結婚式のために故郷スペインに戻ってくる。結婚式後の宴で彼女の娘が誘拐され、解決を模索する中、バルデム演じる幼なじみのパコとラウラ、その家族との複雑な関係がひもとかれる。犯人はいったい誰……。観客をぐいぐいと引きこむドラマは、監督が5年もかけて構想した。バルデムは、スペインの家族関係を見事に書き上げた脚本を絶賛する。 「アスガーは家族をイランに残し一人でスペインにやってきて、一人で部屋にこもり脚本を書き上げた。スクリーンで起こることの99.9%は彼が書き上げたものなんだ。さすがに敏腕の監督だよ。僕らスペイン人は台詞のニュアンスをアドバイスした程度だよ」  そしてパコという役についてはこう語る。 「シンプルな男だよ。多くの時間を費やして、先のことを打算的に計画したりしない。利己的ではなく今を生きている男なんだ。パコはアスガーが一番興味を抱いているような人間、彼の映画にたびたび登場するようなキャラクターだよ。他人のために自分を犠牲にするような。自分の周りにいる人たちのことを思っているんだ。日常的なレベルで」  ハリウッドやスペイン映画を中心に、アクションからコメディーまで多彩な役をこなしてきた。自分の演技が最も光る役はどれかと聞いてみた。 「『BIUTIFUL ビューティフル』は自分にとって非常に感慨の深い作品だと感じている。テーマの点でも、長編だったという点でも。5カ月間もぶっ続けの撮影も厳しく、ずっしりと責任を感じる日々が長く続いた。全編を通して主人公が中心になっている映画だったから、疲労困憊したよ。肉体的な緊張もあり、呼吸困難に陥ったような心境で、リラックスできない日々が続いたんだ」  俳優一家に生まれ、フランコ独裁時代のスペインで幼少期を過ごした。 「両親は僕が幼い頃に離婚して、母に育てられた。母が女優として仕事をしている様子を見ながら育ったんだ。フランコ政権時代に女優をやるというのは、大変な苦労だった。そんな環境で育ったから、いつも心のどこかに母を思う気持ちがあるんだ」  逞しく男らしい外観とは裏腹に、女性の心を深く理解する繊細な心の持ち主なのだ。 ◎「誰もがそれを知っている」 アスガー・ファルハディが監督・脚本。全国順次公開中 ■もう1本おすすめDVD 「BIUTIFUL ビューティフル」  ギレルモ・デル・トロ、アルフォンソ・キュアロンと並び、現代メキシコ映画界の3大監督のひとりアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの2010年の作品。バルデムが演じるのはメキシコからの不法移民で、スペインのバルセロナに住むウスバルだ。精神的に不安定な妻と別れ、2人の子どもを男手ひとつで育てている。タイトルは子どもが間違ってつづったスペリングに由来する。  不法移民のための職を斡旋し、細々と闇社会で生計を立てている彼は、死者との会話ができる霊感の持ち主でもある。その彼が突然前立腺がんで余命2カ月と宣告され、絶望の淵に立たされる。自分亡き後、子どもたちはどうなるのか──。違法な形で生計を立てている彼だったが、心の底では余生で人を救い自分も救われたいと欲するのだった。  長編デビュー作「アモーレス・ペロス」から常に哲学的な課題、特に死というテーマを刹那的に美しく映像化してきたイニャリトゥ監督。難民問題が世界的な問題へと深刻化する前に制作された。雪景色で始まり終わる映像は感動的だ。バルデム自身が誇りに思うこの作品は、カンヌ国際映画祭の男優賞を受賞した。 ◎「BIUTIFUL ビューティフル」 発売元:ファントム・フィルム 販売元:アミューズソフト 価格3800円+税/DVD発売中 (ライター・高野裕子) ※AERA 2019年6月10日号
AERA 2019/06/08 08:00
肌によい食材を摂って、日焼けダメージから肌を守りましょう!
肌によい食材を摂って、日焼けダメージから肌を守りましょう!
屋外にいると紫外線量の多さを感じることが多くなってきました。これからはちょっとした外出時や洗濯物を外に干す短時間であっても、顔、体、髪への日焼けに気をつけたいものですね。 日焼け対策というと、肌の表側に対策をして紫外線を受けないようにする方法が一般的ですが、紫外線ダメージを軽減するために食事の内容に気をつけることも大切です。効果が目には見えづらいけれど、食事に気をつけることが日焼け後のケアにもつながるのです。 そこで今日は、日焼けを促進させる食べ物や、日焼け後に食べたいものをご紹介しましょう。早速、今日から食事に気をつけてみませんか? 2種類ある日焼けパターン 「日焼けしてしまった」と私たちはよく言葉にしますが、日焼けには2種類のパターンがあります。 ひとつめが「サンバーン」です。 サンバーンは紫外線を浴びて数時間経ったタイミングで、肌が赤くなることを指します。症状がひどいと、火傷のような水ぶくれになることもあります。 ふたつめが「サンタン」です。 サンタンは、赤みが消えた肌が徐々に褐色に変化することを指します。これは色素沈着による作用です。 美白に気を使っている人であれば、日焼けで肌が褐色に色づくことは避けたい現象ですね。でも体の健康のために、日焼けにあまり過敏になるのも避けたいところ。それはなぜでしょうか。 適度(1日15分程度)な日光浴は、骨や歯の形成に必要な栄養素ビタミンDを体内に作り出すといわれています。 さらに、紫外線を浴びると肌を構成するメラノサイト細胞が通常よりたくさんのメラニン色素を出します。その結果、肌表面が褐色化することで、それ以上日焼けしないようダメージを防御する働きが起きているのです。 日焼けすべてを悪者にするのではなく、適度な日焼けを許容する気持ちも大切であることがわかりますね。シミの原因になるメラニン色素。でも、肌を守るのもこのメラニン色素なのです 日焼け後は、72時間内の集中ケアが大切 もし紫外線をたくさん浴びてしまったら、できるだけ早く肌を手当てしましょう。 ●肌の表面が赤くヒリヒリする場合 何より冷やすことが肝要ですが、体(肌)は約72時間でメラニン色素を生成しますので、この72時間以内に集中してケアすることで、ダメージを最小限にくいとめることができます。 集中ケアというと「肌の表面を冷やす」「保湿する」といった方法を多くの方がとると思いますが、そうしたときは肌のケアとあわせて、食事にも気をつけましよう。 もちろんバランスのよい食事に越したことはありませんが、中でも日焼け後は少し多く摂ったほうがいいものがあります。肌表面のケアだけでなく、食事からもケアを! 日焼けケアのエース(ACE)とは? 日焼け後に積極的に食べたい食材 = 抗酸化作用のあるものを指しますが、その種類は豊富です。まずは成分から見ていきましょう。 ・ビタミンA/ビタミンC/ビタミンE/リコピン ビタミンA・C・Eを覚えるために「日焼けケアのエース(ACE)」と覚えると忘れにくくなりますね。 ○ビタミンA ・鶏レバー・豚レバー・うなぎ・にんじんなど緑黄色野菜などの食材に多く含まれています。 抗酸化作用、乾燥肌予防、免疫力を高めてくれる効果が期待でき、日焼け後の疲れた体には必要な栄養素です。 ○ビタミンC ・緑茶・アセロラ・イチゴ などの食材に多く含まれています。 「日焼けしたらビタミンC!」といわれるくらい有名なビタミン。抗酸化作用のほか、紫外線による活性酸素を抑える効果も期待できます。 しかし、同じビタミンCでもその日に屋外に長時間する場合、朝食などのタイミングに摂ると日焼けの悪影響を促進させかねないものがあるので注意が必要です。うな肝、鶏レバー、豚レバーは焼き鳥なら手軽! 長時間屋外にいる日の朝は、柑橘系を食べないほうがいい? 柑橘類にはソラレンという光毒性の成分が含まれています。この成分は紫外線の感受性をよくし、紫外線の吸収をよくする働きがあると指摘されています。 そのため、朝食に柑橘類をデザートに摂ったり、ジュースなどで摂取することは、外にいる時間が長い日の朝には避けたほうが賢明といえます。 でも、夜に柑橘類は食べることは問題なく、ビタミンCも多く含んだ柑橘類は、日焼け後の食事に積極的に摂り入れたいもののひとつとえます。ビタミンCが豊富な柑橘類ですが、長時間外にいる日は朝に食べないようしましょう! そのほかにも、日焼けダメージを軽減する食材を摂ろう! ○ ビタミンE ・アボカド・イクラなどの魚卵類・アーモンドなどのナッツ類などの食材 抗酸化作用があり、ビタミンCと一緒に摂ることで相乗効果が期待できるこれらの食材は血行を促進し、新陳代謝を高める効果が期待できるので、日焼け後には必要な栄養素とされています。 ○リコピン ・トマト・すいか など 紫外線を浴びたときに体内で発生する活性酸素に対しての抗酸化力が高く、メラニン生成も抑える効果が期待できるので、屋外にいる時間が多い日の朝、そして夜にも積極的に摂りたい栄養素といえます。 特にトマトの場合、生食よりジュースなどの加工品のほうがリコピン含有量が多いといわれていますし、生のトマトであれば加熱して料理に加えるほうが、より効果的ともいわれています。ビタミンCと一緒に摂ることで相乗効果が期待できるアボカド 日焼けが気になる人ほど、旬の食材を! このように食材を見ていくと、夏に旬を迎えるものが多いことに気づかれましたか? 例えば夏の定番である「うなぎ」は、体+日焼け両面に効果がありますが、うなぎのほかにもそうした食材はたくさんあります。 そう、夏に旬を迎える食材は、日焼けなどの季節特有の体のダメージを軽減させる働きがあるのです。あらためて、自然って偉大ですね! ── 仕事柄、屋外にいる時間が長い、子どもさんの運動会で校庭に長時間いる、釣りやゴルフ、山登りなどのレジャーに出かける……といったシーンでは、その日の食事やアフターケアに注意して、日焼けによるダメージを軽減してくださいね。体の代謝を促進させる栄養バランスのよい食事を!
tenki.jp 2019/06/07 00:00
京都大学総長・山極壽一「ゴリラが全部教えてくれた」
大越裕 大越裕
京都大学総長・山極壽一「ゴリラが全部教えてくれた」
「大学はジャングルと一緒。そこで生きる皆がおもろいことをやれば、活気づく」と語る(撮影/楠本涼) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  ゴリラは人間の家族に一番近い集団生活を行っている動物だという。相手と対等な関係をつくって生きている。そんなゴリラに魅せられて40年。大ケガを負いながら、ゴリラの群れに入り込み、調査をしたこともある。ゴリラ研究の第一人者が、2014年に京都大学の総長に選出。ゴリラから教わったリーダーシップで大学の舵を取る。(文/大越裕) *  *  * 「やばいな……、これは本当に決まるかもしれん」  2014年7月の京都大学総長選挙。山極壽一(やまぎわ・じゅいち 67)は最終選考会議のヒアリングに、自分一人しか呼ばれていないことを知って、そう思った。事前に行われた学内の教職員5千人による予備投票で10人の候補に選ばれた際も、「まさか自分が総長になるわけがない」と気楽に構えていた。そのため他の候補がスーツにネクタイ姿の写真を提出する中、動物園の腕章をつけた「かなりいいかげんな服装」の写真を出した。事務局に頼まれて書いた所信表明には「学生中心の大学にすること」「総長の任期が長すぎるから、解任規定を作ること」という、過激とも言える二つの方針を掲げた。  最終投票の直前、京都大学の学内には、学生が作った「山極教授に投票しないで」と書かれたビラが大量に撒かれていた。学生に不人気だったからではない。逆だ。「日本の霊長類学の宝である山極教授が、総長になって研究から退いては、世界の霊長類学および京大にとって多大な損失だ」というのが理由である。山極とともに京大理学研究科の運営に携わった教授の沼田英治(63)は、総長選をこう振り返る。 「結果的に、あのビラ事件がニュースにもなって、逆に『そこまで学生に信頼されている山極さんのような人が総長になるべきだろう』と、決定の後押しになったようです」  そうして山極は、第26代京都大学総長となった。就任決定直後の記者会見で「座右の銘は?」と聞かれた山極は、頭が真っ白になりながら「ゴリラのように、泰然自若です」と答えた。その時、山極の脳裏には、アフリカのジャングルの中で悠然と群れを率いる、体重200キロ近くにもなる背中に白い毛の生えた「シルバーバック」と呼ばれる雄ゴリラの姿が浮かんでいた。 ●分刻みの予定を割いて子どもにはゴリラの話を 「シルバーバックは仲間から信任を得られなければリーダーになれない。いろいろな人が好き勝手な研究をする大学は、陸上で最も生態多様性に富むジャングルと似ている。猛獣のような研究者に縄をつけず、その能力を存分に引き出すことが総長のリーダーシップだと思ったんです」  4年後の18年11月、大阪市役所で行われた講演会で、数十人の子どもたちを前に山極の姿があった。題目は「ぼくはこうしてゴリラになった」だ。 「僕は小さい頃、探検家になりたかったんだ。誰も知らない国に出かけて、未知のものに出会いたかった。それで大人になってから40年間『ゴリラの国』に通って、自分もゴリラになりました」  子どもたちが笑う。「野生のゴリラは恐ろしいと思う人、手を挙げて」。山極が促すと、何人かの手が挙がった。 「長いことゴリラは恐ろしい動物だと思われていた。それはヨーロッパの探検隊が100年以上前にアフリカでゴリラと遭遇したとき、ゴリラが立ち上がってドラミング(胸を叩いて音を出す行動)をしたから。探検隊は驚いて、ゴリラを鉄砲で撃っちゃったんだ」 山極は子どもの頃に児童文学の「ドリトル先生」シリーズを読み、「動物と会話できたらいいな」と思ったという。「僕は今、ゴリラと言葉ではなくしぐさや表情で話せるようになりました」(撮影/楠本涼)  ゴリラにとってドラミングは、相手を脅かす意味はない。子どもが足を踏み鳴らすように、「俺はお前と同じなんだ」と主張し、自分を表現する行動なのだと山極は解説する。 「ゴリラは目立ちたがり屋の遊び好きで、大人になっても笑う。サルはすぐに勝ち負けを決めるけれど、ゴリラはケンカしても勝敗を決めない。大人のゴリラ同士のケンカに、子どもが割って入って『やめなよ』って止めることもよくあるんだ」  映像や写真を見せながらゴリラの生態を易しく語る山極の話に、子どもたちは目を輝かせる。山極は分刻みの総長職を務めながらも、子どもにゴリラを語る機会はできる限り持つ。それは「ゴリラの『相手と対等の生き方』を知ってほしい」と願っているからだ。 「会社や軍隊のような組織では上下、優劣をはっきりさせる。しかし家族や友人は互いに対等の関係でなければうまくいかない。ゴリラから人間はどのように生きるべきかを学べるんです」  山極がゴリラの研究を志したのは、「人間の家族に一番近い集団生活を行っている動物」であることが理由だ。野生のゴリラの社会にフィールドワークで入り込み、長時間彼らを観察することで、人間だけに見られる「家族」の起源を解き明かすのが究極の目標である。家族や社会の形が急激に変化を続ける現在、ゴリラから「人間の本来あるべき姿」を探る山極の研究は、ますますその価値を増している。17年からは国立大学協会と日本学術会議の会長も兼務し、文字通りこの国の学問のリーダーとなったが、その人生の軌跡は、まさに「探検家」と呼ぶにふさわしいものだった。  山極は1952年東京に生まれ、国立市で3歳から18歳まで過ごした。 「その頃の東京にはまだ自然が残っていて、自宅周辺には水田や畑が広がっていました。近くの森でターザンごっこや忍者ごっこをして遊んでいた」  運動が得意で、体育の成績は常に5。文学少女だった母が家に内外の名作全集を揃えており、自然に本にも親しんだ。『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』などを読み探検家に憧れを抱いたのは小学生時代だ。中学ではバスケ部に所属しながら演劇に関心を持ち、文化祭で脚本と演出を務めた。高校でもバスケ部に入部したが、2年生のときに体育祭の練習で足の骨を折り、半年ほどギプスをはめて暮らした。 「運動ができなくなって暇になり、勉強に関心が向きました。ちょうど高校紛争が始まり、授業のほとんどがボイコットでなくなった。それで予備校にも行かず教科書と参考書で勉強したら、模試の成績がぐんぐん上がった」 ●雌ゴリラ2頭に噛まれて頭と足を数十針縫うけが  京都大学を受験したのは「東京を離れたい」と思ったのが理由だ。学生運動に感化された同級生の間では「サルトルによれば」などと衒学的な議論がよく交わされていた。山極はそうした実体験に基づかない、聞きかじりの論理が性に合わず、大学は新天地で過ごそうと決めた。  京大に入学した山極は、山登りが好きだったことからスキー部に入部。ノルディック競技にはまり、関西の大会で4位に入賞するほど腕を磨いた。このスキーが、山極を霊長類研究へと導く。 「志賀高原で練習をしていたら、双眼鏡で雪原のサルを眺める人がいた。何をしているか尋ねると『人類学の研究だ』と言う。『人間だけを見ていても人間はわからない。サルと比較することで人間が定義できるんだ』と聞いて、これは面白そうだなと思った」 学生時代から研究室の仲間と通って議論した京都・木屋町のバー「ミック」で。以前の店舗は理学部のすぐ近くにあり「京大の霊長類学はミックで育ったと言っても過言ではない」と語る(撮影/楠本涼)  山極は、京大で霊長類の研究をしていた『高崎山のサル』の著書で知られる助教授の伊谷純一郎の研究室を訪ねた。そこには京大だけでなく他大学からも霊長類学・人類学の研究者が夜な夜な集い、酒を酌み交わしていた。 「調査で行ったあちこちの珍味を食べながら、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をする。そこでは文献や他人の言葉ではなく、皆自分の体験に基づき『俺はこう思う。お前はどう思うんだ』と話していた。まさに梁山泊(りょうざんぱく)で、自由奔放な空気が実に面白かった」  大学院に進むと、下北半島から屋久島まで日本列島を縦断して各地のニホンザルの生態を調査した。「ゴリラをやってみないか?」と伊谷から声をかけられたのは、屋久島から帰ってきたときだ。 「当時、欧米の研究者の間で、ゴリラの社会を巡る議論が起きていた。それまで野生のゴリラ集団は穏やかな共存関係にあると思われていたが、ダイアン・フォッシーという研究者が雄の子殺しを発見し、『ゴリラの集団同士は母親を奪い合う強い敵対関係にある』と主張したんです。霊長類の社会に関心を持った自分も、ぜひ現地で調査したくなった」  伊谷に抜擢された理由について、山極は「体が大きくて、屋久島でもどこでも地元の人と酒を飲んで仲良くなったから。こいつならアフリカでも何とかなるだろう、と思われたのでは」と語る。  山極の40年にもわたるアフリカでのフィールドワークはこの時から始まった。標高3千メートルほどの高地の森に暮らすゴリラに近づくには、彼らの警戒心を解く「人付け」という活動が必要になる。数人で森の中に出かけ、ゴリラの声が聞こえる距離で後を追い、夕方まで過ごすのだ。人付けには数年かかるのが普通だが、密猟者に狙われるゴリラは人間を嫌っており、最初は人の姿を見たら一目散に逃げる。 「その後をついていくと、いら立ってこちらに向かって攻撃してくる。でも『突進すれば人間は逃げる』と思われたらそこで終わり。踏みとどまって耐えねばならない」  あるときは雌のゴリラ2頭に噛まれて、頭と足を数十針縫う大けがを負った。「雄ゴリラだったら死んでました。相撲取りより大きな体で牙が5センチもあるからね」 ●時に酒を酌み交わし現地の人と良い関係築く  命を賭してゴリラの群れに受け入れられると、間近でその生活を長時間観察できるようになった。子ゴリラ同士がレスリングで遊ぶ様子を、シルバーバックが見守る姿を見るうちに、山極は彼らに親近感と気高さを覚えた。しぐさや「グフーム」という唸り声から、ゴリラが何を考えているかもわかるようになった。 「後にダイアン・フォッシーに会ったとき『ゴリラのあいさつをしてみて』とテストされ、無事にパスしました。あまりにゴリラの世界に入り込んでいたので、久しぶりに日本に戻って友達と飲んでいたら、『お前さっきからずっと唸ってるぞ』と笑われたりもした」  山極が発見したゴリラの知られざる生態の一つに「覗き込み」がある。ある時、雄のゴリラが山極の顔から20センチ程に顔を近づけ、じっと見つめてきたことがあった。サルの場合、正面から目が合うと威嚇と見なされ攻撃されるため、山極は目をそらした。するとゴリラは残念そうな様子で回り込み、また山極の顔を覗き込んできた。 「それで、これは彼らのコミュニケーションなんだ、とわかったんです」  人間には白目があるため、遠くからでも視線に気づき、相手の感情を黒目の動きで細かくモニターできる。だがゴリラの目には白目がない。そのため近くに顔を寄せることで、相手を遊びや交尾に誘ったり、食べ物をねだったりするのである。 アフリカで現地の人々と過ごした学生時代の写真。40年に及ぶ研究で、ゴリラの群れの新生や、メスの子連れ移籍、チンパンジーとの共存様式の発見など、数々の重要な成果を上げてきた(撮影/楠本涼) 「人間の場合も、お母さんと赤ちゃんや恋人同士など、言葉がいらない関係性の2人は顔を密着させる。つまり顔の覗き込みは、言葉以前の古いコミュニケーションだと考えられる。政治交渉で首脳同士が直接対話するのも、顔を合わせなければ相手の本心を理解し、信頼関係が結べないからです」  山極は80年代前半に、フォッシーとともにマウンテンゴリラの研究に従事した。だが85年、衝撃的なニュースがもたらされる。フォッシーが何者かに小屋で襲われ、惨殺されたのだ。ゴリラの保護に尽力した彼女の生涯は、後に「愛は霧のかなたに」という映画にもなったが、犯人はいまだにわかっていない。山極はフォッシーの死から二つのことを学んだという。 「一つは、密猟者のような人すら含めた現地の人々と良い関係を築くこと。もうひとつは、地元の研究者を育てることです。フォッシーはゴリラを愛するあまり、金もうけのためにゴリラを利用する人々と対立して、恨みを買っている節があった」  アフリカのガボンで5年以上にわたり、研究スタッフとしてゴリラの人付けを行った安藤智恵子(50)は、山極と現地民との信頼に助けられたことがある。 「雇っていた運転手が、酔って飛び出してきた老人をひいてしまい、亡くなるという事件がありました。そのとき山極さんは日本にいたのですが、電話をすると『自分で判断して動くな。とにかく村の人々の意見を聞け』とアドバイスされ、何とか解決することができました。大臣も農民も分け隔てなく、誰に対しても同じ態度で接する山極さんに、村人も絶大な信頼を寄せていたんです」  山極と屋久島やアフリカでフィールドワークを共にした京都大学霊長類研究所所長の湯本貴和(60)も、「人としてのつきあい方を、山極さんから学んだ」と語る。フィールドワークを行う上では、ジャングルを知悉(ちしつ)する地元民の協力が必須となる。山極は道案内役を頼む狩猟採集民の人々とも膝を突き合わせ、ときおり酒を酌み交わし、研究以前に人間関係を構築することを重視した。山極は総長選挙の後、対立候補だった教授たちを皆理事に迎え、大学経営の中核メンバーとしたが、それも山極流の「敵をも味方にするやり方だ」と湯本は言う。  大阪大学総長、京都市立芸術大学学長を歴任した鷲田清一(69)は、山極と25年以上の親交を重ねる学究の同志だ。鷲田は95年頃から、人々の暮らしの中で哲学を再構築する「臨床哲学」の試みを始めたことで知られる。 「霊長類学と哲学と学問領域が違っても、ともに研究室にこもらず外に出てフィールドワークを行う点が山極さんと一緒だった。彼と知り合ってから、自分が主宰する学際的な研究会にはほとんど加わってもらいました」  ある研究会で屋久島に合宿したときには、こんなことがあった。 「山道を歩いていたら、道路に女性が乗る車が止まってた。見るとサルが何頭もへばりついて、食べ物を欲しがって騒いでる。そしたら山極さんが黙って車に近づいて、恐ろしい声で『ウォーッ』と叫んだ。サルは跳び上がって逃げていった」 ●世界に飛び出して武者修行をしてこい  そんな山極について鷲田は「いざとなれば体を張る、頼まれたら断らん人」と評する。「山極さんのような人はすぐにタコツボに閉じこもるアカデミズムの世界には少ない。だから彼に大切な仕事が任されるんでしょう」 「シルバーバックはえこひいきをせず、群れの仲間すべてに平等に接する」。山極はゴリラから学んだことを、研究とともに大学経営にも生かしている(撮影/楠本涼)  大学運営では決して強引な手法をとらない山極だが、大学行政に関わる省庁の官僚とは何度もぶつかってきた。「理系の実学重視」の世論に押された文部科学省が、2015年に全国の国立大学に対して文系学部・大学院の見直しを通達すると、「京大にとって人文社会系学問は重要」といち早く声明を発表した。「短期的な成果を求める研究費の『選択と集中』が、日本の研究力を低下させている」と国の政策にも真っ向から異を唱える。山極は今、日本全体で学生の海外留学希望者が減り、「内向き思考」が強まっている傾向に危機感を抱く。 「今西錦司先生が拓(ひら)いた日本の霊長類学をはじめ、伝統的に京大は、独創的で誰もやっていない研究に取り組み世界をリードしてきた。『それおもろいなあ、やってみなはれ』の精神が京大の神髄で、僕も伊谷先生の研究室でそれを叩き込まれた。学生には、『どんどん世界に飛び出して、武者修行をしてこい』と発破をかけています」と語る。  総長退任まであと1年半。「その後の予定は?」と聞くと、山極は「まだ何も決めていないが、アフリカの仲間のところに戻りたいね」と笑った。山極にとっての「仲間」とは、現地の人々だけでなく、きっとシルバーバック率いるゴリラたちをも意味するのだろう。(文中敬称略) ■山極壽一(やまぎわ・じゅいち) 1952年/東京都生まれ。父は富士通に勤めるサラリーマン、1歳半上の姉と3歳まで茨城県下館市(現筑西市)で育ち、東京都国立市に転居。 70年/京都大学理学部入学。後に師となる伊谷純一郎の『ゴリラとピグミーの森』に古本屋で出合う。2回生の終わりに伊谷を訪ね、仲間と共に「人類生態学研究会」を作る。 75年/京大理学部卒業。卒業研究では地獄谷のサルの性行動の調査に取り組む。「サルの入る温泉を掃除しながら顔と名前を覚えて毎日その行動を逐一記録した」 77年/京大大学院理学研究科修士課程修了。修士論文では日本列島を縦断し、各地のサルの形態的変化および社会の変異を調査する。その後の博士論文では屋久島で9カ月間の長期調査に取り組んだ。「空き家を借りて、金がないから夜釣りをして取った魚を食べていた」 80年/京大大学院理学研究科博士課程退学。博士課程2年から「家族の起源」をゴリラから探る研究を始め、アフリカのコンゴ、ルワンダ、ケニアなどに滞在。伊谷の紹介でダイアン・フォッシーと出会う。 83年/愛知県犬山市の日本モンキーセンター研究員になる。84年に画家の伏原納知子と結婚し、後に『おはよう ちびっこゴリラ』などの共著を出版。 88年/京大霊長類研究所助手。コンゴに2度にわたって各10カ月、家族で滞在して研究に取り組む。 92年/ルワンダ内戦やコンゴ動乱を機に、カフジ山で住民主体のゴリラとの共存を目指すNGOポレポレ基金の設立に参加、以後日本支部を作り活動を支援する。 94年/新たな調査地を求めてガボンへ渡航、プチロアンゴやムカラバに居を据えてニシローランドゴリラの調査を開始する。 98年/京大大学院理学研究科助教授に就任。 2002年/同教授に就任。院生のドクター進学や就職に尽力する。 05年/日本霊長類学会の会長に就任。 08年/国際霊長類学会の会長に就任。 11年/京大大学院理学研究科長・理学部長に就任。 12年/京大経営協議会委員。 14年/京大総長就任。 17年/国立大学協会会長、日本学術会議会長に就任。 ■大越裕 1974年生まれ。フリーライター。理系ライター集団チーム・パスカルに所属し、研究者や先端企業を取材。本欄では「作家・道化師・ミュージシャン ドリアン助川」「哲学者 鷲田清一」などを執筆。 ※AERA 2019年4月8日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/06/06 14:00
HIV治療薬が材料? 南アフリカW杯の開催地をむしばむ“最悪の麻薬”「ニャオペ」とは
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「有名な物言いがある。これはマリファナ(Marijuana)じゃない。マリアージュ(Mariage、結婚)だ」  笑いどころがいまいちわからない冗談を口にしながら、その男は乾燥大麻(マリファナ)を巻紙の上に敷いていく。手付きは実にこなれていた。やがてポケットから小袋を取り出し、巻紙の上の大麻にベージュ色の粉をふりかけ始める。 「これがニャオペだ。このあたりの奴らはみんなやってる。これは俺たちに『力』をくれる」 ニャオペ。一袋20~30ランド(約160~240円)ほどで売り買いされる。ウンガという別名もある。大麻とともに紙に巻いて吸引する方法が一般的だが、粉末を水に溶かし、静脈に注射をするケースもある(撮影/小神野真弘)  ここは南アフリカ共和国最大の都市・ヨハネスブルク西部に位置する「ソウェト」というタウンシップ。タウンシップとは1994年まで続いた人種隔離政策「アパルトヘイト」時代に設置された旧黒人居住区だ。いまだ貧困率は高いものの、現在ではその大部分が活気ある住宅街になっている。2019年4月、往来の喧騒を離れたとある空き地で、記者はニャオペと呼ばれる違法薬物を乱用する人々を取材した。  男は大麻とニャオペの混合物をタバコ状に巻きあげ、口にくわえて火を灯す。そして深々と煙を吸い込んだ。途端に瞳孔が針のように収縮し、続いて弛緩した表情が顔全体に広がっていく。「苦痛も不安も全て消える。これがなければ俺たちは生きられない」。紫煙をゆっくり吐き出しながら、男はそう言い添えた。 ニャオペを吸う男性。彼が語るにはニャオペの効果は3~4時間続く。起床から就寝まで1日に4回ほど吸引するという(撮影/小神野真弘)  ニャオペは現在進行形で成長を続ける都市伝説のようなものだ。 <HIVの治療薬が主成分である> <ヘロインやコカイン、LSD、メタンフェタミン(覚せい剤)などあらゆる違法薬物が混ざっている> <類を見ない快感と幸福感を得ることができる>  さまざまな噂が流布するが、南アフリカの行政・警察当局はその実態どころか乱用者の総数すら把握できていない。現地報道にその名が現れ始めたのは2010年頃だが、流行自体は2000年代中頃から始まっていたともいわれる。ほぼ南アフリカ固有の社会問題で、諸外国での認知度はかなり低い。日本ではテレビ番組「クレイジー・ジャーニー」の2019年6月5日放送分で取り上げられたが、これで初めてその名を聞いたという人も多いのではないだろうか。  同番組で取材にあたったジャーナリスト・丸山ゴンザレス氏は語る。 「近年、世界ではヘロインの1万倍の効果があるという大型動物用鎮痛剤『カルフェンタニル』、皮膚が黒く変色する『クロコダイル(デソモルヒネ)』など、使用者が死に至るほど強力な"デス・ドラッグ"の流行が顕著です。ニャオペを静脈注射する乱用者を目の当たりにしましたが、途端に血管が変色した。これだけでいかに強力なドラッグか明白ですが、ニャオペの問題点は、副作用を含む効果に対して現地の物価でも極めて安価に、そして安易に入手できること。これが国際的に流通すれば世界的に蔓延する危険性があります」 ■複雑怪奇なニャオペの正体  ニャオペはどのような麻薬なのか、という問いに簡潔に答えるのは難しい。「現在進行系で成長を続ける都市伝説」と先述したように、時期によってその正体が変化しているからだ。  流行の兆しが報道され始めた2010年代初頭から「HIVの治療薬が主成分である」という噂は存在した。しかし2011年、クワズール・ナタール大学(南ア)の研究者が別々の場所で入手したニャオペを分析した結果、その主成分は粗悪なヘロインとストリキニーネという薬品で、HIV治療薬は検出されなかった。  だが、ここから事態は奇妙な展開を迎える。2010年代中頃から、HIV患者をターゲットにした強盗や、病院への襲撃が南アフリカ全土で増加し始めるのだ。動機はHIV治療薬を奪い、ニャオペとして使用・販売するためと考えられている。すなわち、もともとはHIV治療薬が含まれていなかったニャオペは、デマの通りにHIV治療薬を含んだ麻薬として流通し始めているという。  その背景を、現地の事情に詳しいヨハネスブルクの新聞社メール&ガーディアン紙のデルウィン・ベラサミー記者はこう解説する。 「南アフリカには700万人以上のHIV感染者が暮らしていて、この病気に対する恐怖は現在でも強い。また、高等教育修了者の比率が低い黒人の間で顕著ですが、迷信深い人々が伝統的に多い。結果として『HIVのような強力な疾病に対抗できる薬ならば、より強い力を与えてくれるはず』という素朴な思い込みにつながった。これが多くの人々がニャオペに引きつけられる理由のひとつといわれています」  現在では、ニャオペは「ヘロイン、ストリキニーネ、HIV治療薬(主にエファビレンツ)を中心に多種多様な薬品が混合されたもの」というのが通説だ。肝心なのはHIV治療薬に麻薬的な効果はないということ。ニャオペの効能として挙げられる快感や幸福感はヘロインによるものと考えられる。強烈な依存性、死亡事故が多発しているといった特徴とも合致する。では、ストリキニーネとは何か。  これは現地の研究者たちを困惑させ、同時に驚愕させている問題だ。ストリキニーネはいわゆる殺鼠剤(さっそざい)なのである。その毒性は極めて強く、フィクションの世界では殺人の凶器としてたびたび用いられる。なぜ毒物を混入させるのか。 「あくまで憶測の域を出ませんが、ふたつ仮説があります。ひとつはストリキニーネを混ぜることでカサを増やし、利益を高めるため。しかし、カサを増やすだけなら小麦粉や洗剤など、より簡単に手に入るものを使えばよく、筋が通りません。もうひとつはニャオペの"リピーター"を増やすため。ストリキニーネを摂取すると体に激痛が伴います。一方でヘロインには強力な鎮痛作用がある。問題はストリキニーネの作用の方がヘロインよりも長続きする点です。ニャオペを吸うとヘロインの作用が先に消え、激痛に見舞われるので、その痛みを消すために再びニャオペを吸うというサイクルが生まれる。結果、乱用者はニャオペを手放せず、重度の依存に陥っていくと考えられます」(先出のベラサミー記者)  2011年にクワズール・ナタール大学がニャオペの分析を行った際、プロジェクトを主導したサベンドラン・ゴベンダー研究員は、このヘロインとストリキニーネの組み合わせを目の当たりにして「考え得る最悪の麻薬」と述べたという。 ■乱用者の規模はいまだ不透明 「ニャオペは私たちのコミュニティーを破壊している」 ニャオペを所持していた男性(左)を諭すタバン・マドンセラ氏  ソウェト東部のディップクルーフ地区で自警団の代表者を務めるタバン・マドンセラ氏(43)はそう訴える。彼は他の住民たちとシフトを組み、週7日体制でディップクルーフ地区の各地を巡回、ニャオペを所持している住民を発見して没収・破棄する活動を行っている。 「ニャオペを使用する住民は確実に増えている。最近では月に2、3回は過剰摂取による死亡事故を耳にする。中毒になって仕事をしなくなり、ニャオペを買うカネのために強盗や窃盗をする者も珍しくない」  こうした話はヨハネスブルクのあちこちで聞かれる。しかしニャオペの取材を開始して最大の障害となったのが、乱用者の正確な統計が存在しないことだ。乱用者数は数十万とも数百万ともいわれ、非常に曖昧。統計をとるためのガイドラインが整備されていないことも一因だが、ニャオペがさまざまな薬物の混合物であるのも大きな理由とされる。死亡事故が起きても、それがニャオペによるものか、他の麻薬によるものか断定が難しく、統計に反映されづらいのだ。  とはいえニャオペ汚染は、近年の南アフリカが直面している最大の社会問題のひとつであることは間違いない。政府はこの薬物との戦いを「戦争(War)」と表現。ひとつの目安として、ソウェトにあるクリス・ハニ・バラグワナス病院は、2014年から2017年2月までにニャオペが原因で心不全を起こしたと思われる患者を68名診察したと報告している(うち10名が死亡)。この傾向が全国の病院に適用できるならば、ニャオペ汚染は確かに深刻な規模だろう。  乱用の実態をより詳しく調べるため、2019年4月のある夜、マドンセラ氏の自警団のパトロールに同行した。 パトロールをする自警団。夜間は治安が悪く、10名前後のグループで行動する  午後7時、ソウェト最大の繁華街といわれるバラ・モール周辺でパトロールは始まった。日中は多くの人が行き交い、喧騒が絶えないエリアだが、日没とともに人影はまばらになる。ソウェトを擁するヨハネスブルクはかつて「世界一危険な都市」と呼ばれ、2010年のサッカーW杯の際には安全の問題からNHKと在京民放キー局が女性アナウンサーの派遣を見送ったほどだ。現在の治安は比較的改善されてはいるが、それでも犯罪率は低くない。「絶対にグループから離れるな」とマドンセラ氏に念を押された。 バラ・モール周辺。付近には南アフリカ最大の乗り合いタクシーの集積場もあり、日中は屋台が立ち並び、多くの人で賑わう  しかし、ニャオペ乱用者を発見するといってもどのように見分けるのか。歩きはじめて5分も経たないうちに答えがわかった。マドンセラ氏は、スーパーマーケットなどで使うショッピングカートを押して歩くひとりの男性を目に留めると、早足で詰め寄り、問答無用でポケットをまさぐった。すると2本の注射器とニャオペが詰められたマッチ箱が転がり落ちてきた。 転がり落ちてきた注射器。黄色いマッチの箱にはニャオペの小袋が隠されていた  ニャオペによって意識が混濁しているのか、男性は全身を調べられる間、抵抗もしなければ反論もしない。マドンセラ氏は持ち物をすべて確認すると、注射器を踏み壊し、ニャオペは入念に踏みつけて破棄した。そして「二度と手を出すな」と強い口調で言い聞かせ、男性を解放した。  疑問がふたつあった。まず、なぜ男性がニャオペを所持しているとわかったのか。返答は「雰囲気」。中毒者は目が淀んでいるのですぐにわかるという。さらにショッピングカートを押していたことも裏付けだと語る。中毒者はニャオペを買うため、1キログラム15ランド(約120円)ほどのレートの空き缶拾いで小銭を稼ぐことが多い。大量の空き缶を運ぶためにはショッピングカートを使う場合がほとんどで、事実、男性のカートには多くの空き缶が乗せられていた。  もうひとつの疑問は、なぜ警察に連行しないのかだ。ニャオペが比較的新しい社会問題であることは確かだが、南アフリカ政府は2014年にニャオペを違法薬物と認定し、使用・所持に懲役15年、売買に懲役25年を科すことを決めている。その答えはにわかに信じがたいものだ。「警察はヤク中など相手にしない。数が多すぎて、いちいち構っていられないんだ」(マドンセラ氏)。しかし、記事冒頭で触れたニャオペ中毒者たちも同様のことを口にしていた。顔を写真に撮られることすら気に留めていない様子だった。「警察は何もしてくれない。自分たちのコミュニティーは自分たちで守らなければならない」。マドンセラ氏はそう繰り返し強調した。  この日、たった1時間のパトロールで6名からニャオペを没収・破棄した。この成果は平均的なものであるというから、この地域においてニャオペの氾濫がいかに深刻なものかがわかる。マドンセラ氏は「焼け石に水なのかもしれない。しかし、地道な活動を続けるほか道はない」と語った。  その通りなのだろう。6名のうちほとんどが、取り調べを受ける間に言葉を発することすらなかったが、1名だけ悲痛な心の内を訴える者がいた。「仕事もない。いい事もない。薬しかないんだ」。そう何度も叫んでいた。 男性(左)は「ニャオペ以外に生きがいがない」と叫ぶ。その傍らの男性(右)が、10名前後の自警団に囲まれているにもかかわらず、淡々とニャオペと大麻の巻き煙草を作り続けていたのがただ異様だった(撮影/小神野真弘)  南アフリカの失業率は27%(2018年)。アフリカ諸国のなかでは経済発展が進んでいるものの、格差は拡大を続けており、貧困層の人々の間では行きどころのない絶望が渦巻いている。薬物乱用や高い犯罪率はその発露なのだ。どうすれば現状を打破できるのか、その答えを得るために誰もが手をこまねいている。 (取材・文/丸山ゴンザレス、小神野真弘)
dot. 2019/06/06 07:00
定年後の突然死を招く“疲労蓄積” 長時間労働はリスク2倍以上!
定年後の突然死を招く“疲労蓄積” 長時間労働はリスク2倍以上!
急性心筋梗塞は激しい胸の痛みを伴うことも (※写真はイメージ) 労働時間と急性心筋梗塞の発症リスク (週刊朝日2019年6月7日号より)  年間10万人が発症し、3万5千人が亡くなる急性心筋梗塞。60、70代に多い特徴があり、生活習慣や加齢による血管の変化が主な要因だ。さらに最近の調査で、現役時代の働き方が影響して、動脈硬化が長年進行する“蓄積効果”の問題も浮上。長時間の勤め人で発症リスクが高いことがわかってきたのだ。 *  *  *  現役を退いて数年のミノルさん(60代、男性)は、ある朝、目覚めると、胸に激しい痛みを感じ、脂汗が出てきた。家族に救急車を呼んでもらい、病院へ搬送された。急性心筋梗塞と診断され、すぐに治療を受けて事なきを得た。  現役時代、営業職で夜遅くまで忙しく働いていたミノルさん。引退後は血圧は高めだったが、心筋梗塞を発症するほど動脈硬化が進行しているとは思いもよらなかった。朝起きて歩き出すと胸に痛みを感じることがあったが、すぐにおさまっていたからだ。  急性心筋梗塞は、心臓の「冠動脈」が詰まり、血流が途絶えて心臓の筋肉の一部が壊死してしまう病気だ。冠動脈が詰まる主な原因は動脈硬化で、その進行によって血管に血液のかたまり(血栓)ができて血液が流れなくなってしまうのだ。血管へのダメージは長い時間をかけて蓄積していき、自覚症状はほとんどなく、ゆっくりと進行していく。  心筋梗塞の発症は、60歳以上が全体の4分の3ぐらいを占める。日本心血管インターベンション治療学会理事長で、東海大学医学部循環器内科学の伊苅裕二教授はこう話している。 「日本で心筋梗塞発症の平均年齢は68歳ぐらいになります。心筋梗塞はマルチファクターで、一番大きいのは年齢です」  国立循環器病研究センター病院冠疾患科部長の野口暉夫医師も「60代から70代にかけての人が多い」と話す。  のんびりと過ごすことができる定年後の世代に、ある日突然、襲いかかってくる急性心筋梗塞。原因となる動脈硬化の危険因子は、加齢のほか、高血圧や高中性脂肪、高血糖、喫煙、ストレスなど。ここで注目すべきは、心筋梗塞の発症は、60、70代での生活習慣だけでなく、現役時代のストレスや長時間労働なども影響している点だ。最近、興味深い調査結果が公表されている。  1日に11時間以上も働くサラリーマンは発症リスクが基準グループ(7時間以上9時間未満)と比べて2.11倍も高かった。国立がん研究センターなどが40~59歳の男性1万5千人を対象に20年にわたり追跡したものだ。  今回の調査では、追跡を開始した年齢が40代だった人は急性心筋梗塞の発症リスクとの関連がみられなかったものの、50代だった人は基準グループに比べ2.60倍も発症リスクが高かった。この結果について、調査の責任者を務めた大阪大学の磯博康教授(公衆衛生学)は次のように分析する。 「50代の人は40代だったときにも長時間働いていたと考えられ、長期間にわたって動脈硬化が進展していったからでは。長時間労働の“蓄積効果”があったとみられます」  つまり、長時間労働の影響が蓄積して動脈硬化が無自覚のまま進み、定年を迎えた後に、急性心筋梗塞の発症につながる可能性があるようだ。  しかも、労働時間だけが問題になるわけではない。働き方も関係してくるという。1日に11時間以上も働いている会社員などの「勤務者」は発症リスクが基準グループと比べて2.11倍も高かったのに対して、自由業に従事するなどの「勤務者以外」では関連がみられなかった。  磯教授は、会社員などの勤務者は与えられた仕事に従事し、労働の裁量の幅が狭いと指摘し、これが「過労やストレスにつながる」とみている。適度に息抜きをするなど自己管理がうまい人もいるが、そうできない人は過度のストレスが続く場合がある。 「長時間労働が急性心筋梗塞の発症リスクを高めるのは、睡眠時間が短くなり、疲労回復が不十分になりがちなほか、精神的なストレスが増大する傾向があるためです」(磯教授)  今回の調査は1日の労働時間が7時間未満、7時間以上9時間未満(基準)、9時間以上11時間未満、11時間以上の4グループに分類。11時間以上の急性心筋梗塞の発症リスクは基準グループの1.63倍だった。  ただ、この調査は茨城県水戸、新潟県長岡、高知県中央東、長崎県上五島、沖縄県宮古の全国5地域の保健所の管内で実施した。いずれも地方都市で、東京や大阪のような大都市はカバーしていない。日本を代表する企業の多くは東京や大阪に本社があり、中央官庁もある。日本の主力企業では精鋭の社員の多くが東京などの大都市で働いている。国立循環器病研究センターの野口医師は、今回の調査について評価しつつ、「大都市の勤め人にあてはまるのか、一般化は慎重にしないといけない」とも。  一方、野口医師はまじめすぎるようなタイプに心筋梗塞になる人が多いとも話している。  急性心筋梗塞が怖いのは、発症を事前に予測することは難しいとされ、突然死につながることも多いからだ。発症時の症状は動悸や息切れ、胸に激痛の発作などで、呼吸困難や冷や汗、激しい脈の乱れが生じることもある。発症時間は早朝、夏よりも冬場が多い。気になる症状が出たら、医療機関をすぐに受診したほうがいい。  例えば、60代の男性は、脂汗が出て、階段の昇降で息切れするようになっていた。その後、普段の歩行で体が大きく揺れているような感じが続いた。そこで病院を訪ねると、急性心筋梗塞と診断された。冠動脈の詰まりかけた部分をステント(金属製網状チューブ)で広げるカテーテル治療を受け、無事退院できた。  別の60代の男性は、歩くとすぐ、気管支が熱っぽいと感じるようになった。その後、洗面時にも同じように感じるようになった。あるとき、外出してしばらく歩くと胸に痛みと苦しさがあり、立っていられなくなった。そのまま地面に伏してしばらくすると落ち着いてきたので、何とか家に戻り、すぐに病院へ行くと急性心筋梗塞と診断された。ステントを使ったカテーテル治療を受けて、無事家に帰ることができた。  発症した場合、最初の処置が大切だが、予防のためにできることもある。現役時代に長時間労働で仕事に励んでいたとしても、過去には戻れない。今から、禁煙を心がけ、血圧や血糖値などを管理していくことが大事だ。運動不足やストレスも要注意。さらに、低脂肪で糖質を控えるほか、高血圧を避けるような減塩、食物繊維をとることも心がけよう。(本誌・浅井秀樹) ※週刊朝日  2019年6月7日号
病気
週刊朝日 2019/06/03 17:00
コンビニ経営は地獄だった、元オーナーの回顧
コンビニ経営は地獄だった、元オーナーの回顧
元オーナーが振り返るコンビニ経営の“理想と現実”(GettyImages ※写真は本文とは関係ありません) 24時間営業の見直しを求めた加盟店に、「要望に応じる事は出来ません」とセブン-イレブン・ジャパンは回答した(Photo:DW) ●24時間営業で疲弊するオーナー 「人手不足が深刻な状態が全く改善されません。(中略)午前7時から午後11時までの営業時間への見直しの早期改善を要求します」――。  2017年、西日本のセブン-イレブンの加盟店オーナーだった新山敏朗さん(仮名)は、一縷の望みを懸けてフランチャイズ契約先のセブン-イレブン・ジャパン(SEJ)の本部に、1通の文書を送った。 「改善提案書」と題されたその文書では、「心身共に限界を超え、このままでは(働く家族)3人のうち誰かが、過労死か過労自殺するかもしれません」と、悲惨な現状が訴えられている。  ところが、本部の回答はそっけないものだった。「貴殿の要望に応じる事は出来ません」とし、24時間営業が必要だとする本部の言い分を列挙。時短営業は「社会の要請に背くことになります」とまで記されていた(写真)。  新山さんが家業の新聞販売店をやめて、コンビニ経営の世界に飛び込んだのは04年のこと。最大手チェーンならば、未来があると考えたからだ。  現実は違った。セブンの日販(1日当たりの売上高)の全店平均は60万円超。しかし新山さんの店は、月平均で50万円に達することすら珍しかった。  それでも2000年代はアルバイト従業員を十分に雇い、何とか回していくことができた。だが、人手不足の波は、じわじわと新山さんの店の経営を脅かしていく。 「ここ7、8年は時給を上げて従業員を募集しても、最低賃金がどんどん上がっていき、追い付かなかった」  次第に、新山さん自身が深夜のシフトに入る日が増えていった。夜間帯の納品は妻が手伝ってくれたが、疲労は蓄積する。仕事中に目まいがするようになり、帰宅途中に自動車事故を起こしたこともあった。思い詰めた末にしたためた改善提案書だったのだ。  こうした状況に本部が解決策として提案したのは、勤務時間を応募者が選べるようにすることや、店頭で募集のチラシ配り、店の奥の事務所の整理、従業員に仕事を分担してやりがいを持たせる──といった、根本的な解決策には程遠いものだった。  仕方なく新山さんは店に立ち続けたが、とうとう今年1月、本部に閉店と契約の解消を要望した。時短をしてでも営業を続ける気力は、もう残っていなかった。  それでも本部はなかなか取り合わなかった。しかし、新山さんが「経緯を全部マスコミに話す」と告げたところ、本部の態度は急変。3月末に閉店にこぎ着け、コンビニ経営から“解放”された。  閉店時に在籍していた従業員数は、家族を除くと6人。通常ならば、1店当たり25~30人は必要とされている。 「休むこともやめることもできない。最後の3、4年は本当に地獄だった」と新山さんは振り返る。 (ダイヤモンド編集部 岡田 悟:記者、大矢博之:副編集長)
ダイヤモンド・オンライン 2019/06/03 13:00
私がその街に旅する理由【世界音楽放浪記vol.50】
私がその街に旅する理由【世界音楽放浪記vol.50】
私がその街に旅する理由【世界音楽放浪記vol.50】 私の人生は「旅」ばかりだ。これまで、15回引っ越しをして、50以上の国や地域を訪れた。特に40代は、出張を繰り返していた。「日本の音楽を世界へ」。信念にも似た思いで、世界中を訪れ、日本のポップ・カルチャー、とりわけ音楽が、どのように世界中の人々に受容されているのかを、世界中に向けてリポートし続けた。 仕事での旅は、小休止を迎えた。いま、私はプライベートの旅を楽しんでいる。お会いするのは、どこか繋がり合う、「人として」の付き合いが出来る方ばかり。先日、文句のつけようのない経歴の方から「現職でなくなったら、誰も付き合ってくれないのでは?」という不安の声を聞いた。そんなことはない。私は、その人の「外側にあるもの」では、個人的なお付き合いはしない。私は盃を交わし続けることだろう。 札幌では、音楽プロデューサー、メタルバンドのギタリスト、起業した経営者ら、職業や世代の異なる仲間と、行きつけの炉端焼屋で集った。同じように、大阪、福岡、那覇.... 日本全国で会食を重ねた。何の仕事の約束もない。だからこそ、さまざまなヒントが見えてくる。 仕事では訪れることのないような場所にも、足を運んでいる。福岡では、母方の祖母の故郷に赴いた。曾祖父は羽犬塚の地主で、農地改革で多くを失った後も、駅前に料亭を持つなど、風流な人だったという。祖母は、昭和の初めに、その街を飛び出し、東京の体育大学へと進学した。駅のホームで、祖母がかつて旅立った光景を眺めた。大きな不安、それ以上に「いま、ここから」飛び出したい衝動。そんな思いを感じた。偶然だが、祖母の故郷にも、静岡の祖父の故郷にも、「原田駅」がある。母方の祖父母なので苗字は異なるのだが、原田姓の孫としては、強い縁を感じている。 私が「その街に旅する理由」は、「心地よい場所」であることに尽きる。肩の力が抜けて「良いね、ここは」という感覚だ。贅沢するためではなく、安らぎが感じられる場所を求めているとでも表現すればよいだろうか。一番気に入っているのは、近くのスーパーやコンビニまで車で20分ぐらいかかる、青森の岩木山麓にある温泉宿だ。地元の人々も日帰り入浴に訪れる庶民的な旅館だが、温泉も、部屋も、料理も、とても自分にフィットする。その宿を訪れると、全てのストレスが消えていくのが分かる。夜に地元の方々が演奏する津軽三味線の音色は、生きる鼓動のようだ。 今年の大型連休は、ベトナムのホーチミンにオフで滞在した。仕事でお世話になった方々と、ディナーを共にした。とても楽しい時間を過ごした。そのレストランは日本人が経営しているのだが、社会的に恵まれない青年に働く機会を与えるために始めたという。私は日本に帰る前日に再訪し、リーズナブルながら至極のコースを堪能した。 私の憧れの一人は「詩仙」と呼ばれた中国の詩人・李白だ。旅と酒を愛しながら、全世界や日本全国を旅することが出来たら、至極の幸福だ。だからこそ、世界中から日本を訪れている旅人には、出来るだけ親切にしている。良い旅の思い出を持ってもらうことが日本のためになると、確信しているからだ。Text:原田悦志 原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明治大学講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。
billboardnews 2019/06/03 00:00
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