井手隊長
「ラーメンを食べるな!」と言われた一流ホテルシェフが55歳でキャリアを捨て、ラーメン屋を始めた理由
くろ喜の「特製醤油そば」は一杯1500円。こだわりのラーメンだ(筆者撮影)
日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介するこの連載。和食やイタリアンで経験を積み、季節に合わせた旬の食材で作るラーメンが人気の「饗 くろ喜(もてなし・くろき)」の店主が愛するラーメンは、高級ホテルの元総料理長が料理人生の全てをかけて作った一杯だった。
■“1000円の壁”を超えたラーメンを作る理由
店主・黒木直人さん(47)は和食やイタリアンの世界で21年の経験を積み、ラーメンの世界に飛び込んだ。2011年6月に浅草橋にオープンした「饗 くろ喜」が提供する季節の食材を丼に落とし込んだ「旬」のラーメンは、まさに黒木さんにしか作れない一杯。たくさんのラーメンファンを魅了している。グルメサイト「食べログ」では3.96点をマーク。全国のラーメン店51768件のなかで8位となっている(19年6月15日現在)。
饗 くろ喜/東京都千代田区神田和泉町2-15/11:30~15:00、18:00~21:00。水曜は11:30~15:00。麺がなくなり次第終了/水曜夜、日曜、祝日定休/筆者撮影
これほど人気のラーメンをミシュランガイドが放っておくわけがない。「ミシュランガイド東京」では2017、2018と2年連続でビブグルマンを獲得している。しかし、実は黒木さん自身は掲載を断り続けてきた。
「『くろ喜』のラーメンはまだまだミシュランガイドに載るレベルに達していません。載せないでくれとお願いしましたが、2年間載ってしまったんです」(黒木さん)
実際、「くろ喜」が掲載された誌面には写真がなく、「No Image」になっている。世間の評価に左右されず、自分の目標だけを見ている黒木さんの姿勢が見て取れるエピソードだ。
その姿勢はラーメンの“値段”にも表れている。現在、塩そばは1000円、醤油そばは1200円。決してお手頃とは言えない。前回、「和食とイタリアンを極めた浅草橋の行列店店主が最後に“ラーメン”を選んだシンプルな理由」(2019年6月9日配信)で紹介した際にも、この価格に驚きの声が上がった。
店主・黒木直人さん。一杯ずつ丁寧に仕上げる姿は職人技だ(筆者撮影)
ラーメンには「1000円の壁」という課題がある。どんなに美味しくても1000円を超えるとお客さんから「さすがに高い」と思われてしまう。多くのラーメン店は原価や人件費の高騰と戦いながら、必死で“1000円以内”を守っているというのが現状だ。
しかし、「くろ喜」は常識にとらわれない。本当に美味しいものにこだわり抜き、手間暇かけて丁寧に一杯のラーメンに仕上げていく。当然、値段も他の店に比べて高くなる。自分のラーメンにこだわり続けた結果、オープンから3年、「1000円の壁」を超えることになる。
「美味しいものを表現するのに、値段は関係ありません。ファストフードとは違うことを見せつけて、ラーメンには1000円以上の価値があるということを証明したかったんです」(黒木さん)
丼手前に吹かれた醤油もこだわりの一つ。スープを飲むと、まず醤油の香りと旨味がふわっと広がり、そこにスープの旨味が遅れてやってくる(筆者撮影)
黒木さんが目指すのは「上質」と「本物」。安くて美味しいことも大切だが、料理には「上質」なものが必要だと考えているという。
「『労力を惜しまず作る』というのは簡単ですが、実行するのは大変なこと。それに、従業員の生活もあります。作っている側に余裕がないと、お客さんの満足度も上げられないと思うんです。だからこそ、しっかりお金をいただくというのは大切だと思います」(黒木さん)
「1000円の壁」によって、本当はもっと美味しくできるのに妥協してしまうのはもったいない話だ。安くて美味しいラーメンが存在する一方、「くろ喜」のような上質なラーメンもあっていいと思う。
常に時代に合ったラーメンを作っていきたいという黒木さんだが、悩みもある。和食やイタリアンなどさまざまな料理を経験してきたことから、どんな食材でもラーメンに仕上げることができる。だからこそ、ゴールが見えないのだ。「何がラーメンなのか」という答えのない問いと戦いながら、日々新しいラーメンを追求し続けている。支店や店舗展開は考えず、一料理人として生涯厨房に立ち続けたいという。
そんな黒木さんが愛するラーメンは、一流ホテルの総料理長まで務めたラーメン職人が、人生をかけて作る一杯だった。
■「ラーメンを食べるな」と言われたホテルシェフの挑戦
神田 勝本/東京都千代田区猿楽町1-2-4/11:00~17:00/日曜日定休/筆者撮影
京都全日空ホテル(現・ANAクラウンプラザホテル京都)の元総料理長・松村康史さん(59)は、36年という長きに渡り、ホテルのシェフとして腕を振るってきた。そんな松村さんが料理人人生の最後に選んだのが「ラーメン」だった。15年3月に独立し、水道橋に「中華そば 勝本」をオープン。今では、「神田 勝本」(神保町)、「銀座 八五」(東銀座)を含む3店舗を展開している。
1959年に京都で生まれた松村さんは、高校卒業後に調理師の専門学校に入学。当時は、ナポリタンのような西洋料理を日本人向けにアレンジした洋食が流行っており、京都でも日本風にアレンジしたフレンチやイタリアンが注目を集めていた。松村さんも、洋食の料理人を目指すことを決意した。
専門学校卒業後、19歳で比叡山国際観光ホテル(現・星野リゾート ロテルド比叡)に入社。皿洗いや野菜の皮むきなどのから始まり、2年間の下積みののち、3年目から徐々に料理をさせてもらえるようになる。鶏や魚のさばき方から、カレーのルゥの仕込みまで、料理の基本を1から身につけることができた。
店主の松村康史さん(筆者撮影)
27歳のときに、新規オープンする京都全日空ホテルに転職。総料理長の下に、各セクションの料理長がおり、入社時、松村さんは85人いる洋食部門の下から15番目ぐらい。宴会料理やブライダルを担当し、最終的には全ての料理を統括する総料理長にまで上り詰めた。
料理人として順風満帆にキャリアを重ねた松村さんだったが、ホテルがANAクラウンホテルに売却されるタイミングで退職を決意する。55歳のときだった。
松村さんはそれまで、15000~20000円という価格帯の高級フレンチを作ってきた。だが、もっと安い値段で本当に美味しいものが提供できたらどれだけ素晴らしいだろうと考えた。丼の中で前菜からメインディッシュまで完結し、気取らず食べられるラーメンに惹かれた。ホテルの上司からは「ラーメンは味が濃いから食べるな」と言われていたが、松村さんは京都の名店「新福菜館」「本家第一旭」「天下一品」などをこっそり食べ歩いていた。そして料理人として最後のステージに「ラーメン」を選んだ。
ホテルの総料理長だった自分ならすぐに美味しいラーメンを作れるだろうと高を括っていたが、現実はそう甘くはなかった。美味しいブイヨンは作れるのだが、上品すぎるスープに麺が入るとバランスが変わって“ラーメン”にはならない。今までの料理で取り除いてきた、えぐみや雑味がラーメンでは旨味に変わることもわかってきた。上品さを保ちながらもラーメンとして成立する一杯を目指し、研究を重ねた。
最初にオープンした「中華そば 勝本」の「味玉濃厚煮干しそば」(筆者撮影)
試行錯誤の結果、松村さんは「煮干」を極めようと考えた。「永福町大勝軒」など東京の煮干ラーメンの名店を食べ歩き、煮干の使い方を学んでいった。東京で食べ歩く中で、勝負すべき場所が京都ではなく東京であることにも気づく。
「東京のラーメンはレベルが違います。わざわざ電車を乗り継いで、並んでまで食べたいラーメンがたくさんある。ラーメンで勝負するなら、東京しかないと思いましたね」(松村さん)
2年半の準備期間を経て、15年3月、水道橋に「中華そば 勝本」をオープンする。名古屋コーチンに煮干や削り節を合わせて作った本格的な中華そばは、濃厚ながらも調和のとれた上品な一杯だ。麺は老舗の浅草開化楼が特注麺を作ってくれた。「勝本」という店名は、松村さんが敬愛する俳優・渡辺謙さんが主演映画「The Last Samurai」で演じた「勝元盛次」の役名から拝借した。武士の精神でラーメンと向き合いたいという気持ちと、東京で「勝」って日本一になるという決意が込められている。
中華そば 勝本/東京都千代田区三崎町2-15-5 三崎町SSビル1F/11:00~22:30/日曜日定休/筆者撮影
満を辞してのオープンだったが、繁盛したのは最初の1週間だけだった。オープン景気が過ぎると客足は一気に引き、日の売り上げが10万円に届かない日が続いた。味の不安定さが原因だった。
レシピを何度も見直し、味のブレをなくしていった。味が安定するようになると売り上げも上がり、1年後には午後4時になっても行列が生まれるまでになった。
16年2月には神保町に「神田 勝本」をオープン。1号店よりもさらにあっさりとしたラーメンとつけ麺を提供している。
「神田 勝本」の味玉清湯(しょうゆ)そばは一杯930円(筆者撮影)
「くろ喜」の黒木さんは、「神田 勝本」の味玉清湯(しょうゆ)そばと豚ほぐし、白飯をいつもセットで注文するという。スープは鶏に焼きアゴ、平子煮干、片口鰯、宗田鰹、胡麻鯖に醤油ダレ、柚子がほのかに香る。じんわり美味しく奥行きもあり、具のどれもがバランスよく整っている。何の違和感もなくすっと入ってくる美味しさで、素晴らしい一杯だ。ご飯はつやつやに光る魚沼産こしひかり。出汁に使った鰹節などで作ったふりかけも付いてきて、豚ほぐしとともにご飯に乗せて食べるのがまた絶品なのだ。「清湯」と書いて「しょうゆ」と読ませる演出もニクい。
箸には一膳ずつ紙がまかれている(筆者撮影)
味はもちろんだが、とにかくホスピタリティが徹底しているのが「勝本」だ。年配者や女性でも入りやすいようにと、高級割烹のような店内では真っ白な白衣(調理服)を着た従業員がおもてなしをする。席に着けば、まずおしぼりが出てくる。箸の先には一膳ずつ紙が巻いてあり、松村さんがホテル時代に身につけた「お客様をお迎えする」という気持ちがあらゆる部分に表れている。
「店のしつらえは、味と同じぐらい重要です。料理は五感を使って楽しむもの。味覚以外にも気を配らなくては一流とは言えません」(松村さん)
カウンターを見渡すと全員女性という日もあるという。店構えをしっかりすることで、客層を広げることにもつながっているのだ。
黒木さんがセットで注文する豚ほぐし、白飯(筆者撮影)
「くろ喜」の黒木さんは、松村さんを目標にしている。
「どこを取っても本当に上質ですよね。お店のしつらえはもちろん、仕事の一つひとつが本当にきれいです。エッジの効いたネギの切り方、振り柚子、ご飯はピカピカで湯気まで出ています。流行り廃りに左右されない、しっかりしたものを提供されています。ラーメン業界出身でないのに『超』ラーメンを出している。すごい方です」(黒木さん)
松村さんも黒木さんの食材への向き合い方を高く評価している。
「調味料や麺を主役に置かず、旬の素材を主役にしてラーメンに落とし込むというのは、今までのラーメンにない考え方です。まさにラーメンを『料理』として捉えています。これまでのラーメン文化を超えるものを作っていると思います」(松村さん)
それぞれの道で料理を極めた二人が作るラーメンは、常識にとらわれない新たな風をラーメン界に吹かせてくれている。(ラーメンライター・井手隊長)
※「くろ喜」の「喜」は「七」を三つ並べたものです。
○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。
※AERAオンライン限定記事
AERA
2019/06/23 11:30