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ジムも博物館も…気楽に子どもを預けられるアメリカ 親が「自分の時間がほしい!」と思ったとき
大井美紗子 大井美紗子
ジムも博物館も…気楽に子どもを預けられるアメリカ 親が「自分の時間がほしい!」と思ったとき
ジムの託児所(チャイルドケア)。生後2カ月から、1日2時間まで預けられる(写真/筆者提供)  生活の主導権をすべて子どもに握られていると、「ちょっとでいいから自分の時間がほしい!」という気持ちが定期的にやってきます。可愛い我が子だって、24時間常に優先するのは疲れるものです。  そういうときでも、日本のお母さん、お父さんは一人でがんばってしまうのではないでしょうか。親としての責任感が、愛情が足りないと自分を戒めながら。親にも休憩が必要なのは、当然のことなのに。  一方アメリカには、気軽にホイッと子どもを預けられる施設がたくさんあります。アメリカのベビーシッター利用率は58%にのぼると以前書きましたが、ベビーシッター以外にも選択肢がさまざまにあります。今回は、その選択肢の数々をご紹介します。  ただですね、この記事を書くことには少し迷いがあったんです。こんなこと書いて果たして意味あるのかな、と思って。日本にも子どもの面倒を見てくれる施設はあるだろうから、「アメリカだけがすごいわけじゃないよ。日本の託児も充実しているんだから、勝手に心配しないでちょうだい」と思われるかたがいるかもしれません。  それだけならいいんですが、悲しいのは「はいはい、これ日本では全部ムリですから。違う国の話をされても、日本で子育てしてたら関係ありませんから!」と思われる場合です。私は日本のお母さん、お父さんたちに絶望を与えたいのではなく、明るい気持ちになってほしいのです。  もし「へ~、アメリカではこんなに小さい子も軽~く預けちゃうんだ。子育てって一人でせっせとがんばるもんじゃないのかもな」と思っていただけたら、少しは書く意味があるといえるかもしれません。さらに、心ある方が似たような託児サービスを始められたりしたら、大成功です。  というわけで、やはり書いてみようと思ったのが拙文です。以下、子どもを預けることができるアメリカの施設5種類です。繰り返しますが、ここで扱うのは「ちょっと子どもから離れたい」と思ったときにポイッと──じゃなかった、ホイッと預けられる場所のみです。定期的に預ける保育園や託児所のようなところは除きます。全米を調査したわけではないので、私が見聞きした範囲に限ります。 1、ジム  アメリカのジムには、託児所が付いていることが多いです。たとえばYMCAのジムでは、ジム内にいる限り、1日2時間まで子どもを託児所(チャイルドケア)に預けることができます。赤ちゃん用<生後2カ月~3歳くらい>と子ども用<3歳くらい~12歳>に部屋が分かれていて、年齢に合ったおもちゃや室内遊具で遊べます。生後2カ月から預かってくれるところは貴重で、私自身も下の子が2カ月になった翌日から毎週のように通っています。託児があり、おまけに運動もできて一石二鳥です(完全なる手段の目的化)。  ジムを利用しなくても、1日4時間まで生後6週~6歳の子を預けられるYMCAもあります。追加料金がかかりますが、それも1回20ドル(約2120円)という格安料金。さすが、地域社会への貢献を目指すYMCA。また、4歳~12歳を対象に毎月「キッズ・ナイト・アウト」という特別プログラムも催されます。夜6時~10時という長時間見てもらえて、ピザの夕食も付き(子どもはこれがうれしいみたい)、お値段たったの10ドル(約1060円)です。  日本のYMCAはどうなんだろうと調べてみたのですが、保育園があったり小学生向けの学童があったりはするものの、赤ちゃん向けの託児サービスは見つけられませんでした。託児もあったら便利なのになぁ。もしあったらごめんなさい。 2、コミュニティセンター  つまりは市の施設です。日本でも「公民館」が「コミュニティセンター」に移行されているみたいですね。私の住んでいたワシントン州・シアトル市のコミュニティセンターはとても充実していて、前述の「キッズ・ナイト・アウト」が毎月1~2回開かれていました。だいたい3歳~11歳の子が対象で、3時間で20ドル。市の施設だから安価です。私が利用したときは資格を持ったシッターさんが常駐してくれていて、安心感がありました。そして、当然のようにピザの夕食付きです(アメリカ人って、ほんとにピザが好き)。 3、習い事の教室  普段は親子一緒に出席する習い事の教室でも、毎月「キッズ・ナイト・アウト」を開催しているところが多いです。音楽、絵画、新体操、空手、ダンス──。さまざまな習い事教室で開かれています。どれも民間企業なので、お値段は高めで1回30~40ドル(約3200~4260円)くらい。その代わり、音楽や絵画を教えてくれるメリットがあります。託児というより教育目的で預ける人が多いかもしれません。習い事のクラスでいつも一緒の友だちがいるのも安心感があります。夕食にピザが付いてくることが多いです(アメリカ人って……以下略)。 4、博物館  アメリカには、子ども博物館(Children’s museum)なる学びの場が各地にあります。日本でいう科学センターとかキッザニアのような、科学、社会、アート、その他いろいろな学習要素を子ども向けに展示した博物館です。この博物館でも、夜に子どもを預かってくれるところがあります。ナイトミュージアムよろしく、夜の博物館を子どもだけで見学できるというわけです。5歳以上を対象にして完全な学習目的にしている場所もあれば、3歳くらいから預かってくれるところもあります。ピザ率は、まちまちのようです(残念)。 5、教会  クリスチャンの人口比率52%のシアトルから86%のアラバマ州に引っ越して驚いたのが、教会の充実度でした。英語教室や勉強会、季節のお祭りなど、シアトルでは市が行っていたようなイベントが全部教会主催で開かれます。そして、必ずといっていいほど無料の(寄付が促されることもありますが)託児所が設置されています。我が家はカトリックですが、違う宗派のイベントで託児所を利用しても何も言われません。というか、宗派を問われることはありません。勧誘されることもありません。みんな、社会への貢献という目的で子どもを見てくれています。生後6週くらいから預かってくれるところもあります。  子どもが生まれると、親──特に母親は家に閉じこもりがちになります。授乳やオムツ交換があって気が休まらないし、周りへの迷惑も気になるしで、外出がおっくうになります。出かけたいけど、仕事が忙しい夫や遠方に住んでいる親には頼れない。生活のすべてが子どもを中心に回り、自分という存在がなくなってしまったように感じる。そんなとき、気軽に子ども──特に小さい赤ちゃんを預けて、自分を取り戻せる場所が近所にあったらいいなと思うんです。そして「子どもは親だけが責任をもって見るものだ」という考えも、変わっていけばいいなと感じます。親にだって、自分の時間は必要です。 ※AERAオンライン限定記事 ◯大井美紗子 おおい・みさこ/アメリカ在住ライター。1986年長野県生まれ。海外書き人クラブ会員。大阪大学文学部卒業後、出版社で育児書の編集者を務める。渡米を機に独立し、日経DUALやサライ.jp、ジュニアエラなどでアメリカの生活文化に関する記事を執筆している。2016年に第1子を日本で、19年に第2子をアメリカで出産。ツイッター:@misakohi
AERAオンライン限定子育て
AERA 2019/08/20 07:00
【現代の肖像】木ノ下歌舞伎主宰・木ノ下裕一 黒ずくめの服にラップで演じる「勧進帳」  <AERA連載>
【現代の肖像】木ノ下歌舞伎主宰・木ノ下裕一 黒ずくめの服にラップで演じる「勧進帳」 <AERA連載>
京都・太秦の自宅アパートは、4畳半と3畳の部屋、押し入れの中まで寝床以外は5千冊以上の本に埋もれる(撮影/馬場磨貴) 今年2、3月公演の「糸井版 摂州合邦辻」の稽古風景。演出家の糸井幸之介とともに俳優たちと確認作業を重ね、丁寧に稽古を積み上げていく。足元の木ノ下のかばんからお宝の桂米朝のクリアファイルがのぞく(撮影/馬場磨貴) 本しかないまるで書生のような自宅。大学時代の手製の座卓で読み書きして、暖は火鉢のみ。最近小さな電気ストーブとハンディー掃除機を買った。唯一飾られているのは、小学生の時に買った米朝のテレホンカード(撮影/馬場磨貴) 「キノカブの学校ごっこ」はゲストに大学教授らを迎えた全14講座の古典芸能全般の座学と、ワークショップ。木ノ下のユーモラスで熱血の授業に時折大笑いが起きた(撮影/馬場磨貴) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  関西弁のアメリカ人が弁慶を、トランスジェンダーの女優が義経を演じたのが、木ノ下歌舞伎の「勧進帳」だ。といっても、古典歌舞伎を無視したものではない。木ノ下裕一はとことんまで古典を研究し、現代劇へと置き換えていく。確かな学識に裏打ちされた作品は、歌舞伎役者からも一目置かれ、今やひっぱりだこの存在。木ノ下から目が離せない。  鎌倉幕府将軍である兄・源頼朝に謀反の疑いをかけられ奥州へ落ち延びようとしていた義経たちを、頼朝の命を受けた関守の富樫左衛門が、加賀の安宅(あたか)の関で待ち構えていた。  義経は荷物を担ぐ従者である強力(ごうりき)の姿に、従者の武蔵坊弁慶たちは山伏の一行に化けて関所を通過しようとするが、富樫に呼び止められる。自分たちは焼失した東大寺再建のための勧進をしている一行だと嘘をつき、かわそうとするが、それなら勧進帳を所持しているはずだと富樫に詰め寄られた。弁慶はとっさに別の巻物を本物とみせかけて勧進帳の文言を恭しく暗唱してみせ、関所通過の許しをもらうも、強力が義経だと見破られた。弁慶は主君義経をあくまでも強力として扱い、金剛杖で打ち据える。それを見た富樫は、義経と知りつつも弁慶たちを通してやるのだった。  歌舞伎十八番のひとつ「勧進帳」である。歌舞伎をよく知らない人でも、この人気演目名だけは聞いたことがあるに違いない。主君の命を救うためにめった打ちにまでしてみせた弁慶の張り裂けそうな重苦とその誠忠、それに心打たれた富樫が自らも死罪覚悟で一行の通過を許すというふたりの男の情の交錯がなんといっても見どころだ。緊迫のやり取りの中に、不運の義経に殉じて弁慶も富樫もみな死んでいく歴史の非情が胸に迫ってくる。名曲で知られる長唄に陶然としながら、何度観ても私は涙ぐんできた。  この江戸・天保から続く人気の“関所越えの忠義物語”をまったく新しい視点と解釈で現代劇として見せたのが、「木ノ下(きのした)歌舞伎 勧進帳」だ。昨年3月、KAAT神奈川芸術劇場で再々上演された「勧進帳」で私は今度は膝を震わすことになった。そうか、こういう物語でもあったのかと。 ●ジーンズをはいた音楽劇「心中天の網島」  木ノ下歌舞伎は、13年前、木ノ下裕一(ゆういち)(33)が京都造形芸術大学在学中に「古典歌舞伎の現代化」を目指す劇団として旗揚げした。「黒塚」「東海道四谷怪談―通し上演―」「三人吉三」「心中天の網島」「義経千本桜―渡海屋・大物浦―」などを上演してきたが、これまであった「歌舞伎を取り入れた現代劇」とはまったく異なるものだ。近松門左衛門の「心中天の網島」は、ジーンズをはいたダメ男の主人公・紙屋治兵衛が世間にのみ込まれながら愛を貫く音楽劇となり、おどろおどろしい復讐劇として知られる「東海道四谷怪談―通し上演―」は6時間にわたる群像劇となった。2016年上演の「勧進帳」で、文化庁芸術祭新人賞を受賞。通称“キノカブ”で知られるようになった。  木ノ下歌舞伎の「勧進帳」は関所だけではなく「あらゆる境界線を超えていく」物語として読み替えられていた。細長い舞台を挟んで観客も左右に分けられた。弁慶は異物そのもののような存在感の関西弁を話すアメリカ人の偉丈夫が演じ、義経は元男性のトランスジェンダーの女優が透き通るようなたたずまいの演技をみせた。痩身の富樫は奇異なおかっぱヘアをゆらしながら不気味なほどの孤独感を漂わせている。全員が黒ずくめの服に身を包み、台詞は現代口語。対立する弁慶と富樫の家来たちを同じ役者で演じさせ、その対立関係の境界まで崩していく。三味線や鼓は家来たちが口で代替しラップで謳いあげる。忠義のもとに命を賭して深い愛情で結ばれている義経一行に比べ、富樫が家来と形式的な上下関係でしか結ばれていない孤独がクローズアップされていく。  歌舞伎なら、富樫に感謝しつつ弁慶が勇壮な飛び六法で引っ込む見せ場で幕となるが、木ノ下歌舞伎は違った。義経一行が引き続き追跡されていることや関守の責任を問うという幕府発表のニュースを伝えるラジオのスイッチを、富樫が静かに切るところで幕となった。“名優による男同士の肚芸に泣かされる芝居”という通説を思い込んできたが、これはめちゃくちゃ今の話ではないのか。富樫の深い孤独に触れ、私はあらためて涙ぐんだ。 「ボーダーとはまさに現代が抱える様々な課題のはずです。関所という国境も、役者の国籍やジェンダーも、あらゆるボーダーを超えていく物語として創りました」  大柄ながたいに似合わぬ高めの柔らかな声で話す木ノ下自身は、役者でも演出家でもない。木ノ下歌舞伎には専属の劇団員も演出家もいない。木ノ下が選ぶ歌舞伎の演目によって、そのつど演出家や俳優を集めるプロデュース公演だ。現代演劇では普通にある公演形式だが、普通の劇団と大きく異なるのは、木ノ下が歌舞伎を始めとする古典芸能の深い学識をもとに古典歌舞伎作品を再編し、現代の視点で読み解き、現代劇化していることだ。言ってみれば、作品の歴史的検証をする研究者が現代演劇として歌舞伎を創っているのである。 ●保育園は3回の転園「みんなと違うこと」を  400年の歴史をもち、今日まで人気娯楽として君臨する歌舞伎は、演劇の神髄がちりばめられた宝庫だ。これをなんとか現代に読み替えられないか、現代劇として再生できないかという試みは古くは戦前から今日に至るまで、多くの演劇人によって試みられてきた。近年では歌舞伎の底力を熟知する現行の歌舞伎役者自身が、歌舞伎座で人気漫画を原作とした「ワンピース」を上演してみたり、今年は新橋演舞場で宮崎駿原作の「風の谷のナウシカ」も上演する。歌舞伎は時代を超越して人を魅了し続ける怪物演劇なのだ。しかし、歌舞伎を題材とした現代演劇でこんなアカデミックな検証手続きを踏み、発信されるものなど前代未聞。したがって主宰である木ノ下の仕事は「監修」と「補綴(ほてつ)」である。  補綴ってなんなんだ。歌舞伎通ならプログラムなどで目にする言葉だが、一般的にはほとんど馴染みがない。読み方だって難しい。補綴は一言でいえば原作の編集だ。近松門左衛門、四代目鶴屋南北、河竹黙阿弥といった歌舞伎作者たちの台本は膨大な長さのものが少なくない。現行歌舞伎も短くしたり再編したりして上演するとき、台本の補綴を必要とする。既存台本を再編するには深い造詣、歴史的な知識と解釈が必要となるからだ。  木ノ下は古典の台本を考証しながら解釈するために膨大な資料を収集し読み込み、上演の台本のもととなる独自の「補綴ノート」なるものを作っている。公演演目を決めてからこのノートを作るまで、なんと1年半もの時間をかけるのだ。 「長いですかねえ。でもこれをきちんとやっておかないと稽古で迷走してしまうんです。当時の台本には書かれていないこと、台本にはない場面を想像して埋めていかないと現代に通じる物語にはなりませんから」と語る木ノ下の補綴ノートは仰天するばかりのものだった。  大判のノートに多色ボールペンを使い、手書きでびっしりと表のように書き込まれているのは、場面ごとに変わっていくそれぞれの登場人物に関する詳細な情報だ。歌舞伎台本のこの場面は、文楽の原作台本ではこの順番になっている、この場面は文楽にはあるが歌舞伎にはない、といった詳細な情報や歌舞伎音楽に至るまで、すべての情報が図表化されている。それもけっこう可愛い文字でだ。歌舞伎の原作にも書かれていない、人物のそれぞれのバックボーンまで書き込まれている緻密な“構造図”は覗いているだけでめまいを覚える。 「人物は登場していない時こそ大事なんです。歌舞伎ではひとりの人物が次の場面に登場してくるのが1年後なんてざらにある。でもこの1年間どこで何をしていて何が起きていたのか。ここを想像して埋めていき、この人物が何を大事にして生きているのかなどのモチベーションまで書き込まないと」  木ノ下歌舞伎を支えるのはこの「補綴」作業と「完コピ」である。完コピとは上演台本での稽古に入る前に出演者が2週間ほどかけて覚え込む歌舞伎の完全コピーである。上演台本が現代口語であっても、出演者は歌舞伎役者のビデオを観て台詞と手足などの身体の動きまで丸憶えで真似て、一度体に叩き込む必修の稽古メソッドだ。 「そこは歌舞伎らしく演じて、といっても今はまったく通じないですから。でもこれをやると稽古の後半には、物語の何が歌舞伎と違うのかがわかってくるんですよ」  歌舞伎研究で知られる演劇博物館副館長で早稲田大学教授の児玉竜一は木ノ下を評価する。 「古典に精通した現代演劇人は少なくなってきていますし、古典芸能の世界を現代につなぐ仕事は誰かがやらなくてはならない。歌舞伎座でさえ、口ずさめるように演目の内容や役者の芸がわかるなんてお客さんがいなくなりつつあるんですから。勧進帳が現代演劇になるとは誰も思っていなかったはず。歌舞伎を知らない人が彼を通して歌舞伎の多くの物語を知っていくことになるでしょう」  若き“古典芸能スーパーオタク”誕生までの道はまるで芝居みたいに面白い。  和歌山市で社会科教師の父と環境保護運動などに熱心な母との間に生まれた一人っ子は、型にはまる教育を徹底して排除されて育った。お絵描きで「空を青く、お花を赤く塗りましょう」と先生が指導したとたんに転園。都合3回も保育園を変えられる。小学校はサマーヒル教育を目指す寄宿学校に入れられるが、学校側の体制トラブルなどで地元公立小学校2年へ編入。「みんなと横並びにならないこと、みんなと違うこと」が鉄則の木ノ下家では学校指定の教材も買ってもらえない。学校指定のクレヨンに「なんで12色しかないんだ、本物を使え」と父親が画材店で買い込んだ大人が使う画材一式が木ノ下に渡された。 ●風呂敷包み姿で登校、小学生で人気落語家に  教育は徹底していた。人が持っているからの理由では何も与えてもらえない。代わりに本はいくらでも読んでいいし買ってもらえた。「好きなものには妥協するな」と言われ続けたのだ。  古典芸能との出合いは小学3年だった。町内の敬老会にひとりでふらりと立ち寄り、上方落語家による「蛇含草(じゃがんそう)」を聴いた。生まれて初めて観た落語だ。落語にはまっていき知ったのが、上方落語の人間国宝桂米朝の存在。大ファンとなり米朝全集を読んで驚いた。 「あとがきに、この噺は自分がこう復活させたとか、オチが本当は違っていて自分がこう練り上げたとか書いてある。古典そのままだと思っていた米朝の噺がほとんど補綴されたものだったことがすごいショックでした。確かによく聴いてみると古典なのに現代的な感じがする。補綴という仕事があるんだと知ったんです」  一気に毎日が落語漬けとなった。深夜のラジオの音源を収録し、2カ月に1枚落語CDを買ってもらう。買ってもらうために、親になぜそれがほしいのかの理由を口頭かリポートに書くルールはこの時からだ。とことん聴いたら演じたくなる。3年生にして高座名「おみくじ亭大吉」となった木ノ下は学校の人気者となった。  教卓の高座での独演会を日に何度もやり、下級生などの弟子がぞろぞろと12人も出来た。下駄履き風呂敷包み姿で登校し、6年生の頃には町内会から出演依頼が殺到する。しかし謝礼が菓子から現金にかわり、それにひかれていく自己嫌悪と、稽古不足のままやった得意ネタの「馬の田楽」の不出来に絶望し、筆を折るように落語を演じることをやめた。 「落語をやっていると歌舞伎のパロディーが多く出てくることから古典芸能の面白さに気がつきました。中学へ進んだら歌舞伎の勉強を、高校では文楽を、大学で能・狂言を勉強しようと将来のコースを決めたんです。概ねその通りになりましたね」。小学6年での決心である。  中学で、生の歌舞伎を観たのは、劇場まで1時間かけて観に行った鑑賞教室の1回だけだった。「義経千本桜」三段目の「鮓屋(すしや)」を観た。「テンションとメソッドの結晶である型」に仰天し、「こんな面白い物語はどんな風に構築されていっているのか」と、興奮でその晩熱を出して寝込んだ。「中学で初めて観た歌舞伎で物語の構造に心奪われるなんて珍しい。補綴に向いているんです」と児玉が笑うような歌舞伎との出合いである。 ●今ならどう読めるのか、古典腐らせないよう考える  高校へ進むと計画通り文楽に耽る。竹本住大夫の義太夫、吉田玉男の人形に熱中。人生で2回目の歌舞伎も高校の時。平成中村座の大阪公演、串田和美演出の「夏祭浪花鑑」と「法界坊」を観た。「法界坊」のこの古典への飛躍力がどこから来るのか、「夏祭浪花鑑」はまるで現代劇ではないか、と考えると、その晩また熱を出し寝込んだ。 「春秋座という歌舞伎をやる劇場が大学の中にあるらしい」と聞き、三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)が、当時副学長を務めていた京都造形芸術大学へと進む。「あの場面はこう演じられてるけど、こういう解釈にしたら」などと周囲の友人にのべつ幕なしに歌舞伎の話ばかりする木ノ下に「そんなら自分で作ったら」と友人が言い、旗揚げした。東海道四谷怪談を扱った50席、500円の「yotsuyaーkaidan」は大学の学科長でもあった太田省吾に評価された。この時から演出家としてつきあいがあるのが、3年先輩の演出家、「勧進帳」を演出した杉原邦生だ。 「旗揚げから在籍していた11年間苦楽を共にしてきた戦友です。作品と観客をつなぐのが演出家で、演出家と脚本をつなぐのが、頭の中が古典の図書館みたいになっている補綴の木ノ下くんでした」  故十八代目中村勘三郎らが25年前に始めた「コクーン歌舞伎」で、昨年上演された「切られの与三」に木ノ下が補綴として参加した。「切られ与三」は有名なお富・与三郎の物語だがもともとは講談。冗長な原作を「現代的な視点で切り取ってほしい」と木ノ下に声がかかった。演出の串田和美(76)は「江戸時代はアイデアを出し合い共同体で芝居を作っていた。彼はそれをわかっているから対等に議論して作り上げられた」。  木ノ下歌舞伎への関心は、若手の歌舞伎役者にも広がっている。「勧進帳」を観て歌舞伎役者が「そういうことだったのか」と演目を見直すのだ。演出家の杉原は「(長野の)松本で(中村)七之助さんが2回も観てくれた。涙を拭くハンカチまで用意して(笑)。どうせスカしたものだろうと思って観に行ったけど、小手先ではなく歌舞伎をきちんと理解した上で作っているのがわかったと言ってくれましたね」。  木ノ下歌舞伎作品を追うように観てきた若手女形の歌舞伎役者、坂東新悟(28)も「木ノ下歌舞伎が、なぜそうなのかを作品として突き詰めるので、古典に対して“気づいていける”ようになりました。勘三郎のおじさまが生きておられたら間違いなく木ノ下歌舞伎は面白いとおっしゃると思います」。  木ノ下の夢は「国立劇場の芸術監督になること」と「古典芸能の“学校”を作ること」だ。とりあえず学校の夢は第1弾として昨年“本気のカルチャーセンター”「キノカブの学校ごっこ」で実現した。6日間で1340分の古典芸能全般にわたる集中講義に人が詰めかけた。 「木ノ下歌舞伎は古典と出合ってもらうゆるやかな運動体です。演出家も俳優もお客も劇場も古典と出合って交流していってほしい。今ならどう読めるのかと常に考えていかないと、古典は腐っていきます」  歌舞伎座の客席で、仁左衛門や吉右衛門にしびれながらまったく何も考えずに観ていた自分が急に恥ずかしくなったではないか。  (文中敬称略) ■木ノ下裕一 1985年/和歌山市で中学の社会科教師の父親と環境問題などに熱心な母親との間に生まれる。「個性を伸ばす教育」のために3回も保育園を変えられる。 93年/サマーヒル教育の「きのくに子どもの村学園」の寄宿学校から2年生で和歌山市立木本小学校へ編入。ファミコンやゲームはなく本だけは潤沢に与えられる。小3で落語に出合い、桂米朝に心酔。米朝の落語が「補綴」でできていることを知る。落語の口演で学校や地元の人気者となるが、落語を通して古典芸能の存在と魅力を知り「中学で歌舞伎を、高校で文楽を、大学で能・狂言を勉強する」と将来設計をたてる。 98年/和歌山市立河西中学校へ進学。生の歌舞伎は1回しか鑑賞できず、祖父母に頼んで有料の「伝統文化放送」(後の「歌舞伎チャンネル」)の導入を頼み、繰り返し見続ける。歌舞伎のドラマ構造に魅了され、図書館などで関係書物を片端から読破。美術部と図書部へ入部し、「民藝」や「泉鏡花」を巡る一人旅も始める。 2001年/日本画を専攻するため和歌山県立和歌山高校の総合学科に進学。文楽に「噛み応えのある奥深い水脈を見つけた」と高校時代は義太夫と人形浄瑠璃の虜となる。 04年/個人プレーの絵画が性に合わないことを知り、当時の三代目市川猿之助が副学長を務めていた京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科に進学。 06年/大学3年で、古典演目上演の補綴・監修を木ノ下が行う木ノ下歌舞伎を、杉原邦生演出の「yotsuya-kaidan」で旗揚げ。以降、13年間に「三番叟/娘道成寺」「俊寛」「東海道四谷怪談ー通し上演ー」など多くの歌舞伎演目の現代劇化を続ける。 10年/修士号を取得。 15年/舞台領域では日本初の研究と創作の両面での博士号取得者となる。 17年/「勧進帳」で平成28年度文化庁芸術祭新人賞を受賞。 18年/多摩美術大学などで非常勤講師。 19年/京都・南座での神田松之丞独演会で、講談「怪談 乳房榎」の補綴。 ■守田梢路(こみ) 本欄では、講談師・神田山陽、神田松之丞、落語家・春風亭一之輔などを執筆。歌舞伎、文楽、能、落語、講談、浪曲など古典芸能を中心に、インタビューやルポ、エッセーを執筆。寄席のプロデュースも行う。 ※AERA 2019年5月27日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/08/15 12:00
太宰治、永井荷風、江戸川乱歩…文豪たちが聞いた「玉音放送」
太宰治、永井荷風、江戸川乱歩…文豪たちが聞いた「玉音放送」
太宰治(左)、永井荷風 (c)朝日新聞社 江戸川乱歩 (c)朝日新聞社  今年も終戦記念日が近づいてきた。74年前、文豪たちはそれぞれの思いで玉音放送を聞いた。作家たちが書き残した文章からは、それぞれの「戦争」への関わり方だけでなく、当時の人々の生活も垣間見える。夏休みの読書にいかがか。 *  *  *  終戦の1日前、昭和20年8月14日、永井荷風は谷崎潤一郎と会っている。3月の東京大空襲で焼け出され、疎開先の岡山市でも空襲に遭い、ほとんどすべてを失っていた。当時、岡山県北部の勝山町(現・真庭市)に疎開していた谷崎は盟友の身を案じ、勝山に移り住むことを提案していた。13日の列車で勝山に着いた荷風は谷崎の用意した宿に1泊、翌昼谷崎の居宅で食事しながら移住について話し合ったが、荷風は移住を辞退。  谷崎は日記にこう書き残した。 「本日此の土地にて牛肉一貫(200円)入手したるところへ又津山の山本氏より一貫以上届く。(略)夜酒二升入手す。依って夜も荷風氏を招きスキ焼きを供す。(略)今夜も九時半頃迄二階にて荷風先生と語る」  荷風の日記『断腸亭日乗』はこう続ける。「九時過ぎ辞して客舎にかえる、深更警報をききしが起きず」。  翌15日、荷風は岡山へ向かう午前11時過ぎの汽車に乗り、車中で谷崎夫人が持たせた弁当を食べる。「白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添えたり、欣喜措く能わず、食後うとうと居眠する」(『断腸亭日乗』)。岡山駅到着は午後2時。荷風はおそらく玉音放送の時間、居眠りしていたとみられる。  一方の谷崎はどうか。荷風を見送り帰宅すると、正午から天皇陛下放送があるとの噂を聞き、ラジオを聞くため近所の家に行った。「十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音を聞き奉る。然しラジオ不明瞭にてお言葉聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほぼ聞き取り得」(日記より)、帰宅する。家人から無条件降伏を受諾したことを告げる放送だったと聞くが、「皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。(略)家人も三時のラジオを聞きて涙滂沱たり」(同)。  居眠りをしていた荷風も、帰宅後玉音放送について知り、こう書き記した。「日米戦争突然停止せし由を公表したりと云う、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。  谷崎は戦後まもなく、軍部の弾圧により発表できなくなっていた『細雪』を、荷風も戦時中書きためていた作品を戦後次々と発表した。  弾圧により執筆禁止に追い込まれていた江戸川乱歩は、疎開先の福島県で大腸カタルと闘っている中で終戦を迎えた。「私はそのとき、大腸カタルが治らないで、骨と皮ばかりになって寝ていたのだが、その病床で、私は探偵小説はすぐに復活すると考えた」(『探偵小説四十年』)と記している。  谷崎や乱歩のように、作品を発表する場がなくても暮らしていける財力があればまだしも、多くの作家は困窮した。例えば高見順は生きるために従軍報道班の仕事を選んだ。そして膨大な日記を残した。空襲が続く中、鎌倉から都内にたびたび出かけ、破壊されていく東京の様子をつぶさにリポートしている。その高見は終戦の日を鎌倉の自宅で迎えた。 「警報。情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。(略)『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね』と妻が言った。私もその気持だった。ドタン場になってお言葉を賜わるくらいなら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。(略)十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。(略)──遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」(『敗戦日記』)  高見はこの後、街の様子を観察するため、新橋に出かけていった。  愛国的な詩を書くなどしていた高村光太郎は、疎開先の花巻で終戦を迎えた。正午の玉音放送を市内の鳥谷崎神社で聞いた光太郎は翌16日、「一億の号泣」という詩を発表した。 「われ岩手花巻町の鎮守 鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて 天上はるかに流れきたる玉音の低きとどろきに五體をうたる 五體わななきてとどめあへず。玉音ひびき終わりて又音なし この時無声の号泣国土に起り、普天の一億ひとしく 宸極に向ってひれ伏せるを知る」  光太郎は戦後、自らの戦争協力を反省し、7年間独居自炊の生活をしたという。  秋田・稲住温泉に疎開していた武者小路実篤は終戦を翌16日の新聞で知った。家族が泣いている姿を見て「僕も残念に思うが、仕方がなかったのだと思う、しかし今後いろいろ、面白くないこともあろうかと思うので、当分ここに籠城するつもり」(「稲住日記」)と記している。井伏鱒二は玉音放送のあった日を「8月14日」と記している。これは新聞が届かず「日付を間違っている気がする。新聞が何日も届かないのでよくわからない」からだった。  無関心派も少なくない。三島由紀夫はただ「そこにはなにもなかった」と記すのみで、川端康成はほぼ何も記録に残していない。青森の実家の居間で玉音を聞いた太宰治はただ「ばかばかしい」を連発していたという。  素直な感想を詩に書き残したのは佐藤春夫だ。佐藤はその日、疎開先の佐久で高性能ラジオを所有する家まで歩き、これを聞き、「炎天下の短い我が影を踏みながら近い道を深くうなだれて」帰宅して、「稍遠き家にてラジオを聞きての後」として詩を書いた。 「ありがたさなみだながれて/仰ぎたる天つ日まぶし/耳底にあぶら蝉なき/己が影をふみつつかえる」  佐藤は終戦後も佐久に長い間とどまった。  では、当時18歳だった吉村昭はどうか。浦安のクリーニング屋から聞こえてくるラジオに耳を澄ませた。「ポツダム宣言受諾という天皇の言葉に、体が一瞬氷のように冷えるのを感じた。それが連合国の日本降伏を要求するものであることを知っていたからである。『負けたぁ』私は、吐くように言った」(『白い道』)。すると、「突然胸ぐらをつかまれて漁師に『なにを貴様。負けたとはなんだ』漁師の目には憤りの色が浮かんでいた」(同書)と記している。  戦争中、出版の機会を奪われた作家たちによって戦後文学が花開くのは、この数年後のことである。 (本誌・鈴木裕也) ※週刊朝日  2019年8月16日‐23日合併号
週刊朝日 2019/08/14 18:00
年収“自称”1億円のライブ配信者・コレコレ 「ヒカキンは僕の弟子」
年収“自称”1億円のライブ配信者・コレコレ 「ヒカキンは僕の弟子」
コレコレ/1989年8月12日生まれ。広島県出身。Twitcasting (通称:ツイキャス)」、YouTube、ニコニコ動画で活動する配信者、YouTuber。雑談、逆凸、ゲーム実況、凸待ちなど、シャンル、放送スタイルを問わず展開。顔出し配信の時は鼻マスクや鼻テープをつけた姿がトレードマーク。アイドルプロデューサーとして現在、オーディション企画を進行中(撮影/写真部・片山菜織子) 「見かけたら火を付けたりゴミを絶対に投げないでね!」(コレコレ談)(撮影/写真部・片山菜織子)  パソコンやスマホからライブ配信ができるサービス「ツイキャス」で、その人気の高さから“王”と呼ばれる配信者がいる。その男の名は「コレコレ」(30)。16歳でライブ配信を始め、「ねとらじ」や「ニコニコ生放送」などの配信サイトが誕生すると、またたく間に人気者の階段を駆け上り、いまでは「日本トップのライブ配信者」と呼ばれるようになった。「楽して生きていきたい」と話す一方で、人気YouTuberやアイドルプロデューサーとしての顔も併せ持ち、コミュ障なのに女性にモテる。コレコレとは何者なのか。生い立ちや年収、女性関係、メディアの取材を受けない理由など、話を聞いた。 *  *  * ――メディアのインタビューを受けるのは初めてですか? ほぼ初めてと言っていいですね。僕、基本的に引きこもりなので、家から出たくないんです。YouTube用の動画の撮影が唯一、外に出る機会といっても過言ではありません。昼夜逆転の毎日で、夜の8時に起きて、昼に寝る。動画は1週間に1回、外出して収録しているので、それ以外の週6日間は家にいます。「ツイキャス」のライブ配信は起きてすぐにやってます。 ――コレコレさんといえば、“ツイキャスの王”として知られています。そんな人のひととなりを知りたくてインタビューを申し込みました。お生まれはどちらですか? 生まれは広島県です。あまり詳しく聞いたことはないんですが、父は船に乗る仕事をしていて、1年間、家に帰ってこないこともありました。たぶん海賊かなにかをやっています(笑)。母は専業主婦で、妹が一人います。教育熱心な両親で、塾にも行かされましたし、中学は私立の進学校に通っていました。「勉強していい大学にいきなさい」というのが両親の教えでした。 ――そんなコレコレさんがライブ配信者になったきっかけは? 高校で私立の男子校に入学したことがきっかけです。女子がいない毎日で、学校生活がつまらなかった。そんなときにネットに出合いました。当時、学年でトップの成績をとったご褒美に両親がパソコンを買ってくれたんです。 ――両親からの“ご褒美”が、ライブ配信者になるきっかけになったんですか? はい。もちろんYouTubeもツイッターもない時代です。ネットユーザー自体もそれほど多くなかった。「こんな世界があるんだ」と、一気にハマりました。親がいろんなサイトにアクセスできないようにパソコンを設定していたんですが自力で解除して、「2ちゃんねる」とかをよく閲覧してました。 ――なぜネットの世界にハマったんでしょうか? 例えば、恋愛とか人間関係って過程と結果がある程度予測できるじゃないですか。でもネットの世界は体験したことがなかった。危険性も魅力的でした。 ――男子校なのに恋愛経験は豊富だったんですか? あ、いえまったく(笑)。中学くらいからコミュ障でしたから。でも小学生のときはクラスの人気者で女子にはモテたんですよ。 ――なるほど。当時のライブ配信というのはどういったものだったんですか? 16歳のときに「BARギコっぽいONLINE」という、マイクを通した声を配信できるサイトの存在を知ったんです。それが僕のライブ配信の始まりでした。視聴者は3人くらいしかいませんでしたが、ほぼ毎日自分の部屋で夜9時から配信し続けているうちに、そのサイトで一番の人気配信者になりました。パソコンに向かってしゃべっていたら親に「頭がおかしい」と思われて、精神科に連れて行かれそうになりましたけどね。 ――クラスでも人気者になったんじゃないですか? 先生に伝わってやれなくなると嫌だったんで、誰にも配信のことは言いませんでした。僕にとってはなくしたくない大切な世界でしたから。 ――昼は“コミュ障”、夜は“人気配信者”。そんな二重生活を送られていたんですね。 はい。クラスメートはとにかく勉強を頑張っている人たちだったので、別に教えても興味なかったと思います。人気配信者のほとんどが学生時代の卒業アルバムの写真をネットにさらされていますが、僕はコミュ障で友達もいなかったので、いまだにさらされていません。 ――それはそれで寂しいような気もしますが……。そのころは「配信者として生きていこう」とは考えなかったんですか? とくにやりたいことはなかったので、夢はリストラのない公務員でした。卒業後は広島の大学に進学して、1人暮らしを始めました。 ――サークルやコンパなど、楽しい大学生生活のスタートですね。 いやいや、大学に入っても友達は一人もできませんでした。できなかったというか作らなかったというか……。とにかく、今も昔もリアルの人間関係にあまり興味はないので。毎日、配信ばかりやっていました。 ――そのころ、「ニコニコ生放送(以下、ニコ生)」が誕生します。 「ニコ生」は音声だけでなく映像も配信できる点が新しかった。始めて1週間くらいで人気がでて、2カ月でコミュニティー登録者が1位(約2万3千人)になりました。 ――参加するすべての配信サイトですぐに人気を得ていますが、どういったところがウケたと思いますか? 僕は昔から声が高くて、女の人の声まねができたんです。ネット上で電話ツールを使ってエロいことをしようとするおっさんを釣る企画がウケたのもきっかけの一つ。今ではみんな同じような企画をしていますが、僕が初めてやりました。「ニコ生」ではその企画があたって一気に1位に上り詰めた。 ――そうした企画はどうやって考えているんですか? 基本的に発想の源泉はネットで話題になったニュースです。例えば、「ネカマ(ネット上で女性を装う男性のこと)にだまされた」というニュースだったり、「家出少女に悪さをする大人が急増中」というニュースだったり、そうしたニュースをヒントにして企画を考えます。家出少女に化けて、おっさんにおしおきをする企画とか。いわゆる「釣り企画」です。最近では、視聴者のお悩み相談コーナーを始めたんですが、その内容が「有名YouTuberにひどいことをされた」とか、ここでは言えないような内容の相談がくるようになってヒットしました。毎回、僕と視聴者で解決策を考えています。いろんな案が瞬時に集まり、おもしろいように解決していくので、最近は有名人にひどいことをされた女性が僕のライブ配信に集まるようになった。 ――YouTubeでは、タバコのポイ捨てを注意する企画も人気ですね。 僕、タバコが嫌いなんですよ。東京に出てきたのは3年前くらいですが、渋谷に行ってみるとタバコがいっぱい道に落ちている。都会の生活に慣れてしまうと気にならないのかもしれませんが、田舎出身の僕からすると、あれって本当に驚きでしかない。「なんで誰も掃除しないの?」「なんで注意しないの?」って。それで企画として渋谷で掃除したり、注意をしてみたらけんかになって、こっちとしては最悪の気分なんですけど、人気企画になった。企画は全て自分一人で考えています。 ――ライブ配信では元彼女の存在や恋愛事情を包み隠さず話していますね。 自分の私生活もコンテンツの一つだと考えています。それと、隠し事をすると配信者としてはしんどいんですよ。 ――「しんどい」ですか? はい。他人に対して痛烈な悪口を言うこともあるので、自分自身が隠し事をしていると、バレたときにしんどい。それとトークをするうえで、「これは言わないようにしよう」って気をつけながらだと、話が面白くなくなるんです。そういう微妙な空気の違いを視聴者は感じ取りますから。 ――コレコレさんといえば、今もつけていらっしゃるマスク姿がトレードマークですが、それは身バレ防止のためですか?   いや、もはや僕はマスクをしていたほうが身バレします(笑)。まあコンプレックスですかね。とにかくみせたくない。 ――鼻と口を? というか、顔の全てをみせたくない。 ――常に持ち歩いているんですか? はい。常に3枚は持っています。渋谷とかでは撮影中にマスクを外そうとしてくる不届き者もいますんで。事務所の人と会うときも必ずつけています。外すときは家の中か女性と会うときくらいです。 ――女性関係についても聞きたいのですが、いま彼女はいらっしゃいますか? いまはあんまり時間ないんで……。 ――いきなり歯切れが悪くなりましたね。 いや、すぐに浮気をしてしまうんですよ。女性ファンからの誘惑が多くて。体重は100キロを超えているんですが、めちゃくちゃモテます。ネットで人気者になるとブサイクでもモテる。配信者じゃなかったら、いまごろ孤独死してるかもしれません。 ――あえて聞きますが、友達は? 今も昔も安定のゼロ人です。でもむなしいとかは全然思いません。ただネットがなくなったらやばいですよ。そうしたら家に引きこもります。あ、いまも引きこもってるか笑。 ――動画でよく共演されている「ぷーさん」という方は友達ではないんですか? 彼はもともと視聴者です。会社を経営されていて、僕のオフ会に参加してくれたことがきっかけで連絡をとりあうようになりました。話も合いますし、面白い人なんで一緒に動画を作っています。初めのころは動画を撮影する仲間という認識でしたが、撮影とは関係なく会う機会も増えました。いま考えると、これが友達なのかなって思います。 ――“コミュ障”を克服したいと考えたことはありますか? まったくないです。ネット上で人とコミュニケーションはとれているので、「それでいいじゃん」と思っています。もちろん会社員だったらネガティブな感情を抱いていたでしょうが、僕は配信者なので。まったく困っていません。 ――コレコレさんのファンには、きゃりーぱみゅぱみゅさんや藤田ニコルさんなど有名人も少なくありません。彼女たちに会いたいとは思いませんか? えー何を話したらいいのかわからないんでいいです。 ――ヒカキンさんはいかがですか? 彼は僕の弟子なんですよ。これはちゃんと書いておいてください。彼が無名時代に僕のチャンネルで紹介したこともあります。その当時は僕のほうが有名だったんですよ。まあ、いわゆる“売名”を手伝ってあげた。だから僕の弟子です。その話をライブ配信で何回も言ったら、ツイッターのフォローを外されました(笑)。 ※後編に続く 【プロフィール】 コレコレ/1989年8月12日生まれ。広島県出身。Twitcasting (通称:ツイキャス)」、YouTube、ニコニコ動画で活動する配信者、YouTuber。雑談、逆凸、ゲーム実況、凸待ちなど、シャンル、放送スタイルを問わず展開。顔出し配信の時は鼻マスクや鼻テープをつけた姿がトレードマーク。アイドルプロデューサーとして現在、オーディション企画を進行中。詳しくはコチラ。コレコレさんのYouTubeチャンネル/ツイッター (AERA dot.編集部)
dot. 2019/08/12 20:00
“老親友”瀬戸内寂聴×横尾忠則の「イイカゲンな生き方」
“老親友”瀬戸内寂聴×横尾忠則の「イイカゲンな生き方」
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  作家瀬戸内寂聴さんと美術家横尾忠則さんの往復書簡がスタートした。半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友が、とっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■二人とも本質的にいいかげんなところあり  瀬戸内様  難聴が日々悪い方に進化しています。耳は瀬戸内さんより老齢です。すでに百歳に達しています。補聴器の限界を超えて、70万円もする高価な補聴器も引き出しの中で埃(ほこり)をかぶっています。2年ほど前は瀬戸内さんと同程度の症状だったので、電話でもまだトンチンカンなりにも通じ合っていました。とはいうものの音声は機械化されて聴こえるものの話の内容はねじれ現象を起こしていてサイボーグです。あの頃は瀬戸内さんの耳の方が僕より悪かった。  僕が草津温泉に行ってきたと言ったら、「よく拉致されなかったわね」と言う。なんで草津温泉で拉致(らち)されなきゃいけないんですか。「怖くなかった?」。洞窟風呂はちょっと怖かったけど。「あら洞窟があるの?」。それが熱くってね。「冬なのに暑いの?」。どこへ行ったと思ってらっしゃるんですか? 「北朝鮮でしょ?」  もう、怒りますよ、北朝鮮違います! 草津温泉。ク・サ・ツ・オ・ン・セ・ン! です。「あら、北朝鮮とばかり思っていたわ、アッハッハッハッ」。アーアー、歳は取りたくないと思ったけれど、今では僕の耳は瀬戸内さんの97歳を追い越しています。  以前、僕が難聴になった時、瀬戸内さんは絵が変るわよ、とおっしゃいましたよね。音楽家じゃないから、視覚には影響ないですよ、と言いましたが、最近、難聴が絵を変えてくれるような気になっています。難聴のために音が朦朧(もうろう)としていることに気づき、そうだ朦朧体のような絵を描こうと思ったのです。横山大観のような古くさい朦朧派の絵ではなく、物の存在が曖昧(あいまい)な具象画と抽象画の中間のような、どちらにも属しないそんな未完的な絵を。中庸という概念があるじゃないですか。そんな両方の「間」を取ったような絵です。  絵のスタイルを意図的に変えようとしなくても、身体の都合によって自然に変ります。頭で考えるのではなく、身体に従えることで変る。これが自然体じゃないでしょうかね。  中庸というのはどちらにも片寄らない中正な様子で生き方としては、最も生きやすい状態でしょう? そう考えると難聴も悪いことではなく、聴こえているような聴こえてないような状態で、いいかげんに生きることでもあるんじゃないでしょうかね。このいいかげんに生きるということは、もしかしたら長寿のコツのような気がしています。  すると97歳のご高齢の瀬戸内さんの長寿の秘訣は、実はいいかげんさにあるんじゃないでしょうか。ということになりませんかね。いいかげんとは、いい湯かげんのことです。ほどほどということですよね。絵もがんばった絵は見ていてシンドイです。肩の力が抜けた、何かのためという大義名分ではない、目的のないための絵です。努力の跡が見えない作品、そんな作品を難聴が描かせてくれそうな気がしています。  と、考えると、この往復書簡もいいかげんがいいのかもしれませんね。二人とも本質的にいいかげんなところがある(私は違います、と言われそうですが)ので、その辺でおつきあいをさせていただきたいと思います。ではお返事をお待ちしています。忠則 ■天才は三島さんくらい あ? 横尾さんもよ  横尾さあん  とうとう往復書簡の実現を見ました。私が九七歳、横尾さんが八三歳になって、漸く実現しました。たぶん、この連載がつづく間に、私は必ず死ぬでしょう。もちろん、老衰が原因です。出版社はシメタ!とすぐ本にしてくれ、ベストセラー間違いなし! うまく百歳と重なれば、宣伝しなくても、百歳になる秘密が書かれているにちがいないと、売れに売れることでしょう。想像しただけで景気がよくてワクワクする。  七十年もペン一本で食べてきた年月に、一度だってベストセラーなんて景気のいい目にあったことのない私は(そんなことない、と秘書のまなほは言う)、死んでからでもいいから、そんな目にあってみたいものですよ。  百歳にあと三年という歳になって、文芸雑誌二冊に、連載をつづけている私が、作家仲間から笑い者にされているくらいは知ってますよ! そんな私を余程律義な人間だと思いこんでいる人もいるようだけれど、トンデモナイ! 根がイイカゲンな人間だからですよ。今更他の仕事にきり変るなどメンドクサイだけじゃない? 五一歳で出家したりして余程真面目な人間かと思われてるかもしれないけど(そんなモン一人もいないよ!!)要するに、芯が、いいかげんな人間だからに過ぎないだけ。ほんとに真面目で、人生を真剣に考えつめる人間だったら、五一歳でいきなり坊主になったりするものですか!  私はホントにいいかげんな人間で、いいかげんに九十七年も生きてきたと思います。それで何が残った? 心を許せる友だちだけですよ。命をかけた作品? とんでもない、そんなもの三年も読者なんて読んでくれるものですか。では、なぜ月に三日くらいまだ徹夜して書きつづけているの? 横尾さんならわかってくれるでしょう。ペンを握れば手が動くのよ。これはもう腕の習慣。理由なんかない。後世に残るケッ作を書こうなんていじらしい夢は、とうの昔にどこかに飛んでしまった。癖で、「イイカゲン」に書いている。ああここでも「イイカゲン!」。だって読者なんて気まぐれで移り気で、浮気でしょ。一人の作家を生涯気も変らず愛読しつづける人なんている筈ない。芸術家は、天才だけが残るのよ。横尾さんは天才ですよ! ホント!! 私はあなたとA新聞社ではじめて逢った瞬間から、そう感得した。あなたは三十歳なかばで少年のようにすがすがしく、初々しかったけれど、もう二人のお子さんの親だと聞いて、私は椅子から落ちかけたものでした。その帰りの十五分くらいの車中の話に、私はあなたと生涯の友人になる予感が得られたのです。  その理由は、この往復書簡の中に徐々に書いてゆきましょう。今、わかっていることは、私たちの友情も「イイカゲン」だからつづいている。  わたしは自分が凡才だから、子供の時から天才に憧れています。この世で私の逢った天才は、三島由紀夫さんくらいかな。その三島さんに可愛がられてたから、横尾さんも天才なんでしょ。天才だあい好き! 天才と何とかは紙一重ですって。  ま、あんまり肩肘はらずに、イイカゲンに、愉しく、この手紙つづけましょう。どうぞよろしく。寂聴 ※週刊朝日  2019年8月16日‐23日合併号
週刊朝日 2019/08/11 11:30
甲子園出場校で男子校が絶滅寸前 青春っぽい理由とは?
小林哲夫 小林哲夫
甲子園出場校で男子校が絶滅寸前 青春っぽい理由とは?
第101回 全国高校野球選手権大会 大会の代表校  男子校が一つもない。  第101回全国高等学校野球選手権大会の代表校49校のなかに男子だけが通う学校は一つもない。すべて男女共学あるいは男女別学である(男女別学とは男女が分かれて教室で学ぶこと。第101回大会出場校では国学院久我山のみ)。  甲子園に出場するような野球強豪校といえば、すこし前まで私立男子校が多かった。全国から野球がうまい生徒が集まり、部員100人を超す大所帯のなかで、すぐにプロでも通用しそうな選手が活躍する。こうした学校は男子校が多かった。  ところが、いまではこうした野球強豪校の多くが共学になっている。夏の甲子園で男子校が初めて姿を消したのは2003年だった。その後、2009、2010、2012、2015年に男子校は出場していない。春の選抜では2004、2015、2017年に男子校は見られない。野球強豪校の男子校が絶滅の危機にあると言えようか。甲子園の常連校で、かつて男子校だったが、現在女子を受け入れているところが増えたからだ。たとえば次の野球強豪校である(カッコ内は共学または別学開始年。*印は今回、甲子園出場)。 ○南北海道・北海(1999年) ○宮城・仙台育英(1986年)※、東北(1995年) ○茨城・霞ケ浦(2004年)※ ○群馬・前橋育英(1994年)※ ○西東京・日大三(1987年)、早稲田実業(2002年)、国学院久我山(1985年)※ ○東東京・日大一(1997年)、関東一(2004年)※ ○愛知・中京大中京(1998年) ○三重・三重(1994年) ○京都・龍谷大平安(2003年) ○大阪・履正社(2000年)※ ○広島・広陵(1998年) ○山口・宇部鴻城(2004年)※ ○香川・尽誠学園(2000年) ○長崎・海星(2006年)※ ○熊本・九州学院(1991年)    なぜ、これほどまで共学化が進んだのだろうか。上記のある野球強豪校の元教員がこう話す。 「端的に言えば、少子化対策です。私立高校が生き残るためには東大合格か甲子園出場のいずれかで知名度を高めるしかありません。子どもたちの数が減っているなか、男子だけの受け入れでは定員割れを起こしてしまいます。野球部員はすごい選手だけを入れて少なめにする。そのかわりに女子を多く入れるほうが、学校経営上はいいんですよ」  男子校から共学化した別の野球強豪校の元野球部長は、興味深い話をしてくれた。 「共学のほうが野球部員の励みになるんです。だってそうでしょ。女の子から応援されれば部員はものすごくがんばりますよ。うちも男子校だったのですが、そのころに比べると部員は明るい。でも、女の子にうつつを抜かすという部員はいませんね。彼女がいる部員もいますが、ちゃんと野球に集中していますから」  また、野球強豪校のなかには大学付属、系列の学校が少なくない。大学の募集戦略として、付属、系列を共学化して優秀な生徒を大学に受け入れたいという思惑もあるようだ。  少子化により、その逆のケースも起きている。かつて女子校だったところが、校名を改称し男子を受け入れて野球部を強化している。済美(愛媛)、神村学園(鹿児島)※などである。  また、野球部を強化して甲子園出場を果たした学校はたいてい共学である。鶴岡東(山形)※、遊学館(石川)、京都翔英(京都)、大阪偕星(大阪)、秀岳館(熊本)などだ。  私立男子校野球部の雄として圧倒的存在感を示すのが、横浜(神奈川)である。ここ数年、横浜が甲子園に出場していたため、甲子園の男子校文化が続いていた。  しかし、横浜も来年2020年から共学になる。少子化には勝てなかったようだ。同校ウェブサイトには、女子の制服が紹介されている。そして校長はこう宣言している。 「変わります!横浜高校(略)さて21世紀の今、グローバル化していく新しい時代に、若き青少年の皆さんは生きています。2020年の本校共学化は、学校史上、大きな変革の年です。これを機に、本校では建学の精神である三条五訓に加えて、新たな理念(ミッション)を二点掲げます。そのキーワードは、“思いやり”と“グローバル人財”です。これからますますグローバル化が進む中で、男女ともに、より一層社会(仕事)に参画する時代です」(ウェブサイトから)  松坂大輔、筒香嘉智ら名選手が何人も輩出した横浜は、男臭い硬派なイメージがあった。しかし、「グローバル化」の波はここまで押し寄せている。数年後、甲子園の同校応援席にはチアガールが現れることになり、それによって選手たちはおおいに励まされるだろう。早ければ来年にも。  私立男子校野球部強豪校は絶滅危惧種になろうとしているのだろうか。  1960年代から90年代ぐらいまで、つまり昭和から平成はじめのころまで、甲子園は私立男子校野球部の天下だった。男子校だった北海や早実や広陵、それに平安(現・龍谷大平安)や中京(現・中京大中京)といった甲子園常連校が、全国制覇をめざしてブイブイいわせていた時代だ。そのころ、甲子園常連のある私立男子校野球部員が「文武両道なんか大嫌いだ」とこんな話をしていた。試合で絶対に負けてはいけない相手である。 ●男女共学(女子の声援を受ける相手に激しく嫉妬し許せない) ●進学校(勉強が嫌いだから野球しているのに勉強できるヤツに負けるのは恥ずかしい) ●公立高校(朝日新聞とNHKは公立ばかりひいきするな)  ●長髪選手がいる(チャラチャラしやがって) ●誰でも試合に出られる部員少数校(ベンチ入りするのにどれだけ苦労したと思っているんだ) ●旧制中からの伝統校(応援席にOBが多すぎないか) ●グラウンド共有で練習は1~2時間(夜10時11時までの練習はあたりまえだろ) ●試合中に笑顔が絶えない(どこが楽しいんだ。こんな苦しいことはない) ●まじめでさわやか(おれら野球してなかったらただの不良だし) ●私服通学の学校(ボンタンのどこが悪い)  いま、野球強豪校は共学化が進み、練習も効率化され、気合や根性は少なくなったと言われている。学校の勉強もよくするので、こんな話もあまり聞かなくなった。  一方、「甲子園か東大か」の東大はどうなのだろうか。  東大合格者上位校はもう何十年も開成、灘、筑駒、麻布、栄光学園、聖光学院、海城、駒場東邦、ラ・サール、東海など依然として男子校が並んでいる。甲子園と比べると、進学校のほうが、時代遅れの感を受けてしまう。  甲子園出場全49校の選手のみなさん。がんばってほしい。 (教育ジャーナリスト/小林哲夫)
甲子園
dot. 2019/08/06 17:00
大作曲家ブラームスの強烈な「いびき」でまわりは眠れず… 肥満も関係するその疾患とは?
早川智 早川智
大作曲家ブラームスの強烈な「いびき」でまわりは眠れず… 肥満も関係するその疾患とは?
偉大な作曲家、ブラームス(写真:gettyimages) 若かりし頃のブラームスは痩せていた(写真:gettyimages) 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回はドイツの偉大な作曲家、ブラームスを「診断」する。 *  *  *  最近は、羽田発着の欧州便が増えたため、仕事を片付けて深夜に立ち、朝帰って来て大学にでかけるという無茶な日程が組めるようになった。この原稿を書いている便もフランクフルト発羽田に早朝6時着の予定である。仕事が山積のため、今回の出張で唯一、学会場を抜け出して覗けたのは、近くにあるドイツロマンの巨匠ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)の生家あとの博物館だった。  俗にバッハ、ベートーヴェン、ブラームスをドイツの「三大B」という。各々バロック、古典派、ロマン派を代表する大作曲家である。ブラームスの重厚でやや古風な構成をもつ交響曲や弦楽四重奏曲は音楽愛好者のなかでも「通」が愛聴するものだそうだが、当時の学生歌を取り入れた「大学祝典序曲」や民謡風の「子守唄」など親しみやすい作品も多く残している。  ■ブラームスの持病  ブラームスは1833年、港町ハンブルクの貧しい家庭に生まれた。高等教育を受ける機会には恵まれなかったが好学心が強く、音楽好きの父の影響でピアノを猛練習し、十代の半ばには家計を助けるためにカフェやダンスホールで演奏を始めた。19歳の時、思い立って無一文で武者修行の旅に出かけ、数年後には優れた演奏家、作曲家として再びハンブルクに帰って来る。  多くの伝記や評伝では、57歳の時にインフルエンザで寝込むまでブラームスは病気しらずで熱を出す事もなかったという。しかし、彼には困った持病があった。酷いいびきと居眠りである。  1880年代に一緒に演奏旅行を行った名バリトン、ジョージ・ヘンシェルは「演奏会が成功裏に終わり部屋に戻ったらもっとも大事なのは、いかにしてブラームス先生より早く眠るかということだった。先生のいびきは我々の世界では有名で、先生が先に眠ってしまうと朝まで眠れない。絶望のため、私は部屋を出た。すると翌朝、悪戯っぽい眼で先生は『おはようヘンシェル君。昨夜はどこに行っていたんだね。心配したよ』と尋ねてくるのだ。なんて人だ、何が原因かわかっているのに!」と記している。 ■ブラームスの居眠り姿はウィーン名物  中年以後、ブラームスは昼間によく居眠りをすることでも有名だった。立派なあごひげのでっぷり太った大作曲家が、カフェの一番良い席で午睡(ごすい)をむさぼっている姿は、ウィーンの名物だった。しかし、居眠り癖自体は若いときからあったようだ。  最初で最大の失敗はブラームスが20歳だった1853年、師匠シューマンの紹介ではじめて対面したフランツ・リストが、自らロ短調のソナタを演奏しているときに佳境に入ると、ブラームスは船を漕ぎ出したのだった。当代一の名人と自負していたリストは痛く自尊心を傷つけられ、以降ブラームスには会おうとしなかった。もっともこの頃のブラームスは痩せた美青年だったので、技巧最重視のリストの音楽が本当につまらなかったのかもしれぬ。はるか後年の1890年、新進には気鋭の指揮者グスタフ・マーラーが巨匠の前でタクトを振る機会があったが、客席から無遠慮ないびきが聞こえてきた。晩年には劇場のみならず、執筆中や食事中のテーブルに突然うつぶして眠ることもあったという。 ■OSA(閉塞性睡眠時無呼吸症候群)とは  ペンシルバニア大学の呼吸器科医Margolisは、ブラームスの手紙や周囲の記録を注意深く読むと、彼がOSA(obstructive sleeping apnea=閉塞性睡眠時無呼吸発作症候群)に悩んでいたのではないかという仮説を提唱している。前述のようにブラームスは小柄で30歳くらいまでは痩せて敏捷だった。しかし、師匠の未亡人クララへの失恋に加えて、もともと美食家で酒好きのためか、別人のように肥満になっていく。  35歳のときには愛用の毛皮の外套(がいとう)のボタンがかからなくなり、50歳過ぎには出っ張ったお腹のために小用にも不自由した。中年以降の写真ではあごひげに隠れて首がほとんど見えない。上半身、特に首の肥満は気道を狭窄することからOSAの重要な悪化要因である。一般に睡眠時無呼吸症候群とされるものには気道閉塞で呼吸が止まってしまう閉塞性睡眠時無呼吸症候群(OSA)呼吸中枢の異常による中枢性睡眠時無呼吸タイプ(CSA)がある。彼の場合はおそらく肥満が原因と考えられるが、晩年には脳血管障害などによる中枢性の要因があった可能性も否定はできない。 ■大作曲家の晩年  ブラームスは64歳のとき肝がんで亡くなっている。だが、最晩年には顔面神経麻痺や、構音障害(発音が正しくできない症状)、歩行困難などの神経症状がみられた。OSA患者に脳血管障害が多いことから、小出血や梗塞が起きていたのかもしれない。若い頃のブラームスははにかみ屋ながら快活な青年で皆に愛されていたが、晩年は気難しく怒りっぽい老人だった。親友であった名バイオリニスト、ヨゼフ・ヨアヒムや外科医ビルロート、永遠の愛を捧げたはずのクララとも、些細なことで喧嘩をしている。  OSA患者は、慢性的な睡眠不足から気分変調や抑うつ、易怒性(いどせい=怒りっぽいこと)がみられるが、嫌な爺さんになった原因は彼のいびきと居眠りとも関係あるのではあるまいか。  晩年には最盛期に比べて作曲活動も不活発になっているが、これは体調の影響もあるだろう。ダイエットと禁酒(むりなら減酒)による体重減量に加えて、現代であればマウスピースや経鼻的持続陽圧呼吸療法(Continuous Positive Airway Pressure:CPAP[シーパップ]療法)で治療できたのではないかと思うと残念である。(文/早川 智) ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2019/08/04 11:30
さんまと松本人志 過去の“遺恨”水に流し共闘はあるのか?
藤原三星 藤原三星
さんまと松本人志 過去の“遺恨”水に流し共闘はあるのか?
吉本のツートップの連携はあるのか? 明石家さんま(左)と松本人志 (c)朝日新聞社  お笑い界の巨人・吉本興業を根幹から揺るがす騒動へと発展した闇営業問題。吉本から契約を解除された雨上がり決死隊の宮迫博之(49)が、ロンドンブーツ1号2号の田村亮(47)とともに事務所を通さず臨んだ“手作りの謝罪会見”は世間の注目を集め、彼らの涙に心を打たれた人も多かった。  その2日後に行われた吉本興業の岡本昭彦社長(53)による5時間半にも及ぶ記者会見は、「何を言いたいのかわかりづらい」「パワハラの言い訳が苦しい」など世間から大不評。同日、吉本興業は宮迫の「契約解除の解除」を決めたため、一夜にして形勢逆転となった。  6000人もの芸人を擁する吉本興業の大規模な“お家騒動”は混迷を極め、明石家さんま(64)や松本人志(55)は記者会見後の宮迫を完全擁護。個人事務所を持つさんまは「(宮迫が吉本をやめるなら)うちの事務所にほしい」と発言し。松本は7月28日に放送された「ワイドナショー」で「(会社が変わらないんだったら)僕が全員芸人を連れて吉本を出ますわ」とまでコメント。  宮迫はさんまと松本という、吉本を代表する売れっ子芸人を味方につけることにも成功したわけだが、「さんまさんと松本さんが共闘するなんて、時代の流れを感じる」と語るのは、関西で古くからお笑い番組に携わってきた制作会社のディレクターだ。 ■今田をめぐる、さんまと松本の因縁 「そもそも、さんまさんと松本さんは長らく仲が悪かったのです。ふたりの仲が悪くなった事の発端と言われているのは、1995年にフジテレビで放送された『生さんま みんなでイイ気持ち!』を立ち上げたとき。90分の生放送で、フジテレビが社運を賭けて相当な予算を投じたバラエティ番組でした。当時、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)で人気が出始めていた頃の今田耕司さんをさんまさんが共演者に指名したのですが、これに対して松本さんが激怒したんです。松本さんにしてみれば、『俺が大阪から連れてきて有名にした今田を、なんでさんま兄やんに獲られなあかんねん』という思いがあったんでしょう。結果、今田さんの大抜擢は幻に終わり、代わりに入ったのが当時SMAPとして人気急上昇中だった中居(正広)さんだった。番組自体は低視聴率のため7回でさんまさんが降板、あえなく打ち切りになりましたが、奇しくも中居くんとさんまさんの蜜月の関係は、この番組がきっかけとなって生まれることになったんです」 「ごっつ~」をやってた当時の松本は血気盛んで、同じような問題がいくつもあり、業界内でもよく噂になっていたという。1995年といえば、松本は「遺書」で250万部の大ベストセラーを放っていた頃。相手がさんまだとはいえ、さすがに当時の吉本上層部も松本の言うがままだったのだろう。  業界では公然の事実として知られていたさんまと松本の不仲説。松本自身も現在放送中のレギュラー番組「ダウンタウンなう」で、ゲストの出川哲朗にさんまとの関係を尋ねられた際、「(さんまさんは)俺にはちゃんとからんでくれない」と寂しげに語る一幕もあった。 「松本さんはああ見えて礼儀正しい人ですから、さんまさんを先輩としてちゃんと敬意を持ってはいます。“お笑い怪獣”と形容されるようにブルドーザーの如くすべてをなぎ倒していくスタイルのさんまさんと、どんな番組でも緻密な笑いを構築する松本さんでは芸人としてのスタイルが違いすぎるため、松本さんは先輩を立てて『俺にはちゃんと絡んでくれない』というコメントになったのではないでしょうか。実際、松本さんとさんまさんの共演は極めて少ないのですが、それは吉本上層部やテレビ局の忖度もあったのではないかと思います」(前出のディレクター) ■宮迫はどちらを選ぶのか  とはいえ、今田耕司や宮迫博之など、“松本チルドレン”と言われ続けてきた人気芸人とさんまが共演することはたしかに多い。在阪の某放送作家は次のように語る。 「松本さんは大阪時代からともに笑いを作ってきた今田さんや、東京に出てきたけどまったく仕事がなかった宮迫さんに数々のチャンスを与え、彼らを売れっ子芸人まで引き上げたという自負は強いはず。だから、さんまさんが自身の番組のレギュラーとして今田さんや宮迫さんを今でもキャスティングしたがることについて、『横取りすんな』という思いが絶対あると思います。その点において、松本さんとさんまさんの足並みがそろうことはまずない。しかし、今は吉本興業存続の危機にまで話が及んでいるし、岡本社長にパワハラまで受けた宮迫さんが不憫なため共闘することになった、という感じではないでしょうか。ただ、先日の記者会見で『引退は考えてない』とコメントしていた宮迫さんがもしこのまま吉本をやめてしまったら、さんまさんを選ぶか松本さんを選ぶかで、また新たな火種が起こりそうな気もしますが……」  あの記者会見からすでに2週間。宮迫の進退はどのような結論を見出すのか。TVウオッチャーの中村裕一氏は次のように推測する。 「現時点で宮迫さんの進退についてはまったく予測できませんが、疑惑の渦中でゲリラ的に行ったあの謝罪会見によって、世論が一気に同情へと傾いたことは事実です。そんな彼をめぐって、さんまさんと松本さんという人気・実力ともにトップの2人が立ち上がり、行動を起こしたことについて宮迫さんも相当胸を打たれたと思います。それと同時に、老若男女に笑いを届けるはずのお笑い芸人が涙を流して謝罪する、あのような悲劇は今後二度と起こって欲しくないという人は多いでしょう。かつては対立構造にあったとされるさんまさんと松本さんですが、2人の愛する『お笑い』の未曾有のピンチに、居ても立ってもいられなかったのだと思います。同じ目的のために尽力している2人の姿を見ていると、やはり笑いの力は素晴らしいと改めて感じます。もちろんまだ予断を許さない状況が続きますが、良い結末になることを心から願っています」  過去の遺恨も含め、いま吉本興業を取り巻く重要人物たちが激変の時期を迎えているのは間違いないのかもしれない。(藤原三星)
dot. 2019/08/04 11:30
吉本・岡本社長の「0点」会見から学ぶ 妻に離婚迫られた40代夫も陥った"反省演出"の問題点
西澤寿樹 西澤寿樹
吉本・岡本社長の「0点」会見から学ぶ 妻に離婚迫られた40代夫も陥った"反省演出"の問題点
「大いに反省しなければならないこと」という言葉の裏に隠された本音とは? ※写真はイメージです (GettyImages)  社長登場で一件落着となるはずが、新たな火種になってしまった。吉本興業に所属する芸人が反社会的勢力から金銭を受け取った"闇営業"問題で、岡本昭彦社長の5時間半に及んだ記者会見は「何が言いたいのかわからない」などと批判され、ダウンタウンの松本人志さんは「0点」と酷評した。事態はいまだ収束できていない。  カップルカウンセラーの西澤寿樹さんは、この会見について「夫婦カウンセリングでよく目の当たりにする光景のようだ」と指摘する。夫婦間で起きがちな問題を紐解く本連載、今回は「反省」について解説する。 *  *  *  吉本興業の岡本昭彦社長会見が批判されています。ことの是非は別として、苦しい時に記者会見をするのはなかなかハードなことだと思いますが、その内容はなんだか私が日ごろのカウンセリングでよくお聞きする話のデジャブのようにも聞こえました。  岡本社長と同じ状況に陥る人はほとんどいないかもしれませんが、人は、同じような心理的状況になれば同じような反応をするものです。ふと思い出したのは、40代の営業職、海斗さん(仮名)のケースでした。  海斗さんはある日、妻の桃花さん(仮名、50代・事務職)に離婚を切り出されました。桃花さんの話によれば、結婚後、年末年始に行くのは夫の実家ばかりで、自分の実家に一緒に行ったことはないのだそうです。年末年始以外に一緒に行く計画を立てても2回に1回ぐらいは、海斗さんに「急な仕事」ができて、行けなくなってしまいます。それはもちろん一例で、何かにつけ桃花さんの要望が通ることはなかったそうです。  中でも一番つらかったのは、妊娠中の体調不良があまりにつらかった日、 「今日だけは早く帰ってきて」 とお願いしたのに、酔っぱらって夜中に帰ってきたことだそうです。  以前は喧嘩にもなったけれど、 「仕事なんだから仕方ないだろ」 「そんなに言うなら、離婚するしかないな」 などと言われて、結局は我慢せざるを得なくなり、近年は言わなくなっていたそうです。しかし、キャバクラの女性と親しげなLINEをしているのを大学生の娘が見つけてしまい、事態は一転しました。 「お母さん、もう我慢しなくていいから、離婚しなよ」 という娘の言葉で、桃花さんは我慢してきた力が抜けてしまったそうです。  そんな話に対して、海斗さんは、 「自分が反省しなければならないことは真摯に反省していかなければならないと思っています」 とおっしゃいました。  これは、岡本社長が記者会見で「大いに反省しなければならないことだと考えております」とおっしゃった言葉ととてもよく似ています。  これらの発言の突っ込みどころはいくつかありますが、その一つは、反省しないといけないと「思っている」「考えている」だけで、現に今、反省しているわけではないという点です。もっというと、「反省しなければならない」というのは、「反省したくない」という気持ちの反映です。自分がやりたいことに対しては、「〇〇しなければならない」とは言わないはずです。揚げ足をとっているように聞こえるかもしれませんが、聞いた相手が、意識的には「反省しようとしているんだな」と前向きにとらえたとしても、無意識には裏の意味を受け取る可能性が高いので、重要なポイントです。  カウンセリングで、こういうことを指摘すると、 「言い方がよくなかった」 「誤解を招く言い方だった」 とおっしゃる人がいます。これは「反省」という実態はあるけど、言い方がうまくいってないという主張ですが、実は反省していないという実態を本人が認めていないので、これ以上反省が深まることはあり得ません。  岡本社長の会見に対して、「(全体として)社長が何を言いたいのかわからない」という批判がありましたが、その時点で何をどう反省しているのか、反省とは何をどう変えることなのかを明確にできていないのであれば、反省しなければと「思っているだけ」という指摘はあながち外れていないと思います。もちろん、ショッキングなことを突きつけられてすぐ100%の反省ができる人はいないと思いますので、現時点では自分は起こってしまったことをこう理解して、こう感じている、と明確化することが、「反省」なのだと思います。  海斗さんに、カウンセリングに期待するものをお聞きしたところ、 「こんなことをしてしまって言える立場ではないけれど、お互いにとって、ベストな解決策を初心に帰って見つけていきたい」 とおっしゃいました。これもまた、なかなかトリッキーな言葉です。  吉本興業の社長も、「最善の解決策を一から考えていきたいと思います」と、似たようなことをおっしゃっていました。 「みつけていきたい」だけ、「考えていきたい」だけだという前出の突っ込みを横に置けば、次に引っかかるのは、誰にとっての「ベスト」「最善」な「解決」なのかです。海斗さんに 「仮に桃花さんにとっての最善が離婚することだったら、それでもいいということですか?」 とお聞きすると、 「それしかないということならそれで仕方ないですけど……。そうならないように最善の努力をしたいと思ってここにきています」 とおっしゃいます。つまり、桃花さん(だけ)の最善ではだめだということです。そうだとしたら、「2人それぞれの最善が一致する、という偶然に恵まれたい」と言っているだけで、そうでない現実からすると夢物語なのです。  岡本社長も、誰にとっての最善なのかを明示していませんでした。所属タレントはどうあれ「吉本興業にとっての最善の解決策」を見つけようとしているというようにも聞こえます。まあ、それは社長なのですから当然といえば当然ですが、そうであれば「芸人・タレントファースト」という言葉はむなしく響きます。  さらにいえば、そもそも「解決」というのは、「問題」があるから解決が必要なわけです。そこで「何が問題なのか」が共有されているのかは大きな問題です。  海斗さんにとっては「妻が離婚したいと言っていること」が問題のように私には聞こえました。吉本興業の社長にとっての問題は「マスコミが会社(または自分)の対応を批判すること」かもしれません。  問題をそう捉えたら、建設的な「解決」には至らないのは、火を見るのも明らかです。つまり、海斗さんだったら「どう離婚しないように説得するか」が対応の焦点になります。その対応にずっと我慢してきた桃花さんが今回は自ら離婚だ、と言っているわけですから、その手はもう効果がないはずなのです。  しかし、海斗さんや岡本社長のように問題をとらえてしまう人は少なくありません。そもそも、それが自分を防衛するという意味では人間の自然な反応だとも思います。  吉本興業の所属タレントさん達も、社長の発言を批判する一方で、吉本に育ててもらったとも言っています。そのようにある種矛盾した気持ちが同居しているのはタレントさん達も苦しいと思います。  別れたいと言い出した桃花さんも同じです。いろいろな気持ちがあったはずです。しかし、人は矛盾する気持ちがあるとき、一方の気持ちを抑え込まれると、その反対側の気持ちが大きくなりがちです。いろんな気持ちがあったのに、最後は「誰が稼いでいると思っているんだ」と言われて我慢させられて「一件落着」になってしまうたびに、桃花さんの反発は大きくなっていったわけです。  吉本興業の一連の騒動は、成り行き次第では一部の芸人さん達が契約解除になって終わってしまったかもしれませんが、何人かが勇気を持って行動したおかげで事態は違う方向に動きだしました。  夫婦の場合は、長年かけて出来てしまった力関係が、2人が本音で関われる親密な関係の邪魔をします。親密さと権力構造は相反するものだからです。2人の関係のどの程度が権力関係で、どの程度が愛情関係なのか、それぞれの認識を一度話してみるのもよいと思います。自分と相手の認識が違ったら、夫婦のきずなを深めるために話し合うチャンスととらえたらうまくいくと思います。(文/西澤寿樹) ※事例は、事実をもとに再構成しています
夫婦結婚離婚
dot. 2019/08/04 11:30
「Hi、ヒキコモリ!」世界の部屋をつなぐネットワーク 57歳のひきこもり当事者が発信する理由
「Hi、ヒキコモリ!」世界の部屋をつなぐネットワーク 57歳のひきこもり当事者が発信する理由
海外のひきこもり当事者の取材を続けるぼそっと池井多さん(撮影/金城珠代) フランス人のひきこもり女性、テルリエンヌ(38)の食事(テルリエンヌさん提供) 「ひきこもりになんて、なりたくなかった」  14歳からひきこもり状態が続くフランス人女性(38)の願いは結婚して就職し、家を買い、勉強を再開させることだ。しかし直後には、こうも漏らした。 「そう望むのには、もう遅いのかもしれない……」  外に出ようともがくたびに、部屋から出られなくなる。その繰り返しだった。職業訓練を受けたり、自分で仕事を見つけて内定をもらったこともあったが、最終的には辞退した。親に責められ、何日も風呂に入らずに過ごすこともあった。30歳を目前に一人暮らしを始めてからは、3週間に一度、ソーシャルワーカーと日用品を買いに行く以外はほとんど外出しない日が続いている。  食事の中心はインスタント麺。生活サイクルは不規則で、1日中パソコンの前に座っているため「背中が痛い」のが目下の悩みだ。マンガやアニメが好きな自称「オタク」。それでも、他人とやり取りしなければいけないオンラインゲームは避けている。ひきこもるようになったのは学校でのいじめやアルコール依存の母の存在、父の暴力などいくつもの苦しさが重なった結果だった。うつ病の治療を続けながら、いまも理想と現実の間でもがいている。  アルゼンチンに住む男性(27)は中学2年生のころ、いじめを受けて不登校になり、以降14年間どこにも出かけられなくなって「一生ひきこもりを続ける」と宣言している。フィリピンに住む別の男性(33)は母親の希望で入った国立大学経済学部を卒業後、約10年間のひきこもり状態が続き「外に出かけるのがどんなに辛いかを親はまったく理解していない」と訴えた。  ほかにもアメリカやイタリア、バングラディッシュなどから取材に応じる彼らはみな、自身を「ひきこもり」と認める。いまや「hikikomori(ヒキコモリ)」は世界共通語だ。彼らを取材し、ひきこもり当事者によるメディア「ひきポス」で発信しているのは、自身も23歳から34年間、断続的にひきこもり状態が続くぼそっと池井多さん(活動名、57歳)。インタビューは英語やフランス語のほか6カ国語で配信されている。  国内の当事者向けイベントを主催してきた池井多さんは、2016年にフランスの当事者団体「ヒキコモリ フランス」を知り、自ら入会して取材を開始。翌年には「GHO(世界ひきこもり機構)」を設立し、フェイスブック上の会員は現在約290人にのぼる。先日、ニュージーランドのメンバーが「Hi、ヒキコモリ! どこに住んでる?」と問いかけると、イタリア、フランス、レユニオン島、スロバキア、インドネシアなど世界各地から声が上がった。インターネットを通して、日々の出来事や感じたことをシェアしたり、情報交換したりと交流が広がっている。  池井多さんが世界のひきこもりに関心を持つようになったきっかけは、20代のころにさかのぼる。家族との関係が悪化して日本を飛び出し、海外の安宿にこもる「外こもり」状態になっていたとき、南アフリカ・ケープタウンで同じドミトリーに長期滞在していた同じ年のイタリア人男性、ジョゼッペと知り合った。まだひきこもりという言葉が登場していない1980年代。こじれた家族関係に苦しみ、就学や就職をせず、長い間社会との接触を避けているなど、2人の共通点は多かった。後にイタリアの自宅を訪ねると、彼の友人にも同じような状況の人たちがいることを知った。  日本で「ひきこもり」という現象が広く知られるようになったのは、それから20年後の2000年代だ。 「当時、『ひきこもりは日本社会の産物』というのが定説でしたが、私は海外にもいると確信していました。専門家の見解はその後、カトリックや儒教の地域に多い、裕福な先進国に多いなどと変化していきましたが、いずれも私のインタビューによって反証されているのではないでしょうか。彼らの話を聞けば、一つの国の文化や社会状況がひきこもりを生み出しているわけではないことが理解できると思います」(池井多さん)  池井多さんは30代のころ、外こもり中のアフリカで経験したことを綴った作品でジャーナリズム賞を受け、一時は国際ジャーナリストとして働いた経験もある。とは言っても、今は自身も取材相手も遠く離れた場所でひきこもる身。取材は特有の苦労を伴うという。  池井多さん自身もそうだが、当事者には電話が苦手な人が多いため、取材は主にチャット形式。言語は基本的に英語。取材を終えて編集し、改めて配信許可を得るころには、相手がネット上から姿を消していたり、気が変わっていたりして、「配信できるのはインタビューしたものの2~3割」だという。だが、当事者同士だからこそ本人も言葉にできないような感覚を汲み取っていくケースもある。 「ひきこもりでいることが大好き。毎日、部屋の中で決して飽きることがない」と語っていたフランス人男性・ギード(22)は、対話を重ねていくうち言葉が変化していった。 「社会の中に自分の居場所を獲得したかった。(中略)ぼくがひきこもったのは、社会がそこまで苦労して適応するに値しない空っぽの世界だという認識に至ったからだ」  最終的にはそう本音を語った。生まれつきの運動障害からいじめを受け、対人恐怖になった彼は、11歳で外出できなくなっていた。 「ひきこもりになった経緯や状況は一人ひとり違いますが、傾向として日本では母子関係のこじれや父親の不在など家族関係が背景にあるものです。その点、ヨーロッパ諸国では『外出するとテロに遭うのではないか』といった社会不安がひきこもりの原因になっているケースをよく聞きます。ギードのように母子関係が良好で、親が子どものひきこもりを受け容れている家庭も少なくありません。しかしイタリアなど南部へ行くと、ヨーロッパでも日本によくある密着した母子関係が多くなってくるようです」(池井多さん)  日本の当事者の間では「親の目に触れずにいつトイレや風呂に行くか」という問題が語られるが、南米など人口密度が低く家屋が広い地域では、富裕層でなくても自分の部屋にバスルームがついているので、その問題自体が無いこともある。逆に貧しくて自分の部屋がないというフィリピンの当事者は「親兄弟が自分を悪く言う声を四六時中、耳元で聞かされている」と大きなストレスを抱えていた。先進国と違い、途上国では社会保障制度が未熟なため、生き残りを福祉に頼るという選択肢が初めから無いという違いもある。  しかし、昼夜逆転しがちで何日も風呂に入らなかったり、主食は買いだめしたインスタント麺だったり、共通の話題も見えてくる。特に「これを知らなきゃひきこもりじゃない、というぐらい爆発的人気」(池井多さん)となっている日本アニメがあるらしい。それは、ひきこもりを題材にしたマンガ『NHKにようこそ!』(「月刊少年エース」で2004年から連載)のアニメ版で、07年から英語、中国語、フランス語などおよそ6カ語に翻訳され海外で公開され、担当者によると「原作とともに、特に欧米で人気がある」という。 「イタリアは2年前、フランスでは昨年、大手メディアが国内のひきこもりについて報じ『ひきこもり元年』と呼べる変化がありました。その後、イタリアでは翌年に関係者が集まる全国大会が初めて開かれ、家族による誤解や社会からの偏見などが議論されたそうです。いわゆる“引き出し屋”に関する議論も行われているそうで、日本が数年前に経験してきたような状況になっています」  約20年前に家族会の全国組織ができ、いまや国が実態把握を進めガイドラインをつくる日本の現状は、課題はあれど“先進的”とも言えるだろう。日本の社会がひきこもり問題とどう向き合うのか、世界が注目している。(AERA dot.編集部・金城珠代)
dot. 2019/08/04 08:00
休養の名倉潤が患ったヘルニア 経験した記者が語る激痛「一晩中うめき、術前にうつ気味に」
休養の名倉潤が患ったヘルニア 経験した記者が語る激痛「一晩中うめき、術前にうつ気味に」
ネプチューンの名倉潤(中央)(c)朝日新聞社  お笑いトリオ・ネプチューンの名倉潤さん(50)が、2カ月の休養を発表した。昨年6月にあった頸椎椎間板ヘルニアの手術の「侵襲」が原因のうつ病という。  実は、記者(44)も2年前に腰椎の椎間板ヘルニアを経験した。その際、自身のヘルニアが原因で、夫婦そろってうつになりかけた経験がある。あまりにもヘルニアの痛みがつらかったからだ。痛みを和らげようと過度に飲酒し、それでも眠れず、一晩中うめいていた。  もともと腰痛持ちで、20代のころから数年に1回くらい激しい腰痛に悩まされる時期があった。取材で写真を撮ろうと身をかがめ、ぎっくり腰になったこともある。2年前の腰痛のきっかけは、先輩記者たちとの花見だったように思う。10代から運動をほとんどしたことがなく、体が固い。体重も20歳のころより15キロほど増えた。あぐらが苦手で地べたに座るだけで苦痛を感じるのに、その日、何時間も地べたに座り続けた。直後から腰の調子が悪くなったのだ。    だましだまし働き、九州の豪雨の災害現場にも取材に行った。近所の複数の整形外科医院にも行っていたが、椎間板ヘルニアの診断がつくまでの検査をしなかった。閉所が苦手で、MRIを避けていたこともある。たまに、腰を温める治療を受ける程度だった。  夏ごろになって、本格的に痛みが出始めた。左臀部と左下肢の痛みが特に強い。職場のあった福岡県内の専門病院「総合せき損センター」に駆け込み、X線を撮ると、医師にこう言われた。 「椎間板ヘルニアでしょう。自然に痛みがなくなる可能性もあるので、しばらく薬で様子をみましょう」  投薬治療を始めたがあまり効果はなく、MRI検査をし、手術が決まった。見せてもらった写真で、椎間板ががっつり神経を圧迫していることがわかった。  この時点で痛みは耐えがたいほどで、仕事にも支障が出ていた。取材は家から電話で行う。自分で靴下をはけないし、一度横になったら自力で起き上がることもできない。「大げさ」と言われるかもしれないが、涙が出る晩もあった。  気もめいった。アルコールを入れると痛みが和らぐ気がしたため、夜はワインや焼酎をたくさん飲んだ。だが、酔っていても、痛みのため十分に眠れず、すぐに起きてしまう。一晩中うめいていたから、妻も眠れなかった。  手術の数日前の深夜、体が硬直して動けなくなり、救急車を呼んだ。通院していた病院とは別の近所の病院に運ばれた。搬送先の病院でモルヒネを渡され、「痛いときに飲んでください」と言われた。翌朝まで1時間おきにいくつも飲んだが、効かない。  数日後の手術は、腰から内視鏡を入れて、神経を圧迫している組織を取り除くというもの。手術前は、不安もあった。「ヘルニアは再発することがある」と聞かされていたからだ。「2度目の手術はやりにくい」という話を聞いたこともあった。  幸い、記者の場合、手術後、痛みはうそのように取れた。内視鏡を入れた辺りに突っ張る感覚がしばらくはあり、腰をかばうように生活した。が、その後の経過は順調で、指示されていた腰痛予防体操もサボりがちになった。  改めて、記者が手術した総合せき損センター院長代理の前田健医師にヘルニアについて話を聞いた。 「ヘルニアの原因については、事故などの外傷を伴って発症することはまれにありますが、通常は加齢による椎間板の変化がベースにあります」  前田医師によると、手術をしても場合によっては痛みやしびれがすべて取り切れずに残るケースもあるという。  名倉さん休養のニュースを受け、手術前後のストレスでうつになるのか? と、疑問に思う人も多いかもしれない。だが、ヘルニアの痛みによるストレスがあまりに大きいことは想像に難くない。記者のように、痛みが過度な飲酒や不眠を誘発したケースもある。手術前は、「この痛みが一生続いたらどうしよう」と不安になり、気持ちが安定しなかった。  昨年6月、再び腰に痛みを感じた。それを伝えると、妻はひどく動揺した。 「またあの生活がはじまるの……?」  再発したら、あの辛さをまた経験することになるのか――。その恐怖から、水泳と腰痛予防の体操を始めた。  今も左臀部の違和感や、左下肢のちょっとしたしびれを感じることがある。「もしかしたら、ヘルニアが残っているのか」と心配になる。水泳と体操で腰回りの筋肉の維持に努めている。(編集部・小田健司) ※AERAオンライン限定
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AERA 2019/08/02 19:37
明るい老犬介護とは?~ワンちゃんへの恩返し~
明るい老犬介護とは?~ワンちゃんへの恩返し~
いつも私たち飼い主を癒してくれているワンちゃんたち。 真夏のこの時季は毎日のお散歩が少し心配ですが、日々のお散歩はもちろんのこと、時には一緒にお出かけを楽しんだり、飼い主に元気がない時は、そっと寄り添って元気をくれる愛しい存在です。 そんなワンちゃんたちも年齢を重ねると、いつかは介助や介護が必要な時がやってきます。今回はちょっとした工夫と心がまえで、前向きにお世話ができるよういくつかポイントをご紹介します。 暑さに弱いワンちゃんたちにとっても、つらい時季になりましたので、お散歩の時は保冷剤を包んだバンダナをワンちゃんの首に巻くなど、暑さ対策をしながらこの夏を乗りきってくださいね。ワンちゃんをお留守番させる際は、室内温度のチェックを忘れずに! 大型犬の介護は体力勝負 ワンちゃんの体の大きさによっては、介護の負担もだいぶ違ってきます。 チワワやトイプードルなどの小型犬と比べると、柴犬などの中型犬や特に大型犬の介護は飼い主さんの体力勝負となります。 ワンちゃんが高齢になると、多くが後ろ脚から弱っていきます。思うように歩けなかったり、自力で立てなくなった時、脚の弱った中型犬や大型犬の体を、飼い主が腰をかがめて支えたり、抱きかかえることはとても大変です。 そのような時は、歩行補助ができる持ち手が付いたハーネスをワンちゃんに着用させてもいいでしょうし、最近はお散歩カートや車椅子などいろいろありますので、事前に調べておくと安心かもしれませんね。大型犬を家族に……と思った時は、将来のことも考えて迎えましょう! ワンちゃんたちは大切な家族の一員 ワンちゃんが高齢になってお世話が大変になってきた時、信じられないことに長年家族として暮らしてきたワンちゃんを見捨て、保健所や動物愛護センターに持ち込む人も少なくありません。それは絶対にしてはいけないことです。 飼い主さんの急病でどうしてもワンちゃんのお世話が難しくなってしまった…… 仕事の都合で昼間のお世話ができない…… ワンちゃんの介護疲れで体調を崩してしまった……など ワンちゃんのお世話ができなくなるさまざまな状況が起こらないとは限りません。 さらに、ワンちゃんの体のケアや、夜鳴きや夜間のお世話で寝不足が続いたりすれば、飼い主の心が折れてしまうこともあります。それは介護期間が長くなればなるほど起こり得ることといえます。 そんな時には、代わりにお世話をしてくれる「老犬ホーム」を利用する方法もあります。 そうした施設では短時間・短期間、状況によっては長期でお世話をしてもらうことも可能で、その際は面会に訪れることもできますし、あるいは、自宅で介護をする場合の介護方法のアドバイスをしてくれるところもあります。 多くの飼い主さんは、愛しいわが子のお世話は最期まで自分でやりたい、ずっと一緒にいたいと思っているはずなので、老犬ホームに「預ける」という選択をせざるをえない飼い主さんには葛藤もあると思います。 でも、体力的・精神的にどうしてもつらい時は、介護のプロにお願いするという選択もあっていいのではないでしょうか。頑張りすぎず、時には息抜きをすることも、とても大切ですから。介護は「息抜き」することも大切! 工夫をして、ともに快適に過ごす 「どこか今までと違うな」とワンちゃんの体に異変を感じたら、まずは動物病院で病気がないかを調べてもらい、その原因が老化によるものだとわかったら、さまざまなケアが必要になってきます。 たとえば… ●ワンちゃんがまだなんとか自力で歩けるうちは、ケガがないように必要であれば部屋のレイアウトを変更し、フローリングにはカーペットや滑りにくいマットなどを敷いて、少しでも歩きやすいように工夫してあげる ●老犬になると寝ている時間が長くなるので、床ずれを防ぐ体圧分散マットなどを使い、寝心地のよいベッドを作ってあげる ●脚の筋力はあっという間に衰えてしまうので、自力で歩けるうちはできるだけ散歩に出かける(歩けなくなっても、お散歩カートなどを使用して、外の空気に触れさせてあげる)体が沈み込んでしまう低反発マットよりも、高反発マットを選びましょう! 老犬介護は神様からの贈り物の時間 介護というと、愛しいわが子の老いに直面し、つらく悲しいものだと思いがちですが、決してつらいことばかりではありません。若い頃はヤンチャだった性格も、高齢になると穏やかになる場合が多く、その優しい顔も、安心した寝顔も、そのすべてが愛しく、お世話が大変になればなるほど、飼い主は必要とされる幸せを実感します。 試行錯誤を繰り返しながら、スムーズにお世話ができるようになった時の喜びもひとしおです。 介護とは、これまで私たち飼い主をたくさん癒して楽しませてくれた、ワンちゃんたちへの「恩返しをする時間」だと思うのです。 老犬の介護をしていると、明日、1週間後、1か月後、半年後はどんな状況になっているだろう……と、先の不安を抱えながらつい悲観してしまいますが、ワンちゃんたちはそんな心配はしておらず「今」を生きています。 もちろん日々のお世話は大変なこともたくさんあるかもしれませんが、飼い主さんがいつも笑顔でいてくれたら、ワンちゃんたちはきっと安心して毎日を過ごせるはずです。 介護が必要な時がきたら、介護ができる幸せをかみしめながら、そのかけがえのない時間を大切にワンちゃんと過ごしてくださいね。介護に後悔はつきもの! 試行錯誤を繰り返しながら、前向きにお世話を楽しんで!
tenki.jp 2019/08/02 00:00
【現代の肖像】NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事・永井陽右 ソマリア紛争問題を解決に導く27歳  <AERA連載>
【現代の肖像】NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事・永井陽右 ソマリア紛争問題を解決に導く27歳 <AERA連載>
テロリストの「脱過激化」で紛争を解決する。僕の前に道はない。だから疾走する価値がある(撮影/篠田英美) 人は生まれる場所を選べない。もしも自分がソマリアに生まれていたら……と考えれば、人間としての最低限の「権利」は守られるべきだろう。「身内だから助けるって感覚とは違います。人権ですよね」と永井(撮影/篠田英美) 最近、自宅で飼い始めた愛猫、「ポコ」と。もともと少年時代は「ランちゃん」という柴犬をこよなく可愛がっていたのだが、猫派に転向か。猫の気ままさに手を焼いている(撮影/篠田英美) 東京都内の移動には、けっこう自転車を使う。アフリカから帰国すると、疲労の蓄積で、しばしば発熱する(撮影/篠田英美) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  ソマリアは今でもテロが頻発し、多くの人間の命が奪われている。治安の悪さに、他国も簡単には手を差し伸べられない。解決できるのはクソな大人じゃない、俺たちなんだと、そんな国の紛争問題に取り組むのが永井陽右。ギャングと腹を割って話し合い、受け入れ、その上でどうすれば社会を変えられるのか考える。敵はギャングではないはずだ。  アフリカ大陸の東端、インド洋に突き出た半島国「ソマリア」は、テロの暴風が吹き荒れている。2017年10月にイスラム過激派組織アル・シャバーブが爆弾を積んだ自動車を繁華街で爆発させ、500人以上が亡くなった。米メリーランド大学の調査では、17年に同国内で614回テロが発生し、1912人が死亡している。和平は遠い。  外国人の誘拐も頻発し、人道援助で名高い「国境なき医師団」でさえ多くのスタッフを殺されて退去したままだ。外務省は全土を危険度レベル4とし、退避勧告している。国際社会は遠巻きに殺戮の嵐を眺めている。貧しい辺境の国、ソマリア。  今年4月下旬、永井陽右(27)は、そのソマリアの首都、モガディシオにいた。国連とアフリカ連合の共同管理地域「コンパウンド」でソマリア政府職員や現地関係者と折衝を重ねていた。コンパウンドにもときどき迫撃砲が撃ちこまれる。  NPO法人アクセプト・インターナショナルの代表理事を務める永井の仕事は、アル・シャバーブからの投降兵を「脱過激化」し、社会復帰に導くことである。元テロリストが過激思想から脱却し、地域コミュニティーと関係を結び、経済的、社会的に自立できるように誘う。今夏にはソマリア政府と協働で施設を開き、DRR(De-radicalization・Reinsertion・Reintegration)と呼ぶプロジェクトを開始する。  それにしてもイスラム教徒でもない日本の若者が、どうやってテロリズムに染まった人間の「心」を動かし、社会との接点を築こうというのか。 ●問題の提起よりも解決する方が重要だ  ソマリアへ発つ前、永井はこう語った。 「なぜテロ組織に入ったのか。本人と腹を割って話し合います。同世代の若者として問題意識を傾聴し、こう訊きます。『テロで状況が変わった? 組織に入って何か変わったの?』。これがキラークエスチョン。彼らは欧米も国連も、政府もクソだ、同胞を殺したと怒りをぶちまける。その怒りに寄り添うのです。だったらクソじゃない僕らが一緒に社会を変えよう、と受け入れる。フラットに向き合うわれわれは何の利害関係もなく、丸腰だから対話ができます」 「アクセプト」=受け入れが出発点なのだ。投降兵はDRR施設の職業訓練で手に職をつける。往々にして国連や他のNGOの取り組みはそこで終わるが、溶接や縫製を覚えても簡単に職が見つかるわけではない。巷には失業者があふれている。まして元テロリストだ。さぁ、これからと膨らませた希望が潰え、テロ組織に戻るケースもある。 「職に就けず、何だ、話が違うと幻滅してテロにUターンさせてはいけない。そこが勝負です。前もって投降兵には社会に出ても差別や偏見がつきまとうと明確に言います。そのうえで就労の過程を緻密に検討して彼らの視座を増やす。幻滅させてはいけません。厳しい現実への抵抗力が必要です」  話を聞きながら、私は投降兵を受刑者や虐待加害者に置き換えれば日本でも応用できるのではないか、と思った。再犯を防いだり、虐待を減らすには他人に危害を加える心と行動を変えなくてはならない。永井の関わり方は普遍的だ。  しかし……テロの根は深く広く張っている。  4月中旬、ケニアとソマリアの国境地域マンデラで2人のキューバ人医師が誘拐され、永井も参加予定だったテロ化予防青年センターの開所式が延期された。医師の消息は不明だ。永井がソマリアに着いて間もなく、スリランカで連続爆破テロが発生し、「イスラム国」の悪夢が甦った。現地での活動に影響はないか、とメールで問うと、こんな返信がきた。 「直接的影響はありません。世界中どこでもテロが起きる。ソマリアは和平合意もなく、テロ組織が極めて活発なので(投降兵を)信頼しようがないというのが人びとの本音。どうにかしようと奔走しています。初志貫徹でベストを尽くします」  永井は常々、ニーズに応じて動く、問題の提起よりも解決が重要だ、と説く。ときには「テロの被害者を支援しろ」と批判も浴びる。だが加害者がいる限り、紛争はなくならない。精神の武装解除に全身全霊を傾ける。この新しい突破力は、いかにして育まれたのだろうか。新時代の到来を感じさせる若者の肖像を描いてみよう。   ●ケニアのイスリー地区へ、恐怖で足が震えた  少年は、無意識のうちに転機を求めていた。  大企業に勤める父と、しっかりものの母の間に生まれた。傍目には恵まれた中流家庭のようだが、内実は違っていた。体罰と反抗的暴力の連鎖を断てず、鬱屈したままエネルギーのはけ口を求めた。少年は悪ガキ集団に入り、弱い者をいじめた。自己中心的で他人は眼中になく、部活のバスケットボールだけが熱中できるものだった。中学時代の偏差値は40前後、3月入試で辛うじて高校に滑り込んだ。  ただ、強い自我は人知れず生き方を探っていた。高校2年の夏、ネットで南太平洋の島国「ツバル」のニュースを見て愕然とした。地球温暖化で海面が上昇して水没の危機に瀕している。壮大な喪失を通して世界の広さを感じ、無数の「他者」が集まって社会ができていると気づいた。  ヒーローものの漫画が好きな少年は、「何とかしなくては」と奮い立つ。「他者のために」と考えて頭に浮かんだのが殴ったり、蹴ったりした相手だった。いじめを謝罪しようと先方の家に足を運ぶが、玄関の呼び鈴を押せなかった。せめていじめられる側に立とう。ここが最初の転機だった。  1浪して早稲田大学教育学部に進むと、1990年代に民族紛争で大虐殺が起きたルワンダを訪ねた。虐殺記念館で割られた頭蓋骨やへし折られた上腕骨を見て、加害者への怒りがこみ上げる。殺された者の「痛み」を思い、暴力を止めよう、最も耐えがたい「痛み」に向き合おうと期した。  ルワンダからの帰途、たまたまケニアの首都ナイロビのソマリア難民・移民が集まる地域に足を踏み入れた。車で案内してくれたケニア人青年は「ここはイスリー地区。テロリストの巣窟だ。ソマリアの過激派組織とつながっている。たむろしているギャングは人を殺す」と言って眉を顰めた。  運命的なソマリアとの出合いだった。ソマリアは、91年に激化した内戦で無政府状態に陥り、国連や多国籍軍の武力介入が混乱を増幅させ、泥沼の様相を呈していた。そこに飢饉が追い打ちをかける。国連は「比類なき人類の悲劇」とソマリアの状況を表現していた。世界で最も耐えがたい「痛み」がそこにあった。  永井は、11年9月、早大のソマリア人留学生2人と「日本ソマリア青年機構」を立ち上げた。手さぐりで活動を始める。平和構築や国際支援の専門家の反応は冷ややかだった。永井が助言を請うと、「素人で知識もなく、英語も喋れないきみには無理だ」「他の国で経験を積んだほうがいい」「ソマリアに行けば死ぬよ」と突き放される。  少数だが永井の背中を押してくれる大人もいた。早大社会科学部で紛争予防や平和構築の講義を行う教授、山田満(63)もそのひとりだった。 「平和構築には武装解除、動員解除、社会復帰がありますが、日本政府は停戦後にアクションを起こします。永井君は違う。紛争状況で先手を打とうとする。私の科目を取る学生は国連や政府機関、PKOで働きたがるけど、彼は既定路線には無関心でした。独立独歩の大望を抱き、社会起業家に近い。戦略もある。国内より先に国際的評価が高まるタイプです」と山田は述懐する。  永井はケニアのNGOと手を携え、ナイロビのイスリー地区のギャング団の脱過激化に焦点を絞った。逃げ込んだケニアでもソマリア人の青少年は爪はじきにされ、貧困の底に押しやられていた。  一部はギャングになり、強盗や殺人、ドラッグの密売に走る。治安の悪化が最大の問題だった。  13年9月、永井はイスリー地区のバスケットボール場に歩み入った。粗末な屋根が細い柱に載っただけの、壁もないコートで仲間とバスケットに興じていると、刺すような視線を向けられた。 「あいつらギャングだよ。関わるな、ヨスケ」と現地の仲間が耳打ちした。  永井は7、8人の一団に近づき、「僕は日本のNGOの代表。ソマリアが大変なので、同年代の僕らで社会を変えよう。一緒にどう?」と名刺を渡した。脱過激化のプロジェクトを説明すると、突然、左目が真っ赤なギャングが立ち上がり、「じゃあ俺の目を治せ。おい治してみろ」と叫んで永井の胸を突いた。その名もレッドアイ。約60人のギャング組織、カリフマッシブのリーダーだった。マリフアナの吸い過ぎで目が充血しているようだ。 「僕は医者でも金持ちでもない。問題を一緒に解決したいだけだ」と永井は睨みつけた。一触即発、ソマリア人青年が取りなし、その場を収めた。コートを出て「ヨスケ、何で名刺なんか渡したんだ。名前も連絡先も覚えられたじゃないか。しばらくイスリーに近づくな」と仲間にたしなめられ、永井は足がガタガタ震えた。ギャング間の抗争で死人が出るのは珍しくなかった。怖さが襲いかかる。  ケニア側のスタッフの尽力で、何とかギャングとの対話セッションが滑りだした。 ●社会を変えるのは僕ら、一緒にヒーローになろう  帰国前に永井は、ソマリアの多国籍治安部隊に勤める男性職員に付き従い、初めてモガディシオに入った。コンパウンド内を視察していると、街の中心部で自爆テロが起きて32人が死亡した。  その夜、夕食のテーブルで男性職員が言った。 「今朝のテロで甥っ子が死んだ。おまえは熱意がある。ソマリアのために働きたいと言ってくれるのは嬉しい。だけど、いまのおまえに何ができる? よく考えろ。何ができるのか」  永井は自分の無力さを痛感し、押し黙った。偉そうなことを言っても何もできない。長い沈黙のあとに腹の底から言葉をしぼり出した。 「最速で、必ずソマリアに戻ってきます。問題の解決に向けて、絶対に価値のあることをします」  紛争解決のプロフェッショナルになろうと覚悟を決めた。2度目の転機であった。  早大を卒業すると、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に修士留学し、紛争研究の傍らギャングの脱過激化に力を注いだ。同世代のよしみは、ときに宗教や習慣を超えた。ともにサッカーボールを蹴り、アニメ「ドラゴンボール」の話で盛り上がる。ギャングたちは、イスラムの長老が「更生」させようと垂れる説教よりも、ヨスケとの本音の話に耳を傾ける。内心、彼らも足を洗いたがっていた。ギャングが訴える。 「俺たちの敵は警官だ。奴らはギャングの一員と見れば問答無用で射殺する。人違いでもお構いなしだ。俺は好きでギャングになったわけじゃない。親もいない、教育も受けさせてもらえなかった。生きていくには金がいる。俺らを悪人だというなら、警察や政府、国連やアメリカのほうが悪人だ。大人はどいつもこいつもクソったれだ」 「じゃあ問題だらけの社会を誰が変えるんだ? 不満を言いながら人から金を巻き上げて、物を盗んで何が変わった? 大人なんてどうでもいいよ。社会を変えるのは僕らでしょ」と永井。うんざりするぐらいに話し合い、ようやくギャングが心を開いた。 「偏見を捨てて俺たちを受け入れてほしい。話を聞いて、職を見つける相談にのってくれないか」 「もちろん。一緒にヒーローになろう」  長い対話の果てに接点が見つかり、アクセプトはギャングを受け入れる。改心したギャングは小学校に出向き、生徒に向かって「俺たちのようにはなるな」と語りかけた。  永井は受け入れたギャングを次の脱過激化プログラムのスタッフに登用した。そうして仲間が仲間を説得し、前述のギャング組織カリフマッシブは17年秋、全員がアクセプトに受け入れられ、解散した。その解散式でかつて永井を挑発したレッドアイは、「俺たちは昨日いた場所に戻る必要はない。この機会を両手で受けとめよう」と言い切った。いまやレッドアイは重要なメンバーの一員だ。  永井の突破力は凄まじい。といっても古い猪突猛進型ではない。永井と親しい雑誌編集長、三根かよこ(32)が語る。 「永井君は死ぬのが怖いってよく言います。一方で、『いま、ここ』の実存を大切にしたい、とも。いま、ここに集中して自分を奮い立たせて怖さを乗りこえるのでしょう。覚悟はそのときすればいいけど、勇気は何度も必要だって。とても繊細です。そのヒリヒリした感じに嘘はないですね」 ●時にギャングの脅迫は現地日本人スタッフにも  現在、永井率いるアクセプト・インターナショナルには約35人の日本人メンバーが所属している。皆、社会人や学生のボランティアだ。活動は事業部ごとに行う。たとえば、資金調達チームは毎週土曜に事務所に集まり、業務に携わる。ケニア、ソマリア、インドネシアのメンバーともチャットのアプリを使って連絡を取り合っている。  組織運営上の課題は、財源の確保だ。18年度の収入は約1500万円だった。今年度は倍増の目標を掲げる。四つのプロジェクトが同時進行しており、企業や個人の寄付が頼りだ。JICA(国際協力機構)から転職してきた事務局長、秋葉光恵(26)は、「ずっと最前線で活動したいので8千万円の予算規模に早く到達したい」と言う。  しなやかな組織を背負って永井は疾走する。ただ、その突破力をしても「政治」の殻を破れないこともある。中国・新疆ウイグル自治区へのアプローチがそうだった。  近年、中国政府はウイグル人の分離・独立運動を警戒し、弾圧を強めた。100万人以上のウイグル人を逮捕し、新疆の収容所で洗脳しているとも伝わる。中国内の抑圧から逃れてトルコや中東を目ざすウイグル人は少なくない。その一部がテロ組織と接触して軍事訓練を受け、経由地のタイやインドネシア、マレーシアでテロを実行する。  内政の弾圧がウイグル人を過激化させ、結果的にテロがアジアに拡散する。永井は源流の新疆で過激化予防事業を展開できないかと調査に赴いた。  ところが、まったく身動きが取れなかった。 「何をしても全部、公安に見られて調査になりません。ウイグル人と喋っていると公安がついてくる。長時間、話をしたら、その人が拘束対象になってしまう。NGOの概念もありませんでした」  と、永井はふり返る。「中国には手を出すな」と止めたのは、恩師の早大教授、山田だった。「調査を続けたら間違いなく刑務所に入れられる。絶対にだめだ」と山田は制した。スパイ容疑で拘束されたら万事休す。永井は方針を変えた。  現場は、いつも揺れ動いている。4月上旬、永井は受け入れたギャングから脅迫されていた。「おまえを殺す」「賄賂を取っているのをばらしてやる」と執拗にチャットで迫ってくる。弱みを見せたらつけ込まれる。「きみのプロファイリングはできている。脅しはきかない。冷静になれ」と応じた。矛先がナイロビの日本人スタッフに向いて青ざめた。活動を止め、スタッフを避難させる。最終的に先輩ギャングが脅迫者をなだめて鎮まった。  永井の新しいストラテジー(戦略)は、「いま、ここ」の間断ない変化に集中しつつ、別の回路で本質を強く意識しているところにある。ソマリアへ飛び立つ前、途方もないことを口にした。 「現実的な対処と並行して、やはりアル・シャバーブとの対話の場をつくるべきです。どんな相手でも、アクセスの方法はあるはず。関われれば交渉の糸口がつかめる。仮にですよ、お金で半年間、停戦合意ができる、となれば悪くはないですね」  重要な情報は現場に潜む。爆発音とどろくモガディシオで永井は紛争解決の根源を見据えている。  (文中敬称略) ■永井陽石 1991年/神奈川県海老名市生まれ。市立海老名中学、私立藤嶺学園藤沢高校でバスケットボールに熱中する。 2008年/ネットで配信された「ツバル」のニュースを見て、世界の広さ、「他者」の存在を認識し、いじめられる側に立とうと決心。 11年/早稲田大学教育学部に入学。ソマリア人留学生2人と「日本ソマリア青年機構」を設立。活動を開始。 12年/ケニアのナイロビ郊外イスリー地区のソマリア人コミュニティーにスポーツ用品を寄付。支援を本格化。 13年/イスリー地区のソマリア人ギャングの脱過激化・社会復帰支援事業を始める。若者どうしの対話重視。 14年/「人間力大賞」を受賞。 15年/早大を卒業し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)紛争研究修士課程に入る。 16年/アル・シャバーブ投降兵の脱過激化・社会復帰支援事業を開始。LSE修士課程修了。 17年/NPO法人アクセプト・インターナショナル設立。ソマリアとケニアの国境地域マンデラで国連人間居住計画(UNハビタット)との協働事業開始。ソマリア人ギャング組織カリフマッシブを解散に導く。 18年/インドネシアの元テロリストの脱過激化プログラムに着手。 19年/アル・シャバーブ投降兵へのソマリア政府との協働事業・DRRプロジェクト開始。早大大学院社会科学研究科博士課程に入る。 著書『僕らはソマリアギャングと夢を語る』(英治出版)、『ぼくは13歳、任務は自爆テロ。:テロと紛争をなくすために必要なこと』(合同出版) ■山岡淳一郎 ノンフィクション作家。『神になりたかった男 徳田虎雄』(平凡社)、『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『原発と権力』(ちくま新書)他、著書多数。近著に『木下サーカス四代記』(東洋経済新報社)。 ※AERA 2019年5月20日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/08/01 13:30
安否不明の京アニ社員らの家族が語る厳しい現実 「京都府警がDNAの採取をさせてと…」
今西憲之 今西憲之
安否不明の京アニ社員らの家族が語る厳しい現実 「京都府警がDNAの採取をさせてと…」
安否不明になっている京アニの津田幸恵さん(41)=提供 安否不明の大野萌さん(21)=提供 安否不明の大野萌さん(21)=提供 大野萌さん(21)が描いたイラスト  34人が死亡、34人が重軽傷を負った京都市伏見区の「京都アニメーション」(以下は京アニ)放火殺人事件。京都府警捜査本部が逮捕状を取った職業不詳、青葉真司容疑者(41)は、やけどの症状が重いことから、大阪府の病院に転院し、治療が続いている。  一方、被害にあった人たちの名前はまだ、警察から発表されていない。捜査関係者は理由をこう説明する。 「ご遺体のすべてを解剖することとなったこと、損傷が激しく身元の特定に時間がかかっている」  京アニの社員である娘、が安否不明になっている父の伸一さん(69)はハンカチで目頭を押さえ、こう訴えた。 「犯人の青葉なんて、どうでもええ。早く、娘を返してほしい」  伸一さんが火事の報に触れたのは、7月18日昼頃だった。 「知人からの電話があり、テレビニュースで火事を知った。最初、京アニというから本社の方で、娘は京阪・六地蔵駅近くの第1スタジオなので大丈夫だと思った。それが、スタジオだと聞き、目の前が真っ暗になった。京アニの本社に電話すると連絡がつかないという。大阪に住む、幸恵の妹が京都の現場に駆け付けたが、何もわからず、連絡がとれないというばかり。私も何度も、幸恵の携帯電話をダイヤルしましたが、つながりませんでした」  その後、京都府警から連絡があり、事件の翌日に警察に出向くと、「DNAを採取させてください」と言われた。 「覚悟はしていたのですが…。とにかく、一日でも早く幸恵を戻してほしいと願うだけです」  幸恵さんは小学校のころから絵を描くのが好きで、高校卒業後にアニメの専門学校に進み、その後。京アニの正社員になり、働くようになった。伸一さんがこう語る。 「子供のころから絵はとてもうまかった。アニメのるろうに剣心が大好きで、高校時代は家に帰ったら、すぐに机に向って、描いていた」  幸恵さんは京アニに入った後、色をつける仕上げや特殊効果の工程をずっと担当していた。京アニの代表作「涼宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん!」など多くの有名作品も手掛けていた。放火されたスタジオの2階が職場だったという。 「よく仕事の裏話とか聞かせてくれましたよ。幸恵は子供の時からぜんそくの持病があって、家に閉じこもりがちの時代もあった。だが、京アニに入って、アニメの仕事は天職だったようで、いつも生き生きと、表情も明るくなりました」(伸一さん)  毎年、お盆とお正月は兵庫県内の実家に必ず、帰省していた幸恵さん。今年2月には連絡もせず急に実家に戻ってきた。 「何か特別な用事があるのではなく『顔を見に帰ってきたよ』という。昨年、妻を亡くして、一人暮らしになったので気にかけて帰ってきてくれたのでしょう。本当に優しい子でした」  こう話す伸一さんの横には、幸恵さんが子供のころからずっと使っていた学習机が今もある。 「学習机、もっと早くに捨てるつもりだった。しかし、亡くなった妻が思い出だからとそのまま置いていた。この机で、一生懸命に描いていたんですよね」  警察からの連絡を待つ不安な日々が続く。 「今年1月に着飾って成人式の写真をとったばかりだというのにね。むごい…」  こう話す岡田和夫さん(69)の孫、大野萌さん(21)も安否不明だ。  大野萌さんも京アニの社員。岡田さんは萌さんの両親からの連絡で事件を知った。居ても立っても居られず、事件当日の夕方、現場に駆け付けた。 「両親が京アニにいったら紙が貼りだされ『萌が行方不明者のリストに入っている』と悲痛な声で電話してきた。無理なことは承知だったが、現場で萌が探せないか、熱くてつらいんじゃないかと、電車に乗ってスタジオに行きました。現場が見えるところまで行くと、スタジオは焼け焦げ、無残な姿でした。萌は3階でキャラクターなどを描く作業をしていたそうです」  その後も萌さんには安否はわからない。警察からの連絡で極めて厳しい状況であることと知った。萌さんがアニメの世界を目指すようになったのは、高校卒業してからだ。コンビニなどでアルバイトしながら、学費を稼ぎ、京アニの養成塾に入学。2年前に夢にまで見た、京アニで働き始めた。 「おじいちゃん、京アニで仕事できるようになった」と萌さんが伝えてきた言葉を、岡田さんは今も忘れられないという。最近では、京アニのアニメのエンドロールに名前も出るようになった。 「京アニに勤め始めたころは、なかなかうまく作品ができなかったこともあったようで、深夜まで机に向かっていましたよ。最近は、『もっともっと頑張って、エンドロールに大きく名前がのるようになりたい』と萌は話していた」  岡田さんの妻、一二美さんもこう訴えた。 「事件前の13日には、ショッピングモールに一緒に行って、かき氷を食べたばかり。そしてお店で私に髪留めを買ってくれた。まだ髪につけられなくて…。子供のころから絵が大好きで子供のころから、折込チラシやレシートの裏など描けるものを見ると、すぐに鉛筆を走らせるほど絵が好きでした。今も小学校の時に描いてくれた作品があるのですよ。これを見ると、涙がもう止まらなくて…」  無事であることを祈るばかりだ。(今西憲之) ※週刊朝日オンライン限定記事 
週刊朝日 2019/07/23 10:30
東京新聞・望月記者への質問制限問題 アンケートから見えてきた記者たちの本音とは
東京新聞・望月記者への質問制限問題 アンケートから見えてきた記者たちの本音とは
2019年5月30日、菅義偉官房長官の記者会見で挙手する東京新聞・望月衣塑子記者(手前中央) (c)朝日新聞社  東京新聞・望月衣塑子記者への質問制限をめぐって、新聞労連が5月に官邸クラブ員を対象にアンケートを実施した。官邸による質問制限問題の内情を詳細に描いた新著『報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったか』(朝日新書)を出版し、自身も政治部記者として500回以上の官房長官会見を取材してきた新聞労連委員長の南彰氏が、アンケートの回答から浮かび上がってきた、政治部記者たちの本音やこの国のメディアが抱える課題を読み解いた。 *  *  *  官邸権力と記者の攻防を描く映画『新聞記者』の満員御礼が続くなか、7月8日、新聞労連本部にある週刊誌から取材の電話が入った。  新聞労連が6月22日のシンポジウム「官邸記者会見の役割から考える」に合わせて実施した官邸クラブ員対象のアンケートに関して話を聞きたいという。映画の原作者でもある東京新聞の望月衣塑子記者に対する質問制限問題の論点や課題の整理を目指して行ったアンケートだった。会議で不在にしていた私が電話を折り返すと、記者から次のような質問を頂いた。 「アンケートには、望月記者の質問に対して批判的な意見が多く書かれていますが、何か新聞労連として望月記者に申し入れることは考えているのでしょうか?」  思わず苦笑いを浮かべてしまった。 「常識的に考えて、そういうことが考えられますか?」 「いやぁ、そうですよね…」  アンケートでは、望月記者の質問のスタイルについて感じていることを尋ねる質問項目を設けた。「質問が長い」(33人中17人)、「質問が主観的・決めうちである」(同16人)、「質問に事実誤認が多い」(同10人)などの回答が寄せられていた。このほかにも、官邸クラブ員が吐露した今の官邸取材の息苦しい実態などが綴られていたが、約30分間のやりとりで、「新聞労連の見解」を求められたのは、望月記者への批判的な意見が多かったことについてだけだった。どのような記事を書くための取材であるかは、察しがついた。  この出版社とは、2年前には、官邸が始めた質問制限の問題点をWEB版に寄稿させてもらったご縁もあった。人によって考え方は様々だなと思いながら、若い記者の人だったので、念のため伝えた。  「お互い『表現の自由』を大切にしている仕事なので、『書くな』ということは言いませんが、事実を隠そうとする側を利することはないことを願っています」  アンケートは、菅義偉官房長官が加計学園問題で「総理のご意向」などと書かれた文書の存在を「怪文書のようなものだ」と否定したことをきっかけに、社会部の望月記者が参戦するなど、大きく変わった官邸記者会見のあり方について、官邸クラブ員の本音を探るところにあった。新聞・通信・テレビの33人(望月記者が官邸での記者会見に参加するようになった2017年6月以降に在籍していた人を含む)が協力してくれた。  昨年12月に首相官邸が望月記者の質問を「事実誤認」「問題行為」と断定し、「問題意識の共有を求める」と官邸クラブに申し入れたことに対しては、64%が「納得できない」「どちらかと言えば納得できない」と回答。また、この申し入れに対して新聞労連が抗議声明を出したことには、「南委員長の退陣を求める」という意見もあったが、76%が「賛同できる」「どちらかと言えば賛同できる」と回答し、一定の理解を示した。  官邸取材の体験として、「事前通告のない質問で官邸側から文句を言われた」「オフレコ取材で官邸側から特定の記者を排除するよう言われた」という人がそれぞれ7人いた。「官邸と内部で繋がっている社がある以上、記者会では動けない。まずは権力寄りのメディアの記者の意識をまともにしなければならない」「官房長官の夜回りでは、携帯電話やICレコーダーを事前に回収袋に入れて、忠誠を誓っている。非常に息苦しい」という意見も綴られていた。  官邸クラブの記者の取材は、記者会見だけではない。息苦しいほどの相互監視が張り巡らされた環境のなかで、日夜、夜討ち・朝駆けなどを行い、何とか官邸内部の情報をつかみ取ろうと奮闘しているのである。そうしたなかで、独自のスタイルを貫き、称賛を浴びる望月記者に対する感情は屈折しがちだ。行き場のない感情を官邸は「望月問題」として利用し、メディア内部の分断を図ろうとしてきた。特に新聞・テレビなどの既存メディアが突かれている弱点は「同質性」だ。同調圧力に弱くなる。長年、取材先からのセクハラに泣き寝入りを強いられてきた構造と同じだ。 「官邸担当は過度な重要度を背負わされ、政権中枢から情報を取ることがメインの仕事として求められている。それぞれの社全体でジャーナリズムを守る覚悟を決めない限り、望月氏の独り相撲という構図は変えられない。官邸記者が望月氏と同様の振る舞いをして、社からどんな扱いを受けるかよく考えるべきだ。苦々しい思いをしながら、件の申し入れを読んだ官邸記者がどれだけいたか。変革を求められるのは、現場記者より、編集権者だ」  アンケートに書かれた官邸クラブ員の訴えは切実だ。同質性の高い「ムラ社会」で窒息しそうな記者たちの悲鳴である。こうした状況から記者を解放するには、記者クラブの窓を開き、風通しを良くしないといけない。権力者にとっても、同質性の高い記者集団より、多様性のある記者集団の方がコントロールしづらい。  元ハンセン病患者の家族への賠償を国に命じた熊本地裁判決について、朝日新聞が7月9日付朝刊で、複数の政府関係者への取材をもとに「国が控訴へ」と報じたが、安倍晋三首相が9日午前に「控訴断念」を表明。朝日新聞は「政権幹部を含む複数の関係者への取材を踏まえたものでしたが、十分ではなく誤報となりました」「参院選が行われている最中に重要な政策決定をめぐって誤った記事を出し、読者や関係者の皆様に多大なご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ありません」と謝罪する記事を出すことになった。 「アクセス・ジャーナリズムの失敗。あるいは、アクセス・ジャーナリズムを手玉にとった選挙戦術。しっかりしろ、新聞記者。『控訴の方針を明かにした政府関係者』は誰だったんだ?」  映画「新聞記者」にも出演した元文部科学事務次官の前川喜平氏は即座にツイッターで、権力側へのアクセス(接近)を重視した今の政治取材のあり方を批判した。  朝日新聞は謝罪記事の末尾に「今後はより一層入念に事実を積み重ね、正確な報道を心がけて参ります」と書いた。しかし、いま求められているのは、精神論を超えた構造的な改革だ。新書『報道事変』ではその方向性を打ち出したので、ぜひ議論を前に進めていきたいと考えている。  新聞労連が行っている作文ゼミには、新聞社を目指している学生が毎年数十人集まってくる。そのなかには、望月記者にあこがれている人も少なくない。映画『新聞記者』のヒットによって、そうした傾向はさらに強まるだろう。望月記者は一つのモデルであって、万能ではない。しかし、将来世代や社会が期待する多様な記者像の芽を摘んでいては、日本の報道に未来はない。安倍政権が与えた試練を乗り越え、新しい時代のメディアを切り開いていきたい。(新聞労連委員長・南彰)
朝日新聞出版の本読書
dot. 2019/07/22 17:00
介護はプロを交えたチームで乗り越える 介護離職で共倒れしないために
介護はプロを交えたチームで乗り越える 介護離職で共倒れしないために
「介護離職ゼロ」などについて話し合った2015年11月の1億総活躍国民会議。左から2人目が安倍晋三首相 (c)朝日新聞社 要介護(要支援)度の認定の目安と介護サービス利用金額 (週刊朝日2019年7月26日号より)  親や配偶者の介護は突然やってくる。2025年は、1947年から49年生まれのいわゆる「団塊の世代」が75歳の後期高齢者になる大介護時代に突入する。75歳を過ぎると要支援や要介護になる比率が高くなり、介護はひとごとではない。突然の介護にどう備えるかを知っておく必要がある。 「介護はひとりで抱え込まない。家族で抱え込まない。できるだけ介護のプロに任せ、チームで乗り越えていくことが大切だ」  介護支援専門員・主任介護支援専門員として1千人超の高齢者のケアプランを作成した経験を持ち、現在は介護講師として活躍しているパソナライフケアの継枝綾子さんは話す。  00年に介護保険制度が始まってからは、介護を支援する機能を家族から社会全体で支えていく外部的なシステムに移行する時代になったが、実際に介護の備えをしている人は少ない。しかし、平均介護期間は4~5年で、両親2人の介護が重なって10年以上となるケースもある。介護する側の高齢化も進み、「共倒れ」リスクが高まってしまう。  継枝さんは「介護保険制度がスタートして19年になるが、介護に直面するのは突然で、誰もが介護の初心者。しかし、介護はしっかりと事前の準備をしていないとうまくいかないことが多い」と話す。  継枝さんは、自分の講演会場で知り合った男性から聞いた話が忘れられない。  その50代のスーツ姿の男性の表情は疲れ切っていた。10年以上前、商社マンとして海外赴任していたが、母親が倒れて寝たきりになった連絡を受けて帰国した。「今の自分があるのは母親のおかげだ」という思いが強く、自分の手で介護するために会社を辞める決断をした。6年間母親の介護をした後、父親も倒れてダブル介護に突入した。両親とも他界したが、男性に残されたのは、底をついた貯金と10年以上の仕事のブランクしかなかった。  継枝さんは振り返る。 「仕事に対しても一生懸命に取り組み、世話になった両親の介護にも正面から向き合う誠実な人が、疲れ切った表情でいる姿を見ると胸が痛かった」  家族の介護で仕事を辞める介護離職者は年間約10万人を数える。10万人のうち、介護施設に入れないために離職した人は1万5千人で、残りの8万5千人は、介護保険の仕組みを知らなかったり、職場の理解がないために介護と仕事を両立できなかったりしたケースだ。  突然の介護になってもパニックにならず、平均4~5年の長い介護を続けられる態勢を備える必要がある。まずは、介護に直面した場合、要介護者が住んでいる地域の「地域包括支援センター」に行けば、保健師や社会福祉士、主任ケアマネジャーなどが相談に応じてくれる。介護に直面する前に、自分の地域、親の地域のセンターを調べておくとよい。  地域包括支援センターで専門家と話し合い、今後の態勢を整えるための的確なアドバイスがもらえる。そこでは、介護を受ける側だけでなく、介護をする側の悩みも聞いてくれる。  継枝さんは言う。 「簡単に会社を辞めることを考えず、まずは、どうすれば両立できるかを考えるべきだ」  1カ月あたり平均7万8千円程度かかる介護の持続可能性を高めることを考えなければならない。  高齢の夫や妻の介護のときもそうだが、親が倒れて、息子や娘が介護をする場合も、仕事と介護の両立の可能性を探る方向でケアプランを作成することが大事だ。息子や娘が仕事を辞めて付き添ってくれるのはありがたいが、介護が長期化すればするほど、共倒れリスクが高まることになってしまうからだ。  介護サービスを利用するには、要介護認定(要支援認定)の申請、認定調査・主治医意見書、要介護度の認定の結果を経て、ケアプランを作成、介護保険サービス事業者と契約を結び、サービスを利用する。サービスの利用限度額は要介護(要支援)度によって決まっている。また、自己負担の割合(1~3割負担)は世帯所得によって異なり、息子や娘と世帯を一緒にすると、自己負担割合が高くなる可能性もあるので要注意だ。  介護離職の防止に向け、育児休業・介護休業等に係る制度の見直しが行われている。介護休業は通算93日の利用が可能で、3回を上限に分割取得ができる。  継枝さんは、こうアドバイスする。 「介護は、プロを交えたチームで乗り越えるため、プロに任せるところは任せ、家族はコーディネーター(調整)役を担う。介護休業は、介護に関する長期的方針を決めたり、介護をするための態勢を構築したりする期間に活用するという考え方が大事だ」  例えば、介護休業の3分の1を介護の初動で活用する場合を考える。自分で家族の介護をするのではなく、介護環境を整えるために休みを取得する。対象家族1人につき通算93日の利用なので、介護環境整備に約1カ月かけて、住宅の改修や福祉用具のレンタルなどの準備を整え、実際の介護はデイサービスやヘルパー、訪問看護、ショートステイ、高齢者向けの自治体サービスなどを利用するといった具合だ。  継枝さんは言う。 「介護サービスを最大限に利用し、介護をしすぎないこと。仕事と介護の両立が成り立つためのケアプランを作成し、早く職場復帰するために介護休業を取得するという心構えが必要になる。介護に直面する前に、介護保険制度や会社の仕事と介護の両立支援制度について知っておくと、慌てずに行動できるはずだ」  介護は介護のプロに任せるといっても、すべてを丸投げするわけにはいかない。特別養護老人ホームは、在宅での介護が困難になった「要介護3以上」(特例の要介護1・2)の認定が必要で、申請してもベッドが空くのには1~2年かかることも珍しくない。デイサービスを利用しても、夜や早朝は自宅で家族が介護する。介護の長丁場を乗り切るには、家族が介護動作の基本を知っておく必要がある。  介護動作の基本は、ボディメカニクスに基づいている。ボディメカニクスとは、骨格や筋肉、関節の相互関係を活用した身体力学のことで、ボディメカニクスの原理を用いれば、余分な力を使わずに、介護が必要な人の介助をすることができる。  有料老人ホーム・サービス付き高齢者向け住宅・グループホームの運営を手掛けるSOMPOケアの教育研修部教育研修サービス課の植木康二郎リーダーはこう話す。 「介護動作の基本に従って介護すれば、介護する人の腰痛や労力の負担を抑えることができるうえ、介護される人の苦痛を和らげることにもなる」  在宅での介護は、食事や着替え、排せつ、入浴など、さまざまな場面で「移動」の動作が必要になる。特に椅子に腰掛けたり、車椅子に乗ったり、トイレの便座に座ったりといった動作を「移乗」という。移乗介護の基本動作は以下のような体の使い方を心がける。 体を小さく 球体に近づける  重量は同じでも、支える面積が小さいと力が分散されない。寝返りのサポートやベッド上で体の向きを変えるときなどの介助も、この原理を活用し、介護が必要な人の腕を胸の上で組み、足を立てると、体がコンパクトになり、少ない力で移動させることができる。 重心を近づけ、 重心を下げる  介護される人との距離が離れていると重心が不安定になり、うまく移乗できず、介助者の腕や腰に負荷がかかる。なるべく体を寄せ、重心を近づける。また、重心を下げ、足を左右に開き、前後にも開くと安定感が増す。移動させるときに腕だけで動かそうとすると腕や腰に負荷がかかるので、腕や足、背中など全身の筋肉を使うようにする。 持ち上げるのではなく、 水平移動させる  無理に持ち上げようとすると、腰を痛めてしまう。移動させるときは、より少ない力で動かすように、水平に移動させることを心がける。また、移乗介助を行う際は、足の向きや位置を工夫し、肩と腰が平行となる姿勢を意識する。  福祉用具を上手に活用すると、介護する側、介護される側の双方の負担がさらに和らぐ。どのような福祉用具を使うといいのかをあらかじめ確認しておくとよい。  ベッドから車椅子への移乗介助には、スライディングボードが便利だ。スライディングボードは介護保険の福祉用具貸与の対象で、木やプラスチックなどでできており、表面は滑りやすく裏面は滑り止めの加工が施されている。  移乗介助やベッドでの体勢を変えるときなどには、スライディングシートも効果的だ。生地の表面に滑りやすい加工を施したり、袋状に縫製したりすることで、少ない力でシートの上の人を動かせる。ベッドと体の間に敷くと、体を持ち上げずに、滑らせながらスムーズに移動させることができる。  こうした福祉用具は、介護保険でレンタルまたは購入することができる。家族の状況に合った福祉用具選びや上手な活用法は、ケアマネジャーに相談できる。  ベッドや車椅子のグリップなどが低すぎると前傾姿勢になり、腰痛の原因になる。高さを調節していないと、介護される側、介護する側の両方が安定感を失い、ストレスが高まる。植木リーダーは、こう指摘する。 「適切な高さに調節することや、ベッドから車椅子への移乗の際、車椅子のフットサポートを外しておくなど、ひと手間を惜しまないことが安全でスムーズな移動を可能にする」  また、住宅改修費の一部は、介護保険制度で補助を受けることが可能で、介護しやすい環境の整備を計画的に進めることが必要になる。(ライター・小島清利) ※週刊朝日  2019年7月26日号
シニア介護を考える
週刊朝日 2019/07/21 07:00
石原裕次郎三十三回忌 まき子夫人が推す「裕次郎映画10選」
石原裕次郎三十三回忌 まき子夫人が推す「裕次郎映画10選」
石原まき子さん (撮影/写真部・東川哲也) 「石原裕次郎シアター DVDコレクション 」(朝日新聞出版)石原裕次郎が出演した日活・石原プロモーションの計93作品を楽しめる隔週木曜発売のDVD付きマガジン。近刊は7月25日発売の第54号「赤い波止場」(税込み1790円)  7月17日に三十三回忌を迎える石原裕次郎。「昭和の太陽」として輝いた国民的スターの軌跡を追って、筆者は石原まき子さんの取材を重ねてきた。裕次郎の素顔を語るまき子さんの表情は、いつもキラキラ輝いていた。「日本人が最も愛した男」のすべてを知るまき子さんに「10本の裕次郎映画」を選んでもらい、魅力を語っていただいた。 *  *  *  裕さんと私は青春時代の大半を日活撮影所で過ごしました。共演した作品は25本。あの時代の空気や人々の暮らし、風景のすべてが映画の中に詰まっています。映画を観ることで、いつの時代も変わらない青春の悩みや、あのころの日本人が裕さんにどれだけ憧れていたか、そして私たちがどれだけ懸命に映画を作っていたかを感じとっていただけるはずです。裕さんの三十三回忌にあたる今年、ぜひ見ていただきたい作品10本を選んでみました。 ■「狂った果実」1956年  初めて裕さんと出会ったのは、1956年4月14日の午前11時30分でした。石原慎太郎さん原作・脚本の「狂った果実」での共演が決まり、顔合わせの時でした。日活撮影所第4ステージに組まれたナイトクラブのセットの2階から下りてきた裕さんは、私の顔も見ないで「裕次郎です。よろしく!」って、ただひと言。絶対に顔を合わせないんです。どうしてなのか? いつか聞いてみようと思っていたのですが、そのチャンスも消え、いまだになぞのままです。 ■「勝利者」57年  共演作で初のカラー大作が「勝利者」です。裕さんはチャンピオンを目指す若きボクサー。バレリーナ役の私は日劇(NDT=日劇ダンシングチーム)で踊っていたものですから、大体のイメージはつかめたのですが、裕さんはプロの指導を受けて、本格的にトレーニングをしました。相手のパンチを受けてもくじけない裕さんは、今見てもカッコいいんです。これが大ヒットして、日活は裕さん主演のアクション路線に力を入れていきます。 ■「俺は待ってるぜ」57年  日活アクションといえば、横浜というイメージがあります。その始まりがこの「俺は待ってるぜ」。ナイトクラブの歌手に扮した私と裕さんが横浜の埠頭で出会うシーンから始まります。ラストに、二谷(英明)さんとの壮絶な殴り合いのシーンがあるのですが、蔵原惟繕監督はこのシーンに3、4日もかけたのです。さすがにスタッフが音を上げたのですが、裕さんは「納得するまで撮ってください」と監督にお願いして、あのすごいシーンになりました。 ■「嵐を呼ぶ男」57年  ジャズドラマーに扮して、文字通りトップスターの座をつかんだ作品が「嵐を呼ぶ男」。ドラムをたたきながら「おいらはドラマー……」と歌いだす、あの有名なシーンを撮るまでが大変でした。裕さんは、名ドラマーの白木秀雄さんにドラムのたたき方を習いました。頭の上でドラムスティックをクルリと回すことなど短期間でマスター。「ああ、この人、天才だな」って思ったものです。 ■「陽のあたる坂道」58年  裕さんが“演じる”ということに開眼した作品が「陽のあたる坂道」です。不良っぽさではなく、ナイーブでシリアスな演技ができることを見抜いていた、大ベテランの田坂具隆監督が粘りに粘るものですから撮影が遅れて、映画館から「裕次郎の映画を早く」と催促が殺到。急きょ舛田利雄監督で「錆びたナイフ」(58年)を同時進行で撮ることになりました。舛田組で徹夜で撮影し、朝から田坂組のセット入り。すると「こんな大切な演技をする時に、真っ赤な目の二人ではやれない」と田坂先生が怒って中止になったことがあります。それほど、田坂先生は裕さんを大切にしてくれていたのです。 ■「赤い波止場」58年  上下真っ白なスーツにサングラスをかけた裕さん。スクリーンに映るだけで、あまりに格好良すぎて喝采を浴びた作品が「赤い波止場」。裕さんとは仲が良くて、本当にお世話になった舛田監督の作品です。逃亡者の裕さんが、私と東京の喫茶店について会話するシーンがとても好きです。このころになると裕さんの人気がすごくて、撮影隊が動きがとれなくなってしまう。こうした状況では、スムーズに街頭ロケはできないと危惧した日活は、撮影所の銀座オープンセットを拡張することを決めました。 ■「太平洋ひとりぼっち」63年  1961年、スキー場で骨折して8カ月ほど療養した時に、裕さんが病院のベッドで抱いた「夢」が自分で映画を作ることでした。今でいう抵抗勢力の猛反発を受けながら、63年に石原プロモーションを立ち上げて作った最初の作品が「太平洋ひとりぼっち」です。ヨットで太平洋を単独横断した堀江謙一さんの孤独な闘いを、裕さんが演じきった作品。プロデューサーとして初めて映画製作にかかわった裕さんは、自分を堀江さんに重ねていたと思います。 ■「黒部の太陽」68年  裕さんと三船敏郎さんが(専属スターの他社での仕事などを禁じる)「五社協定」を向こうに回して日本映画最高のヒット作を作り上げた。そのプロセス自体がドラマチックで「映画になる」と思える作品が「黒部の太陽」です。東宝の三船さんと日活の裕さんが共演するのは、当時はありえないことでしたが、あらゆる前例を覆してクランクインにこぎつけたのです。実現不可能と呼ばれた「黒四ダム」建設に命をかけた男たちのドラマで、裕さんは撮影中に大けがをしました。そのアクシデントに負けず、むしろチャンスにして完成させた作品です。 ■「栄光への5000キロ」69年  アフリカのサファリ・ラリーで優勝した日本チームの物語が「栄光への5000キロ」です。日活時代からの盟友・蔵原さんが監督でしたから、まるでフランス映画のような美しい映像に仕上がっていて、本当に素敵です。アフリカで長期ロケを行ったので、スタッフの方が時々所用で帰国しました。その時に、私は裕さんが好きな料理をたくさん作って、持っていってもらいました。裕さんからは、ロケ地で見つけたきれいな花を押し花にして贈っていただきました。 ■「ある兵士の賭け」70年  裕さんは、世界マーケットに通用する映画を撮りたいと、いつも考えていました。「ある兵士の賭け」は、ハリウッドの監督や俳優を日本に招いて撮影を続けたのですが、残念ながら、裕さんの思いは満足のゆく形にならず、興行的にも失敗。裕さんは「黒部の太陽」で「成功の甘き香り」を味わったけど、「ある兵士の賭け」では「失敗の苦汁」をなめたと言っていました。今、改めてこの作品を観ると、裕さんが抱いていた「映画への夢」を感じることができます。 ◇  スクリーンの中の裕さんに今も会うことができるのは、とても幸せなことだと思います。裕さんの全盛時代を知らない若い方も、ぜひ映画の中で裕さんに会ってみてください。(談) (聞き手・構成/佐藤利明) ※週刊朝日  2019年7月26日号
週刊朝日 2019/07/19 17:00
ひきこもり支援施設を脱走した有名私大卒31歳男性 社会復帰しても収まらない怒り
ひきこもり支援施設を脱走した有名私大卒31歳男性 社会復帰しても収まらない怒り
自立支援施設を脱走した男性(撮影/西岡千史)  ひきこもりが長期化し、80代の親が50代の子どもの生活を支える「8050」が社会問題になっている。最近では、ひきこもり経験者が、通学中の児童や付き添いの保護者を殺傷した後に自殺した事件や、父親である元農林水産事務次官に殺害されたことが大きなニュースになった。一方で、ひきこもりや発達障害の子どもを抱える親が、本人の意向を無視して民間の「自立支援施設」に預けたことで、トラブルに発展することも起きている。現場では今、何が起きているのか。 * * *  2018年3月12日、藤野健太郎さん(仮名、31)の運命は、この日に変わった。  神奈川県内のアパートで過ごしていると、突然、何者かがドアのカギを開けた。そこに立っていたのは、3人の見知らぬ男。後ろには藤野さんの姉が立っていた。そして、姉はこう言った。 「家賃のことで、この人たちが話あるって」  藤野さんは、関東の有名私立大を卒業した後、IT関連企業に入社した。しかし、激務が続いたことで双極性障害になり、4年後に退社せざるをえなくなった。その後、精神科に入院。退院後は母親から支援を受けてひとり暮らしをしていた。見知らぬ男が訪問してきたのは、経済的に自立して生活ができるよう、アルバイト先が決まった矢先のことだった。藤野さんは、こう振り返る。 「2月に母親からの経済的な支援がなくなって、家賃の振り込みが遅れていたのは事実です。ただ、現金は用意できていたので、すぐに支払うつもりでした」  不思議だったのは、家賃の支払いが数日遅れたぐらいで取り立てが家に来たことだ。入居時には、家賃保証会社に保証金を支払っている。そう考えながらも、「すぐに払います」と言ったところ、見知らぬ男は、家の外で話すように言った。ただならぬ雰囲気だった。 「前の会社を辞めてからもアルバイトをしていましたが、入院もしたので働くことのできない時期もありました。それで、とうとう行政関係の人が来て、どこかに連れていかれるんだと思いました」(藤野さん)  日本では、精神障害のために自分自身や他人を傷つけるおそれがある場合、その人を強制的に病院に連れていき「措置入院」をさせることができる。しかし、措置入院は本人の自己決定権を侵害することから、医師の診察が不可欠だ。藤野さんには、医師からの説明はなかった。  藤野さんが車に乗せられてたどりついたのは、神奈川県中井町にある施設だった。そこで、藤野さんは施設に入るための契約書にサインをするよう求められた。アルバイト先が決まっていたので戸惑いもあったが、「行政的な措置ならしょうがない」とあきらめて名前を書いた。藤野さんは、このことを今でも後悔している。 「僕が連れていかれた施設は、病院や社会福祉法人ではなく、『一般社団法人若者教育支援センター』という組織でした。『ハメられた』と思いました」  藤野さんは、子どもの頃から母親との対立が絶えなかった。特に、仕事を辞めた後は生活費をめぐって言い争いになることも少なくなかった。母親が藤野さんを多額な費用が必要となる自立支援施設にあえて入れたのも、対立が激しくなっていた時だった。  藤野さんが入ったのは、同センターが運営する全寮制の「ワンステップスクール湘南校」。ホームページでは、ひきこもりや不登校、家庭内暴力などについて<ご家族の悩みを解決いたします>と書かれ、その解決法として、24時間体制のもと<1つ屋根の下で、家庭の温かい愛情を注ぐ>を方針として掲げている。  藤野さんは、入寮の経緯に納得できなかった。なぜ、自分はここに連れて来られたのか。「人生を奪われた」という怒りが、日増しに強くなっていった。  そもそも、藤野さんは「ひきこもり」ではない。働けなくなったのも、もともとは過労が原因だった。さらに、病院では双極性障害とは診断されずに間違った薬を処方されたため、一時はからだを思うように動かせなくなっていた。 「施設に入っていた人で、ひきこもりは半分ぐらいだったと思います。そのほかは、発達障害や精神疾患の人、親から虐待を受けて捨てられるように預けられた人もいました」(同)  藤野さんの場合、寮での小遣いは月に3000円程度しか渡されず、携帯電話も使えなかった。インターネットの使用も制限されていた。寮生活では、午前中は小学生レベルの公文式のドリルをやらされ、廊下や入り口には監視カメラが備え付けられていた。施設のスタッフには退寮を求めたが、はぐらかされて認めてくれない。それで、藤野さんは決心した。 「脱走するしかない」  決行したのは入寮から4カ月が経過した18年7月。仲間を募って、計7人で夜中に玄関から脱走した。その後、別の福祉施設に保護され、一時的に生活保護の支給を受けた。今では、就職先も決まって一人で暮らしている。  施設側はどう考えているのか。同校の広岡政幸校長はこう話す。 「施設に入る前には、事前に説明し、納得をしてもらったうえで本人からサインをもらっています。プログラムは、いろんなものを取り入れている。公文式は一つのことに集中させる力などをつける目的でやっていましたが、現在はやっていません」(取材の詳細は、本文最後を参照)  今回、藤野さんと一緒に施設を脱走した元入寮者にも取材ができた。その男性は対人関係が苦手で、長年ひきこもり生活を続けていたところ、親に入寮を促された。 「最後は『何か変えないと』と思って自ら入寮しました。でも施設では何もやることがなくて、『ここでは意味がない』と思って脱走しました。規則正しい生活習慣をつけるには良い場所だと思いますが、もっとちゃんとした施設に入りたかった」  別の元入寮者の男性も親の依頼で入寮をすすめられたが、自宅で拒否し続けたところ、最後は「車まで連れていかれた」と証言する。別の男性は、「自分の育てたいように子供が育たないと考える親が、施設に入れる。『子捨て山』のようなもの」と話す。今回、元入寮者の親への取材について広岡氏を通じて依頼したが、広岡氏から「親たちは偏った取材には協力したくないと話している」とのことだった。  なお、入寮時の手続きについて広岡氏は「保護をする時は、必ず自分でドアを開けさせて、自分でドアを閉めさせることにしています。荷物も自分で持たせます」と、本人の意思に反した入寮は行っていないと主張している。  ひきこもり自立支援施設をめぐっては、東京都内の別の自立支援施設に入れられた30代男性が今年2月、施設に対して550万円の損害賠償を求める訴えを起こしている。消費者庁も、民間の自立支援施設の契約や解約をめぐるトラブルについて注意喚起をしている。  ひきこもりの問題に詳しい精神科医の斎藤環・筑波大教授は、こう話す。 「全国の自立支援施設には、ひきこもりの当事者だけではなく、他の精神疾患を抱えている人たちもたくさんいて、適切な治療を受けていない人も多い。なかには、自立支援施設に入れられたことで精神的なショックを受け、フラッシュバックに悩む人もいます。本人の意思に反して施設に入れる行為には合法性がなく、自己決定権の侵害であり、ひきこもりの治療にも逆効果でしかありません」  厚生労働省が定めた「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」では、「入室を拒否する当事者の部屋へ強引に侵入する」ことは「望ましくない」と記している。また、自立支援施設に入れられた人の家庭は親子関係に問題があることも多く、斎藤教授は、「施設に子どもを強制的に入れることで、さらに親子関係がこじれることも多い」と警鐘を鳴らす。  藤野さんも、施設を脱走してから再就職先を見つけ、自立した生活をはじめた今でも、母親と施設への怒りが消えない。現在は、母親への訴訟も視野に入れながら、裁判所で調停を続けている。斎藤教授はこう話す。 「ひきこもりや発達障害の子を抱える親の不安を『ビジネスチャンス』として狙っている業者は多い。高い費用をかけて子どもを民間の施設に入れる前に、適切な医療機関に相談してほしい」 * * * 【ワンステップスクール湘南校 広岡政幸校長への一問一答】 ──元入寮者の中には、自らの意思とは関係なく入寮させられ、退寮を求めても認められなかったという人がいます。  施設には、自分の意思で来る子もいるし、支援を求めてくる子も、親から虐待を受けて緊急で保護している子もいる。一人ひとりに入寮の事情があるが、強制的に入寮させていることはありません。  保護をする時には、必ず自分でドアを開けさせて、自分でドアを閉めさせることにしています。荷物も自分で持たせます。  退寮については、経済的にも精神的にも自立していれば許可します。 ──入寮者に対する脱走者の割合は。  月に1件あるかないかぐらいです。他の自立支援施設と比べても、比率は高くないと思います。施設への出入りも自由です。 ──携帯電話を持たせないのは、なぜですか。  持っている子もいます。逃げ出した7人のうちの1人は、入寮時から携帯電話を持っていたはずです。原則、寮の中では規則で通信機器を持ち込まないことになっています。入寮者には、ゲーム依存の人もいて、親に対する暴言もあるので、生活環境を改善させるために必要だと私たちは考えています。 ──生活改善プログラムに公文式を取り入れているのはなぜですか。  プログラムは、いろんなものを取り入れている。公文式は一つのことに集中させる力などをつける目的でやっていましたが、現在はやっていません。 ──月に支給される現金は日常生活の費用で3000円、小遣いが3000円程度とのことですが。  人によるし、親の経済力にもよります。月に3万円もらっている子もいます。施設の中には、無料で受け入れている子もいます。その子たちにどの程度の現金を渡すかは、その子の状況によりますが、生活用品以外の額として5000円ぐらいを渡しています。 ──入寮費が70万円程度、毎月の寮費が20万円程度かかるとのことですが。  一般的な額だと思います。(ワンステップスクールの寮費は)平均だと毎月17万6000円ぐらいです。社会福祉士や医師などの専門職が多く、湘南校は特にスタッフの数が多いです。施設も冷暖房を完備しているので、固定コストが高く、公的資金も入っていないので、17万円を下回ると赤字になってしまいます。 ──入寮のプロセスは。  子育ては親だけではできないこともあります。また、親の成育環境が子どもに与える影響も多い。本人の問題だけではありません。また、親から相談されてすぐに寮に入ってもらうのではなく、親にもいろんなアプローチをしています。それでも自害や他害など緊急性の高い場合は、親と子の距離を持たせるために入寮してもらうこともあります。その時には必ず親から、私たちが行くことを言ってもらっています。だまし討ちで連れてきても、すぐに逃げてしまうからです。 ──親子関係が悪いのに、本人が納得せずに入寮させても、プログラムの効果はないのではないですか。  それはその通りです。 ──監視カメラを付けているのはなぜですか。  スタッフと入寮者の間で「触った」「触っていない」などといったことを言われないようにしている。あるいは生徒からスタッフが殴られる場合もあるからです。 ──今回の集団脱走については。  親の中には、(脱走への協力を校外で)首謀した人にそそのかされて「誘拐だ」と言っている人もいる。逃げたのではなく、連れ出されたんです。今は証拠を集めているので、(脱走を主導した人を)告訴するつもりです。 ──親子関係のゆがみに介入することは専門家でも難しいですが、そこにあえて介入する意味は。  親が変われば子どもが変わると言いますけど、親も何かがないと変われません。まずは親の気持ちに寄り添って、それから親子で距離を取り、本人たちに自信をつけさせたりして、親子の和解のポイントを見つけています。ただ、入寮に納得できない人で親に怒りを持っている人がいるのは確かです。 (AERA dot.編集部/西岡千史)
dot. 2019/07/19 11:30
日本で3年働けば家が建つ ベトナム人技能実習生の故郷を訪ねてみた
日本で3年働けば家が建つ ベトナム人技能実習生の故郷を訪ねてみた
バクザン省ルックナム郡の中心部へ向かう。放し飼いされた牛が側道を歩いていた。町の中心部を走ると、海外への出稼ぎや留学を斡旋する会社が五つ。日本を勧める業者が多い(撮影/ジャーナリスト・澤田晃宏) クォアンハイ村に向かう途中で発見した技能実習生を募集する送り出し機関の広告。台湾や韓国にも行けると書いてある。学校の前などにも同様の募集広告があった(撮影/ジャーナリスト・澤田晃宏) 海外で働いていた母親が借金をして家を建てたが、それをルイさんが完済したという。目の前にはライチ畑が広がる。ベトナムは地震が少なく、レンガ造りの家が目立つ(撮影/ジャーナリスト・澤田晃宏 クォアンハイ村で出会ったクンさん。新しい就労ビザ「特定技能」に強い関心を示し、その取得方法などを筆者に尋ねてきた。中国での紙の需要が高まり、林業は農業に代わる村の産業になると話す(撮影/ジャーナリスト・澤田晃宏)  技能実習生や留学生として急増しているベトナム人労働者たち。だが同じ街で暮らす私たちは、彼らのことをどれだけ知っているだろうか。彼らの故郷を訪ね、日本を目指した理由を探った。ジャーナリスト・澤田晃宏氏がリポートする。 *  *  *  日本では、ベトナム人技能実習生が働く一部の劣悪な現場や、多額の借金を背負わせる送り出しの仕組みに批判が集まっている。間近ではNHKが愛媛県の縫製工場で働くベトナム人技能実習生の姿を報じ、SNS上では今治タオルの不買運動に発展するなど話題になった。番組では、早朝から午後10時過ぎまで働き、二段ベッドが詰め込まれた窓のない部屋で寝泊まりするベトナム人技能実習生が映し出された。洗濯する間もなく、雨が続くと濡れたままの服を着て作業をしていた。  こうしたニュースは、本国でも話題になる。誰かしらがベトナム語に翻訳し、SNS上で拡散する。必ずしも日本が正しい国でないことは、ベトナム人も知っている。それでも彼らは厳しい合宿生活を耐え抜き、借金を背負ってまで日本を目指す。そこにどんな思いがあるのかを知りたくて、彼らが生まれ育った町を訪ねることにした。  技能実習生の故郷に向かうため、ハノイ市内のバスターミナルで6万ドン(約280円)を支払い、長距離バスのチケットを買った。交通量の少ない土曜日の朝だったが、目的地まで約4時間かかった。たどり着いたのは、ベトナム北東部に位置するバクザン省ルックナム郡。ほとんどの技能実習生はハノイなど都市部の出身者ではない。人口約20万のルックナム郡は、外国に出稼ぎに行く人が多い町だという。  放し飼いの牛が側道を歩く郡の中心部を抜けると、周囲は山と畑に囲まれる。ほかに移動手段はなく、ベトナム人通訳が運転するバイクの後部座席にまたがった。日が暮れると、ヘッドライトが照らす前方以外は、はっきりと見渡せない。それでも、池の周りで動く複数の人が見えた。あれは何かと尋ねると、ベトナム人通訳者は言った。 「カエルですよ。ゆでたり、焼いたりして、骨をしゃぶるようにして食べるんです。お酒のあてにいいんです」  これなのか──。筆者はかつてベトナム人技能実習生が入国前に学ぶ教科書にあった「日本での習慣の違い」の1項目を思い出していた。 「近くの沼などで魚や、カエルなどを捕まえて食べたりしない」  ベトナム人技能実習生の故郷に、ようやくたどり着いたようだ。  個室シャワー付きの1泊1千円のホテルで一夜を明かし、クォアンハイという小さな村に向かった。この村出身の技能実習生に会うためだ。山肌の濃い緑を縫うようにバイクで走っていると、運転するベトナム人通訳者がスピードを緩めた。車道沿いの建物の壁に、大きなポスターが貼ってある。 <技能実習 日本で3~5年間働いたあと、6億ドン(約280万円)~9億ドン(約420万円)を貯金できるチャンス・未経験可・学歴不問・入れ墨不可・求人多数・手数料安い>  送り出し機関の広告だった。ベトナム人の元技能実習生を取材するなか、彼らから「3年で最低200万円は持って帰れる」とはよく聞いた。月に使うお金は3万円程度で、最低6万円は貯金する。厚生年金の脱退一時金を含めれば、200万円を超える。筆者が取材した中では、3年で最高400万円近く貯金した人もいた。こうした広告はたいてい大げさに書かれているものだが、意外に正確で驚いた。ただ、山しか見渡せないあの場所で見ると、数字に実感は持てない。それが本当であるかは、村に行けばわかるはずだ。  民家がぽつぽつとある以外は、米とライチ畑が広がっていた。外国人がくることなどないのだろう。軒先で遊ぶ子どもたちに「こんにちは」と話しかけると、姿が見えなくなっても笑い声が聞こえた。そんな村に、ひと際目立つ家があった。3年前から大阪市内の食品加工工場で技能実習生として働くグェン・ヴァン・ルイさん(24)の家だ。偶然にも、同じく大阪で技能実習生として働いていた彼女と帰省していた。 「夜勤と残業が多く、手取りは寮費を引いても17万円くらいあります。毎月14万円は貯金をしています」  ルイさんは誇らしげにそう話す。最低賃金水準で働く技能実習生のなかでは、たくさんもらっている一人だろう。ルイさんは日本に戻りさらに2年、技能実習生として働くという。ルイさんの姉も技能実習生として日本で働いている。農業の仕事に就く父親のタンさん(51)は嬉しい悲鳴を上げた。 「大きな家もできたし、帰ってきてほしい。今度は孫の顔が見たい」  タンさんがライチ畑に案内してくれた。筆者が訪れた6月はちょうど収穫期で、皮が赤く熟れていた。今年は収穫量が少なく、例年より値上がりし、1キロ5万ドン(約230円)程度で取引されるという。農家としての年収は20万円程度になるという。  舗装されていないぬかるんだ道の先に、グェン・ヴァン・クンさん(27)の家があった。奥さんと息子と暮らしている。周囲は山に囲まれ、現地で調達したモバイルWi‐Fiも通じない。クンさんは14年から3年間、日本で技能実習生として働き、帰ってきた。 「送り出し機関に1万ドル(約110万円)を払って日本に行きました。お金は両親が土地の所有権を預けるなどして、工面してくれました。3年働いて両親にお金を返し、200万円貯金してベトナムに帰りました」  お金はすべて投資した。ライチの苗や羊を買い、紙の需要が高まっていることから、4ヘクタールの山を買い、林業も始めた。さらなる投資をするため、また日本で働きたいと話す。  クォアンハイ村で出会った大工によると、家を建てる費用は土地が30坪で200万円、レンガ造り2階建ての家が400万円。3年間の技能実習では土地まで買えないかもしれないが、頑張れば家は建つ。家が建たなくとも、クンさんのように貯金したお金でビジネスを始めることもできる。こうした夢があるからこそ、借金をしてでも日本を目指す若者が後を絶たないのだ。  ベトナムの若者を引きつける日本での技能実習を日本人の金銭感覚に置き換えると、「参加費500万円。3年間、海外で単純労働に就けば1500万~2500万円の貯金ができる。ただし事前に半年間の外国語トレーニングを受けること」といったところ。老後の2千万円問題で揺れる日本で、もしこうした求人があれば、「3年間の我慢でそれだけ貯金ができるなら」と参加する人も多いだろう。  先に旅立った先輩の姿を見て、残った若者たちが旅立つ。水を買いに入った雑貨店で、グェン・バ・フックさん(23)と出会った。今年10月から技能実習生として都内の建設会社で働くという。 「徴兵から帰ってきましたが、なかなか仕事はありません。給料の高い工業団地のサムスンの工場で働いても月700万ドン(約3万3千円)程度でしょう。日本で稼いで、妹が大学に進学する費用を出してあげたいです」  一獲千金のチャンスが日本にある。だから若者たちは日本を目指す。  ただ、そのチャンスがほかにあれば、日本である必要はない。いま、台湾や韓国などに加え、ドイツやルーマニアなどの欧州諸国もベトナム人労働者の獲得に動き出している。日本は「選ばれる国」であり続けられるだろうか。(ジャーナリスト・澤田晃宏) ※AERA 2019年7月22日号より抜粋
AERA 2019/07/19 07:00
【現代の肖像】コラムニスト・伊是名夏子 「門前払い」をはねのけて生きる <AERA連載>
【現代の肖像】コラムニスト・伊是名夏子 「門前払い」をはねのけて生きる <AERA連載>
身長100センチのママ。5歳の長男も3歳の長女もママの電動車いすが大好きだ(撮影/松永卓也) 5歳の息子と3歳の娘にはすでに身長を越された。子育てで最も大変だったのは2人目の出産後。夫は夜勤や出張などのため不在がちで、子どもに何かあったらどうしようと、常に気が張りつめていた(撮影/松永卓也) キャンプにはまっているのは、「小さい頃に連れて行ってもらえなかったからかな」。重いものは持てないし、抱っこをお願いすることもあるが、企画や予約、役割分担などを担当し、輪の中心にいる(撮影/松永卓也) 買うのは子ども服。「車いすが黒いので明るい色を、そして子どもっぽくならないような服を選んでいます」。プチバトーは大好きなブランドだ(プチバトー下北沢店で)(撮影/松永卓也) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  自分らしく生きることは難しい。病気や障害があればなおさらだ。誰かに遠慮し、自分の気持ちをしまって生きる人も少なくない。  だが、彼女は諦めない。歩けなくたって、海外留学へ。好きな人にも猛アタック。2児の母になった。  自分でできないことは多い。反対に遭うこともある。だから知恵を絞り、味方を増やしながら、思いをかなえてきた。  東京都心部から西へ西へと車を走らせ、約2時間。豊かな自然が広がる東京都奥多摩町のキャンプ場に1台の車が到着した。運転席から男性が出てきて、バックドアを開け、スロープを引き出す。中から電動車いすに乗った女性が降りてきた。  女性は先にキャンプ場に着いていた若い女性たちと再会を喜び合った後、「みんな、荷物たくさんあるから、運ぶの手伝ってもらえる?」と呼びかけた。キャンプチェアやクーラーボックス、調理用具、食材などが運び出され、車いすの女性は、砂利道に電動モーターの音を響かせながら、バーベキュー場へと向かった。  輪の中心にいた女性は、伊是名夏子(いぜななつこ)(36)。国の指定難病でもある「骨形成不全症」という病気で、生まれつき骨が弱く、骨折や手術を繰り返してきた。身長100センチ。歩くことはできず、電動車いすが足代わりだ。耳の奥の骨も変化し、右耳は聞こえなくなり、左耳も補聴器をつけている。現在は5歳と3歳の子を育てながら、コラムニストとして新聞などに3本の連載を抱え、講演で全国各地を飛び回る日々を送る。 「最近、キャンプにはまってて」  春や秋には、こうして家族や友人たちと毎月のようにキャンプやピクニックに出かける。キャンプといえばバリアフルで、車いす利用者には縁遠いイメージがあるが、伊是名は私たちを縛ろうとするそうした先入観を軽々と超えていく。  この日、キャンプ場に集まったのは伊是名の夫(36)と子どもたちのほか、大学時代にスタッフをしていたフリースクールに当時通っていた生徒たち7人。もう10年以上の付き合いだ。 ●「1週間もつかもたないか」父はその場に座り込んだ  キャンプ場に到着してまもなく、「バリア」に直面した。トイレへ続く急斜面は舗装されておらず、途中に丸太階段もある。すると伊是名は周囲を見渡し、そのうちの一人に、 「さあや、お願い、トイレに連れて行ってもらっていい?」  と声を掛け、ひょいと抱き上げてもらった。 「さあや」こと佐藤沙安也(28)は言う。 「なっちゃん(伊是名)の頼み方は的確でわかりやすいから手伝いやすいですよ。それに、逆に私が苦手な部分は率先してやってくれるんです。今日だって、キャンプの企画を立てて、みんなのスケジュールを調整し、予約も担当してくれて。今日集まれたのもなっちゃんのおかげです」  そこにあるのは、障害があるから支えてもらう、助けてもらう、という一方的な関係ではなく、「お互いさま」という双方向の関係だ。伊是名は言う。 「障害があってもできることはたくさんある。人はそれぞれ自分の力を発揮できるポジションがあると思っているんです」  伊是名は1982年、沖縄県名護市の病院で生まれた。産声を上げた日、ほかの子と変わらぬその元気な泣き声に、父・進(74)は安心して自宅に帰った。ところが翌朝、進が出勤前に顔を見に立ち寄ると、赤ちゃんはまだ泣いていた。聞けば、一晩中泣き続けているという。  レントゲンを撮ると、両足の骨が折れていた。頭の骨もほとんど作られていない。医師の見立ては「(命が)1週間もつかもたないか」。両手両足にギプスをつけられた娘の姿を見た進は、体の力が抜け、へなへなとその場に座り込んだ。  絶望の中、両親は娘が4月生まれにもかかわらず、「夏子」という名をプレゼントした。太陽が降り注ぐ沖縄の夏のように、明るい子どもに育ってほしいと、精いっぱいの願いを込めた。  医師の予想を覆し、生後1カ月を超えた。那覇市内の病院で診てもらったところ、全身の骨が弱く骨折や変形をしやすい「骨形成不全症」だと告げられ、命にかかわる病気ではないとわかった。  痛みとともに始まった伊是名の人生。骨を強くするために注射を1日おきに打っていたが、抱っこされただけで、またあるときはオムツを替えようと足を上げただけで骨が折れてしまう。 「骨折や打撲は日常茶飯事で、常に体が痛いのが当たりまえでした」  よく泣いていたが、6、7歳のある日、泣くのをやめようと決めた。 「だって、泣いたときにヒックヒックという振動が骨に響いて、余計に痛いってわかったから」  両親とも学校の先生で共働き。だが骨折が心配で、幼稚園や保育園に通わせることができず、就学前は高校の英語教諭だった父が夜間高校への異動を願い出て、朝から夕方まで面倒を見ていた。「親として何を残してやれるか」と考えた父は娘に英語を教え込む。高松宮杯(現・高円宮杯)全日本中学校英語弁論大会で2位になってアメリカのサマーキャンプに招待された経験は、のちの海外留学への強い動機になった。 ●猛反対を押し切り結婚、招待状が送り返された  けがも多く、歩けないため移動は抱っこ。それでも、自分も姉2人と同じようになんでも挑戦した。ピアノや習字、塾など習い事へも行った。  小学生の頃は家の近くにあるショッピングモールが大のお気に入りで毎週のように通った。店内はカートでも移動しやすいよう、通路が広く、段差もない。車いすの伊是名にも快適な空間だ。ただ一つ問題があった。車いす用トイレがなかったのだ。小6のとき、行動を起こした。  レジの横に「お客様の声を聞かせてください」と書かれた箱と備え付けの用紙を見つけ、「車いす用トイレを作ってください」と書いて箱に入れた。しばらく経っても変化はない。そこで今度は10枚持ち帰り、家族や友達、先生などにお願いして書いてもらった。すると、1カ月後、車いす用トイレができていた。 「障害があるから不便なことはいろいろとある。でも、考えて行動することで現状を変えることもできるんだ、と思えるようになりました」  小中時代の9年間は養護学校(現・特別支援学校)でほぼ先生とマンツーマンで過ごしてきた伊是名は、たくさんの友人たちと過ごす学校生活にあこがれ、高校は普通校を受験することにした。両親や養護学校の先生からはバリアフリーの新設校を強く勧められたが、伊是名が行きたかったのは沖縄県内で最も歴史のある県立首里高校だった。校舎は5階建てでエレベーターもない。でも、小5から通っていた塾の友達と一緒の学校に通いたかったことや、あこがれていた男子も進学予定だと聞いて、反対を押し切って受験。無事に合格した。  移動はどうしたのかというと、古い車いすをかき集めて各階に置いておき、階段はクラスメートに抱っこを頼んだ。 「お願いするときのコツは、タイミングを見極めることと、なるべく弟や妹がいて抱っこが上手な人に頼むこと、それから説明の仕方を工夫すること。例えば、『右肩と左のおしりを持ってね』『今日は雨が降っているから足元注意してね』と伝えれば、助けてくれる人も安心でしょ」  大学進学のときも両親の強い反対に遭った。姉2人と同じように東京の大学への進学を望む伊是名に、車いすでの一人暮らしを心配して県内の大学への進学を勧める両親。だが伊是名は譲らなかった。大学時代にはアメリカとデンマークへ留学したが、これも絶対に親に反対されると思い、先に試験に合格し、事後報告。作戦勝ちだった。  早稲田大学ではカンボジアの孤児を支援するNGOサークルに入った。そこで現在の夫と出会う。伊是名から猛アプローチするも、何度も振られた。障害があると引け目を感じて恋愛に踏み切れない人も少なくないが、伊是名は言う。 「気にしませんよ。だって考えても歩けるようにはならないですから」  その後、互いに海外留学で1年以上離れて過ごし、再会した。就職活動で悩んでいた彼の相談に乗る中で、今度は彼のほうから「付き合おう」と言い出した。どんなところに惹かれたのか。 「なっちゃんは『自分はこう思う』とか『こうしたほうがいい』とは決して言わないんです。『あなたはどう思うの?』と問いかけ、自分自身の中に眠っている答えを上手く引き出してくれて」  話すうちに自分のやりたいことが明確になり、第1志望の就職先から内定も得られた。気がつくと、かけがえのない存在になっていた。  だが、結婚までの道のりは険しかった。5年付き合って結婚を決めたが、夫の両親は、伊是名の障害を理由に猛反対。すでに招待状も送っていた結婚式をキャンセルすることになった。その半年後、式を挙げたが、夫の親族側は誰も出席せず、招待状も未開封のまま送り返されてきた。 「夫の両親は、障害者が家にいることがどんなに大変かわかっているのか、と頭から反対で。私たちがどんなに『大丈夫、できます』と伝えても一切聞いてくれず、とっても悲しかった」  その分、たくさんの友人たちが祝福してくれた。二人は、「僕たちが幸せに暮らす姿を見れば、いずれわかってもらえる」(夫)と強い気持ちで結婚生活をスタートさせた。 ●ハイリスクの妊娠・出産、周到に準備して臨んだ  障害と共に自分の人生を切り拓いていくとき、人並み以上のハードルがあるのは事実だ。だから伊是名は実に細やかに、あらゆる事態を想定して事前の備えを怠らない。人に対してもこまやかな心配りでたくさんの味方を得たからこそ、困難な中でもやりたいことを次々に実現してこられた。  妊娠・出産がまさにそうだ。骨形成不全症は2分の1の確率で遺伝する。母体や赤ちゃんの命の危険も一般の妊婦と比べて高い。将来、子どもがほしいと考えていた伊是名は、まずは自分の体について知るため、20代の頃から婦人科を受診した。だが、多くのクリニックで「門前払い」を受ける。 「足を開いて座る内診台には座れないと決めつけられ、子宮や卵巣、膣に異常がないかを確認してもらえなかったんです」  でもそこであきらめることなく、同じ病気で出産を経験した女性から病院を紹介してもらった。初めて、伊是名の子宮は一般女性の平均以上の大きさだとわかった。医師は言った。「妊娠、出産の可能性は十分にありますよ」 「すごく嬉しかった。そのときに撮った子宮のエコー写真は宝物になりました」  結婚後も自身の病気や出産のリスクについて学び続けた。夫の転勤で移り住んだ香川県では、大学院に進学して特別支援教育を専攻。低出生体重児で生まれた赤ちゃんの障害のリスクを学び、自分と同じ骨形成不全症の女性たちへインタビューして論文も書いた。  あらゆるリスクを想定して妊娠に臨んだが、母子ともに無事に生まれてくる保証はなかった。伊是名が第2子を出産した際の主治医で、現在は東京女子医科大学准教授の水主川純(43)によると、母体が小さいため、胎児の成長とともに胃や心臓、肺などが圧迫され、呼吸が苦しくなったり心臓への負担が高まったりするほか、出産予定日近くまでおなかで赤ちゃんを育てることが難しいため、赤ちゃんが低出生体重児で生まれやすい。赤ちゃんに病気が遺伝していれば胎内や出産時に骨折する危険性もある。  水主川は、伊是名の妊娠についてこう振り返る。 「ハイリスクの妊娠でしたが、伊是名さんはいつも明るい顔をしていて、出産に前向きでした。『ちっちゃい頃は転ぶたびに骨折していたんです』などと笑ってなんでも話してくれて。コミュニケーションを取りやすかったことも、出産がうまくいった要因の一つだと思います」  2回の妊娠は、予想を超えて順調に経過。どちらも予定日より1カ月あまり早い妊娠35週(9カ月)のときに2160グラムで生まれた。第2子出産では、最初の帝王切開時に子宮の上部を大きく切る特殊な手術法だったため、子宮破裂の危険も高かったが、無事乗り越えた。 ●互いの姓を大事にしたい、3月にペーパー離婚  病気が子どもに遺伝する確率は5割。それを理由に、親や親族から出産を大反対されたが、伊是名も夫も障害のある子を育てる心づもりはできていた。知り合いに病気が遺伝した子を育てている素敵なロールモデルがいたことも大きかったが、 「私自身、障害がなければよかったと思ったことがないですから」  と伊是名。夫も遺伝のことは全く気にしていなかったという。 「一つの家に車いすの人が2人いるとどうなるのかなと考えていたぐらいですね」  当時のフェイスブックには、夫の気持ちがこう綴られている。 <車椅子でも、発達障害でも、アレルギーがあっても、性的マイノリティーになったとしても、自分らしく生きてくれればいいし、そう生きられる環境を作ってあげたい>  子ども2人には、病気は遺伝していなかった。  日々の子育ての中で、伊是名には「できないこと」が多い。例えば5キロ以上のものを持つことができないので、愛する我が子も生後6カ月で抱っこできなくなった。素早くは動けないから動き回る子どものオムツ替えも難しい。そうした子育てを支えるのが、総勢10人のヘルパーだ。  障害者総合支援法の重度訪問介護のサービスを利用して、朝7時半から夜9時まで、1日3人のヘルパーに合計10時間来てもらっている。ヘルパーは訪問介護の事業所などに派遣してもらうのが一般的だが、伊是名はすべて自分で探し、シフト管理もしている。 「ヘルパーさんにもそれぞれ得意なことや苦手なこと、くせなどがあるので、相手によってお願いする仕事やお願いの仕方を変えています」  片づけ上手の人には整理を手伝ってもらい、料理が得意な人には作り置きのおかずもつくってもらう。スケジュール管理が苦手な人には前日に再度連絡を怠らない。その姿は、「介護を受ける障害者」のイメージは全くなく、さながら10人の部下をまとめる管理職だ。  子育てで大事にしているのは「自分のことは自分で決める」ことだ。ある日の食事中、妹が兄のコップを使っていた。「これ、僕のだよ」と取り返そうとした兄に、妹は「いいじゃん、お兄ちゃんなんだから」と言い返した。やり取りを聞いていた伊是名がすかさず間に入る。 「お兄ちゃんなんだから、なんて言わないよ」 「○○だから」。私たちのまわりにあふれるこうした「呪い」は、その人自身の生きる世界を狭めてしまう。伊是名は「障害者だから」「車いすだから」という言葉をはねのけて生きてきたからこそ、誰もが自分の意思に自由に生きられるよう、こうした呪いの言葉を丁寧に取り除いていく。  義父母も今は孫たちにめろめろだ。結婚のとき、夫が話していた通りになった。  今年3月、ペーパー離婚した。  2010年に結婚式を挙げたとき、互いの生まれながらの姓を大事にするため、事実婚を選んだ。その後、第1子を妊娠中、生まれてくる子どもを非嫡出子にしないために婚姻届を提出。コラムニストの仕事は旧姓で続けていたものの、病院や市役所で夫の姓で呼ばれるたびに、違和感があった。  離婚届を提出した後、住民票の続柄の欄には「妻(未届)」と記載してもらった。 「やっとありのままの自分を取り戻せた」  これからも自分の道を歩いていく。 (文中敬称略) ■伊是名夏子 1982年/沖縄県今帰仁村出身。英語教諭の父・進(74)、家庭科教諭の母・トミ子(71)の三女として生まれる。名護市内の病院で生まれたときにすでに両足の骨が折れていた。生後1カ月で「骨形成不全症」と診断される。翌年、那覇市に転居。 89年/沖縄県立鏡が丘養護学校(現・特別支援学校)小学部に入学。 95年/中学部に進学。 96年/中学2年生のときに高松宮杯(現・高円宮杯)全日本中学校英語弁論大会で2位になり、副賞でアメリカでのサマーキャンプへ招待される。 98年/沖縄県立首里高校に入学。放送部、生徒会、インターアクト部に所属。 2001年/早稲田大学第一文学部に入学。初めて一人暮らしをする。カンボジアの孤児を支援するNGO「風の会」で活動。 03年/大学3年生のときにアメリカ西海岸のカリフォルニア州立大学サクラメント校に1年間交換留学。 04年/デンマークの全寮制の学校バーナホップフォルケホイスコーレに3カ月留学。帰国後、フリースクール「おひさま地球子屋」スタッフとして活動。 06年/早稲田大学第一文学部総合人文学科英文学専修卒業。卒業後もフリースクールのスタッフとして働く。 07年/沖縄のバリアフリーネットワーク会議バリアフリーツアーセンターで勤務。 08年/沖縄県の小学校で1年間英語講師として勤務。 10年/大学時代から付き合っていた恋人と結婚(事実婚)。夫の転勤で香川県に転居。 11年/香川大学大学院に入学。発達障害児のICT利用を研究。 12年/かがわ青少年育成支援ビジョン策定検討会委員を務める。 13年/大学院修了。修士論文のテーマは「20代の骨形成不全症の女性の当事者研究」。第1子出産。子どもを非嫡出子にしないために出産直前に婚姻届を提出。 14年/夫の転勤で川崎市に転居。 15年/第2子出産。 19年/約6年間の婚姻期間を経てペーパー離婚し、事実婚に戻る。現在は琉球新報、東京新聞、ハフポストでコラムを連載中。5月に初の著書『ママは身長100cm』(ハフポストブックス)を上梓予定。 ■深澤友紀 1978年生まれ。琉球新報社を経て、2012年、朝日新聞出版に入社。現在「アエラ」編集部。スポーツ、働き方、子育て、障害児・者、沖縄などを取材。著書に『産声のない天使たち』がある。 ※AERA 2019年4月22日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/07/18 10:30
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