【現代の肖像】NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事・永井陽右 ソマリア紛争問題を解決に導く27歳 <AERA連載>
テロリストの「脱過激化」で紛争を解決する。僕の前に道はない。だから疾走する価値がある(撮影/篠田英美)
人は生まれる場所を選べない。もしも自分がソマリアに生まれていたら……と考えれば、人間としての最低限の「権利」は守られるべきだろう。「身内だから助けるって感覚とは違います。人権ですよね」と永井(撮影/篠田英美)
最近、自宅で飼い始めた愛猫、「ポコ」と。もともと少年時代は「ランちゃん」という柴犬をこよなく可愛がっていたのだが、猫派に転向か。猫の気ままさに手を焼いている(撮影/篠田英美)
東京都内の移動には、けっこう自転車を使う。アフリカから帰国すると、疲労の蓄積で、しばしば発熱する(撮影/篠田英美)
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ソマリアは今でもテロが頻発し、多くの人間の命が奪われている。治安の悪さに、他国も簡単には手を差し伸べられない。解決できるのはクソな大人じゃない、俺たちなんだと、そんな国の紛争問題に取り組むのが永井陽右。ギャングと腹を割って話し合い、受け入れ、その上でどうすれば社会を変えられるのか考える。敵はギャングではないはずだ。
アフリカ大陸の東端、インド洋に突き出た半島国「ソマリア」は、テロの暴風が吹き荒れている。2017年10月にイスラム過激派組織アル・シャバーブが爆弾を積んだ自動車を繁華街で爆発させ、500人以上が亡くなった。米メリーランド大学の調査では、17年に同国内で614回テロが発生し、1912人が死亡している。和平は遠い。
外国人の誘拐も頻発し、人道援助で名高い「国境なき医師団」でさえ多くのスタッフを殺されて退去したままだ。外務省は全土を危険度レベル4とし、退避勧告している。国際社会は遠巻きに殺戮の嵐を眺めている。貧しい辺境の国、ソマリア。
今年4月下旬、永井陽右(27)は、そのソマリアの首都、モガディシオにいた。国連とアフリカ連合の共同管理地域「コンパウンド」でソマリア政府職員や現地関係者と折衝を重ねていた。コンパウンドにもときどき迫撃砲が撃ちこまれる。
NPO法人アクセプト・インターナショナルの代表理事を務める永井の仕事は、アル・シャバーブからの投降兵を「脱過激化」し、社会復帰に導くことである。元テロリストが過激思想から脱却し、地域コミュニティーと関係を結び、経済的、社会的に自立できるように誘う。今夏にはソマリア政府と協働で施設を開き、DRR(De-radicalization・Reinsertion・Reintegration)と呼ぶプロジェクトを開始する。
それにしてもイスラム教徒でもない日本の若者が、どうやってテロリズムに染まった人間の「心」を動かし、社会との接点を築こうというのか。
●問題の提起よりも解決する方が重要だ
ソマリアへ発つ前、永井はこう語った。
「なぜテロ組織に入ったのか。本人と腹を割って話し合います。同世代の若者として問題意識を傾聴し、こう訊きます。『テロで状況が変わった? 組織に入って何か変わったの?』。これがキラークエスチョン。彼らは欧米も国連も、政府もクソだ、同胞を殺したと怒りをぶちまける。その怒りに寄り添うのです。だったらクソじゃない僕らが一緒に社会を変えよう、と受け入れる。フラットに向き合うわれわれは何の利害関係もなく、丸腰だから対話ができます」
「アクセプト」=受け入れが出発点なのだ。投降兵はDRR施設の職業訓練で手に職をつける。往々にして国連や他のNGOの取り組みはそこで終わるが、溶接や縫製を覚えても簡単に職が見つかるわけではない。巷には失業者があふれている。まして元テロリストだ。さぁ、これからと膨らませた希望が潰え、テロ組織に戻るケースもある。
「職に就けず、何だ、話が違うと幻滅してテロにUターンさせてはいけない。そこが勝負です。前もって投降兵には社会に出ても差別や偏見がつきまとうと明確に言います。そのうえで就労の過程を緻密に検討して彼らの視座を増やす。幻滅させてはいけません。厳しい現実への抵抗力が必要です」
話を聞きながら、私は投降兵を受刑者や虐待加害者に置き換えれば日本でも応用できるのではないか、と思った。再犯を防いだり、虐待を減らすには他人に危害を加える心と行動を変えなくてはならない。永井の関わり方は普遍的だ。
しかし……テロの根は深く広く張っている。
4月中旬、ケニアとソマリアの国境地域マンデラで2人のキューバ人医師が誘拐され、永井も参加予定だったテロ化予防青年センターの開所式が延期された。医師の消息は不明だ。永井がソマリアに着いて間もなく、スリランカで連続爆破テロが発生し、「イスラム国」の悪夢が甦った。現地での活動に影響はないか、とメールで問うと、こんな返信がきた。
「直接的影響はありません。世界中どこでもテロが起きる。ソマリアは和平合意もなく、テロ組織が極めて活発なので(投降兵を)信頼しようがないというのが人びとの本音。どうにかしようと奔走しています。初志貫徹でベストを尽くします」
永井は常々、ニーズに応じて動く、問題の提起よりも解決が重要だ、と説く。ときには「テロの被害者を支援しろ」と批判も浴びる。だが加害者がいる限り、紛争はなくならない。精神の武装解除に全身全霊を傾ける。この新しい突破力は、いかにして育まれたのだろうか。新時代の到来を感じさせる若者の肖像を描いてみよう。
●ケニアのイスリー地区へ、恐怖で足が震えた
少年は、無意識のうちに転機を求めていた。
大企業に勤める父と、しっかりものの母の間に生まれた。傍目には恵まれた中流家庭のようだが、内実は違っていた。体罰と反抗的暴力の連鎖を断てず、鬱屈したままエネルギーのはけ口を求めた。少年は悪ガキ集団に入り、弱い者をいじめた。自己中心的で他人は眼中になく、部活のバスケットボールだけが熱中できるものだった。中学時代の偏差値は40前後、3月入試で辛うじて高校に滑り込んだ。
ただ、強い自我は人知れず生き方を探っていた。高校2年の夏、ネットで南太平洋の島国「ツバル」のニュースを見て愕然とした。地球温暖化で海面が上昇して水没の危機に瀕している。壮大な喪失を通して世界の広さを感じ、無数の「他者」が集まって社会ができていると気づいた。
ヒーローものの漫画が好きな少年は、「何とかしなくては」と奮い立つ。「他者のために」と考えて頭に浮かんだのが殴ったり、蹴ったりした相手だった。いじめを謝罪しようと先方の家に足を運ぶが、玄関の呼び鈴を押せなかった。せめていじめられる側に立とう。ここが最初の転機だった。
1浪して早稲田大学教育学部に進むと、1990年代に民族紛争で大虐殺が起きたルワンダを訪ねた。虐殺記念館で割られた頭蓋骨やへし折られた上腕骨を見て、加害者への怒りがこみ上げる。殺された者の「痛み」を思い、暴力を止めよう、最も耐えがたい「痛み」に向き合おうと期した。
ルワンダからの帰途、たまたまケニアの首都ナイロビのソマリア難民・移民が集まる地域に足を踏み入れた。車で案内してくれたケニア人青年は「ここはイスリー地区。テロリストの巣窟だ。ソマリアの過激派組織とつながっている。たむろしているギャングは人を殺す」と言って眉を顰めた。
運命的なソマリアとの出合いだった。ソマリアは、91年に激化した内戦で無政府状態に陥り、国連や多国籍軍の武力介入が混乱を増幅させ、泥沼の様相を呈していた。そこに飢饉が追い打ちをかける。国連は「比類なき人類の悲劇」とソマリアの状況を表現していた。世界で最も耐えがたい「痛み」がそこにあった。
永井は、11年9月、早大のソマリア人留学生2人と「日本ソマリア青年機構」を立ち上げた。手さぐりで活動を始める。平和構築や国際支援の専門家の反応は冷ややかだった。永井が助言を請うと、「素人で知識もなく、英語も喋れないきみには無理だ」「他の国で経験を積んだほうがいい」「ソマリアに行けば死ぬよ」と突き放される。
少数だが永井の背中を押してくれる大人もいた。早大社会科学部で紛争予防や平和構築の講義を行う教授、山田満(63)もそのひとりだった。
「平和構築には武装解除、動員解除、社会復帰がありますが、日本政府は停戦後にアクションを起こします。永井君は違う。紛争状況で先手を打とうとする。私の科目を取る学生は国連や政府機関、PKOで働きたがるけど、彼は既定路線には無関心でした。独立独歩の大望を抱き、社会起業家に近い。戦略もある。国内より先に国際的評価が高まるタイプです」と山田は述懐する。
永井はケニアのNGOと手を携え、ナイロビのイスリー地区のギャング団の脱過激化に焦点を絞った。逃げ込んだケニアでもソマリア人の青少年は爪はじきにされ、貧困の底に押しやられていた。
一部はギャングになり、強盗や殺人、ドラッグの密売に走る。治安の悪化が最大の問題だった。
13年9月、永井はイスリー地区のバスケットボール場に歩み入った。粗末な屋根が細い柱に載っただけの、壁もないコートで仲間とバスケットに興じていると、刺すような視線を向けられた。
「あいつらギャングだよ。関わるな、ヨスケ」と現地の仲間が耳打ちした。
永井は7、8人の一団に近づき、「僕は日本のNGOの代表。ソマリアが大変なので、同年代の僕らで社会を変えよう。一緒にどう?」と名刺を渡した。脱過激化のプロジェクトを説明すると、突然、左目が真っ赤なギャングが立ち上がり、「じゃあ俺の目を治せ。おい治してみろ」と叫んで永井の胸を突いた。その名もレッドアイ。約60人のギャング組織、カリフマッシブのリーダーだった。マリフアナの吸い過ぎで目が充血しているようだ。
「僕は医者でも金持ちでもない。問題を一緒に解決したいだけだ」と永井は睨みつけた。一触即発、ソマリア人青年が取りなし、その場を収めた。コートを出て「ヨスケ、何で名刺なんか渡したんだ。名前も連絡先も覚えられたじゃないか。しばらくイスリーに近づくな」と仲間にたしなめられ、永井は足がガタガタ震えた。ギャング間の抗争で死人が出るのは珍しくなかった。怖さが襲いかかる。
ケニア側のスタッフの尽力で、何とかギャングとの対話セッションが滑りだした。
●社会を変えるのは僕ら、一緒にヒーローになろう
帰国前に永井は、ソマリアの多国籍治安部隊に勤める男性職員に付き従い、初めてモガディシオに入った。コンパウンド内を視察していると、街の中心部で自爆テロが起きて32人が死亡した。
その夜、夕食のテーブルで男性職員が言った。
「今朝のテロで甥っ子が死んだ。おまえは熱意がある。ソマリアのために働きたいと言ってくれるのは嬉しい。だけど、いまのおまえに何ができる? よく考えろ。何ができるのか」
永井は自分の無力さを痛感し、押し黙った。偉そうなことを言っても何もできない。長い沈黙のあとに腹の底から言葉をしぼり出した。
「最速で、必ずソマリアに戻ってきます。問題の解決に向けて、絶対に価値のあることをします」
紛争解決のプロフェッショナルになろうと覚悟を決めた。2度目の転機であった。
早大を卒業すると、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に修士留学し、紛争研究の傍らギャングの脱過激化に力を注いだ。同世代のよしみは、ときに宗教や習慣を超えた。ともにサッカーボールを蹴り、アニメ「ドラゴンボール」の話で盛り上がる。ギャングたちは、イスラムの長老が「更生」させようと垂れる説教よりも、ヨスケとの本音の話に耳を傾ける。内心、彼らも足を洗いたがっていた。ギャングが訴える。
「俺たちの敵は警官だ。奴らはギャングの一員と見れば問答無用で射殺する。人違いでもお構いなしだ。俺は好きでギャングになったわけじゃない。親もいない、教育も受けさせてもらえなかった。生きていくには金がいる。俺らを悪人だというなら、警察や政府、国連やアメリカのほうが悪人だ。大人はどいつもこいつもクソったれだ」
「じゃあ問題だらけの社会を誰が変えるんだ? 不満を言いながら人から金を巻き上げて、物を盗んで何が変わった? 大人なんてどうでもいいよ。社会を変えるのは僕らでしょ」と永井。うんざりするぐらいに話し合い、ようやくギャングが心を開いた。
「偏見を捨てて俺たちを受け入れてほしい。話を聞いて、職を見つける相談にのってくれないか」
「もちろん。一緒にヒーローになろう」
長い対話の果てに接点が見つかり、アクセプトはギャングを受け入れる。改心したギャングは小学校に出向き、生徒に向かって「俺たちのようにはなるな」と語りかけた。
永井は受け入れたギャングを次の脱過激化プログラムのスタッフに登用した。そうして仲間が仲間を説得し、前述のギャング組織カリフマッシブは17年秋、全員がアクセプトに受け入れられ、解散した。その解散式でかつて永井を挑発したレッドアイは、「俺たちは昨日いた場所に戻る必要はない。この機会を両手で受けとめよう」と言い切った。いまやレッドアイは重要なメンバーの一員だ。
永井の突破力は凄まじい。といっても古い猪突猛進型ではない。永井と親しい雑誌編集長、三根かよこ(32)が語る。
「永井君は死ぬのが怖いってよく言います。一方で、『いま、ここ』の実存を大切にしたい、とも。いま、ここに集中して自分を奮い立たせて怖さを乗りこえるのでしょう。覚悟はそのときすればいいけど、勇気は何度も必要だって。とても繊細です。そのヒリヒリした感じに嘘はないですね」
●時にギャングの脅迫は現地日本人スタッフにも
現在、永井率いるアクセプト・インターナショナルには約35人の日本人メンバーが所属している。皆、社会人や学生のボランティアだ。活動は事業部ごとに行う。たとえば、資金調達チームは毎週土曜に事務所に集まり、業務に携わる。ケニア、ソマリア、インドネシアのメンバーともチャットのアプリを使って連絡を取り合っている。
組織運営上の課題は、財源の確保だ。18年度の収入は約1500万円だった。今年度は倍増の目標を掲げる。四つのプロジェクトが同時進行しており、企業や個人の寄付が頼りだ。JICA(国際協力機構)から転職してきた事務局長、秋葉光恵(26)は、「ずっと最前線で活動したいので8千万円の予算規模に早く到達したい」と言う。
しなやかな組織を背負って永井は疾走する。ただ、その突破力をしても「政治」の殻を破れないこともある。中国・新疆ウイグル自治区へのアプローチがそうだった。
近年、中国政府はウイグル人の分離・独立運動を警戒し、弾圧を強めた。100万人以上のウイグル人を逮捕し、新疆の収容所で洗脳しているとも伝わる。中国内の抑圧から逃れてトルコや中東を目ざすウイグル人は少なくない。その一部がテロ組織と接触して軍事訓練を受け、経由地のタイやインドネシア、マレーシアでテロを実行する。
内政の弾圧がウイグル人を過激化させ、結果的にテロがアジアに拡散する。永井は源流の新疆で過激化予防事業を展開できないかと調査に赴いた。
ところが、まったく身動きが取れなかった。
「何をしても全部、公安に見られて調査になりません。ウイグル人と喋っていると公安がついてくる。長時間、話をしたら、その人が拘束対象になってしまう。NGOの概念もありませんでした」
と、永井はふり返る。「中国には手を出すな」と止めたのは、恩師の早大教授、山田だった。「調査を続けたら間違いなく刑務所に入れられる。絶対にだめだ」と山田は制した。スパイ容疑で拘束されたら万事休す。永井は方針を変えた。
現場は、いつも揺れ動いている。4月上旬、永井は受け入れたギャングから脅迫されていた。「おまえを殺す」「賄賂を取っているのをばらしてやる」と執拗にチャットで迫ってくる。弱みを見せたらつけ込まれる。「きみのプロファイリングはできている。脅しはきかない。冷静になれ」と応じた。矛先がナイロビの日本人スタッフに向いて青ざめた。活動を止め、スタッフを避難させる。最終的に先輩ギャングが脅迫者をなだめて鎮まった。
永井の新しいストラテジー(戦略)は、「いま、ここ」の間断ない変化に集中しつつ、別の回路で本質を強く意識しているところにある。ソマリアへ飛び立つ前、途方もないことを口にした。
「現実的な対処と並行して、やはりアル・シャバーブとの対話の場をつくるべきです。どんな相手でも、アクセスの方法はあるはず。関われれば交渉の糸口がつかめる。仮にですよ、お金で半年間、停戦合意ができる、となれば悪くはないですね」
重要な情報は現場に潜む。爆発音とどろくモガディシオで永井は紛争解決の根源を見据えている。
(文中敬称略)
■永井陽石
1991年/神奈川県海老名市生まれ。市立海老名中学、私立藤嶺学園藤沢高校でバスケットボールに熱中する。
2008年/ネットで配信された「ツバル」のニュースを見て、世界の広さ、「他者」の存在を認識し、いじめられる側に立とうと決心。
11年/早稲田大学教育学部に入学。ソマリア人留学生2人と「日本ソマリア青年機構」を設立。活動を開始。
12年/ケニアのナイロビ郊外イスリー地区のソマリア人コミュニティーにスポーツ用品を寄付。支援を本格化。
13年/イスリー地区のソマリア人ギャングの脱過激化・社会復帰支援事業を始める。若者どうしの対話重視。
14年/「人間力大賞」を受賞。
15年/早大を卒業し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)紛争研究修士課程に入る。
16年/アル・シャバーブ投降兵の脱過激化・社会復帰支援事業を開始。LSE修士課程修了。
17年/NPO法人アクセプト・インターナショナル設立。ソマリアとケニアの国境地域マンデラで国連人間居住計画(UNハビタット)との協働事業開始。ソマリア人ギャング組織カリフマッシブを解散に導く。
18年/インドネシアの元テロリストの脱過激化プログラムに着手。
19年/アル・シャバーブ投降兵へのソマリア政府との協働事業・DRRプロジェクト開始。早大大学院社会科学研究科博士課程に入る。
著書『僕らはソマリアギャングと夢を語る』(英治出版)、『ぼくは13歳、任務は自爆テロ。:テロと紛争をなくすために必要なこと』(合同出版)
■山岡淳一郎
ノンフィクション作家。『神になりたかった男 徳田虎雄』(平凡社)、『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『原発と権力』(ちくま新書)他、著書多数。近著に『木下サーカス四代記』(東洋経済新報社)。
※AERA 2019年5月20日号
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AERA
2019/08/01 13:30