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ラッパー・Zeebra「ライブで呼びたい照明さんのようなサラッといい仕事する野菜は…」
Zeebra Zeebra
ラッパー・Zeebra「ライブで呼びたい照明さんのようなサラッといい仕事する野菜は…」
Zeebra(ジブラ)/東京を代表するヒップホップ・アクティビスト。ヒップホップ専門ネットラジオ局「WREP」では生放送「LUNCHTIME BREAKS」(平日12~13時)のMCを、テレビ朝日「フリースタイルダンジョン」(毎週火曜日深夜1時29分~)ではオーガナイザー兼メインMCを務める。8月31日(野菜の日)に新宿高島屋であった『JA全農 COUNTDOWN JAPAN』の公開生放送は野菜トークで大盛り上がり(撮影/編集部・上栗崇) サツマイモ/ほくほくとした食感が主流だったが、近年は「安納芋」に代表される、ねっとりしたタイプも人気。ゆっくり加熱することで甘味が増すので、家庭ではじっくり蒸すか、オーブン調理がおすすめ。食物繊維やビタミンCなども豊富だが、実は皮の部分にカルシウムや抗酸化作用のアントシアニンが含まれているので、皮もぜひ利用したい(撮影/写真部・松永卓也)  ヒップホップ・アクティビストのZeebraさんが「AERA」で連載する「多彩な野菜」をお届けします。1997年のソロデビューからトップとしてシーンを牽引し続け、ジャンルや世代を超えて多くの支持を得ているZeebraさん。旬の野菜を切り口に、友人や家族との交流、音楽作りなど様々なエピソードを語ります。 *  *  *  ミョウガって和食以外であまり見かけません。調べてみると、英語では「Japanese Ginger」。名前が一文字違いというだけじゃなくて、本当にショウガの仲間なんですね。今まで知りませんでした。  和食の中でも、基本的には薬味です。たまに丸ごと天ぷらなんてことはありますけど。しかも、あまり大衆的なお店ではお目にかからない。ちょっとこだわって、一手間かけてくれるお店だけで使われるイメージです。主役ではないし、出番も少ないけど、ここぞというときには必ずいてほしい。特にカツオのたたきにはもう、絶対不可欠です。「ミョウガ込みでたたきだろ」って思います。  我々の世界で言うと、有名な照明さんみたいな存在でしょうか。ちょっとしたところのライブは彼を呼ぶほどでもないけど、結構大きなところでやるぞ、武道館だぞってなったらあの人に入ってもらったほうがいいね、みたいな。お客さんに同じものを味わってもらうにも、格段に格好良くなる、格式が上がる。それでいてさわやか、ってところが憎いですよね。 ※AERA 2019年9月30日号
Zeebra
AERA 2019/09/26 11:30
さいたま小4死体遺棄事件 逮捕の義父は母親と“ネット婚”、ヒモ状態だった
さいたま小4死体遺棄事件 逮捕の義父は母親と“ネット婚”、ヒモ状態だった
殺害された進藤遼佑さん(c)朝日新聞社 進藤悠介容疑者(本人のフェイスブックから) 「本当の父親じゃないと言われて腹が立ったので首を絞めた」  痛ましい事件の真相が徐々に明らかになっている。  9月18日未明、さいたま市見沼区の教職員用集合住宅で、この住宅に住む小学4年生の進藤遼佑さん(9)が殺害されているのが見つかった事件で、埼玉県警は19日夜、義理の父親の無職、進藤悠介容疑者(32)を死体遺棄容疑で逮捕した。捜査関係者によると、殺害についてもおおむね認めているという。  遼佑さんは高校教員の母親(42)の連れ子。母親は1年半ほど前にネットで知り合った悠介容疑者と今年3月に再婚したという。近所の人は、悠介容疑者が再婚相手だと思っていなかった人も多かった。 「時々、悠介容疑者は遼佑さんと一緒にいたが、20歳代くらいに見えて、年の離れた兄弟かなと思った」 「遼佑さんはテストでもよく満点をとっていた。走るのも速いし礼儀も正しい、本当にいいお子さんでしたよ」(同級生の保護者)  一方で、再婚を知る別の保護者はこう話す。 「(悠介容疑者は)授業参観や保護者会にいつも来ていた。私も14日の公開授業で見かけた。親子で仲良く話しているのを見かけたこともある。直接話したことはないが、いい人そうだな、若いのに偉いなと思っていた。イケメンだった」  捜査関係者は言う。 「悠介容疑者は広島県出身。東京の大学で福祉を学んだ。介護関連の資格があるようで、結婚後に仕事を探していたようだ。最近は無職という状態が続いていた。普段はヒモ状態。遼佑さんもそれを見ていたはずで、そういう複雑な家庭状況で何らかのトラブルがあったのではないか。今後、そこを追及することになる」  精神科医の片田珠美さんは次のように分析する。 「悠介容疑者にとって、血のつながりがない遼佑さんは望まぬ子どもであり、今回の事件は私の四つの分類でいえば『望まぬ子どもを消すための子殺し』だったのではないか。義理の父親と息子は母親からの愛情をめぐりライバル関係になりやすく、緊張が続いていたと考えられる。遼佑さんは、母親を取られたと感じて、反感を抱いていただろうし、母性を求めて結婚したと考えられる悠介容疑者も、やはり遼佑さんを良くは思っていなかっただろう。事件の引き金になったのは『本当の父親ではない』という一言だったのではないか」  悠介容疑者の真の動機の解明が待たれる。(本誌 今井良、緒方麦/今西憲之) ※週刊朝日 2019年10月4日号
週刊朝日 2019/09/21 12:40
【現代の肖像】モンベル会長兼C.E.O・辰野勇 山男が「社会に必要とされる会社」を築いた <AERA連載>
【現代の肖像】モンベル会長兼C.E.O・辰野勇 山男が「社会に必要とされる会社」を築いた <AERA連載>
事業に成功するより、人生に成功することを目指す。やることは、まだある(撮影/松永卓也) 登山の成功は、無事に帰ること。天候の急変や雪崩・落石。牙をむく自然を想定し、先を読み、万全の備えと迅速な決断が命を守る。経営に必要なことは山で学んだ。新商品展示会で。いつもこんな服装(撮影/松永卓也) 挑戦は、怖い。だが岩場に手を掛けた瞬間、恐怖を忘れる。手の届く1メートルをどう登れば安全かに集中する。自宅の書斎には、いつでも飛び出せるよう登山道具などが透明な引き出しに整理されていた(撮影/松永卓也) 横笛はサックス奏者・渡辺貞夫から習った。2人でチベットに向かう途中、中国・成都で見つけ、旅の供にした。吹き始めると、集中し、無我の境地に至るという(撮影/松永卓也) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。 「死の壁」ともいわれるスイスのアイガー北壁を制覇し、グランドキャニオンをカヌーで下った。 「好きなことを仕事に」とアウトドア用品のモンベルを起業。山岳で培った力をバネに年商800億円の企業に育てたが、高みに立つと、より大きな山々が見える。目指すは「社会に必要とされる会社」。存続を懸けた挑戦は続く。  にわか仕立ての水路をカヌーが進む。プラスチックの岩山にザイルを握った子どもが挑む。10連休2日目の4月28日、横浜・みなとみらいの展示場は親子連れで賑わっていた。 「外はいい天気だというのに、秘密結社の集まりみたいな会場に来て頂き、ありがとう」  初老の男がステージから、渋い声で呼びかけた。浅黒い顔に白髪交じりの頭。登山家であり、カヌーの冒険家、そしてアウトドア用品の大手モンベルの創業者・辰野勇(71)だ。この日はモンベルクラブの会員向け「フレンドフェア」。年会費1500円を払ってモンベルの社会活動を支援するクラブ会員はいまや全国に91万人いる。  新作のウェアや野外用品、お買い得のアウトレット品が並ぶ。提携する自治体や企業が出店する「フレンドショップ」には、自然を体感するイベントや観光情報、野趣に富んだ製品が賑やかに展示されていた。 「社員たちが準備した手作りのフェアです。今日は一日楽しんでください」  辰野は挨拶もそこそこに持参した横笛を吹き始めた。四国の四万十川をカヌーで下った時に作曲した「四万十の春」。チベットを目指す道中で教わったという「草原情歌」や映画「もののけ姫」のテーマなど、旅の思い出や自然の奥深さを語りながら、一生懸命に吹いた。 「笛の音色は微妙でね。残念ながら今日はどうもノリが悪い。明日はもっとうまく吹きます」と観客に頭を下げ、ステージを降りた。そのあとカヌーの展示場に現れ、新製品の電子マシンを見つけ「挑戦だ」とばかりパドルを握った。選手が屋内で鍛える練習マシンだ。スタートの合図でぐいぐい漕ぎ、歯を食いしばってゴールイン。2分30秒。どよめきが起きた。現役選手でも2分10秒台なのに71歳のタイムとは思えない。傍らにいた日本障害者カヌー協会会長・吉田義朗(65)は「フェアを一番楽しんでいるのは辰野さんじゃないですか。笛吹いたり、マシン漕いだり。思いっきり真剣。それがあの人の楽しみ方です」。 ●自分たちのほしいものを自分たちで作ろう  事故で脊椎を痛めた吉田がモンベル主催の障害者カヌー教室に参加したのは28年前。まだ個人経営を思わせる小さな会社で、土日に奈良の吉野川で開かれる教室は社長の辰野がインストラクターとして飛び回っていた。中学生だった長男・岳史(現モンベル社長)がはしゃぎながら手伝っていた。企業の支援活動というよりカヌー好きの社員やボランティアが障害者と一緒に楽しむ週末イベントだった。  下半身が利かない吉田は、川に浮かんでいると自分が障害者であることを忘れた。教わるというより、面白いから技を覚え、次へと挑戦したくなる。生きる力はそうやって備わるものではないか。辰野から「本気で楽しむことの力」を教わったという。 「重い荷物を担いで歩く。登山は他人から言われてやるなら苦役です。好きだから、わくわくしながら前に進める。仕事も同じだと思う」(辰野)  辰野は28歳の誕生日にモンベルを起業した。思いを共にする仲間が2人いた。ロッククライミングスクールの教え子だった真崎文明と山岳仲間の増尾幸子。3人とも登りたい山はまだまだあるのに、会社勤めでままならない。集まってはどんな商売がいいか語り合った。目を付けたのが登山用具だった。材質や使い勝手が極限での生死を分ける。欧州に名品が少なくないが、値段は高く、必ずしも日本人の体格に合っていなかった。必要なもの、ほしいものを自分たちで作ろう。眼には自信があった。社名はフランス語で「美しい山」に決めた。  経験も資金もない若者が、情熱だけで始めた会社は、アウトドアの風に乗ったが、登山と同じで、頂上への道は険しかった。  実績のない会社に登山用品の注文は来ない。開業1年目はスーパーマーケットの買い物袋を下請け生産して凌いだ。やがてスポーツウェアも手掛けるようになったが、発注が突然打ち切られる。安いところが見つかれば、注文主はためらうことなく他社に代える。「下請けでいる限り自分たちが作りたい商品は出来ない」と思い知った。苦しくてもモンベルで売る。しかし問屋・小売りを通さなければ消費者に届かない。登山家である自分たちは「いい製品」と思っても、何層もある流通担当者のメガネにかなわなければ扱ってもらえない。小売店の棚に並ぶのはごくわずかだった。  朗報は海外から舞い込んだ。創業から3年目のクリスマスイブのことだった。ドイツ最大のスポーツ用品店スポーツ・シュースターから航空便が届いた。「寝袋100個、オーバーミトン、防寒衣料……」。注文書だった。この年の夏、辰野はドイツに出かけた。日本では理解されなくても、品質にこだわるドイツなら分かってもらえる。一縷の望みをかけ、アポなしの飛び込み営業に出た。スポーツ・シュースターはアイガーに登った時、用具を買いそろえた店である。  ミュンヘンの本社を訪れると、仕入れ責任者が会ってくれた。「私は登山家でアイガー北壁を登った」。たどたどしいドイツ語で自己紹介すると相手の表情が和らいだ。ヒマラヤ登山家だった。寝袋を取り出し「デュポンが開発した新素材を中綿に使った画期的な製品です」と強調した。しっかり見てもらえた。それだけで嬉しかったが、3カ月後、予期せぬ発注が来た。寝袋は国内でも評判になり、モンベルの成長軌道が始まる。 ●21歳の世界最年少でアイガー北壁登頂成功  矢野経済研究所の調べでは、国内のアウトドア関連の市場規模は2017年で4398億円(前年比3・2%増)という。「遊び」はコンピューターゲームなど「閉じこもり系」に向かう一方で、野外で自然を体感するアウトドアは静かなブームとなっている。消費不況の中でも市場は右肩上がりで拡大している。モンベルグループの売り上げは18年度で約800億円(海外含む)だったが、10年前(約270億円)とくらべ3倍になった。  辰野は1947年、大阪府堺市で8人きょうだいの末っ子として生まれた。父は屋台からすし屋を始めた苦労人だった。朝早くから仕込み、休みなく働き続ける背中を見て育った辰野は、いつかは自分もなにか商売をするのだろうと思っていた。  小学校6年の時、残念なことがあった。卒業前に近くの金剛山に登る恒例の耐寒登山に参加できなかった。食が細く虚弱体質と見られ校医の許可が出なかった。幼心に小さなトゲが刺さった。中学になって、友達と近場の山を目指す。日本隊が56年にヒマラヤのマナスル登頂に成功し、登山ブームが起きていたころだ。高校には山好きの数学教師がいて、授業中に「世界で一番美しい場所はスイスのラウターブルンネンというところで」などと山の話を聞かせてくれた。そして国語の教科書でハインリッヒ・ハラーの「白い蜘蛛」に出合う。アイガー北壁には氷雪が巨大な蜘蛛の形で張り付き、雪崩や落石を繰り返す難所がある。白い蜘蛛と闘い頂上をきわめた感動的な登頂記だった。 「登山家になってアイガーに登る」と心に決め、休み時間にリュックを背負って階段を上った。ロープで校舎の壁を下り、校長室で叱られた。カネがかかると聞き、「アイガー貯金箱」を作り貯めた。  大学進学は無駄に思えた。親には信州大学を受験すると言って西穂高を目指した。高校生の冬山登山は禁止されていたころ。雪をかき分け頂上を目指したが果たせず「山は逃げないから無理するな」と山小屋の主に諭された。雪焼けした顔で戻り「大学は落ちた」。まる分かりのウソに父は「そうか」とだけ。10代で単身旧満州に渡った父は「スポーツ用品店で働きたい」という息子を許した。  住み込みでカネを貯め、休日は一人で岩登り。登山家の中谷三次と知り合いザイルを結び合う友となり、2人でアイガー北壁の登頂に成功する。21歳の辰野は当時、世界最年少での登頂を果たした。15歳で定めた人生の目標を6年でかなえた。次の目標は考えていなかった。  大阪の登山用品店で働き、ロッククライミングスクールを開いた。山を中心とする暮らしが回り始めたが、些細なことで歯車が狂った。店で先輩と喧嘩し殴ってしまった。居づらくなり退職。新婚3日目の出来事だった。会社勤めの妻に頼る失業者は、ふんだんに時間があっても山に出かける気になれなかった。助け舟を出してくれたのは関西学院大学山岳部OBで店の常連客だった。勤めている中堅商社の繊維部門を紹介してくれた。生地や素材を仕入れてメーカーに売る仕事。新素材を探して製品を考案する中で米国のデュポン社の担当者を知った。人脈が、やがて生まれるモンベルの躍進につながる。 ●大震災の経験から「浮くっしょん」を開発  商社の仕事は忙しく、山と疎遠になる。クライミングスクールは閉校。漠然と考えていた自営を明確に意識する。30歳では遅すぎる、28歳の誕生日に起業しよう、と決意した。  この頃、山の仲間が相次いで命を落とした。辰野の手元に使い古したコッフェルがある。奥穂高で雪崩に遭った亀井生吉の遺品である。行方不明の知らせに駆けつけた辰野は捜索隊長として降りしきる雪の中を5日間、名を呼び続け捜し回った。登攀の成否は技量だけで決まらない。急変する天候、雪崩、落石。牙をむく自然との闘いである。亀井は剱岳で滑落した辰野のザイルを渾身の力で握り確保してくれた恩人だった。亀井ほどの男でも山で命を落とす。  阪神・淡路大震災が発生した95年1月17日の夜、辰野は長男・岳史と神戸の体育館で遺体を並べていた。夥しい被災遺体を前に言葉はなかった。遭難があれば何をおいても駆けつけるのが山男だ。モンベルは「2週間災害支援」を宣言。社員・会員・取引先に支援を呼びかけた。アウトドア義援隊が組織され、炊き出しや物資の配送を、社を挙げて展開した。店や倉庫にある寝袋、テント、燃料、食品を配った。衣食住を凝縮したアウトドア用品は被災地で重宝された。  東日本大震災が起きた時は、辰野はハイブリッドカーで単身被災地に入った。阪神・淡路の教訓で、地の利がきく場所に配送拠点を確保することが大切と知った。業者と掛け合い、山形県天童市にある電子部品の工場と話をつけ、必要な物資の搬入を本社に指示した。  津波の生還者から話を聞いた。とっさにライフジャケットをつけた夫婦は、濁流に流されながらも命拾いした。飛行機でもライフジャケットは標準装備だ。津波の恐れがある地域なら救命具を常備することが必要だ。そんな思いから商品化したのが「浮くっしょん」だ。通常は椅子のクッションとして使い、必要な時はライフジャケットになる。津波のハザードマップに載るような地域の学校に普及させたい。  2度の震災を経てモンベルは「社会の一員としての企業」の色彩を濃くしていく。 ●自然環境を守りたい、ホテル建設の反対運動へ  ぐいぐい伸びるクレーンが、伐採した樹木をつり上げる。枝が切り落とされた古木の無残な姿がフェンス越しに見える。シカで有名な古都奈良の春日大社のすぐそばでリゾートホテルの建設が進んでいる。現場に「建設反対」の横断幕。近隣住民が掲げた。辰野は高畑町住民有志の会会長として反対運動の先頭に立っている。 「歴史的景観が守られてきた環境を目先のカネもうけのために失っていいのか。住民の声を無視して強行する県のやり方には納得できない」と。  樹齢数百年の巨木にムササビが生息する。土塀に囲まれ150年間シカの食害から免れた貴重な自然が奈良のど真ん中にある。ユネスコ世界遺産のバッファーゾーン(緩衝地域)であり歴史的風土特別保存地区として図書館や美術館など公共の建物さえ作れない規制がかかっていた。「ホテル不足の解消」を理由に奈良県は1・3ヘクタールの緑地を奈良公園に編入し、「公園の便益施設」として高級ホテルを東京五輪までに建設するという。部屋数30室、1泊20万円ともいわれる超高級ホテルのために厳しい規制が外された。 「行政がルールを捻じ曲げて、誰のためのホテルを作るというのか」「全く説明はなく、公表された時はもう決まっていた。やり方が許せない」。住民は怒る。  町内の新年会にまめに顔を出すなど地域に馴染んでいた辰野がリーダーに担ぎ出された。 「行動は迅速、打つ手が早い。辰野さんが居なければ、もうホテルは建っていた」。有志の会の八木宣樹(57)は言う。  住民を束ね、弁護団を組織、県の違法性をまとめ、文化人を集めて「奈良公園の環境を考えるシンポジウム」を開いた。作家の椎名誠(74)、夢枕獏(68)が基調講演に立ち自然と文化・歴史を語った。 「源流に長良川河口堰(をめぐる経験)があるのでは」。カヌー友達である椎名は指摘する。長良川河口堰は、大規模公共事業に「環境を守れ」「無駄な公共事業をやめよう」と人々が声を上げた草分け的な運動だった。辰野はカヌーデモに参加し指導的役割を果たしたという。 「経営者が行政に盾突くのはどうか、という指摘もあるが、住民として有権者として声を上げるのはおかしなことではないと思う」と辰野は言う。  高畑町の住民は昨年12月、プラカードを掲げ奈良地裁前に向かった。知事を訴える住民訴訟が始まった。  社業では、知事や市長など首長と接する機会が増えた。人口減少に危機感を募らす自治体から地域おこしへの協力がモンベルに寄せられている。  きっかけは鳥取県大山町に開業した「フィールド店舗」1号店だった。大山町はトレッキングなど観光開発に取り組み、モンベルに応援を求めた。大山北壁はアイガー挑戦に備え、腕を磨いた思い出の場所でもある。要請を受け逆転の発想を試みた。アウトドア最前線への出店である。大山店は地域の中核になり近郊から人が集まるようになった。北海道大雪山、富士山麓、阿蘇山などにもフィールド店を出した。昨年はオホーツク海を望む人口5千人弱の北海道小清水町に出店。従来のマーケティングではあり得ない地域への出店だ。重視するのは地域が持つアウトドア事業の潜在力と自治体・住民の熱意。インバウンドと呼ばれる海外からの参加型観光が地域の努力と重なりはじめている。  辰野は目指す方向を「モンベル7つのミッション」にまとめた。「モンベル憲法」である。 (1)自然環境保全意識の向上、(2)野外活動を通じて子供たちの生きる力を育む、(3)健康寿命の増進、(4)自然災害への対応力、(5)エコツーリズムを通じた地域経済活性、(6)一次産業(農林水産業)への支援、(7)高齢者・障害者のバリアフリー実現  44年間モンベルを引っ張り、行き着いたのは社会的企業である。始めた時から「儲けるための会社」ではなかった。株式上場の誘いには「利益重視の株主に気を使うのはまっぴら」と断った。「創業者利益が入ります」と勧められても「おカネはいりません」。作家の椎名は辰野を「笛吹童子の感性をもつ独裁者」と表現する。子どもが一心不乱に笛を吹くような純真さを持ちながら、自分の考えを押し通すワンマンでもあると。モンベルは良くも悪くも「辰野の会社」だ。カリスマが一代で築いたが故に、一代で崩れる会社もある。  辰野は30年後のモンベルを考える。「存在し続けるとしたら条件は二つ。一つは社会から必要とされていること。もう一つは事業として採算を取れるか」。社会が格闘する課題にビジネスのタネがあると辰野は気付いた。タネから芽を育て、開花させることができるか。7つのミッションは次の世代に受け継がれる。 (文中敬称略) ■辰野勇(たつの・いさむ) 1947年/大阪府堺市生まれ。兄4人、姉3人の末っ子。店の手伝いをしながら育つ。堺市立湊西小、同市立大浜中に入学。 63年/大阪府立和泉高校に入学。登山家ハインリッヒ・ハラーの「白い蜘蛛」に感動。「アイガー北壁に挑戦する」と山好きの数学教師に告げる。 66年/名古屋のスポーツ用品店に住み込みで働く。登山家の中谷三次と出会う。 67年/勤め先の店主に「岩登りは危険」と止められ、大阪の登山用品店「白馬堂」に転職、登山中心の生活に。 69年/中谷とアイガー北壁に日本人として2番目の登頂。 70年/新婚3日目、店の先輩と喧嘩、仕事を辞め失業。登山の先輩に誘われ、中堅商社・丸正産業(現・ソマール)に就職。繊維事業部に配属。 74/山の仲間の遭難が相次ぎ、カヌーを始める。 75年/丸正を辞め、モンベル創業。資本金200万円は母に借り、登記後すぐに返済。欧州遠征から帰国した真崎文明、増尾幸子が10月に合流。 77年/ドイツ最大のスポーツ用品店「スポーツ・シュースター」がモンベルの寝袋を扱う。 80年/スポーツ用品大手パタゴニアの創業者イヴォン・シュイナードと出会う。 85年/会員制のモンベルクラブ発足。 87年/パタゴニアとの提携を解消。黒部峡谷源流から河口までカヤックで下る。 91年/大阪駅のショッピング街GAREに直営店を開店。奈良三条通りに日本初のアウトレット店を開業。障害者カヌー教室を吉野川で始める。 92年/米国グランドキャニオンをカヤックで下る。日本人初。 95年/阪神・淡路大震災。アウトドア義援隊を組織。テント500張・寝袋2千個を配布。 2002年/アメリカ直営第1号店をコロラド州ボルダーに開店。 07年/会長に退き、社長を真崎文明に。 11年/東日本大震災に義援隊を派遣。 14年/農林水産業など第1次産業用の「フィールドウェア」を発売。 16年/三重県と包括連携協定。自治体と協力して地域おこしを始める。「モンベル7つのミッション」を社是に。 17年/真崎に代わり、長男・岳史を社長に。 18年/製硯師・青柳貴史と「野筆」を開発。 ■山田厚史  1948年、東京都生まれ。ジャーナリスト。朝日新聞社に入社し、ロンドン特派員、経済部編集委員などを歴任。アエラ記者を経て、フリーランスに。著書に『銀行員が消える日』など。 ※AERA 2019年6月17日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/09/19 15:36
カープファンになって仕事も生活も変わった 40代女性の活力になる趣味とは…
古谷ゆう子 古谷ゆう子
カープファンになって仕事も生活も変わった 40代女性の活力になる趣味とは…
【応援を通して、自分も解放される】日本生命の中林ルミさん(前列右から3人目)は、関東で広島カープの試合があれば、球場にも足を運ぶ。昨年は15回以上、今シーズンも既に7回は球場で至福のひと時を過ごしている(写真:本人提供) 【自然のなかで過ごして心身健康に】「庭いじりの時間は、瞑想をしているかのよう」とハコスコの太田良恵子さん。心身健康に過ごすことの大切さを再確認したことでブレインヘルスの事業「GoodBrain」も展開中(撮影/古谷ゆう子) 自分時間を楽しむ5カ条(AERA 2019年9月16日号より)  40代女性は公私ともに忙しさに追われる時期。脂がのっている今だからこそ、趣味などでパワーチャージが必要だという。キャリアを身につけ躍進する二人の女性の「自分時間」の過ごし方とは。AERA 2019年9月16日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  *  一日思いきり働いて脳がパンパンの状態のまま帰宅する。頭も体も疲れているはずなのに、パソコンの前に座り、YouTubeを立ち上げ、広島カープの選手たちのプレーを見る。日本生命の健康経営推進部長の中林ルミさん(47)にとって、ここからが自分だけの特別な時間だ。 「プレーを見て、気づいたら感動で涙していることもあります。過去のプレーや気に入った映像を何度も見直すことも。何かに熱中する、ということはもうないかな、と思っていたのですが」  6年ほど前、同じ部署にいた後輩がたまたまカープファンだったことがすべての始まり。 「ナイターを観に行くから一緒に行きません?」  野球にもスポーツ観戦にも特別興味を持ったことがなく、誘われても「屋外で飲み会をするのね」くらいの感覚だった。 「最初は『あの選手、よく打つな』くらいにしか考えていなかったのですが、次第に夜のプロ野球ニュースで、知っている選手が取り上げられていると『あっ!』と反応するように。スポーツニュース一つにしても、見方が変わっていったんです」  もっと多くの映像を見ることができるなら、といままで使ったこともないアプリもダウンロードしてみた。社内で話したことのなかった先輩や後輩が「カープファンなんでしょ、私も」と声を掛けてくれることも。そして何より、マネジメントの立場だからこそ得られる気づきがある、と感じている。 「選手はどういう気持ちでプレーしたのかな、と考えると、『私の部下は、どんな気持ちで仕事をしているのか』とまで、考えを及ぼすようになりました。苦手意識があるのかな? プレッシャーなのかな?と思うように。それが正しいとは限らないのですが、想像を広げることができるようになりました」  大人になってからハマる趣味がある。そんな趣味が、仕事や家庭で忙しい女性たちのパワーになっている。 「30代の頃はコンプレックスばかりで、MBAがないとダメ、英語が堪能でなければ社会人失格とさえ思っていた。けれど、40代後半になりそうした承認欲求が一切なくなりました」  そう話すのは、VRビジネスを展開するハコスコ取締役COOの太田良恵子さん(48)。44歳のときに、夫とともに静岡・熱海の山奥に一軒家を買い、リモートで働きながら仕事の合間を縫って庭いじりに没頭している。人生の折り返し地点を過ぎ「もし来月死んでしまうとしたら、何ができていれば満足して死ねるだろう」と考えたときに思い浮かんだのが、「畑仕事ができる家」に住むことだったのだ。  朝起きて、裏山を20分かけて1周する。鳥のさえずりを聞きながら、オンライン会議に参加する。煮詰まったな、と感じたら庭に出て草むしりをしたり、剪定をしたり。わずか5分手を入れるだけで、見た目が変わる。そこに達成感があり、最高の気分転換となる。働き方を変える前、終電まで働き続けた40代前半までの日々からは、考えられない生活だ。 「自分に許された時間だな、と感じています。40代だからこそ、これまで頑張って働いてきたし精一杯やり切った、という気持ちもある。庭いじりなんて、スキルとして履歴書に書けるわけでもないのに(笑)」  引っ越した当初は小さな頃から憧れていた畑仕事をしようと、家の裏に畑をつくりトマトや葉物野菜などを植えてみた。だが、土壌の悪条件などが重なり失敗に終わった。 「でも一回やってみたら満足できた。大切なのは『やった』という充実感なのかもしれません」 (ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2019年9月16日号より抜粋
AERA 2019/09/15 16:00
89歳ベンチプレス女王ら、高齢者アスリートに学ぶ健康長寿法
89歳ベンチプレス女王ら、高齢者アスリートに学ぶ健康長寿法
亡き夫からの助言に従い、ジムでは小奇麗なウェアをまとうよう心がけている(撮影/菊地武顕) 6月3日、日本武道館での全日本大会85歳以上の部に出場。決勝で見事に面を決めた(撮影/菊地武顕)  89歳にして45キロのバーベルを持ち上げる女性。初めて日本一に輝いた87歳剣士。驚異の高齢者アスリートの心身を支える秘密を一挙公開! ■ベンチプレスの絶対女王、秘訣は乙女なココロにあり  筋骨隆々の男性に交じって、身長156センチの女性がウェートトレーニングに励んでいる。ここは茨城県水戸市にある「OLIVA・ボディビル&フィットネスジム」。奥村正子さんは背筋がまっすぐ伸び、ウェアがよく似合う。若々しい89歳である。 「一昨年は60キロを挙げることができたのに、今年は良くても45キロくらい。年々落ちるのは当たり前でも、やっぱり悔しい。自分に負けたくないから、しっかりやらないとね」  ベンチプレス(ベンチに横たわってバーベルを挙げる)を終えた奥村さんは、記者の姿を認めるや開口一番そう言った。  女子ベンチプレス70歳以上の部の世界チャンピオンである奥村さんは、このジムで週2回鍛えている。  72歳のとき、交通事故にあった夫のリハビリに付き合う形でジムに通い始め、ベンチプレスと出会った。「努力すると、挙がる重量が500gずつ増えていくでしょう。全部数字に出るのでやりがいを感じて」のめり込んでいく。  10年後の2013年。世界選手権に初出場して優勝を遂げた。以後、今年の大会を含め5度も世界一の座に就き、絶対女王として君臨している。  大会での部門は「70歳以上」。つまり奥村さんは、自分より20歳近く年下の選手をも上回る成績で優勝を続けているのだ。「私は大会に出場する選手の中では一番年上。それでも優勝する。この地位を譲りたくないんです」と競技へのモチベーションは高い。  一緒にトレーニングを積んできた夫をがんで喪(うしな)ったが「主人には毎日、『私、寂しいわ。あなたも寂しいでしょう。でもね、迎えには来ないでね』って言ってるの」と笑う。  長生きを望むのは、生まれ育った神奈川県横浜市で戦時中に大空襲を経験したからだ。 「その晩、1万人もの方々が亡くなったといいます。私たちは機銃掃射も受けました。でも生き残ったんです。神様に生かしていただいたと思っています。そんな命ですから、平和な時代を一日でも長く生きて、他の方々の役に立てればうれしいです」  自身の経験を伝えることで年配者に少しでも元気になってほしいと、今春、『すごい90歳』(ダイヤモンド社)を上梓。ベンチプレスに魅かれた様子や食生活などを記している。 「身体は食べ物で作られるわけですから」と語る奥村さんは、決して外食をしない。塩分が多いうえ、油の質が低いことが気になるからだ。高品質の食材を使って必ず自宅で料理する。  毎朝起きたら梅干しとお茶をいただく。朝食はご飯70グラムと常陸牛のソテー100~130グラム。生野菜は食べず温野菜を摂るなど、長年の試行錯誤から自分の身体に合うとわかった生活習慣を続けている(下記表)。  奥村さんは着る物についても一家言持っている。 「体形が全然変わらないから、新しい服を買う必要がないの。昔買った質の良い服を丁寧に扱って、何年でも着ています。今日ジムに着てきたポロシャツは、還暦のお祝いで主人がグアムに連れていってくれたときに買ったもの。30年近く着ていることになるわね(笑)。下はいつもジーパン。服を買うお金は、全部食費に回しています」  そのうえで「女性」を意識することが大事という。 「主人からよく言われました。『年寄り臭い服を着るな。いくつになっても女なんだから』と。その通りよね。好みの男性を見たら、『ああいい男だな』とワクワクするの。これがなくなったらおしまいよ」  思わず「最近、いい男はいましたか?」と尋ねると、「たくさんいるわ。もう千切っては捨て、千切っては捨ての繰り返し(笑)。この頃は万葉集を繰り返し読んでいます。昔の人の恋って情緒がありますわねえ」  そう語る奥村さんに「若い頃はもてたでしょう?」と水を向けた。すると学生時代に明治大学生からラブレターをもらったときのことをうれしそうに語り出し、乙女の一面を見せた。  実はこの日は、トレーニングを始めてすぐは少々焦り気味で、不安な表情を見せていた。というのも今夏は雨が多かったので、4回ほどジムを休んだ。そのため調子が上がらないという。 「違和感があるわ。全然挙がらなくなっちゃった。10月26、27日の全日本選手権で、ちゃんとした成績を残したいの。そうでないと、来年の世界選手権に出られないから。来年はチェコでの開催。私が初めて出場したのもチェコ大会で、そのときに仲良くなった友達と会いたいのよ。だから早く体を元に戻さないと」  十数年前にはわずか2キロのダンベルを持つのもやっとだったフツーの主婦は、世界選手権6回目の優勝を貪欲に目指している。 ■「大好きな剣道のため、健康で」87歳、病気知らず 「病気知らずなんです。30年以上、風邪をひいたこともありません。よく『剣道をしているから健康なんですね』と言われますけど、逆です。大好きな剣道を楽しむため、健康に気を使ってるんですよ」  そう語るのは、東京都の平山四郎さん(87)。今年6月に行われた「全日本高齢者武道大会(剣道)」の85歳以上の部で、悲願の初優勝を果たした。  平山さんはこれまで同大会で、3位入賞を果たすこと6回。「ブロンズコレクター」が、ついに頂点に立ったわけだ。 「私は六段から七段に上がるのに13年かかりました。そのときといい、今回といい、使い古された言い方ですが、『努力は嘘をつかない』と感じましたね」  毎週2回、四段、五段といった脂の乗った時期の剣士らと稽古に励んでいる。しかしそれ以上に大事なのは、日頃の体力作りだ。 「大会は、リーグ戦2試合、決勝トーナメントが最多で3試合。一日で5試合も戦います。なるべく早く一本勝ちするよう心掛けていますが、どうしても最後は体力勝負になってきます。普段から特に足腰を鍛えて、敏捷(びんしょう)性とスタミナをつけないといけないですね」  毎日30~40分は早足で歩いている。雨の日は代わりに、家の階段の上り下りを繰り返す。  そして食事の工夫。ここで活躍するのが、貴久美夫人だ。平山家の食卓に並ぶ料理をこう語る。 ●野菜はレンジでチン 「灰汁(あく)がたくさん出るものは湯がきますが、出ない野菜は千切りにしてレンジでチンします。湯がくことで栄養素が抜け出ちゃうのはもったいないですから。温めた野菜には、市販のマヨネーズやドレッシングはかけません。酢と佃煮(つくだに)と一緒にいただきます。これを365日、毎食出します」 ●小アジの唐揚げ 「頭から尻尾まで全部食べられるように、二度揚げして骨にもしっかり火を通します。毎朝食べています」 ●自家製ヨーグルト 「ヨーグルトを手作りしているんです。それにキナコ、すった黒ゴマ、自家製柚子マーマレードをかけてよく混ぜて、バナナをのせます。昼食のデザートとして必ず食べます。ヨーグルトを作る牛乳は、高いのじゃないと駄目(笑)。マーマレードの柚子は、家の庭になったもの。冬の時期に23~24キロくらい採って、1年分を作っておきます」  茨城県に生まれた平山さんが剣道を始めたのは、小学2年生か3年生のとき。しかしそれは長く続かなかった。戦況の悪化に伴い、剣道どころではなくなったからだ。  中学2年生で終戦を迎えた平山さんは、「人の命を助ける仕事をしたい」と1951年に東京消防庁に就職した。 「その頃はまだGHQの命令で、剣道は禁止されていました。解禁されてまもなくの昭和28(53)年に東京消防剣友会ができたので、再び始めました」  ほぼ10年ぶりに竹刀を握って以降、剣道の面白さに魅了されていく。  仕事は「火事の現場でホースを持って階段を上っていく途中、上からドラム缶が落ちてきて、なんとかかわしたり……。ずいぶんと危険な目にあいました」という激務。剣道が、日頃のストレスを忘れさせてくれたという。「腕を痛めて上がらないときでも、竹刀を持つと痛みを感じないんですよ。不思議ですね」  50歳を前にした頃、稽古での疲労がなかなか抜けなくなった。そこで決断。ゴールデンバットやハイライトを毎日30本吸うヘビースモーカーだったが、すっぱり禁煙。これが、剣道のため体調管理に気を使うきっかけとなった。  今回の優勝を機に、全国大会への出場をやめようと考えたともいう。 「人間、楽なほうに逃げたくなるもんですねえ。でも剣道をやめたら、せっかくの健康な身体も駄目になってしまうかもしれません。来年も優勝できるように頑張ってみます」 (本誌・菊地武顕) ■奥村正子さんの健康長寿法 ●外食はせず被服費も節約し、自宅で料理する食材にお金をかける ●起床したら、和歌山から取り寄せた塩分控えめの梅干しとお茶 ●朝食はご飯70gと常陸牛のソテー100~130グラム ●ご飯のお供は酢の物と味噌漬け ●食事は朝と昼の1日2回。夜は果物を食べる程度でメロンが最良 ●ニンニク入りブルーベリー酢で疲労回復 ●サラダは体を冷やすので避け、温野菜をたっぷり食べる ●新聞と雑誌を毎日読む。わからない言葉があれば辞書を引く ●他者と会話することで、常に刺激を受ける ●年寄り臭くない服装を心掛け、いい男を見たらワクワクする ※週刊朝日  2019年9月20日号
シニア健康
週刊朝日 2019/09/14 08:00
「味に品がない」と言われた元中華料理人が“普通だけど最強”なラーメンを作れた理由
井手隊長 井手隊長
「味に品がない」と言われた元中華料理人が“普通だけど最強”なラーメンを作れた理由
「潤」の中華そばは760円。煮干が効いている(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介するこの連載。新潟のご当地ラーメンを都内に広めた功労者が愛する一杯は、豚骨一本で走り続けた店主が紡ぎ出した最強に“普通”なラーメンだった。 ■「背脂の関所」を取り払いたい 店主の思い  新潟の燕三条に本店を構える、背脂煮干ラーメンの名店「潤(じゅん)」。店主の松本潤一さん(54)は燕市出身で、かつては甲子園球児としてその名を轟(とどろ)かせていた。プロ野球選手を目指していたが、挫折。その後飛び込んだのがラーメンの世界だった。  昔から食べていた地元の背脂煮干ラーメンを全国に広めたいと、1993年に自宅の玄関を改装してお店をオープンさせた。現在は都内を含め13店舗を展開し、新潟ラーメンを広めた功労者として松本さんの名前を挙げる人も数多い。 「潤」で提供している燕三条の背脂煮干ラーメンは、燕市の「杭州飯店(こうしゅうはんてん)」が元祖と言われている。煮干を効かせたスープに背脂でふたをし、極太麺を合わせた独特の一杯だ。このラーメンの誕生には、燕三条エリアの産業が関係している。  燕三条は世界有数の洋食器の街で、町工場が立ち並ぶ。家内工業も盛んなため、出前を取る文化が自然と広がった。寒い地域でラーメンの出前を取ると、運んでいる間にスープがぬるくなってしまう。それを防ぐために背脂でスープにふたをし、麺が伸びないように太くしていったという。麺量も増やし、腹持ちさせる工夫もした。 らーめん潤 亀戸店/東京都江東区亀戸6-2-1 シローハウスII/10:00~翌3:00/年中無休/筆者撮影  ご当地ラーメンには、その町の文化や気候がダイレクトに現れているのが楽しい。特に新潟には、寒い地域ならではの工夫が随所に見られるラーメンが多く存在しているのだ。「こういった背景も含めてラーメンを楽しんでほしい」と松本さんは言う。 「インターネットの普及により、今や全国に浸透したご当地ラーメンはたくさんあります。その土地のラーメンを食べると、その街が見えてくる。ラーメン自体が文化なんですね。地方創生の一つとして、ご当地ラーメンを盛り上げていければと考えています」  松本さんが火付け役となった新潟ラーメンは人気ご当地ラーメンの代表的存在だ。「青島食堂(あおしましょくどう)」「来味(らいみ)」といった名店も都内に進出し、その人気は加速している。  今後の課題として、松本さんは海外での展開を挙げる。「潤」はドイツにも2店舗を展開しているが、輸入規制で煮干しが使えず、背脂煮干ラーメンは提供できていない。いつか背脂煮干を提供することを夢見ながら、豚骨ラーメンや味噌ラーメンで現地のお客さんの反応を見ている状況だ。 「らーめん 潤」店主の松本潤一さん。「ラーメン屋は人を幸せにするいい商売」(筆者撮影) 「新潟ラーメンの進出に向けて日々動き続けています。“なんちゃって”では絶対に作りたくないので、しっかりと準備をしていきたいと思っています」(松本さん)  日本国内においては、背脂煮干ラーメンは北海道から大阪までしか広がっていないという。松本さんの言葉を借りれば「背脂の関所」を取り払い、全国・全世界に新潟ラーメンの魅力を広げていきたい。それが松本さんの夢だという。これからの動きにも大いに期待したい。  そんな松本さんの愛するラーメンは、豚骨一筋で頂点を極めた店主が新たに紡ぎ出した“第二のラーメン”だった。 ■「味に品がない」と言われても、諦めなかった 「博多長浜ラーメン 田中商店」の本店は足立区一ツ家。都内ではあるものの、つくばエクスプレスの六町駅から徒歩15分とやや不便な場所にある。しかし、東京で豚骨ラーメンの名店と聞かれれば、このお店の名前を口にする人はかなり多いだろう。筆者も何度も訪れているが、夕方6時から朝4時までの営業時間の中で、行列ができていない日を一度も目にしたことがない。創業は2000年で来年には20周年を迎えるが、まったく衰えを見せない人気には驚くばかりである。 博多長浜らーめん 田中商店/東京都足立区一ツ家2-14-6/18:00~翌4:00/年中無休/筆者撮影  店主の田中剛さん(49)は、津軽半島の最北端に位置する青森県の三厩村で生まれた。家の目の前には海が広がっていて、父は漁業を営んでいた。昔から母の料理の手伝いが好きだった田中さんは、将来は料理を仕事にしたいと考えていた。ラーメンは昔から好きで、マルちゃんのインスタントラーメンから始まり、食堂や蕎麦屋でもラーメンをよく食べていた。当時地元にはラーメン専門店といわれるお店は5、6店舗しかなく、あくまで食堂の一つのメニューという雰囲気であった。  料理人を志して18歳で上京。働き始めた居酒屋が中華料理専門店を始めることになり、田中さんも中華の道へ進むことになる。会社の研修で当時銀座にあった「四川飯店」に行き、日本でも指折りの料理人の手さばきを目の当たりにする。本物の料理人の仕事を見て、自分とは全くレベルが違うことを思い知る。しばらくは恥ずかしくて包丁が持てなかったという。 「ずっと『お前の料理はまかないとしては旨いが、味に品がない』と言われてきました。プロの仕事を見て、本当にすごいなと心の底から思ったんです」(田中さん) 田中商店の「チャーシュー麺」は一杯950円  それから4年後、田中さんは家庭の事情で青森に戻ることになる。だが、料理が好きで諦めきれない。ある日、自分の料理がまかないとしては褒められたことを思い出す。本格中華は厳しいが、庶民の食べ物ならばできるかもしれない。そう考えた。  2カ月ほどで再び上京し、昼はとび職、夜は焼き鳥屋でのアルバイトをしながら、自分が活躍できる場所を探り始めた。しばらくして、喫茶店を経営している社長に出会う。その社長に自分の夢を話すと、思わぬ提案を受けることになる。 「開店のお金は出すから、儲けを折半してラーメン屋をやろう」  お店の現場は田中さんに任せてくれるという。昔からラーメンは好きで、中華の経験もある。これはやれるかもしれないと考え、引き受けることになった。  しかし、決まったはいいが、肝心のラーメンが出来上がらなかった。「ホープ軒」や「香月」などで一世を風靡していた背脂系を試すも、箸にも棒にもかからない。その後もしばらくは作りたいラーメンすら定まらなかったが、当時話題だった「赤のれん」「なんでんかんでん」を食べたとき、田中さんの心は決まった。 「豚骨スープの濃度に衝撃を受けました。まだ博多ラーメンも広まっておらず、それまで食べたことのないラーメンだったんです。中毒性がものすごくて、これを作りたいと本能的に思いました」(田中さん)  それから、土日はラーメンの試作に没頭。試行錯誤の末、ようやくラーメンが完成したときには、構想から2年半が経っていた。 店主の田中剛さん。「自分も歳をとって、常連の皆さんの年齢も上がってきた」と語る(筆者撮影)  こうして1995年、足立区に「博多長浜ラーメン 金太郎」をオープンした。車通りの多い環七沿いではあったが駅から遠く、通りすがりの客が期待できるような立地ではなかった。しかし、田中さんはそれでいいと思っていた。わざわざ食べに来てくれる人が集まる、エキサイティングな空間を作りたかったのだという。  しかし、店をオープンしたものの、味が安定しない日が続いた。スープに使うのは豚骨のみ。寸胴4本がいっぱいになる程の量だ。ブレを直したいという気持ちはあるのだが、どう調整すればいいかが全くわからない。3カ月間赤字が続き、パートナーの社長からも閉店を提案されてしまう。  しかし、自分の納得できる味で勝負するまで諦めたくないと、半年間給料なしでいいから存続させてほしいとお願いする。年中無休で朝4時まで営業し、何とか売り上げを稼いでいった。それでも、お客さんは1日40人ほどしか来なかった。  スープの味がなかなか安定しない一方で、タレは2年間で30回は変えてきた。3年ほど経ったある日、丼を温めれば味にキレが出ることに気付く。当時はインターネットも普及しておらず、情報も少なかった。一つずつ自分で試して解決するしかなかった。  味が安定するとようやく行列ができ始めた。今では当たり前の「替玉」は当時はなかなか注文してもらえなかったが、ご飯ものは出さずに「替玉」のファンを増やしていくことに注力した。こうして一人ずつファンの心を掴んでいった。  時間をかけて、何とか「金太郎」を繁盛店に成長させた。店舗展開を始め、従業員も増えたタイミングで独立を決意する。今度は自分一人の力で店づくりにチャレンジしよう、そう考えたのだ。  こうして2000年10月「博多長浜ラーメン 田中商店」をオープンする。ただ、ここでもラーメン作りには苦労した。金太郎ではスープに深みを出すために、一度作ったスープに継ぎ足し続ける“呼び戻し製法”をとっていた。だが、新店ではそうはいかない。イチから作り直す必要があった。  しばらく味が安定しない日々が続いたが、これまで培った技術で何とかラーメンを完成させる。資金もなく、最初は100円ショップで買った丼を使っていた。「初めて出た儲けで、きちんとした丼を買ったのはいい思い出」と田中さんは話す。  噂を聞きつけ、「金太郎」時代のお客さんも食べに来てくれた。その後もどんどん客足は伸び、東京を代表する豚骨ラーメン店に成長。今やお客の8割は常連客である。  そんな田中さんが08年にセカンドブランドとして出したのが「中華そば専門 田中そば店」である。「田中商店」の隣の物件が空いたタイミングで、新たなラーメンを作ることにしたのだ。 田中そば店/東京都足立区保塚町1-20/11:00~21:00/年中無休/筆者撮影 ■普通のラーメンの最強を目指して 「田中そば店」のラーメンは、いつでも食べられる気軽な田舎っぽい一杯があってもいいんじゃないかという発想で完成した。イメージしたのは佐野や喜多方といった北のラーメン。東京のラーメン戦争からは外れた、落ち着いた一杯にしたかったのだという。 「自分も歳をとって、常連の皆さんの年齢も上がってきました。そうなると濃厚な豚骨だけでなく、シンプルな中華そばも食べたくなる。シンプルだけど美味しい“普通”のラーメンの“最強”を目指して作りました」(田中さん)  ゲンコツに豚の背脂、そして鶏油を合わせた塩ラーメンで、麺は平打ちの縮れ麺。清湯(ちんたん)ながら麺にしっかりとスープが絡み、ほっとする味わいだ。本店だけでなく、秋葉原や浅草にも進出。今や12店舗を展開する人気店になった。 田中そば店の「中華そば」は一杯700円。麺にしっかりとスープが絡み、ほっとする味わい(筆者撮影) 「潤」の松本さんはこの「田中そば店」の中華そばの大ファンだ。 「味の説得力にやられました。喜多方っぽい懐かしさがありながら、今のラーメン界でもしっかり勝負できる一杯です。田中さんは世間のお客さんがどういうラーメンを求めているかを明確に汲み取り、求められているものに対して真っ直ぐなラーメンを作れる人です。なかなかできることではありません。このラーメンは全国どこで出しても受け入れられると思います。一見、普通っぽく見せて実はすごい一杯。職人として悔しくなってきますね」(松本さん)  田中さんも日本のご当地ラーメンの代表格として「潤」のラーメンに敬意を払っている。 「新潟の背脂系を東京に持ってくるのは並大抵の努力では成し得なかったことだと思います。見た目以上に作るのが難しいラーメンです。味の持っていき方、落とし込み方が非常に難しいはずですが、とてもよく仕上がっています。あれ以外になりようのない一杯だと思うんですよね。ご当地ラーメンを守りながら、ラーメン界の将来もしっかり見ている人だと思っています」(田中さん)  奇をてらわず、愚直にシンプルな一杯を作り続ける二人。そこに隠された技術やプライドが味に表れ、食べ手にも伝わっている。新たなラーメンももちろん楽しいが、老舗の作ってきた土台があってこそ。これからも後進を引っ張っていってもらいたい。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2019/09/08 12:00
ユーミン自宅に突撃ピンポン訪問、学生時代のファミマ社長アポなし行動の結末は…
ユーミン自宅に突撃ピンポン訪問、学生時代のファミマ社長アポなし行動の結末は…
澤田貴司さん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・掛 祥葉子) 澤田貴司(さわだ・たかし)/1957年生まれ。上智大学理工学部卒業後、81年伊藤忠商事入社。米国セブン-イレブンの再建などに携わる。97年にファーストリテイリングへ入社し、フリースブームの火付け役に。翌年に同社副社長。2003年に投資ファンド「キアコン」を設立。05年に企業経営支援会社リヴァンプを設立。16年9月から現職。現場とのコミュニケーションを重視し改革に挑んでいる。 (撮影/写真部・掛 祥葉子) “流通業界の風雲児”とも呼ばれる、ファミリーマート代表取締役社長・澤田貴司さん。伊藤忠を経て、ユニクロでフリースを大ヒットさせ、投資ファンドと企業支援会社を起業……と華々しい経歴の持ち主です。その素顔に作家の林真理子さんが迫ります。 ※前編より続く *  *  * 林:私も都会に住んでる人間としてコンビニに寄らずにいられなくて、買うつもりがなくてもつい寄ってしまうんです。駅前のファミマに。 澤田:へぇ~、林さんも寄ってくださるんですか。ありがとうございます。 林:寄りますよ。けっこうヘビーユーザーじゃないですかね。何も買うものがないときでもつい寄っちゃって。不審なおばさんと思われるのがイヤなので、パンストを買うんです。うちに積み上げてあります(笑)。 澤田:ありがとうございます。 林:でも私は現金主義で、キャッシュレスのサービスはやってないんですよ。 澤田:ファミマのアプリ「ファミペイ」をぜひ使ってください。林さんみたいな常連の方には、とくに使っていただきたいな。7月からサービスを始めたんですけど、1カ月で320万ダウンロードに達しました。加盟店さんが「ファミペイ、いいですよ!」「便利ですよ。どうですか?」とお客さまにすすめてくださるんで、会員がブワーッと増えてます。店舗の力はホントにスゴイ。 林:その加盟店さんですけど、「24時間営業はキツイ。営業時間を短くしてほしい」とかいろいろ声が出てきてますよね。社長としてはどうお考えですか。 澤田:全国に約1万6500のお店があるのですが、そのほとんどが加盟店さんが運営してくださっています。だから加盟店さんの成長なくしてファミリーマートの成長はありません。その加盟店さんとの信頼関係がいちばん大事なんですよ。 林:はい。 澤田:だから加盟店さんとの信頼関係さえブレていなければ、いろんなことがクリアできると思っています。一律で「24時間営業をやめる」というのはすごく危険なやり方で、店舗のロケーションや周りの環境、競合などを十分に考えたうえで、真剣に加盟店さんと話し合っていく。カスタムメイドで一つひとつ丁寧にやっていくしかないと思うんですよ。 林:人手不足も問題になってますけど、コンビニに行くと外国の方が働いてますよね。私、このあいだネパールに行ってきたんですが、名札を見てそれらしき人がいると「ネパールから?」「このあいだカトマンズに行ってきたよ」ってちょっと話をするんです。彼らは希望があるせいか暗い感じがしなくて、表情が明るいんですよね。 澤田:全国に約20万人のストアスタッフが働いてくださっているのですが、そのうちの約8%が外国人のスタッフです。その方々が不自由なく生き生きと働けるよう、日本の文化や習慣も含めていろいろなことを学んでもらう仕組みをつくっています。 林:ファミリーマートの「ファミチキ」(フライドチキン)もすっかり人気商品として定着して、私、糖質抜きのダイエットしてるときに、「ファミチキ」とサラダを買って食べてました。おいしいし、油のにおいがぜんぜんしない。これだけのレベルのものがどうして店頭にあるのか不思議です。 澤田:いやぁ、うれしいなあ。タイに最新鋭の生産工場があるんですけど、そこである程度の事前の加工をして、店では揚げるだけなんです。油にもすごくこだわっていますし、他の商品もどんどんレベルが上がっています。 林:災害のときは町のステーションみたいな役割をしたり、いろいろと役割が増えるにつれ、人手がもっとたくさん必要になりますよね。 澤田:今年の5月から「ファミマこども食堂」というのをやっています。全国のファミリーマートのイートインのある店舗で地域の子どもや親御さん、近隣の方々が食事を楽しむという取り組みです。開催時には本部からも応援に行きますが、それでも加盟店さんに負荷はかかります。でも、加盟店さんは良いと思ったこと、地域に貢献できると思ったことは、手間がかかってもどんどんやってくださります。一人でも多くの人に喜んでもらおうと思えば、人手も工夫してやってくださるんです。 林:そうなんですか。 澤田:これまで全国720店近くの店舗に伺ったんですけど、地域に支持されてお客さまがたくさんついているお店って、しっかり地域に密着した取り組みをやっていらっしゃるんですよ。「最近あのおばあちゃん来ないな」と心配になって様子を見に行ったり。そういうお店は地域の皆さんから高い評価をいただいています。 林:それは素晴らしいですね。話を変えて、プライベートのことをお聞きしたいんですけど、ユーミン(松任谷由実)と仲良しって本当ですか。 澤田:はい。貧乏学生だったときに、友人の実家によくメシを食いに行ってたんですよ。そしたらある日、その家の隣に松任谷ご夫妻が引っ越してきたというのを聞いて、友人とご挨拶に行ったんです。 林:まあ、なんて大胆な。 澤田:ピンポン押したらご夫妻がいらっしゃって、「僕、隣の○○さんの友達の澤田です」と言ったら、「おいでよ」って入れてくれて、ユーミン手づくりのカレーをご馳走になったんです。そのカレーがやたらおいしくて。そのうちユーミンの家で、毎晩ユーミン手づくりのメシを食うみたいな感じになって。 林:本当ですか。そんな人っているんですね。苗場のコンサートは社長が提案したという話も聞きました。 澤田:ご飯を食べながら「澤田君、いろんなところでコンサートをやりたいんだけど、どこがいいと思う?」みたいな話になって、「そりゃ苗場しかないですよ」ということをたまたま言っちゃったんです。それでユーミンと下見に行きましたよ、ポンコツ車に乗って。 林:すごい話ですね。苗場は今も続いてますよね。ユーミンご夫妻も、あのときの上智の男の子が、まさかファミマの社長になるとは思わなかったでしょうね。ユーミンにしても玉塚さんにしても、若いときの友情が続いてるって素晴らしいです。 澤田:ほんとにありがたいです。 林:今、夜は毎日会食ですか。 澤田:ですね。 林:女の人がいるところにも飲みに行ったりするんですか。 澤田:そういうところには全然行かないです。だいたい男ばっかりで、仲間たちと楽しく飲んでます。 林:そういうとき、どんなお話をなさるんですか。 澤田:くっだらない話です(笑)。 林:ときたま雑誌で社長のスーツ姿をお見かけしますけど、カッコいいですよね。これからの社長さん、「うちの社長カッコいい」って女子社員に思われないとダメですよね。 澤田:それはわからないですけど(笑)。ちゃんとしていたいですよね。体力も維持したいし、元気でいたいですね。 林:トライアスロンもやってらっしゃるって本当ですか。 澤田:はい。タイムはぜんぜん気にしないで、完走を目指してやっています。3種目(水泳、バイク、マラソン)あって3時間ちょっと頑張ればいい競技です。 林:たまに「林さんもやろうよ」って言われるんですけど、私、死んでもイヤ。100万円もらってもやんな~い(笑)。澤田社長は還暦記念に伊豆の大島から江の島までサーフボードに立って漕いで横断なさったって聞いたんですが、本当ですか。 澤田:SUP(スタンドアップパドル)ですね。「還暦にちなんで、大島から江の島までの60キロを横断しましょうよ」とケンカ売られたので、買っちゃったんです(笑)。 林:す、すごすぎる……。それにしても、社長さんなのに、どうやって時間を……。 澤田:時間は作ろうと思えば作れます。平日は朝5時過ぎに起きて、2時間ぐらいトレーニングをして、シャワーを浴びた後、BSで朝ドラを見てから出勤して。そこからはガーッと仕事しています(笑)。 林:さぞご多忙でしょうけど、それを感じさせないですね。今の経営者って、昔とほんとに変わってるなという感じ。感服いたしました。私、また駅前のファミマに行かせていただきます。 澤田 ぜひ、ファミペイもやってくださいよ。これからもご贔屓に、よろしくお願いします。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年9月13日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2019/09/05 17:23
【現代の肖像】タレント・清水ミチコ 「お笑い」を超越したモノマネ芸 <AERA連載>
【現代の肖像】タレント・清水ミチコ 「お笑い」を超越したモノマネ芸 <AERA連載>
スタインウェイ社製グランドピアノを前に、仕事部屋で。作品の数々はここで産声を上げた(撮影/植田真紗美) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  とにかくおもしろい。森山良子に矢野顕子、ユーミンに瀬戸内寂聴……。テレビで、ライブで披露されるモノマネは一級品だ。ピアノの弾き語り、映像を駆使した芸と、清水ミチコの世界は、単なる「お笑い」ではなく、緻密な分析にもとづいたもの。ラジオのはがき職人だったことが、芸能界へ足を踏み入れるきっかけとなった。唯一無二の存在となるまで、どんな道を歩んできたのか。 *  *  *  九段下駅の階段を駆け上がると、きりり冴えわたる蒼空のすぐ手前に、その殿堂はそびえ立っていた。2019年1月2日、東京・日本武道館。まさに平成最後のお正月のさなか、約1万人を超える聴衆が集結し、開演の瞬間を待ちわびていた。午後4時。彼らの視線を一身に集め、舞台奈落から躍り出たのは清水ミチコ(59)。ピアノ弾き語りのモノマネなどで芸能界の第一線を駆け続ける彼女は、日本人アーティストの聖地と呼ばれるこの大舞台で、じつに6年連続でライブを敢行している。芸人としては勿論、日本じゅうのタレントを探してもほかに例を見ない唯一無二の存在だ。  今回は森山良子(71)との共演となった。数十年にわたって清水にネタにされてきた森山は、いわば「モノマネの被害者」。1曲目はミュージカル「アニー」の主題曲「Tomorrow」の替え歌で、1番のサビのソロを森山は高らかに歌い上げた。 「積もろう、積もろう、ストレスそりゃ積もろう、モノマネの被害者~」  すると2番は、森山の声を擬態した清水が応酬。きっちり3度離れた声の、まるで多重録音のように整った2部合唱で、次のサビを混ぜっ返した。 「ハモろう、ハモろう、ハモればわかる、みんなうやむや~」  ピアノ弾き語り、映像を駆使した芸、アーティストの癖を忠実に再現した「〇〇作曲法」。そんな「ミッチャンワールド」が新春早々、3時間以上にわたって炸裂した。1万人にも及ぶ一斉の爆笑が弾ける空間は、この場所以外、どこにもない。 「よくぞ、わたくしのような者を取り上げてくれたな、と。『よくも』じゃなくて、『よくぞ』。フフフ」  後日の取材時、森山は嬉しそうに話を切り出した。清水との出会いは20年以上前だが、モノマネの直接の「被害」に遭ったのは05年。清水による楽曲「この凄い血筋いっぱい」だ。森山のデビュー曲「この広い野原いっぱい」に乗せ、息子・森山直太朗と従兄弟・かまやつひろしを盛り込み、森山の声に擬態しながら歌った曲だ。 「母ギター、息子ギター、いとこギター(中略)さくら さくら ざわわ ざわわ ムッシュだけバン・バン・ババババ・ババババーン」(同曲から)  当時、じっさいにライブ会場まで観に行ってその「罪」を確認したという森山は、こう振り返る。 「マネされることを嫌がるひともいるんですよ、デフォルメされるから。でも、わたしは嬉しかった。楽しかった。森山良子のすべてを認識して歌っていて、わたしなどよりも森山良子らしい」  森山が最近、感銘を受けているのは、清水の「〇〇作曲法」だ。大胆不敵な転調を畳みかけるaiko、巻き舌で文語体の歌詞を絡ませる椎名林檎、サビの冒頭にパーカッションをつい入れがちなミスチル――。単なるマネではなく、緻密なアナリーゼ(楽曲分析)に基づきアーティストの癖を暴き出し、「いかにも」な曲を編み出していく。森山の親友・矢野顕子(64)も、「ホントにミッチャンって凄いよね。彼女はミュージシャンだよね」と称賛しているという。森山は力説する。 「コード進行、音楽の深い知識がなければ、分析などできません。音楽的レベルがどんどん高くなっている。ミュージシャンたちは、音楽家として清水ミチコという存在を捉えていると思います」 「初夢フェスin武道館」の幕が開き1曲目、清水(右)と森山良子はミュージカル「アニー」で歌われる「Tomorrow」の替え歌を披露。「積もろう、積もろう、ストレスそりゃ積もろう~♪」。歌い終えた清水は森山に「いつもありがとうございます。あなたでご飯を食べさせていただいております」(撮影/植田真紗美) ●小学生のときは親友をモノマネで笑わせた  清水が生まれ育ったのは、「飛騨の小京都」と称され、江戸期の商家が立ち並ぶ岐阜県高山市。しっとりとした風格を見せる中心街の一角にあるジャズ喫茶「if(イフ)珈琲店」が、清水の生家だ。 「父はもともとバンドをやっていたみたい。音楽が好きで。70年代にジャズ喫茶ブームっていうのがあったんですよね。それに便乗したんじゃないかと思っているんですけど」(清水)  父・郁夫はビッグバンドでウッドベースを演奏する音楽家で、地元でのライブでは1千人もの聴衆を集める人気ぶりだった。ジャズ喫茶は現在、清水の弟・イチロウ(46)が経営する。彼は父をこう評する。「ピアノが弾けて、ギターもできて、豪快で明るくて、横山やすしみたいなひと。傷つきやすそうなのもそれっぽい。姉と一緒で典型的B型でした」  小学校でできた親友の「よっちゃん」は清水にとって憧れの存在だった。「クラスのマドンナ。明るい性格で、よく笑ってくれたんです。わたしが冗談を言ってウケると、すごく幸せだった」  その「よっちゃん」こと平光美子(60)は、懐かしげに当時をこう振り返る。 「ミッチャンは教室の隅っこで、きのう見たドラマとか芸能人のマネをしてわたしたちを笑わせていました。わたしが『それ、似ていない』『おもしろい』って言うのが嬉しかったみたい」  朝、平光が一緒に登校しようと清水の家を訪ねると、清水はまだ寝起きで、きまって寝癖がついていた。待たされるのはほぼ毎日。小学生の時の十八番は天地真理、中学に上がってからは桜田淳子、山口百恵、浅田美代子だ。「アイドルになりたいのではなく、ちょっとヒネって変なところをマネしてくるんです」(平光)。高校は別々に進んだが、週1回、一緒に図書館に行ったり、高山駅前の食堂「ちとせ」で焼きそばを頬張ったり。高山名物の朝市に出向き、2人で観光客のマネをしながら、旬の花や果物にいちいち驚いてみせた。  清水にとって「芸の武器」となるピアノとの馴れ初め、それは小学生の頃だった。ただ、レッスンに出向いても、バイエルがもどかしく、ちっとも楽しくなかった。それよりも、当時流行していたCMソングやアニメの主題歌を弾くほうが性に合った。耳で聴き、その旋律を鍵盤でなぞり、和音を付け足していく。それを教室で披露した。 「何を演奏していたかなあ、鉄腕アトムのテーマは覚えていますけどね。演奏すると、友達がワーッと盛り上がる。驚かれる感じが気持ち良かった」  注目され、周りに笑顔が広がっていく喜び。それに味をしめた清水が小学校4年生の時、ピアノの次に挑戦したのは、エロ漫画だった。当時、永井豪によるギャグ漫画『ハレンチ学園』が流行りまくっていた。これに乗らぬ手はない。 「女性の裸を描いて『うっふん、あっはん』って描いて見せたら、すごく皆に喜ばれたんです。『じゃあ、第2弾は何を描こう』。でも、脱いだその先がわからない。まだ子どもだから」  漫画はやがて担任の先生に見つかり、職員室に呼び出された。人格者の先生は温和な口調で一言、「ちょっと口に出して読みなさい」。  真っ赤な顔になった清水は泣き出しながら、自分で書いた台詞を朗読した。「うっふん、あっはん……」。先生はやさしく諭すように告げた。 「いま、恥ずかしかったでしょ。恥ずかしいことを描くんじゃないよ、わかった?」 ●「矢野顕子のレコードを」届いたのは和田アキ子名盤  以来、清水はエロ漫画家への道を諦めた。その直後、ドリフターズが一世を風靡した時には、カトちゃんのセクシー決め台詞「ちょっとだけよ」のマネが男子の間で大流行。その光景を、清水は苦々しい思いで眺めていた。 「表情が全然なっていない。自分だったら……、そう思うんですけど、やったら絶対引かれる。『男と女の壁ってあるのね』って思っていました」  拓郎、陽水。入りにくい電波の深夜放送を通じフォークソングに親しんでいた清水が、高校に進んだ年に出会った衝撃、それは矢野顕子だった。 1995年2月からレギュラー出演中の「ラジオビバリー昼ズ」生放送。ナイツの2人は2015年10月から共演者として加わった。電車の情報などのアナウンスを淀みなくこなす土屋伸之(奥)を、強めのボケで塙宣之(左)がまぜっ返し、清水が揶揄しながらたしなめていく(撮影/植田真紗美) 「こんなこと、音楽でやって良いの?」  深夜のテレビ番組で矢野は、童謡のメドレーをジャズ風に編曲して演奏していた。心を打たれた清水は大急ぎでラジカセを手に掲げ、テレビのスピーカーの前で録音をスタート。♪いもむし、ごろごろ、ひょうたん、ぼっくり……。 「それまでの人生がモノクロだったのに、そこから光が差したかのような感じでした。カラーになった、というか。希望というか、目的を見つけた気がして、それ以来、なり切っていました」  実家のジャズ喫茶が懇意にするレコード店に「矢野顕子さんというひとのレコードが出たら、持ってきてください」と懇願。すると、店に届いたのは和田アキ子の名盤だった。大御所アッコちゃんが、まだまだ知名度も浅い頃のことだった。  実家の向かいにある清水家の倉庫。そこには、アップライトのピアノが置かれ、清水は先生に付いてピアノの本格的な稽古にいそしんだ。倉庫での日々を、弟・イチロウは振り返る。 「姉が練習の合間、耳コピーして覚えた矢野さんの『青い山脈』を弾くんですよ。そこに僕が高音でチョロチョロ、自分なりに合わせてみるんです。すると姉、物凄く迷惑そうな顔をするんです」  家業を担う技を磨けたらと、短大の家政科へ進むために上京。調理実習でつくったショートケーキに自分で感動し、その日のうちに自由が丘にあったドイツ菓子店「アルテリーベ」でのアルバイトを決めた。週3日、ケーキづくりに従事する。「お昼ごはんの賄いをつくるのが従業員に喜ばれたんです。1人400円で『ミッチャンの時だと嬉しいね』って。大雑把だったけど、わたし、やっぱり短期間で何かするのが好きなんだな」  短大卒業後、その店の紹介で田園調布のデリカ「PATE屋」に勤務し、鰊のマリネや牡蠣のペーストを拵えながら、ラジオ番組「タモリのオールナイトニッポン」や雑誌「ビックリハウス」にはがきを送り続けた。そんな清水に声を掛けたのが、デリカ店の経営者。清水が「はがき職人」であることを知っていたその経営者は、放送局に勤める親類を紹介し、そのツテで九州・RKB毎日放送のラジオ番組「クニ河内のラジオ・ギャグ・シャッフル」の構成作家に抜擢されたのだった。 「わたしがモノマネなどのネタを書いて、クニさんの番組内で時々、やり取りをして、東京でそれを録音したテープが九州に送られてオンエアされていたんです。2週間ぐらい後に反響のはがきが届くんですけど、それがすごく嬉しかった」  裏方の作家である自分の声を、どこかで聴いて、笑っているひとがいる。バイトを続けながら、週1回の収録が楽しみで仕方なくなった。この時、初めて電波に乗せたのが、桃井かおり、菊池桃子の声のマネだ。その破壊力は決定的で、清水のモノマネ芸は、こうして九州から波及していった。 ●永六輔に芸を見初められ、テレビ出演が増える  時は流れて今年2月、東京・有楽町のニッポン放送。お笑いコンビ・ナイツの土屋伸之(40)が突然、生放送中にこう宣言し、ブースで見守っていた筆者はひっくり返った。 「来週のなぞかけのお題は『アエラ』! きょうの清水さんの密着取材にちなんで『アエラ』でお願いします!」  同局の名物番組「ラジオビバリー昼ズ」に、清水は95年からレギュラー出演している。「なぞかけ」は人気コーナーで、お題を出して1週間、リスナーと土屋がネタを競い合う。きっちりMCをこなす土屋に、相方・塙宣之(41)がキツめのボケで応酬、清水がそれをからかい、ときにパーンと突き放す。大山のぶ代(清水)、内海桂子師匠(塙)のモノマネ披露は毎週の定番だ。番組は軽妙に進行していく。 「僕が台本を書いたら、それで遊んでもらえる。そしてもっと面白くしてくれる」。番組の放送作家で、「清水とは30年の付き合いになる」松岡昇(56)は笑って清水をそう評する。言葉選び、一瞬一瞬で入れていくツッコミ、言葉の切りかた。松岡はすべてを尊敬する、と力説する。 ときおり仕事の合間を縫って清水が訪れるのは、東京・千駄ケ谷の「ランコントレ・ミグノン」。捨てられた動物を保護し、新しい「里親」を探す活動を続けるNPO法人だ。この日初対面のはずの猫が清水の肩の上に跳び乗ると、そのまま数十分、清水から離れなくなった(撮影/植田真紗美) 「その場その場で集中して喋る時が一番面白いんです。そのぶん飽きっぽいところもあるけど」  松岡が清水を初めて知ったのは、駆け出し作家だった頃。清水が初舞台を踏んだ渋谷の小劇場「ジァンジァン」だ。矢野顕子、ユーミン、小柳ルミ子の発声法、「ねこふんじゃった」をバッハが弾いたら……。客席にいた永六輔に芸を見初められ、「冗談画報」「笑っていいとも!」とテレビ出演の機会を増やしていくことになるのだが、まさにその「芸人誕生の瞬間」を松岡も共有していた。 「柱の陰に座る客にも清水さん、声を掛けるんです。いまも武道館でやっているでしょ、見えにくい位置のお客さんをイジって。ジァンジァンも武道館も同じ、室内芸。変わらないのが凄いです」  当の清水は、「ジァンジァン」公演後、劇場近くの東武ホテル内の喫茶店に駆け込んだ。呼びつけたのは永六輔だ。永は、清水にこう言い放った。 「芸はプロだけど生き方がアマチュア」  舞台に出たら、まずお辞儀。それから初めて、ふざける。ふざけ終わったら、またお辞儀。そんな基本が何一つできていない。ペコペコとして、覚悟がない。観客が拍手する間もつくらない。清水は笑いながら言う。 「お客さんも拍手がしたいものです、って観客に言われて、それはすごく反省しました」 ●うまくできず悩んだ「夢で逢えたら」  芸人として下積み生活を何一つ経ていない。裏方にいた自分がいつの間にか表舞台に上がってしまった。そんな清水にとって、最初の大きな壁が立ちはだかった。「夢で逢えたら」。1988年にスタートしたフジテレビ系の深夜バラエティーで、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子といった「お笑い第3世代」と称される彼らが一堂に会した番組だ。清水は当時を、心なしか厳しい表情でこう振り返る。 「皆でつくっていく番組でした。ちょっとでもミスすると、すごく強い言葉で突っ込まれるんです。『わたしは向いてない』って感じでした」  まわりの「軽快な感じ」がどうしても出せない。年齢も微妙に自分が上。違和感がぬぐえない。何より、自分がアドリブ一つ返せないことに驚いた。「後悔していたし、暗かった。後半、野沢直子とナンチャンと仲良しトリオになってからは希望が見えたんですけど」。ただ、転機が訪れた。それは、番組内で誕生した伝説のブサイクキャラ「ミドリ」だった。ワンレン、「オン・ザ眉毛」で奇抜な化粧のこのミドリが大ブレーク。 「皆の足を引っ張って、困ったな、という状態の時に、たまたまキャラクターができた。それでようやく恩返しできたのかもしれません」  エッセイストとしても数々の著作を重ねている清水。「テレビブロス」(東京ニュース通信社)の連載コラム「私のテレビ日記」は、ちょうど清水が悩んでいたこの頃に始まり、清水の芸能生活史上、いまとなっては最長記録を更新中だ。2008年から担当編集を務めている木下拓海(42)は、長寿コラムの筆致をこう評する。 「一歩引いた見方をしているんです。ふつうなら気にとめることなく過ぎ去ってしまう情報のなかに、ネタを見つけ、『これってこういうことだよな』って、シミジミ思い返すような文章」  たとえば、江頭2:50の寂しそうな眼差し。少年の心を持つ平野レミ、テレビ「新婚さんいらっしゃい!」の夫婦が放つ赤裸々な棒読み話……。見落としがちだが、改めて着目してみると琴線に触れるようなネタは尽きない。下北沢の清水の自宅で時折、ご飯を食べるという木下は言う。 「芸能界で生きるひとって、顔色ばかりうかがって、疲弊して、ブラック企業の会社員みたいなのばかり。なのに、清水さんはまったく表裏がないんです。自由で豪快でシンプルなひと」  デビュー当初はインドア派だった清水は、いまでは後輩の女性芸能人とも交流を深めている。光浦靖子(48)、椿鬼奴(47)、黒沢かずこ(40)……。スピリチュアルタレントCHIE(27)もその一人だ。CHIEは台湾や北欧などを清水と旅行したり、下北沢界隈の美味しい店を探索したり。 「初夢フェスin武道館」終演後の楽屋挨拶で。森山のほか一青窈、藤井隆、椿鬼奴、黒沢かずこらが共演し、関係者も集結。楽屋は正月から熱気に包まれた(撮影/植田真紗美) 「まさに『国民の叔母』。お母ちゃん、おふくろ、お姉さん、そこまで近くなく、距離感を保ってくれる。深入りしない。収録もどこからONかわからない。ふだんから着飾らない清水さんなんです」(CHIE)  黄金週間、夕暮れの代々木公園。「東京レインボープライド」の青空ステージに、清水は立った。総動員が約15万人を数える一大イベントで、ひしめき合う観客らを前に、清水は「帰れない二人」を歌い始めた。井上陽水と忌野清志郎による73年の合作曲。ピアノ一本で、クセの強い2人の声を降臨させ、そのことばを旋律に乗せ、空へと放つ。その姿はお笑いの域をゆうに超え、魂を揺さぶるような余韻を残した。幾重に連なった彼らは目頭を熱くさせ、ただ聴き入っていた。 (文中敬称略) ■清水ミチコ(しみず・みちこ) 1960年/水郁夫・敬子の長女として岐阜県高山市に生まれる。高校1年生の時に矢野顕子、松任谷由実の音楽に触れる。高山西高校卒業と同時に上京、文教大学女子短大に進学。在学中からラジオ番組にネタを投稿し、採用されるようになる。 83年/ラジオ番組の構成作家として社会人デビュー。裏方だけでなく番組にも出演するようになり、人気に。 84年/テレビCMの声のキャラクターに(森永、金鳥、全日空など)。 86年/東京・渋谷「ジァンジァン」で初ライブ。 87年/フジテレビ系の新人発掘番組「冗談画報」に出演を果たし、テレビデビュー。同「笑っていいとも!」で全国区に。ファーストアルバム「幸せの骨頂」でCDデビュー。構成作家の仲間である坂田幸臣と結婚。 88年/ゴールデンアロー賞芸能新人賞、リーボックベストフットワーカーズ大賞。CD「イージー・ジャパニーズ~清水ミチコの明るい日本語講座~」発売。フジテレビ「夢で逢えたら」スタート。 89年/CD「幸せのこだま」発売。楠田枝里子や浅田美代子などのネタ収録。 90年/CD「miss VOICES」発売。松任谷由実と松田聖子の対決、大竹しのぶ、岸田今日子など鉄板ネタ満載。モノマネ輪唱や留守番電話も。 92年/CD「飴と鞭」発売。このころ既に「作曲法」に着手するなか、隠れた名曲は「鳳蘭のマンボ」。 95年/ニッポン放送「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」レギュラー出演開始。 2005年/CD「歌のアルバム」発売。森山良子の名曲に乗せ、彼女ゆかりのアーティストの面々を歌い上げた「この凄い血筋いっぱい」収録。 06年/CD「リップサービス」発売。女優の歌い方を情感豊かに再現した「My Black Eyes」は問題作。 09年/CD「バッタもん」発売。シャンソン、タンゴ、ジャズなど音楽の幅を広げ、ラスト曲は矢野顕子と競演。 12年/初のベストアルバム「清水ミチコ物語」発売。ブログに寄せられたリクエストをもとに構成。 13年/初の日本武道館ライブ。この年から6期連続で年末年始に武道館での公演を続けている。単行本『主婦と演芸』(幻冬舎)を刊行。 14年/CD「趣味の演芸」発売。「ありがたい説法」や「謎のインド人・チャダ」とのデュエットなどを収録。 19年/「忌野清志郎ロックン・ロール・ショー」(日比谷野外大音楽堂)に仲井戸麗市、Char、鮎川誠、矢野顕子らと共に出演。 ■加賀直樹 1974年、東京生まれの北海道育ち。元・朝日新聞記者。「AERA」「好書好日」「J:COMマガジン」などの媒体で執筆中。本欄では作曲家・阿部海太郎、絵本作家・ヨシタケシンスケを執筆。 ※AERA 2019年6月10日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/09/05 13:54
水野美紀 初めての家族キャンプでヒーローになれなかった夫…唯一役立ったのは?
水野美紀 水野美紀
水野美紀 初めての家族キャンプでヒーローになれなかった夫…唯一役立ったのは?
水野美紀さん/俳優。ドラマ・映画・舞台で活躍中。<出演情報> 8月8日(木)スタート AbemaTVオリジナルドラマ「奪い愛、夏」に主演(毎週木曜 23:00~)。レギュラー番組 讀賣テレビ「水野美紀の映画生活(シネマライフ)」毎週金曜22:54~(関西ローカル)http://www.ytv.co.jp/cinemalife/ イラスト:唐橋充  42歳での電撃結婚。そして伝説の高齢出産から2年。母として、女優として、ますますパワーアップした水野美紀さんの連載「子育て女優の繁忙記『続・余力ゼロで生きてます』」。3週に渡ってお届けしてきた「キャンプ」だが、いよいよ本番を迎えることに。果たして結果は……? *  *  *  テント購入を皮切りに、様々なギアや情報の収集、事前練習としての、千葉のキャンプ場泥だらけバーベキュー、川崎競馬場内の灼熱のバーベキュー、自宅でのテント設営シミュレーション、キャンプギアを使用しての調理練習。  およそ2カ月をかけて、私は2泊3日のキャンプ本番に向けて準備を進めてきた。  初心者3組、経験者2組、子供8人(うち2歳児5人)でのキャンプ。  2日前には、一番の経験者T家の奥さんから、2泊3日のスケジュール表がデータで配布された。  そこには、事前に打ち合わせた料理の分担も書き込まれている。  キャンプの大先輩T家は、ダッチオーブンでの鳥の丸焼き&牛塊肉グリルという経験者ならではのハイレベルな料理を担当。  想像しただけでテンションが上がる。  他にも、やはり経験者のK家がスペアリブと飯盒炊飯を担当。  また、ランチにピザ、子供たちのための流しそうめんといった豪華ラインナップ。  初心者の我々夫婦(というか私)は副菜と朝ごはんを担当することに。  トルティーヤの皮を購入して、現地で野菜炒めとアボカドディップを作り、T家のお肉と巻いて食べられるようにしてみた。  朝ごはんはホットサンド。  ネットで探しまくって厳選したホットサンドクッカーを使って、チーズサンドを提供させていただくことにした。  夫は私が調理している間にチビの相手をする担当。  前日の準備が大変だった。  担当する料理の材料の買い出しをし、キャンプギアをカテゴリー毎に分けてバッグに入れ、大量のチビの着替えとオムツと歯ブラシと、小分けにしたシャンプー、ボディーソープ、お薬セットに水着に帽子にサンダルに……子供のものだけでも沢山ある!  ママたちは皆、昼間は仕事があるので保育園から帰った子供にご飯を食べさせ風呂に入れ、寝かしつけてから準備だ。  ママのグループラインで状況を報告し合ったり、励ましあったりしながら準備は深夜まで続いた。  翌朝は早起きして、食材をクーラーボックスに詰め込む。  ちびのおにぎりを握って、水筒に冷たい麦茶を入れたら、いざ、出発!  トランクも助手席も足元にも荷物が載り、重たくなった車は「よっこらしょ」と走り始めた。  現地で無事に5家族が集合し、我々はまず、天気に恵まれたこと、子供が熱を出したりすることもなく全員が集まれたことを喜び合った。  なにせ先週は2歳児クラスにウイルスが蔓延して、半分以上の子が熱を出していたのだから。  立ち話もそこそこに、すぐに荷物を降ろして、初めての設営開始!  結局、うちはぶっつけ本番でのテント設営となったため、五里霧中状態!  でも、初めてチャレンジすることってとても楽しい。  建物脇の、木がランダムに幹を伸ばすフリーサイト(テントを自由に設営できるスペース)は、他のキャンパーもまばらで、スペースに余裕がある。  みんなで囲むように円形にテントを並べて設営することになった。  チビは保育園のお友達に会えて大喜びで走り回っている。  バッグからテントを出して地面に広げて、ポールを伸ばした時点で、T家パパが「手伝いましょうか」と手を差し出してくれた。  いやいや、いくら初心者とはいえ、さすがにまだ困った空気は出していませんよ、もうちょっと複雑な工程に差し掛かってから手をお借りすることになるかとは思いますが、どうぞご自分のテントをまずは……はっ!  そこで、まさかと思って隣を見ると、なんと、すでにT家のテントの設営は完了しているではないか!  早い! 早すぎる!  これが素人とプロの差か。  ありがたく手を借りながら、チビに水分補給しながら、他所のテントに侵入したチビを捕獲しながら、涼しい所に子供たちを一時避難させたりしながら、テント設営を終えて荷物を整理し終わるのに2時間かかった。  ハイランダー、ロゴス、オガワ、タラスブルバー、そして我が家のスノーピーク、5つのテントが立ち並んだ。  13時から設営を開始して、15時に完成。  この時点でもう汗だくのヘトヘトでくらくらした。  子供たちを涼しい場所で昼寝させつつ、一息入れようということになり、すぐ側にある3階建ての建物に入った。  なんとこの建物、3階にはビールバーと、キッズスペースが設けられている。  なんて素晴らしいんだろうか。  子供たちはキッズスペースのオモチャ目掛けて一目散。  大人たちは生ビールで乾杯!  ひと仕事終えたあとのビールがもう最高!  これから今夜はバーベキューして、明日丸一日ここでのんびりできるなんて最高すぎる。  設営してみて、2泊3日キャンプを勧められた理由がよーくわかった。  設営と撤収に合計4時間かかるとして、眠る時間も足したら、1泊じゃのんびり遊べる時間がほとんどない。  身軽なソロキャンプだったら良いだろうが、ファミリーキャンプは2泊が良さそうだ。  日が傾いて涼しくなってから、我々は調理を始めた。  子供たちは興味深そうにあちこち見て回っては、つまみ食いさせてもらっていた。  チビは炊きたての白米をばくばく食べた。  みんなでテーブルを囲むという訳にはいかず、各々調理を進めたり子供に食べさせたりしながら、できた物を配って回ったり、手が空いたら取りに行ったり。  ワイワイと立食パーティースタイルの夜ご飯。  鳥の丸焼きが出来上がった時には歓声が上がった。  陽が落ちて、ライトを灯した。  我が家はヘッドライトとLEDライト。  家で試した時は十分な光量だと思ったが、こうして外で点けてみるとぜんぜん光量が足りない。それに、白い光が目に刺さる。  隣のT家のテントから、柔らかい灯りが差し込んできた。  オイルランタンである。  オイルを入れて、マントル交換して、と手間がかかるので、そもそもリストに入れていなかったが、こうして比べてみると歴然と差が分かった。  柔らかい色なのに圧倒的な光量!  そしてこうも雰囲気が違うものか。  面倒なのにオイルランタンが重宝される意味が分かりました。  T家の、コールマンのオイルランタンは、T家パパが小学生の時にお父さんが買ったものだそうだ。親子2代で使っているのだ。  素敵じゃないか。  良いものを、手をかけて長く使う。  そういうのに年々惹かれる。  自分自身の身体にも年季が入っているからだろうか。  各々、時間を見計らって子供にシャワーを浴びせて寝支度をし、寝かしつけ。夫がチビをシャワーに入れてくれて、私はこの日、チビを寝かしつけながら寝落ちしてしまった。  翌朝6時には目が覚めて、朝食の準備をしていると、程なくみんな起き出してきた。静かで涼しい朝の空気が最高だ。  ガスコンロでお湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れて、ホットサンドクッカーにバターを塗って、パンを焼いていく。  一口コンロしかないので大人10人子供8人分焼くのにえらい時間がかかる。  この朝、私は汗だくでパンを焼き続けたのであった。  なんとかホットサンドとキャベツの炒め物を作り終えて、朝食が終わると、すっかり日差しが強くなり、気温が上がっていた。  ちょっと焦がしたりもしたけど、みんな美味しいと食べてくれた。  この日はそれから、水浴びや川遊び、虫捕りなどで、子供たちとゆっくり遊んで、お昼はH家の流しそうめんと、N家のピザ!  子供たち大喜び!  昼寝とビールタイムを挟んで、夜はパパたちによる男カレーだった。  料理が苦手なうちの夫は、火起こしの手伝いと、子供たちと遊ぶ係を頑張っていた。  昼間に車で買い出しに行って、バナナとストッキングでカブトムシの罠を作って木に吊るしに行ったりしていた。  大きなカブトムシを捕まえて、見せ場を作ろうと思ったのだろう。  2、3時間おきに見に行っては、肩を落として帰って来た。  2日目の夜は、子供たちを寝かせたあと、大人だけで焚火を囲んでゆっくり呑んで語らった。  憧れの焚火。  子供のこと、次のキャンプのこと、ポン酢とバームクーヘンのこと、信楽焼のことなどを語らい、1日が終わった。  翌朝、夫は早起きし、勇んで罠を見に行ったが、カブトムシは一匹たりとも捕まっていなかったのであった。  そして撤収という大仕事。  やはりT家は撤収も早く、うちはまたもや手伝ってもらった。  そしてなんと、撤収したT家のテントの下から、大きなカブトムシまで出てきた。  最後までヒーローだったTさんと、ヒーローになれない夫。  が、撤収も済んで全員で記念撮影も済ませてそろそろ帰ろうかという時、T家長男のS君の、掌にあったちょっとした擦り傷に土が入り込んで腫れているのをパパが発見した。  水で流してみるも、奥のほうに入った土が取れない。  この時、夫が走った!  いつも持ち歩いているニキビ潰しとちっちゃなピンセットのセット、キズパワーパッド、テーピングをガサゴソとカバンの中から取り出して、届けたのである。  ピンセットで奥の土が取れ、綺麗になった患部にキズパワーパッドを貼り、上からテーピングを巻いて、一件落着。  役に立てた夫はそれはもうホクホク顔であった。  ザックリと振り返ると、初の家族キャンプはこんな感じだった。  設営や料理、撤収は必死だったけど、楽しかった。  チビは色んな虫を見つけたり、川遊びをしたり、ハンモックでゆらゆらしたり、テントのお部屋でゴロンとしたり、いつもと違う環境の中で終始楽しそうにはしゃいでいた。  チビが成長して、設営や料理をお手伝いできるようになる日が楽しみだ。
出産と子育て子育て女優の繁忙記「続・余力ゼロで生きてます」水野美紀
dot. 2019/09/05 11:30
しいたけ.流「上手に休む方法」をタイプ別で診断! 全タイプにオススメの最強スポットとは?
しいたけ.流「上手に休む方法」をタイプ別で診断! 全タイプにオススメの最強スポットとは?
この絵をどこから見ますか?(AERA 2019年9月2日号より) ちゃんと休むには?(AERA 2019年9月2日号より)  仕事やふだんの生活で、自分の持ち味を生かし、能力を最大限に生かすにはどうしたらいいか──。現代人の悩みをすくいあげるスペシャリスト、しいたけ.さんに休み方について相談した。 *  *  *  まずは海辺に子どもが2人立っている絵を見てほしい。この絵をどこから見るか? 選んだ番号によって、あなたのタイプがわかる。 (1)全体像を見る。どういう状況にあるのか全体が気になる (2)手前の子ども2人の表情に目がいく。笑っている? 泣きそう? 表情で状況を感知 (3)配色に目がいく。絵のきれいさやかわいさに注目する (4)周辺の情報に目が留まる。背景にいる浮輪の子どもや、海辺の生物などに注目 【タイプ診断】 (1)リーダータイプ  1を選んだあなたは、全体の状況を把握していないと不安なリーダータイプ。  ものごとに対して、自分が向き合う価値があるものか、値踏みするような見方をします。話題性があるかどうか、ネタとして使えるかなどがものさし。「何のために◯◯をするか」とよく自問し、ムダな時間は1秒でも使いたくないタイプです。 (2)組織人タイプ  2を選んだあなたは、人の顔色が気になる組織人タイプです。  本当の笑顔なのか、作り笑いなのか、表情から状況を感知しようとします。子どもが泣きだしそうだったら「世話しなきゃいけないな」と、自分が「しなければいけないこと」をよく考えるタイプだと言えます。 (3)ムードメーカータイプ  3を選んだあなたは、ムードメーカータイプです。 「わー楽しそう、ここ行きたい」と、直感的に考え、ポジティブシンキングで、ちょっと自己チューです。絵を見るときも「配色がきれい」「ここに行ってみたい」と、おもしろそうかどうかで考えます。承認欲求が強いですが、根は組織人と同じく小心者。サービス精神で自分からおどけたことを言って、周りを盛り上げようとする人たちです。 (4)作家タイプ  4を選んだあなたは、作家タイプ。  中心にいるタイプではないので、絵を見るときも、立ち位置として自分に似た、孤独で脇役的なものを探します。コミュニケーションは苦手で、得意分野以外の話は聞かず、人に何か相談をするときにはすでに自分の中で「決定」した後という特徴があります。職人気質とも言えます。 【ちゃんと休むには?】  休み方という点で、まず今年全員に共通してオススメしたいのが、遊園地とか外国とか舞台など“ファンタジー”がある場所に行くことです。現実があまりに混沌としているので、逃げる時間も作ったほうがいいです。ファンタジーってそのとき役立ちます。  リーダータイプは、今年、ちょっと休んだほうがいい期間。あなた自身がすごくちゃんと一人で背負って頑張ってきたから。  このタイプの休息には、ちょっと薄暗いところがいいです。お店の個室とか、そういう場所で腹を割って人と話す。リーダータイプって、SNSで見栄えのいい報告ができるところに惹かれるし、周りに人がいると見えを張って言葉に勢いがついちゃうところがあるから、仲がいい3人だけで話すとかがいい気がします。そこにいない誰かの悪口を言いすぎないこと。話す相手は、すごく年上か、すごく年下の人もいいですね。同世代だとどうしてもライバル視してしまうので、休まりません。  組織人タイプにオススメは外国です。外国では相手の顔色をそこまで読む必要がなくなる。これは、組織人にとっての安息です。文化が違うからしょうがないやって、すごくいいことでもある。日本で例えばお店でレジの人がぼーっと突っ立ってたらすごい怒りがわくと思うけど、外国だったら自然に「これお願いできますか?」って言える。わかり合える環境だと、無意識に「自分の思うように動いてほしい」って思ってしまうんですね、お互いに。組織人はそこに疲れてしまうんです。近場でいいから外国に行くと、解放されます。  あとイエス・ノーをはっきり言う練習もしたほうがいいので、その意味でも外国的な感覚を大事にしてほしいです。外国は遠いし、お金もかかるので行けない場合は、外国の人が経営する飲食店でもOKです。  ムードメーカータイプも組織人と根底は似ていて、人のことを気にする人だし、勘がいいから、気にする材料が多すぎてパンクしがちです。休みの日は、山登りとかハイキングみたいな、達成感を味わえるものがオススメ。この遊園地のアトラクションを全部制覇するとか、達成目標を持つのもいいですね。強くなれます。ボルダリングとか、「難しい」と思うものでも、今のあなたはコツコツと「自分と向き合う」という時間がオススメです。淡々と向き合う姿はとてもカッコイイし、魅力的だから。  作家タイプは、お祭りとか縁日に参加するのがよさそう。このタイプって、閉鎖的なところがあるんだけど、小さい時から自分が楽しみにしている空間とか馴染みがあるところだと心を開くことができる。神楽の音とかリズムって懐かしさを感じますよね。お祭りって“夜明け”のようなものを表していると思います。自分の闇を切り開いて、その華やかさ、派手さの力をもらいに行くというか。ライブとかも一夜限りのお祭りみたいなものですよね。(編集部・高橋有紀) ※AERA 2019年9月2日号より抜粋
しいたけ.
AERA 2019/09/04 08:00
プロ清掃人・新津春子さん「清掃を習慣にすることで、人生も変えられる」
小長光哲郎 小長光哲郎
プロ清掃人・新津春子さん「清掃を習慣にすることで、人生も変えられる」
清掃人・新津春子(撮影/岡田晃奈)  国際的なランキングで4年連続「世界一清潔な空港」の1位に輝いた羽田空港。その清掃指導者として、メンバー500人に清掃法の指導をするのが新津春子さん(49)だ。社内の清掃員の中で唯一「環境マイスター」の肩書を持ち、その清掃法は80種類の洗剤を駆使し、目に見えない部分のどんな細かい汚れも見逃さない、まさに「職人技」。海外のメディアが「国宝級」と称賛したほどだ。 その新津さん自身も、毎朝、出社前の5時から6時という決まった時間に、自宅の掃除をするのが習慣になっているという。 「1時間と決めることがコツです。この時間は必ずやる!と決めないとだらだら1日が進んでしまう。毎日同じ時間だけ同じことを繰り返すことが、自分の体を維持することにもつながり、1時間ならストレスもたまらない。体も自然に覚えて、習慣としてやるようになります」  新津さんの持論は「清掃を習慣にすることで、人生も変えられる」。 「きれいな空間にすることできれいな気持ちになれるから、嫌なことも忘れられる。自分のため、好きな人のため、親のため、子どものため、何でもいいので、まずはタオル1枚を手に『動く』。動くことによって、また自分に還(かえ)ってくる。その還ってくる回数がどんどん増えることが楽しさだと思います」  そんな清掃のプロの彼女だが、かつて上司からこんなことを言われたことがある。 「あなたの清掃には、やさしさが見えない」  当時は戸惑うばかりで、まったく理解できなかったという。  中国残留日本人孤児の父親を持ち、中国で生まれ育った新津さん。清掃を始めたきっかけは偶然だった。17歳で、家族5人で来日。言葉が通じない中、できることは「掃除」というのが家族会議の結論で、高校時代からアルバイトを始めた。  清掃員としての大きな転機が、27歳の時に「全国ビルクリーニング技能競技会」で1位になったこと。大会前の2カ月間は月曜日から金曜日まで、仕事を終えた夕方5時から夜の9時半まで、上司と一対一で猛練習を重ねた。  課題は床洗いの一人作業。椅子を上げ、ワックスを塗ってという25分ほどの一連の作業を、何度も練習する。前出の言葉はこのときだった。 「上司からは、机や椅子や清掃道具への『気持ちが見えないね。ありがとう、という気持ちを込めた?』と言われたけれど、命がないものに対して、何言ってるの?と、当時は思いました」(新津さん)  だが、この上司が言いたかったのは、その道具の先にいる「清掃道具を作った人のことを考えたか。雑に使ったら、その人が悲しむ」ということだった。 「考えたこともありませんでした。作った人の気持ちって言われたことで、『やさしさ』の意味に初めて気づきました。当時の私は自分の作業に夢中になるだけで、肝心のお客様という存在に気配りができていなかった。それ以来、お客様や、使う道具にも細やかな配慮をするようになりました。あの一言があったから、いまの私がいます」  昨年、勤務する会社に新たにハウスクリーニング部門が創設され、さまざまな家庭を訪れる機会も増えた。日常生活では、掃除に対して腰が重いという人も多いだろう。習慣にするにはどうすればよいのだろうか。 「まずは『しょうがないな、やるか』という気持ちを少しずつ、増やしていく。自分を訓練していくんです。『あ、ここ拭いてきれいになったからちょっと休憩しよう』と、休憩したときに、そこを見る。見てまた、『やはりきれいになると気持ちいいよねー』と。『あ、このくらいでいいんだ』と思えれば、また次につながります」  最初はおっくうでも、掃除は自分の気持ちも上げてくれる。 「自分が笑っていられて、それが循環していくようになる。そこが清掃のいいところなんです」 (編集部・小長光哲郎) ※AERA 2019年9月2日号
AERA 2019/09/02 07:00
【現代の肖像】Bリーグ・チェアマン、大河正明 56歳で決意した静かな勝負  <AERA連載>
【現代の肖像】Bリーグ・チェアマン、大河正明 56歳で決意した静かな勝負 <AERA連載>
年間80試合以上観戦する。「現場100回」。銀行員時代、苦手だった上司から学んだ(撮影/大野洋介) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  5月のチャンピオンシップでは、アルバルク東京が優勝を決め、千葉ジェッツの富樫勇樹がリーグ戦のMVPに選ばれた。年々盛り上がりを増すプロバスケットボールのBリーグ。しかし、リーグ分裂のため、国際資格停止処分が下されたこともあった。 Bリーグとして土台をつくった川淵三郎の後を受け、大河正明が確実に成長させていく。リーグも人生も、これからだ。  空気がふわっと1センチ浮いた。赤いTシャツを着た群衆が一斉に立ち上がっている。拳を突き上げた赤いかたまりの間から湧き上がった歓声が炸裂し、空気が振動した。  Bリーグ第3期チャンピオンシップの優勝が決まった。アルバルク東京が千葉ジェッツを4点差で下し、日本一の座を守った。昨年に続き2度目の顔合わせである。熱狂的な地元ファンに支えられて、18チームが540試合を戦い、残った上位8チームによるトーナメントを勝ち上がった。5月11日、横浜アリーナ。ゴールドの紙吹雪が舞い、チェアマン大河正明がキャプテンにティファニー製のトロフィーを手渡した。  音楽、チアリーディング、MC、映像が異空間を演出する。1万3千席のチケットは発売20分で完売。チケット売上額は約1億円に上る。  スポーツ関連事業、中でも「観戦」ビジネスはまだ日本に習慣づいていない。これからの成長分野だ。リーグ発足後わずか3年で、Bリーグとクラブチーム、そして日本バスケットボール協会の合計売り上げは270億円に届こうとしている。2026年には500億円を目指す。  この日、韓国のプロバスケットボールリーグKBLとの連携に向けた調印式と会見が行われた。 「昭和はプロ野球の時代、平成はJリーグの時代でした。そして令和はBリーグの時代です」  大河の口調は静かだが自信に満ちていた。翌朝のニュース番組では、我々はうかうかしていられないと、プロ野球解説者から本音がこぼれた。 ●地元が負けても楽しい場所にすること  国際バスケットボール連盟(FIBA)は、加盟国に国内のプロリーグは複数あってはならないと定めている。しかし、日本では日本バスケットボール協会の影響下にあるNBLと、独立系のbjリーグに10年以上分裂。FIBAは勧告の末、14年、日本バスケットボール協会に国際資格停止処分を下した。前後してFIBAがJリーグ初代チェアマン川淵三郎(82)に状況の打開を依頼。川淵が大鉈をふるい、Bリーグを発足した。そして川淵が後継者として第2代チェアマンに指名したのが大河だ。京都大学法学部卒、元銀行マン、前職はJリーグ常務理事、60歳。 「アリーナはサッカーの競技場に比べて規模がコンパクトで街の中につくれます。バスケットボール以外にもライブやイベントなど需要もある。バスケットボールは音楽やファッションとの親和性が高い。地元チームが負けても、来て楽しかったと言ってもらえる場所にすることが大事です」  大河はビジネスモデルを簡潔に説明していく。オレンジ色のスプリングセーターはポーカーフェイスの雰囲気を和らげているものの、数字に冷徹な最高財務責任者(CFO)のようにも見える。 トレーニング中もほとんど表情を変えない大河が苦しさに顔を歪めた。腹が立っても他人に悟らせない。唯一Jリーグ時代からの秘書・岡島正実は「機嫌が悪いと口を利かなくなる」のでわかる(撮影/大野洋介)  BリーグはトップリーグB1の18チーム、続くB2の18チーム、そしてB3の10チームからなる。地域密着を基本とし、B1は自治体などとの連携により5千人以上、B2は3千人以上収容できるホームアリーナを確保することが求められる。債務超過や3期連続で赤字となるなど経営状況によっては下部リーグへの降格や参加停止になる。大河はこれらのクラブライセンス制度をはじめ、Bリーグの枠組みをつくった。昨年度はB1では千葉ジェッツをトップに6クラブが営業収入10億円を超えた。150もの企業がサポートするクラブもある。  1993年に誕生したJリーグは、地域密着を土台とするプロスポーツビジネスのイノベーションだった。約20年遅れで誕生したBリーグは、アリーナスポーツとしてJリーグとは異なる市場を切り拓こうとしているという話である。  4月6日、大河は、茨城ロボッツの新設ホームアリーナ、アダストリアみとアリーナを訪れていた。群馬クレインサンダーズを迎えてこけら落としの試合が始まろうとしている。アリーナは水戸駅から繁華街を抜けてタクシーで10分の好立地に5千人を収容する。水戸市では中心市街地の人口空洞化が課題だ。街に活気を取り戻すための新しい活動の中心にいるのが水戸出身の茨城ロボッツオーナー堀義人(57)だ。グロービス創業者でもある堀が笑顔で大河と握手をし、大きな目を見開いた。 「Bリーグはふるさと水戸を元気に盛り上げるために最適なコンテンツです」 ●論拠を説明しながら辛抱強く意見を聞く  MCの軽快なリードでチアリーダーが選手を迎え、ティップオフ(試合開始)。試合中も大河は客の動線や空間演出をチェックし、スマホのアプリで他会場の試合経過を確認している。  夜8時、試合終了。カメラマンと私がタクシーに乗り込むと、年配の運転手が最近は海岸沿いのひたち海浜公園に賑わいをとられていたのだと言い、「こんなに大勢のお客さん、久しぶりだねえ。もう、網をかけてしとめたいね」と破顔した。  バスケットボール界の再出発にあたり、NBLとbjリーグのチームはリーグに退会届を出してBリーグに入会する手続きを踏んだ。だが、Bリーグはすんなり受け入れられたわけではない。  山形ワイヴァンズ社長の吉村和文(59)は、クラブオーナーたちの間にはクラブライセンス制度への反発があったという。 「いきなりそんな大きな数字を突きつけるなんて、無理難題言わないでくださいよ、という気持ち、ありましたよね」  吉村はソファから大きな体を乗り出した。 「でもね、大河さんは丁寧に説明して、納得するまでつき合ってくれました。クラブオーナーたちと議論が紛糾したり、失礼な発言が出たりしても感情的にならない。ものすごく我慢強い人」  吉村は山形市を拠点にケーブルテレビ会社、映画館など複数の企業を経営している。山形ワイヴァンズだけに注力はできず、ともすればクラブの経営状況は中途半端になりがちだった。だが、大河は、エンターテインメント性の高いBリーグと吉村の事業はうまくかけ合わせればシナジー効果が生まれる、そのためには経営と事業執行を切り分ける必要があると考えていた。ある日、吉村は大河からショートメッセージを受け取った。 「Bリーグの経営は片手間でできるものではないということが書かれていました。日頃とは違う改まったメッセージにドキッとしました」 ワールドカップ出場決定、オリンピック開催国枠決定と、バスケットボール界には追い風が吹く。2026年には1万~1万5千人規模のアリーナが10カ所はできていることを想定している(撮影/大野洋介)  カンフル剤を打ち込まれた吉村は、取締役会でクラブチーム経営に関するサポートを頼んだ。それを受けて社員たちがチケット販売やスポンサー獲得により一層動いた結果、翌年の売り上げは前年度の2倍近くに伸びた。  三菱財団常務理事の渡邉肇(63)は、三菱銀行(当時)で大河の3期先輩だ。新卒で二つの支店を回った大河が31歳で異動した本店企画部の上司だった。企画部は経営陣の直轄部である。銀行の経営に関わる調査を行い、幹部に提案をする。長期的な視点に立って、論理的に裏付けた提案が求められる。企画部には立場にかかわらず議論するリベラルな風土があった。平成に足を踏み入れた当時、大河は渡邉のもと予算グループというセクションで銀行業務の原価管理を担当していた。ひとつひとつの業務をコスト試算したのは、1989年に三菱銀行がニューヨーク証券取引所に上場したため、アメリカ流のコスト管理を導入したという背景がある。国内の都市銀行では新しい取り組みだったと渡邉は話した。 「いわゆる頭のいい人はたくさんいますが、その中でも彼は論理に優れていました。ただ、それだけではない。我々は現場に新しい方針や施策を提案します。相手によっては、否定された、と思われることもある。彼は論拠を説明しながら同時に相手の意見を辛抱強く聞く人でした。論理と共感性の二つにおいて彼に助けられました」  自ら考え、論理を組み立てる習慣は、京都の洛星中高バスケットボール部に始まっている。カトリックの進学校で校風はリベラル、体育会系の圧力は皆無。顧問の国語教師は競技経験がないため、アメリカから指導書を取り寄せ研究するような人だった。おのずと生徒同士でも戦術を考えることになる。その結果、中3の夏に全国大会で準決勝まで勝ち進んだ。  本店企画部勤務のあと、95年、大河は発足3年目のJリーグに総務部長として出向し、川淵と出会った。ベンチャービジネスに飛び込み、川淵の強烈なリーダーシップを間近に見た。  40代で関東圏の支店長になると、顧客に資産や家族の状況に合わせた運用を提案するコンサル型営業を推進し、鎌倉支店長、町田支店長を務めたときは好成績で表彰を受けた。  外資系コンサルの提案で、本店企画部が拠点支店の支店長に周辺支店の営業行員の人事権を掌握させる制度を導入したときのことである。人事権と営業管理が一致しない制度は現場に合わない。大河が異論を唱えたところ、逆に制度を普及させよと企画部に呼び戻されてしまった。だが大河は2年ほどかけて説得し、制度は廃止となった。 ●30歳のある真夜中に突然心臓に激痛が走る  巨大組織を器用に泳ぐタイプではないが、退職時の肩書は理事。役員になる直前のポストらしい。  ところが。 「本人はずいぶんと我慢をしたはずです」  京大法学部の同級生でJXTGホールディングス取締役の加藤仁(61)はこう慮った。加藤が指摘したのは、大河の病気である。  30歳のある真夜中、心臓を金づちで殴られるような激しい痛みが30分ほど続き、脂汗が流れ、手足は氷のように冷たくなった。死ぬかもしれないと思った。心臓冠動脈が痙攣する異型狭心症だった。ときを選ばず症状は起きる。重要な会議に出られなかった際、ある上司は「病気のヤツは要らない」と言い捨てた。  大河に病気の影を感じた記憶はないと渡邉は言うが、人知れず45歳まで続いていた。加藤は仕事帰りに一緒に飲んだとき、「俺、こんなん持ち歩いてるんや」と、大河が胸ポケットから薬の小びんを取り出したことが忘れられない。 3月、スカイマークの機体をBリーグのロゴと「スラムダンク」作者・井上雄彦のイラストで飾るBリーグジェットの披露会見。スカイマーク会長・佐山展生は「昨年9月に初めて観戦して伸びると直感した」(撮影/大野洋介) 「悔しいんやなあ。我慢してるんやなあ。そう思いました。本人は決してそうは言いませんが」  銀行員は50代に入ると人事部から紹介された関連会社に出向し、定年を迎える。だが大河は52歳で自ら行き先を決めた。Jリーグ事務局長だった佐々木一樹(67)が大河を誘った。 「Jリーグの経営基盤を整えたのは彼です。Jリーグはもう一度彼を必要としていました」  2010年、開幕17年が過ぎたJリーグでは経営に問題のあるチームが半数近くあった。リーマン・ショックで日本経済が打撃を受けており、クラブチームの経営健全化は待ったなしだった。大河は、3期連続の赤字または、債務超過にならないことを資格要件に含むクラブライセンス制度を設計した。  Jリーグマーケティング代表取締役社長の窪田慎二(49)は、この時期、大河の部下だった。 「大河さんとクラブチームに説明に回りましたが、なかなか理解されませんでした。でも、大河さんに説得されたクラブチームが渋々スポンサーや株主に説明すると、そんなの当たり前だろうと。企業論理からすれば、赤字の経営なんてあり得ない」  クラブライセンス制度導入後、多くのクラブチームは経営状況が好転した。個々のクラブチームの経営内容が良くなると、Jリーグの価値は高まる。15年からは明治安田生命とJリーグの間にスポンサー契約(契約額は非公表)が実現した。  川淵がFIBAからバスケットボール界の整理を依頼されたのは、クラブライセンス制度の導入が一段落する頃だ。川淵の指示で大河は組織づくりのスケッチを描いたが、FIBAから指定された半年後の期限までに間に合うとは到底思えないほど、状況は混乱していた。  一方、川淵は心労で血圧が200を振り切るほどに上昇していた。誰かに後を任せたいものの、人選は難航。10人ほど後継候補と会ったが託せる人物に巡り合えない。  ある日、大河が川淵の執務室に顔を見せた。 「お手伝いできることがありますかって、言うんだよ。それも学生の頃にバスケットボールやっていたって言うじゃない?  経営実務は僕より優れてる。ああ、待ちびとが向こうから来てくれた、運がいいなあ、って思ったよね」  現場となった執務室で、川淵が笑顔になった。  大河は56歳、Jリーグ常務理事だった。だが、仕事人生でまだ力を出し尽くしていない、そんな思いがあったのか。荒野だったバスケットボール界に向かって静かな勝負に出た。  自分からポジションを取りに行くよりは、声がかかるのを待つタイプ。現場で率先して働き、成果を正当に評価されたい。部下に担がれる上司を嫌悪し正攻法でやってきた。どちらかといえば控えめだ。大河の性格を川淵は十分承知している。 「力を発揮したいという思い、本人にあったろうと思うよ。それでなかったら、僕のところにこないだろう?」 ●何万人もの人を感動に自身も奮い立たせられる  アリーナを中心に街が活気づく。試合のない日こそアリーナ周辺の街が元気でなくてはならない。たとえば最寄り駅とアリーナを結ぶ自動運転のモビリティーを整備すれば、街の快適性は上がり人が集まる。テクノロジーとの融合は投資対象としても事業価値を高める。  強さを追求するB1、地域に根づくB2。リーグごとに存在の意義は違っていていい。弱くても愛される、それこそが、目指す地域密着のプロスポーツのありようだ。何よりスポーツの社会的地位を向上させたいという思いがある。その原風景はJリーグにある――。  そんな話を大河から聞いたのは、チャンピオンシップの前日だった。リハーサルが行われている横浜アリーナの控室である。 被写体でありながら取材者をジッと観察するマンウォッチャー。取材終盤、リハーサル中の横浜アリーナでカメラマンがついに会心の笑顔をとらえた(撮影/大野洋介)  心臓病の気がかりを抱えて出向したJリーグで、試合に打ち込む選手の姿に心を震わせる観客を見た。大河自身、奮い立たせられた試合もあった。何万人もの心を揺さぶる仕事に関わる幸福感を味わった。  病気で抱えた悔しさや挫折感は、大河に弱い立場を察する目線を与えた。いつも心は平坦に見える。そう私が感想を伝えると、仏教系の小学校とカトリックの中高の12年間、宗教がそばにあったからではと、大河は自己分析した。信仰があるわけではないが、仏教もカトリックも「赦す」ということを教えてくれたと振り返った。  だが若かった頃、幼い長男に厳しく接したことには今も後悔がある。そこには子育てに悩んだ等身大の父親の横顔があった。Jリーグに転職を決めたときには、高校生だった末っ子の娘は人生の試練にあった。バスケット界に移るとき背中を押したのは社会人1年目の次男だった。試合で元気がもらえると言う娘を、時折試合に同伴する。 「人間の心はいくつになっても成長するんだよね」  3人の子どもの成長と、仕事に打ち込む父の充実感は、重なっているようだ。  プロスポーツやスポーツビジネスが子どもたちの憧れの職業になることを願う。 「そのためには、選手の報酬やセカンドキャリアについての策が必要。Bリーグやクラブチームで働く人たちの待遇も魅力的にしていかないと」  人生の放物線のピークはまだ訪れない。  (文中敬称略) ■大河正明(おおかわ・まさあき) 1958年/京都市生まれ。父は繊維会社の経理、母は専業主婦。5歳下に妹。幼稚園の頃は親分タイプのガキ大将。幼稚園の先生に、公立小では力を持て余すからと勧められ、私立京都女子大附属小に進学。 71年/カトリックの私立洛星中学高校入学。校風はリベラル。バスケットボール部に入部。ポジションはスモールフォワード。 77年/京都大学法学部入学。アルバイトして買った中古の黄色いセリカで、大学の友人と日本中を旅した。 81年/三菱銀行入行。京都から東京へ移り住んだ。初任地日暮里支店で中小企業を担当。 85年/京橋支店で大手上場企業を担当。この頃、プラザ合意により急激な円高に。 90年/本店企画部に異動。予算グループ配属。銀行経営の中枢に近い部署で、経営の本質を学んだ時期。心臓冠動脈異型狭心症を発症。以後45歳まで病気とのつき合いが続いた。 95年/Jリーグに総務部長として出向。30人ほどの組織にメーカー、エネルギー会社などさまざまな組織から出向者が集まり、企業ごとのカラーがよく見える環境だった。 97年/銀行に戻る。巣鴨支店副支店長。 2000年/海老名支店長。銀行がリテール営業に注力する方針を打ち出す。個人客向けに遺言提案や住宅ローンマーケットを開発。のちにFP技能士1級の試験に合格。 02年/本店リテール営業部次長。 04年/同部副部長。 06年/地区担当部長。 07年/鎌倉支店に支店長として赴任。最も成績のよい「総代店」として表彰を受けた。 08年/リーマン・ショック。 09年/町田支店に支店長として赴任。「総代店」表彰。 10年/銀行を退職、Jリーグへ転職。 理事を経て14年常務理事。 15年/日本バスケットボール協会へ。専務理事・事務総長に。B.LEAGUEチェアマン就任。 ■三宅玲子 1967年生まれ。本欄ではプロ経営者・松本晃、高岡浩三(ネスレ社長)、佐山展生(インテグラル社長・スカイマーク会長)に続き、経営者の執筆は4人目。 ※AERA 2019年6月3日号 ※本記事のURLは「AERA 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AERA 2019/08/29 15:08
小川彩佳、有働…カトリーヌあやこ×今井舞が“女子アナ”辛口採点!
小川彩佳、有働…カトリーヌあやこ×今井舞が“女子アナ”辛口採点!
加藤綾子(左)、有働由美子 (c)朝日新聞社 女性キャスター採点表 (週刊朝日2019年9月6日号より)  報道番組の顔ともいえる女性キャスター。世間をにぎわした「転職」組から局アナまで、好感度や安定感などそれぞれの「武器」を持っている。そこで本誌が勝手に選んだ7人を、漫画家でTVウォッチャーのカトリーヌあやこさんと、TV番組に詳しいコラムニストの今井舞さんに採点してもらった。 *  *  *  昨年まで「報道ステーション」(テレビ朝日)を担当していた小川彩佳アナ(34)が、6月から「news23」(TBS)に! この仁義なき転職で、キャスターへの注目が高まっている。  今や、女性がキャスターを務める報道番組は目白押し。そこかしこで女の戦いが展開されている。そこで僭越(せんえつ)ながら、知名度抜群の「神7」を採点する次第。  まず最初は、小川アナ。本誌で「てれてれテレビ」連載中のカトリーヌあやこさんは、 「顔面の圧が強い。スタジオセットがムーディーで薄暗く、ホテルのラウンジバーみたいなせい? 強い目力、低い声、時々眉間に入るシワ。決定的に癒やしの要素が欠けてます。その圧を利用して立憲民主党あたりの政治家に転身してみては?」  10点満点で5点に止まったうえ、わずか3カ月で「転職勧告」まで出てしまった。  テレビ番組に詳しいコラムニストの今井舞さんはもっと厳しく、3点! 「彼女は秘書的能力に秀でているので、補佐する役割ならとても良かったのに……。『メインキャスター』という器にはまだ見えない。局アナからいきなり櫻井よしこばりの席を用意され、プレッシャーでペシャンコになっちゃってます」  今井さんは、小川アナが個性を生かせずに苦しんでいることで、「news zero」(日本テレビ)の有働由美子アナ(50)の株が上がったと語る。 「肩の力が抜けているのがいいですね。堅いニュースではまじめに訴え、ひまネタでは自分のカラーを打ち出して進行。自身を自在に操っています。7点」  一方、カトリーヌさんは6点をつけつつも、有働アナの魅力は昼の番組でこそ発揮されると感じている。 「コメントするとき『心に余裕がないので~』などと自虐ネタを付け足すけど、午前中の主婦には響いても、この時間帯では痛々しい」  カトリーヌさんは、昼と夜で求められるキャスターのキャラは異なると言う。 「昼の視聴者はだいたい主婦なので、親しみやすさなどが重要です。対して23時台は、疲れて帰ってきたおじさんへの癒やしが必要」  夜のおじさんの心を射止めたのが、フジテレビが今春から放送開始した「Live News α」の三田友梨佳アナ(32)。入社翌年に「恋のミタパン」なるCD(ジャケット写真はセーラー服姿の本人)を発売するなど、フジ女子アナ王道バラエティー路線を歩んできただけに意外な抜擢だが、 「白のブラウスに黒のロングスカートで清楚に決めたり、黒のシースルーのトップスに黒のキャミを合わせるセクシー路線だったり、コーディネートも多彩。『直撃LIVE グッディ!』で安藤優子さんと渡り合ってきたように、案外しゃべりもしっかりしています。7点」(カトリーヌさん) 「他よりも新ビジネス関連のゲストが多い番組構成なのですが、視聴者が新しい潮流を理解しやすくするための後押しがきちんとできています。原稿を読んだ後、心に響くような一言を付け加えるなど、コメントのセンスも良い。6点」(今井さん)  ミタパンの報道番組転身は大成功で、おそるべし、フジテレビの人事異動。  とはいえ同局の人選が失敗した例も。夕方の「Live News it!」の加藤綾子アナ(34)だ。 「フランク・ロイド・ライトの建築を取り上げたとき、終始『へ~?』『は~?』と、一ミリも興味がない相づちばかりで、見てるこっちも『へ~?』ってなった。6点」(カトリーヌさん) 「黄色い声、あざとい表情。バラエティーのクセが抜けていない。無理にこっちに来なくとも。大御所芸能人にいじられるのが、カトパンの生業です。2点」(今井さん)  では21時という微妙な時間に放送される「ニュースウオッチ9」(NHK)の桑子真帆アナ(32)は? 「仕事ぶりの無難さは前から変わりないのですが。スピード離婚のせいで、“女”としての生々しさがつい気になっちゃって。6点」(今井さん) 「他の番組に比べ、パネルに対して横向きに立つことが多く、『胸自慢か!』と思って見ています。とんでもない言い間違いもするんですが、お茶の間のお父さんは娘のように見守っちゃうんじゃないでしょうか。8点」(カトリーヌさん)  いっそのこと、「生身の人間という感じがしない。CGみたい」(今井さん)という井上あさひアナと交代し、23時台の「ニュースきょう一日」(NHK)を担当したほうがいいかも。 ■だれも崩せない大下アナの牙城  残る2人は圧倒的な高得点を挙げたのだが、その前に「神7」以外で特筆すべきキャスターを紹介する。  カトリーヌさんは「あさチャン!」(TBS)の夏目三久アナ(35)に8点。「日テレとフジがキャピキャピしている朝の時間帯に、貫禄すら感じる風格が。ニュースの原稿読みも、めっちゃおっとり。ベリーショートの髪もお似合い」  今井さんは「ひるおび!」 (TBS)の江藤愛アナ(33)に9点。「出しゃばらず、メインの恵俊彰さんが仕事しやすいようにうまくアシストしています。でも男に媚びている感じはしないので、上から可愛がられて同性からも嫌われない、全方位優等生タイプ」  それでは、いよいよトップ2の発表。  2位は「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)の大江麻理子アナ(40)。 「かつては『モヤモヤさまぁ~ず2』でさまぁ~ずをコロコロ転がし、今は経済通のできる女。最強では? 9点」(カトリーヌさん) 「何があっても微動だにせず、いつも同じたたずまい。脈拍も血圧も常に一定。有働さんみたいにアセって脇汗をかくこともない。不動。8点」(今井さん)   この大江アナを抑えてトップを獲得したのが、冠番組「大下容子ワイド!スクランブル」(テレビ朝日)の大下容子アナ(49)。  「女子アナは若くないと、みたいな風潮でどんどん消費されていく中、しっかりと年齢を重ねた安定感。『お局』アナにありがちなギスギス感がないのも素晴らしい。9点」(カトリーヌさん) 「若さに固執せず、女の匂いもあざとさも、目立つ欠点もスネの傷もなし。年齢を重ねた女子アナでこれだけ好感度が高いってすごい。なによりアンチが一人もいないというのが一番すごい。誰にもこの牙城は崩せないでしょう。10点満点」(今井さん)  今回、1位と2位は40代。若い女子アナをとっ替えひっ替えする時代は、終わったのかもしれない。 【女性キャスター採点表】20点満点 有働由美子          13 大江麻理子          17 大下容子           19 小川彩佳           8 加藤綾子           8 桑子真帆           14 三田友梨佳          13 (構成/本誌・菊地武顕) ※週刊朝日  2019年9月6日号
カトリーヌあやこ
週刊朝日 2019/08/29 11:30
2世帯住宅で仲の良い妻と親に疎外感… ローン抱え家を出た40代夫の幸せ
西澤寿樹 西澤寿樹
2世帯住宅で仲の良い妻と親に疎外感… ローン抱え家を出た40代夫の幸せ
※写真はイメージです(gettyimages)  夫婦関係を良くするために、家を掃除して手料理を作り、居心地の良い空間をつくる……。そんなアドバイスはよく聞くけれど、実際はどうなのか。カップルカウンセラーの西澤寿樹さんが夫婦間で起きがちな問題を紐解く本連載、今回は「ほっとする場所」について解説する。 *  *  *  今年のお盆は、台風10号のおかげで、帰省や旅行で苦労された方も多いのではないかと思います。  旅先から自分の家に帰ってくるとほっとしますよね。特に海外から帰ってくると私は風呂に入り、何か和食っぽいものを食べたくなります。それで、あー、帰ってきたなー、とスイッチが切り替わる感じがします。  帰省の場合は、形的には出かけ先ではありますが、帰るとほっとする人も多いと思います。もちろんなかにはそうじゃない人もいます。一方、配偶者の実家はもう少し意見が割れます。配偶者の実家は居心地が悪いという人もいれば、配偶者の実家のほうがほっとできる、という人までいます。  ほっとする、というのは、「自分は(ここにいるべき理由がなくても)ここにいていい」というような感覚だと思います。自分がいていい場所、すなわち「自分の居場所」です。  かつては多くのサラリーマンにとって「理由がなくてもここにいていい」と感じられる場所であった会社が(私が昔働いていた会社には、休日出勤すると、土日行くところがないからと言って会社にきてうろうろしている先輩社員がいました)、働き方改革のせいで、てきぱきと最低限の時間で仕事を終わらせて、帰らなければならない場所になってしまいました。言ってみれば、行きつけだった、なじみのマスターが経営するいつまで居てもいい居酒屋が、回転率が勝負の立ち食いそば屋になってしまったようなものでしょうか。  もちろん、長時間労働がいいと言っているわけではありません。ただ、人は自分の「居場所」、ほっとできる場所や環境が必要なのです。  進学や就職、転勤で大好きな実家を出なければいけなくなってしまい、なかなか1人暮らしに慣れないという人もいれば、一方では、実家がほっとできなくて、実家を出たいが一心で頑張って勉強して遠方の大学に入り、1人暮らしをはじめてようやくほっとできる場所を得たという方もいます。  人は頑張って自分の居場所をつくろうとするのですが、辛いのは、結婚してつくった家が、ほっとできる場所ではなくなってしまうことです。  純司さん(仮名、50代・自営業)は、なにかにつけ妻の直子さん(仮名、40代・自営業)のペースで、家にいても落ち着きません。ほぼすべてのことが妻主導で決まっていきます。どんな家具や家電を買うかやその配置、食器の洗い方や洗濯物のたたみ方……そんな話をしていて気づきました。もっとも大きなことは、住む場所です。妻とその母親はまさに“一卵性母娘”で、当然のことのように妻は実家のそばに家を買って住むことを主張し、結果的に、その通りになりました。もちろん、今後の育児などを考えれば、妻の職住近接や妻の実家の近くに住むことが有益なことは分かりますから、納得して決断したつもりでした。  しかし、毎日の通勤が2時間を超えて、10時ごろ疲れて家に帰ってみると、妻は実家でご飯を食べて、飲んでそのまま実家に泊まってしまうということもままあります。そんな生活なので、子どもをつくることも事実上諦めてしまいました。  実家近くに引越して3年ほどたったある日、帰りの電車の中で、「自分は何をやっているんだろう」、という思いが、降ってきた、と言います。以後それは、ぬぐい切れない思いとしてありつつも、普通に日常生活をしていたつもりなのですが、次第に通勤がきつくなって、自宅に帰るのが憂鬱で、夜になると仕事の効率がガタ落ちし、結果終電ごろまでだらだら仕事をするようになってしまいました。そんなある日、終電に乗り過ごしてしまい、仕方なく会社の来客用のソファで仮眠をとりました。  翌朝、気持ちがいつもより楽なことに気づきました。そして、純司さんの言葉によれば「自分は強迫観念に取りつかれたように『帰らなくは』と思っていた」と気づいたそうです。結局、純司さんは、職場そばに小さな部屋を借りて寝泊まりし、週末しか家に帰らなくなりました。  純司さんは言いました。 「大学生の時に住んでいたワンルームマンションと変わらないかそれ以下ですけど、ここに帰るとほっとできるんです。自分の居場所だな、って感じるんです」 ■「実家に居場所がない」学生時代から変わらず  もう一つ、事例を紹介しましょう。亨さん(仮名、40代・会社員)はもともと実家がほっとする場所ではありませんでした。大学に受かると同時に実家から逃げるように家を出て、そのまま盆暮れにも帰らなかったのですが、結婚もしたし、妻の佳華さん(仮名、30代・主婦)は両親と自分より仲良しだし、それなら家の建築費も助かるからと、子どもができるのを機に2世帯住宅にして同居することを決めたのでした。  こういう状況でよくありがちなのは、佳華さんが亨さんの両親とうまくいかなくなることですが、お二人の場合は、そうはなりませんでした。  人懐っこい性格の佳華さんは、亨さんの両親とはすぐに打ち解けて、実の親子のようになりました。亨さんの両親も佳華さんと子どもたちをかわいがってくれました。  しかし、最終的に居場所を失ったと感じたのは、亨さんの方でした。  自分は実家の輪に入れない、と感じるようになってしまったのです。残念ながら、大学に受かって家を飛び出したときのメンタリティーが変わっていなかったのです。そもそも、そういうものは「自然に」変わったりすることはそんなにありません。もちろん、佳華さんが潤滑剤になって頑張ってくれていたので、そこそこの期間頑張れたのですが、それは本質的な変化を引き起こしたわけではなかったのです。  すったもんだの末、亨さん夫妻は、実家を出て、子どもたちと4人で狭いアパートで生活することにしました。家は不自由で狭くなった上に、2世帯住宅のローンと新たに借りたアパートの家賃で生活は苦しくなり、佳華さんも働きに出なければならなくなってしまったことは心苦しいものの、亨さんは「自分の家」「自分の家族」という感覚を取り戻すことができたそうです。  カウンセラー的に言えば、亨さんの頭の中にあってうまく機能していない「両親との関係性」を変える、というのもありうる選択の一つですが、それよりも、シンプルに亨さんがほっとする家と家族を得られたことが良かったな、と感じたケースでした。  ほっとする、には家とか部屋とかという物理的な「場所」と、誰との場所かという「人」、別の言い方をすれば精神的な居場所の2つの側面があります。  結婚というのは、そのほっとできる人との関係をつくって維持するという、精神的な居場所をつくることです(もちろん、結婚だけが精神的な居場所というわけではありません)。  佳華さんは、こうおっしゃっていました。 「私は、亨さんがそばにいて幸せにしていてくれれば、場所はどこでもいい(ほっとできる)んです」  よく、夫婦の関係改善や夫が家に寄り付かなくなることの対策として、家の掃除をして気持ちが休まる環境にするとか、手料理を作るとか、少しセクシーな格好をするとか、というようなことが言われます。それも間違いではないと思いますが、それらは、物理的な場所づくりです。家を買ったから結婚するのではないのと同じように、物理的な箱が先ではなく、精神的な居場所を先に整える必要があると私は考えています。  お互いの精神的な居場所、つまり「この人のそばにいていいんだ」「この人のそばにいたらほっとする」という感覚をどうやって維持、復活、拡大するかがポイントです。猫なら、1週間ぐらい猫缶で餌付けして、なでていればそう感じてくれるようになりますが(経験談)、人間はもっと複雑です。相手が一番好む『餌』が何なのか、見極めることが必要です。  亨さん佳華さん夫婦の場合は、佳華さんが亨さんの不適応感の解決を第一の優先順位にしてくれたことで、「妻はあんなに仲良しだった自分(亨さん)の両親と喧嘩してまで頑張ってくれているんだ」と感じ、「自分もその期待に応えなきゃ」とちょっとプレッシャーにもなっていました。しかし、それを佳華さんに言ったら「期待に応えたくて一緒にいるなら、一緒にいなくていい」と突き放され、改めて、自分はどうしたいのか考えてみたそうです。その結果、「妻のそばにいたい」と心底感じ、次第に「妻のそばにいてもいいのかも……」とも感じるようになったそうです。それは、独身時代を含めて他人との間で感じたことがない感覚なのだそうです。  会社そばのワンルームマンションを借りた純司さんは、「妻のことは好きですが、妻との家庭が自分の居場所なのかは、もう少し時間をかけて考えてみます」とおっしゃっていました。  さて、あなたは誰といるときにほっとできますか。(文/西澤寿樹) ※事例は、事実をもとに再構成しています
夫婦結婚
dot. 2019/08/28 11:30
INORAN、ピュアなロックスピリット全開となった全国ツアーFC限定公演
INORAN、ピュアなロックスピリット全開となった全国ツアーFC限定公演
INORAN、ピュアなロックスピリット全開となった全国ツアーFC限定公演  INORANの全国ツアー【TOUR 2019 「COWBOY PUNI-SHIT」】初日公演のオフィシャル・ライブレポートが到着した。 その他ライブ画像  INORANが待望のニューアルバム『2019』を完成させ、全国ツアー【TOUR 2019 「COWBOY PUNI-SHIT」】をスタートさせた。  『2019』は、彼のロックとギターに対する溢れんばかりの愛情と、情熱が込められた会心作である。  本作のリリースイベントで、INORANは「今回、アルバムタイトルがなかなか決まらなかったけど、2019年というフレーズはしっくりきた。今年は、元号が令和になった時も日本の皆がポジティブに受け入れたし、秋にはラグビーのワールドカップもスタートする。関わってくれた皆の気持ちが込められているし、写真の日付じゃないけど、2019年の“今の自分”をうまく表現できたと思うと、充実した表情で手応えを語っていた。  8月21日(水)、新宿BLAZEからスタートした【TOUR 2019 「COWBOY PUNI-SHIT」】。ライブ当日は、それまで続く35℃を越す暑さとは異なり、夜になると気温は28℃ほど。小雨がパラつく中で、だんだんと秋が近く気配を感じたが、会場のボルテージは、開演前から既に今夏以上に熱気を帯びていた。  ファンクラブ『NO NAME?』限定となる本ライブは、開演時刻にアナウンスされた「Are You Ready to Rock?」の言葉通り、全編に渡りピュアなロックスピリット全開で、キャリアの“集大成”と呼ぶに相応しい、圧巻の内容だった。  オープニングにプレイされたのは『2019』の「Gonna break it」。先にステージに登場したRyo Yamagata(ds)、u:zo(b)、Yukio Murata(g)による、力強いバンドのグルーヴがファンを鼓舞させる中、スペシャルゲストの来門(vo)が登場。彼は、u:zoと共にミクスチャーバンドROSに在籍し、本曲の作詞を手がけたキーパーソンである。  曲の冒頭、来門が「お前ら楽しんでいけよ!」と叫ぶ。そして、ステージにINORANが登場すると、会場の声援は一際大きいものになった。  INORANと来門は互いにアイコンタクトをしながら、マイクを持ってステージを所狭しに動き周り、呼応し合う力強いツインボーカルでオーディエンスを魅了。  90年代インダストリアル・ロックを彷彿とさせる、イナたいビートが特徴の「Gonna break it」。ライブでは、来門のリズミカルなリリックによって、縦ノリなバンドのリズムに横ノリのフロウ感が加わり、独特で強烈なグルーヴが生み出されていた。  開放感があり、力のみなぎったビートに観客がノリ始めたタイミングで、来門「INORANがヤバいと思うヤツは手を上げろ!」と観客達を煽り、その後プレイされた、ヘヴィなギターリフとキャッチーなサビが魅力の「COWBOY PUNI-SHIT」で、会場の熱気はさらにヒートアップ。  ツアータイトルにもなった「COWBOY PUNI-SHIT」は、ギタリストのMurataが作詞を担当しているが、そのオリジナリティ溢れるリリックの世界観に、INORANはとてもインスパイアされたそうだ。  彼は、インタビューの際に「『2019』は、u:zo、Murataさん、Jon Underdown、FEEDERのDean Tidey、他にも多くの素晴らしい人達が協力してくれて、どれもが最高だった。中でも、Murataさんの「COWBOY PUNI-SHIT」の歌詞にはやられたよね。Cowboyという単語に“罰する”という意味のPunishを加えるんだから。凄いワードセンスだよ」と、嬉しそうに話していた。  この曲も、INORANと来門によるツインボーカルだったが、筆者はこの開始2曲のパフォーマンスに、1stアルバム『想』や、彼がかつてソロと並行活動していたFAKE?時代のスタイリッシュな音楽的要素が、色濃く宿っていると感じた。  このライブを経験するまで、『2019』という作品は、8thアルバム『Teardrop』や9thアルバム『Dive youth, Sonik dive』で打ち出した、彼の重要な音楽カテゴリーのグランジやオルタナティヴ的な要素を、さらに昇華させた内容だと解釈していた。  それは決して間違っていないと思うが、ライブ後の今改めて考察すると、新作『2019』の活力に満ちた現代的なロックサウンドの奥底には、INORANがソロ活動をスタートさせて、様々な試行錯誤を行っていた頃の、オルタナティヴ/ミクスチャー・ロックのテイストも同様に宿っている。そう、まるでポートレイト写真のように、彼がミュージシャンとして歩んできた“これまでの全歴史”が一切の嘘偽りなく、リアルに音に現れているのだ。  その後、INORANは愛用のジャズマスターを手に取り、ライブの定番曲「2Lime s」、今も根強い人気を誇る「Hide and Seek」といった、疾走感溢れるナンバーをプレイ。演奏の中で、彼がとても満ち足りて、心底楽しそうな表情をみせていたのが印象的だった。  その後のMCでは、「東京元気か? この作品の制作をスタートして、曲作りをし、レコーディングをして、レコーディングの途中に色々と考えて、やっと完成したわけだけど、この作品を作ったのは、今広がっている“この景色”が見たいからでした」と、幸せそうにファンに語りかける。  そして、「昨日、明日からツアーがスタートするんだって、夜仕事を終えた時に思い出したよ。“思い出したこと”といえばさ、少年時代に音楽が好きになって、ギターに興味が出て、父親のギターを彼がいない時に弾き始めたんだ。で、もっとギターが好きになったから、お金を貯めて、初めて楽器屋に行き、最初のギターを買ったんだ。手に入れた時は本当に嬉しくて幸せだったよ。あの頃の“初心の気持ち”をやっと思い出せた。今日は本当に最高です」そして、「でもさ、最高な時って人生のいつもじゃない。もしからしたら数回かも。波みたいなものかもしれないね。でも、それでいいと思う。最高な波ばかりいつも来たら、サーファーだったら絶対に波に乗らなくなるでしょ?(笑)」「でさ、初めてギターを買い、家で無心に弾いていたあの至福の瞬間、ふと夢見たのは、今広がっている“この景色”だったってことは、ここだけの内緒な話です」と、いつもよりも饒舌に語りかけ、「そんな特別な日にこの曲を送ります」とコメントし、「Beautiful Now」を演奏する。  「Beautiful Now」は、10thアルバム『BEAUTIFUL NOW』完成以降、ライブでずっと演奏されてきた、INORANとファン双方にとって、思い入れの強いナンバーである。  この日の「Beautiful Now」も、初めてライブで披露された時と全く変わらない幸福感を我々にもたらしたが、その音はさらに磨き抜かれ、アップデートされていた。INORAN、Ryo、u:zo、Murataによるバンドのグルーヴは、これまで以上にディープかつ豊かだったし、そこにINORANとMurataのブライトでファジーな美しいギターの音色が加わることで、曲にさらなる強い生命力が宿っていた。  個人的にハイライトだと思ったのは、その後披露された『2019』の「Don’t you worry」と「Starlight」。  ロックではあるが、ダンサブルなビートがアクセントとなる「Don’t you worry」は、INORANらしい秀逸なメロディセンスがキラリと光る佳曲。その涼しげで、柔らかいムードは、開演直後からピークに達した会場の熱気を、心地良くクールダウンさせる役割を果たした。  アコースティックギター弾き語りによる「Starlight」は、INORANが「『2019』の中で、そして自身のキャリアの中で重要な曲が完成した」と明言する、情緒溢れるスローナンバー。ソウルフルで味わい深いINORANのボーカルが、「Don’t you worry」で少しチルアウトした会場に、ゆったりと響き渡っていく…。  その後、INORANはMCで「この作品を作ってさ、これから神戸、静岡、金沢と日本を周るけど、色々なことがあると思う。でも、1年に1回、こうしてお前らに会えるのが本当に嬉しい。もしまた、ここから先のツアーでも偶然また会って、さらに濃い時間を過ごせたら素敵だね」と語り、『2019』の力強いロックナンバー「For Now」を演奏。ライブは後半へと向かう。  終盤セクションには新旧の人気曲が並ぶ。どの曲にも、自身の楽曲をリアレンジしたセルフカバー作『INTENSE/MELLOW』の完成以降、ライブ演奏をフォーカスし進化を続けてきた、今のINORANバンドらしいリアルな音像が宿り、とても興味深かった。  『TOUR 2019 「COWBOY PUNI-SHIT」』のセットリストは、冒頭で彼がソロをスタートさせた頃の、色彩豊かなミクスチャー・テイストが色濃く反映され、そこから『2019』の楽曲を軸に、これまで歩んできた音楽性の変化が見事に打ち出されている。MCでINORANが語った「東京、本当に最高です。今回のツアーは皆で青春しようぜ!」というコメントも、自身のキャリア集約した“この音”を、会場のファンと分かち合いたいと願ったからだろう。  最後に、INORANは「今日の景色は凄い。今はその先を夢見ているから、まだベストとは断言したくないけど(笑)、昔夢見た“あの光景”に本当に近い。『大切なことは一回だけで何度も言うな』と親に言われているから、一度だけ言います。お前ら本当に愛してるぜ!」「今日はどうもありがとう。ラストはこの曲を皆で歌って帰りましょう」と語り、『2019』の「Long Time Comin」を演奏する。  彼が最終曲として今回、近年ライブのラストを飾ってきた「ALL WE ARE」ではなく、「Long Time Comin」を選んだのは、少しサプライズであった。  しかし、実際のライブで「Long Time Comin」が盛り上がっていく中で、それに応えるように次第に大きくなっていったファンのシンガロングは、以前の「ALL WE ARE」にも勝るとも劣らないものだった。この実景を見た時、「Long Time Comin」が、INORANが今後ライブのラストに望む、これまで以上の感動的な景色を実現するための、十分なポテンシャルを持っていると確信した。その後、INORANは、この日一番のスマイルを我々に見せて、ゆっくりとステージを後にした…。  INORANというミュージシャンの“今”が詳細に描き出された、【TOUR 2019 「COWBOY PUNI-SHIT」】。これから、彼らは8月24日(土)にファンクラブ限定となる神戸VARIT.公演から、8月25日(日)にLIVE ROXY静岡、8月31日(土)に金沢AZと数多くのライブし、彼の誕生日となる9月29日(日)に、TSUTAYA O-EASTで千秋楽公演となる【B-DAY LIVE CODE929/2019】を行う。  INORANの唯一無二な音楽性が、このツアーを経てどのように変化をしていくのか、今からその先の期待は膨らむばかりだ! Text by 細江高広 Photo by ヤマダマサヒロ@yamada_mphoto ◎ツアー情報 【INORAN TOUR 2019「COWBOY PUNI-SHIT」】 8月31日(土)金沢AZ 9月01日(日)長野CLUB JUNK BOX 9月13日(金)広島SECOND CRUTCH 9月14日(土)岡山CRAZYMAMA KINGDOM 9月16日(月・祝)福岡DRUM Be-1 9月20日(金)仙台darwin 9月22日(日)名古屋ElectricLadyLand 9月23日(月・祝)OSAKA MUSE SOLD OUT! ※終了分は割愛 【B-DAY LIVE CODE929/2019】 9月29日(日)TSUTAYA O-EAST
billboardnews 2019/08/27 00:00
瀬戸内寂聴との付き合いは人間修行? 横尾忠則が往復書簡で明かす
瀬戸内寂聴との付き合いは人間修行? 横尾忠則が往復書簡で明かす
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 ■瀬戸内寂聴「平野啓一郎さんも『横尾さんはカッコいい』」  ヨコオさん  あなたに習って、片カナで呼びかけると、ピタッと息が定まりました。スポーツの試合の前の選手の始めの笛やドラの声のようなものです。  この「往復書簡」が始って以来、半分老衰のせいか、頭がかすみかけていたのが、ピリッと冴えてきて、生きているのがまた愉しくなりました。  編集部は、ふたりの「恋文」を期待していたらしく、そんな題をつけたがりましたが、私はきっぱりことわりました。そうでしょ? 横尾さんと私の仲には、男女の怪しい匂いはみじんもありません。横尾さんは昔から美人好みで浅丘ルリ子さんや富司純子さんなど、超美人たちが大好きで、彼女たちの顔ばかり描いていましたよね。その似顔絵の魅力のあったこと!  今でも実物より魅力のある彼女たちのいきいきしたヨコオさんの絵がありありと思いだされます。  はじめて逢ったのは朝日新聞の編集室でしたね。私は短いエッセイを、横尾さんはそのさし絵を依頼されました。新聞一面の場所を与えられたので、二人とも書きがいのある仕事でした。その帰り、新聞社の出してくれた車で一緒に帰りましたが、私は当時、目白台坂上のマンションに棲(す)んでいたので、先に車を降りましたね。ところがその短い時間に、横尾さんは亡くなった養母さまの箪笥(たんす)に、浮世絵の秘戯図がいっぱいためられていてびっくりした話をされました。母上をおよそ、おとなしい人柄で、生真面目な人とばかり想っていた横尾さんは、それを発見して思いがけないショックを受けたということでした。そうそう、その頃、私はまだ和服を着て、長い髪を頭のてっぺんにまとめていた時でした。私は横尾さんの話すことがすべて面白く、たちまちたどりついたマンションの前で、自分ひとり降りるのが惜しい気持でした。前の世では、同じ星の住人だったのではないかと思われるほど、はじめて逢ったのに気が楽で、話がいくらでもつづきそうでした。その予感は適中して、その後、半世紀近くも、わたしたちの友情はつづいています。そうそう、先日、平野啓一郎さんの『「カッコいい」とは何か』という本を読んでいたら、「カッコいい人」の例の第一に、横尾さんがあげられていて、思わず賛成の拍手をしましたよ。  若い(といっても、もう平野さんは大家の風格になりましたが)平野さんも、私から見れば「カッコいい男」の先端に位置しています。  平野さん一家と横尾さん一家と私とは、まるで血縁の親類のように仲がよく、それがすでに長年つづいています。私は平野さんも、横尾さんをおっかける天才組の一人だと信じています。カッコ悪いことを、中国では「不好看(ブーハオカン)」といいます。戦争中、私が嫁いでいた北京では、赤ん坊や小さな子供を、背負った日本人の若い母たちを、このことばで非難していました。あそこでは子供は西洋風に胸に抱きます。  この手紙も最後まで「好看(ハオカン)」に進めたいものですね。  そうそう朝日新聞のあの時の横尾さんのこの頁のさし絵は「エロすぎて」書き直しさせられましたよね。あれも、これも、はるか昔のこと!  では、また。お元気で。 ■横尾忠則「まなほ君も、いつか尼僧にでもなって」  セトウチさん  のことを声に出すとセトウッサンになります。この往復書簡がセトウチさんに生きる歓びを与えるのは嬉しいですね。セトウチさんと会ったのはお忘れでしょうが、四谷の小料理屋で、S酒造会社の一頁広告の対談だったのです。セトウチさんが一気に話されて、最後の最後に僕がワーッとしゃべったんですよ。車の中での養母の話は、死の床で彼女の身につけていた胴巻の中から汗でぐっしょり濡れた春画が四、五枚出てきた、という、ちょっと純文学的世界でしょ。  それから平野さんの『「カッコいい」とは何か』は送ってくれたので僕も読みました。内容もカッコよかったです。60年代は三島さんがカッコいい男性No.1でした。三島さんは礼節に関して厳しかった。「君の絵は無礼だけれど、人間には礼節が必要だ。タテ糸が芸術だとするとヨコ糸は礼節だ。この二つの交点に霊性が生まれる」。そんな芸術論をコンコンと諭されたのも今は昔です。  三島さんは地上で認められる芸術ではなく天上が認める芸術でなきゃダメだと言っているように聞こえました。霊性の高い芸術こそが天才の証明だと、自らは天に属する者であると自認していたように思います。天才の条件も色々ありますが、短命も天才の条件として、三島さんは「時間がない」と言いながら、早いこと死んじゃいましたね。  若い頃、セトウチさんも三島さんにファンレターを書いていますよね。偉くなる人はファンレターにちゃんと返事を書くんですね。僕もエリザベス・テーラーにファンレターを出したら、僕の切手コレクションに役立てて! と世界各国のファンからの手紙にはってある切手をむしり取って、たくさん送ってくれましたよ。  ところで、話変りますが、夏至の前後から毎日悪天候で、せっかくの一年で一番昼が長い時期が、一日中陽が照らない暗アーイ日が続いてせっかくの真夏気分がだいなしです。セトウチさんが以前、「東山にきれいなお月さんが出ているわよ、見てごらん」と東京に電話があったけれど、成城には東山もないし、あの日は東京は雨。そーいうことは文学では通じるんですかね。わからん話でした。  また別の日、東京のセトウチさんのマンションの近くで火事があって、「ヨコオさん、紅蓮の炎が、夜空に舞って凄いわよ、見てごらん!」。ハイ、我が家からは見えません。  こーいうセトウチさんは何んと呼べばいいんですかね。早トチリでもないし、あわてん坊でもないし、オッチョコチョイでもないし、相手を自己同一化しちゃうんですかね。文学者の脳髄と感性は、わかりまへんワ。  セトウチさんといると、離れていてもそーですが、よくズッコケルことに出合います。秘書のまなほ君もセトウチさんの面倒を見るのは大変だと思います。そのことがすでに人間修行をしているとあきらめて、ガンバッテ下さい。僕もセトウチさんによって随分修行しました。お釈迦様も洞窟の中で瞑想するのではなく、世俗の見える所で修行することこそ悟りへの道だと言っています。まなほ君も釈迦道と諦めて、いつか尼僧にでもなって下さい。ほな、さいなら。 ※週刊朝日  2019年8月30日号
週刊朝日 2019/08/25 17:00
産科医32時間連続勤務からの「働き方改革」 子育て医師も夜勤可能な仕組みとは?
産科医32時間連続勤務からの「働き方改革」 子育て医師も夜勤可能な仕組みとは?
安心・安全なお産を支えているのは、産婦人科医ら医療スタッフ。常に緊急の呼び出しや問い合わせに応じる。病院によっては、院外でも呼び出されることがある(撮影/横関一浩) 産婦人科医の男女分布(AERA 2019年8月26日号より) 減少する出生数と分娩施設(AERA 2019年8月26日号より)  当直や呼び出しが多く、長時間労働の象徴でもあるお産の現場。世界トップの周産期医療を維持するためにも、医師の働き方や、産科医療体制の見直しが必要だ。 *  *  *  昨年9月、日本産科婦人科学会と日本産婦人科医会は合同で、「産婦人科医の働き方改革」を宣言し、その実現のために、地域の公的な分娩取り扱い病院の大規模化や重点化の推進、チーム医療の推進、女性医師の継続的就労支援などを提案した。  両団体が女性医師の就労支援を掲げるのには理由がある。日本産科婦人科学会員の年齢、性別分布を見ると、50代以降では全体的に男性が多いが、45歳未満では女性医師の割合が多く、20、30代は6割以上が女性だ。 「これほど男女比が急激に変わっている職業は他にないのでは」(中井医師)  20~40代といえば、子育て世代だ。「産婦人科勤務医の待遇改善と女性医師の就労環境に関するアンケート調査報告」(18年12月)によると、常勤女性医師のうち、妊娠中または育児中は45.1%にのぼり、多くは当直免除などの勤務軽減を受けて仕事を続けている。  妊娠、子育て期も離職せずに働き続けられるよう支援することは大切だが、一方で勤務軽減を受ける医師が増えれば、夜間や休日の勤務を担う他の医師への負担が大きくなる。  都内の大学医学部の産婦人科学教室で専任講師をしている40代前半の男性医師は「僕は一体いつまで休日や夜間に働かされるのか」と嘆く。30代までは昼夜問わず働き続け、40代になって管理職になった頃、働き方改革の波が押し寄せてきた。 「若い医師の勤務時間が減った分、僕たちの仕事量が増えています。僕たちの世代は一番損をしていると感じます」  別の産婦人科医も「働き方改革は、働き方改革がなされていない医師の犠牲の上に成り立っている」と指摘する。不公平感を抱く医師は少なくない。  同アンケートを実施する日本産婦人科医会勤務医委員会の委員長で、日本赤十字社医療センター第一産婦人科部長の木戸道子医師は、長期間の勤務軽減は本人にもマイナスだと指摘する。 「夜間や休日は人員が限られていて、難しい症例も自分で判断し、分娩や救急診療に対応しなければならない。こうした経験は産科医として実力をつける大切な経験になります。子どもがいるから、女性だから、当直できない、学会に行けないと思い込み、自分の可能性を狭めるのはもったいない。免除が当然と思わずにできる範囲で担当することも考えてはどうか」  同センターは、そういう働き方を実現できるシステムを導入している。産科の常勤医26人中、女性は22人で85%を占める。そのうち7人は中学生以下の子どもがいて、未就学児がいる人も3人。それでも全員が夜勤を担当する。  同センターで子育て中の女性医師が働き続けられるのは、変則2交代制を導入して、拘束時間を短くしたからだ。日勤は朝8時半から午後5時まで働き、夜勤は午後8時から勤務し、翌朝午前9時に帰る。日勤と夜勤のつなぎのため、日勤者のうち3人が午後8時まで延長勤務し、夜勤者へ引き継ぎを行って帰宅する。この体制は1人主治医制ではなくチーム診療で対応したことで実現。妊婦健診は、地域の産科診療所や助産院と連携して分担し、出産は緊急時にも対応できる同センターで行っている。難しい業務に人を集中できるようになり、分娩数も増えた。  同センターが交代制を導入するきっかけになったのは、09年に労働基準監督署の指導が入ったことだった。当時、夜の勤務は、法定労働時間にはカウントされないいわゆる宿直で、朝から勤務していた医師がそのまま当直に入り、当直明けの翌日も夕方まで診療していた。32時間以上の連続勤務が当たり前で、月の残業が200時間を超える医師もいた。交代制では、拘束時間は連続で最長13時間。木戸医師は言う。 「私たちの仕事は、お母さんと赤ちゃんの命を預かっています。迅速な判断が求められ、緊急の手術もあるのに、寝不足でへとへとに疲れていたら、医療の安全も保てなくなってしまう」  木戸さん自身も長時間労働を経験してきた。三男の出産後に同センターで勤務。当時子どもは9歳、6歳、0歳。夫も産婦人科医で当直があり、互いの両親も遠方に住んでいて頼れない。夫と当直が重ならないように調整し、ベビーシッターも頼んで子育て期を乗り切った。当直の朝は、4食分の食事を用意してから出勤。32時間勤務を終えて翌日夜に帰宅すると、久しぶりに会う3人の息子たちの相手をしながら家事に追われた。自分と同じような無理な働き方は後輩医師たちにはさせられないと思ったという。  交代制勤務の導入当初はうまくいかないこともあった。実稼働時間が減ったことで給与が激減し、退職した医師もいたという。原則、決まった主治医は置かず、健診ではかかりつけの診療所の受診を妊婦らに理解してもらうことも必要だった。  木戸医師は言う。 「医師の働き方改革を実現するには、患者のみなさんの協力も不可欠です」  日本産科婦人科学会の医療改革委員会で「産婦人科医療改革グランドデザイン2015」の作成を担当した北里大学病院周産母子成育医療センター長の海野信也医師は言う。 「日本の妊産婦死亡率は10万人あたり3.5人と世界トップ水準の低さにありますが、いつ崩壊してもおかしくない。今後も医療水準を保つためには、地域で基幹的な役割を果たす病院を決めて、医師を集める『重点化』が必要だと考えています」  各病院がギリギリの人数で分娩に対応するのではなく、重点化して人を集中させる。特に県庁所在地などでは、県立病院と市立病院、大学病院が近接しているところもあり、重点化を進めなければ、医師たちが疲弊して共倒れしてしまう可能性がある。だが、各病院は経営母体が違うため、重点化も簡単ではない。分娩施設へのアクセスや医療資源なども地域で違い、地域ごとの検討が必要だ。それは、分娩施設の減少やアクセスの悪化など国民にも痛みを伴う改革になることもある。 「安心・安全な出産ができる体制を守るために、病院内の働き方改革とともに、地域ごとの産科医療体制の再構築を進める必要があります」(海野医師) (編集部・深澤友紀) ※AERA 2019年8月26日号より抜粋
病院
AERA 2019/08/25 08:00
1933年の室内装飾ー全てが最先端かつ一級品!
1933年の室内装飾ー全てが最先端かつ一級品!
季節のうつろいを感じる頃となりました。時は移り変わりますが、場所が持つ空気感は時を経ても変わらぬものです。昔も今も居心地の良い場所の一つに東京都庭園美術館があります。現在、建物公開展として「1933年の室内装飾―旧朝香宮邸をめぐる人と建築」が開催中です。毎年恒例となった建物公開ですが、今年のテーマは「人と素材」、室内の随所にちりばめられた装飾はもちろんのこと、往時をしのばせる修復をとげた家具、期間限定公開のウィンターガーデンも見どころです。今回は筆者が気になったポイントに絞ってお伝えいたします。東京都庭園美術館 本館 ベランダ 名匠との出会いはアール・デコ博覧会 アール・デコの館が今ここにあるのは、朝香宮鳩彦王が留学先のパリで交通事故に遭い、看病のために允子妃が渡仏されたことから始まります。夫妻が滞在中の1925年、パリで通称アール・デコ博覧会が開催されました。ここでアール・デコに魅せられた朝香宮ご夫妻は、帰国後新築予定の自邸にアール・デコ様式を取り入れました。主となる室内設計を、博覧会でも多くのパビリオンを手掛けるなど活躍していた装飾美術家アンリ・ラパンに依頼し、日本側では宮内省内匠寮の権藤要吉をはじめ、最先端の技術を持つ職人・技術者が担当して宮邸建設に総力をあげて取り組みました。この建築には允子妃が熱心に取り組まれたと伝わっています。1933年5月に完成した朝香宮邸ですが、允子妃は約半年を過ごされた後に逝去されました。写真のペンギンはご夫妻がフランスから帰国の折に持ち帰られたロイヤル・コペンハーゲンの陶器です。允子妃がパリで過ごした日々が楽しいものであったことをペンギンの姿が教えてくれているようですね。三羽揃いのペリカン(ペンギン) ロイヤル・コペンハーゲン 1902年頃 東京都庭園美術館 ラパンの7室ー森と水、洗練された技術 大広間、小客室、次室(つぎのま)、大客室、大食堂、殿下書斎および居間の7室の装飾をアンリ・ラパンが手掛けました。いずれの部屋にも共通するのが居心地の良さです。特に小客室は、画家でもあったラパンの手により森を描いた壁紙が特徴的です。淡いグリーン地に濃いグリーンで樹木を描き、シルバーで水を表わしているのですが、室内にいながらにして森を感じられます。よくみると扉の上に「H・RAPIN」のサインがありますので、ぜひご覧になって下さいね。ラパンの7室のうち、この小客室をはじめ、大広間・大客室・書斎の内装は、公共施設や邸宅建築に評価の高い内外木材工藝株式会社が担当しました。フランスから送られてきた壁や装飾は代わりがきくものではありませんから、日本の職人は高い技術力を求められたことがうかがえますね。「人と素材」に焦点をあてた今回の展示では、今まで多く語られてこなかった施工会社や技術についての説明も展示してありますので、こちらも建築に興味のある方には参考になるのではないでしょうか。東京都庭園美術館 本館 小客室 家具が往時を取り戻し初お目見え! 今回の見どころとして「約90年前の最先端かつ一級品」というように、この邸宅のどこをとってもその当時の最先端技術がつまっていることがあげられます。壁紙や床材、家具調度、ラジエーターカバーなどなど…直線的幾何学模様が特徴のアール・デコ(フランス)と市松模様や青海波などの伝統的文様(日本)、この二つの要素が繊細な手仕事で仕上げられているからこその美しさと言えるでしょう。しかし、竣工当時とは変わってしまった部分も少なからずあります。その中で今回、妃殿下居間の家具一式が調査に基づいて丁寧に修復を行い、当時の姿を取り戻し展示されていますので、じっくりと鑑賞したいですね。8月30日(金)はこの夏最後のサマーナイトミュージアム(夜間開館)です。虫の音を聞きながら往時に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?東京都庭園美術館 本館 妃殿下居間 展覧会概要 他 【展覧会概要】 会期:2019年7月20日(土)– 9月23日(月・祝) 会場:東京都庭園美術館(本館+新館ギャラリー1) 東京都港区白金台5-21-9 ハローダイヤル 03-5777-8600 休館日:第2・第4水曜日(7/24、8/14、8/28、9/11) 開館時間:10:00–18:00 (7月26日 – 8月30日の毎週金曜日は21:00まで) *入館は閉館の30分前まで 【観覧料】 一般/900円 大学生/720円(専修・各種専門学校含む) 中学生・高校生/450円 65歳以上/450円 ※その他詳細はリンク公式サイトをご参照ください 出典・参考 ・1933年の室内装飾ー朝香宮邸をめぐる建築素材とひとびと プレスリリース ・『旧朝香宮邸のアール・デコ』東京都庭園美術館発行東京都庭園美術館 本館 南面外観(夜間)
tenki.jp 2019/08/24 00:00
父殺そうと机にナイフ忍ばせて…ひきこもり当事者の焦燥と絶望
野村昌二 野村昌二
父殺そうと机にナイフ忍ばせて…ひきこもり当事者の焦燥と絶望
ひきこもり状態にある人を、「甘えている」「怠け者」とラベリングすることはたやすい。周囲が持つ偏見が当事者をさらに生きづらくさせている(撮影/今村拓馬) 当事者・経験者の声(AERA 2019年8月26日号より)  多くの人が先入観を持っているように、ひきこもりは「甘え」で「怠け者」なのか。取材を進めて 見えてきたのは、絶望感や焦燥感、孤独感に苛まれる当事者の姿だ。彼らの心の声を聞いた。 *  *  *  この先の私の未来は明るいのだろうか。  都内の湊うさみんさん(30代)は、葛藤を胸に抱え一日を送る。8年近く自宅にひきこもっている。専門学校卒業後、小説家を目指したがうまくいかず、就職活動を始めたが100社以上落ちた。向精神薬を200錠以上飲み自殺を図ったが、未遂に終わった。自分は何をやってもダメだ──。自信をなくし、ひきこもり状態になった。  寝るのは深夜2時か3時、目を覚ますのは午後1時ごろ。起きていると嫌なことを考えてしまいがちなので、目が覚めてもしばらくは布団の中でごろごろすることが多い。昼食を取ると19時ごろまでパソコンでゲームをして過ごし、夕食後、再びゲームをする。疲れてきたらベッドに寝転び、図書館で借りてきた本を読む。週に2日ほどは、 精神科や図書館に足を運び、スーパーやコンビニに食料を買い出しに行く。  多くの人から見れば、楽をしているように見えるかもしれない。だが、湊さんの心の中で繰り返されるのは、自問自答だ。 「こんなことをしていていいのか」「もっと有意義なことをしなくては」「でも何をすればいいのか」。考えても答えは出ない。  自分を「怠けている」と思っている60代の両親とは冷戦状態にある。特に父親とは6年近くまともに口をきいていない。仕事も家族ともうまくいかず、この人生をすべて無にできる魔法があるとすれば、「自殺」しかない。死を選ぶか選ばないか──。葛藤し、毎日こう思う。 「生きていてつらいだけなら、未来なんていらない」  ひきこもりは、国の定義では「仕事などの社会参加を避けて家にいる状態が半年以上続くこと」をいう。従来、ひきこもりは若者の問題とされてきたが、全世代の問題とわかってきた。内閣府が今年3月に発表した調査結果で、40~64歳のひきこもりは推計61万3千人。ひきこもり当事者たちもまた8050問題の困難に直面している。  都内在住の50代の男性は、仕事がうまくいかず25歳の頃から本格的にひきこもっている。同居する母親(87)が亡くなった後が心配だ。母親が残してくれる財産があり経済面の心配はないが、生活面の懸念が大きい。  男性は学習面での発達障害も抱えていて、その特性から身の回りのことがほとんどできない。食事、洗濯、掃除。申し訳ないと思いながら、生活のほぼすべてを母親に頼っている。 「母はまだ何とか健康ですけど、いつ認知症などでガクッとくるかわからない。自分は入院の手続きもわからない。食事から身の回りの片づけまで、どう生活していけばいいかわかりません」  AERAが行ったひきこもり当事者と経験者へ向けてのアンケートでは、ひきこもり状態になった事情も現在の状態もさまざまな声が寄せられた(下)。ひきこもる状態と社会参画を繰り返す人もいて、「怠け者」「甘え」といった、社会が持ちがちな先入観とは種類の違う背景や苦しみを多くの当事者が抱えていることがわかる。  5月、川崎市で児童ら20人が、長年ひきこもっていたという男(当時51)に殺傷される事件が起きた。ワイドショーや週刊誌の一部報道などで、ひきこもりを「犯罪者予備軍」と紐づけかねない動きがあった。筑波大学教授で精神科医として30年近く当事者の問題に取り組んできた斎藤環さんは、「犯罪者予備軍という言葉はヘイトスピーチ」と断じた上でこう語る。 「ひきこもりという言葉が使われ始めて20年経っているが、明らかにひきこもりの人が関わった犯罪は数件しかない。ひきこもりの人もそうでない人も罪を犯すが、前者の犯罪は後者の犯罪に比べ、圧倒的に少ない。統計的にひきこもりと犯罪は関係ないといえます」  当事者や家族も、相次いで見解や声明を公表。NPO法人「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」(東京)も、ひきこもり状態にある人について「無関係な他者に危害を加えるような事態に至るケースは極めてまれだ」との声明を発表した。  だが、苦しみゆえの「心の闇」を、多くの当事者が抱えているのも事実だ。 「父(66)を殺したいと、ずっとどこかで思っています」  青森県に住む、ひきこもり当事者の下山洋雄(ひろお)さん(39)はこう打ち明けた。  小学6年の時に教師から受けた体罰が原因で不登校になり、ひきこもるようになった。苦しい気持ちをわかってほしかったが、父親は理解しようとしなかった。強く登校を促し、外に出そうと毎日のように3時間近く説得を続け、寝させてもらえない時もあった。勉強ができないと責めてたたいた。高校までは、いつか父親を殺そうと机の中にナイフを忍ばせていたという。  いま下山さんは、ひきこもりながらも、ひきこもり当事者や家族の相談を受けるボランティアを行っている。だが、そんな下山さんに対して父親は、部屋のドア越しにこう言う。 「金にならないボランティアをして、いつになったら働くんだ」  父親を刺し殺し、自分も死のうとも考える。心の底で絶望や焦燥に苛まれているのに、価値観を押し付けられ追い詰められる、やり場のない怒りがある。だが、決して実行には移さない理由をこう答えた。 「父を『親』と思うのをやめたからだと思います。こわもての人がドア越しに何か叫んでいる、と思うようになりました」  危機感をバネに、ひきこもり状態から抜け出した人もいる。  30歳から3年間、実家のマンションにひきこもっていた石和(いさわ)実さん(42)は、大学を出て25歳でIT系の会社に就職した。だが、人間関係がうまくいかず、ひきこもりに。絶望の中感じていたのが、「きっかけがあれば、父親を殺してしまうかもしれない」という恐怖だった。  当時は、まだ父親の年金や貯金で生活できていた。だが、いつか父から「家にはもう金がない、早く就職しろ」と責められたら、感情が爆発してコントロールできなくなるかもしれない。親を殺さないためには自分が死ぬしかない。しかし、自分が死んで家族を悲しませたくはない。 「じゃあどうするか。社会復帰してお金を稼がなければという結論に至ったのです」  ネットで仕事を探し、50社以上落ちたが最後の1社に採用され、ひきこもり状態から脱出した。会社に勤めながら、ひきこもっている人の役に立ちたいと考えるようになり、ひきこもり相談カウンセラーとして活動している。相手から礼を言われると、生きている価値を感じる。(編集部・野村昌二) ■当事者・経験者の声 虐待、いじめ、パワハラ、性暴力が原因でひきこもるようになった。自室・自宅から出ることはほぼなく、役所や精神科で相談しようとしたけれど、話が通じず相談にならなかった。女性のひきこもりのつらさが伝わっていないと感じる(42歳、女性、当事者)  幼少期における母親からの精神的虐待で今もひきこもっている。その気になれば遠方にも外出していけるが、外出するまでが大変で、その結果ふだんはめったに外出しない。どのように死を迎えるか、親とのコミュニケーション不全に困っている(57歳、男性、当事者)  家族とは何げない会話や日常のやり取りの話はするものの、父親はこちらの話したいことを聞く気がない。金銭面での支援、精神的な支援、カウンセリングがほしい。ひきこもりの中には、セクシュアルマイノリティーもいるということも知ってほしい(40歳、経験者)  就職や仕事のこと、経済的なことを、気楽に話せる知り合いや友人がいない。歯や眼、精神科など頼れるところがない。どこに行けばよいかカンが働かない。川崎の事件で「一人で死んでくれよ」のセリフは今も耳に残っていて消えることはない(48歳、女性、当事者)  ひきこもりだからといって、頭ごなしに甘えと言わないでください。差別をしないでください。一人の人として、見てください。支援にしても、ひきこもり当事者の意見に沿った支援のありかたを考えてください(46歳、男性、当事者) ※AERA 2019年8月26日号
AERA 2019/08/23 07:00
仕事で挫折しひきこもって10年… 42歳の息子を変えた母の提案とは?
仕事で挫折しひきこもって10年… 42歳の息子を変えた母の提案とは?
群馬県太田市の母親のメモ。持病のある息子は最近、小遣いから薬代を払い、病院を受診するように。「生きづらさはあるけれど、生きようとしているんだなと」(母親)(撮影/古川雅子) 親の声(AERA 2019年8月26日号より) 行政・福祉の相談窓口/家族会・当事者会情報(AERA 2019年8月26日号より)  中高年の子と高齢の親が社会から孤立する「8050」問題。高齢化する親にも限界が近づき、さまざまな困難が表面化している。当事者たちは何を思うのか。 *  *  *  年が経つことにより、関係性が徐々に変化するケースもある。群馬県太田市の母親(69)と、10年以上ひきこもる息子(42)の場合もそうだ。  息子は飲食チェーンに就職、一時は店長も経験したが、深夜までの不規則な業務で体はボロボロになり、29歳で退職を決断。 「当時の心配といえば、ひたすら健康のこと。睡眠障害、無呼吸症候群、高血圧、高血糖、脂肪肝とありとあらゆる病気を併発していました」(母親)  不採用が続いて再就職もままならない息子が、「親の育て方が悪い!」と言ってきた時期もある。働いていた頃の貯金が尽きると、「もう死にたい」と言い出した。とはいえ、父親(75)は定年退職して家計も厳しい。7年前、母親はこう提案した。 「家でできる内職もある。母ちゃんだけやってみようか?」  ボールペンを組み立てる根気の要る作業。母の内職を手伝ううち、組み立て作業も納品も、息子が担当するようになった。月3万円の微々たる額だが、稼ぎを得て息子は家計を気にするようになった。自動車保険や携帯代はその収入から払い、「僕の取り分は2万円でいい」と。  ホームセンターでの買い出し。夕食づくり。家での役割も増えてきた。最近はトマトソース煮込みなど凝ったおかずも作ってくれる。自室にこもらず、家族と食事をする機会も増えた。 「親が年をとってきたから多少手伝わざるをえない、みたいな意識も出てきたと思う」(母親) 「働けない子どものお金を考える会」を主宰する、ファイナンシャルプランナーの畠中雅子さんは、ひきこもる本人が親亡き後も生き延びられる「サバイバル・ライフプラン」を立てることを勧めている。 「3万円でも5万円でも本人に働いてもらって、本人が生きていく保証をしてあげられるのなら、それも一つのゴールになり得る。20年、30年ひきこもった人がいきなり正社員になれたとしても、続くとは考えにくい。親や支援者が、長く続く仕事を共に考えるアプローチも大切かと思います」(畠中さん)  週5日働き、人並みの収入を得ることが必ずしもゴールではない。長いトンネルのような時間をくぐり抜けてきた親たちの視線は、「就労支援」から「生き抜く応援」にシフトしつつある。  前出の太田市の母親は、ひきこもりの子を持つ家族会「太田道草の会」で活動を続けてきた。会の親たちとともに、支援者の協力を得てパソコン教室や文章校正、農園での袋詰めの軽作業といった「小さな仕事づくり」にも取り組む。 「ひきこもる子がいると地元でカミングアウトするのは勇気が要るけど、年とってそんなことも言っていられない。ネットワークを広げようと思っています」  仲間の子どもたちによるワークシェアリングでの就労についても、近々、地元企業に提案してみるつもりだという。  本人の社会とのつながりが希薄で親も隠したがるなど、ひきこもり当事者の実態がつかめない面もあるが、親の介護をきっかけに福祉が入り、発見されるケースもある。そこから、社会につながる事例も出てきた。  10年ほど前、広島市基町地域包括支援センターに連絡してきた母親に介護が必要になったが、母親は徐々に弱るなか、50代の息子が失業を機に長く家にいるようになったと打ち明けた。この事例に関わった、藤原美喜センター長(当時)は振り返る。 「息子さんは家におられるけん、家でお母さんを見守ってくれる『介護者』だと見て関わっていった。『お母さんに何かあったら電話してくださいね』と」  息子から事業所に連絡が入り、事なきを得たこともある。 「お母さんがベッドから落ちて移乗介助が必要な時は、息子さんが電話で『ちょっと大変なんだ』と。その時は自分が誰かも名乗らなかったけれど、SOSを出すにはそれで十分でした」  母親の入院手続きや病院への付き添いなど、頼んだことは全てこの息子が行ったという。 「息子さんは、一般的には『ひきこもり』っていう言葉のイメージで見られる人だったかもしれないけれど、弱った母親を前に、徐々に介護の担い手へと役割が変化していったんですね。『親の介護、看取りを経験した人』として、今では地域の貴重なマンパワーに。地域の高齢者へのボランティアに関わってもらっています」(藤原さん) (ノンフィクションライター・古川雅子) ※AERA 2019年8月26日号より抜粋
シニア
AERA 2019/08/21 08:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
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