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瀬戸内寂聴「どの季節に死んでも全部使えます」 遺詠の句を作る
瀬戸内寂聴「どの季節に死んでも全部使えます」 遺詠の句を作る
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。今回は猫特集にちなんで猫の話。 *  *  * ■横尾忠則「タマにおでん…猫は“人生の必需品”」  セトウチさん  今週の本誌は猫特集です。猫の話をさせて下さい。野良で迷い込んだ猫が15年ほどわが家の住人(住猫?)として共生共存してきましたが、6年ほど前に15歳で夭折(ようせつ)しました。最初わが家の勝手口から這入(はい)ってきて、すぐ居候してしまいました。間もなくするとお腹が大きくなってきたのでこりゃ妊娠だ、お腹に卵が入っている、だから、タマゴと命名したのですが、しばらくすると元に戻りました。  野良の清貧生活のあと、わが家でドカ食い(関西では過食のこと)したために、妊娠していると思ってあんな名にしたのですが、単にぼくの思い違いで、「ゴ」を取ってありきたりの「タマ」にしたというわけです。  そんなタマを偲(しの)んでレクイエムのつもりで、旅にはキャンバスと絵具を持参、ホテルで寝る前とか朝の時間、それから度々入院時には病室がアトリエになります。現在七十数点になったので、来春辺りに画集と展覧会を計画しています。  猫は子供の頃から何匹も飼い、上京して一軒家を借りた時は5、6匹、今の家でも多い時は7、8匹いて、交通事故に遭ったり、行方不明になっていつの間にか減ってしまいましたが、猫はぼくにとっては生活必需品なので、猫のいない生活は絵筆を取り上げられたも同然、ぼくのアートに決定的なダメージを与えてしまうので、猫の切れた人生は死そのものです。今や人生の必需品として手放せません。  現在、事務所に2匹、わが家に1匹。アトリエにも欲しいのですが、留守になることが多いので、思案中です。自分の年齢を考えると猫の方が長生きするので、アトリエは、難しいですね。猫は犬と違って我儘(わがまま)ですよね。アーティストが見習わなければならない点はここです。もうひとつ、猫の無為な生き方です。  現在、わが家にいる猫はおでんという名前です。名前の由来は人に言うほどのものではないです。語感がいいのでおでんです。この子は事務所の2匹と姉妹ですが、事故に遭って、病弱だったのでわが家に引き取ったのです。三姉妹の母猫は野良で、いつも来ていたやはり野良が夫猫で、子供を産む時だけ部屋の中に這入ってきて、乳離れの時期が終わるとサッサと母猫は再び野良に戻りました。その間、子猫の父猫は病気で野たれ死にしました。  猫は帰巣本能があって、おでんは事務所と自宅が目と鼻の先なので、元いた事務所に戻るのではないかと心配したのですが、一向に戻ろうとはしません。事故に遭った時、首にラッパのようなものを付けられたり、全身包帯のグルグル巻きで透明人間みたいだったので2匹の姉妹に変な奴としていじめられたせいでしょうか、それとも帰巣本能を失ったのか、事務所には戻りません。事故で頭を打ったりしたので、少しアホ猫になり、雨の日は家の中、所かまわずオシッコをするのが困りものです。これもわれわれに与えられた試練かと思うしかありません。  その点、死んだタマは天才肌の猫で、読心術に長(た)けていました。人間の文化より猫の方が文明的です。今日は余計な話をしてしまいました。ニャンちゃって。 ■瀬戸内寂聴「黒猫のマル、誰より早く私を出迎えた」  ヨコオさん  急に寒くなりましたね。風邪などひいていませんか。私は日々老いが増し、ヨコオさんの猫のように、終日ベッドに横になっています、と言いたいけれど、ものを書くのは、寝ては書けないので、ベッドに腰かけ、わき机をひきよせて書いています。  そんなに仕事するな、みっともないぞと、ヨコオさんに叱られそうだけれど、私は、書くのが本来大好きなので、書かない生活なんて考えられないのです。  先日も、『群像』の新年号に、小説二十七枚も書いてしまいました。  勢いが乗ったので、ついつい、徹夜をしてしまいました。年のせいで、その後がこたえます。当たり前ですよね。  でも、そんな暮らしが好きなのだから仕方がありません。私もヨコオさんと同じく、好きなことしかしていないのです。断りたいような仕事は頼んでこないので、みんな引き受けてしまうだけです。いやいや書いたものなど全くありません。  九十七にもなって、なぜ、まだ、カツカツした仕事をするのかと、言われることがありますが、好きだから書いているだけです。  遺言はまだ書いていませんが、一昨日の晩、遺詠の俳句は、十ほど作れました。  季語さえ変えれば、どの季節に死んでも全部使えます。  形見分けの品も、貰ってもらう人も整理出来ました。  さあ、いつでも来い、と「死」に向かって言っています。  日々、体力の衰えを感じるので、出来れば、自分でトイレに行ける間に、さっさと死にたいと願っています。  出家者の私は、すべてが、あなた(仏さま)まかせなので、それ以上、あれこれ案じたことはありません。  棺に、筆記用具など入れないでくれと、寂庵のスタッフに言ってあります。  あの世では、そんなものは買わなくても、必要な時、パッと目の前に出現するのではないでしょうか。  ヨコオさんとは向こうでもバッタリ、どこかで逢いたいものですね。  あちらでは「念」が強くなるので、そう念じれば逢うかもしれません。  置かれる段階がちがうけれど、時たま、ダンスパーティとか、盆踊りがあるのではないでしょうか。その時は、ヨコオさんがデザインしてくれたあのガイコツの、踊り用の浴衣を着て、パーティに出ましょう。  ああ、そんなことを想像すると、早くあの世で逢いたいですね。  それにしても九十七とか、八になると、人間の体は、ほんとに老衰がひどくなって、あまり動けなくなるのは、心外なことです。  そうそう、猫は、あちらでは飼い主と逢えるのですかね。うちの黒猫のマルは、留守の多い私が帰庵すると、誰よりも早く気がついて、走り出て出迎えました。やはり、「逢う」ということは、相手が人でも動物でも心の踊る嬉しいことかもしれないですね。ヨコオさんちの猫も、うちの猫たちも、わたしたちの逝くのを待っているような気がしてきました。 では、またね。 ※週刊朝日  2019年12月13日号
週刊朝日 2019/12/07 11:30
日本3大「猫専門書店」が厳選! “猫好きレベル別”おすすめ本
日本3大「猫専門書店」が厳選! “猫好きレベル別”おすすめ本
キャッツミャウブックス (撮影/仲宇佐ゆり)  猫が出てくる本ばかりを扱う「猫書店」。元保護猫が店番をしていたり、猫に経営の危機を救われたりと、それぞれの店に物語があるのもおもしろい。小説、エッセー、ノンフィクション、写真集、絵本など、あらゆる分野にわたる猫本の山から、店主や猫本担当者が選ぶおすすめは? 猫好きのレベルに応じてとっておきの一冊を紹介したい。 ■神保町にゃんこ堂(東京・神保町)  神保町の交差点からすぐの「神保町にゃんこ堂」は猫が救世主となった書店だ。もともと「姉川書店」として数十年間、ジャンルを問わず本や雑誌を扱ってきたが、売り上げが落ち込み、店をたたむことを考えた。 神保町にゃんこ堂/東京都千代田区神田神保町2-2 姉川書店 平日10:00~21:00、土曜祝日11:00~18:00(日曜定休)(撮影/仲宇佐ゆり) 「最後の2年間は採算度外視で何かやってみよう」  そう覚悟を決めた店主は、娘のアネカワユウコさんに相談。アネカワさんが提案したのが「猫本」を集めることだった。 「入り口の三つの本棚からスタート。それが好評で数年かけて猫本の棚を増やし、2年ほど前に店内すべてが猫本になりました」  売り上げは見事にV字回復。最近は男性の一人客が増えているという。  そんな経緯があったアネカワさんは、まず、漫画『同居人はひざ、時々、頭のうえ。』をすすめる。 「人と猫、交互の目線で描かれています。飼い主は『何が気に入らなくていたずらするのか』と思うけど、実は猫が飼い主を気遣っての行動だったりする。けっこう泣かせるんですよ」  物語が進むにつれ、最初は遠かった両者の距離は縮まっていく。 「一緒に暮らすことでお互い持っていたトラウマを克服する。漫画としておもしろく、女性に人気です」 『猫は、うれしかったことしか覚えていない』は、猫のシュールさを体感してみたくなる一冊。例えば、猫は人間の足をギュッギュッと踏んでくることがある。理解しにくい行動を真顔でするのも猫あるある。 「その猫のユニークさを楽しみたいと思うのでは」  マンションで飼えないから猫本で「猫不足」を補う人もいるそうだ。 「猫足りてますか? 足りている人も足りてない人も、なみなみと満たしてくれる本です」 『みさおとふくまる』は猫好きには定番の写真集。アネカワさんには猫と人間の暮らしの着地点が見えるという。 「互いに求め合わず、でも与え合う関係性がひしひしと伝わってきます。最終的にここに着地できたら、お互い幸せなのでは」 <神保町にゃんこ堂のおすすめ本>(左から) 【レベル3】『みさおとふくまる』伊原美代子 1600円 リトルモア 畑仕事をするおばあちゃんとピタリと寄り添う猫の姿をとらえた写真集。2011年に刊行され、現在13刷。 【レベル2】『猫は、うれしかったことしか覚えていない』文・石黒由紀子、絵・ミロコマチコ 1300円幻冬舎 エッセイストと画家・絵本作家が、猫と暮らす中で体験したエピソードを共作。うなずき、笑う全59編。 【レベル1】『同居人はひざ、時々、頭のうえ。』(1巻)原作・みなつき、作画・二ツ家あす 570円 フレックスコミックス 不器用なイケメンミステリー作家と拾われた猫が同居する日々を描いた漫画。5巻まで刊行中。※価格はいずれも税別 ■書肆 吾輩堂(福岡市)  福岡の「書肆 吾輩堂」は6年前、オンライン書店として開店した。  店主の大久保京さんは子どものころ、明治生まれの曽祖母をはじめ家族から「猫は化けて出るから」と飼うことを禁じられ、大人になって猫と暮らし始めた。猫に関する本をたくさん読もうとしたものの、当時は効率よく本を集められず、「猫の本だけを扱う本屋があったら」と思っていた。 書肆 吾輩堂/福岡市中央区六本松1-3-13 11:00~18:00(月、月が祝日の場合は火、木曜定休) (写真=書肆 吾輩堂提供)  美術館に勤め、結婚、出産を経てもその思いは消えず、2010年に仕事をやめて一念発起。準備期間をへて、オンライン書店を開店した。古書組合に属し、古本を軸に新本、雑貨も取り扱う。雑貨は大人も使えるデザインを選び、唐津焼の箸置きなど、地元九州の作家とコラボしたオリジナル商品にも力を入れる。  昨年12月、念願の実店舗をオープン。1階は本、2階は雑貨、ギャラリー、クラフトビールやワインが飲めるスペースとして、こたつも置いた。オンライン書店の常連客が遠方から来店することもある。 「うれしいですね。猫がつなぐ縁だと思っています」  そんな大久保さんが「猫を飼いたいけど……」と迷っている人にすすめるのが『寄りそう猫』。実話なので気持ちがスッと入りやすいという。もう一冊、『ちいさないきものと日々のこと』(もりのこと文庫)も登場するのは猫だけではないが「一緒にいたきらめくような時間を愛おしむ様子が伝わってくる」という。  作家がなぜ猫に夢中になるのか、大久保さんは考えてみた。猫は静かで、夜型の作家と生活リズムが合い、媚びない姿が審美眼にかない、冬温かい……。そんな猫にひかれる作家の日常が見えるのが、『大佛次郎と猫 500匹と暮らした文豪』と『ノラや』。 「内田百けん(=もんがまえに月)はおかしいくらい猫に入り込んでしまっています。明治生まれの文豪が失踪した猫を思って日々泣き暮らしていたんですよ。作家と猫の究極の愛のかたち。哀しくて、でも猫を愛する人なら誰でも思い当たるところがある。猫好き必読の書です」 <書肆 吾輩堂のおすすめ本>(左から) 【レベル3】『ノラや』内田百閒724円 中公文庫 庭の茂みからいなくなった愛猫ノラへの思いを延々と書き続ける文豪。2匹の猫にまつわる随筆14編。 【レベル2】 『大佛次郎と猫 500匹と暮らした文豪』監修・大佛次郎記念館 1500円 小学館 猫好きの大佛次郎が収集した猫グッズ、絵画、本人の随筆、猫と戯れる写真などを掲載。猫への愛情がさく裂。 【レベル1】 『寄りそう猫』佐竹茉莉子 1200円 辰巳出版 各地で猫と出会ってきた著者が、人と寄りそう猫の心温まる実話を写真とともに紹介。ウェブでの連載から選んだ17話を収録する。※価格はいずれも税別 ■キャッツミャウブックス(東京・世田谷)  住宅街にある「キャッツミャウブックス」では、4匹の猫店員が迎えてくれる。店員は全員が元保護猫。店内では昼寝にいそしむ店員をながめ、膝に乗ってくる店員の接客を受けながら、ビールやコーヒーを楽しむこともできる。売り上げの10%は保護猫団体に寄付される。 キャッツミャウブックス/東京都世田谷区若林1-6-15 14:00~22:00ごろ、日曜祝日14:00~20:00ごろ、12月22~29日13:00~19:00(火曜定休)(撮影/仲宇佐ゆり)  本と猫とビールが好きな店主の安村正也さんは2年前、会社員をしながらこの店を開いた。 「いわゆる猫カフェは男一人だと行きづらいけど、ビールも出している猫本屋だったら入りやすいと思って。保護猫のことを知ってもらい、猫と暮らしてもいいかなと思ってくれたらうれしいですね」  店番は妻の真澄さんと交代で。会社帰りに大ジョッキをあけて本も買ってくれる近所の人、毎月何万円もまとめ買いする人、貴重な猫本コレクションを寄贈してくれる人もいる。正也さんの好きな文化史、博物誌などの人文書は、あまり売れなくても常備しているそうだ。  正也さんは、猫嫌いな人に『私はネコが嫌いだ。』をすすめる。 「暮らしの中で猫という存在が大きくなって、どんなふうに人の生活を変えていくかを感じさせてくれます。最後は号泣必至。一回でも猫と暮らしたら、人生が変わりますよ」  自身も猫と出会って家を買い、本屋を始めてしまったから説得力がある。  中級者向けに選んだのは『ilove.cat』。とにかくおしゃれな本で、「うちはロイカナのカリカリ」のように、登場する猫のごはんのこだわりが必ず書いてあるのがおもしろいと言う。  何年も猫と暮らす上級者には、哲学者による『猫たち』がおススメだという。動物行動学などを勉強しても、猫が何を考えているのかはわからない。例えば、猫店員たちは食事の時間が近づくと、決まって机の周りを反時計回りにぐるぐる回りだす。 「この儀式の意味を考えることは哲学です。猫と暮らしている人は、猫の行動をなぜ?と不思議に感じることがきっとあると思う。その思考を深めてくれる一冊です」 (ライター・仲宇佐ゆり) <キャッツミャウブックスのおすすめ本>(左から) 【レベル3】『猫たち』フロランス・ビュルガ著、西山雄二・松葉類訳 1800円 法政大学出版局 猫と暮らすフランスの哲学者が「共同生活」「儀式的なもの」など六つのテーマに分けて猫について考察。 【レベル2】『ilove.cat』 1500円 リトルモア 角田光代、坂本美雨らクリエーターに猫との生活についてインタビュー。写真や本人の作品を交えて紹介。 【レベル1】『私はネコが嫌いだ。』よこただいすけ 1400円 つちや書店 娘が拾ってきた黒猫に翻弄されるお父さん。嫌い、嫌いと言い続けるのだが……。犬派も手に取りやすい絵本。※価格はいずれも税別 ■猫好きレベル 【レベル1】まだ猫の魅力に気づいていない人、犬派にも読んでほしい一冊。 【レベル2】もっと猫を知りたい人のための一冊。猫と暮らしたくなります。 【レベル3】猫がいなければ生きていけない人への一冊。猫好きの必読書。 ■神保町にゃんこ堂 東京都千代田区神田神保町2‐2 姉川書店 平日10:00~21:00、土曜祝日11:00~18:00(日曜定休) 【レベル3】 『みさおとふくまる』 伊原美代子 1600円 リトルモア 畑仕事をするおばあちゃんとピタリと寄り添う猫の姿をとらえた写真集。2011年に刊行され、現在13刷。 【レベル2】 『猫は、うれしかったことしか覚えていない』 文・石黒由紀子、絵・ミロコマチコ 1300円 幻冬舎 エッセイストと画家・絵本作家が、猫と暮らす中で体験したエピソードを共作。うなずき、笑う全59編。 【レベル1】 『同居人はひざ、時々、頭のうえ。』(1巻) 原作・みなつき、作画・二ツ家あす 570円 フレックスコミックス 不器用なイケメンミステリー作家と拾われた猫が同居する日々を描いた漫画。5巻まで刊行中。 ■書肆 吾輩堂 福岡市中央区六本松1‐3‐13 11:00~18:00(月、月が祝日の場合は火、木曜定休) 【レベル3】 『ノラや』内田百けん 724円 中公文庫 庭の茂みからいなくなった愛猫ノラへの思いを延々と書き続ける文豪。2匹の猫にまつわる随筆14編。 【レベル2】 『大佛次郎と猫 500匹と暮らした文豪』 監修・大佛次郎記念館 1500円 小学館 猫好きの大佛次郎が収集した猫グッズ、絵画、本人の随筆、猫と戯れる写真などを掲載。猫への愛情がさく裂。 【レベル1】 『寄りそう猫』 佐竹茉莉子 1200円 辰巳出版 各地で猫と出会ってきた著者が、人と寄りそう猫の心温まる実話を写真とともに紹介。ウェブでの連載から選んだ17話を収録する。 書肆 吾輩堂 (写真=書肆 吾輩堂提供) ■キャッツミャウブックス 東京都世田谷区若林1‐6‐15 14:00~22:00ごろ、日曜祝日14:00~20:00ごろ、12月22~29日13:00~19:00(火曜定休) 【レベル3】 『猫たち』 フロランス・ビュルガ著、西山雄二・松葉類訳 1800円 法政大学出版局 猫と暮らすフランスの哲学者が「共同生活」「儀式的なもの」など六つのテーマに分けて猫について考察。 【レベル2】 『ilove.cat』 1500円 リトルモア 角田光代、坂本美雨らクリエーターに猫との生活についてインタビュー。写真や本人の作品を交えて紹介。 【レベル1】 『私はネコが嫌いだ。』 よこただいすけ 1400円 つちや書店 娘が拾ってきた黒猫に翻弄されるお父さん。嫌い、嫌いと言い続けるのだが……。犬派も手に取りやすい絵本。 ※価格はいずれも税別 ※週刊朝日  2019年12月13日号
ねこ動物
週刊朝日 2019/12/07 11:30
【現代の肖像】ノンフィクション作家・保阪正康 歴史の教訓刻む史実の「図書館」
【現代の肖像】ノンフィクション作家・保阪正康 歴史の教訓刻む史実の「図書館」
誰にでもこの笑顔で、紳士的だがうそのない語り口で接する。出版界で有数の人格者だ(撮影/葛西亜理沙) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  物書き人生半世紀。一貫して在野に身を置き、あの戦争の史実に向き合うべく数千人に会い、数多の著作を著してきた。  記憶の中には取材した約4千人の証言が息づき、膨大な史実がアーカイブされ、「図書館」のようだ。  それらの蓄積に突き動かされ、国民を愚弄する官僚や政権への警鐘として、保阪は今この時も歴史の教訓を書き起こしている。  JR東京駅前のビルの一室。保阪正康(79)は受講生と向き合う席に着くと、目を閉じて話し始めた。今年3月のことである。 「先月、2月26日の未明に一人の男がアメリカでこの世を去りました。松尾文夫というジャーナリストでした。天皇(現上皇)の学友で寮が同室だったから、陛下が何を食べたかなど、毎日メモを取ったそうです。天皇の親友でした。そして彼の祖父は二・二六事件の日に人違いで殺された松尾伝蔵です」  目を開いて座り直し、話し続ける。 「彼がアメリカに調べ物に行くというので、止めたんです。でも彼は、日韓関係の改善のためには史実を解き明かす必要があると。史実が大切だと。そんな男が2月26日に亡くなりました」  そう話し終えると一呼吸おき、「今日は終戦までの3カ月についてお話しいたします」。その日の講義が始まった。  保阪は月に1度、社会人講座「慶應丸の内シティキャンパス」(慶應MCC)で、昭和史を読み解く講義を開いている。3時間に及ぶ本編の前に、記憶のポケットから取り出すように「歴史余話」を語る。そして本編でも記憶を探るような語りが続く。こんな具合だ。 「7月17日、ポツダムにいるトルーマンの元に、『ベビーが生まれた』という連絡が届きます。原爆の実験が成功したという一報です」  自分の記憶のように語れるのは、半世紀もの間、昭和の史実を追い続け、150冊近い著作を著し、市民講座で語り続けてきたからだ。そしてそんな「昭和史の語り部」保阪の存在感が、改めて増している。 ■国民を愚弄する官僚の姿、新たな「東條論」で警鐘  昨年7月に発表した新書『昭和の怪物 七つの謎』は瞬く間に売り上げを伸ばし、現在13刷18万部。続編も3刷5万8千部に達している。講談社現代新書編集部の小林雅広(32)は「発売初日から予想を大幅に超える売れ行きで驚きました。昭和を知る世代の『昭和とは何だったのか』というニーズに刺さったようです」。満面の笑みを浮かべる。  各種市民講座の受講希望者も後をたたない。冒頭の慶應MCCは受講料がやや高めだが、早々に定員に。同社事業部長の城取一成(58)は「本格的に近代史を学びたい方々に大人気です」と、胸を張る。受講者も、鈴木貫太郎の孫で音楽評論家の道子(88)や日本在住の韓国人女性(35)、在宅医療で戦中世代を看取ってきた男性医師(49)など、実に多様だ。  そしていま、保阪は東條英機と密に向き合っている。新たな「東條論」を発表するためだ。40年前、話題作『東條英機と天皇の時代』を発表しているが、なぜ再び「東條論」なのだろう。 「思想も何もない官僚的な発想の人たちが依然として日本を動かしている。だから東條を通して、近代日本の政治風土を総括しようと思ってね」  保阪が「思想も何も」と言うのは、文書改竄問題や統計不正調査問題などにみる現政権や官僚たちの態度にほかならない。国民を愚弄する態度が、無謀な戦争で大量の兵士を死なせた軍官僚に、重なって見えるという。 昭和史研究の「兄」である半藤一利(左端)など、昭和史通が集う懇談会では歴史談議に花がさく。書店に並ぶ歴史関連の著作への「ダメ出し」や、爆笑ものの出版裏話も飛び交う(撮影/葛西亜理沙)  教訓は、山ほどある。例えば、昭和19年10月のレイテ決戦。戦地に送られた8万4千人のうち8万人が戦死した戦闘だが、その直近の台湾沖航空戦で「大勝利」したとの誤報が、無謀な作戦に繋がった。このとき一人の情報参謀が「戦果に疑問あり」と打電したにもかかわらず、その電報は無視されていた。握りつぶしたと目される作戦参謀は戦後、政権のブレーンとなった瀬島龍三。保阪は昭和62年発表の『瀬島龍三 参謀の昭和史』で、その史実に迫ってみせた。  300万人超の命が失われたあの戦争の責任を問われることなく、戦後の政財界で暗躍した軍官僚たちがいる。その残影が現代日本に継承されたと確信するからこその「東條論」なのだった。  今や「昭和史研究の大家」となった保阪にも、悩める少年時代や青春時代はちゃんとある。  北海道の旧制中学で働く数学教師の父と、聡明な母の長男として生まれた。父は風変わりで威圧的だった。まだ幼い長男を夜な夜な正座させ、書き方の練習を強いた。「かわいそうです」と制する母をよそに、決めた回数を終えるまで許さなかった。中学2年の冬、お年玉を貯めてスケート靴を買い求め、帰ると父が怒って待っていた。しつこく説教する父。長男はスケート靴を抱きしめて抵抗。父は靴を取り上げ、窓の外に放り投げた。 ■ドラマの新聞記者に憧れ、三島がまいた檄文転機に  関係修復は父が病臥した45歳のとき。肺がんで余命半年と聞いた保阪は病床に通い、父の半生を聞き取った。幼少期の「音の記憶」が印象的だった。学生だった姉が毎朝、玄関先で制服のバンドをしめる音が大好きだったと言う。「そのパチンと言う音が一日の合図だったと。その話で父を信頼しました」。そういう情景を語る人を、無条件で信頼する癖があると言う。  そんな癖が表出したのが、平成5年に発表した後藤田正晴の評伝である。徳島県の山間部で生まれた後藤田は幼くして父を亡くした。担がれてきた父の棺を母の横で見ていた後藤田は、自分を抱きしめる母の腹が波打っていた記憶を語った。「母親が嗚咽していることに幼い少年が気づいた情景です。『この人は信頼できる』と思ったね」。迷わずこの情景から書き出した。  中学は、両親の意向で進学校に越境入学。この中学で1学年上の西部邁と知り合う。長じて評論家となった西部は秀才として知られた存在で、通学途中の駅などで交わす会話は刺激的だった。 「人間と猿の違いって何だと思う」と西部。「人より毛が3本少ないこと」と保阪。「生産手段を持っているか否かだ」と西部。こうした西部との会話が、保阪を知的な世界へと誘った。  高校進学で離れ離れになるが、友情は、西部の死の直前まで続いた。昨年1月、西部は多摩川で自殺を遂げたが、そのひと月ほど前、最後の著書が保阪の自宅に送られてきた。「1カ所、折り目がついてた。死ぬって決めてたんだね」  大学は京都の同志社大学へ進学。演劇研究会に所属し、学生運動を横目に演劇活動に勤しんだ。4年の秋、テレビドラマで見た新聞社の空気にひかれ「新聞記者になろう」と思い立つ。ある全国紙の最終面接に残ったが、結果は「地方記者で」という条件付きの内定だった。  これを断り、電通PRセンターに入社。この仕事で新聞記者や雑誌編集者と親しくなり、物書きへの夢が膨らんだ。2年半で朝日ソノラマへ転職。作家の大宅壮一など著名な論者たちとの仕事で経験を重ね、28歳で「独立」を志して同社を退社。しかし結婚が決まり、「安定」を求めてTBSブリタニカに入社。それでも「自分の筆で生きる」という思いは消えなかった。 2009年から朝日新聞の書評委員を務める。月に2回の委員会にも極力出席する。画家の横尾忠則(左)や哲学者の柄谷行人らとは「長老組」として親交を深める(撮影/葛西亜理沙)  転機は昭和45年秋に訪れた。11月、三島由紀夫が割腹自殺。朝日ソノラマの編集部に立ち寄ると、編集部員が三島のばらまいた檄文をくれた。「共に起ち、共に死なう」とある。「共に死なう」に見覚えがあった。翌日、国会図書館へ。過去に目を通した週刊誌に昭和12年に起きた「死なう団事件」が取り上げられていた。「死なう団」という宗教団体が都内各所で切腹自殺を図った事件だが、さらに調べると、特高警察にテロ集団と誤認されて拷問を受け、抗議として起こした事件だった。ところが年鑑などには「狂信者のテロ」とある。「なぜ史実が歪むんだ」。腹は決まった。「年表の1行にも人の生死が関わっている。その1行を一冊にまとめる仕事をしよう」。翌春、退社。31歳だった。 ■昭和陸軍が起こした災禍、史実に迫る在野の一匹狼  事件の生存者を訪ね歩いて書き上げた『死なう団事件』は昭和47年1月、「れんが書房」から刊行された。推薦文を松本清張に依頼したこともあり、売れ行きは上々。しかし4月、一人の訃報が届いた。取材の過程で特高警察に通じていた人物が教団にいたと確信し、その人を訪ねた。  無粋な質問はしなかった。それでも帰りぎわ老人は「ありがとう。一生の重荷だった」。著書でも触れなかったが、一読してほどなくホーム屋上から身を投げたという。「人の命を奪う権限があるのか」。1年ほど煩悶。「自分の筆で人が死ぬこともある。その覚悟がなければ」と結論づけた。  そしてデビュー作以後、作品が編集者を呼び、新たな分野に挑戦する流れが生まれた。講談社学芸局の編集者だった阿部英雄(76)とは初対面で意気投合し、まだ草創期だったノンフィクションのイメージを語り合った。草思社の創業者・加瀬昌男は「東條英機の評伝を」と提案。戸惑ったが「史実から生み出す評伝を」という言葉に納得し、挑戦を決めた。  保阪は「物書きとして4千人に会った」と公言する。一貫して人に会い、証言を求めた成果だが、その手法こそ東條の評伝のために編み出したものだった。約3年、国会図書館に通い、史料や著作を読み、取材リストを作成。丁寧に手紙を書き、返信用のはがきを封書に入れて送付。すると7割以上の200人ほどが「会う」と返信してくれた。特筆すべきは東條の妻カツへの取材が実現したことだ。計20回ほど会い、「日米開戦前夜、東條が泣いていた」という秘話などを聞き出した。  依頼から7年後、評伝を書き上げた。しかし東條の評価をめぐる意見が加瀬と折り合わず、知人を介して「伝統と現代社」から昭和54年12月、『東條英機と天皇の時代』の上巻を発表。出版各社の編集者たちに「保阪正康」の名が刻印された。  元文藝春秋の浅見雅男(72)は、上巻を一気に読了したという。「歴史の悪役の評伝はまだ少なくて、こと東條においては『全て東條のせいにしておけばよい』という時代でした。保阪さんの著書は昭和天皇との関係性などが客観的に書かれて、実に面白かった」と語る。  浅見は昭和57年春、保阪に週刊誌での仕事を依頼。数年後に「秩父宮」の評伝を提案した。58年、「週刊朝日」の編集部にいた蜷川真夫(81)も保阪に会い、田中角栄の支持基盤のルポを依頼した。  作家の半藤一利(89)が保阪に注目したのは、文藝春秋の昭和62年5月号の特集「瀬島龍三の研究」だった。「若いのに、神格化された参謀によく食らいついている」と感心したという。 慶應MCCの一コマ。受講生のチェ・スルギ(35)は数年間の韓国駐在から戻り、日本の右傾化に驚いて受講を決めた。「日本国民が政治に関心が低い背景がわかってきました」(撮影/葛西亜理沙)  昭和史を「人」から書き起こす著作の先達たる半藤が、保阪の仕事で最も高く評価するのは『昭和陸軍の研究』だ。月刊「Asahi」で平成2年夏から26回続いた連載を、増補して平成11年に発表した大作。なぜ昭和陸軍があれほどの災禍を引き起こしたのか。史実に分け入り、その解明を試みている。半藤は「司馬(遼太郎)さんでも手に負えなかった昭和陸軍を、徹底検証したからね。何が偉いって、彼は大新聞とかの後ろ盾のない一匹狼。軍人たちの語る虚実を自分の頭で選り分けてね。大したもんだよ」  東京大学名誉教授の姜尚中(68)は「在野のまれびと」と形容する。「大学教授であれば史料探しはさほど難しくはありません。アカデミズムと距離を置き、在野で昭和史を『人』からすくい続けた。稀有な存在です」と称賛する。  保阪は在野で生きながら技術を磨いた。同じ相手に何度でも会う。戦地での重い話を聞く時は、相手が話しやすい場所を厳選する。半藤は「あれほど人に会ってきた物書きはいません。何度も会うから信頼される。あの人の人徳だよね」と褒めちぎる。  ゆえに仕事仲間にも愛されてきた。平成5年2月、長男・康夫が22歳の若さで急死し、保阪が喪失感に苛まれていた折、各社の編集者が次々に励ました。前出の浅見が回想する。「悲嘆する姿から、息子さんへの愛の深さが伝わってきましたね」。2年後の春には「保阪正康を囲む会」が開かれ、後藤田も駆けつけ「私より私を知る男だ」と激励した。  息子の死後、数年ほど作業を中断した『昭和陸軍の研究』だったが、最終的に1千人近くの元兵士に取材し、丹念に書き起こした。  例えば、日中戦争での蛮行を特別軍事法廷で裁かれた元中尉・鵜野晋太郎には、最高人民検察院の起訴状などをもとに取材した。保阪が隅田川の土手につれ出すと、鵜野は「ある軍医に『しゃれこうべが欲しい』と頼まれ、捕虜を斬り殺し、別の捕虜に頭の皮を剥ぎ取らせた」と語った。 ■一兵卒の声なき声集め「悼み受けつぎ次代へ」  あるいは、昭和13年夏の「張鼓峰事件」で捕虜となった成沢二郎。ハバロフスクにある極東赤軍博物館で見た写真が気になり、戦友会を訪ね歩き、居場所を探った。成沢は74歳となり、長野県飯田市でひっそりと暮らしていた。  地元の温泉に案内され、お湯の中で取材は進んだ。貧しい家に生まれ育ったことや「事件」の全容、17年の捕虜生活。帰国後、厚生省(当時)から扶助料の返金を求められたこと。保阪はこれらの証言を記しつつ、「高級軍人たちは戦後も(略)恩給を受けていた」と怒りを込めて付け加えた。  成沢のような一兵卒たちの声なき声は、人知れず消える運命にあった。「記録を残せるのは高級軍人たち。史料だけでは、実際に戦場で戦った兵士たちの体験を見落としてしまう」  昨年、時を経て発売された「選書版」のあとがきに、改めてこう記した。 「兵士たちは戦場で逝った仲間の名を忘れていない。(略)かつてあの戦争の時代に(略)戦場に行かされた、私より十五歳から二十歳ほど上の世代に、あなたたちの悼みを受けつぎ、そこから教訓を学んで次代に伝えますと約束する」  78歳の決意表明だった。  そして80歳になろうという年に新しい時代を迎えた。平成の評伝を書くとしたら誰だろう。そう問うと、「天皇ですね」と即答した。平成後期、何度か参内し、当時の天皇、皇后両陛下と「雑談」を交えた会食に呼ばれた経験がある。 パソコンは使わず、原稿は今も万年筆で原稿用紙にしたためる。筆まめで知られ、対面取材で足りない部分は何度も手紙を出して補った(撮影/葛西亜理沙)  特別な言葉も受け取った。保阪を支え、人生を照らし続けた妻・隆子が平成25年6月に66歳で急逝した。最愛の妻との別れを表現できる言葉などなかったが、翌夏、雑誌に文章を寄せた。その秋に参内。天皇が「保阪さん、大変でしたね」と述べ、皇后が「奥様は心の中で生きてらっしゃいます」と続いた。落涙をこらえ、心で泣いた。 「物書きとしては大きな経験でした」と努めて冷静に振り返るが、「物書き」以上に「一個人」として時の天皇に向き合えた喜びは大きいだろう。  今秋、郷里・北海道の文学館で企画展「ノンフィクション作家・保阪正康の仕事」が開催される。150冊近い著作を展示し、半世紀の軌跡を紹介する。元講談社の阿部は「150」という数字に感慨深げだ。「たくさんの本が長きにわたり形を変えて読みつがれた証しです」  当人は「残された時間も、そう長くないからね」と照れ笑いするが、『昭和の怪物~』担当の小林にはこう説いたそうだ。「物書きって中華料理のくるくる回るテーブルと同じ。お皿が目の前に来たらたくさん書かなくちゃ」。ご馳走の皿に、旺盛な執筆意欲を隠せない一匹狼なのだった。 (文中敬称略) ■保阪正康(ほさか・まさやす) 1939年/北海道生まれ。旧制中学の数学教師だった父の転勤に伴い、道内を転々とした。戦中の記憶として残るのは5歳のとき。室蘭で空襲を受けた際、青空を編隊を組んで飛ぶB29爆撃機を見たくて防空壕から飛び出し、母親に激しく叱られた。 46年/4月、小学校入学。中学は札幌市立柏中。高校は北海道札幌東高校に進み、放課後には映画を見たり北海道大学の「シナリオ研究会」に通ったりという3年間を送った。 59年/4月、京都大学を目指して1浪ののち、同志社大学文学部社会学科へ進学。演劇研究会に所属し、演出や脚本を学んだ。3回生の時には特攻隊員と60年安保をモチーフにした創作劇「生ける屍」を手がけた。 62年/秋、就職活動で全国紙の試験を受けたが、最終面接で「革命が起きたらどうする」と聞かれ「革命の側に立つ」と回答し、面接官の失笑を買った。 64年/知人のつてで「電通PRセンター」に入社。以後、何度か転職。「朝日ソノラマ」では、大宅壮一や丸山邦雄などと仕事をし、ビートルズ初来日の折には破天荒な編集部記者の発案で、ビートルズの突撃取材を試みた。 71年/TBSブリタニカを退社して独立。翌年、『死なう団事件』で作家としてデビュー。刷り上がった見本本がいとおしく、枕の横に置いて添い寝をした。 87年/12月、「文芸春秋」での特集を元にした単行本『瀬島龍三 参謀の昭和史』を発表。謎めいた財界人に対する注目度は高く、ベストセラーに。 89年/1月、昭和天皇が逝去。前年から秩父宮の評伝を書き進め、4月『秩父宮と昭和天皇』として発表。担当編集者の藤沢隆志は保阪の原稿に手厳しく、たびたび押し問答に。藤沢は「厳しいこともたくさん言いましたが、最後は納得して受け入れてくれました」と恐縮しきり。 2000年/昭和史を「もし」の切り口からエッセーふうに書いた『昭和史七つの謎』がヒット。現在発売中の『昭和の怪物~』はこの本に着想したという。 04年/一連の昭和史研究と、元兵士たちの証言を集めて独自でブックレット「昭和史講座」を刊行し続けた功績で、第52回菊池寛賞を受賞。この冊子の編集には妻・隆子もかかわっていた。 13年/6月18日、隆子死去。くも膜下出血だった。 17年/『ナショナリズムの昭和』で第30回和辻哲郎文化賞を受賞。 ■浜田奈美 1969年、埼玉県生まれ。早稲田大学教育学部卒。93年朝日新聞社入社。be編集部やAERA編集部、文化部などを経て、現在、地域報道部に所属。 ※AERA 2019年8月5日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/12/05 18:00
店の前で張り込み調査も… 無給覚悟でラーメン業界に飛び込んだ男の決断
井手隊長 井手隊長
店の前で張り込み調査も… 無給覚悟でラーメン業界に飛び込んだ男の決断
麺や 七彩の「喜多方らーめん」(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。「麺」を追求し続けて“打ちたて麺”に辿り着いた名店店主の愛する一杯は、「給料は要りませんから働かせてください」と飛び込んできた骨のある弟子が紡ぐ一杯だった。 ■目指すのは「普通の醤油ラーメン」  中央区八丁堀にある「麺や 七彩」は喜多方ラーメンを提供する人気店だ。注文を受けてから麺を打つ“打ちたて麺”が特徴で、自分のために目の前で粉をこねて麺を打ってくれるというのは特別感があり、待つ間のワクワク感もひとしおだ。 「麺や 七彩」は打ち立て麺にこだわり続ける(筆者撮影)  通常の麺は寝かせて熟成させることでグルテンが生成され、コシが生まれる。このコシが麺の旨さと存在感を決めると言われているが、「七彩」の麺は逆をついている。そば打ちの技法を応用し、小麦粉をこねて麺棒で伸ばし、切って茹でた麺は、“無割そば”(そば粉0:小麦粉10)とも言える。  グルテンが少ない麺は茹でている間にブチブチと切れやすい。「七彩」では茹で時間を3分と決めて、湯の中での麺の泳がせ方や湯切りにもこだわっている。打ちたてならではの小麦の香りと、手打ち麺の独特な食感が楽しめ、他ではなかなか食べられない一杯だ。 麺や 七彩/東京都中央区八丁堀2-13-2/平日11:00~15:00 / 17:00~22:00 土・日・祝11:00~15:00/17:00~21:00/毎月第3火曜日定休/筆者撮影  店主の阪田博昭さん(48)は16歳で飲食の世界に入って以来、一貫して「100年後にも残る一杯」を目指してきた。2015年に東京駅の「東京ラーメンストリート」での出店契約を終え、八丁堀に移転する際に完成した“打ちたて麺”は、料理人人生30年間の集大成ともいえる。  長く人びとに愛されるには、奇をてらったものではなく、普通が一番だと阪田さんは考えている。この打ちたて麺を使った喜多方ラーメンはまさに余計なものを削ぎ落とし、「普通」に美味しい醤油ラーメンの頂点を目指して作ったものである。その美味しさは「究極」ではないかもしれない。だが、誰もが“美味しいラーメン”だと感じられる一杯を意識している。阪田さんは言う。 「7割の人にとって美味しいのではダメなんです。食べた人全員に美味しいと言わせるラーメンは作れるはずだと思って、日々精進しています」  美味しさの構造や食材の能書きは語らない。「また食べたくなる一杯」かどうかがすべてだと阪田さんは考えている。そんな阪田さんの愛する一杯は、脱サラして、「七彩」に飛び込んできた愛弟子が作るラーメンだ。 ■「給料はいりませんから、働かせてください」  くじら食堂/東京都小金井市梶野町5-1-1 JR中央線東小金井駅ナカ/【月~土】11:00~15:00、17:00~25:00【日曜祝日】11:00~25:00/筆者撮影  JR東小金井駅の駅ビル「nonowa東小金井」内にある「くじら食堂」は、店主の下村浩介さん(42)が脱サラ後、「七彩」で修行した後にオープンした店だ。モチモチの自家製麺とスープで勝負した醤油ラーメンを中心に人気を集めている。13年に開店した後、『ラーメンWalkerグランプリ2014』で「全国新人賞部門第1位」「全国総合ランキング第3位」をダブル受賞し、一躍スターダムに躍り出た。  北海道生まれの下村さんは18歳で上京し、アイスホッケーの国体選手として大学で活躍していた。だが、22歳で大学を中退。その後2年間はメキシコ料理店でアルバイトをする生活だった。24歳で食肉卸会社に就職し、ルート配送の仕事を始める。人が少ないこともあり、豚や牛の肉を骨から外す脱骨作業から競りでの仕入れまで幅広く担当した。勤務時間が朝6時から昼12時までだったため、仕事が終わってからは好きなラーメンを食べ歩いていたという。横浜にある競り場の近くには横浜家系ラーメンの店が多く、「たかさご家」「近藤家」「介一家」がお気に入りだった。  だが、32歳の時、とあるミスがきっかけで仕事が続けられなくなってしまう。子どもも幼く、家も買ったばかり。すぐにでも仕事を始めなければならなかった。  経験を生かして、食肉の卸として独立することもできたが、一度の仕入れに1500万円はかかってしまう。焼肉店を始めることも考えたが、初期投資があまりにも高かった。他の道を考えたときに浮かんだのが、大好きなラーメンだった。「有名店で1年間修業すれば独立できるだろう」と思い、下村さんは修行先を探し始めた。  修行先として真っ先に思い浮かんだのは、当時都立家政にあった「麺や 七彩」だった。前年には業界最高権威といわれる「TRYラーメン大賞」の新人大賞を獲得し、朝6時から行列ができる大繁盛店。「七彩出身」として独立できれば、自分のお店も繁盛店になるに違いないと考え、下村さんは「七彩」を訪ね、店主の阪田さんにこう言った。 「給料はいりませんから、働かせてください」  迫るものを感じた阪田さんは、下村さんを受け入れることにする。こうして、下村さんは「七彩」で働き始めた。  冷蔵庫の中で仕事をする食肉の卸業界とは一転、ラーメン店の現場は暑い。師匠の阪田さんはラーメンの作り方を惜しみなく教えてくれ、厨房にも積極的に入らせてもらえたが、一向に上手に作れるようにならない。店の外にできた行列に焦りを抱きながらも、諦めずに続けるしかなかった。  修行は1年だけと考えていた下村さんだったが、気が付けば2年10カ月が経っていた。先輩の後押しもあり、ようやく独立することになる。 店主の下村浩介さん筆者撮影)  中央線エリアを半年ほど探し、東小金井で5年契約の物件を見つけた。期間が決まっていることが気になったが、5年続かなければ他の場所でもできないと腹を括り、契約を決めた。前のオーナーの売り上げが1日7万円だったと聞き、まずは7万円を目標にした。13年、「くじら食堂」はこうしてオープンした。気取らずに家族で来られるような店にしたいと店名に「食堂」を入れ、「くじら」は当時3歳だった娘が決めてくれたという。 「くじら食堂」のラーメンは、下村さんの地元釧路の鰹節が効いたラーメンからインスパイアされ、2度目の試作でレシピが完成した。麺にもこだわり、小麦を独自に配合して存在感がある極太の麺を仕上げた。目指したのは、「七彩」のように何度食べても飽きないラーメンだ。  味が良くても、お客さんが来なければお店は運営できない。下村さんはオープン前の数日間、店の前に張り込み、人の流れを調査した。日中に比べて夜の人通りが多いことに気付き、営業時間を夕方6時から翌1時までに決めた。日中は捨て、夜一本で勝負したのだ。  この営業時間が功を奏した。近隣で夜遅くまでやっているラーメン店はチェーン店ばかりで、「くじら食堂」はすぐに繁盛店になり、口コミも広がった。単身者が多いという情報を得た後は、量があるメニューもそろえた。すると、ラーメンだけでなく油そばも美味しい店だとして話題になった。  飽きさせないために、時期に合わせて「限定ラーメン」をラインアップ。ラーメンファンのリピーターも獲得でき、売り上げも順調に推移した。目標だった1日7万円も優に超え、20万円を売り上げる人気店になった。 「特製醤油 大盛」。ボリュームがあるラーメンは単身者にも好評だ(筆者撮影)  東小金井を代表するお店に成長した「くじら食堂」の転機となったのは、駅ビル「nonowa東小金井」からの出店の誘いだった。5年の店舗契約が終了する寸前に舞い込んできた話で、迷いはあったが、他に場所も見つからない。駅ビルの好立地とはいえ、この頃の「くじら食堂」は月700万円ほどの売り上げで、駅ビルでは750万円が損益分岐点になる。だが、覚悟を決め、18年9月、「くじら食堂」はnonowa東小金井に移転した。  移転したからには結果を出さなければいけないと、内装をさらに明るく楽しい雰囲気に変えて、元気の出る店を目指した。駅ビルに訪れた若いお客さんや家族連れが一気に増え、新規顧客も獲得。一方で、無料で大盛や特盛にできるようにし、移転前の常連客にも配慮した。ゲリラ的にスタートする限定ラーメンも人気のままだ。 「七彩」の阪田さんは、下村さんのまっすぐな人柄を高く評価している。 「家族のためにも、ラーメン屋で成功しなければいけないという強い思いを感じました。お金じゃない何かを目的にしている人間は、何事も失敗しないと思うんです。常連さんの顔を覚えるのも早く、後輩の面倒見もいい。器用ではないけれど、志があって、骨のある人間だと思います。七彩の出身らしく、美味しい麺を出していますよ」(阪田さん)  下村さんも師匠である阪田さんの人間性に惚れ込む。 「ラーメン以前に阪田さんが好きなんですよね。おおらかで変わった感性を持っていて、とても魅力的な人です。3年間修行させてもらいましたが、『七彩』のラーメンは毎日食べても全く飽きなかった。自分もそういうラーメンを目指しています」(下村さん)  師匠から弟子へ、十分すぎるほど繋がっているバトン。「くじら食堂」の麺を一口啜るだけで、「七彩」へのリスペクトが滲み出てくる。ラーメン界は時代を追うごとにますます元気になっていくのだ。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2019/12/01 12:00
北原みのり「報道女性たちも遭遇する性暴力」
北原みのり 北原みのり
北原みのり「報道女性たちも遭遇する性暴力」
北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表 イラスト/田房永子  作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。今回はマスコミにもはびこる「性暴力」について。 *  *  *  フラワーデモをはじめてから、報道関係者に多く出会ってきた。その多くが女性で、新聞、テレビ問わず、何度も通い、被害者に話を聞き、性暴力問題を真正面から取り上げる記事や番組を発表している。  そういう中で改めて気がつかされたのは報道の女性たちもまた、性暴力の被害と決して無縁ではない事実。権力を監視する立場にいても、職場での性差別に悔しい思いを噛みしめている現実だった。  私自身、報道陣に交じり裁判傍聴をしていたとき、男性記者たちが夜になると女の美醜のランク付けで盛り上がるのに本当に驚いたことがある。「○○新聞の○○さんはモデルみたいだ。俺の一番」みたいなことを笑いながら話している。女たちはその場で、聞こえないふりで無表情に目を伏せる。  性暴力の多くは、怒号や血が飛び交うような暴力のなかで行われるわけではない。それはなごやかな空気が装われ、からかうように、なだめるように行われる。私は同じことを話す被害者に何度も会った。 「もし私が殴られていたら周りの人はもっと真剣になってくれたのではないか」  性被害の痛み、その暴力性を伝えるのは、なぜこんなに難しいのだろう。  今年4月、長崎市幹部に性暴力被害を受けた女性が、市に謝罪と損害賠償を求める裁判を起こした。  事件は2007年7月下旬に起きた。55年体制以降初の野党参議院議長が誕生するタイミングで、長崎平和祈念式典でインタビューを取れるかの瀬戸際だった。その取材のやりとりの際、記者は男性市幹部に深夜呼び出され性暴力を受けた。重大な式典を前に、すぐに警察に訴えることができなかった。  3カ月後に新聞社がこの事件を報じた日、男性が「男女の関係だった」と書き残し自死した。長崎市は事実関係を徹底的に調査することなく終わらせ、記者は壮絶な誹謗中傷にさらされ、市を離れた。その後、日弁連に人権救済を申し立てたが、市は一貫して女性の訴えを無視し続けてきた。今回の提訴は、長年の長崎市の態度に決着をつけるものでもある。それでも先日の市議会でこのことを追及した女性議員の質問中に「被害者はどっちだ」と男性の声のヤジが飛んだ。  加害者と被害者を対等に並べ、どちらが嘘をついているか。そのように性暴力を語りたがる人が、この社会には本当に多い。そのような語り口そのものが性差別的であり、被害者が沈黙することで性暴力が再生産され、女性が人生を諦めることが前提になっている。  早朝から深夜まで、報道陣の仕事は過酷だ。「男性の仕事」とされてきた報道の現場で、女性たちが屈辱に耐え沈黙を守りながら、報道している現実の闇を、やはりもうこのままにしてはいけない。  性差別を受けることは、仕事に集中できず、希望や描いていた未来を奪われること。この社会にすみずみまで染み渡る性差別の空気を、ペンの力で、私たちの声の力で変えたい。 ※週刊朝日  2019年12月6日号
北原みのり
週刊朝日 2019/11/30 16:00
GACKT「ネガティブな噂はどんどん流れる」それでも首里城再建グッズをつくる理由とは?
GACKT「ネガティブな噂はどんどん流れる」それでも首里城再建グッズをつくる理由とは?
 首里城焼失から1ヶ月。沖縄出身の歌手・GACKTさん(46)は、火災翌日には自身のインスタグラムで「動く」と宣言し、一週間後には「首里城再建アイテム」を販売することを発表した。そこに込めた思いと覚悟は。    病弱だった幼少期を過ごした沖縄への「愛情」、本土で受けた差別、近代化する故郷に対する自身の考え方も明かした。 「首里城再建アイテム」はソロ活動20周年全国ツアーのオフィシャルグッズとして販売予定。コンサート会場だけでなく、今年12月中旬からオフィシャルサイトでも購入できるようになるという。収益全額を首里城再建の支援金に充て、ツアー終了後3か月以内に金額を公表する(撮影/伊ケ崎忍) *  *  * ――GACKTさんがSNSで「一日も早い復旧復興のため、ボクも動いてみる」と宣言したのは、焼失の翌日でした。その後すぐに「首里城再建グッズ」の販売を発表しています。改めて、その思いを聞かせてください。    火災があったときボクは海外にいて、夜に「燃えている」という連絡があったけど、最初は何のことなのか理解ができなかった。ニュースで映像を見ても、最初はCGかフェイクニュースかと思ったぐらい。それが現実だと知って「うそだろ……」と、あまりにもいたたまれない思いだった。    その後に、沖縄の人たちや首里城に行ったことがある人、沖縄や首里城に何か思い入れのある人たちから「一緒に動いてほしい」「自分にできることがあればやりたい」とたくさんのメッセージが送られてきた。もちろんボクも動こうとは思っていたけど、そんなにたくさんの人が「動いてほしい」と言ってくるとは思わなくて。普段からインスタのメッセージはすべて見ているけど、今回はとにかくすごい量だった。それもあって、翌日には「やる」と宣言したんだ。    その後、事務所の人たちに「やるべきことがあると思う」と話して、みんな「そう言うなら、やるしかない」と応じてくれた。    個人的に寄付もするけれども、それだけだと役目を果たしていない。考えを強要するようなものではないけれど、表に立っている以上、少しでも力になりたいと思ってくれる人を増やすことがボクらの仕事だと。だから、ただ「寄付しました」ではなく、参加できる場をつくることに意味がある。 (撮影/伊ケ崎忍) ソロ活動20周年を記念した全国ツアー「GACKT 20th ANNIVERSARY LIVE TOUR 2020 KHAOS」が来年1月からスタートする。全国8カ所20公演、約6万人の規模。チケット情報など詳細はこちら  特に今回は、ボクも思い入れが深い首里城がこんなことになって、同じウチナーンチュとしてできることはなんだろうと考えた。というのも、最後に首里城を訪れたときをはっきり覚えていて、NHKのBS時代劇「テンペスト」(2011年放送)で、首里城の城壁を歩いていくシーンを撮影したときだった。正殿や普段はなかなか入れないエリアにも入れてもらい、感慨深いものがあった。ボクはボクの形で、やるべきことをやり、少しでも沖縄に恩返しができたらいい。   ――そうだったんですか。プライベートがベールに包まれているので、「ウチナーンチュ」という言葉が出てくるのが意外で……。    いや、「謎に包まれている」と思っているのは周りの人たちで、実はボクはすごくオープン。沖縄のことも、プライベートも隠していない。    ボクは親がウチナーンチュで、7歳まで沖縄に住んでいたけど、その後は内地(本土)に移って。16歳のときに一度、沖縄に戻ったんだけど、その後はずっと離れていて、次に戻ったのは26歳のとき。だから姉はウチナーグチ(沖縄方言)を話すけど、ボクは片言でしか話せない。   ――ときどき語尾に付く「さ」は、ウチナーグチの「さ~」ですか?    あはは(笑)。姉の喋り方が移っているのかな。標準語で喋っているつもりなんだけど(笑)。    ウチナーグチは片言でも、沖縄人としての誇りは強くある。いまは時代が変わったけど、ボクらが小さいころは差別もあった。今更それを掘り返す必要もないけど、自分の中ではマイナスには働いていなくて、当時は「絶対に負けない」という気持ちだった。海外で(出身地を)聞かれたりするけど、その度に、沖縄人というナショナリティーを持っていると気付かされるし、沖縄人として恥ずかしくないように、とも考える。もしかしたら、沖縄に住んでいる人たちよりも離れた人のほうがそういう気持ちを持っているのかもしれない。    ボクは沖縄をずっと外から見ているから、すごく冷静に見ている部分もあるし、住んでいる人たちよりもかえって愛情が深いところもある。地方に行ったときに「何を食べたい?」と聞かれて、「沖縄料理を食べに行こうか」って言うことも少なくない。   (撮影/伊ケ崎忍)  外から見たらよくわかることってたくさんある。例えば、本島中部の金武町は昔、沖縄にしかない街の空気感や雰囲気がものすごくあった。でも今は近代化されすぎて、内地と何も変わらないと感じてしまう。    これはボクの持論だけど、日本国内でも近代化していく街や地域はたくさんある。でも近代化された街は、その瞬間は最先端に見えたとしても、ほんの5年、10年経つと古い街、遅れた街になる。    昔の街並みをなんとか保とうとすることは、ただ時代遅れになることではない。古き良き時代を大切にしている、大切なことがそこに存在していると誰にでも伝わるものになる。それこそ人の心に触れるものであり、そういうものを見に行きたいという人はたくさんいる。それが人を引きつける観光資源になる。   ――7年前からマレーシアに住まれて、海外にいるから見えてくる良さや課題もあるんですね。    それもある。文化や歴史の保存という点では、正直、日本はもう取り返しのつかないところまで来ている。京都や金沢でもどんどん近代化が進んでいて、特に京都は文化を守らなければいけない街だったはず。    ヨーロッパでは建物を壊すにも許可がいるほど、厳しい法律の下で歴史的な建築物や街並みが守られている。もっと日本もその街にしかない建物や風景を保護することが必要なんじゃないのか。国をあげて文化を守り、観光資源にしていくことを本気で考えないと、大切なものをどんどん失ってしまう。そういう危機感がとてもある。   ――今回の再建支援アイテムは、購入する人がそういうことを考えるきっかけにもなるかもしれません。    あくまでもボクの考え方だから押し付けるつもりはない。ただ何よりも人の思いが集まることに意義があるんじゃないかと。残念ながら沖縄のシンボルである首里城と、多くの資料は焼けてしまったけれど、「みんなの力でもう一度、首里城を取り戻そう」という思いが、県内・県外の人たちと少しでも共有できたらいい。再建されたものは、確かに新しくリメイクされたものではあるし、人によってはリアルじゃないと言うかもしれない。でも、そこに人の思いが乗っかって新たなスタートをきることができたら、それは単なるリビルド(建て直し)を超える意味を持つ。それがすごく大切なこと。    他人事ではなく、ほんの少しでも自分の思いを乗せる。そのサポートをボクはしたい。   ――2017年の沖縄国際映画祭で“凱旋”したときにも「沖縄の役に立ちたい」という言葉を使っていたのが印象的でした。ソロ活動20周年を迎え、来年1月からは全国ツアーも始まりますが、キャリアを重ね、考え方が変わった瞬間などありましたか。    自分の中で考え直すきっかけは、2003年に30歳の誕生日を迎えたとき。もともと病弱で、ボクは自分の人生を30までと決めていたんだ。だからそれまではとにかく走ろう、やらなきゃいけないことを全部やろうと焦っていたし、怖さもあった。26歳でソロになり、なんとか結果を残そうともがいていた。とにかく自分のことに必死で、ほかのことを考える余裕がなかった。 (撮影/伊ケ崎忍)  ところが30歳という一つのラインを超えた瞬間に、スッキリしたというか、死に対する恐怖がなくなった。ここまで頑張ったから、いつ死んでも大丈夫。あとは後悔がないよう、笑っていられるように毎日を過ごそうと考えるようになった。そこからはボクにとっての余生。そして、これからの人生は誰かのために何かを残していこう、大人としての使命を果たしていこうと。いろんなことをやるようになったのは、それから。    ただ、正直、大義を掲げているわけではなく、勝手に動いている。ボクに関わる事務所の人たちは大変だ(笑)。   ――東日本大震災のときもボランティアや募金活動をされていましたね。    震災のときは瞬間的に「やらなきゃ」と思って、芸能界で人脈が広い川崎麻世さんにすぐに電話で相談した。麻世さんが呼びかけてくれて、日本中から100トン近くの物資を集め、1週間で被災した方たちに届けることもできた。当時は異常な寒さで高速道路も寸断されていたから、一日でも早く物資を送ることを優先して、自分のあらゆるコネを使った。関西からガソリン車を手配して、ガソリンや灯油も運んだ。それが終わってから、被災地でボランティアをやり、復興のために基金を立ち上げて全国一斉の街頭募金もやった。    3月11日から4月1日までの間、24時間態勢で動いていたから、ほとんど寝ていなかった。全国の仲間からひっきりなしに連絡がきて、海外からも支援をしたいという声がたくさん届き、実際にボクの家で被災した人を受け入れたり、仲間もずっと出入りしていたから。    でも、その後の方がきつかった。ゴシップやそういうネタを書いて商売しようとする人が、必ず攻撃してくるだろうと覚悟はしていたけど、自分の想像を超えていた。人の汗のかき方に文句をつけ、挙句の果てにボクが義援金を盗んだとまで言われ……。参った。悲しいを通り越して、笑ったよ。本末転倒ってこういうことを言うんだなとさえ思った。 (撮影/伊ケ崎忍)  バンドのメンバーにも「辛くないのか」って聞かれたんだけど、優しさを誰かに提供するとき、それ以降に起こることを受け入れる覚悟と責任が伴う。例えば、車を運転していて、車線変更ができない人に道を譲ったとする。何も起こらなければ親切な行為になるけど、その人が急ブレーキを踏んで自分が追突したとする。怒って降りてきて「どこみて運転してるんだ」って言われたら、どうするか? 「入れなきゃよかった」って思うなら、そもそも覚悟が足りないってこと。    もちろん見返りを求めることはないけれど、それどころか仇となって返ってきたり、よくわからないことで攻撃されたりすることもある。それを含めて受け入れる覚悟が無ければ、そもそもやるべきじゃない。   ――今回の「首里城再建グッズ」も、その覚悟で?    ボクがやるべきことはやる。再建のリーダーではないから、首里城を再建する人たちの手伝いがほんの少しでもできるなら、その部分をボクは担う。    いまだにネットでは義援金を盗んだとか散々書かれて、それが海外のニュースに載ったりしてうんざりはしてる。自分がやったこと以上に叩かれるし、ネガティブな噂はどんどん流れるし。まあ、それもしょうがないな(笑)。   ――最後に、沖縄の将来について、こうなってほしいという希望があれば教えて下さい。    沖縄に対してというより、沖縄に住んでいる人に対してですが、ウチナーンチュとしての誇りを忘れないでほしい。沖縄人として守らなければいけないことって何なんだろうと、この機会に考えてみてほしい。    歴史的な問題も含むからあまりボクが言うべきことではないかもしれないけど、ボクらはある意味でいろんな歴史の壁を受け入れてここまで来た。だからいまこの平和な時代に、一番、平和ボケちゃいけない。過去を振り返り、危機感を持たなければいけないし、沖縄人としてやらなきゃいけないことは何なのか考え直すとき。ボクはそう思う。   (聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)
dot. 2019/11/30 11:30
ラテン音楽とマイアミの南端サウスビーチ<マイアミ・レポート>
ラテン音楽とマイアミの南端サウスビーチ<マイアミ・レポート>
ラテン音楽とマイアミの南端サウスビーチ<マイアミ・レポート>  マイアミが有名になったきっかけには、古くは映画『スカーフェイス』や『バッドボーイズ』のロケ地、そしてテレビドラマ『マイアミ バイズ』と言われ、数々の観光名所がある。中でも大西洋に面した海岸線の南端サウスビーチはアール・デコ ディストリクトと呼ばれる美観地区で、必ず訪れたいエリア。  ビーチ、公園、道路(オーシャンドライブ)そしてパステルカラーの建物はホテル、レストラン、ショップ、住居などで、チャーミングな街並みは太陽の日差しが似合いおしゃれな空気感を醸し出す。夜になるとカラフルなネオンサインで彩られ、軒を連ねる飲食店からは、ラテン音楽からロック、アコースティックと様々なライブミュージックが響き渡り、賑やかなナイトライフが繰り広げられる。中でもMango’s Tropical Cafe は観光客のアトラクションスポット。看板ドリンクメニュー“モヒート”を飲みながら、サルサ、バチャータなどラテンダンスのレッスン、ライブバンド演奏と連日朝の5時まで楽しめる。ラテン音楽は、カリブ、中南米からのアクセスが近いことで、マイアミの個性にもなっている。  アール・デコ様式建物は1930年代ごろ以前に建設されたが、大型ホテルの開発事業が進んだ1960年代に多くが破壊された。しかし、歴史的建造物を守る動きが起こったおかげで保存され、建物とラテン音楽、集まる人々が活気に満ちた雰囲気をより一層トロピカルにしている。ビルボードライブ大阪でもラテン系のライブが行われると、会場が一気にそのカラーに染まり、お客さんのテンションも上がる。きっとそれが音楽の持つ個性とパワー、さらに魅力なのだろう。Text:KIYOMI ◎公演情報【アル・ディ・メオラ】 2020年2月3日(月)ビルボードライブ東京 2020年2月4日(火)ビルボードライブ東京 2020年2月6日(木)ビルボードライブ大阪 2020年2月7日(金)ビルボードライブ大阪 ◎KIYOMI 学生時代、友人のバンドライブで司会をした経験から、テレビ、ラジオなどマスコミの仕事を始める。その後、単身移住したNYで(1986年~1993年)NY初日本語ラジオ番組を発案・設立。DJ・制作・広報・営業を手がける。1993年帰国。FM802、FMCOCOLOのDJ、関西初のサルサダンススタジオ(CHEVERE)主宰、映画コメンテイター、TV・RADIO出演、新聞・雑誌寄稿、司会、講師などで活動。好奇心に任せた様々なレポートを発信中。
billboardnews 2019/11/25 00:00
「夢でもいいから寄り添って」もう一度会いたい“亡き伴侶に綴る言葉”
「夢でもいいから寄り添って」もう一度会いたい“亡き伴侶に綴る言葉”
ちゃー君 (読者提供) 古澤夫妻 (読者提供)  週刊朝日では「亡き伴侶へ」をテーマに投稿を募集したところ、読者の方からたくさんのお手紙が届きました。先に旅立った夫や妻への感謝の言葉、楽しかった日々の思い出、そして話せなかった秘密、明らかになった事実──。5人の方のお便りを紹介します。 ■孫もどきに慕われて 大賀 清(88歳・島根県)  4歳上の愛妻は、昨年8月6日の早朝、ひとりで天国へ旅立ちました。  体が弱い妻は、20代のころから入退院を繰り返し、病院で新年を迎えたことが2度ありました。そんなことで、子どもにも恵まれませんでした。  40~50代は、比較的元気でしたが、60歳を迎えるころ、過去に何度も輸血を繰り返していたせいで「非A非B肝炎」(後のC型肝炎)と診断され、再び入院治療が始まりました。  数年前、主治医から「C型肝炎」に効く薬ができたから使ってみないかと声をかけられ、ふたつ返事で新薬の治療を半年ばかり続けました。2年前に、年1回の経過観察でOKとの診断があり、大喜びをしていたところでした──。  最後は急性肺炎で亡くなりました。ともかく病弱で「とうに死んでいる」と何度も口にしていた妻が90歳を過ぎるまで生きてくれたことに感謝しています。  70歳手前で、近所の女の子に懐かれ、「孫もどき」をしながら老後を生かしてもらいました。私がまだ自動車を運転していたころ、保育園、小中高と「アッシー」を務め、部活の応援に遠くまで足を運んだこともいい思い出です。 「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼ばれ、この子のおかげで私たちは天寿を全うできます。  この4月に大阪で看護師の卵になった孫もどきが、10月の3連休に帰省し、びっくりさせてくれました。昨夜は、おひとりさま暮らしの「じいちゃん」の夕食のお弁当を温めてくれたり、インスタントのみそ汁も入れてくれたり。涙もろい「じいちゃん」を泣かせてくれました。今朝は、「ばあちゃん」の遺影にサヨナラをして帰阪……。  一周忌の法要、新盆を済ませた途端、生きていく力がなくなりましたが、もう少しという気持ちになり、有料老人ホームなどに申し込みました。 「ばあちゃん」のところへ行くのは、少し遅れるかもしれないが、着いたら「じいちゃん」から「ありがとう」と言わせてください。本当に六十数年、ありがとう。ありがとう。 ■あなたに会いたい 星野ひかり(仮名・83歳・埼玉県)  17年前、あなたは突然倒れた。「心筋梗塞(こうそく)」という病があなたの命を奪った。「さようなら。ありがとう」の言葉さえ拒んだ。  呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす私の姿を、あなたは閉じられた眼の底に捉えていただろうか。  子どもには恵まれなかったけれど、40年余りを共に過ごし、いい思い出を残していってくれた。  2人とも旅が好きだった。夏になると、よく信州方面へドライブに出かけた。  中でもお気に入りだったのは、標高約2千メートルの高台に広がる美ケ原高原。牛の群れがのんびりと過ごし、空には小羊の群れのような雲が流れていた。鮮やかな牧草地には、真夏日だというのに赤とんぼが飛び交っていた。  私は、60歳を過ぎてから緑内障の影響でほぼ目が見えなくなった。危ないから、もう遠くへは外出できない。けれども、2人で旅した思い出の場所は、今でもまぶたの奥に浮かんでくる。  あの高原にある「山本小屋」だったかしら。まだ一度も泊まったことがなくて、いつかそこで日の出を見ようって約束したっけ。  私もそのうちそっちへ行くから。きっと2人でまた訪れたいですね。その時はよろしく。 ■2人の息子と猫 ちゃー君のママ(仮名・73歳・兵庫県)  私は31歳で離婚し、いろいろなことを経験した後、小さな会社に就職しました。  私が49歳、主人が54歳のころです。取引先との打ち合わせで、出会いました。背が高くスーツ姿がビシッと決まった清潔感のある彼に、一目ぼれでした。  ある日、知人から「あの方は数年前に奥さまを亡くし、寂しいとおっしゃっているけど、結婚する気はあるのか」と聞かれてびっくり。年齢からして彼が独身だとは思わなかったんです。そんなことで、2回目のデートで、彼は私との結婚を決めたようです。  主人には、社会人と大学生の2人の息子がいました。当然ですが、初めは息子たちから観察され、チクチクしました。料理好きの私は、ご飯で手なずけようと頑張りました。  その後、息子たちは独立して家庭を持ちました。一方、主人は耳下腺がんを患いました。術後、再発せず、「良かったなあ」と喜んでいた矢先、肺炎で入院。その時の血液検査で骨髄異形成症候群(血液の難病)と診断されました。3カ月の入院を経て、在宅医療に切り替えてから約1年後に旅立ちました。  救いだったのは、当時保護した一匹の猫の存在でした。猫と主人は相思相愛の仲。猫は、病院から戻った主人の介護ベッドで一日中過ごし、ずーっと主人の腕の中。そのことを知らない新しい看護師さんが、採血のため布団をめくると猫がいて、「キャー!」。主人は、びっくりされるのを楽しんでいました。自分が死んだらちゃー君(猫)を生きたまま一緒に棺に入れて、と無理なことを言っていました。  ちゃー君は、病院から冷たくなって帰宅した主人の腕の中で一晩過ごし、半年後、主人の後を追うように逝ってしまいました。  18年間の短い結婚生活。私が残り、先妻さんを亡くした主人に再び寂しい思いをさせなくてよかったと思っています。  3年経てば悲しみは薄れるとよく聞きますが、私には当てはまりません。几帳面に書かれた夫の病床日記を読むと涙が出てくるので、いつも途中で閉じます。  2組の息子夫婦は、入れ代わり立ち代わりにご飯を食べに来てくれます。有り難いような、有り難くないような。ご飯で釣ったから仕方がないか。食費で年金生活危うしの日々を過ごしています。 ■君知るやあの荻窪の夜 古澤孝明(81歳・千葉県)  20代半ば、教職3年目の夏だった。勤め先に近い東京・荻窪の割烹(かっぽう)で、先輩教師ら3人と談論風発。そこへ、同じ年の婚約者である君が仕事終わりに来てくれた。半年後に結婚を控えていたので、先輩たちに紹介するいい機会だった。君はすぐにその場の雰囲気になれ、お酌をしながら返杯も受けて気遣ってくれていた。  夜更け、みんな帰るのが億劫(おっくう)になった。そこには、酌婦ごとをしてくれる20歳くらいのご婦人2人もいた。そのご婦人らがここで休んでいくという。  宴テーブルを片づけ、大きな和室に座布団を枕にして、みんなで雑魚寝することになった。互いがすでに朦朦(もうろう)の風で思いのまま横臥(おうが)した。  隣に薄手の着衣のご婦人が寝た。挟むようにして向こう側で君がすでに寝息をたてていた。ややあって、隣のご婦人が体の向きを変えるのが薄明かりの中で浮かんだ。気がかりだが、僕は息をのんで静寂を作った。  その直後、なんと、ご婦人が僕の体に触れてきたのだ。大胆なのである……。  婚約者の君が寝つきの早いのは知っていた。寝返りを打てば触れそうなほどの間合いである。世間からどんなに模範生と言われようが、この色恋の修羅場はたまらない。  でも、いたすわけにはいくまい。必死のもがきである。僕はもろ手を伸ばし、ご婦人に接吻(せっぷん)した……。  一瞬、君はため息をついて少しだけ頭を遠ざけた。5分程の秘め事であった。  君は君で、大学時代、僕と付き合っていたころ、同郷のS君と日光へ2人旅していた。一つの床に寝たが体は閉じたままだった、との君の言葉。君の下宿先で3、4度、S君と鉢合わせたこともあった。  だが、3年前、君は何も語らず、粛然と天国へ旅立ってしまった。  53年余りの夫婦旅、楽しかったよ。感謝しかない。酒好き、女好き、活字文学大好き男。今でも好きですか。そっちへ行ったら聞かせてよ。あの荻窪の夜、本当に気づいていなかったですか。天に召された君へ。 ■シャネルの香水 節子(仮名・80歳・静岡県)  今年の5月に十七回忌を終えた主人とは、友人の紹介で知り合いました。  ある秋、私が残業で夜9時に帰宅する途中。最寄り駅を出てすぐのところで、彼は壁にもたれかかって待っていました。日曜日のデートの約束だけして帰った、まだ手も握ったことのないころのことです。1年後に結婚し、1男1女に恵まれました。高度経済成長時代、主人はモーレツ社員となり、地位も上がり、幸せな日々でした。  退職後、検診でがんが見つかり、10カ月の闘病生活へ。抗がん剤の苦しみをあまり言わずに亡くなっていきました。  この何年も夢に出てこなかった主人が、最近になってよく出てきます。残業帰りのあの場面を思いだし、胸がキューンとなって、もう一度会いたくなり、涙が出るのです。  でも、ある日、いろいろと整理をしていたら、現金20万円が出てきました。洋服タンスもすべて片づけましたら、隅からシャネルの香水が出てきました。ネクタイなどすべて私が用意してきたのに、香水とは!!  私が全く気付かなかった女性からの物でした。私には全く素ぶりを見せなかったのです。そんな女性との楽しい思い出があったなんて。今になれば、全くノー天気な妻でした。  私の毎朝の般若心経。聞こえていますか。そちらに行くのはひ孫の顔を見てからにします。もう少し待っていてくださいね。 ※週刊朝日  2019年11月29日号
週刊朝日 2019/11/24 08:00
大谷亮平「ゼロが1個違って…」“逆輸入俳優”が語る韓国の芸能事情
大谷亮平「ゼロが1個違って…」“逆輸入俳優”が語る韓国の芸能事情
大谷亮平(おおたに・りょうへい)/1980年、大阪府生まれ。2003年、韓国のCM出演を機に韓国で芸能活動を始め、06年に俳優デビュー。日本でもドラマ「ラヴソング」(16年)から活動開始。大ヒットドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」出演で注目を集める。その後、NHK連続テレビ小説「まんぷく」(18年10月~19年3月)などのドラマや映画に出演。現在、東海テレビ・フジテレビ系の土曜ドラマ「リカ」(毎週土曜、夜11時40分~)に出演中。20年には舞台「ボディガード」への出演も決まっている。 (撮影/写真部・小山幸佑) 大谷亮平さん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・小山幸佑)  ドラマ「逃げ恥」でハイスペックなイケメンを演じ、一気にブレークした大谷亮平さん。すでに韓国でキャリアを築いていたことから、“逆輸入俳優”とも称される異色の経歴の持ち主。韓国での驚きの経験とは。作家の林真理子さんが迫ります。 *  *  * 林:12年向こうにいたということですけど、ご家族は、早く日本に帰ってこいと言わなかったんですか。 大谷:言わなかったです。あきらめてたかもしれないですね。 林:じゃあ、今のご活躍すごくうれしいんじゃないですか。帰ってきてくれるわ、人気者になるわ、「朝ドラ」にも出ちゃうわ。 大谷:うれしいんでしょうけど、一回僕、大病でヤバかったときがあって、「生きてるだけでも」みたいな状態になったので、それをトラウマにさせちゃってる感じがあるんですよね。それがあるので、韓国に行こうが何をしようが、生きてるだけでいいということみたいです。ただ、「健康だけは気をつけなさい」と言われてましたね。「ちゃんと寝られてるの?」とか、野菜とかをいろいろ送ってきたり(笑)。 林:いいお母さまじゃないですか。大谷さんはおもしろい経歴で、まず韓国でブレークしたんですよね。 大谷:というか、スタートがほぼ向こうなんです。 林:韓国語はできたんですか、そのころ。 大谷:いや、まったくできなかったですね。日本でちょっとモデルみたいなのを始めて、すぐ向こうの仕事が決まったんです。 林:CMですね。 大谷:これも運がよくて、一発目のCMがすごく大きなCMだったんですよ。ダンキンドーナツなんですけど、最初はイ・ビョンホンさんがされていたのですが、次のキャラクターは韓国では知られていない人にしようということになって、アジアに広げてオーディションをやって、それでたまたま僕に決まったんですよね。その一本でみんなに知ってもらえて、呼ばれて韓国に行ったんです。 林:そのあと韓国の映画とかドラマにも出たんですね。 大谷:いろいろやらせてもらいましたね。 林:私は大谷さんが出演された韓流ドラマを見てないんですけど、そこから日本でもジワジワと火がついたという感じなんですか。 大谷:いや、たまたま釜山国際映画祭という大きな映画祭があって、僕もそこに行ってたときに、ソウルの事務所の人と、日本の今の事務所(アミューズ)の人が出会ったんです。いろいろ話してるうちに、「うちの事務所に日本人がいるんだよ」という話になって、福山(雅治)さんが主演されていたドラマ(「ラヴソング」16年)に途中から出演させていただいたんです。それが日本での1本目のドラマだったんです。 林:そうなんですか。聞いた話ですけど、韓国でのギャラ、間違って1ケタ少なく渡されてたんですって? 大谷:いや、間違ってたんじゃなくて、だまされたんです(笑)。最初のCMがよかったので、以降もけっこうCMが決まったんです。ちょっと複雑なんですけど、日本人モデルとして行ってるので、「日本でのCMのギャラぐらいの額を言っておけば納得するだろう」っていうことだったらしくて、でも、実際はその10倍ぐらいのギャラだったんです。 林:まあ! 大谷:芸能人枠のギャラをもらってるのに、日本の事務所には「日本での新人モデルのギャラ」みたいなことを言ってたんです。わりとほかの仕事もしていたのに、韓国の事務所に「ぜんぜんマイナスだよ」って言われて、おかしいなと思っていたんです。家賃とか語学学校のお金と家庭教師のレッスン代とかを事務所に出してもらってたんですけど、それにしてもマイナスはおかしいんじゃないかと思っていろいろ調べたら、ゼロが1個違ってたんです。 林:ピンハネしてたということですか。 大谷:はい、ソウルの事務所が。 林:ひどいじゃないですか。 大谷:ちょっとありえないことをするんですよね。クライアントとの契約書に偽造したハンコを押して見せたりとか。 林:まあ……。それでイヤな気分になって、日本に帰りたいなと思ったんですか。 大谷:いや、そうはならなかったですね。日本に帰ってきて何があるのかということもあったし、仕事があるからソウルにいたということでもないので、まあ楽しかったんでしょうね、あそこでの生活が。 林:合ってたんですね、性格に。 大谷:いえ、合っていなかったです(笑)。日本みたいにきっちりしてないんです、いろんなところで。僕はけっこうきっちりしてほしい人間なんですけど、いろんなところが適当だったので、イライラの毎日でしたね。 林:ニューヨークに行っちゃおうとか、そういうことは思わなかったんですか。 大谷:仕事がないわけでもないですし……。でも、いま思いますね。どこか行っておけばよかったなって。今ちょっと英語を勉強しようかなと思ってるんですけどね。 林:ところでつまらない話ですけど、韓国の現場と日本の現場、お弁当はどっちがいいですか(笑)。 大谷:韓国かなあ(笑)。まず、お弁当文化じゃないので。 林:韓国は冷たいごはんを食べさせられると屈辱なんですってね。 大谷:はい。ごはんを食べることに対する執着心が、日本より強いです。あいさつの一つとして「ごはん食べた?」というのがあるんです。 林:「まだ食べてない」と言ったら、おごってあげる文化なんですか。 大谷:食べたか食べてないかを聞きたいんじゃなくて、「ごはん食べた?」というのがあいさつなんです。あったかいものをちゃんと食べることにすごくこだわりますね。 林:お弁当じゃなくて、ケータリングなんですね。あったかいものがいっぱい並んで、おいしそう。 大谷:冬の撮影はとにかく寒いんです。気温がマイナスの中でのハードスケジュールなので、あったかいものがないとやっていけないというか。 林 二つの国の文化の違いを知ってる人、大谷さんぐらいですよね。 大谷:どっちもよさがあって、ソウルにいるときは日本がすごくよく見えるんですけど、戻ってくると向こうのよかった点も見えてきますね。 林:日本に帰ってきて、すぐ日本語のセリフが頭に入ってきました? 今までハングルだったのに。 大谷:帰ってしばらくは、日本語でのセリフをどう言っていいかわからなかったです。日常の会話はぜんぜん大丈夫なんですけど、セリフっぽく言うのはどうなのかな、と思いながらやってました。今も場数を踏んでいる段階で、少しずつ合わせていっているという感じです。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年11月29日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2019/11/23 11:30
【現代の肖像】森岡書店店主・森岡督行 一冊の本だけを売る産業革命<AERA連載>
【現代の肖像】森岡書店店主・森岡督行 一冊の本だけを売る産業革命<AERA連載>
「本屋衰退といわれる中で、僕はむしろ、本と本屋が求められていると強く感じている」/山形県郷土館「文翔館」で(撮影/キッチンミノル) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  東京・銀座にたたずむ、たった5坪の書店。ここでは、1週間に一冊だけの本と、本にまつわる作品が売られる。    店主の森岡督行が厳選した本を求め、書店には多くの客が訪れる。その確かな目利きにより、文化の発信地ともなってきた。    開店した当初は客も来ず、資金も尽きた。それでも食らいついたから今がある。森岡は確かに、一つの時代を作っている。  店の前面ウィンドーには、小さなロゴがこう刻まれている。 「A SINGLE ROOM WITH A SINGLE BOOK」(一室に一冊)――。 「1週間に一冊の本だけを売る」をコンセプトに、森岡督行(もりおか・よしゆき)(44)が東京・銀座に森岡書店銀座店を開いたのは4年前のことだった。いまや日本中の良質なモノやコト、ヒトが、この90年前に建てられた古ビルのわずか5坪の一室に集まりだしている。そこに詰まっているのは、人を惹きつけてやまない圧倒的なリアリティーだ。    4月16日、この日、森岡書店では、新たな「一冊の本」が展示され、販売され始めていた。    ワタナベマキ著『旬菜ごよみ365日』。料理家ワタナベマキの毎日の食の記録をまとめた料理本だ。1日ごとに美しい料理写真と簡潔な文が添えられた労作である。    休店日の月曜日を除いた火曜日から日曜日まで売られたこの本は、仕入れた100冊を会期の終わりを待たず完売した。だが、森岡書店の特徴は、本自体の売れ行きもさることながら、一冊の本から派生するモノとコトが同時に展開されていく点にある。そして、多くの場合、会期中、著者自らも店内に立つから、読者と直接対面することになる。 『旬菜ごよみ365日』では、ワタナベがつくった4種類の保存食「醤(ジャン)」が販売され、また、最終日には「三六五」と銘打たれた手づくり弁当が15個限定で並んだ。インスタグラムのフォロワーが5万人近いワタナベだけに、「醤」は2日で売り切れ追加搬入、弁当は予約の段階で完売した。 森岡書店銀座店。外での仕事の増加にともない、スタッフを2人加えた。「食関係と工芸関係は本との組み合わせが抜群。喜ぶ人は多い」(撮影/キッチンミノル) ■開店してから2カ月で用意した運転資金尽きる  版元の担当編集者、誠文堂新光社の至田玲子が振り返る。 「日頃からかかわりのある方、ファンの方など、いろんな人が彼女をめがけて会いに来た。通常の料理本では、書店で料理教室をやったりすることもあるんですが、森岡書店では料理写真を壁に展示したり、保存食やエプロンを売ったり、直接ワタナベさんと話せたりと、まったく違う角度でお披露目できました。力を入れてつくった本がいい形で広がったことが嬉しかった」  土曜日には、森岡とワタナベの対談も行われ、店内は人で埋め尽くされた。一冊の本を売るだけではなく、本をさらに深掘りし、立体化していくのが森岡書店のひとつのスタイルだ。    森岡が、「一冊の本だけを売ること」を思いついたのは、銀座に移転する前、茅場町の森岡書店時代だ。    大学を卒業した森岡は、神保町の老舗古書店「一誠堂」に入社。「独立はまったく考えていなかった」が、8年間勤務ののち、退社を決める。茅場町にある1927年築の古い建物と出合ったことが独立心に火をつけた。たまたま古美術商が立ち退く時期で、空きが出たのだ。森岡が振り返る。 「この場所で古本屋をやってみたいという衝動が急にこみ上げてきたんです。こんないい物件と出合うチャンスはもうないだろう、と。東京の近代建築が好きで見てきたんだけど、自分が借りられそうな金額で、これだけの空間はないなと思った」  森岡は、さっそく写真集の買い付けのためプラハとパリへと向かい、写真集やデザイン関係の本など数百冊を持ち帰った。  こうして、2006年6月1日、茅場町に森岡書店がオープンした。  しかし、すぐに壁にぶつかる。思うように本は売れず、開店からわずか2カ月で、用意した運転資金が尽きてしまったのだ。 「一円でも出費をなくそうと思って、携帯電話の契約もやめて切り詰めた。どうせいつか巨大地震が来るのなら、いまこのタイミングで来て、街ごと潰れてほしいなんて不届きなことも考えた。それぐらい追い詰められていた。現金が尽きたことよりも、お客さんが来ず、先の見通しがまったく立たないということが大きな問題でした」  そんなとき、森岡は、ギャラリーをしてみては、というアドバイスを知人から授かる。森岡は店内にギャラリースペースを設け、オープンからおよそ半年後、平野太呂の写真集『POOL』のオリジナルプリントを展示し、販売してみた。写真集は売れ、書店を訪れる人が一気に増えた。 「その後、堀江敏幸さんの写真展や、出版記念イベントをやったりするうちに、このやり方だったら、求めている人も多いし、やっていけるのではないかとようやく見通しがついたんです」  現在の森岡書店のスタイルはこのとき、ほぼ固まった。 一日に何人もの人と丁寧に打ち合わせを重ねる。「仕事をいただき、どこかへ出かけ、打ち合わせをするのは、狩猟感覚に近いと思う」(撮影/キッチンミノル) ■本屋の概念を変えた「一冊だけの産業革命」  茅場町のビルもそうだが、森岡が強く惹かれる事象のひとつに、昭和初期の古い建築がある。暇をみつけては東京の古建築を訪ね歩き、戦前の景色に思いを馳せた。一方、森岡の中では、「2次元である本の中身を、3次元の空間に出すことを専門的に行う書店」をつくりたいという新たな思いもふつふつと湧き上がり始めていた。そんな中、一軒の古ビルと出合う。  1929年に建てられた銀座1丁目の鈴木ビルである。かつて写真家の名取洋之助が主宰する「日本工房」が入居していたビルだった。写真家の土門拳やデザイナーの亀倉雄策らが参加し、日本の文化や近代化を伝える「NIPPON」などの雑誌を制作していた。新生森岡書店を開くには、これ以上うってつけの地はなかった。  銀座に森岡書店を開くにあたって、森岡は当初、クラウドファンディングで開店資金を募ろうかと考えていた。そんなとき、デザイン・イノベーション・ファーム「Takram」のディレクター渡邉康太郎(34)とスープストックトーキョーなどを運営する「スマイルズ」の代表・遠山正道(57)と巡り会う。「一冊だけの本屋」に共感したふたりは、出資を決めた。渡邉が言う。 「森岡書店はアマゾン一強時代に何か一石を投じる社会実験にもなっている。リアルな売り場を持たないロングテール型のネットビジネスであるアマゾンに対して、在庫を一点に絞り、リアルな場所を持ってしまう。一見効率が悪く見えるものがかえって人の引力になる。場の強さ、人が集まるコミュニティーの強さの証明なのかもしれない。応援してみたい、伴走したいと思えるものがそこにはあった」  遠山は森岡書店を「一冊だけの産業革命」と評している。 「産業というか、ビジネスの仕組みをちょっと変えた。旧態依然だった本屋の概念を変えた。一冊だけど、毎週オープニングをやり、毎週一線級の主役が代わっていく。文化の人が経済を変えたというところが面白かった」  ふたりのサポーターに後押しされた森岡は、15年5月5日、森岡書店銀座店をオープンした。最初の一冊に、刺繍アーティストである沖潤子の初の作品集『PUNK』を選んだ。 埼玉・浦和の作家宅で写真のセレクト。1960年代の銀座を活写した写真集を近々刊行予定。版元として本づくりの仕事も増え始めている(撮影/キッチンミノル) 「沖さんの作品が好きで、茅場町時代にもやったことがあった。もちろん最初だったので、この著者なら売り上げが間違いなく立つという人でやりたかったんです。本も売れましたし、壁に展示した作品も売れました」  作品の価格は20万円前後のものが中心だったが、求める人は少なくなかった。作者は毎日店頭に立ち、トークイベントも数回行われた。この初っ端の企画は、その後、思わぬ広がりを見せていく。来店した「ギャラリー小柳」の小柳敦子がスイスで開かれた「アート・バーゼル」に沖の本と作品を出品、さらにそれがベルギーでの展覧会へとつながっていったのだ。5坪の本屋はスタートと同時に世界に向けて発信を始めたわけである。 ■物腰が柔らかくて丁寧、こだわりは半端じゃない  第2回の一冊は、湯沢薫の写真集『幻夢』。写真の展示、トークショー、湯沢のギター演奏などが行われ、本も売れた。『アラマメ』と題された写真家・荒木経惟とファッションブランド「マメ(mame)」のデザイナー黒河内真衣子がコラボレーションした作品集では、オープニング時に人が殺到して通りにあふれ、近所からの苦情で警察が来る騒ぎとなった。絵本作家、高橋和枝の『月夜とめがね』(原作・小川未明)は、会期を2日残して本が売り切れた。土日だったため、版元からも取り寄せることができず、森岡自らが丸善や教文館など近くの書店を回ってかき集め補充した。そののちも本によっては、1週間で200~300冊売れることもあった。茅場町時代とは違って出だしから実に順調だった。  オープンしたばかりの森岡書店を訪れたのは日本人ばかりではなかった。ある日、上海に住む中国人がやってきて、SNSで森岡書店についてアップすると、中国で大反響を呼んだ。これまでにない仕組みについて、スティーブ・ジョブズが引き合いに出されたことがまた新味を求める中国人の心に刺さったのだ。以来、今日まで、森岡書店に中国人がやって来ない日はないというまでになる。 書店、母校、地方の文化施設などでの講演、対談、トークショーは引きも切らず。この日は山形の東北芸術工科大学で登壇。高校まで過ごした山形・寒河江の原風景について触れた(撮影/キッチンミノル)  森岡は、ついこの6月にも、深センの書店から招聘され、記者会見と講演会を開いてきた。丸一日、若者たちからの質疑に応じた。 「本屋がすごくアナログのことをやっているのに、イノベーションにつながっていると中国のメディアで書かれていたこともあって、起業したいとか、新しいアイデアで何かを起こしたいという熱い人たちがたくさん来た。独り勝ちしているアマゾンの対抗手段みたいにとらえている人も多かった」  現在、森岡書店の展示企画は、半年以上先まで埋まっている。では、森岡自身は本の選択基準をどこに置いているのだろうか。 「いま、ここには、現状の日本社会で良いもの、豊かなものが集まってきやすい。その本を販売することによって、その分野がもっと伸びていく、そんなイメージを持っています。世の中や社会に矛盾があると認識しつつも、僕は世の中のいいところ、豊かなほうを見ていきたい。基本的にポジティブなテーマを選んでいきたいと思っています」  森岡は、もともと環境問題に関心があり、大量生産大量消費を前提とした経済活動に対して否定的だった。就職に際して、古書店を選んだのもそんな理由からだった。しかし、40代半ばを迎えたいま、森岡が選択するのは、写真やデザインであり、料理や生活工芸である。もちろん、イスラム国に故郷を奪われた民族を追った写真集『ヤズディの祈り』(林典子著)のようなメッセージ性の強い作品にもときに触手をのばす。だが、「社会と直接対決するというよりも、小規模でいいから自分のやりたいことを見つけて取り組む」というスタンスは崩さない。 「Takram」の渡邉の森岡評はこうだ。 「一見物腰が柔らかくて、丁寧な人なんですが、こだわりの突き詰め方が半端じゃなくて、コンセプトにしても、一緒につくったロゴの選び方も、一度これと決めたら絶対に動かない人。何時間かけて打ち合わせしても、話が変わっていないこととかがよくある。独特の美意識の人です」 6時40分に起きて妻、中2と小3の子どもと朝食をとる。「家で私は洗濯担当。衣類をたたみながら、いってらっしゃい、と見送る。家での夕飯は月に何回か。打ち合わせを兼ねた飲み会が多いです」(撮影/キッチンミノル) ■一冊の本を売るだけでなく、大企業からもアプローチが  森岡が強く惹かれる対象のひとつに昭和の戦前戦中史がある。昭和19年に山形から上京し、東京航空計器の工場や逓信省で働いていた祖母の影響が大きい。幼いころから繰り返し戦中の東京の様子を聞かされイメージしていたのだ。  森岡らしいエピソードがある。太平洋戦争開戦時の臨場感を味わいたいと考えた23歳の森岡は、飛び込んでくる現代の情報を遮断して、当時の新聞の中に没入し追体験してみることにした。1941年12月1日から2週間分の朝日新聞の朝夕刊をコピーし、56年後の同日の朝夕に開き熟読するのである。昭和初期に建てられたアパートに住んでいたのでタイムスリップもしやすかった。それを2週間にわたって徹底的に行った。 「実際にやってみたら、本当に昭和16年12月の空間に行ったような気がした。新聞の一面は連日、軍事関係の記事ばかりなんですが、それでも、ラグビーの早明戦の記事はあったりして。その時代に生きている感じになったんです」  こののちも、太平洋戦争はなぜ起きたのかといったテーマを森岡は追い続ける。そんな中、戦中に刊行されていた日本の対外宣伝誌のひとつ「FRONT」を知り、衝撃を受ける。写真もデザインもいまと変わらぬ質の高い雑誌だったのだ。そしてそれは、やがて『BOOKS ON JAPAN 1931-1972 日本の対外宣伝グラフ誌』を自らの手で出版するというところまでつながっていく。  森岡の著書『本と店主』の装画を担当し、同時に森岡書店で初めての個展を開いた平松麻(37)は、森岡をこう評す。 「人が見落としがちな隙間、落とし物に敏感な人。しかもそれを見つけようとしているのではなく、見える人のような気がする。本質を見抜こうという目とは少し違って、人が落としていったものに何かあるんじゃないかと見ている人だと思います」  森岡のもとには、様々なテーマが外部から舞い込んでくる。もはや一冊の本を売るだけにとどまらず、その役割は広がり続けている。岡山の「キャピタル」や京都の「和久傳(わくでん)」などのライブラリーでのセレクトも任されてきた。  わずか5坪の小さな書店の主は、いまや、大企業からもいろいろな形でアプローチを受けている。求められているのは、キュレーション能力であり、プロデュース力だ。 「スマイルズ」の遠山はこう見ている。 「いい意味でミーハーのようなところもあるんですよ。自分のアカデミズムの領域だけでなく、割とプロデューサー的な気質があると思う。だから、ああやって、毎週いろんな分野の人と接点を持ちながらやっている。時代を自分なりにつくっていこうという意欲がある人です。単に椅子に座っている文化人じゃなくて」  開店から4年。遠山の言葉を借りれば「想像の20倍以上」で世の中にくさびを打ち込み続けてきた森岡書店。それは、ひとえに、森岡の食らいついたらとことんやり抜く真摯で誠実な姿勢が引きだしたものともいえる。 「“ひとりブラック企業”をやっていることになると思うんですけど、たとえ休みがなくても、自分の趣味とかけ離れたことをやっているわけではないので、つらくはない。むしろいまは仕事と人生が結びついたときの充実感を感じています」  森岡の意欲は陰りを見せない。 「茅場町時代にだいぶ苦戦した経験があるので、自分ができる中で最大限の精度を出すところに喜びを見いだしつつ、いただいたお仕事はなるべく形にしたいなと思っているんです」 (文中敬称略) ■森岡督行(もりおか・よしゆき) 1974年/山形県寒河江市生まれ。寒河江川で魚を突いたり、泳いだりして少年時代を過ごす。両親が共働きだったため、祖父母と過ごす時間が多かった。 87年/中学1年のときに近くに松田書店がオープン。その後、「ブルータス」や「メンズノンノ」、「ホットドッグ・プレス」などをここで買うようになる。中2のときに小学校の頃から集めていた切手を売り、興味を持ち始めていた古着を買い始める。 93年/寒河江高校の進路指導で古着屋をやりたいといって止められる。法政大学法学部政治学科に入学。在学中には、東京宝塚劇場、中野サンプラザ、三省堂書店などでアルバイトをしていた。 98年/創業110年を超える「一誠堂」に入社。文科系の学術書専門古書店。落丁調べに始まり、客との応対の中で古書の知識を積み重ねていく。この頃住んでいたのは、中野にあった「中野ハウス」。家賃3万円。昭和初期の風情ある建物で、2畳半ほどの石炭置き場があり、その上で寝起きしていた。 2006年/「一誠堂」を退社し、茅場町に森岡書店を開店。チェコとフランスに本の買い付けに出る。写真集、デザイン、美術、建築が中心の古書店。   12年/『BOOKS ON JAPAN 1931-1972 日本の対外宣伝グラフ誌』(ビー・エヌ・エヌ新社)刊行。   14年/『荒野の古本屋』(晶文社)刊行。   15年/銀座1丁目の鈴木ビル1階に森岡書店銀座店を開く。『本と店主』(誠文堂新光社)刊行。   16年/森岡書店のブランディング、グラフィックデザインなどがドイツやイギリスなどの国際賞を受賞。   19年/中国・深センの本屋で講演会。記者会見には、20社以上のメディアがかけつけた。 ■一志治夫 ノンフィクション作家。『狂気の左サイドバック』で第1回小学館ノンフィクション大賞受賞。最新刊に秋田の蔵元集団「NEXT5」を取材した『美酒復権』(プレジデント社)がある。 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/11/21 13:00
アサヒカメラを名乗る「偽カメラマン」は逮捕! アンケート事例を検証、スナップ撮影「トラブル」解決術
作田裕史 作田裕史
アサヒカメラを名乗る「偽カメラマン」は逮捕! アンケート事例を検証、スナップ撮影「トラブル」解決術
カメラを向けられることに抵抗感がある人が多いのは事実。顔をそむけたり、手をかざす人などを撮ることは控えたほうがいい(写真/PIXTA) 警察を呼ばれても決してあわてないこと。必要ならデータを見せて、やましい撮影はしていないことを堂々と主張すべきだ(写真/PIXTA) 三平聡史(みひら・さとし)みずほ中央法律事務所代表弁護士。過去、本誌の「著作権と撮影マナー」に関する記事でも監修を担当。同事務所のホームページでも撮影と法律に関するコラムを執筆している 「警察を呼ぶ」「データを消せ」。カメラを手にして歩いているだけで不審者扱いもされかねない時代。路上スナップ撮影を怖いと思っている人は少なくありません。  もしも実際にトラブルに直面したら? 回避策は?『アサヒカメラ11月号』では、「スナップは怖くない」と銘打ち、“いまさら聞けない”スナップ撮影の基本から、8人の写真家が明かす設定や心構えまでを72ページに渡り大特集。そのなかから、「路上撮影トラブルの実践的対応術」をお届けします。 *  *  *  スナップが撮りにくい時代になったと言われる。カメラを構えただけで不審者扱いされ、警察に通報されるケースもある。だが、正確な知識を持ち、しかるべきマナーを守っていれば、スナップは決して怖くない。もしトラブルになっても正しく対処すれば、まず大事にはならない。アンケートに寄せられた事例などを基に、弁護士に現場での実践的対応術を聞いた。 ■現場トラブル01【実在しない「アサヒカメラのカメラマン」からの依頼】 「ご存じないかもしれませんが、アサヒカメラという雑誌でカメラマンをしています。撮影をさせてくれませんか」  街中で女性にこんな言葉をかけて撮影を依頼している男性がいる、という情報が編集部に寄せられたのは今年6月のこと。男性は60~70代で、デパートの地下や駅構内などで女性に声をかけ、断ってもついてくるという。時には深夜1時過ぎに住宅街で声かけをされたこともあったようだ。恐怖を感じた女性は編集部の代表メールに通報し、事態が明らかになった。  女性が渡されたという電話番号をネット検索すると、類似した多くの事例があることが判明。架空の特集企画をでっち上げたり、声をかけた女性の体を触ったりしていたことが明らかになった。  編集部から当該の番号に電話をかけたが、「アサヒカメラですが●●さんですか」と聞いたとたんに「人違いです」とガチャ切り。最近では前編集長と同名の「ササキ」と名乗っているという。  犯罪にもつながりかねない悪質なケースと判断し、10月初旬にツイッターなどの公式アカウントで注意喚起した。現在、男性は警察に逮捕され、編集部も捜査に協力している。  この「犯罪行為」は極端な例だが、街中などスナップ撮影の現場ではトラブルが後を絶たない。昨今の肖像権やプライバシー権の意識の高まりとともに、「撮るほう」と「撮られるほう」の双方が神経をとがらせており、その意識がすれ違うと衝突が起こってしまう。  だが意識が過敏になるあまり、一部では撮影者は必要以上に萎縮し、周囲は過剰な配慮を求めるという事態にもなっている。両者の「ずれ」を埋めるためには、まずはスナップの現場でどのような行為が「不快」とされており、それに対してどのような対応が求められているのかを知る必要がある。  そこで、本誌は公式ツイッターやフェイスブックなどでアンケートを実施。スナップ撮影の現場で「不快に思うこと」や「トラブルの体験、目撃談」、そして「撮影で気をつけるべきこと」を聞いた。具体的な事例をもとに、写真に関する法律に詳しいみずほ中央法律事務所の三平聡史弁護士の解説を交えながら、スナップ撮影における「適切なマナー」とは何かを探っていきたい。 ■現場トラブル02【相手から「警察を呼ぶぞ」と言われたときの正しい対処法】 「不快」「トラブル」ともに寄せられた回答で最も多かったのは、カメラを構えていると「撮るな」というクレームを受けたというもの。話がこじれると、警察ざたに発展することもある。  3年ほど前、千葉県に住む会社員の男性(58)は、東京・渋谷のストリートでスナップ撮影をしようとカメラを持って街を歩いていた。スペイン坂の入り口あたりでシャッターチャンスを待っていたところ、ふいに警察官から声をかけられたという。 「通りかかったおばあさんから『カメラを持ってウロウロしている人がいる』って交番に通報があってね」  いきなりの出来事に驚いた男性は、カメラを持っているだけでまだ誰も撮影していないことを丁寧に説明。逆に、事情を聞きにきた警察官からは「私たちも仕事だから。いろんな人がいるから気をつけてね」と同情されたという。  男性は言う。 「私は何十年もスナップを撮ってきましたが、カメラを持っているだけで通報されたのは初めてです。普段は怪しまれないように小ぎれいな格好を心がけ、街中で通りすがりの人を撮るときには必ずアイコンタクトをして同意を得るようにしています。顔を隠す人や逃げる人は絶対に撮りません。それでも、最近は被写体でない周りの人が文句を言うようになっているので、スナップが撮りづらい時代になったなと感じています」  この男性だけでなく、「警察を呼ばれた(呼ぶと言われた)」というケースは少なくないようで、アンケートの回答でも散見された。 ●盗撮行為と混同され、警察に任意の事情聴取を求められた。(40代男性/会社員) ●警察を呼びに行くと脅かされた。(70代男性/自営業) ●街中で撮影していたらカメラの写る範囲に入っていない男性サラリーマンに絡まれた。「街中で撮影するなんて非常識だ」「警察に行くぞ」と言われた。さらに、「お前は日本人じゃなくて、外国のスパイだろ?」とヘイトぎみの発言まで飛び出して、気分が悪かった。(40代男性/デザイン系)  日常生活を送っていて警察を呼ばれることはまずないだろうから、「警察を呼ぶぞ」と言われるとそれだけで萎縮してしまう人もいるだろう。だが違法な撮影をしていないのなら、むしろ警察官を前に「身の潔白」を証明したほうが有効だと三平弁護士は語る。 「わいせつ目的など撮影が犯罪行為でなければ、警察には民事不介入の原則があるので、基本的には何もできません。むしろ警察官に撮影データを見せて『街の風景しか撮っていませんよね。犯罪にあたるものがありますか』と聞いてみるといいでしょう。あくまで低姿勢で(笑)。当事者同士で相手がヒートアップして暴力ざたになったということも聞きます。『こちらから警察を呼ぶ』くらいの姿勢でもいいでしょう」 ■現場トラブル03【「データを削除しろ」という要求に応じる必要はない】  実際、アンケートの回答でも撮影者側が「警察官を呼んだ」ことで解決したという事例があった。違法行為がないことを警察官の面前で「立証」できることは、時に撮影者のメリットになるようだ。 ●撮影対象者以外の第三者から盗撮だと訴えられ、こちらから警察に連絡して疑いを晴らした。(70代男性/無職) ●特定の人間を撮影していたわけでもないのに削除ではなくSDカードにハサミを入れろとすごまれた。警察官を呼んで説得してもらった。相手が頑張っているので、不本意ではあったがこちらも警察官の説得に応じ、その日撮った150枚ほどを全削除した。(70代男性/無職)  撮影を不快に感じる相手から何を要求されるかはわからない。文句を言うだけでは飽き足らず、二つ目の事例のように相手から「データを消せ」と求められたという回答も複数あった。 ●同じカメラを愛用されている方から聞きましたが、街中で特定の人物を撮影していないのに、データの削除を求められたとのこと。データを見せて、特定の人物を撮影していない旨を伝えて、事なきを得たとのことでした。(50代男性/職業不詳) ●夜の渋谷で若い女の子を無断で撮った知人が、その女の子からデータの削除を求められた。(50代男性/会社員)  だが結論から言えば、このデータ削除要求に応じる必要はない。三平弁護士によれば「そこまでするのは相手の過剰な要求だ」という。 「相手が(民事的な)違法行為を主張してきたのなら、立証責任は相手側にあります。原理的に考えれば、写真データを見せる必要もありません。提訴などの手続きを踏んで立証してもらえればいいだけです。  ましてや、SDカードを破壊しろなどという要求は毅然と拒否すべきです。また、回答にあったように『警察官の説得に応じて』データを消去する必要もありません。先に述べたように民事不介入の原則がある警察官が、民事的なトラブルについて当事者に何かを命じることはできません。正当な撮影活動をしている限り、警察官に何を言われようとデータ消去に応じる義務はないのです」  とはいえ、建前論で対応しても相手は納得しないだろう。こちらから譲歩して、写真データを見せるくらい歩み寄る姿勢で穏便に解決するのが賢い対応だという。ただ、その際に1点だけ気をつけておくべきことがある、と三平弁護士は指摘する。 「たとえわが子であってもポルノが疑われる子どもの裸写真や、下着系やヌードのポートレート写真が入っていると冤罪リスクが高まります。こうした写真がデータにあると、今度は撮影者側にわいせつな意図ではないことの『立証責任』が課せられます。そうした事態にならないように、スナップ撮影の前には写真の整理をしておくとよいでしょう」 ■現場トラブル04【「盗撮だ」「肖像権侵害だ」と言われたら…】  これまで紹介してきた回答にもあるが、街中で撮影をしていると「盗撮をされた」とあらぬ疑いをかけられる人は多い。さらに、権利意識が高い人の場合は「肖像権の侵害だ」というクレームにも発展しているようなので、撮る側もきちんとした知識を持っておく必要がある。 ●広角レンズで、風景を入れて撮影していたのですが、たまたまその中に2人の人物がいて、「盗撮だ」「肖像権侵害だ」と言って騒がれました。盗撮でも、肖像権侵害でもないと言って説明しましたが、結局は相手方から「撮影者の人格の問題だ」と言われて一蹴されてしまいました。(60代男性/写真家) ●まだSNSもなかった頃、表参道で通りの風景を撮影していたら、某オープンカフェにいた外国人に「肖像権を侵害しているから撮影するな」とすごいけんまくで怒鳴られた。外国人の肖像権の意識は高いなと思った。(40代男性/職業不詳)  まず、盗撮に関しては誤解されていることも多いが「被写体に黙って撮る」こと自体が犯罪行為にあたるわけではない。わいせつ目的で盗撮をすれば「迷惑防止条例違反」という犯罪行為にあたることがあるので用語の使い方が混同されてしまっているが、これはまったく別の行為だ。  三平弁護士によると、同じ「盗撮」でも法的に問題がないものから、民事責任、刑事責任が問われるものまで段階的に区別することができるという。「(1)被写体の承諾がある(盗撮ではない)」場合はもちろん、「(2)被写体の承諾はない(日常用語としての盗撮と解釈されることもある)が、肖像権侵害、迷惑防止条例違反ではない」場合にも何の責任も問われない。 「(2)は特定の人物をアップにしていない風景の一環として写しているものなら、問題ありません。もちろんわいせつ目的でなく、服で隠されている下着や胸、陰部などが写っていないことが前提です」(三平弁護士)    次に、民事責任が発生するのが「(3)被写体の承諾がなく、肖像権を侵害している」場合。望遠レンズなどで無断で撮影したうえ、明らかにその人の顔を狙ったことがわかるような写真の場合、相手から画像の削除を要求されたり、経済的な損失が出た場合は賠償を要求される可能性もある。  また、女性のスカートの中を無断で撮影したり、着替えの場面を隠し撮りすれば、「(4)被写体の承諾はなく、刑罰のある法律や条例に違反する」ので、刑事責任が問われる。(4)は論外だが、(2)と(3)には撮られた側の主観も大きく作用してくる。 「だからこそ、撮影データを見せて相手に確認をしてもらう。それでも納得しなければ警察官に立ち会ってもらって、風景の一部として人を撮っていたのだから肖像権の侵害にはあたらないことを説明することが大事です。  警察官には、ご自身のスナップへの熱意や意義(文化的な活動であること、国家が介入してはならないということ)を語るくらいでもいいかもしれません。相手の許可を得ていないからといって、それが違法な盗撮や肖像権の侵害になるわけではないことは覚えておきましょう」(三平弁護士)  部外者から絡まれる、警察を呼ばれる、データを消せと脅される……これまでみてきたように街中でのスナップ撮影は多くの「リスク」と隣り合わせだ。  だが、悪意を持った撮影でない限り、法律的にも写真を撮る権利は認められており、必要以上に怖がる必要はない。もちろん、撮る側も被写体への配慮や謙虚な心がけを忘れてはならないが、それでもトラブルをゼロにするのは難しいだろう。三平弁護士はこう語る。 「肖像権も街中で書面を交わすわけではないので、アイコンタクトをしても後で何か言われる可能性は残ります。そのリスクを軽減するために事前に許諾を取るのも一つの方法だし、リアルな姿を撮るために許諾は取らずに多少のリスクは覚悟するという人もいるでしょう。結局、どんな写真表現をしたいかという個々人のポリシーの問題になってくると思います」  過剰にクレームを恐れることはない。主張すべきことは主張し、臆することなくスナップを撮ってほしい。 取材・文=作田裕史(編集部) ※『アサヒカメラ』2019年11月号より抜粋
アサヒカメラスナップ
dot. 2019/11/21 08:00
「花はケチらんといて」 ホスピス院長が語る“看取りの現場”
「花はケチらんといて」 ホスピス院長が語る“看取りの現場”
診療所を訪れた詩人が壁に心に残る言葉を記している (野の花診療所提供) 季節感を大切にする野の花診療所。秋には石蕗(つわぶき)が一隅を彩る (野の花診療所提供)  山陰・鳥取の一角に野の花診療所はある。開かれてもうすぐ19年目。19床のホスピスケアの拠点は、それぞれの患者なりの過ごし方をともに探る。徳永進院長がのっぴきならぬ患者に寄り添う日々を綴った。 *  *  *  もう3カ月になる。一緒に見た人の多くは世を去った──  鳥取市では8月15日のお盆の日、千代川河口近くで打ち上げ花火大会が開かれる。今年は台風10号がやってきて、18日の日曜日に延期になった。  18日の夜8時前、診療所の屋上にはベッドで寝たままの患者さん、車椅子に乗って上がってきた患者さん、家族に手を取ってもらい杖をつきながらやってくる患者さんたちが、それぞれに集まってきた。 「ドーン、シュルルー、ドンドン、パッパッパー」  夜空が明るく花開いた。診療所の屋上は障害物がなく正面の花火と向き合える。一瞬の華やかさ、そして儚(はかな)さを皆が感じ合う。そして屋上での1時間が過ぎると、皆、元の部屋へと帰っていく。  がんの末期のヨシ子ばあさんは、家族も見えず、ひとり病室で花火の端と音に向き合い、つぶやいた。 「わしはここでええ。障子開けたら、花火の端、きれいに見える」  さて今回は皆さんと、とっつきにくい死の中に一歩踏み入り、死の別の一端を一緒に考えてみたい。 ■右手に句、左手にスピリッツ  いろいろな部門で近代化が進んで、 「最後、人間に残ってるものって、性と死じゃない」  と言った詩人がいた。一瞬、自分の錆びた思考回路の点検を要したが、詩人は見抜く!と次の瞬間に思った。  その死だ。死ぬって、なかなか大変なことだと思う。 「痛いのはイヤだけど、死んだことないので、ぼく死ぬって楽しみ」  と詩人は言った。また一瞬、錆(さ)びた思考回路に油を噴霧してみた。ここまで言える詩人はやはり異星人か、普通の姿してるけど。死はやはり大変。でも人はそれをやり遂げる。その死に敬礼! その命に敬礼!  その死を看取るって、これもまた大変。死を看取る看護師に医師に介護士に救急救命士に、そして家族、大変だと思う。ふっとなぜだか、この句が浮かぶ。「水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を 置きて去る」(金子兜太・2018没)。  1946年トラック島で多くの戦友を失い、島を離れる船上で作った句。戦場での死、痛ましい、傷ましい。人類が始まってから存在する死の形で、今も消えることのない死の形。 「ホスピスでの死」は、デパートの高級婦人服売り場の服や美しい宝石のように思われているのが気になる。死はきれいごとでは済まされにくい。  確かに、死の医療の現場で働いている人たちは、患者さんや家族が辛くないよう、困らないよう、何か力になってあげたい、と思っている。患者さんの緊張した顔にほっとする表情が浮かぶようにしてあげたい、と思っている。それはほんとう。  でも、その志が良い香りだけで、甘く美しいものだけで構成されると思われると困る。それだけでは仕事の持続は難しい。死は当然、顔や身体の変形、欠損、変色、異臭を伴うものであることも知っておきたい。  兜太の句、句の根っこにそのことが押さえられている。右手に兜太の句を、左手に末期の患者さんの顔に笑顔が戻ることを願うホスピス・スピリッツを、持っていたい。 ■「◎」・「○」・「△」・「×」  患者さんが亡くなられてしばらくして、診療所のスタッフが、その患者さんや家族とのやりとりを振り返るために「デスカンファランス」を開く。痛みはどうコントロールされたか、胸水・腹水にはどう対応したか、発熱の対応はあれでよかったか。最後のところで生じるせん妄への対応、苦しみが楽になるためのセデーション(鎮静)の方法はあれでよかったか。大きな後悔が本人や家族に残っていなかったか、家族とのコミュニケーションは熟成していったか、など。最後の総合判断をぼくは付ける。評価は4段階。 「◎」・「○」・「△」・「×」  その記号が横並びになっている。どれとも判断しにくい時は、この四つの間の「・」印に赤マルをつけたりする。  戦場での死に立ち会ったとすると、「×」どころかさらに右方に「×××」印を作って、それに赤マルをつけたいくらいだ。平和の時代の臨床での死にも「×」はあるのか、と思われるかも知れない。ある。とりあえず思い出した二つの「×」。  1例目。60歳代のサラリーマン、膵(すい)がんの末期を迎えていた。家での最期を望まれたが、トイレにも歩けなくなった。共働きの奥さんも職場が忙しく、看病が続けられなくなり、彼は入院した。入院後も奥さん、足が遠のき、嫁いだ2人の娘さんが時々見舞うくらい。放られた患者さん、という寂しい印象を受けた。私たちも一歩出遅れ、出遅れたまま最後の日を迎えた。お別れの水をする時、奥さんが言った。 「あなたといっしょで幸せだったよ。次の時もいっしょになりたいね」  間髪入れず娘たち、 「嘘ばっかり、喧嘩ばっかりだった!」  2例目。総合病院からの紹介。肺がんの末期の70歳代の男性。認知症もあり、10日以上も続くせん妄、点滴の自己抜去。家族に付き添ってもらわないと病棟スタッフも手におえない状態。困り果てた末、「家で見ます」と妻と息子が決心。そこで在宅診療、訪問看護の依頼となった。部屋中を這(は)いまわるので机の角に頭を打たぬようにと、家具も本棚も撤収され、何もないガランとした畳の部屋が作られた。 「とにかく寝させて下さい、私たち何日も寝てない!」  と奥さん。せん妄対応の薬と睡眠薬を飲んでもらった。夜中に呼ばれ、精神安定剤の注射も打った。6日目の夏の日曜の朝7時、電話が入った。「主人が起きてこない」。訪問ナースと急行すると、すでに冷たくなっておられた。渡していた少し強めの睡眠薬の残薬が、なぜか少なかった。  現代の平和時でも、私たち医療者の俊敏な動きと真心が満ち足りないと、死は「×」としてやってくる。 ■吾亦紅(ワレモコウ)  この10月3日の夕方の6時、花のブーケを持ってきた家族があった。 「あれから15年です。今日が母の命日」  と50代の女性。20代後半のお嬢さん2人を連れて。亡くなったお母さんは小腸の悪性腫瘍(しゅよう)、肋骨(ろっこつ)から皮膚へ浸潤、自壊していた。家は郊外の離れた市営住宅の4階。50代の女性はそのころ2人の子を養うためにフルに仕事をしていた。局所のガーゼ交換を看護師に教えてもらい覚えたのは2人の孫娘。耐える患者さん、ケアする孫娘。  その光景がスタッフの心に点火する。何とかしてあげたい、何とかならないか。住宅までの距離の遠さはふっとび、フットワークよく通う。「痛みが強い」「食べれない」「分泌が多い」「熱が出る」「眠れない」などなど、訴えは次々に湧く。  人の体は火山だ。予期せぬ訴えが次々に噴出する。その都度看護師たちは、訴えを受け止め、考え、行動に出た。信頼は相互作用で熟成していく。 「葬式は一番安く、でも花はケチらんといて」  とお母さんの遺言。亡くなったあと、看護師が近くのスーパーでお弁当を買い家族に渡した。知り合いの葬儀屋から棺(ひつぎ)を買い、皆でお母さんを抱き階段をぐるぐる回って、1階に置いた棺に入れた。往診車で棺を霊場まで届けた。夕方、骨壺(こつつぼ)を抱いて3人が診療所にやってきた。その時の長女さんの言葉、「私、将来看護師になります」。毎年10月3日は来た。「私、再婚しました」「私、保育士になりました」「私、介護士ですが、看護師目指します」「私、看護師になりました」「私、結婚しました」「私、子どもできました」。年々、報告は変わる。花の中にはいつも吾亦紅が入れてある。10月3日、私たちも温かいものに触れ、柄にもなくホスピスケアの原点という言葉に襟を正す。 「◎」 (徳永進) ※週刊朝日  2019年11月15日号より抜粋
病院
週刊朝日 2019/11/11 11:30
雅子さま追っかけ女子たちが即位パレードに臨む極意 「前日から喫茶店で夜を明かす」
上田耕司 上田耕司
雅子さま追っかけ女子たちが即位パレードに臨む極意 「前日から喫茶店で夜を明かす」
「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」の祝賀式典で目元をぬぐう皇后さまと、天皇陛下(C)朝日新聞社 「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」に出席した嵐(C)朝日新聞社 追っかけの吉田比佐さん(左)と白滝富美子さん( 撮影・上田耕司)  天皇、皇后両陛下の即位に伴うパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」が10日午後3時から始まる。26年間、雅子さまを追っかけてきた女性たちにとっても、かけがえのない記念日となる。  記者は雅子さまを26年間追っかけてきた白滝富美子さん(78)と、パレードのコースになっている青山通りを下見して歩いた。白滝さんは、こうつぶやいた。 「めいどの土産だよ。だから、どうしても撮りたいんだよ。とにかく、これが最後だから。あとは雅子さまのパレードというのは見れないかもしれない」  白滝さんが選んだ撮影ポイントは東京都港区の赤坂警察署前の青山通り辺り。 「中央分離帯の植込みが低くて、絶好だと思います」  白滝さんが雅子さまの追っかけを始めたのは1993年1月の両陛下の婚約発表から。3年前には、左官業の夫が亡くなった。雅子さまが16年前、ご病気になられ、ご公務を休むようになってからは、追っかけの活動を一時休み、仕事に出るようになった。いろんな思いがあるだけに、「もし、撮れなかったりしたらお先真っ暗だよ」(白滝さん)と真顔で言う。  パレード前日の9日には、おっかけ仲間、4人でホテルに泊り込んだ。 「ホテルでは寝れないよ。うかうかしていられないから、2~3時間寝られればいい。始発電車が走り出す前には、張り込み場所の様子を見に行くつもりです」  雅子さまは午後3時に赤坂御所を出発。両陛下の乗ったセンチュリーのオープンカーは時速10キロくらいで、ゆっくり走るという。 「目の前を車が通るのは一瞬だよ、一瞬。26年前のご成婚のパレードの時には、ちょうどいい場所に入れたから良かったけれど、警備の人の陰になって撮れない場合もある。だから、いい場所で撮りたい」  撮影できるか否か、不確実だが、26年間追っかけの活動をしている50代の主婦、吉田比佐さんとパレードの前日、リハーサルを兼ねてコースを歩いた。吉田さんはこう、ホツリとつぶやいた。 「私にとっても記念日。絶対に失敗したくない。撮影に失敗したら、自分で自分を許せない」  パレードのコースには、中央分離帯が邪魔な場所もあり、なかなか場所選びが難しい。吉田さんは1993年6月9日の両陛下のご成婚パレードから雅子さまの追っかけを始めた。 「あの時は、雅子さまが1000個のダイヤをちりばめたティアラをして、ローブデコルテの衣装だったステキな写真が撮れました」  今回、パレード前日に自宅のある千葉県からやって来たが、皇居周辺のホテルは既に満室で、「1泊7万円のホテルしか空室が見つからなかった」という。 「携帯電話の充電のできる駅前の喫茶店やファミレスで、夜を明かすつもりです。早朝から雅子さまを待つ準備に入りたいです」   追っかけ仲間の35歳の会社員の女性もこう言う。 「絶対いい日になることは間違いなし。雅子さまは光をみんなに振りまく人。めっちゃいい気がもらえると思うので浴びに行きたいですね」  沿道にいた警察官は都民からの質問にこう答えていた。 「ディズニーランドと同じですよ。手荷物検査をした人から沿道に入っていただく。どのくらい混雑するか、私たちにも全く予想ができません。混雑しなければ、好きな場所で撮影できるでしょうし、混雑すれば長時間待っていても、移動させられるかもしれません」  追っかけたちはどんな写真を撮るのだろうか。(本誌 上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
皇室雅子さま
週刊朝日 2019/11/10 10:05
火の付いたようなかゆみの荒波が… 米国発「南京虫」被害が国内で急増中
井上有紀子 井上有紀子
火の付いたようなかゆみの荒波が… 米国発「南京虫」被害が国内で急増中
南京虫についての相談件数」の推移(AERA 2019年11月11日号より) 南京虫(トコジラミ)は成虫で体長5~8ミリ。日本にはほかにネッタイトコジラミもおり、沖縄では9割を占め、それ以外では1割程度。毛の曲がり方が違うが、目視では判別できないという(写真:国立感染症研究所提供)  南京虫とも呼ばれるトコジラミの被害が今、急激に増えている。米国では社会問題となっているほどだ。南京虫の恐るべき生態とは。AERA 2019年11月11日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  *  仕事中、指にフーフーと息を吹きかけ続けた。指先から腕にかけて、無数の丸い虫刺され。少しでも冷やそうとするのだが、「かいちゃだめと思っても、無理、かゆすぎます」。  東京都足立区に住むウェブディレクターの女性(43)を襲ったのは、南京虫だ。正式名はトコジラミ。夜間に人やペットの血を吸う。成虫でも体長5~8ミリ。カメムシの仲間で、ベッドの骨組みや、ふすまと床の隙間などに潜伏する。6カ月~1年ほどの寿命で200~500個の卵を産む。7日程度で孵化(ふか)するなど繁殖力は強い。  害虫駆除業者でつくる日本ペストコントロール協会によると、協会への相談件数は2009年度の130件から右肩上がりに増え、15年度には617件に。その後も高止まりしている。日本では戦後に大発生したが、1970年代に沈静化していた。だがその後、DNAの変異で殺虫剤に抵抗する能力を付けて“進化”。10年ほど前から再び被害が報告されるようになった。一般的な家庭用殺虫剤が効かず、「スーパー南京虫」とも呼ばれている。  日本ではまだ大きな騒ぎにはなっていないが、アメリカではすでに社会問題化している。  ニューヨークの国連本部やエンパイアステートビル、ニューヨーク・タイムズ本社など様々な場所で南京虫が発見され、映画館や有名ブランドの店舗が、駆除のために一時的に閉鎖されることもある。  米とカナダのホテルなどの宿泊者が南京虫による被害や目撃情報を投稿するサイト「The Bedbug Registry」には、世界中に展開する複数の高級ホテルで「南京虫が出た」との情報が上がっている。刺された人が訴訟を起こす騒ぎにまでなった。  一度発生すれば、業者が入らなければ根絶できない。日本ペストコントロール協会の技術委員、小松謙之さん(56)は言う。 「虫1匹、卵一つが残っていれば、再び被害が発生し繁殖する可能性がある。ゼロにしなければならない」  駆除では、南京虫の潜みやすい家具の隙間から壁の裏まで、くまなくチェック。室内にあるすべての荷物を移動し、箱の中に入っている物を出す。引っ越しに近い労力が必要だ。雑誌などに挟まっていないか、特徴である黒いふんがないかも確認する。そのうえで、薬剤やスチーム、高温乾燥機、ドライアイスで虫や卵を駆除する。協会によると、根絶するまでの駆除回数は3回が多いという。 「10年前は宿泊施設からの依頼が圧倒的だったが、最近は住宅で増えている。だが、駆除するのは大変で、業者の相場は十数万円以上。駆除できないまま深刻化してしまった結果、南京虫の数が増えていることが考えられる」と小松さん。  前出の女性は今年9月初めの朝、足首に数十カ所の虫刺されがあることに気付いた。ノミかダニだと思った。まもなく足首から広がるようにふくらはぎ、背中、首の後ろまで全身が刺されるようになった。  就寝中に刺されているようだ。長袖、長ズボンの服を着ていても、服の下に潜られる。タイツや長靴下など計3枚をはいて完全防備で寝たつもりでも、布地の一番薄い部分を刺された。 「火の付いたような激しいかゆみが、一日に何度も何度も、荒波のように押し寄せてくる。ノイローゼになりそうです」  100カ所以上刺され、かきむしった患部は、「赤紫のお花畑みたい。自分の肌じゃないみたいな、ざらざらの花畑」(女性)。この2カ月で使ったかゆみ止めは4本に上る。  10月初め、敷布団のそばにある押し入れを深夜から朝4時まで見つめた。すると、小さな虫が出てくるのを確認した。ネットで調べ、南京虫ではないかと疑った。 「南京虫先進国」のアメリカでは、自宅に南京虫がいるかどうかを調べるトラップ(わな)が使われている。雑誌「ナショナルジオグラフィック」のホームページで作り方を調べ、置いてみた。南京虫は寝ている人間の呼吸を感知し、忍び寄る。水に砂糖とイーストを混ぜて二酸化炭素を出しておびき寄せる仕掛けだ。すると一晩で1匹、わなにかかった。すぐに業者を依頼、10月下旬に6センチほどの卵の集まりを駆除してもらった。処置のもらしがないか、3週間は経過観察が必要だという。 「家の床や壁に、枯れ葉のくずが見えたようだった。凝視すると南京虫。気配を感じるだけで、かゆくなります」  卵の集まりがあった押し入れに収納していた洋服の多くを処分したという。  不思議なこともある。同じく刺される被害に遭った高校2年の息子(16)よりも、女性の方が刺される回数が圧倒的に多いのだ。同じく南京虫の被害に遭った知人宅でも、母親ばかりが刺されたという。  実は、南京虫の誘引剤に使われるニオイ成分の「ノナナール」は、女性の加齢臭の主成分として知られる。はっきりとした統計があるわけではないが、女性は南京虫が潜んでいないかより確認を心がけた方がよさそうだ。(ライター・井上有紀子) ※AERA 2019年11月11日号より抜粋
AERA 2019/11/08 16:00
会社帰りにゆったり温泉♪おひとりさまも楽しい東京・横浜の駅チカお風呂
会社帰りにゆったり温泉♪おひとりさまも楽しい東京・横浜の駅チカお風呂
朝夕冷え込んでまいりました。仕事が終わった日暮れどきに恋しくなるのが、あったか〜いお風呂‼︎ できることなら、大きな湯船にたっぷりつかって1日の疲れを癒してみたい…。そこで今回は、平日の会社帰りにもおすすめしたい、東京・横浜エリアにあるお風呂を4つご紹介します。手ぶらで行って、朝までくつろいで、そのまま出勤もOK! 駅からも近くて、女性ひとりでも安心して楽しめますよ。翌朝は身も心もほっこり軽〜く、お肌しっとり♪ 温泉気分を楽しみに、気軽に寄り道してみませんか? 後楽園駅から徒歩1分/スパ ラクーア(東京都文京区) ■東京ドーム天然温泉 スパ ラクーア 「後楽園」駅の近く、東京ドームシティのなかにあるスパ施設です。館内着やタオル・アメニティなども完備し、女性専用のラウンジもあるので、手ぶらで行って朝まで安心。琥珀色のお湯は、東京ドームシティの地下から汲み上げた、100%の天然温泉。希少な庵治(あじ)石の露天風呂、ひのき浴槽の炭酸泉、本場さながらのフィンランド式サウナなど、本物志向のお風呂が待っています! さらにトリートメントサロン、ヘルシーなレストラン&カフェ、リラクゼーションスペースなど、「トータルでキレイがかなう」こだわりがいっぱい。 HPでは、お仕事帰りにおすすめのモデルプランも紹介されているので、ぜひ参考にしてみてくださいね。 ■所在地:東京都文京区春日1-1-1 東京ドームシティLaQua 5F~9F(フロント6F) ■問い合わせ:03-3817-4173 ■営業時間:11:00~翌9:00(最終受付 翌8:00) ※浴室のご利用 翌8:30(露天風呂 翌7:30)まで ■アクセス:東京メトロ「後楽園」駅より徒歩約1分 他 ※施設詳細は『スパ ラクーア』公式サイトをご参照ください※写真はイメージです 新宿三丁目駅から徒歩2分/テルマー湯(東京都新宿区) ■テルマー湯 「新宿三丁目」駅の近くにあるスパ施設です。露天風呂「神代の湯」は、中伊豆から天然温泉を毎日運搬。肌をしっとり包み込むやわらかいお湯は、別名「美人の湯」と呼ばれています。関東最大級の高濃度炭酸浴や、男性・女性それぞれ2種類のサウナ、岩盤浴、マッサージ、エステも楽しめますよ。女性のかたは、フィンランドの入浴法として日本でも人気が高まっている「ロウリュウヒーリング」も、ぜひ。熱波師さんの力強いあおぎによる熱風とアロマの芳香で、優雅にリラックスして発汗できます! 疲労回復、ストレス解消、美肌やダイエットにも効果がみられるそうです。館内では、美しさをサポートする多彩なドリンクなども用意されていますよ。 ■所在地:東京都新宿区歌舞伎町1-1-2 ■問い合わせ:03-5285-1726 ■営業時間:24時間営業 ■アクセス:東京メトロ「新宿三丁目」駅より徒歩約2分 他 ※施設詳細は『テルマー湯』公式サイトをご参照ください※写真はイメージです みなとみらい駅から徒歩5分/横浜みなとみらい 万葉倶楽部(神奈川県横浜市) ■横浜みなとみらい 万葉倶楽部 「みなとみらい」駅の近くにある、24時間営業の施設です。落ち着いた和の雰囲気と、広々とした大浴場、ひのき風呂、海を眺める露天風呂、コスモクロックやみなとみらいの夜景も楽しめる展望足湯庭園、岩盤浴など、バラエティ豊かなお風呂の数々が楽しめます。無色透明なお湯は、熱海温泉と湯河原温泉の源泉から毎日タンクローリーで運ばれてきたもの。女性限定の「ナノクラ」では、ナノレベル(極細小サイズ)の温かいミストが身体を優しく包み込み、まるで雲に包まれたような心地よさ! お食事処、エステも充実しています。アメニティやドライヤーなども完備しているので、手ぶらでOK! 気軽にプチ旅行気分を楽しんでみてはいかがでしょうか。 ■所在地:神奈川県横浜市中区新港2-7-1 ■問い合わせ:0570-07-4126 ■営業時間:24時間営業 ■アクセス:みなとみらい線「みなとみらい」駅より徒歩約5分 他 ※施設詳細は『横浜みなとみらい 万葉倶楽部』公式サイトをご参照ください※写真はイメージです 御茶ノ水駅から徒歩5分/RAKU SPA 1010 神田(東京都千代田区) ■RAKU SPA (らくスパ)1010 神田 「御茶ノ水」駅の近くにあり、日常利用しやすい銭湯サイズの施設です。お手軽にお風呂やサウナだけの利用や、ランニングステーションとしても重宝されています。「RAKU SPA コース」では、癒し・ワーク・交流など、お好みでさまざまな利用スタイルが楽しめますよ。しゅわしゅわの炭酸お風呂やサウナを楽しんだ後、ハンモックやソファースペースで心地よい眠りにつくもよし。小腹をダイニング&パブで満たすもよし。一人で集中したいときには、コワーキングスペースで軽食片手にPC作業したり、コミックや雑誌でのんびりもできます。10時間滞在OKなので、明日の集合時間が早いときや終電を逃してしまった!というときにもおすすめです。 ■所在地:東京都千代田区神田淡路町2-9-9 ■問い合わせ:03-5207-2683 ■営業時間:11:00~翌8:00(最終受付 翌7:00) ※コースにより受付時間は異なります ■アクセス:JR線「御茶ノ水」駅より徒歩約5分 他 ※施設詳細は『RAKU SPA 1010 神田』公式サイトをご参照ください いかがでしたか? 「お出かけスポット天気」で、お近くの施設もぜひチェックしてみてくださいね! <注意事項> ■写真はイメージです ■施設の営業日時・料金・イベントなどの詳細は、お出かけ前に公式サイトなどで最新の情報を必ずご確認ください ※台風19号などの影響により、 今回ご紹介するスポットや周辺の道路、鉄道が被災している可能性がございます。お出かけになる前に最新の情報をご確認ください。※写真はイメージです
tenki.jp 2019/11/08 00:00
人の2倍働くため「1日4時間睡眠」 脳科学的に非効率なワケ
川口穣 川口穣
人の2倍働くため「1日4時間睡眠」 脳科学的に非効率なワケ
撮影/今村拓馬 眠気のリズムは2回ある(AERA 2019年11月11日号より)  1日24時間を効率よく利用するために、睡眠を削るという人もいるがそれは非効率。注目すべきは脳科学だ。AERA 2019年11月11日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  * 「時間の捻出法とか、仕事の効率化とか。自己啓発本を読み漁っていました」  推薦で有名私立大学に入り、体育会系ラグビー部の先輩のコネで大手広告会社に就職した男性(32)はそう振り返る。苦労してこなかった分、入社後は同僚や先輩が優秀に見え、コンプレックスを感じた。  仕事ができるようになりたいと先輩に相談すると、「人の2倍働け」とアドバイスされた。そんなときに知ったのが、1日3時間の睡眠で暮らす「短時間睡眠法」だ。本を読むと「質のよい睡眠なら3、4時間で十分」「自由な時間が増えた」「体調がよくなった」という体験者の声があり、興味を持った。社内に「1日4時間しか寝ないが絶好調」と豪語する先輩がいたことも、背中を押した。  起床は毎朝7時。睡眠時間を4時間と決め、午前3時に就寝する生活を始めた。夜は栄養ドリンク片手に持ち帰った仕事をこなし、休日も午前中は英会話、午後はジムやマーケティングの同好会に参加するなど動き回った。もともと夜型だったので午前3時まで起きていることは苦ではなく、日中に強い眠気を感じることもなかった。  異変を感じたのは3~4週間経ったころ。プレゼンの資料をつくろうとしても、頭がぼうっとして考えがまとまらず、アイデアも浮かばない。食欲もなくなった。そんなタイミングでインフルエンザにかかり、内科を受診。ショートスリーパー生活について話したところ、「普通の人がそんな生活をしたら早死にする」と叱られた。40度近い発熱があり、会社を休んで体が欲するままに休養を取った。数日後、熱が下がるのと同時に頭がすっきりしてくるのを感じた。 「2倍働く」ために寝ないのは極端過ぎる。もっと効果的に1日を過ごす方法はないのだろうか。  脳神経科学者で早稲田大学リサーチイノベーションセンターの枝川義邦教授はこう話す。 「人間はDNAレベルでひとりひとり全く違いますが、多くの人にとって最適な24時間の使い方の“傾向”は脳科学からひもとくことができます」  枝川教授によると、人間の体にはいくつかの「時計」が備わっている。代表的なものがサーカディアンリズムとサーカセミディアンリズムで、前者は24時間、後者は12時間単位で刻まれている。さらに脳が1日に処理できる情報量には限りがあり、これは睡眠でしか回復しない。時間術を考えるうえでは脳の限られたリソースをどう使うかも重要だ。(編集部・川口穣、ライター・熊谷わこ) ※「起床直後は脳の覚醒度がピーク 優先すべき仕事の内容は?」へつづく ※AERA 2019年11月11日号より抜粋
AERA 2019/11/06 10:00
会社帰りにひとりを楽しもう♪ 東京の寄り道スポット4選
会社帰りにひとりを楽しもう♪ 東京の寄り道スポット4選
今日もお仕事お疲れさまです♪ 煩雑な業務や対人関係で、帰る頃には心が枯れ葉のようにカサカサしている…そんな方もいらっしゃることでしょう。これからひとりどこかに寄り道して、気分をリセットしてから帰りたい!! そんな日もあるかもしれません。そこで今回は、会社帰りにおひとりさまでふらっと行ける、都内の駅近スポットをご紹介します。のんびり本を眺めたり、星空に包まれたり、海のいきものとふれあったり、アートと夜景を楽しんだり…日中のしがらみから解放されて、うるおいチャージはいかがでしょうか? コーヒー片手に本を眺める/代官山 蔦屋書店(東京都渋谷区) ■代官山 蔦屋(つたや)書店 代官山駅から歩いて5分ほどの場所にある、おしゃれな書店です。都内最大級の「マガジンストリート」から「人文・文学」「アート」「建築」「クルマ」「料理」「旅行」のエリアが広がり、それぞれ厳選された書籍が集められています。旅行書籍売り場には、その国の歴史や文化に関する本ばかりか、なんと旅行カウンターまで! カフェでは1階の全ての書籍を店内で読むことができ、購入したドリンク片手に映像や音楽をゆっくりと選ぶこともできます。本を眺めながらラウンジでお酒や軽食を味わうのもおすすめですよ。大人が文化・生活を深く愉しむためのエッセンスがたっぷり。本好きの方はぜひ訪れてみてはいかがでしょうか? ■所在地:東京都渋谷区猿楽町17-5 ■問い合わせ:03-3770-2525 ■営業時間:蔦屋書店1F/7:00〜26:00、蔦屋書店2F/9:00〜26:00 ※ラウンジ、旅行カウンターの営業時間はHP参照 ■アクセス:東急東横線「代官山」駅より徒歩5分 他 ※詳細は『代官山 蔦屋書店』公式サイトをご参照ください※写真はイメージです 満天の星に包まれる/コニカミノルタプラネタリア TOKYO(東京都千代田区) ■コニカミノルタプラネタリア TOKYO 有楽町駅から徒歩1分の複合ビル「有楽町マリオン」内にある、最新式のプラネタリウム施設です。上映作品は、ロマンチック系から宇宙冒険系までさまざま。テーマの異なるふたつのドームシアターと、VRアトラクションが体験できます。「DOME1」では、併設のカフェで購入したメニューを持ち込めるプログラムも! 宙(そら)をテーマにしたドリンクなどを片手に、ライヴ感覚で映像を楽しんでみては? 「DOME2」では、大人専用のヒーリングプログラムもあります。上映スケジュールをチェックして、お好みの星空を選んでくださいね♪ ■所在地:東京都千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン 9F ■問い合わせ:03-6269-9952(受付時間 10:00~19:00) ■営業時間:10:30~22:00(最終受付は21:00) ※上映時間は季節により変更する場合があります ■アクセス:JR山手線「有楽町」駅より徒歩3分 他 ※詳細は『コニカミノルタプラネタリア TOKYO』公式サイトをご参照ください※写真はイメージです 海のいきものに逢いにいく/すみだ水族館(東京都墨田区) ■すみだ水族館 東京スカイツリーに隣接する水族館です。夕方になると館内の照明がゆっくりと暗くなり、落ちついたBGMが流れる大人の空間に。青くほの暗い館内では、昼間とは違う生きものたちの姿に出逢えますよ。岩の上でウトウトしているペンギンのかわいい寝顔なども見られるかも? ペンギンたちの関係性を可視化した展示『ペンギン相関図』は必見です。クラゲの神秘的な「万華鏡トンネル」など、癒しスポットがいっぱい! 水槽を眺めながらの飲食、アルコールもOKです。非日常のなかであえて読書などを楽しむもよし。雰囲気が気に入った方には、入場2回分の料金で癒され放題の「年間パスポート」の入手もおすすめです。 ■所在地:東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン・ソラマチ5F・6F ■問い合わせ:03-5619-1821(受付時間 9:00~21:00) ■営業時間:9:00〜21:00(入場受付は閉館の1時間前まで) ※気象状況・季節等により変更の場合あり ■アクセス:東武スカイツリーライン「とうきょうスカイツリー」駅すぐ 他 ※詳細は『すみだ水族館』公式サイトをご参照ください※写真はイメージです アートと夜景を楽しむ/森美術館(東京都港区) ■森美術館 「六本木ヒルズ森タワー」の53階にある美術館です。「現代性」と「国際性」をもって、アジアを中心に世界の諸地域の最先端なアートを発信。ジャンルにとらわれないさまざまな表現活動を紹介しています。2019年11月19日からは『未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命――人は明日どう生きるのか』展を開催。週末のみ夜間営業する美術館は多いですが、こちらの施設は平日も夜遅くまで開館(展覧会開催時以外は休館)。お仕事のあと帰る支度をゆっくりしてから気軽に立ち寄れますね。また展覧会のチケットで「六本木ヒルズ展望台 東京シティビュー」(52階屋内)にも入場できます。眼下に東京の夜景…! 人々の営みがつくる灯りが、アートに触れた心を優しく包んでくれますよ。 ■所在地:東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー53F ■問い合わせ:03-5777-8600(受付時間 8:00〜22:00) ■営業時間:10:00~22:00(最終入館 21:30)※火曜は10:00~17:00(最終入館 16:30) ※日によって変わる場合あり。詳細は公式サイトを参照。 ■アクセス:東京メトロ日比谷線「六本木」駅より徒歩3分(コンコースにて直結) 他 ※詳細は『森美術館』公式サイトをご参照ください いかがでしたか? 「お出かけスポット天気」で、お近くの施設もぜひチェックしてみてくださいね! <注意事項> ■写真はイメージです ■施設の営業日時・料金・イベントなどの詳細は、お出かけ前に公式サイトなどで最新の情報を必ずご確認ください※写真はイメージです
tenki.jp 2019/11/06 00:00
中高年の6人に一人は調子が悪い!「テストステロン」値が原因解明のカギに
中高年の6人に一人は調子が悪い!「テストステロン」値が原因解明のカギに
※写真はイメージです (Getty Images) 図1-1 ●責任ある地位にある人、夜勤や夜遅く仕事をしている人は要注意! 「体調管理」の鍵を握るのは、「元気ホルモン」であるテストステロンです。これが減ってくることで、体調不良が始まってしまいます。  テストステロンは、男性ホルモンの1つではありますが、実は「男性」特有のものではありません。女性ホルモンも、このテストステロンから作られるため、女性にも非常に重要な存在です。ただ、それについては本書の第2章以降でじっくりお話しすることにして、ひとまず男性に向けてテストステロンの重要性をお話ししたいと思います。  さっそくですが、簡単なチェックテストです。【図1-1】の項目のうち、あなたはいくつ当てはまりますか。  いかがですか。これらのうち2つ以上当てはまったら体が「黄信号」を発していると言っていいでしょう。  最初の(1)と(2)の質問は、現在の生活状況を尋ねたものですが、不規則な生活やストレスの多い毎日を送っていると、通常50代くらいから急に減ってくるテストステロンが30代でも減少してくることがあります。仕事で責任のある地位についたり、夜勤があるような勤務体系や、夜遅くまでの残業が通常化している人は要注意です。  また(2)で尋ねた「ストレス」こそ、男性ホルモン低下の大きな引き金です。テストステロンは、男性であれば主に睾丸から分泌されます。  健康な脳からは、睾丸を刺激する性腺刺激ホルモン「ゴナドトロピン」と、「副腎皮質刺激ホルモン」の2つの刺激ホルモンが、バランスよく分泌されています。  しかし、ストレスが加わると、副腎皮質刺激ホルモンの分泌が過多になり、ストレスホルモンと呼ばれる「コルチゾール」が増えてきます。  そうなると当然、睾丸を刺激する「ゴナドトロピン」は相対的に減るため、睾丸から分泌されるテストステロンが低下するのです。  (3)~(5)はメンタルについてのチェックです。ストレスでテストステロンが減ることでよりストレス耐性が落ちている可能性をチェックします。テストステロン低下により睡眠の質が低下することも知られています。  (6)(7)は、テストステロン欠乏により体に現れる具体的な症状です。ひげの伸びは、テストステロンと関係していて、伸びが遅くなる=テストステロン低下のサインです。  (8)(9)は泌尿器科でよくする質問ですが性機能についてです。お相手がいる、いないかに関係なく男の生理機能としてのとても重要な項目です。50代で「朝立ち」がめったにないのは要注意、こちらも当てはまるならテストステロンが低下しています。 ●「体調管理」を怠って元気に過ごせない人が増加! 「元気がない」「やる気が出ない」「だるくて疲れがとれない」「うつっぽい」などの体調不良はまとめて「更年期障害」と言われています。女性の更年期は良く知られているかもしれませんが、男性の「更年期障害」は、ほとんどの人が知らないことでしょうし、「自分には関係ない」と思っている人が多いことでしょう。  2014年調査の総務省の統計では、40歳以上の日本の男性人口は3400万人とされています。そのうち男性更年期障害の潜在患者は、600万人であるという推測のデータがあります。  中高年の6人に1人は隠れ更年期障害という計算になります。  男性の「更年期」という言葉はまだ一般的ではありませんが、言い換えれば「テストステロンの低下による体調不良」のこと。それが当てはまる人たちが多いのです。  さらに怖いデータがあります。今の日本人の60歳以上では、4人に1人が認知症、5人に1人が糖尿病になるとも言われています。実は、認知症、糖尿病の発症にもテストステロン低下に関係があると、さまざまな研究で明らかになっています(これらは本書の4章で詳しくご説明します)。  ではテストステロンの低下は、どのような体調不良を起こすのか。  人によってさまざまですが、図に列記したような症状が、色々な組み合わせで、起きてきます。「身体」「性機能」「メンタル」のトップ3の症状が70%以上。この3つが絡み合って男性を苦しめています。 ●テストステロン低下の体調不良がうつと間違えられてしまうと危険  特に若いほど男性では身体症状より心の症状が強く出やすい傾向があります。気力、仕事能力、集中力の低下で、何かミスをすれば、そのふがいなさで、気分が落ち込みます。  そして「気持ちが塞ぐ」「体がだるい」「眠っても疲れがとれない」という症状を、うつだと勘違いして、精神科や心療内科に駆け込んでしまうケースが多発しています。そこで抗うつ剤を処方されてしまうと、症状は改善しない上に、抗うつ剤を飲む量がどんどん増えていき、ひどい場合は自殺にまで追い込まれるという悲しい事態も起きています。  日本の自殺者の7割が男性というデータ(警察庁「自殺統計」より厚生労働省自殺対策推進室作成)からも、男性が女性よりもメンタルストレスに弱く、何か困ったことが起きても誰にも相談せずに抱え込んでしまうのだろうと推測できます。  まずは、精神科に行く前に、テストステロン値を調べるためのホルモン検査をしてほしい、そして、精神的に追い込まれてしまう前に、私は男性医学専門医として相談にのり、男性の元気をサポートしたいと思っています。
病気
ダイヤモンド・オンライン 2019/11/05 16:18
由紀さおりが明かした離婚した元夫への想い「私は幼かったのよ」
由紀さおりが明かした離婚した元夫への想い「私は幼かったのよ」
由紀さおり(ゆき・さおり)/群馬県生まれ。幼少期からひばり児童合唱団に所属。童謡歌手として活躍。1969年、「夜明けのスキャット」でデビュー、国民的ヒット歌手となる。以来、歌、女優、司会、バラエティーと大活躍。2011年、米ジャズオーケストラ「Pink Martini」とのコラボアルバム「1969」をリリースし、世界的ヒットに。今年、デビュー50年を記念し、アルバム「PASSING POINT」「BEGINNING」(ユニバーサル ミュージック)を発表。全国で記念コンサートを公演中。近著に『明日へのスキャット』(集英社)。 (撮影/写真部・片山菜緒子) 由紀さおりさん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・片山菜緒子)  多くのヒット曲を持ち、50年にわたり、第一線で活躍を続ける歌手、由紀さおりさん。歌うことから、母や姉など家族の話、これまで語られなかった結婚の話、さらに年を重ねることの楽しさについて、デビュー50年の道のりを振り返りながら、作家の林真理子さんとの対談でたっぷりと語りました。 * * * 林:お久しぶりです。まあ、素敵なお着物! 由紀:最初にこちらでお目にかかったとき(2008年8月)も着物を着てまいりましたので、今日もそうしようと思って着てまいりました。 林:覚えてます。素敵なお着物でした。これは江戸小紋ですか。 由紀:そうです。綸子ですね。 林:帯もすごく素敵。お着物は何枚ぐらいお持ちなんですか。 由紀:このところすごく増えました。 林:着物って、そろえ始めるとお金が果てしなく飛んでいきませんか。 由紀:でも、いただきものが多いんです。私の知り合いのおばさまが「着ない着物がいっぱいあるの。ちょっと着てちょうだいよ」と言って、どんどんくださるようになったんです。それを自分の寸法に整えたり、裾除けの色をちょっと変えたりと、自分仕様に直させていただいて着ています。呉服屋さんにも、「もうこれを織る人がいませんので、大事に着たほうがいいですよ」って言われたりして。 林:お着物は、ご自分でお召しになるんですか。 由紀:今日は着付けの方にお願いしました。でも、少しずつ自分でも着られるようになりました。お三味線と踊りのお稽古に行くときは自分で着ます。 林:お三味線と踊りもやってらっしゃるんですね。 由紀:この9月にGINZA SIXの地下の観世能楽堂で、デビューして50年の特別公演として「夢の女─蔦代という女─」という一人芝居をさせていただいたんです。原作は有吉佐和子先生の『芝桜』で。その稽古で、お三味線と踊りを始めたんです。踊りはデビューして何年かに花柳の名取にはなったんですけれど。 林:お芝居、都合が合わずうかがえなくて残念でした。見たかったです。 由紀:お芝居をして、踊って、お三味線を弾き、歌って……と、楽しかったですよ。お三味線、鼓、笛と太鼓と、みんな生の音でしょ。能舞台の空間はアコースティックですから、ものすごく響きがいいんですよ。 林:へぇ~。『芝桜』って芸者さんの話ですよね。 由紀:そうです。私はもともと、話術が巧みなお座敷のお姐さんたちに憧れてるんですよ。新橋のお姐さんとか赤坂のお姐さんとかに。一緒にあちこち連れてってもらったりするおつき合いもあって、私の公演でも皆さんがずらっと総見してくださったりするんですけれど、ああいうお姐さんたちが好きなの。 林:ええ、ええ。 由紀:ちょいちょい着(ちょっとした外出で着る着物)のおしゃれが似合う女性でいたいなあと思っていて、私は女優の池内淳子さんが大好きだったんです。池内さんはふだんから何気なく素敵で、「私は沢村貞子さんみたいに、さらっと着物を着たいのよ」とおっしゃってたけど、そういう方がみんなあっちに逝っちゃったでしょ。 林:そうなんです。 由紀:杉村春子先生も森光子さんもそうだし、このあいだ雪江さんも逝っちゃったしさ。 林:ゆきえさん? 由紀:朝丘雪路さん。あの方はジャズも歌って、歌謡曲も歌って、踊りも深水流というご自身の流派を立ち上げたでしょ。雪江さんが亡くなったのはけっこうショックでした。 林:由紀さんはそういう芸者さんをやるような女優さんの系譜に連なってますよね。今、若い女優さんが芸者さんの役をやると、どう見てもコスプレという感じですけど。 由紀:着物は「着るより慣れろ」というか、日々それで暮らしているかどうかが所作にあらわれますよね。うちの母は、私が小学校5~6年まで着物を着ていたので、私はそれを見て育ったんです。母は着物教室で着付けの先生をしていて。 林:由紀さんの『明日へのスキャット』(集英社)という本を読ませていただきましたけど、お母さま、すごい方だなと思いました。教育の面では、自分が前に出て子どもたちを守るという感じで、学問の道に進む子にはそのための教育を受けさせて、歌の道に進む子にはこういう教育をって、ちゃんと見きわめてらっしゃったんですよね。 由紀::母は子どもたちに「どうしたいの?」って聞いて、情報だけを集めて、「選ぶのはあなたよ」というやり方でした。私たちは最初、桐生(群馬県)で生まれて、それから横浜に移ったんですけど、兄は「東京工業大学に行きたい」と言って化学を学んだんです。卒業して就職し、機会をいただいてMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学しました。社会人の留学はまだ珍しい時代でした。 林:お兄さまもすごいです。 由紀:お姉ちゃん(安田祥子さん)は、「性格とか声の質でクラシックに進んだほうがいいだろう」というひばり児童合唱団の先生のすすめで、うちの遠い親戚で声楽を教えている先生のところに通ったんです。 林:そして芸大に入られて、そのあとニューヨークのジュリアード音楽院に行かれて、芸大の先生にもなられたんですよね。 由紀:そう。私は「歌を続けたいなら、それを許してくれる学校に行きなさい」と言われて、ひばり児童合唱団の先生のツテで、洗足学園第一高等学校というところに入って、「あまり目立たないように」みたいなことを先生に言われながら歌の勉強をしてたんです。クラシックをやってもお姉ちゃんを越えられないと思って、ジャズを習いに通ったり。 林:そうなんですか。 由紀:当時、歌謡曲といえば、作曲家の先生の内弟子にならないとデビューの道が開けなかった時代なので、「中学を卒業したら内弟子に入りなさい」と言われたけど、私が「高校に行きたい」と言ったら、母が「娘がそう言ってるので、そうさせてください」と言って高校に行かせてくれたんです。風が強いときには必ず母が守ってくれましたね。 林:素晴らしいです。お姉さまと二人で歌うようにすすめたのもお母さまなんですよね。デビュー15周年のときに。 由紀:そう。母の深慮遠謀だったような気もするけど、「二人で歌ってほしい」って。お姉ちゃんはクラシック、私は歌謡曲だったけど、「いい歌に変わりはないじゃないの」というのが母の口ぐせだったんです。 林:「NHK 紅白歌合戦」にも何度もお出になりましたけど、アカペラで歌われていましたよね。 由紀:ええ。私はソロとして13回、お姉ちゃんとは10回出させていただいてますけど、「赤とんぼ」を3回歌ってるんですよ。アカペラで歌うときは、姉と「同じ精神性を持とう」ということで松島湾(宮城県)に昇る朝日を見に行きました。私一人で出させていただいたときも「赤とんぼ」は2回歌っていて、北島(三郎)先輩とトリをとったときは、歌の出だしをアカペラで歌って、お姉ちゃんもアンサンブルで参加してくれました。 林:今、歌手の皆さんって、歌うときにイヤホンをつけてるじゃないですか。あれでカウントをとってるんですね。 由紀:あれは自分の声を耳に返しているんです。ドームのコンサートみたいに大きい会場だと、自分が歌った声が向こうの壁にぶつかって、エコーみたいにして遅れて戻ってくるんです。その音に引きずられちゃうから、自分が歌ったテンポをキープするためにイヤモニ(イヤーモニター)で自分の声を返すようになったんじゃないかと思うんです。 林:なるほど。そうなんですか。 由紀:でも、今は300人ぐらいのホールでも皆さんイヤモニをして歌うから、私はそれが気持ち悪くてね。私は後ろにいるバンドの皆さんの生の音を聞き、自分の声を聞き、ホールの音の響きを感じながら歌ってきたから、イヤモニは逆に難しいんです。今はそれがあたりまえとして音楽番組をつくる時代になっているので、私はもうこういうところでは歌えないというのが正直な気持ちです。 林:まあ、そうおっしゃらずに。 由紀:今、電車に乗ると、前に7人座ってたら、7人ともスマホでゲームとかメールをやったり、音楽を聴いてるでしょ。みんな個の世界にいて、人の声とか雑音が聞こえないんですよ。でも、自分が雑踏の中の一人を感じるって、すごく意味があることだと思ってるんです。  林:外国の人にとって、由紀さんの透明で透き通った声ってめずらしいみたいですね。バーブラ・ストライサンドみたいな肉厚な声を聞いてる人にとって。 由紀:今の歌い手の方って、ほとんど地声で歌うんです。私のようにファルセット(喉の負担が小さい高音の発声法)をうまく使う人はほとんどいないんです。特にポップスの人は基本的に地声です。それで長く歌えないんじゃないかと思います。 林:もともと由紀さんは声帯がすごく細いんだそうですね。 由紀:ええ。私は小学校4年生ぐらいのときに風邪をこじらせて、それでも歌ったら、音声障害を起こして声が出なくなっちゃって、ひばり児童合唱団の先生にすすめられて、九品仏(東京・世田谷)のお医者さんに行ったんです。そこは声に関わるお仕事をしている人たちが通っているところで、「あなたの声帯はすごく薄い。調子が悪いときは無理に声を出さないようにして、この声帯を大事にしなさい」って言われたんです。それがいい意味での私のトラウマですね。 林:それが今までのご活躍を支えてきたんですね。女優さんをやってらっしゃるときは、声帯の使い方はどうしてるんですか。 由紀:舞台を初めて経験するときに、美空ひばりさんの映画を見たんです。ひばりさんのセリフの声を聞くと歌ってるの。歌う声でセリフを言ってるな、と思いました。それで私もそうしよう、と。 林:オペラと同じですね。イブニングドレスを着てお出になるわけですから、体形の維持なんかも……。 由紀:食生活とかも大変です。今は自分の家の中を歩く道すがらというか、たいして広くないんですけど、よく通るところにスクワット専用のいすが置いてあるんですよ。最近、流行ってるんです。 林:へえ~、そんなものがあるんですか。 由紀:あるんです、通販よ(笑)。だけどそんなぐらいしかできないんです。外側はもうヨレヨレよ(笑)。拒めるものは拒みたいけど、拒みきれないものもいっぱいあるじゃない? それは受け入れるしかないでしょ。 林:たばこもお酒も一切やらず、非常にストイックに暮らしてらっしゃるそうですね。 由紀:そうですね。日々の暮らしはあした歌うための準備です。 林:わあ~、素敵。 由紀:何を食べるかというお食事も、お風呂に入ったりシャンプーしたりするタイミングも、みんなあした歌うための準備ですね。 林:由紀さんが「自分に満足できなくなったら、自分で引導を渡す覚悟ができています」と言ったら、亡くなった二葉あき子先生(歌手)が「何言ってるのよ。私なんか入れ歯が取れたってみんな喜ぶんだから」とおっしゃったんでしょう? 由紀:アハハハ、そう。先生は「私、歌ってると、ときどき入れ歯がはずれるのよ。でも、間奏のときに後ろ向いてカッと入れ歯を入れるの。だからそんなこと言わないで、ファンがいるうちは歌ってあげてちょうだいよ」っておっしゃってました。 林:本の中のそのエピソード、私、大好きなんです。 由紀:二葉先生のライバルは淡谷のり子先生(歌手)なんですね。「淡谷先生よりも1年でも長くリサイタルをやりたい」というのが二葉先生の目標で、実際にそれをおやりになってからすぐ、旅立たれました。 林:そうなんですか。 由紀:淡谷先生って、ピアノに寄りかかって歌うじゃない。そのとき後ろにクッションがあったりするのよ。私が見た先生の最後の舞台では、キャスターがついてる台の上にソファがあって、そこに座って歌って、歌い終わるとそのまま台ごとスーッと動かして引っ込むんです。 林:まあ、ほんとですか。 由紀:テレビの番組だから、そこは映らないのよ。でも、会場に来てる人にはわかっちゃうわけ。なんであそこは暗転にしなかったのかしらって思うんだけど、でも最後までヒールで歌ってらっしゃいました。 林:素晴らしいです。 由紀:ペギー葉山さんが亡くなったのも、すごくショックだった。いい歌をたくさんお歌いでした。ちょっとバタくさいジャジーなものとか。 林:でも、由紀さんはそうした皆さんよりずっとお若いんですから、そういう先輩たちは記憶の外に置いて、ときどき思い出す程度でいいじゃないですか(笑)。ご本を読んでわかったんですけど、「夜明けのスキャット」の大ヒットの最中、もうご結婚されてたんですね。びっくりです。 由紀:うふふ。私は童謡歌手から大人の歌手になるあいだ、コマーシャルソングをいっぱい歌ったんです。相手は大森昭男さんというCM音楽プロデューサーの方で、小林旭さんの「熱き心に」とか、堀内孝雄さんの「君のひとみは10000ボルト」とか、矢沢永吉さんの「時間よ止まれ」とか、石川さゆりさんの「ウイスキーが、お好きでしょ」とかを手掛けた人なんです。コマーシャルソングとしてつくったものがヒットするという時代ですね。音の切れ方とか、音のピッチとか、「ここはもう少し明るく響かせて」とか、音に対してすごく厳しい方でした。 林:当時、由紀さん20歳だったんでしょう? 結婚はもう少し待ってもらってもよかったんじゃないですか。 由紀:「高校を卒業したら結婚したい」って言われたんです。でも、上の二人が行ってなかったので、「下から行くのは順序が違うだろう」って父が言って、短大を出たあとすぐに結婚したんです。 林:でも、お別れになったんですね。私、コピーライターをしてたとき、「あれが由紀さおりさんの旦那さんだった人だよ」って言われて、そうなんだと思ってマジマジと見た記憶があります(笑)。ハンサムな方だったという印象でした。 由紀:笑顔が素敵でしたね。ピンク・マルティーニというアメリカの人気バンドとコラボして40周年のアルバムをつくったんですけど、そのときのプロデューサーが発掘した韓国の歌い手さんのライブを見に行ったら、そこに彼がいたの。みんな慌てちゃってね。私がいて“元亭”もいるわけだから。みんなに気をつかわせちゃ悪いなと思って、「お元気ですか」って私が彼のテーブルに行って、座って一緒にライブを見たんです。 林:まあ、大人の対応(笑)。 由紀:彼の事務所があるマンションに私の知人がいたので、そのあとにも偶然に会ったりして、「あのアルバムよかったね」って言ってくださって、それが最後だったかな。去年、お亡くなりになりました。 林:そうなんですか。 由紀:そのあとに、彼の追悼文を集めた本ができて、弟さんから私のところに送られてきたんです。私はまだ読んでないんですけど、弟さんに電話をしたんです。「私は幼かったのよ。だからご苦労かけちゃって」と言ったら、弟さんが「それを聞いたら兄貴は喜ぶと思います」って。「今、私が歌を歌っていく姿勢は、あの人から教わったことが生きてると思うわ」と言ったら、「ああ、それはよかった」と言ってくださいました。 林:そうですか。いいお話ですね。 由紀:ご本を送っていただいたことがきっかけでそんなお話ができたんです。はじめは手紙を書こうと思ったんですけど、ペンを持ってもなかなか進まないんですよ。やっぱり残るのはイヤだなと思って電話にしたんです。 林:わかります。私も、昔出したラブレターを持っていられたらどうしようかと思いますから(笑)。ドラマとか映画のご予定は何かおありなんですか。 由紀:「ブルーヘブンを君に」という映画に主演します。岐阜の大垣を舞台にした地方創生ムービーで、ブルーヘブンという青いバラをつくっているおばちゃまがモデルで、その方を私がやります。来年のバラのシーズンに公開されると思います。 林:楽しみです。由紀さん、さっきスタッフの方に聞いたら、電車にお乗りになるそうですね。 由紀:はい、普通に乗ります。 林:気づかれません? 由紀:ボディーのマッサージとかのメンテナンスに通うのに電車のほうが便利なんです。この前は日傘を持ってスッピンで地下鉄に乗って、お姉ちゃんと二人でペチャクチャおしゃべりして、「降りなきゃ」って降りようとしたら、前にいたおじさんが「由紀さん、傘忘れてますよ」(笑)。 林:わかってたんですね(笑)。 由紀:「スッピンだったのにね」って二人で笑っちゃった(笑)。 林:そのお声でわかっちゃうんじゃないですか。 由紀:そうかもね。タクシーに乗って「どこそこまで」って言うと、「あ、由紀さんですね」ってわかっちゃうから(笑)。 林:うふふ。これからのご活躍も楽しみに応援させていただきます。 構成 本誌・松岡かすみ ※週刊朝日  2019年11月8日号
週刊朝日 2019/11/05 08:00
【Vol.06】人々の胃袋を支えてきた築地の地で行われる「日本一おいしい盆踊り」
【PR】【Vol.06】人々の胃袋を支えてきた築地の地で行われる「日本一おいしい盆踊り」
複雑な歴史をたどってきた 築地の地ならではの魅力  築地は少々特殊な場所だ。もともとこの地には海が広がっていたが、1657年に起きた記録的な大火ののち、西本願寺の別院(現在の築地本願寺)の信徒を中心に埋め立てが進められ、築地の地が造成されたという。1923年の関東大震災の際には一面焼け野原となるが、その後各地の新鮮な食材が集まる築地市場が完成。2018年に移転するまで東京の住民たちの胃袋を支え続けた。  そのように紆余曲折を経てきた築地の中心地、築地本願寺で行われている築地本願寺納涼盆踊り大会は「日本一おいしい盆踊り」とも呼ばれている。場内には築地の名店が出すブースが立ち並び、それぞれの名物料理を安価で楽しむことができる。こちらを目当てにやってくる来場者も多く、各ブースには開始してすぐに長い行列ができる。  この盆踊りは2019年で72回目という歴史を誇るが、一部の飲食ブースではリユース食器が使われるなどゴミの削減にも積極的に取り組んでいる。また場内アナウンスは日本語だけでなく英語や中国語でも行われ、来場者の変化にも対応する現在進行形の盆踊りでもある。築地本願寺ボーイスカウト・ガールスカウトや築地本願寺合唱団楽友会がブースを出していたりと、築地本願寺を中心にしたコミュニティーの強いつながりを感じさせるが、やってくるのは地元住民とその家族、仕事帰りのビジネスパーソン、外国人観光客など多種多様。開かれた雰囲気があり、ピクニックのようなリラックスしたムードが会場を覆う。 エキゾチックな本堂のもと、 盆踊りの伝統的味わいを堪能  この盆踊りのもうひとつの魅力は、建築家・建築史家の伊東忠太博士が設計し、1934年に完成した本堂のエキゾチックなたたずまいだ。古代インド・アジア仏教様式を模した本堂には色とりどりのステンドグラスや動物の彫刻が施されており、眺めるだけでも楽しい。設計に際しては建築研究のためアジア各国を旅した博士の体験が生かされているそうで、提灯の明かりと月明かりのもと、仏教伝来のルーツが美しく浮かび上がる光景は目をみはるほどの美しさだ。なお、盆踊り期間中は夜20時まではその本堂も開いており、参拝することが可能。「夜の法座」が行われることもあり、深遠な仏教世界に触れることもできる。  この盆踊りでかかるのは古風でオーセンティックな楽曲が中心。近隣の盆踊りで定番化しているディスコ調の盆踊りソングがかかることもない。宮城県の代表的民謡「斎太郎節」が踊られるが、築地では三橋美智也が1960年代に吹き込んだ重厚なバージョンがかかる。最後に踊られるのは、同地のご当地音頭である「築地音頭」。さまざまな踊り手に対して開かれた盆踊りでありながら、築地という土地のプライドと美学も感じさせる盆踊り大会である。 築地本願寺納涼盆踊り大会 毎年7月から8月ごろ 会場:築地本願寺 築地本願寺 https://tsukijihongwanji.jp/ 文:大石始 写真:大石慶子 本企画は『東京の魅力発信プロジェクト』に採択されています。 このサイトの情報は、すべて2019年8月現在のものです。予告なしに変更される可能性がありますので、おでかけの際は、事前にご確認下さい。 →英語版はこちら(English version)
2019/11/01 10:41
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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今季限りで退任、中日・立浪監督の将来的な「再登板」はあるのか 3年間は無駄ではないの声も
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「Pontaパスがスタート お得感プラス、ワクワクドキドキもあるサービスへ」ローソン社長・竹増貞信
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竹増貞信
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