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底冷えの中、活気あふれる京の節分で“だるま集め”に興じる
ナカムラユキ ナカムラユキ
底冷えの中、活気あふれる京の節分で“だるま集め”に興じる
表情豊かに大小様々8000体、圧倒される数のだるまで埋め尽くされた「達磨寺」  国内外の人々を惹きつけてやまない京都。その四季折々の魅力を、京都在住の人気イラストレーター・ナカムラユキさんに、古都のエスプリをまとったプティ・タ・プティのテキスタイルを織り交ぜながら1年を通してナビゲートいただきます。愛らしくも奥深い京こものやおやつをおともに、その時期ならではの美景を愛でる。そんなとっておきの京都暮らし気分をお楽しみください。 *  *  * ■底冷えの中 賑わう京の「節分会」  大寒が過ぎ、節分の頃が最も寒いと言われている冬の京都。地面から感じる冷たさが、つま先から身体の芯へと伝わり、いわゆる盆地特有の“底冷え”が厳しい時季です。そして、2月に入った途端に京の街は、節分の準備にいそいそと動き始めるのです。一層寒さが増す節分の夜、震えながらも意気揚揚と各々の馴染みの神社やお寺の節分会(せつぶんえ)に向かいます。  一年の無事と家内安全を祈る、大切であり楽しみでもある行事です。趣向を凝らした福引や温かな飲み物の接待、露店が並び、寒さを吹き飛ばす勢いで大いに賑わいます。さて、今回は一年で最も賑わう節分に、起上達磨(おきあがりだるま)で広く知られる「法輪寺」通称“達磨寺”を訪ね、だるま尽くしの小物とおやつと共にご紹介します。 法輪寺(達磨寺)/「札だるま」1000円/075―841―7878/京都市上京区行衛町457/節分会は2月2日~3日9:00~21:00、4日は午前中 ■圧巻のだるま尽くし 心願成就の達磨節分会  上京区・円町、北野天満宮ゆかりの紙屋川のほとりに通称“達磨寺”で親しまれている「法輪寺」が、あります。1718(享保13)年に万海慈源和尚により創建。禅を大衆に広めるべく、戦後「起き上がり達磨堂」を建て、達磨節分会を始めたと言われています。全国から心願成就を祈って奉納された表情も大きさも様々なだるまが8000体余り祀られ、そのだるま尽くしの光景は、圧巻です。  境内はだるまの形に象られた鬼瓦や窓、本堂の中には干支とだるまが合体した土鈴など全国から集めたご住職のだるまコレクションがずらりと並び、見飽きません。節分会では、大だるまに無病息災を願い記したお札を貼り付けるのが習わしです。恒例の総当り福豆付き福引(分福会)は、京都人のお楽しみ。ほのかに甘いハト茶でほっこり和み、だるまの焼き印が入った名物だるま焼きを頬張り、お札付きだるまを持ち帰ります。“だるま”と言えば、倒れても自力で起き上がり、転んだ力の大きさで起き上がる「七転八起」の心。だるまさんにあやかって、そんな一年を過ごしたいものですね。 といろby Tawaraya Yoshitomi/「都色(といろ)~京だるま~」1箱864円/075―352―6603/京都市下京区烏丸通塩小路下ル ジェイアール京都伊勢丹地下1階/営業時間10:00~20:00/無休(特定日を除く) ■京の色に物語を込めて ころんと転がるだるまのラムネ風菓子   だるまの形をしたお菓子を探していたところ、偶然見つけたのが「といろ」の「京だるま」。干菓子用の木型を使用し、連綿と受け継がれてきたお干菓子の技術を活かしたイチゴ味のラムネ風菓子です。小さなだるまさんがころんと転がる姿も愛らしく、口に含むとほろほろとしたお干菓子のような新食感で、イチゴの濃い味と甘酸っぱい風味が口の中に広がります。 「といろ」は、「十人十色の思いを届けるための和菓子」をコンセプトに、2018年にジェイアール京都伊勢丹地下1階にオープンした、1755(宝歴5)年創業の老舗「京菓子司 俵屋吉富」の新しい和菓子のカタチです。昔から愛されてきた干菓子、琥珀や松露など和菓子をベースに、フルーツを組み合わせて爽やかな味にしたりと、創意工夫が施されています。「といろ」と読める水引のデザインが施された小さな箱は、人と人とを繋げるようなお菓子にしたいという思いから。両手に収まる小箱は、京都の色が詰まった宝箱のようで、誰かにそっと贈りたくなります。 竹笹堂 (たけざさどう)/左)プチカルテ「だるまポケット」440円、中央)ミニカード「だるま」385円、右)アートカード「だるま」1320円/075―353―8585/京都市下京区綾小路通西洞院東入ル新釜座町737/営業時間11:00~18:00/定休日:水曜 ■京の路地裏 風情ある辻子(ずし)に佇む木版画工房  京都には数々の辻子(ずし)と呼ばれる、通り抜けが出来る細くて小さな路地があります。往来の賑やかな四条通から綾小路通を結ぶ膏薬辻子(こうやくのずし)は、石畳の風情ある路地。この地で空也上人が平将門の霊を鎮めるため供養したと伝わっており、空也供養(くうやくよう)が訛って膏薬と呼ばれるようになったと言われています。この路地奥の町家に木版画工房「竹笹堂」があります。古くから受け継がれる印刷の技術と言えば「木版印刷」。その歴史は約1300年と言われています。手仕事から生まれる木版は、和紙の上に表されたかすれや色の層の重なりが味わい深く、温もりを感じます。  竹中木版6代目摺師の原田裕子さんは、木版画家であり、図案を起すデザイナーでもあります。店内には一枚ずつ職人さんによって手摺りされた木版画作品から葉書、ノート、便箋などの和紙文具など、和の模様から愛らしいモチーフまで多種多様なアイテムが並び、ずっと座り込んで見ていたくなります。今回は“達磨寺”にちなんで、赤く丸いほっぺが微笑ましいだるま柄のカード類をセレクト。願いをだるまのポケットに記し、叶えたら顔に目を入れるという木版画のプチカルテは、節分の季節の贈り物に添えたくなるカードです。 「ウエストピロー(花)レ・フルール」4070円/プティ・タ・プティ/075―746―5921/京都市中京区寺町通夷川上ル藤木町32/営業時間10:30~18:30/定休日:木曜 ■コロンとだるまさんのように転がして 腰に優しくフィットする低反発の腰枕  今回のプティ・タ・プティのテキスタイル/title:花「レ・フルール」。  子供の頃に遊んだ広沢池のほとりに広がる記憶の花がモチーフとなっています。だるまさんのような形でコロンと転がしてインテリアの一部としてもお楽しみいただけるウエストピロー(低反発腰枕)は、低反発の程よい固さが心地良い腰枕です。嵐山の老舗寝具店「Platz(プラッツ)」とのコラボレーションにより生まれた定番アイテム。椅子に座る時、背もたれと腰の間に挟むと、低反発が体の形にフィットし快適にすごせます。長時間のデスクワークや読書、車の乗車時に腰や首のあたりに当てたり、お昼寝のお供にもぴったりです。 だるまさんに願いを込めて 京を歩いてだるま集め ■「十牛の庭」の縁側で冬の陽だまりを感じながら だるま尽くしを楽しむ  毎年、2月の節分には数万人の参拝者で賑わう“達磨寺”「法輪寺」。四季折々の自然美を生み出す、本堂東側の「十牛の庭」の縁側にも、だるまさんがずらりと並び、どこを見てもだるまで埋め尽くされます。京都を歩くと、だるま小物に出合えることも多いので、“だるま集め”に興じるのも一つの楽しみ方ですね。底冷えを覚悟で、寒さ対策をしっかりして、節分の時にしか味わえない活気ある京都へ、ぜひ来てみませんか? (撮影/竹下さより、編集協力/江下祥子) ナカムラユキ 京都市在住。イラストレーター、テキスタイルデザイナー。著書に『京都さくら探訪』(文藝春秋)『京都レトロ散歩』(PHP)他多数
旅行神社仏閣
dot. 2020/01/22 11:30
SixTONESとSnow Manが明かす下積み時代 「キンプリ」デビューで生まれた焦り、大舞台乗り越え生まれた絆
大道絵里子 大道絵里子
SixTONESとSnow Manが明かす下積み時代 「キンプリ」デビューで生まれた焦り、大舞台乗り越え生まれた絆
SixTONES「Imitation Rain」(左)とSnow Man「D.D.」  1月22日に、SixTONES(ストーンズ)とSnow Man(スノーマン)の2つのジャニーズグループがデビューする。ともに長い下積み時代を経験したグループだが、King & Prince(キングアンドプリンス=キンプリ)のメンバーのデビューに焦りを覚えた時期もあったという。今回はAERA 2020年1月27日号から、2組のデビューまでの軌跡を追った記事を掲載する。 *  *  *  1月22日は、日本のアイドル史に残る日になるだろう。SixTONES(ストーンズ)が「Imitation Rain」を、Snow Man(スノーマン)が「D.D.」を同時リリースし、ジャニーズグループとして初めて同日デビューを果たすのだ。所属レコード会社が違うにもかかわらず、それぞれのCDにお互いの曲が収録されているのも前代未聞だ。  年末年始の両グループの活躍は凄まじかった。大みそかのNHK紅白歌合戦では、総勢70人以上のジャニーズJr.を率いてジャニー喜多川さん(享年87)の追悼企画に出演、華やかなパフォーマンスを披露した。その数時間後には、東京ドームで行われた「ジャニーズカウントダウン2019-2020」に登場、Snow Manはそのまま午前7時からのお笑い番組「新春!爆笑ヒットパレード」へ。さらに翌日は、バラエティー番組「新春しゃべくり007」に2組揃って出演、SixTONESのジェシーさん(23)が披露したモノマネ芸「ドナルドたけしさん」は出演者の大爆笑を誘い、「ジェシー」「ドナルドたけしさん」がTwitterで世界トレンド入りした。  歌番組、ライブ、バラエティー番組……。異なる舞台で、デビュー前のグループとは思えぬ安定した実力を発揮できるのは、この2組の経験値の高さゆえだ。ほとんどがジャニーズJr.として10年以上の活動歴を持つ。たとえばSnow Manの深澤辰哉さん(27)と阿部亮平さん(26)は2004年の入所で、両グループで最長のJr.歴を持っている。深澤さんはこの下積みの長さこそ、自分たちの武器だと話す。 「下積みの期間が長いからこそ、それぞれの個性や特技が養われてきた。デビューさせていただくこのタイミングで、これまで培ったものを一気に出すことができるんです」  デビューに至る道のりは、決して平坦ではなかった。滝沢秀明さん(37)や嵐のメンバーがJr.として活躍していた1998年前後を「第1期黄金時代」とするならば、ここ数年は「第2期黄金時代」と呼ばれ、Jr.を中心としたテレビ番組やライブがあるほど、Jr.人気は高まっていた。両グループはその中心にいたが、18年5月に後輩にあたるKing & PrinceのメンバーがCDデビューを果たす。不安にならないはずがない。当時の心境について、ジェシーさんは19年春の本誌取材でこう答えている。 「後輩がデビューしていく中で俺たちに焦りがなかったわけじゃない。でもデビューまでの時間が長かったからこそできること、任せてもらえることはいろいろ増えたと思う」  SixTONESの結成は15年。メンバーが集うきっかけは、12年4~7月に放送された「私立バカレア高校」という深夜ドラマだ。6人はヤンキーが集まる馬鹿田(まかだ)高校の生徒を演じ、深夜帯としては異例の高視聴率を獲得、同年10月には劇場版が公開された。ドラマで見せたちょっとヤンチャでおバカな“男子感”は、現在のSixTONESの魅力にそのまま通じる。  18年3月に開設された公式YouTubeチャンネル「ジャニーズJr.チャンネル」では、そんな彼らの魅力がストレートに伝わってくる。寝起きドッキリや全員でボケまくりのドライブ旅など、楽屋の雰囲気そのままを見せるアイドルとは思えない爆笑動画を次々と企画。同年10月には、YouTubeが世界各地で行う「アーティストプロモ」キャンペーンに大抜擢される。海外では、ショーン・メンデス、BTS(防弾少年団)など、数億回の再生回数を誇るアーティストが担う大役だ。  この活動の一環として制作された、オリジナル曲「JAPONICA STYLE」のミュージックビデオは、滝沢秀明さんがプロデュースした。和の雰囲気のなかで飛び交う大量の花びら、その中でパフォーマンスする彼らがセクシーかつクールだと、コメント欄には日本のみならず海外からの書き込みが相次いだ。公開2日で100万再生を達成、デビューへの大きな足掛かりとなった。京本大我さん(25)は、YouTubeにおける成功をこう振り返る。 「霧が晴れたというか、ちょっと曇っていたものが解消された気がします。僕らには常に課題があり、そこで結果を出さなくてはいけない。それはありがたいことだと思います。『挑戦してみな』と言われたものを乗り越えてきたことが、今につながっている。結果を出し続けることで、『SixTONESってすごいね』と広まっていくよう、頑張りたいですね」  SixTONESは現在、全国ツアー「TrackONE─IMPACT─」を開催中だ。初日の横浜アリーナでは、デビュー曲をファンの前で初めてフル歌唱したが、ソロをとっていた京本さんが声を詰まらせて号泣。結果を出し続けたことでようやくつかんだ悲願のデビューに、全員で涙する一幕もあった。  Snow Manの前身となる「Mis Snow Man」は09年に結成され、そのころから「滝沢歌舞伎」などに出演。12年5月に岩本照さん(26)、深澤辰哉さん(27)、渡辺翔太さん(27)、阿部亮平さん(26)、宮舘涼太さん(26)、佐久間大介さん(27)の6人でSnow Manを結成した。迫力あるダンスと派手なアクロバットに定評があり、そのスキルの高さから先輩グループのバックダンサーを多く務め、舞台でも活躍してきた。だが、どこか前に出すぎない、職人集団という雰囲気もあった。  その雰囲気を一変させたのが、19年1月の新メンバーの加入だ。当時15歳だったラウールさん(16)、関西ジャニーズJr.を牽引してきた喋り上手の向井康二さん(25)、モデルとしても活躍する目黒蓮さん(22)の3人が加わり、9人体制のSnow Manが誕生したのだ。  当然、ファンの間で賛否両論が巻き起こった。そんなとき9人が任されたのが、19年の「滝沢歌舞伎ZERO」だった。  滝沢歌舞伎は06年、「滝沢演舞城」の名前でスタートした、滝沢秀明さん主演の時代劇ミュージカルだ。18年に滝沢さんが芸能界を引退したことで、Snow Manがメインキャストを引き継いだのだ。プレッシャーを伴う仕事に一丸となって立ち向かうなかで、グループの絆は深まっていった。  公式YouTubeチャンネル「ジャニーズJr.チャンネル」では、メンバーの人柄のよさが伝わる動画が、次々とアップされた。最年少のラウールさんが食べたい寿司ネタを当てる、ラウールさんが喜ぶお土産を競い合うという動画からは、「ラウールを見守る8人のお兄ちゃん」という構図が浮かび、新たなファンの獲得につながった。昨年3月に横浜アリーナで行われた単独ライブは、大盛況のうちに幕を閉じた。佐久間さんはこう振り返る。 「正直、最初はぎこちないところはありました。でも、滝沢歌舞伎や横浜アリーナでのライブといった大きな仕事を経験し、メンバー一人ひとりが自分の責任を実感した。その経験を経て、今の素晴らしい形になれたのだと思います」  2組同時デビューが発表されたのは19年8月、19年ぶりとなるジャニーズJr.単独ドーム公演でのことだった。同年6月16日、ジャニーさんが倒れる2日前に下した決断だ。多くの思いを背負い、1月22日、2組のデビューは現実のものとなる。(ライター・大道絵里子) ※AERA 2020年1月27日号より抜粋
AERA 2020/01/21 11:30
あゆ、エリカ、小室、AAAの浦田、エイベックスの松浦会長の周囲がザワつく理由
立花茂 立花茂
あゆ、エリカ、小室、AAAの浦田、エイベックスの松浦会長の周囲がザワつく理由
浜崎あゆみ(C)朝日新聞社 小室哲哉(C)朝日新聞社 「エイベックス」グループが何かと話題を振りまいている。  昨年11月には女優・沢尻エリカが合成麻薬MDMAの所持容疑で逮捕されると、昨年の大みそかには同年4月に深夜のコンビニエンスストアで酒に酔った勢いで女性に対し暴行を加えたとして逮捕され、芸能活動を自粛していた「AAA」のリーダーの浦田直也のグループ脱退およびソロ活動が発表され、「AAA」は年内で活動休止となった。  さらに、1月には歌手・浜崎あゆみが突如昨年11月に極秘出産していたことを発表して世間を驚かせた。 「浜崎さんの出産に関しては、父親は“年下の一般男性”とのことですが、昨年8月に発売された自伝的小説『M 愛すべき人がいて』の中で松浦勝人会長との過去の交際を告白していること、その松浦会長が16年に離婚していた事実が今月になって明らかになったことから、芸能界でもさまざまな憶測が囁かれています。20代のバックダンサーが本命とされていますが真実はやぶの中で、今後も注目を集めるのは間違いないでしょう」とは他の大手芸能事務所のマネジャー。  他方、沢尻に関してはこんな話も。 「沢尻さん、浦田さんとも今後も会社の方で芸能活動をサポートしていくようです。沢尻さんに関しては保釈後そのまま慶応大学病院に入院しましたが、すでにある程度の診断結果は出ているようで、事務所の幹部が高級寿司を差し入れしたなんて話も聞こえてきます。事務所サイドは沢尻さんの女優としての才能や価値はいまだに高く評価しており、見捨てるよりも今後もサポートを続け、薬物依存から脱却して更生し、女優として芸能界で輝きを放つロールモデルになってほしいと思っているようです」(民放テレビ局情報番組スタッフ)  もっとも、「保釈の際、周りのスタッフの勧めを拒んで集まった報道陣の前に姿を現わして謝罪することなく、裏口から用意された車に乗り込み、雲隠れするかのようにそのまま入院するなどエリカ様らしいマイペースぶりは相変わらずですからね。事務所の思惑どおりいくのかは分かりませんけどね」(同テレビ局の番組スタッフ)   また、浦田についてはグループからの脱退ばかりが強調されているが、同社のスタッフはその内実をこう語る。 「近年はドームツアーも成功させるなど、『AAA』は今やウチの看板アーティストとも言える存在。それだけにグループの人気を維持するため、不祥事を起こした浦田の脱退はやむなしといったところ。AAAは年内で活動停止となりますが、会社としては今後も浦田の音楽活動をサポートしていく方針です。元々、『AAA』はデビュー当時から松浦勝人会長自らがプロデュースを手掛けており、グループはもちろん、メンバーそれぞれに対する思い入れも強い。松浦会長としてはグループを離れても浦田のことを見捨てるつもりは毛頭ないでしょうし、その意向が強く反映されている格好です」  実際、松浦会長は先述の発表があった昨年大みそか、自身のSNSで浦田本人からもらったという謝罪の手紙をアップして見せるなどのアクションも起こしている。  トップの意向もあってか、沢尻にしろ、浦田にしろ、不祥事を起こしたタレントに対しても見捨てることなく、救いの手を差し伸べる傾向が見て取れる同グループだが、例外とも言える存在が90年代に数々のヒット曲を世に放ち、名プロデューサーとして名をはせた小室哲哉氏だ。  小室氏といえば、一昨年1月に看護師女性との不倫疑惑が「週刊文春」で報じられたことを受けて記者会見を行い、不倫関係を不定する一方で、音楽活動からの引退を表明。  最近では妻のKEIKOと離婚調停中であることが明らかとなり、小室氏が別居中の生活費などの婚姻費用としてKEIKOサイドに掲示した額が「月額8万円」であることなどが物議を醸している。  そうした中、2019年12月28日、松浦会長が突如自身のツイッターで、 <>あの人を助けるためにお金を貸したけど、その人は返す気もないという。意味がわからん。2023年に一括返済の予定だけど、あなたの得意なあれを差し押さえでもする以外方法はないなぁ。本当にあの時、全てはあなたがいたおかげだと言ったことを真に受けているならそろそろ夢から目覚めろと言いたいね>とツイート。  さらに、<あの人はいつも暖簾に腕押しだったな。いい加減に目覚めて欲しかったけど無理ですね。ならばすることをするだけ。あー、Twitterってつぶやきですよね。何を呟こうと僕の自由でしょ>など意味深なツイートが続く。  フォロワーから小室氏についてのツイートなのかツッコまれると、<そういう人だと思ってたけどね,ぼくはお金はいらない。だけどね。。KEIKOをほっておいて、挙げ句の果てに僕にまでそんなこというって、どういうことなのかなぁ>とKEIKOの名前も出したうえで、<小室さんにまた名曲をかいてもらきたいけど無理なのかな。何年もヒット曲ないもんね。ほんと頑張ってもらいたいけど、松浦くんとはもう10年も付き合いづらい関係なんだ、とか言われちゃうと俺も萎えちゃうわ>と苦言を呈した。  その後、同月30日には<さっき成田空港で小室さんから電話がありました。来月2人で話すことにしました。僕が妥協するわけですかね。もうこれ以上は小室さんについては書くのは辞めると言いました。だからそれは守りますが、会談が決裂したら知りません。そりゃそーでしょ>とツイッターで明かした。  松浦会長のツイートからは小室氏に対する怒りの感情が伝わって来る。これに対して、インターネット上では<エイベックスも小室さんのおかげでかなり稼いだわけだし、さすがに言い過ぎでは?>、<松浦さんは5億円詐欺事件の時、ポケットマネーで解決金を建て替えたわけだから、今の小室に対して色々と言いたい気持ちも分かる>など、さまざまな意見が飛び交っているが…。 前出の同社のスタッフはこう語る。 「小室さんの引退会見についてはウチの会社の方で仕切りましたが、その後は一般人になるということで講演会の仕事などは独自にオファーを受けているようです。それでいて、借金の返済は遅々として進まず、その意思すら曖昧な感じですからね。それでいて、いまだにウチに所属しているKEIKOさんを泥沼の離婚訴訟で切り捨てようとする一方で、一部報道では看護師の女性とはいまだに親密な関係を続けているようですし、松浦会長が怒るのも当然でしょう。確かに小室さんは会社の功労者ではありますが、会社の経営が厳しくなった時にもそれ相応の破格の扱いはずっとしてきましたし、世間に物議を醸す過激な言動も多い松浦会長ですが、今回ばかりは社内でも肯定的な見方が大半です」  松浦会長と小室氏による直接会談、その結果が何とも気になるところである。(立花茂) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/01/18 18:03
41歳でママになった浜崎あゆみが葛藤し続けた“母親”の存在
宝泉薫 宝泉薫
41歳でママになった浜崎あゆみが葛藤し続けた“母親”の存在
出産を発表した浜崎あゆみ (C)朝日新聞社  ウエディングドレスを着ると、婚期が遅れる――よく言われるジンクスだ。芸能人の場合、仕事で着る機会も多いので、そのつどこれが話題になったりする。そんな衣裳を「紅白」や自身のライブで、何度となく身にまとってきたのが浜崎あゆみだ。2010年には「ウエディングドレスが似合うと思うアーティスト」(レコチョク調べ)で1位に輝いたりもした。  では、彼女の「婚期」がどうかというと、32歳のとき、豪州人俳優と米国で結婚。しかし、日本では婚姻届を出さないまま、1年後に離婚した。35歳のときには、米国人大学生と米国で結婚して、日本でも婚姻届を出したが、2年半で離婚。そして今年の元日深夜、彼女は公式ファンクラブのサイトでこんな発表をした。 「私、昨年末に天使を産みママになりました」  ただし、父親がどういう人物なのかは明らかにされていない。20代の日本人ダンサーとも報じられているが、入籍したという話も聞こえてこない。「婚期」が遅れたかどうかはともかく、彼女と結婚の相性はいまひとつなのだろう。 ■ドラマ「未成年」での出産  とはいえ、彼女が41歳にして母親になったというのは感慨深い事実だ。それは昨年、小説『M 愛すべき人がいて』(小松成美著)で話題になったエイベックス創業者・松浦勝人氏、さらにはTOKIOの長瀬智也といった大物たちとの恋愛遍歴などを思い出すからというだけではない。じつは彼女、Jポップの歌手としてブレイクする前に、けっこうな芸能活動歴がある。なかでも語り継がれているのが、95年のドラマ「未成年」だ。  いしだ壱成や香取慎吾、反町隆史らが廃校に立てこもる若者たちを演じた社会派群像劇で、彼女は桜井幸子や遠野凪子(現・なぎこ)とともにヒロイン的存在だった。ロケが行なわれた廃校は福島にあり、出演者たちが滞在した温泉旅館に偶然泊まったことがある。ドラマのポスターにサインが寄せ書きされていて、しみじみとしたものだ。  ちなみに、浜崎が演じたのは国会議員を父に持ち、バレエをたしなむ令嬢で、家庭教師によって妊娠させられる役。河相我聞扮する若者グループのひとりのもとに走り、廃校で出産する。つまり、彼女は17歳にして、役の上では母親になっていたのだ。 ■7歳からキッズモデルとして活動  これに限らず、女優としての彼女はとかく男に襲われるような仕事が多かった。14歳でのデビュードラマで長瀬と出会った作品でもある「ツインズ教師」しかり、映画「渚のシンドバッド」しかり。また、女優と並行して、グラビアアイドルもやっており、それなりにセクシーな写真集も出していた。  その前には地元・福岡で、7歳からキッズモデルとして活動。デパートや銀行のポスターに登場するなどした。中学に入ると不良っぽくなり、体育祭で“ウンコ座り”をしてメンチを切るといういかにもな写真をのちに発掘されたりもしている。  アイドル女優だった時期の雑誌インタビューでは、 「堂々と『これは私の中学時代ですよ』って言えますけどね。今までの自分を恥じてないから、過去を隠す人間にはなりたくないって思ってるんです」  と振り返り、ひとつの葛藤として胸を張っていたものだ。また、98年にはラジオ「オールナイトニッポン」でこんな発言をしている。 「お父さんがいないっていうこととかは、特別なことだと思ってなくて、すごく普通だと受け止めてきてて…」  幼い頃に両親が離婚し、父が蒸発。シングルマザーに育てられた彼女はけっして裕福とはいえない環境のなかで葛藤してきた。芸能界での成功を夢見て、ときにヨゴレ役もこなしながら、上を目指していたのである。 ■18歳で単身渡米しレッスン  そんな浜崎を大ブレイクに導いたのが『M』にも描かれた松浦との出会いだ。絶頂期に向かいつつあった99年に、彼女はテレビでこんな発言をした。 「そのプロデューサーが『お前は歌える、詞も書けるよ』って。初めて、自分に何かができるって言ってくれた人」(「ターニングポイント」)  彼の勧めで歌のレッスンに取り組み、18歳の夏にはニューヨークに単身滞在してボイストレーニングを受けた。ただ、成功できるかどうか、半信半疑だった彼女はこれをやや退屈に感じていたようだ。  が、現地の貧しい男の子と出会い、無気力な人生観を語ったところ「それはいけない。今は二度と来ないんだから」と諭されたという。それ以来、歌手修行を「もっと上に行くためっていう気持ち」で「時間がすぎるのを早く感じるくらい」積極的にやれるようになったと明かしている。  つまり、こうした経験を通して、彼女は「自信」と「やる気」を得たわけだ。 ■氷川きよしも羨望した存在感  98年、19歳で本格的に歌手デビューして以降の活躍は説明するまでもないだろう。01年からは、日本レコード大賞を3連覇。ひとつ年上ながら遅れてブレイクした同郷の氷川きよしが「僕が演歌で一番売れてても雲泥の差だった。顔も小さくてキレイで、 カリスマ性を研究してた」と羨望したほどの存在感は、平成の歌姫と呼ぶにふさわしいものだった。  しかし、その助走期間ともいうべき本格的歌手デビュー以前の芸能活動について、浜崎のプロフィールからは除外されている。公式サイトにも、女優としての出演歴などは掲載されていない。当時もアイドル雑誌の巻頭を飾ったり、演技力が評価されたりする有望株だったのだが、本人にとってはヤンキーだったことよりも消したい過去なのだろうか。  ただ、彼女の人生観を思えば、わからないでもない。前出のラジオで、彼女は母親のことを「すごく自分勝手」「よくいえば、すごく自由に生きてる」と評した。たとえば、彼女のことで中学から呼び出された際、お腹が痛くなったと教師に言って行くのをやめるような人だったという。そんな母を見て、彼女も「自由にやっていいんだな」と感じたともいう。  そういう意味で、女優やグラビアの仕事はあまり自由に思えず、やらされているような気分だったのかもしれない。自分で書いた詞を、自分を好きになれるようなファッションやメイクで歌うようになって初めて、彼女は芸能活動に自信とやる気、そして達成感を得られるようになったのだろう。 ■同じシングルマザーの母親の存在  かと思えば、母親について「この人と同じような間違いは犯したくないと思った」とも語っている。自由すぎて離婚してしまい、シングルマザーとしての子育てをせざるをえなくなった母親。ウエディングドレスを何度も着るほど、幸せな結婚への憧れも強そうな彼女が、反面教師にしようと思ったのも無理はない。  とはいえ、彼女も二度の離婚を経験。今回の出産についても、父親である男性と入籍しないなら、シングルマザーとして子育てをしていくことになる。  ちなみに、現在、彼女は都内の豪邸に母親と住んでいるという。前出のラジオの頃は距離を置いていたようだが、今は極めて仲がいいらしい。そこには結局、似た人生を歩みつつあることの親近感が作用しているのかもしれない。  いずれにせよ、浜崎は自由に憧れ、仕事に恋に葛藤を繰り返し、それを歌に反映させることでスターになった。そして、役の上で出産した17歳のときから24年後に、実人生でも母親となったわけだ。妊娠中も、また、出産直後にもライブを行なったことが話題になったが、タフな母親ぶりはまさにこれまでの葛藤によって培われたものだといえる。  美しさだけでなく、強さをアピールしたことで、彼女はファンに支持される新たな拠りどころを得た。その姿は同世代の女性たちに、勇気や希望を与えるものでもあるだろう。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。
dot. 2020/01/16 11:30
【現代の肖像】クリエイティブディレクター・水野学「原点に立ち戻りデザインする肖像」<AERA連載>
【現代の肖像】クリエイティブディレクター・水野学「原点に立ち戻りデザインする肖像」<AERA連載>
鉄道車両や、自身が腰かけているベンチも水野のデザインディレクションによるものだ(撮影/岡田晃奈) 水野が率いるgood design companyのメンバーたちと。東京・代官山のオフィスには、テラスや屋上もある。高台にあって「気持ち良く抜けている」(水野)ことがとても気に入っていると語る(撮影/岡田晃奈) 鎌倉にも拠点があり、週末を家族や社員と過ごすことも多い。最愛の息子は小学生。海に東京ディズニーランドに海外旅行にと、家族で頻繁に出かける。本好きは、息子に遺伝したと笑う(撮影/岡田晃奈) 水野を特集する雑誌もあるデザイン界の大御所の一人。だが、そんな素振りはまったく見せない。人を喜ばせ、笑わせる「愛されキャラ」は大きな魅力だ(撮影/岡田晃奈) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  くまモンのデザインを始め、キリンやNTTドコモ、2014年からは相模鉄道の事業全体のクリエイティブを担ってきた。ひっきりなしに仕事が舞い込む売れっ子のクリエイティブディレクター。水野学を特集する雑誌もあるほどだ。水野のデザインはただ美しさだけを追求したものではない。お金も第一には考えない。水野が考えるグッドデザインとは一体何か。  首都圏では、電車といえばシルバーが思い浮かぶ。だが、目の前を通過していったのは、鮮やかなネイビーブルーの車両。神奈川の横浜と海老名、湘南台を結ぶ相模鉄道(相鉄)で、4月に運転を始めた12000系だ。落ち着いたグレーのシート、楕円形(だえんけい)のつり革、昼夜で色合いの変わる照明など斬新な発想の内装も手伝って、この新しい車両は乗客から高い支持を得ている。車両のデザインと監修を手がけたのが、水野学(みずの・まなぶ)(47)だ。 「秋からは東京都内に乗り入れます。そのときに、どこの電車なのか、すぐにわかるようにしたかったんです。一色の全塗装は実はシルバーに塗装するより環境負荷が少なく、メンテナンスのコストもいいんです。ネイビーブルーは、横浜の海の色をイメージしました。相鉄の最大の魅力は、横浜という地ですから」  水野は2014年から、相鉄のブランドイメージと認知度向上のためのプロジェクトでクリエイティブディレクターを務めている。「これまでの100年を礎に、これからの100年を創る」をコンセプトとした、相鉄の鉄道事業全体のクリエイティブを担ってきたのだ。駅舎は煉瓦(れんが)やガラスなど横浜を象徴するような素材にこだわり、制服は濃紺の色にリニューアルされた。プロジェクトを依頼した相鉄ホールディングスの経営戦略室課長の鈴木昭彦(45)はこう語る。 「デザインは最終的な形や色などではなく、基本コンセプトこそが大事だと考えていました。水野さんはそのことをとてもよく理解されていまして、似合わない服は着せません、最終的には会社の売り上げを伸ばすことが目的です、と明確におっしゃられたことが強く印象に残っています」 ■小5のとき交通事故に、学校に戻るとイジメに遭う  キャラクターの「くまモン」の生みの親として広く知られる水野だが、その仕事領域がデザインという言葉にまったく収まらなくなっていることは、まだまだ知られていない。 「広告の仕事で企業に携わることが少なくありませんでしたが、強く感じたのは企業が広告の力だけではなく、クリエイティブの力を欲しがっているのではないか、ということでした」  ここに早くから気づき、2007年から水野とタッグを組んで会社を成長させたのが、中川政七商店だ。1716年創業の麻織物の老舗で、生活雑貨を中心としたオリジナル商品の製造や全国直営店を展開する。水野はロゴやショッピングバッグなどのデザインから出店戦略まで、事業に深く関わった。会長の中川政七(45)は言う。 「ただ美しいデザインをするのではなく、一緒に商売や会社を考えてくれるような人を探していたんです。お会いして最初に、まだ他に候補がいますと正直に言ったんですが、帰るときには、水野さんに決めました、と伝えていました。ちゃんと経営者の言葉が通じる人だったからです」  水野はデザインの世界で新しい領域を切り拓(ひら)いてきた。だが、その軌跡は平坦(へいたん)ではなかった。  父・恵司(79)、母・マリ子(78)の一人息子として東京に生まれ、神奈川県茅ケ崎市で育った。海を眺めるのが大好きだった。後にデザインの道に進むことになるが、子どもの頃は意外にもスポーツ大好き少年。かけっこはいつも1番。だが、時には1番をあえて譲ってあげる子どもだった。 「勝ちとか負けとか、あまり好きじゃなかったんです。それがはっきり自己認識できたのは大学生の頃で、映画『ブルース・リー物語』を観たときです。目的は殺傷や勝ち負けではない、真理の探究である、というセリフにピーンと来て。あ、僕がずっと考えてきたのはこれだったんだ、と」  水野の大人びた考え方に、多大な影響を与えたのが、母のマリ子だ。間違っていることは許すな。私腹を肥やすな。友達を大事にしなさい。人が喜ぶなら自分はどうでもいい。大した存在ではないと知れ……。母の口癖は水野に刷り込まれた。 「曲がったことが嫌いで、痛くても痛いと言うななど、とんでもなく理不尽なことを言い出したりする。ただ、おかげで強くなれた気がします」  強烈な母だった。生命保険のセールスレディーをして家計を支えていたかと思うと、水野の高校時代にはスナック「ろくでなし」を開店。人が驚くほどのカラオケの腕前もあって、店は繁盛した。息子を厳しく育てたことをマリ子自身、認める。 「世界一、可愛かった。世界一、愛していますよ。でも、自分が愛するだけじゃなく、世の中のみんなに愛される子どもにしたかった。それが母親の責任だと思っていました。あの子のためを思って、箸の上げ下ろしから態度まで厳しくしたんです」  一方で、愛情もたっぷり注いだ。幼い頃から毎日のように海に連れて行った。動物が好きだとわかると、週に何度も上野の動物園に連れて行った。学校を休ませ、東京ディズニーランドに行ったこともある。そんな息子が危機にさらされたのは、小学5年のとき。交通事故に遭う。マリ子は言う。 「靱帯(じんたい)がぐしゃぐしゃになって、歩けなくなるかもしれないと言われて。その晩、北海道から九州まで全国の病院に必死で電話をかけました」  東神奈川にいい病院が見つかり、歩けるようになったが、水野は2カ月の長期入院を余儀なくされた。好きな運動もできない中、絵を描くことの得意さを再認識するきっかけになった。一方で、松葉杖をついて学校に戻るとイジメに遭う。中学に入ると、ナメられたくないと横道に逸(そ)れた。勉強もしなくなり、進学校への受験はあきらめた。  水野の心の救いは、学区内で一番の進学校に通い、音楽や本の趣味も大人びていた中学の同級生だった。高校は違ったが、毎日のように会った。 「何のために生きるのか。何のために働くのか、勉強するのか。彼がよく言っていたのは、とりあえず、で生きるのは嫌だ、と。彼に会わなかったら、もっと違った人生だったと思います」 ■忙しすぎて25歳で失業、毎日もやしを炒めた  進路を選択する時期が来た。水野は得意な美術を生かし、デザイン方面に行くことを決める。 「それで美大受験のための予備校に通ったんですが、ここで気づいたんです。もしかしたら、これはジャンピングチャンスじゃないか、と」  同じ予備校に進学校の高校生たちも来ていた。このまま美大に進んだら、高校のランクのようなものは帳消しになると気づいた。そしてもうひとつ、大きな気づきが浪人時代にもあった。 「僕は絵は才能だと思い込んでいたんです。ところが、予備校の仲間が、ここはこうしたほうがいい、これを覚えておくといい、と教えてくれて。すると良くなるんです。あれ、と思って。絵がうまいのは、知識によるところが大きいんだ、と」  一気にデッサンの成績が伸びた。1浪の末、名門・多摩美術大学に合格。だが、入学後にショックを受ける。凝ったファッションに身を包むなど、自己表現にこだわる学生が多かったからだ。水野は、いわゆる美大生っぽいことが苦手だった。あえて、らしくないことをした。ラグビー部に入部。練習で汗を流し、試合でぶつかりあった。予備校講師やカラオケボックス店員のアルバイトで高額の画材代を稼ぎ、国内を貧乏旅行。フランス、イタリアを2カ月弱で縦断したりもした。 「現地に行って、印象派がどうしてあんなに淡い色を使ったのかがわかった。光が違うんです。わからなかったことがわかることが、面白かった」  卒業後は、大手広告代理店に行けるものだと勝手に思い込んでいた。しかし、就職活動は惨敗。ようやく決まったのは、小さな広告制作プロダクションだった。だが、1年経たずに辞めてしまう。 「時代もあったんだと思いますが、とにかく猛烈に忙しかった」  見つけた転職先は、デザイン界では有名な会社。ところが、ここも1年足らずで退社。さらに忙しかったからだ。朝まで働いて、それから同僚たちと一緒に飲みにいくこともあった。この生活は続けられない、と思った。25歳で失業。時間があるうちに、とヨーロッパ旅行に出た。帰国後はハローワークに通った。それ以外は、日がな一日、よく書店で過ごした。 「あまりに長く居すぎたので、店員と間違えられたこともありました(笑)」  ビルの展望台に上がったり、ベンチに座って人を観察したりもした。貯金が底をつくと、消費期限ギリギリのもやしを買ってきては、家で炒めてよく食べた。数円のもやしを毎日買いに来るのを見かねた八百屋から、キャベツをタダでもらったこともあった。 「唯一の支えは、活躍し始めた友人たちの存在でした。あいつらがやれるんだから、自分にもやれるはずだ、と言い聞かせて」  転機は、友人の結婚報告のDMのデザインを頼まれたこと。懸命に作った。すると、それを見た人から仕事の依頼が来た。必死で作った。すると、また次につながった。こうして水野は独立を果たすことになる。定食屋で380円の肉豆腐定食が食べられるようになった。だが、半年も経たないうちにとんでもない行動に出る。余裕もないのに、オフィスを借りてしまうのだ。 「これも母の影響なんですけど、入った金はどんどん使え、と。だから、どんどん本を買い、設備も買い、人も雇いました」 ■役に立つデザインを、美しいだけでは意味がない  仕事の声をかけてもらえることが何よりうれしかった。会社勤めの時代とは意識が変わった。仕事が来たらどんなに忙しくても断らない、徹夜しようが何をしようが最善を尽くす、と決めた。自分にできるのは、そのくらいしかないと思った。 「今では褒められた話ではないですが、最高で5日連続徹夜しました。1秒も寝ませんでした」  この頃から水野の底力を見抜いていたのは、会社員だった頃に友人の紹介で知り合ったコピーライターの蛭田瑞穂(48)だ。 「外見からは想像がつかないんですが、とにかく肝っ玉が大きいんです。これは間違っている、納得がいかないと思うと、きちんと口に出す。コンビニ前でたむろして通行の邪魔になっている若者にも注意したりしていましたから。これは仕事でもそうで、クライアントでも協力会社さんでも、はっきり物申していました」  お金を第一に考えない。それも水野のこだわりだった。広告の依頼が来たのに、広告は作らないほうがいい、とアドバイスしたこともある。 「話を聞いて、これは広告で本当に目的を達成できるのか、と思ったからです。なけなしのお金の大事さは、自分でよくわかっていましたから」  常に本質を見ていた。デザインは問題を解決するためのツールだということには、早くから気づいていた。美しいだけのデザインを作っても意味がない。大事なことは、目的を達成すること、なのだ。 「何より考えていたのは、役に立つことでしたから。そもそも相手の役に立たないと、僕たちは次にはお声がかかりません。そういう世界で生きてきたんです」  答えがどこにあるのかも見極めようとした。 「広告でも商品でも、何かを作ろうとするとき、市場を調査しがちです。でも、そこには答えはないんです。答えは必ず自分の中にある。だから徹底的に調べる。オリジン、原点に立ち戻るんです。例えば、享保元年に創業した中川政七商店には、300年前の看板に戻しませんか、と提案しました。それが、らしさ、を生むからです」  生地のオリジンを知るためだけにベルギーに飛んだ案件もあった。半年間、デザインをせずにヒアリングだけしていた案件もあった。丁寧な仕事は評判が評判を呼び、仕事のスケールは大きくなっていく。NTTドコモ、キリンなど大手クライアントの仕事も飛び込んでくるようになった。オフィスをまた移転、人もスペースも増やした。かつて就職先として憧れていた大手広告代理店に、水野から発注するようにもなっていった。  そして水野の特徴がもうひとつある。頼まれていないことまでやってしまうのだ。必要だと思えば、勝手に作ってしまう。  実は、「くまモン」もそうだった。熊本県の魅力を再発見、発信するキャンペーン「くまもとサプライズ」のロゴマーク制作が、もともとの水野の仕事だった。依頼した小山薫堂(55)はいう。 「ロゴを見せてもらった後に、実はおまけがあるんです、と言われまして。サプライズというくらいなら、びっくりするものが欲しいですよね、と。それが、『くまモン』だったんです。名前もついていて。とてもいいと思いましたし、何より県にプレゼンテーションするときに喜ばれると思いました。よくあることなんですが、頼んだこと以上の仕事が戻ってくるのが、水野さんなんです」  超多忙な中、どうして水野にはこんなことができるのか。その一端を垣間見たと語るのが、元TBS社員で、結婚後に水野の会社でプロデューサーを務めることになった妻の由紀子(45)だ。 「初めてクライアントとのミーティングに参加したとき、本当にびっくりしたんです。アイデアの出るスピードが異常に速かったから。私もテレビ局でアイデア出しの会議をたくさんやっていましたが、その何十倍もの速さで出てくる。しかも、どれもが面白いアイデアなんです。世の中にはこんな人がいるんだ、と驚きました」 ■仕事を引き受ける基準はそこにどんな志があるのか  アイデアの源泉のひとつは、間違いなく知識だ。事務所には水野が集めた膨大な量の美術書やデザイン書がずらりと並べられている。ハイデガーや西田幾多郎、福岡伸一など哲学書やノンフィクション系の本を好んで読み、テレビもよく見る。あちこちに出かける。そして雑誌、とりわけ女性誌に目を通す。その数は月に数十冊にのぼる。 「例えば、似た年代向けで複数の女性誌がありますが、実は微妙に違うんです。その違いがわからない人が多い。でも、わからないとその層に向けてアプローチはできません。どんな人が何を求めているか。それは知っておかないといけない」  だが、水野が知ろうとするのは、最先端の情報だけではない。初対面で意気投合して朝まで飲み明かし、今は家族ぐるみの付き合いが続くスタイリストの伊賀大介(42)とよく見に行くのは、後楽園ホールでのボクシングだ。伊賀はいう。 「美術展も行くし、気になるお店も行きますよ。でも、知識欲という部分だけで終わらない。そこが水野さんなんです。4回戦の殴り合いを見て、安い飲み屋でレモンサワーを飲む。これもまた、まぎれもない真実の世界です。水野さんは、そういうものをちゃんと見ようとするんです」  FMラジオの番組審議委員会で10年以上にわたって一緒だった阿川佐和子(65)が気づいたのは、水野の観察力の鋭さだった。 「最先端の尖(とが)った世界で、作り出したり発信したり、ときには過激に闘わなければならないことも多いと思うのに、とにかくいつも謙虚で人なつこい。場の空気や相手の気持ちや時代の変化をピンと感じ取って、さりげなく疑問を提示することが上手。人の心をなだめ、人の話によく耳を傾け、そしてよく笑う人です」  仕事を選ぶ基準は、そこにどんな志があるのか、だ。結果的に人類にいい影響を及ぼさなかったら、その仕事は失敗だとまで言い切る。 「僕は、とにかくみんなに楽しくなって欲しいんです。それが僕には楽しいんです。だから、ホテル、マンション、街、いろんな仕事をしてみたい。というのは、公・水野学としてのコメントで、私・水野学としてはやっぱりサザンオールスターズの仕事をいつかやってみたい、かな(笑)」  どんな仕事も絶対に手を抜かずに全力でやってきた。その先に待っていたのは、想像もしていなかった未来だった。独立から21年。あの頃と、意識はまったく変わっていない。  (文中敬称略) ■みずの・まなぶ 1972年 東京都生まれ。後に神奈川県茅ケ崎市へ転居。   92年 1年浪人の後、多摩美術大学グラフィックデザイン学科に入学。   96年 パブロプロダクション入社。   97年 ドラフト入社。   98年 独立し、good design company設立。住んでいたワンルームマンションの押し入れを机代わりにしてMacを置き、仕事が始まる。   99年 知人の紹介で「Francfranc」の年賀状を作ることに。評価され、翌年、ポスターを手がける。 2000年 大学の同級生だった小林賢太郎率いるラーメンズの公演ポスターを担当。   03年 JAGDA新人賞。   04年 別案件のプレゼンテーションの場で、水野がクライアントのキリンビバレッジに提案を行い、スポーツドリンク「903」が商品化。   06年 ケータイクレジット事業の先陣を切ったNTTドコモの「iD」のシンボルマークをデザイン。   07年 首都高速の交通安全プロジェクト「東京スマートドライバー」のシンボルパターンを作る。   08年 「LUMINE」が運営するショッピングサイトの開設にあたり、ロゴ、ポスター、CMなど広告全般を担当。東京ミッドタウンのブランディングプロジェクトを担当。   10年 今や世界的な著名企業とのコラボ商品も生まれている「くまモン」のキャラクターをデザイン。       単著『アイデアの接着剤』刊行。『アウトプットのスイッチ』『センスは知識からはじまる』など、後に刊行した書籍が次々にヒット。   12年 「久原本家 茅乃舎」のブランディングプロジェクトが始まる。マークを刷新。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス特別招聘准教授として「ブランディングデザイン」の講義を担当。米津雄介、中川政七、鈴木啓太と4人で手がけるブランド「THE」がスタート。翌年ショップもオープン。   13年 毎日放送「情熱大陸」に出演。   15年 オイシックスのブランディングプロジェクトが始まる。       現在は、ゼロからのブランドづくりをはじめ、ロゴ制作、商品企画、パッケージデザイン、インテリアデザイン、コンサルティングまでをトータルに手がけている。 ■上阪徹 1966年、兵庫県出身。早稲田大学卒。著書に『社長の「まわり」の仕事術』『JALの心づかい』『マイクロソフト 再始動する最強企業』他多数。近著に『プロの時間術』。 ※AERA 2019年9月16日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/01/16 11:30
水曜どうでしょう・藤村忠寿Dが明かす大泉洋の必死さの理由 「僕が屁が出るまで笑わないと面白くない」
水曜どうでしょう・藤村忠寿Dが明かす大泉洋の必死さの理由 「僕が屁が出るまで笑わないと面白くない」
「水曜どうでしょう」の名物チーフディレクター、藤やんこと藤村忠寿さん(撮影/写真部・小黒冴夏) 自著にサインする藤村さん。真剣に、愛を込めています…(撮影/写真部・小黒冴夏)  2019年12月25日、北海道限定で復活を遂げた、伝説のローカルバラエティ「水曜どうでしょう」。新シリーズを待ちわびたファンの叫びがネットには溢れ、北海道での占拠率50%という、驚異的な数字を叩き出した。  そしてとうとう1月15日(水)から、東京、名古屋、静岡など全国各地でも順次放送が開始されるのだ。  そんなお祭りムードの中、番組の生みの親であり、構成スタッフの一人でもある藤村Dこと、藤村忠寿さんが、エッセイ集『笑ってる場合かヒゲ~水曜どうでしょう的思考』(朝日新聞出版)を上梓。今も色褪せることなく、多くの人を笑いの渦に叩き込む“仕掛け人”に、話を聞いた。 ■「笑ってる場合かヒゲ!」必死の形相が生む笑い ――いよいよ6本目の「新作」。本放送が終わって18年ぶりです。これだけ時間が経っても新作を待ちわびる人がいる、その人気の秘密はどこにあると思われますか?  人間関係。もう、それに尽きるんじゃないかと思ってますね。番組を始めたとき、大泉洋はまだ北海道の大学生。当時はまだ、誰も彼のことなんて知りません。6年の間には何度か海外ロケにも行ってますが、基本的に僕らが撮影し続けてるのは、大泉洋と鈴井貴之だけ。そして、彼らに指示を出す僕と撮影ディレクターの嬉野さん。この4人の関係性こそがすべてなんです。  オーストラリアへ行こうがベトナムへ行こうが、僕らが興味あるのは絶景でも名産品でも珍しい動物でもなくて、ただただあのふたりが何をやらかすか、っていうそれだけ。そういう意味では、世界中どこだってよかったんです。旅ですから、途中で食事したりもする。僕ら自身は「へえ、こんな料理があるんだ」ってう発見や感動もありますが、そんなもの流したって面白くない。だから食事だの移動だのっていう場面はほんのワンカット、入るだけ。いや、飯食って腹壊した、っていうんなら別ですよ。そんな面白い展開があれば、そこは拾いますけど。平穏無事なところなんて誰も期待してないんですよ。  今回発売したエッセイのタイトルにもなってる「笑ってる場合か!ヒゲ!」っていうのは大泉さんの言葉です。ヒゲ!っていうのはもちろん僕のことなんだけど、これを言う時の大泉さんは大抵が必死の形相なのね。原付バイクが急発進して『安全第一』の看板に激突したり、カヌーが流木に突っ込んだり。それがもうおかしくておかしくて「ぶははははは!」って僕は遠慮なく笑っちゃう。だけど当の本人は「死ぬかと思った」。だからこそ「笑いごとじゃねぇよ!」ってキレるわけですが、必死であればあるほど、見てるほうは面白いんです。毎度毎度「大泉さん、ケガしねーかなー」って思ってましたもん。本当に。  そういう「人間のギリギリの姿」、そういうとき人間ってどうなっちゃうんだろうっていう、それが見たい。必死になってる人間の滑稽さ、だから色あせないんだと思いますね。 ■『どうでしょう?』は現場で演出する「ドキュメンタリー」 ――藤村さんは本当は報道志望だったとか?  そうなんです。地方ローカル局は在京キー局のように大きな予算を使って大掛かりな番組作りなんてできません。ローカルが「現場」としてできる最もリアルな仕事といえば報道なんです。でも実際にはバラエティを作れって言われた。考えましたねえ。  僕ら世代、見て育ったお笑いというとドリフがあります。ドリフは脚本が緻密に練られていて、何度もリハーサルをして作られています。僕がもし、在京キー局のテレビマンだったら、やっぱりドリフのように用意周到に笑わせに行く番組を作ったかもしれない。でも現実はローカル局のスタッフであり、北海道にはドリフのようなエース級のタレントもいないわけです。じゃあどうするか。ちょうど『進ぬ!電波少年』が放送されたころだったこともあり、ああ、あの手法はいいなあ、と思ってました。そこでさっそく、鈴井さんと大泉さんをとにかくカメラで追いかけることにしたわけです。  狙うのはそこで起きるハプニング。ハプニングなんて待ってたって起きるもんじゃない。じゃあ自分から取りに行こう。そのための仕掛けが「旅」だったというわけです。  僕らの番組はときどき「無謀」だと言われます。でも作ってる僕らはひとつも「無謀」だなんて思ってないんですよ。学生時代、徹夜でドライブした経験、あるでしょ? 僕ら、それをやってるだけなんです。その中で何が起きるか。それを丹念にドキュメントしていく。ただ普通のドキュメンタリーと違うのは、被写体自身がそこで起きたことを「どれだけ面白くしてやろうか」と、それこそ必死になってる、っていう点だと思います。  例えば、さんざんドライブしてやっと休憩したのに、キーをインロックしちゃった。ありふれたトラブルですが、大泉洋はそれを必死で面白くします。旅をするふたりがいて、そこに指示を出す僕がいる。僕の姿はほとんど映らないけれど、作り手である僕、そして嬉野Dも積極的にかかわってゆく。そこがドキュメンタリーとは一番違うところで、僕は最初の観客でもあるわけです。  番組には僕の笑い声がずっと入ってますが、「こんなにスタッフの笑い声が入る番組も珍しい」って言われるほど、僕は真剣に笑います。もう、屁が出るまで笑い転げますから。ほんとに(笑)。  でも、最初の観客である僕がそこまで笑えないと、面白い番組にはならないんです。だから大泉さんもずっと必死ですよ。それはアカデミー俳優になっても、変わってません。 ■最新鋭の機材なんていらない!? ――レギュラー放送開始から早20年以上。カメラはどんどん小さくなり、ドローン撮影も手軽になりました。新しい「どうでしょう?」でも、どうですか?  確かにね。ハイビジョンカメラだの4Kだの8Kだの、技術の進歩は素晴らしいですよ。でも、僕らにはほとんど関係ありません。番組をスタートさせた当初も、局から言われました。「せっかく海外ロケ行くのに、三脚も持っていかないのか?」って。僕らは雄大な景色を撮るわけじゃない。どれだけ身軽にハンディに、鈴井さんと大泉さんの表情を逃さずとらえられるか、っていうだけですから。  その一方で、カメラの存在っていうのはすごく大切です。逆の意味で、超小型なものはむしろやめてくれ、って大泉さんはいいます。小さすぎると「撮られてる」っていう意識が薄くなるらしいです。  今時、Go-Proだのドローンだの、小型で高性能な機材はいっぱいあります。でも僕らはカメラを、レンズを大泉さんにどーんと、向け続けます。「大泉さん、撮ってますよ!」っていうアピールです。「何としても面白くしてやる!」っていう大泉洋の気持ちを受け止めるには、やっぱりカメラが中心になくちゃダメなんです。そういう意味では、どれだけ時間を経ても変わらないのは機材も人間も同じかもしれない。  今や大泉洋も、安田顕も大俳優です。でも『水曜どうでしょう?』では、僕ら同じ船に乗った仲間です。よそでどんなに偉くなったって「大泉さん、一番年下なんだから荷物持ってよ」(笑)。  それでいいんだと思います。 (取材・構成/浅野裕見子)
朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/01/15 17:00
「AI崩壊」広瀬アリスがあげた理想の女優の名前とは?
「AI崩壊」広瀬アリスがあげた理想の女優の名前とは?
●広瀬アリス(ひろせ・ありす)/1994年生まれ。静岡県出身。2009年から女性ファッション誌「Seventeen」の専属モデルとして芸能活動を開始。その後女優業にも進出すると、17年にNHK連続テレビ小説「わろてんか」に出演し話題となった(撮影/写真部・掛祥葉子) 映画「AI崩壊」では事件の捜査に奔走する新人刑事役を演じた広瀬アリスさん(撮影/写真部・掛祥葉子) 「米倉涼子さん・篠原涼子さん・天海祐希さんのようなかっこいい女性に憧れます」と語る広瀬さん(撮影/写真部・掛祥葉子)  AIが人間の生活に欠かせない存在になった10年後の日本。原因不明のAIの暴走で社会が大混乱に陥る様子を描く、映画「AI崩壊」が2020年1月31日に公開される。  事件の捜査に奔走する新人刑事、奥瀬久未役を演じた女優の広瀬アリスさん(25)が、映画公開を前にインタビューに応じ、役作りや現場での苦労など、撮影の舞台裏を明かしてくれた。 ――役作りにあたって、撮影前に髪の毛を30センチも切ったそうですね! 広瀬(以下、省略):刑事役なので、女性らしさはいらないかなと。ボーイッシュな雰囲気を出すためにバッサリ切りました。「いっちゃえ!」って勢いです(笑)。 ――髪を切るのに抵抗はなかったんですか?  台本を読んで役柄を想像したとき、自分から髪を切りたいと思ったんです。いつかショートヘアにしてみたいと思っていたので、それにぴったりの役柄だと思ったんです。 ――演じてみて、いかがでしたか?  登場シーンがほとんど夜だったので、夕方に現場入りする撮影が多かったです。冬だったので夜は寒く、衣装がスーツなのでなかに着込むこともできなかった。「めっちゃ春服やん!」って思わず突っ込みたくなりました(笑)。  ただ撮影した時間はすごく短かったんです。一回撮影すると、2週間くらい空いたりもして。もう少し撮りたかったなとは思います。 ――作中では先輩刑事役の三浦友和さんとの共演シーンが多いですよね。  ドラマでもご一緒しているのですが、芝居のなかでは何をやっても優しく受け止めてくださるんです。だから安心して芝居ができる。話しかけづらい空気感とかも全くなくて。この前偶然お会いした時、大先輩なのに「わー!」って手を振っちゃいました(笑)。 ――先輩刑事と行動を共にし、広瀬さん演じる新人刑事の奥瀬が成長していく姿も描かれています。広瀬さんにとって、理想の先輩ってどんな人ですか?  米倉涼子さん・篠原涼子さん・天海祐希さんのようなかっこいい女性に憧れます。お三方とも撮影でご一緒したことがあって。  米倉さんには撮影本番前に気合を入れてもらったことがあります。すごく大事なシーンで、震えてしまうくらい緊張していた私に「大丈夫?」と声をかけてくださって。その後背中を強く叩かれて「よし、行けるね!」と。おかげで思い切り演じることができたんです。あの一発がなかったら、震えたままやっていたと思います。そういう愛のある方になりたいですね。 ――広瀬さんも女優として、先輩から学んでいるんですね。  十代のころからこの仕事をやってきて、最近になってやっと楽しいものだと感じられるようになりました。最初は自分が何をやっているのかすらわからないこともありました。NHKの朝ドラ「わろてんか」に出演したことが大きかったと思います。地方の知らない土地で、撮影スケジュールもハードで。大変でしたが、今となってはいい経験だったと思います。撮影が終わった後、「この役はやりきったからもういいかな」と感じたのはあの時くらいです(笑)。 ――「AI崩壊」では10年後の世界観が描かれています。ご自身の10年後は、想像できますか?  想像できないですね。楽しいことが続けばいいなとは思います。芝居は楽しいですし、こうやって完成したものをみなさんにお届けすることにも達成感を感じています。今は目の前の仕事を全力でやりたいと思っています。 ――最後に読者に一言お願いします!  「AI崩壊」は近い未来に起こりえる世界です。今の自分の生活と照らし合わせて、ぜひ観てください! ●広瀬アリス(ひろせ・ありす)/1994年生まれ。静岡県出身。2009年から女性ファッション誌「Seventeen」の専属モデルとして芸能活動を開始。その後女優業にも進出すると、17年にNHK連続テレビ小説「わろてんか」に出演し話題となった。 (構成/AERA dot.編集部・井上啓太)
dot. 2020/01/08 11:30
令和初の正月は、新春の京の風物詩・えべっさんと愛らしい縁起物で福招き
ナカムラユキ ナカムラユキ
令和初の正月は、新春の京の風物詩・えべっさんと愛らしい縁起物で福招き
福を呼ぶお飾りを付けたお笹“吉兆笹”。「京都ゑびす神社」の「えべっさん」  国内外の人々を惹きつけてやまない京都。その四季折々の魅力を、京都在住の人気イラストレーター・ナカムラユキさんに、古都のエスプリをまとったプティ・タ・プティのテキスタイルを織り交ぜながら1年を通してナビゲートいただきます。愛らしくも奥深い京こものやおやつをおともに、その時期ならではの美景を愛でる。そんなとっておきの京都暮らし気分をお楽しみください。 *  *  * ■夜通し賑わう「十日ゑびす大祭」  新しい年を迎え、国内外から京都へ初詣に来る方で賑わう時期。仕事始めを迎え、さらに活気づくのが、祇園・宮川町に隣接する「京都ゑびす神社」の「十日ゑびす大祭」です。京都では「十日ゑびす」、または「えべっさん」と呼ばれ大変親しまれています。「ゑびす神」は漁を好み、物々交換でお米や穀物などと替える道を拓かれたことから「商売繁盛」の守り神とされています。左に鯛を抱え、右に釣り竿を持ち、福々としたお顔が何とも穏やかで、幸せな気持ちにさせてくださいますね。  「十日ゑびす大祭」には、1年間守ってくださったお笹を手に、たくさんの参拝者で賑わいます。神社前の大和大路通りには露店がずらり。お詣りあとに甘酒でほっこりし、甘いものをおみやげに買って帰るのが私の定番です。新しいお笹を抱えて、千鳥足で歩く参拝者の姿もまた微笑ましい光景です。今回は、商売繁盛の守り神「京都ゑびす神社」を訪ね、「吉兆笹」や新年にぴったりな演技の良い小物と共に京の活気溢れる新年の様子をご紹介します。 京都ゑびす神社/075―525―0005/京都市東山区大和大路通四条下ル小松町125/十日ゑびす大祭(初ゑびす)1月8日~12日(詳しくは神社HPにて)/「吉兆笹」初穂料3500円(3つの縁起物の吉兆付き)、追加の縁起物は1つ1200円~ ■京都の「ゑびす社」から全国に広がった「吉兆笹」     初ゑびすの時「商売繁盛で笹もってこい、お笹に吉兆付けましょか、つけた吉兆福の神」と、威勢の良いかけ声が届いてきます。この「吉兆笹」は、今から約400年前に京都の「ゑびす社」の18代神主であった中川数馬義幸氏の発案によるもの。従来の御札に替わり、庶民が親しみを持てる形を考えていた所、ゑびす神像が持つ釣竿をヒントに竹の葉である笹を「ゑびす神」の象徴としたのが始まりです。笹は、松竹梅の竹の葉で、真っ直ぐに伸び葉が落ちないことから家運隆盛、商売繁盛の象徴となり全国に広がり定着していったそうです。私も毎年欠かさずに参拝へ訪れていますが、一番の楽しみは笹飾りを選ぶ時間です。  真っ赤な鯛、千両、蔵、宝船、ゑびすさんと大黒さんの2面のお顔など、15種類の縁起物がずらりと並ぶ中から、今年の願いを込めて選びます。毎年授与される干支の絵馬は、宮司さんの原画によるものだそうです。ちなみに、全種類付けることを「全付け」と言うそうです。私は毎年2つか3つ選び付けていただいていますが、いつか憧れの「全付け」を叶えてみたいものです。お笹に願い込めて、今年も頑張っていきたいですね。 鍵甚良房(かぎじんよしふさ)/「えびす焼き」1個180円※「十日ゑびす大祭」3日間(1月9~11日)と秋の「二十日ゑびす大祭」(10月19・20日)の期間限定販売/075―231―0965/京都市東山区大和大路通り四条下ル小松町140/営業時間8:00~17:00(火曜は~16:00)/定休日:水曜 ■福を得る縁起担ぎに 思わず笑みがこぼれる 福顔の「えびす焼き」  「えべっさん」の帰り道、欠かせない楽しみがあります。京都ゑびす神社を少し北へ上がったところにある「鍵甚良房」さんが、店頭で焼いて出されている「えびす焼き」です。 “えべっさん”の福顔を焼印でカステラ生地に押し、生地で福耳を模して、粒餡を包んだお菓子です。甘い香りが漂う銅板の上で、折りたたむ時に手際良く指でつまんで両耳を形作られます。  底冷えのする寒空の下、焼きたての「えびす焼き」を口に頬張ると、外はかりっと、中はもちっとしていて、ほくほくとしたほのかな甘みの餡が広がり、身も心もほっこりします。おみやげ用に、たくさん買うと包み紙に入れてくださいます。開けると、たくさん並んだえべっさんの顔に、みんな思わず笑顔になります。販売されるのは、ゑびす大祭の時だけなので、お詣りの時にはぜひ味わいたいですね。「鍵甚良房」は、祇園の老舗和菓子店「鍵善良房」で番頭を務めていた太田太三郎氏が、1921(大正10)年より暖簾分けという形で創業、初代店主の父の一文字をとり「鍵甚良房」とされたそうです。注文してからその場で作ってくださる生菓子の味わいも格別です。 雲母唐長 (きらからちょう) 四条店/「唐長文様 豆皿」千鳥(2枚セット)3850円/075―353―5885/京都市下京区水銀屋町620 COCON KARASUMA 1階/営業時間11:00~19:00/定休日:火曜 ■家内安全・目標達成の願掛けに 愛らしい千鳥の豆皿  年始やお祝いの席にさりげなく縁起の良いアイテムがあると、場がぱっと華やぎますね。雲母唐長 (きらからちょう) 四条店で見つけたブルーと華やかなゴールドの千鳥の豆皿は、そんな時に相応しいテーブルウェアです。愛らしい千鳥は、夫婦円満、家内安全などの意味のほかに「千取り」との語呂合わせから、目標達成への願掛けなどにも愛されてきた文様。手のひらサイズの豆皿は、お料理やお菓子など食卓の他に、アクセサリーを置いたり、お香立てのお皿としても使えます。  雲母唐長(KIRAKARACHO)は、1624(寛永元)年より約400年、日本で唯一続く唐紙屋を継承する唐紙師トトアキヒコ氏と創業家の千田愛子氏がプロデュースするブランドです。豆皿は、代々受け継いだ文様と色の世界観を継承する「雲母唐長」と、日本の美意識を根底に持つ洋食器のノリタケがコラボレーションして生まれたテーブルウェア。柄は千鳥の他に、若松や天平大雲など全部で7柄あり、その日の気分で使い分ける楽しさも加わって揃えたくなります。引き出物などのお祝いや贈り物としてもぴったりです。 プティ・タ・プティ/「お箸・箸置き付き 木箱入り(山)レ・モンターニュ」3300円/075―746―5921/京都市中京区寺町通夷川上ル藤木町32/営業時間10:30~18:30/定休日:木曜 ■お祝いの席に 山の箸置き付き 天然木の若狭箸  今回のプティ・タ・プティのテキスタイル/title:山「レ・モンターニュ」。  年の初めに、気持ち新たに一歩踏み出したいという方も多いのではないでしょうか。プティ・タ・プティの代表的な柄・山「レ・モンターニュ」は、「山は動かないけれど、人は一歩踏み出すことで様々な人と巡り逢う」というフランスの古いことわざを柄のコンセプトストーリーにしています。鮮やかな山の柄の木箱に入った木製箸置き付きお箸は、京都・二条河原町で主にブライダルや引き出物等を手掛けられている「はんなり」とのコラボレーションから生まれたアイテムです。天然木の若狭箸には、ワンポイントに山の形が切り抜かれ、箸置きは方眼用紙模様の山型に象られています。木箱から枠を取り外すと小物入れとしても使えます。新しい年やお祝いの席、また贈り物としてお使いいただけますね。 賑やかに開運あふれるものに囲まれる新しい年 ■京の新春の風物詩   「十日ゑびす大祭」期間中、祇園の辺りで吉兆笹を手にした人々を見かけるのも、京の新春の風物詩です。新しくいただいたお笹は、お店や家の神棚へ。神棚がない場合は目線より高い所に、東または南に向くように飾ると良いそうです。開運アイテムに囲まれてスタートした新年、良いことがたくさんありますように。 (撮影/竹下さより、編集協力/江下祥子) ナカムラユキ/京都市在住。イラストレーター、テキスタイルデザイナー。著書に『京都さくら探訪』(文藝春秋)『京都レトロ散歩』(PHP)他多数
dot. 2020/01/08 11:30
「正月うつ」から回復する方法、年末年始が忙しかった人は要注意!
「正月うつ」から回復する方法、年末年始が忙しかった人は要注意!
新年早々、遅刻や欠勤をしたり、イライラしたりする症状が表れていたら要注意です (Getty Images) おくだ・ひろみ/医師(精神科、精神保健指定医)、日本医師会認定産業医 平成4年山口大学医学部卒。精神科医・産業医として精神科臨床および都内18カ所の企業で嘱託産業医として働く人の心身のストレスケアに携わっている。また執筆やマインドフルネス瞑想を広める活動もライフワークとして行っている。著書には『ストレス・疲れがみるみる消える 1分間どこでもマインドフルネス』(日本能率協会マネジメントセンター)、『心に折り合いをつけてうまいことやる習慣』(すばる舎)など多数。労働衛生コンサルタント、作家、日本マインドフルネス普及協会代表理事としても活躍している。  年末年始は、ビジネスパーソンにとって公私ともに1年で最も忙しい時期。年末から大掃除、年賀状作成、買い物などに追われ、年明けは実家への帰省、義両親など普段あまり付き合いのない親戚たちとのやりとりなどでぐったりした人。あるいは、家族で長期の海外旅行に出かけて疲れた人も少なくないだろう。日常とは違う時間の過ごし方をしたことによる疲労が積み重なると心配なのは、「正月うつ」だ。新年のスタートを切った今、知っておくべき対策を、精神科医・産業医として日々多くのビジネスパーソンのメンタル相談に乗っている奥田弘美氏に聞いた。(聞き手/ライター 羽根田真智) ●「冬季うつ」を発症しやすい季節 不眠、遅刻、ミスが多発していないか ──正月明けなどに心身の調子を崩す人が少なくないと聞きます。  もともと冬は、寒さストレスが強く体も疲れやすくなるため、気分がうつうつしやすい季節です。また秋から冬にかけて発生するうつ病として冬季うつ病が有名ですが、これは季節性情動障害と呼ばれるうつ病の一種です。症状は、典型的なうつ病と似ており、気分が落ち込んだり、物事を楽しめなくなったり、人と会いたくなくなったり。  異なる点では、炭水化物や甘いものを過食したり、いくら寝ても眠く過眠傾向になったり、などがあります。冬場の日照時間の減少が関係しているといわれ、治療は抗うつ剤などの薬物治療、5000~1万ルクス程度の光を30分~1時間程度照射する光照射療法などが行われます。  ただし、実はこういった典型的な冬季うつ病(季節性情動障害)になる人はそう多くなく、日本では1%ほどという調査報告があります。産業医・精神科医として感じるのは、正月明けなどにビジネスパーソンが心身の調子を崩すのは、もっと別の理由からのように思います。  誰でもそうでしょうが、休み明けは日常の生活に戻ることを憂うつに感じるのではないでしょうか。「ブルーマンデー」という言葉があるように、普段から月曜日はほかの曜日よりも会社に行くのを嫌に感じますよね。これが長期休みであればなおさら。朝から夜まで働く忙しい毎日がまた始まると思うと、気分が優れなくなるのは珍しくないと思います。  ただ、気を付けてほしいのは、そのうち普段通りの自分に戻るケースと、何らかの対処が必要なケースとがあることです。 ──どこで見極めればいいのでしょうか?  年始明けの数日間だけでなく、仕事や生活に支障をきたすようなひどい憂うつさ、倦怠感、意欲や集中力の低下などのメンタル症状が約2週間以上続くようなら、メンタルクリニックなどを受診することをお勧めします。  本人は気が付かなくても、周囲から見ると明らかにおかしいと感じることもあります。その場合、よくあるものとしては「遅刻や欠勤が増える」「これまででは考えられないようなちょいミスが増える」「仕事の作業能率が落ちる」「しょっちゅうイライラしている」などが挙げられます。  うつ状態になると、睡眠の質が下がります。眠りが浅い、なかなか眠れない、何度も目が覚める、明け方になると(まだ寝ていてもいい時間なのに)目が覚める……。人によっては、いくら寝ても眠たいことも。そうすると朝、出社に間に合う時間に起きられず、遅刻が増えてしまうのです。  集中力や思考力、判断力の低下も顕著です。だから、ちょいミスが増えたり、作業能率が落ちたりするのです。感情の起伏が激しくなる人もいます。これまであまり声を荒らげたことがないのに、すぐかっとなって怒鳴り出すなどが典型的です。 ●日本人は年末年始が忙しすぎる 睡眠不足や疲労をため込んでいないか ──家族や同僚、部下がそのような状態になれば要注意ですね。  まさにその通りです。放置すれば、今は「うつ状態」といわれる段階であっても、本格的な「うつ病」に移行しかねません。  そもそも日本のビジネスパーソンは、年明けに心身の調子を崩しやすい環境にいます。単なる「長い休みが終わった。仕事が憂うつだ」という面に加え、年末年始の過ごし方が関係しているように感じます。 ──「忙しすぎる」ということでしょうか?  正月休みを取るために、年末は仕事のスケジュールが過密になりがちです。加えて、忘年会シーズンでもあります。昨今は忘年会をしたがらない人が若者に限らず増えているとのことですが、それでも普段よりは夜の付き合いが増えるでしょう。仕事は忙しく、「飲み」も忙しいとなると、12月は多くの人が睡眠不足や疲労をため込むことになります。  それでも、もし正月休みをゆっくりと過ごすことができれば、最初は憂うつさを感じるにしても、1月の仕事始めを万全の体調で迎えることができるでしょう。ところが、なかなかそうはいきませんよね。正月は正月でやらなければならないこと、やりたいことがたくさんあります。  長期休みを利用して郷里に帰省したり旅行に行ったりして、戻ってきたのが初出勤の前日の深夜……なんて人もいるのではないでしょうか? 旅行や帰省は楽しいですが、日常生活のリズムが崩れやすく、普段とは違う人・事に出会うため気力体力を消耗します。結果、正月休みも心身をフル稼働させることになり、疲労がより蓄積されてうつ状態を招くのです。 ──疲労はうつの原因になるのでしょうか?  睡眠不足が続き、慢性的に疲労を抱えた状態が続いたところへ、肉体的・精神的ストレスがかかると、自律神経系のバランスが崩れてしまいます。循環器、消化器、呼吸器、ホルモン分泌などの活動を調整するために24時間働き続けているのが自律神経で、交感神経と副交感神経があり、交感神経は活動時や日中に、副交感神経は安静時や夜に活発になります。  この交感神経と副交感神経のバランスが崩れると、より一層睡眠の質が悪くなり、不眠または過眠がひどくなります。胃もたれ、腹痛、下痢、便秘、頭痛、めまい、食欲不振、ひどい倦怠感などが生じ、やがてうつ状態に移行していく可能性があるのです。  一般的に、マジメで几帳面な人がうつ病を発症しやすいといわれていますが、一見豪快な人でも、条件が重なればうつ病を発症します。自分は絶対大丈夫、と思ってはいけないのです。 ●次の三連休は夜更かししない! 2週間たっても改善しなければ受診を ──うつ状態が深刻化する前に自分でできることはありますか?  心身の不調が数日間続く程度なら、十分な休養を取ることで、元の健康な自分を取り戻せるでしょう。正月明けから心身の調子が優れないなと感じたら、できるだけまずは体を疲れさせないように心がけてください。  朝起きたら、カーテンを開け太陽の光をたっぷり浴びてきちんと朝食をとる。昼食・夕食もできるだけタンパク質、ビタミン・ミネラル、炭水化物がそろった栄養バランスの良い食事にしてください。お酒は疲労をさらに悪化させますので、お酒は休肝日とするか、飲むとしてもたしなむ程度に。そして普段通りの生活がスタートしても、しばらくは残業や休日出勤を極力入れず、飲み会の予定もあまり立てないようにしてください。夜更かしなどはせず、睡眠時間を7時間前後は確保して、規則正しい時間に寝起きすることを心掛けてください。  また今年は1月11~13日と連休ですよね。この期間は予定を入れず、自宅でゆっくりと休息メインにして過ごしてはいかがでしょう。  ただし、休養を取っても心身の不調が続くのであれば、もはや自分ではなんとかするのは難しいといえます。一つの目安は、先ほども申し上げたように、2週間以上不調が続くかどうか。この場合は、精神科医や心療内科医など医療の専門家に相談してください。不調の状態に応じて、睡眠薬や抗うつ薬などの薬が処方されることもあります。  日本人は睡眠薬への抵抗が大きいですが、睡眠薬は医師の指導のもとで適切に用いれば、依存性を抑えつつ睡眠リズムを回復させることができます。睡眠リズムが回復すれば自然に薬は要らなくなる人がほとんどです。市販薬で手に入る睡眠改善薬は、病院で処方される睡眠薬とはメカニズムが異なり、連用するとすぐ耐性ができて効かなくなります。「明日、重要な会議があって緊張して眠れない」といったときなどに市販薬を単発で用いるのはいいものの、うつ病が疑われるときには不向きです。適切な治療が遅れ、かえって状態を悪化させかねません。 ──精神科やメンタルクリニックを受診するのはハードルが高いのですが……。  もっと気軽に受診してもいいと個人的には思います。ただ、「ちょっと勇気が出ない」「受診すべきかどうか迷う」という場合は、まず会社の産業医や保健師などに相談してはいかがでしょう? また会社の福利厚生サービスで、電話やメールなどで医療の専門家に相談できる窓口を設けているところもよくあります。臨床心理士や公認心理士の資格を持つカウンセラーに相談してみてもよいでしょう(ただしカウンセリングは一般的に保険が適用されず実費になることが多い)。 ──部下の心身の不調を疑っている場合、本人にそう伝えてもいいのでしょうか?  関係性にもよりますが、部下が相談しやすい環境をつくることで、心身の不調が深刻化する前に医療機関などにつなげられる可能性があります。  そっと別室に呼んで、優しい雰囲気で話しかけ、悩みを引き出す。心身に不調があるなと感じたら、まずは有給休暇を取って休息してみることを勧めたり、仕事の分量を調整して残業を減らしたり、会社の産業保健スタッフ(保健師、産業医、衛生管理者など)に相談することを促したりするとよいでしょう。  症状が強い時はメンタルクリニックなどの受診を勧めてもよいと思います。たとえ、心身の不調で病院に行ったり休みを取ったりしても、会社での評価が下がるわけではないことも忘れずに伝えてあげてください。上司だからこそできる対応を取ることが大切です。 ──正月うつ、だと思っていたら別の病気だった、ということはありますか?  うつ病に似た症状が出る器質的疾患(身体に異常がある病気)があります。甲状腺疾患などのホルモン系の病気や、糖尿病、肝機能障害が悪化しても倦怠感が強くなり意欲の低下が出てきます。更年期障害(女性だけではなく男性にも存在します)でもメンタル症状がよく出ます。  前年の春の健康診断で異常なしだとしても、1年もたてば体に何らかの異常が生じてもおかしくありません。メンタル系疾患だけではなく別の病気を早期に見つける意味でも、心身の不調が2週間以上続くようなら症状の該当する科の医療機関を受診しましょう。 奥田弘美:医師(精神科、精神保健指定医)、日本医師会認定産業医 羽根田真智
ダイヤモンド・オンライン 2020/01/07 11:00
売れなくても愛されたM-1覇者ミルクボーイの飢餓感と覚悟
中西正男 中西正男
売れなくても愛されたM-1覇者ミルクボーイの飢餓感と覚悟
大阪に凱旋ミルクボーイ(撮影/中西正男) 「ホンマに良かったなぁ」  22日日曜の夜から1週間以上経っても、関西の芸人さんやお笑い関係者と話すたび、今でもこの言葉があいさつ代わりになっている。  クドクド言わずとも、みんながこれだけで何のことか分かる。「M-1グランプリ2019」での「ミルクボーイ」(内海崇、駒場孝)の優勝だ。  優勝直後から50件以上のオファーが殺到し「一瞬で来春まで休みがない状況になった」(吉本興業担当者)というが、それだけ一気に仕事が入れられるというのは、これまでほとんど仕事が入っていなかったからに他ならない。  週に4~5日は休みで、テレビ番組の前説や劇場出番がちょこちょこと入る感じのスケジュール。その状況からの戴冠はこれまでのどの王者よりもドラマチックでもあり、今回ほど芸人仲間から祝福された「M-1」王者はいないと断言できる。  優勝翌日の23日。二人がホームグラウンドとする大阪・難波の「よしもと漫才劇場」の出番があり、凱旋出演した。その取材にも行ったが、会場の盛り上がりはもちろんのこと、新聞の原稿締め切り時間的には非常に厳しい夜の取材だったにも関わらず、多くの記者が駆けつけていた。  同劇場の出演メンバーの中では芸歴的にはかなり上の方にあたるものの、劇場ポスターには二人の写真が小さく、小さく、載せられているだけ。これまでの彼らの立ち位置を示すようなポスターが貼られた空間で、多くの記者に囲まれ、写真を撮られている姿を見て、改めて一夜にして何もかもが変わったことを実感した。  なかなか仕事には恵まれなかったが、内海、駒場とも人柄は抜群。仕事の本数とは裏腹に、若手の中でも随一と言われたのが“先輩芸人との食事の回数”だ。特に、駒場は多くの先輩から誘いを受け、とりわけ可愛がってきたのが今田耕司だった。  番組には出演していないのに、テレビ局に駒場がいるという状況を何度も見てきた。今田の収録終わりに合わせてスタジオ近くで待機し、出てきた今田とともに食事に行く。そんな流れが数年前まではいつもの風景となっていた。  ただ、ここ2~3年はその光景を見ることがなくなり、今田からの誘いも断って漫才に注力してきた。 「ネタ作りのための時間を作るというのももちろんあるけど、今田さんと一緒にいると、エエご飯も食べさせてもらえるし、周りが売れっ子ばかりだから、自分も売れっ子になったような気にもなる。ただ、現実としては何も売れていない。ここの“かりそめの満足感”みたいなところを排除して、等身大の自分と向き合う。誘いを断った一番大きな理由は、実はそこにあるとも聞いています」(関西を拠点にする中堅芸人)  きちんと飢餓感と向き合うことで、今の自分をしっかり見つめる。ただ、人との繋がりが何より大切な芸人の世界において、これまでの関係をリセットして距離を置くというのは、相当な覚悟を要する決断でもあった。  優勝決定後、今田は「これまで食事の誘いなども断って、漫才に没頭してきました」と努めて客観的に話していたが、苦悩を誰より知るのが今田。本当なら感情をむき出しにして喜びたいところだろうが、司会者として冷静に語る姿にグッときたという芸人も多かった。  また、二人のトレードマークとも言える内海の角刈りと駒場のマッチョボディー。ここにも意外な繋がりがあった。  内海が角刈りにする理髪店があるのは大阪の下町、塚本。また、駒場がアルバイトとして現在も籍を置くジムも塚本にある。  内海が角刈りにしたのは2017年2月からだが、その当時から通っているのが塚本の理髪店。理髪師としての技能を競う大会で上位に入賞したこともある実力者のオーナーがいると聞いて店に行ったが、その日から、オーナーが「彼は見込みがある」と角刈り代金2000円を出世払いという形で一切取らずに今日まで調髪してきた。  また、駒場がアルバイトをするジムも、駒場が自らのトレーニングも無料でできる上に、それを仕事にもできる。そして、芸人ならではの急な仕事にも対応できるよう、極めて自由度の高いシフトで駒場をバックアップしてきた。  まさに、今の「ミルクボーイ」を形づくった二つの拠点とも言えるが、なんとこの理髪店のオーナーの息子さんがジムのオーナー。合縁奇縁とはまさにこのこと。あらゆる縁に支えられ、今回の戴冠が達成された。  年々進化を続ける「M-1」で、史上最高得点をたたき出して優勝した「ミルクボーイ」。これまでの苦労の何百倍も光を浴びることは間違いない。そして、その光に目を細める人たちの数は計り知れない。
dot. 2019/12/31 11:30
市川海老蔵 「今遊べばおもしろくなくなる」と“ストイック生活”、そのワケは?【2019年ベスト20 3月5日】
市川海老蔵 「今遊べばおもしろくなくなる」と“ストイック生活”、そのワケは?【2019年ベスト20 3月5日】
市川海老蔵さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・片山菜緒子) 市川海老蔵(いちかわ・えびぞう)/1977年、東京都生まれ。十二代目市川團十郎の長男として生まれ、85年に七代目市川新之助を襲名。2004年に十一代目市川海老蔵を襲名。日本の伝統芸能を次世代に伝えるべく、「ABKAI」「古典への誘い」などの自主公演に力を入れると同時に、海外での活動も多い。来年5月、十三代目市川團十郎白猿を襲名予定。20年の東京五輪・パラリンピック組織委員会に助言を行う「文化・教育委員会」委員も務める。 (撮影/写真部・片山菜緒子)  2019年も年の瀬に迫りました。そこで、AERA dot.上で読まれた記事ベスト20を振り返って再掲します。6位は「市川海老蔵 『今遊べばおもしろくなくなる』と“ストイック生活”、そのワケは?」でした。  来年5月に十三代目市川團十郎の襲名を控える市川海老蔵さん。結婚前は歌舞伎界きってのモテ男として、数々の浮名を流しましたが、現在はよきパパとして2児の子育てに奮闘中。「今遊べばおもしろくなくなる」と語る私生活に作家の林真理子さんが迫ります。 *  *  * 林:海老蔵さんのブログを見ると、いつもジムに行ってるか、お子さんたちのお世話をしてるか、劇場に行ってるかですけど、遊びに行ったり飲みに行ったりする時間はないんですか。 市川:今、一滴もお酒飲んでないです。元旦にお屠蘇(とそ)を飲んだだけ。去年も一滴も飲んでないです。 林:ほんとに? ちょっと寂しくないですか、それ。 市川:いや、それが酒ほど無駄なものはないという思考になってるんですよ。今はほぼストイックな生活をしてまして、今日も稽古があるので何も食べてないですし、いつも仕事のことを考えています。ただ半年に1回ぐらい、なんにも考えないで、タガがはずれたように好き三昧やる日が一日だけあるんですけど、昨日がまさにそれで。昨日は朝から男友達とそばを食べて、渋谷の街を歩いて、VR(バーチャルリアリティー)をやって遊んでストレス発散して、スクランブル交差点を見下ろしながらチョコバナナパフェを食べて。夜は友達のすし屋ですしをいただいて、家に帰ってから、アニメ動画を見ながら、シュガーバタートリュフのクレープを三つ食べて寝ました。これで十分なんですよ。 林:え~そんなのつまんない(笑)。 市川:つまらなくないです。女の子のいるところ、例えばクラブも昔はよく行っていた時期もありましたが、今はもう行かなくなりましたね。 林:だけど京都の南座に出るときは芸妓さんのいる座敷に行くんでしょう? 市川:ああ、もうないですね。確かに「芸の肥やし」っていうのは使える言葉かもしれない。お茶屋の子が最新の情報を持ってて、それを聞くために通うわけですよね。でも今、情報は私のほうが持ってるので、その時間があれば勉強したり、友人に会うほうが良いですよ。 林:そりゃそうですけど。 市川:気の合う男友達、それは芸能人とかが多いですけど、そこの家に行ったり、会長とか社長という責任のあるビジネスマンのところに行って、「いま何してる」「どんなこと考えてる」という話をするほうがおもしろくなっちゃったんで。 林:そうは言っても、女性はおもしろいところありますよ。 市川:おもしろいけど、さほどおもしろくないですね。女性に関しては70周ぐらいしたんで、だいたいわかってますから(笑)。 林:でも、まだ知らない世界もありますよ。オバサンの世界とかは知ろうと思わない?(笑) 市川:あんまり思わない(笑)。おもしろいと思うことの角度が変わったんです。 林:そうですか。カッコいい男盛りの海老蔵さんが女性に興味を失ったなんて……。 市川:私が若いころはいくら自由にしてもそれほど問題ではなかったけれど、今、これだけ世の中の倫理観が厳しくなっていますからね。 林:世の中のことなんて、どうだっていいじゃないですか。 市川:良くないですよ。團十郎襲名も控えてるし、オリンピックの組織委員としても動いてますし、今わざわざそこに飛び込む必要はない。 林:まあね。でも、何もしなくたって週刊誌はあることないこと書くし。 市川:今、週刊誌より自分のブログのほうが発信力があって、影響力も持ってるわけじゃないですか。だからブログを通じて、違うものは「違うよ」って言えるし、放っておくことは放っておくこともできるんで、あんまり気にしません。 林:それを聞くと、安心するやら、ちょっとガッカリするやら。やっぱり週刊誌を賑わせてほしいです。海老蔵さんの見出しを見ると読んじゃうもん。 市川:子どもが15歳とか17歳ぐらいになって、私も襲名してほかのこともだいたい落ち着いたぐらい、たとえば50歳ぐらいになったら、もう一回自由にしてもいいと思うんですよ。でも今それをやったら、私自体がおもしろくなくなる。私が私をプロデュースするのであれば、「今遊んだりしたら、ぜんぜんおもしろくないよね」って思います。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年3月8日号より抜粋
週刊朝日 2019/12/30 08:00
いまテレビは誰の味方なのか? 異色のドキュメント「さよならテレビ」
いまテレビは誰の味方なのか? 異色のドキュメント「さよならテレビ」
映画「さよならテレビ」は東京・ポレポレ東中野、名古屋シネマテークにて1月2日より公開 (C)東海テレビ放送 プロデューサーの阿武野勝彦さん(撮影/写真部・小黒冴夏) 監督の土方宏史さん(撮影/写真部・小黒冴夏) ディレクターとして取材中のワタナベくん (C)東海テレビ放送 「ヤクザと憲法」(2016年)や「人生フルーツ」(2017年)など、テレビ発のドキュメンタリー映画で異例の快進撃をつづける東海テレビの最新作「さよならテレビ」が来春1月2日から東京、名古屋で劇場公開される。これまでにない自社の報道フロアにカメラを向け、二年近くを費やした。テレビ放映後にコピーされた海賊版DVDが出回るなど反響の大きかった異色作だ。 *  *  * 「(番組の放映)で東海テレビのイメージを著しく毀損したという批判を受ける可能性がありました。そのときには責任をとって退職しようと考えていました」  と語るのは、過去11作の「ドキュメンタリー劇場」の全てに関わってきたプロデューサーの阿武野勝彦さん(60)。  この映画の傑出したポイントは、「働き方改革」をめぐる番組をつくるのに編集マンが深夜残業しないといけない皮肉な光景や、「非正規」雇用のスタッフに支えられるテレビの現況が詳らかに描き出されていることだ。 「日本のいまの労働環境はこういう状態ですよねという。テレビもほかの企業と大差はないということも伝えたかった」と阿武野さんはいう。  撮影初日に趣旨を伝えるやフロアはざわめく。二ヶ月間の冷却期間を置いての再開となるのだが、その間「ほぼ放置」にちかい黙視をまもった阿武野さんは、完成作品のある場面で涙ぐんだという。  それは、映画の中でキーマンとなる三人のひとり、20代の派遣社員に関するものだ。要領が悪くミスを連発するワタナベくんは常に白い歯を覗かせ、ピンチを笑顔でやり過ごそうとし、おどおどしている。その彼をカメラは追う。試写を観ていたとき、筆者は何度ため息をつき舌打ちしたことか。「早く別の仕事を考えたほうがいい」と。しかし、後半彼が「卒業」となり花束を渡される場面で、もやっとなる。卒業とは、つまり更新の契約をしないということだ。映画はさらにラストちかくで「その後」の彼を映し出す。 ■ミスをするたびに叱ら萎縮する派遣社員  阿武野「彼は、いまテレビ大阪にいるんですよ」 ──名古屋ではびくびくしながら仕事をしていた彼が、同様の取材なのにリラックスして、笑顔も自然だったのを見たとき涙があふれて。試写で泣くなんてありえないことだったので、自分でもびっくりしたんです。 阿武野「いゃあ、ぼくも実はあそこで泣きました。息子がね、まぁあんな感じです。ナベちゃんよりも年上で今年35になりましたけど、なんというか上手に生きていけない。派遣労働で、人間関係とかでけっこう苦しんでいる。映画を観るとき、息子が頭から離れなくて考えてしまう。そうすると、つい……」  同じ場面について、監督の土方宏史(43)さんにも聞いてみた。 土方(以下同)「テレビ大阪の現場に行って、月並みな言葉かもしれませんが、成長したなとは思いました。イベントの取材相手に『何年目なんですか?』と聞く場面とか見ていると、ぼくも記者としてああいう仕事をしていたことがあるので、ずいぶん様になってきているなぁ。ちょっと見くびっていたのかもしれんなあと」 ──土方さんは、何が変わったからだと思いますか? 「なんだろう……。ひとつは、大阪と名古屋の局のちがい。受け入れ体制というか。作品からはちょっと外れてしまいますが、映画の前半で彼はミスをするたびに叱られていたでしょう。それで萎縮してしまっていたこともあったでしょうし。けれども、次の職場では受け入れられていることから防御する必要はなかったのかもしれない」 ──観終わってからもつよく印象の残ったのは、ワタナベくんを含んだ四人の撮影班が引き上げていく後姿。背中越しのちょっとした会話からやさしい空気が感じられ「よかったね」と声にだしそうになったんですよね。 「実際やさしいんですよ。これは皮肉な話ですが、あの四人は全員外部スタッフ。テレビ局の正社員じゃない。表現が難しいんですが、彼のもっている弱い部分を受け入れているところもあると思うんです。(ノーナレーションの)作品の中ではそういう説明はしていないので、どこまで言っていいことなのかは難しいことなんですけどね」 ──余韻を残す編集がなされていて、後姿の四人の場面がほんのすこし長めで、希望を感じました。 「あのときぼくらも現場で、彼の未来は明るいんじゃないかというのは感じました」 ──そもそも、どうしてワタナベくんをキーパーソンのひとりにしようとされたのですか? 「いろんな理由があります。ひとつは、ユニークであること。無防備というか、おっちょこちょいで、クスクスと笑える部分があるでしょう。自分の中にも似たものが多いにあるので、どっちかというとシンパシーをもっていました。あと、愛らしい。ほうっておけないというか」 ──それは土方さんが監督された前作「ヤクザと憲法」で、大阪の暴力団の部屋住みとなる気の弱そうな若者にカメラを向けていったのに通じるものを感じました。 「今回『社員』をそんなに描いていないんですよね。本来は東海テレビの報道の中枢を担う人たちを描くべきなのに、出来ていないという指摘を受けることがある。それはそのとおりなんですが、彼は立場も弱ければ隙がありすぎる。彼を見ることで間接的に組織が見えてくるだろうという意識ありました」 ──その予測はどの段階で? 「極論すると、初日から。そこは意見が分かれたところなんですが」 ──取材チームは土方監督と撮影カメラマンの中根芳樹と音声の枌本昇の三人編成。カメラマンから「おまえの趣味として(ワタナベくんを)おれは追いかけるからな」と言われたとか。 「つまり、自分は被写体としての魅力は感じない。撮りたい理由はよくわからんけど、ということです」 ──そう言いながらもじつに丁寧に撮っていますよね。 「それはカメラマンが優秀だからですよね。彼以外にもあらゆるものを丁寧に撮っていますから」 ──ワタナベくんがミスをして放映が見送りとなる。そのことを取材者に説明しに行かなければいけない。その彼に原因は何だったのかを問いかける場面。彼は、ごまかさずに正直に振り返り、ひとりで謝りにいく背中を映します。 「あのとき、自分を冷静に見ているなぁという印象はもちました。ほかにも(派遣ゆえ)彼には一年で成果を出さないといけないプレッシャーがある。その恐れを『わかるよ』と正社員のぼくは言えない。そういうことを彼から突きつけられるということはありましたね」 ■テレビの役割とは何か? ──映画の中で「テレビの役割は何か?」と社会科見学の小学生たちに教える場面があります。局員が「権力の監視」とともに「弱者の味方」だと説明する。何気ない場面ですが、これがボディブローのように効いてくる。職場で明らかに「弱者」で「足を引っ張る」ワタナベくんを見る周囲の眼は冷たい。時間に追われる職場だけに余裕がないのもわかる。でも「弱者の味方」と耳にするたび、違和感を抱く構成になっています。 「こういうと話が大きくなるんですが、東海テレビ固有の問題は、編集の段階ですべて排除していっています。つまり『東海テレビ物語』ではない。どこのテレビ、メディアにも普遍化できるものをつくりたいというのがあった。だから、彼に対するまわりの反応は、おそらく他のメディアでもあることだろうなぁと思って表現をしました」 ──他のメディアと比べてということでいうと、他所はもっとひどいかなぁと想像もします。ただ一連の東海テレビのドキュメンタリーを観てきた印象からすると「あの東海テレビにしてもそうか」というものがありました。 「そうですか。自分の反省として言うと、ぼく自身も土日にデスクとして渡辺君と組むことがあって。ついキツイ言葉をかけたこともありますし。ぼくは社員だから、ほんとうに弱い立場の人の気持ちがどこまでわかるのか。悲劇を通り越して、ツッコミたくなるくらい、弱い者の味方といいながら自分たちがそれを実践できていない。そこは描かないといけない。でも、想像以上にいろんなことが起きましたね」 ──映画の後半で、局の看板だったニュース番組のメインキャスターが、ロボットの研究者を取材するのに同行される場面がありますよね。あれは撮ろうという目的をもって? 「意識はしていました。『弱いロボット』を取材するというので何か撮れるかもしれないと。福島(キャスター)はずっと逆の方向を目指していたんですね。強くなろう、正しくあろう、間違いはなしにしようと。いちばん彼が落ち込んでいたときだったこともあり、もしかした『弱いロボット』にヒントがあるかなぁと」 ──あの場面のあるなしで映画の意味合いは変わったかもしれないですね。言いよどんだり、すらすら話せないロボットを見せられたりしながら「そこに人間らしさがある」といった説明を受け、福島さんの表情が変わる。それはワタナベくんに対する関わり方にもつながることでもある。 「それでいうと、いまのテレビには愛らしさがないですよね。あのロボットに感じるような。人間だから弱いところもあるだろうに、それは見せないようにしている」 ──ところで撮影初日に報道フロアの先輩から「フワッとした理由で撮るのか」と問われる場面がありました。「テレビの今」を映すという企画説明でしたが、土方さん自身は「フワッ」としたものだという認識だったんですか? 「毎回そういうスタイルで東海テレビのドキュメンタリーは撮っているので。とくに今回は自分たちの職場なので、(前作『ヤクザと憲法』のように)ヤクザを追いかけているときよりもこういうものが撮れるだろうという予測はついていましたが、あえてフワッとさせておくのが取材の醍醐味というか。ふだんのニュースの取材だと、取材の回数も決められ、何分以内という制限もある。そうなると逆算して、何日以内につくるというふうになる。だからこそ逆算をしないで、フワッとさせる。そういう考え方でやっているんですが、ずっと嘘をついているように思われていたんですよね」 ──嘘というと? 「つまり、おまえの頭の中に台本が出来上がっているんだろうという。それは、ぼくもよくわかるんです。(ニュースは)最初に落としどころを決めていないとできない」 ──ワタナベくんたちが、前日が嵐で「今年は花見ができません」というニュースを撮りに行くと、なんとそこは満開。それでも彼は「桜が散ってしまい……」とレポートしようとする場面がありましたよね。 「あれは象徴的な場面で、結論ありき。取材は、塗り絵に色をつけにいくだけという皮肉になっている」 ──コントのようなシーンですが、彼がどれだけのプレッシャーを感じ冷静さを欠いていたかが後々わかる場面でもある。子供たちのテレビ局見学の様子や「弱いロボット」のエピソードなどのつながりから、「弱者」との関わり方を考えさせられる映画になっている。 「それは、はじめて言われたことですけど、そこに目がいくのは、自分の中にもそういうところがあるからなんでしょうね。弱い人間が世の中にいてもいいんじゃないかという。もともとは制作部にいて(報道部の)ドキュメンタリー班に拾ってもらうまでは、要領がよくない、忘れる、叱られる、の連続でしたから。でも、あまり掘り下げすぎると自己弁護になってしまいそうで(笑)」 (取材・文/朝山実)
dot. 2019/12/28 11:30
さんまと松本人志 過去の“遺恨”水に流し共闘はあるのか?【2019年ベスト20 8月4日】
さんまと松本人志 過去の“遺恨”水に流し共闘はあるのか?【2019年ベスト20 8月4日】
 2019年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で読まれた記事ベスト20を振り返る。  10位は「さんまと松本人志 過去の“遺恨”水に流し共闘はあるのか?」だった。お笑い芸人らが反社会的勢力の宴会に出て金銭を受けとる“闇営業”問題。7月には宮迫博之や田村亮ら11人の芸人が無期限謹慎処分となる出来事もあった。だが、宮迫と田村の強行会見を機に契約が解除され、業界内からは2人を擁護する意見が目立った。最終的に吉本側が2人の処分を撤回するなど、二転三転する形となった。 *  *  *  お笑い界の巨人・吉本興業を根幹から揺るがす騒動へと発展した闇営業問題。吉本から契約を解除された雨上がり決死隊の宮迫博之(49)が、ロンドンブーツ1号2号の田村亮(47)とともに事務所を通さず臨んだ“手作りの謝罪会見”は世間の注目を集め、彼らの涙に心を打たれた人も多かった。  その2日後に行われた吉本興業の岡本昭彦社長(53)による5時間半にも及ぶ記者会見は、「何を言いたいのかわかりづらい」「パワハラの言い訳が苦しい」など世間から大不評。同日、吉本興業は宮迫の「契約解除の解除」を決めたため、一夜にして形勢逆転となった。  6000人もの芸人を擁する吉本興業の大規模な“お家騒動”は混迷を極め、明石家さんま(64)や松本人志(55)は記者会見後の宮迫を完全擁護。個人事務所を持つさんまは「(宮迫が吉本をやめるなら)うちの事務所にほしい」と発言し。松本は7月28日に放送された「ワイドナショー」で「(会社が変わらないんだったら)僕が全員芸人を連れて吉本を出ますわ」とまでコメント。  宮迫はさんまと松本という、吉本を代表する売れっ子芸人を味方につけることにも成功したわけだが、「さんまさんと松本さんが共闘するなんて、時代の流れを感じる」と語るのは、関西で古くからお笑い番組に携わってきた制作会社のディレクターだ。 ■今田をめぐる、さんまと松本の因縁 「そもそも、さんまさんと松本さんは長らく仲が悪かったのです。ふたりの仲が悪くなった事の発端と言われているのは、1995年にフジテレビで放送された『生さんま みんなでイイ気持ち!』を立ち上げたとき。90分の生放送で、フジテレビが社運を賭けて相当な予算を投じたバラエティ番組でした。当時、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)で人気が出始めていた頃の今田耕司さんをさんまさんが共演者に指名したのですが、これに対して松本さんが激怒したんです。松本さんにしてみれば、『俺が大阪から連れてきて有名にした今田を、なんでさんま兄やんに獲られなあかんねん』という思いがあったんでしょう。結果、今田さんの大抜擢は幻に終わり、代わりに入ったのが当時SMAPとして人気急上昇中だった中居(正広)さんだった。番組自体は低視聴率のため7回でさんまさんが降板、あえなく打ち切りになりましたが、奇しくも中居くんとさんまさんの蜜月の関係は、この番組がきっかけとなって生まれることになったんです」 「ごっつ~」をやってた当時の松本は血気盛んで、同じような問題がいくつもあり、業界内でもよく噂になっていたという。1995年といえば、松本は「遺書」で250万部の大ベストセラーを放っていた頃。相手がさんまだとはいえ、さすがに当時の吉本上層部も松本の言うがままだったのだろう。  業界では公然の事実として知られていたさんまと松本の不仲説。松本自身も現在放送中のレギュラー番組「ダウンタウンなう」で、ゲストの出川哲朗にさんまとの関係を尋ねられた際、「(さんまさんは)俺にはちゃんとからんでくれない」と寂しげに語る一幕もあった。 「松本さんはああ見えて礼儀正しい人ですから、さんまさんを先輩としてちゃんと敬意を持ってはいます。“お笑い怪獣”と形容されるようにブルドーザーの如くすべてをなぎ倒していくスタイルのさんまさんと、どんな番組でも緻密な笑いを構築する松本さんでは芸人としてのスタイルが違いすぎるため、松本さんは先輩を立てて『俺にはちゃんと絡んでくれない』というコメントになったのではないでしょうか。実際、松本さんとさんまさんの共演は極めて少ないのですが、それは吉本上層部やテレビ局の忖度もあったのではないかと思います」(前出のディレクター) ■宮迫はどちらを選ぶのか  とはいえ、今田耕司や宮迫博之など、“松本チルドレン”と言われ続けてきた人気芸人とさんまが共演することはたしかに多い。在阪の某放送作家は次のように語る。 「松本さんは大阪時代からともに笑いを作ってきた今田さんや、東京に出てきたけどまったく仕事がなかった宮迫さんに数々のチャンスを与え、彼らを売れっ子芸人まで引き上げたという自負は強いはず。だから、さんまさんが自身の番組のレギュラーとして今田さんや宮迫さんを今でもキャスティングしたがることについて、『横取りすんな』という思いが絶対あると思います。その点において、松本さんとさんまさんの足並みがそろうことはまずない。しかし、今は吉本興業存続の危機にまで話が及んでいるし、岡本社長にパワハラまで受けた宮迫さんが不憫なため共闘することになった、という感じではないでしょうか。ただ、先日の記者会見で『引退は考えてない』とコメントしていた宮迫さんがもしこのまま吉本をやめてしまったら、さんまさんを選ぶか松本さんを選ぶかで、また新たな火種が起こりそうな気もしますが……」  あの記者会見からすでに2週間。宮迫の進退はどのような結論を見出すのか。TVウオッチャーの中村裕一氏は次のように推測する。 「現時点で宮迫さんの進退についてはまったく予測できませんが、疑惑の渦中でゲリラ的に行ったあの謝罪会見によって、世論が一気に同情へと傾いたことは事実です。そんな彼をめぐって、さんまさんと松本さんという人気・実力ともにトップの2人が立ち上がり、行動を起こしたことについて宮迫さんも相当胸を打たれたと思います。それと同時に、老若男女に笑いを届けるはずのお笑い芸人が涙を流して謝罪する、あのような悲劇は今後二度と起こって欲しくないという人は多いでしょう。かつては対立構造にあったとされるさんまさんと松本さんですが、2人の愛する『お笑い』の未曾有のピンチに、居ても立ってもいられなかったのだと思います。同じ目的のために尽力している2人の姿を見ていると、やはり笑いの力は素晴らしいと改めて感じます。もちろんまだ予断を許さない状況が続きますが、良い結末になることを心から願っています」  過去の遺恨も含め、いま吉本興業を取り巻く重要人物たちが激変の時期を迎えているのは間違いないのかもしれない。(藤原三星)
dot. 2019/12/28 11:30
【群ようこさん連載】まいにち食べる(10)
【群ようこさん連載】まいにち食べる(10)
イラスト:オカヤイヅミ ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  昨年の1月は新聞小説の締切があったため、のんびりできないので、久しぶりにおせち料理を購入した、という話は以前にも書いた。そして今年もスケジュールを確認したら、1日と2日しか休めないとわかり、少しでも楽に過ごそうと、またおせちを注文した。昨年は糖質制限おせちの糖分の少なさに満足したのだが、今年は2人程度の少人数向きのものをまずピックアップして、そのなかからオーガニックで添加物を極力抑えたという、おせちにしてみた。小さな二段のお重の一段目に、見慣れた伝統的なおせち料理が詰められ、二段目の隅には豚の角煮が三切れ、その他焼き魚などが入れられていて、多くの品が少しずつ詰められているのもよさそうだった。  大晦日の夜に届けてくれ、1月1日に角餅、鶏肉、小松菜が入ったすまし汁の雑煮を作り、重箱のなかの煮染めをひと口食べたとたん、しまったと思った。自分が作るものとは味付けが違うとわかっていながら、想像以上に甘味と塩味が強い。素材はオーガニックかもしれないが、ふだん自分の好みで味付けをしている私にとっては、その強めの味がちょっと辛かった。  食べているうちに、特に濃いもの、薄味のものがわかってくるので、それを交互に食べて口の中を中和したり、朝、昼は濃い味のものを食べ、夜は薄味のものと分けたりして、何とかほとんどを食べたが、二段目に詰められていた、牛肉の煮物と味噌和えは、あまりに味が濃くて残してしまった。私には肉類は厚さ2センチの豚の角煮が三切れあれば十分で、 「おせちにこんなに肉が必要なのだろうか」  と問いたくなった。もしもこの肉の多さに気がついていたら、注文しなかったかもしれないが、私はカタログを見た時点で、気がつかなかった。他の、数の子、エビ、コハダ、昆布巻きに比べて何倍もの量があるということは、牛肉に関するいわれは何かという疑問はともかく、こういった食材がおせちとして、人気がある証拠だろう。  おまけに牛肉大サービスで、これがまた大きめの器にぎっちぎちに詰められていて、いくら食べても減らない。掘っても掘っても味噌をまぶした肉が出てくる。その残ってしまった牛肉類は、結局、年末に買っておいた、れんこん、ごぼう、こんにゃく、にんじん、しいたけなどを煮たなかに投入して消費した。しいたけも入れたので、出汁は使わずにただの水で煮たのだけれど、それでも十分な味噌味の煮物になった。  昨年はおせちを食べたおかげで自炊の習慣が途切れ、気力を失いかけて、これはいかんと自分を奮い立たせたのだが、今年はおせちがいまひとつだったので、 「やっぱり自炊を頑張ろう」  と自分を叱咤できたのはよかった。昨年よりも今年のおせちのほうが、料理も味付けも、消費者の好みを考えた一般的なものといえるだろう。私は糖分を過剰に摂取すると、注意喚起のように膝下に小さな発疹が出るのだが、久しぶりに発疹が出た。  年頭、私とほぼ同年輩の男性がラジオで、「今どきおせちなんて、喜んで食べるような人はいない」という内容の話をしていた。もちろん彼はいわれを知っているのだが、話の中で何度も、 「あんなまずいもの」  と吐き捨てるように繰り返したのが面白かった。食べられないほどまずくないのだから、そんなふうにいわなくてもいいのにとも思ったけれど、よほどひどい味付けのおせち料理を食べてきたのだろう。  私が子供のときは、正月に食べるのは雑煮と母親手作りのおせち料理しかなかったので、目の前に並べられたものを食べていた。伊達巻きや栗きんとんは甘くておいしかったが、ごまめは重箱の中での存在の意味がわからなかったし、黒豆の中に入っている、ヒョウタンツギみたいな赤いちょろぎ(長老喜と書き、植物の球根であるということは、ずっと後に知った)については、 「こいつ、何者?」  という疑問しかわかなかった。ふだんの食事のほうがいいなとは思いながら、お正月はこういうものと、特に文句もいわずに黙々と雑煮や磯辺焼きと一緒に食べていた。他に食べるものがなかったということもある。  最近のおせちは、雑煮などの餅類や御飯と共に食べるというより、お酒を飲みながら食べるのに向く味付けになっているような気がしてならない。味のバランスが、以前とは違っているのだ。私はおせちを食べ終わると、すぐにふだんの食生活に戻るのだが、正月はまったく雑煮は作らず、宅配ピザを注文したり、ラーメン、焼き肉、すき焼きを集中的に食べたりする人も多いと聞いた。  料理上手な友人は、夫が京都の骨董店で蒔絵の立派な重箱を購入したのをきっかけに、年末から1人で準備をはじめ、1月1日に夫の部下を招いて総勢10人以上の新年会をするようになった。テーブルの上がお正月風に美しく設えられ、おいしそうなおせち料理が詰まった蒔絵の重箱が並べられている画像を見せてもらったときには驚嘆した。このような家もあるのだが、ここまでではないにしろ、今後はこのような正月の食卓の風景も、趣味の範疇になってしまいそうだ。うっとりするような画像を思い出しつつ過ごしているうちに、私の正月気分はあっという間に消え去っていった。  先日、食後にテレビを見ていたら、クイズ番組で「日本人1人が1日に食べる米の量(消費量)は、世界で何番目か」という問題が出た。国際連合食糧農業機関(FAO)の2013年のデータで、173の国と地域を調査した結果だという。1位から50位までランキングが出ていて、1位、7位、18位、32位の4か所が空欄になっており、それのどこに日本が当てはまるかという質問だった。私は、いくら御飯を食べなくなったといっても、7位、悪くて18位だと想像していたら、何と32位だった。1日に食べる量は164グラム。これは炊飯前の米の量だろうから、おにぎりにすると3個半くらいの分量だろうか。(編集部注:その後データ更新、175か国中33位と修正された。「FASTAT」2019.2.11)  日本には大食漢の代表の力士がいるし、アスリートの若い女性たちが、「平気で丼2杯、御飯を食べます」と笑っているのを見たことがあるので、そういった人たちが、みんなが米を食べない分を補って、たくさん食べてくれているのではと想像していたが、実際はそうではなかった。そんなに少ないのかと驚いたが、考えてみたら私自身も夜はほとんど御飯は食べないし、食べたとしても茶碗に半分以下だ。朝と昼の御飯の量を考えても、おにぎり3個半の量に満たない。世の中にはうどん、そば、パスタ、パンなどもあるから、それを食事に取り入れていたら、1日おにぎり1個分もなく、全然、食べない日もあるはずなのだ。  私が御飯を炊いて自炊をしていると知ると、ひとり暮らしの女性たちに驚かれることが多かった。 「御飯ってなかなか食べられないんですよ」  という。炊飯器やレンチン御飯にすれば楽だろうにと思い、 「毎日、どんなものを食べているの」  とたずねると、朝食は前夜、会社からの帰り道にコンビニで買っておいた菓子パンとコーヒー。自分で、よくやったと思える満足な朝食は、フルーツ・グラノーラに牛乳、スムージーだそうである。昼は会社でサンドイッチや惣菜パンのような、近くのコンビニや店舗で購入できるもの。夜は同僚と一緒に食べる場合は、行きつけの居酒屋か、イタリアンだという。  私はお酒が飲めないのでわからなかったのだが、最近の女性はお酒を飲む人が多いので、夜は御飯を食べずにお酒と料理という人もいるのではないか。イタリアンも基本はパスタなので、意識してリゾットを注文しない限り、米は口の中には入らない。家でワインを飲むとしたら御飯は合いそうにないし、日本酒、焼酎、ビールもそうだろう。そうなると御飯の出番はないのである。  また、きちんと昼食の時間として1時間取るのは難しいという話も彼女たちから聞いた。  私は食事の時間は絶対なので、どんなに仕事が詰まっていても、きっちりと1時間取る。そうしないと元気が出ないのだ。彼女たちは、ひどいときはずーっとパソコンの前で作業をし続け、夕方になって昼御飯を食べていないことに気付くという。会社のパソコンの前で仕事をしながら昼食を食べるとなると、両手がふさがると仕事の効率が悪くなるので、御飯とおかずの箸で食べる弁当ではなく、片手で食べられるものを選んでいるのだとわかった。  そうなるととりあえずはお腹の中には入っていくけれど、食事を摂ったという感覚はほとんどないのではないか。何となくお腹がすいて、何となく歯ごたえがなく、よく噛まなくても済むものを口の中に入れて終わり。夜も液状のものを重点的に流し込んで、体力がつきそうな肉を食べておく。なかには、 「何人かで食事をするときはいいけれど、夜、部屋で1人で食事をするときに、御飯を食べると何となく悲しくなってくるので、パスタやパンにしちゃうんです。パンとレトルトのシチューよりも、自分で作った御飯と味噌汁のほうがわびしい感じ。何でですかね」  といった女性もいた。御飯は実家や家庭など、家族を連想させるのだろうか。  人の毎日の行動は、習慣になっているから、食事も同じだ。私の知り合いの、子供がいない50代後半の女性はフルタイムで働き、夫と2人暮らしなのだが、 「最近、全然、御飯を炊いてないんです」  という。若い頃は鍋で御飯を炊き、夫も協力的で早く帰ったときはよく料理を作ってくれていたという。 「今は会社から帰ると、夜9時くらいになってしまうし、それから料理を作るのも面倒になっちゃって」  それはそうだと同情した。人は歳を取って年々体力が落ちるし、できなくなることが増えてくる。彼女は平日は夫と連絡を取り合って、どちらかが2人分の晩御飯用の弁当や惣菜を買って家で食べる。朝食は食べないか、冷凍してあったパンを焼いてジャムやスプレッドを塗り、コーヒーを飲んで家を出る。休日は、ふだんは2人でいる時間が少ないので、外出して食事をするのだという。 「これじゃ、いけないと思うんですけどね」 「それでいいんじゃないの。無理をしないほうがいいわよ」  そう私はいった。疲れきって家に帰ったのに、それから御飯を炊いて飯を作れというのは、2人にあまりに酷な話である。それならば食事は外注方式にしたほうがいい。休日に夫婦で出かけて、そこで食事を摂るほうが、2人のためにはずっといいような気がする。  それは彼女が過去に食事を作った経験があり、下地ができているからだ。きっと彼女は、今、御飯を炊いて味噌汁を作ってといわれても、すぐに作れるだろう。料理は自転車と同じで、一度、うまくいったら、一生、作り続けられるようになる。しかし今は、その自転車に乗る練習すら拒絶する人が多い。  糖質等の問題で御飯の肩身は狭いし、家族構成の変化もあって、これからもっと米の消費量は減りそうな気がする。おせちでさえ、日本人が親しんできた、餅、御飯とは合わない味付けになり、10年後には存在すらなくなってしまいそうだ。日本人の食が生活環境、嗜好と共に本当に変わってきた。こんな現状ではそれもまたやむをえないと、さびしい気分で納得したのだった。 ※『一冊の本』2019年3月号掲載 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
dot. 2019/12/26 13:43
【電通過労死から4年】高橋まつりさん母が今も後悔する「娘との最後の電話」
【電通過労死から4年】高橋まつりさん母が今も後悔する「娘との最後の電話」
高橋まつりさん。学生時代には「週刊朝日」のインターネット放送に出演していた 「娘を失った悲しみはどんなに時が過ぎても癒えることはありません」  大手広告会社、電通の社員だった高橋まつりさん(当時24)が長時間労働などを苦に自殺して4年になる。まつりさんの命日となる25日、母の幸美さん(56)が手記を公表した。  まつりさんは2015年12月25日に自らの命を絶った。当時の残業時間は認定されただけでも月に100時間を超え、長時間労働が常態化していた。まつりさんの過労自殺を受け、2017年1月に石井直社長(当時)は引責辞任。電通は労働基準法違反の罪で起訴され、同年10月に罰金50万円の有罪判決が言い渡された。労働環境は改善すると思われたが、今年9月、電通は残業時間の上限を定める労使協定を違法に延長させていたなどとして、労働基準監督署から是正勧告を受けた。  幸美さんは手記で「ひとりの社員が死んだくらいでは変わらないだろうという私の予想通りでした」と怒りをあらわにした。AERA dot.の取材に対し、幸美さんが現在の思いを語った。 ――高橋まつりさんが亡くなって4年がたちました。  4年前の今日、まつりと電話した朝に戻れたら……。今も後悔しています。その思いは一度も変わりません。ずっとそのことばかり考えています。 ――電話ではどのようなお話しをされたのですか?  朝、まつりから「お母さんありがとう。さようなら。仕事も全てが辛いです。今までありがとう。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだったからね」とLINEが送られてきたんです。すぐに電話して「死ぬぐらいなら会社を辞めればいいんだからね」と声をかけましたが、まつりは「わかった」と力なく答えるだけでした。 ――まつりさんは、お母さんに楽をさせてあげたいという思いから給与の高い広告業界に就職したそうですね。  離婚して近くに頼れる親戚もいないなか、娘と息子と私で「3人で力を合わせて生きていこうね」と助け合ってきました。まつりはいつも家事を手伝ってくれたし「私がいっぱい働いてお母さんを支えないと」「お母さん、私がいくらお金をあげたら会社を辞められる?」と言っていました。女手一人で育ててきましたが、私が残業で帰りが遅いと、「労基署に訴えようよ」と、いつも私を心配してくれる娘でした。 ――広告業界は激務だと言われています。  本人も覚悟はしていました。それでも物おじしない性格で体力的にも精神的にもストレス耐性に自信があると。「官僚で死ぬほど働くより、電通で死ぬほど働く方がまだマシ」なんてことも言っていました。それでも、寝る時間もないくらい忙しい日々が続いて、精神的に疲弊してしまったのです。 ――「就職に反対していれば」という思いはありますか?  就職には反対しましたが、聞き入れませんでした。私の力では止められなかったと思います。都会での働き方やキャリアの知識もなく、アドバイスもできませんでした。私が頼りないばかりに、と悔やんでいます。 ――まつりさんの様子に異変を感じたのはいつごろからですか?  10月ごろ、まつりがチケットを用意してくれてディズニーランドに2人で行ったんです。アトラクションに並んでいる最中に、「仕事が辛い」とこぼしていました。「こんなに辛いとは思わなかった。もう限界だから、休職か退職するからね。お母さんは口出ししないでね」と。私も「死ぬくらいなら絶対に辞めてね」と言っていました。なんとか解決してくれると思っていたので、見守るしかないと。会社や上司には相談していたのですが、うやむやになってしまい、ずるずると仕事を続けていました。 ――仲のよい親子だったんですね。  亡くなる5日前の週末にも会っていました。まつりが住んでいる社員寮に行って、掃除や洗濯をしてあげたんです。「明日はランチに行こうね」と前の晩に話していたのですが、よほど疲れていたのでしょう。まつりは昼まで起きられず、結局行けませんでした。正月は静岡の実家に帰ってくるとのことで、「あと一週間したら実家に帰るね」とまつりが話していました。それが最後の会話になってしまいました。  振り返れば、当時は激務に加えて、忘年会の準備も重なっていました。私が東京に行くと、忘年会で流すためのVTRの撮影を日曜日にしていました。まつりの同期の方もいたのですが、撮影が終わると、「まだ仕事があるから会社に戻るね」といってその同期は会社に戻っていました。日曜の夜にですよ? 「会社近くのイルミネーションがきれいだから見てきなよ」とまつりに言われたこともありました。ライトアップが夜10時までなのですが、「仕事が終わらなくて、私は見たことがないんだけどね…」という娘の言葉や、「わたしたちの深夜の仕事が東京の夜景を作っているんだよ」と言ったことは今でも忘れられません。 ――現在はどのような毎日を過ごされていますか?  過労死防止の啓発イベントや講演会のため動き回っています。このままでは娘の死が無駄になってしまう。当事者になって、報道されている以上に多くの若者が過労で亡くなっていることを知りました。社会が変わらないのは、そうした現状が知られていないからではないかと思ったのです。手記を公表したのは、この問題を風化させないため。仮にマスコミに取り上げられなくても、SNSを利用して声をあげようと思いました。 ――まつりさんに伝えたい言葉はありますか?  「帰ってきて」って言いたいです…。まつりに会いたい。会いたいです…。いつもみたいに、抱きしめたい。あの日、すぐにそばに行ってあげられなくてごめんねと伝えたいです。母さんはまつりを救えなかったけど、まつりはたくさんの人を救っているんだよ。 (聞き手・AERA dot.編集部・井上啓太)
仕事働き方働く女性
dot. 2019/12/26 13:00
2019年のJリーグで強烈なインパクトを残した“助っ人”9選
2019年のJリーグで強烈なインパクトを残した“助っ人”9選
ヴィッセル神戸のイニエスタ (c)朝日新聞社 9位:ブルーノ・メンデス(セレッソ大阪)  親しみやすいキャラクターも相まって、6得点という数字よりはるかにインパクトが強かったFWだ。フィットに少し時間はかかったものの、スタメンに定着してからはロティーナ監督の戦術にしっかりと合わせた前線でのポストワークからペナルティエリア内での勝負強さを発揮した。終盤の離脱は奇跡的な逆転優勝を目指したセレッソ大阪にとって痛手となった。 8位:ジェジエウ(川崎フロンターレ)  終盤戦のケガにより15試合の出場に終わってしまったが、個人能力の高さではチアゴ・マルチンスにも引けを取らない。相手にあらゆるシチュエーションで周囲から合間を突こうとされても、鋭いチェックで阻止するどころか、ボールを奪い取ってしまう。その守備に目を奪われがちだが、ビルドアップでも非凡さを見せた。リーグ3連覇を逃した川崎フロンターレだが、シーズン終盤にFC東京や横浜F・マリノスを追走するところでジェジエウが離脱を強いられたことが非常に痛かった。また、ACLで彼が外国人枠の関係により登録外だったこともグループリーグ敗退の要因として挙げられるのは当然だ。来年はフルシーズンの活躍で価値を証明してもらいたい。 7位:ダビド・ビジャ(ヴィッセル神戸)  今シーズン13得点を記録。たった1年で現役引退というのは寂しい気持ちもあるが、現役最後の舞台にJリーグを選んでくれたことは、サガン鳥栖で夏に引退したフェルナンド・トーレスとともに感謝したい。ボールを持っている時、持っていない時の両方でスペシャリティを発揮。ドリブル突破からのラストパスやシュートも見応えはあったが、やはり巧妙な動き出しからフリーで放つダイレクトシュートは圧巻だった。イニエスタとのコンビが高次元であることは言うまでもないが、日本代表にも選ばれた古橋亨梧など日本人選手とのコンビネーションも良く、左右両足でゴールを狙える安定した技術で、エリア内の全域で脅威になった。 6位:オルンガ(柏レイソル)  J2最終節の京都サンガ戦で8得点を記録したことが話題になったが、ほぼフルシーズンで圧倒的な存在感だった。来日1年目だった昨シーズンは圧倒的なフィジカルの強さこそ見せるものの、肝心のフィニッシュで大外ししてしまうなど“自作自演感”もあった。J2に戦いの場を移した今シーズンは開幕当初こそサブだったが、クリスティアーノ、江坂任、瀬川祐輔との攻撃ユニットが固まると、ゴール前のフィニッシャーとしての仕事が確立された。多少アバウトなボールでも余裕でレシーブ範囲にしてしまう身体能力は驚異的だが、積極的にシュートを狙う姿勢も見逃せない。27得点でJ2得点ランキング2位だったが、1点差で得点王のレオナルド(アルビレックス新潟)がPKで7ゴールを記録しているのに対してオルンガは0本だった。 5位:シマオ・マテ(ベガルタ仙台)  2019年において彼ほどドラマチックなシーズンを送った外国人選手はいないかもしれない。開幕当初はボランチで起用されるも、なかなかフィットせず、ウェイトオーバーも指摘される中でベンチが続いた。しかしルヴァンカップでアピールすると、第14節の名古屋グランパス戦で獅子奮迅の働きを見せ、チームを連敗から救ったことが転機となり、センターバックとしてレギュラーに定着した。セットプレーの得点力も魅力だが、シーズンで挙げた3得点のうち2得点が北海道コンサドーレ札幌戦という“コンサキラー”ぶりも際立った。 4位:アンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)  言わずと知れたワールドクラスの名手であり、中盤でボールを持てば高度なテクニックでまずボールを失うことなく味方に良質なパスを送り届けた。逆にパスの受け手としても素晴らしく、オフ・ザ・ボールでのポジショニングとファーストタッチからの効果的な持ち運びも見逃せない。6得点6アシストというリーグ戦の成績だが、起点になったプレーも含めて、大半のゴールに絡んでいる。また、本人が輝くだけでなく、周囲の選手と相乗効果を生むこともイニエスタならでは。天皇杯のファイナルでクラブ悲願の初優勝に導けるかにも注目だ。 3位:マルコス・ジュニオール(横浜F・マリノス)  ブラジルで見せていたプレースタイル的にもそれなりの活躍は予想できたが、シーズン開幕戦からいきなり光り輝き、攻撃の中心を担ったのは衝撃的だった。スペースを見つけて使う、時にはスペースを作って味方に使わせるポジショニング、動き出しが抜群で、途中からかなり厳しいマークにあってもパフォーマンスが大きく落ちることはなかった。また、仲川輝人はもちろん前半戦のチームを引っ張ったエジガル・ジュニオ、三好康児(シーズン途中にアントワープに移籍)、夏に加入したマテウス、エリキとも良好な関係を築き、“クリリン”の愛称にちなんだゴールパフォーマンスでもチームを盛り上げた。 2位:ドウグラス(清水エスパルス)  3年ぶりにJリーグに復帰した昨年は後半戦の15試合で11得点を記録したが、開幕前に不整脈が見つかり一度ブラジルに帰国。復帰後もしばらくはベストコンディションからほど遠かったが、徐々に本来の決定力を取り戻して、気が付けば絶対的なエースに戻っていた。昨年から北川航也(シーズン途中にラピド・ウィーンに移籍)との2トップが清水の看板となったが、相棒の移籍でマークが厳しくなる中でもゴール前の決定力は落ちず、第12節の大分戦で復帰後初ゴールを挙げてから調子を上げた。今季、最も無得点が続いたのは第30節の静岡ダービーから4試合。最終節のサガン鳥栖戦ではドリブルからの美しいゴールを決めて勝利を引き寄せ、チームをJ1残留に導いた。 1位:チアゴ・マルチンス(横浜F・マリノス)  1対1の強さに加えてハイラインの裏を目がけた攻撃に対しても、鋭い反転と初速で先回りしてインターセプトやクリアをしてしまう。『鉄壁』『無双』とも言うべき存在であり、センターバックの相棒である日本代表の畠中槙之輔も「あいつに比べたら、まだまだ足りない」と言うほどだ。Jリーグでは無敵に近く、コンディションが崩れない限りその状態は変わらなそうだが、来年はACLでの挑戦が待っているので、“死の組”で相手の強力なアタッカーに対して、どれだけ存在感を発揮できるか楽しみだ。(文・河治良幸) ※著者注(シーズンを通した安定感よりインパクトを重視した選考。ディエゴ・オリヴェイラは毎年ハイレベルで安定しているため殿堂入りで対象外とした) ●プロフィール 河治良幸 サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊に携わり、現在は日本代表を担当。セガのサッカーゲーム『WCCF』選手カードデータを担当。著書は『サッカー番狂わせ完全読本 ジャイアントキリングはキセキじゃない』(東邦出版)、『勝負のスイッチ』(白夜書房)、『サッカーの見方が180度変わる データ進化論』(ソル・メディア)など。Jリーグから欧州リーグ、代表戦まで、プレー分析を軸にワールドサッカーの潮流を見守る。NHKスペシャル『ミラクルボディー』の「スペイン代表 世界最強の"天才能"」に監修として参加。8月21日に『解説者のコトバを知れば サッカーの観かたが解る』(内外出版社)を刊行
dot. 2019/12/25 16:00
料理はスポーツと同じ? 美人研究家の「家庭料理」とは
料理はスポーツと同じ? 美人研究家の「家庭料理」とは
大原千鶴(おおはら・ちづる)/1965年、京都府生まれ。京都・花脊の料理旅館「美山荘」が生家。小さなころから自然に親しみ、料理の心得を学ぶ。結婚後、京都市中に移り住み、2男1女の母として子育てのかたわら、料理研究家として活動を始める。NHK「きょうの料理」、NHK BS4K「あてなよる」レギュラー出演、NHK BSプレミアム「京都人の密かな愉しみ」料理監修のほか、家庭料理の講習や講演など、幅広く活躍している。第3回京都和食文化賞受賞。著書多数。近著に、初のエッセー本『旨し、うるわし、京都ぐらし』(世界文化社)。 (撮影/写真部・掛祥葉子) 大原千鶴さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・掛祥葉子)  和服に京言葉がトレードマークの料理研究家、大原千鶴さん。「きょうの料理」をはじめ、テレビに雑誌に引っ張りだこの美人料理研究家は、仕事と並行して介護と子育てを両立してきたタフな精神の持ち主。気取った料理ではなく、家庭で普通に食べられる味を提案する姿勢にも、ご本人が表れているようで──。作家・林真理子さんとの対談では、キャリアのきっかけから伺いました。 *  *  * 林:料理旅館「美山荘」(東京都・花脊)のお嬢さまならお料理のほうに行くのは当然かもしれませんけど、きっかけは何だったんですか。 大原:お料理が好きで、実家でもお仕事させてもらってたんですけど、結婚して子どもを産んだあと、主人の母の介護をしてたんです。家の中でのことばっかりして生きていくのがつらくて、何かつくっていく仕事がしたいなと思って、「料理研究家」という名前でお仕事してみようと思って始めたんです。 林:トントン拍子にすぐ料理番組なんかにお出になったんですか。 大原:義母を8年介護して、最後の2年ぐらいは寝たきりだったんですが、それと並行して子どもを育ててましたので、6年ぐらいはぼちぼちという感じでした。「グラツィア」という雑誌があって……。 林:はい、ありました。講談社の女性誌ですね。 大原:「京の手習いはじめ」という、石田ゆり子さんと一緒に錦に行ってお買い物して、うちでお料理してお伝えするみたいな企画があって、そのとき初めて私の料理が誌面に載ったんです。それをごらんになった方から連絡いただいたり、一緒にお仕事させてもらった編集の人とかカメラマンの人が、ときどきお仕事を持ってきてくださったんだけど、義母が亡くなって1週間ぐらいしたときに、編集の方から「本を出しませんか」というお話をいただいて。それからちょっとずつそういう形になっていきました。 林:子育てとお義母さまの介護をなさりながらって、ほんとに大変だったでしょう。 大原:ヘルパーさんに来てもらったり、なるべく自分で全部やらなくてもいいようにしてたんですけど、それでも人の命をあずかる重さみたいなものを感じるし、すごくストレスがかかりますよね。誤解を恐れず言えば、介護で虐待とかする人の気持ちもわからなくはない、というのも正直なところで。 林:そうでしょうね。 大原:でも、そういう機会を与えられてよかったなと思うんですよ。うちの主人は男4人兄弟の四男なんです。お義兄さんも「面倒見ようか」って言うてくれはったんですけど、主人の母から「千鶴さんがいい」ってご指名を受けて、「えっ、私?」みたいな。 林:あらら、ご指名を受けちゃったんだ。 大原:半分一緒に住んでたので、「そりゃそうなるわよね」と思って。 林:お泊まりの仕事のときなんか、どうしてたんですか。 大原:今でこそ「はいはい、行ってらっしゃい」ですけど、まだ子どもが小さいときなんかは、晩ごはんつくって食べさせて、終電で東京に行って、真夜中にNHKで仕込みして、そのまま「あさイチ」に出て、終わったらすぐ帰って、2時半ぐらいには京都に着いてました。 林:ひぇ~、ほんとですか。たいへ~ん。 大原:だんだん子どもが大きくなってくると、「ママがいんぐらいのほうがええわ」みたいになってきますので、今は応援してくれますけど、男の人ってけっこう気が小さいじゃないですか。主人はいろいろ心配してくれたり、なんやかや考えたりしはるんです。「男の人は、仕事や言うて出ていったらいいんやし、ええなあ」と思った時期もありましたけど、一個ずつ一個ずつ乗り越えて。 林:前に栗原はるみさんにお目にかかったら、「料理研究家って、撮影スタッフがうちに来てくれて、みんなが写真を撮ってるあいだに洗濯ものを取りに行ったりできるので、主婦にとってこんなにいい仕事はない」とおっしゃってました。 大原:はい、おっしゃるとおりです。子どもが帰ってきたら「お帰り」って言えるし、できあがったものをおやつ代わりにつまんだりもできるのでね。あるときなんか、撮影してるときに息子が友達を連れて帰ってきて、そのときハモのてんぷらをしてましてね。 林:ハモのてんぷら! まあ、おいしそう(笑)。 大原:帰ってきて「何かない?」って言うから、「これでも食べとき」って出したんです。友達はべつに何も言わずに帰ったんですけど、その次にその友達がやってきて、「おやつ、何しよう」言うたら、「ハモのてんぷら」って(笑)。いつもはないですよね。 林:大原さんは、調味料とかもふつうにうちにあるようなものを使うんですよね。皆さんからよく「すごい調味料を使ってるんでしょう?」って言われるそうですけど。 大原:スーパーにあるふつうの調味料で、お味噌も、安売りのときは750グラム298円とか、そんなの使ってるんですよ。 林:そうなんですか。 大原:すごくいい材料を取り寄せればおいしいものができると思うんですけど、自分はそういう料理を目指してるわけじゃないのでね。子どもが小さかったころは、たとえばコショウなんかも、挽くコショウはからくて食べにくいじゃないですか。だからふつうのうちにあるふつうのコショウになるんですよね。そういうものを使うと、味が昭和な感じで、落ち着いた味になるっていうか。 林:ああ、昭和の落ち着いた味。 大原:私、家の料理って、きのう何を食べたか覚えてないぐらいすっと食べていくものがおいしいと思うんですよ。お母さんが張り切って難しい料理をして、それなのに食べてくれなくてイライラしたりするほうが弊害だなと思ってるんです。お母さんがラクにつくれて、子どもたちも旦那さまもラクに食べられるような料理をつくっていきたいなと思ってるんです。 林:確かに大原さんの本を読むと、肩ひじ張らずにラクにできそうな気がします。 大原:京都には「三里四方の食材を食べろ」という言葉があって、12キロってえらい狭いですが、近くで育った野菜とかとれたものを食べると、同じ土、同じ空気、同じ水で育ってるものだから、体になじんで健康にもいいというんですね。「身土不二」とかいいますよね。そのほうが自分らしい食べ方ができるような気がします。 林:京都には京野菜があって、見た目も美しい野菜ですが、あれを東京で買うと、まあ高いこと高いこと。 大原:そうですよね。京都だと、それがちょっと曲がってたりしたら、すごく安く売ってますからね。東京の方は江戸の野菜を召し上がっていただいたらいいと思うし、そこに無理をすること自体が、私にはストレスな感じがします。 林:私、料理はそんなにしないくせに、料理本を読むのが大好きなんですけど、「料理はスポーツと同じで、続けないとカンが鈍りますよ」っていう大原さんの言葉、ほんとにそうですよね。 大原:はい。それはそう思います。 林:ほんとにお恥ずかしゅうございます。 大原:いえいえ、林さんはお忙しいから。でも、お上手そうな感じがします。 林:私、週末はつくるようにしてるんですけど、緻密さがなくて、最後の詰めが甘いみたいで、焦がしたりとかしちゃうんです。 大原:アハハハ、そうなんですか。 林:NHKの「きょうの料理」にはお出になって何年ですか。 大原:レギュラーになって6年目だと思います。 林:あの番組のレギュラーになることに、皆さん憧れるみたいですね。何か失敗なさったことありますか。 大原:あんまりないですね。きのうたまたま収録だったんですけど、私、速いんですよ。料理が簡単だからだと思うんですけど、2本撮りで2時間巻き(予定より2時間早く)で終わりました。難しいことをやるよりも、「今の時代に合った合理的な料理を」と思っていますので。 林:そのギャップが大原さんの人気なのかもしれませんね。「京都はこうでっせ。こうしてつくるんどっせ」みたいな感じじゃなくて、冷蔵庫の余りものでつくるみたいな、そういうギャップが。 大原:毎日の暮らしで主婦してる方は、思うところがきっと一緒だと思います。男の方が料理するとなったら、材料をいっぱい買って、「今度いつ使うんやろ」と思うような調味料を使いたがるじゃないですか。でも、女の人の料理というのは、持続可能な、ものを無駄にしない料理なんですね。お大根の端っこも生かしてあげるような料理とかに喜びを見つけるので、そんなことがうまく伝わったらいいなと思ってます。 ※週刊朝日  2019年12月27日号より抜粋
週刊朝日 2019/12/24 11:30
六本木上空に鉄道の駅が出現!「特別展 天空ノ鉄道物語」は“鉄“尽くし
六本木上空に鉄道の駅が出現!「特別展 天空ノ鉄道物語」は“鉄“尽くし
アンバサダーを務めるのは中川家の礼二さん(中)と、松井玲奈さん(右)(撮影/蜂谷あす美) 歴代寝台特急のヘッドマークも展示されている(撮影/蜂谷あす美) 時刻表の表紙が勢ぞろいする様子は圧巻(撮影/蜂谷あす美) 2020年1月22日から提供が始まる「春風香る列車のチーズケーキ~三陸鉄道復興応援コラボデザート~」(撮影/蜂谷あす美)  2020年3月まで開催中の「特別展 天空ノ鉄道物語」。六本木ヒルズ森タワー52階の森アーツセンターギャラリーとスカイギャラリーを舞台にしたこのイベントは、JR各社をはじめとした全国の鉄道各社などが全面協力のもとで行われる、まさに「鉄道の大展覧会」。  地上52階、海抜250メートルの空間を「天空駅」に見立て、1000を超える展示品が一堂に会する。また、六本木ヒルズ森タワーの52階すべてを貸切ってのイベントは今回が初めての試みとあって、鉄道ファンのみならず、すでに多くの来場者で賑わいをみせている。鉄道を360度楽しむこの大展覧会の魅力をご紹介する。 *  *  * ■オープニングセレモニーも“鉄”尽くし!  開催に先立って、12月2日にオープニングセレモニーが行われた。司会進行を務めたのは鉄道ファンとして知られる、日本テレビの藤田大介アナウンサー。バックには、同じく鉄道ファンのミュージシャン、岸田繁さんが作詞・作曲した「そばを食べれば」が流れた。 「そばを食べれば」は、もともと上信越エリアの駅そばファンを増やすことを目的に行われたキャンペーン用の楽曲で、2016年に39店でBGMとして流された。翌年にも同キャンペーンが行われ、6店舗で55枚ずつCDを販売したところ即日完売した幻の楽曲。今回は「そばを食べれば」がイベントのイメージソングとして復活するとともに、CDが会場限定で999枚発売された。  セレモニーでは、主催者の一人である日本テレビ放送網の沢桂一事業局長から次のように企画意図の説明がなされた。 「1964年に開催された前回の東京オリンピックから半世紀以上が経過し、その間、社会、経済の発展に大きく鉄道が貢献してきた。これらを振り返って展示し、さらに将来にわたってこの鉄道文化を未来に継承していきたいという思いがあった」  続いて、イベントのアンバサダーを務めるお笑い芸人の中川家の礼二さんと、女優の松井玲奈さんが登場。2人は鉄道ファンとしても有名で、見どころを熱く語ってくれた。  リニア鉄道博物館に展示されている歴代の新幹線を見たことが鉄道好きになったきっかけだという松井玲奈さんは、「0系新幹線の実物の鼻がイチオシ」と紹介。  本展ではこの「鼻」と合わせて、0系新幹線を正面から見たときの写真が展示されている。なかでも「上部にあるアンテナがおすすめ」と松井さん。 「ふだんは高い位置にあってなかなか見られないものが目の高さにあって興奮しました。これまで私は新幹線では鼻の部分が好きだと思っていたのですが『実はアンテナだった!』と気づきました」と鉄道好きならではのポイントも披露してくれた。  テレビでもおなじみ、鉄道マンふうの衣装に身を包んだ中川家の礼二さんのおすすめは「JR各社の制服」。旅客会社のみならずJR貨物の制服も並んでおり、「なかなか見ることができずとても貴重だ」と語った。また、生まれて間もない息子さんのいる中川家の礼二さんは「子どもって小さいときは、鉄道ものか戦隊もののどちらかにハマると思うんですけど、それが合わさった『新幹線変形ロボシンカリオン』があるんです」とお父さん目線のメッセージも。 ■鉄道の歴史を知り、天空駅に魅了される  会場は内周と外周の2つに分かれており、内周を一巡り、続いて外周を一巡りするコース設定がなされている。  内周は、東海道新幹線が開業した年でもある1964年の上野駅から始まる。当時を再現した改札、およびホームをくぐり抜けていくと、現在に至るまでの、そしてその先につながる鉄道の歴史を学ぶことができるようになっている。  ここでの見どころは、1987年にJRが誕生した際の、各社のヘッドマーク。単独では目にすることはあっても、会社の垣根を越えて横断的に見られる機会はそうそうない。  また、初公開品として、寝台特急「トワイライトエクスプレス」の原寸大レプリカが展示されている。監修者で、各地の列車や駅舎の設計やデザインを手掛ける建築家の川西康之さんが、新潟県糸魚川市などの仕事に携わっていることが縁で実現した。  2016年に発生した糸魚川市大規模火災の復興支援のためにJR西日本が寄付した本物の車両部品と、糸魚川市や新潟県の技術を総集して作られたもので、川西さんは「鉄道は『かっこいい』だけでなく地域を元気にする役目も担っている」と語ってくれた。このレプリカでは展望A個室スイートや食堂車が再現されており、窓から漏れる暖色の光が夜行列車の旅を雰囲気いっぱいに伝えてくる。  さらに「時刻表インスタレーション」として、1964年から現在にかけて刊行された時刻表が壁一面に展示されており、表紙を眺めているだけで、時代ごとの鉄道の様子を知ることができる。  内周を一巡りしたのちは、外周へと移る。スカイギャラリーには「天空駅」が設置されており、ホームには段ボールで制作された「1号蒸気機関車」が提示されている。1号機関車は、明治政府がイギリスから輸入した蒸気機関車で、1872年に新橋~横浜間で行われた開業運転で主役を務めた。  今回の段ボールでの1号機関車は幼少期から鉄道模型製作を続けてきたアーティスト、島英雄さんによる作品。背景には海抜250メートルの世界が広がっており、天空駅はその空模様次第で、さまざまな景色を見せてくれる予感がした。この天空駅は中川家の礼二さんのおすすめポイントのひとつ。 「ちょっと仕事に疲れたな……と思ったときにはこの天空駅に立ち寄ってほしい。駅からの夜景を眺めることで自分を見つめなおすことができると思います」(礼二さん)  このほかに親子で楽しめるプラレールや最新の鉄道ゲーム展示のほか、アニメ映画「未来のミライ」に登場する「黒い新幹線」を忠実に再現した「骸骨座席」や「空想の東京駅」が実際に展示されている。撮影OKの会場内で、松井玲奈さんがおすすめするフォトスポットとして鉄道会社各社の鉄道標識の展示コーナーもある。 ■食事も鉄道ムード満点  また、「天空ノ鉄道物語」は、展示品だけでなく食事にも鉄道ムードが満点なところも見逃せない。会場に隣接する「Restaurant THE MOON」は「天空駅カフェ」として、オリジナルの「天鉄」かまぼこが乗った駅そばを開発。関東風と関西風の2種類が楽しめる。  各地の駅弁屋、列車を模したスイーツ、さらにはヘッドマークをデザインしたラテアートと、見ても食べてもおいしいグルメが充実している。変わり種としては、鉄道車両の「ドア」をイメージしたオリジナル駅弁「ドア弁」も全12種類が販売されている。午前に内周、昼食を経て外周というめぐり方もできそうだ。(文/蜂谷あす美) ●「特別展 天空ノ鉄道物語」 【会期】2020年3月22日(日)まで(会期中無休) 【時間】10時~20時(火曜日は17時まで)入館は閉館の45分前まで 【会場】森アーツセンターギャラリー&スカイギャラリー(東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー52階) 【当日券】一般:2500円、高校生・大学生:1500円、4歳~中学生:1000円(3歳以下は無料)  ※団体料金(当日券から500円引き)は15名以上で適用、添乗員は1名無料  ※障がい者手帳をお持ちの方と介助者1名は当日券の半額 ○蜂谷あす美(はちやあすみ)/1988年福井市出身。実家は越美北線沿いの電器屋。国鉄で車掌まで勤め上げた祖父がいる。高校時代の汽車通学時、鉄道の魅力に突如取りつかれ、鉄道雑誌をこっそり愛読し趣味をはぐくむようになる。慶應義塾大学入学後は、鉄道研究会に入会し、ノリと流れで代表まで勤める。大学卒業後は出版社勤務を経て、紀行文ライターに。26歳でJR全路線完乗を達成。雑誌『鉄道ジャーナル』(成美堂出版)で「ミルクを飲みに行きませんか」「わたしの読書日記」連載中。2019年7月に初の著書『女性のための鉄道旅行入門』(天夢人)を上梓。
dot. 2019/12/24 11:30
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野村昌二 野村昌二
業務時間外の「つながらない権利」は日本では浸透しない? 「希望者なし」の現実
イルグルム 加嶋美穂さん(34)/引き継ぎ書の作成は仕事の棚卸しになる。無駄な業務に気づき、仕事の属人化を防ぐ効果もある。写真は、「山ごもり休暇」で訪れたパリで(写真:本人提供) AERA 2019年12月23日号より  パソコンとスマホさえあればいつでもつながれる、つながってしまう時代。時にそれはプライベートな時間を侵食し、ストレスの原因になることも。フランスでは業務時間以外は「つながらない権利」を法制化しているが、そうした取り組みは日本ではあまり進んでいない。浸透させるにはどうしたらいいのか、AERA 2019年12月23日号で取材した。 *  *  *  パソコンやスマートフォンがあれば、いつでもどこでも仕事ができる時代だ。便利な半面、「休み」と「仕事」の境界線は曖昧になり、夜中でも休日でも、仕事の電話やメールが私生活に割り込んでくる。  業務時間外のメールが多いほど睡眠の質の低下につながるという研究もある。独立行政法人「労働安全衛生総合研究所」の久保智英上席研究員らのグループが15年に、都内のIT企業で働く55人を対象に1カ月間、毎日連続して調査を行った。その結果、業務時間外のメールが多い日は、少ない日に比べ2倍近く睡眠中の覚醒時間が増えた。業務時間外でも仕事に心理的拘束を受けているのが原因という。  業務連絡に常に「つながっている」ことは、心身にも影響がある。だが日本では、「つながらない」取り組みは進みづらい。  ある大手メーカーは、希望者につながらない権利の申請を認めたが、「希望者がいない」(広報部)と打ち明ける。この会社では、勤務時間外や休日にメールを送った人に、「メールは削除されたので勤務時間内に送り直してほしい」などのメッセージが自動返信される機能を取り入れた。海外の親会社に合わせた措置だが、日本では、一方的に送り直しを求めるのは失礼だと、利用しないようだという。  労働法が専門の青山学院大学の細川良教授(法学部)は、日本で浸透させるには、法律化で一律に決めるより、各企業が社員の働き方に合わせて考えるほうが実効性は高いと話す。 「その際に大切なのは、単につながらない状態にすればいいというのではないこと。顧客や取引先の理解を得ることも必要。また、つながっていない時に仕事のことが気になったり、休み明けに大量の仕事を処理することになれば本末転倒。つながらない状態をつくり、かつ仕事も回るようにするためのマネジメントに上層部が取り組まなければいけない」 「義務化」によって、つながらない権利を実現したのは、大阪市に本社があるソフトウェア開発の「イルグルム」。11年、年に1度、土日を含む9日間の連続休暇の取得を、役員を含む全社員の義務にし、その間は一切、メールや電話などでの仕事関係の連絡は禁止とした。名づけて「山ごもり休暇」だ。人事部の廣遥馬(ひろ・ようま)さん(26)は言う。 「労働環境の整備は会社にとって重要な課題。しかし、制度をつくっても運用されないと意味がない。そこで強制的に、心置きなく休んでもらうことにした。義務化は、会社としての本気度の表明です」  取得率はスタート当初から100%。約120人いる全社員が、現在も利用している。成功のカギは、徹底した「引き継ぎ」だ。社内には独自の「業務引き継ぎ書」があり、提出しなければ休めないことになっている。  携わっているプロジェクト、懸案事項、緊急連絡先、エラーが起きた際の対応手順……。こうしたことをすべて書き込み、「山ごもり」前に社内ネットで共有する。結果として、誰が休んでも円滑に業務が進む柔軟な組織を作り上げた。  同社プロモーション部長の加嶋美穂さん(34)は笑顔で言う。 「休み中は、仕事の連絡は絶対に来ないとわかっているので、心からリフレッシュでき、気持ちを切り替えまた1年頑張ろうと思えます」  08年の入社。制度スタート時は、「みんな忙しいのに休むと迷惑をかける」と抵抗感があったが、いざ休んでも何の支障もなかった。例年6月に山ごもり休暇を取得し、これまでニューヨーク、バリ、香港などで休暇を楽しんだ。今年は同僚と2人でフランス、ポルトガルなどヨーロッパ4カ国を巡った。 「普段は上司が行う業務を、上司が『山ごもり』中は部下が行うことになるので、部下の成長を促す結果にもなっています」(加嶋さん)  同社によると、山ごもり休暇で休みを取りやすい職場環境も生まれた。有給休暇の取得率は「山ごもり」導入前には2割程度だったが、18年は約7割に。男性社員の育児休業の取得率も上がっているという。  今から来年の「山ごもり」が待ち遠しいと話す加嶋さん。今度はどこへ? 「ハワイかな。リゾートが大好きなので(笑)」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2019年12月23日号より抜粋
仕事働き方
AERA 2019/12/24 08:00
SCANDALの新曲「Tonight」が内田理央主演『来世ではちゃんとします』主題歌に
SCANDALの新曲「Tonight」が内田理央主演『来世ではちゃんとします』主題歌に
SCANDALの新曲「Tonight」が内田理央主演『来世ではちゃんとします』主題歌に  SCANDALの新曲「Tonight」が、1月8日スタートのドラマパラビ『来世ではちゃんとします』の主題歌に起用されることが若っった。  同曲は2月12日発売のSCANDALのニューアルバム『Kiss from the darkness』の収録曲。SCANDALがドラマのタイアップに起用されるのは今回が初となる。  SCANDALはドラマの撮影現場に訪問し、主演の内田理央に主題歌抜擢の喜びを報告。「今回バンド史上初めてのドラマの主題歌をやらせていただけることになり、すごく嬉しいです!『Tonight』は日々に葛藤しながらも今をたくましく、楽しんで生きる人の気持ちを歌った人間賛歌になってます。ドラマに登場するさまざまなこじらせ男女達の日常をこの楽曲でよりユーモラスに彩れたらと思います!楽しみにしていて下さい!」、内田理央は「初めて曲を聞いたとき、だれかを好きだっていう真っ直ぐで純粋な思いと裏腹に、好きな人が受け入れてくれさえすれば幸せなのに、、という主人公桃江の姿が浮かびました。明るいけどどこか切ない曲調が、人生を前向きに楽しく感じさせてくれる来世ちゃんの主題歌にピッタリな曲だなと思いました」と語っている。  またドラマの原作となる同名漫画を手掛けるいつまちゃんは「私はテーマソングという概念がとても好きで、この曲を初めて拝聴した際にまさに悩みつつもなんとか楽しく生きようとする現代人のテーマソングのようだな~!と感動しました。特に主人公の一人である桃ちゃんにピッタリだ!と感じられる点が多々あり嬉しかったです。冷静に傷つきながらもまっすぐに無鉄砲に人を愛して許す歌詞と希望を見出してく明るいメロディーがあの子のようで私たちのようでとても素敵です。エンディングに描いたアニメはTonightから着想を得て『仕事はきつい。好きな人は優しくない。・・でも悲観するほど悪くない』と楽しげに深夜帰宅する桃ちゃんを描きました」とコメント。  プロデューサーの祖父江里奈(テレビ東京)は「SCANDALがこの作品の主題歌になる、ということ自体がすごく嬉しかったです。10年以上のキャリアのあるガールズバンドですが、女性が音楽という世界、しかもバンドというジャンルでやっていくにはいろいろな葛藤や苦労があったと思います。それらを乗り越え一つのスタイルを確立し、それでもさらに模索しながら走り続けるSCANDALの姿が、この作品の登場人物たちに重なりました。うまく生きることになんとなくこなれてはきたけれど、悩みや迷いは尽きないアラサー女性の応援歌のようなこの曲に、いつまちゃん先生が可愛いイラストを描き下ろしてくださいました。内田理央さん演じるドラマバージョンの桃江ちゃんのちびキャラです、ご期待ください!」と述べている。
billboardnews 2019/12/24 00:00
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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