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日本は職場も家も寒すぎる! 仕事がはかどり命を守る「室温」とは?
小長光哲郎 小長光哲郎
日本は職場も家も寒すぎる! 仕事がはかどり命を守る「室温」とは?
AERA 2019年12月23日号より AERA 2019年12月23日号より  血圧は気温によって変動する。暖かな住まいが健康にとって大切なことが指摘されているが、日本の住宅は寒さ対策が不十分なことが多い。室温は仕事効率にも影響する。AERA 2019年12月23日号では、寒さリスクやその対策について解説する。 *  *  *  室温と健康の関係が注目を浴びている。WHO(世界保健機関)は2018年11月、住宅と健康について新しいガイドラインを発表し、「寒さ」が呼吸器系や心血管疾患の罹患・死亡リスクを上げるとの研究報告に言及。健康への悪影響から居住者を守るため「冬季の室内温度は18度以上(子どもと高齢者はさらに暖かく)」と強く勧告した。  血圧は気温と密接な関係にあり、夏は低く、冬は高い。血圧を調節する交感神経が寒さに刺激され、血管を収縮させるのが主な原因だ。日本での冬の死因の半分程度は心筋梗塞や脳卒中など血圧が関係している。  だが、実は日本で最も寒いはずの北海道は、冬季死亡増加率が全国で一番低い。ポイントは室温だ。厳しい寒さを防ぐために北海道の住宅には断熱材が豊富に使われている。日本の断熱住宅の普及率は約24%。北海道は80%超え。冬季の死亡増加率との関連が見られる。  国土交通省が14年から19年まで行った調査によると、日本の住宅における居間での冬季温度の昼夜平均は、16.7度。WHOの勧告する18度を満たしていない家が6割以上。脱衣所に至っては9割が基準を満たしていない。一方で北海道では冬の室温が21度に保たれている住宅がほとんどだ。住環境が健康に及ぼす影響を研究している慶應大学の伊香賀俊治教授はこう話す。 「18度未満の家と18度以上の家に10年住んだ場合、18度未満は高血圧の発症確率が6.7倍になる。さらに9度以上と未満で比較した場合、4年後の循環器系疾患による死亡確率は9度未満が4倍になるというデータもあります」(伊香賀教授)  40代から80代の男女を調査した研究では、冬の居間の温度が15度以上の場合、10度前後の場合に比べて脳神経が若くなった。1度で2歳、5度で10歳の違いがあり、脳へのダメージが防げることもわかっているという。  1日の大半を職場で過ごすオフィスワーカーの場合、職場と自宅、両方での対策が必要だ。  ポイントは「足元の暖かさ」だ。床上1メートルの室温が18度以上でも床上の温度が16度未満である場合、高血圧のリスクは室温18度未満の場合とほとんど変わらないという。  オフィスの場合、エアコンは天井から温風が出るタイプが多いため、なかなか足元が温まらない。ひざ掛けをする、温かいスリッパをはく、コンパクトなパネルヒーターを足元に置くなどの自衛策が必要だ。 「足元の温度が2度低いだけで計算処理などの能率が下がったという研究もあり、仕事の効率にも関係します」(同)  自宅で注意したいのが窓などから伝わり、冷たい気流となるコールドドラフト現象。家の断熱性が低いために起きるが対策も可能だ。暖かい気流を足元に送るためには暖房器具を窓下に置くのが有効。窓ガラスに断熱シート、窓のサッシに隙間テープを貼って外の冷気を防ぐのもよい。  居間だけでなく、脱衣所や寝室などの温度にも気を配りたい。居間と寝室の室温を両方とも18度に保つ場合に比べて、居間が18度、寝室が10度と温度差が大きいと、起床時の血圧が高くなるという調査報告がある。渡辺尚彦医師も、温度変化は寒さ以上に血圧を上昇させると警告する。 「交感神経が刺激されて血圧が一気に上がり、脳や心臓疾患が起こりやすい」  すべての部屋を暖めておくのが一番だが、難しい場合は寒い部屋に行くときには上着を羽織る、マフラーを巻く、帰宅しても部屋が暖まるまではコートを脱がないなど、対策が必要だ。(編集部・小長光哲郎) ※AERA 2019年12月23日号
AERA 2019/12/23 17:00
世界は「竹内まりや」が好きだった! 山下達郎、永井博…シティ・ポップの進化
世界は「竹内まりや」が好きだった! 山下達郎、永井博…シティ・ポップの進化
イラストレーターの永井博さんのアトリエで。手がけた「Pacific Breeze」のジャケットが米国で「Best Illustrated Vinyl LP」を受賞(撮影/岸本絢)  1970、80年代の都会的で洗練された日本産の音楽「シティ・ポップ」が当時を知らない国内の若い世代だけでなく、海外でも人気になっている。音楽やアートがつむぎ出す「懐かしさ」の正体とは。 *  *  *  韓国・ソウルにある音楽バー「マンピョン」に、多くの若者が集っていた。重低音が響くなかで流れているのは日本語の曲。1984年リリースの竹内まりやの曲「プラスティック・ラブ」だ。その原曲から、山下達郎による同曲のライブバージョンが続けて流れると、若い男性客が感極まって曲に合わせて歌いだした。自身もDJをしているというその男性は、このイベント「From Midnight TOKYO」の常連。大橋純子の「クリスタル・シティー」(77年)が流れると即座に反応していた。  このイベントの主催は、現地でミュージシャンとしても精力的に活動する長谷川陽平さん。日本と韓国のポップシーンを橋渡しする重要な存在で、この10月のイベントで34回目を数える。客の多くは、ソウル在住の韓国人の若者だ。  シティ・ポップ。  主に70年代後半から80年代にかけてリリースされた楽曲で、たとえば山下達郎や竹内まりやの当時の曲が、いま世界的に人気だ。洋楽に影響を受けながらも、日本独自のアレンジが加わった曲が、シティ・ポップとして評価されている。 当時の価値を海外が見いだす  だが、決まったスタイルのサウンドがなく、ひと口に「海外で人気が高い」といっても、実はその国ごとの状況や感覚によって人気の曲が異なるというのも、この現象の面白さだ。そもそもシティ・ポップとは、本来英語圏では意味が通じないはずの和製英語だった。比較的早くからダンスナンバーとして山下達郎の曲などが人気だったイギリスでは、「J・レアグルーブ」「J・ブギー」などと紹介されていた。  それがどうだ。今やシティ・ポップという言葉は世界的に認知されている。意味が通る通らないではなく、その言葉でないと探せないタイプのレコードがあるとファンは察知している。 「フェイスレコード」ニューヨーク店は、多くのヒップホップ・アーティストを生んだブルックリン地区にある。いまや日本盤レコードを探してDJらが同店を訪れる(写真/フェイスレコード提供)  シティ・ポップが受容されている拠点は世界にいくつかあるが、その中でも先のソウルはかなり熱気が高い。「プラスティック・ラブ」を自身でリミックスしたことで世界的に話題となり、今年のフジロックフェスティバルでも深夜に超満員の盛り上がりを作り出していたDJのNight Tempoもソウル出身。角松敏生の大ファンとしても知られ、80年代後半の日本で作られていたタイプのシティ・ポップ・サウンドを「自身の理想」と公言する。  大貫妙子の人気アルバム「SUNSHOWER」を探しに日本を訪れた米国人男性を追ったテレビ番組「YOUは何しに日本へ?」が大きな話題を呼んだのは、2年ほど前のこと。その男性がとった行動が、世界の音楽シーンに浸透しつつある大きな流れを映し出していた。今年、米国の黒人アーティスト、タイラー・ザ・クリエイターが山下達郎の曲をサンプリングし、そのことを山下自身が半ば公認する発言をしたのは、ちょっとしたトピックでもあった。また、発売当時は日本でもまったく話題にならなかった佐藤博「awakening」などの作品が、海外ではトップランクの名作として語られるなど、外からの視点で日本側が価値に気がつくというケースも少なくない。 海外で帯つきの日本盤ずらり  東京・渋谷に店を構え、現在は米ニューヨークのブルックリンにも店を開いているレコードショップ「フェイスレコード」。その店内には「帯」つきの日本盤レコードがずらりと並ぶ。日本でも1万円を超えるようなレア盤が、物価が高い米国ではさらに高騰。なのに、売れる。 「日本のシティ・ポップはこちらでも認知され、コレクターやDJ、ビートメーカーなどに購買層が広がっています」(ニューヨーク店の店長) 「フェイスレコード」ニューヨーク店(写真/同店提供)  米国西海岸のシアトルとロサンゼルスに拠点を置くレコードレーベル「ライト・イン・ジ・アティック」も、海外への紹介という点では重要な役割を果たしている。昨年には細野晴臣の70年代から80年代にかけてのアルバム5作を初めて全米向けに発売し、大きな話題を呼んだ。プロデューサーとして同社で働く北沢洋祐さんは、LA育ちの日本人。彼が手掛けたシティ・ポップの名曲を多く収めたコンピレーション「Pacific Breeze」はベストセラーとなった。 今も永井さんのイラストの基本は絵筆と絵の具による手描き。制作中だという一枚にも、印象的な空の青色が丁寧に描き込まれていた(撮影/岸本絢)  米国でのこうした現象に北沢さんは、もともと米西海岸で70年代後半から流行したサウンドの影響が大きいことを認めつつ、こう語っていた。 「一度日本に行って帰ってきた音楽だっていうことにもカルチュラル・エクスチェンジ(文化交流)みたいな面もある」 アートワークにも高い評価  音楽以外の要素も、この現象に影響する。大瀧詠一「A LONG VACATION」(81年)を始め、80年代に「これぞシティ・ポップ」と評されるジャケットの数々を手掛けてきた永井博さん(71)のイラストもその一つ。その仕事が海外で高く評価されていることに気がついたのはSNSを通じてのことだったという。 「ツイッター上で、僕の描いた松岡直也のアルバム『THE SEPTEMBER WIND』(82年)のジャケットが世界中で何十万回も『いいね!』されていましたね。インスタグラムを始めたら、さらにたくさんアップされてるのがわかった」(永井さん) イラストレーターの永井博さん(撮影/岸本絢)  永井さんのイラストはCGで描かれているようで、実は手仕事。緻密で丁寧な仕事ぶりは、シティ・ポップが注目される要素と重なり合う。韓国や中国からオファーが舞い込む中、米国からは先の「Pacific Breeze」の第2弾でも、イラストの依頼が来ているという。 「街とビーチとヤシの木なんてLAに行きゃいくらでも本物があるのに、なぜか自分の絵に注文が来るんです。『懐かしい』って言ってね。日本の人もそう言うんですよ。不思議だなと思ってます」(永井さん)  その「懐かしさ」の正体には心当たりがある。モダンな都市生活やリゾートに夢やロマンを感じられた時代への郷愁とでも言おうか。かつてあった価値観への憧れと隔たりを同時に感じることで生まれる、どこかふわふわとした心地よさ。いまのジャパニーズ・シティ・ポップの潮流は、リバイバルではなく新しいものとして若いリスナーに届く。そんな「気分」を楽しむことこそ、シティ・ポップといえる。 これぞシティ・ポップな名盤5枚(AERA 2019年12月23日号から) ○松永良平(まつなが・りょうへい)1968年、熊本県生まれ。ライター、編集。雑誌やウェブを中心に記事執筆。著書『20世紀グレーテスト・ヒッツ』、『コイズミシングル』(小泉今日子ベスト・アルバム『コイズミクロニクル』付属本)、編著『音楽マンガガイドブック』、翻訳書にテリー・サザーン『レッド・ダート・マリファナ』、ブライアン・ウィルソン『ブライアン・ウィルソン』自伝。編集担当書に朝妻一郎『ヒットこそすべて』、『ロック画報/カクバリズム特集号』など。近著に『ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック』(晶文社) ※AERA 2019年12月23日号
シティ・ポップ大貫妙子山下達郎永井博竹内まりや
AERA 2019/12/23 08:00
導入で売り上げ2倍に 世界が注目する「つながらない権利」を社内で実践
野村昌二 野村昌二
導入で売り上げ2倍に 世界が注目する「つながらない権利」を社内で実践
休みや終業後に業務メールや電話に悩まされる、という人は多い。業務時間外のメールが多いほど、睡眠の質の低下につながるという(撮影/写真部・張溢文) イグナイトアイ 小田島梓央さん(28)/オンとオフがしっかり区別できることで、仕事の効率もアップするという。「プライベートが充実しました」(撮影/写真部・小山幸佑)  スマホとパソコンで、いつでもどこでもつながってしまう時代。仕事から離れて、リフレッシュするためにはどうしたらいいのか。先進的に取り組む企業がある。AERA 2019年12月23日号で「つながらない権利」について取材した。 *  *  * 「すごく気持ちが楽。心の負担がなくなりました」  採用管理システムを提供する、東京都の「イグナイトアイ」の小田島梓央(しお)さん(28)は、パソコンの手を止めると微笑む。  2017年に今の会社に転職してきたが、前職は求人広告会社の営業職でいわゆる「ブラック」な職場。特に繁忙期などは、休日に家で休んでいる時であろうと、外出先であろうと、クライアントから資料の催促などの電話がおかまいなしに鳴った。その都度、対応に追われた。  対応しなければ取引を打ち切られてしまう。そんな不安から、いつ電話がかかってくるかが常に気になり、ストレス以外の何ものでもなかった。それが、転職して一変した。  勤務時間は基本的に朝10時から夜7時。それ以外は原則、連絡が来てもすぐに対応する必要はなく、翌日か休み明けでOK。休日は、社用の携帯電話は自宅に置いて遊びに行くという。  オンとオフがきっちり区別できるのは、「つながらない権利」のおかげだ。同社では、50人近くいる社員に対し、勤務時間外の電話やメール対応をしなくていいという取り組みを実施している。勤務時間以外は、「つながらなくてもいい」ことを権利として認め、プライベートの自由をきちんと確保しているのだ。  つながらない権利は世界が注目している。フランスでは法律でも認められた。勤務時間外や休日に会社からの連絡を拒否できる労働者の権利だ。16年に労働法改正の一環として成立した。  労働法が専門の青山学院大学の細川良教授(法学部)によれば、つながらない権利はヨーロッパ全体で10年代から議論が広がっていったという。ホワイトカラーの過重労働によるメンタル疾患の問題などが背景にある。 「携帯電話やインターネットの普及で私生活にも仕事が入り込むようになると、デジタルツールとの付き合い方を考えるようになった。とりわけフランスは、プライベートを重視するので、私生活が侵されることへの不満が強い。そうしたことが複雑に絡み合い、フランスでは立法化されました」(細川教授)  その後も17年にイタリアで同様の権利が法制化され、米ニューヨーク市でも現在、条例案の審議が進む。  つながらない権利をイグナイトアイで導入した目的を吉田崇社長(40)はこう話す。 「社員が健康で働けるために打ち出した取り組みが、つながらない権利を守ること。プライベートが充実してこそ、仕事も充実します」  同社は13年の設立。会社が成長し残業も多くなるなか、社員の業務負荷を減らすことで定着率を高めるため、この取り組みを打ち出した。顧客には、事前に対応可能時間を説明し、それ以外なら連絡が翌営業日になることを理解してもらっている。取り組みは努力目標だが、効果は会社の業績にも表れた。 「社員のやる気もアップし、会社の売り上げは、取り組み前に比べ2倍近くアップしました」(吉田社長) (編集部・野村昌二) ※AERA 2019年12月23日号より抜粋
働き方
AERA 2019/12/23 07:00
週間 クリスマスは西から天気下り坂 寒い仕事納めに
週間 クリスマスは西から天気下り坂 寒い仕事納めに
メイン画像 ホワイトクリスマスは北日本の一部のみ。クリスマスの日はサンタではなく雨雲が西からやってきて、九州は雨が降りそうです。仕事納めは全国的に厳しい寒さになるでしょう。 あす クリスマスイヴは暖かい服装で あす24日(火)は、日本付近の冬型の気圧配置は次第に緩み、高気圧に覆われてくるでしょう。 【晴れて夜は冷える】 沖縄と九州、中国・四国から北海道の太平洋側は、晴れる見込みです。ホワイトクリスマスにはなりませんが、夜のお出かけは天気を気にすることなく楽しめそうです。ただ、日が傾くと急に寒くなってきますので、暖かくしてお過ごし下さい。 【北は雪が続く】 寒気が流れ込む北海道と東北の日本海側では降れば雪になるでしょう。断続的に雪が降り、東北北部はふぶく所もありそうです。ホワイトクリスマスになるとはいえ、北海道では1メートルほどの積雪になっている所もありますので、注意が必要です。北陸から山陰は、朝まで雨や雪の降る所があるでしょう。局地的に雷を伴って降り方が強まりそうです。雨や雪がやんだ後も、雲の多い天気が続くでしょう。 クリスマス 高気圧は足早に東へ 画像B クリスマスを境に、主役が高気圧から低気圧や前線に交代。その後は寒気が流れ込み、天気の移りかわりが早いでしょう。 25日(水)のクリスマスは、高気圧が東の海上へ離れ、低気圧が日本海に進んでくるでしょう。また東シナ海には前線がのびてきて、西から天気が下り坂になりそうです。九州から雨が降り始め、夜は中国・四国まで雨の範囲が広がる予想です。 この前線上には低気圧が発生して、26日(木)は太平洋側の地域を中心に、冷たい雨が降りそうです。 27日は冬型 寒さ厳しく 27日(金)は低気圧が日本付近から離れ、冬型の気圧配置に変わるでしょう。平地で雪を降らせるような強い寒気が北陸付近まで南下して、全国的に冷たい風が吹きつけます。 北海道と東北の日本海側や北陸、関東甲信の山では雪が降りそうです。お正月休みにスキーなどを予定されている方は、ゲレンデにどのくらい積もるのか気になる所です。どか雪になることはなさそうですが、こまめに最新の情報をご確認下さい。 太平洋側は日差しが戻っても、雲が広がりやすいでしょう。冷たい季節風が吹き付け、寒い仕事納めとなりそうです。
tenki.jp 2019/12/23 00:00
英国映画が描くギグエコノミーのリアル 他人事と思えない衝撃のラストとは?
坂口さゆり 坂口さゆり
英国映画が描くギグエコノミーのリアル 他人事と思えない衝撃のラストとは?
Ken Loach/1936年6月、英国生まれ。オックスフォード大学卒。67年「夜空に星のあるように」で長編映画監督デビュー。「ケス」が国際映画祭で注目されて以後、世界三大映画祭で数々の賞を受賞。一貫して労働者や社会的弱者に寄り添う作品を撮り続ける (c)Kazuko Wakayama 「家族を想うとき」/企業の理不尽なシステムを問う。東京・ヒューマントラストシネマ有楽町他全国順次公開中(写真:Joss Barratt, Sixteen Films 2019) 「ケス」/発売・販売元:20世紀フォックス、ホーム エンターテイメント ジャパン、価格1419円+税/DVD発売中 (c)2017 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved. Distributed by Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC.  AERAで連載中の「いま観るシネマ」では、毎週、数多く公開されている映画の中から、いま観ておくべき作品の舞台裏を監督や演者に直接インタビューして紹介。「もう1本 おすすめDVD」では、あわせて観て欲しい1本をセレクトしています。 *  *  *  前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016年)で、「人を人とも思わない。人を辱めるようなことも平気でする」と英国政府への怒りを語ってくれたケン・ローチ監督。「家族を想うとき」では、ある家族を通して、人を人とも思わない企業の「働かせ方」を取り上げ、見る者に問う。  舞台は英国ニューカッスル。ターナー家の父リッキーは、マイホームを持つという夢を叶えるため、フランチャイズの宅配ドライバーとして宅配事業をスタートする。妻のアビーはパートタイムの介護福祉士。借金のある一家は、リッキーの仕事道具となるバンを購入するためアビーの車を売り払い、彼女はバスで家々を訪問することになる。  夫婦は一日中仕事に追いまくられ、高校生の息子と小学生の娘とろくに話す時間もなくなってしまう。やがて、息子は学校をサボって問題を起こし、娘はおねしょをするようになる……。  本作のきっかけとなったのが、前作のリサーチに出かけたフードバンクで、ローチ監督と脚本家のポール・ラヴァティの心に留まり続けた労働者の「雇用形態の変化」だ。いま企業に雇用されることなく、インターネット経由で非正規雇用者が企業から単発または短期の仕事を請け負う労働環境、いわゆるギグエコノミーが拡大。こうした働き方の「リアリティーを見せたかった」と、ローチ監督は言う。 「ここ10年の間、英国の働き口の3分の2がこうした不安定な雇用となっている。来月いくら収入があるのかわからず、仕事の安泰も保証されていないというものばかりです。若くて養う家族がいなければそこそこ稼げるかもしれません。でも、家族を養わなければいけない家庭にとっていい話ではない。リッキーだけでなく、アビーも賃金は低く交通費さえ出ない状況です」  リッキーは、実際にフランチャイズの宅配ドライバーとして働き、厳しい労働条件に縛られて亡くなった55歳の男性がモデルだ。AIに管理され、労働時間は1日14時間。配送中にどんなにひどい事故に遭っても自己責任。休暇を取るにも交代要員を見つけられなければ罰金が科せられる。家族の幸せを願って始めた仕事なのに、次第に「どうにも身動きできない状況」(ローチ監督)に追い詰められていく。 「観客があたかもリッキーの車に同乗しているように、そこで彼の表情を見て限界を迎えたんだ、と悟る瞬間を見せることがポイントでした」  とローチ監督が語る衝撃のラストシーンは、とても他人事とは思えない。  ほとんど寝る時間もなく働いて家族との団欒(だんらん)が持てないとはどういうことなのか。日本の「働き方改革」も要注意だ。 「(こうした働き方の我慢できない現状は)英国だけではなくEUでも、世界中で問題になっているのではないか。私たちは結託して、個人が豊かな人生を送れるように、何かしら動かなければいけないと思います」 ◎「家族を想うとき」 企業の理不尽なシステムを問う。東京・ヒューマントラストシネマ有楽町他全国順次公開中 ■もう1本おすすめDVD 「ケス」 「家族を想うとき」のラストシーンを見て、初めてケン・ローチ監督作品を見たときの衝撃を思い出した。それが、長編2作目「ケス」(1969年)だ。  少年ビリーは炭鉱で働く年の離れた暴力的な兄と母と3人暮らし。父親は蒸発して家庭は貧しく、ビリーは新聞配達をしながら暮らしている。勉強も運動も苦手で学校にも居場所がないビリーがある日、ハヤブサのひなを見つけて持ち帰る。彼はひなにケスと名付け、1人で世話をしながら絆を深めていくのだが……。  家族の愛を実感することなく、友人のいないビリーにとって、ケスを一生懸命育てようとする思いは熱い。勉強が得意でないはずの彼が、難しい専門用語で書かれた本さえ読み込み、育て方や訓練方法を学んでいく。 「ケスはペットじゃない、僕の周りを飛んでくれているだけでうれしいんだ」  ケスを育てることで孤独だった少年の世界に光が差す。ケスは唯一の親友であり、希望となる。だが、現実世界は容赦がない。その結末は、今も忘れられない映画として記憶に残る。以来、ローチ監督作品は見ずにはいられない映画となった。 ◎発売・販売元:20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン 価格1419円+税/DVD発売中 (フリーランス記者・坂口さゆり) ※AERA 2019年12月23日号
AERA 2019/12/22 17:00
尾上菊之助「歌舞伎役者の心」を明かす 『国宝』吉田修一との対談で
尾上菊之助「歌舞伎役者の心」を明かす 『国宝』吉田修一との対談で
(左から)尾上菊之助(おのえ・きくのすけ)1977年生まれ。現在は、TBS系ドラマ「グランメゾン東京」に主人公のライバルシェフとしてレギュラー出演するほか、新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」(宮崎駿原作)が新橋演舞場で上演中/吉田修一(よしだ・しゅういち)1968年生まれ。2002年「パーク・ライフ」で芥川賞。『パレード』(山本周五郎賞)、『悪人』(大佛次郎賞、毎日出版文化賞)、『横道世之介』(柴田錬三郎賞)、近著に『逃亡小説集』(撮影/写真部・東川哲也) 尾上菊之助さん (撮影/写真部・東川哲也) 尾上菊之助さん(左)と吉田修一さん (撮影/写真部・東川哲也)  吉田修一著『国宝』が、尾上菊之助の流麗なナレーションで響く。そんなオーディオブックとして配信が始まった。希代の歌舞伎役者の一代記を描いた作者と、今ひときわ光を放つ役者が語り合った。 *  *  * 尾上:『国宝』は歌舞伎の匂いをまとった作品ですね。巻末のほうに書いてある膨大な資料の数もそうですし、吉田先生が歌舞伎の楽屋に通われ取材をされ、苦労を重ねてこられた。歌舞伎を知らない方でも歌舞伎の世界というものを身近に感じていただけると思います。 吉田:『国宝』を書くにあたり、ご縁あって黒衣をしながら、舞台のごくごく間近で取材をさせてもらえました。まさに歌舞伎の世界の方々の匂いをかぐような感じでした。それで自分なりに書けた作品だったので、菊之助さんから「歌舞伎の匂いをまとった」という言葉をいただいて嬉しいです。 尾上:『国宝』の最後に、この作品を亡き父に捧ぐ、と書かれていますよね。 吉田:たまたま連載中亡くなったんですよ。そういうのが作家の巡り合わせなんでしょうけど、歌舞伎の世界って父親と息子の物語がとても多いわけじゃないですか。その世界を追い求めている時に亡くなるんだな、って。 ――主人公喜久雄は故郷長崎から、大阪の歌舞伎役者のもとへ修業に旅立つ。朝日新聞連載でそんな展開が進む中、吉田さんの父は世を去った。 尾上:喜久雄が旅立ちの前、父の仇を討とうと挑む時、<自分の父親がその人生の最後を負けで終わるなど、到底、息子には我慢ならないことなのでございます>というくだりに、すごくぐっときました。  自分にとって父というのは憧れですし、父の背中を見て歌舞伎の道を目指しました。今も父を越えたい、と思って歌舞伎の世界に身を置いています。その思いとは少し違うかもしれませんが、喜久雄にとっての父親の大きさというものが、自分の父への思いとリンクするところがあります。 吉田:ご自分の中では息子が何%ぐらいで、父親が何%ぐらいですか。例えばお父さんがいて息子さんがいらっしゃいますから、ご自身の、自分が息子として生きている部分と父親として生きている部分は。 尾上:半々ですね。息子の初舞台の時に父ってこういうふうにして自分のことを守ってきてくれたのかということが身に染みてわかりました。また、父が40代で味わってきた芸の厳しさというものを、今の自分もひしひしと感じていますので、ちょうど半々だと思います。 吉田:40代の芸の厳しさ、といいますと。 尾上:20代の時は教えていただいたことを真似(まね)ることが基本です。ただ、模倣して、なんでできないんだろうってもがき苦しんでましたね。30代になると身体の使い方を意識するようになりました。  40代になり、これまで蓄積したものは自分のフィルターを通してどのように出てくるんだろう、と考えるようになりました。もちろん芸は引き継いでその芸の土台の上で演じるわけですけれど、自分の経験から何かを生み出したいと思っています。 吉田:先輩作家から言われたことがあるんですけど、書きたいものがある時はまだまだなんだよ、と。作家というのは書きたいものがなくなってから書くものがいいものになる、と言われたんですよ。本当になんもなくなった時に出てくるものが作家の言葉なんだよと。きついジョークだなと思ったんですけど、今のお話に通じるものがあります。ただ、これから「出てくるもの」は、出てきてほしい時にはきっと出てきてくれないと思うんですよ、そういうものって。 尾上:そうでしょうね。でも20代は模倣をすることが自分にとっては命綱でしたが、40代の今はそれだけでは済まなくなります。 吉田:一人の歌舞伎ファンとして、この菊之助さんが、元々あるものを越えていく姿をぜひ見ていたい。 尾上:50代だってまだまだと先輩方が仰る通りに、歌舞伎役者は長い人生の中で初役に巡り合うこともありますので、自分自身で出発点を作れる職業だと思うのです。ただこれからも本当に40代、50代をどういうふうに生きていくかによって、全く違う世界になってくると思うので、この10年、20年が自分にとって勝負だと思っています。 吉田:菊之助さんが感じさせる凄みというのは、何かを諦めることから生じているんじゃないかと思います。その分を全部お仕事に持ってこられた凄みを、ひしひしと感じるんです。どのへんにブレーキをかけて仕事へのスピード感を出されているのでしょう。 尾上:答えになるかわからないですけど、20代、30代は、抑制することがいいことのように思っていて、ストイックに過ごすことが芸の上達につながると思い込んでいました。今思えば、自分というものが欠落していたという感じがするんですよ。人とのお付き合いですとか、人間としての深みみたいなものを考えた時、これまで何やってきたんだろうなと40歳にして思ったんです。  ストイックに、いろんなことを犠牲にして舞台に立つということと、人生を豊かにするということが両輪でないと、きっとこの先はないな、と思ったんです。20代、30代の自分が肩をたたいてくれてたような気がしています。 吉田:だからこそ、今、父親と息子の半々とお話しされたんでしょうね。 尾上:「失敗したくない恐怖症」なんですよ。自分の中で歯止めをかけて、突破できない枷(かせ)みたいなものがある気がしていたんです。初日の前日にセリフがわからなくなる夢を見ると、ぱんと目が覚めてビデオを見返したり、結局夜寝られずに初日を迎えたり。  父や先人たちに比べて自分が劣っていると思っていて、先人たちに顔向けできない、失敗してはいけないというプレッシャーみたいなものがありました。  息子が生まれ、自分が親の立場に立った時に、父親がこういう気持ちをしてきたということに気付いて、芸だけでなくて人間として成長していかないとと思えるようになりました。尾上菊五郎劇団みんなで芝居をし、劇場を満席にし続けたいというのが私の夢なんです。 吉田:尾上菊五郎劇団が主語になるんですものね。ご自分のご本名のっていうのはほぼほぼないですね。そこが凄みであり面白さなんだろうし、だからこそ歌舞伎役者なんでしょう。  この『国宝』で賞(芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞)をいただいたんですよ。その瞬間にまた失敗できるなと思いました。ご褒美をいただくと、芥川賞の時もそうなんですけど、これで2、3年失敗したもの書いてもまだ生き残っていけるだろうっていう気に、割となるほうなんです。それで自分では目が向かなかったほうに向くっていうことを20年ぐらいやってきた。でもぼくは一人の仕事です。菊之助さんの場合は、そんな簡単に、じゃあ失敗しようか、なんてことはできないですよね。 尾上:いやいや、何もないところから人間ドラマを生み出していく、というお仕事はとてつもないことだと思います。女形を演じる役者として『国宝』で喜久雄の師匠白虎の、すごく心に刺さった言葉があるんです。 <女形というのは男が女を真似るのではなく、男がいったん女に化けて、その女をも脱ぎ去ったあとに残る形である>。あのくだりはどこから? 吉田:昭和の名女優がそういうことを仰っていたんです。女を演じてもだめだ、女の形っていうのがあって、それを演じるから伝わるんだ、と。 尾上:男がどうしたら女に見えるかという先人たちが築き上げた工夫を継承している身として、それを脱ぎ去ったあとに残るものとはなんなんだろうかと考えてしまいました。 吉田:仰っていた、40代になって内側から出てくるものが、「脱ぎ去ったあとに残る形」と重なるんだろうなとぼくは思います。 尾上:女形といえば、(坂東)玉三郎さんが私にご指導くださっている「二人道成寺」もご覧くださいましたよね。 吉田:ええ、拝見して書かせてもらってます。 ――「二人道成寺」は喜久雄とライバル俊介がスターになる契機になった演目で、後に10年のブランクから復帰した俊介が立女形の万菊と演じるなど『国宝』の要所で描かれた。 尾上:玉三郎さんと踊らせていただいた最初の「二人道成寺」の時は、手も足も出ませんでした。そんな私に、「自由に踊っていいわよ」と仰り、いちから育ててくださいました。踊りだけでなく衣裳の着付けに至るまで「道成寺」をたたき込んでくださいました。その当時の自分の姿を客観的に見ている感じになり大変面白かったです。 吉田:玉三郎さんはやはり憧れであり、いつかは、という感じですか。 尾上:今でも女形を演じる時にはお話を伺いに行きます。 吉田:これも好奇心からなんですが、立役と女形のどちらが面白いですか。 尾上:最近は立役の魅力を感じていますが、どちらというよりも家の芸を受け継ぎながら、様々な役を経験したいと思っています。 『国宝』の話に戻るんですけど(喜久雄を「弁慶」のように支え続けた)徳次が好きです(笑)。 吉田:おいしい感じで出てきますよね。徳次のことを書いていると気分がよかったです(笑)。彼の自由な感じがお好きなんですか。 尾上:そうですね。喜久雄にちゃんと意見を言えるところも。命を賭して喜久雄の娘を助けに行くところも泣けますよね。 ――物語の終盤、徳次は歌舞伎役者花井半二郎(喜久雄)をこう語る。<その役者の芝居見るとな、正月迎えたような気分になんねん。気持ちがキリッとしてな。これからなんかええこと起こりそうな、そんな気分にさせてくれんねん> 吉田:お正月ってなんかいいことあるかなと想像するじゃないですか。そんなふうに歌舞伎の舞台を見ると、まっさらな気持ちになるというか。特に歌舞伎座は行くといつもそんな気分になるんですよ。  それに黒衣取材では、本当に良くしてくれたんですよね。邪魔にされずに本当に。何してるかわからなかったと思うんですけど、それでも受け入れてくださった。内側の人たちがすごく歌舞伎を大切にしてるっていう感じが、徳次のああいうキャラクター造形につながったのかもしれません。歌舞伎のスタッフの方々って本当に歌舞伎好きなんだろうなって思います。 尾上 大道具さんや裏方さんも本当に真剣に歌舞伎が好きなんです。 吉田:1ミリの狂いも許したくないだろうし、本当に一人もいやいややってない感じというんですかね。 尾上:『国宝』に出てくる女性たちも面白いですね。(俊介の妻)春江であり、(喜久雄のパートナー)彰子であり、(喜久雄の恋人だった)女優……。喜久雄への心配りなど、なかなか表向きの役者像からはわからない部分が描かれていたと思います。 ――『国宝』は息をのむような終幕を迎える。ドラマチックな展開に菊之助さんも心をつかまれた。 尾上:最後は本当にぐっときました。あそこが、やっぱり歌舞伎役者としての本当の部分じゃないかと。 吉田:自分の中で最後絞り出したのが、あの場面だったんです。事前には想像もなにもできませんでした。歌舞伎役者の心なんて、もちろんわかるわけないんですけど。きょう菊之助さんにお会いしてますますわからなくなりました(笑)。 尾上:人間の深淵を描く作品を残してくださって、感動しました。歌舞伎という、もとは江戸時代の庶民の芸能だったものが400年の歴史を経て、このように先人たちが築き上げて成熟してくると、ともすれば敷居が高く思えてしまう。その歌舞伎の世界を本当に感動的に描いてくださって、もちろんその歌舞伎が好きな方が読んでも楽しめる作品ですけれども、人間の心を描いてくださることによって、その敷居がなくなったような気がするんです。うわべだけではなくて掘り下げてくださったからこそです。 吉田:また勝手な思い込みを語ってしまうんですけど(笑)、菊之助さんはやはり何かを諦めながら何かを選ばれていると思います。『国宝』で喜久雄は京都の神社に参り、悪魔と取引した、と娘に明かします。 <「『歌舞伎を上手(うも)うならして下さい』て頼んだわ。『日本一の歌舞伎役者にして下さい』て。『その代わり、他のもんはなんもいりませんから』て」>  それとは違うかたちではあっても、菊之助さんもたぶんどこかで大きな約束を交わされていて、たとえば歌舞伎の神様は菊之助さんを見守っていて、そして大成功するのでしょう。そういう類いまれな役者を同じ時代に観客として見つめられるのは本当に幸せなこと。今後も菊之助さんの生き様を追っていきたい、と一ファンとして改めて思います。 (本誌・木元健二) ※週刊朝日  2019年12月27日号
週刊朝日 2019/12/22 11:30
京大院卒の元フィギュア選手・審判員「芸術点はどうやって付ける?」を知りたくて
京大院卒の元フィギュア選手・審判員「芸術点はどうやって付ける?」を知りたくて
かんざき・のりゆき/大学時代は農学部で、腸でエネルギーを使うダイエットに有用な成分を探すなど、食品成分の機能性について研究。サントリーに入社後は、「グルコサミンアクティブ」「ロコモア」などの商品の機能を実証するための試験を担い、現在は 「特茶」や「伊右衛門」など健康茶の研究に携わる。 国際学会でも賞を受けた(撮影/小黒冴夏)  エキシビションで『冬のソナタ』の“ヨン様”に扮し、会場を沸かせた選手を覚えている人もいるかもしれない。6歳からフィギュアスケートを始め、国際大会で2位という好成績を残しながら、京都大学大学院を卒業し、食品研究の道へ。異色の経歴を持つサントリーの研究者・神崎範之さん(37)は、今も審判員としてフィギュアスケートと関わり続けている。  人生100年時代と言われ、アスリートだけではなく、あらゆる立場の人たちがセカンドキャリアを考える今。神崎さんは自称「ゲーマー」だった少年時代から、家と勉強(仕事)以外の“第三の場所”に身を置きながら、「自分のポジションを客観的に見て、実現できる道に進む」というしなやかな方向転換を続けてきた。長い人生をより豊かにするヒントがそこにあるのかもしれない。 *  *  * ――フィギュアスケートを始めたころ、自分の将来をどう描いていたのでしょうか。  学生時代にフィギュアスケートをやっていた両親と、先にレッスンを受けていた兄の影響で、6歳からスケートを始めました。月並みですが、当時は「オリンピックに出たい」と言っていて、同時に「サラリーマンになる!」とも言っていたそうです(笑)。サラリーマンの父の影響ですが、小学校低学年のころには、将来の夢に「会社員」と書いたこともありました。  勉強は好きではなかったんですが、しないといけないものだと思って、それなりにやってきました。勉強とスケートを両方続けていたのは、実はちょっと不純な動機で……。テストの点数やスケートの順位が良かったときに、ご褒美としてゲームを買ってもらうのが一つの目的でしたね。ドラクエやファイナルファンタジーのようなロールプレイングゲームが大好きで、いまでもめちゃくちゃゲーマーです。 ――練習と受験勉強を両立していくのは大変だったのでは?  今振り返ると、一番忙しかったのは中学生の頃でした。放課後は週5日で練習、週4日は塾。帰宅は夜10時、11時になりました。どちらもできるだけ集中してこなそうと考えてはいましたが、リンクまで車で送り迎えをしてくれた親の協力なくしては不可能だったと思います。  中学3年のころは高校受験のために滑るのを控えましたが、そこまでして両方を続けていた理由は、実は今でもよくわからないんです。滑るのが楽しい、新しい技ができると嬉しいという気持ちはもちろんありましたが、高校ぐらいまではとにかく辞めたくないという気持ちが強かったと思います。ずっと続けていたものを辞めてしまうと、ぽっかり穴が空いてしまうのかなと。特に男子の選手はみんな仲間のようで、その関係性も失くしたくなかった。  自分が勉強している間に、ほかの選手が成長していく姿を見ることもありましたが、焦るというよりは「しょうがない!」と割り切って、ポジティブに切り替えるようにしていましたね。 「オールジャパン メダリスト・オン・アイス2006」で『冬のソナタ』の“ヨン様”に扮し、会場を沸かせた(撮影/浅倉恵子) ――トップアスリートの中では、目標を一つに絞って集中する人が多いと思います。  中学生のころは成績も全国中学校スケート大会5位ぐらいで、あまり自分の中では「トップアスリート」といえるレベルの選手ではなかったと思っています。当時は特に男子の競技人口が少なかったので、今振り返ると「そんなレベルで?」って思うぐらいですよ。いい具合に、スケートに絞るレベルまでいかなかったというか……(笑)。  今でこそフィギュアスケートは地上波でも中継されるような人気スポーツになりましたが、当時はスケートを職業にするとは考えられなかったというのも正直なところです。親からも「スケートで食っていくのは大変だよ」と散々言われていました。 ――1位になれなかったとしても、くさらず止めないというのも一つの能力ですね。才能がないかもと諦めてしまいそうですが。  才能は……なくはないかなと思っていました。もちろん自分よりレベルが高い選手はたくさんいましたが、実は下にもたくさんいて、自分はこのあたりかなと何となくポジションは理解しつつ、もうちょっと練習したらここまでいけるかなと考えていました。実現できる道というか、自分がいけるところはどこかなと。  それに、悩んでも意味が無いときは、前向きに考えなきゃいけないなと切り替えるようにはしていましたね。それは今もそうです。 ――そして、スケートと両立しながら、食品の研究をするため京都大学に進むんですね。  ゲームが好きだったので、ゲームメーカーに就職したいとも思っていたんですが、大学受験のときに、得意な試験科目から農学部の食品系に志望を切り替えました。ここならいけるかなという感触と、選手時代からサプリメントや食事に興味があったことも理由です。  しかし、学部時代は実験が毎日入り、練習を続けるのも大変でした。同世代の選手達と同じように学部の4年間できっぱり引退すると決めていました。 現役時代の神崎さん。2006年の全日本フィギュアスケート選手権大会での演技(撮影/森田正美)  ただ、大学4年のときにネーベルホルン杯という国際大会で2位という好成績が残せたのに、これで最後と決めていたその年の全日本選手権で4回ぐらい転倒してボロボロで……。そのまま引退できず、目標としていたユニバーシアード出場に向けてもう一度挑戦したいと決心し、大学院1年のシーズン(2006-07)を最後と思い選手を続けました。すると、選考を通過して出場が決定し、そのシーズンに全日本4位という想像以上の結果もついてきて、四大陸選手権にも出場し入賞できました。自分の目標が達成できたことと、スケート選手として限界を感じていたこともあり、潔く引退できました。  でもやっぱりその後は、ぽっかり心に穴が空いたというか、物足りなく感じて……。気晴らしで行ったスケートリンクで審判員の方に声をかけてもらったことがきっかけで、審判員の資格を取りました。今も、有給休暇を取ってボランティアで審判員をやっています。国際大会になると、夏休みを使って1週間ぐらい行くこともありますね。交通・宿泊は手配していただけますが、基本的には無給なので、「どうしてやってるの?」とよく聞かれます。  これも当初は全然やるつもりがなかったのですが(笑)、やってみると「芸術点はどうやって付けているんだろう」という選手時代の疑問が、明確にルールに則って評価されていることがわかったり、理系の自分の性格に合っているなと思っています。フィギュアスケートというスポーツの振興のために役に立っている実感もあり、全日本選手権など選手として自分が目指した場所にいられるというのも嬉しいですね。そして、審判員は審判員の仲間がいて居心地がいい。私には、そういう場所が必要なのかもしれません。 ――現役時代とはフィギュアスケートも大きく変わっていると思います。どんなところに注目してほしいですか。  そうですね。当時は私もトリプルアクセルが得意でしたが、いまは女子選手でも4回転を飛ぶ時代ですからね。ジャンプだけではなく、凝ったスピンやエネルギーを使うステップをしないと点数や順位が上がらなくなっているので、今の選手たちは大変だと思います。 「健康長寿は一日にして成らず。日々の積み重ねによって数年後、数十年後の体が大きく変わります」と神崎さん。「やはりすべての基本は食事と運動、睡眠。バランスの良い食事やひと駅分長く歩く、寝る前にスマホは見ないなど工夫をしながら、免罪符としてではなく、意識付けの手段として、当社の健康茶や健康食品を活用してほしい」と語る(撮影/小黒冴夏)  最近のテレビ中継では、ジャンプやステップ、スピンのレベルが瞬時に表示され、点数がわかるようになっているので、「どうしてこれがレベル3だったのか」「レベル4だったのか」と考えながら見てもらうと、より面白いのではないかと思います。  審判員には基本的に2つの役割があります。一つはジャンプの種類や回転数、スピンの種類やレベル、ステップの種類やレベルを認定していく技術役員。そして、技の出来栄えにプラス・マイナスを付け、芸術的な要素も評価するジャッジですね。私はいま、国際大会で技術役員ができる資格を持っていますが、ゆくゆくはオリンピックで審判員をすることが今の目標ですね。難しいかもしれませんが、実績を積めば、できるかもしれないなと思っています。 (AERA dot.編集部・金城珠代)
dot. 2019/12/22 11:30
社員の“働きグセ”把握で血圧対策 企業や業界が取り組む事情とは?
社員の“働きグセ”把握で血圧対策 企業や業界が取り組む事情とは?
テルモ東京オフィスにある血圧計で、血圧を測定するのが村越正英さんの日課だ。上は160~100ぐらいの幅で変動する。血圧が高い日は食事や行動に気をつける。この日は高めだった(撮影/写真部・掛祥葉子) AERA 2019年12月23日号より  生活習慣は、職種や業界、職場環境で大きく変わる。だからこそ、 仕事をするなかでの取り組みが必要であり、企業や業界が動きだしている。AERA 2019年12月23日号では「仕事と血圧」を特集した。 *  *  *  テルモの東京オフィス(東京都新宿区)で働く村越正英さん(55)は、出社すると必ず衛生管理室に向かう。ここには自社製品である血圧計が設置されている。毎朝血圧を測定し、記録するのが村越さんの日課であり、もう2年半以上続けている。きっかけは2年前、健康診断で132mmHg/102mmHgとなり、「要精密検査」と言われたことだ。  もともと血圧は120mmHg/60mmHg程度だった。人生初の「下の血圧が高め」の指摘に驚き、毎朝の血圧測定を開始。ただし、危機意識はほとんどなかった。ところが18年の健康診断では126mmHg/96mmHg、19年には141mmHg/100mmHgと年々上昇傾向。上下ともに基準値を超え、やや焦ってきた。  血圧上昇の原因として思い当たるのは、職場環境の変化だった。高血圧を指摘される以前は静岡県富士宮市の職場にいた。社員食堂が2カ所あり、昼も夜も副菜数品、野菜多めのバリエーション豊かな食事ができていた。ところがその後、異動になった現在の職場は社食がなく、かつ飲食店が少ない。朝はパン二つ、昼食は中華など炭水化物中心の高カロリーメニュー。夜は介護する親の食事作りでクタクタになり、自身は食事抜き。規則正しい生活が難しいなかでも、毎日測定しているうちに、「鯖の水煮缶を食べると血圧が下がる」「大根おろし入りうどんがよい」などの傾向がわかってきた。  そこで、出社時の血圧測定値が普段より高い日は、たとえ焼肉定食がお得であっても、自身の経験による「血圧低下食」を選ぶ。こうした積み重ねで日によって変動はあるものの、目安ラインの133.4mmHg/86.4mmHg前後を維持している。  東京大学未来ビジョン研究センター特任教授の古井祐司さんはこう話す。 「仕事や家庭を優先すると、『運動しよう』『規則正しい食事をしよう』と思ってもなかなか実行に移せない。日常のついでにできるスモールチェンジから始めることが大切です」  古井さんは健康づくりに取り組む企業や自治体を支援しながら、これまで働き盛り世代のデータを分析してきた。その結果、仕事のタイプとその仕事に従事する人の健康状態は、四つのパターンに分けられることがわかったという。  働きグセや健康リスクは自分では意識しづらく、一人の力では改善しにくいことが多い。大事なのは、自分の働き方と生活習慣の特徴を把握し、その上で健康を保つコツを知ることだという。 「できれば一人ではなく、仲間を作って一緒に取り組みたい。職場や部署全体で取り組めるならなお理想的です」(古井さん)  オムロンヘルスケア(京都府向日市)では、2017年から高血圧による心疾患・脳血管疾患の発症ゼロを目指し「オムロンゼロイベントチャレンジ(オムゼロチャレンジ)」を行っている。その一環として血圧測定推進週間を年に数回設け、今年は7月と10月に実施した。  全社員に自社の通信機能付きの血圧計を配布し、約2週間、家や職場で測定してもらう。 「まずは自分の血圧リスクを把握することが大切。社員同士の飲み会で血圧や歩数の話題が出ることもあり、意識改革になっています」(同社広報部の飯島かおりさん)  健康診断の結果が正常値なのに、家庭で測る血圧の基準である135mmHg/85mmHg未満を超える仮面高血圧の疑いがある人も、毎回のように見つかっている。18年12月は、423人中117人(28%)、19年7月は513人中84人(16%)。割合が減ったのは、夏と冬の違いだと考えられる。血圧は、温度変化や寒さで上がりやすい。  オムゼロチャレンジでは、社長や有志での京都マラソン参加、本社社員食堂で高血圧改善のための減塩ランチメニュー化、トレーナーを招き指導を受ける「カラダ改造チャレンジ」などを実施。19年には、社内の実名の対戦相手とその日の血圧などで勝ち負けが決まる“SUMOアプリ”を導入し、測定実施率90%を達成。前年の67%より大幅に上昇した。  同社の山本裕輔さん(43)は健康経営に関する部署のリーダーということもあり、今年4月から生活習慣を改善。体重を5キロ落とした。社の取り組みゆえに、仲間には事欠かない。同僚や家族、保健師が「痩せてすごい!」と褒めてくれる。これがモチベーションアップにつながる。「パンはカロリーが高い」などの情報が入ってくるのも有難い。 「自分の問題点を明らかにし、褒めてくれる仲間がいるのがいいですね。これらがないと、挫折してしまう」(山本さん)  業界をあげての取り組みもある。全日本トラック協会(東京都新宿区)は、各事業所に血圧計を普及させるために助成金を出し、点呼時の血圧測定を呼びかけている。  背景には、ドライバーの疾患による事故への危機感がある。国土交通省によると、タクシーやトラックなど、プロドライバーが運転中、何らかの疾患により運転を継続できなかった事案は、2012~16年の5年間で1046件。そのうち16%が脳血管疾患、14%が心臓疾患だった。死亡に至った事例では、50%が心臓疾患、15%が脳血管疾患。いずれも高血圧が大きくかかわっている。  同協会の大西政弘さんはこう話す。 「原因の一つには長時間労働の常態化がありますが、トラック事業者の99%が中小企業のため、産業医などはいない。そこで、協会として取り組みはじめたのです」  健診を受けても生活改善をせず、放置してしまう人も多い。そこで「運輸ヘルスケアナビシステム」の運用を始めた。事業所から健診データを預かり、脳・心臓疾患のハイリスク者を検出、任意ではあるが管理者からドライバーへ検査を受けるように働きかけてもらう。  17年に実証実験でこのシステムを活用したドライバーは約2千人。「死の四重奏」と言われる肥満、糖尿病、高血圧、脂質異常症に一つ以上該当している人は54人いたが、18年には30人に何らかの改善が見られたという。(ライター・羽根田真智) ※AERA 2019年12月23日号
AERA 2019/12/22 07:00
霜降り明星 M-1王者の「怒涛の1年」を振り返ってみた
ラリー遠田 ラリー遠田
霜降り明星 M-1王者の「怒涛の1年」を振り返ってみた
2013年結成。「第七世代」の筆頭格、霜降り明星(C)朝日新聞社  もはや年末の風物詩となった漫才の祭典「M-1グランプリ」。その決勝戦が12月22日に行われる。「M-1」が数あるほかのお笑いコンテストと比べても別格の扱いを受けているのは、その注目度や影響力が段違いだからだ。優勝した芸人や決勝で活躍した芸人はそれだけで一気に仕事が増え、一夜にして人生が変わる。そんな「M-1ドリーム」を求めて毎年数千組の芸人がこの大会に挑んでいる。  昨年の王者となった霜降り明星は、そんな「M-1ドリーム」の体現者だ。優勝してからの1年は彼らにとって激動の日々だった。それ以前にも、霜降り明星は若手の有望株としてお笑い業界内では期待される存在ではあったのだが、世間の知名度はそれほど高くなかった。ところが、和牛、ジャルジャルなどの先輩芸人を振り切ってビッグタイトルを手にしたことで、その名は一気に知れ渡った。  霜降り明星の活躍ぶりは、歴代王者の中でも特筆すべきものだった。4月にはテレビで「霜降りバラエティ」(テレビ朝日系)、「霜降り明星のあてみなげ」(静岡朝日テレビ)という2本の冠番組が始まり、「霜降り明星のオールナイトニッポン0」(ニッポン放送)というラジオ番組もスタートした。  レギュラー以外の番組への出演も多く、ニホンモニターの調査では、霜降り明星は2019年の1年間で307番組に出演。「2019ブレイクタレント」1位に輝いた。  細身で切れ味鋭いツッコミを武器にする粗品と、挙動不審で派手に動き回るせいやは、それぞれに違った個性を持ち、その才能がバラエティ番組の現場でも生かされていた。  それだけではない。霜降り明星は2人とも20代半ばの若き王者だった。そんな彼らの優勝によって、お笑い界には新たな時代が到来した。それを象徴するのが「お笑い第七世代」というキーワードだ。霜降り明星のせいやが、自分たちと年齢や芸歴が近い若い芸人のことを指してこの単語を使い始めたところ、それが一気に広まったのだ。  雑誌で特集が組まれたり、ネタ番組の中で独立したコーナーができたりした。何よりも、霜降り明星の台頭に伴って、EXIT、宮下草薙、ハナコなど、同世代の芸人が続々と世に出てきた。霜降り明星が旗振り役となって「お笑い第七世代」という新たなムーブメントを生み出したのだ。  さらに、デジタルネイティブ世代でインターネットにも親しんでいる彼らは「しもふりチューブ」というYouTubeチャンネルを開設した。ここでも積極的に動画を公開し続けており、現時点で約38万人の登録者がいる。「M-1」を制し、地上波テレビを制した彼らは、YouTuberとしてもきっちり結果を残しているのだ。  そんな霜降り明星の活動を振り返って改めて驚かされるのは、彼らの引き出しの多さである。粗品の言葉のセンスとせいやの動きの面白さにはもともと定評があったのだが、彼らの武器はそれだけではなかった。  粗品は、クラシックからアニソンまで幅広い音楽を聴く趣味があり、ピアノをはじめとして数多くの楽器を弾きこなす。さらに、実家の焼肉屋を手伝っていたため、肉の切り方や焼き方にも異常なこだわりを見せる。また、粗品が企画・主演を担当した「霜降り明星・粗品が今一番やりたい企画TV」(関西テレビ・フジテレビ系)という特番では、序盤に緻密に張った伏線をあとから回収する斬新な構成で見る人に衝撃を与えた。  一方のせいやも、笑いでいじめを克服したという感動的なエピソードがあったり、古い歌謡曲が好きでアグネス・チャンの大ファンであったりするなど、クセの強いキャラクターの持ち主だ。ドッキリ企画などでは予測不能のリアクションで見る者を楽しませる。バラエティ番組の「素材」として、2人が2人とも魅力的なのだ。  昨年末の「M-1」で、優勝した霜降り明星と2位の和牛との差はたった1票しかなかった。あの1票が和牛に投じられていたら、霜降り明星がここまで活躍することはなかった。「M-1」は、ほんのわずかな差で芸人の人生を左右する恐るべきイベントなのだ。運命を分けるその一瞬を経て、今年はどんな王者が誕生するのだろうか。(ラリー遠田)
ラリー遠田
dot. 2019/12/21 11:30
【現代の肖像】立憲民主党幹事長・福山哲郎「政治はやる人によって必ず変わる」
【現代の肖像】立憲民主党幹事長・福山哲郎「政治はやる人によって必ず変わる」
肝をすえて何枚も書き抜いていくと、飾るものなど何もない「自分」に出くわすことがある ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  この参院選で、立憲民主党は改選前の議席を大きく伸ばした。2017年に民進党から分裂する形で立憲民主党は結党。福山哲郎は盟友・前原誠司と袂を分かち、立憲民主党へ入党すると、幹事長として代表の枝野幸男を支える立場となった。子ども時代は貧しく、父の暴力に悩まされ、一度は高校をやめて働いた。絶望も希望も味わったからこそ、実現したい政治がある。  参議院選挙が終わったある日、福山哲郎(ふくやま・てつろう)(57)の姿は地元、京都にあった。クーラーの利いた畳敷きの和室には毛氈(もうせん)が敷かれていて、書道の稽古の真っ最中。しっかり筆に墨を含ませて「敦惠(とんけい)」と書く。この言葉は、中国・晋の時代の政治家・陸機(りくき)のもので「誠実で人情に厚く、思いやりがあり情け深い」という意味だ。ゆっくりと、しっかりと。丹田(たんでん)を意識し、静かに筆を運んでゆく。 「党の幹事長を引き受けてからは、書に集中する時間を確保することが難しくなりました。それでも、作品展に出品する前は、深夜、誰もいない議員会館の机で、筆を握ることもあります。書は寝ている時間以外で、政治を忘れ無心になることができる貴重な時間ですから」  2017年10月の結党以来、初めて立憲民主党の幹事長として臨んだ参議院選挙。獲得した議席は17(比例8、選挙区9)。改選前の9議席から大幅に議席を増やした。しかし、結党直後の総選挙で55議席を獲得し、野党第1党に躍り出た同党に期待されている数字は、明らかにそれ以上だった。  その上、改選2議席を争う京都では、立憲民主党から出馬した増原裕子(ひろこ)(41)が、共産党の現職に1万4千票あまりの僅差(きんさ)で劣敗していた。新人候補の敗北は現職の責任。けれども、党の要職につく以上、地元にばかりへばりついているわけにもいかない。全国を飛び回りながらの選挙戦を強いられた。 選挙区で4回当選しているだけあって京都での知名度は抜群だ。かつて全盛期の民主党を支えた「鳩・菅」、影の総理と呼ばれた故・仙谷由人、新党さきがけの代表だった武村正義などリベラル本流の先輩の影響を受けた  字は体を表す。書家・仁科惠椒(けいしょう)は、福山は意外にも「繊細」な部分があると語る。 「横に座って指導をしているでしょ。あれこれ考えてしまって、最初のトン、がなかなか決まらない。まるで、自信がない子どものような神経質な面もある。けれども、自分は今、どんな線を書いていて、本当はどんな線を書きたいのか、しっかり自己分析できているんです」  そう評した上で、こう続けた。 「人並みはずれた集中力がある。書いて、書いて、指導している私が、もういいんじゃないと音をあげてもやめない。そこからグッと味わいのある、大胆で、いい線を書くようになる。その根気と底力がずば抜けているんです」  立憲民主党代表・枝野幸男(55)も、福山の根気と底力に助けられたと語る。民主党時代に遭遇した東日本大震災。官房長官として官邸を仕切り、連日連夜、矢面に立ち続けた枝野に対し、ツイッター上には「#枝野寝ろ」のハッシュタグがあふれた。 「その時、官房長官室で私を起こし続けたのが福山さんですよ。驚異的な底力に助けられました」  東京都大田区蒲田。父が経営する鉄鋼工場もこの町にあった。当時の自宅は工場の2階で、母との3人暮らし。福山が8歳の時、今は京都で役者をしている弟の俊郎(しゅんろう)が生まれて家族4人になった。 「とにかく無茶苦茶な親父でした。私が覚えているもっとも古い記憶は、酔っ払って、母に手をあげる父を止めようと、子どもの小さい体で父の膝にしがみついている記憶です。父は頭が良くインテリだったのですが、自分の才能をうまく生かしきれない人でした」 ■『人間の運命』との出会いが政治家を志す道筋に  子どもの福山には日課があった。深夜、泥酔して帰宅する父を玄関まで迎えに行くのだ。お帰りなさい、と声をかけると、突然、「おまえには哲学がない」と言って殴られた。しばらくすると、父の部屋からまた呼ぶ声がした。恐る恐る覗きに行くと、父は意外にも布団の上で読書をしていた。そして、今度は「おまえは本を読まないのか」と怒鳴られ、また殴られた。父はただの飲んだくれではなかった。 忙しい合間を縫って地元で開催されていた書道展に足を運んだ。筆で字を書くことが好き。雅号は「哲堂」 「三島由紀夫が市ケ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた時、こういう物事がちゃんと考えられる人間になれと言って、オイオイ泣くんです。勉強を強要されたことはありませんが、ただ、自分の頭で考えろと常々、言われました」  中学生になった。福山はある一冊の本と運命的な出会いを果たす。小説家・芹沢光治良(こうじろう)の『人間の運命』。著者本人がモデルである次郎という名の少年の成長を通じて、近代日本と日本人の在り様を描いた大河小説だ。後に福山はこう回想している。 「芹沢先生が書かれたこの本との出会いがなければ、自らの運命を受け入れ、政治家を志すこともなかったと思います」 ■着の身着のまま京都へ 住み込みで町工場で働く  あの運命の日のことを福山は鮮明に覚えている。高1の夏のことだった。学校から帰ると、自宅と工場のある敷地の前で、呆然と立ち尽くし、空を見上げる母と弟の姿があった。 「とうとう来た」  福山の顔を見た母が力なくつぶやいた。見ると、自宅の玄関に「差し押さえ」を意味する赤紙が貼り出されていた。裁判所による強制執行だった。よほどの借金があったのだろう。父が経営する町工場は、零細企業には違いなかったが、最盛期には数人の従業員が住み込みで働いていた。目黒にマンションを所有していたので、景気がいい時期もあったのだろう。けれども、実際は福山が中学生になる頃から、工場は火の車だった。無心をしなければならぬほど資金繰りが苦しくなっていたのだ。  福山には思い当たる節があった。父に呼び出され、この人に電話して金を借りてこい、と頼まれたことがあったのだ。子どもが頼めば成功すると思ったのであろう。 「親父はどこに行った?」  母に聞いても、弟に聞いても行方不明。行き場を失った3人は、なけなしの金を握りしめ、母の実家の京都へ向かう。この時福山は、通っていた高校の同級生にも別れを告げず、退学の手続きもせず、まさに着の身着のまま、夜逃げ同然に東京を後にした。 他者を応援する優しさや余裕のある社会を作りたい。全てを失った経験のある福山だからこそ実現したい政治がある。福山は根っからのリベラルなのである  京都では住み込みが許される町工場に身を寄せていた。冷蔵庫もなかったので、その日、食べる分の白米を炊いて3人で食べた。俊郎は、家族の精神的な支柱は兄だったと語る。 「兄は家族のピンチを何度も、体を張って救ってくれた。僕からするとヒーローで、全能の神みたいだった。暴れる父がいない生活は平穏でした。だから、父が帰ってくると知った時、また地獄が始まると身構える自分がいた。それでも、家族を路頭に迷わせた父を、兄は受け入れたのです」  母と弟の面倒を見るために高校中退もやむなし、と覚悟を決めていた福山だったが、本当は勉強がしたかった。そんな時、父から「高校に行って学び直さないか」と言われた。母と弟とも相談し、福山は2度目の高校入試に臨み、合格する。  福山の通った公立高校は、当時としては珍しい私服だった。自由な校風で、同じ境遇の貧乏な家の子や、学校のルールを破りバイクで通学する子、勉強ができなくて3留した子など様々。雑多な面白さがあり、負い目を感じたことは一度もなかった。ただ、東京弁を話す福山は、クラスで「江戸っ子」とからかわれた。 「高校時代の友人は、福山君は政治家になるんじゃないかと、思っていたと言うんですよ。確かに、学校と交渉して、自分たちで修学旅行の行き先を決めたり、学校のルールも教師が勝手に決めたものを押し付けるなと、校長や教頭に直談判したりしていましたね」(福山)  しかし、学校が終わると生活費と学費を稼ぐためにがむしゃらに働いた。新聞配達を皮切りに、家庭教師、イベント会場設営、ゴルフ場のキャディーもやった。  時代はテレビ黄金期。同世代の友人は、国民的人気番組「夕やけニャンニャン」「オレたちひょうきん族」などに夢中だったが、後にも先にも福山は一度も見たことがない。  そんなある日、学問の神様「北野天満宮」が創設した、奨学金制度の初代奨学生に福山は選ばれる。これを機に念願の大学進学を志す。  当時の福山を知る人物が、京都市左京区一乗寺にある狸谷山不動院貫主(たぬき だにさんふどういんかんす)・松田亮海(まつだ・りょうかい)だ。 「昔の言葉で言うところの苦学生だったのですが、微塵(みじん)も暗さを感じさせないのです。野球が大好きで、いつも全力フルスイング。何より国語力に突出していました。本だけはバイトの合間に読んでいたようです」 党内での福山評は「とにかく気遣いの人」。与党議員に対しても礼儀を尽くし、どんな思想や立場の人ともフェアに接する。しかし、不条理な物事に対しては敢然と立ち向かう  松田は後に福山が政治家になると決めた時、当時の下宿先を訪ねている。8畳ほどのワンルームに布団。ただ、足の踏み場もないぐらいに、数え切れないほどの本が積み上がっていた。  福山はこの頃、自ら心に決めたルールがあった。「貧しさが顔に出ないように、なるべく笑顔でいる」。あの芹沢光治良の『人間の運命』。さまざまな苦難を乗り越え、理想に燃えて生きる主人公・次郎に、福山は自分の運命をなぞらえていたのかもしれない。  京都を東西に走る押小路(おしこうじ)という路地がある。そこは、選挙の度に「ふくちゃん通り」と支援者から呼ばれる。  1996年の衆議院選挙に旧民主党公認として京都1区から立候補(落選)して以降、福山は民主党、民進党、立憲民主党と、三つの党をまたいで4回の参議院選挙を勝ち抜いてきた。  そもそも京都という地盤は特殊だ。自民党からは元内閣官房長官の故・野中広務、元文部科学大臣・伊吹文明(81)など大臣経験者が輩出。共産党には大ベテランの現職、国対委員長・穀田恵二(72)がいる。そんな自共王国に、そのどちらでもない第三極としてリベラルの旗を掲げて割って入ったのが京都民主党を立ち上げた福山であり、後に袂(たもと)を分かつことになる衆議院議員・前原誠司(57)だ。 ■酒断ちできなかった父 最初の選挙前に亡くなる  福山が初めて政界を目指した時、押小路にあった自宅をミニ集会の会場として開放した長谷川美子は、その時の熱気をこう回想する。 「20人も入ればいっぱいになる自宅に、およそ150人の市民が押しかけました。道路にまで人が溢れ、ふくちゃんの話を真剣に聞いていました。京都に市民が望む新しい政党ができる。その熱気に新しい時代の到来を感じました」  その一方、市民意識の高い土地として知られる京都では、有権者と政治家の間にも「一線」がある。政治家は一時の好き嫌いで判断するのではなく、長い目でウォッチするもの。福山の政治家としての活躍と人となりを、長年、間近で見てきた支援者の岩木隆幸は言う。 「福山さんには志がある。けれども、風見鶏のところもあって、沖縄の基地や原発の問題に関しては、その時々で立場を豹変(ひょうへん)させることがある」 京都選出の議員らしく、議員会館の自室に入るとプンッとお香の匂いがする。着物姿もよく似合う  京都の人は、その度に理由を突きつめ、場合によっては、あっさり支持を取り消す人もいるという。けれども、福山の場合は、党利党略に迎合することがある半面、逆に自分の信念を貫く行動に打って出る場面があるという。 「まさに、機を見るに敏。民進党を飛び出し、立憲民主党の立ち上げに、いち早く参加したのも、まさにそんな局面でした」  最近、俊郎は国会で活躍する兄の姿を見る度に、父が生きていたら何と言うだろうかと想像するという。京都に来てからも酒断ちはできず、枕元にはいつも一升瓶が転がっていた。兄と母が仕事に出かけている間、俊郎はもうひとつの父の素顔を垣間見ていた。 「父は寝間でずっと国会中継を見ていました。兄には哲学を持った男になれと哲郎と名付け、僕には、父が若い頃、物書きをしていた時代のペンネームをつけました。本当は誰よりも世の中のことを考え貢献したいと思っていたのかもしれません」  父が亡くなったのは福山の最初の選挙の前だった。自宅で風呂に入っている時に倒れ、そのまま意識が戻らなかった。その日の前日。着物姿の父が福山の選挙事務所にひょっこり現れたという。家では酔っ払って騒ぎを起こすが、外面はひょうきんで人当たりもよかった。 「その日の晩、父が珍しく弱気になり、おれは哲郎の事務所で変なこと言わなかったか、迷惑をかけなかったかとしおらしいこと言ったんです。事務所を手伝っていた僕が、大丈夫やったよ、みんなお父さんが来てくれて喜んでいたよ、と返すと、ものすごく嬉しそうな顔をしました。それが最後の会話だったんです」  俊郎によると晩年、父は政治家の登竜門と言われた松下政経塾に自分の息子が合格したことが自慢で仕方なかった。 「父はおめでたいことが大好きな伊達男で、ハレの日には羽織姿でかけつけます。それが目立つので家族としてはたまりません。もし生きていたら、兄が活躍する国会にきっと通っていましたよ。国会中継があれほど好きな人でしたから」 ■総理になる野心はない 表より裏の仕事が似合う  福山は、父は根っからの勝負師だったと振り返る。商売に行き詰まると、なけなしの金を握りしめて競馬場に出かける。あの日本ダービーで、29番人気の「5-5」のゾロ目馬券を2万円分買い、114万8千円を的中させたこともある。 「勝負事で勝つことにこだわってきた父でした。最初の私の選挙は負け戦ですから、ひょっとしたらそれを見たくなかったのかもしれません。飲んだくれで、競馬好きで、自分勝手でひどい親父でしたが、政治家となった今では、あらゆる意味で鍛えてもらって有り難かったと感謝しています」  福山が書く、無駄なものがなく、それでいて、優しく、人を包み込むような字は、まさに福山の人生そのものだと、前出の仁科は言う。書いて、書いて、書き抜く根気と底力がなければ、このような字を書くことができない。これを書の世界では「骨力」と呼ぶ。それは、寛容と忍耐と努力の精神で近代化を成し遂げた日本人そのものである。  早くも永田町は政権選択の選挙である衆議院選挙に向けて動き始めた。福山も枝野政権の一角を担うキーパーソンであることは間違いない。  総理を狙う野心はないのですか? 福山に訊ねるとこんな答えが返ってきた。 「総理になりたいという野心はありませんが、官房長官なら引き受けたい。私は表よりも裏の仕事が似合っていると思います」  そう言って押し黙った後、こうつけ加えた。 「けれども政治はやる人によって必ず変わります。誰がやっても同じではありません」  桃栗3年、柿8年。気がつきゃ政治家21年。再び政権の座を取り戻す。人生のどん底を味わった男のまなざしは、どこまでも謙虚で温かい。 (文中敬称略) ■福山哲郎(ふくやま・てつろう) 1962年 東京都生まれ。町工場を営む両親の家に生まれる。 77年 高校1年の夏、父が経営する会社が倒産。自宅と会社が差し押さえられる。父は行方不明。傷心の母と小学1年の弟の手を引き、母の生まれ故郷の京都を目指す。 78年 京都府立嵯峨野高校に1年遅れで進学。自由な校風の中で、様々な境遇の同級生と出会う。学費は自弁。北野天満宮の奨学金制度に選ばれ、大学進学の道を選ぶ。 86年 同志社大学法学部法律学科卒業後、就職先に選んだのは大和証券。 90年 松下政経塾に第11期生として入塾。同期に自民党の衆院議員・小野寺五典がいる。後にスリランカの農村開発(サルボダヤ運動)に関わり、ノーベル平和賞候補とも言われるアリヤラトネと出会う。 92年 松下政経塾初の地域支部「京都政経塾」を設立し、塾頭に。その後、東京政経塾塾頭、政策調査室長を歴任。 96年 旧民主党公認で京都1区から衆院選に出馬。落選するも翌年、旧民主党の京都副代表に就任。地球温暖化防止京都会議に参加する。 98年 参院選に京都選挙区から立候補。トップ当選を果たす。その後、民主党に入党。若手の論客として注目を浴びる。 2004年 京都選挙区で2度目の当選。参院の環境委員理事を務め、気候変動問題に尽力する。その後、「地球温暖化対策基本法案」を取りまとめる。 10年 政権交代後の菅内閣で官房副長官をまかされる。京都選挙区で3度目の当選。その後、東日本大震災を経験する。当時の官房長官が衆院議員・枝野幸男だった。 14年 民主党政策調査会長に就任。安保法制特別委員会理事として、同法は違憲という立場で与党を厳しく追及する。 16年 民進党結党。幹事長代理に就任。京都選挙区で4度目の当選を果たす。 17年 立憲民主党結党、入党。幹事長に就任。 19年 結党後、初の参院選。幹事長として采配を振るう。 ■中原一歩 1977年、佐賀県生まれ。ノンフィクションライター。本欄では、二階堂ふみ(女優)、奥田愛基(SEALDs創設メンバー)などを執筆。著書に『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』など。 ※AERA 2019年8月26日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/12/19 13:00
<インタビュー>『スター・ウォーズ』J・J・エイブラムス監督 「悲しむべきストーリーではない」
<インタビュー>『スター・ウォーズ』J・J・エイブラムス監督 「悲しむべきストーリーではない」
<インタビュー>『スター・ウォーズ』J・J・エイブラムス監督 「悲しむべきストーリーではない」  スター・ウォーズ最新作となるエピソード9『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が12月20日に日米同時公開される。1977年に『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』が全米公開されてから42年。同作はその完結編となる。今回は、エピソード7『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』でも監督を務めたJ・J・エイブラムスにインタビューを敢行。今までのスター・ウォーズのシリーズに責任を持ちながらも、あくまで自分たちで制作していったことが伝わる内容となっている。そして、作品に関わった多くの人たちへの敬意も忘れないところも印象的であった。また、別の記事では、フィン役のジョン・ボイエガとポー・ダメロン役のオスカー・アイザックの2人へのインタビューも公開している。 ーーコリン・トレボロウが監督から降板したことにより、今回監督を務めることになりました。原案としてデレク・コノリーもコリン・トレボロウもクレジットされていましたが、J・J・エイブラムスさんが監督に決定した時、脚本の何%ぐらいが出来ていて、そこから作品を作るにあたり、どこをポイントにしましたか。 J・J・エイブラムス:彼らは何稿も書いていました。でも、我々は白紙からスタートしました。 ーーその際、原案はベースとして残したのでしょうか。 J・J:オフィシャル・ライターをサポートするのが全米脚本家組合の方針なので。僕も脚本家ですし、組合の方には名前をちゃんと残してサポートしたいと思っています。 ーー先ほどの会見(12月18に東京で行われたプレス・カンファレンス)でクリス・テリオ(脚本)が「結末を見つけた瞬間があった」と仰っていました。J・J・エイブラムスさんにとってもそういう瞬間がありましたか。42年にわたる物語を終わらせるのはすごく難しいことと思いますし、会見でも繰り返し“責任”という言葉を口にしていました。 J・J:チャレンジでもあったのですが、チャンスでもありました。それだけ大きなチャレンジだったからこそ、やりがいがあるというふうに感じていまして。発見・ひらめきの瞬間はいくつかありました。脚本を書いていると息をのむ瞬間があって、そのときはまるで映画館にいるときのようにそのシーンが見えるんです。 ーー重責を感じたり、「これからもう1回ストーリーを変えようかな」と考えたりしましたか。 J・J:キャラクターに関してもファンに対しても責任はいっぱいあります。ジョージ・ルーカスが作り上げた精神・ストーリーテリングに対する責任もありましたし、キャリー・フィッシャーに対する責任もありました。でも、もっといいアイデアが生まれれば色々組み込んで試してみました。 ーー会見でも、「終わるのは寂しい」という言葉がキャストのみなさんからたくさん出ていましたし、ファンのみなさんもそう感じていると思います。そういうみなさんに対して、どのようなポジティブな声をかけたいですか。 J・J:悲しむべきストーリーではないと思います。とにかく楽しいですし、ロマンスがあったり、面白いところがあったり、エキサイティングなところがあったりしますので、すごく感動できます。悲しい部分があったとしてもバランスが取れているので、本当に楽しめるアドベンチャー映画だと思います。 ーーエピソード7『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』ではJ・J・エイブラムスさんが、エピソード8『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』ではライアン・ジョンソンが監督を務めました。自身が監督を務めた作品の続編をライアン・ジョンソンが務めたことになりますが、それにあたりライアンには何か声を掛けましたか。 J・J:「君のやり方でやって」と言いました。なぜなら、子守されたり人形みたいに操られたりしたら、絶対誰も監督をやりたくなくなりますので。ライアンの場合、彼の才能を認めて、そして彼に価値を見出して雇っているわけですから。私はフランクに自分の意見を言ったりはしましたけど、かといって「どうするべきだ」とか「~をしろ」といったことは一切言いませんでした。彼には奨励を与えただけです。 ーー生みの親であるジョージ・ルーカスに関しては、どれくらい意識しましたか。 J・J:一番最初に彼に会って、どういう意見を持っているか聞きました。しかし、ストーリーや筋に関して彼は一切何も言いませんでした。彼が作り上げたものを僕が継続できることは素晴らしいことだと思いますし、最初に彼と話し合いをしましたが、その後は自分たちで作りました。 ーー完成した作品をジョージ・ルーカスは見たのでしょうか。 J・J:公開前に必ず見る人ですが、どういう感想を持っているのかはまだ聞いてないです。 ーー先ほど少しキャリー・フィッシャーのお話が出ましたが、2016年に出版した回顧録『The Princess Diarist』で「2度も私に我慢してくれてありがとう」とおっしゃっていました。そのようなキャリー・フィッシャーの人柄に関して、「2度も私に我慢してくれて」にフォーカスできるエピソードはありますか。 J・J:一緒に仕事をしたのはスター・ウォーズが初めてでした。何を指してそのようなことを言っていたのかは分からないのですが、ものすごく面白い人でしたし、ものすごくユーモアのセンスを持っていましたので、撮影中に彼女がいないのはすごく寂しい経験でした。結構自分に厳しい人でもあったので、テイク中に撮影を止めて「あー!」となって自分の頭をたたいたりしていました。『フォースの覚醒』も今回も、娘のビリー・ラード(コニックス中尉役)もいたので、本当にキャリーが生きていたら、きっとこれは認めてくれるだろうというような作品にはしたつもりです。 ーーエピソード4『新たなる希望』以降、撮影の技術や映画館そのものに関しても、大きく進化していると思います。今回の作品の映像や音響の注目ポイントはありますか。 J・J:今回の作品は、ILM(Industrial Light & Magic)の最高の仕事だと私は思っています。最新技術もそうですし、古い技術も使っています。パペットを使う技術もすごく今は新しくなっていまして。マズ・カナタというキャラクターは『フォースの覚醒』の時は全部CGだったのですが、今回はちゃんと現場にいたんです。とにかく、音響・ビジュアル・カメラ・ミキシングにおいて新しい技術は色々あるのですが、それは観客には見えないところです。だけど、何か感じ取ってもらえると思います。 ーー今回からの新キャラクター、D-O(ディオ)は何をヒントに作りましたか。 J・J:色々なデザインを試しましたが、アヒルに基づいています。ただ、D-OのDは“duck”の“D”ではありません。D-Oという名前は最初から決まっていました。丸い車輪の上にDが乗っているイメージから来ています。 ーーJ・J・エイブラムスさんはかつてインタビューで、ジョージ・ルーカスがスター・ウォーズのシリーズで成し遂げた凄いことの1つとして、一緒にいたメインキャラクターたちを一度引き離して、また一緒にしたことだとおっしゃっていました。“シリーズもの”の映画だからこそ体験できる素晴らしい瞬間は他に何があると思いますか。 J・J:ストーリーが非常に豊かで、響くもので、現代にも通じるものだからこそ、多くのファンを持っていたり自分自身もすごい情熱を持っていたりするんです。例えば、クリストファー・ノーランは『バットマン』シリーズを作りましたが、彼は『バットマン』が大好きでして。そういった意味で、彼の好奇心や情熱が注ぎこまれた、そしてキャラクターへの愛がたくさん溢れていた作品だと思います。僕も大好きな『スター・ウォーズ』という砂場で遊べるというのはもちろんチャレンジでもあるのですが、世界を作り上げられる遊びができてとても素敵なことだと思います。 ーー例えばリチャード・リンクレイター監督は、いつも愛を肯定する映画を作るということを裏テーマにしているとおっしゃっていました。色々な種類の映画を作っているJ・J・エイブラムスさんにも自分の信条や裏にあるテーマはあるのでしょうか。 J・J:プロジェクトが私に何をすべきか語ってくるんです。あと、テーマかどうか分からないですけど、何かしらラブストーリーが含まれているのが好きです。それはプラトニックなものかもしれないですけど、やっぱりハートのあるちょっとユーモアの含まれたドラマティックなものが好きです。でも、テーマはあまり考えないでやっています。
billboardnews 2019/12/19 00:00
「忘年会スルー」にカンニング竹山「アッコさんの誘いは断れない…」
カンニング竹山 カンニング竹山
「忘年会スルー」にカンニング竹山「アッコさんの誘いは断れない…」
カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。お笑い芸人。2004年にお笑いコンビ「カンニング」として初めて全国放送のお笑い番組に出演。「キレ芸」でブレイクし、その後は役者としても活躍。現在は全国放送のワイドショーでも週3本のレギュラーを持つ(撮影/今村拓馬) ※写真はイメージです(Getty Images)  年の瀬に「忘年会スルー」という言葉が、インターネットを中心に注目を集めている。お笑い芸人のカンニング竹山さんは「忘年会をやめる会社が増えるのでは」と考える。 *  *  *  最近、「忘年会スルー」が流行っているのは当然の流れじゃないかと思います。今は在宅で仕事ができる会社も増えているし、仕事の形態を考えると、年末に忘年会という単なる飲み会をすることが、本当に必要かというとそうでもなくなっていると思うんですよね。職場を居場所にしている人たちにとっては、酒を飲んで楽しいだろうけど、仕事として割り切ってやっている人にとっては苦痛でしかないですから。  そもそも、これまでの人生で「忘年会で有意義な話ができた!」ってことは一度も無いですよね?(笑) 字のごとく、1年を振り返ってこんな仕事があったね、あれは大変だったねっていう話をしながら、年を忘れるということはまず無い。ややもすると「今日は仕事の話はやめてさ~」と制止されるぐらいですから。いつも飲み会で、いつもの酔っぱらいたちが、誰かの悪口や笑い話をして、夜が更けてくると下ネタになり、女同士は恋愛話になり……何も特別なことは起きないものなんですよ。正月休みの後に「忘年会で話した件だけど……」って次につながることはまず無い。 「忘年会=ただの飲み会」なんだから、やっぱり友だちとやるのが一番楽しいし、職場でも5,6人の班とか小さな部署でやる方がいい。30~40人とかの大きな忘年会には役職がある人がたくさんいるし、ただの仕事ですよね。しかも会社も金を出せなくなってきて、自腹で行くなら必要なくない?と思うわけです。わざわざ居酒屋で30、40人のコースを予約して、2時間制だとか、終わったら2次会どうするかとか、手間がかかりすぎる。夜は家族と一緒にいたいという人もいるだろうし、今の仕事のスタイルやライフスタイル、ニーズに合わなくなってきているんですよね。  一般の企業でもそうかもしれませんが、芸能界の忘年会もこの30年ぐらいで大きく変わりました。僕が若手だったころは、番組の忘年会はお金が飛び交うようなもので、今はそういうことをやる番組はありませんが、昔はスポンサーさんがお金を出してくれたり、番組の予算があったりして、ビンゴ大会の景品にハワイ旅行があったと聞いたこともあります。ほかにも、スクーターや自転車、掃除機や家電が当たったりしていたわけです。  ビンゴが終わったら、お世話になっている裏方のスタッフさんたちをねぎらう意味で、演者が「タレントは1万円ずつだそう」「お前は5万出せよ」とか言いながら、争奪じゃんけん大会が始まる。これに勝てば50万ぐらい手に入ることになるんだけど、タレントが勝っちゃったら「もう1回!」となって、ワーッと盛り上がっていました。そういう場があると活気付くし、昔はよくやっていたんですよね。  今は番組に予算もないし、忘年会はほとんど無くなっています。忙しい12月を避けて、代わりに新年会をやることも多い。というのも、バラエティーに出るタレントって実は、レギュラー番組の年内最後の収録や特番の収録が終わると、26日、27日ぐらいから暇になるなんです。売れっ子は大晦日~元旦も忙しいですが、仕事に余裕ができた人やベテランになると、26日あたりから正月休みを取って海外に飛んじゃう。一方で、制作陣はそこからが大変で、実は忘年会をしている余裕なんて無いんですよね。だから年明けにしましょうとなるわけです。  豪華景品が当たるような忘年会だって、みんながこぞって参加したいかというと、苦手な人もいたわけで、宴会がうっとうしいっていうのは自然な流れだと思いますよね。  僕自身は事務所の忘年会には行かなくなりましたが、その代わり、自分の誕生日と単独ライブ後、忘年会という年に3回だけは若手と交わる場をつくっています。「来たい人はおいでよ」と声かけて、そのときの支払いは全て僕が持つんだけど、それだって若手の子たちが本当に来たいと思っているかはわからない……(笑)。断れないかもしれないし、金を払うのもただの僕のプライドですからね。豊臣秀吉の花見みたいなもので、年に何回か集まって、ワッとにぎやかなのをやりたいというだけで、よくよく考えるとバカバカしい(笑)。  僕らはおそらく、先輩や上司の誘いを断ってはいけないという風潮の中で育った最後の世代で、個人的には大人としての一つの嗜みとして年に1回の行事ぐらい行っていても良いんじゃないかなと思んですが、「忘年会スルー」という言葉が共感されているのは、それだけみんなが「忘年会って何?」って疑問に思いながら行かされていたということでしょう。  昔は行かないことが絶対に許されなかったけど、パワハラ・モラハラの問題も絡んで、個人の自由として行かないことを許すパターンが多くなっているんでしょうね。つまり、本音が上がってきているということ。  僕は結構前から、後輩には飲み会を強制しないようにしていましたが、僕が若手で入ったころは、先輩が言うことは絶対でした。先輩に「飯行くぞ」「飲み行くぞ」って言われたら「すみません、バイトなんですよ」はNG。バイトを辞める気で行かなきゃダメでしたね。あとは「今日は彼女と約束が……」というのも、言った瞬間に終わり。それがいつしかOKになって、バイトや先約があったら「あ、そう。じゃあまた」と応じるのが普通になっています。  僕なんかは昔の考え方が抜けなくて、例えば、アッコさんに誘われたのに先に帰るというのはなかなできないです。ドタキャンなんか絶対に許されないし、飲み始めたら長い。先輩、後輩の仲というのはそういうものだという環境で僕は育ってきましたから、基本的には、アッコさんが寝る直前にその日の僕の仕事が終わるという感じです。  それでも下の世代に許すのは、そこまで責任を取れないなと勝手にこっちが思っているんでしょうね。「先輩のせいで」って言われるのも嫌だし、後でややこしくなるのを気にしているということもあります。  ただ、時代は強制したり、押し付けたりしちゃいけないという風潮で、飲み会なんかはその最たるもの。忘年会に行かないという流れはどんどん広がるだろうし、数年後には忘年会をやめる会社も出てくるんじゃないでしょうか。みんなを強制的に集めて飲むという方法が、時代に合わなくなってきているんだと思います。
カンニング竹山働き方
dot. 2019/12/18 11:30
健診は正常値でも“職場だけ高血圧”の危険! なりやすい人の特徴とは?
健診は正常値でも“職場だけ高血圧”の危険! なりやすい人の特徴とは?
今日もたくさんの仕事を押し付けられた。権限はないのに重い責任を負わされる……。そんな思いが血圧を上昇させる(撮影・片山菜緒子) 図版は取材を元に編集部で作成(AERA 2019年12月23日号より) 図版は取材を元に編集部で作成(AERA 2019年12月23日号より) 図版は取材を元に編集部で作成(AERA 2019年12月23日号より)  過重労働や人間関係など、仕事や職場にまつわる悩みはつきない。血圧は「自分を映す鏡」と言われ、心身の状態が如実に表れる。サイレントキラーの出現を、見逃してはならない。 AERA 2019年12月23日号では、診察室では発見できない高血圧の存在を解説する。 *  *  *  大手旅行会社で働く女性(39)は昨年1月、会社でひどい頭痛に襲われた。医務室に行き、血圧を測ってもらうと上が152mmHg(水銀柱ミリメートル)、下が90mmHgもある。保健師にも、「ずいぶん高いですね」と心配された。  学生時代は低血圧に悩まされていたし、社会人になってからは毎年欠かさず健診を受けていた。高血圧を指摘されたことは一度もない。高血圧だった叔父が脳出血で倒れて入院したという話を母から聞いたばかりで不安になり、翌週、有休をとって近所の内科を受診した。ところが血圧は正常値内。医師からは「たまたまでは」と言われた。  納得がいかず、コンパクトな手首式の血圧計を通販で購入し、一日に何度か測ってみることにした。すると帰宅後や休日は正常値内におさまっているのに、出勤の間や仕事中は血圧が高くなることがわかった。10日ほど記録をつけて循環器内科医を受診すると、仮面高血圧と診断された。  高血圧患者は、日本に4300万人以上いると言われる。そもそも血圧とは、心臓から流れてくる血液が血管の内壁を押す力のことだ。上の血圧(収縮期血圧)は心臓が収縮して血液を押し出すときの圧力、下の血圧(拡張期血圧)は心臓が拡張し、血液が余勢で血管を流れているときの圧力を示す。  この圧力が高くなり続けている状態を高血圧と言い、140mmHg/90mmHg以上だと高血圧症と診断される。血液の圧力が高いと、血管に負担がかかって動脈が傷つき、さまざまな疾患が引き起こされる。脳出血や心筋梗塞、狭心症など、命に直結する疾患が多いが、自覚症状がなく進行するために「サイレントキラー」と呼ばれる。  仮面高血圧とは、実際は高血圧なのに、病院などで測ると正常値になることをいう。東京都健康長寿医療センター顧問の桑島巌医師はこう語る。 「驚いたりドキドキしたときに、一時的に血圧が上がるのは問題ありません。ただし、1日8時間以上を過ごす職場において高血圧の状態が続けば、その時間ずっと血管に負担がかかることになり、注意が必要です」  仮面高血圧のうち、職場でのみ血圧が高くなることを職場高血圧という。  桑島医師が2005年に東京都の職員265人を対象に行った調査によると、健診のときに正常値だった人の23%が職場高血圧だったという。血圧は一定のものではなく、刻々と変化している。職場を出れば正常値に戻るならよいと思いがちだが、そうではない。仮面高血圧の人は、正常な血圧値の人と比べて、血管病になる可能性が1.62倍も高いというデータもある。職場高血圧になりやすい人の特徴には、(1)中高年男性(2)喫煙者(3)メタボ気味(4)親きょうだいが高血圧などがある。高い要求をされるのに決定権がない人にも多い。  前出の女性も、職場のストレスは、自覚していた。国内営業の部署なので得意の語学を生かせず、直属の上司との相性も悪い。社内恋愛中だった男性と一昨年別れたが、彼は今、自分と同じ部署の女性と付き合っていると聞き、その女性の顔を見るのがつらい。  だが、非正規の職を転々とした後に、ようやく手に入れた正社員の地位だ。不満はあるが、手放すつもりはない。医師にそう伝えると、「自分の血圧パターンを知って仕事のリズムやパターンを変えるように」とアドバイスされた。  女性の場合、トラブル処理などが立て込む午前中の血圧が高く、150mmHgを超えることも多い。夕方以降は職場にいても、正常値の範囲内になる。そこで午前中に余裕を持つために、できることは前日の午後に済ませるようにした。イライラしたら、心を落ち着かせて深呼吸する。気分転換のためにも、昼休みは外に出ることにした。  考え方も変えるようにした。来年は五輪があるから、国内営業でも語学を生かす機会があるかもしれない。苦手な上司は異動する可能性もある。元彼を気にするより、新しい相手を見つけたほうがいい。些細なイライラで体を壊すのはバカバカしい。 「前向きに考えるようにしたことが、血圧の安定に一番効果があった気がします。今は上の血圧が140mmHgを超えることはめったになくなりました」  診察室では発見できない高血圧は、他にもある。たとえば、夜間就寝中に血圧が上がる夜間高血圧。睡眠中は起きているときよりも10~20%ほど血圧が低くなるのが普通だが、ストレスなどで自律神経が乱れると寝ている間も血圧が下がらず、昼間より高くなってしまうことがある。毎日7時間前後高血圧にさらされるため、血管へのダメージも大きい。起床後1~2時間の血圧が高い早朝高血圧もある。朝に血圧が上がるのは普通だが、動脈硬化で血管が硬くなっていると上昇が極端になり、脳卒中や心筋梗塞につながることもある。注意が必要だ。まずは自分の血圧パターンを知ることが大切だ。  血圧計はカフ(腕帯)を上腕に巻く上腕式がもっとも正確と言われているが、最近は手首式など、ウェアラブルの血圧計が数多く発売されている。自分の血圧の傾向を知るためには有効だ。(編集部・小長光哲郎、ライター・熊谷わこ) ※AERA 2019年12月23日号
病気
AERA 2019/12/17 08:00
河童とたわむれた小川芋銭の夢幻世界は、今も牛久沼のほとりに
河童とたわむれた小川芋銭の夢幻世界は、今も牛久沼のほとりに
12月17日は「カッパの芋銭」こと小川芋銭(おがわうせん)が、昭和13(1938)年のこの日、70歳で息を引き取った忌日にあたります。茨城の牛久沼と、その周辺の利根町、土浦、銚子、水戸などの常総地域で、深い東洋古典の造詣・知識をこめた水魅山妖(すいみさんよう)が登場する幻想的でユーモラスな画風は唯一無比。ことに河童を描かせては、右に出る者はなく、故郷、牛久沼や利根川のほとりで、水に遊ぶ河童の姿を生涯、描き続けました。 最後の南画家・小川芋銭の自由な気風は世俗・権威の嫉み・誤解の対象に 小川芋銭(本名・小川茂吉)は江戸時代最後の年・慶応四(1868)年に、常陸国牛久藩の目付役・小川家に生を受けました。体が弱かった芋銭は、伯母の援助を受けて画塾「彰技堂」で日本画を学び、新聞社の画工(挿絵画家、取材画家)として出発します。 朝野新聞、いはらき新聞、東京日日新聞、俳誌「同人」、東海美術など、さまざまな媒体に作品を発表、各地で展覧会にも出品します。 「ホトトギス」の表紙絵を担当したこともあり、その際には妖怪「豆腐なめ(豆腐小僧)」の滑稽な姿を描いていますが、権威や見てくれの格好良さには一切関心のない芋銭の気質がよくあらわれています。ちなみに芋銭という号は、自分の絵が芋を買う銭くらいにでもなれば、というつつましい願いを込めてつけられた、ともいわれます。 芋銭の洒脱でのびのびとした画風は、彼が南画の末裔であったこととも関係があります。南画とは、南宗画の流れを受けて江戸時代初期ごろから発生した、絵と画讃(絵とともに書かれた文、詩、歌)がセットの、いわゆる文人画(文人とは詩文・書画、哲学思想に通じた教養の高い文化人)のことです。俳人・与謝蕪村も南画家でした。南画は権威を嫌い、飾らない私的な世界に遊ぶ心を大切にしました。 芋銭は古今の東洋文学・思想書を耽読し、その奥深い世界を自身の画業に融合させていきます。代名詞の河童の画題は、出版物としては「東海美術」に内藤鳴雪や河東碧梧桐の俳句の挿絵として登場し、次第に芋銭の画題の中心に居座るお気に入りのキャラクターになっていきました。茨城県・牛久沼の風景 挿絵や表紙絵、新聞のイラストなどのメディア関連の仕事をしていた芋銭ですが、本格的な日本画家への道を模索し、平福百穂、川端龍子らと共に日本画のサークル「珊瑚会」を立ち上げます。そして大正7(1918)年の珊瑚会展で発表した、禅を題材にした「肉案」が横山大観の目にとまり、日本美術院の会員に推挙され、日本美術院同人の日本画家としての活動が始まりました。 けれども、アカデミックな美術院の権威には一切おもねることなく、独自の妖しく、そしてユーモラスな画風を貫きます。代表作の一つ「水魅戯(すいみたわむる)」では、渦巻く水とも火とも見える立ち上る靄の中に、鳥やサンショウウオ、カッパなどが、あたかも百鬼夜行のように群れ戯れる姿を描きます。この大正12(1923)年に発表された作品は、おりしもその年の9月1日に発生した関東大震災を予言したなどと、誰ともなく噂が立ち、奇人芋銭を快く思わない者たちの中には「芋銭があんな絵を描くから震災が起きた」などと口さがなく中傷する者もいたといいます。牛久沼のほとりにある通称「河童の碑」 水魅山妖浮動す。汲めどもつきせぬ芋銭の泉 昭和3(1928)年の日本美術院展に出品した「浮動する山岳」では、渦巻く雲海の中に浮かび上がる奇怪な山容を描きます。山の形がカラスの頭や翼のようなダブルイメージにもなっただまし絵、隠し絵のような異様な画面に、つい近年の平成24(2012)年、芋銭自身の斜め横顔も山の形の中に描かれていることが、茨城県牛久市小川芋銭研究センターの香取達彦氏により発見されました。自然の景観と一体化した鳥や自分自身。これは何を意味するものでしょう。西洋のシュルレアリスム絵画やボッシュ、ブリューゲルなどの幻想画にも、また江戸時代の浮世絵版画にもこうしたダブルイメージ、隠し絵、だまし絵は見られますが、これらは奇抜な発想や奇怪なイメージで驚かそう、という意図をもって描かれたもので、そのトリックに鑑賞者が気づかなければ意味がなく、気づいてもらえるように描いています。 一方、芋銭の隠し絵は表現したい思想を視覚化したもの。奇抜・ユニークなアイデアを画像化し、見るものに驚きを与えることが目的ではありません。だからこそ隠されたイメージは80年以上誰にも気づかれることがなかったのでしょう。 芋銭が日本美術院同人に推挙されるきっかけになった「肉案」は、禅書『五灯会元(ごとうえげん 1252年)』に所収された「盤山精肉」の逸話が元になっています。「よい肉を用意してくれ」と求める客に、偏屈な肉屋がブチギレ、「どこに悪い肉なんかあるのか。うちの肉は皆よい肉だ」と返答するのを通りがかりに耳にした盤山和尚が、禅の真髄を一瞬で悟る、という不思議な話で、盤山が悟りの喜びを両手をあげて万歳している姿を画面いっぱいに描いています。よいものも悪いものもない。好き嫌い、善悪を分けてしまうのは人為であり、人もまた他の森羅万象とともに人為を捨てて、自然に倣い生きたいものだ、というのが芋銭の考えで、こうした思いが、山容と自分の顔とが合体させた「浮動する山岳」の隠し絵となったのでしょう。芋銭の絵には、あたかも自然に湧き出る泉のように、一見他愛ない画面の奥に深い淵を湛えていて、そこに彼の創造の源、すなわち河童が住み着いていたのかもしれません。バチカン美術館 天井のだまし絵 時空を超えて行き来する自由自在なカッパたち。芋銭集大成の「河童百図」の奥深さ 芋銭晩年の畢生(ひっせい)の画業となった「河童百図」は、昭和13(1938)年、つまり芋銭没年の3月に俳画堂から刊行されました。自序で芋銭は「余は唯想像の翼に任せて、筆端カッパを捉らへカッパを放ち 遊戯自在に振舞ひて終に三昧に入るを以って楽しみとなす」と記し、自身の投影であり自由のシンボルであったカッパを自在に、カワウソ、大ダコ、力士、鷺娘、山童、からす天狗、山姥、人魚、金太郎、カカシ、川魚や水鳥などと遊ばせ、伝説や民話、歴史の中に登場させて描きます。 一つとして退屈な画題はなく、それぞれに深遠な造詣と薀蓄(うんちく)がさりげなく織り込まれ、またその筆致は変幻自在で、眺めれば眺めるほど芋銭カッパのかわいらしさやおかしさ、そしてとらえどころのない不気味さに魅入られてしまいます。 第十五図「道在於河童皿」では『荘子』知北遊篇を典拠に、「『道』はどこにありますか」と河童が荘子らしき人物に尋ね「君の頭の皿にもあるよ」と返答されるシーン描かれています。ぽかんとしている小さな河童の後姿のかわいらしいこと。 第三十八図「カッパ楽しむ」。画讃は「カッパ江に浮びて悠々たり 是カッパの楽しめるなり 客曰(いわく) 子(※荘子のこと)はカッパにあらず なんぞカッパの楽しさを知らんと」とあり、『荘子』秋水篇の惠子と荘子の問答を下敷きにしています。薄墨でもやもやと描かれた無邪気な河童。 第五十六図「雌河伯」では、「利根川図志」にも登場し芋銭が長く逗留していた娘の嫁ぎ先・利根町の伝承を基にした禰々子(ねねこ)河童を描いていますが、禰々子は関八州の河童の頭領ともいわれ、大変な暴れ者のメスガッパとして知られているのですが、これを伝承のような恐ろしい姿ではなく、まるで少女のようなぱっちりした目と白い手足で描いています。 第七十図「獺の祭にゆくカッパ」のウキウキした姿。出典は、当コラムでもおなじみの、礼記が原典の宣明暦七十二候の「獺祭魚」です。 挙げはじめるときりが無いのでこのへんにしておきますが、「河童百図」は見飽きることのない逸品です。 芋銭晩年の画室と居室のあった牛久沼のほとりの「雲魚亭」のすぐそばには、芋銭先生記念碑、通称「河童の碑」が建っています。昭和27(1952)年5月、数少ない有志の尽力により建立されたもので、表には芋銭筆による河童の絵を元にしたレリーフ(一部ではこの絵は芋銭画ではないという説が流布していますが間違いです)と、複製色紙に印刷されていた芋銭の筆による画讃「誰識古人畫龍心」が刻まれています。 裏には芋銭の略歴と建立の志が刻まれていますが、記念碑では当然あるべき建立者の名前は刻まれていません。これは建立に奔走した、芋銭の最も深い理解者で記念碑建立の発起人、福島公立病院の池田龍一医師と、建立までのあらゆる実務的差配を取り仕切った東京の洋画家・吉井忠の二人の意志が貫かれたからで、名誉欲・虚栄心に蝕まれた生前の芋銭の知人の中には、自身の名前を刻ませようと画策した者もあったことが、池田、吉井の書簡から明らかになっています。 世俗の欲や虚飾とは一切関わりなく、筆先から生み出されるかわいらしく、それでいて、ときに自然そのものの怖さをギラリとした白目に宿らせたカッパを自由に遊ばせることに専心した芋銭。水墨画のような冬の牛久沼に、芋銭と河童を訪ねてみてはいかがでしょうか。 小川芋銭 河童百図展 図録 (茨城県立歴史館) 小川芋銭研究 雲魚亭(小川芋銭記念館)「雲魚亭」(小川芋銭記念館)
tenki.jp 2019/12/17 00:00
寅さんは「熊五郎」だった? 「男はつらいよ」50周年で出た裏話
寅さんは「熊五郎」だった? 「男はつらいよ」50周年で出た裏話
3度マドンナを務めた竹下景子さんのトークショーでは司会を務めた小泉記者=東京都葛飾区、2012年2月 (c)朝日新聞社 完成した山田洋次監督の胸像の前でツーショットにおさまる小泉信一記者=東京・柴又、2014年11月撮影  寅さんシリーズが始まり、50周年。50作目となる「男はつらいよ お帰り 寅さん」が12月27日、公開される。寅さんの後ろ姿を追い、週刊朝日ムック「わたしの寅さん 男はつらいよ50周年」(朝日新聞出版)を監修した新聞記者・小泉信一が、山田洋次監督らとの対話を振り返る。  第1作、第2作、第3作……。1969(昭和44)年に始まった映画「男はつらいよ」シリーズがヒットを重ね、盆と暮れの年2回の上映が定番となったころなので70年代初めだろう。主人公の車寅次郎を演じた故・渥美清さんはこんなことを語っていた。 「私という独楽(こま)が山田洋次さんという独楽にぶつかって勢いよく回り始めたような気がします」  すでにそのころには、あの映画との出会いがのちの人生観に決定的な影響を及ぼした、という人も多い。  津市に住む映画評論家・吉村英夫さん(79)もリアルタイム世代だ。第1作公開から5日目の69年8月31日に名古屋の映画館で鑑賞。当時の印象をこう記している。 「がつーんと頭を叩かれた気分になった。渥美清が朗々と発する早口での鮮やかな口上のリズム感が圧倒的だった。映画館を出て街を歩きながら、顔を綻ばせて口ずさんでいた」(河出文庫『ヘタな人生論より「寅さん」のひと言』)  同書は、寅さんの魅力をこんなふうに説いている。 <しばられず、とらわれずに生きる> <論理や理屈でなく、正直に生きる> <権威や肩書に頼らず生きる> <自分の「愚」を知って生きる> <勝ち負けのモノサシを捨てて生きる> <人に温かく生きる>  第1作が公開されて今年で50年。12月27日には22年ぶり50作目の新作が公開される。  今年10月、東京での試写会で作品を鑑賞した吉村さんは、山田洋次監督(88)のもとを訪ねた。「50年が過ぎたのですね。半世紀です!」。そう言って握手したきり涙があふれ、大声で泣いてしまったという。  50年の歩みは、1本の長い記録映画に例えることができるかもしれない。渥美さんはもちろん、妹さくら役の倍賞千恵子さんら共演者やスタッフがそれぞれ与えられた役割を守り続けてきたことも大きかった。  50作目の新作「お帰り 寅さん」は、年を重ねたそれぞれの俳優の深みがにじみ出たドキュメンタリーといえる。  倍賞さんは言っていた。 「私の中にはいつも“さくらさん”がいました。倍賞千恵子とは違う、さくらさんの人生も同時に生きてきた気がします」  観客動員延べ8千万人を記録。これまでの作品をすべて上映すると83時間20分になる。驚くべき数字である。  ここで、この映画が生まれた背景について簡単に説明しよう。  1968年夏。フジテレビのディレクター、故・小林俊一さんが、喜劇役者としてすでに売れっ子だった渥美さん主演のテレビドラマをつくれないかと考え、当時、新進気鋭の脚本家として注目されていた山田監督を訪ねたのがそもそもの始まりである。 「あの強烈な役者(渥美さん)と四つに組むには彼のことをよく知らなければいけない。それで僕の仕事場だった赤坂の旅館に来てもらったのです」と山田監督は語る。  渥美さんは、少年のころ自分の目で見て憧れたという浅草や上野のテキヤの話をする。そして、テキヤの口上も披露した。 <四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姐ちゃん立ち小便> <やけのやんぱち、日焼けのナスビ、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たぬ>  七五調で畳みかけるような表現力。落語の名人のような話しっぷりに、山田監督は驚嘆した。  ドラマは68年10月3日からフジテレビ系で毎週木曜の夜10時から放送された。タイトルは「男はつらいよ」。テキヤを主人公にしたドラマがお茶の間に受け入れられるのかテレビ局のスタッフは不安だったが、視聴率は徐々に上昇。だが69年3月27日に放送された最終第26話。ハブを捕まえて大もうけしようと渡った奄美大島で、寅さんは逆にハブにかまれて死んでしまう。  放送終了後、抗議の電話がテレビ局に殺到した。 「てめえのところの競馬中継はもう見ないからな」 「いまから殴り込みに行く。覚えとけ!」  寅さんは多くの視聴者に愛されていた。「スクリーンの中で寅さんを生きかえらせるのが僕の使命」と山田監督は痛感し、映画化を松竹に提案したが、経営陣は冷たい反応だった。「テレビがやったものを映画でまたやって客が来るのか」。だが城戸四郎社長(当時)の鶴の一声で変わる。 「それほど山田君がやりたいと言うなら、やらせてみようじゃないか」  話はまた戻るが、ドラマの舞台についても実はあれこれあった。  浅草? 上野? それとも巣鴨?  だがどこもしっくりこない。山田監督が記憶の引き出しから取り出したのが以前、作家の早乙女勝元さんと一緒に歩いた葛飾柴又である。  東京の東外れ。厳密には下町といえないかもしれないが、戦災にあっていない静かな門前町である。裏手には江戸川がゆったり流れている。旅から帰ってきた寅さんが羽を休めるのにふさわしい場所だった。  タイトルは当初「愚兄賢妹」だった。テキヤの兄と腹違いの妹。その兄妹愛を描く人情喜劇である。  だが、北島三郎が歌った「意地のすじがね」の一節「つらいもんだぜ男とは……」を渥美さんがよく口ずさんでいたことや、たまたま山田監督が書き終えたばかりのドラマが「男はつらい」だったことから「男はつらいよ」になった。  主人公の名前は落語に出てくる「熊五郎」も検討されたが、威勢のいい「寅」に。次男坊なので「寅次郎」。姓は「轟(とどろき)」も考えたが、語感が強すぎるので「車」一つにしたという。  いずれにしても、紆余(うよ)曲折を経て生まれたのが「男はつらいよ」なのである。冒頭高らかに鳴り響くあの主題歌も誰もが知る作品となった。作詞・星野哲郎、作曲・山本直純の黄金コンビ。音楽が果たした功績も大きい。 ※週刊朝日  2019年12月20日号より抜粋
週刊朝日 2019/12/14 11:30
若者以上に“忘年会スルー”したい40代の嘆き「若い人と話す意味ない」
若者以上に“忘年会スルー”したい40代の嘆き「若い人と話す意味ない」
写真はイメージです(getty images)  何かと慌ただしい12月も中旬に入り、夜は忘年会がピークを迎えている。一年の労をねぎらい、来年の展望を“飲みニケーション”で語り合うのが毎年恒例の光景だが、近い将来、忘年会は消滅してしまうかもしれない。  インターネット上では、忘年会を欠席する「忘年会スルー」が話題になっている。「上司にお酌をしたくない」「お金払って説教されたくない」といったことを理由に、忘年会をあえて欠席する若者たちの間で広まっているようだ。  だが、「忘年会スルー」をしたいのは若者たちだけなのだろうか。都内の出版社で中間管理職として働いている40歳男性は、こう話す。 「忘年会なんて行きたくないですよ。おいしくない料理に安くないお金を払うことに納得できませんし、『上司と飲みに行くのがイヤ』と思っている若い人と、僕らだって話したいとは思わない。それだったら早く帰って子供の顔を見たいですよ」  ちなみにこの男性は、お酒がまったく飲めないという。それもあってか「毎度、シラフで酔っぱらいの相手をするのは苦痛でしかない」「話すことがあるなら、会社で話せばいい」という考え方だ。  アンケート調査でも、忘年会スルーの現実は「若手が嫌がって、上司が若者を嘆いている」という単純な図式ではないようだ。  アンケートサイト「アイリサーチ」が18年11月に実施した「忘年会に関するアンケートモニター調査」によると、忘年会について「好き」「やや好き」と答えた人は20代が43.5%、30代が39.5%であるのに対し、40代は32.0%、50代は28.5%。40代、50代の方が好意的な回答の比率が低かった。忘年会が好きではない理由について、20代でトップだったのは「上司・部下と会話をするのが億劫だから」(58.5%)であるのに対し、40代は「親しくない人と会話するのが得意でないから」(48.8%)となっている。  東京都内で働く40代男性も、「できれば忘年会スルーをしたい」という。 「10年ぐらい前までは『忘年会は会社持ち』という会も多かったけど、今は少数派。年齢が上になると若い人より多く会費を出さないといけないし、二次会まで行くと1万円を超えることもある。得意先との付き合いでも、上の世代の時とは違って今は経費で落とすことは難しい。かといって全部は断れません。忘年会スルーをしたくても、できないというのが実情では」  時代の変化は、宴会場を提供する飲食店も感じている。千葉県市川市で居酒屋を営む女性は「数年前までは二次会で使われることも多かったけど、今は減りましたね。一次会でお金がかかるから、それで終わりにしちゃう人が多いみたい」と話す。  なかなか上がらない給料も、影響を与えているかもしれない。内閣府のレポート「40代の平均賃金の動向について」によると、日本人の給与を2010~12年の平均と2015~17年の平均で比べると、全年齢の平均は31.0万円から31.9万円に上昇している。ところが、40~44歳は34.7万円から34.1万円、45~49歳は37.9万円から37.4万円と、全世代のなかで40代だけが減少している。  今の40代は、戦後の第二次ベビーブームで生まれた「団塊ジュニア世代」にあたる。若いころは就職氷河期で正社員になれず、非正社員として社会人としてのキャリアをスタートさせた人も多い。1996年に改正された労働者派遣法の影響で派遣労働ができる職業が広がり、「派遣社員」が日本中に広がった時期とも重なる。いわゆる「ロストジェネレーション世代」だ。前出の40代男性も、その一人だ。 「私は36歳の時にはじめて正社員になったのですが、新卒入社した人に比べると、会社への帰属意識は薄いように感じます。若い人が忘年会スルーしたいのなら、無理して来なくていいのではと思う」  平成の30年間は、年功序列・終身雇用という「昭和の働き方」が変化した時代だった。良くも悪くも、同僚や仕事仲間とのコミュニケーションが濃密な時代ではなくなった。忘年会という風習も「昭和は遠くになりにけり」で、やがて過去の遺物になってしまうのだろうか。(AERA dot.編集部・西岡千史)
dot. 2019/12/13 11:30
【現代の肖像】枢機卿・前田万葉「迫害の歴史を胸に祈り続ける」<AERA連載>
【現代の肖像】枢機卿・前田万葉「迫害の歴史を胸に祈り続ける」<AERA連載>
迫害を受けた先祖からの信仰伝達は、枢機卿へと結実した。包容力に魅了される人が多い(撮影/MIKIKO) 京都で開かれた星槎大学のオープンカレッジ。「私と潜伏キリシタン」と題して講演。禁教、迫害を耐え、復活する潜伏キリシタンの末裔として、先祖からの信仰伝達の精神性の高さを語った(撮影/MIKIKO) 長崎の浦上で5月に行われた西日本地区の神父によるソフトボール大会。神父同士の交流を兼ねて長年続いている。何事にも手を抜かない前田は全力疾走し、再三ファインプレーを見せた(撮影/MIKIKO) ミサでは、よく俳句を使って「説教」をする。「福音を五七五」で表現するのが自分の個性だという。この日は、新元号「令和」を入れ聖木曜日を祝す句も詠んだ(撮影/MIKIKO) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王が、今年11月に来日する予定だ。ローマ法王の来日は実に38年ぶり。その補佐を、昨年枢機卿に任命された前田万葉が担う。日本人としては9年ぶり6人目。世界でも226人しかいないポジションだ。長崎県の五島列島出身。カトリック信者だった曽祖父は明治時代に迫害を受けた。母は長崎で被爆。平和への思いは人一倍強い。 「教皇様は、長崎か広島から核廃絶のアピールをしたいと言っていました。(核兵器を)使うことだけでなく、作ることも倫理に反すると考えておられるようです。どこまで発言されるかわかりませんが、もしかしたら、メッセージにその辺のことまで織り込むかもしれませんね」  2018年12月。第266代ローマ法王、フランシスコに謁見(えっけん)した枢機卿、前田万葉(まえだ・まんよう)(70)は、核廃絶に対する法王の意気込みを感じ取っていた。核兵器の使用だけでなく、製造も否定する、17年に国連で採択された「核兵器禁止条約」に通じる考え方ともいえるだろう。  世界中に12億人ともいわれるカトリック信者を擁するカトリック教会の総本山、ローマ法王庁(バチカン)。そこのトップ、ローマ法王が今年11月、日本を訪問し、被爆地・長崎と広島を訪れる予定だ。法王来日は、1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶり。法王はいつ、どこを訪問するのか。 「いろいろな所から、来てほしいとの要望がある。報道では具体的な日程が出ているが、いまははっきりとしたことは言えない」  警備などナーバスな課題が多く、前田は慎重な口ぶりを崩さない。    日本人として9年ぶり6人目の枢機卿。法王の言動は十数億人ものカトリック信者に大きな影響を及ぼす。その法王を除くと、カトリックの聖職者階級の最高位が枢機卿である。最高顧問として法王を補佐する。会社に例えるなら、枢機卿は世界的大企業の各支店長。かつ本社役員も兼務するというイメージだ。18年時点で、世界に226人。法王を選ぶ「コンクラーベ」の投票権を持つ80歳未満の枢機卿は約110人しかいない。 ■枢機卿へ任命の知らせ「ウソでしょう」  長崎県・五島列島の潜伏キリシタンの末裔である。18年には長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された。そして今年はローマ法王が被爆地・長崎訪問へ。爆心地はカトリックの聖地、浦上である。そこに前田の枢機卿就任が重なった。偶然にしては、意味ありげな事柄が連鎖している。被爆者だけでなく、多くの長崎市民も、被爆地に立った法王がどんな言葉を発するのか、高い関心を持って見つめている。  9月には、バチカンの広報担当枢機卿としてローマへ赴く。現在の大阪大司教としての務めに加え、枢機卿の仕事が加わった。何が変わったのか。 「最も変わったのは、皆さん方のようなメディアの取材がとても増えたこと。講演などの依頼も多くなりました。それに応えるのも私のミッションなのかなと、最近では思うようになりました」  法王来日へ向けての準備は準備委員会を中心に進められていて、「のんびり構えています」と悠揚迫らざる口ぶりで語る。それでも1年数カ月前まで、こんな状況になるとは想像もしていなかった。  18年5月、なんの前触れもなくある知らせが飛び込んできた。同月に任命される枢機卿14人の中に前田の名前があるというのだ。前田がNHKの大河ドラマ「西郷どん」を観終わった頃だった。東京大司教区の大司教、菊地功から電話があった。 「おめでとうございます」  何のことか。前々から日本人の誰かが枢機卿になれればいいと思っていた。しかしまさか自分が。「ウソでしょう。デマでしょう」と半信半疑の所へ次から次へとお祝いの電話やメールが入りだす。その日は聖霊降臨祭の大祝日の日。俳句をたしなむ前田は、その時の心境をこう詠んだ。 「青天の 霹靂(へきれき)のごと 降臨祭」  驚いたのは、前田だけではなかった。前田をよく知る者たちの誰もが皆、驚いた。と同時に、「やっぱり人柄なのかな」と納得もした。 「枢機卿になるには、ローマに留学したとか、何カ国語かを話せるとかが普通でしょう。だからまさか枢機卿になるとは思ってなかったですよ」  そう語るのは、前田が長崎県五島市・久賀島の浜脇教会主任神父だった当時を知る、久賀島体験交流協議会会長の宮本實男(72)。信徒代表なども歴任してきた。 「前田さんは、若い頃からなんでも一生懸命。小中学校主催の運動会の100メートル走で、倒れて、泡を吹きそうになるぐらい全力でやる。運動に限らず他のこともそうだった」  その一つが釣りだ。仕事場は海沿いの教会。空いた時間や夜に、イカ釣りや魚釣りに出た。 ■凄まじい迫害受けた先祖、信仰の大切さ受け継ぐ    ある冬の朝。沖でイカ釣りに夢中になっていたところ、早朝のミサを知らせる「寄せ鐘」が鳴り始めた。ミサは、信者にとっても教会にとっても、生活や活動の中心となる最重要行事。大慌てで教会に戻り、祭服に着替えて、信徒の前に立った。すると笑い声が聞こえてきた。額に真っ黒いイカ墨が垂れていたのだ。そのことを句にした。 「烏賊墨(いかすみ)の 一筋垂れて 冬の弥撒(ミサ)」  この句に関心を持ったのが、出版社かまくら春秋社代表で星槎(せいさ)大学教授の伊藤玄二郎(75)だ。カトリック信者の妻が読んでいた「カトリック新聞」でたまたま見つけた。カトリックの司祭と俳句の取り合わせが新鮮だった。 「ほのぼのとした俳句だと思いました。この人物に会ってみようと」  前田に会って伊藤は思った。 「茫洋(ぼうよう)としている。魚でいえば、スタイリッシュではない。フワッとしたマンボウのような人物」  伊藤は、自社の雑誌「かまくら春秋」でこれまで1千人以上の人物インタビューを行ってきたが、宗教界のトップの多くは、カミソリのような切れ者より、丸みを帯びた人物が多いという。 「その中でも、前田さんにはなんでも相談できそうな、内側からにじみ出てくるものがある。これだけ包容力を感じさせる人は少ない。枢機卿になった最大の理由ではないでしょうか」  型破りでもある。前田が長崎・平戸の教会にいた時に親交を深めた川上茂次(69)が、平戸市議会議員選挙に保守系候補で出馬した時、信者を前に教会で川上の「必勝祈願ミサ」を行ったのだ。 「この人なら、平和のために尽くしてくれる。弱者のために働いてくれるという人を応援しました。衆議院選挙や市長選、県議選でも同じです。私なりの平和運動でした」(前田)  信者の了解も得ていた。地方であるほど、神父の影響は大きい。慎重の上に慎重を期した。 「おおらかで度量があって、普通の神父様じゃない。打てば響く受容力のある方でしたね」(川上)  長崎県南松浦郡新上五島町仲知(ちゅうち)で生まれ育った。「五島の果てなる北の端」と言われる五島列島最北端に近く、小高い山が背骨のように南北に連なる細長い半島の一角。東は五島灘、西には東シナ海。いまでこそ、傾斜地を削り平地にして作った畑や宅地があるが、カトリックの信者だった先祖が住み着いた頃は、もっと厳しい僻遠の地だった。  父方の曽祖父は家族9人一緒に五島・久賀島の家牢に入れられた。「五島崩れ」として知られる明治初期の凄まじい迫害だった。わずか20平方メートルの所に200人が詰め込まれ、「人間の密集地獄」となった。「久賀島カトリック信徒囚獄の碑」によると、身動きすることも困難で、人の体にせり上げられて足さえ地に着かない者もいた。足が腫れあがった。芋の小切れを朝夕1個ずつ。飢えと苦痛で死者が続出。遺体は密集地獄に踏みつぶされて腐敗するも5日間も放置され、蛆が湧いて人体に這い上がり、その上放尿排便のため、不潔さと臭気は想像を絶した。在牢8カ月。殉教者は42人に上り、曽祖父の妹3人が殉教した。 ■カトリック系の中学入学、船で8時間かけ長崎へ  父方の祖父、前田峯太郎は、小さな離島の大工で仏教徒だったが、仕事で通ったカトリックの家で見聞した生活態度や行いに触れ、感銘を受けた。カトリックに改宗しようとしたものの、家族や島の住民から猛反対され、暴力も受けた。それでも決心は揺るがなかった。これが1901年の「パリ外国宣教会 年次報告」としてローマに報告されていた。この逸話は、父方の迫害の体験とともに前田家に脈々と伝えられてきた。また母方の曽祖父も平戸の牢で責め苦を受けている。こうした先祖からの信仰を受け継ぐことを「信仰伝達」と言い、その大切さを前田は講演でも語る。 「昔から親の苦労した話や、先祖の話を聞くのは非常に好きでした」  朝起きて祈り、食前食後に祈り、夜寝る前に祈る。教会の前では深々と礼をする。そうしないと親に叱られた。 「祈りが生活そのもの。だから、なんとなくいつも神様の存在を感じていましたね」  生まれ育った上五島は、江戸時代、大村藩の人口増に伴う人減らし政策と、キリシタン弾圧からの逃避のため、同藩の外海地区から、手漕ぎの船に鍋釜を積んで移住してきた人たちによって開かれた。「五島五島へ みな行きたがる 夢に見る五島は天国 行ってみて地獄」(万葉)。海からすぐに山となるような狭隘(きょうあい)な土地。生活の基盤作りから始めなければならなかった。実家のある仲知地区は仲間意識が強く、仲知という地区名自体、「キリストを知る仲間」という意味である。郵便配達が郵便物を峠にまとめて置いておくと、住民が自主的に配達していた。昭和天皇に戦争責任があると議会で答弁、右翼に襲撃された元長崎市長の本島等(もとしま・ひとし)(故人)も仲知の出身。前田の母親とは幼馴染みだった。 「子どもの時、大人から本当に可愛がってもらいました。地域の子どもはみんなきょうだいのような感じでね。だから安心感があるんだね」  仲知に住む前田の母方の従兄弟、島元等(79)は、仲知の共同体意識の強さをそう話す。ベースにあるのはカトリックの信仰心。前田が子どもの頃の仲知は全住民がカトリックで、各家から必ず神父かシスターを出すのは当たり前だった。前田家も万葉以外に姉妹の中からシスターが1人出ている。  11人きょうだいの長男だった前田は、小学校を卒業すると、神父を目指し、長崎市・浦上地区にあるカトリック系の長崎南山学園中学校に入学。親元を離れ、木の葉のように揺れる船で8時間かけて長崎へ。朝5時半に起きて、雪の日でも外で体操をするような神学校での厳しい寮生活。休暇で実家へ帰る時は幸福感で満たされた。長崎に戻る時は、苦しくて海に飛び込みたくなった。  少年時代、前田は「なぜ信者にしたのか」「なぜ神学校にやったのか」と親に対して恨みを口にした。ミサに出たり、カトリックの勉強をしたり、厳しい寮生活を送らねばならなかったりと、カトリックではない同級生と比べて不自由と感じたからだ。ただ、きょうだいの誰かを神父にしたいという親や周囲の期待に応える誇りも感じていた。 「それでも神父になるにはきついんだぞ、と言いたかったのです」  同学園の高校に進級。卒業後、福岡市のサン・スルピス大神学院へ。75年司祭となり、五島・福江教会の助任神父を皮切りに、五島・久賀島、平戸、佐世保、平戸と、主に潜伏キリシタンの歴史を刻んだ土地の教会の主任神父を歴任。東京のカトリック中央協議会事務局長、広島司教区司教、大阪大司教区大司教を経て、昨年、枢機卿に。  カトリックの神父になるには結婚しないことが条件だ。教会法に定められている。カトリック全体が家族であり、神父は皆のために平等に働くものという考えがあるからだ。結婚せず自分の家族を持たないことについて、「神父になって3年目に父親が亡くなり、長男として家長の役割を果たしてきたし、元の家族がいるので、寂しさはない」と前田は話す。  結婚できない制約はあっても、神父になったのは、段階を経て自然と納得していったからだと話す。「洗礼を受けたこと、神学校に通ったことを感謝しているし、司祭の生活は自分にふさわしい。神様が使命を与えてくれたんだと思っています」 ■ミサに始まり相談や会議も 休むのは落ち着かない  兄と同じように司祭への道を目指していた三男の小島澄人(64)は、万葉が神父になったことで、司祭にならず、いまは神奈川県川崎市や横浜市、東京都町田市、稲城市などで計2千人の幼稚園・保育園児を抱える教育者、教育事業者として成功を収めている。中心である柿の実幼稚園は、自閉症やダウン症、発達障害、難病などの子どもたちを積極的に受け入れ、約200人が通園している。17年に「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞の厚生労働大臣賞にも選ばれた。「みんな違ってみんないい」。運営のベースには澄人のそんな考えが反映されている。原点は兄、万葉にある。澄人が物心がついた頃、小学校高学年だった万葉が身体に障害のある子を自宅に連れてきたことがあった。万葉は、その子と仲良く、楽しそうに遊んでいた。その姿を見て、澄人はどんな人とも仲良くなれるし、誰もが人間との関わりを望んでいるのだと感じた。  450年あまり前、大航海時代の波に乗って長崎に渡来したカトリックは、日本の西端、五島列島に根付き、禁教と迫害の嵐に見舞われた。信徒は耐え、やがて信仰は復活。その一つの家系から育った信者が、カトリックの中心バチカンの最高顧問団の一人となった。カトリックの歴史でも稀に見る潜伏キリシタンの精神性の高さを、前田は体現していると言ってもいいだろう。  カトリック信者約5万人を抱える大阪大司教区の大司教でもある前田の毎日は多忙だ。丸1日休んだことはない。朝のミサから始まり、職員が出勤してくる午前9時から夕方5時まで電話や相談に対応し、教区内の様々な会議に出席する。原稿執筆や講演など自分の仕事をこなすのはすべて夜。 「自由業みたいなもので、自分のことはすべて自分でコントロールしなければならない。休むと落ち着かなくて、休日も何かしている」  釣りも好きなスポーツもできない。もっぱら俳句に精をだす。  万葉は本名である。子ども時代、「マンヨウ! センヨウ!」と仲間から冷やかされた。「なんでこんな名前を付けたのか」と親に文句を言っていた。父の兄で神父の前田朴が、奈良の万葉の里を散策するのが好きで、自分のきょうだいの子どもにつけたかったのだという。前田の父親も自分の子どもにと望んでいた。いまでは「万葉」が俳号となった。本格的に俳句に親しむようになったのは、長崎県佐世保市の俵町教会時代、俳句好きのカトリックの関係者から誘われたのがきっかけだ。ただ神学生時代、父親が手紙に必ず俳句や短歌をしたためていて、自ずと親しむようになっていた。こんな句がある。 「九条は 十字架という 終戦日」  自衛隊のPKO(国連平和維持活動)派遣で揺れていた1990年代初頭、「立憲の精神を忘れ、国際世論に気を取られていると、肝心な平和を失ってしまう」という危機感から詠んだ句だ。  平和を希求する気持ちは強い。母親が長崎で被爆している。母は足が腫れたり、手の指が固まったりして手術した。疲れやすくて寝込むことが多かった。すぐ下の弟(次男)は白血病を患った。前田自身もビュルガー病という動脈が炎症を起こして血管が細くなり、血行障害を起こす難病で2度手術している。医者に被爆との関係性を問うても否定されたが、被爆二世であることは前田の意識から消えることはない。  8月6日広島、9日長崎。前田は、毎年被爆地を訪れる。ローマ法王来日予定の今年、前田にとって二つの都市の持つ意味が、いっそう重みを増すものとなる。 (文中敬称略)  ■まえだ・まんよう  洗礼名「トマス・アクィナス」 1949年 長崎県南松浦郡新上五島町仲知に生まれる。潜伏キリシタンの末裔、前田年増、キヨコ夫妻の長男(11人きょうだい)。母の幼馴染みに同じ仲知出身の元長崎市長・本島等がいる。明治時代初期、父方の曽祖父は家族9人一緒に五島・久賀島の牢に入れられ、拷問を受けて妹3人が殉教。母方の曽祖父は五島・野崎島で平戸藩からの責め苦を受ける。   61年 神父を志していた父(教員)の勧めで、中学からカトリック系の長崎南山学園中学校に進学。神学生としての生活に入る。帰省は長崎市から船で片道8時間。神学校でのつらい寮生活から解放される喜びを、長崎に戻る時には、苦しい思いを抱いて船に乗った。   67年 同高等学校を卒業。サン・スルピス大神学院(福岡市)入学。   75年 3月、同校卒業。同19日、司祭叙階。4月、五島・福江教会助任。   76年 3月、五島・浜脇教会(久賀島)主任。教会の前の海で、毎日のようにイカや魚を取っていた。ある日、一晩中夢中でイカ釣りをしていてミサに遅れそうになり、慌てて駆け付けたら額にイカ墨が垂れていた。   80年 3月、平戸・宝亀教会主任。   88年 7月、佐世保・俵町教会主任。司牧の傍ら、長崎教区報「よきおとずれ」編集長を務める。この時期、小教区評議会議長から勧められ、俳句を本格的に始める。以後、講話や説教にも俳句を使うようになる。俳号「万葉」。   98年 4月、平戸・田平天主堂主任。 2000年 3月、司祭叙階25周年。   01年 4月、平戸ザビエル記念教会主任、平戸地区長、教区顧問。   06年 4月、カトリック中央協議会事務局長就任。   11年 6月、広島教区司教に任命。9月、司教叙階。   14年 9月、大阪教区大司教着座。   17年 10月、著書『烏賊墨の一筋垂れて冬の弥撒(ミサ)』(かまくら春秋社)を出版。   18年 6月29日、日本人6人目の枢機卿に就任。「青天の霹靂」と自身驚く。 ■高瀬毅 1955年、長崎市生まれ。著書に『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』など。本欄では、林田光弘、池田清彦、安田菜津紀、西田敏行などを執筆。 ※AERA 2019年8月12-19日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/12/12 17:30
デビュー30周年「人間椅子」が語る音楽と勉学!? 「ストイックな浪人時代は自分に酔ってた」
デビュー30周年「人間椅子」が語る音楽と勉学!? 「ストイックな浪人時代は自分に酔ってた」
「三十周年記念オリジナルアルバム『新青年』リリースワンマンツアー」ファイナルの東京都江東区の豊洲PITでのライブより(2019年7月26日)。鈴木研一(左、ベース)、和嶋慎治(右、ギター)※撮影/堀田芳香 人間椅子のファーストアルバム「人間失格」(1990年)に収録された代表曲「りんごの泪」ミュージックビデオより。鈴木研一(左、ベース)、上館徳芳(中、ドラムス=当時)、和嶋慎治(右、ギター)  1980年代末、TBSの深夜枠で放送された「いかすバンド天国」。当時爆発的な人気を誇り、「たま」や「BEGIN」「FLYING KIDS」などの個性的なバンドが輩出した。その中でも特に異彩を放ったのが「人間椅子」だ。ねずみ男のような扮装の大男が繰り出すのたうつベースに、眼鏡をかけ少年の面差しも残した超絶技巧のギタリスト。重厚なサウンドに文学的な歌詞――。バブルに沸く東京の「バンドブーム」のただなかで人間の業を歌う「針の山」には、強烈なインパクトがあった。  その後のバブル崩壊や音楽配信サービスの上陸など、音楽業界は激動の時代を迎えたが、人間椅子は変わらずおのれのハードロックを奏で続けた。2013年、ハードロックのフェス「オズフェスト」のももいろクローバーZのステージに和嶋慎治がギターで参加したことでアイドルファンなど若年層への周知が進み、ファンがYouTubeにアップロードしたロックの名曲のカバー動画などで海外ファンが人間椅子を発見。そして30周年。いまふたたび内外から熱い注目を集めている。メンバーの和嶋慎治(ギター・ボーカル)、鈴木研一(ベース・ボーカル)、ナカジマノブ(ドラム・ボーカル)に話を聞いた。 *  *  * ――2019年5月14日に公開された「無情のスキャット」のミュージックビデオが11月、300万回再生を突破しました。 和嶋慎治:「やっと発見した」というコメントがあったりして、やってきたことは正しかったと思いました。エレキギター、エレキベースはアメリカの発明品ですが、それを使ってあえて日本語でハードロックをやるというコンセプトで続けて来ました。おそらくそれが海外のオーディエンスにも新鮮に響いたんだと思うんですよね。 ナカジマノブ:まったく想像していないことが起こっている感じがしていて。コメント欄で、「やべーすげーかっこいい」とか、「人生が変わった!」というくらいに書いてくれて嬉しいんですが、まだそこまで海外の方に認知されたという実感はないんです。もしこれで海外でライブをやって盛り上がったり、海外でもCDが売れたとなれば実感があると思うんですが。 ――ついに2020年2月、ベルリンやロンドンを回る初の海外ワンマンツアーが決定しました。 鈴木研一:「無情のスキャット」はすごくイイ曲だけど、これ以外にもぜひ海外の人に聞いてほしいという曲がいっぱいあるので、それを演奏したい。たとえば「賽の河原」とか。お経のようなのたくったメロディーだったり、和嶋君の津軽三味線を取り入れたギターだったり、そういうものは聞かせたいですね。 ――和嶋さんと鈴木さんは青森県立弘前高校の同級生でずっと一緒に音楽活動をされてきて、高円寺出身のナカジマさんは2004年にバンドに加入しました。 ナカジマ:二人は10代の頃から、同じ言葉で、同じタイミングで、同じレコードを聴いているといった経緯があるから、加入当初は、曲をアレンジしていく場面で二人が言葉なしにあうんの呼吸で進んでいくのに、びっくりしたことがあります。例えば、曲はだいたい4小節区切りで進んでいきますが、当然そうだと思ってアレンジしていると、急に次の展開では6小節区切りに変わったりするんです。それを何も会話せず、打ち合わせなしに、当然のように二人の演奏は進んでいくんですよ。で、俺だけ2小節あまってる、みたいな(笑)。 和嶋:美意識が近いんですよ。かっこいいものとかっこわるいものの判断が、鈴木君と僕は同じ。 鈴木:音楽に関しては同じ。和嶋君は本当にまめで、僕はすごい雑です。自分は本来サラリーマンとか、そういう普通の仕事で本領を発揮したと思っているんだけど、和嶋君は音楽をやったことで水をえた魚のように生き生きしていますよ。大学卒業する時に弘前市役所の試験に落ちて、本当によかった。 和嶋:父親に受けろと言われて受けましたが、まるで合格する気はなく……。僕も心の中に頑ななものがあり、好きなことをやってしか生きていきたくないというのがあって。親には悪いことをしました。 ――鈴木さんは上智大学外国語学部ロシア語学科のご出身です。卒業時は就職も内定していたのに、それを蹴ってバンド活動を続けました。 鈴木:浪人時代は、これ以上ないっていうくらい勉強しましたよ。いま53歳だけど、53年間生きていてあんなに頑張って充実していた日々はない。あの一年が一生で一番頑張った。キッスも聴かずに。ヘッドフォンをガムテープでぐるぐるまきにして、受かるまで聞かないと、断酒じゃないが断音楽。それでちゃんと成果が出て、合格。人生最高の嬉しさで。 和嶋:やると決めたらすごく勤勉。 鈴木:浪人時代は楽しかったような気がするな。頑張っている自分に酔っていた。その一年ストイックにやりすぎて、その後のびたゴムのようになってしまった。 和嶋:僕は浪人の1年間ほどダメだった時期はない。それを取り返そうと思っていま頑張っている気がします(笑)。 ――和嶋さんは駒澤大学仏教学部のご出身です。仏教青年会にも入っておられて、仏教的な世界観は歌詞にも反映されています。 和嶋:哲学をやりたかったんですが、どこも哲学科は結構偏差値が高くて。ならばアジアの哲学は仏教だろうと、仏教学部に進みました。私でも入れていただいたということで駒澤には感謝しています。 ――一方ナカジマさんは理系で、東邦大学理学部物理学科のご出身です。 ナカジマ:学生時代は、とにかく数字しか得意じゃなかった。高校時代に、将来は絶対ドラムで食っていくと決意して、高校を出たらアルバイトをしながらいろんなバンドに入って頑張ろうと思っていたけど、バカだから大学に行かないと思われるのが嫌で、高3だけ勉強したら推薦で大学に入れて、ラッキーでした。 ――ドラムと理系的センスの関係について書かれていました。 ナカジマ:ドラムって電気がなくても大きな音が出せるのが魅力だと思うんです。ドラムを叩きだしてすぐの頃は、難しいことやらずに、正確にキープだけしてたらほめられて、「もしかして俺、やれっかも!」と思ったんです! その頃から感じてたんですが、音符って結構数字だなって。もちろん休符も。最初から、俺の頭の中では、ドラムの音符がずっと数字で流れていたんですよ。だから性に合っていたんでしょうね。もちろん、数字だけじゃ絶対に表せないし数字だけでは演奏はできない。強弱があり、お互いの打点や縦線がずれているからこそ、かっこいいグルーヴになるということも、今ではわかります。 ――和嶋さんの歌詞の文学性を見ていますと、和嶋さんが小説を書いたらどういう作品になるんだろうなと思います。 和嶋:小説を書くなら、バンドのイメージとは違って純文学的なものを書いてみたいです。私小説にはならないと思いますが。でもまったく経験していないものは書けないし、経験してきた中で書きたいという題材はあります。僕が小説を書くと、いかにも怖い話や気持ち悪い話と思われそうですが、それとは違うものを書きたい。最終的には美しいものが残るような。たとえば貧乏な話、失恋の話、苦労話を書いたとしても、最終的には生きる歓びが残るようなものを書きたいですね。 *  *  *  今年30周年のメモリアルイヤーの人間椅子。初の公式本『椅子の中から 人間椅子30周年記念完全読本』(シンコーミュージック・エンタテインメント)、30周年記念アルバムの「新青年」(21枚目オリジナルアルバム)が発売中だが、12月11日には全曲英語訳詞付きの「人間椅子名作選 三十周年記念ベスト盤」が発売される。現在、「バンド生活三十年~人間椅子三十周年記念ワンマンツアー」で全国を回っているが、12月13日(金)には東京・中野のサンプラザホールでファイナルを迎える。(編集部・小柳暁子) ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2019/12/09 16:00
「ひどい忘年会」事例集、セクハラ・飲酒や一発芸の強要・痴態SNS流出…
「ひどい忘年会」事例集、セクハラ・飲酒や一発芸の強要・痴態SNS流出…
※写真はイメージです(Getty Images)  無礼講とはいえ、ハメの外しすぎは禁物。今年も忘年会を楽しく過ごすために、過去の失敗談を心に留めておきたい。昭和、平成の忘年会を振り返り、令和の今につなげる――。(取材・文/フリーライター 鎌田和歌)  早いもので、今年ももう師走が近づいている。毎年の恒例行事といえば、忘年会だ。年を忘れると書いて「忘年会」だけに、昔は無礼講でのどんちゃん騒ぎをしていた人も多いだろう。  しかし時は変わって令和元年。若者は減り、酒を飲まない人も増え、仕事での付き合い飲みを敬遠する傾向は年々高まるばかり。そんな中で、昔と同じようなノリで忘年会を楽しめなくなったと感じているアラフォー以上もいるのではないか。  そんなおじさん、おばさんたちに、忘年会での失敗談や、今だったらありえない忘年会について聞いてみた。 ●痴態が繰り広げられていた代理店の忘年会 「20年前の広告代理店のノリは今はもう思い出したくありません」と語るのは、40代後半の男性、Aさん。彼が勤めていたのは誰でも知っている大手代理店である。 「映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のようだったと言ったら言い過ぎかもしれませんが、普段から会社への泊まり込みは当たり前だったし、連日の徹夜でハイテンションになった社員たちが廊下をスケートボードで走り、水鉄砲の打ち合いをしていましたからね。もちろん、若手いじりや強制は日常茶飯事。そんな人たちの忘年会ですから……。  クラブを貸し切って、水商売の女性を呼んで、女体盛りをして。もちろん女性社員もいましたがお構いなしでした。社内不倫は当たり前で、忘年会では『来年は相手を取り替えてみようか』って会話が繰り広げられているっていう、今では言えないぐらいの痴態が繰り広げられていました」  日頃のストレスが爆発した……とはいえ、あまりの惨状である。Aさんは、「さすがに、自分がいた部署だけが飛び抜けておかしかったと思う」と言う。ちなみに彼はその後、体を壊して入院生活を送ったことをきっかけに、異業種へ転職を果たした。 「当時を振り返ると、あの時代は一体何だったのだろうと。夢だったかのように思います。とはいえ20年前にはすでにバブルが弾けていて、先輩からは『昔はこんなもんじゃなかった』とも言われてました。バブル時代の忘年会はどんなものだったのでしょうね……」 ●若手への飲酒強制は当たり前 バブル時代の乱痴気騒ぎ    ということで、バブル時代を知る50代の男性Bさんにも話を聞いてみた。彼はマスコミ業界だが、周囲には軟派な人が少なく、当時女性社員が極端に少なかったこともあってAさんが語るような「痴態」はほとんど記憶にないと言う。一方で、彼が語るのは若手への飲ませ方だ。 「今は、飲めない人に無理に飲ませてはいけないという不文律があるけれど、当時は誰もそんなこと気にしなかった。若手が飲んでその場を盛り上げなければいけない時代だったので、自分も忘年会のたびに記憶がなくなることを覚悟していました。  もちろん具合が悪くなってトイレにこもる人もいたし、救急車を呼んだこともあった。泥酔した若手が帰宅途中に服を脱いで眠り込んでしまって警察沙汰になったこともありました。彼はタクシーで帰ったんですが自宅とはまったく違うところで発見されて、記憶がないと。さすがにその翌年からは気をつけるようにとお触れが出ましたけど、それでも『泥酔した若手がいたら、先輩社員が家まで責任を持って送り届ける』というもの。飲ませるなという通達ではなかったですから(笑)」  当時は「オレの酒が飲めないのか!」などという言葉が平気で飛び交っていた時代(もちろん、現代でもまだあるのかもしれないが)。飲めないのは飲めない人が悪いという時代の中で、下戸の人たちはどれだけツラい思いをしたのだろう……と、アルコール全般に弱い筆者などは聞くだけで涙してしまう。非喫煙者に対する配慮も同じだろう。 ●社員は芸人じゃない!別に楽しめない一発芸の強要  この他に聞かれたのは「一発芸」の強要だ。 「前職のPR会社の忘年会では毎年恒例で部署対抗の一発芸が行われていた。一発芸を誰がやるかは上が決定して拒否権はナシ。私も新卒3年目まで連続3回やりましたが、正直苦痛でした。1年目は先輩から『伝統だ』と教えられた一発芸をやったら、盛大に滑ってしまった。一生恨みます(笑)」(30代女性) 「ベンチャーのIT企業ですが忘年会での一発芸はありました。若手は笑いを取るのに必死。楽しんでやってる部分もあったけど、歳を重ねるにつれてマンネリになり、若い世代がついてこなくなったので廃止された。新卒の女の子が顔にヒゲを描いて笑いを取ってたのは、今考えればかわいそうだった」(40代男性) 「地方公務員ですが、いまだに忘年会の一発芸はあります。一発芸で大成功した先輩が出世したという伝説が冗談半分に語り継がれており、20~30代が拒否できる雰囲気は皆無です」(40代男性)  もちろん、見る方もやる方も楽しめていれば問題はないのだが……。 ●忘年会での過剰いじりに婚約者激怒  忘年会での明らかなパワハラ事例と思われるエピソードを語ってくれたのは団体職員のCさん(50代男性)。今から20年以上の出来事だそうだ。 「忘年会の直前に、20代の職員が翌年の春に結婚することが明らかになりました。それで悪ノリした中堅の職員たちが、『婚約者の女性を連れてこい』と。  実際に忘年会の途中から女性が参加することになったのですが、普段は男が多い飲み会の場に若い女性が来たからか、変なムードで盛り上がってそのカップルをからかい始めてしまったんです。そのからかい方が下品で……。  からかった側は酔った席でちょっとハメを外したぐらいに思っていたけれど、婚約者の女性は『こんな職場で働く彼は正気なのか』とショックを受けてしまったらしく。  彼女から転職か破談を迫られ、その20代の職員は転職していきました。人の良い職員だったのでもったいないと思いました。からかった本人たちは酔っ払っていて記憶にないと言っていて、ひどい話です。結局、結婚式に呼ばれた同僚はいませんでした」  パワハラな職場を取るか、まっとうな感覚を持った伴侶を取るか。20代の彼が英断をしたとしか思えない。 ●SNSに流出する現代の忘年会  SNS普及後の失敗談を語るのはDさん(40代男性)。 「男臭い不動産会社なので、忘年会で服を脱ぐなどハメを外す社員がいるのはいつものこと。数年前ですが、同じ店に居合わせた客と社員が揉めてしまい、SNSにさらされたんです。けんかの様子だけではなく、われわれの騒ぎ方も含めて。内容は若干悪く盛られていましたが、実際盛り上がって大声を出すなど騒いでいたのは事実なのでしょうがない。社名もさらされて、年明けの新年会は自粛されました」  忘年会シーズンは団体客が多い。完全個室や貸し切りの場合でなければ、他の客に迷惑をかけてしまうこともあるから気をつけたい。  また、SNS関連ではこんな話も……。 「うちの部署は普段から仲が良くて、その中でも仲が良い男女がいたんですが、忘年会で男性の方がふざけて女性に膝枕してもらっていたんです。で、その様子が、他の社員がアップしたインスタの写真に見切れてたんです。  その後、それを見てしまった男性の妻が激怒。年末年始の空気が最悪だったそうです。アップしてしまった上司は『ごめん、ごめん』ぐらいの軽い感じでしたね」(30代男性)  スマホという、すぐに撮影や録音ができる機器を誰もが懐に忍ばせている時代。いっときの酔いで羽目を外すと、あとで大変なことになりそうだ。それにしても、SNSへのアップは慎重になってほしいもの。  ここまで読んで、自分の過去の失態を思い出した人もいるかもしれない。筆者も、過去の忘年会で調子に乗って飲みまくり、小一時間トイレにこもった経験を思い出した。年忘れとはいえ、若き日の失敗は繰り返さないようにしたい。
ダイヤモンド・オンライン 2019/12/09 15:46
当たり役への執念? 白石加代子「何とかゴリ押しに成功しました(笑)」
当たり役への執念? 白石加代子「何とかゴリ押しに成功しました(笑)」
白石加代子(しらいし・かよこ)/1941年生まれ。東京都出身。高校卒業後、港区役所に就職。弟が就職するまで家計を支えたのち、区役所を退職。67年に早稲田小劇場に入団。22年後にフリーに。92年に「百物語」シリーズをスタート。蜷川幸雄演出の「身毒丸」「夏の夜の夢」「トロイアの女たち」「ムサシ」など海外公演にも多数出演(撮影/写真部・加藤夏子) 白石加代子さん (撮影/写真部・加藤夏子)  その存在感は唯一無二。日本の現代演劇を世界に発信し続ける演劇界のレジェンド・白石加代子さんが、ステージを降りたときに大切にしているのは、“日常”と“健康的な食生活”だった。 *  *  *  22年前の12月、白石さんは、世田谷パブリックシアターの舞台に立っていた。演目は、「常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)」。常陸坊海尊とは、源義経の忠臣として都落ちに同行し、奥州平泉での衣川の戦いを目前にして主人を捨てて逃亡し生き延び、不老不死となって源平合戦の次第を人々に語り聞かせたと言われる伝説の人物だ。演じたのは、海尊の妻と称するイタコのおばば。戦後を代表する劇作家・秋元松代さんの最高傑作を、蜷川幸雄さん、釜紹人さんの共同演出で上演した。 「私自身、『すごい作品だ』と思いながら恐る恐るおばばを演じてはみたものの、思い返すと、“あそこはこうだったかもしれない”とか、“もっとできたんじゃないかなぁ”という思いが、後々まで残ってしまったんです」  すると、最近になって、「どうやら長塚圭史さん演出で上演されるらしい」という情報が、白石さんの耳に飛び込んできた。 「それを聞いた瞬間、『おばばの役を、私以外の誰かが演じるのは嫌だ!』と思ってしまったの(笑)。制作の方に確かめたら、私のスケジュールと少し重なっていたものの、そこはご相談して調整することができて。何とかゴリ押しに成功しました(笑)」  長塚さん演出の舞台には、オリジナルや翻訳物など、過去3作品に出演したことがあった。 「日常を描いている作品であっても、背後にある暗闇を丁寧に掘り下げていく。どんな難物も、怯まず演出をなさっていくんですが、一人だけどんどん先に行って、演者を置いてきぼりにするようなことがない。必ず、日常的な言葉を使って、優しく話し合いながら解釈を深めていくのです。真っ暗な中を、みんなで手をつないで降りていこうとするようなその演出法が、私はとても好きなんです」  ずっと心残りだった役に、信頼する演出家とともにまた挑めることに、白石さんの女優としての運の強さのようなものを感じてしまうが、「他にもこういう、役との運命的な再会はあるんですか?」と訊ねると、「そうね、ないことはないわね」とニッコリと微笑んだ。 「『身毒丸(しんとくまる)』というお芝居にも、不思議な縁を感じました。まだ私が10代だった頃、歌舞伎の『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』という演目を初めて観たときのことです。自分の義理の息子に恋をしてしまう女のお話なのですが、すごく言葉が素敵で、舞台を観ながら体内の血がカッと滾(たぎ)ってくるのを感じました。ずっとその物語に惹かれていて、20代半ばで早稲田小劇場という劇団に入って間もなく、勉強会でその演目をやってみたけれど、手も足も出なかった。狂気やら激しさやら、いろんな側面のある女なんだけど、そういうものは、いっぺんには出せないことを痛感したんです。感情だけで何かを作り上げようとしてもダメなこと、自分がどんなに憧れても、決して手に入らないものがあるとわかって、ずっとその大好きな作品のことは諦めていたんですが、二十何年か後に、蜷川さんから、『摂州合邦辻』の元になった『俊徳丸』のお話を寺山(修司)さんが戯曲化した『身毒丸』のお話を頂くんです」  背中を、興奮と緊張が入り交じったような、ゾクゾクした痺れが走った。過去の失敗もあり、最初は、できるかどうか不安だったが、いざ演出を受けてみると、蜷川さんは、場面場面で、白石さんの内に湧き上がる様々な感情を自然に導き、舞台上で開放してくれた。 「蜷川さんが、『この感情を出すのはこの場面』『別の感情はまた違う場面』と、それぞれの感情を表現する場面の枠組みを作ってくださって。そのお陰で、私の感情の激しさは手放さなくてもよくなったんです。場面に応じて自分を変えていって、一つずつ感情をあらわにしていくことができた。一人の女の中にいろんな感情があるのを表現するのが、生涯の私の課題だなと思っていたんだけれど、枠組みさえ作ってもらえれば、追いつくことができるんだってわかったのはラッキーでした」  昔々のお話のように、抑揚たっぷりに、何ともゆったりとしたテンポで、白石さんは話す。でも、10代で一つの芝居、それも義理の息子と恋に落ちる女の役にのめり込むというその感性は、並ではない。幼い頃はどんな少女だったのかと聞くと、「常に、体の中から湧き上がるリズムに合わせて踊っているような子でした。お芝居も好きで、学芸会なんかでも、役を演じていると、何か特別なものが、この胸のあたりにグッと入ってくるような感覚があって。肉体を使って何かを表現するときに、つい血が騒ぐというか。質としては、そういうところがあるわね」と言って、また福々しい笑顔を見せた。 「だから、女優の道に入って大正解だと思っています。子供の頃は、自分の中にある情念みたいなものって、厄介だなぁと思ってね。普通に暮らしていたら、その胸騒ぎを、どうしたって処理しきれなかった。でも、演じることで心を鎮めるとか、自分とは違う何かになることでその情念を発散するとか、いろんな感情の整理がついた。今月で78歳になりますけど、インタビューなんか受けても、あれはどうだったこれはどうだったと一生懸命考えるから、脳が活性化するし、女優になっていろんな得はしていると思う(笑)。まだ、これからも女優の仕事が続くとしたら、こんなにありがたいことはないです。ご要望があればね、できるだけ出演したいですね。ただ、舞台の場合は、大体が2年先ぐらいまで予定が詰まっていて、体がもつかしらと心配していたら、ここのところにきて、私の体を気にしてくださるのか、ほとんどオファーがないんですよ」  冗談とも本気ともつかない口調で、白石さんがそう言うと、近くにいたマネージャーさんが、「そんなことはないです!」と即座に否定した。すると白石さんは、「でも、そんなに才能豊かではないので、あっちもこっちもなんでもやります、というわけにはいかないです。せっかくやるからには何か、新鮮に感じられるものがないと」。  劇団で22年を過ごした後、現在の自分に最も影響を与えた舞台は、演出家の鴨下信一さんと1992年に始めた「百物語」だったと断言する。「岩波ホールで、白石加代子が、怖い話を百話語る」ということを出発点にしたこのシリーズは、8年後にはニューヨークでの公演を成功させ、大好評のうちに、2014年まで続いた。 「劇団にいた頃は、激しくて、強い女の役がほとんどだったけれど、『百物語』をやるようになってからは、コメディー的な作品へのオファーも増えました。劇団では、『客席を決して意識するな』という教えだったので、お客様と目を合わせることはなかったけれど、『百~』では、お客様に語りかけることが日々続いて、お客様の笑いを待ってから、次に進むなど、お客様との舞台上でのコミュニケーションを、様々な角度から学びました。地でできるような、日常的なふわっとしたおばさんの役や、子供の役もあったりして、本来なら難しい、日常と地続きの役とも、『百~』を通して出会うことができたんです」  年齢については、あまり考えずにやってきた。ただ、毎日必死に舞台のことばかりを考えていた時期を経て、50歳を過ぎた頃から、日常を大事にするように。 「舞台をやっているときは、舞台だけに集中していたけれど、年齢がいってからは、日常、特に食事がものすごく大事になってきました。毎日、朝晩の食事は、必ず自分で作って、家で食べます。主人(※早稲田小劇場時代の先輩で、現在のマネージャー)の健康も考えると、外の食事は味が濃すぎるし、油っこいでしょう?私は乳製品が食べられないから、家で作るのが一番。朝は玄米を食べさせたいので、吸収をよくするために、玄米を炒って蕎麦の実や黒米を入れて煮て、それをハンドミキサーで砕いて、冷凍。それをまとめ炊きしたご飯と合わせて、朝はおかゆにしています。1週間に一度、宅配のお野菜、冷凍のお肉、お魚が届くので、おかずはそれを料理するだけ。手抜きです(笑)。ただ今は、体のためには何でもするぞという気持ち。体のためなら、お金も湯水のように使おうって(笑)」  ご馳走といえば魚で、丸ごと一尾の魚を、捌くこともできるそう。 「家に出刃包丁もあるし。私たちの世代は、そのくらいのことはみんなできますよ。でも、お料理は気分転換のためにやっている部分もありますね。もう30年近く、日常のことを大事にしていますけど、もしこの先お仕事が少なくなったりしたら、徐々に日々のそういうルーティーンが楽しくて仕方がないというふうにシフトしていく。そんな人生でいいと思っています」 (菊地陽子、構成/長沢明) ■THIS WEEK 11月18日(月) 加圧トレーナーに家に来てもらい、短時間の加圧トレーニング。そのあとで、体のメンテナンスも。5年前から週1のペースで頼んでいる。 11月19日(火) 歯科医へ。月1で歯のクリーニングをしてもらっている。 11月20日(水) 野口整体へ。こちらも月1のペースで通っている。 11月21日(木) 2カ月に一度の血液検査。その後稽古。 11月22日(金)~24日(日) 連日舞台の稽古のために横浜まで通っているが、昼以外の1日2食は必ず自宅でご主人と一緒にとる。宅配の食材以外に、近所のスーパーで魚を一尾丸ごと買うこともしばしば。 ※週刊朝日  2019年12月13日号
週刊朝日 2019/12/09 11:30
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