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フリーランス医師=「ドクターX」は幻想 でも給与は勤務医より「はるかによくなる」
小長光哲郎 小長光哲郎 井上有紀子 井上有紀子
フリーランス医師=「ドクターX」は幻想 でも給与は勤務医より「はるかによくなる」
※写真はイメージ(gettyimages)  医師として診療するだけでなく、広く知識や技術を生かした挑戦をする人たちがいる。大学病院の医局から離れたからこそ、実現できた新しい働き方とは。AERA2020年3月2日号から。 *  *  *  多くの人のニーズに親身に応えるため、起業を選択した医師もいる。「Child Health Laboratory」代表の森田麻里子さん(32)だ。森田さんが起業した同社は、夜泣きの悩みなど赤ちゃんの安眠サポート情報を発信する。  森田さんは東大医学部を卒業後、亀田総合病院(千葉県鴨川市)での初期研修で、麻酔科医を目指すと決めた。その時点では、後期研修先として東大の医局も選択肢にあった。医師である夫は一足先に、福島県相馬市内の病院に行くと決めていたが、相馬市には麻酔科のある病院がなかった。相馬に近い仙台の病院か、実家のある東京の病院か。両方を見学したという。 「仙台厚生病院では初期研修を終えたばかりの3年目の医師が心臓麻酔の手術を一人で行っていて、驚きました。一方、東大では5年目の医師が、ベテラン医師の介助をしていた。早く経験を積んで自立したかったので、仙台に決めたんです」  多くの医師は、初期研修で違う病院に行き、後期研修で出身大学の医局に戻ってくる。森田さんの同期生の7割ほどもそんな選択をしたという。 「夫と一緒に子どもを育てたいと考えていたので、働く場所を自分で選びたかった。医局は魅力的ではなかったんです」  仙台で2年過ごし、南相馬市立総合病院に移った。翌17年に子どもが生まれ、半年後、同病院に復帰。  復帰までの6カ月間に、妊婦への情報が少ないことも実感した。子育てをしながら、年齢を重ねて夜中まで働く生活をしたいのかを考えた。転機は子どもの夜泣きに悩み、子どもの睡眠について様々な文献を読んで調べた時に訪れた。 「病気を治すだけでなく、子育てに必要な知識を広めて社会に貢献したい、と起業を決意したんです」  18年4月、東京で会社を立ち上げた。現在は週に1回、昭和大学病院附属東病院睡眠医療センターで非常勤医として、赤ちゃんの夜泣きなど「子どもの睡眠」を中心に、外来診療を行う充実した日々を送っている。  ツイッターやユーチューブで医療や転職の情報を発信する関東在住の30代の整形外科医「おると」さんは、大学病院などでの勤務を経て、数年前から「フリーランス医師」として働く。 「今は仕事が楽しくて仕方ないです」  フリーランス医師と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、人気ドラマ「ドクターX」の外科医、大門未知子や、古くは手塚治虫の「ブラック・ジャック」かもしれない。カリスマ的な技術を持ち、高額な報酬と引き換えに誰にも治せないようなけがや難病を治療していく。しかし、実際の姿は少し違うと、おるとさんは言う。 「周囲で多いのは、複数の病院と非常勤の契約を結び、週3~6日出勤する働き方です。非常勤だと継続的に入院患者を診ることや、前後に検査や経過観察が必要な手術をすることはあまりなく、業務の多くは外来。育児や介護をしながら、フリーランスをしている人もいます」  おるとさんも、当初は医局に入り、医局人事に沿って派遣された関連病院などで勤務医を続けていた。しかし、雑務が多かったことや、拘束時間に対する給与の低さに不満があった。手術より患者と対話する外来をしたいという思いもあり、医局を出て別の道へ進むことにした。浮かんだのは、「自分が主軸で患者に対してチーム医療を行う」開業という選択肢だ。その準備期間としてフリーランスを選択した。休日数も自分でコントロールしやすく、整形外科は麻酔科と並びフリーランスの需要が多いことも、選択を後押しした。 「開業の勉強をしつつ、フリーランスでQOL(生活の質)を保ちながら研鑽(けんさん)を積もう、と」  今年度は月~水・金曜に病院やクリニックの非常勤で外来をつとめ、木曜は休み。土は隔週で半日の非常勤を入れている。 「ときどきアルバイトもしています。フリーランス医師の給与は、勤務医時代よりはるかによくなると言われます。常勤の医師では手が足りない現場はたくさんあるので、需要があります」  勤務医時代より時間もできた。本を書き、ウェブ連載も持つ。ユーチューブでは医療情報の解説動画をアップする。 「自分の裁量で動けるので、メリハリがつきました。大学病院の頃に比べると、いまの方が精神的に非常にいい状態です」  医局離れは、実は04年に「新臨床研修医制度」が導入されたころから顕著になってきた動きだ。研修医が全国の研修指定病院に希望を出し、病院側は希望者の中から採用する「マッチング制度」が導入され、若手医師が全国に研修に出た。  だが、18年になって「新専門医制度」ができ、学会ごとに認定していた専門医の資格を、第三者機関である「日本専門医機構」が統括する形になった。研修病院を認定し、そこから地方の病院に若手医師を派遣する。研修病院の多くは、大学病院だ。専門医認定を受けるため、医局を選択する医師が再び増えた。  医師で医療ガバナンス研究所理事長の上昌広さんは、この制度は「時代に合わなくなった大学病院の延命策」と手厳しい。  症例数の多い専門病院には、多くの若手医師が勤務を希望する。経験を積むなら、医局に入らず、最初から専門病院に就職すればいい。上医師は言う。 「それなのに、『専門医』の資格を得るために、何年も症例数の少ない大学病院で働くことになってしまいます」  上医師は医師という仕事の未来をこう考えている。 「若い医師には、時代の変化にも対応していく力を持ってほしい。真の専門家を目指すか、肩書をとるか、おそらく選択を迫られることになるのですから」  臨床経験が豊富で深い知見を持つ医師が増えることは、患者にとってもプラスだ。(編集部・小長光哲郎、ライター・井上有紀子) ※AERA 2020年3月2日号より抜粋
仕事働き方
AERA 2020/02/27 11:30
【Vol.27】フードスタイリスト飯島奈美さんが巡る浅草の新旧。老舗喫茶店からワインバーまで、「羽子板市」のあとのお楽しみ。
【PR】【Vol.27】フードスタイリスト飯島奈美さんが巡る浅草の新旧。老舗喫茶店からワインバーまで、「羽子板市」のあとのお楽しみ。
 浅草寺の羽子板市巡りに続き、飯島奈美さんが訪ねたのは、雷門近くにある小さな町工場。天保年間創業の「木具定商店」では、折箱や御神札といった木製品の製造販売を手がけています。「実は、以前折箱を特注で作っていただいたことがあるんです。とある俳優さんに、お弁当100個をオーダーいただいて……。女性用と男性用でおかずの内容を少し変えたお弁当を作り、『女弁当』『男弁当』という包装紙を巻いてお届けしたんです」と飯島さんが教えてくれました。  木を使って四角いものを作る職人を「木具師」といいます。「木具定」は、木具師の定吉(初代)が、当時魚河岸のあった日本橋に工場兼店舗を構えたのがはじまり。明治2年に浅草雷門前の並木通りに移りました。浅草界隈の老舗鰻屋や天ぷら屋、蕎麦屋へも折箱を納めています。  今使っている材料は、スギ、ヒノキ、エゾマツ、キリなど。スギとヒノキは、東京都檜原村産のものです。「東京都の花粉対策事業で伐られた木材をなんとか有効活用できないかと、今から5年ほど前にお声をかけていただいたんです」と6代目の信田喜代子さん。木材は燃やしても残灰がわずかで有害物質の問題もないため、木製の折箱は食品容器として丈夫で通気性に優れ、殺菌効果もあり、食品の水分を適度に調節してくれるそう。「プラスチックゴミが大きな問題となっている昨今、エコでいいですよね。お弁当箱としてだけでなく、紙のように薄い経木をケータリングで使わせていただいたこともあります。オードブルなどをずらりと並べると美しいんです」と飯島さん。古くから育まれてきた技を今の暮らしに合わせて使い続けることで、私たちの毎日が森とつながります。  次に足を運んだのは、喫茶店「銀座ブラジル浅草店」。「お店の名前の中に、銀座とブラジルと浅草という三つの地名が入っているの。不思議でしょう?」と飯島さんは興味津々。昭和23年創業のこの店は、もともと銀座にあり、さらにはコーヒー豆をブラジルから輸入していたためこの名前になったそう。飯島さんがさっそくオーダーしたのが「元祖フライチキンバスケット」。一口食べると、サクッと軽やかな歯触りで、柔らかいこと! 「胸肉をあえて斜めにカットして筋目を逆に切ることで柔らかくなるんです」と、マスターの梶純一さんが教えてくれました。さらに、厚切りロースハムはちょうどいい頃合いの半熟卵と自家製マヨネーズ入り。キャベツは1枚ずつはずして芯を取ってから千切りにするので、フワッフワの歯触りになります。「こんなに手間暇かけているなんて、全メニュー制覇したくなりますね」と飯島さん。「必ずまた来ます!」と約束をして店を後にしました。  最後に訪れたのは、カウンター8席のワインビストロ「ペタンク」。たったひとりでこの店を切り盛りする山田武志さんは、西麻布の「ザ・ジョージアンクラブ」、在ハンガリー日本大使館の公邸料理人、パリの「ズ・キッチン・ギャラリー」などを経て、2017年にこの店をオープンさせました。ウフマヨは、半熟卵にアンチョビ入りのマヨネーズをとろりとかけたもの。チューリップカラアゲは、クミンやコリアンダーなどのスパイスを使った衣がさっくり。〝にぼバター″のパスタは、なんと煮干し入りのバターを使ったものなのだとか。フレンチをベースにしながらも、日本の居酒屋のようであり、アジアの屋台のようでもある……、そんなフュージョン感たっぷりの一皿一皿が、ワインにぴったりです。「浅草といえば、鰻や天ぷらといった老舗の名店と思いがちだけど、こんなビストロがあればちょっと飲んで帰りたくなりますね。一皿のポーションが小さいので、前菜とメインとパスタとか、サラダとステーキとか、自分の好きなように組み合わせて食べられるのがいいところかも」と飯島さん。  お店を出る頃には、浅草寺が美しくライトアップされていました。「外国人の友人を案内してよく浅草には来ていたけれど、いつも昼間ばかりで、こんなに夜遅くまでいたのは初めて。伝統工芸から新しいお店まで、今回、浅草の楽しみ方の幅がぐんと広がった気がします」 ナビゲーター:飯島奈美 フードスタイリスト。東京生まれ。映画やテレビドラマ、CMなど幅広い分野で料理を手掛ける。映画「かもめ食堂」「海街diary」、ドラマ「深夜食堂」「ごちそうさん」といった話題作を担当。カトリーヌ・ドヌーヴやジュリエット・ビノシュら世界的に有名な俳優が出演する、是枝裕和監督の最新作「真実 (La Vérité) 」にも参加 取材・文:一田憲子 写真:伊佐ゆかり 撮影協力: 木具定商店 http://www.kigusada.info 銀座ブラジル浅草店 ペタンク(Pétanque) https://ja-jp.facebook.com/petanqueasakusa 本企画は『東京の魅力発信プロジェクト』に採択されています。 このサイトの情報は、すべて2019年8月現在のものです。予告なしに変更される可能性がありますので、おでかけの際は、事前にご確認下さい。
2020/02/26 12:26
「桜を見る会」石破氏は安倍首相に苦言 辻元氏のエールに苦笑
上田耕司 上田耕司
「桜を見る会」石破氏は安倍首相に苦言 辻元氏のエールに苦笑
昨年4月、主催した「桜を見る会」であいさつした安倍晋三首相=東京・新宿御苑 (代表撮影)  不意に呼びかけられ、「ビクッとした」と自民党の石破茂氏は苦笑する。  2月17日、「桜を見る会」にからみ、立憲民主党の辻元清美氏が安倍晋三首相を追及した国会の衆院予算委員会。そのさなか、辻元氏は斜め後ろに座る石破氏を振り向き、「石破さん、頑張ってや」と語りかけたのだ。 「辻元さんとは安全保障やテロ対策の問題で、常に国会で論戦を繰り返してきた。いわば論敵なんだけど、辻元さんからしたら、私は逃げない、ウソは言わない、ひっかけたりもしない、という意味で信頼があるんだと思います。『頑張ってや』というのは、桜を見る会だって自民党の中からきちんと批判が出なきゃおかしい、という意味でしょう」  自民党内で「時を待つ」石破氏へのエールとも受け取れる。  辻元氏は桜を見る会前夜に開かれた夕食会を巡り、会場になったANAインターコンチネンタルホテル東京側からの回答と、安倍首相の答弁に食い違いがある、と厳しく追及した。  国民民主党の原口一博国対委員長は言う。 「辻元さんはホテルの広報から回答をメールでもらった。広報は会社の公式見解を示すわけです。安倍首相はホテルの営業から『営業の秘密』という回答を得たと言っていた。でも自民党が安倍事務所から聴き取りした文書の中にはそんな文言はなかった。つまり安倍氏は話を足しているし、作っているんです。安倍さんは“詰んでいる”と思いますよ」  安倍首相と辻元氏の応酬をみて、石破氏は首をかしげる。 「安倍総理は一人ひとりとホテル側との契約だったから明細書はなかったという説明。これについても、ホテル側から『一般論としては明細書を出しますが、当然、例外はございます』という回答があれば、この問題は済むことなんです。それがなぜできないか、ということでしょう」  そのうえで苦言を呈す。 「今までは、自民党もひどいけど、当時の民主党に比べればまし、という消極的な選択で選ばれていたが、だんだんと野党のほうが筋が通っている、と見られるようになってきた。当選1回生、2回生の若い議員たちに、ちゃんと選挙区で説明できるようにしてあげるのも党の仕事だと思います」  早くも“春一番”が吹き荒れる自民党内である。(本誌・上田耕司) ※週刊朝日  2020年3月6日号
安倍政権
週刊朝日 2020/02/26 07:00
野村克也さんの“観察眼”に山本浩二も驚愕…連載担当者が回顧
野村克也さんの“観察眼”に山本浩二も驚愕…連載担当者が回顧
野村克也さん (c)朝日新聞社 写真=(c)朝日新聞社  プロ野球で強打の捕手として活躍し、ヤクルト監督として3度日本一に輝いた野村克也さんが11日、死去した。84歳だった。引退翌年の1981年から6年間続いた本誌連載「野村克也の目」では野球のおもしろさ、奥深さを伝えた。初代担当の川村二郎さんによる追悼文を掲載する。 *  *  * 「週刊朝日」の編集部員の時、最も気の進まない仕事に、プロ野球の話をまとめるのがあった。朝日新聞運動部のプロ野球記者や、“親戚筋”の日刊スポーツの記者、野球解説者の話を聞いてまとめるのだが、朝日の記者も日刊の記者も、一番面白い話は自分で書く。記者とは、そういうものである。で、私たちに話すのは、“セコハン・ニュース”になる。いつもセコハンは、耐えられない。  ある時、世の中の女房役の役目を特集することになり、南海ホークスの監督兼捕手の野村克也さんのインタビューにいった。  野村さんは、いいキャッチャーになるのは「壁の額がゆがんでいると直したくなる貧乏性か心配性の人間ですよ」と言って、自分はそういう人間です、と言った。人間をよく見ている人だなという印象が残った。  この印象が強かったので、1980年の暮れに編集長に野村さんの人間観を話し、「本誌専属の野球評論家として、抱えたらどうですか」と言ってみた。  私は、プロ野球に大して興味がない。セコハン・ニュースと手が切りたいばかりに野村さんを提案しただけである。ところが編集長が「二郎ちゃん、自分でやれよ」と言って、親しい運動部長に「一席設けてくれよ」と頼んでくれた。  銀座の料理屋に現れた野村さんに企画の話をすると、「朝日で仕事をするのは名誉です」と、二つ返事で引き受けてくれた。  企画のタイトルは「野村克也の目」と決め、似顔絵はイラストレーター、山藤章二さんにお願いした。 “装い”は決まったものの、何を書くか、全くチエがない。まずは野村さんと毎日、巨人戦を見ることにした。巨人に王、長嶋が在籍し、プロ野球人気を支えていた時代である。  ナイターに備えて当時の後楽園球場の記者席に着くと、解説者となったかつてのスター選手がくる。大抵は手ブラか大学ノート一冊だが、野村さんはピッチャーが投げる一球ごとの球種やコースを書ける、運動部の記者と同じスコア・ブックを持参する。  公式戦が始まる前、巨人のオープン戦を記者席で並んで見ていた時のこと。巨人のピッチャーは、確か剛腕左腕の新浦だった。  一塁に走者が出ると、隣の野村さんが「ストップ」とか「ゴー」とつぶやくので、どういう意味か聞くと、「ストップ」と言うのは新浦が一塁に牽制(けんせい)球を投げる時で、「ゴー」と言うのは、打者に向かって投球する、「盗塁できるぞ」と言う時である。  野村さんに言わせると、新浦は打者に投げる時と牽制する時とでは、首スジにクセが出るので、注意深く見ていれば、盗塁は簡単にできるという説明だった。  ペナント・レースが始まると、野村邸にいって、一緒に球場に入る。原・現巨人監督がプロ野球に入った年で、人気を集めていた。 「原はボールを怖がる。内角の厳しいところに投げれば腰を退く。次に外角に投げておけば空振りする。2、3球で料理できる」  と言うので、その通りに書くと、プロ野球ファンの間で注目されたらしい。この回あたりから、連載が話題になるようになった。  その頃の私の日課は、夕方野村さんと記者席で野球を見て、終わると野村さんが契約しているサンケイスポーツの取材がすむのを待って、後楽園球場近くの喫茶店に入る。  席に着くなり野村さんは自宅に電話をして沙知代夫人に「川村さんと、これこれの店でコーヒーを飲んでいる」と、伝える。  すると折り返し夫人から席に電話が入り、夫が私といるのかどうか、確かめるのが恒例になっていた。  コーヒーをすませて当時東横線の都立大学駅の近くにあった野村邸にゆく。遅い夕飯が済むと、テレビがプロ野球ニュースの時間になる。  テレビの画面にその日のプロ野球が出ると、野村さんは、目が画面にクギ付けになり、心、ここにあらずで、ダンマリを決めこむ。当方は、じっと待つしかない。  プロ野球ニュースが終わり、午前1時ごろから取材が始まる。取材と言っても、当方にチエがある訳ではない。たとえば野球中継をラジオで聞いていると、解説者が「今のコース、バッターは手が出ませんね」と言う。一介の素人の私は「ならば、どうしてそのコースに3球続けて投げて、三振に打ち取らないのか」と思う。  3球続けない理由を野村さんに聞く訳である。「週刊朝日」は、野球の素人が読む雑誌である。読者のことを考えれば、“業界用語”は困る。素人にもわかるように、かみ砕いて普通の日本語にしなければならない。後に野村さんは、 「プロ野球記者なら常識のようなことばかり聞かれるので困った。おかげで頭が薄くなりましたよ」  と言ったが、私は私で、野村さんの野球用語を普通の日本語に“翻訳”する作業が一苦労で、私の方は白髪が目立つようになった。 “翻訳”以上に大変だったのは、野村さんの口が異様に重いことである。  一つ質問をすると、ダンマリが延々と続く。私は取材にテープレコーダーを使わない主義だったが、もしテープレコーダーを回していたら、私の質問の後、15分近く無音の状態が続いたろう。  しかし、野村さんの眼力にはうなるしかなかった。  広島カープのクリーン・アップに山本浩二選手が君臨していた時である。野村さんに言わせると、山本選手は一球ごとにヤマを張るタイプで、見ていると真ん真ん中のストライクでもあっさり見逃して三振するのはそのせいだと言う。そこで、後楽園の広島対巨人戦で一球ごとにどんなボールにヤマを張っていたか、見てもらうことにした。  その翌日、カープの定宿の品川のホテルのコーヒー・ハウスで山本選手にインタビューを申し込んだ。  山本選手はいかにも眠そうな目をして現れた。明らかに不機嫌である。 「昨夜の巨人戦で、あなたはこういうボールにヤマを張っていたと、野村さんは言うのですが、当たっていますか」  と言って、一球ごとの狙い球を書いたメモを見せると、見る見る目つきが変わり、こう言ったのである。 「野村さんはこう言われましたか。この通りです。あなたを野村さんだと思って答えます。何でも聞いてください」  ホテルから野村さんに電話をし、「狙いダマはメモの通りでしたよ」と言うと、びっくりしている私に驚いたようで、 「そんなこと、わかっていますよ」  と、素っ気ない。打者を観察して狙いダマを見破ることにかけては、絶対の自信があるようだった。  私が野村さんによく言ったのは、 「野村さんは、例えて言えばエピソードの宝の山に埋もれている。私はそれを読者がわかるように順序良く整理をして並べるだけですよ」  ということである。  私は「野村克也の目」を2年間担当したおかげで、文章の書き方が少しわかったような気がしている。今も書かせてもらっていられるのは、ひとえにそのおかげである。  野村さんはこの連載によって得たものがあったのか。あったとすれば、どんなことか。聞きたいところだったが、もはやかなわぬ夢となった。(元週刊朝日編集長・川村二郎) ※週刊朝日  2020年2月28日号掲載記事に追記
お悔やみ
週刊朝日 2020/02/20 11:30
【Vol.01】大学も“サブスクリプション” 桜美林ならではの価値を伝えたい/畑山浩昭学長
【PR】【Vol.01】大学も“サブスクリプション” 桜美林ならではの価値を伝えたい/畑山浩昭学長
桜美林を卒業し、 予想外の教員生活へ ――この連載は、桜美林大学で活躍する先生たちに、畑山学長が鋭く斬り込んでいくインタビュー企画です。第1回はまず、学長ご本人にお話を伺いたいと思います。畑山学長が教職の道に進んだきっかけをお聞かせください。 故郷の鹿児島では中学、高校と洋楽のロックバンドをやっていました。レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ザ・ローリング・ストーンズなどの楽曲で、ボーカルとギターを担当しているうちに、英語が好きになったんです。そこで進学したのが桜美林大学の文学部英語英米文学科でした。中学の教員だった父の影響もあり、4年次には教員採用試験を受けたのですが、残念ながら不合格。気持ちを切り替えて就職活動をして、東京の計算機会社に内定が決まりました。 ところが、卒業を目前に控えた3月に突然、鹿児島県教育委員会から実家に電話が入り、「1年間の期限付きの仕事があるけれど、どうですか?」。応対した父が「ぜひ行きます!」と私の承諾もなく勝手に回答してしまいました。内定していた会社に平謝りして実家へ戻ると、「あなたの勤務校は屋久島高校です」と言われ、再び荷物をまとめて屋久島へ引っ越すことに。いまでこそ、世界遺産で有名な島ですが、当時は本当にのどかだった。夜、公園でブランコに乗っている影を見つけて近寄ってみると、おサルさんだったなんてことも。そんな自然豊かな島で1年間、期限付きの英語教員を務めながら、再び教員採用試験に向けて勉強し、無事合格することができました。 それから県内の公立高校で6年間勤務するのですが、授業では言葉だけではなく英語圏の生活文化も教えます。留学経験がない私は、「このままで良いのか」と思ったんです。それで、海外の大学院への留学を決意しました。   米国の大学院生活で レトリックの世界に没頭 ――高校教員を辞めて、1992年に米国のノースカロライナ大学シャーロット校大学院で、再び学生生活がスタートしたわけですね。 「せっかく公務員になれたのに、辞めるのか!」と、親には残念がられたものです(笑)。大学院では、英語学、言語学、英文学の専門的な授業に、のめり込みました。修士を取り、とりわけ説得術、効果的なコミュニケーションに興味を持ちました。それから同大学のグリーンズボロ校の博士課程に移って、レトリックと批評理論の研究を深めました。レトリックは本来、心理学、言語学、社会学など総合的な学問です。自らが納得し、他人や社会を納得させて動かしていく力を感じ、非常に興味を持ちました。文学を解剖・分析し、本質を抜き出し、一つひとつ確認し突き合わせることによって、初めて筆者が描こうとしたカタチにたどり着くんです。古英語から現代英語まで、メジャー、マイナー問わず膨大な作品を読みました。 ところが、アトランタ五輪の開催時、現地を訪れた桜美林大学の当時の学長先生と再会したことで、状況が変わりました。桜美林大学では当時から、ELP(English Language Program)という英語プログラムを実施していたのですが、ネイティブの講師陣と、大学当局との仲介役となる人材が必要だった。そこで私がその役割を引き受けることになったのです。思いがけないものでしたが、1997年に日本に帰国し、専任講師から桜美林でのキャリアがスタートしました。 母校で新たなキャリアをスタート 研究と大学運営が繋がるとき ――桜美林大学では具体的にどのような職務を担当されてきたのですか。 ELPの講師陣は日本語が不得手だから、大学が考えること、大学で起きていることを英語にして伝えます。同時に、ELPがやろうとしていることを日本語で他部門に連絡する。米国、英国、オーストラリア、インド……。ネイティブだと言っても、喋っている英語はバラバラで、まさにダイバーシティーの集団でした。 当初は自身の教育研究と、大学運営という「二足のわらじ」を履いて活動していたのですが、学部の教務委員長や、国際センターのまとめ役、学長補佐を任されていき、だんだんとアドミニストレーション(管理部門)の道へと移っていったのです。その頃に「もっと経営を学んでみてはどうだ」と勧められて、2009年にマサチューセッツ工科大学経営大学院に入学し、再び米国へ。MBAを取得して帰国し、副学長を経て現職に就くことになりました。 学長の仕事というのはほとんどが他者とのコミュニケーション。経営を学んだことはもちろんですが、感情や考えを言葉にして人を動かしていくという点では、文学から学んだこともいまに活かされていますね。   ――舵取りを任された桜美林大学は、2019年に新宿キャンパスが完成し、2020年には東京ひなたやまキャンパスが開設されます。さらに2021年には学園の創立100周年。かつてないドラスティックな変革の時期ですね。 「昔ながらの大学」のままでは、もう持たない。桜美林が提供できる価値がポイントになると思います。桜美林は昔からオープンで、共生の感覚を持っています。妥協しない一方で、寛容でフレキシブル。そんなメンタルの強さが、私が学生として学んでいた当時から脈々と受け継がれています。広くて、深く、強くて、明るい。そんな桜美林の美点をお伝えしたいと思います。 最近、音楽の定額サービスなどで「サブスクリプション」って言葉をよく聞くようになりましたよね。考えてみたら、大学もサブスクリプション。日々の学費に対して、授業や設備を存分に活用してもらって、学生たちに自身の成長をどう実感してもらえるかということが重要です。私たちが一緒になって、それぞれの夢や希望を実現していきたいと思います。   畑山浩昭 桜美林大学 学長 1985年、桜美林大学文学部卒業。鹿児島県立高校教諭を経て、1994年、ノースカロライナ大学シャーロット校大学院修士課程修了、修士(M.A.:文学)。2001年、ノースカロライナ大学グリーンズボロ校大学院博士課程修了、博士(Ph.D.:文学)。2010年、マサチューセッツ工科大学経営大学院修士課程修了、修士(MBA:経営学)。2018年、桜美林大学学長に就任。専門はレトリック、批評理論。主な著書に「自己表現の技法」(分担執筆、実教出版)など 文:加賀直樹 写真:今村拓馬 桜美林大学について詳しくはこちら このページは桜美林大学が提供するAERA dot.のスポンサードコンテンツです。
2020/02/20 10:20
「オレは弱い球団ばかり…」ノムさんがボヤき育てた“3人の教え子”たち
久保田龍雄 久保田龍雄
「オレは弱い球団ばかり…」ノムさんがボヤき育てた“3人の教え子”たち
野村克也さんが育てた3人の教え子のひとり古田敦也さんと(C)朝日新聞社  今月11日に急逝した野村克也氏は、南海のプレイングマネージャーを皮切りに、ヤクルト、阪神、楽天と計4球団の監督を務めたが、ヤクルトの4位を除き、3球団までが、前年は最下位。そのヤクルトも、前年までの8年間で最下位4度の万年Bクラスだった。  野村氏は「オレは弱い球団ばかりやらされる」とボヤきながらも、「どうすれば弱者が強者を倒すことができるか?」という一事に心血を注いだ。  それは「まず弱いということを素直に認め、野球の意外性という要素も踏まえて、文字どおり、“予想は難しい”という野球をやった。相手に“ノムさんのことだから、何をやってくるかわかららない”と思わせたら、こっちのペース。まさに思う壺だ」というもの。その基本を織りなすのは、守りの野球だった。「失敗する監督というのは、攻撃型のチームを作りたがって、打率ばかりを追いかける。私は逆だ。キャッチャー出身というのもあるのだけど、0点で抑えることばかりを考えている。そうすると、チームは、“1点取れば勝てる”、“今日は勝てそうだ”という気持ちになるわけだ」。  そんな野村ID野球で最も重要なポジションは、もちろん「守りにおける監督の分身」たる捕手だ。  南海時代は自らが捕手を務め、73年にリーグ優勝。その後も「新監督にとっての最初の仕事は、正捕手づくりである」の信念に基づき、ヤクルトでは古田敦也、阪神では矢野耀大、楽天では嶋基宏を正捕手に抜擢し、一人前に育てた。  ヤクルト監督1年目、野村氏は当初前年までの正捕手・秦真司を起用したが、投手にサヨナラ本塁打を打たれるなど、リード面に問題があった。そこで、守備力が売りのルーキー・古田を4月30日の巨人戦で起用することを決め、前日の試合中、「今夜は寝ずにリードのことを考えてこい」と命じた。すると、古田は、巨人の各打者についてのベンチでの野村氏のつぶやきを一言も聞き漏らすまいと密着し、合宿所に帰ると、午前3時過ぎまでビデオで巨人打線の分析を繰り返した。その結果、翌日の試合では、満塁のピンチで駒田徳広にフォークを続けて投げさせて打ち取るなど頭脳的リードを見せる一方、自ら決勝2点タイムリーも放ち、開幕からの巨人戦の連敗ストップの立役者に。以来、正捕手の座を不動のものにする。そして、野村氏の監督退任後も含めて5度のリーグ優勝と4度の日本一に貢献した。  99年、阪神の監督になった野村氏は、前年山田勝彦と併用だった矢野を開幕から正捕手で使いつづけた。当初は「無難な捕手は勝負弱い」(ヤクルト戦でペタジーニに決勝弾を許す)と酷評したが、「いつも怒られてばかり」だった矢野が4月23日のヤクルト戦で完封勝利に貢献すると、「味のあるリード。思わず“上手い!”っていうのが何回かあった」と初めて褒めた。さらに矢野は「捕手というのは配球を読んでいるのだから、それを打撃に生かすべきだ」の助言も実行し、同年、初の3割をマーク。野村氏退任後の03年、05年と2度のリーグ優勝に貢献し、名捕手の仲間入りをはたした。  楽天監督2年目の07年、野村氏はルーキー・嶋を正捕手に抜擢する。中学時代の成績はオール5。「リードは応用問題なのだから、勉強ができるほうがいい」という理由からだった。そんなプロ1年生に、野村氏は「守っているときは監督以上の仕事をしているという認識でやれ。バッテリーの後ろで守る選手の生活、オレのクビはサインを出すお前の右指にかかっている」とまで言いきって、“分身”としての自覚を促した。 「真面目過ぎる性格」の嶋は、リードが慎重一本鎗で単調になりがちな欠点があった。それを修正しきれないまま、野村氏は09年限りでチームを去るが、その後、嶋は「野村監督に“優勝チームには名捕手あり”と言われていたので、必ず優勝したいと思っていました」と精進し、13年の球団初の日本一に貢献した。  この3人のV戦士の中で野村氏が最も高く評価していたのは、古田である。 「矢野と嶋が外角一辺倒の正攻法で慎重だったのに対し、古田には正攻法に奇策を組み込む大胆さがあった」からだ。「慎重」だけではなく、重要局面で腹を括ったリードができる。そんな“勝負師”としての資質を古田は兼ね備えていた。“ID野球の申し子”たる所以である。  3年前、たまたま野村氏の関連著書のお手伝いをする機会に恵まれ、インタビューテープをもとに、前書きをまとめたことがある。その中で、野村氏が3人中唯一名前を挙げたのも、古田だった。  だが、「古田はケチで」のような処世術に関する非難めいた話ばかりで、「オレは(野球以外も含めて)教育したつもりなのだけど」とも。  なぜこのような非難をしたのか?“野村語録”に親しんでいる人ならおわかりのはずだが、非難は「人間は無視、賞賛、非難の3段階で試される」の最上級で、「オレが力を認めている証拠」に相当する。  おそらく野村氏は、06年にヤクルトの監督に就任した古田に「間違いなく監督として成功するだろう」と期待をかけたのに、結果を出せなかったことに対する残念な気持ちから、「将来もう一度監督になる機会があったら、みんなに信頼されるリーダーになれ」と、処世術で苦労した自らの経験も踏まえ、人生の大先輩として提言したかったのかもしれない。  今となっては本人に真意を確認する術もないが、そう思えてならない。(文・久保田龍雄) ●プロフィール 久保田龍雄 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」(野球文明叢書)
dot. 2020/02/14 17:00
くりぃむ有田「お笑い界最重要人物」と誰もが認める納得の理由
藤原三星 藤原三星
くりぃむ有田「お笑い界最重要人物」と誰もが認める納得の理由
まさに万能プレイヤー、くりぃむしちゅーの有田哲平 (C)朝日新聞社  ベテランから新人まで歴戦の猛者たちが集うお笑い界の中で、飛躍的に評価をあげている芸人がいる。有田哲平(49)である。お笑いコンビ・くりぃむしちゅーのボケ担当であり、芸歴29年、数多くのレギュラー番組を持ち、第一線で活躍し続けている人気芸人だ。 *  *  *  彼の評価が飛躍的に上がったのは昨年の11月末、有田がMCを務める「全力!脱力タイムズ」(フジテレビ系)でお笑いコンビ・アンタッチャブルが10年ぶりにコンビとして復活したときだった。アンタッチャブルはツッコミ担当の柴田の女性問題で10年間もコンビとしての活動を休止しており、その間、ボケの山崎はバラエティ番組で“ザキヤマ”として大ブレイク。2004年のM-1グランプリの覇者でもある2人のコンビとしての復活は誰もが望んでいたが、山崎が復活にOKしなかったと報じられていた。それが、有田のサプライズ演出によって突然、実現したのだ。テレビ情報誌の編集者はこう語る。 「柴田さんは番組内で突然漫才をすることになり大慌てでしたが、10年ぶりの漫才を見事に披露。伝説のコンビの突然の復活劇は大きな感動を呼び、ネット上でも祭り状態となりました。有田さんは若手時代から後輩のザキヤマさんをかわいがり、一時は同じマンションの上と下に住んでいた間柄。この関係性があったからこそできた演出だった。『脱力タイムズ』自体が、毎回フェイクだらけの情報が飛び交い、ボケ倒す番組なのですが、そんな流れから禁断のコンビ復活というウソから出たマコトのような演出が高く評価され、実際にこの放送回は月間ギャラクシー賞を受賞しました」  現在、くりぃむしちゅーとしてもゴールデン帯で5本のレギュラー番組を持ちつつ、ピンでも地上波に4本のレギュラーに出演中。一方、アマゾンプライム「有田と週刊プロレスと」ではマニアックなプロレス愛を語り、プロレスファンからの熱狂的支持を受けている。「ここまで売れていて多忙なのに、ピンの仕事でも自分の色をしっかり出せている稀有な芸人」と評価するのは、民放バラエティ番組プロデューサーだ。 「ここまでレギュラー番組を持つと演者に徹するほうが楽なはずですが、有田さんは『脱力タイムズ』で総合演出を務めるなど作り手側にも人気です。ディレクターや作家陣としっかりとアイディアを出し合って、クオリティの高い番組を量産できる天才肌。ピンの番組で言うと、『有田Pおもてなす』では俳優を始めとするゲストのアンケートをもとに無茶ぶりを笑いに変える見事なプロデュース能力を披露しています。一方、深夜番組『有田ジェネレーション』では売れなくてくすぶっている地下芸人たちの才能を引き出す能力も回見せてくれる。つまり、演者としてだけでなく、プロデューサーや作家としての才能が異常に高いため、引く手あまたなのです」  現状でレギュラー番組を増やすキャパはなさそうだが、「有田さん自身はまだまだ新しい笑いに飢えてる」(前出のプロデューサー)とのことで今、各局が喉から手が出るほどほしいタレントになっているという。 ■ウンナン内村のような存在になる  すでにベテラン芸人の風格すらある有田だが、その人気にあぐらをかくことなく、常に新しい笑いに挑戦しているその姿は、たしかに「お笑い界で最重要人物」と呼ばれるにふさわしい。 「近年、ウッチャンナンチャンの内村さんが再評価され、気がつけば紅白の司会までするようになりましたが、次は有田さんの時代が来るでしょう。同世代の芸人としては有吉弘行さんのほうが上を行っているイメージですが、有田さんはボケもできるし番組自体をしっかりコントロールできる。今のバラエティは放送作家やディレクターの権限が大きく、番組の内容に口を出す芸人はあまり好まれない。だから、演者に徹する有吉さんは評価が高いのですが、有田さんは番組のスタッフとちゃんとコミュニケーションを取りながら内容に口を出せるんです。全然偉ぶらないし、押しつけがましくもない。そのバランス感覚が非常に長けた人なので、今後も意欲的な番組がどんどん生まれると思います」 「脱力タイムズ」で共演したこともある、お笑い評論家のラリー遠田氏は有田の芸人としての才能をこう評価する。 「有田さんは、テレビの最前線で笑いを作る仕事を続けているという意味では、間違いなく現役最強クラスの芸人の1人。ゴールデンタイムから深夜番組まで、時間帯に合わせて笑いの質を細かく調整しているところにも驚かされます。共演した際、場の空気に合わせて即興で笑いを生み出す、頭の回転の速さに感銘を受けました。最近、コント番組が減ったと言われることがありますが、私に言わせれば『脱力タイムズ』は完全なコント番組です。あの枠であそこまで振り切ったお笑いの番組ができているのは、有田さんの卓越したセンスによるものでしょう」  有田の天下獲りが始まったということか。どんな新しいお笑いを視聴者に届けてくれるのか楽しみだ。(藤原三星)
dot. 2020/02/14 11:33
【現代の肖像】動物学者・今泉忠明「見えているものの少し奥を探して 」
【現代の肖像】動物学者・今泉忠明「見えているものの少し奥を探して 」
人間は「家畜」の世界。動物の世界とは違う。自然に入らなければ、本来の野生の姿は見えてこない(撮影/馬場岳人) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  まるで推理小説に出てくる名探偵だ。森に残されたわずかな痕跡から、今泉忠明はそこで暮らす動物の生態に迫る。それを支えるのは、動物学者の父から受け継いだ膨大な知識と観察を繰り返す行動力。そして時代を超える想像力だ。動物を知ることは、人間を知ること。今泉はいま、自然の手触りを子どもたちに伝えようとしている。 「先生、ヘビ! ヘビいる!」  調査の拠点となる東京・奥多摩のコテージに入った瞬間だ。先に中に入った同行者の女性が、やにわに寝室から飛び出してきて窓の外を指さした。 「え、ヘビ? どこ?」  今泉忠明(いまいずみ・ただあき)(75)は躊躇することなく、のしのしと部屋の奥に入る。その後ろを追いかけてガラス戸の外をそーっと覗くと、いた。寝室に接続された木組みのバルコニーの床の隙間から、鈍色のヘビが顔をぬーっと上に突き出している。 「こいつはアオダイショウですね」  瞬時にヘビの種類を判断すると、今泉は音を立てないようにゆっくりと寝室のガラス戸を開け始めた。捕獲するのだ。全員が静かに興奮しながら、一匹のヘビを見つめる。  その、ただならぬ気配を感じたのか。アオダイショウは急に体の向きを変えると、海に潜るようにバルコニーの床下に消えていった。 「ああ、行っちゃった……」  バルコニーに出て、隙間から下を覗いてみる。暗い。おまけに黒い土の上に無数の落ち葉が散乱していて、迷彩柄のように視認性が悪い。ヘビはもう葉の下に潜ってしまったのかもしれない。  諦めて、視線を上に戻したときだ。今泉がバルコニーの柵に足をかけているのが見えた。 (先生、何を?)  そう声をかける前に、跳んだ。年齢を全く感じさせない軽やかな身のこなし。両足できれいに着地を決めると、今泉は素早く身をかがめてバルコニーの床下を懐中電灯で照らした。 「うーん……いない……いないなぁ……」  数分後。今泉はむくりと体を起こすと、服についた土汚れをぱっぱっと手で払いながら「あーあ、残念!」と言って、わっはっはと笑った。 奥多摩のコテージで動物調査の参加者らと団欒のひととき。メンバーは20~40代の若い世代が多い。「いずれは彼ら一人ひとりが子どもに自然の楽しみ方を伝えられるようになってほしい」(今泉)(撮影/馬場岳人) ■動物の“痕跡”を収集、事実の突き止めに2~3年  動物学者の今泉は、20年前から月に1度、奥多摩の山に入り、そこに生息する動物の調査を続けている。専門は動物行動学。調査研究の対象は、主に哺乳類全般の分布や食性、繁殖などだ。  近年では、児童書『ざんねんないきもの事典』(高橋書店)の監修者として今泉の名前を知った人も多いだろう。2016年5月に刊行された同書は、19年9月時点でシリーズ累計350万部を超える大ベストセラーとなった。  同書には世界中のあらゆる生き物が登場するが、それらの膨大な知識は、学者だった父親から受けた動物学の手ほどきと、幼い頃から山に通い続ける徹底した“現場主義”によって支えられている。  今年5月、今泉の奥多摩調査に同行した。  山道を探索する今泉の歩き方は独特だ。常に下を見ながらゆっくりと歩く。時折立ち止まると、地面に落ちている葉や木の実をひょいと拾い上げ、くるくると回転させながら形を確認する。 「こっちはリス、こっちはアカネズミですね」  今泉から2個のクルミの殻を手渡された。よく見ると、一つは縦に真っ二つに割られており、もう一つは左右に丸い穴が開けられている。 「リスは殻の継ぎ目に歯を差し込んで、てこの原理で割るから断面がきれいなんです。アカネズミは、殻の両側を器用にかじって中の実を食べる。経験を積むほど穴の大きさが小さくなるんだけど、これは少し大きいからまだ若い個体でしょうね」  動物調査といっても、実際に野生動物に遭遇することは稀だ。調査の大部分は、こうした葉や木の実などの食痕、糞、足跡など、動物たちが森に残した“痕跡”の収集に時間が費やされる。  今泉にくっついてさらに2時間ほど山道を歩くと、小川にかかる橋の上で動物の糞を見つけた。 「お、これは多分……キツネの糞かなぁ」  今泉は身をかがめると、パッカブルベストのポケットからデジタル計測器や重量計を取り出し、手際よく糞の長さや重さを測り始めた。 「時刻は17時11分、場所は奥多摩湖近辺の橋、長さ43・6ミリ、乾燥重量3・8グラム……」  発見した動物の糞や足跡は、全てメモに記録する。日付、天候、気温、発見場所、大きさ、重さ、色、形など、記録内容は実に細かい。さらにデジカメで撮影し、証拠写真を残す。動物の巣穴や獣道を見つけたときは、近くに感熱式の自動撮影カメラを複数台設置して、数年にわたり行動を記録することもあるという。 今泉が館長を務める伊豆高原の「ねこの博物館」には、絶滅したスミロドンから希少種のトラ、ライオン、チーター、ヤマネコに至るまで、100点近いネコ科動物の剥製や骨格標本が展示されている(撮影/馬場岳人)  こうして作成したリポートは、もうすぐ1千枚に達する。 「痕跡を記録することで、そのエリアにどんな動物がいるのか、何を食べているのか、繁殖期はいつかといったことが、少しずつわかってきます」  一つの「恐らく確からしい事実」を突き止めるまでにかかる時間は最低2~3年。しかしその集積が、やがて点つなぎの図形のように、今まで見えなかった巨大な野生の生態を明らかにしていく。 「何かの役に立つからというより、楽しくてずっとここまでやってきたって感じですねえ」  今泉は在野の研究者だ。国や大学、企業の研究組織にも属していない。月に1度の奥多摩の動物調査に同行するメンバーも、研究者ではなく素人ばかり。美術館の事務員や下北沢の洋服店のスタッフ、雑誌編集者の母とその娘など、いずれも仕事や講演会を通じて今泉と知り合った。  都内で編集プロダクションを経営する女性編集者は、以前勤めていた職場の飲み会で今泉と意気投合。6年前から奥多摩の調査に参加している。最初は山も動物にも興味がなかったが「先生の話が面白過ぎて毎月通うようになった」と話す。 「不思議なんですけど、先生の解説を聞くと、そこらへんにある草とか虫でも、目に入るもの全てに意味があるように見えてくるんですよね」 ■父と兄とで小4から山へ、動物学者の父に全て教わる  今泉が本格的に山に通い始めたのは10歳のとき。  生まれは東京・阿佐谷。木造2階建ての家に両親、兄、弟、妹、父方の祖父母、母方の祖母の家族9人で住んでいた。終戦直後は駅の近くに森や田んぼがあり、よくザリガニを釣って遊んだ。  小学4年生になると、動物学者の父に連れられ、兄と高尾山に通うようになる。当時は観光地化が進んでおらず、動物の探索や捕獲も自由にできた。 「ヒミズ、アカネズミ、ヒメネズミ……色々捕まえましたね。朝早くに電車で行って、一人50個ほど罠をかけるんです。とれるのは3~4匹ぐらい。それでも楽しくて夢中で山を走り回ってました」  捕まえた動物は自宅に持ち帰り、剥製(はくせい)や骨格標本にした。効率的な罠の仕掛け方、体長・体重の厳密な測定方法、内臓の美しい取り除き方。それらの全てを父から教わった。 「父は、標本を作りながら世界中の珍しい動物や進化の話をたくさん聞かせてくれました。あとね、科博(国立科学博物館)の研究者だったから、自宅にコウモリとかイリオモテヤマネコがいきなり送られてくるんです。ほかにもイヌ、ハト、モグラ、ヘビとか、まあ色々飼いましたねえ」 トガリネズミの頭骨。蓋をした容器に頭とカツオブシムシを入れておくと、虫が肉を食べてきれいに骨だけが残るという。父と作った数百の骨格標本は、国立科学博物館に寄付し、資料室に眠っている(撮影/馬場岳人)  こうして多種多様な生き物に触れ、父に手ほどきを受ける中で、今泉は自然と父と同じ動物学者の道を志すようになった。  父親の吉典は、日本の動物分類学の草分けだ。東京大学の獣医学実科を卒業後、今泉が生まれる前は農林省管轄の「鳥獣調査室」に勤めていた。  若き日の父の話を聞くため、都留文科大学名誉教授で、現在は岩手県でナチュラリストとして活動する今泉の兄・吉晴(78)の元を訪ねた。 「当時は第2次大戦中で公な研究活動ができず、父の仕事は専ら木炭の管理と配給でした」  鳥獣調査室には高名な学者も名を連ねていたが、戦火が激しくなると全員疎開してしまったという。 「父は『その間に本局にある一級の研究資料を読んで思う存分勉強ができた』と笑っていました」  戦後、吉典は戦中に進めた研究成果を『日本哺乳動物図説』(洋々書房)にまとめて発表する。 ■徹底した経験主義で大学卒業後も就職考えず 「この本は間違いなく当時の動物学の最先端でした。しかし、ここに描かれた“死んだモグラのスケッチ”を見てもわかるように、ほとんどの情報は剥製や標本、外国の論文を基に書かれていて、生きた動物はほとんど観察されていませんでした」  吉晴は「終戦直後までの日本の動物学は、海外の学者らが発表した研究成果の“後追い確認”が主だった」と語る。父の吉典は、そのような状況を打破するため、戦後に国立科学博物館の研究員になると、精力的に全国の山や森を巡り始めた。 「そのとき弟の忠明も、父の助手として日本列島総合調査や採集旅行によく同行していたのです」  こうして今泉は、父や兄と共に、既存の図鑑にはない数々の新発見や成果を上げていく。  1972年、28歳のときに高知県の足摺岬で、絶滅危惧種(現在は絶滅)のニホンカワウソを調査、生息を確認。また翌73年には沖縄県西表島に赴き、2週間泊まり込みで格闘した末、世界で初めて野生のイリオモテヤマネコの撮影に成功。写真は新聞一面に掲載され、翌年から国がイリオモテヤマネコの本格調査を行うきっかけを作った。  こうした活動と並行して、個人では上野動物園2代目園長の林寿郎から依頼を受け、70年から富士山に生息する哺乳類を調査。標高1450メートルの山小屋に4年間一人で住みながら、キツネやノウサギ、ニホンカモシカなどの生態を調べた。  そのほかにもアメリカの国立公園でハイイログマの観察をしたり、インドネシアのコモド島でコモドオオトカゲの食性と毒性の調査をしたりと、その行動範囲と研究対象は限りがない。 「野生の特徴がまだ残っている」からネコが好き。「僕は『ねこの博物館』の館長なのにネコになつかれないんです」と笑う。写真のネコはおねむな様子だった(撮影/馬場岳人)  今泉は「僕は徹底した経験主義。研究室に閉じこもるよりも山にいるほうが性に合う」と笑う。  そもそも今泉は、自分がいつから動物学者と呼ばれるようになったのかさえも自覚がない。  11歳のときに、フランスの海洋探検家・ジャック=イブ・クストーが制作したドキュメンタリー映画「沈黙の世界」に感銘を受け、一時は海洋学者を志した。東京水産大学(現・東京海洋大学)に進学し、海洋生物の統計調査法などを学んだが、在学中も「父親の助手兼運転手兼コック」として駆り出される日々。そのうち高度な社会性を有する哺乳類の研究に強く惹かれるようになった。  卒業間近になっても就職は考えなかった。他大学から助手の誘いもあったが、結局断った。野生に触れる機会が失われると感じたからだ。 「と言っても、父からお給料をもらえるわけじゃありませんから。20代の頃は随分アルバイトもしました。ガソリンスタンド、製氷所の氷作り、お歳暮の伝票書きと配達ね。忙しかった~(笑)」  やがて今泉は、自身の生き方の指針となる一冊の本と出会う。アメリカの動物学者G・B・シャラーが著した『セレンゲティ・ライオン』だ。 「28のときにこれを読んで、シャラーが本を売ったお金で動物調査を続けていると知り、衝撃を受けました。『そういう道もあるんだ!』ってね」  以来、今泉は動物調査を続けながら、フリーランス記者として自然科学系の雑誌に寄稿するようになる。そこから図鑑の執筆や監修の仕事が少しずつ増えていった。これまでに制作に携わった本は、500冊を優に超える。  今泉の名を子どもたちに知らしめた『ざんねんないきもの事典』(初巻)の企画発案者で、現在はダイヤモンド社で今泉と共に『わけあって絶滅しました。』シリーズを手掛ける編集者の金井弓子(30)は、「あの本の監修者は今泉先生以外にあり得なかった」と語る。 ■3代続いた動物学者の道、次世代のために道標を残す 「企画の骨子を作る上で色々な参考書を読んだのですが、大学の研究者は話は面白いけれど、どれも専門分野が限られていた。あらゆる動物の生態を語れるのは、今泉先生だけだったんです」  金井は、今泉と本を作る中で、その視点や考え方にも大きな影響を受けたと言う。 「先生は動物学者だけど、動物のことばかり考えているわけじゃない。『動物を学ぶことは、最終的には人間を見る目を養うことでもあるんだよ』と教えてくれました」  今年8月下旬。  台風一過の真夏日に今泉に案内され、富士山麓の青木ケ原樹海を訪れた。  今泉はいま、過去に行った富士山の動物調査を個人で継続し、「富士山動物分布マップ」の作成にも力を注いでいる。林道に自動撮影カメラを仕掛けているほか、富士山麓の周遊道路を自動車でゆっくり走りドライブレコーダーで森を撮影する。こうしてカメラに映った動物の種類と位置をつぶさに記録して、富士山周辺にどんな動物が生息しているのか、一目でわかる地図を作っているのだ。  林道の脇に車を止めると、今泉は大室山の方角に向かって樹海の中を歩き始めた。 「いま歩いている地点が、ちょうど50年前に父とヒミズの分布調査をしたところです」  青木ケ原は、今泉にとって思い入れの深い地だ。父との採集旅行で何度も訪れた場所。そして、わが子に自然との付き合い方を教えた場所でもある。  息子の智人(40)は「父(今泉)とは、小学5年生までに富士山頂に3回登った」と思い出を語る。  「火のおこし方や水の大切さ、闇に対する恐怖心の抑制……。富士山麓でのキャンプを通じて、父からさまざまなことを教えてもらいました」   現在、智人は国立の研究機関に勤め、水産資源調査の高度化の研究に携わっている。研究者の道を目指す上で、今泉に相談したことも多い。 「記憶に残っている父の言葉は二つあります。一つ目は『人生は楽しく、自分がやっていて好きなことを見つけなさい』。二つ目は『武士は食わねど高楊枝』です。フリーランスの研究者としての父の生き方が、よく表れた言葉だと思います」  父から、兄と自分へ。そして自分から、わが子へ。期せずして3代続いた動物学者の道。  今泉がいま願うのは、次世代への「継承」だ。 「僕はね、自分の人生だけで答えを出そうなんて考えてない。真実はそんなに簡単に姿を見せてくれませんよ。『多分こうだろうなぁ』と思いを巡らせながら死ぬのが一番いいよね。だからその前に、次の世代の人たちの道標になるような記録をたくさん残しておきたいんです」  今泉は、さらに樹海の奥へと進む。少し前を歩きながら話す今泉の背中に、赤い西日が差した。  もうすぐ、夜がやってくる。 「自然は誰に対しても公平です。動物にも、人間にもね。だから僕は、もっと子どもたちに『山に遊びにおいで』って声をかけてあげたい。お金なんていらないから。何もなくなっても、安心して帰ってこられる場所を作れたらいいですよ」  今泉が歩みを止めた。目の前には緩やかな丘陵が広がっている。ここが目的地のようだ。 「ああ……ここは50年前から変わらないなぁ」  今泉は父とこの場所にテントを張り、動物の痕跡を追いかけ、幾度もの夜を過ごしてきた。 「暗くて不安になったときは、痕跡から夜の動物の姿を想像するんです。『きっと動物たちもこちらを見てるんだろうな』と思うと、夜も怖くない」  風が通り過ぎていった。遠くで鳥が高く鳴いた。  次第に先が見えなくなる世界で、どこまで想像力の射程を伸ばせるのか。  目には見えないけれど、確かにいる。現代を生きる動物たちの息遣いに、今泉は耳を澄ませる。 (文中敬称略) ■いまいずみ・ただあき 1944年 東京・阿佐谷に生まれる。父親の方針で幼稚園には行かず、幼い頃は善福寺川で魚をとって遊ぶ。   54年 父、兄と、高尾山でネズミやモグラを採集。標本作りに没頭する。自宅にチチブコウモリが送られてきて、飼育係に任命される。そのほかモグラ、モモンガ、ムササビ、リス、ハトなども飼っていた。   57年 杉並区立杉森中学校に進学。野球部と柔道部に入り練習に励む。   60年 成城高校へ進学。高校2年生のとき、スウェーデン人学者らと富士山麓のコウモリの生息調査を行う。   64年 東京水産大学(現・東京海洋大学)の水産学部増殖科に進学。生物の統計調査などの手法を学ぶ。   67年 自宅に2匹のイリオモテヤマネコがやってきて1カ月間飼育する。   68年 大学卒業後、日本列島総合調査やIBP(国際生物学事業計画)調査に父の助手として参加。父とはヒミズとヒメヒミズの棲み分け調査、兄とはエチゴモグラとコモグラの縄張り分布を調査する。   70年 上野動物園の2代目園長の林寿郎から富士山に生息する哺乳類の調査依頼を受ける。以後、山小屋に一人で住みながら、4年間調査を行う。   72年 絶滅危惧種(当時)のニホンカワウソの生息調査を行い、生息を確認。   73年 イリオモテヤマネコの生態調査を行う。史上初めて野生のイリオモテヤマネコの撮影に成功する。アメリカのイエローストーン公園、ヨセミテ公園などを視察し、野生動物保護のシステムを学ぶ。   84年 インドネシアのコモド島にコモドオオトカゲの調査に行く。   95年 未確認生物のイエティを探して、ヒマラヤ山脈に向かう。道中、ベトナム政府に怪しまれ一時監禁される。結局イエティは確認できなかったが、幻の動物サオラを目撃。 2007年 父が亡くなる。享年93。イリオモテヤマネコの研究を託される。   19年 20年前から奥多摩の動物調査を行う。並行して「富士山動物分布マップ」の調査・作成も進めている。 ■澤田憲 1983年、静岡県生まれ。フリーランスの編集・ライター。「AERA」「週刊朝日」で記事を執筆するほか、児童書を中心に書籍の編集・執筆も行う。 ※AERA 2019年10月7日号 ※本記事のURLは「AERA 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AERA 2020/02/13 13:30
【史上最ラク&最速弁当】料理経験ゼロの男子中高生でも作れる!どんぶり弁レシピ
【史上最ラク&最速弁当】料理経験ゼロの男子中高生でも作れる!どんぶり弁レシピ
【写真1】 実働2分、レンジ加熱3分、ほぼ5分でできる甘辛豚丼。 【写真2】 ここに気をつければ、絶対においしくできる! 井上かなえ(いのうえ・かなえ)料理ブロガー。料理家  子どもが中学や高校に入学すると自動的に始まる弁当生活。毎日、愛情弁当を持たせたいのは山々ですが、共働きが多い現代、お父さんもお母さんも忙しく、仕事がたてこんで時間のない日もあれば、買い物に行けなくて冷蔵庫がカラッポの日も、疲労困憊して気力がゼロの朝もある!  そんなピンチの時でも、必ず作れる、史上最ラク&最速の弁当本「てんきち母ちゃんのらくべん!」がこのたび発売に。「レンチン1回」「冷蔵庫にあるものだけ」「実働3分」でできるのに、見た目もよくて、もちろんおいしい、神レシピが満載です。レンジ調理だけで火も使わないので、子どもが自分ひとりで作ることもできそうです!  3人の子どもに10年以上弁当を作り続けてきた大人気料理ブロガーの井上かなえさんならではの、すごいテクとレシピを詰め込んだ本書から、一部を抜粋して紹介します。 ●男子にもおすすめ!がっつり食べたいどんぶり弁 「らくべん!」レシピはどれも簡単ですが、中でも、一番シンプルでがっつりしているので男子中高生が自分で作るのにもおすすめなのが「どんぶり弁」です。  ここでは甘辛豚丼のレシピを紹介しましょう(レンジは600Wのもの、容器は15センチ四方の耐熱コンテナを使用しています)。 お酢がポイント! 甘辛豚丼 【材料】(1人分) 豚バラ薄切り肉……80g 玉ねぎ……1/4個(50g) A 砂糖、オイスターソース、醤油、酢……各小さじ1   薄力粉……小さじ1/2 ごはん、白ごま……各適量 大葉……1枚 【作り方】 1 豚肉は3センチ、玉ねぎは薄切りにする。 2 耐熱コンテナに、玉ねぎ、広げた豚肉、Aを入れて軽くからめ、蓋をのせてレンジで3分加熱し、よく混ぜる。 3 弁当箱にごはんを盛り、大葉をしいて2をのせ、白ごまをふる。 *気をつけるべきポイントは【写真2】を参考に! <著者からのメッセージ> 買い物に行けなかった日も 寝坊した朝も、仕事が立て込んでる時も。 どんな時でも作れるのが「らくべん!」です。 「こう毎朝だと、たまに弁当を作るのが嫌になる日がないですか? モチベーション低い日とかないですか?」と、読者さまに聞かれることがあります。  なさそうに見えますか?(笑) 全然あります。  色とりどりのいろんな味のおかずが何品もあるような、朝からフライ衣つけて揚げ物なんかした手の込んだ素晴らしいお弁当(ご安心ください、わたしにそんな日は4年に一度くらいしか訪れません)を作る気力がない日でも、冷蔵庫に今あるものでなんとか形になれば、おかずは1品だとしてもとりあえずおなかいっぱいになれば、コンビニでたまご蒸しパン1個、もしくはツナマヨおにぎり1個買って行くくらいなら(どちらも女子高生の末娘の好物です)、それよりはマシかな程度のハードルの低い志の低い(笑)お弁当ならば、作れます。作ろうという気になります。むしろ作りたい。作らせて。  この本は、前夜に何も準備もせず、何のプランも立てずに寝ても、二日酔いで頭ガンガンしていても、やる気が全く起きなくても、作れるお弁当の本です。  ちゃんとしたお弁当を作らねばならない!お弁当とはこうであるべき!という重圧から解放され、ガッチガチに凝り固まった固定概念を取り払い、すーっと肩の力が抜ける、そんなお弁当の本。  お弁当ってこんなにラクに作っていいの……と安心してください。  毎日のお弁当をもっと気楽にもっと楽しくもっとラクして。 かなえ(いのうえ・かなえ) 料理ブロガー。料理家 兵庫県在住。2005年にスタートした3人の子どもたちのリアルな日常と日々のごはんを綴ったブログ『母ちゃんちの晩御飯とどたばた日記』はライブドアブログで2018年に殿堂入りし、レジェンドブログに。 累計48万部のベストセラーとなった「てんきち母ちゃんの毎日ごはん」シリーズ(宝島社)や、累計15万部の「てんきち母ちゃんの朝10分、あるものだけでほめられ弁当」シリーズ(文藝春秋)など著書多数。東京、神戸での料理教室開催、雑誌、TV、食品メーカーのレシピ考案などでも活躍中。
レシピ
ダイヤモンド・オンライン 2020/02/12 17:15
「50代未経験」で転職成功も 定年70歳時代の“息切れしない”働き方を考える
渡辺豪 渡辺豪
「50代未経験」で転職成功も 定年70歳時代の“息切れしない”働き方を考える
写真はイメージ(写真/gettyimages)  70代まで働くのが当たり前の時代がやってきた。道のりの長さには呆然とするが、働き方の自由度が高まっているのも事実。息切れしないよう、ときにペースを緩めることだってできるのだ。AERA2020年2月17日号では「働き方」を特集。2人の事例をもとに定年70歳時代の働き方を考える。 *  *  *  授業中、黒板にチョークで文字を書いていると、肩に激痛が走った。それでも、痛みに耐えながら生徒に気づかれないよう、だましだまし授業を続けた。 「痛みを理由に休むわけにはいかない」  英語の教師だった関西地方の50代の女性は大学卒業後、複数の公立、私立の中学・高校でがむしゃらに働いてきた。だが40歳を過ぎ、過労で体調に不安を覚えるようになった。 「優秀な生徒を育てたい」と意気込んで転身した私立の中高一貫校では、1学年4クラスに配置された英語教師は女性のみ。4クラスすべての宿題やノートのチェック、小テストの採点も1人でこなさなければならなかった。このため、毎日午前8時から午後8時まで勤務しても対応しきれず、土曜もフル出勤して何とかこなした。  ちょうどこの頃、手足などの関節が不意にしめつけられるような痛みに見舞われる。仕事量が増えると激痛の頻度が増し、寝返りを打つこともできず眠れない夜が続いた。たまらず整形外科を受診したが、なかなか原因が特定できなかった。5カ所目の病院でようやく「関節リウマチ」と診断された。  人を育て、教える仕事に熱意を持って打ち込んできた。だが、自分の働き方をあらためて振り返り、「ストレスが原因」と判断し、退職を決意した。  実家で投薬治療を続け、症状が落ち着くようになった頃、かつての同僚から検査業務の会社を紹介され、7年前に転職した。  50歳を過ぎて未経験の異業種に転職するのは不安もあった。だが、飛び込んでみると、意外に肌に合った。  数人の社員が働く小さな会社。主な業務は英語でのパソコン入力とメールのやりとり。午前9時~午後5時の定時勤務で残業も出張もないため手当の上乗せはないが、自分のペースを維持し、平穏な心持ちで働ける職場を心地よいと感じている。 「今の環境だったらまだ頑張って働けます。海外との取引が多く、英語を生かすこともできるため、自尊心を失わず働くことができるのもいい。納得して働ける環境にたどり着けたのは良かったと思います」(女性) 「人生100年時代」を迎え、政府は本人が希望すれば、70歳まで働ける機会をつくる努力義務を企業に課す方針だ。法律の改正案を今期の通常国会に提出、来年春からのスタートを目指す。 「定年」が延び、給料が上がり続けるわけでもない。ずっとハイペースで走り続けるのは、もう難しい。長く現役でいるために、自分の軸足をどこに置き、どうペース配分したらよいのか。 「他の会社で働いていたら自分の人生はどうなっていただろう」  首都圏在住の会社員男性(47)は、45歳を過ぎた頃から時折、自問自答するようになった。  与えられた課題を着実にこなしてきた実感はあったが、技術職の職場は1人で対応する仕事が多く、他人と成果を比較することもなかった。しかし、新卒で入社した「同期」がどんどん出世し、課長に昇進する人も出始めると、さすがに意識せずにはいられなくなった。妻と小・中学生の娘の4人暮らし。 「生活を考えると、この年になって下手には動けないですね」  男性は機械メーカーに就職したが、数年後に倒産。新卒時、第1志望だった輸送サービス会社に再チャレンジし、中途採用された。30歳のときだ。  中途採用者が「ノンキャリア」として扱われることは承知していた。しかし、10歳も若い新卒採用の同期が昇進する中、大学院卒の自分が中途採用という理由だけで、今もヒラ社員であることに割り切れない思いがある。 「人事制度上、仕方がないとは思っています。しかし正直、楽しくはないですね」  このまま、会社だけの人生ではつまらないという思いが募った。そんなとき、地元で女子中学生が誘拐される事件が起きた。被害者と年齢の近い2人の娘が頭をよぎり、男性は地域防犯に関心をもつようになる。 「自分に何かできないか」  自治体の防犯パトロールのボランティアに応募した。2年前のことだ。 「働き方改革」の波に乗り、会社のフレックス制度も充実し、気兼ねなく年休が取れるようになった。昨年からはPTA会長も務め、地域で頼られる存在として新たな居場所を確立した。  男性は、課された仕事はこれまで通りこなしながら、「今はワークよりライフのほうが上回っているかな」と明かす。 「出世コースに乗って会社だけの人生を送っていたら、できなかった選択です」  活動の場を地域に広げることで、結果的に長く社会に貢献できる道を歩み始めている。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2020年2月17日号より抜粋
働き方
AERA 2020/02/11 11:30
都会と田舎のいいとこ取り「2地域居住」 “先駆者”柳生博もオススメ
都会と田舎のいいとこ取り「2地域居住」 “先駆者”柳生博もオススメ
柳生博さん。「やすらぎの刻~道」(テレビ朝日系)で20年ぶりに連続ドラマにレギュラー出演している=八ケ岳倶楽部提供 柳生博さん(左)と次男の宗助さん (c)朝日新聞社 昨年12月、岡本さんのブドウ農園では、冬支度のためブドウの幹にわらを巻いた。知人たちが手伝いに来てくれた=長野県小諸市、本人提供 空き家を改装した岡本さんの自宅の2階部分。夏には、テラスから千曲川の花火が見える=長野県小諸市、本人提供 2地域居住のメリット・デメリット (週刊朝日2020年2月14日号より)  定年後、都会の喧騒(けんそう)から抜け出して田舎でゆっくり過ごしたいと思う人は少なくないだろう。だが、交通の便や病院のことを考えると、完全移住はハードルが高い。そこで注目されるのが、都会と田舎の「2地域居住」だ。実践している人たちに話を聞いた。 *  *  * ■「孫を連れて都会を飛び出して」 「2地域居住」の先駆者と言えるのが、柳生博さん(83)だ。約40年前に家族を伴い、八ケ岳南麓(なんろく)の山梨県北杜(ほくと)市(旧・大泉村)に住みかを構えた。同市は人口約4万7千人で、東京からJRの特急「あずさ」(新宿‐小淵沢)で2時間ほど。柳生さんは俳優や司会、ナレーションなど多彩に活躍しながら、都会と田舎を行き来する生活を続けている。  拠点を移すきっかけは、長男へのいじめだった。テレビを付ければ、1日に2、3回は登場するほど多忙な時期のことだった。 「家に帰れないほど売れっ子になってね。久しぶりに家に帰って、玄関にそのまま倒れ込んでいたら、小学生の真吾が額から血を流して帰ってきた。訳を聞いても言わない。一緒に風呂に入って、洗ってやって、やっと口を開いた。上級生から『おまえのおやじ、昨日人を殺していただろ』って言われ、反抗したら殴られたと。僕は役者だからね」  それまでにも流血は何度もあったと、妻(女優の二階堂有希子さん)から知らされる。家族が家族でなくなる「溶けていく」ような危機感を抱いたという。 「悩んでいるときは、野良仕事をしろ」という祖父の言いつけを思い出し、1979年に一家で東京から拠点を移した。  八ケ岳の麓(ふもと)を選んだのは、13歳のころに一人旅をして地元の人に助けてもらったからだ。国鉄(現・JR)小海線(愛称・八ケ岳高原線)の駅で、野宿をしたときだった。 「声をかけられてね。開拓民だったんですよ。『おまえ、風呂に入ってないだろ』って、掘っ立て小屋の家で五右衛門風呂に入れてくれた。親に捨てられたのかと思われてね」  拠点を移した当時を、こう振り返る。 「まだ八ケ岳に別荘が立ち並ぶ前、中央自動車道さえ部分的にしか通っていなかったころでした」  柳生さんは東京で仕事をしながら田舎で「野良仕事」をし、約35年かけてこだわりの雑木林をつくりあげた。荒れ果てていたスギやカラマツなどの人工林の枝打ちをして光が差し込むようにすると、地面に草花が芽吹き、虫や鳥が集まるようになった。 「暗闇の中、ヘッドランプを付けて野良仕事をしていたら、突然、警察官に叫ばれたことが何回もあった。危ない奴がいると思って通報されたんでしょう(笑)」  家族も総出で土地を切り開いた。東京でいじめにあっていた真吾さんは、小学生のうちからチェーンソーを扱い、中学生でパワーショベルを乗りこなすようになったという。  地域に溶け込む努力もした。 「ここへ来たとき、大工さんやペンキ屋さんとかいろんな人にお世話になったんですが、お土産に何を持っていっても喜ばれなかった。あるとき、おばあちゃんから、東京で新鮮な魚があるかと聞かれてね。東京で新鮮な刺し身をいっぱい手に入れて配ったんです。それで、ここの人気者になれたの(笑)。山梨県は海なし県で、魚に飢えている人が多かった」  89年には、雑木林の一角にレストラン「八ケ岳倶楽部」を開設。避暑地として訪れる観光客に四季折々に移り変わる雑木林の素晴らしさを伝えてきた。妻の発案から、売り出し中の作家の芸術作品を並べるギャラリーも併設し、作家らを応援する場にもしている。  2015年に真吾さんが咽頭がんで早世してからは、次男の宗助さんが運営を引き継いでいる。宗助さんは、親の影響のないところで自分を試したいと海外で仕事をしていた。だが、真吾さんから相談を受け、八ケ岳に戻ってきた。  今いる社員11人は県外から来た人ばかり。ここで何組ものカップルが生まれ、60人以上もの子どもが生まれた。柳生さんは、みんなの「じいじ」になっている。 「市が保育園などの支援に力を入れていて、子育てを機に越してくる人も増えてきました。ついでに祖父母も一緒についてくるパターンもあります。いま、週に2、3日だけお父さんが会議とかで東京に行き、後は田舎でも仕事がまわるような働き方をしている人がたくさんいますよ」  田舎で広めの家と庭を構え、休日に畑や庭の手入れをしに来るといった生活をする人が増えているという。 「僕の影響で移住してくる人がいるんですが、移住してこいと言ったことはありません。都会は悪いことばかりだといって、完全移住の『田舎暮らし』を理想とする風潮があったかと思います。でも、今は田舎や都会に限らず、電車や飛行機を使えばどこでも移動できます。いろんな場所がありますから、いろいろ行って、自分がほれた場所に拠点を置けばいいのではないでしょうか」  柳生さんは、「日本野鳥の会」の会長(現・名誉会長)を長年務めるほど鳥好きでもある。 「『鳥瞰(ちょうかん)』する能力を持つのは鳥だけ。万葉集など昔から鳥についてうたうでしょ。みんな鳥に近づきたいわけですよ。都会にせよ、田舎にせよ、一地点だけに絞ってしまうと、そこでうずくまって、身動きが取れなくなってしまう。それより、人間も鳥のようにいろいろと渡ったほうがいいと思うんです」  老後こそ、孫を連れて都会を飛び出してほしいという。 「孫に好かれていると自負する人は少ないのですが、少なくとも死ぬまでに孫に好かれたいと思う人は多いんですね。孫と一緒に田舎へ行って、朝早く起きて、クワガタを捕りに行ってください。そこで、おじいちゃんは、朝の樹液にクワガタが寄ってくるのを知っている。孫からすると、何でも知っているスーパーヒーローに見えるんですよ。どんなに地位があって偉いといっても、そんなことで子どもは誰もあなたを好きになってくれませんからね」 ■早期退職した後ブドウ農園開設  朝日新聞社の社員だった岡本なるみさん(50)は2016年に早期退職し、東京と長野県小諸市を往復する2地域居住をしている。 「週刊朝日の副編集長として連載で日本ワインを取り上げていたとき、一からワイナリーを立ち上げたエッセイストで画家の玉村豊男さんが、民間初のワインの栽培・醸造学校を長野県東御市に作ると知ったのがきっかけでした。もともと植物が好きだったので、早期退職して小諸市でワインブドウ農園を始めました」  玉村さんが開講した「千曲川ワインアカデミー」で1年間学び、18年にブドウ農園を開設。今年、3年がかりで育てたブドウの初収穫を迎え、ワインの醸造に取りかかる。  理想の土地を探すのに2年ほどかかった。 「家だけでなく、畑も探さなければなりません。借りるだけでも手続きに時間がかかるんです。インターネットで空き家を探して見に行ったり、市の無料移住体験施設に泊まってみたりもしました」  まず3千平方メートルの畑を借り、その後に中古の戸建てを購入した。改装や農機具の費用が後々かさみ、退職金の多くを充てることになった。 「当初は、小学生の次女と私で先に完全移住しようと思っていたのですが、土地探しに時間がかかっているうちに娘が自我に目覚めてしまい、嫌だと言われてしまったんですよ。たまに夫が手伝いに来てくれる程度で、ほぼ私一人で行き来しています」  小諸市は人口が約4万2千人。東京から、新幹線としなの鉄道を利用して2時間ほどだ。移住者が少なくないため、移住のハードルがそれほど高くない。 「地域の自治会や消防団に入る人や、子どもがいる人は集落の中に溶け込みやすいのですが、私はたまにしか来ない身。それでも、近所に『いつもいないんだも~ん』と言いながら、野菜やおやきを作って持ってきてくれる方がいるんです。そういう世話好きな人がいてくれて救われています」  時には家や畑の周辺の草刈りがなっていないと叱られることも。  岡本さんの場合、ブドウの栽培時期にあたる春~夏は月の半分ほど、冬は月に6、7日ほど小諸市で過ごす。生活の中心は東京にあり、定年目前の夫、2人の子どもとマンションで暮らしている。すぐ上の階には両親も住んでいる。 「老親のことを考えていると夜も眠れなくなって何もできない。介護や子どものことを理由にしていたら、何も始められません。家族が第一優先ですから、今後状況が変われば、田舎を手放すかもわかりません。それでも、とにかく今。自分の年齢と体力を考えて、今やらないとできないと踏み出しました。それに夫は定年が近いですが、ブドウ農園に定年はありません」  小諸市にある家の2階は、ゲストルームにして民宿を開く予定でいる。 「学生時代に欧州でバックパッカーをしていたことがあったんです。さまよっていたら、『うちに泊まらないか』と、助けられました。それでいつか、日本に来た外国人や都会に疲れて農業をやってみたいというような人を迎えたいと思っていたんです。ここでつくったワインも提供したりしてね」  岡本さんが2地域居住をするなかで見えてきたメリット・デメリットを下記にまとめた。参考にしていただきたい。いつか自分も……と思うばかりである。(本誌・岩下明日香) ■2地域居住のメリット・デメリット メリット ・都会の生活を捨てずに、都会を離れられる ・新しい人とのつながりが増える ・風景がきれい ・以前は旅行先に悩んだが、今はまっすぐに行く場所がある ・自分の理想の空間を築ける デメリット ・草刈りなど田舎の家の管理 ・ゴミの処理 ・改装費や水道を引く工事など、安い空き家には落とし穴がある ・田舎の行事への参加が不十分でうしろめたい (岡本さんへの取材から) ※週刊朝日  2020年2月14日号
シニア
週刊朝日 2020/02/11 11:30
実は“マドンナ役”の話も? 八代亜紀の「寅さん」秘話
実は“マドンナ役”の話も? 八代亜紀の「寅さん」秘話
八代亜紀(やしろ・あき)/熊本県生まれ。1971年にデビュー。80年に「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞を受賞。2021年に芸能生活50周年を迎える。画家としても積極的に活動を行い、「八代亜紀絵画展」が東武百貨店船橋店で2月27日(木)~3月3日(火)に開催予定。(撮影/写真部・片山菜緒子) 小泉信一(こいずみ・しんいち)/朝日新聞編集委員。長年「男はつらいよ」の取材を続けており、著書に『朝日新聞版 寅さんの伝言』『ニッポン人脈記 おーい、寅さん』などがある。2019年に出版された「男はつらいよ50周年 わたしの寅さん」(朝日新聞出版刊)を監修。(撮影/写真部・片山菜緒子) 「男はつらいよ」第49作の主題歌を歌い、自他ともに認める大の寅さんファンでもある八代亜紀さん。朝日新聞の小泉信一編集委員が、主題歌レコーディングの秘話、寅さんの魅力、八代家と「くるまや」の不思議なつながりなどを聞いた。 *  *  * 小泉信一:「男はつらいよ」は昨年、公開50年。八代さんのデビューが1971年で、もうすぐ50年。同じような時代を生きてきたのですね。この50年は、どうでしたか。 八代亜紀:デビュー当時はキャンペーン、キャンペーンで全国を回っていました。 小泉:旅から旅ですね。 八代:寅さんじゃないけど、トランクにレコード、譜面、衣装を詰めて、キャバレーに行って歌ったり、レコード店で歌ったり。それでレコード買ってくれた人と握手して、重いトランク持つわ、何人もの人と握手するわで、手の皮が何回も剥けてました。 小泉:へぇー。夜行列車で旅していたら寅さんみたいな人に出会うこともあったんじゃないですか。 八代:そうですね。でも女の人。ダンサーだと言ってました。キャバレーを回っている。それで、汽車の中で着替えて、同じ駅で降りてタクシーでお店に向かった。なんだか、寂しそうでした。 小泉:寅さんの映画にもリリーという旅回りの女性の歌手が出てきましたね。 八代:私の旅にもリリーがいたのね。 小泉:あのリリーは実際にいた人物なんですよ。釧路のキャバレーだったかな、そんな名前の人が本日出演する、と貼り紙があった。それを山田洋次監督が、こういう仕事をする人がいるのかと思い、浅丘ルリ子さんに演じてもらったんです。それで浅丘さんもこの役が気に入ったそうです。 八代:旅回りの歌手だと私と一緒じゃない。 小泉:八代さんにもキャバレー回りの時代があったんですね。 八代:じゃあ、私はリリーみたいなもんですね。地方回りは2年間やりました。レコードを売るために。それまでは銀座のクラブで超モテモテだったのにね。 小泉:銀座から「ドサ回り」。 八代:そうですね。全国いろんなところを回りましたよ。 小泉:リリーがキャバレー回りの歌手として映画の中で「私の生き方はあぶくみたい」と言っているんです。浮かんでは消えるあぶく。何か少し寂しい感じもしますね。それが伝わってくる台詞です。だから、八代さんのそういう経験も踏まえて、山田監督は49作のときに主題歌を歌ってもらおうとなったんじゃないですか。 八代:主題歌をお願いされたときは、本当に嬉しかったですよ。私、寅さんを尊敬していましたから、ああいう情の深い人がいたらいいなあとずっと思っていて、毎年お正月は「男はつらいよ」を観に映画館へ行ってました。 小泉:そうなんですか。毎年。 八代:そう、そういえば私の座長公演には渥美(清)さんは毎年いらしてくださいました。私たちにはおっしゃらずに、ご自分でチケットを買って。 小泉:渥美さんは一般のお客さんと一緒にご覧になるんです。席も後ろのほうに座るんです。そうすると全体の反応がわかるから。どういうところで人は笑い、どこで泣くか、その場の空気を受け止め、勉強していたんですよ。 八代:「今年も渥美さんいらしてますよ」と聞くのですが、こちらからお声をおかけすることはしませんでした。 小泉:毎年いらしたのは八代さんの座長公演が大好きだったんでしょうね。 八代:心の中で「よっ! 亜紀ちゃん!」とかやってくれていたのかな。 小泉:49作で八代さんが歌った主題歌はブルースですね。 八代:そう、八代ブルース。八代節です。あれは男唄。男心を歌うので、男の人になって歌っていました。 小泉:主題歌は歌われましたが、マドンナのお話はなかったのですか。 八代:私がコンサートに、テレビにとスケジュールが合わなくて、実現しなかったんです。 小泉:どこかの回で八代さんをと、山田監督は考えていたんじゃないですかね。演じるならどんなマドンナがいいですか。 八代:うーん、わからないですね。それは監督がお考えになるから。はるみちゃん(都はるみ)は歌手でしたね。 小泉:そうです。「京はるみ」という売れっ子の歌手。 八代:私も歌手かな。 小泉:寅さんファンの八代さんは、どんなところに魅力を感じますか。 八代:寅さんみたいな人、近くにいそうですよね。家族にいたらいつもハラハラしているんです。言ってはいけないことを言って。でもそれを注意するとヘソを曲げて出ていってしまう。 小泉:でも、そういう人がいる家は結構ありましたよね。 八代:昔は大家族だったから、いろんな人がいましたよね。家族だからみんな変な気を使わない。うちにも昔、酔っ払ってクダを巻くおじさんがいました。「おじさん、はいはい」って、うちの母は仕方なく相手していましたけど。父は飲めないのですが、友だちとか、親戚とかいっぱい遊びに来て、初めは「おやっさん、いただきます」と静かなんですが、酔っ払ってくると、ウエーとなってきて、酒癖が悪くなる。そうすると、父が「いい加減にしろ! クダ巻くんなら帰れ!」と。それで喧嘩になるんです。それに知らないおじさんもいつのまにか交じってうちで飲んでいましたよ。 小泉:映画では時々、タコ社長みたいなのが来て、余計なことを言う。タコ社長は親戚でも何でもない、たまたま隣に住んでいる人なのに。 八代:「男はつらいよ」のくるまやでのシーンは私の日常と同じでした。 小泉:山田監督の考えるテーマは「家族」なんです。 八代:知らない人も家族になれるっていいですね。 小泉:お父さんは寅さんみたいな人だったんですよね。 八代:見かけは違いますけど、本当に熱い人でした。姿は高倉健さんみたいで、健さんと寅さんを足した感じです。困っている人がいて、家に連れてきたこともありました。 小泉:「男はつらいよ」にも酒場で飲んでいてお金がない人を助けたら、実はその人は日本画の大家だったという話が。 八代:父が連れてきたのはホームレスの人だった。父が家に連れてきて、母はお風呂を沸かしたり、食事を作ったりしていました。1カ月くらいいたかな。 小泉:1カ月も。それでどうしたんですか。 八代:ある日、プイといなくなったんです。父は「あの人、自分が住みやすいところに帰ったよ」って。 小泉:少女・八代亜紀にとって、その出来事はいい思い出として残っているんですね。寅さんが今の時代にいたらどうでしょうね。 八代:パワハラ、セクハラ、モラハラで訴えられるでしょうね。それで「時代はつらいよ」って嘆くかもしれません。でも、今の時代こそこういう人がいればいいなあと思います。 小泉:50年目の50作「お帰り 寅さん」はこんな時代が求めた作品かもしれないですね。 ※週刊朝日  2020年2月14日号
週刊朝日 2020/02/07 11:30
【現代の肖像】建築家・岡啓輔「千年もつコンクリートビルを建てる」<AERA連載>
【現代の肖像】建築家・岡啓輔「千年もつコンクリートビルを建てる」<AERA連載>
極限まで強度を高めたコンクリートを踊るように打ち放つ自力建築は、見る者の魂を揺さぶる(撮影/加藤夏子) 通常1階分ずつ行うコンクリート打設を、岡は手の届く70センチごとに行う。水分を限界まで抑えた最強コンクリートは、さらに打ち継ぎ面を丁寧に洗うことで結晶レベルで一体化し、浸水を許さない(撮影/加藤夏子) 隠れ家のようにしている波止場で、潮風に吹かれながら缶ビールを片手にボーッとする。金などかけなくても、暮らしを豊かにする方法を岡はたくさん知っている(撮影/加藤夏子) 「蟻鱒鳶ル」は命名を頼まれた友人のマイアミこと吉野正哲(45)が1年がかりで苦し紛れにひねり出した「ありますビル」がベース。陸海空の生物を網羅したカッコいい響きだが、高尚な意味はない(撮影/加藤夏子) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  東京都港区三田の聖坂を歩くと、まるでガウディの建築のように凝ったつくりをしたコンクリートの建物が現れる。岡啓輔が建築中の「蟻鱒鳶(アリマストンビ)ル」だ。千年もつといわれる強いコンクリートを練り、自力で黙々とつくり続けて14年。蟻鱒鳶ルには、岡の人生が詰まっている。建築家としての矜持(きょうじ)、父の人生、この世界で生きること。皆が完成の日を待ちわびている。    トロ舟と呼ばれるタライに砂利と砂とセメントを入れ、少しずつ水を加えながら鍬(くわ)で丁寧に混ぜていく。地表を掘り下げた地下1階の作業スペースは、盛夏にもかかわらず井戸の底のように冷気を湛(たた)えて心地よい。それでも黙々と作業を続けるTシャツ姿の岡啓輔(おか・けいすけ)(53)の額は、見る間に玉の汗で埋め尽くされていく。    東京都港区三田。慶應義塾大学の学生やサラリーマンでごった返すJR山手線田町駅から徒歩10分弱、幹線道路から1本隔てた「聖坂」に建設中の地上4階地下1階のコンクリートビル。土地購入から設計施工まで岡一人の人力で進めている「蟻鱒鳶ル」は、周囲を睥睨(へいげい)するトーチカのような、それでいて近づいて触れれば吸い付くような温もりを感じる不思議な建物だ。着工から14年、完成間際で足踏みしながら、このビルは確実に生きている。採算を度外視して水分量を限界まで減らしたコンクリートは、優に200年はもつという比類なき堅牢さで今に生きるわれわれの魂を包み、未来の人類に伝えてくれるに違いない。    岡が練る生コンクリートは、混ぜる水が、石灰石を主原料とするセメントの重量の37パーセント。通常の生コンの水セメント比は60パーセント程度で、鉄筋コンクリート建築の法定耐用年数は概(おおむ)ね50年だ。その耐用年数も、実は徐々に短縮されてきた経緯がある。水が多い生コンの方が扱いやすく、コストも安くなるからだ。岡と親交の深い建築史家で早稲田大学教授の中谷礼仁(54)はこう評価する。 「岡のコンクリートは千年以上はもつんじゃないですか。水分量を減らすと等比級数的にコンクリートの耐用年数が増すんです。逆に粒度を増して水を多くした生コンは型枠の隅々に行き渡るから成形はしやすいけど、立体的な体力は減ります。僕らが子どものころは、建築現場のおじさんたちがバケツでジャジャッと混ぜていたじゃないですか。あれはすごく強いんですよ」   ■16歳で心臓の大手術、徹底的に考えるようになる  福岡県筑後市の南部、炭酸温泉で有名な船小屋温泉地区で2学年ずつ離れた姉と妹に挟まれて育った。生まれながらに心房中隔欠損という心臓病を抱えていたものの、川遊びもこなす活発な少年として周囲の友達を引っ張った。色弱で彩色に難はありながら、絵も抜群にうまかった。中学校に進んでも、勉強も含めて全てが順調に思えた。  しかし、中学2年進級時に事情が一変した。それまで父・昭寿の勤務先である九州電力の社宅に家族5人で暮らしていた岡家は、筑後市中心部に念願の持ち家を新築した。それに伴い転校した中学校に、岡は馴染めなかった。試験中にカンニングの濡れ衣を着せられたりするなど、教員たちと徹底的に折り合いが悪くなり、3年生になる頃には試験の答案を白紙で提出するようになった。内申書がものを言う県立高校への進学も難しくなっていた。一方で、この新築と転校が建築家への進路を決定づけた。岡は完成まで1年半ほどを要した木造2階建ての建築現場に入り浸った。鋸(のこぎり)を引き、鉋(かんな)をかけた柱を組み、壁を塗り、瓦を葺(ふ)く。ときおり大工が簡単な作業を手伝わせてくれては、筋がいいと褒められてその気になっていた。進路に悩んでいた中3のある日、岡は思い出して母・啓子(80)にこう宣言した。 「高校はたぶん無理やけん、中学を出たら僕は大工で頑張って生きていく」  母は息子に現実的な条件を出した。 「お前は体が弱かけん母ちゃん心配やけん。近くに今、家ば建てとる現場がある。そこの大工さんに頼んで柱ば1本担がせてもらえ。ちゃんと担げたら、お前が大工になるとに文句ば言わん」  柱は痩せっぽちの中学生の力ではビクともしなかった。情けなさと絶望感で目を真っ赤にして帰宅した岡は、母の言葉に救われた。 「柱ば担げん病弱なお前でも、部屋の配置や壁や屋根ばどげんすっとかを考える、よか職業のあっとたい。『建築家』って言うとよ」  はたして岡は、その言葉を頼りに内申書も学区も関係ない国立有明工業高等専門学校の一発入試をクリアし、建築家への小さな一歩を踏み出した。登山部に入って山登りの楽しさにも目覚めたが、そうなるとさすがに持病が心もとない。どのみち手術しなければ、20歳まで命の保証はないと言われていた。  2年に進級する前の春休み、岡は手術に踏み切った。肋骨(ろっこつ)を砕いて開いた胸から心臓を取り出し、人工心臓に繋(つな)いでいるうちに、取り出した心臓の原疾患を治す手術をして、それを元に戻して胸を閉じる。プロセスを聞くだけで気絶しそうになる大手術は成功し、1カ月半の入院を経て学校に戻った。主治医に「これでもう、この病気で死ぬことはない」と聞かされた岡は、生かされた自分の命を粗末に扱うまいと心に決めた。そして、何をするにも徹底的に物事を考えるようになった。  数学も理科も社会も得意ながら、岡は文字を読み込むのが苦手な軽い読字障害だった。その代わり、授業で教員が話す内容を手元も見ずにノートに書き取るだけで覚えることができた。専門科目ではない社会科を5年間教えてくれた初老の男性教諭の授業が好きだった。高学年になると授業は哲学が主になり、ニヒリズムやルサンチマンという独自の概念で新たな思想を打ち出したニーチェの言葉が、恩師を通じて岡の身体に染み込んでいった。そんな岡を最も感動させたのは、同級生に教わったオーストリアの哲学者クルト・ゲーデルの「数学は自己の無矛盾性を証明できない」という不完全性定理だった。簡単に言えば数学には答えがあるが、その正しさを数学自らが証明することはできないということだ。これを岡はこう捉えた。 「なーんだ。答えがないなら人類は永遠に悩み続けていいんだ」   ■22歳で武者修行の旅、名建築とテントで添い寝  岡がこう発想して安心するには理由があった。父の昭寿は九州電力労働組合の専従になり、旧社会党から出馬して筑後市議会議員を3期務めた政治家だった。貧しい農家に生まれ、工業高校卒で九電に入社し、電気料金の督促に行っては自分の給料袋をそのまま置いて帰ってくるような愚直な正義感に溢れた男は、政治に生き甲斐を見いだした。その父は幼い岡を膝に乗せ、支持者や友人らと議論を深めながら杯を重ねるのが常だった。 「世の中には真理があり、それに向かってみんな一生懸命努力するのが正しい生き方なんだ。議論は大体そんなところに行き着くので、僕も漠然とそうなんだろうなと思っていました。ところがゲーデルがそうでないと数学的に証明したことを知って、すごい希望を感じたんです。だって悩んでる若者に『そんなこと○○さんが×年前に答えを見つけてますよ』なんてことが続いたら、まあつまらない世の中になるじゃないですか」  建築と人生哲学の基礎を学んだ高専を卒業して住宅メーカーに就職、設計の腕を磨いたが、22歳で退職した。図面のうまい「建築設計士」にはなれても、人の心を震わせるような「建築家」にはなれないと悟ったからだ。岡は、ここから建築武者修行を始める。日本全国の名建築を地図上に落とし込んで、スケッチブックとテントを背負って、自転車で全国を回った。鳥取県三朝(みささ)町の三徳山三佛寺奥院投入堂、奈良県の法隆寺、沖縄県の今帰仁村中央公民館。日中は建築を描き、夜は脇にテントを張って建築と添い寝する。初めて旅に出た1988年は半年以上、それ以降も30歳ごろまで毎年2カ月ぐらいは自転車での建築巡礼を続け、細胞の隅々に名建築を溶かし込んでいった。  岡がおそらく生涯関わることになる高山建築学校とも、この旅で出合った。岐阜県飛騨市の北アルプスの高原に72年、セルフビルド(自力建築)の普及を提唱していた建築家の倉田康男が開いた夏季開講の私塾で、気鋭の建築家だけでなく哲学者や思想家、芸術家を講師に招くことでも知られていた。高度成長時代を迎え、都市空間に巨大で無機質な建築物を粗製乱造することで建築が失った、創造する悦びを取り戻す。倉田の掲げた思想と、高山での日々は、岡が住宅メーカーの社員時代に抱いた違和感を根こそぎ払拭した。  都会と隔絶された飛騨の山中で1カ月、倉田が教鞭を執っていた法政大学の学生や、岡のように「建築を諦めきれない」社会人ら20~30人が起居をともにし、各人が考え抜いた構造物の製作に汗を流した。それは四角い鉄骨の骨組みだけの立方体だったり、古代遺跡のようにグニャグニャした鉄筋コンクリートだったり、説明のつかないようなものも多かったが、豊かな自然に抱かれながら肉体作業に没頭すると、自分が建築そのものになったような心地がした。   ■1年間の建築禁止令、即興での踊りに夢中に  岡は88年以降、毎夏高山を訪れた。そして建築現場の本当の職人の仕事を理解するために、山を下りると土工や鳶職、鉄筋工や型枠大工の仕事に精を出し、セルフビルダーとしての力量を高めていった。2000年に倉田が亡くなると、高山建築学校は瓦解(がかい)しかけたが、岡の執念で毎夏の開校は続いている。  建築一色のように見えて、岡はダンサーとして活躍したこともある。あまりの建築オタクぶりに視野の狭くなることを危惧した倉田に90年夏、1年間の建築禁止を命令されたからだった。途方に暮れた岡に、高山で知り合った彫刻家が「1年間ヒマなら踊りをやってみない」と紹介してくれたのが、舞踏家の和栗由紀夫(1952~2017)だった。舞踏の創始者、土方巽(1928~86)の弟子の一人として知られた和栗に徹底的に鍛えられた岡は、踊りに夢中になった。場を読みながら即興で語り合うように無心に跳び、舞う。岡の踊りは、土方と並ぶ舞踏界のレジェンド、大野一雄(1906~2010)にも絶賛されるほどだった。体を思い切り動かす快感を20歳を過ぎて初めて知った岡は、「建築禁止令」が解けた後も機会があれば踊ることをやめなかった。  父の昭寿が57歳の若さで亡くなったのも、踊りに熱中していた92年のことだった。福岡県議選に出馬して敗れ、労組の専従に戻っていた父は、時代の流れに取り残されて抜け殻のようになっていた。80年代末にベルリンの壁が壊され、ソ連が崩壊するなど社会主義政権がドミノ倒しのように瓦解し、中国では天安門事件が起こり民衆蜂起を人民軍が鎮圧した。 「父は中国共産党を信頼していましたから、民衆に刃を向けたことがショックだったのでしょう。それから政治と距離を置き始め、少しずつ元気をなくしていった。脳卒中で倒れて一度は退院したんだけど、医者も最後『普通なら目を覚ましていいはずなのに、この人は起きようとしない』みたいな言い方をしていました。消え入りたかったんでしょうね」   ■再開発で建設ストップ、交渉重ね「曳家」で保存へ  東京に戻った岡は、職人仕事の傍ら、友人や知人に頼まれて小屋や店を作ったり、修繕したりする「岡土建」を旗揚げした。95年4月には、当時住んでいた高円寺のワンルームマンションの窓をギャラリーにして様々な展示をする「岡画郎」を開いてちょっとした名所に育て上げた。「画廊」じゃないのは、「住居をギャラリーにされたら困る」と文句を言いにきた大家に、「岡画郎」という名前の表札を掲げているだけだと煙に巻くための、単なる小理屈だった。  毎週土曜の夜、誰が参加してもいい定例会を開き、その場に居合わせたメンバーで今後の展示内容を決めた。来るものは拒まず、不特定多数による共同制作を目指すがゆえに、次第にグダグダになって03年に「閉郎」するが、ここには様々な人が出入りし、巣立っていった。34歳で司法試験に合格し、弁護士になった丸山冬子(44)もそんな一人だ。北海道旭川市から上京、専門学校を経て事務仕事をしていた20歳のころ、通りがかりに見つけた「岡画郎」に吸い込まれ、人生が大きく変わった。 「先鋭的でセンスに溢れた人たちが集まっていて、ああ東京ってこんな人たちがいるんだなあと感じさせてくれた。誰もその可能性を否定したり笑ったりしない。だから28歳で大学の法学部に入ることができた。特に岡さんに励まされ、背中を押されました」  そう振り返る丸山は都内でキャリアを重ねた後、この夏に故郷で法律事務所を開業した。  99年に結婚した妻も、「岡画郎」で出会った。そして、妻の放った一言が、蟻鱒鳶ルを建設するきっかけになった。 「私たちが住む家、つくってよ」  必死で土地を探し、00年9月、三田に40平方メートルの土地を1550万円で手に入れた。奥が崖になっている狭小地ながら、この地域にしては格安だった。細かな設計図を持たず、踊るように即興でつくっていくというコンセプト。現場練りの最強コンクリートを70センチの間隔で打ち継いでいく作戦で05年、着工した。しかし、残り3メートルの3、4階部分を残して09年からほぼ止まっている。敷地が一帯の再開発エリアに入っているからと、大手不動産会社に立ち退きを求められたからだ。岡は以降、積極的に広報活動に取り組んで「応援団」を増やし、国内外から注目を集めるようになった。交渉は紆余曲折をへて、少し後ろに曳家をして保存することで決着を見つつある。 「曳家は動かしている最中に本体が崩れてしまうのが一番危ないけど、大丈夫でしょう。あれはおそらく日本で一番丈夫な建物だから」  自らもセルフビルドの「タンポポ・ハウス」に住む建築史家で東京大学名誉教授の藤森照信(72)は評価し、さらにこう続けた。 「ドロドロなのに固まるとちゃんと石になる。コンクリートが他の建築材料と違うのは、一種の錬金術のようなもので、昔からこれに取り憑かれた発明家なんかがたくさんいたんです。岡はプロとして、現代の錬金術をやろうとしている。一番わかりやすいように、東京のど真ん中で。将来はあの辺の名所、象徴になると思います。岡が死んだ後ぐらいでしょうけど(笑)」  建築家で舞踏家の錬金術師。岡とは、何者なのか。前出の建築史家、中谷は岡をこう分析する。 「小市民じゃない、貧乏ブルジョアジーみたいな人。誰もが皆、自分自身と社会の中で矛盾を抱えて生きている。それを解決する方法として、SNSやゲームに閉じこもって社会的な活動を諦めたり、あるいはお金を儲けることでいろんな状況からエスケープしたり。でもそれは、社会がデザインした生き方の選択肢なんですよ。岡は全く違う。土地を安く買って、普通の場所にあり得ないような建て方で、人の目に刺さるようにつくっている。自己実現でもあり、社会貢献なんだけど、どこに向かうのかわからない面白さもある」  父の信奉した社会主義にも、矛盾だらけの資本主義にも到達すべき真理などない。だから今日も明日も明後日も、岡啓輔は「つくる悦び」を全力で表現する。 (文中敬称略)   ■おか・けいすけ 1965年 誕生。福岡県筑後市南部の船小屋温泉郷で両親と姉、妹の5人と育つ。   79年 岡家が筑後市の市街地に木造2階建て住宅を新築、転居する。   81年 国立有明工業高等専門学校に入学、建築学科で建築の基礎を学ぶ。   86年 有明高専を卒業、東証1部上場の住宅メーカーに就職、京都支店で設計士として働く。   87年 東京本社に異動、設計業務に邁進するが、年末で退職。自転車で日本中の建築物を見て回る武者修行を始め、建築家としての一歩を踏み出す。   88年 高山建築学校と出合う。建築現場を理解するために土工や鳶職、鉄筋工、型枠大工などの職人修業に乗り出す。   90年 高山建築学校の創設者である師匠に「1年間建築禁止」を言い渡され、舞踏に取り組む。   95年 阪神・淡路大震災の現場を歩き、手抜き建築で大勢の命が奪われたことに衝撃を受ける。帰京後自宅でギャラリー「岡画郎」開設。   96年 住宅メーカーで大工として働きながら、1級建築士試験合格。   99年 航空会社の客室乗務員だった女性と結婚。 2000年 妻と2人で住む家をつくるために、東京都港区三田に40平方メートルの土地を破格の安値で買う。   05年 「蟻鱒鳶ル」(アリマストンビル)着工。   18年 『バベる! 自力でビルを建てる男』(筑摩書房)出版。 ■大平誠 1965年、神奈川県生まれ。毎日新聞社会部などで事件、調査報道を担当。週刊文春記者を経て、現在アエラ編集部。本欄では「棋士・渡辺明」「武道家・中井祐樹」「芸人・山田ルイ53世」などを執筆。 ※AERA 2019年9月30日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/02/06 14:30
30代以降にスタートしたい人は「他人の傷を理解してあげて」 しいたけ.さんがアドバイス
しいたけ. しいたけ.
30代以降にスタートしたい人は「他人の傷を理解してあげて」 しいたけ.さんがアドバイス
しいたけ./占師、作家。早稲田大学大学院政治学研究科修了。哲学を研究しながら、占いを学問として勉強。「VOGUE GIRL」での連載「WEEKLY! しいたけ占い」でも人気 ※写真はイメージ(gettyimages)  AERAの連載「午後3時のしいたけ.相談室」では、話題の占師であり作家のしいたけ.さんが読者からの相談に回答。しいたけ.さんの独特な語り口でアドバイスをお届けします。 *  *  * Q:初めてご相談します。離婚してから12年になり、芸能界の結婚ラッシュに触発され、五輪・パラリンピックにあやかり、婚活したくなりました。趣味でモデル活動もしており、お相手に不快のない清潔感も意識しています。子どもができたら、家族でスポーツ観戦する夢があります。叶えることはできそうですか。(男性/ITエンジニア/51歳/おひつじ座) A:ご相談嬉しいです。こういう相談って、他の場所だと正論を返される可能性があると思うんです。「それをかなえたいならこれをやらなきゃ」って説教される可能性がある。  でも、どんな人も「今を変えたい」とか「予測できない展開を迎えたい」というタイミングがあります。せっかく素敵な夢があるなら、イメージに向かって、ズレてもいいからやってみてほしいのです。  僕自身は30代以降のスタートを、すごく応援したい。なぜなら30代以降の人たちって、どこかで「大人にならなきゃいけなかった」という傷を持っているから。大人って、その人の魅力を商品のように判定されがちです。毎年成長し続けなければいけないし、魅力的でいなければいけない。でも、努力家の人ほど、自分の良さを理解してもらう術を知らなかったりします。  30代以降で人生を変えたいと思ったとき、一番素敵なやり方は、他人の傷を理解してあげること。自分も傷を持っているからこそ、「私はこんなに傷ついてきた」「私を理解して」と言いたいのですが、それはみんな同じで、みんな傷ついている。そして相手の傷を受け止める余裕がない。  例えば「徹夜してでも仕事を終わらせないと気がすまない」人と、「来週に回せばいいじゃん」と考える人。どちらが正しいかではなく「それも正しいよね」と言える人が、人の傷を理解できる人だと思うのです。誰かとお付き合いすることは「自分の正しさから降りることができるか」も毎日のように試されます。相手の傷を理解しようとする優しさがあれば、いい友人関係になれるはず。婚姻関係の前に、まずは「いい友人関係」を目標にしてみてください。  婚活についてアドバイスするなら、月に1回でいいから自分をもてなす日を作ってください。好物を手作りして食べるとか、部屋にお花を置くとか。パートナーや親友ができるときって、その人が持っているハッピーの香りに、人は惹かれるから。おいしい定食屋さんがなんとなく外からでもわかるみたいに、幸せの匂いって、外に向かって出てくるものです。自分をねぎらうのは、寝っ転がってのピザポテトでもいい。努力によって幸せになることも大事なんだけど、今の自分が幸せだと実感するのも大事です。  おひつじ座は五輪やお祭りには「乗っかりたい」イベント屋さん。みんなを明るくしてくれる、必要とされる人たちです。お祭りを届けるのがおひつじ座の使命だし、そこに尊さがある。あやかりたい気持ち、大事にしてください。 ※AERA 2020年2月3日号
しいたけ.
AERA 2020/02/02 11:30
岡本太郎から秘書にスカウトされ…瀬戸内寂聴が見た夢
岡本太郎から秘書にスカウトされ…瀬戸内寂聴が見た夢
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「長寿の秘密のひとつ、すぐ眠れることでしょ」  セトウチさん  眠ることに関しては天才的なセトウチさんはバタンQですよね。僕は反対にカッと見開いてしまって時々不眠症になることがあります。セトウチさんの長寿の秘密のひとつは、すぐ無意識になってコロンと眠れることでしょう。どうしたら、あんなに催眠術にかけられたようにコトンと猫みたいに眠れるんですか?  さぞ、たっぷりと夢もご覧になると思うんですが、セトウチさんからあんまり夢の話は聞いたことがないですね。三島(由紀夫)さんは「夢は見たことがない」とおっしゃっていました。「俺には無意識はない」と言う方だから、夢を見るはずがないですよね。そんな三島さんが小説の中で夢を見る話があるんですが、その夢の話は如何(いか)にも作り話で、僕みたいに夢をよく見る者から言わしていただくと、かなりインチキ夢です。如何にも予定調和的な夢で、ああこの人は夢を見たことがない人だな、と思って「夢は見ますか?」と聞いたら案の定、「見たことがない」とおっしゃったのです。  去年、セトウチさんの夢を見ました。京都の五条通で、占師になって、手相を見ているセトウチさんです。大勢の女性が行列を作っていました。通りかかった僕は「あら、またインチキ占いなどして!」と思いました。いつか四国の造船会社の社長だかにおみくじを頼まれて、「皆んなが喜ぶようなことばっかり書いちゃうの」とおっしゃったことがありました。そのおみくじのデザインを頼まれたんです。「ヘエー、インチキおみくじのデザインかア」と、結局実現しなかったんですかね。そんなことがあったので夢の中の手相見のセトウチさんのいい加減な占いに、若い女性が行列を作って……、まあ鑑定代はいくらか知らんけれど、騙(だま)されたい女性がいっぱいいるんだと、夢の中で僕は思ったもんです。  僕は昔、神仏が出てきたり、UFOに乗せられて地球外惑星を見物したりするスペクタクルズな超常的な夢ばかりを見る時期が7年間ほどありましたが、最近は、現実的な日常とさほど変わらない、実に面白くもないつまんない夢ばかりを見せられています。  でも今でも、昼の現実に対して夜の現実も評価して二つの現実をひとつに合体させて、これが僕の現実だと考えるようになりました。そーいう意味で絵は、昼と夜の夢のコラボだと思っています。三島さんじゃないけれど、僕も夢がだんだん現実化してきているので、そのうち、三島さんみたいに「僕には無意識がない」と言いだすかも知れません。  でも死後の世界からこの現実を見れば、それは夢なんじゃないでしょうかね。怒ったり泣いたり、笑ったり悩んだりするこの現象そのものが夢だとすると、われわれは五欲に振りまわされたシンドイ人生を、これこそが現実だと思って生きていることになりますよね。そう考えるとこの現界は仮象の世界で、あちらが実相ということになりますね。そこでワーワー騒ぎながら結局三島流に言うと「仮面の告白」ということになるんでしょうか。無意識がない三島さんは仮面をはずした状態ってことかな。仮面をはずして生きられれば最高です。せめて夢では仮面をはずしましょう。いい夢を見ておやすみになって下さい。 ■瀬戸内寂聴「バタンQ…夢になつかしの岡本太郎さん」  仰せのごとく、私は、閑(ひま)さえあればバタンQと眠りに落ち、目が覚めれば、何やら食べつづけ、あわただしく喋(しゃべ)り疲れ、またバタンQと眠りに落ちています。夢さえ見ないと、言いたいところですが、夢はたっぷり流れてくれます。  昨夜は、まるでこの手紙にお書きなさいというような夢が訪れましたよ。岡本太郎さんと、そのカノ女、平野敏子さんが、揃って現れてくれました。ほんとになつかしかったです。  このところ万博の話がよく出て、太郎さんの太陽の塔にテレビでお目にかかることが多いせいでしょうか? 夢の中の太郎さんは、私がはじめてお目にかかった頃から二、三年めあたりの若々しい姿でしたよ。まだ晩年の認知症の気ぶりなど、全くなく、小さな目を倍くらいに見開いて、早口に、トツトツと喋っていました。そばには秘書(実は実質妻)の平野敏子さんが、背中いっぱいになる長い豊かな髪を、無造作にまとめて、全くの化粧気なしの素顔で、にこにこしていました。  彼女は東京女子大の私の二、三年下の学生でしたが、在学時は、全く無関係でした。在学時代から、ずば抜けた秀才だったということでした。太郎さんは本を次々出版していますが、それは、太郎さんが喋るのを敏子さんがすべて聞きとり、見事な文章に仕上げるのでした。  青山の太郎さんのアトリエ兼住居は、親の一平、かの子の時代からの住所でした。私が毎日のように出入りしていた頃は、横長の階下が応接間兼、太郎さんの絵や文筆の仕事場でした。棲(す)み込みのお手伝いのよしえさんの仕事場(台所)や寝室もありました。二階は、太郎さんの寝室や、食堂、平野さんの部屋などでした。  ある日、太郎さんが私に向かって、 「きみは、いつも和服を着ているから、畳の部屋がいいかい? 六畳がいい? 四畳半がいい?」  と言い出しました。何でも、平野さんの仕事が多くなって大変なので、 「きみはまあ、文章も書けるから、ここへ来て、平野くんを手伝ってやってよ」  と言うのです。そのため私の部屋を二階に造るとか。あわてて、私が断ると、 「バッカだなあ、ろくでもない小説家になるより、天下の天才の岡本太郎の秘書になる方が、ずっとすばらしいのに!」  と言われました。それでも私は断り通しました。  太陽の塔の企画会議の席に、なぜか私も連れていってもらいました。太郎さんが情熱をこめて太陽の塔の説明をしていた声と顔が、今でもありありと浮かんできます。  夢の中の太郎さんの横には平野さんもいて、三人でどこかの料亭で、豪華な食事をしていました。昔、昔、そういうことがよくあったのです。支払いはいつも太郎さんでした。平野さんがサインしていました。夢の中で、太郎さんが食事をとめ、平野さんにボーイを呼ばせました。私はそれを聞くなり、席を立って食堂の外へ逃げ出し走り始めました。呼んだボーイに、この肉はくさってるとか、焼けてないとか、太郎さんが文句を言うのに決まっています。いつもそうなのでした。でも心の芯のやさしい人でした。また、夢に出てきてほしいです。では、また。 ※週刊朝日  2020年2月7日号
週刊朝日 2020/02/02 11:30
津田寛治 父の死を見届けた医師の涙…医師役で中2の頃を振り返る
中村千晶 中村千晶
津田寛治 父の死を見届けた医師の涙…医師役で中2の頃を振り返る
津田寛治(つだ・かんじ)/1965年、福井県生まれ。高校を中退し、俳優を目指して上京。演劇集団「円」研究所を経て、93年に「ソナチネ」(北野武監督)で映画デビュー。数多くの映画、ドラマで活躍している。(撮影/植田真紗美) (c)2019映画『山中静夫氏の尊厳死』製作委員会 週刊朝日2020年2月7日号より  映画「山中静夫氏の尊厳死」で、末期がん患者と向き合う医師を演じる津田寛治さん(54)。重いテーマながらあたたかみのある作品との出会いは、自身を振り返るきっかけになった、と話します。 *  *  * 「血がザワザワッとしました。これはいつもの仕事と違うな、と感じて」  と、津田さんは語りだした。医師で芥川賞作家として知られる南木佳士(なぎけいし)さんの同名小説の映画化。津田さん演じる今井は信州の病院に勤め、多くの命を看取(みと)ってきた医師だ。そこに肺がんを患い余命宣告を受けた山中静夫(中村梅雀)がやってくる。 「脚本を読んだとき、山中さんがすごくかわいらしい人に思えたんです。余命1カ月の患者さんに出会っても、医師にとってはそこからがその人との関係の始まりであり、それはその人との人生の始まりなのかもしれない。そのことに気づいて、ハッとしました」  山中は「生まれ育った信州で死にたい」と願い、外出許可を取り、両親と兄の墓のそばに自分の墓をつくりはじめる。だが、次第に病魔に侵され、外出もままならなくなる。「楽にしてほしい」と言う山中を前に今井は、患者の意思を尊重し延命治療を行わない「尊厳死」という問題に向き合うことになる。 「今井は山中との関係性のなかで、彼の望みを感じ取ったのだと思うんです。多くの人を看取ってきたからこそわかる部分もある、と思う」  と今井の心中に思いをはせる。そのうえで、 「意思疎通も難しいような状態で、患者さんの意思をどう読み取るのか。尊厳死の線引きは本当に難しいと思います。『楽にして』には『痛みをとってほしい』という意味もあるのではないでしょうか」  演じながら多くを考えた。 「医師にとって死は日常です。だからといって、人が死ぬことに慣れていくことはない、と思うんです。それは僕自身が父や母を亡くした経験のなかで感じたことでもあります」  津田さんは中2で父を亡くした。胃がんだった。 「ちょうど反抗期で、ノートに『みんな死ね死ね死ね』みたいなことを書いていたんです。そしたら親父が本当に入院して死んでしまった。自分が殺したんじゃないか、と思いました」  父を看取った病院で忘れられない出来事があった。 「バイタルサインを示すモニターの線が真っすぐになったとき、お医者さんが心臓マッサージを始めたんです。そしたら線がピコンピコンって跳ねた。でも彼は『あ、これは反動だけだな』と言って、腕時計を見ながら『○○時○○分、ご臨終です』と」  ひどくあっさりした言い方に驚いた。 「祖母が泣きだして、湿っぽいのはいやだから廊下に出たんです。そしたらそんな気持ちでもないのに、涙がボロボロと出てきた」  すると、いきなり後ろから肩を抱かれた。 「さっきのお医者さんだったんです。しかもボロ泣きしていた。『お父さんはこんなことになったけど、いつか医療の力でみんなが助かるようになるからな。ごめんな!』って。あんなに淡泊に看取ったのに……いまも印象に残っています」  今回の役作りに、あのときの経験が生きているかもしれない。 「一人ひとりの死は医師の胸のどこかに残っているものかな、と思います」  母を亡くしたのは4年前だ。認知症を患い、施設でケアを受けていた。 「おふくろの死は、自分がどう死んでいくかをちゃんと考える機会になりました」  あるときから施設で急に物を食べなくなったという。 「口元に食べ物を持っていくと口をキュッと結ぶんです。もう衰弱しているはずなのに、どこからそんな力が出るんだろうというくらい、歯を食いしばって拒否したそうです。病院でチューブを身体に入れてまで生きるのはいやだ、と言っていた。施設でできる範囲内の点滴で最後まで何も食べずに、病気もせずに亡くなっていったんです」  ある意味、自殺ともとれる最期だった。 「自殺の定義ってなんだろう、人間らしい死ってなんだろう、と考えました。それもあって死とはそんなに大げさなことじゃない、自分が死んだ後のことを考えるなんて馬鹿らしい、と達観したような気持ちになっていたんです」  だが、この作品に出会って少し変化があった。 「山中さんは死んだ後をすごく気にするんですよね。婿養子で『死んでまで気を使いたくないから』と、病気の体にむち打って自分の墓をつくる。人間らしいから、愛おしいんです。演じながら『やっぱり人間とはそういうものかもしれない』と思ったりしました」  映画とは本当に深いものです、と微笑みながら語る。  映画好きだった父親の影響を受けたという。映画にのめり込んだのは津田さんが11歳のとき、学校で配られたチケットで「がんばれ!ベアーズ」を観てからだ。 「字幕の漢字は読めないし、わからないところも多かったけど、とにかく最後まで観きった、その達成感がものすごかったんです。生まれて初めて何かをやり遂げた!という感覚に包まれた。夏休みの課題も最後まで終えられないような子だったから、『映画を観ることって、こんなに楽しいんだ!』って目覚めちゃったんです」  それから日曜になると、朝から映画館に行き、入れ替え制もないなかで、終映まで同じ映画を観つづけたという。 「とにかく映画館にいたかったんです。僕は学校が本当に体に合わなかったんです。座っているだけで吐き気がするくらい嫌いだった。人と同じことをするのが苦手で、『なぜみんなと同じことができないの』『みんなできてるよ、君だけだよ、できてないの』と言われることが恐怖だった」  日常生活が苦痛でしかたがなかった。映画館に行くことは、そこから逃げる手段だったのだ。 「あの暗闇に逃げ込めば、日常を忘れられたんです。シートに身を沈めながら、映画の世界に入っていく。日曜日に朝から夜までずっとその物語に浸って、パンフレットを買って、家に帰っても自分の部屋でずっと物語に浸りきる。それでなんとか残りの1週間をやっていけた」  中学時代から映画の世界で働こうと決めていた。監督は頭がよくなければダメだと言われ、進む道は俳優しかない、と思った。  高校を中退し、上京。養成所を経て事務所に所属し、演技レッスンを受けながら、たまに小さな役をもらった。だがレッスンにはお金がかかる。たまらずに友人と劇団を立ち上げるが、今度はチケットノルマで結局バイト漬け。そんな日々が8年ほど続いた。  転機は24歳のときに訪れる。「ある事務所のスタッフさんに『最近、なんか映画観ました?』って聞いたら『映画観てるほど暇じゃねえんだ!』って言われた。そのとき『自分は映画から最も遠い世界にいる』と、気付いたんです。いったん全部リセットしようと、事務所やレッスンを全部やめて、レンタルビデオや映画館で日本映画を観まくりました。いま活躍している監督は誰だろうって」  好きな作品を撮った監督の事務所に、自らプロフィルを持ち込んだ。黒沢清監督、山本政志監督、伊丹十三監督、市川準監督…… 「好きで好きでしょうがなくなった監督のところに命がけで行くんですから、万が一会えようものなら、機関銃のように映画を本気で褒めまくりました。『あのシーンのここが好きです』『あの言葉は、あそこの伏線になってるんですね!』と話すと『本当にちゃんと観ているんだな』と喜んでくれた」  北野武監督との出会いはよく知られている。 「お笑いスターでもある北野監督とはなかなか接触できなくて、いろいろ知恵を絞って、ある録音スタジオの喫茶店でボーイとして働いたんです。来店した監督をトイレまで追いかけて、プロフィルを渡して、『監督の映画に出たいんです!』としゃべりまくりました」  熱意は通じて「ソナチネ」に出演を果たし、道は開けた。 「北野監督に拾っていただいたおかげで、いまの自分があります」  いまも1週間のほとんどを仕事に費やす。趣味もない。 「役者という仕事をなくしたら、もう自分にはなにもない。役者をやめたら、もう地獄のような人生しか残っていないんですから。上京してから、ずっとそうだった。役者として仕事がないことよりもバイトしているときのほうがよっぽどつらかった。バイト先では怒られてばっかりでしたから(笑)」  デビューから四半世紀余り。50代半ばに差し掛かっている。 「自分が唯一、褒められることといったら、芝居やってるときぐらいなんです。みんなの前で演技して『お、津田のいまの、よかったよ』とか。ずっとそんな世界に逃げていて、気がついたらなんとかそれで生活できるようになっていた。もう役者としてしか生きていけません」 (中村千晶) ■THIS WEEK 1月7日(火) 京都で夜から旅番組のスタッフ、キャストと食事会。 1月8日(水) 旅番組でロケ(京都)。 1月9日(木) 滋賀県に移動し旅番組ロケ。夜、大阪でMBSラジオに出演。次の日のために岡山県に移動。 1月10日(金) 朝からラジオに生出演後、あかいわ広報大使の委嘱状交付式に参加、今年も広報大使を務めさせて頂きます。その後、赤磐市の中学生と犯罪防止イベントにも参加。夜、京都に移動。 1月11日(土) KBS京都「キモイリ!」に生出演。その後、東京に移動。 1月12日(日) 湾岸スタジオでCX「痛快TVスカッとジャパン」収録。 1月13日(月・祝) オフ(カラオケボックスで台本読み)。「1週間、ほとんど家に帰れないことも多いですね。奥さんと息子と娘の4人家族ですが、家族は僕がいるかいないかもよくわからないんじゃないかな」 ※週刊朝日  2020年2月7日号
週刊朝日 2020/02/02 08:00
「妻の性格が歪んだのは親のせい」と訴える30代夫 妻の笑顔が減った本当の理由
西澤寿樹 西澤寿樹
「妻の性格が歪んだのは親のせい」と訴える30代夫 妻の笑顔が減った本当の理由
※写真はイメージです (Getty Images)  パートナーに求める理想と、問題が起きたときの対処法が矛盾しているケースがあるという。カップルカウンセラーの西澤寿樹さんが夫婦間で起きがちな問題を紐解く本連載、今回は「カウンセラーのテクニック」について解説する。 *  *  *  少し前に、アメリカの大手映像配信サービス「Netflix」が再生速度を調整する機能を試験的に導入しているというニュースを見ました。そもそもYouTubeなどでは、すでに速度調整が可能で、私も最近、2倍速で世界史の動画を見て勉強していたわけですが、エンターテインメント業界ではクリエーターから批判の声が上がっているというのです。  これには考えさせられました。例えば、除夜の鐘は1秒に3回連打すれば約40秒で全部聞くことができますが、それでは本来の意味が失われるのかもしれません。  お気に入りの歌手やアイドルのライブも倍速にするでしょうか。2時間分のライブをパブリックビューイングでは倍速の1時間で提供しますと言っても、喜ぶ人はいないのではないかと思います。ライブは「時間を共にしている」体験こそが重要です。  エンタメコンテンツの中でも、加速して見られやすいのは、おそらくドラマや映画です。好きな映画を見直すような場合以外は、ユーザーはクリエーターが望んでいる「時間を共にする体験」ではなく、話の筋という「情報」を「学習」するものとして扱っていると思われます。  つまりコンテンツは(1)時間の共有と、(2)情報の学習に大きく分類できるでしょう。  これは夫婦という「コンテンツ」にも当てはまるのです。  10年ぐらい前は、結婚相手に求めるものを聞くと 「自分が知らなかった知識を教えてもらえる」 「自分がステップアップするためのアドバイスがもらえる」 など、(2)情報の学習に近いことを答える方が多くいらっしゃいました。  最近は「一緒にいるとホッとする」「一緒にいて楽」という方が多いような気がします。つまり「倍速」とは無関係で、(1)時間を共にすることを大事にしているように聞こえます。しかし、そういうご夫婦でも、問題解決は倍速でと希望されることがあります。  正尚さん(仮名、30代後半、会社経営)は「妻といるとホッとするんです」とおっしゃる1人です。しかし、一方で、 「最近妻の態度がぎすぎすしていて……。理由は分析できているので、最短で妻が気持ちを変えるためのアドバイスが欲しいんです」 ともおっしゃいます。詰まるところ、妻と「時間を共にする」ことを望んでいるが、カウンセリングでは面倒なことを省いて、「最短・最小労力で結果を得られるアドバイスが欲しい」と希望されているわけです。  私が倍速で話せたら、カウンセリングの回数を半分にでき、喜んでいただけるかもしれません。でも本当にそうなるのでしょうか。今回は、カウンセラーとしてご夫婦の話を聞きながら、何を考えているのか、少し裏側をご紹介したいと思います。  妻の美弥子さん(仮名、30代半ば、専業主婦)にもお話をお伺いしてみます。 「正尚さんは、こうおっしゃっていますが、どうお感じになりますか?」  美弥子さんは、しばらく考えてから 「なんでかわかりませんけど、最近、夫に優しくできないんです。ぎすぎすした対応をしているのはわかっているんですが……」 とおっしゃるので、重ねて 「正尚さんは、理由は分析できているとおっしゃっていますが?」 と聞いてみると、 「はい。夫にいつもいわれるんですが、私の親の育て方が悪かったので、私の性格が歪んでしまって……。でもそういわれてもどうしたらいいかわからなくて……」  ちょっと言いよどんだところに、正尚さんが、美弥子さんの顔色を見ながら割り込みます。 「妻の両親は共働きで、仕事に忙しかったうえに、その後離婚してしまったぐらいで夫婦仲も決して良くなかったので、温かい家庭っていうものがどういうものなのかを分かっていないんです」 と言います。  私はそのやり取りを聞きながら、こんなことを考えていました。 ・仮に育ちの問題だとしたら、「最近」優しくできない、というのとは矛盾するな~ ・正尚さんがいう「ぎすぎす」というのは実際にはどういうことなのかな ・美弥子さんがいう「優しくする」というのはどういうことなのかな ・でも、親のせいで性格が歪んだと言われちゃったら美弥子さんは辛いだろうな~ ・正尚さんを駆り立てている感覚はどんなものなのかな ・正尚さんも美弥子さんも美弥子さんに優しくしていないので、そりゃあ美弥子さんは正尚さんに優しくできないよな……etc.  その感覚(仮説)を確かめてみようと思い、まずはこんな質問をしました。 「以前はできたのに、最近できなくなった優しくすることって、どんなことですか?」  美弥子さんは、 「以前は、夫が好きなメニューを中心に食事を作っていましたが、最近は子どもが喜ぶものばかり作っているとか、以前だと夫が帰ってくると、子どもに『お父さんが帰ってきたからちょっと待っていてね』と言って、夕食を温めなおしたりしたのですが、いまは自分でチンしてもらっています」  正尚さんにも聞いてみます。 「ぎすぎすって、例えばどういうことですか?」  正尚さんは、 「笑顔がなくなりましたね。なんにつけ、つっけんどんな物言いをして、私だって人間なのでこれじゃ、仲良くできないですよ。多少嫌なことがあっても、笑顔で接するというのが温かい家庭を作る第一歩じゃないですかね」 といいます。美弥子さんに「それを聞いてどう感じますか?」とお聞きすると 「夫の言う通りで、私がもっと頑張るべきだというのはわかっているのですが……」 とおっしゃるので、「きついですよね?」と聞いてみました。 「きついって、思っていませんでした」 というのが、美弥子さんの答えでした。  つまり、自分はきついんだ、と今までわかっていなかったけど、言われて気付いたということです。自分がきつければ、人にやさしくするのは当然難しくなります。親の育て方や性格のゆがみという漠然とした原因では悶々とするだけですが、自分はきついから優しくしにくいんだ、と理解できれば、第一段階として気持ちが楽になります。  これを時短して、私が「正尚さんの対応がきついので、正尚さんに優しくできないんです」とアドバイスすれば、3秒もかからず終わりますが、美弥子さんの気持ちが緩むことはないでしょう。さらに、正尚さんは反論されるか、役に立たないカウンセラーと認識されて二度と来ていただけなくなるかのどちらかではないかと思います。 (少なくとも私の)カウンセリングもそういうものです。夫婦の問題を解決することだけを、倍速で時短することはできないのです。しかし、裏技が流行っているせいか、カウンセラーは自分が知らない技を使っていて、それを知りたいと考える人は多くいます。正尚さんの考えもすぐには変わりませんでした。  私は毎回カウンセリングをはじめるときに最初に、 「(今)どんな感じですか?」 とお聞きするのですが、2回目においでになったとき、正尚さんは、 「カウンセリングの後、ちょっと妻の機嫌がよくなりましたが、数日で戻ってしまい、それ以降特に変わったことはありません」 とおっしゃいました。カウンセリングの場面ではカウンセラーはお医者さんと同じように見られがちで、今の気持ちや感覚をお聞きしても、この間の経緯を説明されることが多いのです。  このお返事はカウンセリングが役に立ってない、という雰囲気が醸し出されていますが、一歩引いてみれば、カウンセリングの後、機嫌がよかったのだとしたらそれはどういうことなのか、そっちの方が重要です。なので、 「カウンセリング後、妻の美弥子さんの機嫌がよかったのだとしたら、それはどういうメカニズムだと思いますか」 とお聞きしてみると、 「わからないんです。だからそれを教えて欲しいんです」 とおっしゃいます。つまり、正尚さんの理解によれば、私は正尚さんが知らない技を使っていて、それを自分が理解して使えるようになれば、妻の機嫌を維持できる。だからその技を教えて欲しい、と考えておられるようです。  実は、「目標」と「方法」の不一致というのは、目標を達成しにくくなることが多いのです。  例えば、「自分から勉強させるにはどうしたらいいか?」というのは、なかなか野心的な目標です。勉強「させる」ことはできるかもしれませんが、「させ」ている限り、自発的ではないからです。  そう指摘すると、言い方を変える人がいます。 「自分から勉強することが大事だと、習慣をつけるためには何が必要か」  しかし、根本的な考えが変わるわけではないでしょう。  話を戻すと、結局のところ、正尚さんは、「一緒にいるとほっとできる妻」という時間を一緒に使うコンテンツ(目標)を、時短で得たい(方法)わけで、これは矛盾していて実現が困難なのです。  ちなみに、正尚さん夫婦カウンセリングでは、その後、私が、 「わからないなら、何がよかったのか、美弥子さんに聞いてください」 と言いますと、正尚さんは「どうなの?」と聞かれたので、私は 「私と話したことを前提にしないで、フルセンテンスで質問してください」 と返しました。 「機嫌がよかったのは、何故なの?」 と正尚さんに聞かれ、美弥子さんは間髪入れず、 「何で、そんな上から決めつけるの? 大体……」 と話始められたので、ちょっと止めて、正尚さんに 「まずは、前回のカウンセリングの後、美弥子さんが機嫌がよかったように見えたけど、そういう認識ある?と聞いてください」 とお願いしました。 正尚さんは、 「前回のカウンセリングの後、機嫌がよかったけど、そういう認識ある?」 とおっしゃったので、しつこくも機嫌がよかったように「見えた」と言い直していただきました。  それに対して美弥子さんは、「気持ちがちょっと楽だった」とおっしゃいました。  こんなやり取りは、正尚さんにとっては時間を浪費する苦痛で「結果が出ない」話し合いです。職場での会議にはゴールがあって、そのためにはどうするべきか、意見の違いがあればどう乗り越えられるか(落としどころを見つけられるか)という構造です。これは因果がわかりやすい話です。  しかし、夫婦カウンセリングでの話し合いは違います。そもそも「2人が共有しうる前提やゴールは何だろう」が大きなテーマで、意見や考えの違いがあれば、それをどう乗り越えるかではなく、自分とは違うその考えはどういう背景から出てくるのだろう、どう考えたらそうなるんだろうということを分かり合うための話です。わかって得られるものはせいぜい「あー、なるほど、この人はこんな風に考えるのか。面白いなぁ」ぐらいで、いくら話しても「結論」は出ません。  それでも、こういう話をするカウンセリングを美弥子さんは「貴重な時間」とおっしゃり、実際、美弥子さんは帰り際には表情が明るくなるのです。そしてしばらく日常生活をするとまた戻ってしまうのです。  正尚さんにとっては、そのことを自分の腹に落とすのはとても大変なチャレンジだったようですが、腹に落ちたら、家でもコミュニケーションが変わったそうです。その報告を最後に2人はおいでにならなくなりました。(文/西澤寿樹)
夫婦男と女結婚
dot. 2020/01/27 11:30
Matt化よりも現実的? 家電量販店で買える“女優ライト”とは
山田美保子 山田美保子
Matt化よりも現実的? 家電量販店で買える“女優ライト”とは
室井佑月(むろい・ゆづき)/作家。1970年、青森県生まれ。「小説新潮」誌の「読者による性の小説」に入選し作家デビュー。テレビ・コメンテーターとしても活躍。自らの子育てを綴ったエッセー「息子ってヤツは」(毎日新聞出版)が発売中 写真の「LEDフュージョン コンパクト 2-IN-1 ランタン」(オープン価格)は、周囲を均一に明るく照らす技術を搭載している。ハンドライトとランタンの1台2役で、持ち運びにも、いざというときの備えにも便利。単4アルカリ乾電池2本付き。全国の電量販店などで購入できる。  放送作家でコラムニストの山田美保子氏が楽屋の流行(はや)りモノを紹介する。今回は小泉成器の「LEDフュージョン コンパクト 2‐IN‐1 ランタン」。 *  *  *  女優さんにとって、とても大切なモノの一つに「照明」がある。  いまや、「キャッチ」とか「女優ライト」なるワードは一般にも知れ渡っていて、ドラマや映画ではもちろん、番宣のために出演するバラエティー番組においても専門スタッフがやってきて照らしていることも、ある程度、知られている事実だろう。  実は私は、名取裕子さんと大学で学科が同じで、2年生のとき、『ポーラテレビ小説 おゆき』(TBS系)でデビューした彼女から、照明について、よく聞かされたものだ。  曰く、「照明さん」に気に入ってもらえると、特別な照明を当ててもらえるのだとか。彼女は、とても気さくな人で、主演女優として人気を得てからも全く偉ぶるようなところがなかったから、照明スタッフさんから可愛がられていたようだ。  ちなみに、そんな彼女に当てられる照明の種類は、撮影所内で「ナトリックス」と呼ばれていたそうな。ほかにも、野際陽子さん専用の「ノギワックス」、岩下志麻さん専用の「シマックス」などがあったと聞いた。  私は“バラエティー班”の人間なので、女優さんと仕事をする機会はめったにないのだが、先日、女性週刊誌で由美かおるさんと対談をさせていただいた際、改めて、女優さんと照明の関係を目の当たりにした。  それは、対談後、お願いしてツーショット写真を撮らせていただくことになったときのことだ。由美さんと並んでいると、お付きの女性が駆け寄って来て、自分のバッグから急ぎ、取り出したモノにビックリ!! なんと、ハンディーLEDライトだったのである。 「照らしますね」と、すぐさま絶妙な角度からスイッチONしてくれた彼女。さらに、「これ、『ビックカメラ』など家電量販店で2千円くらいで売っているので、持っていると、夜間、クルマの中でメイクするときなどに本当に便利ですよ」と教えてくださった。  私としたことが、そのとき、メーカー名をお聞きし忘れて、先日、まさに『ビックカメラ』に探しに行ったところ、同じモノではないが、スリムなLEDパネルで周囲を均一に照らしてくれるモノに巡り合えた。「照明器具売場」ではなく「防災グッズ売場」。エリアライトでもあり、懐中電灯でもある2WAYだからだ。  いまや、年配の方でもスマホで人物写真を撮る時代。近くにいる人に頼んで、このLEDライトを顔にあててもらえば、肌のトラブルをすべて飛ばしてくれて、美しく撮れること間違いナシ。Matt化よりも現実的だ。 ※週刊朝日  2020年1月31日号
山田美保子
週刊朝日 2020/01/26 11:30
元横綱・北の富士が内館牧子に語る「白鵬は普通の力士の3~5倍は稽古している」
元横綱・北の富士が内館牧子に語る「白鵬は普通の力士の3~5倍は稽古している」
内館牧子(うちだて・まきこ 左)1948年、秋田県生まれ。東北大学大学院修士課程修了。NHK連続テレビ小説「ひらり」「私の青空」、大河ドラマ「毛利元就」、ドラマ「週末婚」などの脚本を手掛ける。『終わった人』『すぐ死ぬんだから』など著書多数。/北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき)1942年、北海道生まれ。57年に出羽海部屋入門、70年に第52代横綱に。優勝10回。74年に引退、九重親方として横綱・千代の富士、北勝海らを育てる。98年に日本相撲協会退職後はNHK解説者として活躍中 (撮影/写真部・小黒冴夏) 北の富士さんとの思い出の写真 (撮影/写真部・小黒冴夏)  内館牧子さんが「週刊朝日」で連載する「暖簾にひじ鉄」がついに900回を迎えます。記念対談のお相手は内館さんがOL時代に“追っかけ”、当時のツーショットを宝物とする元横綱北の富士勝昭さん。角界への思い、元気の秘訣……弾む話は待ったなしで続きました。 *  *  * 内館:きょうは懐かしい写真を持ってきたんです。ほら、北の富士さんとのツーショット。30代前半“追っかけギャル”時代の思い出です(笑)。 北の富士:こりゃあ蔵前国技館の頃ですね。 内館:私、破顔一笑でしょう。この写真を年賀状に印刷して「私、結婚しました」って書いて出したことがあるんです。そしたら勤め先の課長が奥様に「牧ちゃんの旦那さん、素敵な人ね」って言われたらしくて(笑)。この写真は今も仕事部屋に飾っています。北の富士さんは、この頃と変わらずお元気そうですね。 北の富士:いやあ3月には78歳。3年前に心臓の手術して、ようやく身体がなじんできたところですよ。 内館:心臓! 私も一緒!やっぱり追っかけやってたから、そういうのも伝染っちゃうんだ(笑)。 北の富士:不整脈が出てもガバガバ酒を飲んでたら、心臓を患って。 内館:私もおんなじ。不整脈が出てもジムに行ってました。でもお相撲さんって、昔は早世の人が多かったと思うんですけれど、今はそうでもないですね。ちゃんこで野菜から肉から全部食べられるからいいとか、1日2食だからいいとか、あるんでしょうか。 北の富士:まあ、今の力士の身体は大きくなりすぎだと思いますよ。ちゃんこだけなら、あんなに大きくならない。今は平均で160キロくらいあるでしょう。僕なんかいくらがんばっても136キロ。大鵬さんの晩年で150キロくらいでしたから。今の力士と比べると細いですよ。 内館:「横綱北の富士の全盛時代」に、今の大型力士と取ったらどうですか? 北の富士:白鵬以外には勝てますよ。 内館:白鵬とはダメなんですか? 北の富士:僕は大鵬さんと悪かった。白鵬は大鵬さん系で、しかも大鵬さんより大きいじゃないですか。大鵬さんにたまに張られると、ズシンと重かった。 内館:白鵬はあんなエルボーみたいな「かちあげ」とは言えないことをやめれば、もっと愛されるのに。 北の富士:たしかに、かちあげじゃないですよね、彼のはね。最初は彼だって双葉山や大鵬さん目指してたわけだから。最後はやっぱり勝ちたいっていうほうが勝っちゃったんじゃないですか。もう手段を選ばない。相撲の強さっていう面ではだいぶ力は落ちてきてますから。ただ身体の手入れの仕方はすごい。稽古も普通の力士の3倍から5倍はやってるんですよ。食事にも気を使っている。 内館:北の富士さんの健康法は何ですか? 北の富士:特別なことはしてませんが、股割りとストレッチは毎日やってますよ。もろもろ入れたら1時間ぐらいは、じんわり体を動かしてるんじゃないですかね。股割りではおでこはつかなくなりましたけれど、ジムでストレッチをやったら先生よりやわらかかったです。 内館:私、心臓病で入院したあとに、筋力がめちゃくちゃ落ちちゃって。最初は階段も1段ずつしか上り下りできませんでした。やっぱり年をとると足にきたりするんですか? 北の富士:きますね。僕も病気するまでは、2時間ぐらい歩いて自宅から両国まで行ってましたからね。それも、足に2キロずつおもりをつけて。 内館:3年前、足の骨を折ったとき、自由に動くことができなくなって行動範囲が狭くなって。階段も手すりが必要になると、思うように動けないことがどんなにストレスになるかわかるんです。台所にちょっと行くのも面倒くさくなる。あの頃はおじいさんやおばあさんを書かせたら今の私の右に出るものはいない、と確信していました(笑)。 北の富士:80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎さん、ああいうふうになりたいもんですね。 内館:心臓で聖路加国際病院に入院したときは、102歳の日野原重明先生が現役でいらしたんですね。先生は「粗食がいい、というけれども、僕は肉です」とおっしゃってました。 北の富士:僕もそうですね。ほかに欠かせないのは納豆やチーズといった発酵食品かな。ぬか漬けなんかも好きですね。 内館:今はどのくらい食べられるんですか? 北の富士:肉だったら、がんばれば500グラムは食べられますね。寿司は20貫ぐらいかな。人の倍は食べてますね(笑)。 内館:病気するとよくわかるんですよね。口から食べるって、こんなに大事なのかって。 北の富士 僕は手術したときに水のうまさがわかりました。手術して2日ぐらい何も食べられなくて、そのときになめる水。水ってこんなにうまいものかと。 内館:それまではいつか死ぬなんて考えたこともない私も心臓なんかをやると、寿命というものはあるんだなあ、と考えました。 北の富士:気は弱くなりますね。僕もよほどのことがない限りは死なないかななんて思ってました。でも今は酒もあまり飲めなくなったし、女性にもあまり興味がなくなりました。 内館:またァ!(笑) 北の富士:死ぬまで呑兵衛で助平で、と思ってたんだけど、どうやら限界はあるみたいですね。このトシになって気づきました(笑)。 内館:誰も信じない! 北の富士:いやいや、11月の九州場所に行けば毎晩中洲に行ってましたが、こないだは2、3回。それも夜9時になったら「帰るわ」って。 内館:それでもこうやってダンディーで元気に見える。 北の富士:見栄っ張りですからね。弱みはあまり見せたくない。見栄と突っ張りで生きてきました。 内館:小林旭さんからメールで年賀状をいただきましたが、お若い80代ですよね。 北の富士:お若いですよ、声も出るし。朝からステーキ食べるってね。やっぱり肉を食べよう(笑)。 ◆ 内館:これからやりたいことってありますか? 北の富士:やりたいことは、もうだいたいやってきたと思うんですけど、もう一回狂い咲きしてみたいというか、パッと派手にやってみたいですね。フフフ。 内館:そういえば船村徹先生に、増位山の歌の詞を書いてくれないかとお願いされたとき、一曲を「北の富士さんとのデュエットはどうでしょう?」って言ったんですよね。「女房に捧ぐ」というタイトルで、ちょっと怖い内容だったけれど、いい歌でしたよね。 北の富士:そうかなぁ。詞はよかったけれど、僕の気持ちがこもってなかったんじゃないかなぁ。 内館:またそうやってカッコつけて(笑)。詞は妻の視点から「今まであんた、いろんなことやって遊んできたわよね、ちゃんとわかってるのよ」って。これを増位山と北の富士という両遊び人がデュエットするっていう(笑)。その詞を見て船村先生もびっくりしていましたけれど、「絶対いけます!」って胸を張ったら曲をつけてくださって。レコーディングのときも、本当に面白かったですよねえ。 北の富士:増位山は基礎ができててうまいからいいんだけど、僕が歌えないんですよ。船村先生がピアノのところに来て、何回も歌わされて。最後に一言、「北島(三郎)だったらすぐやるんだけどな」って(笑)。サブちゃんと一緒にされても困りますよね。 内館:だけど、出す頃に相撲界の不祥事が……。こんなときに元横綱や大関が浮かれてるって思われると困る、となって自粛ムードになり……。作詞も作曲も横綱審議委員だし(笑)。 【後編に続く】 (構成/本誌・太田サトル) ※週刊朝日  2020年1月31日号より抜粋
週刊朝日 2020/01/25 11:30
<インタビュー>三宅純「こだわりを持たないことにこだわる」――世界的音楽家が考える映画音楽で重要なバランス・間・ミニマリズム
<インタビュー>三宅純「こだわりを持たないことにこだわる」――世界的音楽家が考える映画音楽で重要なバランス・間・ミニマリズム
<インタビュー>三宅純「こだわりを持たないことにこだわる」――世界的音楽家が考える映画音楽で重要なバランス・間・ミニマリズム 『タイピスト!』(2012年)のレジス・ロワンサル監督が手掛けるミステリー仏映画『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』が2020年1月24日より劇場公開する。全世界待望のミステリー小説の世界同時出版のため、完全隔離された密室に9か国の翻訳家が集められるが、ある夜、冒頭の10ページがネットに公開。出版社社長の元に「24時間以内に500万ユーロを支払わなければ、次の100ページも公開する。要求を拒めば、全ページを流出させる」という脅迫メールが届く。  トム・ハンクス主演で映画化された『ダ・ヴィンチ・コード』シリーズの4作目『インフェルノ』の出版時に、著者ダン・ブラウンの同意のもと、違法流出を防ぐため、各国の翻訳家たちが地下室に隔離され翻訳を行っていたことが報じられたが、本作はそのエピソードをもとにしている。デジタル時代ならではの仕掛けがちりばめられた本作のラストに驚愕することだろう。今回、本作の音楽を手掛けた世界的音楽家・三宅純に話を聞いた。 ――この作品の音楽を手がけることになった経緯を詳しく教えてください。 三宅純:この映画のミュージックスーパーバイザーをしているエマニエル・フェリエが、僕に提案してくれた作品のひとつが、この『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』でした。まず英語の脚本を読ませていただいたんですけど、とても入り組んだ複雑なプロットになっていたので、これをどう映像化するのかという点に興味を惹かれたのが最初です。 ――レジス・ロワンサル監督の約7年ぶりの作品になりますが、監督にはどのような印象をお持ちでしたか? 三宅:レジス監督の前作である映画『タイピスト!』は拝見していました。脚本を読ませていただいた際に、本作のイメージ写真も一緒に拝見したんですが、それを見る限り『タイピスト!』のようにスタイリッシュでキッチュな作風になりそうで、今回のサスペンスとどう合体していくのか、想像が付かなかったんです。だからこそ、おもしろい作品になるのではないかと。レジス監督に会ったときも、僕にも馴染み深いジャズやギル・エヴァンスが好きというお話もされていたので、組み易いのではという印象を受けました。 ――三宅さんはどのように楽曲制作を進められますか? 三宅:映画の場合、基本的には完成に近い映像素材を手に入れてから音楽を作り始めます。フレーム単位で映像に音を合わせたり、会話を縫うように音楽を作り上げていったりすることになるので、映像が完成形に近いことが必須条件です。少しでも、映像の構成が変わってしまうとカスタムメイドした音楽が機能しなくなってしまいますから。ただ、今回は結果的に、通常のプロセスとは真逆の方法で制作を進めることになりました。というのも、映画作りを進める中で、レジス監督をはじめ、エディターや製作陣に迷いが多く生じていたようで、その度に変更される内容にあわせて曲を作り変えて行くことになってしまったのです。映像が変われば、当然、求められる音楽も変わってきますから、今までで一番ハードな仕事になりました。最終的に完成した作品は、僕が最初に観た映像とはまったく別物に仕上がっています。ただ、音としての仕上がりは気に入っていますし、映画音楽らしいものが出来上がったと思っています。 ――あるシーンでは、嫌らしい時計のチクタク音がバックに使われていて、観客の緊張感を煽る感じがしました。これは時間が迫っているという演出でしょうか? 三宅:あのシーンは、電車の時間や車両ナンバーなど、時間や数字に紐付いた作りになっているので、レジス監督から時間の刻みを感じるような要素を入れてほしいというオファーがありました。クラベスという打楽器を、サンプリングした時計の音に被せる形で使っています。セリフと映像を観ながら、そこに何が足りなくて、何を足すともっとドラマの効果が上がるのか、この会話だけは音楽とぶつからないように、といったことを構想しながら作っていきました。楽器選定や曲作りそのものに関してはインスピレーションを大切にしています。 ――バート・バカラック作曲の「世界は愛を求めている(原題:What The World Needs Now Is Love)」が映画の中でもキーとなる要素ですが、この曲と関連する楽曲はございますか? 三宅:この曲自体は映画の中で独立して描かれる1曲だと思っているので、特に関連付けて音楽を制作していません。でも、実はいくつかあった候補曲の中から「What The World Needs Now Is Love」をチョイスしたのは僕なんです。単にバカラックが好きだから、というだけなのですが、実際にこの曲になって良かったです。 ――映画音楽は観客の集中を邪魔させない、そして音楽でそのシーンを補足するという重要な役を担っていますが、そういった劇中音楽を作る上で、三宅さんが大切にしているルールはありますか? 三宅:自分自身の作品を作るときは音楽を主体で考えますし、そういったものを作りたいと思って音楽家になったわけですが、映画の場合は、主体が映像とセリフと演技にあるので、そのためのスペースを空けることに気を付けています。こだわりを持たないことにこだわるというか、一本骨を抜くという作業が映画音楽として大事なことではないかな、と思っています。ダンス音楽も同様ですよね。主体となるものの気持ちを音楽ですべて語ってしまっては、やり過ぎになってしまう。音楽から主旋律を抜いてしまうということも有り得ますし、それを前提に曲作りを考えていかなければならないので、音楽家にとって「映画音楽の制作」という仕事が良いのか悪いのか、分からない場合もあるんです。それでも映画音楽を作っているのは、僕自身、映画というものを愛してるからです。それに、音楽の機能をとても認識できる仕事だと思っています。音によって映像の見え方は全然違うものになるので、それを体験、実感しつつ、自分だったら何ができるだろう、というチャレンジになっているんです。 ――ちなみに、三宅さんはどのような映画音楽に惹かれますか? 三宅:フェデリコ・フェリーニにとってのニーノ・ロータやアルフレッド・ヒッチコックにとってのバーナード・ハーマン、デヴィッド・リンチにとってのアンジェロ・バダラメンティなど、少しキャラがたっている人が好きです。この映画にはこのサウンド、という刻印が押してあるようなものが好みですね。先ほどお伝えしたような「一本骨を抜く」と言ったものとは逆の作風なのですが……。ニーノ・ロータは、フェリーニが映像を撮る前に音楽を作らせてくれ、と言っていたらしいです。その上で完成した音楽を自由に編集して使ってくれ、と。バーナード・ハーマンもヒッチコック作品に対して、それに近いことを要求したこともあるようなんですよね。今の時代、それを許してくれる監督も少ないかもしれませんが、この手法だからこそ音楽に主体性が生まれ、逆にその力を借りて映画が完成しているような気がします。今後そういう作品に関われたら素敵だなぁと思っています。 ――最近は音楽ソフトや機材がすぐ手に入り、サブスクで世界中の音楽が簡単に聞けるようになりました。日本の学生やプレイヤーが海外で勉強をしなくても高いレベルの作品を作れる環境が揃ってきていると思いますが、こうした近年の音楽的な動きを、第一線で活躍されている三宅さんからみて、どう感じますか? これまでのご自身の経験と比べてみると、世界は近くなったと思いますか? 三宅:例えばLP時代の、片面を一生懸命聞いて、裏返してまた曲を聞く、といったことをしなくなりましたよね。簡単に音楽を聞けることによって、音楽そのものの存在感が薄れているようにも感じています。やっぱり、いい音楽は向き合って聞くべきじゃないかと思うのです。音質的にも圧縮された音は耳にも神経にも良くないですし。ただ、技術が進歩したことの便利さや、世界との距離感は近くなったと感じています。昔は、空港のX線を避けるために大きなマルチトラックテープをアルミホイルで巻いて運んだりと、色々苦労をしていました。今は小さなハードディスクに全部入ってしまうし、便利にはなりました。でも、不思議なことに、デジタル機器にアナログ時代に良かったもののシミュレーション(模造品)をプラグインでたくさん付けているんですよね。「だったらアナログのままでいいのでは?」とも思ってしまいます。自分自身もデジタル機器を使っているので難しいところです。 Photo by Jean-Paul Goude ◎公開情報 『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』 2020年1月24日(金)より、全国ロードショー 監督・脚本:レジス・ロワンサル 音楽:三宅純 出演:ランベール・ウィルソン、オルガ・キュリレンコ、アレックス・ロウザーほか 配給:ギャガ (C)(2019) TRESOR FILMS – FRANCE 2 CINEMA - MARS FILMS- WILD BUNCH – LES PRODUCTIONS DU TRESOR - ARTEMIS PRODUCTIONS ◎リリース情報 映画『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』オリジナル・サウンドトラック 2020/1/24 RELEASE PCD-24911 2,400円(tax out.)
billboardnews 2020/01/23 00:00
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