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コロナ禍で小学校教師の“うつ”が増加中? 親の“正義”からも苦しめられ
永井貴子 永井貴子
コロナ禍で小学校教師の“うつ”が増加中? 親の“正義”からも苦しめられ
※写真はイメージです (GettyImages) ストレスによる心身の反応について地方公務員と教職員の比較(週刊朝日2020年11月20日号より)  いつ終わるとも知れない感染症対策と“密”監視。コロナ禍が今、小学校教師の心をむしばんでいる。その裏にあるのは、コロナ前から続く業務過多。現場の教師たちに話を聞くと、悲鳴に近い叫びが聞こえてきた。日本の未来を支える基礎教育を、このまま崩壊するに任せておいていいのか──。  6月ごろから全国の小学校で徐々に分散登校が始まった。だが、張り切る教師たちを待っていたのは、想像を絶する「重労働」だった。  例えば登校時の体温チェック。都内の私立校に勤める教師は、毎朝7時15分には校門に立つ。子どもたちが検温シートに記入した体温は37度以下か。親の印鑑は押してあるか。さらに全ての子どもの体温をサーモグラフィーでチェックする。この教員はこうこぼす。 「教師には残業代が出ないので、実質、朝1時間のサービス残業です。校長は、『エンジンかけて、がんばりましょう!』って言いますが……」  都内の公立小学校で1年生を受け持つ女性教師は、学校が再開後は「トイレに行く時間すらない」と、ため息をつく。 「朝、トイレを済ませると、次に行けるのは夕方。水分は口に入れないようにしています」  こうなる理由の一つは、休み時間の忙しさだ。感染のリスクが比較的低い校庭での遊びは、各クラスの交代制。ほとんどの子どもは休み時間も教室で読書やお絵描きをして過ごす。顔や体を寄せて“密”にならないよう常に「監視」し続けなければならないのだ。 「給食は5分でかっ込んでます。1学期中は感染防止のため、40人近い児童への配膳を担任がすべて担当していた。今もおかわりの配膳は教師の仕事。5分で『おかわり!』って叫ぶ男の子もいますからね」(前出の公立小学校の女性教師)  子どもたちが楽しみにする行事も、今年は教師たちの悩みの種。秋の運動会では、「ソーシャルディスタンス」を気にするあまり一風変わった光景が繰り広げられた。  2メートルのバトンを用いた「ロングバトン・リレー」、次走者の腰につるした1メートルのテープを引き抜く「テープリレー」、1メートルの間隔を空けた「ソーシャルディスタンス綱引き」、「口パク・ダンス」……メディアはこぞってもちあげたが、先の校長は首をかしげる。 「2メートルのバトンを持ちながら走るなんて、危険極まりない。マスコミに振り回されて、学校は児童の安全を守るという本来の趣旨が置き去りになっているのではないか」  親心から来る「正義」の声も、時に教師らを苦しめる。3月、文科省が修学旅行を「中止ではなく延期に」と全国の小中高校に要請した。報道に勢いを得て、教育熱心な父母らが集まる地域では、「卒業後に行けばいい」という声が上がった。別の公立小学校教師は「とんでもない」と語気を荒らげる。 「今の6年生の担任は、来年には新しいクラスを受け持つ。その授業を放り出して修学旅行の引率に行けというのか。そもそも、卒業した元教え子に指示をする権限などないんです」  重なる疲労とストレスは確実に体をむしばむ。中高と違い小学校は担任が国語、算数から体育、音楽まで全教科を受け持つため、準備も大変。一日中授業があり、病院に行く時間もない。 ■妊娠報告したら「異動してくれ」  関東地方のある公立小学校では、こんなことがあった。仕事熱心と評判のベテラン男性教員が、「手がしびれる」とボソリとつぶやいた。同僚が病院の受診を勧めても、「授業に穴を開けられない」と頑なに拒む。保健室の先生が付き添って強引に受診させると、脳梗塞と診断された。即入院で、一命を取り留めた。 「教師を支える会」代表で臨床心理士の諸富祥彦・明治大学教授は、教育現場の“ブラック”な実態についてこう話す。 「いまの教師は夏休みもなく研修に追われている。日本の教師の労働時間はOECD加盟国中でも長く、残業時間は優に月95時間以上。残業代も出ない公立小学校教師の初任給は時給にすると700円に満たないという説もあります」  そこにコロナ禍が加わった。雑務や残業が激増して夜まで仕事漬け。休校中の遅れを取り戻すために学校は土曜授業を増やし、教師の休みはさらに減った。取材した教師たちはこう口をそろえる。 「コロナで疲れ果て、うつっぽい人が周囲に増えた。自分でも『うつかな』と思うことがあるが、病院に行く時間はない。1回の受診はできても、定期的に通院して治療を受けるなんて不可能です」  教師を追い詰めるのは仕事だけではない。保護者からのクレームや、管理職や先輩、同僚からのパワハラやいじめに苦しむ教員からの訴えがあとを絶たない。首都圏のある教職員組合には、教師からのSOSがひっきりなしに飛び込んでくる。  つい最近も、学校に妊娠を報告すると校長ら管理職に「異動してくれ」と言われたと訴えがあった。組合に所属する教師はこう話す。 「団塊の世代の退職と入れ替わりで入ってきた世代が今30代で、まさに出産ラッシュ。教師はブラックな職業というイメージが広まって人手不足なうえに、コロナ禍で猛烈に忙しいから、病気や妊娠中の教師は追い出したいんでしょう。だから、異動願を強制的に書かせるんです」  世間に認識されていない小学校教師たちの窮状。多くの負担を教育現場に押しつけている現状を、私たちは見直さなければならないようだ。(本誌・永井貴子) ※週刊朝日  2020年11月20日号
週刊朝日 2020/11/13 08:02
朝型生活5カ月で15キロ減の成功者も 体重と生活スタイルの因果関係が明らかに
渡辺豪 渡辺豪
朝型生活5カ月で15キロ減の成功者も 体重と生活スタイルの因果関係が明らかに
イラスト:土井ラブ平 AERA 2020年11月9日号より  リモートの弱点の一つが「つい太っちゃう」こと。でもそれ、改善可能です。「朝型の生活」さえ実現できれば、太らないどころかやせちゃいます。AERA 2020年11月9日号朝型、夜型の生活スタイルと体重の因果関係を取り上げた。 *  *  *  生活リズムが自分次第になりがちなリモートワークで、「朝型」になった人はやせ、「夜型」になった人は太る──。早稲田大学の研究者らが8月、日本時間栄養学会学術大会で発表したそんな研究結果が注目を集めている。コロナ禍のタイミングを捉えた研究が、生活リズムと体重変化の科学的な相関関係を明らかにしつつある。 ■5カ月で15キロ減った 「気づいたら朝型になっていたという感じです」  こう話すのは、この5カ月間で83キロから68キロへ、マイナス15キロのダイエットに成功した愛知県内の男性会社員(32)だ。  男性がダイエットを決意したのは5月。コロナ禍の外出自粛やテレワークの導入で「コロナ太り」に悩む人が多い中、「逆にやせたら面白がってもらえるかも」と考えた。  男性が心掛けたのは生活リズムの自己管理だ。  減量前は帰宅後、テレビを観たりスマホをいじったりして平日は午前1時ごろまで起きていた。週末は友人や同僚との飲み会などもあり、明け方近くまで起きていた結果、寝坊して朝食を抜いたり二度寝したりということも多かった。  5月以降は、日付が変わる前に必ず寝るようにし、週3回の筋トレとダンス動画のエクササイズを始めた。食事はアプリを使ってカロリーバランスに留意。すると、朝すっきり目覚められるようになった。  この生活を続けられたのは、コロナ禍のおかげだった、と男性は振り返る。外に飲みに行く機会が減ったため生活リズムを自己管理しやすくなった面が大きい、と感じているのだ。 「心掛け次第」と言えばそれまでだが、やはりコロナが生活リズムに及ぼす影響は無視できない。外出自粛、テレワーク、オンライン授業などコロナ禍の新常態で生活スタイルに大きな変化を強いられている人は多いはずだ。前出の研究は、この特異な状況を利用して生活習慣と肥満の関係解明を試みるために行われた。 ■生活習慣と体重の関係  大規模な社会実験に取り組んだのは、早稲田大学理工学術院の柴田重信教授、田原優准教授と食事管理アプリ「あすけん」を運営する企業askenの研究グループ。「あすけん」は、食事の画像など簡単な食事記録でカロリー計算・体重管理ができるスマートフォンアプリで、ダイエット目的の利用者が主だ。外出自粛中の生活リズムの変化が体重に及ぼす影響を調べるため、5月25日~6月1日、10代から70代の約3万人のアプリ利用者を対象にアンケートを実施した。  体内時計は睡眠・覚醒、体温、ホルモン分泌など生体のさまざまな機能に見られる昼夜差や日内変動を制御するシステムだ。体内時計の乱れは睡眠障害、肥満、糖尿病、循環器系疾患、寿命の低下などさまざまな健康被害につながる。  体内時計が乱れる要因として近年、問題視されているのが「社会的時差ボケ」と呼ばれる平日と休日の生活リズムの差だ。  夜型の人は、仕事や学校の授業がある平日は早起きと睡眠不足の生活を送る一方、週末は一層夜更かしし、休日に朝寝坊する生活を送る。いわゆる「寝だめ」だ。こうした生活リズムの差によって生じる社会的時差ボケは若者に多く、学業成績の低下や肥満などの生活習慣病との関連のほか、免疫機能低下にも影響すると言われている。  これまでも朝食を取らなかったり、遅い時間に夜食を取ったりする習慣は肥満につながり、健康に良くないと指摘されてきた。だが実際、どのような食べ方や生活をすれば、体重をコントロールできるのかはよく分かっていなかった。  この点について、外出自粛などで短期間に生活習慣が大きく変わった人が多いコロナ禍に調査を実施すれば、生活習慣と体重変化の関係をつかめる可能性がある、と研究グループは踏んだのだ。 ■朝型はやせ夜型は太る  結論から先に言えば、冒頭で述べたように外出自粛期間中に朝型化した人はやせ、夜型化した人は太ったことが明らかになった。なぜそう言えるのか。調査結果の詳細を見ていこう。  平日の生活習慣で最も顕著な変化が見られたのは10代だ。起床時刻は外出自粛前に平均午前6時45分だったのが、自粛後は午前7時37分に。就寝時刻は午後11時55分から、午前0時14分にずれ込んだ。  平日の寝る時間、起きる時間が遅くなり、生活リズムが夜型化する傾向は10代から30代に共通していた。一方で、休日は生活リズムに変化は見られなかった。その結果、これまで問題視されていた平日と休日の生活リズムの差が大きく解消されていることが分かった。  とりわけ10代は、外出自粛前に平均1時間あった平日・休日の社会的時差ボケが、平均20分まで大幅に短縮。平日の睡眠時間は全年齢で増加していた。一方で、「睡眠の質が改善した」と答えた人は全体の2割程度で、外出自粛による生活リズムの改善が睡眠の質の改善には結びついていないことが分かった。  これについて柴田教授は「外出自粛による精神的な苦痛やストレスが影響しているのでは」との見方を示す。  では、こうした生活リズムの変化は体重にどう影響したのか。  5キロ減量した人の休日の就寝時刻は平均15分間早くなる一方、体重が5キロ増えた人の休日の就寝時刻は平均13分間遅くなっていた。つまり、体重が減少した人は朝型化し、体重が増加した人は夜型化している傾向が浮かんだのだ。  睡眠の質との関係では、体重が5キロ増加した人の平均スコア(1とても悪くなった、2悪くなった、3変わらない、4良くなった、5とても良くなったの平均値。高いほど睡眠の質が良い)は2.7だった半面、5キロ減量した人の平均スコアは3.2と高めになった。体重が増加した人のほうが睡眠の質が悪化していることが示された。  太った人はやせた人に比べ、外出自粛中に活動量が低下し、ダイエットに挑戦しなかったと答えた人が多く、間食も増え、さらに睡眠の質も低下したと回答。いずれも年齢による違いは見られなかった。 ■睡眠不足じゃ太らない  意外だったのは、睡眠の長さや社会的時差ボケとの間では体重変化との相関は見られなかったことだ。体重が増えた人も減った人も、睡眠時間が増加し、社会的時差ボケが減少していた。この結果は、睡眠不足や社会的時差ボケが肥満の要因とされてきた「定説」を覆すものだ、と柴田教授は指摘する。 「今回の研究成果は、睡眠不足や社会的時差ボケの解消よりも、朝型─夜型の変化、それに伴う活動量や間食、睡眠の質の変化が短期間の体重変化につながったと考えられるものです。つまり、外出自粛により平日・休日にかかわらず、睡眠時刻が朝型化(早寝、早起き)した人はやせ、夜型化(遅寝、遅起き)した人が太ったことが明らかになりました」  とはいえ、夜型の人が朝型に変えようとしてもなかなか生活を切り替えられないのが実情だろう。朝型になりやすい、夜型になりやすいという傾向は、食事や就労パターンなどの生活習慣、夜遅くまでのスマートフォンの使用といった外的環境、体内時計をコントロールする「時計遺伝子」という遺伝的素因などの影響を受けるという。  また、多くの研究で夜型は朝型よりも健康を害しやすい結果が出ているという。朝型に切り替えるにはどうすればいいのか。 「朝起きたらしっかり光を浴びる。朝食を取り、夕食は遅くならないようにし、夜食は夜型化するのでやめる。遅い時間帯のスマホはやらず、朝に回す。運動は朝から夕方までに行い、夜間はやらない」  柴田教授は「朝型化」の方法をこうアドバイスし、今後の取り組みに意欲を示す。 「夜型の人は遅れやすい体内時計を持っており、朝型生活にトライしても気を抜くと夜更かしや朝寝坊をしがちです。今後、夜型化しやすさに負けないような生活習慣の提案やサプリメントなどを開発したいと考えています」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2020年11月9日号
AERA 2020/11/09 07:02
強盗被害の里美ゆりあが語る波乱すぎる半生「私も若いときグレてた。加害少年たちのことわかる」
強盗被害の里美ゆりあが語る波乱すぎる半生「私も若いときグレてた。加害少年たちのことわかる」
里美ゆりあさん(ティーパワーズ提供)  東京・中目黒駅前にある45階建てタワーマンションの一室に、宅配業者を装った少年らが押し入り、現金約600万円を奪う強盗事件が起きた。事件は10月26日午前10時半ごろ発生。5時間後には実行犯の17歳~19歳の少年3人が“スピード逮捕”された。約400万円は見つかったが、残り約200万円の行方は不明のままだ。  この事件で注目を浴びたのが、被害を受けた里美ゆりあさん(35)だ。被害者でありながらも、名前と顔を出し、現場で被害の状況を自ら訴える姿が報じられた。  里美さんは本誌のインタビューに応じ、事件をこう振り返った。 「犯人は私が1億円持っていると思い込んでいて、1人が私を押さえつけている間、もう1人は炊飯器から冷蔵庫、下駄箱の中まで開けて20分くらい必死に現金を探していた。私は言ったんですよ。『逆にすみません、1億なくて』と。少年は『本当にねぇ!』と、残念がっていてね。国税局並みに『回収!』って勢いよく乗り込んできたのに」  里美さんは、これまでに400本以上ものAVに出演するセクシー女優。2008年にデビューし、ピーク時は単体1本で数百万円を稼ぐ売れっ子だった。しかし、2014年に東京国税局から2億4500万円の所得隠しを指摘され、1億7000万円の追徴金を課されている。犯行に及ぶ少年たちに、「私も男だったら、あんたたちにみたいになっていた」と声をかけたと言う。 「今回来た少年たちのように、私も10代のころはグレて、犯罪にも手を染めたことあるから……。コロナ時代でお金がなくて、卑怯な大人にそそのかされたんじゃないかな」  強盗事件へのリアクションといい、その後のメディア対応といい、里美さんには何か、達観したような様子がある。いったい、どんな人生を歩んできたのか。本誌の取材に、その半生を包み隠さず語ってくれた。  1984年、横浜市鶴見区で、里美さんは愛人の子として産まれた。母子家庭で、お母さんの味といえるような母親の手料理は食べたことはなく、カップラーメンで育った。家族団らんの食卓を囲ったことはなかったが、祖父母には可愛がられた。  友人の家に泊まりに行くようになったところから非行に走っていく。はじめは、欲しいものがあるのにお金がないからと、万引きをした。12歳でバイクを盗んだと明かす。 「原付の免許は16歳にならないと取れないから、盗むしかないじゃん、っていう発想だった。14歳の時、ノーヘルで走っていたら、お巡りさんに呼び止められて『お前初めてじゃねぇな』ってね。車も無免許で運転した。危うく私も刑務所へ行くところだった」    14歳にしてイメクラで働きだすが、性病をうつされ、1カ月で店をクビになった。イメクラでは、学生服や体操着のコスチュームを身にまとい、客の相手をしていた。 「全身入れ墨のお客さんが来た時は、14歳だったからやっぱり怖かった」  過去には、バタフライナイフを片手に持った交際相手の男性が家に押し入り、連れ出されそうになったことがあった。男性が家にある有り金をかき集めている隙に逃げ出した。そればかりでなく、援助交際をしていた相手に車で拉致されそうになった経験もあったという。 「いろいろ危ないことに手を出すから、いろんな目にあうのよ。自業自得なの」  その後、スナックや「おさわりパブ」なども経験する。  AVに出演するきっかけは、表参道でのスカウトだった。はじめは、スカウトマンから深夜番組に出演しないかと声をかけられた。事務所に付いていくと、グラビアとAVもあると提案された。夜の水商売より、AVの方が稼げると思った。入口は金だった。 「AVに出てるのに親御さんは何て言っているんだって、よく聞かれる。けど、昔からいろいろやってきたから、親は全く驚いてはいなかった。自分のことは自分でしろという家族。お金がなきゃ、自分の体を売ってでもいいから金にすりゃいいとね」  AVの撮影は15時間に及ぶこともあり、心身ともに疲れ切るが、撮り終えるとジェットコースターに乗った後のような高揚感を得られると話す。今も現役だ。 「ピークの時より10分の1にギャラは減ったけど、今はお金じゃなくて、意地で続けている。需要があれば80歳までやりたい。おかしいかな? 倒れるまで、一生貫き通す気でいる」  過去を包み隠さず明かし、気丈に振る舞う里美さん。だが、ショッキングな強盗事件に遭遇したことに加え、その後、メディアのインタビューに多数出演したことで、ネット上では『売名行為』などと批判を投げかける人もいる。心は折れないのだろうか。 「国税局にしても、強盗にしても、もう一刺しで来てくれって思いましたよ。全力で生きていると、立ち向かってくる人もいる。けど、生かされちゃったから、とりあえず負けずにやっていくしかない。でも、心はとっくに折れていて、折れっぱなしよ」  そんな里美さんが、これまでで一番、傷ついたという出来事を明かしてくれた。  親からの愛情は受けず、自力で生き抜いてきた里美さんは、23歳で最愛の恋人と巡り合う。2歳年上のその男性は、恋人としてだけでなく、父親でもあり、友人でもあった。 「彼にすべての役をやってもらってね、依存してしまった。彼を両手で囲うようにして大事にしていたのよ」  しかし、クラブで出会った人から、儲かる仕事があるとそそのかされ、男性はカード詐欺を働く。何度も引き留める里美さんに、男性はこう言い放ったという。 「辞めてくれって言うけど、お前はAVやめれんのか」 「AVは犯罪ではないじゃない」 「お年寄りをだましているわけじゃない。カード会社が補償するんだから」  結局、男性は逮捕されて服役することになった。 「大好きな彼を失って、空っぽになってしまった。寂しすぎて、ウサギみたいな気持ち。寂しさを埋めるように、そこから男に走ってね……」  総じて若気の至りだったと、里美さんは振り返る。 「犯人の少年たちも同じだろうけど、まっとうに生きろと言われるのは嫌なんですよ。なにふざけたことを言ってんだってね。まっとうじゃなくてもいい。私のポリシーは、人を傷つけるようなことはしないってこと。私も道は外れてきたけど、身を売ってでも稼いでいくしかないから、これでいいの。私はエロで人に夢を与えているんだから」  今回の強盗被害は、波乱に富む彼女の人生における一幕に過ぎなかったのかもしれない。    すでに20社以上ものメディアから取材を受けたと言う里美さんの声は、かすれて聞こえた。玄関で取材するさなか、時折開けられるリビングの扉から、ケージが見えた。中には、ピンと立ったウサギの耳があった。招かれざる客の相手する主人を心配するかのように、こちらに耳を向けていた。   (本誌・岩下明日香) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/11/06 20:58
リモート交流で作る人脈がアイデアに効く! リアルよりネット上の「弱いつながり」が効果的な理由とは
渡辺豪 渡辺豪
リモート交流で作る人脈がアイデアに効く! リアルよりネット上の「弱いつながり」が効果的な理由とは
「こくちーずプロ」をはじめ、ネット上では様々な無料の交流会が紹介されている。「弱いつながり」を作るには最適だ(イメージ写真)(撮影/写真部・高橋奈緒) 「飲み会がなく家族か同僚としか話してない」。アイデア枯渇の原因だ。リモート形式の交流会を活用して生まれる関係が、大きな力になる。AERA 2020年11月9日号は、オンライン異業種交流会の魅力に迫った。 *  *  *  ビジネスパーソンにとっては就業時間以外の使い方も重要だ。人脈を広げる飲み会や異業種交流会はコロナ禍でめっきり機会が減ってしまったが、リモートを活用することでそれを補ったり、もっと力になる人脈が作れたりするという。  10月13日、Zoomを使った異業種交流会をのぞかせてもらった。イベント支援サービス「こくちーずプロ」に登録している名古屋市在住の松若志帆さん(27)の主催イベントだ。 ■リアルより心を開ける  午後8時。約20人の参加者の顔がずらりと並ぶパソコン画面に入室した。参加者が口々にあいさつを交わし、和気あいあいとしたムードが漂う。この交流会は5月中旬以降、毎週火曜日に開催。毎回、参加者のほぼ半数をリピーターが占める。交流会は1時間半。無作為に振り分けられた3~4人のグループを20分ごとに移動して交流するシステムだ。  筆者が加わった男女2人ずつのグループは、全員がこの会の常連だった。都内在住の契約社員の女性(55)が参加の経緯を話してくれた。 「以前、リアルの異業種交流会に参加したんですが、男性ばかりで、しかもビジネス、ビジネスっていう感じの圧が強すぎて……。その点、この交流会の参加者は20~60代と年齢層が幅広く女性もいるので、いろんな人の人生観や考え方に触れられて勉強になります」  そして、女性のこんなサプライズ報告に拍手がわき起こった。 「私、会社を辞め、別の仕事に移ることを決意しました。この交流会で皆さんポジティブに生きていらっしゃるのを感じ取れたので、私もいくつになっても再スタートを切れると思い、進路変更することにしました」  女性の背中を押した一人がこの中にいた、愛知県在住のシステムエンジニアの男性(56)だ。ポロシャツ姿の男性は穏やかな口調で自己紹介を始めた。 「この交流会で何度も話しているので、皆さんご承知だとは思いますが、僕は2回、夜逃げをしているんです」  1回目は実家のコンビニを店じまいした際、2回目はパチスロで借金を作り、追い込まれたのが原因という。その後メンタルの病を抱え、人間関係もほぼ断っていたが、5年ほど前にもう一度人生をやり直そうと、リアルの異業種交流会に参加し始めた。しかし、ぐったり疲れて名刺の束しか残らない、ということの繰り返しで人脈の構築にはつながらなかった。ところがコロナ禍以降、リモート形式の交流会に参加したところ思いのほか楽しく、毎日のように参加するうち、仲間も増えたという。 「今も会社ではほとんど話をしないのですが、Zoomだと自宅から参加できるのでリラックスして心を開け、対面に比べ突っ込んだ話もできます。自分の顔が見えるので笑顔で話す練習にもなりました」  男性は酔っ払っている人やたばこを吸っている人との対話は苦手だが、リモートなら気にならないという。 「まずはリモートの人間関係で社会的信用を取り戻し、来年あたりから本格的にビジネスを始動したいと考えています」 ■効率的に情報収集可能  別のグループで相席になった男性(50)は、大阪府内で複数の広告会社を経営。「自社の内部留保の投資先を探す」という明確な目的を持って参加している。今年1月以降、リモート交流会で知り合ったのがきっかけで事業に結びついたケースは4件あるという。リモートならではの情報収集術について男性はこう話した。 「今こうやって4人が画面に並んでいますが、4人でみっちり話せる機会ってゴルフぐらいしかないですよ。リモート交流会はゴルフに行くより、よっぽど効率的に情報収集できます」  交流会ではビジネスのこみ入った話はしないが、親しくなればLINEでつながって後日、1対1でじっくり話ができる。 「独自のアイデアや技術でユニークな事業展開をしている人とも出会えます。そんなときは宝石を見つけたような感覚でワクワクしますね」  参加者の中には、自分が所属する会社の実情をオープンにしゃべってくれる社員もいるため企業や業界の内情を知るには打ってつけで、2日後には、この交流会で知り合った社員の勤務先の社長と面談予定だという。 「リモート交流会で知り合った社員の方が、社長に話をつなぎます、ということになって、直接会うことになったんです。M&Aが目的です」  主催者の松若さんは名古屋市内の病院に勤務する看護師で、ファイナンシャルプランナーとしても働く。リアルの異業種交流会を月数回開催していたが、コロナの影響で5月以降、リモート形式に切り替えた。これまでのべ約500人が参加。保険、不動産、メーカー、運送、着付けの先生、弁当販売など様々な業種の人と知り合い、10人とビジネスにつながったという。 「国内はもとより世界中の人と瞬時につながれるのが一番の魅力です。ニュージーランドや英マンチェスター、米ニューヨーク在住の日本人も参加してくれました」(松若さん) ■目先の利害超えた人脈  それぞれがくつろげるスペースから気軽に参加できるのもリモートの利点だ。自宅以外にファミレスやカフェから参加する人もいるという。 「だから、すぐにざっくばらんに打ち解け合えるし、直感もひらめきやすいんです」  松若さんは9月、交流会で知り合った愛知県在住のメイクアップアーティストとコラボでリモート形式のセミナー「ズーム映えするメイクアップセミナー」を企画、開催した。 「メイクの先生とコラボイベントを主催するなんて思いもよらないことでした。でも出会った瞬間、この人とコラボしたいというアイデアが浮かんだんです」  松若さんは、ビジネスの人脈づくりという当初の目的にこだわらなくなっているという。 「目先の利害は度外視して、友人感覚で会える人を全国に持つことができる楽しさに目覚めたんです」  ネット上で知り合い、リアルで会った人は30人を超える。「ビジネス抜きでシンプルに仲良くなりたい」と思える人がほとんどだ。利害関係が絡まない「弱いつながり」のほうが、素の自分を見てもらえる、と松若さんは感じている。 「所属する会社や役職ではなく、互いの人間性を吟味することから始まるのが『弱いつながり』の特徴だと思います。名刺交換から入らないほうがかえって重要な関係になります」 ■「弱い」から強みになる 「弱いつながりの強み」という言葉がある。1973年にスタンフォード大学のマーク・グラノヴェッター教授が論文で発表した社会ネットワークの概念だ。  家族、職場の同僚、取引先の担当者といった生活環境や価値観が近かったり、社会的なつながりが強かったりする人たちよりも、趣味の仲間や「知人の知人」など社会的なつながりが弱い人間関係のほうが、有益な情報をもたらしてくれる可能性が高いという説だ。 「強いつながりの人はコミュニティーを共有していることが多く、同じような情報や考え方を持っているので画期的なアイデアを生み出す情報源になりにくい。自分のことをよく知る人のほうが良い人脈だと思っていたら、実は違うということです」  こう解説するのは、経営コンサルタントで地域おこし事業にも取り組む小山龍介さん(45)だ。リモートでは、現実の飲み会などよりも「弱いつながり」をつくりやすいという。  小山さんは6月、東洋大学の丁野朗客員教授らとともに、文化資源を活用して地域おこしを図る「ブンピカ会議」という勉強会を立ち上げた。交流の舞台はフェイスブックだ。共通のテーマでメンバーを集め情報交換できるグループ機能で首長を含む約200人で活動状況を共有しているほか、動画のトーク番組を毎月配信。クロストークで各地域のキーパーソンが実践例や課題を議論している。「地域限定だった情報もネット上だと幅広く共有できる」という。  一方で、リアルの重要性にも気づいたという。リモートでしか対話したことがない間柄の場合、番組出演交渉がうまく進まないケースが多かった。ネット上のみのつながりに対する不安や警戒心が人々の間に根強いことの表れと見られる。こうした経験も踏まえ、リアルで築いた信頼関係が土台にないにもかかわらずリモートでいきなりビジネスの話を持ち込むのはNGだとアドバイスする。 「最初からビジネスチャンスありきで考えるとお付き合いが打算的になるので、利害を絡めないことが重要です。信頼関係のない人同士のコミュニケーションは『take』(得る)ではなく、『give』(与える)から入るほうがスムーズに展開できます」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2020年11月9日号
AERA 2020/11/06 07:02
【現代の肖像】映画監督・白石和彌 不条理にもがく人間の有り様を映す
【現代の肖像】映画監督・白石和彌 不条理にもがく人間の有り様を映す
納得がいくロケ地を粘り強く探し続ける。選ぶのは郊外が多く、その土地の空気感が映画に滲み出る(撮影/松永卓也) 「ひとよ」の舞台となったタクシー会社。実際のタクシー会社の建物をほぼそのまま使い、ブルーシートで周囲を覆い撮影した。公開後、プロデューサーとともにロケ場所を提供してくれた人々へ挨拶にまわる監督は意外に少ない(撮影/松永卓也) 若松プロの先輩監督・井上淳一と新宿にある映画人のサロン的なバーで言葉を交わす。日本の映画界を取り巻く状況は世知辛い。のちに、ミニシアターをコロナ禍の影響から守る運動も2人は担うことになる(撮影/松永卓也) 昨年11月に大分県別府市で開かれた、第3回Beppuブルーバード映画祭で「彼女がその名を知らない鳥たち」の上映が行われた。原作となる小説などを積極的に探したり、映画会社などに企画を持ち込んだりしたことはほとんどない(撮影/松永卓也) いちばん好きな映画を聞かれると、白石は巨匠・小林正樹の「上意討ち 拝領妻始末」(1967年)と「切腹」(62年)を挙げた。「時代劇はいつか撮ってみたい」(撮影/松永卓也 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  2013年に「凶悪」で映画監督としての地位を確立すると、「孤狼の血」「凪待ち」「ひとよ」など、話題作を世に出してきた。  映画とは「理不尽なもの、不条理なものを描くためにある」と、白石和彌は言う。だから、暴力的な表現も蓋をせず描く。  師事した若松孝二の「反権力」の精神も引き継いだ。表現の自由が危ぶまれる日本に危機感を抱き、理不尽さに声をあげる。  薄日が差す昨年12月のある日、白石和彌(しらいし・かずや)(45)は、茨城県のうら寂しい田舎町を早足で歩いていた。工場群がむこうに見え、煙突が吐き出す煙が空をどんより重くさせている。住宅地の中に、キャバクラや居酒屋が密集する一角がふいにあらわれる。ここは、その1カ月前に公開された白石の映画「ひとよ」の撮影地だ。白石はお世話になった人へ挨拶をしがてら、映画のロケ地を案内してくれた。  「ひとよ」は、佐藤健(31)、松岡茉優(25)、鈴木亮平(37)が演じる3兄妹の母親役の田中裕子(65)が、家族に暴力を振るう夫を、経営しているタクシー会社のタクシーで轢(ひ)き殺すところから始まる。一夜にして運命が変わってしまった母と子どもたちが、15年後に再会し、それぞれが抱える事情をぶつけあいながら、再生していく物語だ。  白石は、作品の舞台となるタクシー会社、劇中で佐藤がエロ本を万引きするコンビニ、松岡が働くキャバクラ、鈴木が勤める電気屋と、次々と回っていく。映画の世界観に合うタクシー会社を見つけるのには半年かかり、クランクインをあきらめる寸前だったという。さらに、田中のスケジュールは1年待った。 「映画の冒頭、豪雨のなかで夫を轢き殺したシーンで、田中裕子さんが着るタクシー会社の制服のネクタイが曲がっていたんです。その感じがいいなと思っていたら、実は縫いつけてあった。すごいなと思いました。ネクタイの曲がり方一つでそれまでの経緯をあらわしている。ぼくは情念の女優として田中さんが日本でいちばんだと思っている。待ったかいがありましたね」  ■小学校のとき両親が離婚、変化に気持ちが追いつかず  映画監督の若松孝二に師事し、2010年「ロストパラダイス・イン・トーキョー」で長編映画デビュー。13年に「凶悪」で数々の監督賞を受賞して注目を集めると、17年の「彼女がその名を知らない鳥たち」でブルーリボン賞監督賞を受賞。翌年も「サニー/32」「孤狼の血」「止められるか、俺たちを」で同賞を2年続けて受賞している。「ひとよ」もまた、19年に「キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞」を受賞した。今、白石作品には著名俳優たちがこぞって出演したがる。  「日本で一番悪い奴ら」や「孤狼の血」「ひとよ」など、多くの白石作品に出演した俳優の音尾琢真(44)は人気の理由をこう述べる。 「どの役も、ちゃんとキャラクターが立つような演出をしている感じがするんです。メインの俳優が存在感を出すのではなく、その物語を生きる人になっている。主役も脇役も関係なく、どの役もおもしろくしようという思いが白石さんにはあって、役者は違和感なく演じられるんです。他の監督だと、主役を引き立てるためだけの脇役だったりとか、抵抗を感じる役柄も多いのですが」 「ひとよ」の原作は、劇団「KAKUTA」を主宰する桑原裕子(43)の舞台である。桑原は映画化に際し、この作品を単なるヒューマンドラマや、家庭内暴力や母親の病理といった社会派ドラマにしてほしくなかったという。 「白石さんの『凶悪』は、バイオレンスで恐ろしいシーンがいくつも出てくる一方で、市井の人々の現実的な闇も出てきます。私は何度も見返せないくらいつらいんですが、こういう暗闇を知っている人は、その人たちが本来求める光や温もりも見ているはずだと思うんです。白石さんは、あくまで“人間の有り様”を描く方だと思うので、信頼していました」  白石の映画には、必ずと言っていいほど暴力シーンが出てくる。「ひとよ」もまた、どこか殺伐とした郊外に生きる現代の家族のなかに、見えにくい暴力が存在する。  白石自身はノンフィクションを好み、作品は有名事件よりも市井の事件が多い。「凶悪」は獄中にいる死刑囚が、殺人事件の真相を雑誌編集部に手紙で告発するという実話をもとにした作品だが、これでもかというほど血が流れ、人間の命がおもちゃのように扱われる。「孤狼の血」は抗争中の暴力団と警察の血なまぐさい闘いを描いた。「ロストパラダイス・イン・トーキョー」や「麻雀放浪記2020」「凪待ち」など、映画の題材は多岐にわたり、タブーとされているテーマや、人間の本性をむき出しにしたような映画の方が多い。その中に暴力描写がある。 「映画ってものは理不尽なもの、不条理なものを描くためにあると、物心ついたときからずっと思ってきましたから。エンターテインメントとしての暴力をこれでもかってぐらい描くことは好きです。でも、暴力を肯定しているわけではないんです。暴力って理不尽なものについてまわるでしょう。それに蓋をしないだけ。映画の題材は何でもいいんです」  1974年に札幌で生まれた。小学校低学年の一時期は名古屋に住んだが、父は一つの仕事が長続きせず、母はキッチンドランカーで酒浸りの生活をしていた。両親のケンカが絶えなかった。ある日、白石は告げられる。「今日から別々に暮らすから」。両親の離婚が決まったのだ。白石は母と弟と共に、母親の郷里の旭川市に移り住んだ。名字も母方の「白石」に変わった。 「当時の鬱々とした気分は今でも鮮やかに思い出すことができる。普通に生きていても、子どもにはあらがえない壁や不条理が、とつぜん立ち現れる。突き詰めると、それは精神的な暴力だと感じていました」  離婚で父の存在が家庭になくなると、その変化に気持ちがついていかなかった。両親の離婚を、友だちに話すことができなかった。映画と出会ったのは、このころだ。  ■上京して「映像塾」へ入塾、深作欣二などの謦咳に接す  新しい自宅から徒歩5分ほどの幹線道路沿いでは、母方の祖父母と叔母が食堂を営んでいた。そのすぐ前にはバス停があり、常に人が集まっていた。そのせいだろう、映画会社がポスターを食堂に貼らせてほしいと頼んできて、そのお礼に映画の上映券を毎月くれた。小学生だった白石はその券で祖父母や叔母に連れられて、もっぱらメジャーな洋画を観るようになる。それが映画にのめりこんでいくきっかけになった。  レンタルビデオ店が一世を風靡していたこの時代、中学生のときは日活ロマンポルノにはまった。高校に上がるまで洋画、邦画問わず、店にある作品を観まくった。それにあきたらず映画専門誌を読むようにもなり、とくに撮影現場のレポートにひきつけられた。 「映画には俳優だけでなく、作り手がいるという当然のことを認識するようになった。撮影現場訪問記がとくに好きだった。故・相米慎二監督の撮影現場で助監督が右往左往している様子がレポートされていたりして、“ああ、お祭りをやっているんだな、楽しそうだな”という感覚になり、映画の作り手として自分もそこに加わりたいと強く思うようになった。他の道へ進むという選択肢はまったく思い浮かばなかったんです」  高校を卒業すると、札幌の映像技術系の専門学校に通ったが、カメラマン養成を主軸に置いた学校だったせいか、映画論を闘わせるような相手は得られなかった。卒業後に「そんなに映画が好きなら」と母親が背中を押してくれたこともあり、北海道を出た。  最初は埼玉県所沢市にアパートを借りて、ファミレスなどでアルバイトをしながら、95年、映画監督の中村幻児(72)が主宰していた映像クリエーター養成機関「映像塾」に入った。学費が安かったことが選んだ理由の一つだったが、映画表現を志す者の梁山泊(りょうざんぱく)のような空間で、20代から40代までの人が全国から幅広く集まり、のちにともに仕事をする脚本家などとも知り合った。  白石はこの頃から小林正樹らが監督した古い日本映画をはじめ、「ATG」(日本アート・シアター・ギルド)や「シネフィル」系の、インディペンデントで前衛的な作品も観るようになった。映像塾では映画制作のイロハを学び、深作欣二や若松孝二など錚々(そうそう)たる講師陣が映画論をぶった。彼らの謦咳に接し、白石は「映画とは社会の理不尽を描くものだ」という考え方を固めていくようになる。  ■若松孝二から教えられた映画は「権力側から描くな」  あるとき、若松が助監督を探していると聞く。若松は60~70年代に「暴力革命」を妄信する若者たちや、犯罪やセックスを積極的に描き、一部で熱狂的人気を得ていた。ずっと若松作品を観てきた白石は、まっさきに手を挙げた。  95年、白石は東京・代々木にあった若松プロに通うようになる。出会った当初に若松から言われたことを今も覚えている。 「おまえ、誰か殺したいやつはいないのか?」  若松との仕事は大変だった。助監督として現場に入って間もなく、白石はミスをしてしまった。若松からは「俺の視界に入るな!」と怒鳴られた。それからも、「お前、集中力がない」「なんでできないのか」と、白石としてはしっかりやっているつもりでも怒られた。理不尽だと感じることもあった。若松は思ったことを何でも口に出してしまう人だった。何人ものスタッフがやめていく中で、白石もまたやめようと思う日もあったが、少し経つと「メシ行くか」と若松が声をかけてくる。憎めない人でもあった。  若松プロに専属で所属した2年間で、白石は若松から「権力側から描くな」と徹底的に教えられた。 「ぼくが若松プロに入った時期が遅かったせいもありますが、暴力革命を賞賛するような空気はなかったし、ぼくもそれに共感したわけではない。若松さんも、暴力による革命は、内ゲバのように別の暴力を生み出してしまうことを知っていたと思う。世の中で起きていることをちゃんと描き、怒りとやさしさを持ち、悲しめる人間たれということを教わった」  その後、行定勲(51)や犬童一心(59)などの作品にも携わり、10年、白石は「ロストパラダイス・イン・トーキョー」で長編映画の監督デビューを果たす。映画を観た若松からは「よかったよ」と声をかけられた。13年、「凶悪」で数々の映画賞を取ると、白石はアウトローを得意とする監督として一気に認知度を高める。「凶悪」で脚本を担当した高橋泉(46)は、白石をこう評価する。 「若松さんが直に権力に向かい合っているとしたら、白石さんは権力に翻弄される人や、多層化して複雑化した社会を介して権力というものに向かい合っていると思う」  高橋が白石と映画のロケハンのために、ある殺人事件現場に行ったときのこと。ふと、白石の姿が見えなくなった。捜すと、白石は被害者が殺害されたであろう場所に手を合わせていたという。 「本気で向き合おうとしているなと思った。ぼくらは撮り終えたら忘れていくものですが、彼はそうじゃないなと。ニュースで死刑執行のテロップが流れると、白石さんは“どきっとする”って言ってました。自分が映画で描いた事件の加害者じゃないかと思うそうです」  ■暴力は時代で変わる、時代に合った撮り方を  若松プロの先輩で、映画監督の井上淳一(54)は、白石の自伝的短編映画「マンドリンの女」を例えに出して、白石をこう分析する。 「両親のケンカが絶えなくて、お母さんがいつも酔っ払ってる家族が描かれてます。けれども、そんな家庭は“普通”じゃないという、社会の価値観に圧倒的な違和感があるんじゃないかな。普通の家族っていったい何だっていう。どんな家庭もどこかいびつだし、“普通”だと思っている日常の、薄い膜を隔てたところには常に暴力が隠れている」  白石は、暴力描写の過激さをふくめ、若松からの影響を自他ともに認めている。しかし、若松がテーマとして取り上げた「暴力革命」を、白石は世代的にリアルに感じられなかった。今のような複雑化した時代には、その時代に即した演出や撮り方があると考えている。 「暴力は時代によってかたちを変えて続いていきます。ドメスティックバイオレンスだったり、民族差別や性暴力、児童虐待、障がい者へのヘイトクライムだったり。ぼくは社会のさまざまな不条理のなかで、弱い立場に追いやられている人、うまく生きてこられなかった人、生きることができない人、社会の底辺であえいでいる人とか、もがいている人とか、外れてしまった人を描きたいんです」  12年10月12日、若松は深夜にタクシーにはねられ、5日後にこの世を去った。76歳だった。このとき白石の一つの青春が終わった。だが、強い反権力性を貫いた若松の魂は引き継がれている。  昨年、ミキ・デザキが監督した慰安婦をテーマにした映画「主戦場」の「KAWASAKIしんゆり映画祭」での公開が直前で中止に追い込まれた。上映に対して抗議を受けた共催の川崎市が、主催者に懸念を伝えた結果だった。白石は即座に若松プロとともに「過剰な忖度により『表現の自由を殺す行為』」として記者会見を開き、同映画祭で上映予定だった「止められるか、俺たちを」を取り下げた。 「若松さんならどうしただろうと思ったんです。だから近くの会場で無料で上映した。抗議の意思は行動に移す必要があると考えています。公金を使うことに対する批判もあったようですが、そもそも公金とはいろいろな考えの人が出した税金です。それを公権力や一部の声、インターネットの顔の見えない人間たちの悪意に怯えてやめるなんておかしい」  メディアの横並び風潮にも強い嫌悪感を示す。白石作品の常連俳優、ピエール瀧が昨年3月に薬物使用で逮捕されたとき、瀧が組む音楽ユニット「電気グルーヴ」の音楽が配信停止になるなど、メディアが一斉にピエール瀧という存在を消した。そんな中で白石は、瀧の出演する「麻雀放浪記2020」を、東映の協力を得てそのまま上映したのだ。 「薬物依存は病気なので治療するものです。クスリをやった人間をメディアのなかで抹殺してとりつくろおうとするだけで、問題と向き合おうとしない。もう思考停止ですよ。人間が堕ちていったり、再生したり、贖(あがな)ったり、生き直していくということを描いて、社会に問うのがメディアの中でのぼくらの役割なのに」  理不尽や不条理な出来事は誰の身にも降りかかってくる。白石もそのことをよく知っているのだろう。若松の他にもう一人、白石は大事な人を失っている。自分と弟を育ててくれた母親だ。白石が35歳ほどのときに、還暦をむかえたばかりの母が交通事故に遭い世を去った。相手はヘッドライトをつけていない不注意運転で、道路を横断中にはねられた。 「ぼくにとってすごく大切な2人が、たまたま同じ死に方をしました。人間は予想できない突然のことと、隣り合わせで生きているんです」  若松は撮影中いつもこう吠えていた。「民衆に対して刃(やいば)をつきつける」。ぼくもいつもそう思っていますよ、と白石は静かに言った。(文中敬称略)      * ■しらいし・かずや 1974年 北海道札幌市生まれ。愛知県名古屋市で一時期暮らしたが、両親の離婚にともない北海道旭川市に引っ越し、シングルマザーとなった母親に育てられる。地元の高校卒業後、札幌の映像技術系専門学校を経て、上京。   95年 映画監督・中村幻児主宰の映像塾に3期生として参加。のちに師事する監督・若松孝二を含め、深作欣二、崔洋一、阪本順治など諸監督の映画論に触れた。若松プロダクションで助監督としてスタートしてからは、行定勲、犬童一心などの作品にも参加した。 2010年 「ロストパラダイス・イン・トーキョー」で長編作品の監督デビュー。   13年 「凶悪」が公開。原作は『凶悪 ―ある死刑囚の告発―』(「新潮45」編集部編)。この映画で日本アカデミー賞優秀監督賞など、数々の賞を総なめにする。   16年 「日本で一番悪い奴ら」公開。原作となった『恥さらし―北海道警悪徳刑事の告白』(講談社文庫)の著者・稲葉圭昭は元北海道警警部で、数々の違法捜査に関与し、覚醒剤取締法違反、銃刀法違反の罪で懲役9年となった。この映画にも出演した俳優・音尾琢真の父親は、稲葉の元同僚であったことがのちに判明。   17年 「牝猫たち」「彼女がその名を知らない鳥たち」公開。   18年 「サニー/32」「孤狼の血」「止められるか、俺たちを」が公開。「止められるか、俺たちを」は、若松プロを舞台に描かれた。「サニー/32」は、長崎県佐世保市で04年に起きた小学校同級生殺人事件をモチーフにして、インターネットで加害者が神格化される異常な現実を描いた。   19年 「麻雀放浪記2020」「凪待ち」「ひとよ」が公開。現在、薬物依存者のリハビリ施設「ダルク」の取材を進めている。 ■藤井誠二 1965年、愛知県生まれ。ノンフィクション作家。『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』で沖縄書店大賞沖縄部門受賞。最新刊に『路上の熱量』。 ※AERA 2020年5月25日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/11/05 16:00
亀梨和也 二人の恩師がつないだ5年ぶりの舞台 せりふを覚えず向き合った新しい自分とは
亀梨和也 二人の恩師がつないだ5年ぶりの舞台 せりふを覚えず向き合った新しい自分とは
AERA 2020年11月2日売り表紙に亀梨和也さんが登場  亀梨和也さん5年ぶりの主演舞台となる、「迷子の時間 ─語る室2020─」が11月7日から開幕する。演出家と話し合い、あえてせりふを覚えず、稽古初日を迎えた。AERA 2020年11月9日号から。 *  *  *  舞台「迷子の時間 ─語る室2020─」は、前川知大の作・演出による、過去と現在、未来が複雑に絡み合う、謎に満ちた物語だ。亀梨にとって初めてのストレートプレイであり、故・蜷川幸雄演出の音楽劇「青い種子は太陽のなかにある」(2015年)以来、5年ぶりの舞台になる。取材したこの日は稽古4日目にあたった。 亀梨和也(以下、亀梨):5年前の蜷川さんの舞台は、「みんな稽古初日までに台本を完璧に覚えてくる」みたいな噂を聞いて、初日前に共演者と本読みをしたり、万全の備えをして稽古を迎えたんです。  でも、今回、前川さんには「全然覚えてこなくていいです。準備しすぎて硬くなっちゃうのも嫌なんで」「ゆっくり作り上げていきましょう」と言われて。「わかりました」と答えたものの、せりふを覚えない、準備をしないって、やっぱり怖いですね。  ちょうど立ち稽古が始まったんですけど、せりふを覚えていないって、つらいんですよ。すごい“渇き”が出てくるんです。お芝居しているときに「こう動きたいな」と思っているのに、それができない。一言一言台本を見て、大リーグボール養成ギプスじゃないけど、自分の動きではない動きを入れないといけない。そこにどんな効果があるのかはわからないし、プラスなのかマイナスなのかもわからないですけれど。 ■いまを漂ってみる  過度な準備をせず、稽古をしながら脚本の解釈を試していく、という工程は、今回の舞台でのチャレンジでもある。 亀梨:前川さんは、稽古前にみんなに「うまくやろうとしないでほしい」とおっしゃっていて。稽古初日はありえないくらいバタバタして、我ながら「下手くそだな」と思いました。下手だからうまくやろうとしちゃうし、技を入れたくなるんですよね。ジタバタして、自分の情けなさや足りなさを知って、がっかりして稽古を終えるというのは、僕にとって新しい経験です。  この仕事を始めてからの僕は、失敗して恥をかくことを回避するために、本能的に多くの時間を割いて準備してきたと思うんです。だって、ちゃんとしていたいし、カッコつけていたいじゃないですか。だけど、今回の稽古ではあえて準備せずに飛び込んでみよう、と。  まさに「迷子の時間」にいますけど、迷走しているわけじゃない。「ここに行ってみようかな」「あそこに行ってみようかな」と、寄り道したり、直感で進んだりしている。どこにたどり着くかわからない状態ですけど、出口に向かって道を進んでいる感覚だけはあります。  前川さんは、「本番初日にベストでいられればいい」とおっしゃっていました。僕は「今日、試合できます」はいらない、と解釈して、初日に間に合わせるというのは自分を信じてあげて、いまの時間を漂ってみるのもいいかなあと思っています。  先日、(松岡)広大は「座長に合わせますよ!」と言っていたのに、速攻でせりふを覚えてきていて、僕も3日後には完璧にせりふを覚え始めるかもしれませんけど(笑)。  初主演舞台は、故・ジャニー喜多川が手掛けた「DREAM BOYS」だった。05年から12年まで主人公のボクサーを演じ、後輩にバトンを渡した。 亀梨:10代から座長としてジャニー喜多川の舞台に立たせてもらったことは、僕の中で一番大きな経験です。先輩から受け継いだ役をいずれ自分も後輩に渡していきたいなとも思っていました。一方で、(堂本)光一君や滝沢(秀明)君がジャニーさんと舞台を作っているのを見てきて、帝国劇場で主役として立たせてもらって10年という時間を過ごすうちに、心のどこかで疑問を抱くようになったんです。  まず、ジャニー喜多川作・演出の舞台で、作品と向き合う熱量やクオリティーも含めて、光一君を超えられる気が1ミリも感じられない自分がいました。もちろん、僕も舞台に対して全力でぶつかっていたし、誰かを超えるためにやってきたわけでもなかったけど、そう感じた瞬間があったんです。  同時に、外の世界を見たほうがいいのではと思う自分がいた。環境に対して不満はなかったし、とても誇りに思っていたけど、だからこそ「このままでいいのか?」と自問自答しました。それで、区切りをつけさせてもらうことになったんです。  でも、ジャニーさんにとっては、納得のいかない部分があったんだと思います。しばらく、距離がつめられない時期が続きました。 ■縁をつないでくれた  先述の故・蜷川演出の舞台「青い種子~」に挑んだのは、その3年後だ。 亀梨:僕の中で、外の方と組む1発目は蜷川さん以外考えられませんでした。10代で梅田芸術劇場で「DREAM BOYS」に出ていた頃、下の階のシアター・ドラマシティで蜷川さんも公演中で、「YOU、ちょっと一緒に行こうよ」とジャニーさんに連れられて、挨拶させていただいたことがありました。その時に蜷川さんが「亀梨君、早く僕と一緒に仕事しようよ」と言ってくださって、ジャニーさんは「亀はダメだよ。YOUには渡さないよ」と返して、そのやりとりがすごく印象に残っていたんです。 「青い種子~」の稽古中、蜷川さんと「最近ジャニーと話してるのか?」「こういういきさつがあって、ちょっと距離ができてしまったんです」という話になったことがあります。そしたら、たぶん蜷川さん経由だと思うんですけど、ジャニーさんがゲネプロをこっそり見に来たんですよ。その夜に久々に電話をくれて、「YOU、めちゃくちゃ良かったじゃない」と褒めてくれた。ゲネプロ中はジャニーさんの姿は見えなかったし、いるとも思っていなかったから、もうびっくりして。  のちにジャニーさんの病室で、キンプリ(King&Prince)の子たちから「僕ら、亀梨君の舞台を観に行かせてもらったことがあるんです」って言われて、それが「青い種子~」だったんです。「ジャニーさんに『絶対観に行け』って言われた」って。ジャニーさん、僕には全然そんなそぶりを見せなかったけど、後輩への橋渡しをしてくれていたんです。  二人の恩人について語るとき、丁寧に言葉を探した。 亀梨:もしいま、お二人がご存命だったら、僕はきっと「もう一度、一緒にやりたい」と言っていたと思うんです。いまもそういう思いが自分の中にあるので。でも、お二人はもうこの世にはいらっしゃらないけれど、こうして前川さんと出会わせてもらえたことが、大きな意味を持っているように感じています。新しいことに挑戦できていることが自分にとっても大きな一歩ですし、こういう環境を作ってくれた周りの人たちにも感謝して、公演初日を迎えたいですね。 (編集部・藤井直樹) ※AERA 2020年11月9日号
AERA 2020/11/04 11:30
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小泉正典 小泉正典
共働きの妻だけに父の介護は任せられない! 「家族のため」の社会保障
それまで元気に生活していた高齢の親が転倒で骨折した場合、医療の手を尽くしてもそのまま自立した生活が難しくなることがある。今は関係なくても、高齢者の社会保障についての大まかな知識は身につけておくべきだ 小泉正典(こいずみ・まさのり)/特定社会保険労務士。1971年、栃木県生まれ。明星大学人文学部経済学科卒。社会保険労務士小泉事務所代表、一般社団法人SRアップ21理事長・東京会会長。専門分野は、労働・社会保険制度全般および社員がイキイキと働きやすい職場づくりコンサルティング。『社会保障一覧表』(アントレックス)シリーズは累計55万部のベストセラー  社会保険労務士の小泉正典さんが「今後いかにして、自分や家族を守っていけばいいのか」、主に社会保障の面から知っておくべき重要なお金の話をわかりやすくお伝えする連載の第13回。親が高齢になった時に「家族が利用できる」社会保障についてのお話です。 *  *  *  38歳の柳田さん(仮名)は、同居する73歳になる父親の健康について年齢相応には心配はしていましたが、特に不安となることはありませんでした。シルバー人材センターに登録し、現役時代とあまり変わらない元気さで働いている姿を見ていると、親の高齢化を現実として認識することがあまりなかったのです。  ところがある日の深夜、父親がトイレに行く際に廊下の段差でつまずき転倒、ひざ関節のじん帯を損傷し手術してから生活が一変します。手術後もひざの機能に大きな障がいが残り、出歩くことはもとより、入浴など日常生活も介助がないとできなくなりました。それにともなって体全体の機能も低下し始め、近い将来寝たきりになる可能性が現実味を帯びてきました。  共働きである妻に、介護をすべて任せるわけにはいきません。今のところ、介護そのものは生活ができなくなるほどの負担にはなっていませんが、介護保険を適用するための要介護認定の申請や、近くにどのような介護施設があってどんな手続きが必要かなど、複雑な介護保険について一から調べる時間が必要になりました。地域包括支援センターに通うにも、多くの時間が必要です。  いったん家庭と生活の混乱を収めるため、妻と介護を分担しながら柳田さんは、会社と時間をかけて話し合い「介護休業」の申請をすることにしました。 ■介護のために労働者が必ず取得できる「介護休業」と「介護休暇」    冒頭の例のように高齢の親がそれまで元気に生活していても「ちょっとした転倒による骨折」や「軽症と思っていた風邪の悪化」から想像以上に回復が長引き、医療の手を尽くしてもそのまま自立した生活が難しくなることがあります。  これは、高齢者本人の体力とは関係なく、何かのきっかけでどのような家庭でも起こりうることです。今は関係なくても、高齢者の社会保障についての大まかな知識は必ず身につけておくべきです。  この連載で2回にわたって介護保険が適用される介護サービスについて説明してきましたが、今回は高齢者を支える家族に対しての社会保障を紹介したいと思います。  前回解説したように、要介護認定を受けて介護サービスの「特別養護老人ホーム(特養)」や「介護医療院」などに入所する場合は、生活のすべてが施設になるので金銭面を除き家族の負担は大きく減ります。  ただし、これらの施設に入るには、まず市区町村の担当者などから「要介護度」の認定を受け、介護支援の専門家のケアマネジャーとどのように介護をしていくか「ケアプラン」を作らないといけないため、必要になったからといってすぐ、施設などの介護サービスを利用することはできないのです。  また要介護度によっては介護サービスを適用できる施設に入ることができませんし、希望者が多い施設は入所まで待機となる可能性もあります。  このような場合、介護の中心となるのは家族になります。家族の人数にもよりますが、時間を問わず必要な介護のために、働き手となっている子どもやその配偶者が仕事を続けることが難しくなる場合も少なくありません。  メディアなどでも「介護離職」が話題になることがありますが、介護のために仕事をやめてしまうのは、その後の生活を考えるとできる限り避けたいのは間違いないでしょう。  そのような場合に使いたい社会保障が「介護休業制度」です。この制度は、要介護状態の家族の介護を行うために「介護休業」や「介護休暇」、介護のための労働時間の短縮、残業の免除などを事業主に求めるようにできるものです。介護のための休業や休暇は育児・介護休業法で定められているもので、原則的に事業主は休業の条件を満たしている労働者の休業・休暇を拒むことはできません。  なお、介護休業と介護休暇は高齢者に限らず、介護が必要な家族がいる場合に広く適用されます。    介護休業と介護休暇をまとめると以下のようになります。 〇介護休業 要介護状態(負傷、疾病または身体上・精神上の障害により、2週間以上の期間にわたり常時介護を必要とする状態)にある対象家族を介護するため、介護休業の開始日、終了日を明らかにして事業主に申し出ることで休業することが可能。 ・対象家族の範囲:配偶者、子、父母、祖父母、配偶者の父母など ・休業できる期間:対象家族1人につき通算93日まで(93日を3回まで分割取得可能) 〇介護休暇 要介護状態にある対象家族の介護や世話を行う労働者が、年次有給休暇とは別に取得することができる休暇。 ・休暇日数:1年に5日(対象家族が2人以上の場合は10日)まで ・半日単位で取得するも可能(2021年1月からは時間単位での取得も可能)  介護休業の93日といった日数は法律で定められた最低日数で、企業によってはこれ以上の休業制度を定めている場合があります。どの場合でも介護が必要になった場合は、まず勤務先に相談することがとても大切です。 ■申請すると給与の3分の2が支給される「介護休業給付金」  以前この連載で「育児休業」について説明したことがありますが、介護休業も育児休業と同じく休業中の給与について、「ノーワーク・ノーペイ」の原則に基づき事業主は支払いの義務がありません。会社が独自に休業時の給与規定を設けていない限り収入がなくなります。  このような状況で利用したい社会保障が「介護休業給付金制度」です。雇用保険の被保険者が家族を介護するために休業を取得した際に、休業開始前に受けていた平均賃金日額の67%が「介護休業給付金」として休業日数分(最大93日分)給付されます。それまでもらっていた給与の、およそ3分の2が雇用保険から支払われると思っておいてください。ただ介護休業給付金は休業期間の終了後に申請→受給となります。  受給資格は、介護休業を開始した日の前の2年間に被保険者期間が12カ月以上あることです。なお、支給期間中は「まったく働いてはいけない」というわけではありませんが、就労期間が10日以上になると支給を受けることができなくなるので注意してください。また休業中に有給休暇を使うなど会社から給与を受けている場合、支給額が減額または支給されないこともあります。  介護休業給付金の申請先はハローワークですが、基本的には会社が申請手続きを行うので、まずは勤務先の担当部署に依頼しましょう。 なお、介護休暇も同じように事業主に休暇取得時の給与支払い義務はありません。こちらは特に給付金などもないので取得時は注意して下さい。  近年、母親の取得が当たり前になりつつある育児休業とは異なり、介護休業や介護休業給付金の取得はまだそれほど浸透してきているわけではありません。まず自分の状況をしっかり把握し、会社と十分に話し合うことがとても重要です。 ■自治体により介護対象者がいる家庭に給付金が支払われることも  家庭に介護の対象者がいる場合、自治体によっては本人、またはその家族に手当が支給されることがあります。 「家族介護慰労金」(東京都世田谷区、大阪市など/年額10万円)、「おとしより介護応援手当」(東京都中央区/月額2万円)、「在宅ねたきり老人等介護手当金」(金沢市/月額5000円)など名称や支給額は異なりますが、自治体から要介護者がいる家族への支えとして支給しているものです。  要介護度や介護サービスの利用の有無などで自治体ごとに支給要件が異なっていますから、制度自体の有無も含めて一度住んでいる自治体の福祉担当部署に確認することをおすすめします。  介護に関する社会保障は幅広く、種類も多くあります。次回も引き続き生活を安定させるための社会保障の基礎知識について解説したいと思います。 (構成・橋本明) ※本連載シリーズは、手続き内容をわかりやすくお伝えするため、ポイントを絞り編集しています。一部説明を簡略化している点についてはご了承ください。また、2020年10月27日時点での内容となっています。
dot. 2020/11/02 11:30
瀬戸内寂聴、転んで療養中 秘書「瀬戸内の一言に10年間一喜一憂している」と吐露
瀬戸内寂聴、転んで療養中 秘書「瀬戸内の一言に10年間一喜一憂している」と吐露
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「セトウチさんの様子はいかが?」  まなほさんへ  老人の風邪は肺炎を誘発するので命取りになります。セトウチさんが赤ちゃんを可愛がられても、「ダメです、近よっちゃ風邪がうつります」とビシッと言って下さい。  セトウチさんの風邪は退いたようで、先(まず)は安心しました。間もなく11月になります。こよみの上ではまだ秋ですが、このところの寒さは冬仕度を急がせます。今夜辺りから湯たんぽを布団の中に入れようかと思っています。京都の嵯峨野は特に冷え込みます。来客も断って、ひっそり書斎に籠(こも)って、つれづれなるままに往復書簡でも書いて下さい、と伝えて下さい。なんなら、まなほ君は面白い文章を書くので、代筆なり、ゴーストライターになって、セトウチさんを少し休ませてあげて下さい。僕もくたびれた時は(秘書の)徳永にピンチヒッターになってもらい、秘書同士でヒショヒショ話でもすると結構受けるかも知れませんよ。  僕は日替(ひがわ)り病人ですけど、セトウチさんは日替り躁鬱(そううつ)みたいですが、作家は命を削る商売だから、このことがかえって創作の糧になります。画家の業は一晩寝たら、ケロッと消えますが、作家は大変です。書くことによって、さらに業を積んでいく商売ですからね。生きながら天国と地獄を往復したはるんやから、そりゃ毎日気が変(かわ)って当然です。女心と秋の空どころじゃないですから、秋真只中(あきまっただなか)、秋霜烈日です。  死んだらセトウチさんに会えるかどうかと、まなほ君は心配していますが、心配ご無用、お互いに出会って生活していた頃の姿で現(あら)われますから大丈夫。また階が上とか下とかは、向こうに行くと、現世の名誉地位は向こうでは御破算(ごはさん)、素裸のままの人間同士だから、何も心配ないです、と言ってヌードで会うと勘違いしたらアカンよ。まなほ君はよくセトウチさんに「今日のパンティはこれ!」と言ってスカートをめくってパンツを見せていたので、そのパフォーマンスをやるとセトウチさんはハッと思い出して、「あら、まなほじゃないの」と奇声を上げて飛びついて抱きしめてくれるわよ。安心して、お婆(ばあ)ちゃんまで生きて下さい。  やっぱりね! 寂庵絵画塾は三日坊主でしょ。飽きっぽい性格のセトウチさんは熱し易(やす)く冷め易く、猫の目のようにくるくる変るところは僕も同じだから、結末は最初から予知していたので、ちっとも驚きません。こんな風に僕が言うと、セトウチさんは僕を裏切って、裏でこっそり、「ヨコオさんの想像を裏切っちゃおうよ、さあ、描こう描こう」と描き出すそんなオチャメなところがあるんだけれど、そんなセトウチさんの心理を裏切ったことがバレバレになってしまったので、「やっぱり、止めとこ」と言いそうです。ネ? その通りでしょ?  でも風邪は治ったけれど、また足の方がなんだか具合が悪いと風の便りで、僕の難聴の耳にもかすかに聴こえているんですけれど、そんな様子は、この手紙の返信で、報告して下さい。昔、僕がなった足の病気によく似ているので心配です。弱り目に祟(たた)り目みたいですが、これで大きい業(カルマ)を解脱されますね。先は目出度(めでた)し目出度し。  まなほ君のどんな手紙が来るのか楽しみ。先生によろしく。 ■瀬尾まなほ「『瀬戸内転んで静養中』瀬尾代筆続けます」  横尾先生  前回に続き秘書の瀬尾まなほです。風邪が長引いているわけではなく、一昨日の夜中に瀬戸内が転倒してしまいました。  目の上に大きなたんこぶ、そして瞼は赤青黒く腫れ、頭の後ろも打ちましたので内出血し大きく腫れています。すぐ電話をくれたらいいのに、瀬戸内は一人、朝に私たちが来るのを待っていたのです。  足が痛むので、歩く際杖をついたらその杖が滑って転んだ、と。なんのための杖でしょう。医者に診てもらい、骨には異常がありませんが内出血をしているので要様子見の状態です。 「実は隠してるけど悪いこといっぱいしてるのよね。その罰があたったんだ」と瀬戸内。お岩さんのようと自分では言うものの、怖くて鏡の中の自分を直視出来ないようです。しばらくは私たちスタッフが日替わりで泊まり込むことに。もう夜に一人にさせるのは危ないですね。廊下で倒れ、独りで「イタイイタイ」と泣く姿を想像するとかわいそうでなりません。読み書きが腫れた瞼のせいで出来ないので、今回も私が書かせていただきます。本人はこの痛みについて、自分でないと伝わらない、と言っています。早く横尾先生に手紙を書きたいようです。ただもうしんどくて仕事はしたくないと言っています。十分書いた、と。この不調が良くなれば、きっとまたペンを握り、平気で一晩二晩、徹夜をするでしょう。しかし横尾先生の仰(おっしゃ)る通り、今は少し休んでもらいましょう。  瀬戸内のことを作家だから毎日気が変わって当然だと仰いますが、横尾先生は5分前に決めたことが5分後には百八十度変わるなんてことはありますか?  瀬戸内はそうです。好きが嫌いに、おいしいがまずいに。私はそこまで極端に変わることが不思議でなりません。  私が作ったキムチ鍋をそのときは「おいしいね!」と言ってくれたのに、翌日「おいしくなかった」と私に言います。どっちが本当なんでしょう? 私はそんな瀬戸内の一言にこの10年間一喜一憂しています。  スカートをめくってパンティを見せる話、横尾先生よく覚えていらっしゃいましたね。瀬戸内がそのことをよく言うので、サイン会で一度、読者の男性の方が新品の下着をくれました。それももうとうの昔の話で、年を重ねていくたび、瀬戸内愛用のおへその上まである下着に近づいているのでもう披露できそうにありませんし、誰も見たがりません。あの世で感動的な再会を果たしたあとは、もっぱら「先生のはいていた下着、あったかくていいですねぇ」「だから言ったでしょう。まなほはバカにしていたけど。あんな小さいパンティは頼りないって」とそんな話で盛り上がるでしょう。  寂庵画塾の件では瀬戸内が「三日坊主ではない」と反論しました。確かに厳密に言うと1カ月は大盛会だったと思います。「また描くよ!」と瀬戸内が言っています。また出来上がりましたら横尾先生にご覧いただきたいです。  今夜は私が寂庵へ泊まり込みます。真夜中に瀬戸内から呼ばれてもグースカ寝ていて気付かなかったら、と思うと既に心配でなりません。眠りながら起きている方法、横尾先生ご存じではないでしょうか? 瀬尾まなほ ※週刊朝日  2020年11月6日号
週刊朝日 2020/11/02 11:30
武漢の封鎖された日常を記録 ブログ凍結されても書き続けた作家の信念
武漢の封鎖された日常を記録 ブログ凍結されても書き続けた作家の信念
※写真はイメージです (GettyImages)  文芸評論家の陣野俊史さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『武漢日記 封鎖下60日の魂の記録』(方方著 飯塚容・渡辺新一訳、河出書房新社 1600円・税抜き)。 *  *  *  今年1月から4月の76日間、武漢は新型コロナウィルスの拡散を防止するため、封鎖された。むろんまだ多くの人々が記憶に新しいだろう。その武漢で毎晩、ブログを更新し続けた作家がいる。本書の著者、方方(ファンファン)だ。封鎖された日常の機微を細かく伝えていることや、歯に衣着せぬ物言いが話題を呼んで、彼女のブログの更新を心待ちにする人が中国に溢れたという。ほぼ深夜12時に更新されるブログの読者は「億単位」とも言われた。どんなに人口の多い国であれ、この現象は特筆に値するだろう。  じっさい、それはどんな文章なのか。抑えきれない興味を覚えて本書を開くと、まずあっけないくらい日常のことが記してある。  たとえば、封鎖が長引けば最初に問題となるのが、食事。彼女の兄は団地に住んでいるが、団地には機転の利く人が現れて、SNSアプリ「微信(ウィーチャット)」による自主的な野菜購入グループができた。グループに入ると団体購入ができ、袋入りの野菜が定期的に届けられる仕組みができる、とか。生活感に溢れたレポートが目を引く。  それから、武漢に対する愛情。彼女自身が武漢に長く生活しているせいか、街への愛情が随所に顔をのぞかせる。超人的な活躍をみせていた医師が感染して亡くなったとき、あるいは同級生が感染して死亡したとき、著者は驚き、憤り、悲しむ。その感情がまったく何にも忖度することなく書いてある。いまはいない詩人の詩句をアレンジして作った、「武漢よ、今夜私は愚か者に関心はない、ただあなただけを想っている」という言葉は印象的だ。  著者のブログが話題になると、急速に彼女への誹謗中傷が増加する。ブログは凍結されたり削除されたりするのだが、書き込み可能になるや、方方は日記を再開する。最初にウィルス情報を隠蔽した者は誰か、そのせいでパンデミックが起こってしまったのならば、誰が責任を取るのか、ウィルス禍が終息した暁には、そうした事後の検証が何よりも大切だ……、著者は繰り返す。  基本トーンは、自分の意思を強く前面に打ち出しており、ポジティヴだ。だが微信のアカウントから発した文章が削除されたり、ブログが遮断されたりすると、弱気にもなる。「私はまるで弓の音に怯える小鳥のようだ。話していいこと、話してはいけないことの区別が、もうわからない。感染症との闘いは最重要事項だから、全力で政府に協力し、あらゆる指示に従う。私は拳を握って誓う。それでもダメなのか?」  そうした弱気も含め、すべて書いている。そこがこの本の最大の強みだろう。「わずかな時代の塵でも、それが個人の頭に積もれば山となる」。著者の言葉だ。個人の日記は小さな力かもしれない。だがあらゆる形式を駆使して、みんなが記録を残せば、それが財産になる。著者の信念はその一点にかぎってはいっさいブレていない。いいことも悪いことも、情報として入手できたことはすべて書くのだ、と。  当局からも一般読者からも激しい非難にさらされた著者に、恐ろしくなかったのか、と尋ねた人がいる。著者の言葉は明白。「平気です。何も恐ろしくありません。彼らのほうこそ、私を恐れるべきでしょう? 私はプロの作家で書くことが仕事ですから、彼らを恐れるはずがありません」  これほど腹のすわった物書きに敬意を示したい。そのうえで、彼女の作品(フィクション)が、ほとんどまだ日本語に訳されていないことは悲しむべきことと思う。彼女の小説群が日本語に訳される日がはやく訪れることを祈りたい。それとも、本書を映画化するというのはどうか。観たい。 ※週刊朝日  2020年11月6日号
読書
週刊朝日 2020/10/31 17:02
「コミュ力=人の価値」がコロナで変わる? 脳研究者が語る刺激過剰な社会
「コミュ力=人の価値」がコロナで変わる? 脳研究者が語る刺激過剰な社会
東大薬学部教授・池谷裕二、占い師・しいたけ(撮影/写真部・掛祥葉子) 占い師・しいたけ.、東大薬学部教授・池谷裕二(撮影/写真部・掛祥葉子) 「なぜ占いにすがりたくなるのかは科学的に探究する余地のある大きなテーマ」と話す脳研究者・池谷裕二さん。占いを勉強し始めた理由の一つに、「コミュニケーションへの関心」をあげる人気占い師・しいたけ.さん。池谷さんの『脳はすこぶる快楽主義』(朝日新聞出版)刊行を記念して、そんな二人の対談が実現。科学者と占い師という一見、対称的な二人ですが、コロナ後の生き方について語り合いました。 ※【虹プロに見る“運のつかみ方”は? 脳研究者と占い師が語る】より続く *  *  * しいたけ.:僕自身は、このコロナで、どれだけ資本主義の中で生きていたかを思い知らされました。仕事をして、その疲れを旅行に行ったり、おいしいものを食べたりすることで癒やしていたのが、(コロナ禍で)人にも会えず、ご飯も食べに行けず。その低刺激状態で仕事は続けていたものの、本を読む気にもならなかった。コロナは現代人が経験したことのない低刺激状態なんですよね。 池谷:ええ。 しいたけ.:でも、ふと思ったのが、今までは常に刺激状態で、コミュニケーションが重視されすぎていたんだなと。僕は今までもリモート生活のようなものでしたが、友人にしても、お客さんにしても、仕事をして夜遅くまで飲んで、常に新しいネタを仕入れないといけなかった人たちが、初めてちょっと休めたかもしれないと言っていました。情報の更新を止めることができたんです。 池谷:刺激過剰な社会でも、それを消化できる人ならば、特に問題はなかったですよね。それがゆえに、これまでの社会は、人付き合いのうまい人、社交性の高さを、人の価値として重視しすぎだったのかもしれません。 しいたけ.:そう思います。リモートが好きな人もいれば、嫌いな人もいるわけで、これからは、会社ですごい業績を上げている社員の顔を誰も知らないということがあってもいいと思うんです。出社したことがない、幻の社員がいてもおもしろい。 池谷:実際、すごく頭がいいのに人付き合いがうまくない学生が、オンライン会議になったことで、救われているんです。対面だと話せなくても、一人で黙々とやらせるとものすごい成果を発揮する。プレゼンも人前だと苦手だけど、オンラインであれば何百人の前でも話せるという学生もいます。今までむげにされてきた能力が、コロナ禍で有効活用されるのであれば、それはすごくいいことだと思います。 しいたけ.:多様性という言葉は便利すぎて、あまり好きじゃないんですが、そういうことですね。 池谷:はい。それには私たちに寛容さが求められるわけです。しいたけ.さんが「AERA」の連載で、家族が密に集まってしまって息苦しいという相談に対して、「小さい議会」が大切だとおっしゃっていましたよね。小さい議会って、とてもいい言葉だなと感激したんです。 しいたけ.:職場や家庭や友達といった小さなコミュニティーで、ルールについて議会を開きましょうということですね。たとえば、人と会うのが怖い人がいた場合、「1時間だけ会う」というようなルールを作ったらいいんじゃないかと思ったんです。そうやってルールを作ることで新しい一歩を踏み出すのが、これからの時代に必要になるんじゃないかなと。 池谷:小さなコミュニティーなりのルールがあって、それが息苦しくなったら、別の議会を開けばいい。それが世間の多様性というところですよね。境界を作ることでも、つながり方に濃淡をつけることでもいい。今後コロナが収束に向かうときに、元の社会に戻るのではなくて、新しいつながり方を考えられたらいいですよね。 (構成・大川恵実) ■東大薬学部教授・池谷裕二(いけがや・ゆうじ)/脳の健康や老化について探究している。本誌連載「パテカトルの万脳薬」をまとめた『脳はなにげに不公平』(朝日文庫)も発売中。2013年、日本学士院学術奨励賞を受賞。 ■しいたけ./占い師、作家。早稲田大学大学院政治学研究科修了。ウェブ「VOGUE GIRL」で「しいたけ占い」、雑誌「AERA」で「午後3時のしいたけ.相談室」を連載中。 ※週刊朝日  2020年11月6日号より抜粋
週刊朝日 2020/10/29 11:30
隈研吾「東京は破綻する瀬戸際にあった」 新型コロナが与えた都市計画への“警告”
隈研吾「東京は破綻する瀬戸際にあった」 新型コロナが与えた都市計画への“警告”
くま・けんご/1954年生まれ。東京大学特別教授。東京への警告と、その先の展望を近著『変われ!東京 自由で、ゆるくて、閉じない都市』(清野由美と共著)で表明(撮影/写真部・掛祥葉子)  建築は社会生活における重要な基盤だ。新型コロナの流行で一変した私たちの暮らしは、働き方や住まいへの考え方を見つめ直す機会にもなった。国立競技場の設計を手掛けた建築家の隈研吾氏は、そのコロナ禍を「都市計画への警告」と説く。AERA 2020年10月26日号から、隈氏の単独インタビューを紹介する。(聞き手/ジャーナリスト・清野由美) *  *  * ──本来なら今年、東京は「東京2020」のお祭り騒ぎの中にいたはずですが、そうではなくなりました。国立競技場の設計に携わったひとりとして、落胆しませんでしたか。  僕はもともと建築を100年単位で考えているので、それほど深刻にとらえていません。五輪が来年に延期になったとしても、100年のうちの1年の話です。その間にいろいろなイベントが催されるでしょう。そういった機会を通して、みなさんが国立競技場の空間を感じてくれればいいと思っています。 国立競技場/大きなスタジアムを、日本の木造家屋に使われる小径木(細く短い木材)の集合体として挑戦的にデザイン。「木造の都市」を追求する中で、ひとつの達成となった(撮影/写真部・松永卓也) ──隈さんは、コロナ禍をどうとらえていますか。  ある意味、都市・東京にとって助け舟だったのではないでしょうか。建築史をさかのぼると、14世紀のペストの流行は、都市を大きく変える節目でした。それまでの中世のごちゃごちゃした街並みが非衛生的だったということで、ここから整然とした街への志向が生まれたんです。  そのエスカレートした果てが、20世紀アメリカの摩天楼。さらにその果てが21世紀の東京です。日本全体が人口減少、高齢化、空き家問題に苦しむ一方で、一極集中が進み、超高層タワーが林立しました。東京はあきらかにバランスがおかしくて、これ以上いったら破綻する瀬戸際にあった。コロナ禍は都市の惰性に対する警告だったと思います。 ■超高層ヒエラルキー ──超高層をバンバン建てても、東京は世界のイノベーションの潮流には乗り遅れました。  最新のテクノロジーとともに、人の働き方も価値観も激しく変化しているのに、人を大きなハコに閉じ込めることが効率的だ、という古い考えから抜け出せなかったからです。  満員電車というハコ、オフィスというハコ、郊外の家というハコに人が押し込まれ、同じ時間に移動をし、競争を強いられる。僕はそれを批判的に「オオバコモデル」と呼びますが、今やオオバコモデルは効率的でも何でもなく、むしろ非効率なストレスの根源になっています。  テレワークが劇的に進んだように、現代のテクノロジーは、好きな時に好きな場所で仕事をし、眠り、移動をする自由を、すでに我々に与えています。 高輪ゲートウェイ駅/敷地は以前、JRの線路が東京湾のある海側と、山の手の住宅街を分断していた。駅舎だけでなく、配置や動線を含め、建築全体がまちをつなぎ直すことを意図した(c)朝日新聞社 ──隈さん自身も東京で超高層タワーの設計に携わっていますが、矛盾はありませんか。  僕にとってはオオバコモデルの罠に、あらためて覚醒するいいチャンスでしたね。東京は明治維新の時に、それまで独自の生態系を築いていた江戸のまちを捨てて「近代化」に走った。自然環境や歴史など、都市の与条件は欧米とは違うのに無理やり合わせたものだから、発展は奇形的でした。  戦後はオオバコに入ることがエリートであり、そのハコは高ければ高いほどエラい、という超高層ヒエラルキーみたいな意識に、国民が洗脳されました。それで日本人が幸福になったかといえば、あやしい。何よりも、僕自身がそういうプロジェクトに関わったことで、気づくことができたんです。 角川武蔵野ミュージアム/2020年11月グランドオープン予定。ここでは武蔵野台地という立地と「石」という素材に着目。外壁に花崗岩の板材2万枚を貼り付け、地形そのものが建築になったような荒々しさを表現している(c)朝日新聞社 ──テレワークの浸透により、都心の一等地にあるビルですら、テナントのオフィス離れが進行中で、隈さんの言う超高層ヒエラルキーが崩れてきています。  毎日ハコに通っていれば、給料がもらえて、それで郊外に自分のハコを買って生涯安泰……なんてことを信じている人は、もう誰もいないでしょう。つまり、オオバコモデルは戦後の、しかも昭和に限定したフィクションだったんですよ。  コロナ以前の僕は、週1回の頻度で海外出張に出ることが日常でした。欧米、中東、アジアと世界中をぐるぐる回っていましたが、それは自分が現実に住んでいる東京の問題を、先送りにしたかったからでもあった。  でも、自粛でどこにも移動できなくなって、いよいよ自分で落とし前をつけないといけないな、という段階になった。今、自分の中で、「日本とは何か、何が日本なのか」という問いを、繰り返し考えています。 ■不自然さが噴出する ──その答えは、どんなものでしょうか。  今回、コロナ禍の前線で仕事をしてくれた医療関係者、スーパーの店員さん、トラックのドライバー、ごみの収集をしてくださる人、おいしい食べ物を提供した飲食店の人たち。他者に安心と楽しみを与える人たちの、仕事のクオリティーの高さを、あらためてすごいと思いました。  戦後の日本は、他に類を見ない高品質の自動車と家電製品を作り出して、世界からリスペクトされました。モノだけでなく、高品質な暮らしの細部と、それを支える社会の仕組みを生み出す力が、日本の原点じゃないかと、希望を込めて考えています。 TRAILER/アウトドア用品メーカーのスノーピークと組んで、木の内外装のトレーラー「モバイルハウス住箱(じゅうばこ)」をデザイン。2016~17年に隈さんの地元・神楽坂で期間限定ビストロを経営した(撮影/清野由美) ──逆に今後の都市や社会にとって不要なものは何でしょうか。  コロナ禍では、夜の街の人々が真っ先に切り落とされましたが、本当にそれでよかったのか疑問です。それよりも、超高層タワーの方がよほど不要不急だよ、と僕は思えてしまうんですよね。 ──コロナ禍で経済はあきらかに疲弊し、社会格差はますます拡大して、社会は閉塞感に包まれています。経済の活力を支えていくハードウェア、つまり建築物は、やはり必要では?  必要な部分も、もちろんあります。ただ、東京は何をあきらめ、何を切り落としていくか、真剣に考えなければならないフェーズに来ています。  戦後の日本の経済発展のエンジンは、雇用も含めて、建設産業と自動車産業でした。たとえば建設産業では、業務と居住を完全に切り分けて、都市とその周縁を分断した。端的にいうと、その方が儲かったからです。建築基準法のような法律も、オフィスはオフィス、住居は住居と、機能を完全に切り離して、両者の融合を阻んできた。今になって、その不自然さが噴出しています。実際、感染者が増えた時に、都市は受け入れのキャパ不足にヒヤヒヤし通しだし、家ではテレワークをしたくとも、そのスペースがない。  これからは建物の用途を決めつけずに、オフィスを住まいにしたり、あるいは感染症が流行した時には病床にしたりと、その時々のコンテクストや事情によって、機能を柔軟に変えていく都市が生き残っていくと思います。東京にはもう十分ハードがあるので、ソフトを変えていかないとダメです。 生前、「東京計画1960」で都市構造の改革を提唱した建築家の丹下健三さん。海上の都市計画案として耳目を集め、新しい街のグランドデザインを描いたが、実現しなかった(c)朝日新聞社 ■木造の街並みを温存 ──国立競技場、高輪ゲートウェイ駅といった大建築に携わる一方で、近年の隈さんはシェアハウスの大家さんになったり、木の内外装のトレーラーを設計して期間限定の屋台ビストロを経営してみたりと、「小さい建築」に取り組んでいます。  建築家として矛盾を抱える中で、何かを発信するんだったら、自分でリスクを負わないと誰にも届かないな、と思っているから。  昭和の時代に、丹下健三さんが発表した「東京計画1960」というものがありました。東京湾を埋め立てて、今でいうスマートシティーのような海上都市を作るという、拡大の時代の極致のような絵でした。  僕は、この経済縮小の時代に「東京計画2020」を描こう、と。大きな建築は不要で、路地や横丁のある木造低層の街並みを温存して、そこに人が自由に生きるための最先端のテクノロジーを埋め込めばいい。新しくスマートシティーを造成する必要なんて、ないんです。 東京・渋谷も近年、高層ビルが林立し、変貌を遂げた街の一つ。コロナ禍では、ひっそりとした渋谷の街の上空を旅客機が飛んだ(撮影/編集部・井上和典) ※AERA 2020年10月26日号
AERA 2020/10/24 17:00
追悼・筒美京平   昭和を代表する作曲家の仕事に洋楽文化の“翻訳”という役割を考える
岡村詩野 岡村詩野
追悼・筒美京平 昭和を代表する作曲家の仕事に洋楽文化の“翻訳”という役割を考える
「筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997 2013Edition」ジャケット写真(写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト) 中原理恵「Singles」ジャケット(写真提供:ソニーミュージック・ダイレクト)  既報のとおり、昭和を代表する作曲家の筒美京平が10月7日に亡くなった。享年80。病気療養中だったそうだが、70歳代になってからも精力的に曲の提供に挑み、生涯現役だった。作曲作品の総売り上げ枚数は、約7500万枚。歴代1位の輝かしい記録を残した。  筒美京平の代表曲といえば、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ/1968年)、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦/71年)、「魅せられて」(ジュディ・オング/79年)などが挙げられるだろう。筒美はこれらの曲の多くについて、メロディー(旋律)だけではなくアレンジ(編曲)も手がけた。80年代以降、アレンジについては、他の人に譲るようになっていくが、曲の世界をトータルで作り上げていくのが筒美作品の大きな魅力だった。  例えば、「また逢う日まで」は尾崎紀世彦の素晴らしい歌唱力によるサビが特徴的な曲だが、よく聴くとドゥーワップのようなコーラスが多く採り入れられていて、ブラック・ミュージック・テイストがアレンジのテーマになっていることに気づく。「魅せられて」のポイントは、イントロから飛び出す派手なストリングスやハープなどの華やかなオーケストレイションだろう。これが西アジアのオリエンタルなムードを感じさせる旋律との相性が抜群で、当時日本からはまだまだ訪問者が少なかったエーゲ海や地中海周辺の風景を、音で見事に描いてみせている。  作曲家として頭角を現す前、筒美がレコード会社の日本グラモフォン(当時)で洋楽ディレクターだったことは有名だ。青山学院大学時代、軽音楽部でジャズに傾倒していたこともあり、筒美の感覚と耳は海外ポピュラー音楽に慣れてしまっていた。現在は歌謡曲のコンポーザーとして認識されている筒美だが、彼自身は当時としては筋金入りの洋楽リスナーだったのだ。日本の流行歌を作曲するにあたり、それまで親しんできたジャズなどの洋楽や、英米のヒット・ポップスをどう“翻訳”するのか。もしかすると、キャリア序盤から中盤あたりは、それが彼のミッションだったのかもしれない。その意味では、舶来文化を日本に伝播させる紹介者的な側面……いや、海外文化に対する評論家的な側面も持った作曲家だと言える。  もちろん、日本の作曲家の多くが、おそらく今も、そうした意識を持っている。だが、まだ海外からの音楽情報も乏しかった昭和40年代~50年代に、音楽的流行をキャッチし、それを日本人向けにデフォルメさせていく作業は、かなり骨が折れたはずだ。小さい頃にピアノを習っていたとはいえ、専門的な音楽教育を受けず、ある種独学で作曲法を身につけた筒美。しかし、独学だったからこそ、柔軟に洋楽の流行を自分の作曲やアレンジに組み込むことができたのではないだろうか。  筒美の“海外翻訳家・評論家”的な側面が最もビビッドに刻まれたのが、中原理恵が歌った「東京ららばい」だろう。78年3月に発売され、シングル・チャート最高位9位。ショートカットをオールバックにして、大人っぽいファッションの中原理恵が歌った代表曲で、筒美が多くコンビを組んだ松本隆による東京の夜の哀感を描いた歌詞も秀逸だ。  この曲で筒美がアレンジに採り入れたのは大きく分けて3種類。一つは、当時大流行していたディスコ・サウンドである。シンコペーションを伴ったダンサブルなビートに、流麗かつ情熱的なストリングスを掛け合わせた全体の色調は、当時ニューソウルとも呼ばれたブラック・ミュージックに材を取ったものと言える。二つ目は、スペイン・アンダルシア地方の音楽であるフラメンコの要素のギターやカスタネットを加えた。さらに、メキシコの伝統的な音楽であるマリアッチをお手本にしたようなトランペットなどのホーンも挿入。これらがハイブリッドにミックスされているのが「東京ららばい」のアレンジなのである。  もともとブラック・ミュージック好きの筒美がディスコ・サウンドを参照したことはよくわかる。この時代の筒美は他にも多くのディスコ調の曲を書いていて、「シンデレラ・ハネムーン」(岩崎宏美/78年)、「リップスティック」(桜田淳子/78年)、タイトルもそのまま「ディスコ・レディー」(中原理恵/78年)など枚挙にいとまがない。特に同じ松本隆と組んだ「リップスティック」は「東京ららばい」とコインの裏表のような関係の歌詞になっていて興味深い。  フラメンコやマリアッチをそこに掛け合わせるセンスが素晴らしい。急速に発展する東京の夜の孤独を描くにあたり、まず土台をアメリカで当時人気の大衆音楽で華やかなディスコにして、その上にスペインやメキシコの民族音楽の要素を重ねていく。結果、アメリカが移民によって成り立っていることを、それとなく伝えているように感じられる。また、そもそもディスコやブラック・ミュージックがアフリカからの黒人がもたらしたものだという事実も伝わってくる。もちろん、そうした歴史を筒美は先刻承知の上で、近代化する大都会・東京もまた、強者も弱者も含めて様々な境遇・立場の人が渦巻くようになったことを暗に伝えているのではないか。  この曲自体のハイライトは、歌唱力のある中原がサビの最後に「ないものねだりの子守唄」という決め台詞を叫ぶところにあるだろう。その一節は、都会に生きる女性のやるせない孤独を伝え、また一方で強く生きていく決意のようなものも伝えている。華やかなディスコ・ミュージックの流行が象徴するように、ベトナム戦争で疲弊したアメリカが70年代後半以降、再び国家として息を吹き返していく。だが、そんなアメリカにも黒人、ヒスパニック系、アジア系など多様な人種が暮らし、様々な国やエリアの文化が自然とミックスされている……深読みしすぎかもしれないが、筆者はこの1曲からそんなことまで感じてしまう。  もちろん、小学生だった当時、筆者はそこまでわかってはいなかった。「東京湾(ベイ)」「山手通り」「タワー」という都会の風景を切り取った歌詞が、ひたすら刺激的だった記憶しかない。だが、気がつけばこの曲を通じて、海外の多様な音楽文化を吸収していた。筒美京平とは、そういう作曲家・編曲家だったのである。  90年代、洋楽への洒脱なアプローチで人気を博した渋谷系の小沢健二やピチカート・ファイヴといったアーティストと組んだことから、海外音楽の“翻訳”という役割も担った筒美の志が受け継がれていることを実感した。作曲家生活30周年を記念し、レコード会社18社が協力して1997年にリリースした2種類のボックスセット『HISTORY~筒美京平 Ultimate Collection 1967~1997』は今も筆者の宝物だ。改めて心からご冥福をお祈りしたい。(文/岡村詩野) ※AERAオンライン限定記事
AERA 2020/10/20 16:00
3歳で親が離婚、6歳で養父が亡くなり極貧生活、ようやく乗り越えたら大事故に…それでも夢を実現した伝説のメイクアップアーティストとは?
小林照子 小林照子
3歳で親が離婚、6歳で養父が亡くなり極貧生活、ようやく乗り越えたら大事故に…それでも夢を実現した伝説のメイクアップアーティストとは?
小林照子さん(撮影/写真部・片山菜緒子) ※写真はイメージです(Gettyimages)  東京・表参道の美容サロンで、85歳のいまも毎日立ち働いている女性がいる。現役の企業経営者にして、日本最高齢のメイクアップアーティスト・小林照子さんだ。美容部員からコーセー初の女性取締役に抜擢され、その後独立。現在も新しいことにどんどんチャレンジしつづける小林さんの著書『人生は、「手」で変わる』も好評だ。そんな小林さんが自身の半生を振り返り、仕事・人生と向き合う姿勢について語った。 *  *  *  小林さんによるメイクの個人レッスンは約2時間。小林さんがまず行うのは、そのひとの現在の「印象分析」だ。この日小林さんの元を訪れたのは、60代の教育関係の仕事をしている女性。小林さんが独自のチャートを元に、その女性が第三者に与える印象を分析していく。 「第一印象は、知的でとてもクール。お仕事柄ご自身でも、そのイメージを大事にしていらしたと思います。でも、内面にある朗らかさや陽気さを抑え込んでいらした感じもお見受けします。もう少し、本来持っていらっしゃる明るさを演出するメイクに変えても、いいかもしれませんね」  スルスルッと女性のメイクを落とし、小林さんが「顔づくり」を始める。 「シミを隠そう、顔色が悪いのを隠そう、とそれ以外のところまでファンデーションを塗り過ぎることはないんです。隠す化粧だけではなく、自分が本来持っているものを生かす化粧に切り替えていきましょう」  小林さんの指の動きは、まさしく“魔法”だ。ツヤが出る下地クリームを女性の肌になじませてから、ファンデーションを薄く薄く肌に伸ばしていく。あっというまに先ほどまでの女性の肌とはまったく違う、自然な印象の肌が完成。そして頬に淡いピンクのパウダーチークをのせれば、お世辞抜きに第一印象に明るい人格がプラスされて魅力的に。  朗らかで、いつも笑顔を絶やさない小林さんだが、実はその人生の前半は波瀾に満ちていた。3歳のときに両親が離婚。初めは母親に引き取られ、その後父親に引き取られ。だが父親が6歳のときに病死。そこで父親の再婚相手の兄夫婦の養女になるが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で養父が経営していた防空資材の商店が全焼。その後、住まいも全焼し、何もかもなくした一家は終戦後、疎開先の山形県で暮らすことになる。 「養母は骨盤カリエスという病で寝たきりになったので、日中は養父が養母の看病をし、私は農家さんに農作業を手伝いに行って、日々の食べ物を頂戴してくるという暮らしでした。山に登って山菜を取り、汁物に入れることもありましたっけ」  生活は、経済的にいつも困窮していた。でもだからこそ、絶望を認めてはいけない。認めれば、もっと深い絶望の谷に落ちて、這い上がれなくなる。小林さんはいつもそう、自分に暗示をかけていたという。 「とにかく、まず生きる。そんな気持ちがとても強かったのです」  小林さんが東京に戻ったのは20歳の時。子どもの頃から演劇の世界にあこがれを抱いていた小林さんは、舞台のメイクを手がける人間になりたいという夢を持ち続けていたのだ。昼は保険の外交員として働き、夜は美容専門学校へ。そして小林コーセー(現・コーセー)に入社する。 「夢を叶えるためには、組織で徹底的に技術を磨くことが大事だと考えたのです。昭和30年代はまだ一般の女性たちはお化粧をそんなにしない時代でしたからね。メイクを変えるだけでいかに顔の印象が変わるか、というのを店頭でたくさんのお客様のお顔にして差し上げて、私は自分の技術を磨いていきました。1日に50人くらいメイクしていた時期も」  その当時から小林さんのメイクの方針は、「自然な印象を生かす」ということだった。 「彫の深い欧米人のような顔に憧れる人たちも多かった時代ですけれど、元々の顔の造作が明らかに違うわけですから。自分が持っているものの状態を最大限いい状態にすることの方が大事だと思ったんですよ。これが、多くの女性たちに受け入れてもらえたようです」  化粧品の売り上げもダントツとなった小林さんは、東京本社勤務になる。そして結婚。29歳の時に長女も出産。30代になってようやく、すべてが上昇気流にのったかのように見えた。だが、小林さんの人生にはまたしても、とんでもないトラブルが降りかかる。  香港出張のため、夫が運転する車で空港に向かっていたところ、交差点で運転操作を誤ったトラックが車に激突。車は半分に押しつぶされ、小林さんの夫と妹は重傷で病院へ。 「その頃、養父も病で入院していたので、毎日3つの病院を行き来しながら仕事をするようになりました。『無我夢中』という言葉がありますけれど、本当に毎日が目まぐるしくて、自分のことなど何ひとつできない時代でした」  だが夢は決してあきらめなかったという。なぜか? 「あきらめることは、いつでもできるからです」  小林さんは、自分は決して強い人間ではないと言う。ただ人生の前半で自分の運命に振り回されて転んでいるうちに、立ち上がり方をマスターしたのだ、と。 「最初は自分の前に、道すらなかった。そしてようやく自分の前に道が開けたら、とがった石につまづいたり、大きな石をよけようとして転んだり。でもね、転んだら、もう1回立ち上がって、自分が信じる明るい場所に歩いていくしかないんです」  立ち上がるまでに、時間がかかるときもある。 「けれどそこで自分を責めたり、他人を責めたり、世の中を責めたりしないことです。悲観はしない、けれど楽観もしないこと。立ち上がれるときに立ち上がって、淡々ともう1回、歩き始めればいいんです」  念願かなって著名な演出家たちの舞台メイクを手がけるようになったのは、40代半ばになってからだ。そして50歳のとき、小林さんは勤め先の女性初の役員になり、56歳で独立起業。現在は企業コンサルティングの会社と美容に特化した高等学校、美容のプロを育成するスクールを経営している。もちろん、現役のメイクアップアーティストとしてメイクレッスンや講演活動を続けながら。  小林さんはなぜそこまで、働き続けるのか? 「働くのが好きだから。私が培ってきた知識や技術、経験から得た知恵を次の世代にどんどん渡していきたいからです。私は60年以上、美容の世界で生きてきた人間ですけれど、最近思うのは、どんな仕事も“ひとに寄りそう”という気持ちが一番大事だということです。自分ができることで、誰かが笑顔になってくれたり、誰かが自信を取り戻してくれたりすればいいなと思いながら、生きていくことが大切なんじゃないかしら」  小林さんは、今日もまた表参道のサロンに立つ。メイクレッスンを受けにくる女性たちの、心も元気にするために。「何をやってもうまくいかない時、自分のことがイヤになってしまうときは人生には必ずあるんですよ。でも、うまくいかないことや失敗だらけの時間があって傷ついたり、考えたりするから、ひとはそこから何かを学んで、前に進めるものなのよ。私自身が、そのいい例でしょう?」  笑いを交えながら、レッスンが始まる。  転んでは立ち上がり、何回でも再生する。  ひとつのことを究め、現役で走り続けるための極意が、小林さんの中には詰っているのだ。(文/ライフジャーナリスト・赤根千鶴子) 小林照子(こばやし・てるこ) 美容研究家。ヘア&メイクアップアーティスト。1935年、東京都生まれ。東京高等美容学院を卒業後、小林コーセー(現・コーセー)に美容部員として入社。数々の大ヒット商品を手掛け、85年、同社初の女性取締役に就任。その後独立・起業し、美容ビジネスの企業経営や後進を育てる学校運営をおこなっている。『人生は、「手」で変わる。』(朝日新聞出版)、『これはしない、あれはする』(サンマーク出版)、『小林照子流 ハッピーシニアメイク』(河出書房新社)ほか著書多数
働く女性小林照子朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/10/19 16:00
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井手隊長 井手隊長
矢沢永吉に憧れて上京… ラーメン屋に転身した元ロックンローラーが作る至高の一杯とは?
「めん処 樹」のつけチャーシュー麺は一杯950円。大振りのチャーシューは食べ応え抜群だ(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。横浜で14年もの間自家製麺を貫き続ける職人の愛するラーメンは、ロックに憧れて上京した店主が人生をかけて作った魂の一杯だった。 ■自家製麺を作り続け、小麦アレルギーに  横浜市保土ヶ谷区にある「めん処 樹(たつのき)」。相鉄線の天王町駅と星川駅のちょうど間ぐらいにあり、住宅街のど真ん中ながら14年間エリアを支え続けている名店である。創業当時はまだ珍しかった「自家製麺のつけ麺」にこだわった店で、今も変わらぬ人気を保っている。 めん処 樹/〒240-0003 神奈川県横浜市保土ヶ谷区天王町1-32-17/11:30~14:30、18:00~20:30[土・日・祝]11:30~15:00、18:00~20:30、月曜、火曜定休/筆者撮影  店主の大川剛さん(47)は6年間のサラリーマン生活の後、幼い頃から好きだったラーメンの世界に飛び込んだ。麺から具材まですべて手作りを貫く「ラーメン麺工房 隠國(こもりく)」で3年間修行した後、独立した。独立前から自家製麺をやることを決めていた大川さんは2階建ての物件を借りて、店舗の2階を製麺所にした。 「自分のラーメンを作るにあたって、“誰が作ったのかわからない麺”を使いたくなかったんですよね。添加物も絶対入れたくなかったですし、そうなるとやっぱり自分で作るしかないなと」(大川さん)  当時は自家製麺の店は多くなく、情報も少なかったが、毎日麺を作りながら自分のラーメンのスープに合わせて改良を重ねていった。天候や気温などによって、水分や寝かせる時間などを微調整できるところも面白いという。創業からずっと麺を作り続けてきた大川さんは、今から2年前に小麦アレルギーになってしまう。マスクをせずに小麦粉を吸い込むと、呼吸困難になってしまうため、今は妻が代わりに製麺をしている。体力が続く限り自家製麺を続けたいというこだわりようだ。 自家製麺がこだわりの一つ(筆者撮影)  最寄駅からは少し距離はあるが、店舗の目の前にはイオン天王町店があり、その利用客も数多く訪れていた。大型ショッピングセンターから流れてくるお客さんが売り上げの大きな柱であったことは間違いない。だが、そのイオンが店舗改装のため2020年2月に閉店してしまう。店の周りは本当にただの住宅地になってしまった。  そこに追い打ちをかけるかのように、新型コロナウイルスが襲ってきた。イオン閉店+コロナのダブルパンチで「樹」の売上は地に落ちるかと思われた。しかし、それを支えたのは地元客と常連客だった。 「イオンがなくなって一度売り上げは大きく下がりましたが、じきに戻っていったんです。地元密着で席は8席のみでずっとやってきています。常連さんに支えられながらの14年間ですね」(大川さん) 「めん処 樹」店主の大川剛さん。3年の厳しい修行に耐え、独立した(筆者撮影)  賞を獲るためやグルメサイトで点数を取るために店をやっているのではない。ラーメンフリークではなく、あくまで一般の人が何度も来たくなる店。それが、大川さんの譲れないこだわりだ。食材や調理法、火の入れ方など基本をとことん突き詰めることで、また食べたくなる味ができるのだという。大川さんはこの地でいけるところまで味の追求を続けていく。  そんな大川さんの愛するラーメンは、矢沢永吉に憧れて上京した店主がロックンローラーからラーメン屋に転身して作り上げた魂の一杯だ。 ■独学で独立を決意 元ロックンローラーがつむぐ醤油ラーメン  横浜市南区にある「流星軒」は、矢沢永吉一筋40年の平賀敬展(ひろのぶ)さん(58)が営む人気店だ。00年のオープンから20年間、柔軟な発想でラーメンを作り続ける平賀さんにとってラーメンは「エンタテインメント」。そのバイタリティ溢れる姿は横浜のラーメン店にも大きな影響を与えている。 流星軒/〒232-0011 神奈川県横浜市南区日枝町4-97-2グレイス南太田1F/11:30~14:30、18:00~21:00、スープがなくなり次第閉店、水曜定休日。矢沢永吉コンサートの日は臨時休業の場合もあるため、公式ツイッターを要確認/筆者撮影  平賀さんは愛知県半田市出身で、幼少期から地元のチェーン店「スガキヤ」のラーメンをよく食べていた。大晦日には祖母が作る「年越しラーメン」を食べるのが恒例。名古屋コーチンで出汁をとり、ハムとゆで卵とカマボコが乗っていたオリジナリティあふれる一杯だった。  思春期になるとロックに傾倒し、憧れたのは矢沢永吉。バンド活動に明け暮れていた。高校時代には本気でプロを目指すようになり、18歳の頃に「俺はロックンローラーになって20歳で武道館を満員にする」と宣言し、家出。その日のうちに、横浜・元町のレストラン「ポンパドール」にアルバイトとして入れてもらう。その後はバンド活動をしながら数々のアルバイトを転々とし、10年の月日が経つ。この頃には既に平賀さんは28歳になっていた。 手書きのメニュー表(筆者撮影) 「月に4回ライブをやり続けていましたが、芽が出ない。疲れてきてしまったんですよ。バンドをきっぱり辞めて就職しようと思ったんです」(平賀さん)  音楽関係の仕事に就いたものの、やる気のない先輩の姿に嫌気がさし、すぐに転職を決意。当時昼によく食べていた「キッチンジロー」が幹部候補生を募集しているという記事を雑誌で発見し、面接を受け、入社が決まる。  平賀さんは仕事を必死でこなし、1年で店長に上り詰めた。フランチャイズ店として独立を目指していたが、ある出来事をきっかけにその夢が絶たれてしまう。8年間勤め上げていた平賀さんは、目標を失い、途方に暮れていた。  そんなある日、ふと見たテレビ番組で大好きな矢沢永吉が「最近のお気に入り」を答えていた。矢沢はその質問にイタリアのファッションブランドの「ベルサーチ」、映画「デイライト」、そして「ラーメン」の3つを挙げていた。 「当時、自分が住んでいた横浜は、横浜家系ラーメンの店ばかりでした。でも、永ちゃんが好きだというラーメンの写真は家系じゃなかったんです。気になって横浜のラーメン店を調べてみると、3分の2が横浜家系でしたが、その中で『くじら軒』の醤油ラーメンの写真が目に飛び込んできたんです」(平賀さん)  矢沢が好きな店が「くじら軒」であるかは定かではなかったが、とにかくそのラーメンを食べてみようと、店を訪れる。開店前にも関わらず50人以上の行列。少しすると、白衣がビシッと決まった店主が出てきて頭を下げ、店がオープンした。そこで食べたラーメンは平賀さんがこれまで食べた中で一番といっていいほど美味しいラーメンだった。 店主の平賀敬展さんは矢沢永吉一筋40年だ(筆者撮影) 「こんなに旨いラーメンが世の中にあるのかと驚きました。それと同時に『ラーメン屋になろう!』と心は決まりました」(平賀さん)  やるなら「くじら軒」に弟子入りしたい。そう思った平賀さんはすぐに店に電話をし、弟子入りを志願。弟子はとっていないと言われたが、会って話だけでも聞いてほしいと懇願し、日曜の店の休憩時間に店主・田村満儀さんのもとに訪れる。結局弟子入りすることはできなかったが、田村さんは平賀さんにこう言った。 「僕も独学でラーメン屋を始めたんだ。あなたにもできますよ」  修行して独立するか、フランチャイズ経営が当たり前だと思っていた平賀さんには、カルチャーショックな一言だった。  自己流でもいいなら自分で頑張ってみようと、本を買って家でラーメンを作り始める。友人に振る舞うとこれが好評で、「くじら軒」に麺を卸している大橋製麺の担当者にも食べてもらい、太鼓判をもらった。 肩ロースチャーシュー、モモチャーシュー、半玉、メンマ、かまぼこがのった「流星プレミアム」は一杯1000円(筆者撮影)  自信をつけた平賀さんは00年3月に「キッチンジロー」を退職し、4月から物件探しを始めた。毎日探したものの、しっくりくる物件が出てこない。諦めかけていたある日、幼少時代に年越しラーメンを振舞ってくれていた亡き祖母が夢に出てきて、「頑張れ」と言ってくれた。その翌日、自宅の目の前にある鉄板焼き店が空き物件として売り出されたのだ。平賀さんは即決した。  こうして同年7月、「流星軒」はオープンした。店名は矢沢永吉の名曲「流星」からとった。「くじら軒」を目標にしたあっさりとした醤油ラーメンだが、牛テールを入れるなどオリジナリティも追求した。いつ行列ができてもいいように、初日から外待ち用の椅子を用意していた。  昼、夜と営業し、片付けが終わると23時。自宅でラーメンを作っているのとは全く感覚が違った。閉店後に明日のスープやチャーシューを仕込まなくてはならないのかと思うと、途方に暮れた。でもとにかくやるしかなかった。 旨味たっぷりのスープもおいしい(筆者撮影)  開店2日目には「くじら軒」の店主・田村さんが食べにきてくれた。 「夢を見ているようでした。目の前で『旨い』と言って、カウンターにお祝いを置いて帰られました。しかも業界のいろんな方に店を紹介してくれていたんです。カッコいいですよね」(平賀さん)  必死に仕事をこなす日々が続いたが、オープン景気は終わり、日に日にお客さんは減っていった。8月には昼に1人しか来ない日も出てきた。でも平賀さんには自信があった。旨いラーメンを作り続けていれば人は来るはずだと。  すると秋にチャンスが訪れる。雑誌「横浜ウォーカー」が新店紹介として「流星軒」を掲載したいと取材に来たのだ。雑誌の発売日の夜に平賀さんが店に来ると、店の前には大行列ができていた。開店時に用意していた外待ち用の椅子に人が座る日が来たのだ。 「当時はラーメンブームで忙しい日々でしたね。名前ばかり有名になって味が伴っていないんじゃないかと不安な時もありました。そんな時は、その都度試行錯誤して味のブラッシュアップをしてきました。開店以来ずっと変わり続けていますよ」(平賀さん) オープンから20年経っても味のブラッシュアップは続く(筆者撮影)  今年でオープンから20年。それでも常に新しいメニューにチャレンジし続ける姿は、横浜のラーメン業界全体に刺激を与えているに違いない。 「樹」の大川さんは、平賀さんの技術や発想力に目をみはる。 「平賀さんにとってのラーメン作りは音楽と同様、“発想”なんですね。作曲家が曲を作るように発想が次々生まれてくるんです。しかも技術も常に向上し続けている。凄い方だと思っています」(大川さん)  平賀さんも、開店以来厨房に立ち続ける大川さんを認めている。 「ラーメン本に載っていたことがきっかけで『樹』のラーメンを食べにいきました。その頃からラーメンもつけ麺も変わらず美味しい。チャーシューは毎日仕込んで、できたてを出すなど、美味しさを常に追求しています。本当に真面目な職人ですね」(平賀さん)  横浜エリアを長く牽引する二人。ともに流行に左右されることなく、自分の道を歩み続けたからこそ今があるのだろう。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2020/10/18 12:00
マネックス松本社長の「人生で初、お金を借りてまで投資した理由」とは?
中島晶子 中島晶子
マネックス松本社長の「人生で初、お金を借りてまで投資した理由」とは?
松本 大(まつもと・おおき)/マネックスグループ 取締役会長兼代表執行役社長CEO。1963年、埼玉県生まれ。1987年、東京大学法学部卒業。ソロモン・ブラザーズ・アジア証券を経てゴールドマン・サックス証券に勤務。1994年、30歳で当時同社最年少ゼネラル・パートナーに就任。1999年、ソニーとの共同出資でマネックス証券を設立。2004年にマネックスグループを設立し、以来CEOを務める。東京証券取引所の社外取締役を2008年から2013年まで務めた他、上場企業数社の社外取締役を歴任。現在、米マスターカードの社外取締役でもある(撮影/小山幸佑) 財布は持たず、現金をそのままポケットに入れている。万が一、カードが使えないときのために10万円前後は常に持っているそう。小銭は会社にも自宅にも置いてある「ポケットの中の小銭を入れる瓶」に。クレジットカードなどを入れるパスケースは京都の井澤屋のもの(撮影/小山幸佑)  企業の社長は何を食べ、いくら持っているのか。アエラ増刊「AERA Money」連載、「社長のカネとメシ」の2回目はマネックスグループのトップ、松本大さんだ。「大学を出て就職してからの33年間、ランチはほぼ自分のデスクで食べていますね」 東京・赤坂のマネックスグループ本社へ取材に訪れた7月某日、松本さんの昼食は「鳥の七味焼き弁当」550円だった。 ピリ辛の鶏肉やタルタルソース添えのフライ、卵焼き、煮物。黒ゴマと梅干しがのった白米。シンプルな昼食が松本さんのお気に入りだ。オフィスで出張販売されている弁当ショップで買う。 東京大学法学部を出て松本さんが最初に選んだ職場は、当時は世界最強の証券会社だった米ソロモン・ブラザーズ・アジア証券。その後、ゴールドマン・サックス証券に移ると史上最年少(当時)の30歳でゼネラル・パートナー(共同経営者)に就任したが、ほどなく退職した。 松本さんはマネックス証券を起業し、日本に低価格のインターネット取引を根付かせた功労者の一人でもある。この間、目の回るような多忙が続いた。仕事上の会食を除けば、判で押したようにランチはずっと机の上だった。「そばが好きなので出前を取ることもありましたが、今のオフィスは出前不可なんですよね。ランチは外部から売りに来る弁当です。時間が足りないので、散らかったデスクでお茶を飲み、弁当を食べながらノートパソコンのキーをたたいています」 激務だった外資系証券時代と同じスタイルを松本さんは今も続けている。ちなみに愛用のパソコンは「VAIO」。故障もなく、食事中にお茶をこぼすようなトラブルもない。松本さんは「私の使ってきた歴代のパソコンはそれぞれかなり酷使してきましたが、なぜか長持ちします。機械を愛しているからだと思います」と笑う。  新型コロナウイルス流行の前も後も仕事の量は変わらないが、夜の会食は減ってしまったと少し残念そう。「出張を除けば、今年1月から会社に来なかった日はありません。皆勤賞です」。 本人は何でもないことのように話すが、ハードワークだ。■不規則な生活に拍車。深夜2時に会議も 夜の会食が減る代わりに、Zoomなどを通じたリモート会議は激増している。「米国には現地法人や取引先があるので、深夜のリモート会議も珍しくありません。今年4月に政府が緊急事態宣言を発令したあとは会議の予定が流れたりして急に空き時間が増えましたが、1週間もすれば対面の会議からあっさり切り替わりました。リモート会議が増えすぎて、コロナ禍のほうが生活時間が不規則になっていますね」 これまではほぼ必ず夜に会食があった。夜7時ごろまで会社にいて、その後はお酒を飲みながら相手の話をじっくり聞く。「夜遅い時間は酒に酔っていることが多いので、基本的に電話は受け付けませんでした。それが今では夜8時でも、日付が変わった2時でも海外のミーティングです」  松本さんの財布にはいくら入っているのだろう。事前に財布を見せてくださいと頼んであったが、上着のポケットから出てきたのはお札そのままとカードケースだった。マネークリップも使わない。 お札を数えてもらったら、8万2000円あった。■意外に現金主義で必ず持ち歩く 松本さんは米マスターカードの社外取締役を務め、マネックス傘下には仮想通貨(暗号資産)取引所のコインチェックもある。徹底したキャッシュレス派かと勝手にイメージしていたが、違った。  「現金は絶対に、どこででも使えます。何かのときに必要になることがありうるので、必ず一定額をポケットに入れています。そういえば先日、社内をひと回りしたら、社員の結婚祝いを頼まれたり外国人従業員の通信販売の代引き料金を立て替えさせられたり。10万円あった現金が10分ほどですっからかんになりました(笑)。クレジットカードや電子マネーでの支払いが続き、ポケットに入っている5万円がずっとステイしていることもあれば、こんな感じですぐに出ていくこともあります」 ■松本さん個人の資産運用は? 「最近、自分の資産運用に関しては2つの変化がありました。ひとつは私たちが立ち上げた投資信託(以下、投信)『マネックス・アクティビスト・ファンド』を、個人資産で相当な金額分を買ったこと」  このファンドはアクティビスト(モノ言う株主)として個人も企業に意見できる、新しいタイプの投信だ。投資先企業と対話し、株主価値の増大や経営の効率化に関して積極的に働きかける。成功すれば投信を持つ個人にも、株価を上げた企業にもメリットになる。  「個人のための証券会社」を創業時からの理念とする松本さんの発案で作られた投信だ。私財を投じたのは、アクティビスト・ファンドへの期待が本気であることを形で示すためだろう。 「もうひとつは、投資のおもしろさを自分が再認識していること」。  コロナ禍で株価が下がったままの企業もあれば、コロナ前の高値を上回り、勢いが止まらない企業もある。新規株式公開(IPO)を目指すスタートアップ企業も明暗がはっきり分かれている。 「新入社員のころを除けば私はこれまで『無借金人生』でしたが、今回は人生で初めてお金を借りてまで投資しています」  その理由は日銀や米連邦準備制度理事会(FRB)などのコロナ対策を見たから。「世界の中央銀行が『超大型量的緩和』を実施しています。市場に十分なお金が回ると、株式や不動産などは値上がりするものです。世界中で大量のお札が刷られても富の量は一定。そこに大量の資金供給が実施されると、株式や不動産に割り当てられるお金が増え、値段が上がると考えています」 先日、銀座の百貨店の呉服売り場に行き、女性の反物が安くなっていて驚いたという。「夏祭りが中止になって在庫が積み上がり、投げ売りしていたようです。反物と帯のセットが仕立て付きで10万円。定価で45万円、セールでも25万円はする高級品がですよ。株価がスルスルと上がる一方で、高級品が値下がりする。こうした現象の背景を探るのはとても興味深いことです。自粛解除後に郊外型ショッピングモールの『ららぽーと』は一気に客足が戻りましたが、銀座の高級ブランド店はさっぱり。明暗を分けた理由は近隣に住宅街があるかどうかでしょう。コロナ禍であっても、影響は企業によって全く違った形で表れます。日ごろからその理由を考えることは投資にも役立つはずです」(構成/大場宏明、編集部・中島晶子、伊藤忍)※アエラ増刊『AERA Money 今さら聞けない投資信託の基本』の記事に加筆・再構成
AERAマネー
AERA 2020/10/17 08:00
コンビニでバイトしながら「村上春樹っぽい小説」を書いた日々 夏葉社代表・島田潤一郎<現代の肖像>
コンビニでバイトしながら「村上春樹っぽい小説」を書いた日々 夏葉社代表・島田潤一郎<現代の肖像>
本を読むことは誰かに会うことと同じだ。自分と似た人、尊敬する人、もう会えなくなった人にも(撮影/横関一浩) 仕事をするのは朝10時から夕方4時までと決めている。5時には帰宅し、5歳の息子と3歳の娘と公園へ。本気で遊んでくれるパパは近所の子どもたちにも人気(撮影/横関一浩) 「ジャケ買い」という言葉があったが、夏葉社は、その名前で買われるという稀有な出版社だ。立ち上げたのは島田潤一郎さん。島田さんがいいと思う本だけを出版する。ある書店主は「夏葉社の本を置くこと自体が、書店の価値を上げる」と言った。その本づくりの核には、亡き人への思いと自分を救ってくれた「本」というものへの敬意がある。 * * *  6月半ば、コロナ禍で観光客が消えた京都はずいぶんと歩きやすかった。ひとり出版社、夏葉社の代表、島田潤一郎(44)にとって、ここは勝手知ったる街だ。2009年の創業以来、年に3、4回は訪れる。昼はコンビニのパンを頬張りながら、ひたすら歩いて書店を回る。今回リュックには、できたばかりの『ブックオフ大学ぶらぶら学部』と『本屋さんしか行きたいとこがない』の見本を入れてきた。どちらも昨年、島田が立ち上げ企画・編集を手がける新レーベル「岬書店」から出したものだ。 「新しい店の開拓はしていません。信頼関係がある本屋さんと、ちゃんとつきあうことを大事にしているので。特に京都は個人で経営している小さな店が多いので、お互いに支え合っている感覚があります」  お坊さんのような風貌。とても優しい声で話す。  島田は33歳の時、東京・吉祥寺で全くの未経験から出版社を立ち上げた。以来、編集も営業も経理も発送も全部ひとりで担っている。文芸書を中心に年3、4冊を発行し、初版2500部を細く長く売るのが基本。派手な宣伝は一切しないが、着実に版を重ねるものが少なくない。 「最近は、夏葉社の本なら内容がなんであれ全部買う、という人も多いです。一冊買って気に入って、さかのぼって全部揃えたい、とかね。それだけ読む人を熱狂させる何かがある」  そう話すのは銀閣寺近くの「古書善行堂」店主、山本善行(64)。本好きの間で「古書ソムリエ」としても知られる人物だ。著者名で買う客は多いが、出版社名で、というのは山本の長い経験の中でもそうそうないという。  山本は10年前、島田が初めて店を訪ねてきた日のことを鮮明に覚えている。 「『前日に定休日だと知らずに来てしまったので、出直しました』と。東京からそんなにまでして来てくれたというのも驚きだったし、『初めて作りました』と出してきたのが『レンブラントの帽子』の復刊ですからね。感激しましたよ」  バーナード・マラマッドによる『レンブラントの帽子』はアメリカ文学史上に残る傑作と言われる。日本では1975年に集英社から刊行されたが絶版となり、古本市場では、山本が客に薦めるのを憚るほど高値がついていた。それを目の前に現れた青年は、経験もツテもなしに復刊し、しかも、面識のない和田誠に思いを綴った手紙を書き、装丁を引き受けてもらったと言う。経営が苦しければコンビニで働いてでも、なんとかして読者に届けたい──。訥々と志を語る島田に、山本は「今どきこんな人がいるのか」と胸を打たれた。  島田にとって、コンビニというのは例えでもなんでもなく、20代はそうしたアルバイトばかりをこなしてきた。1976年高知県生まれ。ロスジェネと呼ばれる世代のど真ん中だ。大学で文学に目覚め、学内の小説コンクールで一等賞を取ったのを機に純文学の作家を目指した。作家への近道は新聞記者だと考え、就活では地方新聞社を複数受けたが全敗。有効求人倍率が底に張り付き、「即戦力」や「コミュ力」が求められだした頃だ。  就職を諦め、実家を出る決心をした。この時、島田から渡された一枚の紙を、母の佐津恵(69)はいまも大事に持っている。 「潤が小学生の頃、夫が出て行って、それからはずっと2人で暮らしていました。だから潤に一人暮らしを始めたいと言われた時、ちょっと複雑な思いがあったんです。そしたら、しばらくして『お母さん、これが僕の気持ちだよ』って」  その少し黄ばんだA4の紙には、谷川俊太郎の「さようなら」という詩が印刷されていた。 「ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない/(中略)よるになったらほしをみる/ひるはいろんなひととはなしをする/そしてきっといちばんすきなものをみつける/みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる/だからとおくにいてもさびしくないよ/ぼくもういかなきゃなんない」  ぼろアパートで日中は「村上春樹っぽい小説」を書き、尊敬する作家たちの本を読み、夜はコンビニや中古CD店で働いた。翌年も新聞社の試験には受からず、結局27歳まで同じ生活を続けた。 「焦りや、やましい気持ち? それは全くなかったです。夜勤からアパートに戻って、眠い目をこすりながら『罪と罰』なんかを必死に読んでいましたから。怠けているどころか、周りの社会人よりよっぽど頑張ってる、くらいに思っていました」  5年経っても芽は出ず、3度目の就職活動を始めた。だが一旦レールをはずれた人間に、社会は冷たい。唯一、雇ってくれたのは自費出版の会社だった。顧客対応や営業を担当したが、全員が深夜0時まで働いているような会社で、3年が限界だった。転職先の教科書販売会社では、営業成績は良かったが、本を読むため毎日さっさと帰り、飲み会にも一切出ない島田を、上司はよく思わなかった。1年で辞めた。次の転職先を探し始めた2008年4月のある日、母から電話が入る。 「ケンがもうダメだって」  「ケン」とは高知にいた島田と半年違いの従兄だ。幼い頃、夏休みはずっと一緒で、高校卒業時には海外旅行にも行った。その従兄が電話から数時間後に息を引き取った。あまりに突然の死。従兄のいなくなったこの世界を、生きていかねばならない。そのことが、恐ろしくてたまらなかった。  高知での葬儀を終え、東京に戻った。呆然と毎日転職サイトを眺めながら、手当たり次第に応募した。だが来る日も来る日も、届くのは不採用を告げるメールばかり。8カ月でその数は50社に達した。自分は世の中の誰からも必要とされていない──。ある日、実家の団地の8階で昼寝から覚めた時、体がベランダ側に引き寄せられていった。 「部屋がグワーッと斜めに傾くような感じで、自分の意思と関係なく体が動いて──。ハッと我に返って柱につかまりました。昔はベランダでタバコを吸ってたのに、あれ以来、近寄ることができないんですよ」  人生は一度きり。雇われるのではなく、自分で仕事を作って生きてみようと決めた。とにかく誰かに必要とされたかった。その頃、繰り返し読んでいる詩があった。作者は100年前に生きたイギリスの神学者、ヘンリー・スコット・ホランド。死者が、残された人に語りかけてくる内容だ。その一編の詩を本にして、悲しみに暮れる叔父と叔母を励まそうと考えた。それが夏葉社の始まりだ。社名は従兄と遊んだ夏の光景から取った。 (文・石臥薫子)                                                  ※記事の続きは「AERA 2020年10月19日号」でご覧いただけます。
AERA 2020/10/13 16:00
大島優子「ほかにいい人、いるんじゃないか?と思ったことも」。石井裕也監督との対談で語った
中村千晶 中村千晶
大島優子「ほかにいい人、いるんじゃないか?と思ったことも」。石井裕也監督との対談で語った
大島優子(おおしま・ゆうこ、左):1988年、栃木県出身。2006年から14年までAKB48として活動。「紙の月」(14年、吉田大八監督)、「ロマンス」(15年、タナダユキ監督)など出演作多数/石井裕也(いしい・ゆうや、右):1983年、埼玉県出身。近作に映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(2017年)、「町田くんの世界」(19年)などがある。近著に『映画演出・個人的研究課題』(朝日新聞出版)(撮影/写真部・小黒冴夏) 「愛」をテーマに考えたとき「死」と「生」が浮かんだ──。石井裕也監督は最新作「生きちゃった」についてこう語る。ヒロインを演じた大島優子さんは、演じるなかで「死」を感じ、「生」を願った瞬間があったという。撮影を通じて見えたもの、感じたことを、語り合った。AERA 2020年10月12日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  *  石井裕也監督(37)の最新作「生きちゃった」は幼なじみだった男女3人を描いた物語。大島優子さん(31)が演じたのは5歳の娘を持つ女性。満たされない何かを抱え、不倫相手との情事を夫に目撃されてしまう難しい役どころだ。 石井裕也(以下、石井):大島さんは俳優として強烈な生命力を持っている方だとずっと思っていました。「こういう役はやらないだろうなあ」と聞いてみたらOKだったのでびっくりしました。 大島優子(以下、大島):いまの自分に必要なチャレンジだと思いました。演じながら「心を裸にしている」感じがありました。そういう感覚になったのは初めてです。 石井:僕にとっても目の覚めるような体験でした。俳優という人間の、肉体の熱気や魂の動きを撮った、という手応えのある映画。それ以外に映画のおもしろさってあったっけ? って。 大島:私が演じる奈津美は、愛されたいという願望がすごく強い。誰でもいいわけじゃないけれど、誰かに絶対的に愛してほしい。その願望は誰にでもあるし、私にもある。奈津美はもがいていたのだと思います。「愛はどこ?」「本当はこの家庭にあるはずなのに!」と探しているうちに、ああなってしまった。だから私には「不倫」という感覚ではなかったです。 石井:まさにそうだと思う。愛って素晴らしくもあるけれど、人の心を削り取っていくものでもあるから。僕、映画撮っていて初めて怖くなっちゃった場面があるんです。奈津美がホテルで北村有起哉さんと向き合う重要なシーンで、大島さん、本番中にいきなり叫んだんですよ。 大島:あはは(笑)。 石井:自分がコントロールできないところに俳優が行ってしまった、と感じた初めての経験でした。本当に大島さん死んじゃうかも、と思った。 大島:お芝居をしながら「死」を初めて感じたんです。あの瞬間に自然に奈津美になっていて、娘のことが思い浮かんだんですよね。そこから「生きたい」という感情が生まれて、あの表現に行き着いたのかもしれない。自分でもびっくりしました。 石井:大島さんは感性がすごく鋭いし、動物的な勘がある。 大島:直感や運動神経はいいほうですが、最近はあまりそういう自分を過信しないようにしているんです。やっぱり30代になって年齢的に動けなくなって鈍さが出てきた。それもそれでいいのかなと思うんですけど。 石井:そう、それがよかった。30代ならではの肉体、鈍さのようなものがちゃんとあった。 大島:撮影中ずっと食べまくって、太ったんです。体の重い感じを体感しよう、って。  大島さんは2017年から1年間、米国留学を経験。それが演技にも影響を与えたという。 大島:私、ずっと留学したくて、20代のうちに行っておこうと。あと、ちょっと仕事が嫌いになりそうだったので(笑)。子役からずっとこの世界にいるから「ほかにいい人、いるんじゃないか?」って。でも結局、一途でした。それで心が軽くなりました。いままで自分への負荷をかけるわりには、心に浸透しないまま、無理に吐き出していたんです。だから余計に疲れていたし、重かった。でも役が「すん」と自分に入って、体の底でポンッと跳ね返って自然に外に出す感覚がつかめてきたのかな。たぶんアメリカで自分が「何者でもない」ってことがわかったからだと思うんです。大島優子という存在を知らない人たちと出会って「自分は何者か」を見つめ直せた気がします。 石井:僕も今年韓国で映画を撮ったんですが、ものすごく苦労したんです。それは最近出した『映画演出・個人的研究課題』にも書いたんですけど、海外って言葉もうまく通じないし、食も文化も違う。そのなかで自分が大事にしてきたものを捨てなきゃいけなくなる。でも身軽になることで真に大切な、本質みたいなものが見えてくる。 大島:まさにそうですね。ちなみに、タイトルはなぜ「生き“ちゃった”」なんですか? 石井:「愛」をテーマに考えたとき「死」と「生」が思い浮かんだんです。愛することは強烈に生きることで、つまりは皮肉なほど死に近づいていく。死というものの重みが感じづらい現代だからこそ、「生きる」という能動的な言葉がしっくりこなくて。「ちゃった」くらいの滑稽さのほうが腑に落ちる。 大島:いま本当に生と死は隣り合わせになっている。いま生きていることも「もしかして、なんか……生きちゃってる?」みたいな感覚、よくわかります。 石井:今回、大島さんをはじめ(仲野)太賀君、若葉(竜也)君に異常なほどの迫力と熱気があった。なぜそこまで本気でさらけだそうとしてくれたの? 大島:「なにくそ!」っていう人たちが集まったのかもしれないですね。自分の置かれている状況や社会、愛に対してなど対象はそれぞれだと思うんですけど。 石井:なるほど。 大島:そういう怒りや思いはパワーになる。全員がそこで響き合っていたから自分が生半可でやるとそこから落ちてしまう、という気持ちでした。でも公開されてみないと、このチャレンジが成功か失敗かはわからないですよね(笑)。 石井:いや、大丈夫でしょう!(笑) (フリーランス記者・中村千晶) ※AERA 2020年10月12日号
AERA 2020/10/09 11:30
ダラダラ「1万歩」は「何もしない」人と大差なし!? 筋力・持久力アップに効くのは「速歩き」
井上有紀子 井上有紀子
ダラダラ「1万歩」は「何もしない」人と大差なし!? 筋力・持久力アップに効くのは「速歩き」
撮影:写真部/東川哲也 AERA 2020年10月12日号より AERA 2020年10月12日号より  厚生労働省も推奨する「1日1万歩歩行」。ところが、普通に1万歩歩いただけでは、筋力・持久力の向上において家にいた人と大差がない、というデータがある。歩くことで得られるメリットは山のようにある。しかしそれを受け取るには速度と姿勢の見直しが必要だ。AERA 2020年10月12日号は「歩き方」を特集。 *  *  *  3階まで階段を上っても、息切れしない。地面に座ったとき、手を使わずに立ち上がれる。  ウォーキングを始めて約1年半、北海道在住の会社員・長沼秀直さん(54)は、確実に体力がついたことを実感している。  開始当初の体重は90キロ、体脂肪率は32%。高血糖や高血圧にも悩まされ、通勤の際に1駅ほど余分に歩いたり、週に1度プールで泳いだりしていたが、効果は感じられなかった。  だが昨年4月、職場が変わり定時に帰宅できるようになったのをきっかけに、インターネットで見つけたウォーキング法を始めた。それは1日8千歩を歩き、そのうち20分を速歩きにするというもの。  通勤時に遠回りをするなどして約1時間、3キロを毎日歩いた。速歩きではスポーツウォッチで心拍数をチェック、120くらいを目指す。ちょっときついが、息が上がらないくらいの速さだ。1カ月経ち、2カ月経っても体重に変化が見られず心が折れそうになったが、4カ月目、ついに体重が減少し始めた。 「後で計算してわかったのですが、最初の3カ月にも脂肪はちゃんと減っていて、同じだけ筋肉量が増えていたんです」  現在、体重は約10キロ減。体脂肪率は28%に。生活習慣病関連の数値はすべて正常の範囲内に改善した。 「歩くことは体によい」。多くの人がそう信じている。だが、実はただ普通に歩くだけでは減量や筋力アップなど、体に対する効果はほとんど期待できないことがわかってきた。  信州大学医学部特任教授の能勢博さん(67)はこう指摘する。 「運動療法の国際基準では、体力向上には体力の上限60%以上の強度の運動を1日30分以上、週3日以上やることが必要とされています。ところが、普通歩きでは40%程度の体力しか使えていないのです」  これをデータで証明したのが、能勢さんらのグループの研究だ。1日1万歩の普通歩きをしたグループの5カ月後の筋力・持久力のアップ率は、何もしなかったグループとほとんど変わらなかった。ところが、1日約52分、速歩きとゆっくり歩きを交互に行ったグループは、ハムストリングの筋力が約17%、大腿四頭筋の筋力が約13%、持久力の指標である最高酸素消費量が約10%向上した。体力年齢でいうと10歳若返ったことになるという。  なぜ、速歩きとゆっくり歩きなのか。実は当初は被験者に「30分連続の速歩き」をリクエストした。ところがほとんどの人が「きつい」「面白くない」という理由で、実行してくれなかったのだという。 「きつい運動をすると筋肉に乳酸がたまって息切れや筋肉痛を引き起こします。しかしそこに2~3分のゆっくりとした運動を挟むことで乳酸が代謝され、再びきつい運動が可能になるのです」(能勢さん)  この歩き方は持久力を鍛える有酸素運動と、筋力をアップさせる無酸素運動の両方の効果があるとされ、「インターバル速歩」として注目を浴びている。速歩き3分、普通歩き3分を交互に繰り返すだけの簡単な方法だ。速歩きの目安となるのは歩行の場合、「ちょっときつい」と感じるが、隣に人がいたら会話ができる程度。より正確に知りたい場合は、心拍数を目安にするとよい。  まずはこれを1日30分以上、週に4日以上続けることが目標となる。約9千人のエビデンスに基づく研究報告では、1週間で「汗をかきやすくなる」、2週間で「肥満傾向の人が体重の減少を自覚」、5カ月で「高血圧・高血糖・肥満の症状が20%改善」といった効果が報告されているという。  多くの効果が得られるのには理由がある。鍵は細胞に存在し、エネルギーを生み出す源となるミトコンドリアという小器官だ。  体力は20代早々にピークを迎え、30歳以降は10歳ごとに5~10%ずつ落ちていくが、同時にミトコンドリアも減少し、その機能も低下する。ミトコンドリアの機能が低下すると、組織を傷害する活性酸素が産生され、それに反応して、「炎症性サイトカイン」という物質が分泌されて、体内のさまざまな場所で炎症反応が引き起こされる。これが血管内皮細胞で起きると動脈硬化や高血圧に、脳細胞で起きると認知症やうつ病に、免疫細胞で起きるとがんになると、最近の研究で指摘されている。筋力や持久力が上がるとミトコンドリアの量が増え、活性化することがわかっている。 「つまりインターバル速歩など、最大体力の70%程度の運動をすることで、病気の根本原因を除去することができるのです」(同)  都内在住の大学教授・佐藤達郎さん(61)も、以前は1日1万歩を目標に歩いていたが、ほとんど効果を感じられず、3年ほど前にやめてしまった。しかし1年前、フェイスブックで「インターバル速歩がいい」と書いてあるのを見つけ、仕事の合間や移動などを利用して挑戦してみた。すると、目に見えて体調がよくなったという。 「以前は夜中に目がさめてしばらく眠れないということがあったのですが、今は毎日7~8時間ぐっすりです。僕は高血糖ですが、インターバル速歩を始めてから血糖コントロールができています。1日1万歩に比べれば心理的にすごく楽なんですが、足腰の筋力もアップして疲れにくくなりました」(佐藤さん) 速歩きをする際の速度は人によって異なるが、目標を持つ場合、「時速7キロ」が一つの目安になる。そう指摘するのは、アシックススポーツ工学研究所主席研究員の市川将さんだ。 「ウォーキングから徐々に速度を上げていき、自然と走り出すのは時速7~8キロ。時速7キロは、ギリギリ走り出さないくらいの速度です」(市川さん)  一般的に、ウォーキングよりランニングのほうが、運動効果は高いとされている。しかし時速8キロ以上の速度では、ウォーキングのエネルギー消費量はランニングを上回る。時速7キロ歩行はランニングに近いエネルギー消費量がありながら、故障のリスクが低い究極の運動法ともいえる。ランニングは蹴り出しの際に体重の2~3倍の力が足にかかるが、ウォーキングであれば、足にかかる最大負荷は1.2~1.6倍程度。スポーツ初心者でも安全に取り組める。とはいえ、普通歩行の時速は4~5キロと言われ、時速7キロ歩行はそう簡単ではない。 「そもそも正しい姿勢ができていないと、速く歩くことはできません。たとえば、すり足のようにペタペタと足裏全体をつく歩きでは歩幅が小さくなる。速く歩けるということは、基本的な歩行姿勢はできているともいえます」(同) (編集部・藤井直樹、ライター・井上有紀子) ※AERA 2020年10月12日号より抜粋
AERA 2020/10/08 08:00
三浦春馬さんの死でつらい思いを抱える人へ 「14歳の母」から「せかほし」まで本人の言葉
三浦春馬さんの死でつらい思いを抱える人へ 「14歳の母」から「せかほし」まで本人の言葉
三浦春馬さん(c)朝日新聞社 キャプテンハーロックの映画公開で笑顔をみせる三浦春馬さん(c)朝日新聞社  30歳の若さで急逝した三浦春馬さん。多くの出演作品を残し、今でもわれわれに影響を与え続けている。三浦さんは、その演技の実力もさることながら、作品を語る言葉も魅力に満ちている。自分の頭で作品の意味を考え、感じたことを自らの言葉で語ることのできる俳優だった。「14歳の母」から「せかほし」まで、出演作品や番組を「本人の言葉」で振り返りたい。 *  *  *  三浦さんは7歳のとき、NHK連続テレビ小説「あぐり」でデビュー。17歳で出演した映画「恋空」で日本アカデミー賞新人俳優賞に輝き、その後も話題のドラマや映画に出演。映像作品のみならず、舞台での評価も高く、ミュージカル「キンキーブーツ」では審査員の満場一致で杉村春子賞(2017年)を受賞した。  若手実力派俳優として成長し、亡くなるまで仕事が途切れることはなかった三浦さん。数えきれないほどのテレビ、新聞、雑誌などのインタビューを受けてきた。その中から三浦さんの人となりを表すような印象的な言葉を抜粋して紹介していく。 【14歳の母】  中学生の妊娠を題材にした2006年放送の連続ドラマ。三浦さんは、志田未来さん演じるヒロインの相手役だった。多感な年ごろに、難しいテーマをしっかり受け止めていた様子。 「中学生の妊娠っていうのは問題が大きいから、僕もいろいろ考えてみているんですけど、正解もないし、間違いもないんですよね。だからドラマの結末はあくまで答えのひとつなんです。これからどうなるのか、智志(三浦さんの役)と未希ちゃん(ヒロイン)がハッピーエンドで終わるのかどうか、最後まで温かく見守ってください!」(週刊女性 2006年12月12日号/16歳) 【恋空】  2007年11月公開の映画。ケータイ小説を原作としたラブストーリーで、三浦さんはこの映画で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。 「『恋空』の台本を読んだときは素直に泣けてしまいましたね。(中略)撮影中は、もちろん楽しいっことばかりじゃなくて、重いシーンが多いだけに、感情移入が大変でしたね。(中略)『カット』の声でメリハリがつけられるようになったのは、しばらく経ってから」(JJ 2008年3月号/17歳)  同じ年に映画「奈緒子」も撮影。2本の映画をやりきったことは自信につながったという。 「昨年『恋空』と『奈緒子』という2本の映画を撮ったことで、本番前の役の気持ちの作り方や集中の仕方、そしてひとつの作品を作り上げる喜びを、これまで以上に深く見出せるようになったという手応えは感じています。これまでより演技に自信を持てるようになったかな」(an・an 2008年2月13日号/18歳) 【君に届け】  少女コミックを原作にした青春映画で、2010年9月に公開。地味で暗い女の子が、誰からも好かれる風早翔太(三浦さん)と出会うことで周囲との関係が変わっていくストーリー。 「お話をいただくまで(原作コミックは)読んだことはなかったし、抵抗はありました。でも読んでみたら……案外好きだなって(笑)」(ピクトアップ 2010年10月号/20歳)  三浦さんの役は少女漫画のいわゆる「王子様」的な存在として描かれている。リアリティに欠ける役柄に息を吹き込むのも役者の仕事。 「何かを参考にするとかじゃなくて、もう原作しかなかったです。(中略)現場には原作を5巻くらい持って行って、原作と台本を見比べながら演っていました」(同)  自分とは遠い役を演じながら、俳優という仕事の役割を考える機会になったようだ。 「<元気>を届けられればいいな、と。『この人を観ていると元気になれるよね』って感じてもらえれば、こんなに嬉しいことはないとはないと思っています」(同) 【東京公園】 2011年6月公開の映画。三浦さんはカメラマン志望の青年・光司を演じた。自然あふれる公園の中で、三浦さんは主人公の心の揺れを繊細な演技で表現している。 「好きなことをやっているけど先のことはわからない。同世代でもある彼の不安定さにも共感できました。僕自身の友達も今ちょうと就職活動する時期で、そういうこの話を聞くと“わかるなあ、みんな不安なんだろうな”と思ったりするし。だから光司役に自分から遠いと思わせるものはほとんどなかったんです」(CREA  2011年7月号/21歳) 【永遠の0】  2013年12月公開の映画。三浦さんは、戦時中に特攻で亡くなった祖父の生涯をたどる孫の役。この役を演じるにあたり、三浦さんは自分の祖父について知りたくなり、母親に話を聞くと、祖父は戦時中に航空兵を志願していたという事実が明らかになったという。三浦さんにとって忘れられない作品となった。 「祖父はたまたま目が悪かったために航空兵の試験に通らなかったそうですが、もし視力がよかったら特攻で命を落とし、僕も誕生しなかったかもしれない。この本(原作)との出会いが、改めて祖父や自分の命について考えるきっかけを作ってくれました」(CREA 2013年5月号/23歳) 【僕のいた時間】 2014年1月から放送されたドラマ。三浦さん演じるごく普通の大学生・拓人が筋萎縮性側索硬化症(ALSの)発症によって、自分の人生を見つめなおすニューマンストーリー。三浦さんは、テレビのドキュメンタリー番組で難病と闘う家族の姿に感銘を受け、それを口にしたことがきっかけで、このドラマが実現した。 「自分が演じてこなかった感情を表現してみたい。その先にある何かに触れてみたい。心から思ったんです」(朝日新聞 2014年2月22日朝刊/23歳)  豊かな感性と、想像力で難しい役を演じきった。 「拓人を演じていくなかで、まだ僕も出会ったことのない感情や考えに出会うかもしれません。ALSの発症によって、人の温もりやささやかな音の優しさを感じることのできる心が育つ…ただの雑音と思っていた物事や人の声。そのすべてに意味があり、大切だとわかるようになる。それは健康で、何不自由なく過ごしていると、見過ごしがちなのではないでしょうか。そこを表現していけたら、と思っています」(25ans  2014年3月号/23歳) 【地獄のオルフェウス】  テネシー・ウィリアムズの戯曲を、大竹しのぶさんらと共演した。三浦さんが演じるのは、愛のない生活を送る女の前に現れたひとりの青年で、自由を象徴する役柄。舞台は2015年5月に東京で、6月に大阪で上演された。 「理想を持っているヴァル(三浦さん演じる青年)の生き方はすごく魅力的だけれど、一歩ひいてみるととても寂しいなと思ったりもして……。彼の語ることが今はすごくよくわかる気がするんです。ただ自由に生きたかっただけなのに、彼の意志に反して、やはりどこに行っても自由はなくて、その理想さえもむしられていく。本当の自由って何だろう。観ていただいた方に一瞬でもそんなことを感じていただけたら嬉しいです」(ダ・ヴィンチ 2015年5月号/25歳)  後に三浦さんは、役者人生の転機となった作品のひとつだと明かしている。この舞台を通して、役者人生の可能性を自分自身で信じることができるようになったという。 【キンキーブーツ】  23歳でブロードウェイの公演を観たときから「やりたい」と思い続けていたミュージカル作品。念願かなって、2016年7月に日本人キャスト版で主人公のドラァグクイーン・ローラを演じた。読売演劇大賞の杉村春子賞を受賞し、舞台人としての実力が認められた作品だ。2019年4月に再演もしている。  歌とダンスのすばらしさに目を奪われるが、それだけはない。とことん考え抜いて、キャラクターづくりをしていたそうだ。 「きれいでファニーで強いローラにしたいし、お客さまの脳裏に、三浦春馬ではなくローラとしての印象が自然に残るようにしたい。そのために、彼のバッグボーンや内面に抱えたものを大切に役作りをしてきたいです」(PHPスペシャル 2016年8月号/26歳)  努力の先につかんだ手応えと舞台に立つ醍醐味も味わった。 「いざ幕が開いて、“生”ならではの取り返しのつかない緊張感の中で何日も公演を続けていると、ある時突然それまでまったく見えなかったものに気づけたりする。たとえば、それは極限まで集中している相手からのパッションを受け取ったことで溢れ出る感情だったり……。そんな感覚が味わる舞台は、僕にとって、これからも1年に1回は立ち続けたいと思える場所です」(MORE 2016年8月号/26歳) 【こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話】  24時間体制の介助が必要な筋ジストロフィーの男性と周囲のボランディアの生活を描いたノンフィフィクションが原作の映画。大泉洋さんが主人公をコミカルに演じ、振り回される要領の悪いボランティアの医学生を三浦さんが演じている。2018年12月公開。障がいと介助という難しくとらえがちな題材だが、三浦さんの演技が見る者をひきつけている。 「理想の自分と現実の自分との間にある混沌としたものをどう表現したらいいのか。そう考えた時、かつての自分のこと、あの頃の感情とか状況とかを思い返して、引っ張り上げるという作業をすごく丁寧にしたと思います。自分はなんて駄目なんだろうって悔しい思いをした経験はきっと皆さんにもありますよね。だから今回の役柄に共感してくれる人はとても多いと思うんです」(週刊文春 2018年12月13日号/28歳)  三浦さんは、この作品に携わったことで得られたことがあるという。 「鹿野さん(原作の中心人物の鹿野靖明さん)は、なんでもストレートに発言されていた。ボランティアと介助される側は、常にお互いの息遣いまで感じる距離感で接しなくてはいけないから、遠慮や壁があると、介助を受けるほうも逼迫してしまうんでしょうね」(CREA 2019年1月号/28歳) 「この作品を通して、人との壁を越える勇気や、その大切さを自然と教わった気がします」(同) 【TWO WEEKS】  2019年7月から放送したサスペンスドラマ。殺人の濡れ衣を着せられた主人公(三浦さん)が、白血病を患った娘のドナーになるために、2週間逃げ続ける。三浦さんは初の父親役に挑んだ。 「この物語は、ただの逃亡劇ではなく、人は2週間でどれだけ成長できるのかということがテーマです。(中略)回を重ねるごとに、結城(三浦さん演じる主人公)の人間らしさや感情、思考がクリアになってきたので、僕自身も同じ気持ちを感じながら走っています」(ESSE 2019年10月号/29歳)  主題歌「Fight for your heart」も三浦さんが歌い、評判となった。三浦さんには、近年リアルタイムでドラマを見る若者が減ったため、ドラマを見る人が増えればという思いがあったという。 「(主題歌は)ドラマのストーリーと結城の心情に沿ったアップテンポで熱く、高揚感を感じる曲。演じる自分の身に浸透していく感覚が印象的でした。曲がきっかけとなり、ドラマを観てくださる方がいたらうれしいです」(同) 【世界はほしいモノであふれてる~旅するバイヤー 極上リスト】  最後に、映画やドラマ、舞台ではないが、これも三浦さんのひとつの作品といえるテレビ番組を紹介したい。2018年4月から放送が始まった、歌手のJUJUさんとMCを務めたNHKの番組、通称「せかほし」だ。世界中でさまざまな名品を買い付けるバイヤーをゲストに招き、モノにまつわるストーリーを買い付けの旅とともに紹介。スタジオでのやりとりに、三浦さんの人柄が表れていた。 「毎回、尊敬です。バイヤーさんたちの、あの知識量と熱量、プロとしての責任感!」(ステラ 2018年4月20日/28歳)  テレビのMCは初めてだったという三浦さん。最初は戸惑いもあったようだが、番組が2年目に突入すると、思い入れが深くなってきたのが伝わってくる。 「僕たちMCを含め、この番組に関わるスタッフ全員が『このすてきなモノを、お茶の間の皆さんに伝えるんだ!』というアツい気持ちでつながっている。そこにウソはないし、苦労も惜しまない。その温度感が僕にはとても心地よくて。今では<せかほし>は、すっかり僕にとっての“ホームグラウンド”です」(ステラ 2019年4月19日号/29歳) 「“モノ”の先には、必ず人がいます。そして、人の生活、営みがある。(中略)モノとは、さまざまな出会いへの入り口だと思うんです」(同)  俳優の仕事にもいい影響があり、「できれば3、4年と長く続けていきたい」と希望を口にしていた。 「『この番組が好き』といってくれる人がけっこう、この業界に多くて。(中略)『この間の回、よかったね』と声をかけていただくと、うれしいですし、身が引き締まります。ひとつのものを長く続けていくモチベーションって、こういうところから生まれてくるんだ、という新鮮な発見でもありました」(同) 「これほどまでに愛されている番組のMCとして、ふさわしい俳優でいなければ、と思うからです」(同)  インタビューは「また、木曜日の夜に会いましょう」という三浦さんの言葉で締めくくられていた。 どんな仕事にも、プロとしての誇りを持ち、誠実に丁寧に取り組んでいた三浦さん。だからこそ、紡げた言葉の数々だろう。その思いはこれからも作品の中で生き続けると思いたい。(AERAdot.編集部) ※このシリーズの他の回はこちら 【1回目】三浦春馬さんの死に傷ついている人へ もう一度聞きたい「本人の言葉」~家族と仕事~ https://dot.asahi.com/dot/2020091400066.html 【2回目】三浦春馬さんの死から心に穴が開いたままの人へ 残したい「本人の言葉」~人との出会い~https://dot.asahi.com/dot/2020092200004.html 【3回目】三浦春馬さんのいた時間を忘れたくない人へ 大切にしたい「本人の言葉」~30代の節目~https://dot.asahi.com/dot/2020092800043.html 【4回目】三浦春馬さんの死から時が止まってしまった人へ 結婚と恋愛をめぐる「本人の言葉」https://dot.asahi.com/dot/2020100300016.html ◇相談窓口 ■日本いのちの電話連盟 ・フリーダイヤル0120・783・556 (16時~21時、毎月10日は8時~翌日8時) ■よりそいホットライン ・フリーダイヤル0120・279・338 ・IP電話やLINE Outからは050・3655・0279 (24時間) ■こころのほっとチャット ・LINE、Twitter、Facebook @kokorohotchat (12時~16時、17時~21時、最終土曜日から日曜日は21時~6時、7時~12時)
dot. 2020/10/06 17:00
三浦春馬さんの死から時が止まってしまった人へ 結婚と恋愛をめぐる「本人の言葉」
三浦春馬さんの死から時が止まってしまった人へ 結婚と恋愛をめぐる「本人の言葉」
笑顔の三浦春馬さん(c)朝日新聞社 笑顔が眩しい三浦春馬さん(c)朝日新聞社  三浦春馬さんが最後に出演したドラマ「おカネの切れ目が恋のはじまり」(カネ恋)が6日、ついに最終回を迎える。三浦さんが急逝したのは7月。あれから月日が過ぎても、時が止まったままという人も多いだろう。真偽不明の情報が沸いては消えるなか、確かだといえるのは本人が口にした言葉だ。三浦さんはどのように人生を歩み、どんな未来を描いていたのか。インタビュー記事に残した本人の言葉をふりかえってみたい。今回は恋愛と結婚について。 *  *  * 「結婚って、生涯この人ひとりを大切にする、そういう運命にゴロゴロピカーンってイナズマみたいに打たれてするものでしょ?」  遺作となったドラマ「カネ恋」の3話目の三浦さんのセリフ。松岡茉優さん演じる同僚に「愛と結婚」について語るシーンだった。  三浦さんはその端正なルックスからプライベートにも関心が集まり、たびたび熱愛が報じられてきた。出演作品の共演者と噂になることもあった。  しかし、インタビューでの発言には浮ついたところはなく、結婚については特別な思いを抱いていたようだ。10代のころから結婚願望はあると言いつつも、30歳を目前にして複数の媒体で「結婚は(まだ)しない」と口にしていた。その発言の意味するところは何か。恋愛観と結婚観から、三浦春馬という一人の人間の迫ってみたい。  子役からキャリアを積み上げてきた三浦さんは、10代半ばからインタビューを受けてきた。女性ファンも多いことから、恋愛について質問されることも多かった。  忙しい中でも恋愛はしてきたという。 「僕にとって、恋愛は“生きる上で必要不可欠なもの”。恋をすると毎日が楽しくなりますよね。(中略)もちろんツラいことも出てくるだろうけど、それ以上に幸せなことの方が多いんじゃないかな。たとえ片思いでも、いつも恋はしていたいですね」(non・no 2008年2月5日号/17歳)  告白は自分からするタイプ。それは自信があるからではなく、たとえフラれるとわかっていても気持ちを伝えたいのだという。その理由について、以下のように語っている。 「自分から告白した恋のほうが、長く濃いものになる気がするんです。最後は僕がフラれることになるかもしれないけど……いい恋をしたいから」(同) 「誰かを思ったら、ちゃんと言葉で伝えたい。それで“ノー”と言われたこともあるけど、思ったことはきちんと言ったほうがいいですよ。(中略)いい恋をしていても、行動を起こさなきゃその思いは無いものになっちゃう。それってすごくもったいないですよね」(ポポロ 2008年9月号/18歳)  駆け引きを楽しむのではなく、自分の気持ちに正直に従うまっすぐなタイプだったようだ。インタビューでも自分の言葉で伝えることを大切にしていた三浦さん。恋愛においても、それが相手に誠意を示すことだったのだろう。 「思ったことや気持ちは、愛情表現として言葉にしたいですね。もし彼女によくないとこがあれば、それも伝えるだろうし」(With 2009年11月号/19歳)  好きなタイプは昔から一貫してロングの黒髪の女性。いわゆる清楚な「女性らしさ」を求めてようだ。 「女性らしい品のある人が好きです。仕草とか、言葉遣いとか」(TOKYO1週間 2009年11月17日号/19歳) 「優しいのはもちろんなんですけど、ロマンチックな人がいい。例えば、花を見て、きれいだねって感動を共有したいです。仕事で忙しい中でも相手に会えばまた頑張れる。そんな恋愛ができればな、と思います」(週刊文春 2010年3月18日号/19歳)  とはいえ、「恋愛に対しては、まだ憧れの部分が強い」(With 2009年11月号/19歳)と自身がいうとおり、10代ではまだまだ理想を追い求めていたのかもしれない。結婚については、遠い未来と思っていたようだ。 「この人だっていう女性に出会ったら、誰に反対されようが結婚しちゃいたいと思うけど、きっとずっと先のことですね」(ポポロ 2008年9月号/18歳)  それが、高校を卒業し、俳優業に専念するようになって20歳を過ぎると、人間関係の築き方が変わってきたのだろうか。恋愛ではないが、大人になりつつある自分を自覚したこんな発言がある。 「20歳を過ぎて、母親が以前なら話さなかったような話をしてくれたりして大人扱いされるようになりました」(CREA 2011年7月号/21歳)  恋愛についても、理想を語るだけでなく、現実とのはざまで悩んでいるような節も。例えはこんな発言。 「最近、自分の恋愛パターンが分かってきたなって思うんです。こういうことで嫉妬するんだとか、こういうことされるとダメなんだとか。(中略)今は相手のことをもっと思いやれるようになりたい。まだまだ恋愛については、勉強中です」(an an 2010年9月29日号/20歳)  また、少女コミックが原作の青春映画「君に届け」に関するインタビューでは、作品の魅力について次のように話した。「僕もこうできたらいいのに」といった自身の気持ちが投影されているようだった。 「相手を思いやるがゆえに、うまくいかなかったり、すれ違ったりする場面もあるけど、それってすごくステキなこと。それに、風早(三浦春馬が演じた役)は大好きな爽子(映画の主人公)が悩んでいるとき、いつも“響く”言葉を伝えてあげられる。そこがすごくうらやましいなって思いますね(笑)」(With 2010年10月号/20歳)  さらに、戸田恵梨香さんとW主演を務めたドラマ「大切なことはすべて君が教えてくれた」のインタビューでも、恋に悩む様子がうかがえる。 「分かりやすい性格だし、嘘とか上手につけないし、とにかく不器用だから……二股とか絶対に無理、無理!」(non・no  2011年4月号/20歳)  同年代よりも早く、社会に出た三浦さん。10代のころは年上の女性を好きになること多かったという。年下と年上のどちらを選ぶがたずねられ、「年上」と答えていた。 「年上かなあ。年上を好きなったことが多いからなんだけど。ぶっちゃけ甘えたいときは甘えたいし、年上の方がラクなんじゃないかなっていう」(セブンティーン 2013年6月号/23歳)  ただ、別のインタビューではそういう恋愛観に変化があったとも語っていた。同じく23歳のときだ。 「10代のころは年上の人のほうがラクな感じに思えたんです。好きになる人も年上が多かったし。でも最近は、そういう概念とかもなくなって、べつに年下であっても波長が合ったら、“あ、この子いいな!”と思うし、年齢はぜんぜん関係なくなりましたね」(JUNON 2013年6月号/23歳)  年齢とともに相手に求めるものもより具体的に、現実的なものになっていた。 「箱根とかそっちのほうの温泉に行ってみたいですね。おいしいご飯を食べて温泉に入って、ゆっくりしたい。あとは普通に夜、公園で散歩しながら話してっていうぐらいのデートでも十分、僕は満足ですけどね」(JUNON 2013年8月号/23歳) 「恋愛するなら、のほほ~んとしている関係のほうが好きですね。一緒にいてくつろげるほうがいいです」(同) 「(好きなタイプは)話が面白い人。会話してて『いいなぁ』って思うから。あとは当然、黒髪ロングでしょ(笑)」(同)  このころになると、結婚についても具体的イメージを膨らませていた。 「結婚願望はありますよ。できれば30歳くらいまでには結婚したいです」(同) 「(結婚したら)すごく家庭を大事にしたいと思います。家族でできるようなことをたくさん探したいですね。一緒にキャンプしたりスキーに行ったり、あとは家でクッキーとかおやつを作ってあげられたら最高ですね。未来の奥さんが留守のときにパパっと作っておいて、お腹がすいたときに『クッキー作ってあるよ』って」(同) 「結婚?はわからないけど、もし結婚したら子供が欲しい。子供とたくさん遊びたいな」(LEE 2013年12月号/23歳)  一方、自分自身には、理想ともいえるちょっと高いハードルを課していた。 「(恋人には)あんまり弱い部分は見せたくないですね。たとえばホントに滅入ってるときとか、落ちている自分は見せたくない」(JUNON 2013年6月号/23歳) 「僕が頑張っている姿を見て『私も頑張ろう』と思ってもらえるような、刺激しあえる関係が理想的だな、と思います。だから、弱い部分を見せたくないって言ったのも、そこは偽っても頑張りたいと思うんです」(同)  この年は、レギュラー出演したドラマ「ラスト・シンデレラ」の放映があり、声優に挑戦した映画「キャプテンハーロック」と、戦争というテーマに取り組んだ映画「永遠のゼロ」が公開された。こうした発言は、多忙の中ではりつめた緊張感の表れだったのかもしれない。  この発言以外でも、仕事と恋愛が精神面でリンクしていたことがうかがえる。例えば「セクシー」とは何かという質問に対する答え。恋愛観というよりは、人生観や仕事観が反映されているようだった。 「男のセクシーさは生き様に表れるもの)」(non・no 2014年3月号/23歳)  こうして迎えた20代後半。多忙を極めつつも、三浦さん自身が仕事に手ごたえを感じ始めた時期だ。日々努力と研究を重ねた結果、ミュージカル「キンキ―ブーツ」のドラァグクイーンなど役の幅が格段に広がっていった。当然、インタビューでは作品や役作りなどについての質問が多くなり、本人の答えも恋愛や結婚についての発言は減ってくる。あったとしても、恋愛を語るというよりは、人間関係という深いテーマにつなげて答えるようになっていた。  例えば、20代前半までは運命的な出会いを信じているところがあった。23歳のときには次のように話している。 「もし、運命的な女性に出会ったら、僕は迷わず行くんじゃないかな」(JUNON 2013年8月/23歳)  また、25歳のときには、ドラマ「わたしを離さないで」の内容に絡めて以下のように話した。 「“これが運命だったのか!”っていう出会いは、まだないですね。期待はしたいですが。そんな出来事があったら、きっと最高ですよね」  それが、29歳のときには、映画「アイネクライネナハトムジーク」に関するインタビューで次のように答えていた。 「劇的な出会いを求める気持ちは誰にでもあると思うんです。もちろん僕も例外じゃない。(中略)最近は“劇的”でない、日々の出会いの大切さを身に染みて感じています。(映画の)今泉(力哉)監督との出会いもそうです。ただ、僕は情熱があっても相手に自分の思いを説明して伝えるのが苦手。せっかく出会った相手でも、時間をかけないと気持ちを伝えられないこともあります。でも焦らずに時間をかけて話を聞いたり、この人はたぶんこういうことを言いたいんだろうなということを想像するようにしています」(婦人公論 2019年10月8日号/29歳)  結婚については「30歳までにはしたい」と言っていたのが、「今は考えていない」と明言するようになったものこのころだ。ただ、それは仕事が充実していたことの表れであり、役者としての自分に自信がつき、もっと上を目指したいという気持ちから出た言葉だったのかもしれない。 「もやもやした気持ちのまま仕事をしていた20代前半までに比べたら、だいぶ成長したと思います。(中略)苦手なことや弱点も自覚できるようになったので、それを克服する努力もできる。その一つ一つが仕事やプライベートの安定につながるから、これが大人になるっていうことなのかなと思いますね」(家の光 2019年2月号/28歳)  同じころ、好きな女性のタイプについては、いたずらっぽい笑顔を見せて、こんなことを言ったという。 「子供の頃は黒木瞳さんに憧れていて、黒髪ロングの女性と結婚したいと思っていたんです。でも最近は変わりました。生き物で例えるなら、今の僕の好きなタイプは『エゾサンショウウオみたいな人』ですかね。あのつぶらな瞳がたまりません」(からだにいいこと 2019年10月号/29歳)  一方で、結婚願望がなくなったわけではないようだ。むしろ、家族というものに対して特別な思いを抱いていたようなところがあった。  29歳で初の父親役を演じたドラマ「TWO WEEKS」では、共演する子役をかわいがり、ツーショットをスマホの待ち受けにするほどだった。 「すごく癒される。この子のために、3カ月頑張れるなという思いが生まれています」(朝日新聞 2019年7月18日夕刊/29歳) 「撮影前は、そこまで首ったけになることはないだろうと思っていたんですけど。初めての感情との出会いに戸惑いもありますが、楽しみながら日々全力でやらせてもらいます」(同)  自分と親子を演じた子役のことを「特別な存在」と言っていた三浦さん。その発言の背景に、いつか家族をもちたいという気持ちがあったとしても不思議ではない。  また、直接的ではないが、頭の片隅にそうした気持ちがあったと推測できるような表現もあった。最近影響をうけた本についての質問ではこのように答えていた。 「論語のなかに『直接政治に携わらなくても、家族や身近な人たちと良好な関係を築くことも、国をよくしていくこつながる』といった意味のことが書かれていて、それを僕は、どんな仕事も大きく考えれば国をよりよくしていくことだととらえて、いつも年頭に置いています」(NIKKEI WOMAN 2020年3月号/29歳)  30歳直前の言葉だ。三浦さんにとってはいい仕事をした先に、結婚や家族を持つことがあったのかもしれない。  すべてに誠実に生きた三浦さん。これからいろんな可能性が広がっていたはずの人生が途切れてしまったのが残念でならない。最後のドラマ「カネ恋」の撮影も本人は誠実に取り組んでいたはず。最終話の演技を目に焼き付けておきたい。(AERAdot.編集部) ※このシリーズのほかの回はこちらから 【1回目】三浦春馬さんの死に傷ついている人へ もう一度聞きたい「本人の言葉」~家族と仕事~https://dot.asahi.com/dot/2020091400066.html 【2回目】三浦春馬さんの死から心に穴が開いたままの人へ 残したい「本人の言葉」~人との出会い~https://dot.asahi.com/dot/2020092200004.html 【3回目】三浦春馬さんのいた時間を忘れたくない人へ 残したい「本人の言葉」~30歳の節目~https://dot.asahi.com/dot/2020092800043.html 【5回目】三浦春馬さんの死でつらい思いを抱える人へ 「14歳の母」から「せかほし」まで本人の言葉https://dot.asahi.com/dot/2020100600064.html ◇相談窓口 ■日本いのちの電話連盟 ・フリーダイヤル0120・783・556 (16時~21時、毎月10日は8時~翌日8時) ■よりそいホットライン ・フリーダイヤル0120・279・338 ・IP電話やLINE Outからは050・3655・0279 (24時間) ■こころのほっとチャット ・LINE、Twitter、Facebook @kokorohotchat (12時~16時、17時~21時、最終土曜日から日曜日は21時~6時、7時~12時)
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