
中山美穂さんを12歳でスカウトした「恩師」が明かす“6畳生活”と“月給5万円”から国民的スターになるまで
女優で歌手の中山美穂さん(享年54)の葬儀が12月12日、都内の斎場で、家族と事務所関係者だけで執り行われた。その中には、美穂さんの所属事務所「ビッグアップル」の創業者・山中則男氏の姿もあった。山中氏は、美穂さんを原宿でスカウトし、トップスターにまで育て上げた“恩師”でもある。山中氏が葬儀の様子とその胸中をAERA dot.に語った。
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葬儀の喪主を務めたのは妹の中山忍さん(51)。遺影には、美穂さんのラストコンサート(12月1日)となった「ビルボード横浜」で歌う姿が飾られたという。山中則男氏は葬儀の様子をこう話す。
「喪主のあいさつをした忍ちゃんは、ペーパーを読み上げるのではなく、心を込めて自分の言葉で話していました。美穂をほうふつとさせるものを感じ、こちらが泣けてきました。忍ちゃんからは『山中さん、ありがとうございました。(山中さんとめぐり合えたことを)姉はすごく喜んでいました』と感謝の言葉をいただきました」
美穂さんは妹の忍さん、弟の3人きょうだいの中で育った。
「忍ちゃんは本当に気立てのいい子で、姉妹の仲も良かった。忍ちゃんは美穂よりも大人で、お姉さんっぽい感じでした。弟がまだ小さい頃、お母さんが働いていたものだから、忍ちゃんがおむつを替えて、一生懸命、家族を支えていたそうです。美穂はどちらかというと、忍ちゃんに頼っているような面がありましたね。美穂が芸能界で長続きできたのは、忍ちゃんという支えがあったからです」(山中氏)
葬儀が終わった後、忍さんはこうコメントを出した。
<姉は一生懸命な人でした。ちょっと頑固で、バカみたいに正直で、本当は傷付きやすい心を見せず、何があっても自分の責任だと、真っすぐ前を向く勇気がある人でした。自慢の姉でした>
中山さんは12月6日、東京・渋谷区の自宅の浴槽の中で亡くなっているのが発見された。当時の状況を山中氏はこう振り返る。
「私に事務所から連絡があったのは当日の正午過ぎでした。まだ『体調不良によるコンサート中止』という情報が流れる前でした。『亡くなったんです』と言うから、『本当か』と何度も聞き返しました。信じられなかったし、気が動転してしまっていました」(同)
「やっこ」「みほ」と呼び合っていた
美穂さんは同日の午前2時半に事務所関係者にLINEを入れたのが最後に連絡が取れなくなった。死亡推定時刻は午前3時から5時とみられている。浴槽の中で、座った状態で顔を水面につけていたという。死因については、美穂さんがお酒や常備薬を飲んで入浴したからではないかという臆測も流れた。だが、山中氏はこう否定する。
「お酒を飲んで入浴というのはあり得ません。美穂はコンサートの前は絶対にお酒は飲まなかったですから。そこは徹底していました。常備薬というのも、事務所関係者に私は何度も問いただしたんですが、『それだけは絶対にないです』と断言していました。誰かがそばにいたら助かったのに、という残念な気持ちはあります」
山中氏と美穂さんが出会ったのは12歳のとき。中学1年の美穂さんを東京・原宿でスカウトしたことがきっかけだった。山中氏は第一印象をこう語る。
「目がいい、目力があると思いましたね。どんなにスタイルがよくても目が死んでいたらダメなんです。売れっ子になるな、というのはパッと見た瞬間にわかります。美穂を見て,売れると直感しました」
当時、山中氏はモデル事務所「ボックスコーポレーション」を設立していたため、美穂さんも同事務所にスカウトした。
「美穂は未成年で親の許可が必要でしたから、お母さんも事務所に来ていただき、近くの喫茶店で、お母さんと3人でお茶をしました。美穂は『ママはすごく苦労してきた。いつか、ママに家をプレゼントしたい』と言っていました。そんな話を聞きながら、この子にかけてみたいと思ったんです」(山中氏)
その後、山中氏は「ボックス」を退社し、美穂さんと遠藤康子の2人のタレントを連れて、「山中事務所」を創設した。
「遠藤も私がスカウトしました。年も1つ違いで『やっこ』『みほ』とお互いの名前を呼び合って仲が良く、一緒に遊びにも行ってましたね。美穂が『静』ならば、遠藤は『動』。遠藤のほうが一つ年上でしたので親分肌で、美穂にいろいろと教えていました」(同)
その頃、山中事務所は渋谷区の参宮橋駅から徒歩7~8分のところにあった。
「マンションの1階で、6畳と4畳半の2部屋と流し台だけ。家賃は4万5000円で、自宅兼事務所でした。一生懸命に営業したんですが、最初は2人とも全然売れなかった。それでも毎月5万円ずつ、2人に給料を払っていました。ですが、途中で2人を維持するのは難しくなってしまい、遠藤は知り合いの芸能事務所にお願いしました。その遠藤は歌手の橋幸夫さんが副社長を務めるレーベルから、歌手デビューが決まっていたんです。ところが、デビュー前、1986年に自殺してしまった……。死の1週間くらい前には美穂や私に『私も負けないように頑張るから応援してね』と電話があったんです。もう衝撃で、美穂と2人で大泣きしました」(同)
ドラマ初出演翌日から「電車に乗れなくなった」
美穂さんがブレークするきっかけとなったのは、85年1月8日にスタートしたドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系)への出演だった。ツッパリ娘でトラブルメーカーの「森のどか」役で出演し、一夜にして人気者となった。
「その頃ちょうど、美穂とCMのオーディションを受けに行ったんですが、落ちて帰ってきました。ションボリしながら渋谷の街をブラブラと歩いていたら、街中で元部下から『山中さーん』と声をかけられたんです。彼は芸能関係の仕事をしていて、『明日、TBSのドラマのオーディションがあるから受けてみない? 私のほうで連絡をつけておきますから』と言ってくれたんです」(同)
翌日、山中氏は美穂さんと東京・赤坂のTBS前にある喫茶店「アマンド」(当時)の前で待ち合わせして、オーディションに向かった。
「ドラマのオーディションはダメだとすぐに帰らされます。でもその時は時間がかかったので、『もしかしたら』と思ったんです。TBSのディレクターから『一応、候補には残っています。夜、返事をしますから』と言われました。そうしたら合格。そりゃあ、美穂は喜んでいましたよ。事務所の電話番をしてもらったり、私が作った飯を食べさせたりして、それまで散々苦労をかけてきましたからね」(同)
原宿でスカウトしてから、約2年半の月日が流れていた。「毎度おさわがせします」は社会現象になるほどの大ヒットドラマとなり、「中山美穂」の名前は日本中に広まっていった。
「一夜にして、私も美穂も世界が一変しました。美穂は当時のインタビューで『ドラマが放送された次の日から電車に乗れなくなりました』と答えていました」(同)
とはいえ、初めてのドラマ挑戦。内容は思春期の性を描いた作品だったこともあり、現場での苦労も多かったようだ。
「何もわからないから、美穂は怒鳴られ、現場で泣き出したこともありました。その度に、私は『お前のとこのタレントは何をやっているんだ!』と怒られました。その頃の現場は今よりも強かったですし、名もない事務所のタレントでしたから、言いやすかったという面もあったのかもしれません。でも、私たちに失うものはなかった。美穂も辛かったと思うんですけど、ただひたらず、ドラマを懸命にがんばりました」(同)
14歳の時の「ママとの約束」が果たせた
最初のヒット作を逃さなかったのは、美穂さんの運もあると山中氏は話す。
「私があの日、渋谷で元部下にたまたま会わなかったら、今の中山美穂はなかったかもしれません。少なくとも、あのドラマの話は100%なかった。社会現象になるほどインパクトが強いドラマだったからこそ、知名度が出て、オファーが殺到したんだと思います。そして、美穂の親衛隊、追っかけやカメラ小僧はみんなマネジャーとして芸能界に送り出しました。その中には芸能界の大物になった人もいます」
来年は美穂さんにとってテビュー40周年となる年だった。来年4月からの全国ツアーのチケットも販売している最中での急逝だった。13日、事務所から全国ツアーの中止とチケットの払い戻しが発表された。山中氏はこう声を詰まらせる。
「来年1月には、久しぶりに連続ドラマの出演も決まっていました。来年は40周年で、本人もはりきっていましたし、また女優として復活するのを見てみたかったです。これからの中山美穂がどんな活躍をみせるのか本当に見たかった……」
美穂さんは念願だった親への自宅を結婚前に都内に建てた。
「14歳のとき、喫茶店でママに約束したことが果たせて、美穂はうれしかったと思います」(山中氏)
今でも、美穂さんの笑顔は多くの人の心の中に息づいている。
(AERA dot.編集部・上田耕司)