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中山美穂さんを12歳でスカウトした「恩師」が明かす“6畳生活”と“月給5万円”から国民的スターになるまで
中山美穂さんを12歳でスカウトした「恩師」が明かす“6畳生活”と“月給5万円”から国民的スターになるまで    女優で歌手の中山美穂さん(享年54)の葬儀が12月12日、都内の斎場で、家族と事務所関係者だけで執り行われた。その中には、美穂さんの所属事務所「ビッグアップル」の創業者・山中則男氏の姿もあった。山中氏は、美穂さんを原宿でスカウトし、トップスターにまで育て上げた“恩師”でもある。山中氏が葬儀の様子とその胸中をAERA dot.に語った。 *  *  *             葬儀の喪主を務めたのは妹の中山忍さん(51)。遺影には、美穂さんのラストコンサート(12月1日)となった「ビルボード横浜」で歌う姿が飾られたという。山中則男氏は葬儀の様子をこう話す。 「喪主のあいさつをした忍ちゃんは、ペーパーを読み上げるのではなく、心を込めて自分の言葉で話していました。美穂をほうふつとさせるものを感じ、こちらが泣けてきました。忍ちゃんからは『山中さん、ありがとうございました。(山中さんとめぐり合えたことを)姉はすごく喜んでいました』と感謝の言葉をいただきました」  美穂さんは妹の忍さん、弟の3人きょうだいの中で育った。 「忍ちゃんは本当に気立てのいい子で、姉妹の仲も良かった。忍ちゃんは美穂よりも大人で、お姉さんっぽい感じでした。弟がまだ小さい頃、お母さんが働いていたものだから、忍ちゃんがおむつを替えて、一生懸命、家族を支えていたそうです。美穂はどちらかというと、忍ちゃんに頼っているような面がありましたね。美穂が芸能界で長続きできたのは、忍ちゃんという支えがあったからです」(山中氏)  葬儀が終わった後、忍さんはこうコメントを出した。 <姉は一生懸命な人でした。ちょっと頑固で、バカみたいに正直で、本当は傷付きやすい心を見せず、何があっても自分の責任だと、真っすぐ前を向く勇気がある人でした。自慢の姉でした>  中山さんは12月6日、東京・渋谷区の自宅の浴槽の中で亡くなっているのが発見された。当時の状況を山中氏はこう振り返る。 「私に事務所から連絡があったのは当日の正午過ぎでした。まだ『体調不良によるコンサート中止』という情報が流れる前でした。『亡くなったんです』と言うから、『本当か』と何度も聞き返しました。信じられなかったし、気が動転してしまっていました」(同)   「やっこ」「みほ」と呼び合っていた  美穂さんは同日の午前2時半に事務所関係者にLINEを入れたのが最後に連絡が取れなくなった。死亡推定時刻は午前3時から5時とみられている。浴槽の中で、座った状態で顔を水面につけていたという。死因については、美穂さんがお酒や常備薬を飲んで入浴したからではないかという臆測も流れた。だが、山中氏はこう否定する。 「お酒を飲んで入浴というのはあり得ません。美穂はコンサートの前は絶対にお酒は飲まなかったですから。そこは徹底していました。常備薬というのも、事務所関係者に私は何度も問いただしたんですが、『それだけは絶対にないです』と断言していました。誰かがそばにいたら助かったのに、という残念な気持ちはあります」  山中氏と美穂さんが出会ったのは12歳のとき。中学1年の美穂さんを東京・原宿でスカウトしたことがきっかけだった。山中氏は第一印象をこう語る。 「目がいい、目力があると思いましたね。どんなにスタイルがよくても目が死んでいたらダメなんです。売れっ子になるな、というのはパッと見た瞬間にわかります。美穂を見て,売れると直感しました」  当時、山中氏はモデル事務所「ボックスコーポレーション」を設立していたため、美穂さんも同事務所にスカウトした。 「美穂は未成年で親の許可が必要でしたから、お母さんも事務所に来ていただき、近くの喫茶店で、お母さんと3人でお茶をしました。美穂は『ママはすごく苦労してきた。いつか、ママに家をプレゼントしたい』と言っていました。そんな話を聞きながら、この子にかけてみたいと思ったんです」(山中氏)  その後、山中氏は「ボックス」を退社し、美穂さんと遠藤康子の2人のタレントを連れて、「山中事務所」を創設した。 「遠藤も私がスカウトしました。年も1つ違いで『やっこ』『みほ』とお互いの名前を呼び合って仲が良く、一緒に遊びにも行ってましたね。美穂が『静』ならば、遠藤は『動』。遠藤のほうが一つ年上でしたので親分肌で、美穂にいろいろと教えていました」(同)  その頃、山中事務所は渋谷区の参宮橋駅から徒歩7~8分のところにあった。 「マンションの1階で、6畳と4畳半の2部屋と流し台だけ。家賃は4万5000円で、自宅兼事務所でした。一生懸命に営業したんですが、最初は2人とも全然売れなかった。それでも毎月5万円ずつ、2人に給料を払っていました。ですが、途中で2人を維持するのは難しくなってしまい、遠藤は知り合いの芸能事務所にお願いしました。その遠藤は歌手の橋幸夫さんが副社長を務めるレーベルから、歌手デビューが決まっていたんです。ところが、デビュー前、1986年に自殺してしまった……。死の1週間くらい前には美穂や私に『私も負けないように頑張るから応援してね』と電話があったんです。もう衝撃で、美穂と2人で大泣きしました」(同)   ドラマ初出演翌日から「電車に乗れなくなった」  美穂さんがブレークするきっかけとなったのは、85年1月8日にスタートしたドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系)への出演だった。ツッパリ娘でトラブルメーカーの「森のどか」役で出演し、一夜にして人気者となった。 「その頃ちょうど、美穂とCMのオーディションを受けに行ったんですが、落ちて帰ってきました。ションボリしながら渋谷の街をブラブラと歩いていたら、街中で元部下から『山中さーん』と声をかけられたんです。彼は芸能関係の仕事をしていて、『明日、TBSのドラマのオーディションがあるから受けてみない? 私のほうで連絡をつけておきますから』と言ってくれたんです」(同)  翌日、山中氏は美穂さんと東京・赤坂のTBS前にある喫茶店「アマンド」(当時)の前で待ち合わせして、オーディションに向かった。 「ドラマのオーディションはダメだとすぐに帰らされます。でもその時は時間がかかったので、『もしかしたら』と思ったんです。TBSのディレクターから『一応、候補には残っています。夜、返事をしますから』と言われました。そうしたら合格。そりゃあ、美穂は喜んでいましたよ。事務所の電話番をしてもらったり、私が作った飯を食べさせたりして、それまで散々苦労をかけてきましたからね」(同)  原宿でスカウトしてから、約2年半の月日が流れていた。「毎度おさわがせします」は社会現象になるほどの大ヒットドラマとなり、「中山美穂」の名前は日本中に広まっていった。 「一夜にして、私も美穂も世界が一変しました。美穂は当時のインタビューで『ドラマが放送された次の日から電車に乗れなくなりました』と答えていました」(同)  とはいえ、初めてのドラマ挑戦。内容は思春期の性を描いた作品だったこともあり、現場での苦労も多かったようだ。 「何もわからないから、美穂は怒鳴られ、現場で泣き出したこともありました。その度に、私は『お前のとこのタレントは何をやっているんだ!』と怒られました。その頃の現場は今よりも強かったですし、名もない事務所のタレントでしたから、言いやすかったという面もあったのかもしれません。でも、私たちに失うものはなかった。美穂も辛かったと思うんですけど、ただひたらず、ドラマを懸命にがんばりました」(同)   14歳の時の「ママとの約束」が果たせた  最初のヒット作を逃さなかったのは、美穂さんの運もあると山中氏は話す。 「私があの日、渋谷で元部下にたまたま会わなかったら、今の中山美穂はなかったかもしれません。少なくとも、あのドラマの話は100%なかった。社会現象になるほどインパクトが強いドラマだったからこそ、知名度が出て、オファーが殺到したんだと思います。そして、美穂の親衛隊、追っかけやカメラ小僧はみんなマネジャーとして芸能界に送り出しました。その中には芸能界の大物になった人もいます」  来年は美穂さんにとってテビュー40周年となる年だった。来年4月からの全国ツアーのチケットも販売している最中での急逝だった。13日、事務所から全国ツアーの中止とチケットの払い戻しが発表された。山中氏はこう声を詰まらせる。 「来年1月には、久しぶりに連続ドラマの出演も決まっていました。来年は40周年で、本人もはりきっていましたし、また女優として復活するのを見てみたかったです。これからの中山美穂がどんな活躍をみせるのか本当に見たかった……」  美穂さんは念願だった親への自宅を結婚前に都内に建てた。 「14歳のとき、喫茶店でママに約束したことが果たせて、美穂はうれしかったと思います」(山中氏)  今でも、美穂さんの笑顔は多くの人の心の中に息づいている。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
悠仁さま 来春から通う筑波大学は「エリートコース」で大正解? 英マンチェスター大学留学という道も
悠仁さま 来春から通う筑波大学は「エリートコース」で大正解? 英マンチェスター大学留学という道も   筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格した秋篠宮家の長男、悠仁さま。4月からは、筑波キャンパスで大学生活がスタートする=2024年7月、秋篠宮邸、宮内庁提供    秋篠宮家の長男、悠仁さまが、筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格し、4月から入学することになった。悠仁さまが通う筑波大付属高校からの進学先としては、偏差値で見れば「中堅」クラスに思えるが、生物学を学ぶうえで高い評価を受けている環境だという。皇室の王道である英国の大学への留学制度もあり、悠仁さまには大正解の進路のようだ。 *   *   *  秋篠宮ご夫妻は11月25日、トルコ訪問を前に記者会見し、紀子さまは周囲をゆっくりと見回しながら、はっきりとした口調でこう述べられた。 「やはり長男には、若い時に、もし機会があれば、海外で生活を送り、また、そこの大学で、学校で学ぶ機会があれば良いのではないかと話すことがあります」  そして、悠仁さまの留学の可能性について、秋篠宮さまと前向きな話をしていると明かした。  高校3年の悠仁さまの進学先は世間の関心も高く、候補のひとつとして注目されていた筑波大の推薦入試を数日後に控えた時期だっただけに、「留学への異例の言及」とニュースに取り上げられた。    筑波大で推薦入試があった11月28、29日、大学の周辺には、受験に訪れる悠仁さまの姿をとらえようと待機するマスコミ各社の姿があった。  そして合格発表があった12月11日、宮内庁も悠仁さまが合格したことを発表。秋篠宮さまがトルコ訪問を前の会見で「大学に入ったら学びたいと言っているのが自然誌分野」と触れていたように、筑波大学の生命環境学群は、悠仁さまの希望通りの大学だった。   「エリートコース」でも偏差値50のワケ  悠仁さまの合格に対し、SNSではお祝いの声が上がる一方、「全国トップクラスの高校なのに――」といった声もあがっていた。  というのも、大学予備校のサイトを見ると、国立大学の理工系学部でも偏差値が60台後半、70以上という学部もあるなか、たとえば河合塾のサイトで公開されている筑波大生命環境学群の偏差値は50台だ。  だが、東京大など国立大、医学部といった難関大学専門の受験塾を経営する人物は、筑波大学生命環境学群は「決して中堅校ではなく、優秀な大学」と話す。   もうすぐ6歳になる悠仁さま。にっこりと誇らしげな表情でバッタを手に持つ場面は、「生物学者」として第一歩を踏み出した時期の一枚=2012年8月、秋篠宮邸、宮内庁提供    理工系と文系の学部を偏差値の「数字」だけで比べると、文系のほうが一般的に高く、理工系よりも難易度が高いように見えがちだ。しかし、文系と理系で母集団の学生の学力レベルが異なるため、正確に比較するには補正が必要。「理系の偏差値と文系とでは、全く別物」と、前出の大学受験塾の経営者は言い切る。  そして、筑波大学を受験する学生の学力は、地方の進学校ならば上位レベル。筑波大学の生命環境学群の学問分野は、他の大学では農学部に近いが、同じ程度の難易度の学部としては神戸大学の農学部、岩手大学の獣医学部、そしてすこし上に北海道大学の農学部が位置するという。 「筑波大学は教員の数が多く、生命環境学群も教授がひとりひとりの学生をきめ細かく指導してくれる環境だと聞いています」(前出の大学受験塾経営者)  大学関係者の間でも評判は高く、大学教授や大手の民間研究施設の研究者といった、いわゆる「エリートコース」を進んだ卒業生も少なくないという。   那須御用邸で秋篠宮さまと虫捕りをする悠仁さま。狙いを定めるお2人の緊張感が伝わる場面だ=2010年8月、栃木県、宮内庁提供   「生物学では、国内最高の環境のひとつ」 「理系のうち、医学部や薬学部、工学部の電子工学分野など、大学を出た後に高い給料がもらえる『実学部』は偏差値が上がるが、虫(生物)、星(天文)、石(地質学)といった分野は、どうも高給取りとは無縁ですね」  そう笑うのは、広島大学大学院統合生命科学研究科の長沼毅教授だ。筑波大学第二学群生物学類(現・生命環境学群生物学類)を卒業しており、悠仁さまの「先輩」ということになる。  悠仁さまが進もうとしている学部は、特に生物学を学びたい学生にとっては国内で最高の環境のひとつだと太鼓判を押す。  長沼さんは、大学や大学院には専門分野に特化した人材を育てる役割がある一方で、専門以外の知識にも触れさせることが重要と指摘する。  そして、現在の筑波大は大学院との連携が強化されており、生命環境学群は生物学にとどまらず、生物を取り巻く環境や地球全体について学べるようカリキュラムが組まれているという。 「生物学を学ぶ上で基礎となる古典の知識と生物の分類、そして生物の遺伝情報であるゲノムや進化学まで一か所で網羅できる環境は、ここだけでしょうね」   筑波大学のウェブサイトに掲載された10平方メートル(6畳)19410円の学生宿舎の個室。洗面台とベッド、勉強机が備えられたシンプルな部屋=筑波大学公式ウェブサイトより      フィールドワークが豊富なのも特徴だ。  同大は、伊豆半島南部には海洋生物学を研究できる「下田臨海実験センター」、長野県には生物科学や地球科学、農学など自然環境に関する研究施設「山岳科学センター菅平高原実験所」を持つ。  悠仁さまのOGにあたる編集者は、フィールドワークが充実した環境だったと満足気に振り返る。 「いまも同じかわかりませんが、夏休みなどには単位も取得できる野外実習が豊富にあり、1年から3年までは、かたっぱしから応募しました。そして、大学4年目は、下田臨海実験センターの寮に住み込んで研究に没頭したのもいい思い出です」  大学では他学部の授業も履修し、学ぶことの楽しさと興味の幅が広がったという。 筑波大学生命環境学群との交換留学制度がある英マンチェスター大学。広場と取り囲むように並ぶ歴史を感じさせるクラシカルな建物=マンチェスター大学公式ウェブサイトより   悠仁さまマンチェスター大学留学の可能性  長沼さんは、筑波大学で生物学を学ぶ大きな魅力のひとつが、英マンチェスター大学の生物科学部との交換留学制度だと話す。 「マンチェスター大学は、生物学研究の中心地のひとつです。学部(学群)生のうちからマンチェスター大学にパイプを持つ大学はなかなかありませんし、本来であれば雲の上の存在の教授陣から指導を受けることができる。生物学の研究者を志す学生にとっては大きなチャンスです」  皇族のなかには、故・桂宮さまがオーストラリアの国立大学の大学院に、高円宮家の三女・守谷絢子(あやこ)さんは、カナダのカモーソンカレッジとブリティッシュ・コロンビア大学へ留学された経験がある。どちらも英王室とつながりのある英連邦加盟国だが、皇室では英王室とのパイプを構築する側面もあることから、英国に留学するケースがほとんどだ。  悠仁さまも、皇位継承順位2位の皇族として、マンチェスター大学へ留学することになるのだろうか。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 生物学はロイヤルの教養であり「帝王学」だった 悠仁さまと昭和天皇 少年時代のセミやトンボ、チョウの「昆虫標本」に共通点 https://dot.asahi.com/articles/-/233075      
生活保護を「恥ずかしい」と我慢しないで  JK時代に生活保護を受けた女性が、貧困に悩む子どもたちに伝えたいこと
生活保護を「恥ずかしい」と我慢しないで  JK時代に生活保護を受けた女性が、貧困に悩む子どもたちに伝えたいこと (C)五十嵐タネコ/KADOKAWA    JK(女子高生)時代の「生活保護のリアル」をコミックエッセイにして発表した漫画家・五十嵐タネコさん(40)。生活保護を受けてから「その後」の人生までを実感を込めて語った。 *  *  * 【前編から読む】 学校で「お前、臭いよと言われ… 両親は働けず風呂は週1回 「生活保護JK」だった女性が18歳で自立するまで https://dot.asahi.com/articles/-/243469 早く自立して家を出たい ――兄妹と両親の親子関係が悪化していた頃、五十嵐タネコさん(40)は高校入試の受験勉強の真っ最中だった。6歳上の兄は現役で国立大学に合格したものの、統合失調症を患う母に抑圧された影響で21歳のときに爆発。引きこもり生活に入り、最終的には中退した。 五十嵐 私が高校を受けるときは、お金がないから親から「私立はダメ」と言われて、滑り止め受験という選択肢はなかった。「公立1択」という緊張感もあってか、私は必死に勉強しました。でも、振り返ればあの環境で、よく進学校に合格できたなと思いますね。  6畳の居間にはコタツがあったんですけど、「リアルちゃぶ台返し」みたいなこともありました。襖には補修用の粘着テープが貼られていました。本来、兄は優しい人なんですが…母への怒りを抑えきれずに物に当たってしまうことがあって。母のヒステリーも凄いし、当時は家にいるのがしんどかったです。母に翻弄されて兄が苦しんでいるのもわかっていたけれど、私が「早く自立して家を出たい」と思った理由の一つです。 家からの「逃げ場」があって救われた ――そう語る五十嵐さんが、「前向きな意思」やある種の「自己肯定感」を保てた理由は、家以外に「逃げ場」があったからだ。 五十嵐 中2のときに心を許せる友だちができたんです。正直に「うちって貧乏なんだよね」と伝えても、「そうなんだ」とごく自然に受け止めてくれていた。ただ、家にお風呂がないっていう話は、さすがに恥ずかしくて打ち明けられなかったんですけど。この友人たちの存在は、大きな支えになりました。  中学生のころの私は毎日、門限の18時ギリギリまで図書館か児童センターで過ごしていました。どちらも無料で遊べる場所。友だちもみんな「お金がない」って言いながら、タダで過ごせるところで遊んでいた。そこが私にとって家からの「逃げ場」で「心の置き所」でもあったんです。 (C)五十嵐タネコ/KADOKAWA   ——友人たちと参加したボランティア活動を通じて、旅行気分も味わえた。 五十嵐 その友だちとは、「ゴミ拾いボランティア」などに参加していました。ご褒美に500円分のマクドナルドのチケットをもらえたんですよ。みんなでマックのコーラで乾杯した。あれが、青春の味でした。  近隣の県に区の保養地があって、「キャンプボランティア」にも行きました。区の職員さんたちが引率して、中学生である私たちが子どもたちのリーダー役をする。私たち学生は3千円の参加費を払うだけで、一緒に参加した友だちとともに旅行気分が味わえちゃう。家族では一切旅行をした経験がなかったので、開放感を味わえました。 セーフティーネットがあったからこそ自立の道を開けた ――生活保護の受給が決まったのが、高2の終わりごろ。両親は決断を渋っていたが、五十嵐さんは「受給があと少し遅かったら、今の自分があったかどうか……」と振り返る。 五十嵐 病気で就労困難になった両親の代わりに、私が水商売のアルバイトとかもしないとならないのかな、とまで思い詰めていました。アルバイト情報誌で高収入の求人欄をずっと見ていたんです。フロアレディーとか……。  生活保護を受けられたのは本当にギリギリのタイミングだったと思います。その後、学生生活を続けられ、自立の道が開けたのは、生活保護というセーフティーネットがあったからこそだと思っています。  うちの両親も恥ずかしさから、土壇場まで我慢して支援を受けなかった。今の世の中でも、「恥ずかしい」「人に迷惑をかけたくない」と思って我慢している人が多い。生活保護を利用する資格のある人のうち、現に利用している人の割合(捕捉率)は2割程度。世界でも低い水準です。必要な支援を、必要な人が堂々と受けられる社会になってほしい。その実現こそ、私がこの漫画に託した、一番の願いかもしれません。 ――昨年書籍化したコミックエッセイ『東京のど真ん中で、生活保護JKだった話』では、貧困にまつわる生活事情が明るいエピソードを交えて描かれている。  生活保護を受けていても、1990年代のJKファッション「ルーズソックス」をはいて楽しんでいましたね。ただ、それでも300円の靴下どめは贅沢品に思えた。そこで私は代用のアイテムとして、スティックのりを活用。ちょっとかぶれるけれど、肌に直接塗ってペタペタとめてました(笑)。こういう小ネタを入れて漫画を明るいトーンにしたのは、今貧困に悩んでいる子どもたちに希望を持ってもらいたいと思ったからなんです。 (C)五十嵐タネコ/KADOKAWA     「あなたは一人じゃない」というメッセージ ――通った高校は進学校で、周りがほぼ全員大学進学を希望するなか、自分だけが就職の道を選んだ。担任の先生からは奨学金での進学を勧められたが、「早く自立したい」という思いが強かった。 五十嵐 私にとって重要だったのは、とにかく早く自立して家を出ること。それに、本当に「子どものころから漫画家になりたい」としか思ってなかったから、必ずしも大学に行きたいとは思っていませんでした。民間企業より規則正しい生活ができて、休日に漫画が描ける仕事は何かなと探して、公務員を選びました。 ——通信講座で猛勉強の末、高3の9月、公務員試験に挑戦。特別区3類と国家公務員3種(当時)の両方に合格を果たす。だが「就職したら、働けない両親と兄、3人を養わなければならないのか?」という心配が頭をよぎったという。進路選択に悩む中、歩を進められたのは、キャンプのボランティアで出会った区の職員のおかげだった。 五十嵐 親以外の大人でつながりがある人に相談してみよう。そう思って真っ先に思いついたのが、子どもキャンプのボランティア活動で世話になった、区の職員さんでした。 「もしも高卒で自分が就職したら、家族が生活保護を打ち切られてしまうのか」  そんな心配を伝えると、職員さんは、こう言ってくれたのです。 「家族の生活保護が担保される、『世帯分離』(家族と生計を分けて、住民票の世帯を別にすること。自分は生活保護の対象から外れる)という方法がある」 「家を出て、自分の人生を大切にしていい。あなたにはあなた自身の未来がある」  親を養うことだけが道ではないと率直に伝えてくれた職員さんは、間違いなく私の人生を変えてくれた恩人です。おかげで私は区役所職員として4年間勤務して300万円を貯められた。その資金を元手に、念願の漫画家になるチャンスも掴んだ。親から離れて自立し、税金を納めることも「立派な社会貢献」と思えるようになりました。 ――その後、父が他界し、統合失調症の母は生活保護を受けながら高齢者施設へ入居。引きこもりだった兄も、母と物理的な距離を取ることで回復に向かい自立した。  五十嵐さんは漫画の仕事を続けながら、施設に通って母をみとった。家族の歴史を振り返るのは精神的につらさも伴ったが、1年かけて漫画のネームを描き上げた。 五十嵐 「誰かの役に立てば」という思いで筆を進めました。一口に生活保護世帯といっても、家庭ごとに貧困に至った背景が違う。私がそうだったように、生活保護を受けた経験があっても、自立し社会に貢献する道はきっとある。  今、貧困で悩む子どもさんたちにぜひお伝えしたいのは、「あなたは一人じゃない」というメッセージです。 (構成/ジャーナリスト 古川雅子)
ソフトバンクが上沢直之を獲得調査と報道も… 選手から「FA権の意味がなくなる」と反発の声
ソフトバンクが上沢直之を獲得調査と報道も… 選手から「FA権の意味がなくなる」と反発の声 早くも日本球界復帰が濃厚な上沢直之(AP/アフロ)    ソフトバンクが、日本球界復帰の可能性が出ている上沢直之の獲得に向けて調査を進めていることがスポーツ紙で報じられた。古巣の日本ハムを含めた争奪戦になりそうなのだが、現場からは違和感を訴える声が噴出している。  上沢は昨年オフに日本ハムからポスティングシステムを利用してメジャーに挑戦したばかり。レイズとマイナー契約を結んでメジャー昇格を目指したが、オープン戦で結果を残せず、開幕メジャーを逃すとレイズを退団。開幕前に金銭トレードでレッドソックスに移籍した。メジャーで2試合登板したが5月にマイナーに降格し、3Aでもアピールできずに退団した。  来季の所属球団は日米含めて決まっていないが、「スポニチアネックス」のインタビュー記事で「現状は日本の方に気持ちは傾いているかな」「どの空団でも話を頂けるのであれば、一度話を聞きたい」と話したことが報じられた。日本復帰となれば、日本ハム時代に2度の2ケタ勝利をマークするなど通算70勝をあげ、先発ローテーションで稼働してきただけに、先発投手がほしい球団の争奪戦になるとみられていた。 「争奪戦には違和感を覚える」  ソフトバンクは投打がかみ合い、圧倒的な強さで4年ぶりのリーグ優勝を飾ったが、今オフに石川柊太がFA権を行使してロッテに移籍。上沢は日本ハム時代に何度も対戦してきただけに、力量を把握している。石川が抜けた先発陣の補強に向けて動くことは十分に考えられる。  巨人の動向も気になる。今年15勝で最多勝に輝いた菅野智之がこのオフにFA権を行使してメジャーに挑戦する。菅野が抜けた穴を埋めるのは容易ではないが、上沢は即戦力で計算ができる。先発陣の層が薄いヤクルトも補強ポイントに合致する。古巣の日本ハム含めて争奪戦に発展しそうな事態になっている。  ただ、現場からは複雑な声が聞こえる。在京球団のコーチは語気を強める。 「上沢が争奪戦となっていることに違和感を覚えます。だって日本ハムに戻るのが筋でしょう。ポスティングシステムを利用してメジャーに挑戦したすべての選手が、日本球界に復帰する時に古巣に戻れという話ではないですよ。彼の場合はポスティングでマイナー契約だったから日本ハムに95万円の譲渡金しか入っていない。米国で1年足らずしかプレーせず日本球界復帰で、『日本ハム以外の球団の話も聞きたい』はおかしいでしょう。FA権を取得していないのに、こういった形で国内他球団に移籍したら悪しき前例になります」 契約更改後の記者会見で、メジャー挑戦希望を改めて球団に伝えたと話すソフトバンク時代の千賀(2020年12月) ポスティングを認めないソフトバンク  ポスティングシステムは海外FA権を持たない選手がメジャー挑戦を希望した際、球団が容認することで使われる制度だ。これを容認するかは球団によって姿勢が異なる。ソフトバンクはポスティングに否定的で、千賀滉大(メッツ)はソフトバンク在籍時に契約交渉の席でポスティングシステムを利用したメジャー挑戦を希望したが認められず、海外FA権を獲得した22年オフにメッツに移籍した。  セ・リーグ球団の選手は複雑な思いを口にする。 「FA権を取得することは野球人生において特別な意味を持ちます。千賀さんはずっとメジャーに行きたかったけれど、ソフトバンクはエースとして必要としていたし、ポスティングシステムの許可がなかなか出なかった。海外FA権は文字通り勝ち取った権利だと思います。上沢の野球人生なので口出しする資格はないかもしれませんが、これで日本ハム以外の球団に移籍するようだったら、海外FA権の意味がなくなる。球団サイドもポスティングシステムの利用を渋るようになるかもしれない」  ポスティングシステムを利用してメジャー移籍した選手が、日本球界に復帰する際に古巣に戻らなかったケースはある。西武のエースだった松坂大輔はソフトバンク、ヤクルトの中心選手だった岩村明憲は楽天に移籍している。ただ、彼らと上沢は日本球界に復帰する背景が全く違う。 「2人はポスティングシステムを利用した際にメジャー契約で球団に多額の譲渡金を入れています。また、メジャーで松坂は8年、岩村は4年間プレーした。上沢の場合は米国で挑戦した期間がまだ1年です。家庭の事情など色々あって、日本球界を模索しているのかもしれませんが、今オフに日本ハム以外の球団に移籍となったら、『FAの抜け道』と言われても仕方ない」(スポーツ紙デスク) メジャー2年で日本の他球団に移籍した「有原式」  物議を醸したのは有原浩平(ソフトバンク)のケースだ。有原は大卒後に日本ハムで6年プレーし、ポスティングシステムを球団に認められてメジャーに挑戦。レンジャーズで2年プレー後、日本球界に復帰するにあたって古巣の日本ハムではなくソフトバンクに入団した。国内FA権取得のためには大卒の場合1軍の登録日数で累計7年が必要なルールだが、2年間の海外生活を経てNPB他球団へ移籍したことで、「有原式FA」と揶揄された。  スポーツ紙記者は、「本来はこの時に『米国で3年以上プレーせずにNPBの球団に移籍する場合、獲得の優先順位は元に所属していた国内球団にある』といった条項を新たに設けるなど、ルール整備をする必要があった。上沢に限らず、今後も同じような問題が起こる可能性があります」と警鐘を鳴らす。 メジャーで2年プレーした後、ソフトバンクに移籍した有原 日本ハムファンから出てきた厳しい声  上沢に対する日本ハムファンからの風当たりも強くなっている。日本国内に復帰する場合は「他球団の話も聞く」という姿勢を示したからだろう。SNS上には「日本ハム一択だと思ったのに残念です」、「他球団の話を聞く時点で応援する気持ちが薄れた」などのコメントが出ている。日本ハムの先発陣が、伊藤大海、加藤貴之、山崎福也、金村尚真、北山亘基の5本柱に加え、福島蓮、細野晴希ら若手成長株が控え、充実してきたという背景もあるだろう。  日本ハムを取材するテレビ関係者は、「上沢は長年支えてきた功労者です。ただ、今の日本ハムに復帰しても、結果を残さねばハイレベルな先発ローテーションに入る保証はない。年俸など条件面で良い球団を上沢が望むなら、日本ハムはマネーゲームに参戦する必要はないと思います。ただ個人的には、上沢は人間味のある選手だし、日本ハムへの愛が強い選手なので復帰すると思いますけどね」と語る。 上沢は来年、どこのマウンドに立つのか?(アフロ)  上沢は今後の去就について、年内に結論を出すという。日本ハムに復帰するのか、それとも――。 (今川秀悟)
月のトリビア3連発!「月のウサギの正体」「未来の基地」そして「ロケットに乗らずに宇宙旅行」
月のトリビア3連発!「月のウサギの正体」「未来の基地」そして「ロケットに乗らずに宇宙旅行」 小型ロボット「LEV-2 (愛称:SORA-Q)」が撮影した月面の様子。右上に見えるのが着陸した探査機SLIMで、エンジンを上に向けた姿勢になっている  2024年は日本の月探査にとって記念すべき年だ。1月、無人月探査機「SLIM」が世界で5カ国目となる月面への着陸に成功。しかも、目標地点から約55メートルしか離れていない地点への「ピンポイント着陸」だった。エンジンを上に向けたさかさまの姿勢での着陸だったことで太陽電池に十分な日光が当たらず、休眠と活動再開を繰り返した末に運用停止に至ったことは記憶に新しい。  SLIMの奮闘に負けじと、テレビアニメ化が話題の「科学漫画サバイバル」シリーズ最新刊は、ダイヤ、マーレ、キュリが月面着陸を目指す『月のサバイバル』。子ども宇宙飛行士として地球を飛び立った3人が思わぬトラブルに巻き込まれながらも、地球への帰還を目指す冒険物語に、月や宇宙を巡る最新情報がちりばめられている。  この記事では『月のサバイバル』の中から、きっと誰かに話したくなる月や宇宙に関するトリビアを紹介したい。親子で、友人同士で、「知ってる?」と宇宙の話題を楽しんでほしい。 *** 月のウサギの正体は? 月の「海」は表側に多い。画像は上が表。下が裏。実際に見てみると一目瞭然だ photo NASA/GSFC/Arizona State University  満月の時に見える月の模様を、日本では餅つきをするウサギになぞらえてきた。望遠鏡で見ると、ウサギの姿に見えるうすぐらい模様は、平らなところであることがわかる。この平らなところを「海」と呼ぶ。  月の海は、月が約45億年前にできて間もないころに小天体が繰り返し衝突し、大きなクレーターができたあとに地下からマグマがあふれ出し、それが冷えて固まったところだと考えられている。海が黒っぽく見えるのは、マグマが固まってできた玄武岩と呼ばれる岩石が黒い色をしているからだ。  黒い色をした「海」に対し、明るいところを「陸(高地)」と言う。海と陸が作る形を何かになぞらえるのは日本だけではない。中国でも月にウサギを見ているし、ほかの国々ではカニやライオン、女性の横顔になぞらえるところもあるという。 月面には「穴」がある?  日本が2007年に打ち上げ、月を回る軌道上から約1年半にわたって月面を観測した「かぐや」が、意外なものを見つけた。それは、月の表側の西部「嵐の大洋」の中の「マリウス丘」にある直径約50メートル、深さ約50メートルのたて穴だ。観測データを詳しく調べたところ、地下数十~数百メートルの深さに、いくつもの空洞があることがわかった。 マリウス丘にあるたて穴。この穴の下に空洞が広がっていると考えっれている photo NASA/GSFC/Arizona State University  地下の空洞の一つは「かぐや」が発見したたて穴から数十キロも伸びた巨大なものだ。これらの空洞は、はるか大昔に溶岩が流れた際に形成されたと考えられている。人が月面で生活する際には、危険な放射線や隕石から身を守る必要があるので、このような地下の空洞は、基地を建設する場所として最適とされている。 「サブオービタル」って何? アメリカのヴァージン・ギャラクティック社がサブオービタル旅行に使った宇宙船「スペースシップ2」(中央)とその母船「ホワイトナイト2」(左右) photo AP/アフロ  地上から100キロメートルより高いところを「宇宙」と呼ぶ。宇宙旅行というと、宇宙船に乗ると思うかもしれないが、100キロメートル上空までロケットで行き、数分間、宇宙空間に滞在してすぐ地上に戻る「サブオービタル」旅行という宇宙旅行が、すでに現実のものとなっている。「サブオービタル」は英語で「軌道に乗らない」という意味だ。  宇宙旅行をビジネスとして行う会社が、観光を目的としたロケットに乗る客を募集し、参加者は短い時間、宇宙からの景色や無重力を体験できる。ただし費用は高額で、1回の旅行に1人当たり数千万円もかかるという。  国際宇宙ステーションのように、地球を周回する宇宙旅行は「オービタル」旅行と呼ばれ、こちらはさらに高額だ。1人当たり数十億円以上と言われ、まだまだ現実的ではない。一般の観光を目的とした宇宙船もまだないが、日本では、実業家の前澤友作氏は2021年12月8日から20日までの12日間、この国際宇宙ステーションに滞在したことが知られている。 (構成 生活・文化編集部 野村美絵)
若き日の大谷翔平を「野球人生の失敗」から救った、日本球界が報いるべき“大功労者”とは
若き日の大谷翔平を「野球人生の失敗」から救った、日本球界が報いるべき“大功労者”とは 2012年、日本ハムの1位指名を受け、会見に臨む花巻東高の大谷翔平投手   もしも大谷選手が 高卒で渡米していたら  ――これはある野球選手に起こったかもしれない、「失敗のストーリー」です。  2012年のドラフト会議で地元球団から1位指名を受けながら、拒否してMLBを目指した選手がいました。彼はマイナー契約だった上、米国人との体力差や、広大な大陸をバスで移動につぐ移動という日程のきつさ、食事も合わないという状況に苦戦していました。もともと18歳まで身長が伸び続け、成長痛に悩まされて、高校野球もフル稼働したことがなかった選手には、いきなり米国選手と対抗することは相当困難でした。  渡米前は「投打二刀流」を希望していましたが、長打力では中南米の怪力選手に劣り、投げても平均球速150km程度という投手は、米国マイナーリーグにはゴロゴロいます。メジャー昇格どころか二刀流も禁止され、打者一本槍となってしまいました。  しかも内野手ではないため、外野だけだと中南米や白人選手のものすごい長打力には歯が立ちません。結局、マイナーの1Aに上ったのが最高の成績で、そのまま解雇。本国に戻っても、ドラフト指名を拒否してメジャー入りした選手は、すぐには地元プロ野球には戻れません。  仕方なく、台湾のプロ野球に身を投じた後、なんとか日本のプロ野球に入ろうと独立リーグに入団。そこから本国のプロ野球に辿り着いたときは、もう高校卒業から7年もたっていて、大した活躍もできないまま野球人生を終えようとしています。  野球に詳しい読者ならお気づきだと思いますが、これは大谷翔平選手がドラフトで日ハム球団を拒否し、自らの希望を貫いて高校から米メジャーリーグに行った場合、どうなっていたかについてのシミュレーションです。  モデルは、韓国の高校から斗山ベアーズのドラフト1位を拒否して2006年に渡米した南尹熙(ナム・ユンヒ、のちに「ナム・ユンソン」に改名)と、同じく翌年KIAタイガースの指名を受けながらメジャー入りを目指した丁栄一(チョン・ヨンイル)の失敗の物語です。  今や世界の大谷も、高卒で渡米していたらこうなった可能性は十分にあるのです。もちろん、韓国選手で2000年に高卒でメジャーに行き、通算1652試合出場、本塁打218本を放った秋信守(チェシンス)のような英雄もいますが、彼もメジャー昇格には4年もかかりました。  この数年、大谷選手のメジャーでの活躍と米国での大スター扱いに日本人も大興奮し、海外における日本人選手自体の評価も上がりました。これは大谷選手の素質と努力、そして類まれな人格の賜物であることはまったく否定しません。しかし、「にわか大谷ファン」の方たちに知ってほしいのは、大谷選手が18歳のとき、高校からいきなりメジャー入りを目指していたという事実です。それも「投打二刀流」というメジャーにもない起用法で――。  とはいえ、彼の甲子園通算成績は、14回を投げ防御率3.77、16奪三振。野手としては2試合で打率.333、1本塁打。もちろん、高校野球予選で160kmの速球を記録するなど、その素質は誰もが認めていましたが、花巻東高校への入部時は佐々木洋監督の「まだ骨が成長段階にある1年夏までは野手として起用して、ゆっくり成長の階段を昇らせる」という方針により、甲子園でも投手として出場して長いイニングを投げることもなく、本大会出場のために予選で連投することもありませんでした。いわば「ロマンはあるけれども、すぐにプロ野球で活躍できるような選手ではない」というのが、スカウトたちの判断でした。  それでも、大谷選手は最初からメジャーを望み、一応日米五分五分とは言いながら、ロサンゼルス・ドジャースやテキサス・レンジャーズ、ボストン・レッドソックスとの面談を経てMLBへの挑戦を表明し、会見では「日本のプロよりもメジャーリーグへの憧れが強く、マイナーからのスタートを覚悟の上でメジャーリーグに挑戦したい」と宣言したので、ますます日本球界は逃げ腰になり始めました。 各球団が指名を回避する中 大谷獲得に動いた日ハムの救世主  その固い決意と完成度への不安から、大阪桐蔭高校で甲子園優勝投手の藤浪晋太郎に4球団が競合するなど、ほとんどが大谷指名を回避しました。ただ1球団のみ、日本ハムが敢然と1位で指名したのです。  日ハムはその前年、巨人の原辰徳監督の甥である菅野智之投手を指名して拒否されており、この指名は下手をすれば2年連続1位指名選手が入団しないリスクを抱えていました(日ハムを拒否して巨人入りした菅野投手が今年ポスティングで渡米を目指すというのも、大谷選手との不思議な因縁を感じます)。  しかし、当時の日ハム球団はチャレンジングでした。ホームグラウンドが東京ドームで巨人軍と併用だったため、北海道に移転。札幌で、お荷物球団から人気球団に変身しました。そして2007年、迎えたGMは山田正雄氏。元プロ野球選手ではありますが、1962年大毎オリオンズに外野手として入団したものの、通算成績は安打80、本塁打2、実働10年で、入団7年目から打撃成績が落ちて、1970年には投手に転向。5試合に中継ぎとして登板しただけの成績で、引退しました。  引退後は下着メーカーの営業マンとしてサラリーマン生活を送っていたところを、当時の大沢啓二監督が声をかけ、スカウトとして再入団したという変わり種のトップです。スカウトとしては敏腕を発揮して、武田一浩、ダルビッシュ有、中田翔などを指名していましたが、彼のスカウト哲学は「チーム事情で即戦力投手を狙う」といった今までの監督中心の近視眼的チーム補強をやめ、その年の一番いい選手を指名する長期的展望に立った補強でした。  そして、その山田氏の下にもう一人変わり種のスカウトが入団してきました。プロ野球経験がなく、新潟県立西川竹園高で体育の指導に当たっていた大淵隆氏(当時35)です。そして、この異色コンビが大谷の日本ハム入団を成功させました。 野球ファンに語り継がれる 『大谷翔平君の夢への道しるべ』の中身  指名直後の大谷選手の反応は頑なで、スカウトの挨拶にも会わないまま。しかし、一般社会の経験がある大淵氏は、「大変なことになった」と思いつつ、何度めかの挨拶で両親の様子を観察し、「両親は、息子にまず日本でプレーしてから渡米してほしいと思っている」と確信したと言います。両親を説得するため、彼がつくった資料『大谷翔平君の夢への道しるべ』は、ある時期までネット上にも公開されていたため、野球ファンならかなりの人が読んでいたと思います。  それは、常識のある大谷家の両親と本人に対して、十二分に納得できるデータを用意して、球団の受け入れ準備も含めて説明したものです。たとえば前述したように、韓国から高卒のままメジャー挑戦した選手のうち、1軍で実績を出したのは3人のみで、しかも活躍時期が短く、成功したと言えるのは野手のみ。日本人の場合も、日本のプロ野球で実績をあげてメジャーに行った選手は9人いるが、実績のない選手がメジャー経験をしたケースは少ない、など。  まず、日本では高卒でメジャー挑戦して成功するとしたら大谷選手が初めてというリスキーな選択であることを数字で示し、たとえば「イチローがいきなり高卒で渡米して、イチローになれたでしょうか」という問いかけをして、日本のプロ野球で日本的スタイルを磨いて渡米する方が活躍できる可能性が高いことを、諄々とエビデンスを掲げて説明しました。  大谷家はこれを見て家族会議を開き、大谷選手も納得して日ハム入りを承諾しました。もちろんそこには、GMも二刀流の経験がある、そして日ハム球団でも二刀流を目指すことを認めて練習環境を整える、といった言葉も含まれていたと思われます。  ここ数年の大谷選手の大活躍とWBCの優勝で、栗山英樹監督の手腕ばかりが持て囃され、選手の育成能力がマスコミで喧伝されています。実際、栗山監督が大谷選手の二刀流としての起用法を考え、彼の力を引き出したのは間違いありません。しかし、大谷選手の活躍を栗山監督1人に語らせ過ぎているのではないでしょうか。  私は、大谷選手の活躍をもっともっと日本野球に還元するためには、山田・大淵コンビの考えを世間に知らしめ、それだけでなく日本のプロ野球界全体をマネジメントできる立場にしてほしいと思います。山田氏はGM引退後スカウト顧問として、大淵氏はスカウト部長として日ハムのフロントに在籍していますが、この経験をもっと日本球界全体に伝えるシステムを作り、それなりの役職を用意すべきだと考えます。 佐々木朗希は今渡米すべきか? 大谷一人の「大成功」では意味がない  たとえば、ポスティングシステム。今は広告代理店や、経営に将来が見えないスポーツ新聞の記者がポスティングの可能性の高い選手に群がり、社会経験のない彼らに対して早期のメジャー入りを勧めるケースが目立ちます。しかし、たとえば大谷選手は、日本に在籍した5年間で通算42勝15敗、奪三振624、打撃では通算296安打、46本塁打という成績をあげてから渡米しました。2016年には10勝して22本塁打を打っています。  今、話題の佐々木朗希選手は在籍4年で、奪三振505はさすがですが、まだ登板数64、通算22勝です。一方の大谷選手は投手として85登板、打者として403試合出場しています。渡米するにはどの程度の経験が必要か、アドバイスができるのは日ハムフロントの2人しかいないでしょう。  また、ポスティングによる渡米も当初は完全に入札制度でしたが、メジャーの25歳ルールの採用によって、日本球団が得る金銭も減りました。完全に米国の好きなようにされています。早期ポスティングをするなら、代わりに日本からも米国球団から若手有望株を1人獲れるといったルール変更を交渉することも必要なはず。さらには、韓国選手だけでなく中南米選手との比較も、データとしてもっと必要でしょう。  日本のプロ野球界は、地上波の視聴率が抜群に良かった読売巨人軍がリードしてきました。しかし時代は代わり、どの球団も観客動員は増えています。今こそ、もっと日本人選手の養成と権利を大事にする改革が必要なのではないでしょうか。大谷一人の「大成功物語」で終わらせてはならないのです。 (元週刊文春・月刊文藝春秋編集長 木俣正剛)
田中圭「わたしの宝物」宏樹に感情移入してしまうのか 現場での“対応力の高さ”と業界で愛される人柄
田中圭「わたしの宝物」宏樹に感情移入してしまうのか 現場での“対応力の高さ”と業界で愛される人柄 「わたしの宝物」で「宏樹」役が話題の田中圭  松本若菜主演ドラマ「わたしの宝物」(フジテレビ系)に主人公の夫役で出演中の俳優・田中圭(40)。番組公式SNSでメイキング動画が公開され、田中の現場での様子に驚きの声が相次いだ。  同作は、妻が夫以外の男性との間に妊娠した子どもを産み、夫の子どもとして育てる「托卵」をテーマにした愛憎劇。  田中演じる宏樹は、序盤では会社のストレスを松本演じる妻にぶつける酷いモラハラ夫であったが、あるきっかけで改心。しかし、妻が産んだ子どもと血のつながりがないことを知ってしまったことで、同作は衝撃的な展開を見せている。テレビ誌の編集者が話す。 「悪女を演じる松本さんの切ない演技も素晴らしいですが、それ以上に田中さんの演技力が毎回際立つ内容となっており、今や主人公よりも宏樹に感情移入する視聴者が続出しています。特に宏樹が自分の子どもではないと知った回での演技が『すごい!』と話題になり、SNS上でも切り抜き動画が“大バズリ”していました」  さらに、放送では映っていない撮影現場での田中の様子も注目されている。  同ドラマの公式インスタグラムでは11月20日、第5話のメイキング動画を公開。赤ちゃんと目を合わせる必要があるシーンの撮影で、田中は赤ちゃんに向かって「やっほー」とコミカルな動きを見せ、赤ちゃんが田中を見た瞬間に別人のような表情に切り替え、いきなりペラペラとセリフを言っているのだ。  この動画は多くの視聴者を驚かせたようで、コメント欄には「圭くんの切り替えプロすぎる!」「俳優田中圭すごいな」などと絶賛する書き込みが並んでいる。前出の編集者が言う。 「このインスタグラムではほかにも、田中さんが撮影中にフレームアウトした瞬間に現場を和ますような動きを見せ、共演者を笑わせている場面や、待ち時間に共演する赤ちゃんに話しかけて関係を築く場面など、田中さんの現場での様子が公開されています。こうしたメイキング動画からも、田中さんの人柄の良さや臨機応変な対応力の高さが感じ取れます」   デビューのきっかけは深田恭子主演映画  田中といえば、2000年公開の深田恭子主演映画「死者の学園祭」の相手役オーディションの最終選考で落選するも、その時の審査員が現在の事務所に紹介し、所属が決定。  その後、任天堂のCMでデビューし、初主演作となる08年公開の映画「凍える鏡」や「ホームレス中学生2」(フジテレビ系)、「ドクターX~外科医・大門未知子~」シリーズ(テレビ朝日系)、13年公開の主演映画「相棒シリーズ X DAY」、そして最近の代表作といえる「おっさんずラブ」シリーズ(同)など、数多くの話題作に出演してきた。 「俳優デビューから24年がたち大ベテランともいえる田中さんですが、年齢を重ねても男女問わず新しいファンを増やし続けている点は、ほかの俳優もなかなか真似できないのではないでしょうか。数年前には私生活に関するネガティブな報道が相次ぎバッシングされた時期もありましたが、近年はそういったイメージも実力と人気で払拭した印象があります。また、田中さんは率先して現場を明るく盛り上げてくれるため、現場スタッフからの信頼も厚い。彼と仕事したいという業界関係者は多く、今後もオファーは絶えないでしょうね」(前出の編集者)  そんな田中について、芸能評論家の三杉武氏は次のように語る。 「田中さんが俳優としてブレークを果たしたのは、18年に『おっさんずラブ』で主演を務めて以降でしょう。翌19年に放送された原田知世さんとのダブル主演ドラマ『あなたの番です』も話題を呼び、一気に人気俳優の仲間入りを果たし、バラエティー番組やCMなどで活躍の場を広げました。もともとその優れた演技力は業界内では高く評価されており、ブレーク以前から多くの作品に起用されていたわけですが、“遅咲きの実力派俳優”といった苦労人イメージやバラエティー番組などに出演した際に垣間見える飾らない人柄が高い好感度につながっている印象です」  演技だけでなく、表裏のない素の表情も注目されている田中。日本を代表する名俳優として、さらにビッグになりそうだ。 (小林保子) 【こちらも話題】 「西園寺さんは家事をしない」主演の松本若菜 「ウナギ店のバイト」から主演女優に成り上がったド根性素顔 https://dot.asahi.com/articles/-/228363
悠仁さま筑波大合格 大学生活は寄宿舎で一人暮らし? 月1万9千円の6畳の個室で「自炊」「コンビニ飯」生活も
悠仁さま筑波大合格 大学生活は寄宿舎で一人暮らし? 月1万9千円の6畳の個室で「自炊」「コンビニ飯」生活も 筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格したことが報じられた秋篠宮家の長男、悠仁さま=2024年7月、秋篠宮邸、宮内庁提供    筑波大付属高校3年生の秋篠宮家の長男、悠仁さまが11日、筑波大学生命環境学群の生物学類に推薦入試で合格したと報じられた。キャンパスは茨城県つくば市にあり、来年4月に入学予定だ。現在の住まいのある東京都内からの距離の関係から、宿舎生活やマンションなどでの「ひとり暮らし」になると思われる。大学の学生宿舎には、6畳程度の個室やシェアハウスもあり、天皇陛下や父の秋篠宮さまの英国留学時代の寮生活を思い起こさせる自炊生活もありそうだ。 *   *   *  悠仁さまが合格したとされる筑波大の推薦入試は、11月28、29日に実施された。現在通っている筑波大付属高校の推薦に基づいて、書類審査や小論文試験、個人面接を経て、12月11日に合格発表があったという。  来春から悠仁さまが通うことになる筑波大の筑波キャンパス。秋篠宮邸がある東京都の赤坂御用地からは、つくばエクスプレスや高速バスなどを使って2時間以上かかる。  そのため、海外に留学した天皇陛下や秋篠宮さまなど皇族方が経験されてきたように、寮などでの寄宿舎生活や「ひとり暮らし」をすることになるとみられる。   筑波大学のウェブサイトに掲載された、学生宿舎の単身用の室内写真。宿舎は「友だち作りも簡単!」と、楽しそうなキャンパスライフを予感させるコピーも添えられている=筑波大学の公式ウェブサイトより   6畳の個室に共同のトイレとシャワー  国内外から学生が集まる筑波大は、構内に豊富な学生宿舎を用意している。同大のウェブサイトによると、ひとつの街のような広大な敷地に計67棟の学生宿舎が設置され、およそ3800室もの部屋がある。  希望する新入生はほぼ入居可能で例年4割が入居、2年生以降は、募集定員を超えた場合は、抽選になるなどと記載がある。    では、悠仁さまが寄宿舎生活を送るとすれば、どのような部屋になるのだろうか。   筑波大学のウェブサイトに掲載された10平方メートル(6畳)19410円の学生宿舎の個室。洗面台とベッド、勉強机が備えられたシンプルな部屋=筑波大学公式ウェブサイトより    大学のウェブサイトに記載された情報によれば、一般の日本人学生が入るのは単身用の10平方メートル(6畳)の部屋で、ベッドや洗面台、勉強机と椅子が備え付けられたシンプルな部屋だ。  寮とは異なり食事などは出ないようで、自炊や外で購入したものを食べる形だ。  保証金は3万円で、宿舎費は10平方メートルの部屋だと19410円~19615円、30平方メートルの2人部屋の場合は、23670円。ひとりあたり月7000円の清掃費や、使用した分の電気料金を別途払いする必要がある。  トイレやシャワーは共同で、洗濯はコインランドリーを使うことになるようだ。  また、ユニークなタイプでは、一般の学生と留学生が一緒に暮らす「グローバルヴィレッジ」というシェアハウスタイプの宿舎もある。5人が1ユニットで、18.45㎡(10畳)の広さの共同のLDKに、10平方メートルの個室がある。もちろん男女別だ。    いずれのタイプにしろ、筑波大生OBが運営する同大学生のためのアパート情報サイトなどには、「自炊をしなくてはならない。寮母さんが夕食を作ってくれない(笑)」「宿舎生活を始める前に、一通り『家事の仕方』を学んでおくことをおすすめします!」などと書かれている。  悠仁さまにも、「コンビニ飯生活」か「自炊生活」が待っているのかもしれない。   筑波大学の学生宿舎には、一般の学生と留学生が一緒に暮らす「グローバルヴィレッジ」というシェアハウスタイプの宿舎もある。5人が1ユニットで、18.45平方メートル(10畳)の広さの共同のLDKに、10平方メートルの個室がある=筑波大学公式ウェブサイトより   宿舎には皇嗣職職員や皇宮警察が詰める?  悠仁さまをめぐっては2019年、当時通っていたお茶の水女子大付属中学校(東京都文京区)に男が侵入し、悠仁さまの机に刃物を置くという事件も発生している。  筑波大のウェブサイトには、学生宿舎の玄関口は暗証番号方式やICタグ方式によるセキュリティシステム、屋外には監視カメラが設置されているとある。    宮内庁職員を長く務めた皇室解説者の山下晋司さんは、学生用の宿舎の他に、警備のしやすさという面を考えると一軒家やマンションの可能性もある、とみる。 「もちろん、悠仁親王殿下の大学生活は、これまで通り皇宮警察の護衛官はつきます。宮内庁からは連絡調整役として皇嗣職職員が1人か2人はつくでしょう。学生宿舎の場合は、悠仁親王殿下の隣の部屋などに彼ら用の部屋を確保する必要があると思います」  警察庁が全体の指揮を執り、警視庁からも応援が行く可能性もある。茨城県警は大学キャンパスなどの周辺警備を担当することになるだろう、と山下さんは話す。 来春から、どんな大学生活が待っているのだろうか。 (AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 生物学はロイヤルの教養であり「帝王学」だった 悠仁さまと昭和天皇 少年時代のセミやトンボ、チョウの「昆虫標本」に共通点 https://dot.asahi.com/articles/-/233075        
タワマン修繕積立金不足で「廃虚化」の信憑性 60年110億円の維持費をどう確保するか
タワマン修繕積立金不足で「廃虚化」の信憑性 60年110億円の維持費をどう確保するか 憧れのタワーマンション。選ぶ際に気を付けるべきは…(写真はイメージ/gettyimages)  憧れの住居のシンボルであるタワーマンション。しかし、数十年後には修繕積立金が不足して、多くのタワマンが「廃墟化する」と予見する専門家は少なくない。この説にはどのくらい信憑性があるのか。 *        *        * タワマン修繕積立金不足「3つのワケ」とは  なぜ、タワマンの維持費は懸念されるのか。株式会社さくら事務所のマンション管理コンサルタント、土屋輝之さんに話を聞いた。  土屋さんは、「設備のメンテナンス費用が通常のマンションよりかかる」と指摘する。たとえば、エレベーターの取り換え費用だ。 「20階建てぐらいまでのエレベーターの取り換え費用は、1台あたりせいぜい2500万円程度です。でも、40階、50階建てのマンションになると、1台につき1億円と一気に跳ね上がるのです」(土屋さん、以下同)  タワマン独自の設備もある。災害時の救助で使用される非常用電源付きエレベーターは、高さ31mを超える建物に設置が義務づけられており、多くのタワマンに備えられている。交換費用は1台1億5000万円程度になることもある。  そのほか、火災時の救助に使用する屋上のヘリポートや高層階へ水を運ぶための給水ポンプなど、タワマンには特殊な設備が多く、メンテナンス費用が高額になりやすい。  コンシェルジュが24時間体制で勤務していたり、共用部分の施設ににジムやサウナなどの施設があったりするケースも多く、管理費もかさむ。 必要な水準より低く設定  2つ目の理由は、所有者が毎月積み立てる修繕積立金の設定額が、本来必要な水準より安く設定されているケースが多い点だ。土屋さんによれば、近年は改善傾向にあるが、以前は「分譲開始時に月々5000円程度に設定しているマンションも少なくなかった」という。 「一例として、500戸ある超高層マンションの場合、竣工後60年間で必要な修繕積立金の総額はおよそ110億円。1戸あたり月々5000円程度の支払いでは到底足りないので、いつかは大幅に値上げしなければ、大規模修繕を含めた維持管理が実施できなくなります」  3つ目に、この十数年、アベノミクス、消費税増税、東京オリンピックなどを経て、建築物価自体の高騰が続いていることも要因に挙げられる。長期修繕計画を立案した当時は万全の設定だったとしても、物価上昇により破綻するケースも考えられるという。 「修繕計画を立案する際は、毎年0.5~1%程度の物価上昇を織り込んで計算した計画も検討した上で妥当な積立金の額を設定することをお勧めします」 マンション管理コンサルタントの土屋輝之さん。2003年さくら事務所に参画、不動産仲介から新築マンション販売センター長を経る間に、不動産売買及び 運用コンサルティング、マンション管理組合の運営コンサルティングなどを幅広く長年にわたって経験。不動産、建築関連資格も数多く保持し、深い知識と経験を織り込んだコンサルティングで支持される不動産売買とマンション管理のスペシャリスト(本人提供)   タワマン1戸あたり60年間で約2200万円の試算も  前述の条件に当てはめて、60年で110億円の修繕積立金を確保するには、1戸あたり約2200万円を用意しなければならない計算になる。60年は720カ月だ。 「720カ月で2200万円となると、入居月から3万円ずつ払っても40万円不足します。1万円ずつしか積み立てていないなら、毎月2万円以上の赤字を出して生活しているのと同じです」  同じ500戸でも、タワマンと100世帯が入居できる建物が5棟並ぶ団地タイプのマンションとを比べると、修繕費用はかなり違う。 「後者の場合、60年間でかかる修繕費用の試算による目安は1戸あたり1600万〜1800万円。少なく見積もっても400万円の差が生まれます」  修繕費を1800万円とした場合、1戸あたりの負担は月々2万5000円だ。建物の規模が同じでも戸数が減れば、1戸あたりの住民が負担する金額はより高額となる。実は、程度の差はあるが維持費の負担が大きいのはタワマンも通常タイプのマンションも変わらない。 「維持費」だけでマンション家賃に  マンションに住めば、修繕積立金以外にも維持費はかかる。仮に一般的な構造の総戸数500戸のマンションの管理費を月々2万3000円程度とすると、車を所有している場合は駐車場代が月々1万5000円、固定資産税、都市計画税を月割りの額に換算した金額はおおむね1万円だ。ざっくりとだが、修繕積立金を含めて合計すると月々7万3000円程度かかる計算だ。 「タワマンでなくても、維持費だけで、単身用マンションが借りられる金額です。毎月これだけの維持費を負担しながら、住宅ローンや日々の生活費、子どもの学費なども支払わなければならない。そもそも、マンション所有者の金銭の負担は非常に大きいのです」 積立金を支払えなくなったら  分譲マンションでは、積立金が支払えなくなる住民が出ることは珍しくない。  支払えなくなった住民は、マンションを売却してほかの住まいに移り住むか、滞納するかのいずれかだ。滞納が半年続くと、滞納分全額を回収できなくなるケースも少なくない。 「管理の厳しいマンションは、3~6カ月以上滞納したら、すぐに弁護士に委託し『期日までに支払わなければ裁判所に競売の申し立てをする』と伝えます。でなければ、未収金が増えるばかりだからです」  滞納したら即、弁護士――。残酷に見えるかもしれないが、滞納した住民にとっても管理組合にとっても、滞納額が少ないうちに売却したほうが、競売より「プラスに働くケースが多い」という。特に都内の物件は値上がり傾向にあり、売却益を得られる可能性が高いからだ。 修繕計画は60年先まで考えて 資金トラブルを防ぎ、マンションの廃虚化を防ぐためには、長期計画が重要だ。一般的な長期修繕計画は30年先までが多いが、土屋さんはその倍の「60年後までを見据えるべきだ」と話す。 「まず、60年間でかかる費用をざっくりでも試算して、少なくとも85%から90%ぐらいを賄える水準に修正することです」 そして、多くのマンションは大規模修繕の周期を見直すべきだという。これまで大規模修繕は12年周期が一般的とされてきた。 「500戸のタワマンの場合、1回の大規模修繕の費用はおおむね10億円程度、1世帯あたりの負担は200万円程度です。12年周期の場合、60年で5回も工事を実施することになる。大規模修繕の対象とならない設備の工事も必要となることを考えると、500戸で110億円積み立てても、資金が不足する可能性が高くなります」 土屋さんから見て無理のない計画に見直している管理組合のほとんどは、大規模修繕工事の周期を16年から18年に変更済みだという。18年周期なら、3回目の大規模修繕は54年目。12年周期と比べると、60年時点では計画上2回も工事を減らすことができる。 管理力はマンション選びの重要指標  それでも資金が不足して、マンションの健全な維持管理のために修繕積立金を値上げするほかないこともある。 「資金不足の一番大きな要因は、管理組合(所有者)の維持管理への無関心です。タワマンに限らず、中古マンションを購入するなら、エリアや駅からの距離、日当たりなどと同様に、マンション管理組合の運営状況にも注意を払って選んでいただきたい」  最後に土屋さんは「タワマン」についてこう話す。 「タワマンは、十分な支払い能力を有する人が住む分には何の問題もありません。設備が複雑で適切に管理しなければリスクが高いのは事実ですが、深刻な資金不足が発生するかどうかは、管理組合の運営次第です」  修繕積立金計画や防災訓練の実施、管理組合員同士のコミュニケーションの場の創出など、健全に管理されているタワマンも多く存在する。購入を決める前に、まずは管理組合の運営状況を確認することだ。 (ライター・内田 陽)
攻撃の対象になり続けているガザの医療施設 日本人医師「医療を必要としている人たちを代弁したい」と模索
攻撃の対象になり続けているガザの医療施設 日本人医師「医療を必要としている人たちを代弁したい」と模索 ガザ地区中央部のヌセイラト難民キャンプで、イスラエルによる攻撃の現場で壊れた家屋の被害状況を視察するパレスチナ人たち=2024年12月7日(写真 ロイター/アフロ)    昨年10月7日、イスラム組織ハマスによる攻撃への報復として、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が始まって1年余り。いまも攻撃は続き、これまでに4万4千人を超える犠牲者が出ている。さらに、食糧不足や衛生面の悪化など人びとの生活状況は深刻だ。昨年10月の攻撃後に届いた派遣要請に応じ、同11~12月にガザに入った国境なき医師団(MSF)日本の会長で救急医・麻酔科医の中嶋優子さんは、帰任後も取材や講演等で現地の状況を証言し、停戦を訴え続けている。当時の日記をもとに、現地の状況を伝えてきたこの連載も今回が最終回。戦況が悪化し、ガザから退避した当時の日記とともに、中嶋さんに現在の思いを綴ってもらった。 * * * 《2023年12月3日の日記から》  昨日は思ったほど爆撃が多くなかった。引っ越しに向けて荷物をゆっくり整理して子どもたちとちょっと遊んで、残していくものをあげた。みんなを残して、ここよりももっと安全なところにいくというのは複雑で寂しい。  夜、久々にブリーフィング。まず家のことについて、そしてセキュリティーについて。Nasser(ナセル病院)も遅かれ早かれターゲットになる、と。  夜ごはんをみんなで食べた。シャワーはやばかった。今までで一番ちょろちょろだし、プライバシーもないし。いくつもflare bombs(照明弾)を目撃した。寝る前に、地上作戦開始のニュースを見た。   《12月4日の日記から》  昨日は思ったより砲撃音がうるさかった。朝起きてご飯はなさそうで、クッキーを食べて病院へ行こうとしたら、朝食が来た。朝ごはんは久しぶり。  ナセル病院ではER(救急科)は朝は内科的な患者さんばかりだった。低血糖症の患者さんがなぜかすごく多い……あと、精神科の患者さんもいたけど、精神科のドクターがすぐ来ててびっくりした。少ししたら空爆を受けた患者さんが大量に運び込まれてきた。  病院のスタッフも不安そう。(11月10日にイスラエル軍に包囲されたガザ地区最大の病院)シファ病院のように包囲されるのが心配で来なくなったドクターもいたり、みんな次はナセル病院がやられると思っているみたい。  帰ってシャワーを浴びて下着類を手洗濯して、ご飯を外で食べた。 今も爆撃がうるさい。ずっと鳴りやまない。銃声もすごい聞こえる。結構近いんじゃ。  部屋に戻ると同室の同僚が電話しながら泣いてるし、別の同僚はカリカリイライラしている。 同僚と宿舎近くのたき火のある場所へパスタを調理をしに行った時に近所に住む市民らと撮影した写真。左が中嶋優子医師=2023年12月5日(写真 国境なき医師団提供)    ナセル病院付近の攻撃激化を受けて、MSFと保健省医療スタッフの一部は同病院から一時退避することを決定した。その後、周辺の支援先病院でも活動継続が困難になり、MSFは状況を総合的に判断した上で、私(中嶋)を含む海外派遣スタッフの一部を交代させるべく、7日朝に同チームをエジプトに越境させた。   《12月8日の日記から》  昨日はあまり寝られなかった。帰った時のことなどいろいろ考えて……夫になんとか連絡が取れた。早く会いたい。  朝8時出発の予定だけど、9時にまだGOが出ていなくて待機中。するととりあえず出てみようと決定し、「医療的な理由」にしてみんな病気を患っているふりをするように、と言われた。  検問所のあるラファに向かう。ラファでもいくつか爆撃された建物が目につく。避難所や立ち上げ中のテントなどがたくさんあった。出国手続きはスムーズだった。いつも頼りがいのあるナショナルスタッフがいる。  ラファ検問所通れたー。パスポートを預けたっきりしばらく戻ってこなくて待ったけど、国境を越えると顔なじみのスタッフがいた。なんだかうれしい。ドライバーさんが頑張ってくれて、シナイ半島をずっと飛ばしてくれて、約6時間かけて一気にカイロまで。ホテルに着いたら、新しいチームの人たちがたくさんいた。   《そして、今》  2023年10月7日のガザへの攻撃開始から1年と2カ月も経ってしまいました。私は、戦闘激化後に初めてガザに入った国境なき医師団の緊急医療援助チームの一人でした。多国籍メンバーで構成された私たちは、心身のタフさには自信を持っていたものの、今まで経験したものとはレベル違いの惨状に驚愕しました。そして当時、この紛争がここまで長期化する余地があるとは思いもよりませんでした。  今思うのは現地の人々のことです。自分も避難を強いられているのに、家族を亡くしているのに、患者さんを一生懸命治療していた同僚の医療スタッフ。心が折れていた私に「ユーコ! ユーコ!」とコールして元気をくれた子どもたち。みんなは生きているだろうか――。今でもよく思いをはせます。 宿舎近くで避難生活を送る子どもたちと交流する中嶋優子医師(中央)=2023年11月29日(写真 国境なき医師団)    MSFは他の団体がなかなか入れない紛争地や遠隔地で緊急医療援助活動をすることが多々あります。そして医療活動とともに、現地で目の当たりにした人道危機の現実を社会に訴える「証言活動」も、MSFの使命です。活動をしている地域から追い出されないように気をつけながら「モノを言う」ことは難しく、また人道援助が政治的に利用されてしまう状況でのジレンマにたびたび直面します。1年前も、そして現在も、ガザではそれは特に顕著だし、悪化していると感じています。 ガザ地区北部にあるカマル・アドワン病院はこの2カ月の間に何度もイスラエルの攻撃を受けている。写真は2024年10月26日、イスラエル軍が病院から撤退した後、負傷した市民の治療にあたる医療者ら。12月7日にも空爆が襲った(写真 ロイター/アフロ)  いくら戦争でも最低限のルールがあります。医療施設への攻撃は国際人道法に違反しています。しかしMSFが活動している医療施設は攻撃の対象となり続け、1年前の戦闘激化からMSFの医療スタッフだけで8人も殺害されています。こうした医療従事者や施設への攻撃をMSFはさまざまな場で強く非難しています。しかしその努力もむなしく、つい約2週間前の11月28日にも、ガザの人道援助安全地帯にあるMSF医療テントから70メートルの至近距離の場所が空爆されました。  現在、ガザの中での医療活動は全てイスラエル軍のコントロール下に置かれています。人道援助に必要な物資の搬入も、活動する場所も、全てイスラエル軍の許可が必要です。常に「モノを言う」MSFも、イスラエル軍の機嫌を損ねたら一瞬にしてガザに居られなくなり、医療援助活動ができなくなってしまいます。MSFは、現地で医療を必要としている声なき人たちの代弁をどこまで声を大にしてできるのか、常々模索しています。そして今現在もそのあんばいについて組織内で議論が続けられています。  現在海外メディアがほぼ入れないガザに入ることができる数少ない人道援助団体として、ガザに存在し続け、医療援助活動を続けることが最重要、最優先だと私は思っています。でも声もあげなくてはいけない。これがMSFの原点でもあるからです。  戦闘激化後の停戦は、これまでのところ2023年11月24日から30日の7日間だけです。当時、私はガザにいました。停戦中は、ずっと鳴りやまなかったドローンの音がぱたっと聞こえなくなり、ほっとした表情をしている人たちが街中にいました。空爆で破壊された家に何か残っていないか、少しでも残っていれば取りに行きたいと、ここぞとばかりに移動をしていた人々が多くいたのを覚えています。それが、14カ月間の紛争のうち、あの短い期間だけだったなんて、ほっとできない期間がこんなにも続いているなんて、想像もできません。 「一番つらいのは結婚式の写真が無くなってしまったことです」  現地の若い男性の言葉が、なんだかとっても印象に残りました。人間が人間を戦争で攻撃できるのは相手を人間として見なくなった時です。お互いに自分たちの正義があり、それを正当化してしまいます。  私は海外派遣を重ねれば重ねるほど、世の中の不条理さを感じます。特に今回のガザ派遣がそうでした。今でも、温かいお風呂、おいしいご飯、家族との団欒(だんらん)など、普通の日常が、ガザのような紛争地ではものすごくぜいたくなのだと罪悪感を覚えます。でも罪悪感でくじけている場合ではなく、自分にできるせめてものことを、同じ志を持つ仲間たちと一緒に行っていきたいと思っています。  私たちMSFは、即時かつ持続的な停戦、医療への攻撃をやめること、人道援助物資の十分な搬入を訴え続けます。そして、もっとたくさんの方々に「そーだそーだ!」と、一緒になって声を上げて応援して頂けるとありがたいです。 ※AERAオンライン限定記事   中嶋優子(なかじま・ゆうこ) 東京都出身。東京都立国際高校、札幌医科大学卒業。日本と米国の医師免許を持つ。日本で麻酔科医として勤務の後2010年に渡米、救急医療の研修を開始。2014年に米国救急専門医取得、2017年には日本人として初めて米国プレホスピタル・災害医療専門医を取得。国境なき医師団には2009年に登録。2010年に初めての海外派遣でナイジェリアで活動し、その後もパキスタン、シリア、南スーダン、イエメン、シリア、イラクで活動。2023年11~12月にかけてパレスチナ自治区ガザ地区で活動した。2017年より米アトランタ・エモリー大学救急部の助教授を務め、24年9月からは准教授職に。
「困ったときに『助けて』と言えたら」 没イチ・バツイチが集う東京・四谷のシニア食堂が目指すもの
「困ったときに『助けて』と言えたら」 没イチ・バツイチが集う東京・四谷のシニア食堂が目指すもの (撮影/大崎百紀)  小さな「シニア食堂」が11月28日、都内にプレオープンした。ふだんは「バー」という店内で、ビュッフェスタイルの昼食をとり、会話を楽しんでいるのは60~70代のシニアたちだ。 *  *  * 坊主バーがシニア食堂に  本日のメニューは、山形の玉こんにゃくの炒り煮、里芋・セレベスとネギの煮物、パパイアと根菜、さつま揚げの煮物、鯖の南蛮漬け、無農薬冬野菜のサラダ、杏仁豆腐、バウムクーヘン。 「この煮物に入っているのは、パパイアだって」 「鯖は豊洲市場で今朝買ってきて作ったんだって」  東京・四谷三丁目エリア。僧侶が運営するバーとして話題の「坊主バー」が、この日は食堂に早変わりした。  シニアが集い、会話と食を楽しんでいる。半数以上が没イチ(配偶者に先立たれた人のこと)・バツイチ・独身者のいずれかだ。   伴侶を亡くしてまだ数年の人もいれば、10年以上経つ人もいる。 ずらりならんだ食堂のメニュー(撮影/大崎百紀) 交流の場になることを目指して  食後、49歳の時に妻を亡くした中川興和さんがギター演奏を始めると、店内に残っていた10人ほどの客たちが口ずさみ、小さな演奏会が始まった。照明が落とされ、まったりとした雰囲気になった。 「僕の演奏で誰かが喜んでくれるなら」  中川さんは没イチになってからベースギターを始めたという。  この「シニア食堂」は、いわゆる「定食屋」ではない。シニアによるシニアのための食堂だ。食事をしながら、不安や悩みを吐露したり、共有したりすることで、生きる力を与え合い、「新たな一歩」を踏み出していく――。そんな交流の場になることを目指して、シニア生活文化研究所の小谷みどりさん(55)が立ち上げた。 「誰かと話したい人が気軽に来られるような場にしたいんです。単身高齢者が増えていけば、社会的孤立者は増加します。廉価で共食の場をつくることで、一人暮らしの高齢者が集い、人とつながって笑顔になり、生きる力にもつなげることができたら、それが一番うれしい。スタッフの多くが離別や死別、子どもが引きこもりなどの、不安や悩みを抱える経験や、つらい体験をしてきているだけでなく、専門職の経歴を持つ人も少なくないんです」  小谷さん自身も没イチだ。42歳の時に突然死で夫を失った。 シニア生活文化研究所の小谷みどりさん(撮影/大崎百紀)   単身高齢者を支援するには  その翌年、先立った配偶者の分も2倍人生を楽しむことを目的に「没イチ会」を立ち上げた。50歳の誕生日を迎える1週間前に25年以上勤めた会社を辞めた。現在は死生学に関する講演会を全国各地で行い、武蔵野大学と身延山大学の客員教授も務める。地元では消防団の活動をしたり、小学校で児童の支援員をしたりもする。  地域でゴミ拾いのボランティアをしていた時に、「裕福とは言い難い単身高齢者を多く目の当たりにし、どうやったら彼らを支援できるのだろうと考えるようになった」ことが、シニア食堂を始めるきっかけだという。  1日15人限定で、ランチの代金は1人300円。食材の用意も調理も小谷さんが中心になり、ボランティアスタッフとともに行う。野菜は無農薬野菜ファームをするバツイチシニアや、家庭菜園をする「ご近所さん」から購入したりするという。費用は小谷さんが負担し、補助金の申請はしていない。本格オープンは来年の1月で、月2回程度の開催を予定しているという。 気負わず話せる環境に  ここ数年、全国各地で「シニア食堂」が注目されるようになった。  たとえば、東京都は2023年度から新規事業として「TOKYO長寿ふれあい食堂推進事業」を進めている。地域住民らが主体となって実施する会食活動を育成・支援する区市町村に補助をしていて、それにより地域交流の場としての「シニアふれあい食堂」が目立つようになった。しかしながら「なかなか行きづらい」「存在自体を知らない」「タイミングが合わない」という声もある。 「(行政やNPOが主導するシニア食堂が)増えているのはたまたまかな。『没イチ会』に入りたいという声を聞いたことも理由だし、全国で講演をするたび、自分のお墓の悩みとか、切々と質問をする方も多くて、『こういう(終活の)悩みって、相談する場所もないんだなって』って思ったのも大きいです。ここに来てくれたら、私が聞きますよ」(小谷さん)  独り身だからこそ、同じ境遇の人にこぼせる悩みもある。気負わず話せる環境があるということは、孤立した人にとって大きいのだろう。 「たとえ没イチじゃなくても、どんな人でも来てほしいと思っています」(小谷さん)    小谷さんに誘われて、シニア食堂にやってきた75歳の独身男性は話す。 12月の営業は12月12日(木)と26日(木)の予定。参加費は300円(食事、お茶、お菓子代)、参加資格はおおむね65歳以上(会場に階段あり)。会場:坊主バー(新宿区荒木町6-42 AGビル2階) 午前11時半開場、12時食事開始。15時までおしゃべり会 「自分で『孤独だ』って言っている人はガードが堅くて閉鎖的。自分のことも話さないから話も広がらないし、人脈も広がらない。やっぱり、外に出る、いろんなところに顔を出すって大事だと思いますよ。私は毎週カラオケに行き、ヨガも週1ペース。旅行も1か月に1回、美術館にも毎月行っている。こんなふうに自分で決めたルーティンがあると、『今日何をしようかな』と悩むこともない。シニア食堂に初めて来ましたが、ここに来るのもルーティン化するかもしれませんね」  地元では参加者の平均年齢が70超というコミュニティーガーデン活動の代表をしているという。 黙っている人はほとんどいない  プレオープンのこの日、食堂は午前11時半に開いたが、午後2時を過ぎても半数以上が店内に残っていた。  黙って食事をしている人はほとんどいない。 「私の母も実は没イチ…」 「伴侶を失った悲しみの癒し方?やはり時間じゃないかな」  飛び交う言葉。誰かが誰かの聞き役となり、その聞き役もまた誰かに悩みを話す。没イチもバツイチも独身者も、僧侶も、視察に訪れていた役所職員にも、笑顔があった。 これで300円!シニア食堂のメニュー(撮影/大崎百紀)   老後の不安なくなるはず  会話をしながら食事することが、人間にとっていかに重要か。  今年10月に亡くなった料理評論家の服部幸應さんは世界初となる「食育基本法」の成立に尽力したが、生前のインタビューでは、「独居老人もなるべく外に出て、会話の中に入って食事をするほうが良いでしょう」と、「孤食」を避け、大勢で会話をしながら食事をすることの大切さを語っていた。  小谷さんは言う。 「老後の心配をする人は多い。お金を貯めて、今使うことをしない。私は老後の不安を抱えて生きるよりも、今使いたい。今やりたいことをして暮らす。人のためにお金を使い、困っている人がいたら、その人を助けたいんです。困っている人や、孤独な人がいる。たとえ一人になっても、困った時に『助けて!』って自然と言える人が増えていったら、老後の不安なんてなくなるはず。そういう人をみんなで支える場が必要だと思います」 (編集部・大崎百紀)
【2024年下半期ランキング 政治・社会編10位】武蔵小杉の「タワマン」修繕積立金の運用で2億4000万円 巨額の利益を築いた「売買」の意外なルールとは
【2024年下半期ランキング 政治・社会編10位】武蔵小杉の「タワマン」修繕積立金の運用で2億4000万円 巨額の利益を築いた「売買」の意外なルールとは タワマンが林立する武蔵小杉=神奈川県川崎市、米倉昭仁撮影  2024年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期(7月1日~11月30日)に多く読まれた記事を振り返る。政治・社会編の10位は「武蔵小杉の「タワマン」修繕積立金の運用で2億4000万円 巨額の利益を築いた「売買」の意外なルールとは」(8月16日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *   *   *  集合住宅の修繕工事の原資「修繕積立金」の不足が深刻化している。国土交通省によると、積立金不足のマンションの割合は、2018年度までの5年間で約2倍に増えた。一方で、積立金を積極的に運用し、大きな利益を生み出したマンションがある。 *   *   * 15年で2億4000万円の利益 「15年間の資産運用で、約2億4000万円の利益が出ました」  そう語るのは、神奈川県川崎市のタワーマンション「パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー」の管理組合法人で代表理事副理事長を務める志村仁さんだ。  この利益は、敷地内駐車場を「外部貸し」するなどの実物資産運用と、修繕積立金を原資とした金融資産運用による利益を合わせた金額だ。  近年、駐車場の外貸しを行う集合住宅は珍しくない。だが、「管理組合が積極的な資金運用を行っているとは言いがたい」(大和ライフネクスト・マンションみらい価値研究所)現状がある。そんな状況下で、同管理組合法人は、現在、20億円強の資金を社債で運用している。  なぜ、彼らはそこまで「増やせた」のか。 修繕積立金を「運用して増やす」  集合住宅は一定年数の経過ごとに修繕(長期修繕)を計画的に行う。それを目的に積み立てられるのが修繕積立金だ。  だが、老朽化が進んだ集合住宅では、居住者の高齢化も進んでいる。大規模改修に向け、積立金を値上げしようにも「生活に支障が出る」などの理由で困難な場合が少なくない。  そこで、注目されるのが「運用して増やす」という選択肢だ。管理組合にとって積立金は毎月の定額収入だが、改修などで実際に支出が発生するのは数年から十数年ごと。つまり、多額の資金が存在する期間があるということだ。 積極的な運用はわずか  国交省が行った「令和5(2023)年度マンション総合調査」によると、修繕積立金制度がある全国1522件の管理組合に、積立金の運用先を複数回答で尋ねたところ、以下のような結果になった。  銀行の普通預金は1169件(76.8%)、定期預金は534件(35.1%)、利息がつかない決済性預金は390件(25.6%)、住宅金融支援機構の「マンションすまい・る債」は290件(19.1%)、積み立て型マンション保険は22件(1.4%)、国債は2件(0.1%)など。  管理組合の資産運用では、基本的に、元本割れをしない運用が重視される。  しかし、マンションみらい価値研究所は「低金利の時代、リスクの低い金融商品だけでは、資金は増えない。修繕積立金不足の解消などの課題解決には役立たないことは明らか」と指摘する。 2009年に竣工した「パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー」(中央)には約2000人が暮らす=神奈川県川崎市、米倉昭仁撮影 「定期預金はもったいない」  武蔵小杉駅のすぐ近くに59階建ての「パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー」が竣工したのは09年。794戸に約2000人が暮らす。  竣工の翌年、志村さんは管理組合の副理事長となった。当時は、修繕積立金は定期預金で運用していた。  国債に切り替え始めたのは13年で、同年7月に開かれた定期総会がきっかけだった。百数十人の組合員が集まるなか、1人の男性が、こう言った。 「修繕積立金は、今後15年ほどは使いませんよね。その間、定期預金のかたちで置いておくのはもったいない。あまり危ないことはしなくていいと思いますが、例えば、『国債』がありますよね」  この発言を聞いた志村さんは、ハッとし、「ああ、そうだな」と思った。  ただ、「微妙な時期だな」とも思ったという。  00年以降、長期金利は1~2%程度で推移していたが、13年4月に日銀は黒田東彦総裁(当時)のもとで大規模な金融緩和策に踏み出した。いわゆる「黒田バズーカ」である。これを機に金利は大きく低下していく。 「パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー」のエントランスホール=神奈川県川崎市、米倉昭仁撮影 資産運用のプロから見れば  それでも国債を買い始めた13年に、10年国債の利回りは0.7%前後。定期預金の利率は0.15%前後(1000万円以上、5年)だった。  しかし、なぜ志村さんらは管理組合が債券で資産運用をする際の定番「すまい・る債」ではなく、「国債」を選んだのか。 「資産運用のプロからすれば、『すまい・る債』も『国債』も同等商品です。すまい・る債のほうが『流動性』が高いぶん、利率が低い。それだけです」 「流動性」は、ひと言でいうと、「売買のしやすさ」である。 「元本がほぼ確保されている国債なので、購入に反対する組合員は誰もいませんでした」 国債の利率ゼロに「高格付けの社債しかない」  16年1月、日銀がマイナス金利政策を導入すると、国債の利率はほぼゼロになった。  17年夏、志村さんは「国債ではまったく利益が出ない」と、理事会で問題提起した。そして、「資産運用のプロ」を住民から募り、審議会を立ち上げることを決めた。すると、5人ほどのメンバーが集まった。 「証券会社や投資銀行の現役社員、OB、信託銀行の資産運用の専門家、ヘッジファンドをやっている人など、プロフェッショナルなメンバーがそろいました」  審議会では、「マンションの修繕積立金」を原資とした場合、とりうるリスクと収益性を勘案し、どのような金融商品を購入すべきかを検討した。 「パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー」の管理組合法人で代表理事副理事長を務める志村仁さん=本人提供 2つのリスクの間をどうとるか  現金や預金はインフレリスクに弱く、実質的な価値は目減りしてしまう。一方、株式は価格の変動が大きい。そのため、災害などが発生し、緊急補修工事が必要で現金化する際、株価が値下がりしているリスクがある。 「この2つのリスクの間をどうとるか。最初は皆さん、『修繕積立金での資産運用はやったことがない』と、かなり悩んでいました」  最終的に、元本が毀損する可能性が極めて小さく、かつ利率が高いものは「高格付けの社債しかない」という結論にいたった。 1回あたりの上限は「約1億円」 「格付け」とは、債券の償還確実性を知るための指標で、「信用力が最も高く、リスクは限定的」な「AAA」から、「倒産など、すでに債務不履行に陥っている状態で元利の回収は不可能」な「D」まで、基本的に10段階で評価される。そして、「高格付け」を「A+以上」と定義した。  また、1回あたりの債券購入額の上限を約1億円と決めた。 「上限金額は『絶対』ではありませんが、例えば、ある会社の債券の利率がよいからといって10億円ぶんも買ってしまったら、何かあった際のリスクの分散ができなくなります」  長期修繕計画に基づいて、償還までの期間は「10年まで」と定めた。 59階建ての「パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー」=神奈川県川崎市、米倉昭仁撮影   売買ルールを規約に明記  18年1月、臨時総会を開催し、これらの売買ルールをマンション管理規約の「財務会計細則」に明記した。 「その後、社債を購入することへの反対やクレームは理事会が把握しているかぎり、ありません」  これまでに三井不動産、日本生命、三菱UFJ銀行、関西電力などの社債を購入してきた。利回りは年0.4~1.2%程度と、差がある。しかし、「どの銘柄を買うか」を話し合うことはないという。 理事会に資産運用のプロはいない 「普段、理事会に資産運用のプロはいません。あるのはルールだけです。それに則って、自動的に運用するのが最も費用がかからず、簡単なのです」  だが、もし誰かが購入する銘柄を決めたら、「なぜ買ったのか」と、後に問われることもあるのではなかろうか。 「理事会の誰かが決めるのではなく、財務会計細則に書かれたルールを証券会社に提示し、証券会社から債券販売の話があったら、選べる商品のなかで『一番利率のよいもの』を原則、機械的に買っていく。ただ、それだけです」  現在、武蔵小杉駅周辺には10棟以上のタワマンがそびえる。 「どのマンションも竣工からしばらく経てば、新築時のプレミアははげ落ちます。その後は、管理の『実力』で資産価値に差がついてくるのだと思います」 再開発が進む東急電鉄の武蔵小杉駅周辺=神奈川県川崎市、米倉昭仁撮影   (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
理系志望に「きみは文系脳だ」見抜いた高校の担任 ルネサンス・斎藤敏一会長
理系志望に「きみは文系脳だ」見抜いた高校の担任 ルネサンス・斎藤敏一会長 社長になって一時期、経済界の風潮に乗って「売上高経常利益率」の引き上げを連呼。投資が後回しになり、肝心の利益が減った。一番反省した経験だ(写真/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年12月9日号より。 *  *  *  1979年10月、千葉市花見川区のボウリング場の跡地に、屋内コート8面を持つルネサンス・テニススクール幕張を開き、支配人になった。大日本インキ化学工業(現・DIC)の子会社にできたスポーツ事業部門の企画室長へ、出向していたときだ。  京都大学工学部の合成化学科で学び、大日本インキへ入社し、「相対性理論」で知られる物理学者アルベルト・アインシュタインらを輩出したスイス連邦工科大学チューリッヒ校の大学院へ留学もした。そんな「技術者」が、スポーツ施設の「事業家」へ転じた。  宮城県で生まれ育ち、中学校時代にラジオを組み立て、高校で小説を書く。「やりたいことを、素直にやる」で過ごした日々が、斎藤敏一さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。  留学先のチューリッヒで「人生は仕事のみにあらず」というスイス人たちの暮らしぶりに触発され、冬休みに訪れたイタリアで一つのことに縛られずに生きたルネサンスの巨匠たちの人生を知り、技術者の枠に閉じ籠もらない道が、胸に宿った。  帰国した日本は「モーレツ社員」が脚光を浴びていた時代。浦和市の研究所での仕事は深夜まで続き、隣接した社宅との間を往復する繰り返しを、先輩らは当然のようにこなしていた。でも、スイス人の暮らしぶりとの落差が、背中を押す。 仕事に関係のない落語同好会を重ね遊び亭一生で高座へ  3年後に異動した千葉県市原市の工場で、技術者が公害問題に何ができるかを考える研究会をつくった。仕事に縛られているような分野ばかりでなく、落語同好会も結成し、新進の落語家に教わった。千葉市のショッピングセンターで100円寄席を重ね、76年に師匠と欧州でも落語会を決行。自分に付けた高座名は「遊び亭一生」だった。  テニスクラブも、このころにつくった。事業家への一歩となったテニススクール幕張は、会費を第1期募集で3カ月1万5千円の前払いとした。見込んだ採算ラインは2千人、開業前に3300人が申し込んでくれた。テニスブームに加え、近隣で公団住宅やマンション、分譲地が次々に開発され、団塊世代らの家族がどんどん入居したことが追い風となる。室内楽を聴く集いも、開く。 中学生で黒帯の柔道少年(写真/本人提供)  すべて技術者の仕事をこなしながら、休日に妻や知人の力を借りて、自宅を連絡所にした。『源流』からの流れが、「やりたいことを、素直にやる」というエネルギーを生んでいた。  1944年6月、仙台市連坊小路で生まれた。父は仙台国税局に勤め、母と弟2人の5人家族。小学校5年生のときに父が県南部の大河原町へ転勤し、町立の小学校から中学校へ進む。ラジオの組み立てに必要な部品は、1人で国鉄(現・JR)の電車に乗って仙台駅へいき、駅近くの模型店で買ってきた。鉱石ラジオから始め、真空管を5本使う「5球スーパー」までつくる。アンテナを立てると、海外の放送も入った。  父が古川市(現・大崎市)へ転勤となり、市立古川中学校へ転校して県立古川高校へ入学したが、1年生の夏に仙台市へ戻ることになり、官舎のそばにあった県立仙台二高へ転入する。子どものころからいきたかった高校の一つだ。担任が国語教諭で文芸部の顧問。学級で文集をつくった際に「文芸部へ入っては」と言われ、小説を書く。  教諭は2年生になるとき岩手大学へ転勤し、学友らと何度か盛岡市の家へ遊びにいき、あるとき大学受験が話題になった。図面を描くことや化学実験が好きだったので理系の学科へ進むつもりだったら、恩師は「きみは文系脳だ。文系に適しているね」と指摘した。結局、京都大学工学部の合成化学科へ進んだが、「事業家」へ転じたとき、恩師が見抜いた目を思い出す。 女性と接するためにフォークダンス部へみつけた人生の伴侶  高校が男子校だったので、京大では女性と接することができるフォークダンス部へ入る。京大の女性だけでなく、附属看護学校や市立看護短大などの女性たちと踊り、出会ったのが徳島県出身で看護短大へきていた現夫人の加代さんだ。3年生で社交ダンス部へ移り、マネジャーになってダンスパーティーの企画を受け持ち、この経験がテニススクールの事業化に役立つ。  合成化学科の研究室に当時、スイス連邦工科大学チューリッヒ校で博士号を取得したスイス人のコッホ氏がいた。5歳くらい年上で、博士が研究パートナーになる学生を募った際、手を挙げた。英語は片言程度だったが、化学式はアルファベット。それをつなぐように会話した。  共同研究を卒業研究にまとめたら、読んだコッホ氏が母校の大学院へ留学を勧めてくれた。奨学金付きで2年間。いきたいので、入社後に留学を認めてくれる就職先を探す。そんな虫がいい話は難しいが、大日本インキの社長へ話すと「面白い、いってこい」と認めてくれた。  67年4月に入社し、研修を受けた後、5月初めに横浜港から貨物船に乗る。8人部屋で3食付き。マラッカ海峡からスエズ運河を抜け、マルセイユ港まで1カ月余り。マルセイユから鉄道で、チューリッヒに着いた。  大学院は昼休みが2時間で、教授らは自宅へ帰って昼食をとってくるし、単身者は1時間で食事したら、あとの1時間はプールへいったり運動をしたり。夕方に帰宅すると、今度はオペラや音楽会を楽しむ。それらに誘われて、まだ仕事をしたことがない時点だったので、そんな生活が当たり前なのだと思う。 建築にも哲学にも活動を広げた巨匠に人間の可能性を知る  ルネサンス文化発祥の地フィレンツェへの小旅行は、フィレンツェから留学していたビオラ奏者が連れていってくれた。高校、大学に続き、いい出会いに恵まれた。美術館などでレオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロらの作品に触れると同時に、巨匠たちが絵画や彫刻のほかに建築、土木、科学、哲学などへ活動を広げていたことを、知る。「人間には、無限の可能性があるのだ」と頷いた。  幕張の成功後、差別化に多角化を考える。「多角化」は、当時の大日本インキでキーワードだった。幕張のテニスコートを2面やめて、スイミングスクールを新設。ボウリング場の跡地なのでロビーが広く、そこをトレーニングジムとスタジオに変えて、事業を「健康」へも広げた。テニス、水泳、アスレチックの3部門を一本化し、ルネサンスの原型ができていく。  東京・両国でスポーツ施設の入居権を得た新設ビルへ本社を置き、社名をディックルネサンス(現・ルネサンス)へ変更。92年6月に社長へ就任し、株式上場も果たす。08年4月に会長となり、今年5月、株主になっていた競争相手のスポーツ施設の吸収合併も決定。2025年4月に国内の総合型スポーツクラブで、売上高が首位になる。  ただ、この6月に80代へ入って、日々の仕事は後継の経営陣に任せた。「こんなものはどうだい」との助言も、控えめにした。でも、「やりたいこと」はなくならない。『源流』からの流れは、緩やかに続いている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年12月9日号
“省エネ受験”でお金も時間もほどほどに 個性尊重の方針など学校選びの基準にも変化
“省エネ受験”でお金も時間もほどほどに 個性尊重の方針など学校選びの基準にも変化 受験を控えた子どものサポートは、忙しい共働き家庭にとって物理的に難しい場合がある。どう向き合うか、悩む親は多い(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    子どもが中学受験をするとなると、かけもちで塾に通い親は送り迎えに奔走するイメージもある。しかし近年は負担の少ない受験対策や、偏差値上位にこだわらない学校選びなどの変化が目立ち始めた。AERA 2024年12月9日号より。 *  *  *  IT系企業で働く都内の40代の女性の息子は、「新タイプ入試」と呼ばれる思考力入試に絞って受験をする道を選んだ。  小学校入学当初、女性は外資系企業に勤務。コロナ禍では息子が自宅学習する中、在宅勤務を余儀なくされた。一緒にいるのに仕事ばかりで構ってあげられない中、ある日、息子はついにキレた。社名と共に「死ね!」と大きな字で書いた紙をオンライン会議中の女性に向かってかざしたのだ。  以来、女性は働き方を考えるようになり息子が小学4年生の冬、海外とのやり取りがない今の会社に転職した。暮らす地域は中学受験をする子が多いが、息子はそれほど勉強に熱が入る様子もなく、中学は公立でいいと思っていた。だが、高学年に入ると気持ちが変わった。「ある頃から息子は理由の分からないことを無理矢理やらされることに反発心を抱くようになりました」  学芸会の役決めでは「なぜ、全員が何かの役をやらなくてはいけないのですか!?」と担任に意見したという。画一的な指導をする公立ではなく、個性を大事に育ててくれる学校に入学するほうが本人も幸せかもしれないと思うようになった。 通塾時間を削って臨む  しかし、受験までの時間は1年しかない。情報を集めるうちに知ったのが「新タイプ入試」だった。大学の総合型選抜入試のようなもので、プレゼンテーションや作文、面接などで合否が決まる。新タイプ入試に向けた指導を行う少人数制の塾を見つけてお願いしつつ、自宅でも対策を開始。『こどもロジカル思考』(カンゼン)など、思考力が鍛えられる本を親子で読んで話し合う時間を持った。6年生の夏休みには個別指導も追加し、めでたく志望校合格を果たした。トータルでかかった費用は150万円ほどだった。 「思考力入試の準備は息子とのよいコミュニケーションの機会になりました。王道の小学3年の2月からの入塾だと小学校生活の半分は通塾することになりますし、費用もおそらく倍以上だったと思います」 AERA 2024年12月9日号より    通塾時間を削った“省エネ受験”で臨んだ家庭もある。  都内の人事コンサルタント会社で働く40代の女性の娘は、集団スポーツのチームに所属。チームはオリンピック選手が輩出する名門で、中学生になれば、遠征なども増えてくるが、通っている国立の小・中学校では遠征のための欠席もただの欠席になると聞き、スポーツ活動を応援してくれる私立中学を考えるようになった。 共働き家庭参戦で変化  だが女性は仕事が忙しく、スポーツ活動の伴走だけで手一杯の状況。実家の両親も体調を崩したこともあり、これ以上、自分のタスクを増やすのは無理があると感じていた。そこで考えたのがオンライン塾だ。通塾のための送迎も必要ない上、習い事との両立もできる。面接でスポーツを頑張っていることをアピールできる学校を志望校に据え、前出の家庭同様に短期決戦で合格を手にした。  こうした負担の少ない方法で参戦する家庭の増加は、中学受験全体の雰囲気を変えつつある。『〈中学受験〉親子で勝ちとる最高の合格』の著者の中曽根陽子さんは「偏差値上位校だけに人気が集まるという時代ではなくなり、裾野が広がりました」と話す。首都圏模試センターが発表した来年度入試に向けての志望者数増加率を見ると、5位までに並ぶ学校はいずれも中堅またはそれ以下の学校だ。  中曽根さんは、中受で気をつけてほしいこととして、①子どもの心身の健康②学校選び③スケジュール・タスク管理の三つを挙げる。  ③が難しい場合は冒頭の家庭のように個別指導に頼る方法もあるが、①と②は親でなければできないことだ。「いずれにしても、何を目的に中学受験をするのか、家庭で軸をしっかりと話し合ってスタートしてください」(中曽根さん)  幸せな受験体験で終わるために、親の役目はやはり大きい。 (フリーランス記者・宮本さおり) ※AERA 2024年12月9日号より抜粋  
パリコレ経験者「ダイヤモンドの原石のよう」  障害がある人とともに目指す「プロモデル」の新境地
パリコレ経験者「ダイヤモンドの原石のよう」 障害がある人とともに目指す「プロモデル」の新境地 モデルの岩下絢音(あやね)さん(25)。モデルを始めて生活様式が変わったという(撮影/写真映像部・和仁貢介)  障がいのある人たちが、プロのモデルをめざして日々努力をしている。パリ・コレクションを経験した元モデルの高木真理子さん(61)が代表を務める、グローバル・モデル・ソサイエティー(GMS)は、障がいがある人たちが所属するモデル事務所だ。 *   *   * 人と交流し、笑顔が増えた  背筋をまっすぐに伸ばし、ほほえみながら振りむく。装いとたたずまいにはモデルならではの華やかさが漂っていた。 「ファッションやメイクを考えるのが楽しいです」  しっかりとした口調で話すのは、岩下絢音(あやね)さん(25)だ。外見でわかりにくく「見えない障がい」と呼ばれる、知的障がいがある。モデルの活動を始めてから、生活様式が大きく変わった。  もとは家にこもりがちだった。母親は以前との違いについてこう話す。 「引っ込み思案で、人形を持ち歩いて話しかけていることもありました。今は撮影やレッスンに取り組んで、人と交流するようになり、笑顔が増えました」 グローバル・モデル・ソサイエティー(GMS)代表の高木真理子さん(撮影/写真映像部・和仁貢介) 創作活動の幅広げたい  健康のためにウォーキングレッスンを受けたのをきっかけに、2022年からGMSに所属し、ファッションモデルとしての活動を始めた。注目されたりするのが楽しいと感じるようになった。撮影のたび、髪形や服装を変え、リクエストに応じてポーズをとる。  あいさつやコミュニケーションもモデルの活動に合わせて見直してきた。 「つい、好きなことをたくさん話してしまう」(絢音さん)ため、「何をどれだけ話すか」について、母親に相談することもある。  ファッションやメイクを研究し、歌やダンスのレッスンも受け、演劇の舞台も経験した。布に染料で色をつけ、糊付けやコテ当てをしながら造形するアートフラワーでアクセサリーも制作する。  モデルに加え、多様な表現や創作活動の幅を広げて、将来はアーティストとして活動するのが目標だ。 障がい者のための「モデル枠」ではなく 「障がい者のための特別なモデル枠ではなく、障がい者が健常者と同じようにモデルの職業を選べる社会をめざしたい」  こう話すのは、障がい者を集めたモデル事務所、グローバル・モデル・ソサエティー(GMS)代表の高木真理子さん(61)だ。  パリコレの出場経験もある元ファッションモデルの高木さんは、一般の人向けのウォーキング教室を主宰してきた。「知的障がいがある子どもたちに指導してほしい」と頼まれたことをきっかけに、親子で参加できる知的障がい者向けの教室を開催している。 モデルとしてレッスンに励む(撮影/写真映像部・和仁貢介) ふつうに接し、率直に伝える  懸命に歩き方を学ぼうとする障がいのある子どもたちと接し、親たちの悩みを聞くうちに、高木さんは疑問を持つようになった。 「障がいがあるからできないと、本人もまわりも決めつけている。障がい者にどう接していいのかわからないから、はれものにさわるような対応が多いのではないか」  高木さんは、障がい者を持つ子どもにも「ふつうに」接し、気が付いたことは率直に伝えている。知的障がい者が社会人としてTPOに合わせたふるまいやコミュニケーションができなければ、目をつぶることなく、時間をかけて教えている。 「箸やフォークが使えるのに手づかみで食べる子もいました。教えたら、しっかりできるようになりました」 ほほえむ岩下さん。所作の一つ一つも美しい(撮影/写真映像部・和仁貢介) モデルの素質をみたうえで  障がいがある子どもたちが成長する姿は「ダイヤモンドの原石のようだった」(高木さん)。GMSを22年に創設した。知的障がい、ダウン症、遺伝性疾患、身体障がいなどさまざまな障がいのあるモデルが所属している。 「健常者と同様に、障がい者もモデルになれる人の数は限られている」と高木さんは説明する。GMSには障がいがある人から「どうしたらモデルになれるのか」と数多くの問い合わせがある。モデルとしての素質をみたうえで、本人の努力や家族の協力も必要になるため、実際に可能性に向けて挑戦できるのは1~2割だ。  親の協力も大切だ。テーブルマナーや身だしなみを「日常生活から意識するように」する。鏡をよく見て、ヒールを履き、化粧をする。白い服を着て食べ物をこぼさないようにする、良質なものを身に着けるといった「見られている」存在であることを認識する。自分をアピールし、気持ちを変えるファッションの力をいかす。 「撮影を通して主役としての場を持つことで、個性が磨かれ輝きが増していった」(高木さん)  口角を上げるトレーニングや歩き方など、必要に応じてワークショップを開くことはあるが、モデルになるためのレッスンは常設していない。個人がそれぞれトレーニングをしている。 明るいまなざしが印象的な清野優里さん(撮影/写真映像部・和仁貢介) 「好き」「やってみたい」  大きな瞳を輝かせ、人なつっこい笑みを浮かべるモデルの清野優里さん(31)。染色体異常のひとつで小児慢性特定疾病に指定されている4pマイナス症候群がある。視力が弱い、成長障がいがある、精神や言語の発達が遅れるといった特徴があり、5万人に一人といわれる障がいだ。  以前の優里さんは「暑さや寒さに弱く、体調管理のために家から出ないことも多かった」と母親は話す。高木さんのウォーキングレッスンを受けるようになって数年間が経ち、体幹が強化されて歩き方や歩幅が広くなり、長い時間歩けるようになった。  モデルを始めたきっかけは、本人が興味を示したことだった。自分から言葉を発することはなくても、「好き」「やってみたい」と母親に意思を伝えてきた。撮影の場でも、楽しそうにいきいきとしている。外出が増え、体が丈夫になった。  もとから「明るく、緊張しない」(母親)という優里さんの強みが、舞台の演技でも発揮された。24年5月に日本舞踊家の月妃女さんが主宰する演劇『台湾に命を捧げた八田與一の半生』に子ども役の一人として出演し、物怖じせずに喜びや悲しみを豊かな情感で表現した。  今後はミュージカルに挑戦するため、歌のレッスンにも励んでいる。 清野優里さん(撮影/写真映像部・和仁貢介) ありのままの姿で舞台に  障がいがある人がモデルとして活動する機会は広がりつつある。 「時代とともに、より多様性、個性が認められるようになっている」と、高木さんは説明する。モデルはファッションや商品のよさをアピールする役割で、人としての個性を前面に出すことが求められているわけではない。しかし、時代とともにモデル像は多様化している。 「私がモデルをしていた1980年代は歩き方の美しさが求められ、マネキンのような立ち位置で、笑うことさえ許されなかった。90年代から笑ってもよくなり、今は歯に矯正器具がついていてもいい、ありのままの姿で舞台に立てるようになった」(高木さん)  欧米では障がい者やトランスジェンダーなど性的マイノリティーのモデルもプロとして活躍している。日本ではまだ「障がい者としての枠組み」での起用はあっても、健常者と同じ立ち位置でモデルをめざすのは難しい状況だ。 「障がい者を採用してお金もうけをしているのかと批判が来たこともある。福祉の役割は大切だけれど、障がい者は『何かをしてあげる』だけの対象ではない。モデルをしたい人がいるならば、仕事として収入を得られる環境にしたい」(高木さん) (ライター・斉藤真紀子)
【中山美穂さん亡くなる】「精神的には、昔のほうが大人だった」デビュー35周年で語っていた50歳の心境【生前インタビュー】
【中山美穂さん亡くなる】「精神的には、昔のほうが大人だった」デビュー35周年で語っていた50歳の心境【生前インタビュー】 中山美穂(なかやま・みほ)/1970年生まれ。東京都出身。85年、ドラマ・CDデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。2016年には「魔術」で初舞台。現在、高田漣プロデュースによる約20年ぶりのアルバム「Neuf Neuf」が発売中。20年3月1日には中野サンプラザで、3月7日にはLINE CUBE SHIBUYAでコンサートを開催。 [撮影/片山菜緒子(写真部)ヘアメイク/石田絵里子 スタイリスト/高木かなえ 衣装協力/ブチェラッティ(和光)] 中山美穂 [撮影/片山菜緒子(写真部)ヘアメイク/石田絵里子 スタイリスト/高木かなえ 衣装協力/ブチェラッティ(和光)] 俳優の中山美穂さんが6日、都内の自宅で亡くなった。54歳だった。中山さんは同日に予定していた大阪公演を体調不良のため中止すると発表していた。2020年に週刊朝日でインタビュー。デビュー35周年という節目で、演じること、歌うことについて語っていた。中山さんを偲び、週刊朝日2020年1月3-10日合併号の記事を配信する。(年齢、肩書等は当時) *  *  *  気になる人物の1週間に着目する「この人の1週間」。2020年でデビュー35周年。女優として精力的に活動しながら、歌手としての活動も再開させた。演じる時は、求められることに全力で応え、音楽では、自分自身のやりたいことにこだわりバランスを取る。中山美穂さんのエネルギーの源泉とは?  2020年の3月1日で50歳になる。女優というのは、実年齢を積極的に言いたがらない印象があるが、彼女の話を聞いていると、どうも50歳になる自分を面白がっているように感じられる。20年にデビュー35周年を迎えるにあたり、約20年ぶりにアルバムをリリースするなど、女優以外の仕事が活発化してきたことも関係しているのかもしれない。 ただ無我夢中でした 「年齢を重ねてからのほうが、気持ちはシンプルに、スッキリしてきているかもしれないです。いろんなこだわりが削がれて、鎧を外していけているのかな……。一つ、何か豊かな部分を見つけられたら、その代わりに何かを手放していける。どんなつらいことがあっても、人前では自然に笑っていられるような、そんな芯の部分にあるブレない何かが太くなっているように思います。それは、人の3周分ぐらいの人生を経験しちゃった気になっているせいなのかも(笑)。いろんなことを乗り越えてきた私だから、何があってもきっと大丈夫、って思うんです」  最新アルバムのタイトルは、「Neuf Neuf」。“新しい”という意味のフランス語を「“ヌフヌフ”っていう語感が面白いなと思って(笑)」二つ重ねた。そこには、デビュー曲「C」のリカバーも収録されている。 「作詞が松本隆さん、作曲が筒美京平さんで、今歌っても、全く古さを感じなかった。当時は、背伸びした気分で歌っていたせいか、今のほうが、言葉が自分の中にスッと入ってくる、新曲のような感覚がありました。デビュー当時は、忙しいからといって、つらいと思ったこともなかったし、仕事に対する不安も不満もなかったです。ただただ無我夢中でした。だから、懐かしいという感覚すらないんです」  歌手と女優。二つの活動が、わずか15歳にして、順調に回りはじめた。ただ、女優として役を演じる時、役に対するアプローチの仕方は、今と30年前とでは随分違うと、中山さんは振り返る。 「今は、演じている時と、日常生活の切り替えが、きっちりできるようになったんですが、昔は、役のキャラクターを普段の生活にまで引きずっちゃうことがよくありました。とにかくその人物になり切ることが演じることだって思っていたのかもしれないですね。だから、役の衣装を借りてきて、普段もそれを着て過ごしたりとか(笑)。違うお仕事をしている時に、無意識のうちに役の言葉遣いが出てしまったこともしょっちゅうでした」 「美穂ちゃんって、パンクだよね」  20歳を過ぎる頃には、「無我夢中」時代よりも少し余裕ができて、自分を客観視できるようになったせいだろうか、与えられる役のイメージと、自分自身との乖離に、苦しむようになった。そんな時、彼女の芯の部分にある個性を解放できたのが音楽だった。シングル曲は、タイアップが多かったこともあり、日本を代表する作家陣からの提供を受けていたが、その一方、弱冠22歳で、セルフプロデュースしたアルバムをリリースしている。 「よく、私の音楽好きを知っている友達からは、『美穂ちゃんって、パンクだよね』って言われるんですが(笑)、音楽をやっている時は、無条件で解放される自分がいます。特にライブは、ひとりで大勢のお客さんを前に歌うわけですけど、こちらからは、みなさんの笑顔が見える。あの空気は、ライブでしか味わえないものなので……。私、音楽って、世界に、絶対になくちゃいけないものだと思うんです。『音楽に救われた』とか、そんなに大袈裟なものじゃなくても、川のせせらぎとか、風の音、鳥のさえずりや波の音、自然の中にある音も音楽の一部だと思うというか……。だから私は、音楽に関わることで、世界に必要不可欠な要素の一部になれることが喜びなんです」  アルバムをリリースできるようになった経緯もまた、彼女のいい意味での音楽への執着心やいい意味でのクレイジーさが、周囲を動かしたことが大きかった。 「音楽活動は、ずっと再開したいと思っていて、自分でバンドのメンバーを集めてリハーサルしたりしていたんです。でも、なかなか本格的に活動できる環境が整わなかった。そうこうしているうちに、18年の暮れぐらいかな。ミュージシャンの浜崎貴司さんが主催する『GACHI』っていう対バン形式のライブに『美穂ちゃん、やらない?』って誘っていただいて」  ただ、この「GACHI」は、弾き語りであることが対バンの条件だった。 「そこから約3カ月間、ギターを猛特訓して。あまりに大変で、もう、泣きながら練習していました(笑)。でもね、頑張った甲斐あって、めちゃくちゃいいライブになったんです。お客さんがみんな泣いているんですよ、久しぶりだから。私も、目を合わせたらもらい泣きしそうだから、なるべくお客さんのことを見ないようにして。一曲一曲、精一杯、心を込めて歌うことができました」 常に自分とは別の人格  ライブには、所属レコード会社の役員が足を運んでいたこともあり、その後、すぐにアルバム制作の準備に取り掛かることになった。音楽活動が本格化する一方で、女優業は、次々に新境地と言える役柄に挑戦している。20年にWOWOWで放送される連続ドラマW「彼らを見ればわかること」では、離婚歴ありの人気レディコミ漫画家・内田百々子を演じている。再婚相手の会社経営者と一人息子との家庭を持つ百々子と、同じマンションに住む家族との交流の中で、現代の家族観が浮き彫りになっていく物語だ。 「私自身、普段から共感する部分を探して役を作っていくというより、役は、常に自分とは別の人格だと思っていて。台本を読んだ時点では、百々子に共感も反発もなかったです。ただ、大学時代から漫画を描き始めて、少し世間知らずな部分と、自分の信念のようなものが共存している、マイペースで強い人なのかなと思います」  役を引きずっていた時代とは打って変わって、今は、役は自分とは別人格だと割り切れるようになった。それは、20代の時に、音楽で自分を表現しながら、女優としては自分の殻を打ち破りたいと考えていた時期を通過したことも大きかった。 「20代前半は、“等身大で演じてください”と言われることが多くて、『等身大って何?』ってことに頭を悩ませていました。なぜか実年齢より若い設定のほうが多くて、だんだんやりづらくなるんじゃないか、いつまで実年齢より若い役を演じ続けられるのだろう、という不安もありましたし。昔はだから、インプットばかり欲していましたね。でも、20代半ばで、岩井俊二監督の『Love Letter』とか、竹中直人さんと夫婦役を演じた『東京日和』のような作品と出会えたことで、面白い仕事を一つひとつ丁寧にやっていけばいいんだと思うようになったんです。今は私を必要としてくださるのなら、どんな役でもお引き受けしたい。どんな現場でも飛び込みたい。3年前には舞台にも挑戦しましたし、ある意味、怖いものなしです(笑)」  そうやって今の自分を肯定しながら、「でも、精神的には、昔のほうが大人だったような気がします」とも。 自然に滲み出る何か 「物事を一つひとつ真面目に考えていたし、人の言うことにも素直に耳を傾けていたので、分別があることを“大人”というのならば、昔のほうが大人で、今はむしろ、“自由にやらせてもらっているなぁ”という感じです。かといって、何も考えてないわけじゃないですよ!(笑)ただ、物事に、必要以上にジタバタしなくなったんです」  人生の中で、経験としてインプットしたものが、滲み出ればそれでいい。女優として、今はそんな境地にいる。 「役を演じる上で、技術的な部分や熱量以外に、自然に滲み出る何かが、一番その人のオリジナルなんだと思う。だとしたら、年を重ねること、経験を積むことすべてがお芝居の肥やしになる。80歳ぐらいのおばあちゃんって、陽だまりの中で座っているだけでも、何かが見えちゃうじゃないですか。私もそういう豊かさが欲しいんです。年齢を重ねて、ちゃんと自分の“味”を出していきたい」  実は、中山さんがこっそり狙っている“味”こそが、ユーモアなんだそう。 「『彼らを見ればわかること』もそうですが、群像劇って、登場人物みんなが一生懸命になればなるほど、はたから見たら滑稽だったりするじゃないですか(笑)。お芝居だけじゃなく、私自身も、年齢を重ねながら、いつかそういう存在になれたらと思います」 THIS WEEK 12月3日(火) 終日ドラマ撮影。帰宅し玄関のドアを開けると2匹の猫がお出迎え。 12月4日(水) FNS歌謡祭に出演。竹内まりや作詞作曲の「色・ホワイトブレンド」を、最新アルバムのプロデューサー高田漣のアレンジで。後半には新曲「君のこと」も披露した。 12月5日(木) NHK BS「The Covers, Fes. 2019」公開収録。98年のコンサート以来のNHKホールでのパフォーマンス。FLYING KIDS浜崎貴司さんとのスペシャルコラボレーションも披露した。 12月6日(金) 終日ドラマ撮影。 12月7日(土) ミーティングと諸々の準備。 12月8日(日) 気のおけない友人と少人数でホームパーティー。最近は、タイ料理でもてなすことが多い。 12月9日(月) ドラマの撮影後、22時から、生放送のオールナイトニッポンでパーソナリティーを務めた。 (菊地陽子、構成/長沢明) ※週刊朝日  2020年1月3‐10日合併号
中尾ミエ「健康とチャレンジが人生を楽しくする」50歳になるまで泳げず…世界マスターズ水泳で銀メダル
中尾ミエ「健康とチャレンジが人生を楽しくする」50歳になるまで泳げず…世界マスターズ水泳で銀メダル   中尾ミエさん。78歳(撮影/和仁貢介)  デビュー曲「可愛いベイビー」の大ヒットが16歳。60年以上の芸能生活を経た今も変わることなくテレビや舞台で活躍を続ける中尾ミエさん。最近、精神科医の和田秀樹さんとの対談をまとめた著書『60代から女は好き勝手くらいがちょうどいい』(宝島社)が話題です。仕事だけではなくプライベートも充実しているという中尾さんに年を重ねた今の「人生の楽しみ方」についてじっくり伺いました。発売中の「朝日脳活マガジン ハレやか 2024年12月号」(朝日新聞出版)より抜粋して紹介します。 * * * 「そのうち」ではなく「今すぐ」やってみる  15歳で芸能界に入り、おかげさまで途切れることなく仕事をしてきました。でも50代になった時、ふとプライベートの過ごし方があまり充実していないなーって思ったんです。人生100年時代と言われますが、50代は折り返し地点。今始めなければ手遅れになってしまうという焦りもあって、さまざまなことにチャレンジすることにしました。  水泳を始めたり、自動車の運転免許を取ったのも50代。60歳からは俳句を始め、70歳を過ぎてからはDIY(ものづくり)に凝っていて、興味を持ったことは「そのうち」ではなく「今すぐ」始めるようにしています。  実は、50歳になるまで泳げなくて、ハワイに行っても日焼けしているだけ。プールに飛び込んで楽しそうにしている仲間をうらやましく眺めているだけでした。そんな時、元水泳日本代表の木原光知子さんに教えていただく機会を得て、50歳から水泳を始めたんです。1年間練習してアマチュアの女性を対象とした「ウーマンズ・マスターズ水泳競技大会」に出場するまでになりました。さらに4年に1度開催される「世界マスターズ水泳」のイタリアとオーストラリアの大会にも出場し、銀メダルを取ったんですよ。  泳げるようになり、大会にも出場できた喜びもありますが、水泳を通じて改めて健康を意識するようになりました。水泳は全身運動ですし、体力がついたのと体幹も強くなりました。健康でなければ、仕事も新しいことにもチャレンジできないでしょう。  自動車の運転免許を取ったのは、水泳などの趣味を広げていくうえでの移動手段のため。人に頼るよりも、自分で運転できるようになったほうが便利だろうと思ったからです。ただ、運転はあまり好きではなかったですね。助手席に座っているほうが私には向いているみたい。積極的にドライブに出かけることはありませんでした。せっかく取った免許ですが、今年で返納しました。やはり事故は一瞬ですし、怖いですからね。 1962(昭和37)年、まだ「可愛いベイビー」のヒット前に朝日新聞に大きく取り上げられた15 歳のツイストを踊る中尾ミエさん。記事には「実力のほどは未知数」と書かれているが、ここからすぐ国民的スターに。(提供/朝日新聞社) “ほどほど”の距離感が人間関係を長続きさせる  健康面では、ほかにもスポーツジムに通ってパーソナルトレーニングを受けるなどしていますが、早朝に近くの公園でのトレーニングも毎日の日課になっています。  すべり台の階段に片足をのせてストレッチしたり、ベンチに寝て開脚したり、鉄棒にぶら下がったり。最初は、ぶら下がることすら全くできなかったのに、毎日続けてきたことで、いまでは懸垂だってできるようになりました。  そんな私の姿を見て、いつの間にか近所の同世代の人たちが集まるようになったんです。最高齢は86歳で、78歳の私は若手のほうです。朝7時から公園に集まって、私のマネをしてストレッチをしたり、鉄棒にぶら下がったりするようになり「ミエ道場」って呼ばれています。毎日鉄棒にぶら下がっていたら「身長が1センチ伸びた」とか、運動で筋肉がついて「胸が大きくなった」なんていう人も。  ただミエ道場に参加しているのは女性ばかり。同世代の男性も公園で見かけるんですが、一緒に運動しようとはしませんね。最近、医師の和田秀樹先生との対談をまとめた『60代から女は好き勝手くらいがちょうどいい』(宝島社)という本を出したんですが、その中でも、シニア世代は男性よりも女性のほうがずっと元気なことについて話してます。和田先生が言うには60歳を過ぎると、女性は男性ホルモンが増え、逆に男性は減ってしまうとのこと。男性ホルモンが増えると活発になるようで、確かに、街で見かける元気なシニアの多くは女性ですよね。  人づき合いも女性のほうが積極的で、私も運動仲間がいるからこそ、毎朝欠かさず公園に行けるんだと思います。1人きりだと、心が折れちゃうときもあるけれど、仲間がいるからこそ頑張れる。  ただ、この年齢になると新しい仲間を作るのが難しいとか、少し面倒に感じる人も少なくないそうです。それは、必要以上に深入りしちゃうから。あまり深入りすると人間関係が複雑になったり、面倒なことが起こることもあります。だから、距離感を上手に保つことも大切です。ミエ道場の仲間はあくまでも一緒に体操する友達という線を越えずに、朝の体操が終われば「また明日ね」っていうくらい。その距離感が長続きするコツですね。 中尾ミエさん(撮影/和仁貢介) 健康とチャレンジが人生を楽しくする  あと、いま楽しいのがDIY。年齢のこともあって、何か新しいものを買うよりも、これまで使ってきたものを長く大切に使うために自分で直したり、自分で作ったりしています。自分で作れば愛着も増すでしょう? 仲間と庭に置くテーブルやベンチを作りましたし、塀の塗り替えは全部自分でやりました。  皆さんも、「あれがやりたい」「これを試してみたい」って思うことの1つや2つはきっとあるはずです。でも、「もう年だから……」ってあきらめていませんか? 私は、歳をとった今だからこそ、新しいことにチャレンジすべきだと思うんです。若いころの一年と歳をとってからの一年では、同じ365日でも貴重さが違うもの。人生の折り返しを過ぎて、誰でも残された時間的に限られてくるのだから、一日でも無駄にすることなく、やりたいことは今すぐやらなきゃいけないって実感しています。  新しいこと、好きなことに巡り合えるのってとても幸せなこと。仕事もプライベートもいつも新しい目標を持ち、それを励みにして人生を楽しむ。  誰でもいずれは自然と最期が訪れるものです。でもすべて終えてしまって何もやりたいことがないまま、その時を迎えるのは面白くないですよね。後悔のない人生とは、すべてをやり切ることではなく、いつも新しいチャレンジをして、道半ばで生涯を終えること。それが一番の幸せなんじゃないかって思うんです。  人生100年時代といわれるけれど、ただ寿命だけ延びるよりは、「今が一番楽しい」って、常に思えるように生きたい。そのためにも、健康とチャレンジは欠かせないと思っています。 (構成・文/山下 隆) 中尾ミエさん(撮影/和仁貢介) なかお・みえ/1946(昭和21)年、福岡県生まれ。1962(昭和37)年、デビュー曲「可愛いベイビー」の空前の大ヒットで一躍大スターとなる。園まり・伊東ゆかりと組んだ「スパーク3人娘」としても活躍。芸能生活60年を超えた今も俳優として映画やドラマに多数出演している。歯に衣着せぬ物言いにファンも多く、トーク番組や情報番組のコメンテーターとしても人気を集める。情報番組「5時に夢中!」(TOKYO MX)にレギュラーコメンテーターとして出演中。2024年9月には『60代から女は好き勝手くらいがちょうどいい』(宝島社)を上梓。同書では「頭も身体も老いない秘訣とは何か?」という誰もが知りたいテーマを、シニアの生き方や健康について数多くのベストセラーを出し続ける精神科医の和田秀樹先生と語り合っており、60代を超えてもずっと健康で楽しく生きるための秘訣やコツがわかる一冊となっている。
【徹底解説】ポイント5大経済圏の最新状況 物価高に負けないポイ活の攻略法
【徹底解説】ポイント5大経済圏の最新状況 物価高に負けないポイ活の攻略法 写真はイメージです(写真:Getty Images)    物価高が続く中、「ポイ活」への注目が高まっている。コツをつかんで効率よくためれば、家計の強い味方になるのは間違いない。AERA 2024年12月9日号より。 *  *  *  鈍化傾向を示してきたとはいえ、依然として物価の上昇は続いている。つまり、家計のピンチはいっそう深刻化しているということだ。特に主食のコメが59%弱も値上がりしたのは、多くの家庭で大きな打撃となっているだろう(10月の上昇率)。  そこで、今こそ積極的に取り組みたいのがポイ活だ。現在、巷には多彩なポイントサービスが存在し、生活の様々なシーンで付与されている。ポイ活とは、それらを効率的に貯めること。節約には限界があるものの、ポイントを上手に獲得できれば、実質的に必要最低限の出費に抑えることも可能だ。  では、効率的にポイントを貯めるコツとは? ポイ活巧者に共通しているのは、特定のポイント経済圏にターゲットを絞り、そのエリアに支出を集中させていることだ。ポイント経済圏とは、消費者の囲い込みを目的に、複数の企業が共通のポイントを付与することで提携を結んでいるもの。企業側の思惑を上手く利用し、できるだけ有利にポイントを獲得するわけだ。 店舗から金融まで広範  eコマースからリアル店舗、携帯電話や金融サービスといった広範の領域でポイ活が可能な巨大ポイント経済圏としては、(1)ドコモ、(2)Vポイント、(3)PayPay、(4)au、(5)楽天の五つが挙げられる。順を追って、それぞれの概要を説明しよう。  まず、ドコモ経済圏はその名の通りでNTTドコモが中核となっており、貯められるのはdポイントだ。ドコモ携帯電話の利用、d払いやdカードといった同社の決済サービスはもちろん、マネックス証券やアマゾン利用でもポイントを貯められる。 「これまでドコモ経済圏の弱点は金融とeコマースでしたが、マネックス証券の子会社化とアマゾンとの提携によって強化を図っています。まだ銀行は傘下に有していないため、これから吸収合併や提携などの手を打ってくる可能性も考えられます」 AERA 2024年12月9日号より    こう指摘するのは、ポイント交換案内ポータルサイト「ポイ探」代表取締役の菊地崇仁さんだ。また、dポイントはメルカードやメルペイなどを提供するメルカリとも提携している。  もともとVポイントは三井住友グループの共通ポイントサービスだったが、2024年4月にカルチュア・コンビニエンス・クラブのTポイントを統合して規模が拡大した。自前の携帯電話サービスを有していないのがネックだが、対象の三井住友カードで対象コンビニ・飲食店で最大7%のポイントが付く。三井住友銀行のOliveアカウントでも、所定の条件を満たせばポイントが貯まっていく。  PayPayは言わずと知れたコード決済の最大手で、同社のコード決済やクレジットカード、傘下の金融機関(PayPay銀行、PayPay証券)の利用でポイントが貯まるのは当然のこと。ソフトバンクの連結子会社だから、同社携帯電話やYahoo!ショッピングの利用もポイント付与の対象に。また、同じく関係性の深いLINEポイントとの交換も可能だ。  なお、アマゾンではPayPayによる決済も可能で、同eコマースでもPayPayポイントを貯められる。これに対し、前述したdポイントは事前に連携手続きさえ済ませておけば、アマゾンで5千円以上買い物すると付与される仕組みに。 KDDIの異なる戦略  一方、au経済圏で貯まるPontaポイントは、三菱商事の関連会社であるロイヤリティマーケティングが発行している。同社は2019年12月にKDDIと資本業務提携。これを機に、au WALLETポイントがPontaに統合された。 「KDDIは三菱商事とローソンの共同経営に乗り出すなど、他の経済圏とは異なる戦略を採っています」(菊地さん)  大手通信の中で、傘下にコンビニを有するのはKDDIのみ。auの携帯電話ユーザーで最寄りのコンビニがローソンという人なら、Pontaポイントに的を絞るのが有利だろう。  ただ、ローソンではポイントカード(アプリ)を提示するだけで、d払いでなくてもdポイントを貯めることも可能だ。ファミリーマートでも、事前登録を行えば、ファミペイのバーコードを提示するだけでdポイント、Vポイント、楽天ポイントのいずれかを付与してもらえる。 AERA 2024年12月9日号より    セブン-イレブンは独自ポイントのセブンマイルを採用しているが、PayPayポイントやVポイントに交換することも可能。特に注目はVポイントで、所定の条件を満たせば還元率が10~20%にアップする。先述したように、Vポイントは携帯電話との連携がないのが弱みだが、菊地さんはこうアドバイスする。 「おのずとポイントが貯まりやすい構図になるので、自分が使っている携帯電話で経済圏を選ぶのが基本。還元率で攻勢をかけるVポイントは、メインの経済圏との併用が効果的」  残る楽天の説明が遅くなったが、eコマースからクレジットカード、コード決済、携帯電話に金融サービスまで一つのブランド名で統一されており、最もわかりやすい経済圏だと言えるだろう。携帯電話事業の不振でポイント付与率の改悪が批判されたが、楽天のサービスにすべてをまとめれば非常に貯めやすいことに変わりはない。  菊地さんによれば、本体のスーパーに加えてコンビニ(ミニストップ)、銀行も持つイオンのWAONも5大経済圏に迫る勢力だという。WAONPOINTをdポイントやVポイントに交換できることは、それらの経済圏住民に朗報だ。 「自分の生活圏に路線網がある鉄道会社のポイントサービスも要注目。沿線上には系列の商業施設もあるので、自然と貯めやすいでしょう」(菊地さん)   JR東日本によれば、同社のポイントサービス会員数は月々7万~10万人ペースで増加中。また、JR西日本のサービスを上手に活用すれば、新幹線に半額相当のポイントで乗車可能とか。生活防衛にとどまらず、ポイ活が励みにもなりそうだ。(金融ジャーナリスト・大西洋平) ※AERA 2024年12月9日号より抜粋 (【後編はこちら】「ポイントがポイントを生む」好循環の仕掛けとは 投資初心者こそ試したい元ゼロのポイント投資)  
堀ちえみ、がんで舌の6割以上を切除で「『イス』の2文字がうまく言えなかった」 苦悶のリハビリに涙
堀ちえみ、がんで舌の6割以上を切除で「『イス』の2文字がうまく言えなかった」 苦悶のリハビリに涙 堀ちえみさん(撮影/加藤夏子)    ステージ4の口腔がん(舌がん)から闘病生活を経て、2020年9月に芸能界に復帰した、歌手でタレントの堀ちえみさん(57)。メディア出演や講演活動、書籍を通してがんの実体験を伝えているほか、昨年は本業の歌手で芸能活動40周年記念のライブを開催。今年も10月に「CHIEMI STYLE 2024 Autumn」を渋谷で行うなど精力的に活動している。がんにより、見える景色が手術前とまったく変わったという堀ちえみさんが、壮絶な闘病生活、芸能界に復帰した理由などを語ってくれた。 * * * ――今日は講演活動の後にインタビュー取材を受けていただき、ありがとうございます  いえいえ、言葉を多く話した後の方がスムーズに話せるんですよ。私のしゃべり方で分かると思うんですけど、手術前のしゃべり方と全然違う発声法になりました。頭の中で一度使う言葉を母音と子音に分けて音を出している感覚ですね。もう慣れましたけど、最初は大変でした。 「ありがとう」も音の組み合わせで言いづらい ――発声法は具体的にどのように変化したのでしょうか  口腔がんで舌の6割以上とリンパ節を切除し、太ももの組織を移植して再建する大手術を受けました。その後に舌の先(舌尖/ぜっせん)が壊死していたので、切り取らなければいけなくなって。舌の先を動かすことで不明瞭な言葉がクリアに聞こえるのですが、私は舌尖がないのでうまく言葉を出せない。手術後のリハビリで最初は「あ」から「ん」まで一文字ずつ毎日発声練習をしました。ら行が苦手だったので、舌をタッピングするようにして、「らっらっらっ」「るっるっるっ」と繰り返して。  その後に「サル」「リス」とか2文字の単語に挑戦して。苦手な音が前に来るか、後に来るかで発声のストレスが全然違うんです。例えば、「スイカ」はスムーズに言えても、「イス」がうまく言えない。「ありがとう」も音の組み合わせで言いづらいんです。でも苦手だから遠ざけているといつまでもしゃべれない。掃除しているとき、食器を洗っているとき、とにかく発声を繰り返していました。 ――根気が必要なリハビリですね  今まで言えていた言葉が言えなくなることは、想像以上に辛かったです。単語、文章を練習した後に絵本を音読することになったんですけど、子どもに読み聞かせをしていた自分がまさか絵本を使うことになって……。想像もしていなかったので、このときは涙が止まらなくなりました。 ――口腔がんの診断を受けたのが2019年2月でした  半年前に舌の裏側に小さな口内炎ができたのですが、そのときは持病のリウマチ治療薬の副作用ではないかと診断されました。健康には人一倍気を遣ってきたつもりです。毎年人間ドック、婦人科検査、脳ドックを必ず受けていました。でも、このときはご飯が食べられないし、水も飲めない。口をすすいだだけでズキーンときて、寝ているときも痛くて目が覚める。激痛が続く中で夜中に目が覚めたとき、「舌の口内炎、治らない」というワードで検索したら、「舌がん」と出てきて。  私の舌の症状と同じ画像がたくさんあって、「リンパに転移」と書いてあるのを見つけたんです。自分の首を触ったら付け根に大きなしこりがあって、「あっ!」って。後日、大きな病院で簡易検査を受けたら悪性と出て、舌の状態がステージ3、リンパ転移が見られるのでステージ4のがんだと言われました。 「生きているのも不思議だよね」 ――告知を受けたときはどんな気持ちでしたか  驚きはなかったです。すごい痛みで微熱も続いていたので、「生きているのも不思議だよね」と冷静に受け止めている部分があって。「5年生存率」が高い選択肢で手術を受けることになりましたが、不測の事態を考えて身辺整理をしました。家の中を断捨離して、それまでは夫婦が別々にそれぞれ管理していた銀行口座を、主人に全て任せて。暗証番号やパスワードなどもすべて伝えました。 ――手術が成功した後の精神状態はいかがでしたか  病院を退院して自宅に戻ると、昼は主人が仕事に出掛けて、子どもたちも学校に行くので1人になります。そうなると、まったく違う2つの感情が芽生えるんです。1つは、目に映る風景が何を見ても美しいし、耳を澄ましたら空気の音を感じられて、「生きていることはなんて素晴らしいんだろう」と感謝の思いです。  もう1つは、それと正反対に「どうして私が病気になったんだろう」「何で生きてしまったんだろう」という感情も出てきて。負の感情に必死に蓋(ふた)をしようとしても出てしまう。家族がこの様子を見ていて、「このままではもったいない生き方をしてしまう」と芸能界復帰を目指すことを提案してくれました。発声法のリハビリは目標があったほうが進むし、やる気が起きるんじゃないかと。 ――20年1月に芸能界復帰し、昨年は芸能活動40周年のライブを行いました  ステージで歌うことに不安、怖さはありました。こういう状態で歌ったときに、ファンの方たちががく然としないかな、幻滅しないかなって。でも温かく迎えてくれて、「生きてくれてありがとう」って叫んでくれた方がいて。がんになったときは二度と歌えないとあきらめていたし、頑張ってきてよかったなと。ファンの方たちには感謝の思いしかありません。家族も会場に来てくれたのですが、長女が「お母さん歌ってよかったね!」とすごく喜んでいたのが印象的でした。 ボイトレ続けたら出なかったキーが出るように ――ご家族の支えがほんとに大きかったんですね  私ががんの宣告を受けたとき、長女は16歳でした。思春期の多感な時期に私が病気になったので、心配を掛けさせたくないと大人にならざるをえなかったと思います。私は家族にしか自分の思いをぶつける人がいないから、涙を流して悔しい思いを吐き出していたけど、長女や夫、他の子どもたちも辛かったんだなって。私だけでなく、がんになった当事者の家族は辛い思いをしていると思います。自分の経験がお役に立つなら伝え続けていきたいですね。 ――発声法を変えて音域が広がったとうかがいました  そうなんです。ボイストレーニングを続けたら、出なかったキーが出るようになって。元に戻ることはできないけど、人間ってすごいなと思いました。がんになって失ったものはありますけど、気づかされたこともたくさんあります。日本語は英語みたいに破裂音が強いわけではなく、舌と唇、頬の内側、歯茎などいろいろな部分を使ってきれいな音を出します。言葉を紡ぐことで日本語独特の奥ゆかしさが出てくる。今まで気づかなかった魅力を感じましたし、これからも言葉を大切に生きていきたいなと思います。 今年10月29、30日に渋谷であったライブで歌う堀ちえみさん(本人提供) (聞き手・平尾類)   〈後編〉堀ちえみが舌がんから復帰したことに「しぶとい」「消えろ」の誹謗中傷 「親しい人も信じられなくなっていた」に続く https://dot.asahi.com/articles/-/242003 ほり・ちえみ/1967年2月15日生まれ。大阪府出身。ホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝したのをきっかけに芸能界入り。82年3月に「潮風の少女」 で歌手デビューし、83年に初主演したドラマ「スチュワーデス物語」が大ヒットした。 女優、歌手、タレントとして幅広く活動していたが、2019年にステージ4の舌がん、リンパ節への転移が判明。手術、闘病生活を経て20年1月に芸能活動を再開した。闘病生活についてつづった著書、ブログ、講演などで自身の実体験を発信している。歌手活動を再開すると、昨年、今年とライブを開催し、今年10月には自身が作詞を手掛けた17年ぶりのニューシングル「FUWARI」を発売した。
全国で広がる「ラーケーション」、子どもにどんな価値がある? 「“ほんもの体験”は、やがて教養や学力になる」
全国で広がる「ラーケーション」、子どもにどんな価値がある? 「“ほんもの体験”は、やがて教養や学力になる」 写真はイメージ/GettyImages)  子どもが平日に学校を休んで保護者と過ごすラーケーション。「ラーニング」と「バケーション」を組み合わせた造語で、昨年度、全国に先駆けて愛知県が導入し、茨城県、山口県など、全国に導入の動きが広がってきています。旅を子どもの教育ととらえる「旅育」も注目を集めています。現代を生きる子どもたちに“ほんもの体験”が必要とされるのはなぜでしょうか。教育評論家の親野智可等さんに子ども時代の体験の意義について伺いました。 家族でラーケーションを使い「東日本大震災」を学ぶ  3歳から10歳まで、小学生2人を含む男の子4人を育てる愛知県在住の女性(40)は、今年6月、家族6人で仙台市を訪れました。ただの観光ではなく、同県が昨年度から導入した「ラーケーションの日」を利用し、子どもたちの学びを意識した旅を計画しました。  旅のテーマは「東日本大震災」。いつ訪れるかわからない大地震に備えて、子どもたちと一緒に学んでおこうと考えたからでした。会社員の夫(42)と半年前から計画を練り、子どもと図書館の本やテレビで下調べをしてから仙台市へ向かいました。  被災からの復興を願ってスタートした「東北絆まつり」は、東北6県の祭りが一堂に会する大イベント。この日に合わせて、ラーケーションは6月に取得。いつもは一家の遠出となると車ですが、平日なのであえて新幹線で現地に向かったそうです。 「平日で人出が少なくて親も心に余裕ができるので、新幹線の切符の買い方から乗り方、マナーまで、いろいろ教えてがあげることができました。新幹線の中で駅弁を食べたのもいい思い出です」と女性は言います。  現地では思いがけない交流も生まれました。 「その場で知り合った地元のおばちゃんたちの計らいで、子どもたちは特等席でお祭りを見物させてもらえました。震災のお話もしてくださり、子どもたちにとって心に刻まれる体験になったと思います」 学校生活だけでは味わえない体験ができる  この祭りのクライマックスは日曜の夜なので、長男次男は翌日の月曜にラーケーションを使って小学校を休み、ゆっくり最後まで楽しみました。帰りに立ち寄った東京では平日のキッザニアで職業体験も満喫したそうです。 「休んだ分の宿題がたっぷりあり、高学年はちょっとかわいそうでしたが、学校から休んでOKと言ってくれるので、後ろめたい気持ちがなく休むことができました」と女性は振り返ります。  学校生活だけでは味わえない子どもたちのこうした“ほんもの体験”は、情報があふれる現代を生きる子どもたちだからこそ「インパクトが大きい」と元小学校教員で教育評論家の親野智可等(おやのちから)さんは解説します。 「図鑑や動画を見て『だいたい知っている』、というのが今の子どもたちだけれども、つい知っているような気持ちになってしまっているんです。ところが現地へ行って、実際に本物を見て触って体験すると、『こんな匂いがするんだ』『なんかぬるぬるすね』『稲ってけっこう切れないんだ』と感じることができます。あるいは宇宙が好きならJAXAへ行って、本物の宇宙服を見ると、『これが本物なんだ』『思ったよりでかいな』といったように、感動を伴う体験は、子どもにとってすごく大きなインパクトになるんです。バーチャルの動画や図鑑、加工された二次情報とは、インパクトの度合いが違います。こうしたほんもの体験が私は大事だと思っています」 子どもの人生に「知識の杭」を打ち込む  親野さんはこうした体験を「知識の杭(くい)」と表現します。 「インパクトのある大感動を伴った本物を体験することで、それに対する興味関心がぐうっと高まり、確実に心に引っかかるようになる。これを私は『知識の杭』と言っています。  “人生”という流れる川に、体験によって知識の杭がばーんと打ち込まれるんです。そうすると、生活の中でそれに関する情報が流れてきたとき、引っかかるようになるんですね。時間が経てば経つほど知識は溜まっていって、やがてそれらが教養や学力になる。  ところが知識の杭がないと、情報がいろいろ流れてきても、全部流れ去ってしまうんです。そういう意味で、ラーケーションはほんもの体験を必ず伴うのですごく子どもにはインパクトがあります」(親野先生) (取材・文/大楽眞衣子) 親野智可等さん  〇親野智可等/教育評論家。教師経験をもとに、子育て、しつけ、親子関係、勉強法、家庭教育について具体的に提案。『子育て365日』『反抗期まるごと解決BOOk』など著書多数。インスタグラムやスレッズでも発信中。全国各地の小・中・高等学校、幼稚園・保育園のPA、市町村の教育講演会、先生や保育士の研修会でも大人気となっている。公式ホームページ https://www.oyaryoku.jp/

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