乱後、富子は東山山荘で遊興にふける義政に代わって実権を握る。義尚が二十五歳で亡くなると、妹が生んだ義視の子義材を将軍につけたが、義材父子は権勢を握る富子と敵対する。そのため富子は、明応二年(一四九三)、管領細川政元とはかって、義材の出征中に義政の甥義澄を十一代将軍に擁立(明応の政変)。管領が下剋上により将軍を廃したことで幕府の衰退は決定的となり戦国時代が本格的に到来する。富子の死はこの三年後である。

九条政基 自ら地方に下り荘園を経営した元関白

 前関白の九条政基が所領の日根荘(大阪府泉佐野市)に下ったのは文亀元年(一五〇一)のことである。五年前、政基は大事件を起こした。日根荘を管理している家司が年貢を横領し、詰問した政基を誹謗中傷した。政基は嫡子尚経とともに家司を殺害し、父子で出仕を停止されたのである。尚経は許されたが、政基は蟄居と称して日根荘に下る。この機会に自ら所領を管理し、守護や土豪の侵略により滞っていた年貢を確保しようと考えたのだ。

 政基の村落支配は苦労の連続であった。政基が年貢を収納させるため村人を拘禁すると、村人は逃散して対抗した。虫害や干ばつ、洪水にもみまわれた。しかし努力は実らず、同荘は在地で勢力を張る根来寺の管理下におかれ、永正元年(一五〇四)に政基は帰京する。

 政基は次男澄之を管領細川政元の養子にしていた。細川家と結合することで公武一体となった政権を構想していたともいわれる。しかし同四年、澄之は細川家の家督争いに敗れて自害。政基自身も子の尚経と対立し合戦におよぶなど、晩年まで争いは絶えなかった。

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