三条西実隆 学問の力で身を立てた戦国随一の文化人
戦国時代の公家社会では、地方に下って生計を立てる公卿がいる一方、卓越した学才と名声により京で生涯をまっとうした貴族もいた。後者の代表が三条西実隆である。閑院流の名門で、二十三歳で公卿となり内大臣にのぼった。三条西家の経済基盤は畿内周辺の荘園、魚市や渡し場からの上納金などであったが収入は途絶えがちで、仏事の費用にこと欠く時もあった。その代わり、実隆のもとには和歌や学問の教授を求める依頼が寄せられた。内容は『源氏物語』など古典の書写や講釈、和歌・連歌の添削、歌合の判定などで、依頼主は京の公家や将軍家のほか、今川・大内氏など地方の大名や武士たちであった。特に能登(石川県)の畠山義総は重要な支援者で、三条西家の屋敷の普請の援助もしている。
実隆の名声を高めたのが、連歌師の宗祇からうけた古今伝授(『古今和歌集』の解釈を伝えること)である。これを実隆が後奈良天皇に、嫡子公条が正親町天皇にさずけ、二代の天皇の歌道師範になったことで、三条西家は歌壇の最高権威としての地位を確立した。