その後も夫婦は子に恵まれず、義政は弟義視を養子に迎えたが、間もなく嫡子義尚が生まれる。これが応仁の乱勃発の一因になったとする理解が一般的である。富子が義尚の将軍就任を望み、義視を排斥するため山名宗全と結んだ。そのため、義視の後見役である管領細川勝元と宗全が対立し、大乱を招いたというのだ。富子を悪女とする理由の一つとされるが、義視の妻は富子の妹であり、両者の仲は悪くなかった。大乱勃発の要因は、畠山氏の家督争いに勝元と宗全が介入したためであり、戦乱が長期化したのはひとえに将軍義政の指導力の欠如によるものだ。むしろ勝元と宗全の死後、終戦工作を主導したのは富子であり、終結を決定づけた大内政弘の退去も富子の斡旋によるものと考えられている。

 一方、富子は大乱のさ中、軍事費に困っている両軍の大名に高利で金を貸し、米の投機で利益をえたともいわれる。乱後には、内裏修築を名目として京の七口に関所を設け、通行料を徴収した。それはすべて富子の収入となり、怒った民衆が徳政一揆を起こすと、富子は弾圧に全力をあげたという。こうしたなりふり構わぬ蓄財も、悪女のイメージ定着につながっている。ただし当時、幕府は貨幣経済の浸透をふまえて経済活動による収益拡大に力を入れており、富子の利殖も幕府財政の構造転換の一つと解釈されている。

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夫に代わって室町幕府の実権を握る