日野富子の夫・八代将軍足利義政が建てた「銀閣寺」
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 平安時代中期、摂関政治が全盛期を迎えた藤原氏。その後、武家の時代に移り変わり、南北朝時代から戦国時代を生き抜いたのか。室町幕府八代将軍の足利義政の正妻で、「悪女」とされる日野富子など三人の例から見てみよう。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。

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日野富子 応仁の大乱に終止符をうった女傑

 足利家と日野家の関係は、三代義満が日野時光の娘業子を正室に迎えたのに始まる。二人をつないだのは、二条良基とともに義満の宮廷進出を支援した業子の叔母宣子(父は資名)であった。以後、歴代の将軍が日野家から妻を迎え、幾重にも姻戚関係を結んだ。

 日野富子が八代将軍足利義政と結婚したのは康正元年(一四五五)のことであった。四年後、男子を授かるが死産になると、義政の乳母として権勢をふるう今参局の呪詛によるものとされ、今参局は自害に追い込まれた。義政の母日野重子、または富子の指示だったといわれる。今参局の政務への介入を阻止することが重子らのねらいだったのだろう。

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幕府財政の構造転換のきっかけ