そうやって毎週座っているうち、子どもがこちらに見せる表情は少しずつ柔らかくなっていく。そしておもむろに、その日あった出来事を話してきたりする。
何もしていないようでも、一緒に居る時間の積み重ねには、それなりの力がある。
もう一つ。「隣に座る」ことは、目線を子どもと同じにすることでもある。
立って見下ろす時とは違って、子どもの姿が大きく見える。すると不思議なもので、その子の存在自体が私の中で大きく感じられる。
子どもは逆に、私を普段より小さく感じるのだろう。自然と態度が大きくなり、対等な相手として接してくる。
それがいい。「支援」という言葉のもつおごりが、少しは薄められるように感じる。
子どもの目線になって、必要とされるまで隣に居ること――。教室がずっと大切にしてきた佇まいだ。
毎週毎週そうしていると、ふと子どもの背負っている重荷が垣間見えることがある。
「どうせ私アホやから、高校とか行かれへんし」と、勉強に向き合えない子。
言葉や態度はやたら乱暴なのに、勉強中に足先をすり寄せてくる子。
「お母さんと食べるねん」と、帰り道のコンビニで白ごはんと総菜を買う子。
「あーあ、私も日本人やったらよかったのに」と口にしてしまう子。
肌の色の違いを気にして、夏の日焼けを極端に嫌がる子。
教室で普段見せている無邪気な笑顔の向こうに、子どもたちが心と体に抱えているしんどさがにじむ。