宮路山城奪取の勢いで秀吉勢は加茂城へ攻めかかった。加茂城の在番は毛利氏庶家桂広繁や備後国人(世羅郡上山を本拠とする)上山元忠のほか、在地の領主生石氏が在番していたが、五月二日、生石氏が裏切って宇喜多勢を城中へ引き入れたため、端城を陥落させることには成功したが、桂・上山らの抵抗によって本丸を落とすことはできなかった(「長府桂家文書」)。

「境目七城」以外では、亀石城(岡山市北区)も降伏させた(「亀井文書」)。この城には、福武氏や長氏(太井庄衆)など在地の土豪が子女を連れて入城していたと考えられる。生石氏や福武氏・長氏など在地の土豪層にとって重要なことは地域の安全であり、秀吉は織田権力への服属が地域の安全保障になることを示して調略に成功したのであろう。

 なお、松嶋城や庭妹城といった小早川氏家臣が主として守備する城に対して、秀吉勢は攻撃をかけなかった。地理的には、沿岸部に近い庭妹城から松嶋城へと進撃するルートも可能であるが、秀吉の選択は異なっていた。攻撃を仕掛けた各城に対して調略を織り交ぜている点から推測すると、秀吉は調略成功の蓋然性が高いルートを選択したのではなかろうか。

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信長の出陣計画