信長の出陣計画

 秀吉は四月二十四日付書状(「米蟲剛石氏所蔵文書」)において、織田信長が近日中に武田氏討伐から帰還して、すぐに中国地域へ出陣すると記している。信長自身も四月二十四日付朱印状(「細川家文書」)において明智光秀の軍事指揮下にあった一色義有・長岡(細川)藤孝に対して、(1)このたびの合戦(八浜合戦)で小早川隆景が敗北して備前国児島から撤退し、備中国高山(幸山)に立て籠もったので、羽柴藤吉郎が出陣して包囲したと報告があった、(2)その後の報告が届き次第、(明智勢も)出兵すること、という指示を行っており、秀吉勢に加えて明智勢も対毛利氏戦線へ投入されることとなった。

 一方、この指示の前半部では、中国への出陣については秋頃を考えていたとある。光秀もこの年一月十三日付書状(「吉田文書」)において、来る秋のはじめに西国(毛利氏領国)へ出陣するとの信長の発言を伝えている。信長自身の出陣計画は天正九年の鳥取城攻めの際もあったが、毛利勢主力が前線に集結しなかったためにとりやめられたと考えられる。したがって、今回の信長自身の出陣計画は、(1)秀吉による調略の成功により東瀬戸内海の制海権をほぼ掌握したこと、(2)毛利方の国人層に対する織田方への寝返り工作がさらに進んでいたことに加え、毛利勢が前線に集結してきたことを踏まえての対応と考えられる。

 また、信長が秋に出陣するとしていたのは、対毛利氏戦略として、軍事制圧路線に限定しておらず、毛利氏に圧力をかけたうえで猶予期間を設けて降伏に追い込むという路線もあったことをうかがわせる。しかし、毛利氏が織田権力への服属を拒否して、主力勢を前線に集結させたために、信長も出陣を早めたものと推定される。

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