備中高松城址公園(岡山県観光連盟提供)

 戦国時代、織田信長の命により、家臣・羽柴(豊臣)秀吉は毛利輝元が統治する中国地方へ進攻した。「備中高松城の戦い」はあまりに有名だが、高松城以外の城でも激しい戦いが繰り広げられていた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下人の攻城戦を解説した、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第八章 著:光成準治)から一部を抜粋、再編集し、毛利方の防衛ラインにおける攻防について紹介する。

【図】境目七城の様子はこちら

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境目七城における攻防

 毛利方は備中・備前国境周辺に、後年「境目七城」と称された宮路山・冠山・高松・加茂(岡山市北区)、日幡・松嶋(岡山県倉敷市)、庭妹(岡山市北区)という七つの城郭で防衛ラインを構築して、織田方の進攻を食い止めようとした。これに対して、秀吉勢は四月十三日、足守川を越えて毛利氏領へ進攻した。その最前線には岩山城があり、毛利氏に従属する国人湯浅将宗が在番していたが、秀吉勢は岩山城を通過して北上し、四月十六日より以前に宮路山城.・冠山城に攻めかかった。

 岩山城は「境目七城」に含まれておらず、現在地も確定できないが、秀吉勢が通過した理由について考えてみたい。湯浅氏は備後国伊尾(広島県世羅町)を本拠としていたが、この当時の備後国中央地域においては毛利元就の娘を妻に迎えていた上原元将(本拠は甲山〈世羅町〉)が盟主的地位にあり、湯浅氏も上原氏の影響下にあった。

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羽柴秀吉の調略の効果