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大学受験に2度失敗、4年間引きこもった24歳男性 過去は「しょうがない」と腹をくくるまで
大学受験に2度失敗、4年間引きこもった24歳男性 過去は「しょうがない」と腹をくくるまで
写真はイメージです(Getty Images)  令和2年に実施された文部科学省の調査によると、不登校の高校生の割合は1.7%。高校生の約60人に1人が不登校ということになる。しかしこの数字には、年間欠席が29日以下の生徒や、高校を中退した生徒、発達障がいの生徒は含まれておらず、実際の不登校の生徒の数はデータより多いと思われる。さらに内閣府の調査によると、引きこもりになったきっかけを当事者にたずねたところ、18.4%が不登校と回答していた。不登校から引きこもりを経験した男性に、再び前に歩み始めるようになったきっかけを聞いてみた。 ■進学校に合格も朝なかなか起きられない  YouTubeの画面に映っているのは、夕暮れのサッカー場。20代の若者たちが、楽しそうに元気な声をあげながら、夢中でサッカーに興じている。その動画を見ながら、涙を抑えることができないひとりの母親がいた。 「こんな息子の姿を見るのは何年ぶりでしょうか……。私の中でも、忘れていた感情があふれ出しました」  倉島健斗さん(仮名、24歳)。高校1年のときに不登校になり、通信制の高校に転校。予備校に入っては通えなくなるということを繰り返したのち、4年間引きこもった経験がある。  中学生のときまで健斗さんは、学校でも3番以内に入るほど成績優秀だった。少し人見知りな面はあったが、友だちにも恵まれ、問題のない生活を送っていた。高校は、地元でいちばんの進学校に合格。しかし進学してみて、授業が思ったより難しく、周りのレベルが高いことに気がついた。頑張っても、成績は中の下。だんだんと、健斗さんの様子に変化が現れた。  帰宅するとベッドに突っ伏して動かない。「塾に行きたくない」と言い出す。「具合が悪い」と学校を休むことも増えてきた。 「毎日夜になると、『寝たらまた朝が来ちゃうな~』と憂うつになっていました。朝は、なかなか起きられなくて……」(健斗さん)。  心配した友だちが何度も来てくれたが、会うのを拒否した。 「こんな自分を見てほしくない。心配されるのも嫌でした」  両親の勧めで、心療内科をいくつも受診した。薬を処方されたが、効果はなかった。 ■地元の友だちに会いたくないと他県の高校へ  そのころの生活は、昼ごろに起きてきて、母親が置いていった弁当を食べ、ケータイゲームをやったり、動画を見たりして過ごした。健斗さんの両親は共働き。両親と一緒に夕食をとることはなく、夜遅くひとりで食べる。心配して色々と言う母親に対して、「今は放っておいて!」と、部屋に閉じこもった。  唯一の外出は、ゲームの課金のためにコンビニに行くこと。それも、友だちに会うのが怖いので、真夜中と決めていた。 「とにかく友だちに会いたくなかった。自分のことを思い出さないでほしいと思ってた」  2年になり、他県の通信制の高校に転校することにした。地元の学校にしなかったのは、友だちに会いたくないからだ。しかしそこもすぐに不登校になった。単位を取るために、最低限の課題をこなすのが精いっぱいで、家に引きこもった。  現実的なことは極力考えないようにしていたが、高校卒業の時期がくると、「このままじゃだめかもな」と思うようになった。 「大学に入って巻き返すしかないか」  地元の予備校は友だちに会う恐れがあるため、遠くの県の予備校に通うことにした。  最初のうちは授業に出ていたが、やがて休みがちになった。9月になると、全く行けなくなってしまった。やがて受験の時期になり、センター試験に申し込んだが、当日、試験会場に行くことができなかった。 「ごめん、行けない」  電話口の母が落胆するのが分かった。 ■生まれた土地を離れて気がラクになったが 「これだけお金を出してもらったのに、情けない。親に迷惑をかけてしまっている」  自責の念が募った。やりたいことも、目標も何もない。しかし、自分がこの先やっていくためには「大学しかない」と思っていた。  実家に戻り、隣の市の予備校に通うことにした。通学に片道2時間。朝6時半のバスに乗って、帰宅するのは8時で、なんとか半年は通ったが、疲れてしまい、朝起きられなくなった。間に合わないから休みがちになり、やがて再び不登校に。一応はセンター試験に申し込み、なんとか1日目は試験会場に行ったが翌日は無理だった。  またもや、受験に失敗してしまった健斗さん。 「お母さんに申し訳ない」 何をする気力もなく、再び部屋に引きこもった。 そんなときに、父親が転勤で他県に引っ越すことになった。 「ついてくるか?」と聞いてきた。 「行きたい」と健斗さんは答えた。心機一転、この生活を変えたかった。母親も、仕事を辞めて一緒に行くことを決意し、親子3人、新しい場所で生活を始めることにした。  生まれ育った土地を離れたことで、健斗さんは気持ちがラクになったという。しかし、これから何をすればいいのか、全く何も浮かばなかった。2度の失敗で、もう大学に行く気はなくなっていた。アルバイトでもしようかと思うが、人が怖い。ひとりでは地下鉄にも乗れない……。  2カ月ほどたったころ両親に勧められたのが、若者の就職を支援する「八おき塾」だ。  面接した代表の人に「やろうと思ったときやらないと、状況は変わらないよ」と言われた言葉が胸に刺さった。今度こそ変わらなくてはと思い知らされた。 ■バーベキュー大会の幹事で「社会の中で生きる」実感  健斗さんは週2回「八おき塾」に通い、コーチングを受けて自分の現状を整理し、どうなりたいか、そのために何が必要か考える作業をした。  当番制で昼食係もやることになった。 「できないと思っていましたが、教えてもらったらできた。少しだけ自信がつきました」  塾に通うようになり1カ月がたったころ、コーチから思いがけない提案があった。 「今度のバーベキュー大会で、幹事をやってみないか?」  即答で断った。 「なんで自分なんですか? 自分より長い人はほかにもいるのに」  と尋ねると、つよく説得された。 「社会に出たらこういうことをする日がくるんだし、今のうちに経験しておかないと」  決まっているのは日時と場所だけ。それ以外のことはすべて健斗さんが決めて、準備しなくてはいけない。在校生だけでなく卒業生にも案内を送り、参加者を把握して、当日までの段取りをつくる。係を割り振り、購入するものをリストアップし、道具を手配する。交通手段なども調べて、参加者に待ち合わせ場所や持参するものなどを連絡する……。人に相談しないとできないし、お店とのやりとりも避けられない。腹をくくって頑張った。  コーチの須貝さんはこう振り返る。 「健斗には自信をつけることが必要だと思っていたので、幹事を任せました。でも最初は、みんなへの案内を自分の名前で発信することをすごくプレッシャーに感じていたようで、つまらないことばかり心配していましたね」  たとえば、「バーベキューでは自己紹介はしなくていいので、安心してください」という一文を案内に入れたいと言い張った。「そんなのいらないよ」といくらコーチが言っても、なかなかきかなかったという。  イベントは大成功だった。準備や気苦労でへとへとになったけれど、参加者からは、「幹事の人がすごく頑張ってくれた」「ありがとう」と声をかけられて、今まで感じたことがなかったような嬉しさがこみあげてきた。 「自分は今、社会の中で生きている」  久しぶりに、そんな実感をもつことができた。 ■自分が選んだからこうなるしかなかった  現在、健斗さんは再び予備校に通い、大学受験のための勉強をやり直している。過去に2回の挫折を経験したけれど、今度こそ続けられる自信がある。 「以前は集団で授業を受けるスタイルの予備校だったので、隣に人が座っているだけでも怖くて、疲れてしまっていた。今回は個別指導のところなので、周りが気になりません。授業が終わっても、自分で予習や復習をする余裕があるのは初めてです」(健斗さん)。  実は、3カ月前に父親が再び転勤になり、実家に戻ることになった。「一緒に帰るか、ひとりで残るか」と聞かれて、健斗さんは迷わず残る道を選んだ。  健斗さんには少しずつ変化が見え始めている。コーチの須貝さんには、健斗さんの成長ぶりがはっきりわかるという。 「最初のころは人と目線を合わせることもできなかったけれど、今はちゃんと目を合わせて会話ができている。何より、明らかに生き生きとしてきました」  それを確信したのは、卒業生のIさんがサッカーに誘ったときだ。 「誰か一緒にサッカーしない?」 「やりたいです」  手を挙げた健斗さんに、須貝さんは驚いた。 「過去を消すことはできないし、やってしまったことをなかったことにはできない。傷を抱えながら動き出すしかないんです。動いていくうちに、気がついたら傷がかさぶたになっていて、今の自分を受け入れることができている、というのが理想です」(須貝さん)  健斗さんに聞いてみた。 「今更だけど、どうして引きこもりになってしまったと思う?」  健斗さんは言った。 「僕があの進学校を選んだから、こうなるしかなかった。しょうがないことだったと思います」  答えを聞いて、爽やかな印象が残った。もしかしたら、健斗さんの傷はかさぶたになりつつあるのかもしれない。 「自分の変化を、見てもらいたい。それが今まで迷惑をかけた両親への恩返しだと思っています」 (取材・文/臼井美伸) 臼井美伸(うすい・みのぶ)/長崎県佐世保市出身。出版社にて生活情報誌の編集を経験したのち、独立。実用書の編集や執筆を手掛けるかたわら、ライフワークとして、家族関係や女性の生き方についての取材を続けている。佐賀県鳥栖市在住。http://40s-style-magazine.com『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社)https://www.amazon.co.jp/dp/4594085687/
大学受験引きこもり
dot. 2023/02/22 17:00
「夫は子育ての戦友」東工大教授の女性細胞生物学者60歳が開けた風穴 妻のほうが教授の夫婦帯同雇用
高橋真理子 高橋真理子
「夫は子育ての戦友」東工大教授の女性細胞生物学者60歳が開けた風穴 妻のほうが教授の夫婦帯同雇用
ラボに立つ粂昭苑さん  山中伸弥教授(京都大学)が開発したiPS細胞を使って糖尿病患者を救う治療法をつくりだそうとしているのが、東京工業大学大学院生命理工学院教授の粂昭苑さんだ。患者に必要なのはインスリン、それを分泌する膵臓の細胞を実験室で効率よくつくるにはどうすればいいか。昭苑さんは、その研究を長年続けてきた。夫の和彦さんは名古屋市立大学大学院薬学研究科教授。実は、2002年に前職の熊本大学発生医学研究センターの教授に就任したとき、和彦さんは同センターの助教授(現在は准教授と呼ぶ)に採用された。同じ研究室で妻が教授で夫が助教授というケースは、日本初ではなかっただろうか。  新しい時代を切り開いたこの「就職」は、どのようにして実現したのだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) * * *――米国の研究大学では、夫婦ともが研究者の場合に二人とも雇用することは珍しくないそうですが、日本では配偶者のことなどお構いなし、というより一緒に雇用するなどとんでもないという考え方が長らく支配的でした。結果として、大学に雇用されるのは夫で、同じところで妻が研究をしたければ今でいう非正規雇用のような立場となるケースが多かった。そんな状況に風穴をあけるべく、九州大学が配偶者帯同雇用制度を導入して話題になったのが2017年です。ところが、その15年も前に熊本大学は夫婦帯同雇用をしたのですね。しかも、妻のほうが教授というのが、実に画期的でした。  それは、たまたまそうなったんです。  熊本大学発生医学研究センターが募集していたのは、発生医学を研究する教授で、もっと具体的に言うとヒト胚性幹(ES)細胞の実験ができる教授でした。このとき、私は一家で米国に留学中で、主人と私は専門も違うのでそれぞれ別の大学で研究生活を送っていました。  ヒトES細胞は、私が米国に留学したころから使えるようになり、私はまさにこれを使って膵臓の細胞をつくる研究をしていました。それで応募したら、当時のセンター長の須田年生先生(のちに慶応大学教授、現・熊本大学国際先端医学研究機構機構長)が「ご主人も来るなら准教授のポストをあける」とおっしゃってくださった。 夫の両親とボストンの自宅前にて。長男10歳、次男4歳10カ月=2000年8月(粂昭苑さん提供)  もともと主人は「女性のほうが就職は難しいだろうから、先に就職先を探していいよ」と言っていたんです。別に私はどちらが先でも良かったんですが、たまたま熊大の話が入ってきて、当時はヒトES細胞を使っている人がまだ少なかったこともあって、トントン拍子に話が進んだ。最初は助教ポストはあるということだったんですが、向こうの先生が「ご主人も来てくれるなら助教じゃいけないよね」と言い出して、准教授ポストをつけてくださった。 ――すでにお子さんがいらしたんですよね。  はい、2人いました。子育てでは主人は「戦友」だったんです。当時はまだ子どもたちも小さくて、お互いに一緒にいたほうがいいと思っていたんです。でも、なかなか両方一緒にポストをとれるということはないので、熊大の提案を伝えたら「行くよ。僕はそのうち何とかなるよ」って。熊本は子育てするにもいい場所だろうとも話しました。 ――夫婦で教授と准教授って、どんな感じだったんですか?  私は、それまでずっと研究員だったんですよ。それでいきなり教授になった。主人のほうは、アメリカに留学する前は東京大学医学部の助手をしていたので、そのとき実務的なことをずいぶんやっていた。それで、いてくれてすごく助かった。いろんなことを相談しました。 ――大学のお部屋は別々?  いや、お部屋はそんなになかったので、一つの部屋でした(笑)。研究は、それぞれ別のグループを作って進めました。  主人は米国に留学してすぐに運よくいい論文が出せて、その後ハーバード大学のラボからタフツ大学に移って、そこで睡眠の研究を始めました。熊本に帰ってまもなく『時間の分子生物学 時計と睡眠の遺伝子』(講談社現代新書)という本を書き、講談社出版文化賞をいただきました。分子生物学的に体内時計の研究をしながら、医者として睡眠医学を専門にし、熊本に11年いて、今は名古屋市立大学大学院薬学研究科の教授をしています。 ――それにしても、「お先にどうぞ」と言ってくれる男性は日本でめったにいないと思います。  何か、性格的にそういうことをしちゃう人なんです。自分よりも先に相手のことを考える。私に対して特別にというわけではなく、多くの人に対してそうなんだと思います。そういえば、フェミニズムの勉強を大学生のときにしていましたね。それで「家庭内アファーマティブアクション」なんて言っていた。  出会ったのは東大に入学したときで、同じクラスでした。しかもESS(英会話クラブ)と自然科学研究部というサークルでも一緒。日米学生会議というのがあって、日米の学生が40人くらいずつ集まって交流するんですが、大学2年の夏休みにはこれに一緒に参加してアメリカに行きました。 ――どのくらいの期間ですか?  結構長かったですよ。国連に行ったり、大学の寮に泊まったり、ホームステイしたり。全部で1カ月ぐらいでした。 ――それで仲良くなった?  その前からですね。1年生になってすぐから、クラスメートの中で一番気が合う人でした。何でもすごく真摯にやる人で、そこに惹かれたというところですかね。 ――3年生で薬学部に進学されました。  将来のつぶしもきくし、いいかなと思って。行ってみたら、ちょうど分子生物学が栄え始めた時期で、とても魅力を感じました。赤芽球という細胞に薬剤を加えると赤血球に変わっていく(分化する)んですけど、そういう実験を学部と修士のときにしました。  ただ、修士のときに入った研究室はけっこう厳しくて、自分が研究者としてやっていけるか不安になり、就職しました。当時の大学には女性のロールモデルもいませんでしたし。主人は医学部で6年間ですから、同じ時期に卒業することになって、結婚しました。  就職した帝人では、生物医学研究所の研究員として2年働きました。創薬の現場でしたけれど、そのうち大学の基礎研究がすごくなつかしく思えて。やっぱり私は実用化を目指す研究よりサイエンスをやりたいと思うようになった。すると、研修医をしていた主人が大阪大学の分子遺伝学の博士課程に行きたいと言い出し、私は自分の進学先を一生懸命探して、二人して大阪大学の博士課程に入りました。  私が入ったのは、脳神経科学者として著名な御子柴克彦先生の研究室です。生物学の基礎といえば発生だ、と思って先生に相談したら、アフリカツメガエルの卵を使って実験するのがいいと。それでカエルにホルモン剤を打って卵を産ませて、卵からどのように発生が進むのかの研究に取り組みました。  ところが、まもなく御子柴先生は東京に移るという話が聞こえてきて、私は大ショックでした。それでも博士号をとるまでは阪大に残ることにして、ドクター2年の8月に長男が生まれました。1992年に御子柴先生は東京大学医科学研究所の教授になったので、私は阪大に所属したまま研究の場を東大医科研に移しました。  東京の自宅での昭苑さんのお誕生日祝い。長男5歳、次男9か月=1996年7月(粂昭苑さん提供)   ちょうど同じ時期に、主人の東大医学部の恩師の清水孝雄先生が生化学の准教授から教授になられて主人を助手として呼んでくださった。偶然でしたが、おかげでめでたく二人で東京に移りました。  その年の12月に私は博士号を取得し、いわゆるポスドクとして研究を続けました。3年後の10月に2人目を産みました。この年に御子柴先生が科学技術振興事業団創造科学技術推進事業(ERATO)プロジェクトの研究代表に就任され、私は産休明けの翌年2月からERATOの研究員になりました。任期付きですが、お給料をいただける職に就いたわけです。 ――子育てはどのように?  阪大のときは研究室の隣のマンションに住んで、二人で交代交代で何とかやっていた。育児は毎日が戦争みたいなんですけど、まさに主人は「戦友」です。子どもは大学の保育所に預けましたが、しょっちゅう風邪を引いて、1カ月も風邪が抜けない時もあった。昼は私が仕事をして主人が子どもを見て、夜は交代するとか。主人の母に来てもらったこともありますが、基本は二人でやりました。  アフリカツメガエルに卵を産ませるときはどうしても夜中まで仕事になるんです。そういうときはベビーシッターも利用しました。保育園のお迎えからごはんを食べさせて寝かしつけるところまでやってもらうというサービスがあって、とても助かりました。 ――そんなに大変だったのに、2人目を産む決断をよくされましたね。  私には姉と弟がいますので、子どもにもきょうだいがいたほうがいいと思ったんです。年があまり離れないほうがいいとも思っていました。5歳違いになりましたが、同じ小学校に通えて良かったと思います。  ただ、2人目が生まれてからの子育ては本当に大変でした。主人は仕事のほうも大変で、疲れてしまったんでしょう。そのうち「もう仕事をやめたい」「もう研究者もいい」なんて言い出して。主人はとにかく人のために働いちゃう人で、助手の仕事を一生懸命やりすぎたんだと思います。それで、私から留学を提案しました。二人で行けば育児も何とかなるだろうと思いました。 ――留学先はどのようにして見つけたのですか?  私はハーバード大学の発生生物学で有名なメルトン教授の研究室に入れてもらったのですが、ラボに入るテクニックは御子柴先生に教えてもらいました。有名教授には希望者が殺到するので、メールを出してもダメなんです。 ラボに立つ粂昭苑さん   会ったことがなければ受け入れてもらえない。それで広島の発生生物学会に招待講演でいらしたときにつかまえてお話しし、さらに米国・コールドスプリングハーバーでの学会で講演されるということを探し出して、その学会に参加して質問に行きました。質問に行くのはすごく大事です。手紙も出しました。それでようやく、奨学金を自分でとってくるなら受け入れるというお返事をいただけて、留学が実現できました。  この先生のお子さんが糖尿病で、それで先生はカエルの研究をやめてヒトの研究を始めた。それは私が行く前のことなんですが、それで私もヒトES細胞を使ってインスリン産生細胞をつくる研究を始めました。 ――ちょっと時間を戻しますが、お生まれは台湾なんですね?  はい、台北市生まれです。姉と弟とは1歳半ずつ違います。父は、台湾の奇美実業という会社の創立メンバーの一人で、私が小学6年生のときには家族はシンガポールに住み、父はインドネシアやマレーシアと行ったり来たりして仕事をしていました。中1のときに台北市に戻り、中2のときに一家で東京に来ました。姉は中3でインターナショナルスクールに入りましたが、ここは学費が高いので私と弟は公立中学に入れられました。日本語には漢字があるので、シンガポールで英語を勉強したときよりは気が楽でしたよ。  高校は都立戸山です。高3のときに両親が台湾に帰りました。そのとき、私と弟は父から「君たちはアメリカに移りなさい」と言われたんですよ。姉はインターナショナルスクールから米国の大学に進んだので、父としては私と弟もアメリカで教育を受けたらいいと考えたのでしょう。私たちもそのつもりで高3の夏休みに準備万端整えたのですが、最後の最後になってビザが下りなかった。理由はよくわかりません。台湾籍だったからかもしれません。仕方がないので退学手続きをした高校に戻り、先生に「戻ってくるなら東大を受けなさい」と言われて受けました。 成人式で熊本に帰省した長男とともに。次男は中学3年生=2011年1月10日(粂昭苑さん提供) ――それで現役合格とは!  予備校に通って、直前講習も受けましたよ。試験当日、数学と物理で塾でやったことのあるような問題が出て、そんなんで受かりました。 ――ずっと一緒に暮らしてきた和彦さんが「独立」されたのは2013年ですね。  上の子は大学に受かって東京に行き、下の子はまだ熊本にいるときでした。名古屋は主人の生まれ故郷なので、良かったと思います。私はどうしようかなと思い、弟が東京で仕事をしていることもあり、東京がいいと思っていろいろ応募書類を出しました。それで東工大に採用されて、2014年12月に着任しました。  子どももいて、子育ても楽しみながら、サイエンスも諦めずにやれたのは、良かったと思います。私は就職に苦労しなかったように見えますが、サイエンスをいかに追究するか、その過程でいろいろ苦労はありました。そういうとき、パートナーがすごくサポートしてくれたし、いつも背中を押してくれた。私たちの境遇は二人三脚みたいでした。  自分のことを振り返れば、子どもが生まれたことで、あまり迷いもなく研究員として長く続けられた。御子柴研には博士課程時代も含めて10年いました。さらにボストンのハーバード大学で3年間。普通だったら、任期付きではない安定した職に早く就きたいと思うのでしょうが、私はそうした焦りをほとんど感じることなく実績を積むことができた。それが結果的に良かった。  研究内容はボストンからずっと変わっていません。幹細胞から膵臓の細胞への分化がどうすれば効率よくできるか、培地の成分をどのようにすればいいのか、といったことを探っています。熊大から東工大に移ってくるときに見つけたことが2つありますし、企業との共同研究もしています。培地の特許もとりました。  ただ、糖尿病の患者さんに役立つようにするにはまだまだ課題があります。効率をもっと上げないといけないし、安全性を確かめていく必要もある。iPS細胞から目的の細胞ができるまで1カ月以上かかるので、その間の品質管理も難題の一つです。つくった細胞をどういう形で体内に入れるのがいいのかも、まだ研究途上。一歩一歩、着実に研究を進めていきたいと思っています。 粂昭苑(くめ・しょうえん)/1962年、台湾・台北市生まれ。東京大学大学院薬学系研究科修士修了、帝人で働いたのち、大阪大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士(大阪大学)。日本学術振興会特別研究員、科学技術振興事業団創造科学技術推進事業(ERATO)「御子柴細胞制御プロジェクト」研究員を経て米国ハーバード大学に留学、2002年に熊本大学発生医学研究センター教授、2014年12月から東京工業大学教授。
女性科学者東工大高橋真理子
dot. 2023/02/21 17:00
消えゆく「昭和のストリップ劇場」 女性写真家・松田優が写す「裸」の先にある人生の舞台裏
米倉昭仁 米倉昭仁
消えゆく「昭和のストリップ劇場」 女性写真家・松田優が写す「裸」の先にある人生の舞台裏
撮影:松田優 *   *   * 2月21日からキヤノンギャラリー銀座で写真展「その夜の踊り子」が開催される。作者の松田優さんが追ったのは昭和の雰囲気が残るストリップ劇場の踊り子たち。 「自分の写真が作品として世に出るのは初めてで、どんな反応が来るのか、まったくわからない。踊り子さんのファンは喜んでくれると思うんですけれど、それ以外の人が見たら、いろいろ言われるかもしれないな、と思って、ちょっとドキドキしています」  かつて、全国には300軒ものストリップ劇場があった。しかし、時代の変化や警察の摘発によって激減し、今では十数軒が残るのみとなった。  作品の舞台は昨年5月に閉館した「広島第一劇場」。中国地方最後のストリップ劇場だった。 「全国のストリップ劇場を見てまわるなかで、雰囲気が一番好きな劇場でした。ところが、2020年夏ごろ、従業員と雑談していたときに『もう閉めるんだよ』と聞かされた。劇場内は基本的に撮影禁止なので、誰かが撮らないと残らないな、と思った」 撮影:松田優 ■見に行ったらハマった  松田さんがストリップ劇場に興味を持ったの大学時代。映画づくりを学んでいた日本大学芸術学部の卒業制作で同級生がストリップ劇場の踊り子のドキュメンタリー映画を撮影した。 「それがすごくいい作品だったんです」  ただ、松田さんがストリップ劇場に足を運ぶようになるのはしばらく後のことだ。 「女性1人で見に行こう、って、なかなか勇気が出ないじゃないですか」  卒業後は共同通信社に入社。5年前、大阪支社の写真映像部に異動になった。 「20年春、コロナ禍で結構時間が空いたとき、そういえば、あの卒業制作の作品よかったな、と思って、ストリップ劇場を調べてみたら、天満(てんま)にあった。で、見に行ったら、すごくハマったんです」  松田さんは昭和の香りが染みついた劇場で踊る踊り子たちの姿に強く引かれた。 「ミュージカルを見るのとはどこか違う、少し寂しさを感じさせる空間だった。そこで裸で踊っている姿を見ると、彼女たちの人生が思い浮かんだ。気にならないような古きずを見つけると、小さなころ、どこかでけがしたのかな、とか。どういう場所に住んで、どんな暮らしをしてきたのか。同い年の踊り子さんを見ると、同じ時間を生きてきたんだろうな、とか。自分の人生を振り返るきっかけじゃないですけれど」  それ以来、大阪以外の劇場にも訪れた。  今もストリップ劇場が多く残るのは東京周辺である。渋谷、新宿、上野、池袋、浅草、川崎、横浜など。関西は大阪と京都。九州は小倉。芦原温泉(福井県あわら市)や道後温泉(松山市)など、有名な温泉街にもある。 「ストリップ劇場にハマってから、全国をまわるスピードが自分でもびっくりするくらいすごくて」 撮影:松田優 ■ファンではなく取材者として  さらに松田さんは「消えゆく大衆文化として記事にしたい」と、会社に企画を出し、取材を始めた。  最初に松山で撮影した踊り子は、松田さんがストリップ劇場に通うきっかけとなった日大時代のドキュメンタリー映画に映っていた女性だった。 「彼女のブログにメールアドレスがあったので、直接メールして、撮影の承諾を得ました。劇場に電話して『本人からOKをいただきました』と言ったら、『それなら、どうぞ』という感じでしたね」  広島第一劇場では主に3人の踊り子を中心に撮影した。 「最初の踊り子さんは劇場の社長に紹介してもらいました。その次からは、撮らせてもらった踊り子さんに紹介してもらった。私には好きな踊り子さんがいるんですけれど、自分からは、この人を撮らせてください、と言わないようにしています」  ファンの目線で踊り子を撮影するのではなく、松田さんはあくまでも取材者として相手と適度な距離を保つことを心掛ける。  松田さんの話を聞いて意外だったのは、踊り子たちがステージの上だけでなく、舞台裏での撮影もすんなりと受け入れてくれたことだ。 「出番の直前からではなくて、朝の準備段階から撮らせてもらえませんか、とお願いしたら、『じゃあ、何時に来ますか』という感じで、基本的に何でも撮らせてくれました。もう、がっつり楽屋に入れさせてもらって、シャワーを浴びているところも撮影した。すっぴんの状態から、化粧して、衣装を着て、舞台に下りるところまで。みんなすごく落ち着かれていました」 撮影:松田優 ■楽屋で寝泊まり  劇場の楽屋は彼女たちにとって、生活の場でもある。 「広島第一劇場では楽屋で寝泊まりしている方もいました。もちろん部屋には布団があるし、ご飯もそこで食べる。だから、楽屋は面白いんですよ。ただ、私がずっと楽屋にいるとしんどいでしょうから、また来ます、と言って、出たり入ったりしていました」  温泉街のストリップ劇場は夕方からオープンするが、通常は昼すぎから営業が始まる。 「広島の場合、『4人香盤(こうばん)』と言って、踊り子さんが4人出演する。一人の持ち時間が約30分なので、ひとまわりすると2時間くらい。最終公演が終わるのは夜10~11時ごろ。なので、朝から撮影して、彼女たちの仕事が終わった後、いっしょにご飯を食べに行って、話を聞いたりしていました」  踊り子たちは10日間をひと区切りに各地の劇場をまわる。出演が続けば休日はない。 「例えば、10日が楽日で、11日は初日。なので、10日まで小倉で、翌日から渋谷、という子もいる。夜通し準備をして、始発の新幹線で東京に移動するとか。忙しい人だと70日連続で踊ったりします」  踊り子の年齢は20代から50代までと幅広い。 「第一線で活躍しているのはなんとなくですが、同世代の子たちだと思います。でも、みなさん年齢不詳で、確かなことはわかりません」 ■情念を感じる「キスの壁」 撮影:松田優  広島の劇場にはかつて引退する踊り子が唇を壁につけ、劇場に別れを告げたのが始まりとされる「キスの壁」があった。 「舞台に出る直前にみんなこの壁の前を歩いていくんですけれど、例えば引退するときとか、もう広島に来ないときとか、この壁にチュッとして舞台に向かうそうで。これ、全部、唇の跡なんです」  そう言って見せてくれた写真には薄汚れた壁が写り、そこにたくさんの口紅の唇の跡がついている。ひときわ鮮やかなものは閉館した日のものだ。 「この壁がすごく好きで、写真展には何枚か展示します」  深紅の口紅も目を引くが、茶色く変色した古い唇の跡も女の情念がこもっているようで迫力がある。  展示作品は楽屋など、舞台裏を撮影したものが大きくプリントされ、ステージを写したものはメインではない。 「すごく雑な言い方ですけれど、ステージの写真って、誰が撮っても同じじゃないですか。踊っている人が奇麗だし、照明も奇麗だし。誰でも奇麗に撮れる。でも、その裏側を撮っている人はあまりいない。やっぱり、人間性がこぼれる表情が写せるのは舞台裏かな、と思います」  最近、松田さんは会社の仕事から離れてストリップ劇場を写している。撮る対象も変化した。 「以前は暗黙のルールとして、お客さんの顔は撮らないようにしていたのですが、お願いしてみると、意外と撮らせてくれる人がいました。なので、これからはお客さんも含めて、ストリップという文化を撮っていこうと思います」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】松田優写真展「その夜の踊り子」キヤノンギャラリー銀座 2月21日~3月4日キヤノンギャラリー大阪 10月3日~10月14日
その夜の踊り子アサヒカメラキヤノンギャラリー写真家写真展松田優
dot. 2023/02/20 17:00
片づけたら、毎日感じていたイライラが激減した
西崎彩智 西崎彩智
片づけたら、毎日感じていたイライラが激減した
詰め込みすぎて奥のモノが取れずカビも発生していたクローゼット/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.40  片づけの基礎を身につけて家事もスムーズに 夫+子ども3人/専業主婦 「もともと片づけは好きでした。実家には収納に関する本がたくさんあって、いつも読んでいたんです。でも、引っ越しをくり返しているうちにだんだんとできなくなってしまって」  片づけられなくなったきっかけを話してくれたのは、小学生の2人の娘と年中の息子がいる智子さん。転勤族の夫について海外に8年間住んでいたこともあります。記憶をたどると、海外生活という環境が智子さんの片づけに大きく影響していたようです。 「メイド文化のある国で、週3回ほど掃除や洗濯に来てもらっていました。散らかっているモノをまとめてくれたり、床掃除のときに床置きのモノをきれいにしてくれたり、生活するのに困らないようにしてくれました」  しかし、子どもが増えるにつれてモノの量も増えます。3人目の子が生まれる直前に引っ越したときに自分で片づけようと思ったら、収納しきれずにパニックになってしまいました。  日本の家の中はコンパクトながら機能的にデザインされていますが、海外の家となると事情が違います。ほしい場所に収納スペースがなかったり、逆に大きすぎて使いにくかったり。 「私の知っている収納術が役に立ちませんでした。便利なグッズが売っている100円ショップもない。がんばって収納方法を考えても実現する手段がないということが重なり、どうすればいいのかわからなくなってしまった」 洋服の量を半分にまで減らして使いやすくスッキリ/アフター  2年前に日本に帰ってきてからも、片づけられませんでした。3人の子育てをしながら、収納を一から考えるのはとても大変なこと。家の中に床置きのモノが増え、雑然としている様子を見ては、いつもイライラしていました。  夫は家が散らかっていても文句は言わなかったけれど、「部屋をきれいにしたい」という思いは夫婦共通でした。  そんなときに「家庭力アッププロジェクト®」の存在を知り、家と自分が変わるきっかけになればと参加を決意します。 「自分がすごくモノをため込むタイプだというのがわかりました。『いつか使えるかも』と思うと、手放しづらい。海外に住んでいたときにゴミ問題の意識が高まったこともあり、ゴミとして捨てることも好きではなくて」  智子さんのクローゼットには、仕事をしていた頃に着ていたスーツや母親からもらった洋服などがギュウギュウに押し込まれていました。でも、今の生活に合っていないので出番はありません。捨てる代わりに、古布としてリサイクルに出したり、お店に売ったりして手放すことにしました。  今まで智子さんは“収納”が上手でした。でも、片づけはそれだけではありません。ほかにも、必要以上のモノを持たないこと、モノの定位置を決めること、出したら戻すこと。これらの組み合わせによって片づけが成立します。智子さんは引っ越しなどでこのバランスが崩れてしまい、片づけられなくなってしまったのでしょう。  夫と子どもたちも片づけには協力的でした。自分たちの動線を確認して、モノの定位置を決めるために話し合いを重ねたことも。 「夫からは『もっと手伝いたいけれど、どこに何があるかわからない』と言われ、ハッとしました。今までは私の独りよがりで片づけていたんだな、と反省しましたね」  プロジェクトが終了した今は、家族でモノの定位置を共有できているので、「片づけてね」と子どもたちに声をかけるとすぐに戻せるように。子どもの友だちが頻繁に遊びにくるようになって、そのたびに子どもたちは自ら片づけています。“どこに何をしまう”ということを伝える手間がないので、ストレスも軽減。 カウンター下の使いやすい場所はいろいろとモノを置いてしまいがち/ビフォー  さらに「リビングを片づけるのに10分」など、かかる時間の目安がわかるようになると、散らかっていても気持ちに余裕が持てるようになりました。これはほかの家事にも通じることでした。 「例えば、アイロンがけは週末の夜にイライラしながらやっていたんですけど、今なら30分でできるとわかっています。だから、30分だけ時間が空けばいつでもできるし、逆に30分ないならできないとあきらめられる。これがこんなにストレスフリーなことだとは思いませんでした」  家が片づき、家事もスムーズにできるようになった智子さんは、自分の将来について考えられるようになりました。ずっと「働きたい」という気持ちを持っていたものの、家が散らかったままではうまくいかないことが目に見えていたからです。 「夫の転勤先によっては、単身赴任も視野に入れています。でも、夫が家にいなくて私も仕事、さらに家がぐちゃぐちゃというのは子どもにとってもよくない。フルタイムで通勤するというよりは、今はいろいろな選択肢があるので、家族にとってベストな働き方を調べているところです」  智子さんのように、結婚や出産などで環境が変わると片づけができなくなってしまったという方は多くいらっしゃるでしょう。でも、片づけの基礎ができてしまえば、いくらでも応用ができます。智子さんが仕事を始めても、これからはその環境の変化にうまく順応できるはずです。 モノの量を減らして幼稚園グッズやランドセル置き場に変身/アフター 「好きなことがいろいろあるんです。どうせだったら今までとは全く違う職種がいいなと思っていました。でも、前の仕事も好きだったから、もう一度チャレンジしてみるのもいいかも……」  家の片づけや家事のことで悩む必要がなくなった分、自分の気持ちに素直になって仕事を選べそうですね。今から新しい一歩を踏み出す智子さんを、そして踏み出したいと思っている女性たちを、これからも応援しています。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。
AERAオンライン限定片づけビフォーアフター
AERA 2023/02/20 07:00
70年代席巻した「東京ボンバーズ」秘話 あのスター選手の過去は有名子役だった
70年代席巻した「東京ボンバーズ」秘話 あのスター選手の過去は有名子役だった
「東京ボンバーズ」の集合写真(左端は佐々木ヨーコ、左から2人目は森文雄)  半世紀前に一世を風靡した「ローラーゲーム」の東京ボンバーズ。一瞬の輝きを見せて消えていったスターたちの中に小泉博さんがいた。彼の人生は、その後もずっと人を明るくするものだった。短期集中連載「日本を明るくした男」では、ノンフィクションライターの渡辺勘郎さんが彼の人生を追った。 *  *  *  日本初のローラーゲームチームとして誕生した東京ボンバーズは一大ブームを巻き起こした。巡業に出れば会場は超満員。「日米対抗ローラーゲーム」(東京12チャンネル、現テレビ東京)の視聴率は、超人気番組の「8時だョ!全員集合」「スター千一夜」に次ぐ第3位の週もあったという。  ローラーゲームは、1チーム5人の選手がローラースケートを履いて傾斜のついたバンクと呼ばれる周回コースを競って回り、得点争いする競技。激しいコンタクトがあるので“走るプロレス”とも呼ばれる。この記事の主役の小泉博がローラーゲームを知ったのは1966年。東京12チャンネルで放送されたロサンゼルス・サンダーバード対テキサス・アウトローズ戦を観て、だった。 「僕が4年生のときで、『すっげー』と思いました。学校でも話題になってまねしましたよ。鉄車のついたサンダルを買ってもらって、『ローラーゲームごっこやろうよ』です。多摩川の土手にあった広場の花壇の周りで、ヨーイ・ドン。当時は環状8号線が工事中で、そこが貴重な、アスファルトで舗装されていて車の来ない遊び場で、僕らのスケートリンクでした」  東京ボンバーズ誕生のキーマン、タイガー森こと森文雄に当時を振り返ってもらった。森は68年4月放送のサンダーバード戦で女性同士が髪の毛を引っ張り合って乱闘するシーンを観て釘付けになったという。その秋の放送で「日本チーム結成決定・選手募集」というテロップが流れ、69年1月に後楽園のリンクで行われた選考会には700名の応募者から書類選考された約250名が参加した。合格者は男女合わせ15名。その中に森と佐々木ヨーコ(陽子)、ミッキー角田(角田誠)、河野一男がいた。 「ただ、その後、動きがなくて……視聴率低下のテコ入れで先にヨーコとミッキーの2人だけ渡米してデビューしましたが、僕らは日本で興行があるときにちょっと呼ばれただけ。さらに視聴率が低下して70年9月に放送打ち切りとなり、日本チーム結成の話は頓挫したんです。諦めきれなくてねぇ。仲間を集めましたが、女性に声を掛けても怖がられ、男だけの約20人のグループで練習してました。『ローラーゲームの運営元であるナショナルスケーティングダービー社のグリフィス社長が来日する』と耳にしたので会いに行き、『やりたくて、やりたくて、スケーターを集めてます』と直訴すると、『だったら見てみよう』。翌日、営業前の後楽園のリンクを借り切って見てもらうと『アイム・サプライズ!! すぐ日本人チームを作ろう』と言ってくれて」(森)  それが70年11月。諦めなかった森の行動力でチャンスがつながり、翌71年1月、森と河野はヨーコとミッキーと共に渡米し、ロサンゼルスで6カ月間訓練を受けてサンダーバードの一員としてプレー。さらにハワイで3カ月、ウォリアーズでプレーしてから帰国した。この時点で日本人の女性選手はヨーコ一人。チームを作るには足りない。 「サンダーバードの日本のファンクラブ会員なら、と思いついた。西麻布にあったナショナルスケーティングダービー社の名前で、アメリカに連れていきますよ、という選手募集のDMを送ったんです。堀井由美子や綾部圭子などが応募してくれて、その後、由美子と圭子ら3人がヨーコたちと一緒に渡米しました」(森)  72年の夏、ハワイに日本人スケーターが集合し、ニューヨーク・ボンバーズとチーム名を賭けて対戦することになる。 「最初、僕らのチーム名は『タイガース』だと。それが、プロ野球にある、ってことから、オーナーの一言で『ボンバーズ』に決まってました。で、その試合に勝って晴れて、東京ボンバーズ結成、となった訳です」(森) ファンクラブ会員誌の表紙を飾った小泉 ■競争激化の中 転んで選ばれ!?  同年10月、東京・板橋にチームの練習場を兼ねたトレーニングスクール(略称トレスク)が設けられ、テレビ放送で「練習生募集」というテロップが流されると……。  当時、高校3年生だった「ロニーT」は、すぐ電話した。顔にペインティングをしてサングラスのゴーグルを掛けた覆面スケーターとなる彼は今も素顔は秘密だが、このときから小泉と半世紀に及ぶ付き合いになる。中学3年生で15歳だった小泉は「親にどう話そう……」と、すぐには申し込みに行けず、結果として2人の会員番号は35番と143番。もっとも、その後、練習生は約2千人まで増えていく。  小泉が最初に受けたレッスンのコーチ役はヨーコ。彼女に小泉の第一印象を尋ねると「細くて、小さくて、ジャニーズ系の可愛い子。私と同じで、最初はあまり滑れなかったですね」。もう一人の先輩女性スケーター、堀井の印象も「インパクトのあるスター性のある顔で、目立ってました」。  練習生は技術レベルでクラス分けされた。一番上のクラスは「アドバンス」と呼ばれ、実質的にボンバーズの2軍。男女計約50人いて、そこに小泉は入会から1カ月ほどで昇格したが、「中では僕が一番、下手でした」。  ちょうどその頃、翌73年4月に東京ボンバーズとして初の日本興行が行われることが決まる。相手はニューヨーク・チーフス。誰がボンバーズに昇格して試合に出場できるか……アドバンス内の競争が激化する中、興行直前の3月、オーナーのグリフィスが来日する。 「練習で滑ってたとき、オーナーの前で転んでしまって……ミッキーさんに練習後、『あとで事務所に来るように』と言われたんです。そこでオーナーから『アメリカでローラーゲーム、やりたいですか』『もう少しうまくなったらアメリカに連れていくことができます』と言われました」(小泉)  その日オーナーに呼ばれたのは彼だけだった。 「アイドルだな、と思いました。スケートの技術だけではないところで選ばれているとしか思えないですからね。もっとも、彼はそこから瞬く間にうまくなっていくんですが……」(ロニーT) 「周囲には妬まれてましたけど、へこたれないんです。ひょうきんで、『エヘッ』って感じで、可愛げがあるんですよ」(堀井)  小泉は、ボンバーズ初の日本興行にデモンストレーション要員として参加できることになった。雑用係のようなものだったが、5連戦初戦にレギュラーが大けがを負い、以降の試合ではアドバンスの選手が日替わりで出場機会を与えられた。 「第5戦の日、バンクの掃除のために会場入りしたらオーナーから『今日、ゲームに出ろ』と言われたんです。しかも『今日は、お前がジャマーだ』と、ポイントゲッター役に指名されて……」  あまりの急展開に震えてしまったという小泉。それでも試合が始まると、豹のように身軽で“黒豹”と呼ばれていたラリー・ルイスの股の間をスルッと抜けて大歓声を浴びる活躍。ワンチャンスをモノにして準レギュラーとなっていく。 ■馬場や王と共演人気子役の過去  実は、同じように「スケートの技術だけではないところで選ばれている」と思われる選手が、もう一人……ヨーコのインタビュー中、記者には、どうしてもそう感じられ、不躾ながら率直に尋ねると、彼女は大きく頷き、こんな話をしてくれた。 「私はそんなにうまくなかったので、合格と聞いて『えーっ』。“黒髪”で受かったのかなと思いました。着物が好きで、毎年お正月には日本髪を結って着物を着ていたんですが、当時お世話になってた髪結いさんに『多くて真っ黒で良い髪』と褒められていたんです」  彼女をピックアップしたのはオーナー。長い黒髪が日本女性を象徴するものとして映っただろうことは想像に難くない。 「合格後、バンクが設置されている体育館に移動して、『滑って』と言われたんですが、傾斜のあるバンクでは滑るどころか、立てなくて。インフィールドでジッとしてました。それをオーナーも見てて……」(ヨーコ)  スポーツ競技の選手選考は、確かな技術を持った者がベストなパフォーマンスを披露して選ばれるものだろう。しかし小泉もヨーコも、それとは違う選ばれ方をされていた。しかも興味深いのは、それから半世紀も経った今、東京ボンバーズと聞いて思い出される名前の筆頭は、多分、2人のどちらか。スターになる者には技術とは別の要素、いわゆる“華”があるということだろう。 CM撮影でジャイアント馬場に抱かれる小泉博  実は小泉はローラーゲームで人気者になる前の小学生の頃、子役として活躍していた。東京都大田区で生まれた彼は6歳の頃から事務所に在籍し、数々の雑誌でモデルとして活躍。ソーセージのCMではジャイアント馬場に抱っこされ、モービル石油のCMでは巨人の王貞治と共に年間契約する売れっ子だった。 「学研の『科学』と『学習』の1年生、2年生、3年生の表紙を順番にやってました。森光子さん、草笛光子さん、三木のり平さんたちのドラマにも出させて頂きました。『マグマ大使』にも、ちょこっとですが出てました」  同年配以上の方なら、どこかできっと見たことのある男の子だったのだ。 「だけど、中学に入ったときに辞めちゃったんです。次兄の影響でテニスがしたくなって、仕事に行きたくないな、と思ったんですよ」  子役時代を知る舞台人、野瀬哲男はこう振り返る。 「ヒロシちゃんと呼ばれてました。彼はチャコちゃんシリーズ2作目の『チャコちゃん社長』にレギュラー出演してから事務所の稼ぎ頭だったと思います。タレントとしての可能性がありました。いるだけで可愛いタイプで、人気があっても生意気じゃなかった。その事務所を僕が先に辞めて、あるとき彼のお母さんから連絡があり、『ローラーゲームを観て』と。それでボンバーズに入ったことを知り、驚きました。彼が事務所を辞めたことは知ってましたから、あのビジュアルだからいずれまたタレントとして出てくると思ってたので、そっちに行くの?という感じでしたね」  野瀬は記者の恩人でもある。一昨年、文学座時代から“アニキ”と慕っていた松田優作を追悼する舞台を演出され、その稽古を取材したときに小泉を紹介されたことで、彼の“人を笑顔にする人生”を知ったからだ。  話を元に戻そう。小泉が初渡米したとき、トレスクの設立前から活動していた先輩スケーターたちは納得できず、多くが辞めていったという。 「だけど、ゲームの展開も含め、オーナーは全部のことを考えてましたからね。日本人チームが外国人チームと戦うとき、体が全然違ってちっちゃいですから、どう戦うかといえば、技術と“ちょこまか”でしょ。ちっちゃい選手が相手のでっかい選手の股下を抜いたり……そのイメージに“アイドル”の小泉がハマったんだと思うんです。  それと、レース中にローラースケート靴が壊れて使えなくなることがあるんですが、そういうときに小泉が人から靴を借りて滑ってたのを覚えてます。調整具合が違うので、人の靴で滑るなんて、彼以外見たことがありません。天才ですよ。最初は下手でしたけど(笑)。オーナーは見る目があった、ってことです」(ロニーT) (文中敬称略。次号へ続く)※週刊朝日  2023年2月24日号
東京ボンバーズ
週刊朝日 2023/02/18 11:00
在宅勤務で「睡眠の質」が悪化 改善には通勤の代わりに「15分」の散歩がおすすめ
在宅勤務で「睡眠の質」が悪化 改善には通勤の代わりに「15分」の散歩がおすすめ
快適な寝床内環境は「温度33度±1度」「湿度50%±5%」が理想とされている(photo 片山菜緒子)  在宅勤務が浸透したことで柔軟な働き方が可能になったが、悪影響も見逃せない。睡眠のリズムが崩れや運動不足による、睡眠の質の悪化だ。どうすれば睡眠の質を改善し、「攻めの睡眠」を実現できるのか。AERA 2023年2月13日号の記事を紹介する。 *  *  *  睡眠がさまざまな嬉しい効果をもたらしてくれることも、最新の研究で明らかになってきた。肌質の改善や肥満改善の可能性を示唆したのは、寝具メーカー・西川の研究機関である日本睡眠科学研究所と同志社大学アンチエイジングリサーチセンター米井嘉一教授との共同研究だ。研究所長の野々村琢人さんが解説する。 「睡眠の改善により、肥満予防につながる短鎖脂肪酸を作り出すヤセ菌が増加することが、腸内細菌叢(そう)の解析で認められました。エネルギー代謝や基礎代謝の向上に繋がり、太りにくくなるということが考えられます」  肌質に関しては、睡眠改善による成長ホルモンの分泌の増加、メラトニンの分泌量増加、糖化ストレスの軽減などが関係していると見られている。 「年を取っても成長ホルモンというのは必ず出ています。その割合が下がってしまうと新陳代謝がしにくくなる。肌で言うとターンオーバーが悪くなってしまうんです。睡眠改善によって、研究では肌のハリ、潤い、キメの改善が認められました」  これらの研究で使用されたのが、西川の4層特殊立体構造マットレスと呼ばれる寝具だ。一体何が特殊なのか。 「以前はマットレスに関しては、体圧分散のみが大事と考えられていましたが、最近の研究では、体圧分散の他に寝姿勢保持と寝返りを打ちやすいことも大事であると言われています」 ■在宅勤務でリズム崩れ  立っている時の姿勢と同じように、寝ているときも背骨がきれいなS字形になる状態が理想的だという。圧力を分散することだけを考えると、ひたすら柔らかいマットレスを求めてしまうが、柔らかすぎると重いお尻の部分がぐっと沈み込んで、寝姿勢がゆがんでしまう。いつもよりたっぷり寝た日の朝に腰が痛いというのはそのせいだという。 「従来は、体圧分散性を求めると寝姿勢が悪くなってしまう、二律背反のような関係で両方を実現するのは難しかったのですが、ウレタンで特殊な構造にすることでこれを実現しました」  同研究所では、18年から睡眠に関する大規模調査を実施している。その調査によると、コロナ禍で在宅勤務が増えた影響が睡眠に表れているという。 「通勤時間が減り、基本的に睡眠時間は延びていますが、一方で詳しく見てみると、在宅勤務の悪影響も出てきています」  一つは在宅勤務で朝早く起きなくてよくなり、寝る時間が夜中にシフトしたり、バラバラになったりしてしまっている点。今日はテレワークで明日出勤、次の日はまたテレワーク、となるとリズムがガタガタになって“時差”ができてしまう。自律神経のバランスに影響を与え、睡眠の質が悪くなるのだという。  もう一つが運動不足だ。 「睡眠に必要なメラトニンというホルモンが夜にきちんと分泌されるためには、午前中にしっかり活動する必要があるんです。朝起きて朝日を浴びることで、メラトニンの材料になるセロトニンが分泌されますが、通勤がなくなりそれができない状態になった人が多いようです」 ■朝食ではタンパク質を  家にこもって一日中だらだら過ごしてしまう状態だと必然的に夜なかなか寝付けなくなり、夜中に起きてしまう中途覚醒も多くなる。 「解決策の一つとしては、通勤の代わりに、始業時間の前までに15分でもいいので外を散歩することを勧めています」  野々村所長によれば、そもそも「よい睡眠」というものについて共通するきちんとした定義があるわけではないという。 「睡眠は減点法だとよく言われます。悪い要因が一つずつ重なることで、少しずつ質が悪くなっていく。ですので、なにか一つ特効薬的なものですべて解決するというものでもありません」  朝食ではセロトニンの材料になるタンパク質をしっかりとること、運動はできれば夕方以降は避けること、入浴は就寝1時間前に済ませること。知ればすぐに実現できる「睡眠のための技術」はたくさんある。 「睡眠の役割は、要するに体と頭のメンテナンスです。以前は“休養”のイメージがあったかもしれませんが、休養はパソコンで言うとシャットダウンした状態。睡眠はそうではなく、一生懸命バージョンアップしている状態なんです。ホルモンを分泌させて体の状態をリカバリーし、脳ではいろんな感情やストレスを整理して捨て、メンタルバランスを整えています」  空いた時間を睡眠に充てるのではない。睡眠を何より優先し、生活、仕事を組み立てていく。そんな“攻めの睡眠”の時代が幕を開けている。(編集部・高橋有紀) AERA2023年2月13日号より(photo 各社提供) AERA2023年2月13日号より(photo 各社提供) ※AERA 2023年2月13日号より抜粋
AERA 2023/02/13 08:00
睡眠不足による日本の経済損失は年間15兆円 よく眠る会社ほど利益率がいい調査結果も
睡眠不足による日本の経済損失は年間15兆円 よく眠る会社ほど利益率がいい調査結果も
泊まり勤務も多い東京メトロでは従業員のための「仮眠室」を備えている(photo 東京メトロ提供)  睡眠時間を削って深夜まで残業することを評価する時代は過ぎ去った。睡眠の時間と質を確保する企業ほど利益率が向上するという研究もある。AERA 2023年2月13日号の記事を紹介する。 *  *  *  眠らない街・東京の交通網を支えているのは、「従業員のよりよい眠り」だった──?  東京メトロでは、社員の大半が交替勤務。駅員や乗務員は、泊まり勤務があり、終電まで仕事をして夜中に仮眠をとり、また朝から仕事に就く。電気設備やレール設備の保守点検などの職種の場合は、夜8時頃から仮眠をとって、電車が動いていない深夜に仕事をし、また朝5時、6時頃から仮眠をとる、ということも。  同社が近年力を入れて取り組んでいるのが、社員の睡眠課題の解決だ。 「いつもと時間が違って寝られないとか、何かあった時に対応しないといけないから気になって眠れないなど、人によって悩みはさまざまですが、そもそも睡眠課題を抱えやすい勤務形態で、居眠りは事故の原因にもなるため、もともと睡眠への関心が高い企業風土があります。事故防止以外にもメンタルヘルス不調の予防にも取り組んでいます」(同社人事部健康支援センターの保健師・村上杏子さん) ■睡眠改善支援130社  特にここ4年連続で取り組み、社員の睡眠改善に高い効果をあげてきたのが、ニューロスペースが提供する睡眠改善プログラムだ。  ニューロスペースは企業向けに睡眠セミナーや睡眠改善プログラムを展開している“スリープテック”企業。CEOの小林孝徳さん自身が睡眠障害の経験を持ち、この社会課題を解決したいという思いで2013年に創業した。これまで睡眠改善を支援した企業は130社以上に上る。  東京メトロの場合、約8週間のプログラムで、毎年150人の参加枠を設けているが、募集早々に埋まりキャンセル待ちが出るほどという人気だ。  前半の4週間は、スマートウォッチ「フィットビット」を着用しての客観データと、寝つきがどうかなどの主観評価から、自分の睡眠の傾向を可視化する。後半の4週間は、前半に特定した課題に対して、解決のための生活習慣を定着させる期間だ。ルーティンリスト(睡眠を良くするための生活行動)を参考に、自分の生活に取り入れられそうなものにそれぞれ取り組む。 「劇的によくしようという目的ではなく、まずはよい睡眠をとるための技術を学ぶこと、自分の睡眠に関心を持ってもらいスタートラインに立つことを目標にしています」(村上さん)  同社の場合、シフトや職種で仮眠時間も異なるため、事前にヒアリングを行い実態に即した形で過ごし方のポイントなどを作ってもらったという。  例えばシフトによって5時起きの日と9時起きの日が混在してしまうような人もいるが、睡眠の質を上げるには起床時間を一定にすることが大事だという。長く寝たいときは、一度起きて日の光を浴びてから、もう一度寝るのがいいそう。 ■あっさり改善できる  こうして学んだ技術を実行することで、自分の睡眠が改善した効果を感じた人は多かったという。さらにプログラム前後での生産性を比較する調査でも、【仕事中に高い集中力を維持できている】【タスクを正確かつ丁寧に実施できている】【些細(ささい)なことでイライラせずに気持ちに余裕がある】などの項目で大きく改善が見られた。 「技術を学ぶと睡眠って結構あっさり改善できるんだなと感じました。もともと生産性のために行った取り組みではなく健康とメンタル不調の予防が目的ですが、副産物として生産性にもいいことがデータとして表れました」(同)  組織として取り組む意義について、村上さんはこう話す。 「残業時間を減らすなど、業務を改善しないことにはよい睡眠が実現できない、という気づきもあったようです。自分の睡眠だけでなく、業務のことにまで意識が向いたのも、組織で取り組んだ意味があったと思います」  米シンクタンクの調査で睡眠不足による日本の経済損失が年間15兆円と推計されるなど、「不眠大国日本」の深刻さは以前から指摘されていたが、最新の研究ではさらに、よく眠る会社ほど利益率がいい、という結果も明らかになっている。  昨年5月に発表された慶應義塾大学の山本勲教授の研究で、上場企業700社を対象に行った調査の結果、睡眠の時間と質を確保している企業ほど利益率が有意に向上していることが示されたのだ。 AERA2023年2月13日号より  またニューロスペースのプログラムを用いて、早稲田大学政治経済学術院の大湾秀雄教授らが行った研究(21年)でも、睡眠改善で生産性が上昇することが明らかになった。 「日中の覚醒度合いや睡眠の満足度、睡眠の効率性や規則性など六つの指標に基づいて評価した結果、プログラム参加者の睡眠改善効果が明らかになりました。さらに、睡眠改善が生産性に及ぼす影響を検証したところ、時間管理や集中力、仕事の成果なども統計的に有意に改善しました」(小林さん)  1人当たりの生産性を年間800万円と仮定すると、1人当たり年間12万円の生産性の向上と算出されたという。 「低い生産性で働きたいと思っている人は本来いないはずです。限られた時間の中で、最大限睡眠の質を向上させて、ハイパフォーマーとして働きたい。こういう気持ちを持っている従業員が、理想の睡眠を実現できるように、労働環境の整備をするのは企業の責務だと思うんです」(同)  長らく日本企業には寝ないで働くことが良しとされる風潮があった。今後は眠れている企業ほど評価される時代がくる、と小林さんは強調する。 「フレックス制度の導入や、上司が積極的に仮眠をとる姿勢をみせることで“寝てもいいんだよ、なぜなら眠る会社が儲(もう)かるんだから”という文化を醸成していくことが、多くの日本企業に求められています」 (編集部・高橋有紀)※AERA 2023年2月13日号より抜粋
AERA 2023/02/12 11:30
映画「エゴイスト」でゲイの主人公を演じた鈴木亮平「同性婚に関しては法制化を急ぐべきだという立場です」
映画「エゴイスト」でゲイの主人公を演じた鈴木亮平「同性婚に関しては法制化を急ぐべきだという立場です」
すずき・りょうへい/1983年、兵庫県出身。2006年に俳優デビュー。4月28日に映画「TOKYO MER~走る緊急救命室」が公開予定/hair & make up 宮田靖士(THYMON Inc.) styling 臼井 崇(THYMON Inc.) costume ブリオーニ〈ブリオーニ〉  photo 写真映像部・加藤夏子 映画「エゴイスト」は2月10日(金)全国公開/公式サイト www.egoist-movie.com  2月10日に公開される映画「エゴイスト」で主人公の浩輔を演じた俳優の鈴木亮平。性的マイノリティーの当事者に責任を持って、専門家と丁寧に作品を作り上げた。AERA 2023年2月13日号より紹介する。 *  *  * 「今回、自分にはふたつの責任があったんです。主人公・浩輔としての演技をするということが一つ。もう一つは自分が世の中にこの作品を出す上で、性的マイノリティーの当事者に対して責任を持つということです」  と慎重に言葉を選びながら、柔らかい口調で話す鈴木さん。映画「エゴイスト」はオープンリーゲイのエッセイストとして活躍し、2020年に他界した高山真さんの自伝的小説が原作だ。鈴木さんは高山さん自身に重なる主人公・浩輔を演じている。 「映画の主題もセクシュアリティーだけではありませんが、主要登場人物のうち2人がゲイという設定です。偏った表現などがあってはいけないですし、きちんとしたクィア映画に仕上げたい、という思いがありました。本や映画で自分なりに学び、かつ高山さんを知る多くの方々に話を聞きました。といっても、実在の人の物まねをするのではなく、多角的な情報を自分のなかに入れ、自分と混ぜて人物を作り上げていくイメージです」  田舎町でセクシュアリティーを隠して思春期を過ごした浩輔は、いま東京で自由に暮らしている。話し方やしぐさはLGBTQ+インクルーシブディレクターのミヤタ廉さんが監修した。 「いわゆる“オネエっぽさ”の表現をどうするかなどを、ミヤタさんと細かく話し合いながら作り上げました。ステレオタイプ的にならないように、しかしそうした要素をまったくなくすことは、モデルとなった作者のアイデンティティーを漂白してしまうことにもなる。2020年代の日本に出す映画として、どのさじ加減で表現することが適当なのか。当事者にとって、当事者以外にとってどう感じるのか、慎重に毎シーンごとに確認しました」 病弱な母と暮らす龍太(宮沢氷魚、左)と恋に落ちた浩輔だったが──。「ピュ~ぴる」の松永大司監督作品 (c)2023 高山真・小学館/「エゴイスト」製作委員会  浩輔はあるときパーソナルトレーナーの龍太と出会い、恋に落ちる。演じる宮沢氷魚さんとの相性もぴったりだ。 「相手が氷魚くんで、本当によかったなと思います。相性がすごく合ったというか、恋人役としてすごく自然に入っていけました。僕が好きなのは、浩輔が龍太にスマホで動画を撮られているシーン。『ええ? 何撮ってんの! やめて?』ってじゃれあってる(笑)。自分の思い出話を、ちょっと酔っ払いながら最愛の恋人に自然に話すってすごくいいですよね。浩輔が恋に極まって『夜へ急ぐ人』を歌い出すシーンも“鈴木亮平”としては恥ずかしいんですが、いい場面だと思います。自分も失恋したときにミスチルの『Over』をカラオケで熱唱したなあ、と思い出したり(笑)」 ■愛することはエゴか  愛する人に巡り合えた二人の高揚や多幸感がスクリーンからあふれ出すように自然で美しい。インティマシーシーン(性的な表現のあるシーン)にも挑んだ。 「松永(大司)監督の撮影はドキュメンタリーのようでもありました。大まかなセリフだけで、即興の芝居も多かった。カメラとの距離も近くて、顔のこのへん(30センチほどを指して)にあったりするんです。でもカメラの存在を忘れさせるように撮ってくださって、自然にその役を生きられたかなと思います。  インティマシーシーンは、ゲイ当事者のコレオグラファー(振付師)の方が振り付けをしてくれました。異性間のセックスと同性間のセックスはやはり勝手が違うので、当事者の方が観て違和感をもたれないか、細かくチェックしてもらった。監督とミヤタさんは現場にいる人数を最小限にするなどのケアをしてくれました。最近、僕はドラマ『エルピス─希望、あるいは災い─』で初めてインティマシー・コーディネーターの方とお仕事をしたのですが、そうした方の存在や配慮があると、俳優はやはり安心できる。いま日本のコーディネーター有資格者のお二人は女性なので、今後は例えばゲイの方をはじめ、LGBTQ+当事者とコーディネーターが組んで現場にいるような状況が、スタンダードになってくるかもしれないですね」 (c)2023 高山真・小学館/「エゴイスト」製作委員会 「エルピス」といえば、鈴木さんの演技が「色気ダダ漏れ」とのトレンドワードになった。 「あれは本当に脚本と演出の力ですよ。とはいえ、『色気? やめて!』と同時に『よしよし、やっと気づいてくれたか!』っていう自分もいますけどね(笑)。  この映画を観た後、たとえセクシュアリティーは違ったとしても、人を愛することや人と人のつながり、母親との関係について考えた、共感したと言ってくださる方が多くて嬉しいです。  タイトルのエゴイストって『ん?』と思わせますね。エゴイスティックな人の話なのかなと。でも浩輔は、たぶんその真逆にいる人。愛する人のために何かをしたくなることを偽善や自分のエゴだと思ってしまっているけど、でも愛することとはそれ自体がエゴでもある。観た後でタイトルの意味がどう変わるかを感じてもらえればと思います」 (c)2023 高山真・小学館/「エゴイスト」製作委員会 ■勇気持って変えるべき  作品に大事なメッセージがあることも自覚する。鈴木さんは原作本のあとがきに記している。 「自らのセクシュアリティーを理由に命を絶つ選択を考えてしまうような少年少女が、この国から、この世界から、一人もいなくなることを私は願います」 「浩輔を演じたことで、自分が思っていた以上にいまの社会がいかに性的マイノリティーにとって生きづらい環境であるかを、あらためて知りました。特に思春期において自分のセクシュアリティーに悩むことは、命や精神的な安定性の問題になる。そこをなんとかするにはまず教育、そして社会の制度も変える必要がある。特に同性婚に関しては法制化を急ぐべきだという立場です。反対意見も注意深く読ませていただきましたが、何にも優先してこれは人権や個人の尊厳の話だと感じました。生きづらい人を多く生んでいる価値観は勇気を持って変えていくべきじゃないか、と。そして誰より僕たち親の世代が子どもたちにそれを伝えていくべきなんじゃないかと。  日本ではゲイであることで命を狙われるような過激な迫害は少ないかもしれませんし、テレビでも当事者の方が活躍しています。一見受け入れられているように見えても、そこには無意識の偏見が横たわっていることを強く感じます。そういう僕も自分の中に根付いた偏見に気づくこともいまだに多いです。そうしたことを意識的に変えていくことで、誰もが過ごしやすい社会に一歩近づけるんじゃないかと思っています」 (構成/フリーランス記者・中村千晶)※AERA 2023年2月13日号
AERA 2023/02/10 11:30
元日本テレビ官邸キャップが語る オフレコ破り「する時」「しない時」 荒井元秘書官報道は正しかったのか
上田耕司 上田耕司
元日本テレビ官邸キャップが語る オフレコ破り「する時」「しない時」 荒井元秘書官報道は正しかったのか
政治ジャーナリストの青山和弘氏  4日、性的少数者(LGBTQ)や同性婚への差別発言で荒井勝喜首相秘書官が更迭された。荒井氏は3日夜にオフレコを前提とした記者団の囲み取材に対し、LGBTQや同性婚に関連して「僕だって見るのも嫌だ」「隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」など差別的な発言をしたと報じられた。初報した毎日新聞は、オフレコ発言を実名で報じた背景を自社サイトでも解説しているが、オフレコ発言の扱いについては議論が分かれている。政治家への取材において、オフレコ発言はどのような意味を持つのか。また、オフレコを実名報道に切り替える時、現場ではどう判断しているのか。かつて日本テレビで官邸キャップを長く務め、現在は政治ジャーナリストとして活躍する青山和弘氏に永田町取材の実態を聞いた。 *  *  *  青山氏は1994年から政治記者として永田町の中枢を取材してきた。歴代政権のキーパーソンとなる人物のさまざまな“本音”を聞いてきたはずだが、今回の荒井氏の発言についてどう感じたのか。 「LGBTQに対する偏見と無理解に基づいたひどい発言だと思います。言語道断であり、とんでもない差別的な発言ですが、一方で、メディアのオフレコ発言への対応は、もう少し考える必要があったのではないかとも思います」  青山氏は長年の永田町取材の経験から、政治家のオフレコ発言の扱いについてこう見解を述べる。 「政治取材において、オフレコ取材は必要不可欠なものです。もちろん、オフレコ破りを絶対にしてはいけないというわけではなく、極端に言えば、命の危険や犯罪に関わることであればオフレコを破らざるを得ません。いずれにしても、ルールを破ってまでも報道する価値があるのか、社会的な意義があるかが最大の焦点になります」  荒井氏の問題発言を最初に報じたのは毎日新聞で、3日午後11時には自社のニュースサイトに記事をアップした。同サイトの検証記事によれば、「現場にいた毎日新聞政治部の記者は、一連の発言を首相官邸キャップを通じて東京本社政治部に報告した。本社編集編成局で協議した結果」、荒井氏の発言を実名で報じることにしたという。そして、「オフレコという取材対象と記者の約束を破ることになるため、毎日新聞は荒井氏に実名で報道する旨を事前に伝えたうえで」掲載したとしている。 岸田文雄首相と荒井勝喜元首相秘書官(右)  青山氏は政治記者として、一連の経緯をどう見たのか。 「オフレコという約束があるのですから、基本的には約束を守らなければならない。しかも、取材現場には毎日新聞だけではなくて、他社の記者もいたわけです。私は10社くらいいたと聞いていますが、他社は、まずはオフレコを守ろうとしたわけです。毎日新聞だけが抜け駆けしたことになり、他社に対する信義則も踏みにじってしまったと思います」  今後は、官邸取材で記者が本音を引き出しにくくなるのでは、という危惧もある。 「少なくとも、当面は官邸で秘書官がオフレコ取材に応じることはないと思われます。オフレコ取材によって官邸の判断の遅れや総理の決断のぶれなど不都合な真実を知ることもある。その機会が失われると、ある意味、国民の知る権利を阻害することにもなるわけです。そのリスクをてんびんにかけて、何をどのように報道すべきか考えるのも政治記者の知恵であり、センスだと思います」  青山氏の日本テレビ時代の官邸取材はのべ10年になるが、政治家や官僚のオフレコ取材は当たり前の日常だったという。オンレコでは聞けない“本音”や“裏側”を探り、決断の背景や問題点、今後の政治の行方を確かめることがオフレコ取材の目的だが、取材した内容の扱いが特に明文化されているわけではない。その根底にあるのは、信義則なのだという。  青山氏は永田町におけるオフレコ取材の実情をこう話す。 「結局、記者会見や会議の頭撮りなど表ではない場所は、すべてオフレコ取材なんです。設定された懇談の場合は『政府筋』などで引用が可能な場合もあれば、『完オフ』となれば、話そのものを引用してはダメだというパターンもあります。夜回り、朝回りは基本的にはオフレコですから、『オンのコメントお願いします』と言わない限りはオフレコです。オフレコ取材ではメモを取ってもダメですし、もちろん録音もできません」  元厚生労働大臣で国際政治学者の舛添要一氏は荒井氏の更迭後、ツイッターで「大臣時代に私は、記者たちに求められて『記者懇』(オフレコ)を開いたが、ルールを破って内容を週刊誌に漏らす記者がいた。給料の安い新聞社の記者でカネ稼ぎのためだった。それ以来、私は記者懇を止めた」とつぶやいた。  この意見に対して、青山氏はこう話す。 「記者は仕事で取材しているので、みんな上司にメモを上げています。だから誰に伝わるかわからないし、デスクが週刊誌に流す可能性だってゼロではない。そのリスクについて荒井氏が『知りませんでした』と言うのだったら、あまりにもナイーブだし、素人すぎる。首相秘書官という立場のある人が、オフレコとはいっても記者に話すにはあまりにも緊張感のない内容だったのは間違いありません」  一方で青山氏は、オフレコ取材の場にいた記者たちの対応にも問題があったのではないか、と語る。 「この発言を聞いたときに、これはオフとはいえ問題になりますよ、とその場で荒井氏にちゃんと言った記者はいたのか。荒井氏と議論したのか。問題だと思ったら『秘書官の考えをもう一度オンレコでお願いします』と言ってもよかった。その場でフンフンと聞いて帰って、上にメモを上げたら、こうなっちゃいましたという経緯だったら、現場の記者も情けないのではないか。私は政治記者になりたてのころ、先輩記者から『知ったことはどこかでは書かなければならない』と繰り返し言われました。今回のように、当日に実名報道するのはルール違反だとしても、たとえば『総理秘書官の一人』とか『総理周辺』というクレジットで書くこともできます。今後LGBTQ問題を記事化するときに、岸田官邸の雰囲気を伝えることはできる。また少し時間が経った後に、回想録的にオフレコ発言を書くこともあります。あのときはオフレコで聞いたけれど、実はこんなやりとりがあったんだよと明らかにすることはよくあることです。いろんな知恵を使って、書くべきことを書くのは、記者がやるべき仕事だと思います。取材対象者との信義を守りながら、そのタイミングとやり方を考えるのが腕の見せ所だということです。ただその考え方ややり方が、メディア一社一社、記者一人一人で異なるのがこの問題の難しいところです」  岸田文雄首相には2人の政務秘書官がいる。岸田首相の息子の翔太郎氏と嶋田隆秘書官。それ以外に事務秘書官が6人おり、荒井氏もその1人だった。翔太郎氏も外遊先で公用車を使って観光していたという疑惑が持ち上がったが、結果的に、岸田首相は息子はかばい、荒井氏を更迭するという判断をした。  青山氏は「霞が関の中では、今回の更迭劇を鼻白んでいる人はいるし、今後、少なからず反発も出ると思う」としたうえで、岸田政権の行く末をこう語る。 「岸田政権は場当たり的な判断が目立ちます。チーム岸田という体制が非常に脆弱(ぜいじゃく)で、あまり緊張感がありません。将来のカレンダーをきちんと描いている秘書官がいない。すべて首相が抱え込んでしまって、調整もしないで判断するから、場当たり的になっているのだと思います。非常に危うく、フラジャイル(壊れやすい)な政権だという印象です。これからもこうした問題が続くのではないかと危惧しています」 (AERA dot.編集部・上田耕司)
LGBTQオフレコ首相秘書官
dot. 2023/02/09 17:30
親のヘルパーの交代を要求してもいい? 介護職の自宅での働きに不満 プロの答えは
高口光子 高口光子
親のヘルパーの交代を要求してもいい? 介護職の自宅での働きに不満 プロの答えは
※写真はイメージです(写真/Getty Images) 自宅での介護が始まると、ケアマネジャーやヘルパーなど、介護のプロとのつきあいが深くなっていきます。介護するあなたや家族が、あるいは介護を受けている親本人が、介護職の働きぶりについて疑問や不満を抱く事態も起きてきます。そんなとき、どのように対処すれば気持ちのよい介護生活を続けることができるのでしょうか。介護アドバイザーの高口光子さんにうかがいました。 *  *  * ■不満や要望を我慢するのはマイナスに  自宅での介護では、介護のさまざまな専門職がほぼ毎日、自宅に出入りすることになります。 元気がでる介護研究所代表 高口光子氏  考えてみれば、核家族が当たり前になった現代では、それまで知らなかった他人が自分(親)の家に入って、台所や親の寝室、お風呂場に出入りし、冷蔵庫や戸棚の中まで見るという生活は、介護が始まる前には想像もつかないことだといえるでしょう。都市部ではその傾向は顕著で、家族も介護を受ける親本人も、生活様式の変化に慣れるまで、時間がかかります。  新たな状況に対する戸惑いが落ち着いて、日常的に介護サービスを受けるようになると、今度は、「洗濯物はこちらが言ったとおりのたたみ方にしてほしい」「もう少しおとうさん(おかあさん)がわかるように説明してほしい」など、担当のヘルパーに対して、具体的な不満や要望が出てくることになります。そしてあなたは、よほどのことでない限り、感じた不満や要望を口にせず、我慢してしまうでしょう。  しかし、言いたいことを我慢することは、介護において問題だと、私は思っています。 ■「ささいなこと」と考えずに話してみる  親の介護や家事援助のやり方に違和感を覚えたり、疑問や不満が生じたりするのは当たり前のこと。それを、「こんなささいなこと言うと、うるさい家族と思われるのでは」と言わずにおいたことが積もり積もると、「作業が雑でちゃんとやってくれない」「口ではわかりましたと言うけれど、スルーしているのでは」など、少し大きな不満となり、最終的に「このヘルパーの言っていることは本当だろうか、信用できない」と、不信感を抱くことになります。  こうなると、好き嫌いの感情や相性もあいまって、関係はさらに悪化。そしてケアマネに「ヘルパーさんをほかの人に代わってもらうことはできますか」と相談することになります。  基本的に、ヘルパーやケアマネの交代は法律・制度としてはできます。それは、介護への不信感をなかったことにして介護生活を続けることは不可能だからです。不平・不満・不信解消のためにも、交代を要望することは、時には必要です。  また、好き嫌いや相性は、介護が続くなかでは、当然、誰にでもあることです。どんな仕事でもそうですが、最終的には携わる人同士の人と人とのつきあい、関係性によって成果やストレスの量が左右されるものでしょう。それは介護の現場でも同じことです。しかも介護を受ける側にとっては、介護は「仕事」ではなく「生活」なのですから、好き嫌いや相性という感情的な要素も我慢する必要はありません。  しかし、「このヘルパーさんとはやっていけない」と思う前に、まずは具体的な不満や疑問、要望を本人に申し出てみましょう。「仕事でお願いしているのだから」と割り切って、望むところを話せばいいのです。介護職はさまざまな家庭に入り、多くの経験を積んでいます。すんなりあなたの気持ちをくみとって、改めてくれるはずです。本人に言いにくい場合は、そのヘルパーが所属する介護サービス提供責任者や管理者、ケアマネなど、話しやすい相手、相性のいい相手に相談してみましょう。  話し合った結果、やっぱり交代してほしいと思うなら、ヘルパーの交代を希望する場合は、そのヘルパーが所属している事業所の所長(管理者など)やケアマネに、ケアマネの交代を希望する場合には、そのケアマネが所属している事業所の所長(管理者など)や役所の介護保険課などに相談します。 ■交代の希望は、親のためになるかを考えて  このようにヘルパーやケアマネを、別の人に代えてほしいと申し出ることはできますが、なぜ交代を望むのか、その目的は何かをじゅうぶんに把握しておくことが大切です。  かつて私が体験した、何度もヘルパーの交代を要求されたケースをご紹介しましょう。  母親と二人暮らしをしている50代の独身男性。無職で、母親の年金で暮らしています。毎日のように「母のパジャマを自分が言ったとおりのものにしてくれなかった、母の髪形を自分が望むものにしてくれなかった」などと不満を訴えて、ヘルパーの交代を要求してきます。別のヘルパーに代わっても、また同じように代えてほしいと訴えます。母親を大事に思うあまりの行動と理解はできますし、我慢して介護を続けられるよりも申し出てもらうほうがありがたいので、私たちも適切に対処するように心がけました。  しかしあまりに度重なる交代の要求は、本当に母親のためになっているのでしょうか。  介護職を否定するかのような厳しい要求を繰り返すことで、最初に懸念されるのは、母親が適切な介護サービスを受けにくくなることです。その男性は介護職を遠ざけて欠けた部分を補うべく、自分なりに母親の面倒をみていましたが、介護のプロの手技には及ばないこともありました。  さらに心配だったのは、家族二人の生活はどんどん閉じられたものになっていき、ヘルパーが男性からのあまりの要望に応えきれず、訪問が中止されるような事態に陥れば、母親にとって唯一残された社会とのつながりを断ち切る結果になることでした。  これはまれなケースではありません。親子仲がよければよいほど、親を大事に思えば思うほど、この男性のような行動をとってしまう家族は多いのです。  ヘルパーやケアマネの交代希望の目的は、あくまでも、交代によってサービスが改善され、「親がさらに快適に介護を受けられるようになること」です。人と人とのつきあいですから、合う、合わないがあるのは当然のことですが、だからといってあなたの感情だけを優先するのはどうでしょうか。介護を受けるおとうさん(おかあさん)の社会は、あなたによって狭くも広くもなるのです。  前述の男性には、ケアマネから、「介護職を全否定するのではなく、おかあさんが心地よく過ごせるように協力し合い、納得し合って、ベストな介護をつくっていきましょう」と説明しましたが、ヘルパーを否定するような男性の態度は変わりませんでした。その後、おかあさんは施設に入居されました。施設で幸せに暮らしておられることを祈るのみです。 ■その不満は誤解から生じていないか確認する  家族や親本人の思い違いや誤解から、不満が生じていることも少なくありません。  その一つに、ケアマネ、ヘルパー、訪問看護師、訪問リハビリなど、それぞれの専門領域についての理解不足から生じるものがあります。  ケアマネやヘルパーが、血糖値の測定や点滴の管理などの医療行為をおこなえないことは多くの人がご存じでしょう。逆に、訪問看護師に掃除や買い物を頼むこともできません。  ヘルパーの仕事には介護保険上、さらに細かい規定があって、たとえば「リハビリの一環として、散歩に連れていってください」とお願いされても、ヘルパーは引き受けることはできません。リハビリは訪問リハの専門職がおこなうもので、ヘルパーの職域に入っていないからです。  この決まりを知らずに、「面倒だから断るんでしょ、面倒がらない人に交代してほしい」と言われても、私たちは困ってしまいます。それぞれの専門職のできること、できないことがあるということを理解してほしいのです。  また、認知症の初期で、家族がそれと気づかない段階で、親本人が「あのヘルパーさんはイヤだ」と言い出すケースでも、誤解が生じることがあります。  たとえば、ある一人のヘルパーを嫌がるおとうさん。理由を聞くと、「あのヘルパーは夜、忍び込んでくる。泥棒かもしれない」ということです。もちろんそんな事実はなく、認知症で昼夜逆転しているおとうさんの見当識障害の結果でした。  こういうときでも、おとうさんを頭ごなしに叱りつけたり、言うことを否定したりするのではなく、「あのヘルパーさんはおとうさんのことが気になって、夜も来てくれたのかもね」と言って気持ちを落ち着かせて、様子をみるようにします。  認知症の場合にはこのような思い込みや妄想が起こりやすく、また話を聞きだすのも難しくなってきます。家族とヘルパーで情報を共有して、そのときどきで最善の対処法を探っていきましょう。 ■相談することでチームになって介護に取り組む  介護職は、介護を受ける親本人が気持ちよく安心して生活できること、介護を担うあなたや家族が負担を感じずに悔いなく介護を続けられることを目標に仕事をします。家庭の中に入り込んで、いわば生活の一部を共にするわけですから、多くは、サービスを受ける、サービスを提供するという割り切った関係以上のつきあいになります。  最初のうちは慣れない遠慮もあるでしょうが、介護の仕事を理解し、「他人以上・身内未満」の関係性を築いていってください。そのためには、なによりも不満や要望などを我慢せず、どんどん話していくことです。私たち介護職は、話してもらうことでさらに充実した介護を提供できるようになると信じています。そして、あなたとチームになって、一緒に介護を進めていけると考えています。 (構成/別所 文) 高口光子(たかぐちみつこ) 元気がでる介護研究所代表 【プロフィル】 高知医療学院卒業。理学療法士として病院勤務ののち、特別養護老人ホームに介護職として勤務。2002年から医療法人財団百葉の会で法人事務局企画教育推進室室長、生活リハビリ推進室室長を務めるとともに、介護アドバイザーとして活動。介護老人保健施設・鶴舞乃城、星のしずくの立ち上げに参加。22年、理想の介護の追求と実現を考える「高口光子の元気がでる介護研究所」を設立。介護アドバイザー、理学療法士、介護福祉士、介護支援専門員。『介護施設で死ぬということ』『認知症介護びっくり日記』『リーダーのためのケア技術論』『介護の毒(ドク)はコドク(孤独)です。』など著書多数。https://genki-kaigo.net/ (元気が出る介護研究所)
介護
dot. 2023/02/09 17:00
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長野美穂 長野美穂
銃射殺事件の背景に「アジア系高齢者の社会的孤立」も 米ロス郊外の街で起きた悲劇
近隣の街の住民のギルバート・ガルシアさんと妻のデビーさんは、事件の現場となった社交ダンス・スタジオに花を供えに来た(写真/長野美穂)  ロサンゼルス近郊の街、モントレー・パークの中心部にある社交ダンススタジオ「Star Dance」に行ってみると、赤色の線香から立ち上る煙の匂いが立ちこめていた。  1月21日の夜、チャイニーズ・ニュー・イヤーの春節のダンスイベントを楽しんでいた男女11人を、アジア系の72歳の男性が射殺するという事件が起きた現場だ。 「タンゴ、ワルツ、チャチャチャ、サルサなどを朝9時から学べます」という看板が掲げられたスタジオの外壁には、数日前に殺害された11人の名前が書かれたボードが並んでいる。  11人のうちの7人の写真が、白い花で飾られた大きなパネルに飾られている。このスタジオのダンス講師の笑顔の写真を含め、犠牲者の多くは65歳以上だった。 「若い頃からずっと働いて、やっと引退できるシニアの年齢になって、さあこれから人生を楽しもうという時に、なぜいきなり射殺されなくちゃいけないんだ?」  犠牲者たちの顔写真を見ながら、60代の近隣住民のギルバート・ガルシアさんは、そうつぶやいた。  ガルシアさんの妻のデビーさんは、持ってきた黄色い花の花束をそっと地面に置き、深くため息をついた。 「私はこの近くの街で育ったから、モントレー・パークは自分の故郷みたいなもの。平和で静かなこの街で、こんな惨劇が起きたことを、未だに受け止めきれない」  壁には「Ban Semi-automatic Rifles 禁止半自動歩槍」と、英語と中国語で書かれた青い紙が貼られている。 「銃が家族を破壊する」「大量殺人はもうたくさんだ」「銃での殺人が毎日。何度犠牲者の追悼式をやればいいのか。もう耐えられない」というメッセージが、コンクリートの地面にチョークで書かれていた。  ガルシアさんが80年代にこの地域に住み始めた頃は、素手での殴り合いの喧嘩は時々起きていたが、銃での射殺事件など1度も記憶がなかったという。 「ここは犯罪多発のダウンタウンとは違う。だからこそ当時この地域に家を買おうと決めたし、当時13%と高金利だった住宅ローンも必死で払ってきた。殺された人たちもきっとみんな同じじゃないかと思う」 モントレー・パークの街のレストラン。中国語がメインで、店員も客も英語を話す人はほぼいない(写真/長野美穂)  ダンススタジオに隣接する店のショーウィンドウを見ると、ZOJIRUSHIのマークがついた炊飯器や「ホットポット」と書かれた調理器具や電気鍋の箱が山のように積まれている。  人口の65%がアジア系のこの街では、台湾系や中国系の住民が圧倒的に多い。通行人の8割以上がマスクをしている光景もはっとするほど新鮮だ。LAのダウンタウンの路上で、現在、マスクをしている人は少数派だからだ。  道ばたにホームレスがおらず、街の看板はほとんどが中国語で書かれている。  街自体が“巨大な中華街”という感じなのだが、LAダウンタウンのチャイナタウンと違うのは、多くの飲食店のガラスドアにクレジットカードのシールが貼られておらず、現金払いが奨励されていることだ。  あるレストランに入って注文すると、店員の若い女性数人は「英語は話せない」というジェスチャーをして、店の奥から英語の話せる中年女性を連れてきた。彼女にまず聞かれたのは「キャッシュは持っているのか?」だ。  豚や鶏の料理が大皿に盛られているカウンターにテイクアウト料理を注文しにひっきりなしにやってくる客たち。50人ほどの客が次々と店員に注文するそのやりとりを聞いていても、全員が中国語で話し、店の中で英語を聞くことはなかった。 「生活の全てを中国語で完結することができてしまうのがモントレー・パークの特徴。私の友人のおばあさんは一言も英語を話さずに何の問題もなく生涯ずっとあの街で生活していた」と語るのは、すぐ隣の町アルハンブラに6年間住んだ経験がある台湾出身のクリスティーン・ジョーングさんだ。  今回の射殺事件の犯人のアジア系の72歳の男性は、このダンススタジオでダンスを教えていた過去があり、離婚した妻ともこのダンススタジオで出会ったと報道されている。 「ダンスのステップを間違えると彼に激怒されることがあった」とこの元妻はメディアの取材に話している。  臨床心理士の資格を持ち、スタンフォード大学医学部でメンタルヘルスの専門家として勤務経験があるジョーングさんは、この犯人の殺人の動機が何か、犯人の精神状態がどうだったのかなどは全くわからないが、と前置きした上で、こう語った。 「アジア系の人々、特に高齢者の場合、何か心に問題を抱えていても、メンタルヘルスの専門家の助けを求めることに強い抵抗がある人が多いことは確か。彼らの母国語でカウンセリングを提供する専門家も地域にいるけれど、英語ネイティブのカウンセラーに比べれば、その数は圧倒的に少ないと言える」  英語が母国語ではないアジア系高齢者の場合、母国語を話す同胞たちとの気心知れた地域コミュニティーが主な生活基盤となることが多い。  そのコミュニティー内で何か問題があった時、母国語を話すカウンセラーに問題を打ち明けたりすれば、最悪、周囲に知られてしまうのではと警戒するケースもあるのではないだろうか。 「私たちカウンセリングの専門家には守秘義務があり相談内容が他人に漏れる心配はない。そのことを知ってもらえると安心できると思う。ただ、メンタルヘルスや精神医学などという言葉自体に抵抗がある人が多いのは、わかる。例えば台湾では『心と体のコネクション』という柔らかな表現を使い、身体と心にまつわる相談をしやすい雰囲気作りをするクリニックも増えている傾向がある」とジョーングさんは言う。  英語ネイティブの臨床心理士の場合、アジア系の高齢者の文化や生活習慣に必ずしも精通していない場合もあり、その点を配慮した対応が望まれると彼女は話す。 「髪のカット料金12ドル」「太平銀行:定期預金8か月で固定金利3.88%」などという看板を見ながら街を歩き、再びスター・ダンススタジオに戻った。  すると「トランプ2020」のロゴが印刷された赤い帽子を被り、黒い服を着たアジア系の男性が犠牲者の顔写真のパネルに近づき、手にしたスマホで各パネルをなめるように撮影しはじめ、中国語で実況中継しながらライブストリーミングをしていた。  さらに、白い服を着た女性が犠牲者の顔写真の前で踊り始めた。  花を供えに来た白人やアジア人や黒人やラテン系などさまざまな人種の人々が、その2人を遠巻きにいぶかしげに無言で眺めていた。 右が福音派のキリスト教会のボランティアのジョン・カーン氏。集団射殺事件の現場に48時間以内に駆けつけるチームの一員だ(写真/長野美穂)   すると、そこに現れたのが、青い半袖のポロシャツを着てチノパンを履き長い髭を生やした中年の白人男性だ。シャツの胸には「チャプレン(牧師)」という白い文字が刺繍されている。  ジョン・カーンという名札をつけたその男性は、福音派のキリスト教会の「緊急対応チーム」に所属するボランティアで、米国内で銃での大量殺人事件が起きると、48時間以内にその殺害現場に駆けつけるのが使命だと言う。  同じ教会のボランティア仲間数人と、数日前にこの現場に到着したそうだ。 「誰かと話したい、気持ちを吐き出したい、という人たちの聞き手として、少しでも受け皿になれれば」と彼は言い、事件翌日から毎日ここに立っていると言った。 「悲劇を利用して福音派のキリスト教信者を増やそうとしているのかと批判されることもあるんだけど、その批判は甘んじて受けるよ。神を信じてもらえれば一番いいから。でも個人的には、銃撃事件でショックを受けて、トラウマを抱える人々の助けになりたいだけなんだ」と彼は言う。  すると、アジア系の男女がカーン氏に近づき「重症を負って病院に運ばれた9人がどうなったか知ってる?」と聞いた。カーン氏は「さっき病院に見舞いに行った人から聞いたけど、ある男性の首の後ろにはまだ弾丸が埋まっていて、あまりに神経に近すぎて、まだ手術ができないそうだ。州知事も見舞いに訪れたそうだけど」と語った。  すると隣にいた白人男性が「いや、それが、見舞いに来た州知事に、ベッドで治療を受けている男性が『早くこの病院から出してくれ。莫大な治療費が払えない。明日仕事を休んだらクビになってしまう』と叫んだそうだよ」と語った。  前述のデビーさんが「銃撃事件の犠牲者のために州から見舞金が出るんじゃないの?」と言うと、白人男性は「いや、上限が7万ドルなんだよ、その見舞金は。ICU病棟に3日入院しただけで7万ドルなんて簡単に超過してしまう。銃弾を取り出す手術すらできないよ、そんな金額じゃ。何とかしてクラウドファンディングで手術費を募らないと、負傷者は破産するよ」と言った。  カーン氏を含む全員がうなずく。  このモントレー・パークの射殺事件は、今年に入って全米で36件目の集団射殺事件で、その直後、カリフォルニア州内のハーフムーン・ベイでは、アジア系の66歳の男性がマッシュルーム畑で、同じ職場の上司含む7人を射殺する事件が起きた。  どちらもアジア系のシニア層の男性が犯人という点では共通しているが、ハーフムーン・ベイ事件の犯人が警察署の駐車場で逮捕されたのに対し、このモントレー・パーク事件の犯人は、事件後、30キロ以上離れたトーランスの街に逃走し、日系スーパー前の駐車場の車内で自殺しているのが見つかった。多くの日系人や日本人にとっては馴染みの深い場所だけにショックは大きかった。  トーランス在住で、日系アメリカ人の人権団体「ジャパニーズ・アメリカン・シチズンズ・リーグ」のサイスベイ支部のプレジデントを務めるケント・カワイ氏はこう語る。 「あの辺りはトーランス警察と州警察の捜査網が張り巡らされている捜査ハブなのに、そこにわざわざ犯行直後に逃げてきたというのは、別の犯行目的があったのか。犯人が自殺した今となってはわからないが、何が起きてもおかしくなかった」。  この72歳の犯人がアジア系だったことと、コロナ禍に米国でアジア系に対する犯罪が急増したこと、この2つに直接の関係はないにせよ、「コロナ禍の3年間の間に社会不安が強まり、特にアジア系の高齢者は外で危害を加えられる危険が増え、外出を控えるなど、社会的孤立の危険が大きかったことは確かだ」とカワイ氏は指摘する。  そんなアジア系の高齢者たちの子供たちの世代は、アメリカ生まれで英語ネイティブとして育ち、価値観も親の世代とは違うことが多い。仮に親世代が孤立していても、子供世代には深く理解してもらえないことは多いのではないか、とカワイ氏は言う。  また「もはや過去に犯罪歴がある人間だけを警戒しても銃犯罪は防げない。米国ではオンラインでも簡単に銃が買えてしまう。根本的に銃の取り締まり強化を法律で制定しないことには、同じことが起き、犠牲者が出続ける」とカワイ氏は警告する。  実際に、このモントレー・パーク事件の最中に、ロサンゼルス郡政府の犯罪者の更生に携わる部署が、ネットの公開オークションで、セミ・オートマティックの銃を売っていたことが報道で発覚した。  モントレー・パーク事件の犯人が使ったのと同じタイプの銃を、こともあろうに郡政府がオークションで不特定多数の市民に売っていた、という前代未聞の失態が明らかになったのだ。 「オンリー・イン・アメリカ」(こんな馬鹿げたことは、世界中探しても、アメリカでしか起きないよ)という批判が、ロサンゼルス中で溢れていた。 (文・写真/長野美穂) ※AERAオンライン限定記事
春節
AERA 2023/02/09 08:00
東大卒業まで7年、今はシングルマザー ラフなTシャツ姿の女性都市工学者39歳の紆余曲折人生
高橋真理子 高橋真理子
東大卒業まで7年、今はシングルマザー ラフなTシャツ姿の女性都市工学者39歳の紆余曲折人生
博士課程修了式の日に息子とともに(小野悠さん提供) 「日本の科学を、もっと元気に!」を合言葉とするNPO法人「日本科学振興協会(JAAS=ジャース)」が昨年、誕生した。官製やお仕着せではなく、日本の科学の活性化に関心を持つ人たちが自主的に集まった組織である。昨年6月には熱気あふれるキックオフ会議を東京・お台場の東京国際交流館で催した。オンラインを含めた延べ参加者は3000人超。その開会式の壇上に第1期代表理事として、ラフなTシャツ姿で現れたのが都市工学者の小野悠さん(39)だ。豊橋技術科学大学(愛知県)の准教授で、研究室ホームページを見ると「学生時代にアフリカ、アジア、南米など約70カ国を旅し、博士課程在学中にナイロビのスラムで暮らす」とある。一体どんな人なんだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) * * *――どういう研究をされているのでしょう?  対象にしているのは、インフォーマル市街地といって、法律や制度の外側で自然発生的に形成される都市です。こういうところは衛生環境や貧困などの課題を抱える一方で、日本の都市にはない魅力を見せるんです。住む人たちがどういう視点で空間を形成し、ルールを維持しているのかを調べることで、そうした魅力の要因を探り、今後の都市計画に生かしていけたらと考えています。調べるには現地に行って住民と信頼関係を築くことが不可欠で、アフリカやインドでフィールドワークをしつつ、一方で日本の地域づくりプロジェクトにも関わってきました。  こういう体験が、何もないところから新しい組織をつくるのに役立つかなと思って、準備委員会(*)をつくるときに「委員長やる?」と聞かれて「やろっか」と答えてしまいました。 (*)「日本版AAAS設立準備委員会」は2021年2月に発足。「AAAS(トリプル・エー・エス)=アメリカ科学振興協会」とは、1848年に創設された全分野の科学者が集う米国の組織。雑誌「サイエンス」の発行母体でもある。  私は2017年に豊橋技科大に着任し、そのころに日本学術会議の連携会員になって、情報が入ってきた。最初の集まりは東大で開かれたので参加できなかったんですが、コロナ禍になってオンライン会議が頻繁に開かれるようになり、こちらもコロナで時間ができたので、積極的に参加しました。 日本科学振興協会キックオフミーティング開会式で壇上に立つ小野悠さん(JAAS提供) ――委員長を引き受けて、どうでした?  大変でした(笑)。その当時、みんなで決めたことがいつの間にかなかったことになって誰かの意見が通っているみたいなことがよくあって、すごくもめた。それで、まず最低限のルール、何をもって決定とするのか、その決定事項を変えたいときはどうすればいいのか、といったことから決めていきました。  集まっているのはいわゆる自然科学系の人ばかりで、こういう経験があまりない人が多かった。 ――それで見事に任務を果たしたのは素晴らしい。準備委員会委員長からそのまま代表理事になって、でも1期だけで退いたんですね。  かなり悩みました。代表理事は男女2人で務めることになっていて、女性でやってくれる人はあまりいないだろうと勝手に責任感みたいなものを感じていたんですけど、コロナが落ち着いてきて、海外出張も入ってくるだろうし、学術会議も忙しくなる時期で、とても無理かなあと思って。「何で立候補しないんですか、困ります」みたいなことは言われましたが……。 ――なんだか、いつも自然体でいらっしゃる。  私は計画しないタイプで、これまでの人生けっこう紆余曲折あったんです。父親は東大卒ですが、やっぱり紆余曲折あって。私は小さいころから父によく似てると言われていました。私、いまはバツイチのシングルマザーです。 ――え! いきなりそこに行かないで順番にお伺いしましょう。お生まれは?  岡山市です。両親と2学年下の弟の4人家族で、母は県庁の総合職で定年まで勤めました。父は小児科医です。最初はロケットを作りたくて阪大を目指したらしいんですけど、1浪している間に社会に関心が出てきて東大の経済に進んだ。入ってみたら学生運動末期で、それに少し関わり、卒業後は岡山に戻って県庁に就職し、母に出会って私と弟が生まれた。  それから、私が病弱だったこともあり、働きながら受験勉強して岡山大の医学部に入りました。私が保育園のころです。医者になってしばらくして開業し、今は全部後輩に譲って、趣味とかやりたかったことをやっています。 ――へ~。  子ども心に「変わった親だな」と思ってました。うちには車がなく、テレビもなかった。テレビがないことにしんどい思いはありました。劣等感というか。小学校では、みんなの話についていけない。SMAPも見たことなくて、なんか5人いるらしい、ぐらいしか知らない(笑)。両親に「何でテレビがないの?」って聞いたんですけど、「うちに必要ないから」って。  海外旅行には保育園のころからよく連れて行ってもらいました。どこだったかパッと出てきませんが、アジアの島に4、5回かな。中1のときにフィリピンに行ったのが家族での最後の海外旅行でした。  それで小学生くらいから世界の貧困問題とか紛争とかに関心を持ち、図書館で「国連で働くには」とか「外交官の仕事とは」みたいな本を借りて読んでいました。そのうち、現場の状況と国際的に決まる政策とはかなりギャップがあるとわかってきて、自分の目で見て自分で判断できるようになりたいと思うようになった。 ――それ、小学生のときに思ったんですか?  そうですね。ちょっとませてたかもしれない。 高校2年生のときに行ったトルコの自給自足の村で搾りたての生乳で作ったチーズを食べる(小野悠さん提供)  中2で1カ月ぐらいオーストラリアにホームステイして、中3では中国の洛陽に1カ月弱ホームステイしました。高1のときは高校のプログラムで英国に1カ月行き、高2ではトルコに行きました。これはプログラムでも何でもなく、知り合いのつてでホームステイできるというので行ってみたらおばあちゃん3人暮らしの家で、同世代の子どももいないし、ここにずっといてもなあと思って1人でトルコを1周しました。お金がなかったので、宿代を浮かせるために夜行バスを乗り継いで、バスがないと町で出会った人に「すみません」みたいな感じで家に泊めてもらいました。 ――えっ、トルコ語でしょ、そこ。  トルコ語です。どうしてたのか。多分、通じてはいなかったと思うんですけど。  そのうち自給自足の生活をしているようなところに行きたくなって、途中で出会った人がうちの親戚はそういうところに住んでるよと教えてくれたので、バスで行きました。あとあと調べると、トルコの一番東のクルド人エリアだったんじゃないかと思うんですけど、どうやって連絡をとって行ったのかもはやわからない。親にも1カ月全然連絡してなかった。 ――基本的に夏休みに行ったわけですよね。  はい。終業式の前から宿題をやって、3日くらいで片付けて行ってました。 ――そうすると、クラブ活動はやらなかったの?  スポーツ少女だったんですけど、学校の部活は合わなかった。スポーツクラブで小学生のときは水泳、中学時代は硬式テニスをやっていた。高校に入るとき、Jリーグが盛り上がっていて、弟ともよくサッカーをやっていたので、男子サッカー部にちょっと入れてもらった。そうしたらすごく体力差っていうか体格差を痛感して、そのとき初めて女性と男性の違いを認識させられて、かなりショックな出来事でした。  で、バスケ部に入りました。と同時に、中3ぐらいからマラソンにはまってて……。マラソンはもともと両親がやっていて、朝に1時間とか走り込んでそれから高校で朝練、また夕方練習みたいなことをしていたら、膝を壊しちゃって。整形外科に行ったら、どっちかにしなさいって言われて、バスケは高2ぐらいでやめました。  高校のときにもう一つやっていたのが料理です。母親は休日にはボルシチやピザなど当時としては家庭であまり出ない料理を作ってくれることもありました。でも、ファミリーレストランとかに行かない家だったから、オムライスとか明太子クリームパスタとかに憧れがあって、それを食べたいと思ったら自分で作るしかない。他にも、粉からパンを作ったり、お菓子を作ったり、麺を作ったりするのがすごく面白くて。  それで、料理人になりたいと思って、調理師学校の入学資料を取り寄せて、どうしようか悩んでいた。そういう相談はよく父親にしていたんですけど、父は決して否定せず聞いてくれました。  結局、決断できずに高3の秋にひょんなことから東大に行こうと決心した。それから勉強しても1年目は普通に落ちました。それで東京の予備校へ。それまで勉強していなかった分、成績はどんどん伸びて、数学と物理が好きで理I(工学部・理学部進学コース)に入りました。  ところが、受かってから目標がなくなってしまって総崩れしたというか、学部を卒業するのに7年かかっているんですよ。 ――まあ!  いま考えると、かなり鬱っぽくなっていた。過食症だと思うんですけど、全然自分をコントロ―ルできない状態で、体重も倍ぐらいになった。ただ、大学では部活をちゃんとやりたいと思って、ビッグバンドジャズのサークルに入りました。子どものころからピアノはやっていたんですけど、先輩に勧められてあまり人気のないトロンボーンをやることにしました。 ――トロンボーンって難しいでしょう?  そうなんです。後から失敗したと思った(笑)。でも、最初に「やめない」というのを目標にしたから、居座ったっていう感じで、3年目にはバンドマスターをやって。大学には来ていたし、孤立していたわけではないんですけど、授業にはあまり行かなかった。  で、1年留年して、そのあと休学にしたのかな。サークルが3年目の12月で終わりなんです。もともと大学に入ったらバックパッカーをやりたいってずっと思っていたので、サークルを引退したらすぐ旅に出ました。  中国から入って、その後、アラビア半島に飛んでUAE(アラブ首長国連邦)、オマーン、イエメン、それからエジプトで高校時代の友達に会って、いったんイエメンに戻って現地で仲良くなった友人の結婚式に出た。そこから今度はアフリカに飛んでエチオピアとケニアを回って帰国しました。だいたい半年くらい。 ――お金はどうしたんですか?  アルバイトで稼ぎました。中東やアフリカはアジアと比べると物価も高いので、お金がすぐなくなる。なくなったら帰国して、またバイトして、お金をためて行く、というのを続けていました。 ――大学は全然ご無沙汰? はい。家族には、もう辞めたいとか、やっぱり料理人になりたいとか話していました。 ――お父様は何と? 「今すぐ決めなくてもいいんじゃないか」みたいな感じ。それで、西アフリカのベナンという小さな国に行ったときに、大学に戻ろうと思う出来事があったんです。 【後編:東大在学中「恵まれた自分を卑下」して70カ国を放浪もフッと悟る 女性都市工学者39歳が向かう先】に続く。 都市工学者の小野悠さん 小野悠/1983年、岡山市生まれ。東京大学卒、工学博士(東京大学)。愛媛大学防災情報研究センター特定准教授、松山アーバンデザインセンター副センター長などを経て2017年に豊橋技術科学大学大学院工学研究科講師、22年1月から准教授。同年4月からは学長補佐も務める。インフォーマル市街地の研究で日本都市計画学会論文奨励賞や日本建築学会奨励賞などを受賞。日本学術会議連携会員(第25期若手アカデミー幹事)。日本科学振興協会(JAAS)第1期代表理事。
女性科学者小野悠東大
dot. 2023/02/07 17:00
東大合格者が参考に ヨビノリ、いだちゃんねる…“受験界”席巻するYouTuber
秦正理 秦正理
東大合格者が参考に ヨビノリ、いだちゃんねる…“受験界”席巻するYouTuber
ぎんなん女子部  受験シーズンが本格化している。孤独な闘いを続ける受験生の支えとなっているものの一つがYouTubeだ。難関大学の合格者に人気の配信者に、番組を始めたきっかけや裏側を聞いた。 *  *  * 「受験は基本的に参考書とネットで乗り切りました。その分野をきちんと学ぶなら参考書は欠かせませんが、入門的に理解するにはYouTubeが最も効率的。使い分けが大事だと思います」  こう語るのは、東京大学理科3類に現役合格した同大の男子学生(20)だ。  関西トップレベルの中高一貫校出身で、中学高校と東大受験専門塾に通った。高校進学後、塾の宿題が増えて負担を感じるように。2年生でほぼ通わなくなり、3年生では塾の教材を使って自宅勉強に切り替えた。 「受験が近づくと塾で新しいことはほとんど学ばず、ひたすら演習問題を解いて復習する感じでした。それに時間を割くなら、家でやったほうが効率的だと思ったんです」  わからないことが出てきたときはどうしたのか。 「全部、ネットで調べました。例えば過去問だと、解説を参照すれば8割方内容が理解できる。それでもわからない内容は、検索すれば定義や関連記事が出てきます。数学や物理の各分野を詳しく解説するYouTubeチャンネルもあり、知らない分野を学ぶにも不都合はありませんでした」  孤独な受験生活を支える「お供」となったのもYouTubeだった。 「勉強しながらバックミュージックのような感じでゲーム実況チャンネルを流して聞いていました」  この学生のように、勉強のモチベーションを高めるツールとしてYouTubeを活用する学生は、決して少なくない。  本誌が昨春、東大・京都大学合格者を対象に実施したアンケートで「受験勉強の役に立ったアプリ」を聞いたところ、最も多く挙がったのがYouTubeだった。 「YouTubeで勉強すると楽しくて気晴らしになります」(東大理2)と勉強の手段として使う人や、「合格発表の動画や受験生向けの動画を見て、気合を入れ直していた」(京大工)、「勉強とは全然違う分野で活躍している人の動画を見ると、勉強だけが全てじゃないと思え、客観的に自分を見つめ直せた」(東大理1)というように、受験生活で生まれた悩みを解消する人もいた。  志望大学出身者のチャンネルを見てモチベーションを高めるという回答も多かった。冒頭の男子学生も、こう話す。 「受験期は東大の先輩であるベテランちさんのチャンネルを息抜きに見ていました。入学後は試験勉強対策としてヨビノリチャンネルを見ています。大学の授業よりもコンパクトにまとまっていてわかりやすく、数学の試験は全部ヨビノリで乗り切ったと言っても過言ではありません」  受験生からも大学生からも支持を集める高学歴YouTuberたち。そんな彼らの素顔に迫った。 ヨビノリ・たくみさん ■ヨビノリ・たくみさん “大学レベルの授業”が社会人にも人気  2017年7月にチャンネルを開設し、23年1月時点で登録者数は96万2千人超。教育系チャンネルで、一際存在感を放つのが「予備校のノリで学ぶ『大学の数学・物理』」(通称ヨビノリ)だ。大学の授業や受験レベルの理系科目を講義形式で解説する。代数学・量子力学・宇宙など扱うジャンルは広く、研究室訪問などの動画もアップしている。  たくみさんは横浜国立大学を卒業後、東京大学の大学院に進んだ。そこで配信を始めたという。 「大学に入ってまず思ったのは『大学の授業はわかりにくい』ということ。理系の授業はただでさえ難解で、教える工夫をしないと学生は離れていってしまう。学部1年から6年間、塾や予備校で講師をしていたこともあり、予備校のように授業をすれば、必ず需要はあると感じていました」  研究職に就けなかった場合のリスクヘッジという位置づけで配信を始めた。だが予備校時代の教え子を中心に評判が広がり、登録者が急増。大学院を中退し、専業YouTuberとなった。 「今思えば相当思い切った選択だと思います。ただ、もし動画だけで食べていくのが難しくても、他の講師職でやっていける自信がありました」  うれしい誤算もあった。当初は大学生をターゲットにしていたが、「学び直し」を目的とした社会人の視聴者も多かった。 「50~60代の方からは『学生時代には理解できなかったことを知り、モヤモヤが晴れた』という感想もいただきます。卒業後も大学の学問に関心を持つ人は多いと気づかされました」  中高年世代にとって、YouTuberはまだなじみが薄い仕事でもある。親世代に理解してほしいことはあるだろうか。 「長く続いているチャンネルは、配信者に専門の知識や技能がある場合が多い。迷惑行為が取り上げられるなど悪いイメージもあるかもしれませんが、そういう人たちはあくまでも一部。あまり不安に思う必要はないとお伝えしたいです」  たくみさん自身、専門性を高める努力には余念がない。講義で取り上げるテーマで理解できない部分があるときは、わかるまで教科書を買い集める。華々しく見える仕事を支えるのは、日々の地道な頑張りだ。 いだちゃんねるのサイコさん(右)、コバさん ■いだちゃんねる サイコさん、コバさん 現役京大生が“素の姿”を公開   メンバーの2人はともに京都大学工学部の現役学生。大学での成績を公開したり、試験週間の相方の様子に密着したりと、ユーモアを交えながら大学生活の様子を発信し、男子学生を中心に支持を集めている。 「自分の一番のファンは自分。僕が笑わない動画で、世間は絶対に笑いませんから」と力説するコバさん。それにサイコさんはすかさず「かっこいいこと言ってますけど、少し前に僕が言っていたセリフです」と突っ込みを入れる。そんな息が合った掛け合いも人気の秘訣。ちなみに「いだ」はアラビア語で「ふとした笑い」という意味だ。  大学入学後、サークル活動を通して知り合った。初めは深夜にラーメンを食べに行ったり、家でゲームをしたりと、普通の大学生らしい交流を重ねていた。あるとき、コバさんがふざける様子をサイコさんが撮影してTikTokに投稿したところ、100万回を超える再生回数を記録。これがきっかけとなり20年5月、「ぬるっとしたノリ」(コバさん)でYouTubeを始めた。  約半年間は思うように登録者が伸びなかったが、21年に入ると「受験あるある」企画などがヒット。23年1月時点で、チャンネル登録者数は27万人を突破。今は学内で声をかけられたり、街中でサインを求められたりすることもある。「昨日は横断歩道越しに『いだちゃんねるの人ですか』と叫ばれました」(サイコさん)  肩書が先行し、受験や大学に関係する話題を取り上げているように見られることも多いが、「京大」のくくりにとらわれるつもりはないと話す。 「開設後しばらくは受験のテクニックや大学について面白おかしく紹介する動画に力を入れていました。登録者が10万人を超えたあたりから『自分たちがほんまに面白いと思うことをしよう』と、素の部分や生き様を伝えることに重点を置いています」(コバさん)  現在はアシスタントも交えて3人で動画の撮影・編集作業を行う。つまらないと判断すれば、お蔵入りにすることもいとわない。ならば職業YouTuberとしてやっていくのだろうか。2人が口をそろえる。 「YouTube一本でやっていくかは決めていません。ただ、会社で働くよりYouTubeで発信活動を続けるほうが、より自由に、自分を生かした生き方ができるだろうとは思っています」 ベテランちさん ■ベテランちさん “東大生タレント”にはない魅力を発信  関西きっての名門、灘高校を卒業し、東京大学医学部医学科に所属する4年生。本名の「青松輝」名義では、短歌の創作活動も行う。 「灘高校から東大理3受けるやつあるある」や「東大理3入試のおもひで」など、出身校や受験を題材にしたクスッと笑えるエピソードが受験生や大学生の共感を呼び、人気が広がった。23年1月時点で、チャンネル登録者数は14万8千人超。最近ではテレビのバラエティー番組に出演したり著書を出したりと、活動の幅を広げている。今後、タレントとしての活動も視野に入れているかと聞くと「YouTuber専門の事務所から声をかけていただいたこともありますが、断りました」ときっぱり。 「いわゆる『東大生タレント』になってしまうと、本人の意思に関わらず、世間が期待する東大生像を演じなければならない場合もあると思います。そういうのがしんどいから、YouTubeをやっている面もある」  小さいころから音楽やお笑い好きで、人前で表現することへの関心が高かった。チャンネルを開設したのは20年4月。国内で新型コロナウイルスの感染拡大が始まり、在宅の時間が増えたことに背中を押されたという。 「短歌の活動をしている中、一部の人にしか届いていない感覚がありました。逆張り精神が強く、YouTubeというメジャーな手段で発信するのはダサいとも思っていましたが、だからこそ、あえて自分自身を裏切るようなことに挑戦してみようと考えたんです」  灘から東大理3という鉄板のエリートコースに注目が集まりやすいが、本人は「学歴の話題には興味がない」と語る。 「自分が受かれば、大学はそれでいい。学歴ネタはあくまで視聴者を集めるための『フック』。そこに惹かれて見に来てくれた人に予想を裏切る面白さを提供することを常々意識しています」  卒業後にどんな形で活動を続けていくかは考え中だ。 「たとえ医師になっても、YouTubeであれ短歌であれ、何かしらの形で表現活動は続けたいと思っています。『学生』というのはある意味で中ぶらりんな立場ですが、そのことをプラスにしたい。今は自分の中から出てくる感覚に嘘をつかず、一つひとつ丁寧な情報発信を心がけていこうと思っています」 週刊朝日 2023年2月10日号より ■ぎんなん女子部 真面目でお堅い“東大女子”のイメージを覆す “東大女子”をうたう「ぎんなん女子部」は、なのちゃんさん、みなみんとんさん、えりかさん、りこぴんさんからなる4人組。2019年に動画投稿を始め、高校生らに向けた受験勉強法のアドバイスを中心に動画を投稿している。大学生活や高校時代の過ごし方も紹介し、“東大女子の素顔”が見られるのが魅力だ。グループ名の「ぎんなん」は、銀杏の葉を用いた東大マークや安田講堂前の銀杏並木から着想を得た。 「落ちているぎんなんを見て、語感もいいと思って付けました。由来はなかなか伝わりませんが、一応『東大』を意識したネーミングなんです」(なのちゃんさん)  4人は学内のアイドルコピーダンスサークル「東大娘。」で出会った。グループ一の行動派のなのちゃんさんが「面白そうだったから」という理由で、メンバーに声をかけ結成された。 「東大女子というと真面目でお堅いイメージで見られがちですが、そんなことはなく、むしろ型にはまらない人や面白い人が多いんです。そうした“顔”を画面の向こうに届けられたら」  みなみんとんさんはこう話す。 「東大女子はみな好奇心旺盛で、人間的に面白いし、知識は豊富だし、いい意味で変な人が多い。世間でのいわゆるがり勉的なイメージにとらわれずに、自分たちの魅力が伝わればいいなと思っています」  東大は学生の女子比率が低いことでも知られる。「東大女子というレアさ」(みなみんとんさん)はYouTuberとしての強みだが、夢をこう語る。 「私たちの動画を見て、こんな人たちがいるんだと関心を持ってもらって、女子の入学が増えたらうれしいし、在学生にも居心地よく過ごしてもらいたい」  19年の初投稿以降、再生回数の向上を図って試行錯誤してきたが、炎上も経験した。 「私大生と共演した企画動画で、傲慢な態度をとっていると誤解されてしまったことがあります。あくまで企画のネタで、そうした意図はなかったのですが、SNSの運用を学ぶ機会にもなっています」(えりかさん)  東大を卒業した4人は今、それぞれ別の道を進む。なのちゃんさんは法学部を卒業後、児童精神科医になる夢を追いかけ、別の大学の医学部に編入した。みなみんとんさんは社会人として日々研鑽を積み、えりかさんとりこぴんさんは東大の大学院に進み、それぞれ薬学と農学を学んでいる。ただ、YouTuberとして活動は続けるようだ。 「高校生は受験勉強の仕方のほかにも、世の中にどれほど多くの職業があるかもよくわからないと思う。私自身、勉強が得意な人が就く職業は、医者と弁護士しか知らなかった。今後はいろんな職種の人のインタビューなど、職業紹介動画を高校生たちに届けられたらいいなと思案中です」(なのちゃんさん)  最後にメンバーは笑顔でこう話した。 「動画投稿は長く続けたい。東大卒おばあちゃんYouTuberもありだと思っています!」 (本誌・松岡瑛理、秦正理)※週刊朝日  2023年2月10日号
週刊朝日 2023/02/06 17:00
私が片づけたら、子どもたちが“片づけられる子”に育ち始めた
西崎彩智 西崎彩智
私が片づけたら、子どもたちが“片づけられる子”に育ち始めた
散らかっているうえにソファでくつろげなかったリビング/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.39  「もっと広ければ……」と思っていた家がお気に入りの空間に 夫+子ども2人/医療職  片づけができないという人の多くは、「子どもも片づけられない子になったらどうしよう」という悩みを抱えています。自分が小さな頃から家が散らかっていたという環境があるため、自分の子どもも同じように片づけができないまま大人になってしまうかもしれないと思うからです。  子どもは親の姿を見て育ちます。どこかでこの流れを止めないと、いつまでも“片づけられない子”が続いてしまうかもしれません。今回ご紹介する女性は、一念発起してこの負の連鎖を断ち切ることに成功しました。 「もともと片づけに対して苦手意識はなかったんです。でも、今思えば私の片づけ方は、モノの量も減らさず、1ヶ所にグチャグチャにまとめて終わり、という感じでした。両親も捨てられない性格で、実家もモノが多いですね」  幼い頃の記憶をたどって話してくれた彼女は、4歳と6歳の子どもの母親。フルタイムの仕事を毎日こなしながら、育児と家事に奮闘しています。現在の家ではいつも床にモノが散乱していて、仕事から帰ってくるとため息が出ていたそうです。 「疲れて帰ってきたのに、まず片づけから始めないと一休みすることもできない。子どもたちからは『あれ取ってー』『○○はどこ?』と言われて、あちこちからさらにおもちゃが引っぱり出されてくる。ずっとイライラしていました」  コロナ禍でほぼ在宅勤務になった夫も、片づけは苦手。食後の片づけをやってくれることはあるが、家事全般は彼女まかせです。家族で生活するのがやっとで、片づけや掃除には手が回らなかった。 「ソファで座りながらテレビが見たい」という夫の希望が叶う配置に/アフター  そんな家の状態なので、子どもたちからは「友だちを家に呼びたい」というリクエストがあっても「無理!」と断っていたそう。 「でも、上の娘はもうすぐ小学校にあがるので、お友だちと家で遊びたいという機会が増えるんだろうなと思って。それまでになんとかしたい、と考えるようになりました」  そんなときに「家庭力アッププロジェクト®」の存在を知り、説明会に参加。 「話を聞いているうちに、『私、変われるかも!』と感じたんです。片づけだけじゃなくて、生活全部を整えられる気がして。ちょうど仕事でうまくいかずにモヤモヤしているタイミングだったので、やってみようと思いました」  医療関係の仕事で夜勤もある。さらに、仕事関係の資格試験も重なっていました。でも、彼女は「ごちゃごちゃ言わずにやってみる」と、固く決意。  これまでは「いつか使うかも」「まだ使える」という気持ちが邪魔をしていましたが、思い切って不要なモノを手放し始めます。捨てる以外にも、フリマアプリやリサイクルするサービスを上手に活用することで、家の中のモノをどんどん減らしていきました。 「プロジェクトで習ったことを子どもたちにも伝えました。例えば、『1つモノを増やしたら、1つモノを家から出す』ということを何回も言ったら、少しずつ実行してくれるようになったんです」  片づけを進めていく中で子どもたちの自主性に気づいた彼女は、娘に洋服の置き場所をきいてみることにしました。すると、リビングの収納スペースに置きたいという回答が。 「そこには今まで洋服を置いたことがなかったし、夫や私では思いつかない場所でした。でも、実際置いてみるとお風呂に行くときに着替えが取りやすく、朝の着替えもしやすい。これまで私が準備していたことを自分でできるようになりました」  さらに、洗面所の高い棚に置いていた子ども用の保湿クリームを、娘の手の届く場所に置いたら、お風呂から上がると娘が自分で保湿クリームを塗るようになりました。娘の成長を感じるとともに、彼女の負担も軽減。 「まだ小さいからと、なんでも私が勝手に判断してしまっていたなと反省しました。もうちゃんと意見を持っていて、自分でできることがたくさんある。それに気づけたことは大きいですね」 カウンターの上にモノがごちゃごちゃと置かれています/ビフォー  子どもたちのおもちゃの定位置を決めると、遊び終わってから下の息子もきちんと片づけてくれるようになりました。家族みんなでモノの住所がわかっているので、今までのように「あれ取って」「○○はどこ?」とは誰も言いません。片づけを促すときも、「片づけなさい」と怒鳴るように言っていたのが、「戻してね」と声をかけるだけできれいになります。 「このまま片づけられる子になってくれるといいんですけど……」と彼女は言いますが、もう基礎はでき始めているでしょう。このまま継続すれば、きっと片づけられる大人に成長してくれます。  夫ともテレビやソファの配置などで話し合いを重ねました。彼女は彼女で、夫は夫で「こうしたい」という思いがあり、試行錯誤をくり返して家族にとってのベストの配置が見つけられました。 「『もっと広い家に住んでいたらきれいにできて、いつでも人を呼べるのに』って思ったことがありました。でも、違いましたね。自分で考えて、自分で決めて、自分できれいにしたこの家が、すごくお気に入りになりました!人が来るときも、『いつでもどうぞ』って言えます」  プロジェクト終了後は、職場の片づけにも着手。ストックの多い備品を整理して働きやすい環境を整え、同僚からも感謝されました。 1日の最後にはいつもスッキリとリセットできるように/アフター 「仕事に対してのモヤモヤもクリアになりました。私は今まで『先輩がこうしていたから自分もやってみよう』という感じで、他人の基準に合わせてきたんです。でも、これからは自分の基準を大切にしようと思います!」  そう力強く話してくれる彼女は、もうすぐ開業する予定とのこと。「大好きな仕事を続けながら、子どもとの時間をもっと増やしたい」という、今まで理想でしかなかった生活が実現される日も近いですね。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。
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AERA 2023/02/06 07:00
The 1975のマシュー・ヒーリー、オアシスは“大人になって”再結成すべきと語る「ふざけるのをやめてほしい」
The 1975のマシュー・ヒーリー、オアシスは“大人になって”再結成すべきと語る「ふざけるのをやめてほしい」
The 1975のマシュー・ヒーリー、オアシスは“大人になって”再結成すべきと語る「ふざけるのをやめてほしい」  The 1975のマシュー・ヒーリーが、カナダCBCの『Q With Tom Power』出演した際に、2009年に解散したオアシスに対する不満をぶちまけた。  大成功を収めながらも、ノエルとリアムのギャラガー兄弟の不仲が原因で崩壊したまま再結成の可能性が極めて低いこのバンドについて、マシューは自身の見解を歯に衣を着せずに明言している。2023年2月2日に番組がインスタグラムに投稿した、インタビューの抜粋動画で彼は、「オアシスは何をしているんでしょうね?今もまだ世界で一番クールかもしれないバンドにいながら、兄弟でかんしゃくを起こしているからやらないなんて想像できます?」と、強い口調で話している。  彼はさらに、「50代なのに20代の服を着てるのは構わないですけど、20代のように振る舞うのはね……大人になれよって。彼らはリトル・ヴェニスとかハイゲートでぶらぶらしながら、兄弟喧嘩のことで泣いてるんですよ。大人になって、【グラストンベリー】のヘッドライナーを務めたらどうです?」と続けた。  かなり辛辣な物言いだが、次に彼が言ったことはさらに手厳しい。「ハイ・フライング・バーズとかリアム・ギャラガーのライブに行く人で、オアシスのライブの方がいいと思っていない人なんて一人もいないですよ」と彼は断言し、「頼むから、再結成して、ふざけるのをやめてほしい。それが今日の僕からの公共メッセージですよ」と続けている。  ギャラガー兄弟、ギタリストのゲム・アーチャー、ベーシストのアンディ・ベルを最終メンバーとするオアシスが、フランスでの公演前にリアムとノエルが口論となり、2009年に正式に解散してから約13年が経過している。その後、自身のバンド、ハイ・フライング・バーズを結成したノエルは、2009年8月にオアシスのウェブサイトに「今夜、自分がオアシスを辞めたことを多少の悲しみと大きな安堵をもってお伝えします」と書き、「人は好き勝手に書いたり言ったりするでしょうが、自分は単純にリアムとこれ以上1日も一緒に仕事を続けることができませんでした」と続けていた。  しかし、つい昨年にもリアムはオアシスの再結成に乗り気だと語っていることから、ひょっとするとマシューの望みはいつか叶うかもしれない。あるインタビューでリアムは、「オアシスが再結成できたらうれしいですね。なるようにしかなりませんけど。ただ、自分は(ソロ活動に)結構満足しているんです」と述べ、「(バンドは)解散すべきではなかったけれど、そうなってしまったし、これが俺たちの現状なんです」と語っていた。
billboardnews 2023/02/03 00:00
三國清三はいかにして"世界のミクニ"になったか。70歳、新たな夢を見つけるまでを綴った自伝
三國清三はいかにして"世界のミクニ"になったか。70歳、新たな夢を見つけるまでを綴った自伝
『三流シェフ』三國 清三 幻冬舎  "世界のミクニ"として有名なフランス料理シェフ・三國清三さん。書籍『三流シェフ』の帯に「誰より苦労しても、その苦労を見ている人は1%にも満たない」とあるように、その名は知っていても、彼の半生について詳しく知っている人は少ないかもしれません。  同書は三國さんが自身の生きざまについて記した自叙伝。話は半世紀以上前、北海道の増毛(ましけ)という町で三國さんが貧しい漁師の子として育つところから始まります。少しでも家の手伝いをするべく、小学校にもほとんど行かずに父とともに海に出るのがあたりまえだった少年時代。戦後、日本が右肩上がりで豊かになっていく中、「将来に夢を抱いたり、不安を感じたこともない。生きるだけで精一杯だった」(同書より)という日々を過ごします。  そんな三國さんが自身の夢を見つけたのは、中学卒業後、札幌の米屋で住み込みで働きながら夜間の専修学校に通っていたとき。三國さんが生まれて初めてハンバーグを食べて衝撃を受けていると、「これは家庭のハンバーグ。グランドホテルのハンバーグはこんなもんじゃない」と言われたそうです。その瞬間、三國さんは「ぼくはグランドホテルのコックになって、日本一のハンバーグを作る」(同書より)と心に決めます。  しかし中卒だった三國さんは、札幌グランドホテルの採用試験を受ける資格がなく、正攻法での入社は不可能でした。それでも諦められず「どこかに抜け道はあるはずだ」と考えた三國さんは、驚きの手段に打って出ます。そして社員ではないものの、ホテルの社員食堂の調理場で働くチャンスを得ることができ、ここから彼の料理人人生の第一歩が始まるのです。  上京してからは、帝国ホテルでの仕事は皿洗いであるにもかかわらず、初代総料理長の村上信夫さんの料理番組のアシスタントを務め、さらに20歳のときには、村上さんからスイス大使の専属料理人としてジュネーブに行くよう命じられます。  コネも学歴もないところからの大躍進は、三國さんが強運の持ち主だったからなのでしょうか。同書を読めば、その陰には常人を寄せ付けないような懸命さ、そして情熱が隠されていることに誰もが気づくはずです。どんなに不利な状況でも自分にできることを探し、雑用も買って出る。そして虎視眈々と時機をうかがい、チャンスをつかんだからには人一倍の熱量でそれに立ち向かう――。  働くのは子どもの頃からちっとも苦ではなかったという三國さん。「海の上では、言われてから動いたのでは遅い。なにも言われなくても父親の動きの先を読んで、自分がしなきゃいけないことをする。言われたことをするだけならだれにでもできる。仕事を手伝うというのは、本来はそういうことではない」(同書より)との言葉は、料理だけではなくすべての仕事に通じる哲学ではないでしょうか。  このほか、ヨーロッパでの料理人修行や偉大な恩師たちとの出会い、ミシュランとの決別など、さまざまな思い出が書かれている同書。2022年末に37年間続けた「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店し、70歳で新たな夢を叶えようとする三國さんの情熱の源に触れることができる一冊です。 [文・鷺ノ宮やよい]
BOOKSTAND 2023/02/02 19:00
中高年に忍び寄るアルコール依存症 減酒外来の受診理由は「ブラックアウト」が最多
渡辺豪 渡辺豪
中高年に忍び寄るアルコール依存症 減酒外来の受診理由は「ブラックアウト」が最多
※写真はイメージ(gettyimages)  コロナ禍の閉塞状況が続くなか、「中高年の依存症」に注目が集まっている。仕事のストレスや健康不安、親の介護……。社会的責任を伴う中高年。取り返しのつかないリスクを背負う前に、依存症から抜け出す回路を紹介する。AERA 2023年2月6日号の記事から。 *  *  * 「コロナ禍が転機になりました」  こう振り返るのは、都内在住の50代の会社員男性だ。  もともと酒はよく飲むほうだった。接待で飲む機会も少なくなかった。新型コロナウイルスの感染拡大で2020年4月からリモートワークに切り替わると、自宅で飲む酒の量が一気に増えた。引き金は仕事のストレスだ。コロナ禍の部下のマネジメントに苦心したという。 「オンラインの定例会議や個別面談以外の普段の顔が見えないなか、ケアの仕方に戸惑いました」  酒量が増えたのは飲む時間が長くなったためだ。リモートワークだと仕事はすべてパソコン上で完結する。オンライン会議が終わると、「今日はもう会議がないから」とまだ明るいうちから、ワインやウイスキー片手にパソコンに向かう。海外の取引先との夜間のオンライン会議にはほろ酔いで臨んだ。 「オンライン会議だと中身をマグカップに移せば、会議メンバーにはコーヒーを飲んでいるようにしか見えません。プレゼンもしますが、弁舌が滑らかになりかえって調子がよくなるため、飲酒がばれたことはありません」 ■「減酒」が入り口でよい  夕食時に開けたワインのボトルは一晩で空いた。晩酌の延長で6時間飲み続け、そのままソファで寝ることも。見かねた妻に促され、20年末ごろ精神科を受診した。 「飲酒の状況を聞かれると、『仕事に支障のない範囲で飲んでいます』と答えます。『自分でコントロールできているなら大丈夫じゃないですか』と医師に言われると、『はい』と答えるしかありませんでした。断酒しかないと思って精神科を受診しましたが、本音では断酒となると突然、人生の楽しみの一つを失うようで抵抗もあります」 AERA 2023年2月6日号より  男性は飲酒による暴力や暴言で、家族や同僚に迷惑をかけたことはないという。とはいえ、隠れた飲酒の要因を抱えているのかもしれない。そう考え、3カ所の精神科を受診したが、いずれも通院には至らなかった。「ダラダラ飲み」が習慣になると、健康に致命的な悪影響が出るのでは、という不安もある。男性はこう打ち明けた。 「夜な夜な一人で飲酒しても楽しいことなんてありません。依存症のボーダーラインにいると自己分析していますが、本当にこのままでいいのでしょうか」 「依存症予備軍」かもしれない、と自覚している人は少なくないだろう。だが、そんな人もすでにれっきとした「依存症」の可能性がある。 「いわゆる『大酒飲み』とアルコール依存症の人は根本的に異なるものではなく、飲酒が増えるにしたがって連続して依存が強化されていくものなので、境界線上の人では『ここから先は依存症』と明確に線引きできるものではありません」  こう話すのは、国立病院機構久里浜医療センターの木村充副院長だ。コロナ禍の臨床現場で実感してきたのは、働き盛り世代の酒量の増加だという。  同センターは17年に「減酒外来」を開設。「飲酒に問題を感じているすべての人」が受診できるよう間口を広げた。すぐに飲酒をやめることができない場合は飲酒量を減らすことから始め、飲酒による害をできるだけ減らす「ハームリダクション」という概念に基づいている。 「アルコール依存症は飲酒を断つしか治療法はないと言われてきましたが、医療が早くから介入したほうが重篤化を防ぐことができます。であれば、『断酒』ではなく『減酒』が入り口でよい、という認識がこの10年で定着しました」(木村副院長) ■最多はブラックアウト  減酒外来を受診するのは、収入や生活が安定した現役世代が目立つという。  同センターが17~18年に減酒外来を受診した人の属性を調べたところ、平均年齢は男性が48歳、女性が43歳。仕事に就いている人が男女とも9割超。同居家族がいる人が男女とも約8割。男性の学歴は大学卒と大学院卒で7割を超えた。受診理由で最も多いのが「ブラックアウト」(記憶がなくなる)で3割強を占め、身体的(健康)問題、暴言・暴力と続く。  減酒外来では「お酒の量を減らす」ことや「問題のない飲み方をする」ことなど、それぞれの目標設定に合わせた酒との付き合いをサポートする。生活習慣の行動変容を目指すカウンセリングが中心だ。 「『恥の文化』が根強い日本では、自分の弱い面をさらけ出すことに抵抗を感じる人が多いと思います。本音を引き出せる関係を構築するのも医師の重要なテクニックです」  こう話すのは精神科以外で全国初の「アルコール低減外来」を19年に開設した北茨城市民病院附属家庭医療センターの吉本尚医師だ。  アルコール依存症に関する18年の診断治療ガイドライン改定で、精神科以外の内科などでも初期の依存症患者の診察が推奨された。吉本医師はその最大のメリットは「アクセス改善」だと言う。 「内科や小児科もある医院だと、対外的なメンツを気にする人も受診のハードルが低くなります。外来患者には医療関係者も珍しくありません」  同センターの外来は内科治療も並行するのが特徴だ。長年の飲酒習慣で内臓疾患を併発している人が多いため、採血や肝臓機能のチェックも行いつつ、飲酒改善も指導する。高血圧や糖尿病の薬も処方してもらうため、途中で通院しなくなる患者は少ないという。 ■周囲の人にばれている  筑波大学准教授の吉本医師はこれまでに、同センターと筑波大学附属病院で合わせて約170人のアルコール低減外来の患者を治療してきた。平均年齢は50代後半だ。この世代は、仕事に対するモチベーションの変化が飲酒のきっかけになりやすいという。 「定年後に時間をもてあまして飲酒する人もいますが、意外とその手前の世代が多いように感じます。がむしゃらに働いてきた人が、社内でのポジションも先が見えてくると仕事のモチベーションが下がり、その心の隙間をお酒で埋めてしまうわけです」  女性の場合、介護がきっかけの人が目立つという。親の介護で外出できなくなり、ストレスが発散しにくくなって飲酒を習慣化してしまう。心身の不調も飲酒のきっかけになりやすい。加齢とともに体の自由が利かなくなったり、身近な人と死別したりする「喪失体験」を飲酒で癒やす傾向は男女を問わない。吉本医師は言う。 「こっそり多飲しているつもりの人も、実際は周囲にばれていると考えたほうがいいでしょう。中高年は特に、これまで築いた社会的信頼を飲酒で失うリスクが大きいことを肝に銘じる必要があります」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2023年2月6日号より抜粋
AERA 2023/02/02 18:00
体は温めるより「冷やすべきだ」 南雲医師が実践する水シャワー健康法
体は温めるより「冷やすべきだ」 南雲医師が実践する水シャワー健康法
※写真はイメージです 「体を冷やしたらだめ!」と言われ続け、「温活」という言葉もすっかり定着している。しかし、67歳に到底見えない若さを誇る南雲吉則医師は、「体は冷やすべきだ!」と主張する。そのワケは? *  *  * 『50歳を超えても30代に見える生き方』(講談社+α新書)など、数々のベストセラーを出した南雲吉則医師は現在67歳。今も変わらぬ体形と見た目の若さを保っている南雲さんが習慣化しているものの一つに「水シャワー」がある。  約20年前、浴室でシャワーを浴びるときに、水が湯に変わるまで時間がかかっていたが、面倒臭がって水のままシャワーを浴び続けていたことがきっかけだったという。 「冬になっても水でシャワーを浴び、乾いたタオルでゴシゴシ拭いていたら体がポカポカして、手先がピンク色になってきたんです。そこで、昔は乾布摩擦や健康を祈願する水ごりなどがあったことを思い出しました」(南雲さん)  水シャワーを続けているうちに冷え性が改善され、体重も減ってきたことから、「実は体を冷やしたほうが健康にいいのではないか?」と考えるようになったという。 「体温が上がれば代謝が上がり、免疫力も上がるというのはよく言われること。では、体を温めれば体温が上がるのかと言えば、そうではありません。気温が高い赤道直下の人は体温が上がって熱中症になり、北極圏の人は体温が下がって低体温症になるということはないからです。人間は恒温動物なので、脳や内臓などの温度である深部体温を37度前後に保つ体温調節中枢の働きによって、深部体温を一定に保っているからです」(同)  体温調節中枢は、外側から体を温めるほど毛穴を開いて体表面積を広げ、汗をかいて熱を放出する。体表面から体内の熱が奪われるように仕向けて、深部体温を下げていく。  逆に体が冷えると、毛穴を引き締めて熱が出ていくのを防ぎ、深部体温を高く保とうとする。 「寒いとき、体は酸素と一緒に脂肪を燃焼させて深部体温を上げようとします。この働きは、細胞内のミトコンドリアという細胞小器官によるもの。外部から寒さ刺激があると、ミトコンドリアが活性化するのです」(同) 「長生きの秘訣は自らの軽量化。ミトコンドリア活性化に最適な有酸素運動はウォーキング。毎日続けています」(c) 野口博  南雲さんは、このミトコンドリアの活性化こそが健康の増進や若さの維持、エネルギッシュな活動に深く関わっていると考えている。ミトコンドリアの活性化には、寒さ刺激のほかに「有酸素運動」や「空腹」も効果的という。そのため、南雲さんは毎日のウォーキングと、1日1食も長年習慣化している。  また、ミトコンドリアは活性化によって細胞内の数が増えるという。数が増えて常に活性化されるようになると、エネルギーの産生力も強化される。それが人を健康たらしめることになる、と南雲さんは力説する。 「私はがんの専門医。がんをいかに予防するかを考え続けてきました。ミトコンドリアを活性化させると脂肪が燃焼してエネルギーの産生力が上がるため、肥満が解消され、免疫細胞の働きもよくなってがんや感染症を防ぐ力が高まります。細胞の生まれ変わりも促すため、若々しい細胞が次々と作られることになります。現在67歳の私が50代と間違われるのも、水シャワーの実践でミトコンドリアを活性化させているおかげです」(同)  それならなぜ、健康のために体を温めるという考え方が主流になってしまったのだろうか? 「私も疑問だったのですが、ポピュリズム(大衆迎合)の一種では? 乾布摩擦や寒中水泳より体を温めるほうが取り組みやすいですし」(同)  どうやって水シャワーで寒さ刺激を与えるのか。南雲さんは真冬でも頭から水をかけているが、寒さ刺激に慣れていない人には抵抗感があるはず。記者も本特集にあたって水シャワーを体験したが、覚悟が決まらず、取材前日の夜に、追い詰められるように挑戦したほどだ。 「健康のために1日1万歩ウォーキングしなさいと言われても歩けないように、水シャワーもいきなりは無理でしょう。ウォーキングならまずは5分というように、水シャワーも手先や足先にかければいい。心臓まひなどが心配であれば、なおさらできるところから始めればいいんです」(同) 週刊朝日 2023年2月10日号より 丸山和也弁護士に誘われて寒中水泳に初挑戦した南雲さん(左から2人目)。「波のゆらぎに身を任せ、安らかな気持ちになれました。指先や足先まで真っ赤になり、心身ともに元気になったんです」(南雲さん、写真提供も)  長野県在住の管理栄養士・長井佳代さんも、水シャワー実践者で、きっかけは寒中水泳だった。 「仲間と挑戦したのですが、すごく気持ちよくて寒さ刺激のよさを実感しました」(長井さん)  全身に水シャワーを浴びることに抵抗感があった長井さんは、朝起きたらすぐに浴室でパジャマのすそをひざまでまくりあげ、ひざ下に冷水をかける方法を試してみた。 「水シャワーだと全身を拭かなきゃいけないし、ひざ下に水をかけるほうが手軽。一発で目が覚め、一日中元気で活発でいられるようになりました。長野の氷のような冷水をかけるのが日課です。また、寒冷地の長野で歩き回っているうちに背中のぜい肉も落ちました。寒さ刺激で脂肪燃焼効果が高まっているのだと思います」(同)  栄養指導を行う長井さんは、仕事柄無理せず長く続けられることを第一に考えている。寒さ刺激も、ひざから下に冷水をかけるほうがやりやすいと考えた。 「やるかやらないかは本人次第。やらないことでチャンスを逃していることもあるはず。やってみようかなと思う気持ちも、若さや元気につながると思うんです」(同)  取材のために挑戦した記者のその後だが、頭から冷水をかぶるのは時期尚早と反省。風呂から上がる直前に、ひじとひざから先に水をかけるところから始めてみた。すぐにポカポカするのを実感できるため、今のところ毎日続けられている。  昔ながらの健康法とも言える水シャワーによる寒さ刺激、まずは試してみてはどうだろうか。(ライター・吉川明子)※週刊朝日  2023年2月10日号
週刊朝日 2023/02/02 17:00
片づけたら「できない」という思い込みも一緒に手放せた
西崎彩智 西崎彩智
片づけたら「できない」という思い込みも一緒に手放せた
収納が少ないのでラックや棚にモノを詰め込んでいました/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.39  言い訳ばかり出てきた思考がポジティブに 夫+子ども2人/経理事務   人はどうしても楽な方に流されてしまいます。家の中が散らかっている人は、片づけない方が楽だと思って、そちらを選び続けてしまったのです。そのとき、自分に都合のよい言い訳もきっと1つや2つは思い浮かんでいるはず。  忙しいから。疲れているから。時間がないから。 「私は子どもがいるから片づけができないんだって思っていました」  さちこさんは、11歳と3歳の子どもを育てながら仕事もしています。夫は仕事中心の生活をしていてあまり家事・育児の協力が得られず、片づけに費やす時間がないと嘆くのも当然かもしれません。 「ほぼワンオペの状態で育休から復職。がんばって働いていましたが、ちょっと仕事が回らなくなったタイミングで職場の人との信頼関係がうまく築けなくなり、私がいっぱいいっぱいになってしまって……」  職場のデスクは散らかり放題で、探し物ばかり。その結果、ミスも増えました。少しのことから始まった負の連鎖が止められなくなってしまいました。   家の中も洋服、書類、本などが散乱している状態。「もう無理だ」と思って退職したさちこさんは、次の職が見つかるまでの間、せめて家の中を片づけようと決意します。  以前は片づけに苦手意識はありませんでした。引っ越しが多かったので、自分の荷物はそれほど多くなかったからかもしれません。でも今は、自分のモノだけでなく家族のモノも増え、管理ができていない状態。 「たぶん育児が忙しくなり始めた頃に、片づけることに対して考えたり、時間や手間を費やしたりすることをやめてしまったんだと思います」と、話すさちこさん。   モノを減らしたら棚を撤去できてスッキリ/アフター 「最初は自宅まで来てくれる整理収納アドバイザーの方にお願いしようと思ったんです。でも、このぐちゃぐちゃな家の何をどうやってお願いすればいいのか悩んでしまって」  いざ片づけようと思っても、片づけを避け続けていたので何から手をつければいいのかわかりません。そんなときに家庭力アッププロジェクト®の存在を知り、参加を決意しました。 「自分が片づけられるようになれば、子どもたちも片づけが習慣化できるかなと思って。自分以外にも、よい影響がでたらいいなという期待もありました」  小学校5年生の長男は、3年ほど前から不登校が続いています。さらに、自分だけのリズムで生活をしている夫にも不満がたまっていました。自分が変わることが、家族みんなの笑顔につながるかもしれないと思ったのです。  家事・育児・転職活動に加えて、45日間の片づけもスタート。さちこさんいわく、“怒涛の日々”でした。  少しでも時間があるときは、気づけば片づけについて考えていました。不用品を手放し、モノの定位置を探す。次男が起きている時間はなかなか片づけを進められないので、昼寝の時間や寝かしつけが終わった夜などの時間を活用しました。 「プロジェクトで学んでから改めて家の中を見回してみると、長く使っていないモノやもう必要ないモノばかり。なんで今まで残していたんだろうって不思議でした」  長男は片づけに協力的でした。  たまに夕ごはんを作ってくれるほど料理が好きなので、キッチンは長男の意見も取り入れることに。フライパンや調味料などを子どもでも取り出しやすい場所に収納したかったので、場所を変えながら検証して一緒に最適な場所を見つけました。  家の中がきれいになってくると、探し物や「あれどこ?」と家族にきかれることがグンと減り、さちこさんのストレスが減りました。 「以前よりもイライラすることがなくなりましたね。夫に対しても、ずっと『私だけがこんなにがんばっている!』と自分の不満を押しつけていましたが、今では『夫なりに仕事のことで頭を悩ませたりしているんだろうな』と気づかえるようになったんです」 コンロ周りもごちゃごちゃしていました/ビフォー  さちこさんの変化を受けて、短気な夫も少し穏やかに変わってきました。 「自分でも変わったと思います。『できない』とあきらめるのではなくて、『どうしたらできるようになるか』という考え方になりました。前と変わらず、時間はないし、忙しい。でも、自分の中で『ここまでならできる』ということがわかるようになったんです」  転職先も決まり、自分らしいペースで働けるようになったさちこさんは、これからもっと長男と向き合おうと考えています。 「自宅でパーティーを開いたとき、ほとんどの料理を長男が作ってくれました。人が喜んでくれるのは好きみたい。これからそうやって長男が料理の腕を振るう機会を増やしていこうかな」  さらに、片づけによってすべてがボリュームダウンして心が軽くなったとも教えてくれました。 「家の中のモノの量が減ったというのはもちろんそうなんですが、ずっと心の中にあった『片づけないと……』という気持ちがなくなりました。片づけが生活の一部になって、やらなきゃいけないタスクではなくなったんです」 長男も取り出しやすい場所に調理道具を収納/アフター  今の気持ちを一言で表すと、「穏やか」。そう話すさちこさんは、とても素敵な笑顔をされています。きっと前職を辞めた当時とは正反対の気持ちなのでしょう。  私は、片づけが「できない」人はいないと考えています。そういう人の多くは、片づけを「知らない」だけなのです。そのような人たちをサポートすることで、さちこさんのような笑顔が世の中にもっと増えるといいなと思います。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。 ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2023/01/30 07:00
商業主義に消費されない、人間の新淵に迫る舞台を 演出家・上田久美子
商業主義に消費されない、人間の新淵に迫る舞台を 演出家・上田久美子
好奇心、探究心、社会性、完璧主義が核。「でも、最近は、完璧主義からは抜け出すように意図しています」(撮影/篠塚ようこ)  演出家、上田久美子。宝塚歌劇団の人気演出家だった上田久美子は、その成功にすがることなく退団。フリー1作目に選んだのはオペラだった。大衆演劇一座に泊まり込みで取材し、さらには文楽の手法で作り上げる。これまでに見たことのないオペラである。芸術が商業主義の波にのみ込まれ、コンテンツとして消費されることに疑問がある。そこにどう抗うかが、新たな挑戦でもある。 *  *  *  空気の乾いた冬の稽古場で、オペラのリハーサルが進んでいる。みずから大道具を動かし、小道具を用意しながら、出演者に細かく演出を付けているのは上田久美子(うえだくみこ)。昨年3月まで、宝塚歌劇団の座付き演出家として、次々と話題作を世に放った斯界(しかい)の才能だ。今回は、19世紀末イタリアのヴェリズモ・オペラ「道化師」「田舎騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)」の2本立てで、宝塚退団後、初めての舞台演出に取り組む。  ヴェリズモ・オペラは、上流層が愛好した既存オペラへのカウンターとして、130年前のイタリアで起こったムーブメントだ。「道化師」は、しがない旅一座で不倫を犯した女役者が、痴話喧嘩(ちわげんか)の果てに、夫である座長に殺される話。「田舎~」は、自分の兵役中に別の男の妻になった女を取り戻すため、身ごもった婚約者を捨てた男が、女の夫に決闘で負ける話。「ヴェリズモ(リアリズム)」の名の通り、陰惨なほどにドロドロで、オペラや宝塚歌劇が体現する豪奢(ごうしゃ)、夢々しさとは、かけ離れている。 「過去のイタリア、しかもオペラという日常とは遠い世界を、現代の日本人につなぐ。その難しさに惹(ひ)かれて、やってみようと思いました。ヴェリズモ・オペラは、登場人物をそれまでの貴族、富裕層ではなく、貧困者や田舎の人に置き換えて、人間の真実を描こうとした。背後には可視化されにくい階級差への問題意識があったはず。そこに焦点を当てれば、日本社会の現実も重ねていけるのではないか。そう考えているんです」  理知的で隙のない語り口。宝塚時代から、完璧主義で人間の深淵に迫る作劇に挑んできた。 ■オペラ「道化師」の取材で 大衆演劇一座に泊まり込み  2013年のデビュー作「月雲の皇子─衣通姫(そとおりひめ)伝説より─」から、在団最後の作となった「桜嵐記」まで一貫して描いたのは、美しく輝いていたものが、現世のシステムの中で、どうしようもなく壊れていく悲劇。作品には、権力者と非権力者、男性と女性といった、固定した身分差への異議申し立てが通底していた。  中でも「ショーの革命」と話題を呼んだのが、18年に手がけた「BADDY─悪党(ヤツ)は月からやって来る─」。男役至上の宝塚では、娘役は常に一歩引いた存在で、自己主張は掟(おきて)破りと目される。しかし、この作品ではラインダンスで、ズラリと並んだ娘役が笑顔を封印し、「絶対ゆるさない」「わたしは怒っている」と、足を踏み鳴らしながら激しく客席に迫る。 「道化師」の稽古場で、ダンサーの三井聡(右)、森川次朗(奧)と。「いい舞台のために、愛と向上心を惜しみなく注ぐ演者とスタッフがいる。フリーになって、そのことを再確認できてうれしい」(撮影/篠塚ようこ)  ストーリーの中の一場面ではあったが、#Me Tooにリンクする表現は、宝塚に内在する男性優位思想を、その様式を守ったまま打ち壊すという離れ業だった。ファンはこれを観て、宝塚史に新たな時代が幕を開けたと、快哉(かいさい)を叫んだのである。  昨春、その上田が歌劇団を辞めたというニュースは、ゆえにセンセーションを巻き起こした。「寝耳に水過ぎる」「ウエクミ先生、辞めるの本当にショック」「何かあったのか」。ネットにあふれる声とともに、私自身も取材者として開口一番、「なぜ」を聞きたかった。 「結婚したい理由は一つしかないけれど、離婚の理由は山ほどある。それに似たことですね」  クールな一言の後、それ以上を上田は語らなかった。後日、本人から次のようなメールを受け取った。 「これまでやってきたことにはもう満足して、今は、これからどういうことをしていくのかの方が自分の関心事です。宝塚でのことを語るよりも、一人の人間が、この時代に何を感じて定職を放り出し、何を探しているのかの方が面白い話ができると思います」  なるほど、取材に対する「演出」がすでに始まっている。乗るしかない、と思った。   上田は昨年6月に梅田芸術劇場制作の朗読劇「バイオーム」の脚本を手掛けた後、富山・利賀村(とがむら)、大阪・西成、兵庫・城崎の演劇イベントを精力的に巡った。その間にフランス滞在を挟み、9月末には大衆演劇一座「花柳(はなやぎ)劇団」の住み込みとして、岩手県北上市の温泉施設にいた。  花柳劇団は座長の花柳願竜(がんりゅう)、長女で若座長の花柳竜乃(たつの)を中心に、一家と座員たちが大きな家族のように暮らしながら、全国を巡業している。食事は温泉施設のまかないで、寝起きは楽屋。昭和感あふれる畳敷きの宴会場で、ライトをあやつる上田は、その場になじんで楽しそうだった。 「知らない場所なのに、毎晩爆睡しちゃって」と笑った後、「今までピンスポットのタイミングが0.5秒早いとか、遅いとかやっていたけれど、ここにいると、そういう堅苦しさから、いいものが生まれてくるか微妙だな、と思うようになっています」と、続けた。  住み込みの名目は「道化師」の取材だったが、一座はそんなこととは関係なく、上田を迎えてくれた。夜はまかないを囲んで、それぞれの思いを好きに語り合う。花柳竜乃が言う。 「知らない人とよく暮らせるね、と言われるけれど、役者も裏方もあうんの呼吸が大事だから、みんなが一緒に暮らすのは理にかなっている。逆に、今は他人と自分との間が分断されすぎているんじゃないかな」 ■今いる場所から逃れたい 会社から「宝塚」へ転職する  それを受けた上田から自然に、宝塚を辞めた理由の一端が出てきた。 「デジタルが発達して、ナマの人間関係はますます築きにくくなった。代わりに『推し』を作って、仮想の関係をコンテンツとして消費している。芸ではなく、関係性が商品化される風潮は不健全で、何とかそれに抵抗したい。宝塚のスターシステムは、非常にうまくできていて、だからこそ、その中に居続けることはできなかったんです」  そもそも学生時代まで、自分が演劇の世界に入ることなどは、想像もしていなかった。  生まれ育ったのは、奈良県天理市。父が会社員、祖父母が柿を作る兼業農家で、周囲にアーティストらしき人間は誰もいない。一緒に遊び回る子どもも集落には少ない。祖父母を手伝い、畑作業にいそしむ母を見て、「生きることはなんて大変なんだろう」と感じながら、一人、本を読んでいるような子だった。  京都大学で美学美術史とフランス文学を専攻し、氷河期の就活戦線をくぐり抜けて、04年に製薬会社に総合職として入社。「偏差値競争の勝ち組はこれだ、という価値観が何の疑問もなく自分に染み付いていた」と、振り返る。  それが激しく揺らいだのは、東京で働き始めてから。朝起きて会社に行く。与えられた仕事をこなし、家に帰る。そのルーティンに生きる実感は薄く、大学までは気づかないでいた男女差別が、企業社会に根強く残ることにも傷付いた。  これがあと40年続くのか。そう思うと、とても耐えられなかった。入社2年目で転職を決意し、興味のある分野を考えた時に、かろうじて浮かんだのが「劇場」だった。 「とにかく今いる場所から逃れたい。そうしないと私は死ぬ、というぐらい追い詰められていた。好きだから応募する、という動機ではなかったんです。だから、次々と落ちましたね」  舞台作品を海外に売るエージェントやプログラム制作会社への応募を続ける中で、最終的に残ったのが、宝塚歌劇団の演出助手だった。不採用の体験から学んだのは、「学歴では通用しない。この人はヘン過ぎるから、会ってみたい。そう思われないとダメだ」。  歌劇団への応募では、クセの強い擬古文調で志望動機を書き、課題の小脚本は東銀座に通い詰めて、歌舞伎に類した和物を仕上げた。作戦は奏功し、06年に演出助手として採用決定。そこから7年間の下積みが始まった。  演出助手は、演出家の手足アタマとなって動き、稽古場での音出しからスケジュール管理、さらに徹夜で調べものと、あらゆる雑用をこなしながら、作劇を学んでいく。ドアストッパーを枕に寝落ちするほど体力勝負の現場だったが、それは苦ではなく、むしろ面白いことだった。嫌なこと、つらいこと、うれしいこと、すべてをひっくるめて、「何かを感じる」ことが、いちばん価値がある──。この時、上田は自分の生きる原理を確認したという。  宝塚歌劇団雪組の元トップスター、早霧(さぎり)せいなは、駆け出し時代からすでに有能だった上田を覚えている。 「お稽古場の雰囲気は演出助手の動きで左右されることがあります。上田さんは流れを的確に読み、必要なことを先取りして、その場にストレスを与えない。観察眼、センスが抜群でした」 (文中敬称略) (文・清野由美) ※記事の続きはAERA 2023年1月30日号でご覧いただけます。
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