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極寒のコロナ第8波、往診ドクターの限界 「一晩で50人宅」「食事もとれない」現場に密着
板垣聡旨 板垣聡旨
極寒のコロナ第8波、往診ドクターの限界 「一晩で50人宅」「食事もとれない」現場に密着
「ナイトドクター」の医師の待機施設  新型コロナの第8波による感染拡大で、医療体制が逼迫(ひっぱく)している。そんな状況のなか、注目されているのが「往診ドクター」だ。夜間・休日に都内全域や隣県などに医師を派遣し、薬も処方して渡す医師だ。食事を取る暇もなく、朝まで患者宅を駆け回る。そんな彼らの現場を追った。  辺りが暗くなり気温もすっかり落ちたころ、東京都立川市の住宅街に一台の車が止まり、運転席から上下緑の制服を着た田中直樹さん(40代・仮名)が降りてきた。これから患者宅に診察に向かう医師だ。匿名にしているのは「受験期の娘がいて、学校で風評被害を受けるのは避けたい」との理由からだ。 「今日は朝には帰れればいいな」  田中医師はそう言い、後部のトランクを開けた。オレンジをベースにした蛍光色の黄色のラインが入ったボストンバッグと、隣には銀色のアタッシェケースが置いてある。ボストンバッグには聴診器や血圧計、患者に渡す薬などが入っている。主に使うのはボストンバッグのほうで、銀色のケースには予備の機械や薬が備えられているという。 様々なケースを想定し、車のトランクには多くの医療器具を入れている  しかし、冬場でかなり冷え込んできたが、田中医師は半袖だ。寒くはないのだろうか。 「寒くないですよ。車から降りたら駆け足ですし、汗をよくかくんです」  重たそうなボストンバッグを持った田中医師は、この日最初の患者宅へ向かった。  玄関で家の呼び鈴を鳴らす。何度か鳴らしても出ない。いったんあきらめて車内で待機していると、少ししてから田中医師のスマートフォンが鳴った。その家で一人暮らしをしている68歳の女性からだった。 「お風呂入っていたから、今から来てよ」  田中医師が訪れる時間を忘れていたようだが、田中医師はそのことについては触れず、「今から向かうね」とだけ伝えた。女性は精神疾患を患っており、会話には慎重さが求められた。  今回は2度目の訪問で、コミュニケーションの取り方はだいぶ慣れた。田中医師は、落ち着いた口調でゆっくりと体調について尋ね、同時に体温や血圧、酸素濃度などを測った。 「異常ないね。良好だよ。あと3日頑張って。今日は寒いから風邪引かないようにね。何かあったらすぐ電話するんだよ」  田中医師は女性にそう語りかけて家を出た。  診療を終えた田中医師は車内に戻り、ビデオ通話で本部に患者の症状などを報告した。このビデオ通話は業務時間中ずっとつながっている。診察結果を伝えるほか、本部から診療の要請が入る場合も多い。  毎日多くの患者と接している。自身が感染するリスクはないのだろうか。 「十分にありますよ。ワクチン接種はもちろん、マスクもつけてますが、万が一がある。だからあまり家に帰らないようにしてますし、仕事以外は外に出歩かないように心がけています。第6波の時は、家に3カ月ほど帰れませんでした。娘の受験期間中はうつさないようにするため、ずっと立川の待機所に泊まっていましたね」  昨年は、国内の一日ごとの感染者数が第6波で初めて10万人を超え、第7波では20万人を超えた。  田中医師が振り返る。 「第7波の時も帰れませんでしたが、何より薬不足に陥りました。解熱剤とせき止めがなくなりかけたのです。ワクチンの接種回数が少ない人ほど症状が重かったです。そこに疲労がたまっているとさらに悪化します。往診ドクターも診られる範囲に限界があり、かなりの重症化ですぐ入院が必要だと感じたら、病院と救急車と連携して、搬送の準備をします。ただ、医療体制が深刻なレベルにあると、緊急搬送できないことがほとんどです」  サービスを提供する「ナイトドクター」(東京都港区)は、常時数人のスタッフが本部で電話を受けている。医師の待機場所は立川市内にあり、現場を担当する10人ほどの医師が、そこから依頼を受けた家に向かう。  休日問わず、夜間は365日往診し、PCR検査は24時間いつでも出張する。コロナの陽性者については、夜間以外にも往診するケースもある。往診サービスを利用するのは、外出が不自由な高齢者が多いという。  患者宅での滞在時間は平均10~15分で、一日に訪れる数は50件を超えることもある。 「一人暮らしで高齢者、そして足が悪い人にとって、発熱外来に行くことは困難です。公共交通機関が使えないうえに、第7波のときは一部の発熱外来で1時間以上、外で待っていたという患者さんの話を聞きました。第8波の今は真冬です。外で待つなんて危険すぎます。何かあったら誰が責任を取るのかと思う。そんなところに僕らの需要があるんですよね」  田中医師はそう話し、続けた。 「お金になるからと思って始めたものの、今ではそんな意識は薄れています。いまでは、ひたすら目の前の診察をこなすだけです。重症化になる一歩手前の人などを何十人、何百人も救って『ありがとう』と声をかけられると、やりがいを感じますね」  この日、翌朝にかけて田中医師が訪れた訪問先は15件。まともな食事は取っていない。 「待機所にある別部屋のスタッフが買ってきたコンビニ弁当を食べることが多いです。基本、往診時は食事を取りません」  すべての診察を終えて、自分の部屋に着いたのは午前7時を回っていた。 現場に向かう田中医師 ●機能しない分科会 ワクチン接種率を高める打開策が必要  昨年10月から緩やかな増加傾向にあった第8波は、12月に入ってから感染速度を上げ、東京都では1月に入り、感染者が2万人を超える日が続いた。  旅行会社大手のJTBの推計によれば、12月23日から1月3日までの国内旅行者数は、前年比16.7%増で2100万人に上ったという。全日空によれば、国際線の予約数は前年度比で5倍以上増え、13万6253人に上った。  東京都は今月初めに、新型コロナの感染状況について、分析結果を公表した。医療体制については、年末年始も一日の入院患者が4千人を上回り、増加傾向が続いているなかで、感染拡大により就業制限を受ける医療従事者が増えており、医療体制は最も深刻なレベルにあるとした。  また、新規の新型コロナ感染者のうち、第7波で猛威を振るったオミクロン株「BA・5」が減る一方、オミクロン株の新系統が増えてきているという。そのなかでも、米国ニューヨーク市などで爆発的に感染が広がっている「BQ.1.1」は、免疫をすり抜ける性質が強いといい、感染拡大が懸念されている。  政府のコロナ対策分科会の動きについて、政治部記者が話す。 「分科会はあまり機能していません。人流がそこまで変わらないまま、第6、7波がなぜ落ち着いたのか。その原因の調査が行われず、簡単に言えば『気をつけましょう』の注意喚起のみ。永田町でも分科会の不信感が高まる一方です。対応策が求められます」  前出の田中医師が話す。 「第8波は悪化する人がさらに増えていくのではないでしょうか。オミクロン株対応のワクチン接種率は、かなり低いです。3回目の接種率も7割を超えていません。まずは3回以上はワクチンを打ってほしいです。病院でも病床数が足りないほか、人員不足が懸念され、定年退職したOBにまで手伝いの声がかかるほどです。自宅でも療養できるよう、いかに症状を軽減できるかがポイントなので、一度感染したからとワクチンを受けるのを止めることがないようお願いしたいです」  田中医師らが忙しくならない状況が望ましいのだが。 (板垣聡旨)
往診ドクター新型コロナ第8波
dot. 2023/01/25 17:00
カンニング竹山 福岡ドームの天井にのぼってみたら「めちゃくちゃ怖かった!」
カンニング竹山 カンニング竹山
カンニング竹山 福岡ドームの天井にのぼってみたら「めちゃくちゃ怖かった!」
カンニング竹山さん(撮影/今村拓馬)  2023年も精力的に仕事に励むお笑い芸人のカンニング竹山さん。ソフトバンクホークスのファンであることは有名だが、年が明けて、ホークスの本拠地・福岡PayPayドームの天井にのぼってきたという。一体、何があった!? * * *  自分自身が出演しているにも関わらず、つくづく「これって、面白いな」と思う仕事が立て続けにあった。  1つは、『今君電話』(Eテレ)。「どんなことでも話したいことがある人は電話をかけて」とSNSに電話番号を公開し、様々な声に耳を傾ける『今君電話』の「年末の夜、カンニング竹山が電話で話を聞きます」という年末編が放送されます(28日午後10時~)。  2022年を生き抜いてきて、色々な人生があるんですよ。2022年の最後の週、12月29日、30日に電話でお話を聞きましたが、もちろんコロナ禍での人生模様もあるし、コロナとは関係ない、思わず笑っちゃうような人生もある。  人の人生のパターンを色々聞いていると、僕は電話の受け手ですが「僕も頑張ろう」と素直に思えてくる。脳性まひの方からの電話も受けたりしました。障害があるから特別な悩みを話したいというのではなく、いってみればごく普通の悩みを持っている。『バリバラ みんなのためのバリアフリー・バラエティー』(Eテレ)の出演の経験で、脳性まひの方とも過去にお話ししたことがあるから、その悩みもよくわかるんですよね。 『今君電話』は今回の年末編の放送のあとも、年間何回か放送が予定されています。自分でもいい番組だなと思っています。でも、自分の口から宣伝しないと、民法の番組と違ってなかなか広まらないので(笑)!  2つ目は、福岡の地方局の制作したドラマ。テレビ西日本がソフトバンクホークスと組んでドラマ『1回表のウラ』を制作しました。プロ野球選手だった主人公(俳優の福山翔大)が戦力外通告で球団の職員になって裏方に回り、様々な困難に巻き込まれながら開幕戦を迎えるというストーリー。ソフトバンクホークスの全面協力のもと、ホークスの藤本博史監督や柳田悠岐選手も出演したり、キャストはほぼ福岡県出身の俳優の方たち。僕もそれに呼ばれて、ドラマ出演しました。僕の役は頑固な花火職人。 福岡PayPayドーム  福岡PayPayドームに行ったことがある方はご存じだと思うんですが、試合で勝った後には、ドームの天井から導線のワイヤーが下りてきて花火のセレモニーがあるんですよ。僕の役は、その花火を打ち上げる頑固な花火職人で、主人公が「花火をお願いします」みたいに依頼してくるんだけど「そんなの上げられるか!」みたいな頑固な役(笑)。  福岡ドームの天井に上がって、撮影してきましたが、ドームの天井って、めちゃくちゃ怖くて! ネットで「福岡ドーム 天井」って調べたら画像が出てくるかもしれないけど、鉄板の階段をひたすらのぼって天井まで行って、撮影をしましたが本当に怖かった!  オンエアの仕方も面白くて、ドラマは全4話なんですが、毎週土曜日(3月4日、18日、25日)にオープン戦が終わったあとにドラマが放送されて、最終話に進み、実際の開幕戦が始まるという仕組みです。その試みは面白いですよね。  台本のせりふも博多弁で、「ふざけんじゃねーよ」という標準語の言い回しではなく、「ふざけたらいかんばい!」みたいな感じで、そのドラマに出演している人たちも博多弁がネイティブに話せる。  そんなドラマに出演してみて、これって、日本のプロ野球の全球団ありえるドラマだなとも思った。どこの球団のものも制作できそうですよね。だから、「ものすごい新しいことをやっているな」と思ったんですよね。  全国放送のテレビ局もそうだけど、地方の放送局も試行錯誤しながら色々アイデアを考え出し、こうしたドラマが制作されるのって素晴らしいな。  そのドラマの撮影のあとに、福岡のRKB毎日放送の「まじもん!」(毎週水曜夜7時~)にも出演してきました。このコラムでも以前に「まじもん!」の企画について触れましたが、いまではコンプライアンスで弾かれてしまいそうな昭和のハチャメチャな映像をスタジオで語り合う企画で今回も出させてもらいました。  改めて何が面白いかって、当時の地方局のほうがまだユルいんですよね。東京のキー局は、昭和40年代でも「それは撮影したらマズいだろう」という暗黙のルールがあったけど、地方局はおかまいナシなところもあった。  だから、全国放送の番組でも昭和の映像を振り返る番組はあるけど、地方局のもののほうがガッツリ面白い! カメラ1台で動いているし、リポーターもその地方の方言だし、グイグイ食い込んでいる。「まじもん!」にこの企画で出演するのは4回目ですが、それでもまだまだかなり面白い映像だらけでした!   その企画の後半で、若いカップルに携帯電話を使わないで「何時にどこ」と待ち合わせをさせる実験をしたんです。ロケバスで、カップル別々のところに連れて行って待ち合わせをするんですが、まぁ~僕ら世代にはわからないドラマがうまれるんですよ!  僕ら世代は例えば「渋谷のハチ公前に1時ね」って、待ち合わせができたわけじゃないですか!? その企画の発想自体も面白いけど、この待ち合わせ、最後はどーでもいいことなんですが感動をうむんですよ! 『まじもん!』の企画は地方局ならではの試行錯誤しながらの賜物だと思います。  お金がない、人手が足りない、でも面白いものは作りたい……とか、人間って、結局、考えに考えたその先に何かしらのアイデアが出てくるのかなと思った。クリエイティブなことは、不利な状況のときのほうがむしろアイデアは浮かぶのかなとも考えたりします。  今回のような地方局の企画の話を聞いて「これは面白い!」と思ったので、声をかけていただいてお仕事に関われたことをありがたいと思っています。 ■カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。オンラインサロン「竹山報道局」は、2021年4月1日から手作り配信局「TAKEFLIX」にリニューアル。ネットでCAMPFIRE を検索→CAMPFIREページ内でカンニング竹山を検索→カンニング竹山オンラインサロン限定番組竹山報道局から会員登録
まじもん!カンニング竹山今君電話
dot. 2023/01/25 11:30
ジェーン・スー「成長と目標達成、その評価機軸で大丈夫? 新しい視点軸が必要かも」
ジェーン・スー ジェーン・スー
ジェーン・スー「成長と目標達成、その評価機軸で大丈夫? 新しい視点軸が必要かも」
成長と目標達成、その評価機軸で大丈夫?(イラスト:サヲリブラウン)  作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。  *  *  *  年明け仕事始めの週、インスタグラムのストーリーズで仕事に関するお悩み相談に答える機会を作りました。  24時間で500通以上の相談をいただき、みんな仕事で悩んでいるのだなとひしひし実感。相談者の年齢は下は20代から上は50代までと様々でした。私でお役に立てることがあるならばと、独断と偏見で選んだ39問に腕まくりして答えました。  職場の人間関係や、休職期間を経ての復帰への不安などに加え、傾向として非常に印象に残ったのが、「目標が見つからない」「成長できない」という内容が多かったこと。「現在の仕事にやりがいを感じない」という悩みも目立ちましたが、どちらかというと、やりがいを感じる仕事をしなければという強迫観念に駆られている印象。異口同音に語られるので、不思議だなと思いながら答えておりました。  その謎は、管理職と思しき人からの相談を読んで解けました。その「成長や目標達成に主体的になれない部下にどう指導したらよいか」という文言から鑑みるに、いまの風潮として、会社の評価機軸が「成長」と「目標達成」にフォーカスされすぎているのではないかと考えたのです。  公平な査定を行うためには、なにかしらの基準を設けることが有効です。それが「業務を通した自身の成長」と「掲げた目標の達成」なのでしょう。確かに、会社から与えられたノルマを達成するよりも主体性が問われる評価軸です。これが新しいとされた時代も確かにあったと思います。 イラスト:サヲリブラウン  しかし、現時点でそれについての相談が多いならば、これらの評価軸がうまく運用できていない現場が多いとも言えるのではないでしょうか。  個人的には、誰もが主体的に目をキラキラさせて働く必要もないと思うんですよね。私だって死んだ魚のような目で原稿を書いている日はある。成長だの目標だの言っていられないときのほうが多いと言えます。仕事の内容を変えて、たとえば私が専業主婦になり、家事育児をその2軸で評価されたら、気が滅入ってしまうに違いありません。  結局は、目の前のタスクをできるだけ障害が少ない環境でコツコツやっていくしかない。それが仕事だと思います。  売り上げを作り存続し続けるのが企業の使命。そのために社員は働き、働いた分の給与が発生する。このサイクルを回すのに、新しい視点軸が必要になったのかも。 ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中 ※AERA 2023年1月23日号
ジェーン・スー
AERA 2023/01/23 18:00
【前立腺がん】男性で最も多いがんで増加傾向 排尿関連の症状があり受診して見つかることも
【前立腺がん】男性で最も多いがんで増加傾向 排尿関連の症状があり受診して見つかることも
 前立腺がんの多くは、ゆっくりと進行するので、なかにはすぐに治療を始めなくていいケースもあります。治療後の生存率も、がんのなかで最も高く、寿命に影響しないこともあります。高齢者に多いがんですが、若い世代が発症することもあり、一部には進行が早いタイプもあるので油断は禁物です。  また、治療法にはさまざまなものがあります。「選択肢が多くて助かった」といういい面がある一方、「どれを受けるか迷う」という悩ましい面もありますが、自分に適した治療法を選びましょう。  本記事は、 2023年2月27日発売の『手術数でわかる いい病院2023』で取材した医師の協力のもと作成し、お届けします。 *  *  *  前立腺は男性だけにある臓器で、精液の一部となる前立腺液を分泌し、精嚢(せいのう)、精管とつながっています。膀胱からのびる尿道が中を通り、すぐ後ろには直腸があります。  前立腺がんは増える傾向にあり、前立腺がんと2019年に診断された人は9万4748人で、男性で最も多いがんです。50代から急に増え始め、70代後半から80代にかけてが最も多くなっています。増加の背景には、食生活の欧米化などが関係していると考えられています。また、家族が前立腺がんである場合は罹患リスクが高まり、一部には遺伝的要因がかかわっているといわれています。  5年生存率は100%、10年生存率は98.8%で、部位別で最も高くなっています。  前立腺がんの初期には、ほとんど症状がありませんが、排尿の際に尿が出にくい、尿線が細く時間がかかる、頻尿、残尿感などの症状が表れることもあります。進行すると血尿が出るほか、骨に転移して背中や腰の痛みなどが起こることもあります。  近年は、前立腺がん検診(PSA検査)が広くおこなわれるようになり、ごく早い段階で見つかることが増えています。また、排尿関連の症状があり前立腺肥大症かと思って受診したら、前立腺がんだったということもあります。多くの場合、前立腺がんと診断されても、すぐに命にかかわることはなく、焦ることなく治療について検討できますし、進行が緩やかであるため、治療後も長期にわたりつきあっていく病気といえるでしょう。  なお、前立腺肥大症があると前立腺がんになりやすいということはありません。 ■PSA検査で異常値が出たら、直腸診、MRI検査、生検などで調べる  PSA検査の基準値は、一般的に0.0~4.0ng/mlとされます。PSA値が高く前立腺がんが疑われる場合、直腸診、超音波検査、生検、MRI検査で調べます。最近では生検の精度を高める目的で、生検をおこなう前にMRI検査をおこなうことが増えています。  生検では直腸診を行い、超音波検査をおこないながら前立腺に針を刺して組織を採取し、顕微鏡で見てがんがあるか、またその悪性度を調べます。悪性度は、組織型をいくつかの段階に分け、どの段階の範囲が大きいかを明らかにし点数で表します(グリソンスコア)。  ほかにも、リンパ節転移、肺や肝臓などほかの臓器への転移などの有無を調べるCT検査、骨への転移の有無を調べる骨シンチグラフィーなどがおこなわれることもあります。  前立腺がんは、がんが前立腺内にとどまっている「限局がん」、前立腺の外側の膜を越えて広がっている「局所浸潤がん」、前立腺に接する膀胱や直腸などに及んでいる「周囲臓器浸潤がん」に大きく分かれます。さらに進行しリンパ節転移・遠隔転移がある「転移性がん」があります。  また、ステージI~IVの分類で表すこともあります。例えば、限局がんはステージI・IIに相当し、ステージIIは「前立腺の左右どちらかの2分の1にとどまっている」「左右どちらかにだけ2分の1を超えるがんがある」「左右両側にある」の三つに分けられます。  こうしたステージとPSA値、グリソンスコアから、限局がん・局所浸潤がんは「低リスク」「中リスク」「高リスク」に分かれます(リスク分類)。 ■手術と放射線治療。治療後の生存期間は同等  主な治療法には、監視療法、手術、放射線治療、ホルモン療法、化学療法などがあります。がんの状態によって複数の選択肢があります。年齢や持病なども考慮されます。  監視療法は、進行が緩やかな前立腺がんならではの治療法で、低リスクの選択肢のひとつです。PSA検査、画像検査、生検などを定期的におこない、悪化の兆候があったときに治療を始めます。治療を先延ばしにすることで、できるだけ現在の生活を維持することができます。  手術と放射線治療は、主に転移のないがんにおこなわれます。低~中リスクでは、どちらも根治を目的とした治療で、治療後の生存期間に大きな差がないといわれており、治療後の生活などに適した治療方法を選択する必要があります。  手術では、なかを通る尿道を含む前立腺全体と、精嚢、精管などを切除し、膀胱と残った尿道をつなぎます。現在、多くはロボット手術でおこなわれています。  放射線治療は、放射線をからだの外から当てる外照射と、放射線を出す物質を前立腺に埋め込む内照射があります。外照射では、正常な組織に当たる放射線を減らす技術が進歩しており、放射線を多方向から照射し病巣に集中させる「強度変調放射線治療(IMRT)」などがおこなわれています。  また、重粒子線、陽子線によるものも一部でおこなわれています。内照射には、前立腺に線源を入れたままにする「永久挿入密封小線源療法(LDR)」と、線源を一時的に入れ高線量を当てる「高線量率組織内照射(HDR)」があります。  手術と放射線治療では、治療にかかる時間が異なります。手術の入院期間は7~14日間、放射線治療では入院の必要はありませんが、通院期間が約2カ月間です。  筑波大学病院泌尿器科診療科長の西山博之医師は、次のように話します。 「仕事をしている人の多くは、治療に伴う拘束期間で悩みます。手術を受けたいが休みをとるのが難しいので放射線治療を受ける人もいます。仕事で頻繁に通院できないからと放射線治療ではなく、手術を受ける人もいます」  合併症については、手術では、しばらくの期間は尿失禁(腹圧性)がありますが、時間とともに改善し90%程度の人は概ね回復します。勃起に関係する神経は前立腺の表面に貼りついているため、手術により勃起障害が起こります。がんの取り残しの恐れが少ない場合は、神経を温存する手術方法も可能です。なお勃起障害が回復した場合でも射精はできません。  放射線治療では、治療中から始まり治療終了から半年~1年程度続く頻尿、治療後数年経ってから起こる膀胱や直腸からの出血などがあります。勃起障害は個人差がありますが、治療後しばらく経過すると射精機能はなくなることがほとんどです。また、ホルモン治療を併用すると性欲が減退します。  排尿に関する合併症が選択のポイントのひとつになることがあります。尿失禁は困る、嫌だと放射線治療を選ぶ人もいるし、夜間頻尿だと眠れないが、尿失禁ならパットで対処できると手術を選ぶ人もいます。 ■切り取ってすっきりしたいと思う人もいれば、手術に抵抗感をもつ人もいる  最初に放射線治療を受けると、組織の癒着が起こり再発時に手術が難しくなり、合併症が増えてしまいます。済生会横浜市東部病院泌尿器科部長の石田勝医師は、次のように話します。 「がんがある前立腺を取ってすっきりしたいから手術を受ける、手術でからだを切りたくないから放射線治療を受けると、半数ぐらいの人は受診前にある程度考えています。若い患者さんは手術を受けるにあたり体力的な心配が少なく、将来再発してしまったときに放射線治療の選択肢もあるため、迷っている場合には手術を提案します。最初に放射線治療を選んだ人では、再発して手術が選択できても、手術を希望せずホルモン療法を受ける人が多いです」  年齢や持病などで体力に不安がある場合は、手術と放射線治療以外にも選択肢があります。 「80歳を超えてきたら、前立腺がんがあっても寿命に影響はなく、治療は不要と考えられており、監視療法をすすめます。がんが進行してきても、薬を使うホルモン療法をおこなうことで、10年間がんで亡くなる率は極めて低いです」(西山医師)  ホルモン療法では、薬によって男性ホルモンの分泌を抑えます。前立腺がんは、男性ホルモンの刺激で進行するので、その進行の勢いを抑えるのです。  なお、監視療法をすすめられても、治療したいと希望することもできます。その場合は、全身麻酔などの必要がない放射線治療がすすめられることが多いようです。  転移性がんの場合は、手術や放射線治療では根治できず、ホルモン療法、化学療法がおこなわれます。新しい薬が使えるようになったり、薬による治療に放射線治療を併用するなど、治療法が進歩し選択肢が増えています。 (文・山本七枝子) 【取材した医師】筑波大学病院副院長 泌尿器科診療科長 腎泌尿器外科教授 西山博之 医師済生会横浜市東部病院泌尿器科部長 ロボット手術センター長 石田 勝 医師 筑波大学病院副院長 泌尿器科診療科長 腎泌尿器外科教授 西山博之 医師 済生会横浜市東部病院泌尿器科部長 ロボット手術センター長 石田 勝 医師 「前立腺がん」についての詳しい治療法や医療機関の選び方、治療件数の多い医療機関のデータについては、2023年2月27日発売の週刊朝日ムック『手術数でわかる いい病院2023』をご覧ください。
いい病院2023がん前立腺がん病気病院
dot. 2023/01/23 17:00
木村拓哉「等身大の人物にしたかった」 一対一で向き合った織田信長
木村拓哉「等身大の人物にしたかった」 一対一で向き合った織田信長
俳優・歌手 木村拓哉  1月27日に公開予定の映画「レジェンド&バタフライ」で主演を務める木村拓哉さん。本人曰く「えげつないラブストーリー」になったという、織田信長と濃姫の物語だ。邦画史上最高峰の大作に、どう挑んだのか。AERA 2023年1月23日号から。 *  *  * ――1998年のドラマ「織田信長 天下を取ったバカ」から25年。満を持して再び織田信長を演じる。 木村拓哉(以下、木村):前回演じたのは25歳ですか。そのときはサブタイトルに「天下を取ったバカ」と書かれていたんですけど、実際の信長は天下も取ってないし、バカでもないんですよね。  でも、その間違えが許されるのが信長でもある。今回改めて演じてみて、そう感じました。十人十色のイメージを受け入れられるだけの幅の広さがあるというか。おそらく本人は、他人の評価なんて全く気にしない人だと思います。やるべきことの目的を自分で考えられるし、伝統やしきたりであっても「ダサいものはダサい」と言える人。じゃないと、あえて丈の短い袴(はかま)をはいて腰に縄をしめるなんて、普通しませんよね。どこまで自己プロデュースをしていたのかはわかりませんが、相当な“デザイナー”だったと思います。  一方で、今回は彼の心の底にあったかもしれない弱さや迷いも、演じていて感じられました。信長といえば、「比叡山焼き討ち」など非道なイメージもあります。でも、もし何かが少しでも違っていたら、自国を守るだけで幸せに暮らすこともできたんじゃないかとか、本当は不安だったんじゃないかとか、いろいろ考えました。家臣に皆殺しを命じたときも、「その責任は全て自分にある」と、どこか自虐(じぎゃく)に近い覚悟を俺は感じましたね。 ■信長を練り上げたい ――東映創立70周年記念作品である本作は、総製作費20億円の巨費を投じて細部まで徹底的にこだわって制作されている。監督は「るろうに剣心」シリーズの大友啓史、脚本には「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズの古沢良太を迎えた。 木村:古沢さんが書いてくださった世界観は脚本を読んですぐ理解できましたし、実際に面白かった。ただ、現場で実際にやってみないとわからないところが多かったのも事実です。脚本で描かれた信長像を一度バツバツに切り崩して、撮影現場で改めて彼を練り上げてみたいという欲求もありました。  脚本に書かれている言葉に反発する気はないんですよ。ただ、脚本は皆が共有する「地図」なので、そのままだと現場に信長が現れたときに、“一対一”になりづらいなって。なんていうか、脚本だと信長が“でかい”んです。例えるなら、生えている木に対しては人、馬に対しては主人、妻に向き合う夫というように、等身大の人物にしたかった。やっぱり信長は、歴史とともに、皮一枚ずつ偉人のイメージがでかくなっていると思う。それをできるだけ剥ぎ取って、生身の人にしたいなあと思いながら、現場ではやっていました。 AERA 2023年1月23日号より ――本作では、信長の妻・濃姫との関係性も、これまでにない形で描かれている。打つ手がないと弱音をこぼす信長を奮い立たせ、効果的な打開策を提案するなど、今までになく“対等”だ。 ■新しい視点をもらう 木村:史実はわかりませんが、濃姫と出会ったことで、彼の中にはなかった引き出しを授けられた、新しい視点をもらった部分はあるんじゃないですかね。世界中の人々が知っているような有名な絵画でも、赤外線を当てると、「実は下絵が描かれていることがわかった」ということもありますよね。現代を生きる僕らは、その表層の部分しか見ることができないんですけど、人物像にしてもエピソードにしても、それと同じようなことはあるんじゃないかと思います。今川軍との戦いにしても、「全て信長のアイデアで勝った」というほうが、エピソードとしては美しい。でも、もしかすると歴史書に記述されていない部分で、斎藤道三の娘である濃姫に相談したこともあったかもしれない。今回はその下絵の部分というか、「表面からはわからなかった新しい信長と濃姫像を作れるかもな」というモチベーションもありました。  濃姫役の綾瀬(はるか)さんとは3度目の共演ですが、心配は全くなかったですね。彼女もすごく自然体で現場にいたし、スタッフから愛されていた。綾瀬さんは“佇(たたず)まい”で皆を納得させられる力があるんです。演じる、動くだけではなくて、「そこにいる」ということがすごく大切だと思わせてくれる人です。同時に、いないことの喪失感を感じさせてくれる、大きな存在感があります。  ただ、彼女はほかの現場も同時に進めていたので、現場で二人で話し合うこともありました。若い時代のときなら「このほうが幼く見えない?」とか、ラブシーンなら「こうしたほうが理性を失ったように相手を求めているように見える」とか、作戦はよく立てましたね。自分だけでなくこうした関係性の中で、信長と濃姫の間の取り方が構築されていった感じはあります。 ■相手の立場に立つ ――信長と濃姫は、互いを愛しながらも、それぞれの信念の違いから激しくぶつかり合う。仕事などで意見がぶつかり合うことをどう考えているのだろうか。 木村:うーん、自分がどう思う、感じるというより、相手の立場に立ったときに「言われたら嫌だろうな」ということは言わない、そういう基本的な視点をまずはもつことじゃないかな。逆にその視点さえあれば、仲違いすることもほぼないというか。お互いの意見が違っても、相手の考えを理解して同調したとき、すごくうれしそうなリアクションをしてくれるのを見れば、自分もうれしくなる。10回に1回は「こっちにおいで」と言うこともあるかもしれないけれど、自分から「相手と同じ道を行こう」と選ぶのも自分の意思だし、喜びになると思うんですよね。  信長と濃姫は政略結婚で結ばれたので、現代の夫婦や家庭について彼らから学べることは少ないと思うんですが、あえて言うなら、結婚は個人と個人のつながりだけではないよねってことかな。結婚って、恋人だけじゃなくて、相手の両親やきょうだい、育ってきた歴史や生活習慣とか、その人の背後にあるいろいろなものとも一緒になるってこと。そのつながりを考えることや守ることも大切なんじゃないかなと、信長たちを見て感じますね。 ■求めてくれるからこそ  あとは何だろう、伝えられるときに感謝を伝えることの大切さかな。自分のことを求めてくれる人がいるって、ものすごいことだと思う。今回の映画でも、「信長だったらあいつに頼みたい」と、その“あいつ”に自分を選んでくれたことが、すごくうれしかった。「ぎふ信長まつり」に参加させていただいたときも、46万人ものとんでもない数の人が駆けつけてくださった。数字や評価じゃなくて、そういう自分を求めてくれる“現実的な存在”が、自分のとても大きな支えになっています。  前に、この世界の大先輩に言われたことがあるんです。 「自分らだけでやってるように勘違いしている奴らもおるけど、うちら全員生かされてるんやで」  その言葉はすごく心に残っています。自分でも薄々「ですよね」とは思ってはいたんですけど、まさかその人の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったので。 「この人、その感覚で皆のことを笑わせているんだ」  って、さらに魅力的に感じました。求められない限り、自分たちは何者でもない。求めてくれるからこそ自分らがいられるんだよ、と教えてもらったときは、やられましたね。  それが誰って? もうわかるでしょ(笑)。 ――奇しくも、信長が本能寺で没した49歳(数え年)で信長を演じた。現代は「人間50年」ではなく「人生100年時代」に突入したが、後半戦の展望をどう考えているのか。 木村:先ほどと同じになりますけど、自分で展望を描くのではなくて、どんな作品や現場で自分が求められるのか、そして相手の期待にベストコンディションで応えることが自分の役割だと思っています。  この間の「ぎふ信長まつり」で岐阜にお邪魔したとき、夜に岐阜城を案内してもらったんです。そのとき天守閣で、「信長と濃姫もきっとここからの星空を見たんじゃないかな」という場所に立ったとき、すごい感情的になっちゃった。もうちょっと、二人で共に生きて、共に過ごす時間をもってもらいたかったなって。  信長をやらせていただいた立場としては、「この先の人生もきっちり無駄にせず生きないといけないよな」と思います。 (ライター・澤田憲) ※AERA 2023年1月23日号
AERA 2023/01/23 11:30
【膝の痛み】加齢による影響で半数以上は「変形性膝関節症」 骨同士がぶつかり運動時に痛み
【膝の痛み】加齢による影響で半数以上は「変形性膝関節症」 骨同士がぶつかり運動時に痛み
 体重を支える膝関節は、関節の中でもとくに加齢による影響が出やすい部位とされています。ひざの痛みの半数以上を占めるのは「変形性膝関節症」で、日本の変形性膝関節症の潜在患者数は3000万人にのぼるとされています。進行性の病気であるため、痛みを感じはじめたら早めに運動療法などの対策をとることが重要です。本記事は、2023年2月27日発売の『手術数でわかる いい病院2023』で取材した医師の協力のもと作成し、お届けします。 *  *  *  中高年のひざの痛みのおもな原因となる病気は「偽痛風」「特発性大腿骨内側顆骨壊死」「変形性膝関節症」です。  偽痛風は60歳以上の人に多い、ひざの急性炎症です。肝臓の代謝機能の低下により、ピロリン酸カルシウムが増えて結晶化し、ひざに炎症を引き起こすとされ、痛みや腫れの症状が出ます。特発性大腿骨内側顆骨壊死は膝関節の軟骨の下にある骨が微小骨折を起こして壊死に陥り、ひいては軟骨が変性してしまう病気です。60代以上の高齢女性に多くみられ、とくに夜間に痛みが出やすいのが特徴です。最近では内側半月板の後角損傷が原因といわれています。  ひざの痛みの半数以上を占めるのは変形性膝関節症です。加齢に伴い膝関節にある軟骨や膝関節のクッションの役割を果たす半月板がすり減り、大腿骨と脛骨(すねの骨)がぶつかり合うことで痛みが生じます。肥満や筋力の低下、関節軟骨の代謝異常、O脚やX脚なども影響します。ひざに負担がかかる仕事やスポーツ、外傷が引き金となって発症することもあります。進行すると痛みが強まり、O脚やX脚がさらに進行します。  65歳以降になると筋重量や筋力の低下症状である「サルコペニア」も起こりやすくなります。筋力は関節を安定させる重要な役割があるため、筋力低下に伴ってひざもぐらついて不安定になり、骨同士がぶつかりやすく、変形性膝関節症がより発症しやすくなります。 ■O脚の人、肥満の人は特に注意が必要  変形性膝関節症の痛みについて、慶応義塾大学病院整形外科准教授の二木康夫医師はこう説明します。 「60代以降で発症することが多く、男女比は2:8で女性に多いです。痛みの多くは膝関節の内側ですが、歩いたり、階段を上り下りしたりと、運動時がほとんどです。座っているときや寝ている安静時には痛まないことがほとんどです」  過去に膝関節にスポーツなどで半月板や十字靱帯を痛めた経験があると変形性膝関節症を発症しやすくなります。 「半月板や膝関節の安定に重要な十字靱帯が損傷していれば、早くから軟骨が摩耗してしまいます。O脚の人や肥満の人、重いものを担ぐ重労働者,関節リウマチの人も膝関節に負荷がかかるため、発症しやすくなります」(二木医師) ■軽い痛みであれば、積極的な運動で改善も  通常、変形性膝関節症は診察所見とX線検査やMRIによる画像検査で診断されます。一度変形した関節は元には戻りません。しかし生活の工夫や薬物療法、運動療法などの保存療法によって症状を和らげ、進行を防ぐことは可能です。  まずはひざに負担のかかる正座などの姿勢や階段の使用を避けるといった生活動作の改善をします。ひざの負担を減らすための減量や痛み止めの内服や消炎剤入りの湿布を貼付する薬物療法もおこないます。なかでも重要なのはひざの機能を維持するためのストレッチや筋力訓練などの運動療法です。 「痛いからと安静にし過ぎてしまうと筋力が低下して痛みは強まってしまいます。軽い痛み程度であればむしろ積極的に筋力訓練をおこなったほうが痛みはとれていきます」(同)  症状によっては、ヒアルロン酸ナトリウムの関節内注射でひざの状態を改善します。これら保存療法を実施しても膝関節の変形が進み、痛みの改善が思わしくなく、痛み止めによる痛みのコントロールが難しくなった場合には手術が検討されます。 ■損傷している部位によって選択される手術が決まる  手術方法には「関節鏡視下手術」「高位脛骨骨切り術」「人工膝関節置換術」があります。関節鏡視下手術と骨切り術は自分の骨を温存できる治療法ですが、いずれも変形が軽度で関節の機能の大部分が残っている人が対象となります。  熊本機能病院整形外科部長・人工関節センター長・臨床研究室長の高橋知幹医師はこう話します。 「関節鏡視下手術はひざの2~3カ所を1センチ弱ほど切開し、傷んだ部分だけを取り除きます。からだに負担の少ない手術ですが、痛みが半月板や軟骨の損傷に伴う場合にのみ適応できます」  これに対し、骨切り術は脛骨や大腿骨の一部を切ることでひざの重心位置を外側に変え、痛みを改善する治療です。O脚の人は内側に体重がかかりやすく、荷重がかかる内側の軟骨がすり減って痛みが生じます。関節を温存でき、術後に運動制限もなく正座もスポーツもできるため、おもに50~60代前半ぐらいの若く活動度の高い人向けの手術です。 「近年は骨を固定する金属のプレートの改良などによって治療期間が1カ月ほどに短縮して以前よりも社会復帰も早まり、治療の選択肢として再び見直されています」(高橋医師) ■損傷が少ない場合は、より違和感の少ない手術を選択できる  人工膝関節置換術には、傷んだ膝関節を全て人工関節と入れ替える「人工膝関節全置換術(TKA)」と、部分的に入れ替える「人工膝関節単顆置換術(UKA)」があります。関節の変形が進み、痛みが強い場合にはおもにTKAが選択されます。O脚で関節の内側だけが変形し、外側の軟骨には損傷がなく靱帯も正常な場合には、内側だけを人工関節に入れ替えるUKAが実施されることもあります。  TKAは治療成績が良い手術のため広く実施されていますが、人工関節の耐用年数が約20年であることから、おもな対象は60代以降です。関節の変形が強く、痛みが強い場合の最善の治療とされ、リハビリを含めて2週間程度で退院できるケースもあり、社会復帰が早いのも特徴です。 「術後のひざの曲がり具合は、術前の可動域に比例します。TKAを受けた人のうち8%程度の人は正座も可能です」(二木医師)  膝関節の内側、または外側だけ軟骨が磨り減っていて、そこが痛みの原因になっている人にはUKAが選択されることもあります。 「内側、または外側しか骨を切らないので手術時間も短く、出血も少なく、十字靱帯も温存できる。術後の痛みも少なく、復帰も早い。人工関節が入っても、ひざの違和感が少ないのも特徴です」(同)  UKAの術後は、それほど激しく動かないテニスやゴルフ程度のスポーツは可能です。UKAは対象に若年者が多いこともあり、術後の活動度が高まり、ゆるみが出やすいというデメリットがあります。ゆるみが出てしまった場合は、TKAでの再置換術がおこなわれます。 ■早めの受診で、治療の選択肢も広がる  人工膝関節の手術では近年、コンピューターナビゲーション、ロボット支援手術を取り入れる病院も増えてきています。3次元CTによる術前計画通りの角度で骨を切り、人工関節を設置できるため、より精密な手術が可能になっています。  術後、日常生活に戻るまでにはリハビリも不可欠です。生活環境によって必要なリハビリの内容も変わるため、術後のリハビリまで包括的に実施する病院では入院期間も長くなる傾向にあります。 「家に段差や階段のある環境であれば、それに適応できるようになるまでリハビリする必要があります。さらに、高齢であれば要する期間も若い人より長くなるでしょう」(高橋医師)  変形性膝関節症は徐々に進行する病気です。変形が進むにつれ、痛みが増し、歩くことも困難になっていきます。骨切り術やTKA、UKAといった治療法の選択についても、変形性膝関節症が進行するほど、その選択肢は限られてしまいます。痛みを我慢せず、早めの受診を心がけましょう。 (文・石川美香子) 【取材した医師】慶応義塾大学病院整形外科准教授 二木康夫 医師熊本機能病院整形外科部長・人工関節センター長・臨床研究室長 高橋知幹 医師 慶応義塾大学病院整形外科准教授 二木康夫 医師 熊本機能病院整形外科部長・人工関節センター長・臨床研究室長 高橋知幹 医師 「ひざの痛み」についての詳しい治療法や医療機関の選び方、治療件数の多い医療機関のデータについては、2023年2月27日発売の週刊朝日ムック『手術数でわかる いい病院2023』をご覧ください。
いい病院2023病気病院膝の痛み
dot. 2023/01/22 08:00
「選ばれる」人生から、「選ぶ」人生に変えられたきっかけとは 劇団「贅沢貧乏」主宰・作家・演出家・俳優・山田由梨
北原みのり 北原みのり
「選ばれる」人生から、「選ぶ」人生に変えられたきっかけとは 劇団「贅沢貧乏」主宰・作家・演出家・俳優・山田由梨
立教大学構内で。卒業後も就職は考えなかった。ずっと劇団を続けていける、という創作への自信が根底にあった(写真=植田真紗美)  劇団「贅沢貧乏」主宰・作家・演出家・俳優、山田由梨。幼い頃から「演じる」ことがそばにあった。将来は俳優になりたい。けれどもその道は、常に「選ばれる」ことだと気づいた。もっと自分で選んだ人生を送りたい。その思いから、劇団「贅沢貧乏」を立ち上げ、脚本、演出、俳優と自らこなすようになる。フェミニズムを知ったことも、自分の足で歩くことを選ばせた。山田の創作は今、世界でも注目されている。 *  *  * 「フランス人は好き嫌いがはっきりしているので、途中で帰る人がいるけれど気にしないでね」  パリ日本文化会館の舞台芸術アドバイザーの副島綾は、パリ公演を迎える劇団「贅沢(ぜいたく)貧乏」のメンバーたちに、そう話したという。毎年、秋のパリで開催される世界有数の舞台芸術祭「フェスティバル・ドートンヌ」。劇作家・山田由梨(やまだゆり)(31)が主宰する「贅沢貧乏」による「わかろうとはおもっているけど」は、日本人女性によるフェミニズムの作品として前評判が高かった。それでも、観客が途中で席を立つのはフランスではよくある話だ。ところが蓋(ふた)を開けてみれば、「贅沢貧乏」のパリ招聘(しょうへい)に2年前から尽くしてきた副島自身が驚いた。全5公演全て、大ホールを埋め尽くした観客誰一人として席を立たなかったのだ。かなり珍しいことだった。それどころか、終演後も興奮冷めやらぬ観客が、劇場の前にいくつものグループをつくり感想を話し合う姿もあった。 「わかろうとはおもっているけど」は、妊娠をめぐる対話で構成される。予期しない妊娠に揺れる女性と、妊娠を喜べない女性に戸惑う男性、他に主人公の内面を表象する3人の女性が、性と生殖をめぐるぬきさしならぬ女のリアリティーを、テンポよく言葉にしていく。 「(妊娠したのが彼だったら)わたし嬉しいって思えたかもしれない。もしそうなら全力でサポートする、私の子供産んでくれるの?って思って」「あのね、女がみんなで産まないって決めたら、人類は滅びるからね」「産みたくなかったら産まないから。だからもっと自信持ってこうよ、私たち」  女のなかに存在する分裂した「私たち」が、妊娠をきっかけに語り出す。何故女だけがこんな思いを背負うの? 男が妊娠したらどうなるの? パートナー間でもレイプはおきる? クライマックスに向かい強い感情がぶつかり、ステージでは突如、男女がミラーリングされる世界が展開する。男女を入れ替えることで、ジェンダーの構造的差別が浮き彫りにされるフェミニズム的手法だ。妊娠する男と、妊娠を喜ばない男に戸惑う女の登場にステージ上の緊張は一気に加速する。 誰もが自由に意見を言いながら舞台をつくる対等な創作現場を意識する。文化的な支援が圧倒的に少ない日本社会で、持続可能な創作活動のために何ができるか。コロナ禍を通してより絆が深まった(写真=植田真紗美) ■生後半年も経たないのに 「ママ、どこ?」と話した 「妊娠」という普遍がテーマでありながら、斬新な物語構成は連日口コミやレビューで話題を呼び、客席には10代の姿が目立った。「フェミニズム演劇は多数あるが、これほど繊細な筆はみたことがない」とル・モンドの記者が感心するのを副島は聞いた。たまたま観劇した高校の校長が「演劇を専攻する学生に話してほしい」と千穐楽後に山田を招くこともあった。「贅沢貧乏」パリ初公演は、大成功で終わった。 「贅沢貧乏」は、2012年、山田が大学3年の時に立ちあげた劇団だ。創作に打ち込める贅沢な時間……文字通りの思いを表現した劇団名だが、森茉莉の同名のエッセイのことは知らなかった。卒業後は、都内に一軒家を借り、劇場ではない空間で創作、稽古、上演を行うなど、新しい表現が注目されてきた。17年には「フィクション・シティー」を東京芸術劇場で史上最年少として芸劇eyes単独公演を行い、岸田國士戯曲賞にもノミネートされた。劇団の立ちあげから今にいたるまで、最も注目されている演劇人の一人だ。  そもそも山田の“芸歴”は長い。引っ込み思案の姉を母が児童劇団に入れていたことから、山田も幼い頃から劇団に入っていた。生後半年も経たないのに「ママ、どこ?」と、文になる言葉を話せ、大人の間に物怖じせずに入っていく度胸があり、自然と光の当たる女の子だった。小学2年生で「レ・ミゼラブル」のリトル・コゼット役をオーディションで勝ち取ったこともある。演じることへの関心が強くあり、演劇活動に力を入れている都立青山高校に入学した。高校2年のときには親戚に勧められ受けたホリプロのタレントスカウトキャラバンで最終の8人に残り、芸能事務所に所属した。創作の場にいたい、演技の場にいたい、いつかキラキラした世界でドラマの主役を張れるような俳優になりたいと願っていた。  高校3年のときに、高良健吾主演映画「おにいちゃんのハナビ」に出演した。休憩時間にも台本を読み込み、出番のない時は「他の人の演技を観たい」とスタッフにまじりモニターの画面をずっと見ていた。その姿を見た監督に「君は、創る方に向いているかもね」と言われたことが今も嬉しい記憶として残っている。高校卒業後は、映像の実践的な教育を行い、設備が充実している立教大学現代心理学部映像身体学科に進んだ。  最初の転機は、芸能事務所を辞めた20歳だった。仕事では清楚(せいそ)で無垢(むく)な良い子を求められ、宣材写真を撮るときは常に白い服を着ていた。痩せなさいと、お弁当を食べるときも揚げ物や炭水化物に手をのばさないようマネージャーの視線を感じる環境は窮屈だったが、期待に応える器用さと真面目さで仕事をしてきた。それでも、大学生活で知った自主映画制作の合宿や、編集室にこもる体験、下北沢の小劇場に通う日常で、「選ばれる」ことが「仕事」だった世界から、自分が面白いものを主体的に選ぶ世界に行こうと思えたのだった。 ■チケットノルマを課さず 俳優にギャラを捻出  その年に書いた一人芝居「スーパーミラー」が、劇作家としての一歩であり、「贅沢貧乏」の立ちあげとなった。世界の床が巨大な鏡になっていて、その向こうにもう一つの世界があるという設定を思いついた夜、溢(あふ)れる言葉が止まらずに一気に1、2時間で書き上げた。 「ねえ、ねえってば、知ってる? わたし、すごいこと聞いちゃったんだよ」「あのね、海の底の話。海の底の、その下がどうなってるかって話」  コミカルな身振り手振りで、山田が創造した「スーパーミラー」な世界がステージ上で鮮やかに走りだす。観客の想像力が世界の限界を溶かすように広がっていく。自分が面白いと思う世界を力いっぱい表現する山田の熱量に、大学構内の会場は沸いた。芝居が終わると「次はいつやるの?」と声をかけてくる仲間が集まってきたという。2作目「ルート・リンク」からは、劇場を借り、興行公演にも挑戦していく。  山田の金銭感覚は、理想と現実の優れたバランスで保たれている。赤字にせず1円でも10円でも利益を出すことを自分に課した。劇場を借りると1週間45万円かかる上、本番と同じ環境での稽古が限られるため、どうせならと一軒家を借りた。稽古と本番を同じ場所でできれば、演出にこだわれると考えたのだ。1度に10人の観客しか入れない「劇場」だが、何公演をしたら家賃が払え、俳優にいくら払えるかなど、経済のシステムを考えた。次第に同世代の俳優たちが「贅沢貧乏は面白い」と集まってくるようになった。  俳優の大竹このみは、大学を卒業して2年目に山田に出会った。好きな演劇のために生活を犠牲にし、俳優自らチケットを売る世界で、チケットノルマを課さず、俳優にギャラを捻出し、アルバイトのシフトを話しあい稽古のスケジュールを決め、「俳優はちゃんとした仕事だからね」と語る山田の「贅沢貧乏」は新しかった。 個人的な実感を書き、自分が自由になるプロセスが作品になっていった。使命感ではなく、自由に書いていきたいという思いが強い(写真=植田真紗美)  俳優の青山祥子は山田に「演出家の言葉は100%じゃないからね」と言われたことを覚えている。年上の男性の演出家が多いなか、演出家の言葉は絶対だった。自分で主体的に考えていいのだと、同世代の山田に言われたことに衝撃を受けた。  子役から仕事をしてきた田島ゆみかは、「観客の満足と同じくらい、俳優やスタッフの満足度を気にするから」と公言する山田に「救われた」と言った。自信を奪われ萎縮させられることが多い社会で、自分がしたいことをしていいのだと、「贅沢貧乏」を通して信じられるようになったのだ。 ■演技経験のない女性の起用 情報解禁日に大きな話題に  演劇を続けるためにムリをするのではなく、持続可能な方法を模索し、創作の過程すら創作していく「贅沢貧乏」は、山田の研ぎ澄まされた感覚によって、新しい時代を予感させる芝居を次々と発表していった。中でも、20代の女性が深夜に味わう孤独、焦燥感を、3匹の「虫」が演じる「みんなよるがこわい」(15年初演)は、17年には中国でも上演された。国境を越えた共感を呼び、演劇関係者の間で山田の名前は一気に広まった。18年には中国版が制作され、以降、中国各地で毎年再演されるようになった。コロナ禍ではオンラインで演出をし、20代の中国人俳優たちは「俳優に合った演出をその場ですぐ考えつく。凄い才能」と山田を深く信頼し、その才能への憧れを口にした。90年代生まれの女性たちが中心となった「贅沢貧乏」の世界は、着実に人々を巻き込みはじめていた。  山田にとって大きな転機となったのは、20年、ABEMAのドラマ「17.3 about a sex」の脚本家に起用されたことだった。ABEMA側が当初意図していた「女子高校生のロストバージンをテーマにしたコメディタッチのドラマ」という企画を超え、山田は高校生の性を描くこのドラマに、フェミニズムの思想をちりばめた。人権、尊厳、性的同意、セクシュアリティー、望まない妊娠、生理のリアル……。全9話全てが教育的でありながら、エンターテインメントとしての完成度が高く、「17.3 about a sex」は「日本初の性教育ドラマ」として大きく話題になった。(文中敬称略) (文・北原みのり) ※記事の続きはAERA 2023年1月23日号でお読みいただけます
AERA 2023/01/20 18:00
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米倉昭仁 米倉昭仁
「戦場カメラマン」横田徹がウクライナで感じたロシア兵の不気味さと日本人義勇兵の評判
戦場カメラマンの横田徹さん   世界を震撼させたロシア軍のウクライナ侵攻からもうすぐ1年が経つ。当初、電撃的に首都キーウ制圧を目指したロシア軍の動きはウクライナ軍によって阻まれた。その後、ウクライナ軍はロシア軍による占領地域の約4割を奪還した。ただ、戦場での情報を厳しく統制するウクライナ軍は前線への取材をほとんど許しておらず、戦闘の様子を目にした報道関係者、特に日本人は極めて少ない。その一人、ベテラン「戦場カメラマン」の横田徹さんに話を聞いた。 *   *   *  横田さんと会ったのは1月11日。ウクライナに出発する前夜だった。昨年5月と9月に続く、3度目のウクライナ取材だという。  まず、横田さんが語ったのは、昨年の大晦日にロシア軍のミサイル攻撃で朝日新聞の関田航記者が足を負傷したことだった。 「関田さんが滞在していたキーウのホテルの写真を見るとかなり大きく壊れている。軽傷で本当によかったと思います」  横田さんは1997年のカンボジア内戦取材以来、東ティモール、コソボ、アフガニスタン、イラク、シリアなどに足を運んできた。そんな戦争取材のベテランが口にしたのは、ウクライナには安全な場所がない、ということだった。 「ウクライナは、どこにいてもミサイルが飛んでくる。だったら、本当に危ないところに行って、パッと帰ってくる。取材はほどほどにしますよ」  そう言って、ときおり笑みを見せながら話す様子は気負いをまったく感じさせない。 「今、ウクライナ東部は暖かくても氷点下という世界です。そういう過酷な状況のほうが絵になる映像や写真が撮れる」と、今回の取材のねらいを説明する。  むろん、ロシア軍侵攻から1年になる2月24日に向けて増える報道需要も想定している。 「戦争取材にはお金がかかります。ぼくは状況次第ではアメリカの大手テレビ局なみに、1日20万円くらいコーディネーター料を支払います。それをどう回収するか、というのはこの仕事では大切なことです」  淡々と、そう話す。 写真/横田徹 ■ロシア軍の支配地域へ  今回の戦争ではNATO諸国がミサイルや大砲などの兵器をウクライナに供与するほか、さまざまな国の義勇兵がロシア軍と戦っている。横田さんはこの義勇兵に焦点を当てた。  昨年5月、キーウの基地を訪れた際、横田さんを出迎えてくれたのは国際義勇軍の中核を担うジョージア人部隊の司令官、マムカ・マムラシュビリ氏だった。  黒海の東岸にあたる旧ソ連の構成国ジョージアは、2008年、ロシアに侵攻された。そんなジョージアの人々は、ウクライナに対して強い親近感を抱いている。  横田さんはウクライナ東部の前線から数十キロのところにあるジョージア人部隊の後方基地に案内された。 「行ってみたら、兵士たちはもうびっくりするような装備を身に着けていて、完全に特殊部隊じゃないか、と思いました。キーウ近郊の国際空港の奪還にも関わった部隊でした」  横田さんが同行したのはロシア軍支配地域への偵察任務だった。兵士を乗せた車は舗装されていない道を全速力で前線に向けて突き進んでいく。 「スピードを出さないとやられてしまうんです。前線の近くまで行って、パッと車を降りて移動する。頭上を飛ぶロシア軍のドローンから逃げながら(笑)」  ロシア軍の陣地が見えるところまで近寄ると、小型ドローンを飛ばす。上空から敵の陣地を撮影し、それをもとに攻撃のプランを立てるという。  しかし、目の前にロシア軍の陣地が見えるということは、相手からも横田さんらが見えるのではないのか? 「そのとおりです。だから、砲弾を撃ち込まれて、背後に着弾しました。ロシア軍はわれわれの位置を上からドローンでつかんでいるので、かなり正確に弾が落ちてきます」 ■信頼の厚い日本人義勇兵  ドローンが飛んでいると、ブーンと、独特の回転翼の音がする。しかし、音がしない場合もあるという。 「だから、どこへ行っても空を見上げている。もしくは建物の中に隠れる。地雷が埋まっているかも、と足元ばかりを気にしていると、上からやられてしまう」 写真/横田徹  国際義勇軍の傘下にはジョージア人部隊のほか、日本人が加わっている部隊もある。 「戦闘訓練を受けたことがあるなしに関わらず、戦場を体験して、すぐにウクライナを離れる人がとても多いので、出入りが激しいのですが、平均すると常時10人弱の日本人義勇兵がさまざまな部隊で活動しています」  その多くは元自衛官で、アメリカ人やイギリス人の義勇兵よりも信頼されているという。 「アメリカ人は、ウクライナの戦闘に参加することで寄付金を集める、いわば金稼ぎを目的にした義勇兵が多い。アメリカ人やイギリス人は使えないのが多いんだけど、日本人はよくやっていると、ジョージア人部隊の広報官は日本人義勇兵のまじめな戦いぶりと生活態度を高く評価していました。日本人の気質からしてわかる気がしますね」 ■ロシア軍陣地で目にしたもの  一方、ロシア兵の戦いぶりはどうだろうか? 「広大な畑の中に幅20~30メートルの防風林があったんです。そこにロシア軍は陣地を設けていた。でも、周囲から見れば、そこに身を隠していることは誰の目にも明らかだった。案の定、ウクライナ軍にミサイルを撃ち込まれて、ロシア兵はみんなやられてしまった。穴の中で待ち構えていた戦車がひっくり返っていた。なぜロシア軍はこんな素人のような戦い方をするのか。優秀な指揮官が本当に不足しているんでしょうね」  昨年9月の取材では、砲撃を続けながら敗走するロシア軍を追いかけるように、抜け殻となった陣地を次々に訪れた。そこで目にしたのはたくさんの兵器や弾薬だった。 「まだ洗濯物が干されて、食べかけの食料がそのまま残されているようなロシア軍陣地に足を踏み入れると、弾薬箱が放置され、中にはミサイルや砲弾が奇麗に詰められていた。それをウクライナ軍が全部回収して使う。戦車もそうです。修理するため、戦車をけん引していくシーンをあちこちで目にしました」  ウクライナの民間人がロシア軍陣地から兵器をくすねてくる話も山ほど聞いた。 写真/横田徹 「大きなトラクターで戦車を引っ張って盗んできたとか、そういう話はどこにでもあります。最初は信じられなかったけど、本当なんですね。ロシア軍の塹壕(ざんごう)に行ったら携帯ミサイルが2本立てかけてあったので、かっぱらってきたって、写真を見せてくれた人もいました。ミサイルを担いでくるときにロシア兵と間違われてウクライナ兵に発砲されたそうです。ロシア軍の兵器の管理はどれだけずさんなんだよ、って感じです」 ■ロシア兵の劣悪な環境  兵器だけでなく、ロシア軍の兵士の扱いの劣悪さにも驚かされた。 「どこの陣地もひどい環境で、いくらなんでもこれでは戦意を保てないだろうと感じました。食料は全部缶詰で、野菜などは食べていないでしょう。戦場での唯一の楽しみである食事がとても貧しいうえ、泥だらけの塹壕の中でおびえながら何カ月もいたら、さすがに戦うのが嫌になるはずです」  一方、ウクライナ兵は一定期間、前線で任務につけば休暇をもらえるという。休暇中はレストランで食事をしたり、インターネットで外の世界とつながったりすることもできる。 「食事については快適で、どこに行っても困らないどころか、おいしい肉やチーズを堪能しました。結構田舎でも寿司が食べられたりする。この差は大きいと思いますね」  豊かな自分たちの国を守ろうと戦っているウクライナ軍の兵士と、無理やり劣悪な環境に送り込まれて戦っているロシア軍の兵士では、士気に大きな差があるのは当然だと感じた。 ■相手がロシア兵は危なすぎる  しかし、だからといって、ロシア軍が弱いとは横田さんはまったく思わない。むしろロシア軍に感じるのは西側の常識がまったく通用しない、不気味さだ。 「今、激戦が行われているバフムートなんか、ロシア軍は1人のウクライナ兵を倒すために、10人のロシア兵をおとりにおびき出して攻撃する。それが成功したら、また別の10人を送り出す。いったい、いつの時代の戦いだよ、と思うような戦い方をしている」  ロシア軍は伝統的に兵士の命を粗末に扱ってきた。それがウクライナの戦場でもまったく変わっていないことを実感した。  横田さんは以前、シベリアの奥地を訪ねた際、ロシア人の文豪ドストエフスキーがシベリア流刑を経て描いた不条理な世界が現代にも脈々と受け継がれていることを目の当たりにして衝撃を受けた。 「あれを見たことは大きいですね。だから、今回の戦争が始まったとき、ウクライナへ取材に行くのは嫌だった。相手がロシア兵では危なすぎると思いました。ものすごく怖かった」  横田さんは戦争取材の際、前線に足を運ぶことが多く、しばしば周囲から「無謀だ」と言われてきた。 「でも本当は、ぼくはすごくビビりなんです。逃げられないところには絶対に行きたくない。ここは無理だ、と思う場所には行かないようにしています」  昨年5月からウクライナを取材するようになった理由は、戦いの焦点にあったキーウがロシア軍に包囲される可能性がなくなり、退路が確保されたことと、取材費の援助が得られたことが大きいという。 ■地面が凍っている2月に動き  今回、このタイミングでウクライナに入るのは冒頭に書いた報道需要もあるが、2月になれば、何が起こるかわからない恐ろしさがあるからだという。 「雪が解けると、ウクライナの土は本当にぐちゃぐちゃになります。昨年9月にもぬけの殻となったロシア軍陣地まで畑の中を歩いて行ったとき、足にまとわりつくような泥を体験しました。この状態で戦うのは無理だな、と感じました。なので、戦況に大きな動きがあるとすれば、地面がまだ凍っている2月だろうと、いろいろな人が言っています。危ないときに行くのは嫌なので、2月の前に行って、帰ってくる」  別れ際、横田さんは近所の保育園にウクライナ避難民の子どもが通っていることを口にした。 「言葉はできないし、大丈夫かな、と思っていたら、すぐにうちの娘と仲良くなった。ぼくはウクライナ人と関わりがあるし、娘もウクライナ人の友だちができた。すごい時代になったなあ、と思いますね」  数日後、横田さんからメールが届いた。 <キーウに着き早々、ミサイルの洗礼を受けました。危ないので早く前線へ向かいます> (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
ウクライナ侵攻戦争戦場カメラマン
dot. 2023/01/20 17:00
松任谷由実「いまだに歌に自信ない。理論を知らずに感覚だけでつくってる」
松任谷由実「いまだに歌に自信ない。理論を知らずに感覚だけでつくってる」
松任谷由実さん(左)と林真理子さん(撮影/写真映像部・加藤夏子)  デビュー50周年のいま、「6次ブーム」となっている松任谷由実さん。作家・林真理子さんとの対談では、自身の歌について語ってくれました。 *  *  * 林:50周年にあわせて、新聞も特集を組んでいろんな評論家が解析してますけど、「ユーミンは現代の世阿弥である」っていうのもありましたよ。 松任谷:日経新聞ね。ブッたまげた(笑)。でも、『花伝書』とかはだいぶ前に読んでいて、「なるほど」ってところは多いね。エンタメに属していて。 林:「いつも死の影が漂ってる」とかいう解析もあった。 松任谷:それは自分でも言ってる。「メメント・モリ」って(ラテン語で「自分がいつか死ぬことを忘れるな」の意)。最近言ってるように書いてあったけれど、けっこう前から言ってるんです。「死があるから生が輝く」とか。 林:「ひこうき雲」は確かに死を歌ってますけどね。いま、いろんな人が芸術家としてのユーミンを一斉に分析し始めてるという感じで、学者さんたちが寄ってたかって「ユーミンとはわれわれにとって何なのか」ということを時代として語る人もいれば、社会的な位置づけとして語る人もいれば、歴史的な視点で見ようとする人もいるし、おもしろいですね。 松任谷:音楽って解析できないものなので、紙面上の文章で解析するにはそのぐらいでちょうどいいんじゃないかな。 林:今回の解析で、これまたブッたまげたんだけど、「ひこうき雲」は最初、雪村いづみさんに歌ってもらおうとしたら、歌唱力がありすぎて、曲と詞がちぐはぐだからやめよう、本人に歌わせようということになって、作曲家志望のユーミンが歌ったら、あの声が詞とぴったり合ってたって。 松任谷:ヘタウマがよかった(笑)。 林:そう書いてあったけど、それは私の口からは言えません(笑)。 松任谷:いまだに歌に自信ないし、そこに軸足を置いてないから続けてこれたと思う。今回、「ギター・マガジン」という雑誌も大特集をしてくれて、それがメッチャうれしかった。 林:ほう。 松任谷:最近、音楽やる人も3世代ぐらいになって、ポップスも浸透して、学校もポップスについてきちんと教えたりするし、みんな聞き手より送り手になりたいから、コンピューターが出てきたことでそれができるようになった。YouTubeしかり、TikTokしかり、実際に自分で音楽をやる人が爆発的に増えたので、音の解析がすごく進んでるんですよ。「ギター・マガジン」の特集では、ギタリストたちが私がやったことを分析してるんだけど、「ああ、そうだったんだ」と自分で思ったりして、それはうれしい驚きだった。 林:日曜日の夜、古田(新太)さんたちがやってる番組……。 松任谷:はい、「関ジャム 完全燃SHOW」ね。いい番組だと思うよ、私にとっては。 林:プロの人たちの解説を聞くと、こういうことやってるんだと思ってびっくりしますよ。非常に高度なことをやっていて。 松任谷:マニアックな番組なんだけれど、見る人が多いみたい。「これもカッコいいのに、なかなかわかってもらえないな」と自分だけで思う部分をアナライズ(分析)されてるから、うれしいなと思うようになった。自分では理論をまったく知らないんで。理論を知らずに感覚だけでつくってるから、あとでそうやって裏づけができると、「ほら見ろ」みたいな(笑)。 林:「いまの歌手がやってることを、私はもう何十年も前からやってきた」とユーミンが言ったのを聞いたことがあります。 松任谷:っていうか、ゲームの発案者、ルービックキューブの発明者みたいなところがある。曲も「作曲というより発明に近い」と言ってるんだけれど、そこから紐づいてだんだんできてきたシステムが、いまのメインストリームになっているので、そこに競技者の一人として参加してるような感覚ですね。 林:音楽家としての面も持ちながら、パフォーマーとして素晴らしいコンサートも見せていただきましたけど、あんなことやる人、今後も出てこないと思う。大サーカスとか、本物の象が出てきたり、ダンサーをいっぱい引き連れて、いまの韓流みたいなことをずっと前からやっていたり。 松任谷由実(まつとうやゆみ)/ 1954年、東京都出身。72年、荒井由実として「返事はいらない」でデビュー。翌年、ファーストアルバム「ひこうき雲」をリリースし、注目を集める。以降も、「やさしさに包まれたなら」(74年)、「ルージュの伝言」(75年)、「春よ、来い」(94年)などのヒット曲を次々生み出す。そのほか、本名や呉田軽穂名義で他のアーティストへ作品提供も行っている。2022年、50周年記念ベストアルバム「ユーミン万歳!」をリリースした。(撮影/写真映像部・加藤夏子) 松任谷:せっかくならその時代でできる最高のことをやりたいなと思って。4年ごとに3回やった「シャングリラ」というシリーズ(1999~2007年)。あれも時代がよかった。ファンドみたいなことでスポンサーが巨額な資金を集めて、それをステージに投入できたから。 林:メッチャクチャお金かかってたでしょう? 松任谷:メチャクチャかかってる。3シリーズで120億円ぐらい。 林:エッ、120億円!? 松任谷:4作目をやろうとしたら、その時点で「ダメ。できない。もう世の中が違うんだ。ああいうものを受け入れる社会ではなくなってる」ということを痛感した。サブプライムローンがあり、リーマンショックがあり。で、いま追求してるところは、視覚的、金額的にすごいというのじゃなくて、心に残ること。3次元から4次元を超えて、5次元6次元7次元ぐらいのことを提示しようとしてる。 林:昔の荒井由実さんと今の松任谷由実さんがAIでデュエットしてますけど、あれは……。 松任谷:アバター。分身ですね。 林:ああいうことにも挑戦してるのはすごい。 松任谷:まだヨチヨチ歩きですけれど、これから世界中のアーティストが自分のアバターを持つようになるんじゃないかな。全員とは言わないけど。 林:なんでそういうすごいことを次々と考えるんですか。 松任谷:夫(松任谷正隆氏)のアイデアがほとんどなんだけれど、私も好奇心が強いし、そういう新しいことをやりたいという人たちが集まってくる。 林:「この人と組みたい」というユーミンのアンテナの感度、すごいなと思いますよ。どうやって情報を得てるんだろうと思って。 松任谷:感覚。「あんなに一緒に仕事してたのに、バイブス(テンション、ノリ)ちょっと違うな」っていうことも起こる。だからすごい変化してる。 林:ユーミンと一緒に仕事してきたことを誇りに思ってる人はちょっと寂しいけど、しょうがないか。 松任谷:しょうがないよね。人は変わり続けないと。 林:ユーミンファミリーは絶えず代わってるんだ。 松任谷:ファミリーという考えはあんまり持ってない。演劇なんかで「カンパニー」って言うじゃない? その感じに近いかな。ある目的に沿って集まって、終わると解散。そしてまた結成する。カンパニーが何かプロジェクトを立ち上げるという感じ。 林:なるほど。 (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2023年1月27日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2023/01/20 11:00
日本大使館が注意「昼間に徒歩でも襲われる」 治安悪化で物騒な事案も多発するミャンマーのいま
下川裕治 下川裕治
日本大使館が注意「昼間に徒歩でも襲われる」 治安悪化で物騒な事案も多発するミャンマーのいま
パスポートオフィスの長蛇の列。将来への希望は海外しかない、と考える若者が多い  1月14日の午後9時ごろ、ミャンマーの最大都市ヤンゴンで日本人駐在員2人が強盗に襲われた。場所は、ヤンゴン駅に近いスーレー・シャングリラ・ホテルの近く。一人が刃物のようなもので刺され、病院に搬送された。民主化を求める国民と、それを弾圧する国軍との間で衝突が続き、治安悪化に拍車をかけているようだ。 「犯人は1月4日の恩赦組だな」  市民の多くはそう思ったという。  というのも、国軍は4日の独立記念日に7千人規模の恩赦を実行した。そのなかに民主派の政治犯は200人ほど。あとは窃盗犯や覚醒剤などの薬物犯罪者ら。  ミャンマーの人々は、恩赦後の治安の悪化を何回か経験していたという。 「去年の11月7日にも恩赦があったんですが、その後、知人の雑貨屋や襲われて、食料品が持ち去られたんです。彼らは刑務所から出てもすぐに仕事はないから、犯罪に走るしかないんです」(ヤンゴンに住む35歳の会社員Kさん)  国軍のクーデター以降、ミャンマーの治安は悪くなる一方だ。国軍が警察を支配下に置き、民主派への弾圧に警察を使う構造になり、警察の治安維持機能は失われてしまったからだ。“無法国家”に近くなってしまっている。  民主派メディアは1月15日、こんな事件を伝えている。 <ザガイン管区で11歳の少女の遺体が発見された。ゆで卵売りの少女で、乱暴されて殺害されていた。この事件についても警察はまったく動かないことに、住民は怒りをあらわにしている。>  しかし警察の背後には国軍がいるため、どうすることもできない。  ミャンマーでは当時もいまも路線バス強盗がしばしば起きている。犯人たちは突然、バスに乗り込み、凶器をちらつかせて乗客から金品を奪う。ヤンゴン市内の衣料品店で働くPさん(21)はこう話す。 「毎朝のバスが怖いです。かといってタクシーは高くてとても乗れません」  この種の事件に関して、警察は動かないのだが、昨年、ひとつの話がSNSで一気に拡散した。  強盗が乗っているバスの乗客の若い女性が、バスの窓から3本指を突き出し、近くにいた警官にアピールした。  これは、国軍に抗議する民主派の人々が、その意志を示すとき、3本指で表現してきた。これに警察が反応し、バスに乗り込み、バス強盗犯はそれを見て逃走したという話だ。 ヤンゴンの中心、レーダン交差点。車は増えてきたが……(提供)  実際の話なのか定かではないが、バス強盗には無関心で、治安維持の役割を放棄した警察だが、国軍に抗議する市民がいるとすぐに動いたことに多くの市民が、「いまのミャンマーの警察ならやりそうなこと」と共感したという。  国軍は軍事政権を正当化するための総選挙を行おうとしている。1月9日から、選挙のための名簿づくりがはじまった。多くの市民がこの選挙に反対している。民主派の武装組織である国民防衛軍(PDF)は、名簿づくりを行う事務所への爆破攻撃をはじめている。  14日にはモン州で選挙名簿調査員4人が殺害された。同じ日にザガイン管区とマグウェイ管区では4人の調査員が国民防衛隊によって拘束されている。15日にはヤンゴンとマンダレーで調査員2人が殺害された。  さらに17日までにヤンゴンで2カ所、マンダレーで3カ所の選挙事務所が爆破されている。警備にあたる警察は、民主派の行動に目を光らせるが、街の治安には無関心だ。その状況下で2人の日本人は被害に遭った。  市民の不安はそれ以上に膨らんでいる。国軍は恩赦で釈放された人たちを手なずけ、「ピューソーティー」の増強を図っているらしい。ピューソーティーは国軍を支持する民兵組織だが、国軍が手を下したとわかると問題になるような、残忍な攻撃や略奪などを担うことでも知られている。  かつての軍事政権時代を知るヤンゴン在住のMさん(78)はこう話す。 「以前の軍事政権も、恩赦をつかって元犯罪者を暗躍させ、市民の不安をあおった。それと同じ手法です。国軍にとってミャンマーの治安など関心外。彼らは自分たちを守るために対抗勢力を潰すことだけに注力する組織ですから」  在ミャンマー日本大使館は16日、在住邦人に向けて以下の注意喚起の連絡を出していた。 「ヤンゴン市内では日夜を問わず路上強盗が発生しています。徒歩移動は窃盗犯や強盗犯に狙われる可能性が高くなるため、明るい時間帯でも徒歩移動は避け、短距離であっても移動は自家用車やタクシーなどを利用してください」 (下川裕治)
ミャンマー
dot. 2023/01/19 18:30
減少する婚姻件数 女性は男性以上に「自由の制約」「性別分業」のイメージ強く
小長光哲郎 小長光哲郎
減少する婚姻件数 女性は男性以上に「自由の制約」「性別分業」のイメージ強く
結婚したら、子どもを産んで育てたい。でも仕事のキャリアを考えると「もうちょっと待ってから」。気づけば機を逸してしまう(撮影/品田裕美)  なぜ結婚するカップルが減っているのか。その心理や背景を追った。AERA 2023年1月23日号の記事を紹介する。 *  *  * 「好きな仕事を続けるか、結婚・出産を取るか……」  スポーツジムでインストラクターとして働く女性(29)は揺れている。学生時代からスポーツに打ち込み、短大卒業後一般企業に就職したが、スポーツに関わる仕事に就きたいと退職。トレーナー養成の専門学校を経てジムに就職した。今の仕事はまさに天職だと感じている。  ただ、30歳を目前に焦っている。付き合って5年の恋人がいてお互いに結婚を考えているが、今の状況で果たして結婚できるのか。勤めているジムには妊娠、出産を経て復帰した女性インストラクターはおらず、しかも仕事は朝早く夜遅く、休みが少ない。子育てしながら続けられるとは思えない。収入の面もネック。東京23区内で暮らすにはカツカツの額で、埼玉県のアパートから1時間かけて職場に通っているくらいなのだ。恋人も同業者で仕事のハードさ、収入面での不安具合は同様。どうするか、結論はまだ出ていない。 AERA 2023年1月23日号より ■氷河期世代を見てきた  婚姻件数が減り続けている。内閣府の2022年度版「男女共同参画白書」によると、21年は51.4万と、1970年の102.9万から半減。国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」(21年調査)によると、18~34歳の未婚者で「一生結婚するつもりはない」と答えたのは男性17.3%、女性14.6%。1982年の男性2.3%、女性4.1%と比べると大幅に数字を伸ばしている。なぜなのか。  調査対象の年代は、ひと世代上の就職氷河期世代が仕事を得られず、結婚したとしても経済的に苦労するのを目の当たりにしている。「お金がないと、とてもじゃないけど結婚できないし、してもかえって大変になるだけ、と感じているのでは」。こう指摘するのは、兵庫教育大学大学院准教授で家族社会学者の永田夏来さんだ。 適齢期が来たら結婚するのが当たり前。そんな時代から、結婚は個人の選択による生き方の問題になった。でも、だからこそ悩ましい(撮影/植田真紗美) 「さらに言えば、結婚という制度に対して信頼がなくなっているということ。彼らの親世代では離婚が増え、シングルマザーの家庭の苦労も耳に入ってくる。『よほどのことがないと結婚しなくてもいい』という考え方も出てきているのだと思います」  文京学院大学教授で心理学者の永久ひさ子さんは昨年2月、全国の25~39歳の未婚者960人を対象に「結婚のイメージ」を調査した。その結果、「幸せな生活」「自由の制約」、男性は稼ぎ手として、女性は家事育児の担い手としての責任が期待される「性別分業の生活」の三つに分類できたという。 AERA 2023年1月23日号より 「とくに女性は『自由の制約』『性別分業』の平均値が高く、男性以上に結婚を『大変なもの』ととらえていることがわかりました。『結婚する』『しない』が選べる時代。結婚しても大変さが勝るなら、子育てに莫大な時間とエネルギーとお金を注ぐのと、やりたい仕事に時間やエネルギーを注ぐのと、どっちが自分の人生にとって幸せかと考えるのは自然だと思います」  出生数も減少が続く。厚生労働省の「人口動態統計」によると、21年に生まれた子どもの数は81万1622人と、1899年以降で最少。22年は77万人とも推計されている。 (編集部・小長光哲郎、ライター・羽根田真智) ※AERA 2023年1月23日号より抜粋
AERA 2023/01/18 08:00
「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
高橋真理子 高橋真理子
「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
数学者の石井志保子さん 「日本学士院賞」は、日本の研究者にとって最高の名誉とされる賞である。その中からさらに選ばれた人だけに「恩賜賞」が授与される。明治43(1910)年に創設され、翌年に授賞式が始まって以来、初の女性の単独受賞者が誕生したのは2021年、実に111年目のことだった。その栄誉に輝いたのが数学者の石井志保子さんだ。  富山県高岡市の開業医の家に生まれた。地元の小中高を経て東京女子大学に進学、そこで数学に魅せられ、早稲田大学と東京都立大学の大学院で勉強を続けた。東京工業大学、東京大学で数学教授となり、定年退職した現在も東大大学院数理科学研究科特任教授である。  一直線に数学だけを究めてきたと想像されがちだが、実際は、結婚、子育てとライフステージの変化とともに柔軟にやりくりしながらの研究生活だった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *    *  *――小学生のころから算数が得意だったのですか?  いえいえ、私は計算が遅くて、算数ができない子でした。数の感覚がすごく鈍いんです。そういう数学者は他にもいらっしゃいますよ。小学校時代はいじめられっ子で、よく泣いていました。学校にいるのが嫌で、早退したり、仮病を使って休んだり。 ――高校生のときに相対性理論に惹かれたとか。  相対論にはローレンツ変換という式が出てきますね。それを見てなんかすごく感動したんです。一つの式ですべてのことが記述できるというところに。たぶん物理の感動とは違うと思いますね。でも、そのころは物理が好きだと思って、物理の偉い人のいる大学に行きたいと、京大志望でした。  ところが、学園紛争で東大の入試がなくなった年で、それで他の入試も難しくなって、結局、志望校を変更して受けたんですけど、国立大はダメでした。東京女子大と津田塾大は受かりました。東京女子大のほうが都心に近くて格好よく見えた(笑)。 ――浪人は考えなかったのですか?  ええ。受験数学はあんまり好きでなかった。 ――どんな大学時代でしたか?  お友達がたくさんできて、楽しかった。クラスが四十何人かいるんですが、みんなと仲良しになって。私自身は空気が読めないほうだったんですが、それをみんなちゃーんと受け入れてくれるような感じ。サークルは、もともとバレエを6年間習っていて踊るのが好きだったので、競技ダンスをやりました。社交ダンスを競技としてするんです。  衝撃を受けたのは、これは男性が主体だとわかったこと。踊りを作るのは男性で、女性はそれに華やかさを加える役割です。上体を大きく反らしたり、猛スピードで走ったり、とてもきついんですが、2年間がんばって学年別戦で3位という成績を取れたので「卒業」しました。 ――女子大には男性がいませんよね?  東大と組むんです。 ――おそらく向こうには彼女探しという魂胆があったのでは。  だとしたら、私が非常に空気が読めないんだとよくわかる(笑)。私はその気は全然なかった。 ――物理より数学のほうがいいと思うようになったのはいつごろですか?  それは大学に入ってすぐ。極限を定義するε-δ(イプシロン・デルタ)論法に触れて感激して、これが本当の数学だと思った。そのあともこれが本当の数学だと思えるような経験がいくつか積み重なって、大学院に行きたいなあと。  ただ、東京女子大の授業は大学院入学を想定していないので、自分で勉強するしかなく、過去問を見たりしたんですが、やはり自分が受けた授業ではカバーしきれないところがありました。3校受けて、かろうじて1校受かり、早稲田大の大学院に進みました。  大学院では代数幾何ばかりやっていました。なんか自分自身が変わっていくのが面白かった。下宿先で朝起きてご飯を食べて研究し始め、それで夜にお風呂の中で朝起きたときの自分と違っているような気がしました。  そういう経験ってそのときだけですね。あとにも先にもない。何か新しいものをすごく貪欲に吸収する時期だったのかなと思います。 ――修士から博士に行くところでちょっと間があいていますね。  実は修士が終わった時点で、ものになるか心配になって、結婚したんです。 ――えーっ、そうなんですか。お相手は同じ富山県出身で、自治省(当時)を経て富山県知事を2004年から4期16年務めた石井隆一さんと承知しています。  私が大学生のときに知人が紹介してくれたんです。でも、そのときは結婚する気がなくて、「大学院に行きたい」と言ったら、「じゃあ、がんばりなさい」という感じでした。  それから2年ぐらいの空白があって。連絡をしてみたらまだ独身でした。そのあと、金沢転勤が決まったというのです。この人を逃したら、もう先はないという気がしてきて、私が追いかける形で金沢に行きました。そこで結婚式を挙げました。 ――そのときはいわゆる専業主婦になろうと?  いえ、その覚悟はできていなかった。あわよくば復帰してやろうと。  それを夫はわかっていたと思う。その証拠に、媒酌人に渡した自分たちの紹介文に、「志保子はこれこれこういう数学の仕事をしていて、できれば博士課程に進みたいと思っている」と書いたんですよ。媒酌人はその通り読み上げて、その後に「もちろんこれは冗談ですが」って(笑)。真面目な方だから、こんな嘘くさいこと言えないって思われたんでしょうね。 息子さんを抱いて(提供) ――新婦が博士課程に進むって、それも数学をやるって、冗談にしか聞こえなかったわけですね。  そうでしょうね。夫も半信半疑だったのでしょう。私が家で英語の論文を読んでいたら、「それ、お前わかるのか?」なんて言っていた。  でも、だんだん協力的になって、金沢から東京に転勤になったときに博士課程に行きたいといったら「いいよ」って。東京都立大の大学院に入ったのは1977年ぐらいかな。在学中に長男が生まれました。当時は博士号を取るには専門誌に掲載された論文が数本必要とされていました。 ――論文は一人で書いたんですか?  もちろんです。若いころは単著(一人で書いた論文のこと)を貫いたんです。女性が男性の先生と共著論文を出したら、「あれは先生が書いた」というような話が、たとえ事実でなくても出てくる。そういう実例を知っていましたから、警戒して、自分は絶対単著でやると決めていました。  あ、ちょっと待ってください。私は最初の論文を金沢にいるときに書いたんです。どこにも所属しておらず、指導教官もいませんから、論文の最後に入れる所属先の欄には金沢市の自宅の住所を書いた(笑)。  最初の論文ですから、英語なんてめちゃくちゃなんですが、名古屋大学の浪川幸彦先生が以前から励ましてくださっていたので、先生に原稿を送りました。そうしたら、指導教官代わりに英語を直してくださったうえにドイツの数学専門誌への投稿を勧めてくださって。投稿したら幸いにも掲載されました。  ああ、私ってなんと恩知らずなんだろう。浪川先生の御恩を忘れてしまって。今まで、この話をしたことはありませんでした。 ――修士を出たあとに家で一人で論文を書いたとは驚きました。数学者としてやっていけると思えるようになったのはいつごろですか?  博士課程で論文をいくつか書いてからですかね。 ――書いた論文がすごく褒められたりしたのですか?  いえ、特には。論文誌に投稿してアクセプト(掲載許可)されると「良かったですね」と言っていただくぐらいで。数学者はそういうことは表に出さない人が多いです。  ただ、博士号を取ってから、なかなか就職できずに苦労しました。アプライ(応募)はもう常にしていました。トータルで三十いくつしたと思うんですけれども、25ぐらいまで数えてあとはわからなくなってしまった。 ――ようやく1988年に九州大に採用されたんですね。  子どもが4歳か5歳のころ、1984年か85年あたりに夫の転勤で北九州市に行きました。2年ぐらい住んで、九大の先生たちとセミナーをやってすごく楽しかった。そのあと、東京に戻ってから、助手を募集するから応募しませんかと連絡が来たんです。  最初は迷いました。「遠いからちょっと無理だよねえ」と夫に言うと、「まず最初のポジションをゲットするのは大事だよ。そのあと異動するということもできるんじゃないか」って言うんです。子どものことは何とかなるみたいなことも言って、でも自分でやるわけじゃないのに、どうしてそんなことを言えたんでしょうね。 富山の日枝神社へ家族で初詣=1985年ぐらい(提供) ――実際にはどうされたんですか? ご実家も遠くて頼れなかったと思います。  結局、私が考え出したんですよ。私が大学院生時代にお世話になっていた下宿の息子さんがそのとき大学生になっていて、彼が泊まりに来てくれて子どもと一緒にご飯を食べてくれて、朝ご飯は夫の分も作ってくれて。家庭教師兼お兄ちゃんみたいな感じで。  毎週、東京と九州を飛行機で行ったり来たり。助手という職階だから、何とかなったんだと思います。それにしても、良く採用していただけたと思います。当時は女性の数学者がいない時代でしたから、数十人の応募者の中から私を選ぶのは簡単ではなかったようです。私を推薦してくださった何人かの先生がたが大変苦労されたと聞きました。九大には1年7カ月いて、そこで東工大の公募があったので、応募したら採用されました。仕事に行ってその日のうちに家に帰れるのが嬉しかったですね。 ――まさに夫の隆一さんのアドバイス通りになったわけですね。  そうですね。ただ、九州から戻ってしばらくしたら夫が静岡に転勤になって、静岡は近いので私も一緒に行きました。今度は静岡から遠距離通勤です。  こどもが6年生になって、静岡の塾に通って中学受験しました。首都圏の私立中学に合格したので、私と息子だけ一足先に東京に帰ってきて、息子は東京から中学高校に通いました。 ――働く母にとって中学受験は大変な難関なのに、お見事ですね。  いや、もうほとんど全滅なんですよ。1校だけ受かった。  ところが、息子は高校でほとんど勉強しなくて、すごく能天気な男だから模擬試験では志望校を堂々と書くのだけれど判定はいつもEでした。3年生の10月からは自由登校で学校に行かなくてよくなって、家で勉強をし始めた。でも「お母さん、英語の勉強って、問題集を買ったほうがいいかな」なんて聞いてきて、もうこの時期に何言ってんの、という感じ。ところが、自分で計画を立てて勉強するのが合っていたみたいで、第1志望に合格しちゃった。  今まで、あれしなさい、これしなさいって言っていたのは何だったんだろうと思いました。私はほとんど自分のことで頭がいっぱいで、ほったらかしていたんですけど、ふと見ると遊んでいるから「勉強しなさい」っていっぱい言った。悪いパターンですよね。 ――息子さん、数学は得意でしたか?  私が苦手意識をつくったかもしれない。息子の言によると、私に数学の質問をすると、私の人格が変わるんだって。自分の子どもだと、いい加減なことをされるとちょっと許せない。「自分の間違いが許せない」の延長線上にあるのでしょう。  やっぱり自分の子どもを教育するのは難しい。 ――夫の隆一さんは子育てにどのくらい関わったのでしょう?  精神的なアシストだけです。  夫の実家はふとん屋さんだったので、女の人が働くのは普通だとは思っていたんでしょうね。とはいえ、価値観は古かったんじゃないかなあ。結婚するときは、僕は自分の目標が妻の目標であってほしい、みたいなことを言っていた。途中から変わってきたんですよね。二心連帯って言うようになった。一心同体ではなく、という意味です。 ――いい表現ですね。  夫がラジオ番組に出たことがあって、それを聴いて私は初めて知ったんですけど、九州に引っ越したときに、自分は用があって外出して戻ってきたら、ダンボールの箱がいっぱい置いてあって、妻がダンボール箱を机にして何か計算していた。それを見て、こんなにひたむきに頑張っているんなら、この人の目標を取り上げてはいけないと思った、と。なんか思い出すと今でも涙が出てきます。  どこでもドアじゃなくて、どこでも机、だった。でも、夫がそんなふうに見ていてくれたんだなと、ジーンときてしまう。  私が何でここまで続けてこられたかというと、サポートしてくれる人に恵まれたということと、自分自身の執着心がかなり強かったということがあると思います。でも、執着心が強すぎるぐらいでないとできないという社会はどうなのでしょうね。才能に応じてその才能が開花できる社会であってほしい。数学は家でも研究ができますから、女性にとってはやりやすくて、一番伸びしろのある分野だと思うんですよ。  それなのに、理系のほかの分野よりも伸び方が少ない。そこが何とかならないかなと思っています。 スウェーデンのミッタク・レフラー研究所での研究集会で講演=2017年(提供) ――最初は単著ばかり書いていたとのことでしたが、恩賜賞の受賞理由に取り上げられている業績の中には共著論文もありますね。1968年に出された「ナッシュ問題」というものを、米国プリンストン大のヤノシュ・コラー教授と一緒に2003年に解決された。4次元以上では成立しないこともあるという結果は世界に衝撃を与えたそうですね。  年を取ってから共著論文を書く楽しさを知りました(笑)。この問題は2次元でばかり研究されていたので、4次元以上では成り立たないこともあるという結果には確かに皆さんが驚いて、大きな反響がありました。国際研究集会に招待される回数も増えましたし、基調講演を任されたこともあります。  国際的な研究の場では、女性であることはあまり気にならないし、気にもされませんね。男性か女性か、あるいはそれ以外なのか、とにかくほとんど関係ありません。日本の女性には、ぜひ数学の世界に飛び込んでみて、と伝えたいです。 石井志保子/1950年、富山県高岡市生まれ。東京女子大学卒。早稲田大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了、理学博士(東京都立大学)。九州大学助手、東京工業大学助手、助教授、教授を経て2011年から東京大学大学院数理科学研究科教授。現在は同特任教授。2021年に「特異点に関する多角的研究」(※)で恩賜賞・日本学士院賞受賞。 ※特異点とは何か。小学校の算数では必ず「0で割ってはいけない」と習う。その「いけないこと」を無理にやったときに生まれるのが「特異点」――というのが、一番簡単な説明だと思う。この私の説明を石井さんに伝えると、「複素関数の特異点」としては正しいのだが、自分が研究しているのは違う、とのこと。研究対象は「多様体の特異点」で、そちらはx²ーy³=0を満たす(x、y)の集合の原点のように「滑らかでない点」(つまり、とんがっている点)のことだそうです。 特異点が入ったグラフ
女性科学者数学者
dot. 2023/01/17 17:00
企業文化まで理解しているからこそ寄り添える。働く人に産業保健師がいることの心強さを伝えたい
【PR】企業文化まで理解しているからこそ寄り添える。働く人に産業保健師がいることの心強さを伝えたい
 長引くコロナ禍、リモートという新しい働き方、マルチタスクの管理業務。変化の激しい時代に対応する心と体はストレスに晒されている。働きながら自身の健康に気を配るのは容易なことではない。仕事やプライベートで頑張りすぎて、健康管理が疎かになっていないだろうか?   そんな働く人の健康をきめ細かくサポートしてくれるのが、産業保健師の存在だ。企業の健康管理業務を産業保健師視点で支援する、iCARE社のEmployee Success(エンプロイーサクセス)チーム(以降ESチーム)を取材した。 ■従業員に寄り添う経験豊かな専門家、産業保健師  コロナ禍によるさまざまな影響で、心身にストレスを感じることが増えたという人は少なくない。日本では、企業で働く人の健康を企業が管理していくことが求められている。労働安全衛生法により、50人以上が働く事業所には衛生管理者と産業医の選任が義務付けられているのだ。  また昨今は健康経営への関心が高まっていることから、健康施策を推進したい企業も増加傾向にあり、従業員の健康を管理するための産業保健体制を構築・強化することに注目が集まっている。産業保健師は、その不足しがちな体制構築のリソースを補充する役割を担う。企業において選任義務はないものの、存在価値が増しているのには理由がある。  企業の産業保健体制において、産業医と産業保健師は連携するが求められる役割はやや異なっている。産業医の主な役割は労災の防止などのリスク管理だ。従業員の健康状態から就業可否を判断し、企業と従業員の間で適正配置を決める。  一方、産業保健師は疾病予防や健康の保持増進を目的として、従業員の健康診断後の保健指導やメンタルヘルス等の健康相談など、従業員の心身ひいては組織全体を健全な状態に導くサポートをしている。企業内で健康づくりをサポートする専門職の中でも、産業保健師はより従業員との関わりを持つことが多いのが特徴だ。その特性から、産業保健師の業務内容は企業のニーズに応じた広範囲できめ細やかなものになっており、対応時間も産業医より長いことが多い。 ■企業や産業医と連携して組織の健康状態を向上  iCARE社の健康管理システム「Carely(ケアリィ)」は、クラウドシステムと産業保健の専門家サポートを提供するサービスで、企業の産業保健体制の構築を支援している。ESチームは、産業保健師や看護師、助産師、産業カウンセラー、公認心理師などで構成され、これまで約500社の産業保健を支援してきた同社が誇る専門家集団だ。まず、産業保健師の役割について尋ねた。 「私たちの役割は、働く人と組織の健康づくりを支援することです。『働くひとの健康を世界中に創る』というiCAREのパーパスに基づいて活動をしています。もちろん、依頼主は企業なので、企業のニーズによって対応する範囲は異なります。例えば50人を超えたばかりの企業であれば、衛生委員会の立ち上げが優先事項になる場合があります。それは法律で決められた健康管理業務を履行できるよう、産業保健体制を構築することが求められるからです。人事や総務の方たちと協力して立ち上げをサポートし、企業の健康課題に基づいた安全衛生計画の策定などもフォローします。  100〜500人くらいの規模になると、担当者のリソース不足が顕在化するケースが多いので、専門職として支援を行います。例えばメンタル不調者の対応や健康診断後のフォロー、長時間労働者へのフォローなど、企業によって重点的にケアしたい部分のお手伝いをすることが多いです。500人以上になると複数の事業場をもつ企業もあり、遠隔でも同じように産業保健師からの健康支援が受けられるよう、体制を整える企業も増えつつあります」  いずれの場合も、人事総務や産業医、保健師がワンチームとなって働く人の健康を創っていくのである。今回取材したESチームは、オンラインで支援を行うプロフェッショナルでもある。働き方が多様化している時代にあって、時代の流れにも適合していけるような支援サービスを提供しているのが、iCARE社のCarely専門職サポートの強みだ。 ■企業風土や仕事内容を理解したうえで最適解をアドバイス  ESチームは、担当する企業の理念や経営方針、業種、職種を熟知している。その理解があってこそ、的確なサポートができるのだという。チームメンバーの一人である横内さんは、従業員への公平性を大切にする文化をもつ企業を担当している。  サポートするにあたり、企業文化をヒアリングした結果から「プロセスの透明化」に取り組むことにした。産業医は健康診断で異常所見があった場合、その従業員の健康を保持するために企業に意見をしなければならない。その際の指標を統一し社内に開示することで、従業員により納得感をもってもらえるのではないかと考えた。そこで人事や産業医と打ち合わせを重ねて定量的な指標を設定し、従業員向けに業務と疾病リスクの関連性を示す資料も作成し、社内に公開した。 「それにより、例えば健康診断の結果、産業医が治療が必要と判断した方が、忙しくてもなんとか時間をつくって受診してくださるようになりました。健康に対する意識が向上し、健康行動を習慣化してくださった方もいます。従業員が納得して健康増進に取り組むきっかけになったのであれば、嬉しいです」(横内さん)  別のメンバー、立山さんは健康経営に初めて取り組む企業の担当を任された。健康経営は人を資本ととらえ、経営層も巻き込んだ取り組みが必須である。そこで立山さんは人事担当者と作戦会議を重ね、企業の健康課題を洗い出し、産業保健体制と連動させるスキームを構築するよう取り組んだ。産業医や従業員が参加する衛生委員会では、どんな健康施策があるとよいのか参加者が意見を出しやすくするために、ファシリテーションを工夫して従業員主導の健康施策へ繋げることができた。  また従業員の自発的な健康相談ができる体制や、女性特有の疾病について講習会を開催したり、セルフケアの動画を作成することで、健康づくりのサポートをしている。 「サポートを開始して1年ほど経ちますが、着実な手応えを感じています。当初は形骸化していた衛生委員会でも活発な意見交換が行われるようになって、今は健康オフィスづくりを主導しているところです。積極的に意見をくださることを本当に嬉しく感じていますし、やりがいに繋がっています」(立山さん)  横内さんと立山さんのケースから垣間見えるのは、完全にオーダーメイドな健康づくりのサポートだ。最終的なゴールは「働くひとの健康を世界中に創る」ことで共通していても、そこに至るアプローチの方法は千差万別、企業の数だけあるのだろう。対集団だけでなく対個人についても、働く環境や業種によって生活習慣やストレスを感じる状況は異なる。例えば生活習慣の見直しを指導する場合は、夜勤の有無や食事時間、通勤手段、仕事内容などをしっかり把握し、その人に応じた指導をしているという。  チーム内では常にメンバー同士が情報共有しており、蓄積された経験値を還元しながらあらゆる業界・業種のニーズに応えている。このことからも、企業が産業保健師という専門家を産業保健体制に迎え入れるメリットは大きい。 ■中立な立場だからこそ安心して相談しやすい  産業保健師として、日々従業員から健康相談等を受けるESチームは、働く人の悩みの多様性を感じている。リモートワークで上司が部下の体調変化を把握しにくくなっていたり、仕事環境が整っていない在宅ワークにストレスを感じていたり、働く環境だけ見ても新たな課題が生まれている。男性も育児休業を取るのが当たり前の時代、性別に関係なく誰もが育児に介護に仕事にと、フルスピードで走り続けているような状態だ。  育児や介護などによる環境の変化に加え、職場や職務が変わるといった変化が重なると、ストレスの負荷が大きくなりやすい。また管理職に昇進したての1年目は、メンタルヘルス不調のリスクも高まるため注意が必要である。人は仕事に追われていると、自身の体調に変化を感じたとしても、そのままにしてしまいやすい。そういうちょっとした日々の違和感を相談しやすくできるよう、企業側とも工夫を重ねている。  相談者からは「人事評価に影響しないので、安心して話せる」という声もよく聞かれる。産業保健師は、利害関係のないどこまでも中立的な第三者の存在であり、安心して健康面の悩みや気がかりなことを話せる存在なのだ。  このような働く人を支える環境があるのに、実は意外と知られていないことは多い。ぜひ自社の産業保健体制について、とくに相談窓口について、一度確認してみるといいだろう。  話の中で、産業保健師との面談が学生時代の保健室に例えられた。確かに学校という枠から少し外れた時間が流れるあの空間は、安心感を与えてくれたことを思い出す。一人で抱え込む前に、まずは何でも話してみると、きっと解決の糸口が見えてくる。 ●クラウドシステムと専門家連携により組織の健康課題を根本から解決する「Carely」 詳しくはこちら > 提供:iCARE
2023/01/17 00:00
ソニーの半導体の躍進を支えた“鉄人”の働きぶり 米国で眠らぬ奮闘「ドブ板」ならぬ“土下座”営業の日々
ソニーの半導体の躍進を支えた“鉄人”の働きぶり 米国で眠らぬ奮闘「ドブ板」ならぬ“土下座”営業の日々
激務でも入社時から「志は決まっている」と話す柳沢英太(photo 写真映像部・加藤夏子)  ソニーグループが営業利益1兆2023億円(2022年3月期決算)をたたき出した。営業利益1兆円超えは国内製造業ではトヨタ自動車に次ぐ2社目だ。家電の不振から復活した原動力は、そこで働く「ソニーな人たち」だ。  短期集中連載の第7回は、ソニーセミコンダクタソリューションズのシステムソリューション事業部長の柳沢英太さん(42)。かつて「お荷物」とされた半導体事業の躍進を支えたのは、鉄人と呼ばれる働きぶりだった。AERA 2023年1月16日号の記事を紹介する。(前後編の前編) *  *  *  ソニーのイメージング&センシング・ソリューション事業(半導体)が好調だ。グループの利益の2割近くを占める稼ぎ頭であるばかりか、ソニーのテクノロジーを支える核心的な存在である。  神奈川県厚木市に本拠を構える半導体の組織は、かつて売却が検討されるほどのお荷物集団だった。以下、ソニーの半導体の躍進を縁の下から支えてきた、知られざる営業マン、ソニーの“鉄人”の物語である──。  その男とは、ソニーセミコンダクタソリューションズのシステムソリューション事業部長を務める柳沢英太(42)だ。経営工学を専攻した院卒で、2005年にソニーに入社した。最初に配属されたのは半導体事業の企画管理だった。  転機が訪れたのは、入社4年目の08年。ある朝、当時の半導体事業のトップで、後日『ソニー半導体の奇跡』(東洋経済新報社)を著した斎藤端に呼び出され、いきなり、こういわれた。 「アメリカにいってくれ。片道切符だ」  柳沢は、「意味がわからなかった」と振り返る。思わず「どうしてですか」と問い返した。 「これからのソニーが生き残るためには、現場を知っている人間が育つ必要がある」と、斎藤はいった。 ■斬り込み隊長に指名  斎藤は、半導体の逆転劇の目玉として、モバイル向けイメージセンサー(撮像素子)の市場拡大を考えていた。その“斬り込み隊長”として柳沢を指名したのだ。 「これまでいた管理部門ではなくて、セールス&マーケティングのポジションでいってこい。それも、米国市場が立ち上がるまで帰ってくるな、ということだったんですね」  と、柳沢はいう。“できる”と見込んだ社員には、思い切り厳しいミッションを託す。それが、ソニーの法則である。09年、米国に赴任した。28歳だった。 柳沢英太(やなぎさわ・えいた)/1980年生まれ。2005年入社。半導体事業の企画管理に従事。米国ではイメージセンサーの新規ビジネスを担当。現在、システムソリューション事業部事業部長(photo 写真映像部・加藤夏子)  当時の米国でソニーは、テレビ、デジタルカメラ、オーディオメーカーとしてのブランド力は抜群だった。だが、ソニーのイメージセンサーはまったく知られていなかった。  柳沢は、一から営業を開始する。大手メーカーに売り込みをかけた。猛烈に働く日々が始まった。昔流の“ドブ板”営業、彼の言葉によると、“土下座”営業である。  商談には、技術者が同行した。製販技一体の営業だ。誇り高い技術者にしてみれば、国内のデジカメ市場で絶好調のイメージセンサーをなぜ、頭を下げて売り込まなければいけないのかとなる。だが、柳沢にしてみれば、“土下座”をしてでも買ってほしい。  武器は、技術力である。 「イメージセンサー技術は、今も昔もナンバーワン。この点は、売りやすかった」  と、柳沢はいう。実際、出荷後の市場不良はゼロ。大きなセールスポイントだった。 ■眠る時間なかった  日米では、営業スタイルが異なる。「ベタな営業ではダメ」と柳沢はいうが、当然、日本流の接待は通用しない。求められるのは、顧客の課題解決だ。つまり、提案型の営業である。  契約書のつくり方も違った。米国の取引先との契約書をソニー本社に回すと、「こんな条件では契約できない」と、大量の修正が書き込まれ、真っ赤になって戻ってきた。それをそのまま取引先に渡しても、「それはのめない」と突き返されるのが落ちだ。一つひとつ確認しながら、本社に説明し、取引先を説得しながら、すり合わせていった。根気のいる仕事だった。 「昼はアメリカで顧客とすり合わせ。夜は日本を説き伏せる。文字通り、眠る時間がなかった」  家には、ほとんど帰らなかった。いや、帰れなかった。中学から大学、大学院とバスケットボール部に所属した彼は、体力には自信があった。  イメージセンサーの採用企業が見つかった後も、眠らぬ奮闘は続いた。連日、飛行機に乗って、全米に散らばる顧客の“御用聞き”に歩いた。睡眠は機中でとった。  つねにサプライチェーンの報告が要求された。取引先も命懸けだ。日本の熊本の製造事業所からイメージセンサーが届かなければ、スマートフォンの生産ができないからだ。何個生産され、いつ出荷され、どの飛行機の便に乗って、いつこちらに届くのか。生産が間に合わないとなれば、柳沢らは日本に戻って、必要な個数が生産されるまで見守った。 「向こうも寝ないから、私も寝ない。それくらい徹底して付き合う。我ながら本当によく頑張ったと思います」  それにしても、なぜ、彼は“鉄人”と称されるまで働き続けたのか。その理由については後に触れる。 ■帰国後のミッション  大手メーカーなどへの採用が広く知られたことで、ソニーのイメージセンサーの認知度は飛躍的に上がった。12年ごろになると、スマートフォンメーカーだけでなく、その周辺のパートナーなどITジャイアントと呼ばれる企業への売り込みにも成功する。  米国のイメージセンサー事業は完全に軌道に乗り、14年、柳沢は無事、帰国の切符を手に入れた。  帰国後のミッションは、国内の営業部隊の強化だった。しかし、わずか2年で、ソニーセミコンダクタソリューションズ社長の清水照士に「卒業」をいい渡された。 「営業分野だけじゃなくて、次は事業全体を背負ってくれ」  M&Aやアライアンス協業を含めた、センシングデバイス事業の立ち上げの主導だ。19年6月には、エッジAIセンシングプラットフォームを展開するシステムソリューション事業部が発足し、柳沢は21年10月、その事業部長に就任した。21年度のイメージセンサーの金額シェアは43%で世界トップ、25年には60%を目指す計画だ。  目下、期待を集めているのが、積層技術を生かし、ロジックチップにAI処理に特化したプロセッサを搭載した「IMX500」だ。イメージセンサー内でAI処理を行い、必要なメタデータだけを出力する。データ量や、通信コストの削減につながり、消費電力はおよそ7400分の1で済む。  この技術は、IoT(モノのインターネット)の時代に大きく花開く可能性を秘めている。柳沢は、こう語る。 「IoTに使われるセンサーの多くは、気圧計とか温度計などデータ量が小さいものが多い。イメージセンサーは、複雑でデータ量が大きいため扱いにくい。でも『IMX500』なら、データ量を小さくして扱えるようになる。そこがソニーの強みです」 CMOSイメージセンサーにAI(人工知能)を掛け合わせたインテリジェントビジョンセンサー「IMX500」(photo 写真映像部・加藤夏子) ■「コト売り」へ転換 「IMX500」を通じてリカーリングビジネスへのチャレンジも進める。パートナー企業は、クラウドベースの「AITRIOS(アイトリオス)」と呼ばれるエッジAIセンシングプラットフォームで、さまざまなソリューションを簡単かつ短期間に開発できる。  すでに自治体や小売業、製造業などで、「IMX500」と「AITRIOS」による実証実験が行われている。  たとえば、イタリア・ローマ市では、街灯に「IMX500」搭載のカメラを設置し、バス停の混雑検知によるバス運行の最適化など、複数のユースケースを試している。カメラに映る人を特定できないよう処理できることから、プライバシーへの配慮があることも高く評価されている。  半導体ビジネスも「モノ売り」から「コト売り」へと転換しているのだ。(文中敬称略)(ジャーナリスト・片山修) >>【後編の記事】初めて見た母親の姿はビデオカメラの映像だった ソニーの“鉄人”を突き動かす感動体験※AERA 2023年1月16日号より抜粋
AERA 2023/01/16 08:00
母に見せられなかったM-1優勝の姿 「これからが本当の勝負」 お笑いコンビ・錦鯉
母に見せられなかったM-1優勝の姿 「これからが本当の勝負」 お笑いコンビ・錦鯉
錦鯉は後輩からも支持される。モグライダーのともしげは「兄貴、戦友でもある。今は大きな目標」と慕う(撮影/加藤夏子)  お笑いコンビ、錦鯉。20年間売れなかった。それが2021年の「M-1グランプリ優勝」を機に、一気に売れっ子芸人の仲間入りを果たす。ひとたび笑いの最高峰に立てば、人々から50にして掴んだ「ジャパニーズ・ドリーム」「中年の星」と夢を託される。それでも錦鯉は、「これからが勝負」と目の前の仕事に集中する。「ただひたすらにお笑いが好き」という気持ちが原動力だ。 *  *  *  昨年12月18日に開催された「M-1グランプリ2022」で、優勝したウエストランドが漫才中、こう毒づいた。 「アナザーストーリー(M-1のドキュメンタリーを報じた番組)がウザい! いらないんだよ。泣きながらお母さんに電話するな! 『優勝したよー』なんて」  まさに「泣きながらお母さんに電話」したのが、1年前に優勝した錦鯉(にしきごい)のボケ役、長谷川雅紀(はせがわまさのり)(51)だ。実は錦鯉は、ウエストランドの井口浩之(39)と、今回の決勝戦の前日に、同じ仕事現場で顔を合わせている。井口は「ネタを変えようか悩んでいる」と錦鯉のツッコミ役、渡辺隆(わたなべたかし)(44)に打ち明けた。渡辺は、 「おまえは全員をバカにしないと意味ないんだから、思い切ってやれ」  とハッパをかけ、決勝へと送り出したという。  渡辺は、しのぎを削る仲間同士として、ウエストランドの快挙に自らの経験を重ねてこう話した。 「彼らは、昔からあのスタイルを貫き通してM-1王者になったんですよね。我々もまた然りです。自分が面白いと思うものを貫き通すことができた者が、なし得ることなのかなと思います」  21年のM-1グランプリで王座を掴(つか)んだ錦鯉が歓喜の涙を流した時、審査員も、もらい泣きした。歴代最年長コンビの<おじさん版シンデレラストーリー>に会場は沸いた。  私が錦鯉に興味を抱いたのは、優勝の瞬間、長谷川が数秒間みせた、キョトンとした「無の表情」に心が動いたからだ。狙っていたものを本当に手にした時、人はこんな表情をするんだ!という新鮮な驚きがあった。長谷川に号泣のスイッチが入ったのは、渡辺が長谷川に抱きついて、「ありがとう」と耳元でささやいた後だ。  その夜から、錦鯉のマネージャーの電話は鳴りっぱなしに。数カ月先まで予定が埋まった。 ラジオ「錦鯉の人生五十年」の打ち合わせ風景。この日はスーツの衣装ではなく、普段着。「打ち合わせしなくても、黒Tシャツでお揃いだ」と長谷川が照れて言うと、「たまたまだから」と渡辺が冷静にツッコむ(撮影/加藤夏子) ■スキンヘッドのおじさんに 「きゃー」「カワイイー」  今や錦鯉は、「売れ続けて快走中のおじさん」のオーラを放つ。昨年出演したテレビの番組数は、403本にも上る(22年1~11月。ニホンモニター調べ)。1年間、売れっ子として駆け抜けた感想を問うと、渡辺はこう答えた。 「まるで異世界に転生したようでした。自分たちより、周りが変わった感じ。『転生したらM-1チャンピオンになっていた件』というライトノベルの主人公のおっさんになった感じです」  長谷川は20年末に、長年続けた夜勤バイト生活に終止符を打ち、芸人の仕事一本に絞っていた。M-1で優勝した後、6畳一間、家賃5万円の暮らしを返上。都心の高級マンションに引っ越した。2人とも、22年9月時点の月収は「1千万円超え」と番組で公言している。長谷川は「貧乏すぎて虫歯のケアができず」に、奥歯から8本の歯を失ったが、歯の治療もできるようになった。  20年前に長谷川がレギュラー出演していたHTB北海道テレビの情報番組で共演し、今は錦鯉のレギュラー番組のチーフプロデューサーを務める戸島龍太郎(55)は、錦鯉を取り巻く聴衆の反応の変化に驚きを隠せないという。 「雅紀なんて、20年前と言ってることもやってることも、基本は変わってない。しかも今は、見た目はスキンヘッドのおじさん。なのに、子どもに人気があり、若い女性に『きゃー』『カワイイー』って声をかけられていますからねえ。雅紀の出身校でロケした時、感激のあまり、女子高生が泣いていたんですよ。すかさず隆さんが、『亡くなったおじいちゃんに似てるの?』と突っ込んで、笑いをとってました」  何かと年齢を話題にされることは多く、彼ら自身も年齢を笑いのネタにしているが、2人とも、人が思うほど年齢を気にしていないのだという。  長谷川は言う。 「僕らはただ、お笑いが好きでたまらなくて、やめ時がわからなくて芸人を続けてきただけ。僕なんかは、二回り年齢が違う若手とも、一緒にライブをさせてもらってきた。『鈍感力』の賜物(たまもの)です(笑)。若い人たちが、オジサンたちを腫れ物に触るような感じじゃなく、普通に付き合ってくれたのが有難(ありがた)いですね」  錦鯉とともにM-1の決勝で戦ったモグライダーは、錦鯉が客数の少ない小劇場でのライブをこなす「地下芸人」時代から付き合いがある。ともしげ(40)は、リスペクトを込めていう。 「芸人って、20年ぐらい売れないと、『俺なんてどうせ』みたいな心の闇が出てくる。でも錦鯉は、そういうことがなかった。それはすごいこと」  相方の芝大輔(39)は、「いるだけで愛される力」が錦鯉にはあるという。 錦鯉が所属するSMAの先輩、バイきんぐの小峠英二は、「雅紀は人間そのものが面白い。渡辺はオールマイティー。トークもプロデュースもうまいし、作るネタが面白いから、我々も作家として入ってもらってる」(撮影/加藤夏子) 「売れなかった時代もうじうじせず、機嫌良く粛々とお笑いやってて。哀愁を通り越して、一番バカなことやってる、みたいな。それは、みんなに愛されるよなって。失礼な言い方かもしれないですけど、2人とも、やっぱカワイイですから」  錦鯉のコンビ結成は2012年。2人とも別の相手とコンビを組んだり、ピン芸人として活動したりしていた時期がある。それぞれ平坦(へいたん)ではない人生を歩んできた。  長谷川は、北海道の商家の出身。祖父が札幌市内の市場で珍味と乾物の土産物屋を営み、父が後を継いだ。幼少期は商売も順調で、姉はきれいなワンピースに身を包み、日本舞踊、お茶、エレクトーンと習い事三昧。長谷川も、姉と英語教室に通っていた。  劇的に生活が変わったのは、長谷川が小学1年生の時。父が事業の取引相手に騙(だま)され、店を乗っ取られたのだ。長谷川は「一家で奈落の底に落ちた」という。以来、父は外に働きに出ても長続きしなくなった。父が、それまで姉の私立高校進学のために母・幸子が貯(た)めておいたお金をパチンコで使い込んだとき、両親が口論になった。結局は幸子が、女手一つで姉、長谷川、弟の3人を育て上げた。長谷川が高校を卒業する前に両親は離婚。父は20年に他界した。 ■お笑いの道を反対した母 M-1優勝を見せられず  幸子は、忸怩(じくじ)たる思いがあるのだという。 「大きな家に住んでいたのに、雅紀は小1でお風呂もないアパート暮らしに。私が朝から晩まで働きに出ていたから、すっかりおじいちゃん子になったわね。心残りは、高校を出た後に入ったデザインの専門学校のこと。学費が払いきれなくてね」  長谷川はデザインの専門学校に入学後、半年で辞めた。ホストクラブをはじめ、バイトを転々とするうち、バイトの先輩が主宰する劇団に誘われた。顔立ちがはっきりしていて、上背もある長谷川は、初演でいきなり主役に抜擢された。芝居の中で、人を笑わせる場面があり、長谷川は、「お笑いは、客の反応が直に伝わるのが面白い!」とのめり込む。そこで高校の同級生だった久保田昌樹と、94年に新設された吉本興業札幌事務所(現・札幌支社)の門を叩く。オーディションに合格し、1期生に。23歳にして、お笑い人生が始まった。  一方の渡辺は、下町情緒あふれる東京都江戸川区葛西の出身。根っからの「テレビっ子」だった渡辺は、小5でダウンタウンの番組を見て、お笑いにハマった。中央学院大学に進学後、大学3年生の時に高校の同級生だった江波戸邦昌とともに、東京NSC(吉本総合芸能学院)に入った。「憧れのダウンタウンさんのようになりたい」一心からだった。  だが母は、お笑いの道を目指すことに猛反対した。渡辺がNSCに入って大学を辞めると、母は言った。 「大学は卒業してほしかった」  そんな矢先、2000年1月に、母を交通事故で亡くす。渡辺の胸中は複雑だろうと、今も実家で渡辺と暮らす父・政夫(72)は言う。 「娘(渡辺の姉)に言わせれば、隆はお母さんっ子だったらしい。生前、女房はお笑いの道に入るのを受け入れていなかったから、隆も息子としての思いってのは、あると思う。M-1の優勝は、母親に一番見せたかったんじゃないかな」  長谷川と渡辺が出会うのは、現在所属するソニー・ミュージックアーティスツ(SMA)でのこと。2人は吉本をやめていた。SMAにお笑い部門が立ち上がったのが、2004年12月。噂を聞きつけた渡辺が小田祐一郎(現・だーりんず)とともに「桜前線」というコンビで、翌年3月にエントリーした。長谷川は、その1週間後に入った。久保田と上京して「マッサジル」というコンビを組んでいた。  だがその3年後、渡辺は30歳目前で桜前線を解散。ピン芸人となった。一方の長谷川も、40歳の夏、久保田が体調を崩したため2011年に解散。その翌年、渡辺が「コンビを組まないか」と声をかけた。渡辺は、こう述懐する。 「もう舞台に立ってるだけでバカだし、『めちゃくちゃ面白いなーこの人』と思った。雅紀さんがいるだけで、どのライブ会場も明るくなっていたんですよ」  12年に錦鯉を結成。コンビを組んで最初の2年間はパッとしなかったが、2人と付き合いが深いSMAの先輩、ハリウッドザコシショウ(48)から、「決定打」となる助言をもらう。「長谷川は、バカを前に出せ」と。ザコシショウは、こう振り返る。 「錦鯉の漫才って、初期はスマートな、くりぃむしちゅーさんみたいな『引き芸』を目指していたんですよ。ボケをかます側が一歩引いて相手の面白さを引き出す、みたいなね。今思えば、『雅紀、何カッコつけてんだ!』って感じだよね(笑)。バカで笑いとるんだったら、最初からそれを出してきゃいいじゃん、みたいなことは言いましたね」 ■芸人の間で人気の錦鯉 「絶対ブレイクしますよ」  この助言もあって、「パズルのピースのように、真逆の2人がコンビとしてがっちりハマった」と長谷川は言う。 「僕は前に出てわーっと動いてしゃべる。隆はどーんと構えているタイプ。隆は普段から僕にとっての『東京のお母さん』的存在なんですよ。僕の方が年上なんですけど(笑)。芸人を辞めようと思ったことは何度かあったけれど、錦鯉を組んでから辞めようと思ったことは、一度もないですね」  渡辺には、長谷川が「原石」だと映った。 「雅紀さんは存在そのものが面白いから、へんに細工をしなくても、いるだけでいいんだよと。フロントマンとしては最高の人ですよね。優勝する何年か前から、この人(長谷川)にどんなネタをやってもらおうかということが、四六時中、僕の頭の中にあったと思う」(渡辺) 「とことんバカ」を張れる長谷川と、冷静にコンビのプロデュースができる渡辺とがマッチした。漫画みたいな動きでボケを炸裂させる長谷川のアツさと、半歩後ろに立って沈着なツッコミをする渡辺の対比が笑いを誘う。長谷川が不思議ワールドへぶっ飛んでも、渡辺は緩急をつけて小気味よくツッコミの手綱を捌(さば)く。正反対な2人による「ギャップの妙」で笑わせる古典的なスタイルの漫才を作り上げた。  それに加えて、「プロの芸人からの口コミ力」という強力な援護もあった。  年間1千本を超えるお笑いライブを仕掛けるK-PRO代表の児島気奈(40)は、錦鯉はブレイク前から、芸人の間で人気があったという。 「コワモテのおじさんで、錦鯉さんにキャーと喜ぶ若いファンはつかなかった。でも、まわりの若い芸人さんたちが『絶対ブレイクしますよ、このおじさんたち』と口コミで広げていて。それで錦鯉さんに出演を頼んだら、舞台上の芸人さんたちがすごく楽しそうだったんです。トークコーナーも、いつも以上に盛り上がって。こんなに盛り上がるんだったら、また次も呼びたいなって、錦鯉さんに次々にオファーするようになったんです」 ■芸が刺さっている感覚ない これからが本当の勝負  錦鯉を組んでからの10年は、ライブ会場での客の反応もそこそこによく、「チャレンジの階段を上がる感覚がずっとあった。続けられた理由はそこにあると思う」と長谷川はいう。  2015年からM-1にも挑戦し、毎年、準々決勝か準決勝までは勝ち進んでいた。18年に病気で北海道に帰っていた久保田の訃報が届く。渡辺は「雅紀さんは売れなきゃいけない」という思いを強くした。長谷川は、志半ばで逝った元相方へのオマージュのつもりで、お笑いに打ち込んだ。2人は2カ月に一度、新ネタを5本つくることを課し、毎回ライブで10本のネタを披露し続けた。  テレビ番組への出演機会がポツポツ増え、徐々に注目度が上がった20年には、M-1で決勝まで駒を進めた。翌年、満を持して優勝を勝ち取った。  予選・本選とも持ち時間が限られているM-1は、いかに客の心をつかんだまま突っ走れるかが勝負になる。例年、M-1の予選で審査に携わる放送作家の田中直人(58)は、多くのコンビが時間内にネタを隙間なく詰めた結果、「話術の短編小説」のようなお笑いが並ぶようになったと語る。 「凝った短編小説のようなお笑いは、目まぐるしい展開になりがちなんですが、錦鯉の笑いはテンポがゆるやか。余計な言葉を削(そ)いでいった結果、『でっかい太字で書かれた絵本』のような野太い面白さが生まれた。錦鯉は、『お笑い第7世代』とくくられる若い世代が見過ごしていたポイントを突いたともいえますね」  昨年8月、ラジオ番組の収録に立ち会った。視聴者からのお便りコーナーで、長谷川は大ぶりのアクションをつけ、寄せられた一発ギャグを読み上げる。リスナーには見えないラジオなのに、両腕を振り上げ、エネルギーを全開にする。長谷川は根が真面目で、サービス精神が旺盛なのだ。  一方の渡辺は、メジャーとサブカルの間を往復しながら、媒体や場に応じて軽妙に、ネタやトークに奥行きをつくる。「趣味がAV鑑賞」と公言し、テレビのバラエティー番組で、マツコ・デラックスから「下ネタで議席を失う市議会議員顔」と形容された。テレビに加え、ネット界からの支持も熱い。渡辺がバーチャルユーチューバー(VTuber)の「兎田ぺこら推し」なのは、オタク界隈(かいわい)では有名だ。ライブ配信で、ぺこらと共演したことも話題になった。また、キャバクラ嬢を演じるタレントとのトークで「ドM」なキャラを怪演したYouTubeの番組で、200万回以上の再生回数をたたき出した。  売れっ子芸人の仲間入りをしても、渡辺はどこまでも謙虚だ。 「自分らの芸が世の中に刺さっている感覚はあまりないですね。今はとりあえず、M-1チャンピオンが(テレビ番組に)呼ばれているという認識。錦鯉が呼ばれているとは思っていない。これからが本当の勝負だと思います」   そんな渡辺に今後の野望を聞いた。 「ただただ面白くありたい。面白ければ仕事も来るだろうし。だから、何かやりたいこととか野望とかは、全くないんですよ」 「ただ面白くあること」に集中する。無我の境地そのものだ。そんな彼らの姿は、実に清々(すがすが)しい。  錦鯉は、エイジズムとは無縁で「カワイイ」と言われ続ける、時代のアイコンだ。あらゆる世代と応答しながらピチピチ泳ぐ様を、まだまだ見ていたい。(文中敬称略) (文・古川雅子) ※AERA 2023年1月16日号
AERA 2023/01/13 18:00
「中学受験人気ブロガー」が提唱する“父親の狂気”に陥らない心得 子の受験を「自分ごと」にしない
古谷ゆう子 古谷ゆう子
「中学受験人気ブロガー」が提唱する“父親の狂気”に陥らない心得 子の受験を「自分ごと」にしない
中学受験は「親の受験ではない」と心得、のめり込みすぎないことも大切だ。写真はイメージ(PIXTA) 年々過熱する中学受験において、子どもの受験勉強に積極的に関与する父親が増えつつある。育児に積極的な父親が増えるなかで、受験でもわが子をサポートしてあげたいと父親が考えるようになったのも当然の流れかもしれない。その一方で、父親が自身の受験の成功体験を押し付けたり、会社での仕事のやり方を受験勉強に適用させたりすることで、疲弊してしまう子どもがいるという話も多い。そこで、AERA dot.ではさまざまな「中学受験パパ」のケースを取材し、子どもとの最適な関わり方を探った。短期集中連載の第3回は、2人の兄妹との中学受験体験を書いたブログがヒットし著書「偏差値に効く究極サポート10の実践」も出版したゆずぱさんが登場。中学受験パパが覚えておくべき“心得”を聞いた。 *  *  * 「自分も中学受験をしてみようかな」  ゆずぱさん(仮名)の息子が、そんな言葉をかけてきたのは、小学校4年の頃だった。  当時、通っていたのは私立の小学校。小学校受験もしたが、友人たちも中学受験に挑む子が多く、「みんなやっているから」がその理由だった。  自身も妻も、公立の中学、高校と進んでいたため、中学受験の経験はない。 「文字通り、右も左もわからない状態からのスタート。どんな塾があるのか、カリキュラムはどうなっているのか。まずは徹底的に調査をしようと決め、僕自身が受験勉強について学ぶことから始めました」  小3から入塾し、二度の転塾を経て、大手進学塾へとたどり着いた。大切にしたのは、通いやすさと子どもの性格に合っているかどうか。塾の雰囲気が子どもに合わないと感じれば、無理に通わせることはしなかった。  当時、大きなプロジェクトの責任者を務めていたため、帰宅時間は遅く、平日の夜に勉強をみることは難しいと感じていた。妻もフルタイムなうえ、夜勤もある。 「次第に、サポートするにしても仕組み化が必要だ、と気づきました。仕組みづくりをするうえで基準にしたのは、『子ども一人でできること』と『親と一緒でなければできないこと』をきっちり分けるということ。自律的行動につながるような仕組みづくりこそ、親ができることだと考えました」 ゆずぱさんの手書きのホワイトボード。完全に無機質になるわけではなく、『頑張ろう!』『忘れないように!』といった手書きのメッセージを加えた(画像=本人提供)  スケジュール管理とタスク管理、そしてファイル管理。その3つを、自身の主な仕事と課した。 「子どもがその時々にやらなければいけないことを把握し、週間スケジュールを一緒に作成することから始めました。時間割をつくり、子ども部屋やリビングなどに貼り、平日はそのスケジュールをもとに、自走してもらうようにしました」  大切にしたのは、「細かなスケジュールは子どもと一緒に決める」ということ。 「息子のタイプを考えても、人から指示されるのは嫌だろうな、と感じていたので、中身は子どもに主体的に決めていってもらいました。僕がしていたことといえば、エクセルの操作くらいです」  小学4年から週間スケジュールをつくり、学期や学年が変わるタイミングで改版していった。勉強への取り組み方、仕組み化のヒントが欲しい時は、ネットからの情報や同じ受験生の親のブログを頼りにした。  自身は理系ということもあり、ビジネス同様、「PDCAサイクルを回していくこと」に重きを置いたことも良かったのかもしれない、と振り返る。 「僕は感情を捨て、仕組みだけを提供することを徹底しました。例えば、夏休みであれば、毎朝ホワイトボードにやらなければいけないことに所要時間を加えて渡すなどなるべく具体的に記すようにしていました」  とはいえ、毎回思った通りに進むとは限らない。  中学受験専門塾スタジオキャンパス代表の矢野耕平さんも、「12歳の子どもが取り組むことなので、『PDCAは崩れるもの』という前提を頭に入れておくことも必要」と話す。 「勉強はビジネスと異なり、『こうすればうまくいく』という方程式のない世界。Plan(計画)、Do(実行)の段階で崩れることも少なくありません。大切なのは、バグが発生した時に、パニックに陥ることなくスムーズに対処できるかどうか。『そもそもバグは生じるもの』ということを前提に考えておく必要があります」 ■受験を親の「自分ごと」にしない  ゆずぱさんの場合、父親と母親の役割分担も明確にした。  教科問わず、理解が浅い点など勉強のサポート自体はゆずぱさんが週末にまとめて行う。対し、弁当づくりや学校説明会や文化祭の予約、そして受験期の忙しい時期に妹を終日外に連れ出すという役割は母親に委ねた。 「共働きで、子どもと接することができる時間が限られているため、平日は自走してもらい、週末だけ真横について教える、というスタイルを少しずつ確立していきました」  どれくらいの偏差値帯を目指すのか、志望校はどの辺りにするのか。本人の意見を尊重しつつも、両親で意見が割れていると、子どもは振り回されてしまう。そのため、互いに歩みよるなど、時に無理やりにでも夫婦の歩調を合わせることも大切だと感じた。  時には、思うように取り組まない子どもの姿を見て、イライラしたこともある。 「わが家の場合、子どもから『中学受験に挑んでみたい』と言い出したにもかかわらず、ダラダラしている時間も多かったので、『本当にやる気があるのか』と怒りたい気持ちになったこともあります。ですが、次第に『これは親の受験ではないんだ』と意識を切り替えることにしました。『せっかく受験をするのだから、このくらいは目指してほしい』といった思いはすべて捨てることにしました」  受験勉強に並走する時間は長く、費用もかかる。だからこそ、次第に受験が“自分ごと”になってしまい、親の思いや願望を捨てることが難しくなりがちだ。ゆずぱさんがそれを潔く「捨てる」ことができたのはなぜなのか。 「妻も自分も中学受験は未経験だったからこそ、『中学受験をすることだけが唯一無二のルートではない』という考えが前提にあったことが大きいかもしれません」と言う。 「息子の友人たちを見ても、私立の小学校から公立の中学に進む子もいれば、中学受験をしても進学した中学で勉強について行けずにやめてしてしまった子もいた。いろいろなパターンやルートがあることがわかっていたため、『道はここしかない』と思い詰めなかったのも良かったのかもしれません」  前出の矢野さんも「中学受験未経験だからこそ、『唯一無二のルートではない』という冷静な視線を持ち、『これは親の受験ではない』と割り切れたのが良かったのではないか」と言う。  息子の受験を終えてから数年後、今度は娘が中学受験に臨んだ。  兄と両親の姿を近くで見てきた娘は精神的にも安定し、心の余裕を持って試験当日を迎えることができた。 「不安定になり焦って詰め込むよりも、時間はかかってでも一問一問確実に取り組んでいく方がいい。それに、たとえうまくいかなかったとしても、長い人生でいくらでもリカバリーはできる。親はどっしり構えていればいいのではないか、と今は思います」 (古谷ゆう子)
中学受験
dot. 2023/01/12 07:30
「GIGAスクール構想」で増える教員の負担 授業準備や管理、手続きも学校現場に丸投げ
「GIGAスクール構想」で増える教員の負担 授業準備や管理、手続きも学校現場に丸投げ
一人ひとり、自分が見つけた小数を紹介していく。「(スーパーの)ヤオコーで買ったフランスパンのたんぱく質!」。教室に笑顔があふれる 「GIGAスクール構想」で全国の小中学生にタブレット端末が配布されて2年目。教員たちは多忙を極めている。現場の声から見えてきた課題とは。AERA 2023年1月16日号の記事を紹介する。 *  *  * 「先生はね、給食の牛乳のパックで小数を発見したよ!」  さいたま市立植竹小学校3年1組の教室で、担任教員の菊池健一さん(48)は子どもたちにこう語り掛け、牛乳パックの栄養表示欄の写真を黒板に貼った。1人1台配布されているタブレットパソコン(PC)に、その写真を一斉送信する。子どもたちは手慣れた様子で、画面に映った写真を大きくしたり、動かしたり。その後は子どもたちが身の回りで見つけた小数を発表。続く国語の授業では、タブレットに子ども向け新聞を映しながら「こそあど言葉」を探した。これが、タブレットを授業に取り入れたICT教育なのか。  菊池さんは「ICTを使った授業は得意ではないんですが」と苦笑いするが、試行錯誤しながらも、チャレンジしている。  文部科学省が全国の小中学生に1人1台の端末を配る「GIGAスクール構想」が本格スタートして2年目に入った。教室ではどのような授業が行われ、どんな課題が見えてきたのか。現役教員たちを取材した。 ■時間外労働が増加した  GIGAスクール構想では、一人ひとりに合った教材で学習できる。できる子は先に進み、つまずいたらその部分を深く学べると文科省は胸を張るが……。 「GIGAスクール構想で、自分なりの学びを進めることはできる。学力は上がるだろうし、学びが遅れてもAI先生がフォローできるだろう。ただし、そういう学習をするにしても教師がいないといけない。教師がそういう時間を取れるかも問題です。それなら、学習指導要領の内容を減らして、そのための時間をつくるべき」  こう訴えるのは鹿児島県の公立中に勤務する60代の教員だ。  英語必修化やプログラミング教育、道徳の教科化など学校では新たな仕事が次々に増え、そのたびに教員は猛烈に忙しくなってきた。GIGAスクール構想も同様で、教員は新たな授業の準備ばかりでなく、ネット環境の脆弱(ぜいじゃく)さによるトラブル対応、破損対応、情報の管理などの負担が増えたという。群馬県の公立小学校特別支援学級の担任を務める男性教員(50代)が嘆く。 発表している子どもが見つけたのは薬の袋の表示。ほかにも「シャープペンシルの太さ」「車のナビ! うちまで7.9キロ」など小数を発見した 「情報教育を担当している職員の仕事が増えた。IDやパスワードの管理、新学期にパソコンを使用するまでの手続きなどで、時間外労働が増加した」  別の教員も「端末は1年使うとけっこうボロボロ。保護者からクレームがくることもある」と明かす。 「1人1台タブレット」のシンプルかつ根本的な問題も浮き彫りになってきている。政令指定都市の公立中学校校長が言う。 「1人1台端末を使う授業では、基本的に生徒の画面を、教師がすべて把握はできない。悪く言うと、授業中ゲームをしても、子ども同士でチャットをしていてもわかりません。見回ってもスワイプで隠すのは簡単です」  また、子どもたちへの影響を指摘する意見も多く聞かれた。まず、子どものコミュニケーション能力の低下。前出の菊池さんはタブレット導入後の学習内容の変化を懸念する。 「本や辞書で調べる学習や、人に会って情報を収集する機会が減ることが危惧されます。そこで、教育委員会の指導を受けながら、同僚教員とも教材研究して、実際に人に話を聞いたり、本や辞書で調べたりする活動も積極的に行っています」 ■読み書きがおろそかに  調べたいことを、詳しい人に聞く。そうした一次情報を元に物事を考えるのは、社会で必須のスキルだ。ネットの情報には、嘘や誇張もたくさんある。情報の取捨選択の方法を小中学生に教えなければならない。  さらに、ICTの導入で従来の学習の比重が軽くなったという指摘もある。再任用教員として公立小学校に勤務する60代の女性教員はこう訴える。 「子どもや保護者に、ICTを使えば何でもできるように錯覚させ、PC操作ができないと、我が子が取り残されるような不安を与えている。従来の教育で大切にされてきた『読み、書き、計算』がおろそかにされている」  都内の公立小の50代教員は、 「ICT教育がいい悪いというより、突然スタートされ、学校現場に丸投げで戸惑うばかり。推進されても弊害が多い。書けない、読めない子が自動変換だけ覚えてしまう」  と、タブレット端末の導入で楽な方に流れる子どもたちを、心配する。  ITに詳しい若手の教員ならうまくできるのでは、とよく言われるが、それは幻想だという。 「授業の力量を上げずに、ただICTを使えばいいわけではない。若い教師はICTのことばかり考えて停滞している。ベテランも授業の基本となる一斉授業の力を育てる時間がない」  と、東京都の公立中学校教諭(50代)は憤る。  もちろん、メリットを指摘する声もあった。茨城県内の公立小で特別支援学級の担任をする50代の男性教員は言う。 「(タブレット端末で)デイジー教科書(紙の教科書では読むことなどが困難な児童生徒が利用できるマルチメディア教科書)が使えるようになって、子どもたちが音読をできるようになった。文章を読み上げる機能があるので、聞きながら読む練習ができる」 ■自作エクセルで筆算を  算数では、自作のエクセルワークシートを使って、筆算の練習を子どもたちが自力でできるようになったという。 「途中経過が見えるようにしたので、どこで間違ったかわかる。直しも効率的にできます」  意欲的にICTを活用し、授業の質を上げている例だ。  GIGAスクール構想には課題も多いが、ICT教育だけをやり玉に挙げる教員はほとんどいない。準備の時間や研修がないこと、授業から修理対応まで学校に丸投げで、結果、教員の仕事が増えること。子どもへの悪影響を放置していること。現場は、増え続ける仕事量に疲弊しているのだ。  文科省の担当者はこの状況についてこう話す。 「文部科学省からは、1人1台端末を『このくらいの時間を取って使用してほしい』という具体的なお願いはしておりません。一方で、『個別最適な学び』と『協働的な学び』の一体的な充実など、教育の質を向上させるためGIGAスクール構想を推進しているところであり、その観点で1人1台端末を日常的・効果的に活用いただきたいと考えています」  時間こそ指定していないが、結局、日常的に活用するよう、物腰柔らかく言われているだけのように聞こえる。だから、次の事例のように「手柄を立てよう」と、暴走する教育委員会が出てくるのかもしれない。  政令指定都市の中学校の50代校長は危機感を募らせる。 「教育委員会から『タブレットを持って帰らせるように』と通知がきた。ネット依存の原因になることを恐れて、『せめて、深夜から未明までは使わないように、時間制限を』と言ったが、『自由に使わせる』となってしまった。委員会でネットを使っている時間を調べたら、1カ月に200ギガオーバーという子が何人もいた。一日中タブレットに向かっているのだろう。学校が配布したタブレットがネット依存の温床となっている」  ネット依存は、心身が不健康な状態になり、成績不振や不登校にもつながる社会的な問題でもある。教育の目的で配布した道具が、ネット依存の要因になってしまうのは本末転倒だ。 ■文房具の一つと考えて  ただし、GIGAスクール構想はまだ始まったばかり。どうすればうまく学びに取り入れられるのか。  教員向けの著書も多い、兵庫県の公立小学校の俵原正仁(たわらはらまさひと)校長は「タブレットを特別視することはない」と言う。 「どんな授業をするか考えて、タブレットの活用が有効となれば、使えばいいのです。文房具の一つと考えればいいのでは。ICTは、目的ではなく授業を成功させるための手段です。たとえば、私の学校では朝顔の観察にタブレットを使っています。朝顔の鉢の前で、不安定な体勢で絵を描くより、撮影して教室に戻り、じっくり観察して描くほうがいいでしょう? 簡単に導入できるICT教育は、たくさんあります」  運用や学習面での課題について文科省や教育委員会は現場に丸投げするのではなく、教員の声も聞き、子どもたちのために問題を改善していく必要がある。教育のせいで困るのは、未来を生きる子どもたちなのだから。(教育ライター・高清水美音子)※AERA 2023年1月16日号
AERA 2023/01/11 17:00
子宮内膜症の病変が入って起こる「子宮腺筋症」も 近年わかってきた発生タイプを医師が解説
子宮内膜症の病変が入って起こる「子宮腺筋症」も 近年わかってきた発生タイプを医師が解説
※写真はイメージです(写真/Getty Images) 子宮筋腫や子宮内膜症と比べると、やや認知度が低い「子宮腺筋症」。しかし発症頻度は筋腫、内膜症と大きく変わらない。最近は、子宮内膜症から発生するタイプがあることがわかり、早期診断の重要性が注目されている。 *  *  *  子宮は、骨盤内にある袋状の器官で、子宮の壁は内側から子宮内膜、子宮筋層、漿膜という3層構造になっている。子宮腺筋症とは、子宮内膜組織が子宮筋層に入り込んで、増殖する病気だ。  一般的には30代後半から40代の出産経験のある女性に多いとされ、子宮筋腫などで子宮内の手術をした人や中絶を経験した人に多いという報告もある。従来は、子宮内膜の組織が何らかの原因で子宮筋層(筋肉)の中に入り込むことで起こると考えられてきたが、近年では、子宮内膜症の病変から子宮腺筋症が発生することもあるとわかってきた。子宮内膜症とは、本来は子宮の内側に存在する子宮内膜組織が、子宮以外の場所で発生する病気だ。ミズクリニックメイワン院長の小林浩医師はこう話す。 「従来の、子宮の内側から内膜組織が筋層に入り込むタイプ(I型)だけでなく、子宮内膜症の病変が子宮の外側から筋層に入って起こるタイプ(II型)もあることがわかっています。子宮内膜症は若い人にも多く、内膜症から発生したII型の腺筋症は20代の人にもみられます」  つまり、若い女性が子宮腺筋症と診断された場合、子宮内膜症を合併している可能性が高い。このように、子宮の良性疾患である子宮筋腫、子宮内膜症、子宮腺筋症は合併することも多いと小林医師は言う。  子宮腺筋症は、病気の認知度は低いが、女性の20~30%にみられるといわれており、子宮筋腫や子宮内膜症と発症頻度は大きく変わらないとされている。 ■つらさが周囲に理解されにくい  10代、20代の若い女性は、月経に関わるつらい症状があってもすぐに受診しないケースが多い。市販の鎮痛剤で月経痛が改善しない、あるいは貧血が改善しないなどの理由で婦人科を受診し、子宮内膜症に子宮腺筋症を合併していることがわかることも多い。そう考えると、未受診で診断されていない腺筋症の患者も多くいると推測される。 子宮腺筋症データ  通常、子宮内膜組織は女性ホルモンの働きにより増殖し、妊娠しないと月に一度、子宮の壁からはがれて体外に排出される。これが月経だ。子宮筋層内の組織も同じように女性ホルモンの作用で増殖し、はがれることをくり返すため、子宮腺筋症になると子宮筋層が厚くなり、子宮全体が大きくなる。それに伴い、出血量が増える「過多月経」や、月経の期間が長くなる「過長月経」、「月経痛」などの症状が起こる。  加えて、月経時以外にも腰が痛い、おなかが張るなど「慢性骨盤痛」の症状がみられることも。また、子宮内膜症では、子宮と直腸の間のすき間(ダグラス窩)に内膜症ができることで子宮と直腸が癒着することがあり、排便痛や性交痛が強くなる。 「この症状がみられる患者さんにMRI検査をすると内膜症が子宮や直腸に入り込んでいたり、腺筋症が見つかることもあるため、内膜症の人で、月経痛に加えて排便痛や性交痛が強いときには腺筋症なども疑うことが重要です」(小林医師)  月経痛の強さや月経量の多さは他人と比較することが難しく、患者も自身の症状がどのぐらい重いのかを判断しにくい。そのため、「みんな同じだろう」「生理がつらいのは仕方がない」と、がまんしてしまうことも多い。さらに、つらさを周囲に理解してもらいにくいことも患者を苦しめる要因になると、手稲渓仁会病院産婦人科主任部長の和田真一郎医師は話す。 「月経痛がつらくて仕事を休みたくても、職場に理解してもらえず休みにくい、人の目も気になるという人も多くいます。貧血や痛みのつらさに加え、過長月経で何週間もナプキンを外せない煩わしさや、頻繁にトイレに行かなければならない苦労など、日常生活への影響は大きいと思います」(和田医師) ■不妊や早産の原因になることも  一般的に、日中でも夜用のナプキンが必要、あるいは1~2時間に一度交換が必要、タンポンでも漏れる、夜間にもトイレに行く、などは過多月経の目安と考えられる。症状の程度は、腺筋症の状態や子宮の大きさなどにより個人差があるが、子宮腺筋症は慢性かつ進行性の病気であり、罹患期間が長いほど、治療をしなければ症状も悪化する。そして、女性ホルモンが減少して閉経を迎えるまで自然に治ることはない。 子宮腺筋症が発症する場所  子宮腺筋症でもI型の場合は、不妊につながる可能性は比較的低いと考えられているが、子宮内膜症は不妊を合併しやすいため、II型の腺筋症では不妊のリスクが高くなるかもしれない。また、子宮腺筋症があると、体外受精をした場合の妊娠率が低いという報告や、妊娠した場合に早産になりやすいという報告も。 「本来、子宮は赤ちゃんの成長にともなって大きく伸びるものですが、腺筋症になると筋層が厚く硬くなり、伸びにくくなります。そのため、赤ちゃんがそれほど大きくなくても子宮が収縮してしまい、早産が起こりやすくなるのです」(小林医師)  和田医師は、胎児の発育への影響や脳血管疾患との関わりについても指摘する。 「子宮の、腺筋症のある部分に胎盤ができてしまうと、血流が悪くなって赤ちゃんがあまり大きく育つことができない『胎児発育不全』を起こすことが多い傾向があります。そのため、腺筋症のある人の妊娠では通常より慎重に経過をみていくことが必要です。また、子宮腺筋症が脳梗塞の原因になる可能性があるという研究報告もあります」  日常生活への支障や妊娠・出産への影響に加え、生命に関わる病気のリスク因子ともなりうる子宮腺筋症。過多月経や月経痛などがつらい人は早めに受診してほしい。 (文・出村真理子) ※週刊朝日2023年1月20日号より
子宮腺筋症病気
dot. 2023/01/11 16:00
稲垣えみ子「当たり前に笑い合ってくれる『ご近所づきあい』は絶大な資源」
稲垣えみ子 稲垣えみ子
稲垣えみ子「当たり前に笑い合ってくれる『ご近所づきあい』は絶大な資源」
元朝日新聞記者 稲垣えみ子  元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。 *  *  *  2022年の締めくくりは、家から徒歩3分の町中華で近所の友達4人で忘年会。夫婦2人で営むごくごくフツーの店なので普段は予約なんぞしないが、念の為「忘年会するからねー」と日時を伝えておいたらフンと軽く頷いていた店主が、いざ行ったらメニューにない料理を3品用意してニコニコ待っていた。若い頃は銀座やらの大きな店でバリバリ宴会料理を作っていた店主なのである。これがもうどれも絶品で、皆で「何これ!」「食べたことない味!」とワーワー食べ、もちろんいつもの餃子も五目焼きそばもすごい勢いで食べて締めて1人3千円。その後はメンバーの一人が最近見つけたというこれまた超ご近所の店へ。廃屋みたいなアルミの扉を開けたら、美しいカウンターの向こうにネクタイ姿のバーテンダーが立っているクラシカルなバーで驚く。いわゆる隠れ家と形容されるのだろうが、実は全然隠れているつもりはないらしい店主から集客方法を相談され、皆でワーワー無責任なアイデアを出し合う。そしてラストは寒さに首を縮めながら向かいの寺へ。誰もいない夜の寺はめちゃくちゃ荘厳で、皆上機嫌でお参りして家路につく。カバンの中には土産のポッキーとミカン。  ってことで、まあ本当に愉快な夜だったのだ。 ご近所付き合いをしているとこの時期ミカンが飛び交うことに気づいた今日この頃(写真:本人提供)  何が愉快って、全部「ご近所」というだけの縁で結ばれた世界で行われたことである。家族でも同僚でもなく何の利害関係もなく、なのに無意味に気にし合う我ら。私は会社を辞めるまでこんな人間関係があることを知らなかった。役に立つ人間、少しでも秀でたところのある人間でなければ誰にも相手にされないと信じ込んでいた。でも収入がどうなろうが仕事がドン減りになろうが世間に冷笑されようが、つまりは私が何者であれ、この地でよろよろ生きている限り、当たり前に笑い合ってくれる仲間はちゃんといるのである。  なるほどこれを「ご近所づきあい」というのだな。これは現代の忘れられた、しかし実は誰だって掘り起こすことのできる絶大な資源である。 ◎稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行※AERA 2023年1月2-9日合併号
稲垣えみ子
AERA 2023/01/09 17:00
性風俗の女性が海外に“出稼ぎ”のワケ 数こなすしかない日本に違和感
松岡かすみ 松岡かすみ
性風俗の女性が海外に“出稼ぎ”のワケ 数こなすしかない日本に違和感
※写真はイメージです (GettyImages)  長引く不況で、「日本で働くより、海外のほうが稼げる」と海を渡る性風俗業の女性たちがいる。さまざまなリスクを背負いながら、それでも彼女たちを突き動かすものはいったい何なのか。当事者の声をもとにひもとく。 *  *  * 「本気で行こうと思っている人は、とっくに海外に行って仕事を始めていると思います」  海外で性風俗の仕事を始めて、6年になるというマリエさん(仮名・41歳)。特定の店に所属するのではなく、個人で顧客と直接やり取りして仕事を受けている。キャリアのスタートは、25歳で風俗関連企業で事務職として勤めたとき。その後、都内の風俗店で“接客”を始め、性風俗の世界を知った。  一口に性風俗と言えど、その内容は多岐にわたる。マリエさんが選んだのは、いわゆる性交を伴わないスタイルで、「服を脱がなくても良い風俗があるんだ」ということも、接客の世界に足を踏み入れる後押しになった。最初の勤務で得た報酬は、数時間で2万5千円。ストレスもほとんど感じることなく、自然と「他の仕事より稼げそうだし、やってみようかな」という気持ちになったという。  その後、10年近くその店で勤めた後、接客経験を元に、30代半ばで独立した。個人がSNSで発信するのが当たり前の時代で、オンラインを通じて仕事を獲得する動きもすでに浸透していた。長引く不況の中で、「日本人を相手に仕事をするより、海外の顧客(特に富裕層)を相手にしたほうが、格段に稼げる」というのは、性風俗業に身を置くマリエさんが肌身で感じてきたことだった。だから店に所属しているころから、主に海外の顧客の獲得を目的に、個人のホームページやSNSのアカウントを作り、積極的に発信した。  主なターゲットは、日本に出張などで訪れる海外のリッチなビジネスマン。ホームページなどを通じ、マリエさんに興味を持った男性から、直接問い合わせが入る。日程や場所、金額や内容などの条件が合えば、男性の宿泊先を訪ねて仕事をするという流れだ。リピート客も多く、マリエさんは着実に顧客数を伸ばしていった。  海外で仕事を始める転機になったのが、6年前に訪れた欧州での同業者らとの出会いだ。SNSを通じて知り合った女性たちと実際に会って話す機会があり、大きな刺激を受けたという。 「特定の店に所属し、その店につけてもらった客の数をこなしていくスタイルが一般的な日本の風俗ビジネスと比べ、私が出会った海外の同業者は、“自分のビジネスを自分でやるのが当たり前”というスタイルで、プロ意識が大きく違った。金額も内容も自分で決めるし、顧客を増やすための自分のブランディングやマーケティングについても惜しまず努力する。全ての責任を負う代わりに、全部自分で決められる。そんな働き方をしている彼女たちは、日本の風俗嬢とは桁違いに稼いでいました」(マリエさん) ■ツアー一回で5万ドルが目標  また風俗=性交ではなく、「客と一緒に過ごす時間そのものが報酬の対象になる」という考え方など、さまざまな世界が広がる海外の性風俗のスタイルを目の当たりにした。「自分の中で、エロティックという概念が大きく広がった感覚があった」ともいう。  以前から海外に対する憧れが強かったこともあり、自分が海外に行って現地で仕事をすることへの抵抗感はほとんどなかった。海外での仕事は、国ごとにいくつかの都市を訪れるツアーを組むのが主だという。事前にSNSで、訪問予定の都市と日程の目安について告知し、客からの問い合わせに個別に対応する。料金は米ドルで1時間600ドル(現在の日本円で約8万円)~に設定しているが、あくまで目安。短時間で良い客もいれば、数週間~1カ月単位と、長い期間を共にすることを希望する客もいる。中には「毎月これぐらい払うから、関係性を維持してくれ」という客もいる。そうした場合、客から額を提示されることになるが、提示額が料金設定を下回ることはないため、応じることが多い。  支払いは当日前払いが基本だが、海外の場合には、預かり金として総額の10~50%程度を先に支払ってもらうなどしている。新型コロナウイルスが流行する前までは、各国を転々として稼いでいたが、現在の主戦場は「手堅く稼げる」という欧米とアジアの3カ国。一度のツアーの目標額は5万ドル(約670万円)で、今まで一番高額だったのは2週間で約270万円を支払った客だった。海外から日本に来る外国人も戻りつつある今、12月には1週間、客の国内旅行に付き合う仕事で1万ドル(約134万円)の報酬を得る予定だという。現在の固定客は40人ほどだ。 「海外で現地の客を相手に仕事をしている風俗業の日本人女性はまだまだ少なく、人気が高いのにレアで、いわばブルーオーシャン。効率よく稼げるし、今の仕事を続ける上では、これ以上ない働き方で気に入っています」(同)  今、「日本より海外のほうが稼げる」と、海を越えて“出稼ぎ”をする性風俗業の女性が出てきている。海外で働くには、就労ビザが必要となるが、性風俗業で出稼ぎをする場合、現地で働くことを伏せた上で観光ビザなどで入国し、短期間働いて帰国するか、別の国に移動する例が少なくない。中には、表向きには別の仕事で就労ビザを得て入国し、入国後に副業的に性風俗の仕事をする人もいる。  背景には、バブル崩壊以降、“失われた30年”と呼ばれる景気停滞が尾を引く日本の現状がある。「海外のほうが稼げる」と海を渡る例は、性風俗業に限った話ではないが、出稼ぎを選んだ性風俗業の女性たちに話を聞くと、「稼ぐためには“数”をこなすしかない日本の風俗業に限界を感じた」「店に決められた枠内で、マニュアルどおりに仕事をすることを求められる日本の風俗業の働き方に違和感を感じた」といった声が多く聞かれる。SNSなどで、世界中の個人同士が簡単につながることができる今、あえて以前から続く日本の風俗業界のシステムに即した働き方をしなくても良いと考えているようだ。実際にSNSなどオンライン上には、海外で性風俗の仕事をしている日本人女性の姿がちらほら見られる。  自身も風俗業界で働いた経験を持ち、性風俗業で働く当事者らを支援する団体「SWASH」で代表を務める要友紀子さんは言う。 ■オンライン面接で海外でも手軽 「性風俗業の日本人女性が海外に出稼ぎに行く動きは、10年ほど前から少しずつ見られています。私たちの団体も、これまでは海外から出稼ぎに来る女性たちの相談が多かったのが、最近は日本から出稼ぎに行った方が現地でトラブルに巻き込まれるなどして相談が来るケースが出てきています。彼女たちは日本で稼げなくて生活に困っているというよりは、本気で稼ぎに行っている人が多いように感じる。だから精神的にも相当タフで、行動力のある人が多い印象です」  出稼ぎに行くきっかけはさまざまだが、知り合いで出稼ぎ経験のある人がいたり、現地の知人から誘いを受けたりするなど、何らかのつながりがあって海外に行くケースが多いようだ。 「昨今は風俗業界でもオンライン面接が多くなり、海外の店で働く場合にも、リモートで手軽に面接が受けられます。SNSのダイレクトメッセージなどで誘われる例も見られます。風俗の場合、現地の言葉がそこまで話せなくても、仕事を得ることができます」(要さん)  現地にいる知人からの誘いがきっかけで、英語はほとんど話せないがアメリカに飛んだのが、サンディエゴ在住のアイコさん(仮名・35歳)。アメリカではネバダ州を除く全土で、売春行為が違法とされている。ゆえに風俗営業を行う店は違法営業であり、表向きには別の業態を名乗るなどしている。アイコさんが5年間勤務した店は、表向きには“マッサージ店”をうたう、中国人女性がオーナーの風俗店だった。  地方出身のアイコさんは、高校卒業とともに上京。「特にやりたいことが見つからなかった」というフリーター時代を経て、25歳でキャバクラやスナックでの水商売をスタートした。働いて稼いだら、しばらく遊んで暮らし、お金が底をつきそうになったらまた働く。漠然と「いつかアメリカの大学に行きたい」という夢を持っていたが、どう動いたら実現できるのかわからなかった。  その後、友人の紹介で出会ったアメリカ国籍の男性と結婚し、アメリカの永住権を手にする。男性とは価値観の相違から、数年で離婚することになったが、「せっかく永住権もあるし、アメリカのほうが稼げそうだし、行ってみようかな」と離婚後に渡米を決めた。勤務していたスナックの同僚がアメリカで風俗の仕事をした経験があり、「すごく稼げるよ」と話していたことも後押しになった。  働く先のあてがないままの渡米だったが、現地の知人の紹介もあり、すぐに職を得ることができた。現地の風俗で働く日本人女性が数少ないことから、オーナーからも歓迎されたという。アイコさんが勤めた店にいる女性は、中国人、韓国人、ベトナム人が多かった。表向きにはマッサージ店を名乗る店であるため、勤務するには学校に通って免許を取る必要があり、最初の2年は自費で通学しながら、主に週末に店で働いた。  風俗で働く経験は初めてだったが、「水商売の経験があったからか、そこまで高いハードルを感じなかった」(アイコさん)。アメリカの映画などで描かれる“夜の世界”に対する憧れもあり、「自分も経験してみたい」という好奇心のほうが強かったという。 ■ガサ入れの危険と隣り合わせ  アイコさんの働き方は、こんな具合だ。まず店に所属はするが、サービスの内容や金額は個人の裁量で決める。アイコさんが勤務した店は、客が店に1時間60ドル(約8千円)を支払い、接客する女性にはサービス代として客からチップが支払われる。  そのチップが、アイコさんたち店で働く女性の収入となる。店からは「なるべく頑張ってリピーターを作ってね」とは言われるものの、ノルマなどを課せられるわけではない。客は現地の男性がほとんどだが、中には観光客もいる。マッサージ店だと思ってやってくる客には、「こんなサービスができます」と個別に交渉することになる。最初はほとんど英語が話せなかったアイコさんだが、働きながら徐々に話せるようになった。  勤務時に稼いだ金額は、1日平均千ドル(約13万円)。週4日勤務が平均だったというアイコさんは、月1万ドル(約130万円)前後、年間で12万ドル(約1600万円)が平均的な収入だったという。 「収入から家賃や生活費などを除いて手元に残るお金も、日本よりアメリカのほうが多かった。勤務日数を増やしたら、もっと稼げたと思いますが、いわば違法営業を行う店で働く“綱渡り状態”が、思った以上に精神的にきつくて、私は週4勤務が精いっぱいでした」(同)  違法営業を行う店で働く“綱渡り状態”──。いわく、常に警察のガサ入れなどに気を配りながら接客せねばならない状態だ。ガサ入れ時には、オーナーが部屋の外から合図を叫ぶが、警察が部屋に入ったときに何事もなかった状態にしておかなければ、間一髪の差で現行犯逮捕されることもありうる。警察が突然、抜き打ちでチェックに訪れることもしばしばで、常に外の様子に神経を研ぎ澄ませながらの接客には、想像以上に疲労感が募った。 「だけど仕事そのものは嫌いじゃなかったし、自分で試行錯誤しながら接客やサービスを頑張ると、成果が目に見えて返ってくる仕事にやりがいも感じていました。仕事を広げるために、豊胸手術もしたし、トーク力も磨いた。努力したら目に見えて返ってくるのが楽しかった」(同)  店で働く女性同士は、ライバルではあるが、ガサ入れからみんなで身を守ったりと、いざというときの連帯感も強く、ファミリーという感じすらあった。「何の仕事をしてるの?」という話になったときに答えられないから、現地の日本人コミュニティーとは距離を置く生活を徹底していたが、店の女性たちと食事したり遊んだり、「それなりに現地の生活も楽しんでいました」(同)という。(後編に続く) (フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2023年1月6-13日合併号
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