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【現代の肖像】こどまっぷ代表理事・飲食店経営者、長村さと子「LGBTQの『子どもがほしい』を支援する」<AERA連載>
【現代の肖像】こどまっぷ代表理事・飲食店経営者、長村さと子「LGBTQの『子どもがほしい』を支援する」<AERA連載>
「裏切らないのは犬だけ」と笑う。偏見や批判にさらされても、人とのコミュニケーションを諦めない(撮影/今村拓馬) さっぽろレインボープライドのパレードで。長村は、旧知のゲイの人と現場で再会。意気投合し、その場でイベント開催を約束。こどまっぷ共同代表のゆきこは言う。「彼女は、人に出会う度に企画が湧く。行動力が半端じゃない」(撮影/今村拓馬) 老舗レズビアンバーが軒を連ねる新宿二丁目で、「最年少」ながら10年間も店を続けてきた。「人から裏切られても、さと子は自分からは手を離さない。わかりあえなくても、『とりあえず話してみよっ』って」(我妻)(撮影/今村拓馬) かつて保護犬を引き取った動物保護施設で。「動物保護活動は一生続ける」と長村。ともに暮らす愛犬は、「もはや恋人」。人間関係の悩みも全て話してきた(撮影/今村拓馬) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  セクシュアルマイノリティーを取り巻く状況は、少しずつ変わってきた。だが、同性カップルが子どもを持つことは依然難しい。  この高いハードルをどう乗り越え、どう子育てを実現させていくか。それを共に考える団体がこどまっぷである。  代表理事の長村さと子もまた、子どもを持ちたいと願う一人だ。世の中を変えたい、居場所を作りたいと切望する。  家賃が高い新宿二丁目にしては広々とした「足湯cafe&barどん浴」。壁という壁を取っ払った60平米のぶち抜き空間には、路面の窓から陽の光が注ぐ。窓際には車座になって卓を囲める和風の足湯スペース。壁にはキース・ヘリングのポップアート。昼寝にちょうどよさそうな、虹色のハンモックまでつり下げられている。  セクシュアリティーに関係なく、誰もが気軽に訪れる場所にしたいと作られたこの足湯カフェで10月中旬、イベントが開かれた。子どもが欲しい、または、すでに子どもがいるセクシュアルマイノリティーとその周りの人のための団体「こどまっぷ」の主催だ。  テーマは「アメリカの生殖医療現場で働くドクターに聞いてみよう for LGBTQ」。登壇者は、米国・サンディエゴのクリニックに勤務する医師、ダニッシュマン・サイードだ。通訳付きの英語の講演ではあったが、50人近くが熱心に聴き入っていた。参加者の多くは、これから出産を考えている20代から30代のレズビアン。卵子提供と代理出産治療にも精通する医師の話だけに、子を持ちたいゲイカップルの姿もあった。  このイベントを企画したのが、足湯カフェの経営者で、こどまっぷの代表理事を務める長村さと子(36)だ。長村自身もパンセクシュアルという、恋愛相手に性別を条件としないセクシュアルマイノリティーである。恋愛をしてきたのは主に女性で、一時期、男性との付き合いもあったが、現在は茂田まみ子(39)がパートナー。長村は子どもが欲しくて妊活中でもある。  ひとたび目標が定まると、長村は招く相手が海外の人だろうが、有名人だろうがおかまいなし。グイッと巻き込み、企画を形にする。周囲が認める「猪突猛進型リーダー」だ。 ■本職は飲食店の経営者、東京と大阪を夜行で移動  でも素の姿は、どちらかといえば人の目を見て話せないタイプで、いつもストリート系のキャップを目深にかぶっている。この日の長村は、厨房に雲隠れし、参加者に提供するサンドイッチを黙々と作りながら、カウンター越しに参加者の様子をじっと観察していた。代わってマイクを握り、英語を交ぜながらの名司会ぶりを発揮していたのは、まみ子だ。まみ子は長村の活動を支える同志でもある。まみ子は言う。 「さと子は大きな地図を描ける人。私たちの活動って、常に荒波の中なんですよ。でも、彼女が行きたい先は、間違いなく波しぶきを越えた『向こう側』にある。未来を想像した時に、どんなに困難が降りかかったとしても、この人の『今』に関わっていたいと思わせるものがありますね」  多様性の時代。イベント名に表記のある「LGBTQ」は最近の呼称だ。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとる「LGBT」に、自分自身の性自認や性的指向が定まっていない、もしくは定めていない「クエスチョニング(Q)」が加わる。  日本におけるセクシュアルマイノリティーを取り巻く状況は、2015年から大きく変化している。一部の自治体で「同性パートナーシップ制度」が始まり、同性カップルに対して男女の婚姻関係と同等だと認めるようになった。だが、同性のカップルが子を持つことへのハードルは、依然として高い。北米では、同性愛者やシングルマザーが精子バンクから精子を買い、子をつくる選択肢もあるが、日本では日本産科婦人科学会により「婚姻している夫婦で、男性不妊であると診断されている人のみ」と決められている。同学会などの指針では、人工授精など生殖医療に関しても、原則としてがんの治療で生殖機能に影響が出る恐れがある人や戸籍上の夫婦に限定している。LGBTの多くが受診を拒まれる。  そもそも、知り合いからなんとか精子提供を受けられて妊娠・出産できたとしても、提供者の面会交流権はあるのか、逆に提供者に養育費を請求できるのか、といった生まれた子どもに関連する権利は、まだ法的にカバーされていない。  昨年、彼女がサンフランシスコで開かれたLGBTの国際会議でこどまっぷの代表としてスピーチをした際、会議に同席していたのが、弁護士の加藤丈晴(45)と、ゲイであることを公表して発信する松岡宗嗣(25)だ。2人は口々に言う。 「北米では、ゲイのシングルファーザーに『なんで子どもを育てたい?』と聞くのは愚問。『子どもが可愛いからに決まってんじゃん』と普通に答えますよ。権利意識の強い国だから。けれど、『血縁社会』の日本では、同性同士で子を持つことに対する偏見が根強い。まだ同性婚を議論している段階で、子を持つことは、『同性婚のさらに次』の課題。(長村が)そこにもうアプローチしているのは、かなり先を見て行動されてるなと」(加藤) 「さと子さんが目を向けているのは一貫して、当事者の暮らしなんですよね。地に足がついてる。法律を変えろ!とか拳をあげる活動家じゃない。『こんな社会がいいよね』という考えがじわじわと周りに浸透して、理解者が増えていく」(松岡)  長村の本職は、飲食店の経営者。東京と大阪に4店舗を構え、夜行バスで仮眠をとり往復する日々だ。その上、全国規模の組織に成長したこどまっぷの活動も両立して行う。メンバーは北海道から沖縄まで各地に散らばる。地方でも、講演会場はいつも満席に。情報提供の協力機関は、米国、デンマークなど、海外へも広がる。今月は台湾に赴き、現地の当事者団体と交流を深める予定だ。 ■10年続いた兄からの暴力、家の外に逃げ場所求めた  エネルギーの源泉は何か? それは、「誰かの居場所をつくること」と長村は言い切る。 「経営もこどまっぷの活動も、私がやってることは全て『場づくり』。私自身、どこにも居場所がなくて、彷徨っていた時期が長かったから」  地元は東京の下町、足立区。父の営む金属加工の工場の敷地内に自宅があった。きょうだいには兄と弟がおり、両親と祖母、独身だった叔母も同居する7人暮らし。敷地内に複数の棟の屋敷があり、一棟には部下の家族が住んでいた。  親の意向で小2から家庭教師がつき、お嬢様校として知られる都内私立小学校の編入試験を突破。小3からは電車で片道1時間かけて通学した。地元の友達はいなくなり、私立小では編入生のくせに生意気だと噂が立ち、「速攻でいじめられた」。  三つ上の兄から暴力を振るわれるようになったのは小4の時。19歳まで10年間も続くことになる。おなかを何度も強く蹴られたことさえあった。男性に対して、力で勝てない恐怖心が芽生えた。当初、母親に打ち明けたものの、「さと子の考えすぎで、気のせいかもしれない」。長村自身、母を傷つけたくなくて、抑え気味に事実を伝えたため、母も大ごとには捉えなかったのかもしれない。ただ、長村自身は母の言葉を受けて、「この話題は、言ってはならないことなんだ」と暴力の話題は封印。大勢の家族が食卓を囲む中、少女時代の彼女の頭をぐるぐると巡ったのは、<この事実を私が言ったら、家族が壊れちゃう>という思いだ。母は子ども部屋に簡易的な鍵を付けてはくれたが、引き続き兄の暴力はエスカレートしていった。  祖母からは「女であること」を常に押し付けられた。「女の子はこうあるべき」「あなたの格好は女の子なのに下品よ」と。  長村に暴力を振るっていた兄は、一時期、そんな祖母宅に引き取られて暮らした時期がある。 「うちは完全に機能不全家族。あんなに広大な場所に家があったのに、誰の居場所にもなっていなかった。私に残ったのは疑問符だけです。かぞくって何だ? 結婚って何だ?って」  兄の件では放置の姿勢を貫いた母が、学校外の娘の友達関係などを過剰なほど心配したため、「管理されている」と感じた。ピアノ、プール、お絵描き教室、書道、それに家庭教師……と、塾や習い事でスケジュールを詰め込まれていた。  自分というものがない「心の穴」を唯一埋めてくれたのは、当時ハマっていたビジュアル系バンド。兄の暴力は続いていたが、次第にバンドのファン同士のつながりに癒やしを求めていく。  高1で、私設ファンクラブを全国規模で組織。きっかけは、CDショップの店頭に置かれた交流ノートだった。同じバンドのファン同士が一冊のノートに書き込みをしていて、まずは地元の人とつながって集まりを持った。それでは物足りなくなって、雑誌に「私設ファンクラブ始めました」と投稿し、文通相手を全国に募集。北海道から沖縄まで200人の友人と文通し、1年ぐらいかけて交換ノートを回した。家の外のつながりは、唯一ほっとできる逃げ場所でもあった。  高3の時、宝塚を舞台にした小説にハマると、匿名で小説を投稿できる会員制サイトを開設した。登録者数は全国で2千人にも上る盛況ぶりだった。 ■経営難で貯金がゼロに、希望は子どもを持つこと  高校卒業後は女子美術大学短期大学部に進学。女性を好きになるセクシュアリティーをはっきりと自覚したのは、19歳だった。開設したサイトのオフ会で出会った女性に恋をした。初めて恋愛した相手であり、初めて失恋した相手にもなった。  長村の失恋は騒動に発展した。失恋のショックで、その日、長村は自宅に帰らなかったのだが、それを心配した母が、長村のアドレス帳にあった知人に手当たり次第連絡を入れたのだ。長村は、一人の年上の友人に、セクシュアリティーのことも、フラれて失意にあることも話をしていた。母から連絡が来たその年上の友人が、そのことを洗いざらい母にバラしてしまったのだ。  母に頼まれた友人が、長村をファミレスに呼び出した。友人の隣には母がいて、「心臓が飛び出るぐらいびっくりした」。友人は、自分より母の年齢に近く、娘を心配する母の気持ちに共感してつい、話してしまったのだと弁解した。母には小学生の頃に一度話したきりだった兄の暴力が、もう10年も続いていたことも伝えられていた。長村はパニックになった。母と帰宅したもののいたたまれなくなり、長村は家を飛び出した。暗がりの中、荒川まで自転車を飛ばした。一時は「身を投げて死のう」と思い詰めた。  嫌だったのは、「男性で優しい人に出会えれば、あんたも(女性を好きになる性的指向が)治るんじゃない?」という決めつけに似た母の言葉だ。セクシュアリティーを巡る母子のせめぎ合いは続いた。実家に恋人を連れていって紹介しても、母は認めなかった。「結婚できない相手は、友達の延長線上でしかない」と。ようやく認めてもらえたのはそれから5年後だ。  26歳で、新宿二丁目に店を出した。特製のお好み焼きを焼く女性優先のバーで、その名も「どろぶね」。実際、鳴かず飛ばずの時期もあり、その頃から付き合いのある我妻茜(33)は、「開業後の間もない頃、頼まれて店に寄ったら、店にいるのがさと子とスタッフだけ、ということもあって(笑)」と証言する。  店は赤字続きで、28歳のときの貯金はゼロ。当時、付き合っていた年上の女性の家に転がり込んで暮らしていたが、やがて別れを迎え、家を出された。家を借りるお金もなく、車上生活は1カ月に及んだ。昼は弁当の移動販売員として、夜はどろぶね店主兼スタッフとして、働き詰めの日々だった。疲れすぎて眠れず、店が終わると夜中に横須賀まで車を飛ばした。真冬の海で暗がりの中、女一人、漫然と釣り糸を垂らしていた。 「今思えば、釣りという名の放心状態でした」  失恋に始まり、母へのアウティング、家族の無理解、経営不振と苦難続きだった長村の一筋の希望が、子どもを持つことだった。  10代の頃から「いつか子どもを産んでみたい」という思いはあったが、セクシュアリティーを自覚した当初は、<子のいる人生は、諦めないとダメなのかな>と考え、悲しい気持ちになった。ネットサーフィンを続けるうち、あるレズビアンが海外の精子バンクに英語の手紙を送り、子づくりに挑戦している体験が綴られたサイトを見つけた。 「私にも産む選択肢は残されているんだ!と。探していた参考書を見つけた気分でしたね」 ■誰かの居場所作りが自分の居場所を作ることに  セクシュアルマイノリティーの人がどう産んで、どう人とつながりながら育てていけばよいのか、考える団体が必要になる――。そんな思いから、10年2月、有志3人でこどまっぷの前身となる集まりを始めた。目指すのは、LGBTQが子どもを持つ未来を「当たり前に選択できる」社会だ。  そもそも、長村が付き合った恋人は、子どもの話を持ち出すと、誰一人首を縦に振らなかった。 「子どもが欲しいという望みを言い出すのは、カミングアウトよりも怖かった」(長村)  15年にまみ子と出会う。店の常連客だった。まみ子はそれまでの恋人とは違った。 「子どもを欲しいという気持ちは、おかしいことじゃない」 「生まれてくる子との血のつながりはさと子だけでも、自分は構わない」  長村は「あたらしい家族」をつくる未来が見え、親へ切り出した。「法的な結婚はできないけれど、私、この人と結婚式を挙げる」と。  この時、唯一理解を示したのは、父だった。 「お前が選んだ人生なんだろ?」  まみ子との出会いから半年後、60人の参列者に囲まれて2人は結婚式を挙げた。  司法書士で、こどまっぷ共同代表のゆきこ(37)は、昨年、会を一般社団法人化するなど組織固めに注力した。こどまっぷの活動には、もう一つ大きな思いがある。17年、会のメンバーとして活躍した女性が、産後に出血が止まらなくなり、待望の我が子を一度だけ抱いて亡くなった。誰よりも子の誕生を待ち望み、精子提供者と綿密に連絡を取り合い、妊活に際してはバックアップの得られない日本の産科体制の中でもがき、ようやく掴み取った幸せの絶頂の直後の出来事だった。  長村とゆきこは、彼女の死後、遺された家族と子の父親とのトラブル収拾にも尽力した。そうした場で何度も突きつけられたのが「普通の」という言葉だ。普通の出産、普通の子育て……。仲間を失い、複雑に絡み合う家族の葛藤を前にし、長村の覚悟が決まった。「この状況を乗り越えるには、世の中が変わるしかない」「彼女の遺志を受け継いで、会の活動を前に進めるんだ」と。  自分よりもみんなのために動こうと決めてからは、テレビ、新聞、雑誌と、あらゆるメディアで発信を始める。NHKをはじめ、メディアに顔を出してLGBTQの妊活や子育てを語るのは、日本では長村が初めてだったという。  二丁目で店を出して10年。店や長村が仕掛けるイベントに出入りする人のコミュニティー、それにこどまっぷのメンバーたち、みんなが「かぞくのようなもの」に発展していると実感している。 「家族とか故郷とか、確かなつながりがない私にとり、二丁目のコミュニティーこそが心の故郷だなと。結局、誰かの居場所をつくることが、私の故郷をつくるのといっしょだとわかってきて。故郷がないなら、自分でつくる!というのが、私が抱える一生のテーマなんですよね」  子のいる人も、いない人も。同性同士で子育てしている人も、その子どもも。あるいは年配の人も。あらゆるボーダーを取り払った人びとが訪れる場を作り続けるんだと、長村は目を細めて言う。  決して「同じ」や「普通」を求めない。その目は時代の符号としての“ダイバーシティー”じゃなく、もっと体温のある“多様性”を見据えている。 (文中敬称略)   ■ながむら・さとこ 1983年 東京都足立区生まれ。金属加工の町工場を営む3代目の父は、若くして家業を継ぎ、「会社は常に傾いていた」。「機能不全家族」の一因は、お嬢様育ちの父方の祖母にもある。完璧な専業主婦を演じていた母は、長村にとっては祖母にあたる、姑に苦労。「祖母は浪費家で100万円の壺を突然買ってきちゃうような人」と長村。父も仕事の責任を負い毒親からも逃げ、不在がちだった。 2002年 私立の小中高一貫校を卒業後、女子美術大学短期大学部に進学。短大卒業後は、美術画廊や編集プロダクションに会社員として勤務するも、長続きしなかった。以後、ホステスから道路工事まで様々なアルバイトも経験。   09年 新宿二丁目に「どろぶね」を出店。その後も、ブリトー屋(16年)、足湯カフェ(18年)、大阪のショットバー(19年)と、次々に出店。   10年 LGBTで子どもを持ちたい人同士の交流会を始める。   14年 交流会を発展させ、任意団体「LGBTsでも子どもがいる未来を」設立。LGBTQの家族のためのSNSサービス「anysea」も開設。   15年 茂田まみ子と出会う。結婚式を挙げ、たくさんの参列者を呼んだのは、「完全に親への『プレゼン』。相手を認めてほしいというよりは、『将来、私が子を産んでも、仲間に囲まれながらちゃんとやっていけるよ』とアピールしたんです」。同年、精子提供者を見つけ、妊活を開始。   16年 「一番子どもに会わせたかった」父ががんで他界。   17年 香港で「Asia-Pacific Rainbow Families Forum」に参加。ピンクドット沖縄にパネリストとして登壇。沖縄で交流会を開催。   18年 非営利型一般社団法人として「こどまっぷ」設立。米国で開催された全米アジア太平洋諸島系クィア連盟NQAPIAのカンファレンスに、プレゼンターとして参加。   19年 クラウドファンディングを成功させ、冊子「Love makes a family」発行。さっぽろレインボープライドに初出展。来春、TOKYO RAINBOW PRIDE PARADEにブースやフロートを出展する予定。 ■古川雅子  ノンフィクションライター。上智大学文学部卒。専門は、医療・介護、科学と社会、生命倫理、コミュニティーなど。共著に『きょうだいリスク』(朝日新書)がある。本欄では、「詩人・岩崎航」ほか、多数執筆。 ※AERA 2019年11月25日号  ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/04/16 16:06
「子どもの学びを止めない」 新型コロナで休校中の私立校がとった独自の取り組みとは
矢野耕平 矢野耕平
「子どもの学びを止めない」 新型コロナで休校中の私立校がとった独自の取り組みとは
Zoomで生徒とやりとりする香蘭女学校の教員(同校提供) 東京都品川区の香蘭女学校(同校提供)  4月7日、政府から東京都を含む七つの都府県に「緊急事態宣言」が発令された。それ以前から多くの学校や教育機関は休校していたが、その状態をさらに延ばさざるを得なくなった。この事態に対し、「子どもの学びを止めてはいけない」と、ICTを積極的に活用して生徒とコミュニケーションをはかっているのが、東京都品川区にある私立中高一貫校・香蘭女学校だ。『早慶MARCHに入れる中学・高校』などの著者で、中学受験専門塾・スタジオキャンパス代表の矢野耕平氏が、同校を訪ねた。  *   *  *  香蘭女学校は1888(明治21)年に創設された伝統あるミッション校だ。現在までに1万人を超える卒業生を輩出している。同じ会派に属する立教大学の関係校推薦があり、卒業生約160人に対し50%(80人)の推薦枠が設けられている。さらに、2021年度大学入学生からはその枠が60%(97人)に増員される。  本来なら新入生を迎え、活気溢れる学び舎は子どもたちの笑い声が響いている、そんな時期だ。しかしいま、子どもたちは誰一人いない。そう、新型コロナウイルス感染拡大により、休校しているのだ。  学校の核となる「授業」がおこなえない……。  この未曽有の事態に対して、私立中高の多くはすぐに動き始めた。  そのような中、わたしはICTを活用して授業を展開しているという香蘭女学校の噂を耳にし、その様子を取材させてもらうことになった。  香蘭女学校は今回の事態に対してどのような策を考えたのだろうか。教頭の船越日出映先生は大きく四つの方針に基づいてICT利用を考えたという。 「一つ目は、生徒・保護者・教員の安全面・健康面への配慮。二つ目は、可能な限り学校機能を止めないこと。三つ目は、生徒たちの生活の中心に授業を据えること。そして四つ目は、行事などについては一度決定したことでも柔軟に変更、対応していくこと。これらを実現するためにはICTの活用が不可欠だろうと判断したのです」  香蘭女学校は独自に設定したタブレット端末のiPadを中学入学後に生徒全員に購入してもらい、ICTを用いた教育に力を入れていた。そんな背景があるからこそ下せた決断なのだろう。  この4月からの新年度の香蘭女学校のICT活用の一端を紹介しよう。  同校が採用しているのは、「CYBER CAMPUS」という教育機関向けの情報共有・学習支援に特化したクラウド型の教育ICTソリューション(生徒と教員をつなぐシステム)のほか、クラスをiPad上で一元管理できる「iTunes U」を活用した授業配信、複数人でビデオ会議ができる「Zoom」を使った遠隔ホームルームやオンライン個人面談などだ。  ホームルームはZoom上で、教員と生徒たちが双方向でやりとりをおこなう。わたしが見せてもらったのは、クラス替えに伴う生徒たちの「自己紹介」。教員も生徒たちも笑顔で臨んでいたのが印象に残った。授業はiTunes Uを利用し、毎日3~4教科を配信するという。国、数、英、理、社にとどまらず、聖書、音楽、美術、技術・家庭、保健体育、情報なども含まれる。授業によってはタブレット用授業支援アプリである「ロイロノート」やCYBER CAMPUS、その他のアプリ等をiTunes Uと組み合わせて使用する予定だとか。  加えて、Zoomでのオンライン個人面談もおこなう。また、今後はオンラインでの学年集会、スクールカウンセラーや養護教諭との面談、英語科ネイティブ教員による英会話のレッスンや中等科生向けの洋書の読み聞かせなどを計画しているという。  船越先生はほほ笑む。 「こんな状況下ではありますが、先生たちはZoom越しでも、久しぶりに生徒たちと会話するのはやっぱり楽しそうですよ」  船越先生は、休校期間を子どもが自らの学びの姿勢を変える好機と考えてほしいと願う。 「授業コンテンツを配信しているいま、生徒たちには自身をコントロールして、学習を計画・実行する姿勢が必要になります。これを機にそういう習慣づけをおこなってほしいです」  ICTセンター長の甲斐雅也先生もうなずく。 「子どもたちは自粛にもう飽きていると思うのです。学校がコンテンツを提供すれば、みんなきっと食いついてくれるはずです。そしてわたしが期待しているのは、高校生たちと中学生の後輩たちのつながりが構築されることです。それが実現できたら素敵ですよね」  香蘭女学校のwebサイトを見ると、同校は「一人一人を大切にする教育」を掲げている。  このICTを活用した子どもの学びをバックアップする根本には、生徒たち「一人一人」に対する温かな思いが強く感じられたのだ。 ■プロフィール 矢野耕平/中学受験専門塾スタジオキャンパス代表・国語専科 博耕房代表。1973年生まれ。著書に『中学受験で子どもを伸ばす親ダメにする親』(ダイヤモンド社)、『13歳からのことば事典』(メイツ出版)、『女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密』『男子御三家 麻布・開成・武蔵の真実』(ともに文春新書)、『LINEで子どもがバカになる 「日本語」大崩壊』(講談社+α新書)、『旧名門校 VS. 新名門校』(SB新書/SBクリエイティブ)、『早慶MARCHに入れる中学・高校』(朝日新書、共著)など。
AERA with Kids+ 2020/04/16 11:30
メドベージェワ、本田真凜らが魅了! 氷上で輝いた“華やかな衣装”の思い出
メドベージェワ、本田真凜らが魅了! 氷上で輝いた“華やかな衣装”の思い出
セーラームーン好きとして有名なメドベージェワ (c)朝日新聞社  平昌五輪銀メダリストのエフゲニア・メドベージェワは、2016年7月に行われたアイスショー『Dreams on Ice 2016』で『美少女戦士セーラームーン』をテーマにしたエキシビションを披露している。セーラー服で現れたメドベージェワが変身する凝った衣装だったが、髪の色はヒロイン・月野うさぎと同じ黄色にすることができなかった。だが、今年6月に予定されているアイスショー『美少女戦士セーラームーン Prism On Ice』では黄色いウィッグをつけることになっており、メドベージェワ自身も気に入っているという。  ルールの制約がないアイスショーやエキシビションでは衣装も自由に工夫することができるため、特に女子の衣装は見どころとなる。16年全日本選手権のエキシビション「メダリスト・オン・アイス」では、当時ジュニアスケーターだった本田真凜がキャビンアテンダント風の衣装を披露している。約一カ月前にJALとスポンサー契約を結んでいた本田は、紺を基調としたジャケットとスカートに身を包んで登場。紙コップを手にして客席に近づき、「お飲み物はいかがですか?」と手渡して滑り始める。当時15歳だった本田の華やかな魅力が際立つプログラムだった。  同じキャビンアテンダントの衣装でも、エリザベータ・トゥクタミシェワはまったく違う印象を残している。昨季のエキシビションプログラムで、キラキラ光る帽子とジャケット、ミニスカートをまとったトゥクタミシェワは客室乗務員に扮した。トレーに飲み物を乗せて客席に配るところから演技はスタートするのだが、演技の中盤でトレーを蹴飛ばすと、クリムキンイーグルをしながらジャケットを脱ぎ、下着風の衣装になる。妖艶すぎるプログラムは、14歳でシニアデビュー、14年ソチ五輪出場を逃した後15年世界選手権を制し、浮き沈みを経験してきた当時21歳のトゥクタミシェワにしか滑れない大人の演目だったともいえるだろう。  同じ曲でも競技会とアイスショーで衣装を変え、違う印象を残したのは浅田真央だ。現役最後の2016-17シーズンのプログラムは、ショート・フリーで同じ曲『リチュアルダンス』を使うという工夫が凝らされていた。ショートは黒、フリーは赤と色を分けたミニ丈のスカートが印象的だったが、引退を表明してから最初に出演したアイスショー「THE ICE 2017」では、ロングスカートで『リチュアルダンス』を滑っている。 「浅田真央メドレー」の最後となる『リチュアルダンス』が流れ始め、赤いロングスカートの上に黒い布を巻き付けた衣装をまとった浅田が登場すると、直前に滑った高橋大輔がその黒い布を取り去る。全身赤の衣装に変身した浅田は、ロングスカートをひるがえして滑り始める、という演出だった。現役時代からスカートの丈にはこだわりがあったという浅田は、「THE ICE 2017」に臨むにあたり「赤いロングドレスで踊りたいということもあって、どうしても赤(の『リチュアルダンス』)をやりたかったんです」(公式パンフレットより)と語っている。  浅田は現在出演中の「浅田真央サンクスツアー」でも『リチュアルダンス』を滑っており、暗転の間にリンク上で黒い衣装から赤いロングスカートに早替えをしている。この赤いロングスカートは、現役時代の衣装をアレンジしたものだという。  新型コロナウイルスの問題が早く終息し、選手がこだわりの衣装で登場するアイスショーを再び見られるようになることを願ってやまない。(文・沢田聡子) ●沢田聡子/1972年、埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。シンクロナイズドスイミング、アイスホッケー、フィギュアスケート、ヨガ等を取材して雑誌やウェブに寄稿している。「SATOKO’s arena」
dot. 2020/04/15 17:00
「そして父になる」リメークも? 中国系アメリカ人監督が描く「現代の大家族」のカタチ
中村千晶 中村千晶
「そして父になる」リメークも? 中国系アメリカ人監督が描く「現代の大家族」のカタチ
Lulu Wang/1983年、中国・北京生まれ。6歳で両親とアメリカに移りマイアミで育ち、ボストンで教育を受ける。短編映画製作を経て、2014年に長編デビュー。長編2作目となる本作は19年のサンダンス映画祭ドラマコンペティション部門で上映され数々の賞を受賞している(Irvin Rivera/The Wrap/Getty Images) 「フェアウェル」/大好きな祖母に、ある「嘘」をつくことになるビリー(オークワフィナ)だが──? 近日公開 (c)2019 BIG BEACH, LLC. ALL RIGHTS RESERVED. 「オーシャンズ8」/発売・販売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント、価格1429円+税/DVD発売中 (c)2018 Warner Bros. Entertainment Inc. and Village Roadshow Films (BVI) Limited. All rights reserved.  AERAで連載中の「いま観るシネマ」では、毎週、数多く公開されている映画の中から、いま観ておくべき作品の舞台裏を監督や演者に直接インタビューして紹介。「もう1本 おすすめDVD」では、あわせて観て欲しい1本をセレクトしています。 *  *  *  自身の祖母にまつわる体験をあたたかくユーモラスなドラマに紡ぎ上げたルル・ワン(37)。わずか4館での上映から全米トップ10入りする大ヒットとなった。  はじまりは7年前。中国に住むワンの祖母が、がんで余命3カ月と診断された。だがワンの家族はそれを祖母に隠し通すことを決める。そして親族の結婚式の名目で親戚一同を集め、祖母を囲んで最期を過ごす計画を立てたのだ。 「目の前で起きていることこそが、自分が一番映画にしたい物語だと気づいたんです。本当は悲しいのにそれをみせず、みんなで嘘をついたり、なにかの『ふり』をする。そのシチュエーションは非常にコミカルで滑稽で、かつ人生の哀愁に溢れていました」  オークワフィナ演じるヒロイン・ビリーには監督自身が重ねられている。6歳でアメリカに移住したビリーは、祖母への「嘘」に素直に同意できない。アメリカでは本人への告知が一般的だからだ。  果たしてビリーは祖母に嘘をつき通すことができるのか? ハラハラの展開に、異なる文化や背景のなかで暮らす家族のかたちが映る。 「グローバル化が進み、これからはよりいっそう家族が世界中に散らばり、その国や地域の影響を受けるようになる。なのに現代社会ではさまざまな物事が二極化し、善か悪か、白か黒かをはっきりつけたがる傾向にあります。家族や友人の関係や愛が、そんな二極化の風潮によって潰されてしまう気がするんです」  どちらがいいか悪いか、白か黒かでは測れないものの大切さが映画からあふれ出す。 「自分と違っていてもお互いをリスペクトし合う。その行為の優美さや品格、なにより愛の大切さを受け取ってもらえればと思います。大切な人と過ごせる時間は本当に短いですから」  実話だけに最後にはあるサプライズも待ち受けている。  外交官の父と作家の母を持つワン。監督になると決めたのは大学4年のときだ。映画の授業で8ミリ作品を撮った。 「自分のやりたいことはストーリーテリングだとはっきりわかったんです。両親を説得するのは簡単じゃなかったけど、2006年にアン・リー監督がアカデミー賞を受賞したことが後押しになった。『あなたよりずっと遅くアメリカに来た彼が成し遂げたのだから、あなたもなんとかたどり着くことができるんじゃない?』と母に言われました(笑)」  映画にあるように叔父は日本在住で、いとこの奥さんは日本人。村上春樹や宮崎駿、是枝裕和、小津安二郎のファンだそう。実はいま、是枝監督の「そして父になる」のリメークに着手しているらしい。「いろんな人が手をあげてきたけれど、この物語は西洋に置き換えるといろいろなニュアンスが違ってくるので難しかったみたい。私は逆に違う舞台、文化のなかでどんな物語になるかに興味があった。私のバージョンでは妻たちがもっと自分の考えをはっきり言うことになると思います」 ◎「フェアウェル」 大好きな祖母に、ある「嘘」をつくことになるビリー(オークワフィナ)だが──? 近日公開 ■もう1本おすすめDVD「抱きたいカンケイ」 「フェアウェル」の魅力は、ビリーを演じるオークワフィナに負うところも大きい。ニューヨーク生まれのアジア系アメリカ人で、脚本家やラッパーとしても知られ、「クレイジー・リッチ!」(2018年)、「ジュマンジ/ネクスト・レベル」(19年)など大作に続々出演。そんな彼女がブレークしたのが「オーシャンズ8」(18年)。あの「オーシャンズ11」の姉御版ともいえる快作だ。  伝説の大泥棒ダニー・オーシャンの妹(サンドラ・ブロック)がある計画を実行すべく、有能な女子仲間を集める。狙うは世界規模のファッションの祭典「メットガラ」でセレブ俳優(アン・ハサウェイ)が身につける宝石。果たして計画はうまくいくのか──!?オークワフィナが演じるのはスリの天才・コンスタンス。ラフでさばけたキャラながら仕事は超繊細。向き合って楽しく会話をしているうちに、気づくと腕時計もサイフも消えている──というチャーミングな悪党ぶりで、豪華キャストに交じって存在感を見せつけた。 「フェアウェル」ではコメディーセンスに加え、ビリーの揺れる内面を繊細に表現している。今後の活躍に注目だ。 ◎「オーシャンズ8」 発売・販売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント 価格1429円+税/DVD発売中 (フリーランス記者・中村千晶) ※AERA 2020年4月13日号
AERA 2020/04/14 17:00
京大志望のきっかけは『鴨川ホルモー』?!合格者628人の素顔に迫るアンケート
京大志望のきっかけは『鴨川ホルモー』?!合格者628人の素顔に迫るアンケート
京都大学(撮影・多田敏男) 京大合格者のなりたい職業ベスト5(週刊朝日2020年4月17日号より) 京大合格者の追い込み時期の勉強時間と睡眠時間(週刊朝日2020年4月17日号より) 京大合格者の関心がある世の中の問題ベスト5(週刊朝日2020年4月17日号より) 京大合格者が選んだ「いま一番会いたい有名人」(週刊朝日2020年4月17日号より)  「西の雄」、京都大学。京大合格者たちの素顔が知りたいと、週刊朝日では合格した学生を対象にアンケートを実施した。628人から寄せられた回答を分析。勉強時間・睡眠時間・将来なりたい職業──。ピカピカの京大生たちの素顔にご注目あれ。 *  *  *  アンケートは628人から回答が寄せられた。工学部(212人)が最も多く、全体の約3分の1を占める。文系で最も回答者が多かった学部は法学部(73人)だった。質問は、「京大を目指し始めた時期・きっかけ」「センター試験後から2次試験までの1日の平均の勉強時間・睡眠時間」「将来なりたい職業」「最も関心のある世の中の問題とその理由」「いま一番会いたい有名人」。  京大を目指し始めた時期は、「高2」が182人(29%)。次いで「高3」の157人(25%)、「高1」の152人(24%)と続く。大半(約8割)は高校進学後に視野に入れていた。    きっかけは、「学科が設定されていなくて、法律系と政治系の両方の道に進める選択ができるから」(法・札幌北)、「理系分野と言語学を結び付けられる文理融合型の京都大総合人間学部をたまたま見つけて」(総合人間・渋谷教育学園幕張)など、専攻の学際性に魅力を感じたという回答が多かった。  また、「研究がしたいから。山中伸弥先生のノーベル賞受賞で京大がいい大学と知った」(薬・大宮)、「興味を抱く分野で高度な研究ができると考えた」(総合人間・県立長野)など、研究力に惹かれたという答えも目立った。さらに、「将来なりたい職業」でも、最も人気が高かったのが「研究者」(117人)。  英国の教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」が発表する「THE世界大学ランキング日本版2019」で、京大は研究力を評価する「教育成果」スコアで1位。総合ランキングでも東大を抑え、首位の座を射止めた。こうしたことも回答に影響しているだろう。  さらに、文化を生み出す古都の魅力がきっかけになった合格者も多い。「京大が舞台の小説『鴨川ホルモー』を読んで魅力を感じた」(理・千葉東)、「京大や京都が舞台の本を読み、京都への憧れが生まれた」(総合人間・横浜翠嵐)、「吉田寮が旧帝国大学の名残を色濃くとどめていたから」(文・海城)といった回答に表れている。ちなみに、『鴨川ホルモー』の著者、万城目学は京大出身の作家だ。    独自の学風も、ほかではなく、京大を選ぶ大きな理由となっていた。例えば、「自由を尊重。日本の大学で一番魅力的だった」(工・東京学芸大附)、「入試の時には必ず謎の像(折田先生像)が設置され、また卒業式はコスプレする人がたくさんいたりと、面白い人ばかりいる。このような人たちと共に語り合い、学びたいと思った」(総合人間・片山学園)などだ。    個性的な人材が集まる京大だが、門戸をくぐれるのは厳しい競争を勝ち抜いた者だけ。2次試験までの追い込み期間の合格者たちの生活を分析してみよう。平均何時間程度、机に向かったのか。最も多かった回答は「9~12時間未満」で、全体の約半数(49%)。次いで多かったのが「6~9時間未満」で、約3割(29%)。「12時間以上」は1割強(14%)にとどまった。  睡眠時間は、「6~7時間未満」が約4割(44%)、「7~8時間未満」が約3割(31%)。両者の回答を合わせると、4人に3人(75%)が、6~8時間の睡眠時間を確保していることになる。限られた時間で集中して勉強に取り組み、睡眠時間は確保する。自己管理が合格の秘訣かもしれない。 ■コロナの影響で友達作り難化  「最も関心のある世の中の問題」では、半数以上(321人)が「新型コロナウイルス」と回答。感染拡大を受けて京大の入学式も取りやめになった。「3月の予定が全て潰れ、大きな喪失感を持ったまま過ごしている」(教育・鴎友学園女子)、「コロナウイルスは京大の入学式を消し去った」(文・明和)、「入学式もなくなり新歓や友達作りまで難化した」(法・西大和学園)など落胆の声が多かった。一方、「将来、食料問題とともに感染症にも対抗できる世界の環境作りに貢献できたらいいなと思ってニュースを見ている」(農・姫路西)と、進路と結び付けた回答もあった。  次いで多かったのが環境問題(17人)。地球温暖化・食料危機とスケールの大きな話に感じられるが、「人類の発展と存続にとても大きな影響があり、自らの生活にも大きくつながる問題で危機感を強く感じる」(工・豊田西)と、日々の生活の延長線上に問題を捉える声が多かった。17歳のスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんの活動が若い世代に響いたのだろう。  そのほか、次のような反骨精神が表れた内容も目を引いた。「桜を見る会。コロナの問題によって、桜を見る会に関する話がうやむやにされているから」(工・明和)、「次代総理大臣。歴代最長となった政権の次がどのようになり、どのような評価を受けるのか興味がある」(理・九段中教)、「国内政治。不誠実で信用できず、将来に不安を覚えるから」(文・鶴丸)。時の政権へは厳しい目を向けているようだ。  「一番会いたい有名人」は、「山中伸弥」や、ダウンタウン「松本人志」、「安倍晋三」を抜き、映画「君の膵臓をたべたい」主演の「浜辺美波」(15人)がトップ。クイズ王として知られるロザン「宇治原史規」(8人)、作家の「森見登美彦」(12人)など京大出身者も人気だった。 (本誌・松岡瑛理) ※週刊朝日  2020年4月17日号
京大大学入試東大
週刊朝日 2020/04/14 17:00
気づくと夫としか話してない…既婚女性のひきこもり20%超、その現実と背景にある日本人の価値観
野村昌二 野村昌二
気づくと夫としか話してない…既婚女性のひきこもり20%超、その現実と背景にある日本人の価値観
4年ほど前から今もひきこもっている既婚女性(30代)。気がつくと1カ月近く、夫以外と話していないことがある。「女子会」に出かけるようになったが、孤立感は強いという(撮影/編集部・野村昌二)  これまで見逃されがちだった「女性のひきこもり」が実態調査によって明らかになってきた。「男は仕事、女は家庭」という日本に古くからある価値観が、女性のひきこもりを表面化させずにいたという。AERA 2020年4月6日号では、各世代のひきこもり女性の現状を追った。 *  *  *  ひきこもりの経験者らでつくる「ひきこもりUX会議」は3月26日、「ひきこもり・生きづらさについての実態調査2019」を発表した。昨年10月から11月にかけ、ひきこもりや生きづらさを自認する当事者・経験者を対象にインターネットやイベントなどで呼びかけ実施したもので、6歳から85歳まで1686人が回答。これほど多くの当事者や経験者が答えた調査は、前例がないという。  回答者のうち今もひきこもっているのは940人で、そのうち女性は61.4%と、32.7%を占めた男性の倍近くいた。  女性がひきこもるきっかけは「こころの不調・病気・障害」が64.8%ともっとも多く、「家族との関係」37.6%、「からだの不調・病気・障害」33.2%、と続く。年齢は30代が36.2%ともっとも多く、次いで20代28.6%、40代23.7%の順。ひきこもりの期間は10年以上が約32%いるなど、長期にわたっていることもわかった。  こうした実態が、なぜ今まで表面化してこなかったのか。「ひきこもりUX会議」代表理事の林恭子さん(53)は、「男は仕事、女は家庭」という日本に古くからある価値観が大きいと見る。 「たとえば、成人した男性が働かないで家にいると親は心配し何とかしようとします。だけど、女性は成人して家にいても、家事を手伝ってくれれば問題と思わず、親も相談に行かないため問題化されづらい」  最近は40代、50代の女性のひきこもりが増えていると感じると言う。 「40代は氷河期世代にあたります。非正規で働く人が多く、契約が切れて転職を繰り返すうちに疲弊し、ひきこもる人が少なくないと思います」(林さん)  50代で多いのは子育てを終えた女性たち、と林さん。ある女性は、結婚し子どもも育ててきたが、本当はずっと苦しいと思いながら生きてきた。その気持ちを夫にもわかってもらえず、もう限界だから「死にたい」と打ち明けた。ひきこもりながら親の介護に入っている女性も多く、親亡き後の不安に押しつぶされそうだと話す人もいるという。 「真面目な人ほど良い娘、良い妻、良い母、さらに近年では良い社会人でなければと思ってしまう。主婦であることで周囲もひきこもっていることを問題とせず、心の内に苦しさがあることに思いが至らない」(同)  さらに「ひきこもりUX会議」が実施した「ひきこもり・生きづらさについての実態調査2019」では、「既婚女性」が全体の20.1%いることもわかった。埼玉県に住む30代の主婦もそんな一人だ。 「気がつくと、1カ月近く夫以外の人としゃべっていないということがあります」  21歳の時に勤めていた会社が倒産したことで精神的に不安になり、双極性障害と診断された。24歳で結婚し夫の両親と同居していたが、4年ほど前に夫と2人で暮らすようになってから、外とのつながりがなくなった。症状が悪化し寝込んでいると、話し相手は夫くらいしかいない。  夫は優しく病気のことも理解してくれているが、感じるのは「孤立感」。実家とは縁を切り、今までつきあっていた友だちとはライフスタイルが違ってきたので疎遠になった。メディアなどは、地域のボランティアや町内会に参加すればいいと勧めるが、一から人間関係を築くことはとてもできそうにない。自分は今、社会から外れた場所にいて、社会とのつながりが薄い人間になっていると思うと話す。 「誰かとどうでもいい雑談をしたいと思うけど、誰と話していいかわからず、孤立感が深まっていきます」  林さんは、ひきこもりはそれ自体が問題なのではなく、問題は「孤立」することだと話す。 「孤立すると心身が疲弊し、生きる気力も失っていきます」  脱するにはどうすればいいか。これまでゴールは就労であり自立だといわれてきた。だが林さんは、まず大切なのは「居場所づくり」だと語る。 「自分のような人間は死んだほうがいいと思っている人に、就労支援だとか自立だと言っても、届かない。それより大切なのは、一人じゃないと思えて、安心できる『居場所』。そこから就労やボランティアなどにつながっていくのが理想です」  居場所づくりのため、林さんたちは16年から全国の都市で「ひきこもりUX女子会」を開催している。これまでに100回近く開き、10代から60代まで延べ約3900人が参加した。こうした女子会は、今では自治体や民間の団体などが主体となって各地に広がっている。  生協パルシステム連合会からの委託で暮らしの困りごと相談や居住支援などを行う一般社団法人「くらしサポート・ウィズ」もその一つ。18年6月に都内で「ひきこもり女子会@パルシステム」を開いたのを皮切りに、これまで5回開催。多い時で100人近い参加があった。次回は6月17日の予定だ。  関西の美術系大学や専門学校で写真の勉強をし、上京し美大に入るも周囲になじめずひきこもってしまった都内の女性(30)も、「女子会」によってひきこもりから抜け出すことができた。  29歳になった一昨年4月、あと1年で30歳になることにショックを受けた。この4年間、私は何をやっていたの、このままじゃダメになる……。翌5月、ネットで「女子会」が開催されるのを知って参加した。そこでは同じような悩みやつらさを抱える女性が多いことに驚いた。同じ境遇の女性と知り合ったこともあり、徐々に一人で動けるように。昨年から美術館でパートとして働きだした。  まだひきこもりから完全には脱したと思わない。だけど最近、自分だからできることがあると思うようになった。自分を元気にしてくれた「居場所」を、今度は自分がつくることだ。女性は楽しそうに話す。 「そこでは、みんなで絵を描いて楽しんだりしたい。何より、自分が立ち上げることによって、そこが私の居場所になるかもしれません」  急がなくてもいい。ひきこもっていた4年間が、意味があったと思える時がきっとくる。(編集部・野村昌二) ※AERA 2020年4月6日号より抜粋
AERA 2020/04/07 11:30
「自分の芯がなくなった」 統計から消され「見えない存在」とされた女性のひきこもりの実態
野村昌二 野村昌二
「自分の芯がなくなった」 統計から消され「見えない存在」とされた女性のひきこもりの実態
24歳のころから4年近くひきこもっていた女性(30)。「女子会」によってひきこもりから抜け出すことができた今、当事者が集まる「居場所」をつくることが目標だと話す(撮影/写真部・掛祥葉子) 「ひきこもり」と言えば「男性」というイメージが強かったが、女性も少なくないことがわかってきた。見逃されたのはなぜか。抜け出すにはどうすればいいのか。AERA 2020年4月6日号では、ひきこもり当事者の女性に話を聞いた。 *  *  *  私なんていなくていいのに。  都内の女性(30)は、24歳のころから4年近く、こんな思いを抱きながら自宅の部屋にひきこもった。  関西の美術系大学や専門学校で写真の勉強をしていたが、「もっと写真を学びたい」と23歳の時に東京の美大に入り直した。これからさらに楽しいことが起き、成長もできる。そう思っていたが、東京では友人もできず、悩みを相談する相手もいない。次第にしんどくなり、大学にも行けなくなった。気づいたら、自宅にひきこもるようになっていた。大学は中退し、写真も撮れなくなった。  気分に波があったが、症状がひどい時は朝から晩まで部屋のベッドで1日を過ごした。頭から布団をかぶり、何もしない。食事もとらず風呂にも入らず、自問自答を繰り返した。 「何でこうなっちゃったのだろう」「このままではいけない」「何かやれることはあるかなあ」……。だが、いくら考えても答えは出ない。悲しくなって、泣いた。女性は言う。 「『あなたは何をしていますか』と聞かれた時に、『私には写真があります』と説明できていたものが、なくなった。親にも迷惑をかけ、自分の芯がなくなり、この世にいても意味はないと思いました」 「ひきこもり」は国の定義では、コンビニなどに行くことはあるものの仕事や学校に行かず、半年以上家にいる状態が続くことをいう。当事者団体では、そうした「状態」ではなく、生きづらさや苦しさがあり、自らをひきこもりと「自認」する人を指す。  長い間、「ひきこもり」と言えば「男性」というイメージが強かった。だが、ひきこもりの経験者らでつくる「ひきこもりUX会議」代表理事の林恭子さん(53)はこう話す。 「女性のひきこもりの存在は、可視化されていなかっただけ。かつて国などの調査では、自宅で家事育児をしている女性は除外されてきた。ひきこもる多くの女性は統計から消され、『見えない存在』とされていたのです」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2020年4月6日号より抜粋
AERA 2020/04/06 07:00
「ボギー」「バーディー」の由来は意外な言葉 ゴルフのうんちく6連発!
「ボギー」「バーディー」の由来は意外な言葉 ゴルフのうんちく6連発!
渋野日向子選手。「スマイリング・シンデレラ」と呼ばれる(写真/朝日新聞社) 石川遼選手。高校時代は「ハニカミ王子」と呼ばれた(写真/朝日新聞社)  話題になったニュースを子ども向けにやさしく解説してくれている、小中学生向けの月刊ニュースマガジン『ジュニアエラ』では、毎号、一つのスポーツを取り上げて、やっても見ても楽しくなるうんちく(深~い知識)を紹介。4月号は、ゴルフを取り上げたよ。 *  *  * 【競技の内容】 静止したボールをクラブという道具で打ち、遠くにある小さな穴(カップ)まで、いかに少ない打数で入れられるかを競う競技。五輪競技としては、2016年のリオデジャネイロ大会(ブラジル)で112年ぶりに復活した。東京大会は男子個人と女子個人の2種目が行われ、1日1ラウンド(18ホール)、4日間で4ラウンド(72ホール)をプレーし、合計の打数が少ない順に上位となる。 【ゴルフのうんちく6連発!】 (1)羊飼いの遊びが起源? 昔、イギリス・スコットランドの羊飼いの少年が、木の枝で小石を打って遊んでいた。すると石は偶然、ウサギの巣穴へ―。これが、ゴルフの始まりだといわれている。ただし、ゴルフの起源にはこれ以外にもさまざまな説がある。 (2)「ボギー」は幽霊? 以前、ゴルフは、2人が対戦し、より少ない打数でボールを入れたほうが勝ちというルールだった。しかし、やがてホールごとに、「3打」「4打」「5打」などの基準打数が設けられ、一人ひとりがスコアをつけて競うように。特定の対戦相手の代わりに、必ず基準打数でプレーする「仮想の選手」と競うわけだ。その「仮想の選手」を、当時の流行歌に出てくる幽霊「ブギーマン」にたとえた人がいた。現在、基準打数より1打多いことを「ボギー」というのは、この「ブギーマン」が由来だといわれる。 (3)「バーディー」は幸運の鳥? 基準打数より1打少なくボールをカップに入れることを、「バーディー」という。さまざまな説があるが、幸運の象徴であるバード(鳥)にちなんだものだといわれる。基準打数より2打少ない場合は、大きくて強い鳥の「イーグル(ワシ)」、3打少ない場合は、飛ぶ力がとても強い「アルバトロス(アホウドリ)」が使われる。 (4)カップの位置は毎日違う! ボールを入れるゴールに相当するカップは、グリーンと呼ばれる区域に一つだけ設けられている。ただしカップの位置は決まっておらず、日ごとに変わる。ホールカッターという道具を使い、スタッフが毎日、前の日とは違う位置の芝を筒状に切り取り、新しい穴をあけるのだ。切り取った芝は、古い穴にはめて、きれいに整える。 (5)「ドッグレッグホール」って何? ホールの中には、コースが途中で左または右に曲がっているものがある。こうしたホールを「ドッグレッグ(イヌの脚)ホール」という。イヌの脚が曲がっていることからつけられた名前だ。 (6)アメリカ大統領の特別ルール 以前のアメリカの大統領・アイゼンハワーは、ゴルフがとても好きだったが、心臓の持病があった。そこで、ボールがグリーンに乗った場合、そこから2打プラスすれば、カップにボールを入れなくてもOKという特別ルールが設けられた。ボールがカップに入るかどうかと緊張して、心臓がドキドキするのを防ぐためだ。 【東京五輪で輝け! 渋野日向子 選手】 1998年、岡山市生まれ。8歳でゴルフを始め、2018年、プロテスト合格。19年、世界のメジャー大会の一つ「AIG全英女子オープン」に初出場で優勝。メジャー大会を日本勢が制したのは男女を通じて42年ぶり2人目の快挙で、その笑顔から「スマイリング・シンデレラ」と呼ばれた。 【東京五輪で輝け! 石川 遼 選手】 1991年、埼玉県生まれ。6歳からゴルフを始める。2007年、15歳(高校1年)で日本男子ツアー史上最年少優勝を飾り、「ハニカミ王子」と呼ばれた。08年1月にプロ転向。19年には史上最年少の28歳で生涯獲得賞金10億円を突破。 ●オリ・パラのうんちく「IOCの第一公用語はフランス語」  国際オリンピック委員会(IOC)の公用語は英語とフランス語。ただし、1972年まではフランス語だけが公用語だった。「近代五輪の父」クーベルタンがフランス出身だったためだ。今でもフランス語が第一公用語で、英語より優先されている。  各大会では、二つの言語のほか開催国の公用語(東京大会なら日本語)も公用語として扱われる。しかし、世界中から集まる選手や報道陣、観客には、三つの言語ともわからない人もいる。そこで、東京都を始めとする各機関は、さまざまな言語の通訳を確保するほか、「多言語対応協議会」を設置し、国や自治体と連携して、外国人旅行者が快適に滞在するための取り組みを進め、交通機関や道路、ホテルなどの案内表示・標識をわかりやすくするほか、自動翻訳機などを使った民間サービスの導入支援も行っている。  ラグビーワールドカップでは、日本各地の人々が、各国代表の言語で国歌を歌うなどのおもてなしが好評だった。東京五輪・パラリンピックも言語を通じて世界中の人々と触れ合うきっかけとなることが期待される。 ※月刊ジュニアエラ 2020年4月号より
オリンピックゴルフジュニアエラ渋野日向子石川遼
AERA with Kids+ 2020/04/05 08:00
田原総一朗×紗倉まな 高齢者の「恋愛」と「性」の複雑な事情
秦正理 秦正理
田原総一朗×紗倉まな 高齢者の「恋愛」と「性」の複雑な事情
田原総一朗(たはら・そういちろう 左)1934年生まれ、滋賀県出身。ジャーナリスト。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」で司会を務める。著書に『殺されても聞く 日本を震撼させた核心的質問30』(朝日新書)など / 紗倉まな(さくら・まな)1993年生まれ、千葉県出身。工業高等専門学校在学中の2012年にAVデビュー。AV女優として活躍するかたわら、文筆家としても精力的に活動。著書に『最低。』『凹凸』(ともにKADOKAWA)など (撮影/写真部・片山菜緖子) 田原総一朗さん(左)と紗倉まなさん (撮影/写真部・片山菜緖子)  年老いた時、性とどう向き合うか──。2月末に高齢者の性を描いた小説「春、死なん」を出した人気AV女優・紗倉まなさん(27)と、85歳となった今も多方面で精力的に活動するジャーナリスト・田原総一朗さんが、老人の性や恋愛などについて、たっぷりと語り合った。 *  *  * 田原:「春、死なん」はとてもおもしろく読みました。紗倉さんがAV女優ということもあって、最初は年寄りの男のセックスの問題を描くのかと思ったら、そうではなかった。老いるとは何か、と。いろいろと考えさせられました。なぜ妻を亡くした70歳の男を主人公にしたの? 紗倉:私のAVを購入してくださった方が参加するイベントでは、3割ほどが高齢者の方々というのと、上の世代の男性に好まれていたアダルト雑誌が規制されて、デジタル化もさらに進んだら、高齢の方は性欲をどう処理していくのだろうか、というのがずっと気になっていたんです。 田原:実際にAVを見ている高齢男性と会って話すとどうですか。 紗倉:奥さんがいなくて、寂しくてイベントに立ち寄ったという人もいらっしゃれば、奥さんはいるけど、セックスをしていないから、AVはよく見るんだよね、と言ってくださる方もいらっしゃいます。 田原:去年、日本の高齢者の性について書いた『シルバーセックス論』という本を出したんだけれども、取材をしていると、女性は60代になるとセックスに興味がなくなるというケースが多かった。男性が取り残されるという問題があるね。 紗倉:小説の中で書きたかったことの一つが、高齢になっても性欲が枯渇することはないだろう、ということです。そして、それは嫌悪感を抱くことなのか、と。 田原:主人公の富雄は奥さんの喜美代を亡くした後、学生時代に一度関係を持った文江とたまたま再会し、ホテルに行くことになる。ベッドで抱き合おうとすると、文江の顔に喜美代の顔があぶりだされるという描写がありますね。 紗倉:富雄は、喜美代に一途であり続ける自分でありたいと思っていたけれど、それでは寂しさを深めるばかりだった。だから、文江とそういう関係になることで、自分を縛る理想像から解き放たれるんじゃないかと思ったんです。でも、そこで喜美代への依存を断ち切れていないということを実感するんです。彼にとって喜美代という存在の代わりなどいなくて、罪悪感を覚えてしまう。 田原:性欲はあっても、社会的にタブー視されていて性を表に出せないんだね。 紗倉:本当は喜美代を思い出したくないはずなのに、思い出さざるを得ない。それが富雄にとっての一番の苦悩だと思うんです。文江と関係することでは心の溝を埋めることができず、次の展開に自分を持っていくことができないという苦しさを描こうとしました。 田原:紗倉さんは、富雄と文江がセックスしたことはよくないと思っているわけ? 紗倉:私はよくないとは思っていないんですけど、書きながら思ったのは、自分が喜美代だったとしたら、ふたたび文江とそういった関係を持つ自分の夫に対して、「なんでよ!」って思うところはあると思います。 田原:怒る? 紗倉:怒るというか、嫉妬してしまうかな。自分がいなくなったら次に進めるんだ、という寂しさを持つかもしれない。でも、今を生きる富雄にとっては、次に進むことが彼の心の延命につながる部分があると思っていて。私は許したいなって。 田原:でも、文江とセックスをした富雄は、たびたび喜美代の記憶に苦しんでいる。そうして苦しめるのは、許せないと思っているからでしょ。 紗倉:うーん、難しい(笑)。結果として、許さざるを得ないんじゃないかなと思うんですけど……。自分がこの世からいなくなった後、自分の愛(いと)しい人がどういう人生を送っても、何もとがめることができないし。ただ、あまり想像はしたくない場面ではあるんですよね。 田原:今、高齢者の性は大問題になっていて、奥さんを亡くした男たちはどうしていいかわからなくなる。以前、先日亡くなった野村克也さんと対談した時、奥さんを亡くして「寂しい、寂しい」って言っていた。前を向けない、と。新しい女性を見つけようと思わないのかと言ったら、冗談じゃないって怒られちゃった。 紗倉:そういった方はすごく多いと思いますし、高齢者の方の寂しさを埋める術は多くないと感じます。田原さんは奥様とお別れされた際、寂しさはどれくらいありましたか。 田原:ものすごくあった。男というのは、だいたいすべて女房任せなんです。僕の場合は、原稿とか講演とか取材対応とか、仕事依頼のイエス・ノーは全部女房が決めていた。月の収入や預金している銀行も知らない。それだけ奥さんの存在というのは、男にとって大きい。 紗倉:そんな中で新たな出会いを求めるのは、高齢者の方にとって難しい問題だと思います。出会いがもともとない状況であったり、家から外になかなか出なかったり。若い人たちはSNSとかでつながりを持つことができるけど、その世代の方々にとっては、富雄のように過去の人に会おうと思っても、すごく難しいことだと思います。 田原:その意味で、富雄と文江の再会には意味があるね。 紗倉:はい。高齢者の方がときめくのはどういう女性なのかと考えました。AV作品では、若い女子大生と高齢者がセックスをするという設定がよくあるんですが、それは何か違うなと思ったんです。実際に心が揺れ動く恋愛をもう一度するとなったら、過去に出会ったことのある、または付き合ったことのある女性なのではないかと。 田原:年齢があまり離れていないことはとても大事だと思う。だってコミュニケーションできるわけだからね。あの時、あそこで、というのが全部通じる。年が20も30も離れていたら通じないよね。 紗倉:そうなんです。だから、話が途切れずに深められる相手と、昔のことを一緒に思いめぐらせることができるというのは大事な過程だと思っています。出会いのその先が性だとすれば、田原さんは性やセックスに対する思いは変わりましたか。 田原:富雄は70歳で文江とセックスするわけだけど、70代になって初めて出会った女性とセックスするのは、たぶん無理だと思う。一般的にはわからないけど、80代になると僕はセックスしたいとも思わないよね。 紗倉:新しい女性と恋愛をしたい、付き合いたいとか、触れ合いたいとかも? 田原:お付き合いはありますよ。学生時代の友人でね、再会した時に「(当時)実は大好きだったんだ」と。もちろん何もしてませんけど、今、2週間に一度くらい食事をしています。 紗倉:その方との出会いがなかったとしたら、田原さんは今、寂しかったと思いますか。 田原:でしょうね。それこそ、彼女は学生時代の友人だから出会えた。僕はね、彼女だけじゃなく、学生時代の友達とも年に2、3回くらい会っているんですよ。みんな会いたいと言う。それは、学生だったあの時代に帰れるから。見えとか何とか何もなく話ができるんです。 紗倉:昔のことを共有できることが、自分にとっての溝を埋める一番温まる道なのかもしれないですね。 >>【後編/田原総一朗×紗倉まな「高齢者も、もっと性とか性欲に正直になっていいの?」】へ続く (構成/本誌・秦正理) ※週刊朝日  2020年4月10日号より抜粋
シニアセックス田原総一朗
週刊朝日 2020/04/04 17:00
菅田将暉と熱愛報道の小松菜奈 実は“わんぱく女子”な素顔
丸山ひろし 丸山ひろし
菅田将暉と熱愛報道の小松菜奈 実は“わんぱく女子”な素顔
アンニュイと評される見た目と異なり行動的な小松菜奈(C)朝日新聞社  3月20日、一部スポーツ紙で俳優の菅田将暉との交際が報じられた女優でモデルの小松菜奈(24)。報道によると、昨年秋にダブル主演映画「糸」(4月公開予定)で共演したことがキッカケで交際に発展したという。若い世代を中心にカリスマ的な人気を誇っている2人。SNS上でも話題となり、「こんなお似合いなカップル見たことない」「菅田将暉好きだけど小松菜奈なら許せる」など、好意的な意見が目立っていた。 *  *  *  小松といえばモデルとしてデビュー後、2014年公開の映画「渇き。」で第38回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。女優として注目され、その後「溺れるナイフ」「恋は雨上がりのように」など、数々の映画で主演を務めている若手実力派女優だ。正統派の美人ではないが独特の雰囲気で「神秘的」「アンニュイ」「ミステリアス」という印象を持っている人も多いだろう。しかし、こうした印象とは裏腹に、意外と活発な一面があるようだ。 「19歳の頃に一人旅でオーストラリアに行き、古着ストリートで買い物をした時のエピソードをバラエティ番組で明かしていたことがありました。古着屋で好みの服を見つけるも、その店はクレジットカードが使えず、しかも小松は現金を持ってなかったとか。しかし、諦められず現金で買い物をした前の店に戻り、『やっぱりカードにしたい』と懇願。カードで支払い、戻ってきた現金で欲しかった服を無事購入できたとか。小松曰く、その時は『絶対、買わないと死んじゃう』と思ったそうです。」(テレビ情報誌の編集者)  見た目の雰囲気とは違い、行動的だった小松。最近始めた美容法について「1年間ずっと、走ること」とインタビューで答えていた(「NET ViVi」2019年11月12日配信)。疲れている時も走ることで頭がリフレッシュされるのだとか。さらに最近はスケボーにハマっておりて、公園で練習しているという。「おしゃれイズム」(日本テレビ系、2019年5月26日放送)に出演した際も、自身について「アウトドア派」と明かしており、休みの日はドライブや山登りをし、餃子を食べに宇都宮まで行ったこともあるそうだ。 「仲の良い門脇麦も小松について『想像以上にわんぱく』と、トーク番組で言ってましたね。例えば、小松からテンション高めに河にいるザリガニの動画が送られてきたそう。小松曰く、柵があったのでそのザリガニを捕まえることはできなかったそうですが」(同) ■「恥ずかしい」と明かした好物とは  こうした一面に加え、小松は「好きな食べ物もアグレッシブです」と語るのは女性ファッション誌のライターだ。 「母親の影響もあり、豚足が大好きだとバラエティ番組で明かしてました。スーパーで買って食べるほどで、過去には豚足を食べたら前歯が折れて義歯にしたこともあったそうです。本人は『言うのが恥ずかしい』と話していましたが、SNS上では『親近感が湧きました』『豚足かぶりついて前歯折ったことあるとか最高』など、かなり好意的に受け止められていましたね。神秘的な美しさを持つ小松ですが、笑顔や普通にお喋りをしている時はチャーミングなんですよ。そして行動派でもありますし、そんな様々な顔を見せるところも新しい魅力になっていくと思います」  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は、小松の女優としての可能性についてこう分析する。 「菅田と初共演した2016年の映画『ディストラクション・ベイビーズ』では、本能のままに暴力をふるい、彷徨い歩く主人公(柳楽優弥)と、好奇心から彼について行く菅田に巻き込まれるキャバ嬢・那奈を熱演し、2018年公開の岡田准一主演の映画『来る』では真っ赤な髪の毛で霊媒師の血を継ぐキャバ嬢役を怪演していました。まるで別人かと思うほどの強烈なビジュアルが非常に印象的で、振り切った役が似合うので、ワイルドな一面も決して意外ではないと受け取る人も多いのでは。これまで映画をメインに活動しており、今回の報道を機に『あの子は誰?』とお茶の間がざわつき始めていると思いますので、地上波ドラマにも進出する機会だと思います。本人としてはどういう道を進んでいきたいかわかりませんが、まだ24歳ですし、女優として今後さらに磨きがかかっていくでしょう」  同世代の女優とは違った存在感を放っている小松。もちろん役の幅も広く、将来は日本の映画界に欠かせない女優になりそうだ。(丸山ひろし)
dot. 2020/04/03 11:30
【現代の肖像】村上財団代表理事・投資家・村上絢「子どもと母親が生きやすい社会へ投資する 」<AERA連載>
【現代の肖像】村上財団代表理事・投資家・村上絢「子どもと母親が生きやすい社会へ投資する 」<AERA連載>
投資家として市場の動きに目を凝らしながら、2児の母としてシンガポールを拠点に子育てに奮闘中(撮影/今祥雄) どの会社に投資するか。歴代の社内外の取締役を30年さかのぼって研究するなどして、自分が経営者なら何をどう変革し利益を出すかを考える。頭の回転の速さは父・世彰も唸るほど/都内にある村上財団の事務所で(撮影/今祥雄) 誰に対しても礼儀正しく、穏やかな性格。ただ、自分が納得いかないことに関しては、年上であっても敢然と意見を表明し、最後まで諦めない/ヘレン経堂で(撮影/今祥雄) 1年のうち日本に帰るのは数回。今は仕事以外の時間は子育てをしているが、楽しくて仕方がない(撮影/今祥雄) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  子どもの頃から、家族が集まるとお金の話をしていた。父は村上世彰。娘の村上絢が投資家になるのも、当然だったかもしれない。結婚し、子どもも生まれ、公私ともに順調だった。しかし、父の強制調査に巻き込まれ、これまでにない悲しみを経験することに。その暗闇の中で思ったのは、誰かを責めるのではなく、社会で課題を抱える人を支えたい。社会貢献のための投資が始まった。  アジアの経済の雄・シンガポール。この国に生活の拠点を置く投資家・村上絢(31)の朝は早い。毎朝起床は6時。お弁当を作り、2人の子どもたちを幼稚園に送り出す。一息つけるのが7時。ここから部屋に移動してニュースやメールのチェックをする。絢が手がけるのは9割、日本株だ。時差の関係で、日本のマーケットが開く午前9時は、シンガポールの午前8時。そこからマーケットが開いている間、絢はパソコンの前を離れない。昼食もデリバリーで済ますことが多い。投資家の日常は意外と地味なのだ。 「全盛期の父は、企業の株を買って、買って、買いまくることをしなければ経営者に、健全な経営を促すことができない時代でした。けれども、今ではガバナンスの遵守は当たり前です。ただ、変わりたいけれども変わる手法が分からないというのが経営者の本音。変革したいけれども、自らの力では変革できない割安の会社を見つけて投資するのが私の流儀です」  この父というのが、かつて「村上ファンド」の名で日本社会を席巻した村上世彰(60)だ。大株主となった企業に対し厳しい態度で経営の変革を迫る「物言う株主」として恐れられた。しかし、2006年、世彰はインサイダー情報を元にニッポン放送株を買い増した証券取引法違反の罪で東京地検特捜部に逮捕、起訴される。そして11年、最高裁で懲役2年、執行猶予3年の有罪判決が確定する。世彰は活動の拠点をシンガポールに移し、その後の動向はしばらく謎めいていた。現在は投資家から資金を預かり運用するファンドマネジャー業からは一切手を引き、個人投資家として活動している。 ■一時帰国の飛行機で父のニュースを見て仰天  世彰は16年、社会貢献に特化した村上財団を創設し私財を投じた。絢はその理由をこう語る。 「父は投資をした先の企業が健全な経営をしているか、株主が企業を監視・監督する『コーポレートガバナンス』を提唱してきました。株主と経営者が建設的な緊張関係にあってこそ、健全な投資や企業の成長が担保でき、株主はリターンを得て社会に再投資できる。しかし、この日本の上場企業が抱える資金循環の問題が解決するだけでは、日本経済の持続的な成長は見込めない。企業の取り組みだけでなく、非営利活動法人やソーシャル・ビジネスへの支援を通じて、どんな立場の人にもセーフティーネットがあり、必要な支援を受けられ、安心して暮らしていける社会環境が必要だと実感したのだと思いますし、私もそう思います」  世彰は投資家の資質というのは「3割がDNA的に受け継ぐもので、7割は経験」と言い切る。そして、自分は、その3割を占めるDNA部分を父(絢の祖父)から受け継いだと語る。絢が幼い頃から、村上家では家族で食事に出かけると、最後に今日の食事代がいくらだったか当てるゲームをするのが習慣だった。食事の値段と、それに対する料理やサービスの質とを、常に頭の中で天秤にかけて考えるためだ。  絢が11歳の時。父が官僚を辞め独立。後に「村上ファンド」と呼ばれる投資会社を設立した。その後、自宅が「六本木ヒルズ」に隣接するマンションに変わるなど、今まで以上に裕福な生活環境になった。この時、絢はこの先、本当に大丈夫だろうかと不安を覚えたと回想する。官僚時代から父は働きづめで学校や勉強のことは母まかせ。それをいいことに絢は自由に、伸び伸びと育った。ただ、当時、通っていたカトリック系の女子校は規律が厳しく、思春期を迎えた絢には窮屈な場所だった。中学時代の同級生・堀越理沙があるエピソードを教えてくれた。 「エネルギーが有り余っていたんですね。やりたいことがたくさんあって、保守的で規則や伝統を重んじる先生を困らせていました。自由な環境を求めて授業中に『liberty(自由)』と叫んだりしていましたね」  ある時、絢と仲が良かった友だちの一人が、学校をやめさせられる出来事があった。問題を起こしたことは確かだったが、校則を犯したわけでもなく、絢らの目には学校側の決定がとても理不尽に映った。どうすれば事態を変えられるか。夜中も親に内緒で長電話をしたという。堀越は笑いながら打ち明ける。 「校長室に立て籠もるって言い出し、本当にやってしまったんです。絢は正義感と他人への愛情が普通じゃない。とにかく、おかしいと思ったことは、大人に対してもはっきり言うし行動で示す。そして、決して怯まないから頼もしい。その性格は今も変わらないと思います」  この、おかしいと思ったことには敢然と態度を表明し、行動に移す「正義感」は、間違いなく父からの遺伝だと絢は自認する。中学卒業後、絢は日本を離れ、スイスの寄宿学校で高校生活を送ることになる。この絢のいない3年間に、父は時の人になっていた。「村上ファンド」の台頭である。絢がその事実を目の当たりにしたのは高校3年生の時。スイスから日本へと一時帰国する飛行機の中だった。 「気がつくと目の前のスクリーンにメディアに囲まれた父親が映っていたんです。テレビの国際ニュースだったと思います。スイスの学校はテレビもインターネットもなかったので、父に何が起きているのかわかりませんでした。ただただ驚いたのを覚えています」  そして、スイスから日本に帰国した絢が、大学受験を控え準備を進めていた06年6月5日。父が突然逮捕される。その日、自宅前には数え切れない数の報道陣が詰めかけ、ヘリコプターが旋回する音があたりに轟いていた。 「私は高校生だったので、何が起きたのか全く理解できませんでした。母は4人きょうだいの末っ子の弟を産んだ直後で、気が動転していました。残された家族の中では、私が一番、大人に近かったので弟と妹の面倒をみないといけない。しっかりしなければと自分に言い聞かせました」 ■大学生で東ティモールへ、井戸水シャワーの生活体験  翌年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。何もかも自由なスイスの高校と比べると、大学生活は退屈だった。逮捕された父の裁判が始まると、絢はその全ての裁判を傍聴した。父が何をしようとしたのか。何が間違っていたのか。絢は初めて知ることになる。大学で「あれ、村上ファンドの娘じゃない」と陰口を叩かれたこともあった。その後、絢はある人物の招きで東南アジアの小国「東ティモール」を訪れることになる。その人物は人道支援、災害支援のエキスパートとして知られる国際協力NGOピースウィンズ・ジャパン代表理事兼統括責任者の大西健丞(52)だ。08年、大西は世界各地での災害支援の経験を活かし、いずれ必ず直面する日本国内での大規模災害に即応するNGOの集合体(現・公益社団法人「シビックフォース」)の実現に奔走していた。その最中、世彰を通じて出会ったのが絢だった。第一印象は「素直で嫌味がないインディペンデントな女性」。NGOの現場が見てみたいと言う絢に、大西は特別扱いしないという約束を交わし、東ティモールへ。絢は野生のコーヒーが茂る山岳地帯の農村で、初めて井戸水のシャワーや大地に穴を掘っただけのトイレという生活を体験する。  当時、日本社会では「社会的起業家(ソーシャル・アントレプレナー)」がブームになっていた。06年、バングラデシュにあるグラミン銀行の創設者であり経営者のムハマド・ユヌスが、ノーベル平和賞を受賞したことがきっかけだった。ところが、この時、絢は社会貢献の道を選ぶことはしなかった。それはなぜか。 「NGOの活動を間近で体験して、社会貢献を通じて社会にインパクトを与えるのは大変なことだと思いました。とくに資金調達の分野は寄付文化のない日本では難し い。この時は、まずは投資家になり、将来的に何かできることがあればその時やってみようと思うに留まったのです」  大学卒業と同時に絢はモルガン・スタンレー証券会社債券部に入社。3年の経験を積んだ後、父が立ち上げた投資会社「C&I Holdings」の代表取締役に就任。父の意思を引き継ぎ、投資家としてコーポレートガバナンスの普及に取り組み始める。またプライベートでは父の友人の紹介で知り合った野村幸弘(32)と結婚、1人目の子どもを出産。公私共に充実した生活の最中、その後の絢の人生を決定づけるある事件に巻き込まれる。  15年11月25日、午前8時。何の前触れもなく絢の自宅に、黒いスーツを着た10人程度の男女が押しかけてきた。父に金融商品取引法違反(相場操縦)容疑がかけられ、証券取引等監視委員会が強制調査に動いたのだった。自宅の外には報道陣が黒山の人だかりを作っていて、かつての「あの日」と同じ光景が広がっていた。 ■子ども失った絶望の中、社会貢献の道へ進む決意  実はこの時、絢のおなかの中には、妊娠7カ月の第2子がいて、ちょうど家族待望の女の子と判明した直後だった。そもそも、監視委員会が調査の対象とした期間は、絢は1人目の子どもを出産する1カ月前の産休中で、株のトレーディングや売買判断には全く関与していないことは明らかだった。それにもかかわらず、絢は父に巻き込まれる格好で調査の対象となり、長時間にわたって自宅で調査を強いられることになる。結論から言うと、この調査は不発に終わるのだが、絢を待ち受けていたのは最悪の結末だった。 「強制調査が始まって最初の定期健診で、おなかの胎児が亡くなっていることが発覚したのです。相当のストレスだったんですね。また、強制調査への対応が迫られていたので、病院で亡くなった胎児を摘出する手術の10分前まで関係者と電話会議をしていました。自分を責めたらいいのか、誰を責めたらいいのか全く分からない。人生でこれほどの虚無感に陥ったことはありませんでした。安定剤を飲んで何とか精神の安定に努めました」  夫である幸弘は、絢のおなかの子どもが死産したという事実を義理の父・世彰に電話で伝えた時のことを鮮明に覚えている。 「その時、すまんと言った後、言葉が続きませんでした。私も絢も父に責任があるとは全く思っていませんし、その後、幸いにも私たち夫婦は次の命を授かることができました。それでも、父は今でも野村家のお墓に一人で手を合わせに行っていると聞いています」  世彰は後に自著『生涯投資家』の中でこう綴っている。 「病室で泣きじゃくる娘を見て、私は心がえぐられるような、言葉にできない悲しみと、自分の子どもであるがゆえこのような経験をさせてしまったのかもしれないという申し訳なさが湧き上がってきた」  失意のどん底から浮上するきっかけとなったのが、前出の大西が絢に紹介した駒崎弘樹(40)だった。駒崎は障害児保育事業を運営する認定NPO法人フローレンスの代表理事を務める。絢は自分の子どもを失ったことで、駒崎が手がける子どもや母親を取り巻く「目に見えない社会課題」を、本当の意味で解決する側に回りたいと思ったという。16年、絢は父が創立した村上財団の代表理事となる。 「確かに権力による理不尽な仕打ちなのですが、誰かを責めても呪っても、失われた命は戻らない。であるならば、社会の根本的な課題の解決に尽力している人を支援することで、私の気持ちも回復するかもしれないと思いました。絶対に被害者にはなりたくなかったのです」  8月のある日、絢の姿は東京・世田谷の保育園にあった。「障害児保育園ヘレン経堂」。ここは駒崎が新たに立ち上げた保育園で、障害を持つ子どもや日常的に医療介助が必要な「医療的ケア児」を長時間、預けることができる日本初の保育園だ。  通常、保育園では胃や腸に必要な栄養を直接注入する「経管栄養」や、痰などの異物をチューブを使って外部に吸引する「気管内吸引」を必要とする子どもの受け入れはしていない。こうした医療的ケア児の介助は資格を有する専門職員を雇うことが法律で定められている。では、病院などの療育施設はというと、子どもの受け入れはできても、保育園のように長時間、子どもを預かることはできない。結果、母親に就労の意思があっても、事実上、子どもの預け先がないので働くことができないのだ。「障害児は家庭で保育すべき」という社会の無言の圧力も母親を追い詰める。駒崎から話を聞いた絢は、ある思いがこみ上げてきたという。 「もしかしたら、死産した子も、障害を持って生まれてきていたかも知れない。そう思うと、自分に何ができるんだろうかと考えました。そして、全ての子どもと母親が生きやすい日本の社会を作ることを支援しようと思ったのです」 ■莫大な富裕層の資産が社会貢献に還流する時代に  村上財団はフローレンスに対して、これまで数千万円規模の寄付をしている。一方、寄付を受けた側の駒崎はどう思っているのか。駒崎は一般論と前置きした上で、寄付や助成をする財団には、寄付を必要とするNPOを「審査する側」というお上意識がある場合もある、という。重視されるのは、活動そのものよりも収支や年次報告書などの書類。財団とNPOの関係は銀行と中小企業の関係にも似ていると感じていたと語り、こう続ける。 「けれども、絢さんは最初からNPOを見下さなかった。丁寧に僕の話を聞いた上で、寄付させてください、と。彼女が投資をするのは目の前の『人』なんです。だから僕も一緒に世の中の社会課題と闘っているという感覚をずっと持つことができています」  強制調査の時、村上サイドの弁護を担当した弁護士・中島章智(58)は、父の東大時代の同級生で、村上ファンド時代から今日に至るまでの父の顧問弁護士だった。中島は被害者には絶対にならないと決めた絢の決意に、投資家としての「業」を見た思いがしたと証言する。 「投資の世界は連戦連勝とはいかず、負けた時にどうするかが重要。物事を悲観しても投資先の会社の悪口を言いつづけても、失った損害は回復しないし、最終的に勝つことはできない。常に合理的に思考して、失われた損害をどう回復し、挽回するか。絢さんには父から受け継いだゆるぎない投資家的思考が染み付いているんです」  前出の大西は、日本の富裕層は公益マインドに乏しく、そのお金の使い道も私的領域を出ないが、世界は違うと語る。今や資産10億ドル(日本円に換算するとおよそ1100億円)以上のスーパーリッチと呼ばれる富裕層の個人資産が、一国の社会保障の予算を凌ぐスケールで膨張しているとした上で、こうした個人資産がこれまでにない規模で社会貢献の分野に還流する時代が必ずやってくると断言する。 「企業も国家もNPOも、資金を動かすフローは同じ。そうなると、そのスケールで資金を動かした経験があり、本当の意味で公益性を重んじる絢さんのような人材が必ず日本にも必要となる。社会の底辺ではなく上辺にいながら、国家権力に理不尽に叩かれた経験は、必ず人間を鍛え、他人に優しくなると信じています」  村上絢には非常な繊細さと、ふてぶてしいまでの大胆さが共存していて、劇的に化ける気配が充満している。その全身に漲っているのは投資家としての意地だ。この意地は、あと数年もすれば未来を背負って立つ圧倒的な自信を醸成してゆくだろう。人生の本当の檜舞台はそこから始まる。 (文中敬称略) ■むらかみ・あや 1988年 横浜生まれ。読み仮名2文字で画数のいい「絢」と母が命名。  91年 南アフリカにある日本大使館の1等書記官として赴任した父・村上世彰と共に、アパルトヘイト(人種隔離)政策下の南アフリカへ。  96年 小学3年生の時、東京都内にあるカトリック系の小中一貫の女子校に編入する。中学時代は勉強が大嫌い。母や学校の先生を困らせた。 2003年 日本を離れスイスにある寄宿学校(インターナショナル校)に留学。ここで語学をマスターする。  06年 父が証券取引法のインサイダー取引容疑で逮捕、起訴される。  07年 慶應義塾大学法学部政治学科に入学、2011年に卒業し、モルガン・スタンレー証券会社債券部に勤務する。  13年 父が立ち上げた投資会社「C&I Holdings」の代表取締役に就任。株式投資を通じて日本の上場企業におけるコーポレートガバナンスを訴える活動を開始。  15年 金融商品取引法違反(相場操縦)容疑で、自宅が証券取引等監視委員会によって強制調査される。連日の調査のストレスで体調を崩し、妊娠していた第2子を死産してしまう。  16年 より幅の広い社会貢献活動を目指し、父が創設者となり村上財団を設立、代表理事に就任。  18年 5月、ロサンゼルスで開催されたアメリカ最大の経済関係国際会議であるミルケン会議にパネリストとして登壇し、現在日本が抱える内部留保について問題提起した。11月、文京区ではじめた「こども宅食」の全国化を目指す一般社団法人こども宅食応援団の理事に就任。 ■中原一歩 1977年、佐賀県生まれ。ノンフィクションライター。本欄では、二階堂ふみ(女優)、奥田愛基(SEALDs創設メンバー)などを執筆。著書に『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』など。 ※AERA 2019年11月11日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
現代の肖像
AERA 2020/04/02 16:00
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首藤由之 首藤由之
コロナショックを50~70代「大人女子」が救う!? 消費旺盛のワケ
東急プラザ渋谷5階のカフェラウンジ「Pepper PARLOR」。ロボットたちが客をもてなしてくれる=Photo by Christopher Jue /Getty Images for Tokyu Land Corporation 宝島社が創刊した「素敵なあの人」と神下敬子編集長 (撮影/首藤由之) 資生堂の化粧品総合ブランド「プリオール」のポスター。加齢で気になる現象を「大人の七難」と名付けた。イメージキャラクターは左から宮本信子、常盤貴子、原田美枝子の3人=同社提供  60代向けのファッション誌が完売するなど「大人女子」消費が活気づいている。若々しい彼女たちを「シニア」扱いするのはご法度。むしろバブル世代の仲間入りでより活発化の傾向といい、「大人女子市場こそがこれからの消費のカギを握る」とする専門家もいる。新型コロナウイルスで落ち込む国内消費を救うのは大人女子かもしれない。 *  *  * 「60代から、もう一度おしゃれを楽しもう!」「60代の靴悩みすべて解決!」……  デカデカと躍る「60代」の文字。宝島社が昨秋、月刊誌として創刊した「素敵なあの人」の表紙だ。神下敬子編集長が言う。 「文字どおり60代女性へ向けたファッション誌です。おかげさまで創刊から3号連続で10万部が完売しました。その後も好調な売れ行きです」  何とも景気のいい話である。ネットやスマホに押されて活字雑誌は元気がないだけに、にわかには信じられない数字だ。いったい何がウケているのか? 「何と言っても、この世代へ向けたファッション誌がなかったことが大きい。日本初なんです。『やっと出たか』『待っていた』といった反応がとても多い」(神下編集長)  こういうことだ。60代にもなると体形が崩れたりして前に着ていた服が似合わなくなったりする。さて、どういう服をどう着こなせばいいのか、と思って周りを見渡しても「教科書」がない。そこへ、「こうすれば……」というお手本を示したのだ。 「例えば、ヒールの靴はまず扱いません。足のアーチが崩れ幅広になり、外反母趾(がいはんぼし)に悩む人も多く、60代はもう細いヒールは難しいんです。でも皆さん、『ファッションと言えばヒールよね』と思っていらっしゃいます。そこで私たちは、そんなことはありませんよ、今はスニーカーやコンフォートシューズがすごくおしゃれでこんなコーディネートができますと提案するわけです」(同)  2017年暮れに前身となるムックを出したところ、いきなり5万部を完売、以来ほぼ3カ月に1回刊行してきた。約2年間の蓄積があるためなのだろう、神下編集長によると、「素敵なあの人」は徹底的に60代に寄り添って作られている。字をできるだけ大きくする、英語は多用しない、わかりにくいカタカナ用語も少なくする……。 「コートの特集をした時は、取り上げたコートの重さを量ってグラム数を掲載しました。もう、60代女性は重いものは着たがりませんから」(同)  雑誌が売れているということは、60代女性のファッションへの関心が高いことにほかならない。 「そりゃ、そうですよ。今の女性たちは新しい大人世代。旧来型のシニア世代とは全く違う人たちです。おしゃれにも貪欲(どんよく)で、40代と同じ感覚では?と思うほどです。私は40代ですが、買うものが変わりませんから」(同)  実は同じようなことが老舗の生活情報誌でも起きていた。  1996年に50代以上の女性を対象に創刊され、00年代半ばに42万部まで部数を伸ばした「いきいき」。その後、部数が減り、16年に「ハルメク」と名前を変えたが盛り返せず、17年夏に編集体制を入れ替えたところ急反転し始めた。  主婦と生活社からスカウトされた山岡朝子・現編集長が言う。 「私が入社した時はすでにハルメクでしたが、『シニア誌』の印象が強かった。私はもっと幅広いテーマができるのではと考え、そのためには『シニア誌』の枠組みを出て『女性誌』を作ればいいのでは、と思ったんです」  山岡編集長には、今の50~70代女性はとても若々しいと映る。年齢を重ねたからといって、急におしゃれをしなくなったり、化粧や髪の毛がどうでもよくなったりはしない。グレーヘアがはやったように、むしろチャレンジできることが増えている……。 「女性誌と考えると、まずはファッションと美容のテーマに可能性が広がります。主婦の方が多いので、お料理やお片付けなどの実用記事も必要です。普通の女性誌がやっていることを切り口を変えてハルメク流にしていけば……と、アイデアが膨らんでいきました」  編集長として作った第1号でファッションを特集したところ、効果はすぐに表れた。新聞広告を見た人からの定期購読の申し込みが急増したのだ(「ハルメク」は書店では販売されていない)。  その後は超右肩上がり。17年当時は約15万部だったのが18年には20万部を超え、19年秋に30万部を突破した。2年で倍の急成長である。 「二つの雑誌には共通点があります」  こう話すのは、高齢世代のライフスタイルを長年、研究してきた「人生100年時代 未来ビジョン研究所」の阪本節郎所長だ。 「両方とも『シニア』という言葉を使っていないのです。この世代の女性が素敵でおしゃれに積極的なことに気付いている人は大勢いました。でも、誰もが彼女たちを『シニア』と捉えていました。ファッションにしても、あくまで『シニア・ファッション』だったのです」  それが、なぜダメなのか。阪本所長が続ける。 「当たり前です。50~70代の女性たちは自分たちがシニアだなんて、これっぽっちも思っていないからです。『シニア? 80代の私のお母さんのこと?』くらいのイメージ。そこへ『シニア』と呼びかけても反応するはずがありません。『素敵なあの人』と『ハルメク』は若さもある彼女たちに、自分たちの雑誌だと認識してもらえたからこそ売れているのです」  なるほど、50~70代の女性は「シニア」ではないのだ。  確かに子育てを終えたおおむね50代以上の女性たちは近年、「大人女子」と呼ばれ、そのアクティブな活動ぶりは本誌を始め一部で注目されている。阪本所長によると、彼女たちが旺盛に消費を楽しんでいることは大いに注目するべきという。 「彼女たちが最初に消費で社会にインパクトを与えたのは、03年から日本で放映された韓国恋愛ドラマ『冬のソナタ』に端を発した韓流ブームでした。今は70代になっている団塊女性が子育てを終えて自由になり始めた時期が、ちょうどそのころなんです」  その後の大人女子の消費は、彼女たちの夫の会社人生に連動していく。例えば旅行。阪本所長によると、数歳年上の夫が会社を去り始めた10年ごろから国内旅行が増え始めた。東日本大震災でいったん落ち込むものの、その後は国内だけでなく海外旅行が増えていったという。 「国内では豪華列車ブーム、海外では『ビジネスクラスで行く○○』の活況が伝えられましたが、どちらもこの世代が牽引(けんいん)しました。また、今は新型コロナウイルスの騒ぎで全国の観光地はガラガラですが、それまでは大人女子と外国人観光客だらけといってもいい状態でした」  確かに、京都市が毎年行っている調査を見ると、近年、訪れる日本人観光客のうち50歳代以上の大人女子が実に4割強を占めている。その数は推計ながら実に1900万人に上る(本誌18年11月16日号)。  旅行に限らず、ファッションやグルメ、美容……。大人女子が絡む消費は多岐にわたる。夫婦関係の実態を考えると、彼女たちは家計全体の財布のひもも握っている。大人女子消費は実は巨額にのぼるのだ。  となると、コロナショックで不況感が強まるこのニッポンにとって、大人女子たちは頼もしい存在になる。彼女たちの消費を刺激できれば、企業は業績を伸ばせるし、日本の景気全体を上向かせる可能性すらある。先の阪本所長は、 「不況期に育った今の若者はトレンドを発信しないし、モノも買いません。これからの日本の消費を支えるのは50代以上の大人世代です。とりわけ大人女子消費は伸びが期待でき、唯一残された“宝の山”とすら思えます。もっとも先に述べたように、彼女たちをシニア扱いし、そこに気付いていない企業が多いんですが……」  もちろん目を凝らせば、先進的な動きはそこかしこに出てきている。  資生堂が50代以上向けに出している化粧品総合ブランド「プリオール」。15年の発売以来、50~70代にウケて毎年2ケタ成長を続けてきたヒットブランドだ。それが、この2月から、さらに50代へのアプローチを強め始めた。新しいタイプの大人女子たちが出現してきているというのだ。  プリオールは加齢による「下がる」や「凹凸」、「影」など大人女子が気にする現象を「大人の七難」と名付け、その解決を売りにしてきた。とりわけ、化粧が面倒になってくることを「おっくう」と名付け、心理面までも七難に加えたことが評判だった。畠山真紀ブランドマネジャーは、 「中身の品質はもちろん、ポンプの押しやすさにこだわり、ビフォア・アフターの顔写真を箱に載せるなど、簡単に美しくなりたいとする時短コスメに、ここまで本格的に取り組んできたのはウチぐらい」  と胸を張るが、やはりマンネリ感が出てきていたという。そこへ「新・大人女子」の登場が重なった。 「バブル時代に20代を過ごした世代が50代後半になってきているんです。彼女たちは上の世代とは全く違います。例えば上の女性が『ありのままの美しさ』などと自然体を重視するのに対して、バブル世代は『もっと美しくなれる』『女らしいと言われたい』と積極的。働いている人も多く、上の世代とは美意識も違います」  要するに、より派手になっているということだろう。プリオールは新たに40代の女優の常盤貴子をイメージキャラクターに起用、ターゲット世代の女性は悩みをカバーしたい一方で「厚塗り」をいやがることから、それらをすんなり解決できる点を強調するCMを流している。  さすが女性の機微に通じた化粧品会社らしい変化への対応である。もっとも50代は肌の変化と気持ちのギャップで「化粧品を変えたがる時期」(畠山マネジャー)というから、そこでの囲い込みを狙う当然の戦略でもあるのだろう。  変化に対応するあまり、60代や70代の上の世代の固定ファンが離れてしまっては元も子もないが、畠山マネジャーは、 「70代のお客さまは、減るどころか逆に増えています」  これまでのイメージキャラクターである宮本信子(70代)と原田美枝子(60代)が「留任」し、常盤との3人体制でPRしていることが功を奏しているのだろうか。  先の阪本所長はこう言う。 「仮に上の世代をキープしつつ下の世代にファンを広げることができれば、プリオールは一大ブランドに成長する可能性があります」  商品だけでなく、大人女子向けに「場所」を提供する動きも出てきている。  昨年12月にオープンした東京・渋谷の「東急プラザ渋谷」。「大人をたのしめる渋谷へ」をコンセプトに、おそらく日本で初めて40代後半~60代を主力顧客に掲げた都心部の商業施設だ。  コンセプト開発に携わったブランドプロデューサーの柴田陽子さんによると、綿密な調査の結果、大人世代の居場所が作れることを確信したという。 「大人世代が大勢住む地域が周辺にあり、電車やバスで近郊からも大勢の大人世代が来ていることもわかりました。渋谷というと若者のイメージがありますが、その塊と、かつて渋谷で育ち渋谷に育てられた大人世代の塊が共存しているんです」  施設には、超高齢社会を見通した柴田さんのアイデアが詰まっている。とりわけ信託銀行や旅行代理店、終活相談コーナーなどが並ぶ5階の「シブヤライフラウンジ」は斬新だ。 「開放的でラグジュアリーな空間で、高齢世代が抱える悩みや問題を明るく前向きに相談・解決できる場所が、自然と街の動線の中にあるイメージです」(柴田さん)  飲食フロアには予想どおり、大勢の大人女子が訪れている。その一つ、茶寮「京都宇治 藤井茗縁」の店長(32)は、 「ほとんどのお客さんが50~70代の女性ですね。リピーターになってくれる人が多い印象があります。こだわりを持たれている方が多く、次に来られた時にそのこだわりに沿って接客するとすごく喜ばれました。その方からは年始にお年玉までいただきました」  全体の責任者、長尾康宏総支配人によると、年間約600万人の来場をめざす。 「確かに平日を中心に女性が多く、飲食はビックリするくらい入っています。でも、まだまだオープンを知らない人も多く、この世代らしく新聞に折り込みチラシを入れると、どっと来てくださいました。大人、大人と言い続けていますが、やり始めてさらなる可能性を感じています」  東急プラザ渋谷が成功すると、同様の施設が次々に登場していくかもしれない。  先の未来ビジョン研究所の阪本所長は、こうした相次ぐ動きに東京オリンピック後が楽しみという。 「アスリートに代表されるように、オリンピックまでは世の中の目は『若者』に集中します。しかし、それが終わっていざ消費の足元を見ると、核になるのは若者ではないことに気付くはず。そこで大人女子の動きに目が向く、そんな展開を予想しています」  いよいよ大人女子消費の花盛りが始まるのかもしれない。(本誌・首藤由之) ※週刊朝日  2020年3月27日号
シニア
週刊朝日 2020/03/22 11:30
【現代の肖像】日本フェンシング協会会長・太田雄貴「選手の引退後の人生も輝かせたい」
【現代の肖像】日本フェンシング協会会長・太田雄貴「選手の引退後の人生も輝かせたい」
究極の夢舞台として4度挑んだ五輪のシンボルマークと共に。33歳の若き会長だ(撮影/植田真紗美) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  日本フェンシング界初の五輪メダリストは2年前の夏、青天の霹靂で日本協会の会長に担ぎ上げられた。31歳という異例の若さだった。前例踏襲に疑問を投げかけ、大胆、かつ斬新な発想でスポーツ団体の常識を覆す。自らが招致の最前線にいた東京五輪もゴールではない。スポーツの真価が試されるポスト2020にも、その視線は向く。  ボルテージは最高潮に達した。フェンシングの日本代表級が剣を交える一騎打ちに、体育館を埋めた1千人の小学生が床をふみならして応援合戦に興じた。子どもたちの体温の上昇が、館内の温度も上げていく。    太田雄貴(33)も黒のジャケットを脱ぎ、白いTシャツ一枚になって、児童たちをあおった。    10月11日、千葉県船橋市の宮本小学校での学校訪問は、大盛況でフィナーレを迎えた。太田は最後に呼びかけた。 「今日みたいに楽しむ心、人を応援する心を忘れないでください。反抗期は一つも良いことなんてありません。素直な心、楽しむ心、感謝する心を忘れずに大きく成長してください。僕も皆に出会えて幸せでした。ありがとうございました!」  スポーツ団体の「会長」というと、政治家、企業のトップ、元アスリートの重鎮らがどっしり構えるイメージが浮かぶが、太田はちがう。営業の最前線でトップセールスに励み、学校訪問では汗だくで盛り上げ役を買って出る。締めはいつも、子どもら全員とのハイタッチだ。 「これほどの熱狂を生み出す授業ってないと思う。応援することがどれほど素晴らしいかを伝える代弁者になりたい。応援を文化にしたい。声援がない会場ほど、選手にとってつらいものはない」  来夏の東京五輪のフェンシングは千葉市の幕張メッセが会場となる。この学校訪問はファン開拓の狙いもあるが、太田の視座はもっと高い。 「頑張っている人の足を引っ張り、出る杭を打つ社会ではなく、純粋に応援し、背中を押す文化を根づかせたい。ねたみやひがみと無縁な社会なら、未来は明るいはずじゃないですか」 7月、千葉県浦安市の東野小学校で開いた学校訪問。太田は「子どもたちに本物を見る機会を届けたい。フェンシングに限らず、スポーツを応援するって楽しいね、と体感してほしい」と願う(撮影/植田真紗美) ■空席目立った13年の大会、会長就任初年度で5倍に  実践、行動を伴わない政治家や、学者、マスコミ人が上から目線で説いても空虚に響く理想論だが、子どもたちと汗だくで楽しむ太田の言葉だと、うそ臭くない。2年前の夏、31歳で日本フェンシング協会の会長に就いた。「ベンチャースポーツ」と位置づけ、起業家精神で改革の旗を振る。異業種のやる気に満ちた人材を副業・兼業という形で引き入れる戦略は、終身雇用の崩壊、働き方改革が話題になる時流に沿う。その組織運営はマイナー競技団体が補助金に頼らずに自立する知恵とヒントが詰まっている。年功序列や派閥主義が幅を利かすスポーツ界に、新風を吹きこんでいる。  虚無感を胸に刻む一枚の写真がある。  2013年、東京・国立代々木競技場で行われた全日本選手権の男子フルーレ決勝を写した遠景だ。10カ月前のロンドン五輪団体で太田と銀メダルを分かち合った千田健太と三宅諒の激突にもかかわらず、無観客試合を思わせるほど空席が目立った。 「五輪でメダルを取っても、閑古鳥。メジャー競技になれるなんて幻想にすぎなかった」。フェンシングはマスクをつけて戦うから、選手の表情はおろか、顔もわからない。ルールも複雑。それにしても、その日の観客150人は寂しすぎた。  会長に就任後、すぐに全日本選手権の刷新に手をつけた。初年度は、3日に分散していた男女6種目の決勝を1日に集約し、館内ラジオ、VIP席の導入など21項目の新機軸に取り組んだ。総入場者は前年の5倍に増えた。昨年12月は、ジャニーズの「聖地」と呼ばれる東京グローブ座での開催を実現した。DJとダンサーが音楽で盛り上げ、選手や審判の心拍数を表示する仕掛けを盛り込んだ。S席5500円と強気に設定したチケットは、約700席が発売から40時間で完売した。お金を払って見に来てもらえるエンターテインメントへの脱皮を図った。  私と太田の出会いは15年前のアテネ五輪にさかのぼる。ギリシャ駐在だった私は、日本から来た同僚記者が競泳、陸上、体操、柔道など日本のメダル有望種目の取材に専心するのをよそに、マイナー種目をハシゴして回る日々。1896年の第1回近代五輪で実施された9競技の一つであるフェンシングも、その一つだった。3回戦で敗れた太田は18歳ながら、語彙が豊富で、よどみなく自分の思いを伝える能力が印象に残った。「対戦したロシア選手は前年の世界ジュニア王者」「事前のロシア合宿で研究された」「4年後の北京五輪に向けて」をスラスラ、ハキハキと口にした。 6月のアジア選手権で、男子エペの世界ランキング1位、見延和靖(左)と談笑する太田。会長の立場上、スーツ姿だが、試合の戦況を見つめるときの視線は、五輪メダリストの鋭さが戻る(撮影/植田真紗美)  スポーツ記者の仕事は、選手に「なぜ?」「どうして?」を問いかけ、そこから物語を紡いで読者に届けることだ。寡黙だったり、表現が苦手だったり、選手の個性はさまざま。太田の場合、試合の感想、分析、今後の目標など、コメントに試合経過をはめこめば、そのまま記事ができあがった。鋭い眼光に意志の強さを宿す少年が成長する軌跡を追いかけたい。そう感じた初対面だった。  起承転結があり、理路整然と話せる素養はなぜ身についたのか。小学校教諭の両親の元で育った家庭環境を探ると、見えてきた。  父義昭(67)は、絵本が「魔法のツール」だったと振り返る。 「絵本は言葉や言い回しを感覚で覚える最高の教材。短い時間で読めるし、主人公が苦難を乗り越えたり、仲間と団結して問題を解決したり、物語から人生を疑似体験で学べます」  その効果は即効性ではなく、「漢方的な効果というか、毎日続けることで、いつの間にか、多くの力が身につくんです」。  太田の語彙の豊富さは、口語表現にとどまらない。例えば、料理についての雑談になったとき、「安い値段」「低価格」とかではなく、会話の中で「廉価版」と言ったりする。冒頭の学校訪問のときも、空き時間に新聞を読み、ケータイでSNSからの雑多な情報にアンテナを張る。活字に触れる絶対量が多いのだろう。かつ、好奇心が旺盛で、記憶力も抜群に良い。  フェンシングを始めたのは小学3年のときだ。スーパーファミコンを買ってあげるという父のニンジン作戦に乗った。義昭は高校時代、テレビの「快傑ゾロ」にあこがれてフェンシングに没頭したが、大成しなかった。自分の夢を子どもに託そうと考えた。「兄や姉は見向きもせず、最後の望みが末っ子の僕だった」。有名になった今、太田は講演でこの逸話を披瀝し、聴衆の笑いを誘う。 「とにかく毎日、練習をする。ご飯のようなもの。継続は力なり」。それから父子は一日も休まず、大学2年の冬まで、実に4300日近く練習を続けることになる。  始めてからすぐに大会で勝った。成功体験は夢中になれる触媒だ。高校ではインターハイで前人未到の3連覇。高校2年のとき、史上最年少の全日本王者になった。 「僕は運動神経に優れていたから、勝てたわけじゃない。分析、戦略を含めて競技のもつ本質を理解するのが速かったのかも。好きとかじゃなく、勝つ確率が高いものに出会えたのが一番のポイント。僕はこれで勝負するんだ、というのを12歳で見つけていた」 草の根の活動である学校訪問は、DJケチャップ(左手前)と太田との掛け合いが漫才のようで大いに盛り上がる。最後の全員とのハイタッチは恒例。子どもたちの目線にあわせる気配りも忘れない(撮影/植田真紗美) ■残り9秒から逆転でメダル、人生はすべて点でつながる  小学校6年で全国少年大会2連覇を果たした太田は、初めてメディアに登場した「朝日小学生新聞」紙上で、五輪への夢を公言している。 「だから、フェンシングに出会わせてくれたことは、父に心から感謝しています」  15点勝負のフェンシングは五輪競技の中で、本命が必ずしも勝たない筆頭格だと思う。過去10年の世界選手権で、男子の3種目で連覇を果たした王者はいない。番狂わせは日常茶飯事だ。  太田が08年北京、12年ロンドンの両五輪で獲得した銀メダルも、「あの1点が逆に転んでいたら、メダルを逃していた」という場面が連続の紙一重の戦いだった。太田は自分の目標が達成できる見込みを、よく確率で見立てる。北京では「正直、メダルの確率は5%ぐらいと思っていた」と明かし、「残り9秒の奇跡」と言われたドイツとの準決勝を制し、団体戦で銀メダルを手にしたロンドンでも、「世界ランキングを考えたら15%もなかった」とのちに振り返った。当時、日本協会の選手強化の責任者だった張西厚志(74)は、「太田には強運では片付けられない勝負強さがある。ゾーンに入ったときの強さというか。あの二つのメダルがなかったら、太田の人生も違ったでしょうし、日本のフェンシング界を取り巻く環境がどうなっていたかと思うと、恐ろしいですわ」。  強運では片付けられないなら、運命なのか。太田はこう語る。 「運はたぐり寄せるものだと思うけれど、努力をやりきった上での運だと思う。人生はすべて点と点でつながっている。こじつけかもしれないけれど、つながっていると信じて、目の前のことをおろそかにしないよう心がけている。人との出会いを含めて、過去の積み重ねでしか、今の自分は存在しない」  選手仲間で、今は日本代表の女子フルーレのコーチをつとめる市川恭也(36)は、あるとき、太田が麻雀を教えてと頼んできたことを覚えている。 「ゲームの楽しさじゃなく、勝負勘、戦略の立て方をフェンシングに生かせないかという理由なんですよ。24時間、フェンシングに勝つことから逆算しているストイックさはまねできない」 長女を抱き、妻友里も一緒の、メディアでは貴重な太田家の家族写真。撮影現場では「AERAではなく、育児雑誌の表紙にぴったり!」との声も(撮影/植田真紗美) ■リオ五輪で初戦敗退、苦い教訓を今に生かす  太田に確認すると、「相手が次にどんな手を打つか、勘と勢いで勝負するのか、確率を重視して定石で攻めるのか。そうしたバランスを学べると思った。ただ、雀荘のタバコの煙が苦手なので、次第に遠のいてしまったんですけど」。  ロンドン五輪後、一時、剣を置いた。経営学修士(MBA)を取るために米国留学を視野に入れていた。五輪のメダルを究極の目的ではなく、手段、もしくは通行手形と語るように、メダリストという知名度を生かして、第一線で活躍する起業家、経営者との人脈を深めた。 「最初は好奇心。話をするうち、アスリートは起業家っぽいと思ったんです。サラリーマンじゃない。だって、めちゃめちゃリスクが高いことをやっているわけじゃないですか。明日大けがしたら、終わりですからね、全員」  4カ月ぐらいの間で芋づる式に人脈は広がり、「人間関係のわらしべ長者みたいでした」と笑う。17年に結婚したTBSアナウンサーの妻、友里(29)と出会ったのも、このころだ。  13年9月の東京五輪招致を成功に導いた後、現役復帰を決めた。「金メダリストにしか見えない景色がある」との思いから頂点をめざした。しかし、現役世界王者の金メダル候補として臨んだリオ五輪は、まさかの初戦敗退。その場で、引退を表明した。 「過去に負けたことがないし、チーム全員が油断していました。あの苦い教訓は今、僕のビジネス領域において、すごく役に立っている。よけいなプライドなんて邪魔なだけ。今ならピストをなめてでも、勝とうとやっている。泥臭くなれる人は強いですよ。きれいにしか生きられない人にはチャンスは回ってこない」 ■東京五輪まであと9カ月、運命を変えられるのは選手  会長になって、スポンサー集めに奔走する。300社回って、成功したのは1割あるかどうか。 「人間って、自分が好きな人にプロポーズして振られたらショックですけど、フェンシング協会のため、という思いがあるから、くじけない。断られる免疫がついて次に行く。僕を応援してください、ではなくて、僕らの協会がめざす五輪の夢に乗っていただけませんか? 僕たちは日本のスポーツ団体のロールモデルになる活動をしていますと、熱意とビジョンを自信を持って言い切る」  会社四季報をめくり、未上場企業で社長や会長の一発決裁で行ける企業を狙ったり、フェイスブックで知人経由で接触を図ったり。選手にも、個人スポンサーの獲得を奨励する。「名刺でもらった連絡先は生もの。早くしないと腐ってしまうので、早めの連絡をおすすめします」「俺も営業に行って、打率1割未満とかだから、みんなも恐れずガンガン振っていこう。空振りしても、他人は覚えてなんかいない。傷つかないから頑張ろう」と背中を押す。  選手にとって最高の環境を整える「アスリートファースト」の考え方は一般的だが、太田は一歩進み、選手の引退後の人生を見据えた「アスリート・フューチャー・ファースト」を掲げる。その一環で選手に英語力を求め、その能力を世界選手権の選考基準に組み込む方針を決めた。それは海外から招いたコーチや、国際大会での審判と意思疎通を図るには欠かせないスキルだからであり、引退後のキャリアにも生きると考えたからだ。  現役だった5年前の春、すでにこんなことを話していた。 「皆、僕らの年齢になると、大学院に行ったりとか、環境の変化が出てくる。剣を振るのが夢中で楽しかった中学、高校生とは違う。自分の人生の尺を80歳というスパンで見るか、それとも、競技を引退するのを32歳だとするなら、32歳までで考えるのか。今の日本のスポーツ界はセカンドキャリアには取り組んでいないので、自分で将来を考え、動かないといけない」  日本協会の会長職は無報酬だ。自分の生計は、講演活動や企業との個人契約で立てている。  東京五輪まで9カ月を切った。日本フェンシング界にとって、太田雄貴がいない5大会ぶりの五輪となる。つまり、自分を頼れない。 「協会として最大限の支援はしますけど、運命を変えられるのは選手なんです。最後は腹をくくってやるしかない。自分の人生を豊かにするために、勝ってほしいな、と願っています」  自身の将来の青写真はどんな風に描いているのか。  日本協会会長の任期は21年6月までで、そこで身を引くつもりでいる。しがみつく気持ちは毛頭ない。「将来は政治家に転身?」と冷やかされることも多いが、それも強く否定する。 「サンフランシスコとか、アメリカの西海岸で暮らしてみたい。40歳で勝負できる力をつけていたい。日本国内でベンチャーを始めるには年を取りすぎていると思う。グローバルに勝負するには、最初から外国に出た方が早い」  市場の潜在性を考えれば、東南アジア、インド、アフリカなどが良いのかもと考えつつ、妻や6月に生まれた長女と幸せに暮らすには、どこが楽しいか、が大事になる。「子育てに自分の人生をささげる、という方針はチーム太田にはないですね」。妻は信頼できる同志であり、仲間。愛しい長女は仲間が一人増えた感じだという。 「要はお金を稼ぐことは目的なのか、手段なのか。そこを明確にしないと。それに西海岸なら28年ロサンゼルス五輪にも関われるかもしれない。面白いじゃないですか」  無意識なのだろうが、太田の思考回路は五輪とリンクしている。来夏、国際オリンピック委員会(IOC)のアスリート委員会の選挙に出て当選すれば、IOC委員の役割を担う。ちょうどロス五輪までの任期となる。運命に導かれるような五輪との縁は、切れそうにない。 (文中敬称略)   ■おおた・ゆうき 1985年 大津市出身。3人きょうだいの末っ子。  92年 滋賀・比叡平小に入学。  94年 父の勧めでフェンシングを始める。 2001年 京都・平安高に入学。高校総体優勝。  02年 史上最年少で全日本選手権優勝。  03年 高校総体3連覇。  04年 同志社大に入学。アテネ五輪に出場、日本人最高位の9位。  06年 ドーハ・アジア大会で金メダル。準々決勝で福田佑輔(警視庁)を破っていた。太田は「兄のような存在の福田さんは、一緒に準決勝の対策を考えてくれた。福田さんのためにも優勝したかった」。  07年 アジア選手権優勝。  08年 北京五輪で銀メダル。日本フェンシング界初の五輪メダルだった。森永製菓に入社した記者会見で「いろいろな人に支えられ、ここに立っていると感じる。ありがとうございます」と感極まって号泣。  09年 世界ランキング1位に。  10年 世界選手権(パリ)の個人戦で銅メダル、団体戦も銅メダル。  12年 ロンドン五輪男子フルーレ団体で銀メダル。ドイツとの準決勝で最後に回った太田は残り9秒から2点差を追いつき、延長戦で勝利。  13年 2020年東京五輪招致にプレゼンターとして関わり、9月の国際オリンピック委員会(IOC)総会でスピーチ。現役復帰を宣言。  15年 世界選手権(モスクワ)の男子フルーレ個人で優勝。五輪、世界選手権を通じ、日本選手が優勝したのは初の快挙。「五輪で2番、世界選手権も3番が最高だったので、優勝にすごく意味がある」  16年 リオデジャネイロ五輪で初戦敗退。「金メダルは取りたかったし、取れなかったけれど、めざしたからこそ、今日の僕がある。本当に五輪に感謝」。現役引退を発表。  17年 日本フェンシング協会会長に就任。  18年 国際フェンシング連盟副会長に就任。 ■稲垣康介 東京都出身。太田雄貴の五輪は出場した4大会すべてを現地取材。五輪取材歴は夏冬8回。本欄ではプロテニス選手・錦織圭を執筆。著書に『ダウン・ザ・ライン 錦織圭』(朝日新聞出版)。 ※AERA 2019年11月4日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
現代の肖像
AERA 2020/03/18 17:00
コロナで注文殺到、売上14倍の作品は? 自粛で“見たい読みたい”名作40選
秦正理 秦正理
コロナで注文殺到、売上14倍の作品は? 自粛で“見たい読みたい”名作40選
書店に並ぶ学習ドリル=3月3日、東京都千代田区の三省堂書店神保町本店 (c)朝日新聞社 【書籍20選】書評家・永江朗さん選 (週刊朝日2020年3月20日号より) 【書籍20選】紀伊國屋書店新宿本店選 (週刊朝日2020年3月20日号より) 【映画・ドラマ20選 映画ライター・中村千晶さん選 (週刊朝日2020年3月20日号より) 【映画・ドラマ20選 映画評論家・若林良さん選 (週刊朝日2020年3月20日号より) 「科学漫画サバイバル」シリーズ(朝日新聞出版)の人気作品が3月末まで無料公開の予定  新型コロナウイルスの感染拡大を防ごうと、安倍晋三首相がイベントの自粛や小中高校などの休校を要請したため、大人も子どもも家にいる時間が増えただろう。こんな時だからこそ自宅で楽しみたい書籍や映画・ドラマを専門家に聞いた。 *  *  *  2月の日本出版販売の店頭売上調査によると、書籍・雑誌などの売り上げは全体で前年比105%と好調だ。そのなかで話題なのが、フランスの作家、アルベール・カミュが1947年に発表した小説『ペスト』。感染症拡大で混沌(こんとん)とする社会の描写は今の状況と重なる。文庫を発行する新潮社の営業担当はこう語る。 「これまでは年間3千~4千冊の売り上げでしたが、今は注文が殺到し、1万4千部を増刷しました。直近の売り上げは通常時の14倍ほどになっています」  書評家の永江朗さんは、感染症が題材の小説として『夏の災厄』もすすめる。 「新型感染症が蔓延(まんえん)し、市民がパニックに陥るさまを描いています。著者の篠田節子さんは元市役所職員なので、行政の混乱などにはリアリティーがあります」  時間をかけられる今こそ読みたいのは長編小説。『大菩薩峠』は候補の一つだ。 「(電子図書館の)青空文庫で、無料で読めます。41巻に上る大長編時代小説ですが、スマホを使えばいつでもどこでも挑戦できます」(永江さん)  前述の日販の調査によれば、休校の影響で学習ドリルが売り上げを伸ばしている。勉強させるだけでなく、子や孫と一緒に楽しみたいという人には絵本の『どうぶつ会議』もおすすめだ。 「人間の愚かさにあきれた動物たちが世界の平和を願って会議を開くという物語で、大人が読んでもじーんとします」(永江さん)  家族みんなで遊びながら楽しめる本もある。紀伊國屋書店新宿本店の担当者は、『世界チャンピオンの紙飛行機ブック』を挙げる。 「紙飛行機の折り方を教えてくれる本です。遠くに飛ばすための角度が細かく書かれているなど、論文のようなマニアックさもあるので、大人でも楽しめます」  また、自宅で待機する子どものために漫画誌などをインターネットで無料公開する出版社もある。朝日新聞出版では「科学漫画サバイバル」シリーズと科学まんがシリーズ「バトル・ブレイブス」の人気作品を3月末まで無料公開する。  感染拡大の影響は、映画にも及んでいる。「映画ドラえもん のび太の新恐竜」や「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」などの話題作の公開延期が発表された。そこで、自宅で見られる名作・良作を紹介したい。  映画ライターの中村千晶さんのイチオシは、山田洋次監督の喜劇映画「家族はつらいよ」シリーズだ。 「2018年公開の最新作では、主婦である妻が家出する。残された家族が大混乱して崩壊寸前になる。熟年夫婦の危機だが、家族で一緒に見て笑って楽しめる」  不安な今の状況にピッタリなのは「サバイバルファミリー」だ。 「ある日突然、世界から電気が消え、不自由な生活に陥る。基本はコメディーで、最初はほんわかした空気だが、次第に水が1本2千円、2500円となり、食べ物のあさましい奪い合いに。緊迫した様がリアルで恐ろしい」  映画評論家の若林良さんは、1980年からほぼ毎年春休みに公開される「映画ドラえもん」シリーズの「のび太と鉄人兵団」を挙げる。 「86年に公開された初期の作品。『メカトピア』というロボットの星から地球侵略を図る鉄人に、のび太とドラえもんたちが立ち向かう。科学には限界があり、どの生命も失敗を繰り返すという藤子・F・不二雄のメッセージが読み取れる」 ■自宅で読みたい書籍20選 【書評家・永江朗さん選】 『大菩薩峠』(中里介山/青空文庫/無料/1913~41年発表) 新聞の連載と書き下ろしの未完の長編時代小説。幕末を舞台に、主人公の浪士の旅と、関わる人々の人生を描く。青空文庫で無料で読める。スマホでもOK。 『夏の災厄』(篠田節子/角川文庫/924円/2015年) 郊外の街に突如発生した新型感染症で行政は混乱し、住民たちがパニックに陥るパンデミック小説。著者は元市役所職員。初版は四半世紀前と、予言にも似た書。 『ギリシャ語の時間』(ハン・ガン、斎藤真理子訳/晶文社/1980円/2017年) 失語症の女と少しずつ視力を失っていく男が古典ギリシャ語教室で出会い、心を通わせていく。ほろりと涙し、しんみりできる、いま話題の韓国文学。著者はアジア人として初めて英国のブッカー国際賞を受賞した女性作家。 『存在と時間』(全4冊)(マルティン・ハイデガー、熊野純彦訳/岩波文庫/5610円[全4冊セット]/2013年) ドイツの哲学者による「存在とは何か」を追求する哲学書。最新の解釈に加え、二重三重に解説が施されている親切設計。時間をかけて、難解な哲学書に挑戦してみても。 『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録』(片山夏子/朝日新聞出版/1870円/2020年) 2011年3月の東京電力福島第一原発事故当初から、東京新聞記者の著者が作業員たちの生の声を9年にわたり取材した、現場の真実に迫るルポ。今なお原発問題は続いていることを気づかせてくれる。 『声でたのしむ美しい日本の詩』(大岡信、谷川俊太郎編/岩波文庫別冊/1210円/2020年) 万葉集から現代詩まで400近い詩歌を紹介。詩の歴史を押さえながら、日本語の美しいリズムを朗読することで耳でも楽しめる。難しい漢字にはルビが振られているので子どもでも読め、家族で楽しみたい。 『ナショナルジオグラフィック 傑作写真ベスト100』(日経ナショナルジオグラフィック社/1540円/2002年) 創刊以来130年以上の歴史を持ち、地球上の決定的瞬間を撮影してきたナショナルジオグラフィックが、傑作写真100点を厳選した写真集。マチュピチュや海中のタイタニック号などの歴史写真、動物や昆虫といった自然写真など、美しい写真が並ぶ。 『チョコレート工場の秘密 Charlie and the Chocolate Factory』(Roald Dahl/講談社英語文庫/880円/2005年) 世界中で愛され、映画化もされた1964年発表の児童小説。少年チャーリーが不思議なチョコレート工場を見学するファンタジー。平易な英語で書かれているので、勉強の入門にも。 『どうぶつ会議』(エーリヒ・ケストナー、光吉夏弥訳/岩波書店/990円/1954年) 争いが尽きない人間にあきれて怒った動物たちが、平和と子どもたちの未来を祈って会議を開く。愉快でありながら、世界平和という普遍的なテーマを描いた絵本。大人も子どもも楽しめる。 『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』(既刊6巻)(山本おさむ/小学館/607~693円/2017年~) ビッグコミックオリジナルで連載中の社会派漫画。赤狩りにより表現の自由が弾圧を受ける中、ハリウッドの映画人たちの奮闘が史実に則って描かれる。マイノリティーが叩かれる現代日本に通ずる作品。 【紀伊國屋書店新宿本店選】 『源氏物語』(上・中・下)(紫式部、角田光代訳/河出書房新社/1万1550円[全3巻セット]/2017~20年) 日本文学史上屈指の傑作ともいわれる不朽の古典が、直木賞作家による新訳で読める。これまでの現代語訳から、さらに物語性を重視していて読みやすい。 『災害ユートピア』(レベッカ・ソルニット、高月園子訳/亜紀書房/2750円/2010年) 米国での地震やハリケーンなど、災害時に生まれた市民の助け合いの事例を紹介するノンフィクション。緊迫した状況下でもパニックに陥ることなく、人の善意を信じたいと思わせてくれる。 『検疫官 ウイルスを水際で食い止める女医の物語』(小林照幸/角川文庫/792円/2009年) 感染症の拡大をいかに食い止めるか、最前線で奮闘する女性医師を描いたノンフィクション。エボラ出血熱や重症急性呼吸器症候群(SARS)と戦う姿からは、現場の壮絶さがうかがい知れる。 『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』(奥野修司/新潮文庫/649円/2020年) 東日本大震災で大切な人を亡くし、残された人たちが体験した奇跡の物語を集めたノンフィクション。その大切な人が見守ってくれていると信じることが、心の支えになるのだと思える本。 『グリム童話集』(全3巻)(グリム兄弟編、相良守峯訳/岩波書店/各2090円/1984年) 「いばら姫」「カエルの王さま」「白雪姫」など、全3巻で60編の童話を収録。定番の安心感と、1話が短いので家族でも気軽に楽しめる。 『自衛隊防災BOOK』(マガジンハウス編、自衛隊、防衛省協力/マガジンハウス/1320円/2018年) 明かりがない、雨をしのぎたい……。災害発生時に起こるトラブルにどう対処するか。危機管理のプロである自衛隊のテクニックが詰まったノウハウ本。自衛隊防災BOOK2も。 『小学生なら知っておきたい教養366』(齋藤孝/小学館/1980円/2019年) 言葉、文学、歴史、芸術など、多岐にわたるジャンルをクイズ形式で学べる。クイズごとに1ページで完結しているので、家族で互いに出題し合うのもおすすめ。教養を身につけたい子どもも、知識を蓄えたい大人も必読。 『るるぶ マンガとクイズで楽しく学ぶ! 47都道府県』(伊藤賀一監修/JTBパブリッシング/1430円/2020年) 各都道府県の人口や面積など基本データはもちろん、名所や特産品といった特徴をマンガで学べる。家にこもりがちだからこそ、家族で今後の旅行計画のために予習してみても。 『世界チャンピオンの紙飛行機ブック』(John M.Collins、久保田晃弘監修、金井哲夫訳/オライリー・ジャパン/2420円/2019年) 紙飛行機の飛距離世界王者による指南本。滞空時間が長いもの、速度が出るものなど、さまざまな紙飛行機の折り方や飛ばし方が紹介されている。家でみんなで折って楽しめる。 『暮らしを彩る四季のユニットおりがみ飾り』(つがわみお/ナツメ社/1980円/2015年) くす玉や重ね箱、多面体など、色鮮やかな折り紙飾りの折り方、組み方をわかりやすく解説。時間がかかるからこそ、飾った時に愛着のある四季の飾りになる。 ■自宅で見たい映画・ドラマ20選 【映画ライター・中村千晶さん選】 「不都合な真実2 放置された地球」(ボニー・コーエン、ジョン・シェンク/98分/2017年) 環境汚染と異常気象に迫ったアル・ゴアのドキュメンタリーの続編。アカデミー賞を受賞した前作「不都合な真実」を超える、今こそ心に響く作品。 「サバイバルファミリー」(矢口史靖/117分/2017年) 「ウォーターボーイズ」「ロボジー」などの作品で知られる矢口史靖監督の快作。ある日、電気が地球からなくなった! どう非常時を生き延びるかをリアルに描く。 「365日のシンプルライフ」(ペトリ・ルーッカイネン/80分/2013年) フィンランドに住む青年が身の回りのものをすべて倉庫に預け、1日1個だけを持ち出して生活をする実験ドキュメンタリー。今、本当に必要なものは何か、が見えてくる。 「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」(リチャード・ロンクレイン/92分/2014年) 名優ダイアン・キートン、モーガン・フリーマン主演。初老夫婦が家を売ることで、人生を振り返っていく良作。 「家族はつらいよ」シリーズ(山田洋次) 「男はつらいよ」の山田洋次監督の新ファミリームービー・シリーズ。熟年離婚を題材にした家族の悲喜こもごもが笑える。 「ワンダー 君は太陽」(スティーブン・チョボスキー/113分/2017年) お子さんと見るならこれ。ジュリア・ロバーツ、名子役ジェイコブ・トレンブレイ出演。顔に特徴のある少年が友人たちに受け入れられ、成長していく様を描く。 「名探偵ピカチュウ」(ロブ・レターマン/97分/2019年) お孫さんとぜひ。人気ゲーム「ポケットモンスター」をハリウッドが実写映画化。ふさふさ&モッフモフでちょっと毒舌なピカチュウが老若男女をひきつける。 「gifted/ギフテッド」(マーク・ウェブ/101分/2017年) 数学に天才的才能を持つ少女を、亡き母親に代わって育てる叔父の葛藤が描かれる。子どもとの向き合い方を考えさせられる。 「ボンジュール、アン」(エレノア・コッポラ/92分/2016年) 旅行気分を味わいたい人に。大人女子のダイアン・レインがカンヌからパリまで旅をする。フランシス・コッポラの妻が監督で、彼女の実体験を元にしている。名画や歴史うんちく、シニア夫婦の悲哀も混じる。 「ネクスト・イン・ファッション」(動画配信サービス「Netflix」で配信)(10話のリアリティー番組/1話約50分/2020年) 「料理の鉄人」ファッション版!? 世界中から集められたファッションデザイナーたちが、わずか2日でランウェーを飾る服を作って競う。デザイナーたちの個性とセンスのぶつかり合いがドラマチック。 【映画評論家・若林良さん選】 「櫻の園」(中原俊/96分/1990年) チェーホフの『櫻の園』を演劇部の女子高校生たちが演劇として作り上げていく模様が描かれる。原作は吉田秋生による同名の漫画。 「ホーホケキョ となりの山田くん」(高畑勲/104分/1999年) いしいひさいちによる4コマ漫画「ののちゃん」の兄・山田のぼるを主人公にした作品。ほのぼのした日常もののせいか、ジブリ作品の中では影が薄い。しかし、作画のクオリティーは抜群。 「映画ドラえもん のび太と鉄人兵団」(芝山努/97分/1986年) 劇場版の第7作。宇宙から攻めてくる鉄人兵団にのび太たちが立ち向かう。初期ドラえもんシリーズの中でも最高作。文明や科学技術に対する問いが重い。 「リアリティのダンス」(R15+)(アレハンドロ・ホドロフスキー/130分/2013年) チリ出身のアレハンドロ・ホドロフスキー監督の自伝的映画。幻想と現実が入り交じる、「なんでもあり」の作品。 「天城越え」(三村晴彦/99分/1983年) 松本清張原作のサスペンス。初老の男性が、14歳だった時に犯した殺人を回想する。娼婦役・田中裕子の体当たりの演技が魅力。 「暗いところで待ち合わせ」(天願大介/129分/2006年) 乙一原作。目の不自由な女性の家に殺人の嫌疑をかけられた男性が忍び込む。ふたりが次第に心を通わせていく……。 「ミスト」(フランク・ダラボン/125分/2007年) スティーブン・キング原作。霧に覆われた町が舞台。しだいに集団が恐怖に襲われていく過程は今の状況にもつながる? 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(ケビン・コスナー/181分/1990年) 19世紀、南北戦争時代、アメリカにおける白人と先住民の交流を描いた西部劇。異文化に向き合い、ともに生きていく。 「お早よう」(小津安二郎/94分/1959年) 日本映画の巨匠・小津安二郎の喜劇。小津作品の中では気軽に見られる作品で、名作に触れるいい機会。 「鳥」(アルフレッド・ヒッチコック/119分/1963年) 巨匠ヒッチコックのパニック系サスペンス。ダフネ・デュ・モーリアの小説が原作。鳥の群れが突然人間を襲いだす。 ※時間、製作年は「映画.com」を参考 (本誌・秦正理、岩下明日香) ※週刊朝日  2020年3月20日号
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週刊朝日 2020/03/17 11:30
勝間和代「政府はそこまで頑張ってない」少子化の一番の問題点とは?
勝間和代「政府はそこまで頑張ってない」少子化の一番の問題点とは?
勝間和代さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・小山幸佑) 勝間和代(かつま・かずよ)/1968年、東京都生まれ。早稲田大学ファイナンスMBA、慶応大学商学部卒業。当時最年少の19歳で会計士補の資格を取得、大学在学中から監査法人に勤務。アーサー・アンダーセン、マッキンゼー、JPモルガンを経て独立。現在、株式会社監査と分析取締役、中央大学ビジネススクール客員教授として活躍中。2005年、ウォールストリート・ジャーナル「世界の最も注目すべき女性50人」に選出。06年、史上最年少でエイボン女性大賞など。新刊『ラクして おいしく、太らない! 勝間式超ロジカル料理』(アチーブメント出版)発売中 (撮影/写真部・小山幸佑)  昨年からユーチューバーとしても活動している経済評論家・勝間和代さん。明快かつ論理的な語り口はもちろん、精神的にも経済的にも独立した生き方は、多くの女性が憧れる存在です。作家の林真理子さんが、今の若い女性のこと、少子化対策などについてうかがいました。 *  *  * 林:勝間さんの一日って、朝は世界のニュースをパソコンで見ることから始まるんですか。 勝間:ウェブニュースと新聞は一通り見ますけど、8時から運動するんですよ。銀座のトランポリンスタジオに行って。 林:トランポリン? おもしろいですか。 勝間:おもしろいです。40人ぐらいのスタジオで、小さな1人用のトランポリンに乗って、インストラクターの指示に従って、そんなに高くは上がらないんですけど、エアロビクスみたいな形で跳んだりステップ踏んだり。 林:毎日ですか。 勝間:毎日じゃないですけど、週3、4回は行ってますね。終わったらそのままゴルフの練習をするときもありますし、仕事に行ったり、みたいな感じで。 林:ほんとにムダな時間がないですね。ダラダラとテレビなんか見ないですか。 勝間:テレビはまったく見ない。 林:ドラマなんかも? 勝間:まったく。昔、ネットフリックスを見てたんですけど、時間ドロボーだと思って解約しちゃいました。 林:お芝居とかミュージカルとか見ないですか。 勝間:そういうのは人と行きます。月に2、3回、コンサートとか落語とか。 林:夜寝るのは何時ですか。 勝間:夜は11時には。7時間は寝るようにしてるんで。 林:勝間さんって、心と体のぜい肉が微塵もなくて、なんて私と正反対な生活なんだろうと思いますよ。もともと人間が違うのかな。 勝間:そんなことないですよ。習慣ですよね。私は体を動かすのが好きなんです。うち、ダラダラする場所がないんですよ。椅子も、エクササイズ用の椅子なんです。スクワットをするとか動くとか、座りながら運動をするようなものばかりで。 林:す、すごい……。話題を変えて、今の若い女性って、私から見ると恵まれてるように見えるのに、いま一つ充足感がない感じがしませんか。 勝間:男の人も女の人もそうなんですけど、単に会社に勤めてるだけで、昇給しないのがいちばんつらいんだと思います。だからどうやって技能をつけようかとか、どうやってステップアップしようかみたいなことをたくさん考えてるんで、私は今の人って大変だなと思って見てますね。特にお見合いの制度が今はすたれちゃったので、ボヤボヤしてると結婚できないんですよ。なので、みんなすごく婚活頑張ってますよね。 林:みんな結婚したいの? したくないの? 勝間:したいんですよ、女子は特に。20代後半、30代の女子たち、すごく結婚したがってます。 林:このままでは少子化がひどいことになって、去年1年で鳥取県の全人口に近い人数が日本から消えちゃったそうですもんね。勝間さんに少子化対策担当大臣にでもなってもらいたいけど。 勝間:私、少子化の本を書いたことがあって、初の少子化対策担当専任大臣の猪口邦子さんとの共著なんですけど、少子化の一番の問題は、子どもを育てるお母さんにお金とか時間が足りないことなんですよ。そこに向けて国とか社会が、やさしい気持ちとかお金とかを振り向けないと難しいことがわかってきてるんです。たとえば日本の会社って、子どもを持って働いた瞬間に、ほぼ出世はアウトですよ。あの仕組みはどうしようもないんです。 林:はい……。 勝間:一つはっきりわかってる指標があって、子どもの数と時間当たり生産性はものすごく連動するんです。1時間当たりたくさんお金を儲けられる社会は、長時間労働をしなくてすむので、子どもがたくさん生まれるんです。だから日本の抜本的な少子化対策は、実は長時間労働の撲滅なんです。これは男女ともに。でも、残念ながら日本政府はそこまで頑張ってないんですよ。 林:私、きょう週刊誌の連載の原稿を担当編集者に渡しましたけど、その編集者はお母さんで、「きょうは帰りが遅くなるので、子ども二人、家でカップ麺を食べてもらってる」って言うんです。それを聞いて、私も午前中か午後早い時間に原稿を渡せるように、ずっと頑張るようになりました。 勝間:みんながそうしていけばいいんです。 林:勝間さんは、学生結婚で21歳のときにお子さんを産んだんですね。高学歴のわりにはヤンキーのように若いときに子どもをつくって(笑)。 勝間:私、会計士の資格を持ってたので、仕事は一生あるわと思って。 林:もう子育ても終わって。でも、まだお孫さんはいないんですよね。 勝間:まだ孫はいませんけど、婚約してるんで、そのうち結婚して孫が生まれるんじゃないですかね。 林:勝間さんの孫育てもぜひ見てみたいですよ。「勝間式孫育て」。 勝間:私、今いちばん幸せですね。仕事ばっかりしてたり、子育てばっかりして何にも余裕がなかった時期に比べると、今は自分の好きなことができるし、仕事もすごくたくさんしなくてすむようになったし。ただ、先ほど姉からメッセージが来て、母が具合悪くて病院に連れてったら、けっこう重病だったというんです。 林:まあ! すぐ帰らなきゃ。 勝間:いや、急を要するわけじゃないんです。でも、今まで介護問題ってまったく縁がなかったのに、ほんとに介護問題って生じるんだということが、いま身に染みてます。これからバタバタッと体験することになるかもしれない。 林:今後、「勝間式介護」が出てくるわけですね。そのあとは「勝間式老後」。 勝間:アハハ。朝、トランポリンに行くと、どう見ても50代は私だけなんですよ。「これ、60代になってもできるかな。どうだろう」と思っちゃって。だから上手な年のとり方というのは、これからの一つのテーマですね。 林:じっと書斎にいて皮肉言ったりするんじゃなくて、行動的な上手な年のとり方をしてる人って、確かにいないと思う。 勝間:それをつくりたいですね。ロールモデル的に。 林:ぜひお願いしますよ。「勝間式行動的な年のとり方」を(笑)。 (構成/本誌・松岡かすみ、編集協力/一木俊雄) 【前編「勝間和代が変わった! ユーチューブ出演、家事本出版のなぜ?」はこちら】 ※週刊朝日  2020年3月20日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2020/03/15 11:30
「41歳まで、“ナッシング”」戸田奈津子が字幕翻訳家になるまで
「41歳まで、“ナッシング”」戸田奈津子が字幕翻訳家になるまで
戸田奈津子(とだ・なつこ)/1936年生まれ。東京都出身。津田塾女子大学卒。20~30代は、戦前から2000本近い映画の字幕を翻訳した清水俊二氏に師事。80年に「地獄の黙示録」で本格的に字幕翻訳家としてデビュー。以後、数々の映画字幕を担当。通訳としても活躍し、ハリウッドスターからの信頼も厚い。著書に『字幕の中に人生』(白水Uブックス)、『KEEP ON DREAMING』(双葉社)など。(撮影/写真部・片山菜緒子) 「地獄の黙示録」の名シーン。沼に潜み、カーツ大佐の暗殺を謀るウィラード大尉(マーティン・シーン)(c)2019 ZOETROPE CORP. ALL RIGHTS RESERVED.  気になる人物の1週間に着目する「この人の1週間」。今回は「この一作で運命が変わった!」という戸田奈津子さん。40年以上前、字幕翻訳家としての道を切り開いてくれた映画がある。「地獄の黙示録」との出会いが、すべての“出発点”だった。 *  *  *  74年前、疎開先の愛媛から帰ったばかりの少女の目に映った東京の景色は、どこもかしこも灰色だった。食べるものも満足になく、いつもおなかを空かせていた。そんな中、“娯楽”と呼べる唯一のものが、会社勤めをしていた母親と待ち合わせ、新宿の映画館で観た洋画だった。少女は、たちまち洋画に恋をした。 「それから中学に進学して、英語の授業が始まったのです。あの映画の俳優たちがしゃべっている言葉を習うのだと思うと、胸がときめきました。とにかく映画が大好きだったので、『映画の中のあの言葉を知りたい!』と思ったのです」  戦争で夫を亡くした母は、手に職もなくいろんな苦労をした。同じ轍は踏むまいと、娘は大学に進学。母娘の間では、卒業したら安定した職を得て、今度は娘が母を養うのだという暗黙の了解があった。 「周りの友人たちが、就職の話を始めるようになって、スチュワーデスやら公務員やら教員やら、いろんな職業を口にしても、私は、どの職業にも魅力を感じることができませんでした。そんな中、『映画と英語を両立させられる、字幕翻訳の仕事はどうだろう?』と、はたと思いついた。でも、字幕翻訳家になるにはどうしたらいいか、知っている人は誰もいない。それで英米映画の最後に必ず出てくる清水俊二先生のことを思い出して、電話帳で先生の住所を調べ、『字幕翻訳がしたいのですが』と、お手紙を書いたのです」  それから、清水さんと会うことはできたものの、「とにかく難しい世界だから」と言われてしまう。戸田さんは、大学の教務課に勧められるまま、大手生命保険会社の秘書室で、英語文書を扱う仕事に就いた。でも、初日で、「会社勤めは向いていない」と思い、1年半で退職した。 「わがままというか、協調性がないんです。小学校の通信簿に、毎度毎度、『協調性がありません』って書かれていたくらいですから(笑)。そこからは、『翻訳なんでもうけたまわります』というアルバイトの日々。あとは、清水先生から、日本のテレビ番組を海外に輸出する際のシナリオの英訳を頼まれたり。私がいつまでも『字幕翻訳家になりたい!』という夢を諦めないものだから、時々、テキストを渡されて、字幕作りの基礎を教えてくださったりもしました」  30歳を過ぎた頃、様々な映画会社に顔を出しながら、買い付けのための、新作のシノプシス(あらすじ)づくりなども依頼されるようになった。  小さな映画の字幕を数本、手掛けるようになっていた41歳のとき、日本ヘラルド映画という映画会社から、「フランシス・フォード・コッポラ監督が、今フィリピンで新作映画を撮っていて、フィリピンと自宅のあるサンフランシスコを往復するとき、必ず日本を経由していく。来日したときの通訳をしてくれないか」と頼まれた。 「コッポラは、知識欲が旺盛で、東京にいるときも、何が食べたい、何が観たいと、好奇心の赴くままに行動するんです。定職に就いていなかった私は、東京でのガイド兼通訳でした。それで仲良くなったのです。映画製作は難航していて、トータルで3年ぐらいかかったんですが、あるとき、監督が『今度の映画音楽には、シンセサイザーを使いたい。冨田勲に頼めないか』と言ってきた。冨田さんは、二つ返事で『やります!』と答えたのですが、あいにく冨田さんはあまり英語が得意ではなかった。音楽を作るためには、サンフランシスコの自宅でラッシュを観たり、フィリピンのロケ現場を見学する必要があって、私は、通訳としてそのお供を仰せつかったのです」  結局、冨田さんは、すでにレコード会社と専属契約をしていたことが理由で、コッポラ監督の大作映画の製作に足を踏み入れたにもかかわらず、その作品からは降りざるをえなかった。その時点で、戸田さんはこの「地獄の黙示録」に深く関わってしまっていた。それが縁で、ようやく映画が完成したとき、翻訳の仕事を任されたのだった。 「生涯を通しての運命的な出会いでした。それまでの20年間、私の中では字幕翻訳がやりたくてもやれない、長いウェイティングの時代が続いていた。字幕の仕事はあってもせいぜい小作品が1年に1本。それが、この映画によって、手のひらを返したように、だいたい週に1本。雨のように仕事が降ってきました(笑)」  そんな、戸田さんを字幕翻訳家の大家へと導いてくれた映画「地獄の黙示録」が、製作40周年を記念して新たなデジタル修復が施され、再編集された。「地獄の黙示録 ファイナル・カット」は、1979年の劇場公開版に話を盛り込み、30分長くした2001年の特別完全版から、さらに手を加え、20分短くしている。賛否はあったものの、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞し、英国アカデミー賞でも監督賞など2部門、アメリカのアカデミー賞でも撮影賞など2部門を受賞した“不朽の名作”を、2度も編集し直すことになったのはなぜなのか。 「それはすべて、主役のカーツ大佐を演じたマーロン・ブランドのせいです(笑)。彼は確か3週間の契約だったと思うんですが、そのギャラは週に100万ドルでした。クライマックスの撮影に入ってからフィリピンにやってきたのはいいんですが、ブランドはでっぷりと太っていて、とても元グリーンベレーの大佐には見えなかった。しかも、台本も読んでいない。何にも準備していなかったのです。そして、カメラが回ると、T・S・エリオットの詩を読んで、帰ってしまった(苦笑)。高額なギャラなので撮り直しはできないし、フィルムはあるけど、どうして良いかわからない。コッポラは地獄を味わい、自殺しかけたほど苦しんだそうです」  編集作業をしているうちに封切りの予定も過ぎて、納得のいかないままに公開せざるをえなかった。 「だから、最後のカーツ大佐の台詞が何を意味しているかは、監督本人にもわからなかったのです。翻訳でも、終盤の訳文に識者からクレームがついたりもしたんですが、監督にもわからないのに、翻訳者に何がわかりますか?(笑) 最初の編集で、伝えたかったことが言い切れてないから、コッポラは特別完全版を作って、それでもまだ納得できずに、ファイナル・カットを作った。昨年の11月に、私はナパ・バレーのコッポラ邸を訪ねたのですが、そのときコッポラは、『本当に、これで最後だ』と言っていました」  戸田さんのキャリアに話を戻そう。20年、字幕翻訳家になるチャンスを待ち続けて、「地獄の黙示録」でそれを掴んだ。それから、依頼があると、「嬉しくて嬉しくて」1週間から10日で1本の作品を仕上げるような売れっ子の状態が、30年以上続いた。 「女性であったことが、何かいいほうに作用したことは?」と尋ねると、「フリーターでいられたことぐらいかしらね。男はそうはいかないから。だって当時は、30にもなってフラフラなんかしている人はいなかったもの。そういう意味で、41歳まで、“ナッシング”でも平気だったのは、女性だったからかもしれません」。  無類の映画好きとはいえ、作品の好き嫌いが、翻訳に影響はしないのだろうか。 「本当に短時間で集中して仕事をするので、好きとか嫌いとか考える暇もありません。どの映画を観ても楽しいし、この楽しさを一人でも多くの人と分かち合いたいという気持ちが、一番のモチベーションです。だから、自分の好き嫌いとか、自分の個性がどれに向いているか向いていないか、ということではない。映画ってなんでもありでしょう。SFからアクションからヒューマンドラマから。来たらやらなきゃいけないし、選択権はないし(笑)」  また、一本一本内容が違う映画の、そのときどきの登場人物の気持ちになれることも、字幕作りの醍醐味だという。 「台詞を作るというのは、その人の気持ちにならないとできない。『地獄の黙示録』では、マーロン・ブランドの気持ちになって、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、マイケル・J・フォックスの気持ちになる。頭の中では、その世界に飛ぶわけです。こんなおもしろいことはない。見た目は机に向かっているだけだけど、心は、フィクションの世界で自由に遊ぶことができる。過去や未来から、宇宙の果てまで。失恋の悲しみから、親子の確執まで。森羅万象を、頭の中で操ることができたのです」 (菊地陽子、構成/長沢明) ■THIS WEEK 2月20日(木) 1日オフ。日中は読書をして過ごす。映画でフィクションは堪能し尽くしたのか、本ではノンフィクションにハマっている。塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズを読み進めながら、「人間は愚かにも同じことを繰り返しているなぁ」と溜め息。 2月21日(金) 毎日の楽しみは食事とお酒。夜は食にマニアックな友人に連れられて下町の隠れ家的レストランで舌鼓。「週の半分は、友人と会って食べて飲んでいます(笑)。恥ずかしながら、料理は一切できないの」 2月22日(土) 持ち込みOKの店で、昨年コッポラ家を訪れたときにお土産でもらったコッポラ・ワインで乾杯する。 2月23日(日) 昼に友人と会い、次の海外旅行の計画を立てる。「旅行の目的は観光名所ではなく、美味しいお店。それが私の旗印で、それをつなげる旅をします」 2月24日(月) 連休最終日だが、特に人と会う約束もなく、読書をして過ごす。 2月25日(火) 原稿チェックなど、細かい仕事を済ませてから、外食。 2月26日(水) ラジオ収録。「地獄の黙示録 ファイナル・カット」の宣伝に勤しむ。 ※週刊朝日  2020年3月13日号
週刊朝日 2020/03/11 11:30
断食のおかげ? 瀬戸内寂聴「百歳を迎えても死なないような…」
断食のおかげ? 瀬戸内寂聴「百歳を迎えても死なないような…」
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「病院の患者見て空想 『絵になるなあ』」  セトウチさん  何年か前に、近畿リウマチ病研究会から招かれて講演をしたことがあります。講演なんてエラそうな話ではなく、拙著『病の神様』(絶版)で、自分の身体のことで、ふと思ったこと、考えたこと、そんな直感に従って行動を起こした結果が全て治癒につながっていたというエピソードを語ったんですが、聴衆は全員医師の方々で、これからの医療で必要なことは、こうした患者の直感を医師がサポートすることではないか、ということに治療の答えがあると、考えられたようでした。  こんなふと思ったこと、考えたことで行動を起こしその結果病院にも行かないで治ったというようなウソみたいな本当の話ばかりを寄せ集めて書いた本『病気のご利益』(ポプラ新書)を最近出しましたので、セトウチさんに早速お送りしました。僕は目にゴミが入った、指にトゲが刺さったというだけで、すぐ病院に飛んでいきます。自分の身体の中で何が起こっているかわからないことをそのまま放置しないで、それが何なのか? 知らないまま生きているのが不安になるので、解答が必要なのです。「自分とは何者か?」という哲学的な命題も大事ですが、自分の身体のことを知るのも、もうひとつの哲学ではないか、と僕は勝手にそう思うのです。  僕は病気のアマチュアですがセトウチさんは病気のプロフェッショナルで大手術など何度もしておられるので、ご自分の身体に対しては格別のお考えがおありだと思います。「週刊朝日」の読者は70代が中心で、この年齢の方達は何かと無関心ではおれないテーマだと思います。僕は普通の人なら絶対行かないようなことで病院に行きます。病院は生活の一部です。病院の待合室で患者さんを見るのが好きです。そして「この人はどんな病気でここに座っているのだろう」とか、服装や表情から年齢、職業、性格、そして生活や人生まで、あれこれ空想すると待ち時間が長いと思ったことはありません。また画家の眼から表情などを見ると、そこには凝縮(ぎょうしゅく)された究極の精神が刻印されていて、どの人も「絵になるなあ」と思われる人達ばかりです。  セトウチさんは、あと1年で100歳で、昔はきんさんぎんさんぐらいしか目立たなかった100歳以上の人は今では7万人位いるんですよ。男性より女性の方が長寿者は圧倒的に多いですが、この間亡くなったアメリカの俳優カーク・ダグラスは男で103歳でした。これからの社会は100歳など珍しくもない年齢で、その内100歳未満で死ぬと、早いねえ、とか若いねえ、と誰も相手にしてくれない時代が、もう目の前に来ているような気もします。  30歳未満で死ぬと夭折(ようせつ)の天才画家と呼ばれた時代はもう原始時代の話になりかけています。今年6月で僕は84歳です。80代で死ぬと「早や死にやったねえ、ヨコオさんは」と言われるかも知れません。僕は虚弱体質で子供の頃から病気ばかりして、今でも年に一回は入院します。それに代わってセトウチさんは日本中が驚いています。平均寿命が100歳越すよう努力、貢献して下さい。この書簡集が何冊も出るほど書きまくって下さい。僕はシンドイけれどセトウチさんならいけます。 ■瀬戸内寂聴「百歳前に困った 夭逝に憧れた私なのに」  ヨコオさん  どうやら、私は、百歳を迎えても死なないような気がして困っています。なぜ困るかと言えば、私は少女時代から夭逝(ようせい)に憧れていたからです。五歳年長の姉と二人姉妹だったので、文学少女の姉の影響を受けて、私も早くから文学幼女になっていました。立派な詩人や画家は早く死ぬものと、思いこんでいました。自分に何の才能もないのに、憧れの詩人や画家のように、夭逝したいと思いこんでいました。幼い時から老人は好きではありませんでした。  私が産(う)まれた時、とても可愛がってくれたという父の母、私のおばあちゃんは、亡くなっていて、話に聞くだけでした。時々神戸から来るおばあちゃんは、ハイカラさんで、クリスチャンで、いつも徳島には見かけない洋菓子を持ってきてくれました。このハイカラ婆(ばあ)ちゃんを私は老人と思っていませんでした。近所の婆ちゃんかじいちゃんは、みんな薄汚く、子供に怒りっぽくきらいでした。私はあんな汚い年寄になるより、早く死にたいと子供心に思ったようです。  産まれた時、産婆さんは、「この子は一年と持つまい」と言ったそうです。この原稿のため調べたところによれば、私の産まれた大正十一年(一九二二)の二年前まで、今、はやっているような狂暴なかぜが世界に吹き荒れ、スペイン風邪と呼ばれたそうです。日本でも沢山(たくさん)の人や子供が死んだそうです。産婆さんが、「この子は長く生きない」など、あっさり言っても、気にならない空気だったのでしょう。この産婆さんの予言は当たらなかったものの、私は幼時から偏食で、肉も魚も野菜もきらいで、煮豆ばかり食べていました。母は、どうせ育たない子だからと、不憫(ふびん)がり、私の偏食を直そうともしませんでした。  はしかをしくじったとかで、私は幼時、いつでも全身、吹出(ふきで)ものにまみれ、痒(かゆ)がり引っ掻(か)いては、ひいひい泣いていました。小学校に上がってもおできに臭い薬をつけ頭にほうたいをしていました。いじめられなかったのは、勉強がクラス一番だったからです。病気もよくしました。ヨコオさんほどではなかったでしょうけど、年じゅう、体のどこかが不調でした。物心ついた時から快適には無縁だったので、病気を怖(おそ)れる気は全くなく、病気で学校を休むのが、何よりの楽しみでした。  それでも死にもせず、東京女子大に学んだ時、新聞広告を見て、大阪と神戸の境にある断食の療養所に飛び込みました。そこで四十日間の断食をして、出山釈迦そっくりになって女子大の寮に戻りました。そこで完全な断食の方法を覚えたことは、その後の私の生涯に、ずいぶん役に立っています。私はたいがいの病気は断食で治してしまいます。「がん」には断食はよくないようです。断食は元食に戻る時が大変ですが、食べないのは、すぐ馴(な)れます。二十歳の時の断食のせいで、百まで生きたら、自業自得とは言え、困ったものです。  それにしても現在勢いを増しているコロナウイルスは困りものですね。寂庵では法話も写経もすべて中止して、私はじっと死んだ虫のようにおとなしく、庵を一歩も出ません。  ヨコオさんも、お好きな入院でもして、御無事にお過ごしくださいね。では、また。 ※週刊朝日  2020年3月13日号
週刊朝日 2020/03/08 11:30
井上康生監督の涙の裏に「代表再建に情熱注いだ8年間」進化する日本柔道
井上康生監督の涙の裏に「代表再建に情熱注いだ8年間」進化する日本柔道
27日の会見で、こらえきれず涙を流した井上監督は「やってはいけないことだった。申し訳ありません」と頭を下げた (c)朝日新聞社 東京五輪を戦う13人が決定【1】(AERA 2020年3月9日号より) 東京五輪を戦う13人が決定【2】(AERA 2020年3月9日号より)  今年2月に開催されたグランドスラム・デュッセルドルフの結果を受けて行われた東京五輪柔道日本代表発表。晴れの場の記者会見で井上康生監督は涙を見せた。AERA2020年3月9日号では、日本柔道立て直しに奔走した8年間に迫った。 *  *  *  1964年の東京五輪で正式競技になった柔道が、半世紀ぶりに発祥国の五輪に戻ってくる。男子日本代表を束ねるのは井上康生監督。41歳、集大成の舞台だ。  それは突然の涙だった。2月27日、東京五輪に出場する日本代表発表の記者会見。晴れの場で井上監督の顔がゆがんだ。 「いま、これまでの選考大会を思い浮かべる中で浮かぶ顔というのは、ぎりぎりで落ちた選手たちの顔しか浮かばない状況であります」  60キロ級の永山竜樹、73キロ級の橋本壮市、海老沼匡(まさし)……。  代表に落選した選手たちを一人ずつ挙げると涙腺が崩壊。「彼らはすべてをかけて、ここまで戦ってくれたと思います。彼らの思いも我々はしっかり受け止め、日本代表として責任を持って戦わなきゃいけないという気持ちしか、正直ありません」。そう言って声を詰まらせ、何度も涙をぬぐった。  2012年11月、ロンドン五輪で史上初の金メダルゼロに終わった日本男子柔道の再建を託された。当時34歳。史上最年少の監督就任だった。08年の現役引退後は2年間、英国に渡って見聞を広げた。帰国後、母校の東海大で柔道部の副監督に。指導者としてのキャリアは浅かったが、当時の斉藤仁・強化委員長(故人)が「柔道界を立て直せる人材」と白羽の矢を立てた。  代表再建のテーマとして掲げたのは「総合力」だった。全日本を担う選手たちには「日本スポーツ界を代表する存在になってほしい」と自覚を促した。選手が移動する際にはスーツや制服の着用を義務づけ、ひげを伸ばすことも禁止に。畳の上では「全日本、選手、選手の所属は三位一体」という姿勢を打ち出し、代表活動のあり方も変えた。代表で拘束する期間を減らし、その分、普段練習する所属チームの指導者と連絡を密に取った。  ロンドン五輪で地に落ちた男子柔道のイメージを刷新し、誇りを取り戻そうとしていた矢先、柔道界を揺るがす不祥事が続発。女子日本代表の指導者(当時)による暴力が発覚し、助成金の不正受給や全日本柔道連盟理事(当時)によるわいせつ行為などが明るみに出た。現場責任者として「変わらなければいけない。できることをやらなければ」と危機感を募らせた。  嵐の中の船出となったが、13年にリオデジャネイロで開かれた世界選手権で3個の金メダルを獲得。代表監督として初めて挑んだ世界大会で、さっそく好結果を出した。翌年の世界選手権では、フランスやジョージアの後塵を拝していた団体戦でも優勝。16年リオ五輪は金二つを獲得し、全階級の選手にメダルを持ち帰らせた。  日本の柔道選手は、普段は実業団や大学など所属先で稽古を行い、日本代表として集まるのは合宿や国際大会に限られる。短い時間の代表活動では柔道だけに焦点を絞りがちだが、井上監督は「オープンマインド(開かれた心)であってほしい」と呼びかけてきた。  代表合宿では選手が茶道や書道に触れる機会を設け、泊まりがけで自衛隊の体験入隊も実施。柔道以外のスポーツ観戦や、他競技の選手との積極的な交流も推奨している。昨年末の合宿にはラグビーワールドカップで活躍した日本代表のリーチ・マイケル主将に来てもらい、大舞台に挑む心構えを選手たちに説いてもらった。  選手が力を発揮するために、細部にもこだわってきた。  試合前の鑑賞で士気を上げたり、チームの結束を強めたりする「モチベーションビデオ」を監督就任の直後に導入した。大リーグのヤンキースやサッカーのバルセロナ(スペイン)なども採り入れ、スポーツ界で広く活用されている手法だ。個人競技の柔道でも効果があると見込み、力を入れて制作している。  約5分の動画だが、それぞれの選手用に編集された完全オリジナルの映像で、汗を飛ばして練習する姿、勝利の瞬間、コーチからのメッセージなど、代表スタッフが撮りためた膨大な映像を凝縮。いまではプロの映像編集者の力も借りて、「単なるモチベーションビデオの枠を超えるもの」(代表関係者)をめざしているという。ある代表スタッフは「井上監督の情熱はすごい。こちらも変なものは出せないし、監督が信頼して全てを任せてくれている。そういう環境が組織の結束力につながっているのだと思います」と強調する。 (朝日新聞社・波戸健一) ※AERA 2020年3月9日号より抜粋
2020東京五輪
AERA 2020/03/05 11:30
のんが主宰する音楽フェス、無観客で開催されたライブレポートが到着 リーガルリリー/チリヌルヲワカ/阿部真央も登場
のんが主宰する音楽フェス、無観客で開催されたライブレポートが到着 リーガルリリー/チリヌルヲワカ/阿部真央も登場
のんが主宰する音楽フェス、無観客で開催されたライブレポートが到着 リーガルリリー/チリヌルヲワカ/阿部真央も登場  のんが主宰する音楽イベント【NON KAIWA FES vol.2】が2月29日に東京・EX THEATER ROPPONGIにて行われた。  ただ、この日のライブは新型コロナウイルス感染拡大の影響で、異例の無観客状態での開催。客席にあるのは、このライブを収録し後日放送するMTVのカメラ11台のみだ。  【NON KAIWA FES】は2017年12月に開催された【NON KAIWA FES Vol.1 ~音楽があれば会話が出来る!~】に続く第2弾。「女の子の怒りはポジティブなパワーになる!」というテーマを掲げ、4組の女性ボーカルのアーティストが11台のムービー・カメラの前で2時間20分超のパフォーマンスを繰り広げた。  この日のイベントのためにのんがデザインした恐竜キャラクターのオコリボンにちなみ、胸に3つのリボンをつけた巨大な恐竜(こちらは名前不明)が、右手後方に鎮座するステージに、最初に現れたのはリーガルリリーの3人。ボーカル&ギターのたかはしほのかの、のんとの出会いは2012年の閃光ライオットの会場だそうで、たかはしは「ムスタング・ギターをジャ~ンと鳴らしていたのが、凄くカッコよかったことを覚えてます!」と思い出を語り「呼んでくださって、まさに夢のようです!」、心から嬉しそうな笑顔を見せた。触れると崩れてしまいそうな儚く切ないボーカルに、凄まじいまでの破壊力を持ったギターとドラムにベースが絡むクールで熱いパフォーマンスを展開。最新アルバム収録曲等、5曲を演奏し30分のステージを疾走した。  続いて登場したのはチリヌルヲワカ。ボーカルのユウはGO!GO!7188時代から、のんのリスペクトしてやまないアーティストで、今回の【NON KAIWA FES vol.2】で遂に競演が実現した。ライブは真っ白なコスチュームに身を包んだユウの青いテレ・キャスターがかき鳴らされてスタート。3ピースというミニマムな編成ながら、とてつもなくデカい音を弾き出す。中盤のMCでは「今日はほんとに貴重なイベントで、ここにいられて良かったです!」とTVの前で見るオーディエンスに呼びかけ、後半もソリッドな音を剥き出しにしてグイグイと迫る圧巻のパフォーマンスを見せつけた。  冒頭、「あぁ~、みんなに会いたかったね!」とTVの前にオーディエンスに語りかけた阿部真央のライブは「ロンリー」でスタート。この日の彼女は真っ赤なボディのアコースティック・ギター1本を持って、たったひとりでステージに立つ。のんがラジオで「17歳の唄」をオンエアした事をきいたのを機に、のんを知ったという阿部真央は、2人を繋ぐきっかけとなった「17歳の唄」等、5曲をアコースティックギターをかき鳴らしながら熱唱。その立ち居振る舞いはフォーク・ソングの女王と呼ばれたアメリカの女性アーティスト、ジョーン・バエズを彷彿させるほど。最後に「早くみんなが笑って一緒に歌えますように!」と話してステージを降りた。  【NON KAIWA FES vol.2】のトリはのんシガレッツ。本イベントのテーマ”女の子の怒りはポジティブなパワーになる!”にちなんでRCサクセションの「プン・プン・プン(オコリンボ リンボ)」や、日常に起きている怒りをぶちまけるように歌った新曲「こっちを見てる」など”怒り”曲を披露した。中盤にはチリヌルヲワカのユウがゲストで登場し、のんのアルバムに書き下ろした2曲を共に演奏。憧れのミュージシャンとの初共演に、のんも「めちゃめちゃ特別でした!」と大興奮の様子を見せた。 のんをサポートするシガレッツは、2019年キーボード奏者が加わり音に厚みが増している。盤石な演奏をキープするバンドの演奏をバックに、のんは伸びやかに楽しそうに歌い継ぐ様子は、フェスのオーガナイザーとしての自覚と責任感からか、“座長”の貫禄も出てきたようだ。  アンコールは全出演者がステージに結集。和気あいあいと全員で歌って演奏する様は、女子会のような楽しさだ。ステージ後方に鎮座する恐竜も、ヘッドバンギングで彼女たちのパフォーマンスに応える。ラストにはステージ左右のキャノン砲から” 2020.2.29うるう年!! オコリンボさいこー。怒りをかわいがれ!”とのん直筆のメッセージがプリントされたメタルテープが発射され、2時間20分に及んだ【NON KAIWA FES vol.2】は、異例の無観客ライブの中、無事に終了した。  この日の模様は3月29日18:00からMTVにて放送予定。また、会場で販売予定されていたオリジナル・グッズはオンラインで販売されている。text:石角隆行
billboardnews 2020/03/05 00:00
男女格差ランキング日本121位の背景 11年連続1位は意外なあの国
男女格差ランキング日本121位の背景 11年連続1位は意外なあの国
男女平等ランキングで日本は121位、アメリカは53位、中国は106位、韓国は108位だった(写真/gettyimages)  3月8日は国際女性デー。日本は昨年12月に発表された最新の「ジェンダーギャップ指数」で、過去最低の121位という結果だった。それだけ男女格差があるということだ。何が問題なのか。小中学生向けニュース月刊誌「ジュニアエラ」3月号で、この問題をわかりやすく解説した。 *   *  *  2019年12月、世界経済フォーラムという国際機関が各国の男女格差のランキングを発表した。今回、日本は調査対象153カ国のうち121位で過去最低だった。  ランキングは経済、教育、健康、政治の4分野の14項目を調べて順位付けする。11年連続1位のアイスランドをはじめ、上位は北欧諸国が占める。日本は18年も110位と、実は下位の常連国。主要先進7カ国(G7)でも毎回最下位だ。G7中、今回、日本の次に低いイタリアは76位だった。  日本が下位なのは、政治分野の女性進出が遅れているからだ。世界でみると、女性の割合は国会議員(下院議員)の25%、閣僚の21%だ。高くはないが、日本の女性の割合は調査対象の衆議院議員で10・1%。閣僚は昨年9月の内閣改造前までは5・3%。いかに低いかがわかるだろう。  日本では18年に選挙での候補者数をできるだけ男女均等にしようという法律ができた。しかし強制力を持たず、その後あった参議院選挙では、自民党の女性候補者の割合は15%だけだった。  世界各国は政治の場に女性を増やすため、候補者や議席の一定数を女性に割り当てる「クオータ制」をとる国が増えており、120カ国を超えた。しかし日本では、クオータ制は自民党などに反対の声が強い。  なぜ日本では女性政治家が少ないのか。いろいろな原因があるが、人々に「政治は男性の仕事」という思い込みがないだろうか。  たとえば、みなさんの学校の生徒会役員の男女の割合はどうだろう。もし男女同数に近かったり、あるいは女子のほうが多かったりしたら未来の政治の場は確実に変わり、日本のランキングも上がるだろう。  もしそうでなく、男子のほうが多かったら、なぜそうなのか、ぜひ話し合ってみてほしい。政治は大人だけのものではないのだから。 ●フィンランドで女性の最年少の首相誕生  フィンランドで2019年、34歳の女性首相が誕生した。サンナ・マリン首相だ。  同国の女性首相は3人目、現職の指導者としては世界最年少だ。世界経済フォーラムの男女平等ランキングでは、フィンランドは3位。同国の政治の場には女性だけでなく、若い世代も多い。今回誕生した政権は5党の連立だが、ほかの4党の党首もすべて女性で、うち3人は35歳以下だ。被選挙権は18歳で、高校や大学に通いながら地方議員に立候補する人もいるという。  日本の場合、19年秋に内閣改造があったが、安倍内閣の閣僚の平均年齢は61歳以上だ。「高年齢の男性ばかり」が日本政治の最大の特徴といえるかもしれない。(朝日新聞編集委員・秋山訓子) ※月刊ジュニアエラ 2020年3月号より
ジュニアエラ朝日新聞出版の本読書
AERA with Kids+ 2020/03/01 11:30
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
ロシアから見える世界

ロシアから見える世界

プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

ロシアから見える世界
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〈外国とつながる皇族方〉天皇・皇后両陛下が乗ったパレードの馬車に元侍従が驚いた理由 「皇室と英王室に新しい風が吹いた」
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天皇陛下
dot. 5時間前
教育
「気分にムラがある娘に、中学受験の勉強をどうさせるべき?」 小4母の悩みにプロが危惧する親の「焦り」とは
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安浪京子
AERA with Kids+ 1時間前
エンタメ
「虎に翼」が訴えたこと 寅子の「はて?」もよねの優しさも「肯定」からしか生まれない
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虎に翼
dot. 5時間前
スポーツ
佐々木麟太郎も選んだ「アスリート留学」続々 「勉強1番、スポーツ2番」でもアメリカの大学を目指すワケ
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アスリート留学
dot. 9時間前
ヘルス
〈あのときの話題を「再生」〉サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
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医学部に入る2024
dot. 9/26
ビジネス
「10月10日は「銭湯の日」 はいれば平和で幸せな気持ちに」ローソン社長・竹増貞信
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竹増貞信
AERA 1時間前