【現代の肖像】こどまっぷ代表理事・飲食店経営者、長村さと子「LGBTQの『子どもがほしい』を支援する」<AERA連載>
「裏切らないのは犬だけ」と笑う。偏見や批判にさらされても、人とのコミュニケーションを諦めない(撮影/今村拓馬)
さっぽろレインボープライドのパレードで。長村は、旧知のゲイの人と現場で再会。意気投合し、その場でイベント開催を約束。こどまっぷ共同代表のゆきこは言う。「彼女は、人に出会う度に企画が湧く。行動力が半端じゃない」(撮影/今村拓馬)
老舗レズビアンバーが軒を連ねる新宿二丁目で、「最年少」ながら10年間も店を続けてきた。「人から裏切られても、さと子は自分からは手を離さない。わかりあえなくても、『とりあえず話してみよっ』って」(我妻)(撮影/今村拓馬)
かつて保護犬を引き取った動物保護施設で。「動物保護活動は一生続ける」と長村。ともに暮らす愛犬は、「もはや恋人」。人間関係の悩みも全て話してきた(撮影/今村拓馬)
※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
セクシュアルマイノリティーを取り巻く状況は、少しずつ変わってきた。だが、同性カップルが子どもを持つことは依然難しい。
この高いハードルをどう乗り越え、どう子育てを実現させていくか。それを共に考える団体がこどまっぷである。
代表理事の長村さと子もまた、子どもを持ちたいと願う一人だ。世の中を変えたい、居場所を作りたいと切望する。
家賃が高い新宿二丁目にしては広々とした「足湯cafe&barどん浴」。壁という壁を取っ払った60平米のぶち抜き空間には、路面の窓から陽の光が注ぐ。窓際には車座になって卓を囲める和風の足湯スペース。壁にはキース・ヘリングのポップアート。昼寝にちょうどよさそうな、虹色のハンモックまでつり下げられている。
セクシュアリティーに関係なく、誰もが気軽に訪れる場所にしたいと作られたこの足湯カフェで10月中旬、イベントが開かれた。子どもが欲しい、または、すでに子どもがいるセクシュアルマイノリティーとその周りの人のための団体「こどまっぷ」の主催だ。
テーマは「アメリカの生殖医療現場で働くドクターに聞いてみよう for LGBTQ」。登壇者は、米国・サンディエゴのクリニックに勤務する医師、ダニッシュマン・サイードだ。通訳付きの英語の講演ではあったが、50人近くが熱心に聴き入っていた。参加者の多くは、これから出産を考えている20代から30代のレズビアン。卵子提供と代理出産治療にも精通する医師の話だけに、子を持ちたいゲイカップルの姿もあった。
このイベントを企画したのが、足湯カフェの経営者で、こどまっぷの代表理事を務める長村さと子(36)だ。長村自身もパンセクシュアルという、恋愛相手に性別を条件としないセクシュアルマイノリティーである。恋愛をしてきたのは主に女性で、一時期、男性との付き合いもあったが、現在は茂田まみ子(39)がパートナー。長村は子どもが欲しくて妊活中でもある。
ひとたび目標が定まると、長村は招く相手が海外の人だろうが、有名人だろうがおかまいなし。グイッと巻き込み、企画を形にする。周囲が認める「猪突猛進型リーダー」だ。
■本職は飲食店の経営者、東京と大阪を夜行で移動
でも素の姿は、どちらかといえば人の目を見て話せないタイプで、いつもストリート系のキャップを目深にかぶっている。この日の長村は、厨房に雲隠れし、参加者に提供するサンドイッチを黙々と作りながら、カウンター越しに参加者の様子をじっと観察していた。代わってマイクを握り、英語を交ぜながらの名司会ぶりを発揮していたのは、まみ子だ。まみ子は長村の活動を支える同志でもある。まみ子は言う。
「さと子は大きな地図を描ける人。私たちの活動って、常に荒波の中なんですよ。でも、彼女が行きたい先は、間違いなく波しぶきを越えた『向こう側』にある。未来を想像した時に、どんなに困難が降りかかったとしても、この人の『今』に関わっていたいと思わせるものがありますね」
多様性の時代。イベント名に表記のある「LGBTQ」は最近の呼称だ。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとる「LGBT」に、自分自身の性自認や性的指向が定まっていない、もしくは定めていない「クエスチョニング(Q)」が加わる。
日本におけるセクシュアルマイノリティーを取り巻く状況は、2015年から大きく変化している。一部の自治体で「同性パートナーシップ制度」が始まり、同性カップルに対して男女の婚姻関係と同等だと認めるようになった。だが、同性のカップルが子を持つことへのハードルは、依然として高い。北米では、同性愛者やシングルマザーが精子バンクから精子を買い、子をつくる選択肢もあるが、日本では日本産科婦人科学会により「婚姻している夫婦で、男性不妊であると診断されている人のみ」と決められている。同学会などの指針では、人工授精など生殖医療に関しても、原則としてがんの治療で生殖機能に影響が出る恐れがある人や戸籍上の夫婦に限定している。LGBTの多くが受診を拒まれる。
そもそも、知り合いからなんとか精子提供を受けられて妊娠・出産できたとしても、提供者の面会交流権はあるのか、逆に提供者に養育費を請求できるのか、といった生まれた子どもに関連する権利は、まだ法的にカバーされていない。
昨年、彼女がサンフランシスコで開かれたLGBTの国際会議でこどまっぷの代表としてスピーチをした際、会議に同席していたのが、弁護士の加藤丈晴(45)と、ゲイであることを公表して発信する松岡宗嗣(25)だ。2人は口々に言う。
「北米では、ゲイのシングルファーザーに『なんで子どもを育てたい?』と聞くのは愚問。『子どもが可愛いからに決まってんじゃん』と普通に答えますよ。権利意識の強い国だから。けれど、『血縁社会』の日本では、同性同士で子を持つことに対する偏見が根強い。まだ同性婚を議論している段階で、子を持つことは、『同性婚のさらに次』の課題。(長村が)そこにもうアプローチしているのは、かなり先を見て行動されてるなと」(加藤)
「さと子さんが目を向けているのは一貫して、当事者の暮らしなんですよね。地に足がついてる。法律を変えろ!とか拳をあげる活動家じゃない。『こんな社会がいいよね』という考えがじわじわと周りに浸透して、理解者が増えていく」(松岡)
長村の本職は、飲食店の経営者。東京と大阪に4店舗を構え、夜行バスで仮眠をとり往復する日々だ。その上、全国規模の組織に成長したこどまっぷの活動も両立して行う。メンバーは北海道から沖縄まで各地に散らばる。地方でも、講演会場はいつも満席に。情報提供の協力機関は、米国、デンマークなど、海外へも広がる。今月は台湾に赴き、現地の当事者団体と交流を深める予定だ。
■10年続いた兄からの暴力、家の外に逃げ場所求めた
エネルギーの源泉は何か? それは、「誰かの居場所をつくること」と長村は言い切る。
「経営もこどまっぷの活動も、私がやってることは全て『場づくり』。私自身、どこにも居場所がなくて、彷徨っていた時期が長かったから」
地元は東京の下町、足立区。父の営む金属加工の工場の敷地内に自宅があった。きょうだいには兄と弟がおり、両親と祖母、独身だった叔母も同居する7人暮らし。敷地内に複数の棟の屋敷があり、一棟には部下の家族が住んでいた。
親の意向で小2から家庭教師がつき、お嬢様校として知られる都内私立小学校の編入試験を突破。小3からは電車で片道1時間かけて通学した。地元の友達はいなくなり、私立小では編入生のくせに生意気だと噂が立ち、「速攻でいじめられた」。
三つ上の兄から暴力を振るわれるようになったのは小4の時。19歳まで10年間も続くことになる。おなかを何度も強く蹴られたことさえあった。男性に対して、力で勝てない恐怖心が芽生えた。当初、母親に打ち明けたものの、「さと子の考えすぎで、気のせいかもしれない」。長村自身、母を傷つけたくなくて、抑え気味に事実を伝えたため、母も大ごとには捉えなかったのかもしれない。ただ、長村自身は母の言葉を受けて、「この話題は、言ってはならないことなんだ」と暴力の話題は封印。大勢の家族が食卓を囲む中、少女時代の彼女の頭をぐるぐると巡ったのは、<この事実を私が言ったら、家族が壊れちゃう>という思いだ。母は子ども部屋に簡易的な鍵を付けてはくれたが、引き続き兄の暴力はエスカレートしていった。
祖母からは「女であること」を常に押し付けられた。「女の子はこうあるべき」「あなたの格好は女の子なのに下品よ」と。
長村に暴力を振るっていた兄は、一時期、そんな祖母宅に引き取られて暮らした時期がある。
「うちは完全に機能不全家族。あんなに広大な場所に家があったのに、誰の居場所にもなっていなかった。私に残ったのは疑問符だけです。かぞくって何だ? 結婚って何だ?って」
兄の件では放置の姿勢を貫いた母が、学校外の娘の友達関係などを過剰なほど心配したため、「管理されている」と感じた。ピアノ、プール、お絵描き教室、書道、それに家庭教師……と、塾や習い事でスケジュールを詰め込まれていた。
自分というものがない「心の穴」を唯一埋めてくれたのは、当時ハマっていたビジュアル系バンド。兄の暴力は続いていたが、次第にバンドのファン同士のつながりに癒やしを求めていく。
高1で、私設ファンクラブを全国規模で組織。きっかけは、CDショップの店頭に置かれた交流ノートだった。同じバンドのファン同士が一冊のノートに書き込みをしていて、まずは地元の人とつながって集まりを持った。それでは物足りなくなって、雑誌に「私設ファンクラブ始めました」と投稿し、文通相手を全国に募集。北海道から沖縄まで200人の友人と文通し、1年ぐらいかけて交換ノートを回した。家の外のつながりは、唯一ほっとできる逃げ場所でもあった。
高3の時、宝塚を舞台にした小説にハマると、匿名で小説を投稿できる会員制サイトを開設した。登録者数は全国で2千人にも上る盛況ぶりだった。
■経営難で貯金がゼロに、希望は子どもを持つこと
高校卒業後は女子美術大学短期大学部に進学。女性を好きになるセクシュアリティーをはっきりと自覚したのは、19歳だった。開設したサイトのオフ会で出会った女性に恋をした。初めて恋愛した相手であり、初めて失恋した相手にもなった。
長村の失恋は騒動に発展した。失恋のショックで、その日、長村は自宅に帰らなかったのだが、それを心配した母が、長村のアドレス帳にあった知人に手当たり次第連絡を入れたのだ。長村は、一人の年上の友人に、セクシュアリティーのことも、フラれて失意にあることも話をしていた。母から連絡が来たその年上の友人が、そのことを洗いざらい母にバラしてしまったのだ。
母に頼まれた友人が、長村をファミレスに呼び出した。友人の隣には母がいて、「心臓が飛び出るぐらいびっくりした」。友人は、自分より母の年齢に近く、娘を心配する母の気持ちに共感してつい、話してしまったのだと弁解した。母には小学生の頃に一度話したきりだった兄の暴力が、もう10年も続いていたことも伝えられていた。長村はパニックになった。母と帰宅したもののいたたまれなくなり、長村は家を飛び出した。暗がりの中、荒川まで自転車を飛ばした。一時は「身を投げて死のう」と思い詰めた。
嫌だったのは、「男性で優しい人に出会えれば、あんたも(女性を好きになる性的指向が)治るんじゃない?」という決めつけに似た母の言葉だ。セクシュアリティーを巡る母子のせめぎ合いは続いた。実家に恋人を連れていって紹介しても、母は認めなかった。「結婚できない相手は、友達の延長線上でしかない」と。ようやく認めてもらえたのはそれから5年後だ。
26歳で、新宿二丁目に店を出した。特製のお好み焼きを焼く女性優先のバーで、その名も「どろぶね」。実際、鳴かず飛ばずの時期もあり、その頃から付き合いのある我妻茜(33)は、「開業後の間もない頃、頼まれて店に寄ったら、店にいるのがさと子とスタッフだけ、ということもあって(笑)」と証言する。
店は赤字続きで、28歳のときの貯金はゼロ。当時、付き合っていた年上の女性の家に転がり込んで暮らしていたが、やがて別れを迎え、家を出された。家を借りるお金もなく、車上生活は1カ月に及んだ。昼は弁当の移動販売員として、夜はどろぶね店主兼スタッフとして、働き詰めの日々だった。疲れすぎて眠れず、店が終わると夜中に横須賀まで車を飛ばした。真冬の海で暗がりの中、女一人、漫然と釣り糸を垂らしていた。
「今思えば、釣りという名の放心状態でした」
失恋に始まり、母へのアウティング、家族の無理解、経営不振と苦難続きだった長村の一筋の希望が、子どもを持つことだった。
10代の頃から「いつか子どもを産んでみたい」という思いはあったが、セクシュアリティーを自覚した当初は、<子のいる人生は、諦めないとダメなのかな>と考え、悲しい気持ちになった。ネットサーフィンを続けるうち、あるレズビアンが海外の精子バンクに英語の手紙を送り、子づくりに挑戦している体験が綴られたサイトを見つけた。
「私にも産む選択肢は残されているんだ!と。探していた参考書を見つけた気分でしたね」
■誰かの居場所作りが自分の居場所を作ることに
セクシュアルマイノリティーの人がどう産んで、どう人とつながりながら育てていけばよいのか、考える団体が必要になる――。そんな思いから、10年2月、有志3人でこどまっぷの前身となる集まりを始めた。目指すのは、LGBTQが子どもを持つ未来を「当たり前に選択できる」社会だ。
そもそも、長村が付き合った恋人は、子どもの話を持ち出すと、誰一人首を縦に振らなかった。
「子どもが欲しいという望みを言い出すのは、カミングアウトよりも怖かった」(長村)
15年にまみ子と出会う。店の常連客だった。まみ子はそれまでの恋人とは違った。
「子どもを欲しいという気持ちは、おかしいことじゃない」
「生まれてくる子との血のつながりはさと子だけでも、自分は構わない」
長村は「あたらしい家族」をつくる未来が見え、親へ切り出した。「法的な結婚はできないけれど、私、この人と結婚式を挙げる」と。
この時、唯一理解を示したのは、父だった。
「お前が選んだ人生なんだろ?」
まみ子との出会いから半年後、60人の参列者に囲まれて2人は結婚式を挙げた。
司法書士で、こどまっぷ共同代表のゆきこ(37)は、昨年、会を一般社団法人化するなど組織固めに注力した。こどまっぷの活動には、もう一つ大きな思いがある。17年、会のメンバーとして活躍した女性が、産後に出血が止まらなくなり、待望の我が子を一度だけ抱いて亡くなった。誰よりも子の誕生を待ち望み、精子提供者と綿密に連絡を取り合い、妊活に際してはバックアップの得られない日本の産科体制の中でもがき、ようやく掴み取った幸せの絶頂の直後の出来事だった。
長村とゆきこは、彼女の死後、遺された家族と子の父親とのトラブル収拾にも尽力した。そうした場で何度も突きつけられたのが「普通の」という言葉だ。普通の出産、普通の子育て……。仲間を失い、複雑に絡み合う家族の葛藤を前にし、長村の覚悟が決まった。「この状況を乗り越えるには、世の中が変わるしかない」「彼女の遺志を受け継いで、会の活動を前に進めるんだ」と。
自分よりもみんなのために動こうと決めてからは、テレビ、新聞、雑誌と、あらゆるメディアで発信を始める。NHKをはじめ、メディアに顔を出してLGBTQの妊活や子育てを語るのは、日本では長村が初めてだったという。
二丁目で店を出して10年。店や長村が仕掛けるイベントに出入りする人のコミュニティー、それにこどまっぷのメンバーたち、みんなが「かぞくのようなもの」に発展していると実感している。
「家族とか故郷とか、確かなつながりがない私にとり、二丁目のコミュニティーこそが心の故郷だなと。結局、誰かの居場所をつくることが、私の故郷をつくるのといっしょだとわかってきて。故郷がないなら、自分でつくる!というのが、私が抱える一生のテーマなんですよね」
子のいる人も、いない人も。同性同士で子育てしている人も、その子どもも。あるいは年配の人も。あらゆるボーダーを取り払った人びとが訪れる場を作り続けるんだと、長村は目を細めて言う。
決して「同じ」や「普通」を求めない。その目は時代の符号としての“ダイバーシティー”じゃなく、もっと体温のある“多様性”を見据えている。
(文中敬称略)
■ながむら・さとこ
1983年 東京都足立区生まれ。金属加工の町工場を営む3代目の父は、若くして家業を継ぎ、「会社は常に傾いていた」。「機能不全家族」の一因は、お嬢様育ちの父方の祖母にもある。完璧な専業主婦を演じていた母は、長村にとっては祖母にあたる、姑に苦労。「祖母は浪費家で100万円の壺を突然買ってきちゃうような人」と長村。父も仕事の責任を負い毒親からも逃げ、不在がちだった。
2002年 私立の小中高一貫校を卒業後、女子美術大学短期大学部に進学。短大卒業後は、美術画廊や編集プロダクションに会社員として勤務するも、長続きしなかった。以後、ホステスから道路工事まで様々なアルバイトも経験。
09年 新宿二丁目に「どろぶね」を出店。その後も、ブリトー屋(16年)、足湯カフェ(18年)、大阪のショットバー(19年)と、次々に出店。
10年 LGBTで子どもを持ちたい人同士の交流会を始める。
14年 交流会を発展させ、任意団体「LGBTsでも子どもがいる未来を」設立。LGBTQの家族のためのSNSサービス「anysea」も開設。
15年 茂田まみ子と出会う。結婚式を挙げ、たくさんの参列者を呼んだのは、「完全に親への『プレゼン』。相手を認めてほしいというよりは、『将来、私が子を産んでも、仲間に囲まれながらちゃんとやっていけるよ』とアピールしたんです」。同年、精子提供者を見つけ、妊活を開始。
16年 「一番子どもに会わせたかった」父ががんで他界。
17年 香港で「Asia-Pacific Rainbow Families Forum」に参加。ピンクドット沖縄にパネリストとして登壇。沖縄で交流会を開催。
18年 非営利型一般社団法人として「こどまっぷ」設立。米国で開催された全米アジア太平洋諸島系クィア連盟NQAPIAのカンファレンスに、プレゼンターとして参加。
19年 クラウドファンディングを成功させ、冊子「Love makes a family」発行。さっぽろレインボープライドに初出展。来春、TOKYO RAINBOW PRIDE PARADEにブースやフロートを出展する予定。
■古川雅子
ノンフィクションライター。上智大学文学部卒。専門は、医療・介護、科学と社会、生命倫理、コミュニティーなど。共著に『きょうだいリスク』(朝日新書)がある。本欄では、「詩人・岩崎航」ほか、多数執筆。
※AERA 2019年11月25日号
※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA
2020/04/16 16:06