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【現代の肖像】哲学者・國分功一郎「社会が揺らぐと哲学が必要となる」<AERA連載>
大越裕 大越裕
【現代の肖像】哲学者・國分功一郎「社会が揺らぐと哲学が必要となる」<AERA連載>
学生にはいつも「哲学者は賢者ではない。知ることが好きな人間なんだ」と教えている(撮影/篠田英美) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  今の日本は不安だらけだ。政治への不信、不安定な雇用、原発の問題……。考えれば考えるほど、先が真っ暗にしか見えない。この混迷深まる日本で、どう生きていけばいいかを考えるために、國分功一郎の哲学や言葉が求められている。「哲学がない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ」と言う國分の言葉が重く響く。  一人の哲学者を紹介するにあたり、何から書き始めるべきかを考えたとき、その哲学の一端を知ってもらうに勝る方法はない。そこでまず読者の方々に、一つの哲学的な問いを提示したい。暗い夜道を歩いているあなたの前に突然、ナイフを持つ男が現れ「金を出せ」と脅してきた。いわゆる「カツアゲ」だ。命が惜しいあなたは、ポケットから財布を取り出して金を渡すと、男は走って去っていった。  さて、このときあなたは、自らの意志によって金を払った(能動)と言えるだろうか。それとも脅された結果、金を払わされた(受動)と考えるべきか? 確かに男は暴力をちらつかせあなたを畏怖させた。しかし金を渡す行為自体は物理的に強制されたものではない。あなた自身がポケットに手を入れ財布を出し、男に金を渡したのだ。これは自発的行為と言えるのではないか?  國分功一郎(45)は、「この問題を考えるためには、我々が慣れ親しんでいる『能動態』と『受動態』という言葉の枠組みから離れる必要があります」と語る。そのかわりに國分が提示するのが、ギリシャ語や英仏独露語などの母体となった数千年前の古代インド=ヨーロッパ圏の諸言語で、広く用いられた「中動態」という言語様式である。 「カツアゲされてお金を渡す人は、一見『お金を払う』という行動を自分で決めたように見えますが、その行為は本人の意志や能力の表現ではありません。むしろカツアゲする側の意志と暴力が自分の体を通じて表現された結果の行動なのです」  そうした「自分自身の意志は関係ない状況だが、その行為の中心に自分がいたときの行動」が中動態という様式でかつては表現されたのだという。國分は古今東西の哲学者、言語学者が残した文献を渉猟し、この「中動態」という古くて新しい概念を再発見した。その成果をまとめた2017年刊行の『中動態の世界――意志と責任の考古学』は哲学書としては異例の3万6千部を売り上げ、同年の小林秀雄賞を受賞している。優れた評論やエッセーに贈られる賞だ。 昨年6月、國分が座長を務めたドゥルーズ学会のサマースクールでは、能のワークショップも行われた。海外の学会で発表を続けたことで「東京の回は國分が座長をやって」と頼まれたという(撮影/篠田英美) ■長髪に黒い服を着た姿、教室でも異様に目立った  探検家の角幡唯介(43)は『中動態の世界』の書評で「(自分も)妻に銃を突きつけられたわけではないが、状況に従ううちに気がつくと結婚しており、子供ができて、この前など家まで買うことになってしまった。完璧に中動態で記述されるべき事態なのだ」と我が身に引き寄せユーモア交じりに解説した。中動態という概念を知ると、確かに私たちの日々の行動も、自分の意志で決めているとは言えないことが多々あることに気づく。  古代ギリシャの哲学者プラトンは「哲学は驚きから始まる」と述べたが、國分の哲学の大きな特徴も「人々がハッと驚くような新たな視点」をもたらすことにある。その思考領域は、民主主義や原子力などの大問題から、若者の恋愛や就職の悩みなどの身近な話題まで及ぶ。過去の偉大な思想をわかりやすく紐解きながら、複雑にこみいった問題の本質を提示できる識者として、メディアに意見を求められる機会も増える一方だ。 「ドイツの劇作家ブレヒトは『英雄がいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ』と述べました。最近よくそれをもじって『哲学がない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ』と言うんです」  そう笑う國分は、1974年、千葉県柏市に生まれた。父は市の公務員で母は専業主婦。公立の小中学校から早稲田実業高等部に入学すると、通学電車で安部公房や遠藤周作の小説を読みふけった。成績は優秀で早稲田大学政治経済学部に進学。入学後は「政治経済攻究会」というサークルに入り、そこで初めて本格的に「思想」と出会った。 「ホッブズやルソー、マルクスなどの著作を読んで、政治思想についてあれこれと議論するのが活動の中心でした。間違った意見や差別的な考えには容赦ない反論が飛んで、そこで鍛えられた。そういう自分の考えを批判される機会を持たぬまま大人になる人も珍しくないと後で知り、得難い経験になりました。後輩には政治学者になる白井聡君もいて、僕は幹事長も務めました」  大学で國分と同級生だったTBSラジオプロデューサーの長谷川裕(45)は、印象をこう語る。 「黒い服を着て長髪を後ろでまとめ、大教室でいつも最前列に座っていたので異様に目立ちました。3年時に同じゼミに入ると、カントなどの課題図書を僕は日本語訳で読んでいくのに、國分君はドイツ語やフランス語の原典で読んでくるんです。彼を中心としたゼミの仲間の議論がものすごく知的レベルが高くて、聞くだけで楽しかった」  ときは90年代半ば。「ニューアカ」と呼ばれた現代思想ブームの残り香が漂い、社会学者の宮台真司が売春する「ブルセラ女子高生」を論じ、漫画家の小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で薬害エイズ訴訟やオウム真理教問題を描くなど新たな思想の潮流が起きていた。國分らの議論はそうした現実の問題も俎上に載せた。ゼミには12人所属していたが、後に國分を含め5人が研究者となったことからも、そのレベルの高さが窺える。  研究者の途を志した國分は、フランス語で卒論を書いて早稲田を卒業すると、東京大学大学院に進学。東大に籍をおきながらフランスに留学し、政治哲学を本場で学ぶ。留学の壮行会でTBSに就職した長谷川は、「いつか國分君たちのような若い学者が活躍できる番組を作る。その日を楽しみにしてほしい」と語ったという。 「留学前から自分が関心を持っていたのが、17世紀のヨーロッパの思想でした。16世紀の宗教戦争で焼け野原になった社会をどう立て直すかという時代で、現代に通じる国家や主権といった概念が形作られていったのがその時期なんです」(國分) ドゥルーズ学会には現代思想の大家、アルフォンソ・リンギスも来日した(撮影/篠田英美) ■同世代の活躍を横目に、もやもやした30代前半  國分がとりわけ関心を抱いたのがオランダのスピノザという哲学者だった。17世紀の有名な思想家には近代を支配する科学的思考の礎をつくったデカルトがいるが、スピノザの思想は「科学的思考では扱えない領域を考えるところが魅力だった」。「真理はエビデンスによって証明でき万人に共有できる」と考えるデカルトに対し、人間の「主体」や「意志」といった、形はないが確かにある重要な存在についてスピノザは思索を深めた。 「スピノザの『エチカ』に、厳しい親に育てられた子どもが、成長して暴君のもとで勇猛な兵士となる話が出てきます。その兵士は自分の意志で戦っているように見えて、実は親や暴君の意志を表現している。現代にも通じる話ですよね」  留学時には現代思想界を代表する哲学者、ジャック・デリダの最晩年の授業に出席した。 「授業のテーマは『死刑』でした。デリダといえば日本では難解な哲学者として知られていますが、実際の人物はきわめて明快で、フロイトの精神分析をはじめあらゆる知見を総動員して自由に物事を考える人でした。その授業で一人の生意気な学生が『死刑を考えるのに哲学が必要なんですか?』と質問したことがあったんです」  デリダはその問いに「私は哲学が好きだからです」と答えた。國分はそれを聞き「いい答えだな~。やっぱりそうだよな」と感動したという。  帰国して東大の研究員となってから2年後、33歳のときに國分は高崎経済大学に講師の職を得る。東京から半日かけて鈍行電車で高崎まで行き授業をして、また半日かけて帰るという日々を送った。その電車の中でも國分は先人の哲学書を読みふけった。後に『中動態の世界』を書きはじめるにあたり、國分は「ギリシャ語を学ばなければこの本は書けない」と考え、1年半にわたって東京・駿河台のアテネ・フランセに通い古典ギリシャ語を学んだ。哲学の祖ソクラテスが説いた「知を愛すること」を國分は自らも実践し続けてきた。 「30代前半はなかなか仕事も決まらないし、同世代で世に出る人もいて、もやもやする時代でしたね。2004年に翻訳書の『マルクスと息子たち』を出版してから、自分の名前で本が出せるまで7年かかりました。今思えば、自分の思想をまとめるのに必要な時間だったと思います」  11年、國分は本格的な哲学書の『スピノザの方法』と、一般の人々を対象とした『暇と退屈の倫理学』という2冊の本を著し、一気に世の注目を集めた。そしてその年、先の長谷川がディレクターを務めていたTBSラジオの番組「小島慶子キラ☆キラ」に、國分をゲストとして招くと、その語りを聞いたマスコミ関係者が、続々と彼に出演や執筆を依頼するようになっていく。メディアで國分は、哲学の視点から現実の問題を鮮やかに解説していった。國分自身は11年3月11日に東日本大震災と福島の原発事故が起こり、日本が混乱状態に陥ったことが、自分に発言機会が与えられる契機となったと考えている。 「ギリシャで哲学が生まれたのは政治が腐敗して乱れたときです。社会がうまくいっていれば哲学は必要ない。物事の基礎を問い直すからこそ、基礎が揺らいだとき哲学が必要となるんです」 今も2週に1度、高崎経済大学の授業に東京から新幹線で行く(撮影/篠田英美) ■依存症や原子力発電など、哲学は現実生活と結びつく  12年の初頭、国会前で原発反対デモが起き、それに対して「デモなんかに意味はない」という冷笑的な意見がネットに多数書き込まれると、國分は「みんなデモの本質がわかっていない」と感じた。そしてフランス留学時代に何度も見た、群衆がゴミを撒き散らして行進するデモの光景から始まる次の文章を記した。 <デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである><デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよい(中略)そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである>  スタジオジブリの雑誌「熱風」12年2月号に掲載されたこの文章は、ネット上で拡散され、国会前デモに集まった人々の相当数が読んだという。  立命館大学准教授で哲学者の千葉雅也(41)は、02年ごろの東大大学院在籍時に飲み会で國分と初めて会った。雑誌「批評空間」最終号で、ちょうど國分が執筆したフランスの現代思想家、ジル・ドゥルーズについての論考を読んだときだった。 「論文の怜悧な筆致から物静かな人かと思っていましたが、江戸っ子のようなべらんめえの口調で話す快活な人で、そのギャップに驚きました」  それ以来、千葉は國分と交流を持つようになり、研究者となってからは雑誌の対談やイベントで仕事を度々ともにするようになった。 「國分さんの哲学は、頭の中だけで遊んでいるんじゃなく、哲学を人生の問題として引き受けることにある。人間の実生活と哲学との結びつきを、鮮やかに強烈に見せてくれる人です」  千葉の言葉通り、先の『中動態の世界』は医学書院の雑誌「精神看護」に連載された原稿が元になっているのだが、実際に『中動態の世界』を読んだ医療関係者から、「依存症や慢性疾患の治療に役立った」という声が多数届いているという。 高崎で教える学生たちと書店イベントへ向かう(撮影/篠田英美)  近年、著名人が違法薬物の所持や使用で逮捕される度に報道で「本人の意志の問題だ」と叫ばれる。だが医療の専門家の間では、アルコールや薬物などの深刻な依存がやめられないのは「意志の問題ではなく自己のコントロールを失う病」であることが常識となりつつある。編集を務めた白石正明(62)が國分の講演を聞いて「中動態という概念は哲学や言語学の世界の話だけではなく、依存症など現実の問題に向き合う人にもヒントになるのではないか」と考えたことが発刊に結びついた。  自閉症と哲学の研究にも力を入れている。昨年6月、國分は東京大学駒場キャンパスで行われた「第7回アジア・ドゥルーズ/ガタリ研究国際会議」の座長を務めた。ドゥルーズを研究する世界中の学者が100人以上集まったこの会議で、國分は「自閉症とドゥルーズ」の研究について発表した。 「この20年程の間に、自閉症の当事者の方々が、幼少期から自分が世界をどう認識していたかを語ることが増えました。自閉症の場合、他者の存在を想定せずに世界を知覚していることがありますが、ドゥルーズの哲学は、そもそも人間の知覚のあり方はそのようなものだと考えるんです」  現在、國分はこのテーマで、東京大学先端科学技術研究センター准教授で医師の熊谷晋一郎とともにジャンルを超えた共同研究も行っている。  最新刊『原子力時代における哲学』では題名通り、哲学の観点から原子力発電の問題を考察した。登場する哲学者はプラトン、ピタゴラス、ヘラクレイトス、スピノザ、ハンナ・アーレント、ハイデガーなど数十人に及ぶ。 「原子力問題を考える上で重要なのは1950年代です。当時、日本に落とされた2発の原爆の被害から、核兵器に対して世界中で大きな反対運動が巻き起こりました。しかし原子力発電に対しては『原子力の平和利用』というスローガンのもとで人類を救う技術のように喧伝されていました」 『ヒロシマ・ノート』を後に書く作家の大江健三郎ですら茨城県東海村の日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)を訪問し、原子力という新たなエネルギーに人類の希望の光を見ていた。しかし世界でただ一人、ハイデガーだけは「原子力の平和利用」という言葉の欺瞞を見抜いていたことを國分は同書で解説する。 「ハイデガーは1963年に日本人研究者に宛てた書簡の中で、たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、その管理の不可欠なことが、この力を制御し得ない人間の行為の無能をひそかに暴露している、と指摘したのです」 國分は学生への授業を一番大切にしている。「僕は学生のとき、『世の中にそんな考え方があったのか』と知ってハッとするのが何より面白かった。今の学生も、打てば絶対に響いてくれるんです」と語る(撮影/篠田英美) ■答えが出ない問いを考え続けるのが哲学者  このハイデガーの指摘は60年近くの時空を超えて、未だ終息の途が見えない福島第一原発事故の処理問題を抱える日本人の胸に突き刺さる。一方で國分は「ただ原発はダメだと言っているだけではいけない」とも語る。 「原発のような問題は一人ひとりが自分の頭で考え続けることが大切なんだ。それが本書を通じて伝えたいことなんです」  同書の担当編集者である晶文社の安藤聡(59)は國分について、 「真理の探究のために平凡な日常生活を維持する努力を全力で続け、社会の具体的な課題に対して哲学者として取り組む姿勢に敬意を覚えます。願わくば、政治に携わる人間に、このような哲学を期待したいところです」と語る。  哲学者とはどんな人間なのか。國分に問うと、「答えが出ない問いをじっと考え続けることができる人だと思う」と返ってきた。 「ハンナ・アーレントは『答えが出ない問いを考え続けることで、人は問うことができる存在になれる』と語っています。民主主義や立憲主義も決して絶対的に正しいわけではありませんが、今の世の中の根本を支えている制度です。それがダメになったとき、きちんともう一度定義し、説明し直す必要がある。そういう役割を、哲学者が担っていると思うんです」 「知を愛すること」は哲学者だけの特権ではない。政治や社会が混迷を深める今の日本で、我々一人ひとりにも求められている。 (文中敬称略)     ■こくぶん・こういちろう 1974年 千葉県生まれ、柏市で育つ。地元の小中学校を卒業後、当時ファンだった小室哲哉が卒業生だったことから、早稲田実業高等部を受験し入学する。  93年 早稲田大学政治経済学部入学。政治経済サークルの部室で仲間と議論する毎日を過ごす。卒論は17世紀の思想家ライプニッツについてフランス語で執筆。  97年 研究者になると決め、東京大学大学院総合文化研究科に入学。この年、仏ストラスブール大学哲学科に留学し、以後長きにわたるスピノザの研究を始める。「自分は日本の大学では一度も哲学科の学生であったことはない。それが、他の人と少し違う視点でものを考えられる理由かもしれません」 2000年 パリ第10大学哲学科DEA課程入学。  04年 初めての翻訳書としてジャック・デリダ著『マルクスと息子たち』を岩波書店から刊行。  06年 東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。同研究科の「共生のための国際哲学交流センター」(UTCP)特任研究員に就任。  08年 高崎経済大学経済学部の講師となる。  09年 博士論文「スピノザの方法」で東京大学大学院の博士課程を修了。同論文は2年後みすず書房から書籍として刊行。  11年 高崎経済大学経済学部准教授。TBSラジオ「小島慶子キラ☆キラ」への出演を皮切りに、「荻上チキSession-22」「文化系トークラジオLife」などに次々ゲスト出演。『暇と退屈の倫理学』で第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞。  12年 NHK Eテレの哲学トークバラエティー「哲子の部屋」にメインパーソナリティーとして出演。  13年 本格的な哲学書『ドゥルーズの哲学原理』、現実の政治の諸問題を扱った『来るべき民主主義』、読者の人生相談に答える『哲学の先生と人生の話をしよう』など多様な本を刊行。  15年 『近代政治哲学――自然・主権・行政』刊行。  17年 『中動態の世界――意志と責任の考古学』を刊行。同書で第16回小林秀雄賞、第8回紀伊國屋じんぶん大賞受賞。  18年 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授に就任。  19年 『原子力時代における哲学』刊行。 ■大越裕 1974年生まれ。フリーライター。理系ライター集団チーム・パスカルに所属し、研究者や先端企業を取材。本欄では「哲学者 鷲田清一」「京都大学総長 山極壽一」などを執筆。 ※AERA 2020年1月20日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
現代の肖像
AERA 2020/06/10 18:41
博打で失った驚きの額… 稼ぎまくった海外アスリートの「ぶっ飛んだ散財」
杉山貴宏 杉山貴宏
博打で失った驚きの額… 稼ぎまくった海外アスリートの「ぶっ飛んだ散財」
全盛期は稼ぎに稼ぎまくったマイク・タイソン(写真/gettyimages)  先日、米経済誌フォーブスが2020年のアスリート年収ランキングにおいて、女子テニスの大坂なおみが女子スポーツ史上最高額となる3740万ドル(約40億円)だったことを発表した。彼女のように成功すれば若くして巨万の富を得ることも可能なアスリートたちの中には、これまでには想像を絶する買い物をして散財した選手もいた。とてもすべては紹介しきれないが、有名なエピソードをいくつか紹介してみよう。※以下、文中の日本円の金額は現在の為替レートで計算  まずは最近リング復帰の意向を示し、53歳とは思えぬ鋭い動きを披露した動画が話題となっているボクシングの元ヘビー級王者マイク・タイソンから。タイソンはかつて、2頭のベンガルトラを購入したことで有名だ。そのお値段は14万ドル(約1500万円)。さらに食費や世話係などの経費が、1頭につき毎月4000ドル(約43万円)かかっていたという。  またタイソンは、最初の妻に超豪華なバスタブをプレゼントしている。こちらはなんと200万ドル(約2億2000万円)というから驚きだ。もっともイベンダー・ホリフィールドとの2度の対戦ではいずれも3000万ドル(約32億円)のファイトマネーを得たこともある絶頂期のタイソンにとっては、そんな出費は痛くもかゆくもなかったであろうことは想像に難くない。  風変わりなペットといえば、かつてNBAのウィザーズなどで活躍したギルバート・アリーナスはサメを飼っていた。こちらの維持費は毎月6500ドル(約70万円)だったとか。ちなみにアリーナスには3人の子供がいるが、母親をサポートするベビーシッターを雇ったことは一度もなかったという。  風変わりな買い物エピソードで有名なのは、NBAのマーベリックスなどでプレーしたマーキス・ダニエルズの逸話。彼はさまざまな色のダイヤモンドや金の鎖などをふんだんに用いて、自分の頭部を模したペンダントを発注した。この逸品(珍品?)の値段は公表されていないが、用いられた14金の総量は1.3キロに達したとのことで、大量の宝石も込みで10万ドル(約1100万円)は下らないと言われている。  こうしたひと味違う買い物に比べると、高価なクラシックカーの収集は定番と言えるかもしれない。MLBのアスレチックスやヤンキースで活躍し、「ミスターオクトーバー」と呼ばれた殿堂入り打者レジー・ジャクソンもクラシックカーが何よりも大好きで、一時はコレクションが100台を超えていたという。ところが1988年にガレージで火災が発生。怪我人こそ出なかったものの30台近くが被害にあい、その総額は320万ドル(約3億5000万円)にも上ったと報じられた。  資産家のステータスともいえる自家用ジェット機を購入するアスリートも多い。NBAのブルズなどで活躍した“バスケットボールの神様”マイケル・ジョーダンが2015年に購入したプライベートジェットは3000万ドル(約32億円)と超高額。加えて何十億というお金を、その飛行機のカスタマイズのために費やしたとのこと。2018年時点で、世界全体の中でも1477番目のお金持ちとなったジョーダンは、買い物というカテゴリーでもアスリート界のトップをひた走っている。  逆に、独りで飛行機に乗りたい気分だったというだけで、公共の航空便チケットを買い占めたのは、NFLのタイタンズなどでプレーした元QBのヴィンス・ヤングだ。  テキサス州ヒューストンからテネシー州ナッシュビルへ移動する際に、ヤングは乗り込んだ飛行機の130席のうち120席を一人で買い占めた。格安のサウスウエスト航空だったとはいえ、チケット代の総額は2万4000ドル(約260万円)以上にはなったとか。実際にかかった金額よりも、それを思いついて実行してしまうことに驚くエピソードだろう。  ところで、大金を持つということは幸せになることを必ずしも意味しない。稼いで“リッチ”になってしまったがゆえに闇に飲まれて堕ちていったアスリートたちも残念ながら存在する。メジャー大会2勝を誇るプロゴルファーのジョン・デーリーもそうした一人だ。屈指の飛ばし屋であり、型破りなキャラクターも人気だったデーリーだが、プライベートではアルコール依存症に苦しんだことでも知られる。そんな彼にはギャンブル狂の一面もあった。  自伝によると、ある大会に優勝して75万ドル(約8000万円)を獲得したデーリーはラスベガスのカジノに直行。5時間のスロット三昧で165万ドル(約1億8000万円)をすった。ギャンブルで彼が生涯に失った金額は5000万ドル(約54億円)から6000万ドル(約65億円)に達するというから笑い話では済まない。  最近でもサッカーの元ブラジル代表のロナウジーニョが偽造パスポート使用の疑いでパラグアイで逮捕されたとき、銀行口座にはわずか5ポンド(約670円)しか残っていなかったと報じられたように、身を持ち崩してしまった元スターも多い。  個人的には、アスリートは絶対に品行方正でなければならないとは必ずしも思わない。彼らが稼いだお金をどう使うかも彼らの自由だろう。ただし彼らに夢を見たファンを落胆させるような末路は見せてほしくないというのが本音だ。文字どおり体を張って得た報酬がアスリートたちを幸せにすることを願ってやまない。(文・杉山貴宏)
dot. 2020/06/10 17:00
音楽での挫折経験が患者の心を理解する糧に 星野概念<現代の肖像>
音楽での挫折経験が患者の心を理解する糧に 星野概念<現代の肖像>
診察では「患者-医師」の関係ではなく、「人と人」の関係になれたらいいと考えている(撮影/植田真紗美) コーラスがやりたくて結成したバンド「星野概念実験室」としてライブに参加。いまは昔のように売れることは考えず、「ただ面白いから一緒にやろう、という感じ」(星野)(撮影/植田真紗美) 「BRUTUS」や「エル・グルメ」などに連載を持ち、最近ではいとうせいこうさんと対談した『自由というサプリ』を出版。星野概念さんは、精神科医でありながら、音楽に執筆にとマルチな才能を見せる。もともとは音楽で食べていきたかったが、その音楽で挫折。けれどもその挫折を経験すると、患者の気持ちがずっと理解できるようになった。患者の伴走者でありたいと、技を磨く。 *  *  *  作家でクリエイターのいとうせいこう(59)は、精神科医・星野概念(42)に診察をお願いしようと思った瞬間をいまもはっきりと覚えている。  6年前のこと、自身のバンド「□□□」のサポートギタリストとして星野が参加していた。iPhoneから流れる時報と同じテンポで全員が演奏を始めるという曲のリハーサル中、いとうは「117」番に電話したはずが、誤って「119」を押してしまった。“あっ”と焦っていたら、星野が調弦をしつつ、つぶやくように言った。 「そういうことには理由があるもんですよね~」  星野は、無意識的に救急車を呼ぼうとしていた可能性を口にしたのだが、いとうは、仕事がパンパンで危機的な状況にある自分の心の内を見透かされているように感じた。しかも自分に言っている風でもなく、それを聞いたメンバーは和んでいる。その絶妙な対応に驚いた。 「星野君の音楽のプレイを見ていてわかるんだけど、彼はすごく敏感。だから、患者が貧乏ゆすりしてるとか、今日は呼吸が浅いなとか、その日の変化をすごく感じ取れるんだろうな。それって音楽的なコミュニケーションだと思うんですよね」  バンドメンバーのわずかな動きから、どう演奏しようとしているのかをよく観察しているので、感じる力が養われたのだろうと星野は言う。確かに彼が複数の人と話しているのを聞いていると、相手が言ってほしい言葉をするっと忍び込ませる。だから、彼と一緒にいると、“わかってくれているな”という安心感がある。いとうが言う。 「彼って、“ふかふか”な感じがするんですよ。寝心地のいい枕とか布団みたいな感じの」  ふかふかの秘密を探ってみた。  “いいじゃん別に”が小学生の頃の星野の口癖だった。皆が言うほど批判すべきことが多いと思えないときに口にした言葉だ。象徴的なエピソードがある。林間学校の肝試しのとき、星野は誰かとペアを組むことになったが、誰でもいいやと思っていたら、あぶれていた女子と組むことになる。彼女は学校で「臭い」などといじめられていた。「バリア」のポーズをしてくる人もいたが……。 「実際には臭くないし、別にいいじゃんと。規則だし先生に叱られるから手を繋ごうと言って一緒に歩きました。“いじめはいけないから”という気持ちではなかった。別れ際『ありがとう』って言われて。か弱く無表情な声だったけど、人に対して簡単にバリアを張らないことで成立する対話があると実感できた、貴重な体験になっています」  北里大学医学部へ進んでからも、人への接し方は変わらなかった。友人の新美裕太(43)が語る。 「みんなが嫌っている人に対しても否定から入らず、必ず相手のいいところを見つけていましたね。善人ヅラしているわけではないんです。だから嫌われている人からも好かれてました」  そもそも自分と異なる行動原理で動く存在に惹かれるタイプだ、と星野は自己分析する。幼い頃から野生動物が好きで、図鑑やテレビ番組を好んで見ていた。地球のどこかで、この瞬間も生きている。それを想像するだけで愉しかった。動物だけでなく人体への興味があったので、医師を目指したわけだが、専門を精神科に決めるときも、自分と違う行動原理をもつ発達障がいの子どもを知ったことが動機となった。 「社会でうまく生きるのが難しい人たちのことが漠然と気になっていたんです。何とかしてあげたいなんて偉そうな気持ちはなかったんだけど」  行動原理が異なる対象に関心を持つのは、自身が個性的な歩みをする傾向が強いからかもしれない。彼は27歳から7年間も、医師活動を最小限にとどめ、音楽活動中心の生活をしていたのである。 「ザ・ストライカーズ」。北里大学の学生を中心に結成したロックバンドである。ライブハウス活動を中心に、大学6年生のときファーストアルバムを発表した。定期試験当日の朝までレコーディングをしたときもあった。売れると信じて疑わず、担当教授に、「自分は音楽で売れますから医局は途中でやめますが、いいですか?」と言い放っていた。ワンマンライブで500人を熱狂させたこともあり、可能性を追い求めていたのだろう。  バンドスタッフの伊藤久恵(40)によれば、当時は今のように社交的ではなかったという。ライブハウスからMCをやってくれと言われても、打ち上げに出てほしいと頼まれても耳を貸さない。 「そんなことより、いい音楽さえやっていればいいじゃんという自負があったのかもしれません。我慢強く努力家で、頑固でしたね」  そんな態度が祟ったのか、ある時期から集客力が落ちていく。マーケティングの本を読んで売れる方法を勉強したり、MCを解禁したりするも今更感が否めず反応は鈍い。打開の糸口を掴もうと、どの人に接近すると得策かなどと、常に売れることを念頭に計算しながら人と会うのは、緊張したし、面白いと感じることは一度もなかった。 「あの頃は人気が出て初めて人としての価値が認められるとか、他者評価の中で生きていた。その結果、自分が何者であるかを見失っていました」  そんな自分に、図らずも気づかされた出来事があった。ウルフルズのトータス松本(53)と会ったときである。ファンだし、自分はこんな音楽をやっているのだということを伝えたいのに、何を言えばいいのかわからない。緊張しているのではなかった。アイデンティティをなくし、話すことがない自分がそこにいたのである。 (文/西所正道)                                                                 ※記事の続きは「AERA 2020年6月15日」でご覧いただけます。
AERA 2020/06/08 16:00
愛子天皇「あり得る」「不自然なことではない」 最後の将軍の孫・喜久子さまが語ったこと
矢部万紀子 矢部万紀子
愛子天皇「あり得る」「不自然なことではない」 最後の将軍の孫・喜久子さまが語ったこと
1988年、東京・日本橋で日本の美「かざりの世界」展を鑑賞する高松宮妃喜久子さま。 (c)朝日新聞社 今年3月31日、賢所参拝のため皇居に入る愛子さま。学習院女子高等科を卒業、4月から学習院大学文学部に進学された (c)朝日新聞社  皇位継承問題について、政府は「立皇嗣の礼」後、本格的に検討する方針だ。高松宮妃喜久子さまは、愛子さまが誕生した18年前、女性天皇の可能性について語っていた。AERA 2020年6月8日号から。 *  *  *  緊急事態宣言が5月25日に解除された。延期された秋篠宮さま(54)の「立皇嗣(りっこうし)の礼」はいつになるのだろう。「新たな開催は早くても今秋以降」という報道も目にした。  政府は「立皇嗣の礼」の後、皇位継承策について本格的に検討する方針だ。菅義偉官房長官は4月30日の記者会見で「立皇嗣の礼の実施時期を見極め、対応していきたい」と説明した。やはり秋以降になるのだろうか。  ここから、高松宮妃喜久子さまの話をする。「え、何で?」と思う方も多いだろう。昭和天皇の弟である高松宮さまの妻で、2004年に92歳で亡くなった喜久子さまの話をなぜ、と。  結論を言うなら喜久子さまは、最晩年に「女性天皇」を語っていたのだ。一般論としてではなく、愛子さまを念頭に「あり得ること」と語っていた。女性・女系天皇に冷たい安倍政権だが、喜久子さまという「中の人」が女性天皇を「あり得る」と言っていた。そのことを知っておいてほしいのだ。  喜久子さまは1911(明治44)年、東京生まれ。父は徳川慶喜の七男・徳川慶久公爵、母は有栖川宮實枝子女王。30(昭和5)年、大正天皇の三男・高松宮宣仁親王と結婚。その翌々月から夫と欧米26カ国を回る。著書に『菊と葵のものがたり』。  以上が簡単なプロフィル。「最後の将軍」の孫だなんて、歴史上の人物のようだ。実際、私が喜久子さまを知ったのは平成で、まだご健在だったが、すでに「史料の登場人物」だった。  週刊誌の記者として皇室関係の取材を始めたのは93年、陛下(60)と皇后雅子さま(56)の婚約から。皇室関連の本を読む中、最初に喜久子さまの名を見たのは、元侍従長の書いた『入江相政日記』。「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后様が勢津君様と喜久君様を招んでお訴へになつた由」(昭和33年10月11日)とあった。  東宮様とは上皇さま(86)、皇后様は香淳皇后、勢津君様は秩父宮妃勢津子さま、喜久君様が喜久子さま。美智子さま(85)という民間出身女性との間で、長男の縁談が進んでいる。母親がそのことを愚痴る相手の一人が喜久子さま、という記述だ。  元日本テレビプロデューサー・渡邉みどりさんの著書『美智子皇后の「いのちの旅」』にも喜久子さまは出てきた。渡邉さんが総合演出をした「皇太子ご夫妻銀婚式に捧ぐ」に登場したという記述だ。放送は84年、上皇さまと美智子さまの銀婚式の特別番組で、美智子さまが結婚当初よりやつれたことについて喜久子さまは、「いちいち気をおつかいになるから、お太りになれないんですよ」と述べたと書かれていた。  失礼を承知で正直に書くが、この2冊で私は喜久子さまを「怖いおばあさま」と認定した。拍車をかけたのが02年4月、陛下(当時は皇太子さま)と雅子さまの記者会見だった。  前年12月に愛子さまが生まれたことを受けての会見だった。最初の質問は「懐妊、出産に際しての率直な気持ち」で、2問目はこうだった。<高松宮妃喜久子さまが月刊誌の寄稿で、(略)「好もしい出産の順序として、俗に『一姫二太郎』とも申します」と書かれましたが、手記を読まれて両殿下はどのようなご感想をお持ちですか> 「婦人公論」に掲載された喜久子さまの手記「<敬宮愛子さまご誕生に想う>めでたさを何にたとへむ」にこと寄せて、生まれたのが「男子」でなかったことを聞いていた。記者の戦略としてはわかるが、酷な質問だ。雅子さまの「適応障害」が発表されたのは、この2年後。世継ぎ問題が大きく影響したに違いない、と今なら言える。  会見当時、雅子さまがどこまで追い詰められていたかはわからない。だが、国民の中には「男の子でなかった」ことへの複雑な思いが確かにあった。だから私は喜久子さまの「一姫二太郎」を会見で知り、ますます「怖いおばあさま」と認定した。が、恥をしのんで告白するが、手記は読んでいなかった。  令和になり、活躍する雅子さまを書くことが増え、資料をあれこれ読んだ。中に喜久子さまの手記もあった。読んですぐ、「怖いおばあさま」でないことがわかった。「一姫二太郎」と書いた後、「もっとも、『二太郎』への期待が雅子妃殿下に過度の心理的負担をお掛けするようなことがあってはなりません」としていた。雅子さまの置かれた状況の過酷さをわかっていたと思わせる表現だった。そこから続く文章は、そっくり引用する。 「それにつけても、法律関係の責任者の間で慎重に検討して戴かなくてはならないのは、皇室典範の最初の條項を今後どうするかでしょう。女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます」  根拠として、日本に「幾人もの女帝がいらっしゃいました」と推古天皇らの名をあげ、外国には「女王のもとで国が富み栄えた例もたくさんございます」としていた。「最初の條項」が定めた「男系男子による皇位継承」でいいのかと問題提起し、平成の次の次の代で女性天皇はあり得るとはっきり書いていた。  喜久子さまを誤解していたと反省し、関連する本を読んだ。喜久子さまは観察眼にたけ、率直で明るい女性だとわかった。  著書『菊と葵のものがたり』の中に、『高松宮日記』について語る対談が2編入っている。夫の死後に見つけた日記を出版したものだが、喜久子さまは「宮内庁の反対を押し切っての出版だった」と語っている。対談相手の一人、阿川弘之さんが「妃殿下が、宮内庁にはこれの出版を差し止める権限があるのですかとお聞きになった。それはありませんという宮内庁の返事で、それなら私出すわよとおっしゃって」と語ると、喜久子さまは決断した理由をこう語った。 「あの戦争で若い命を捧げた人々、傷ついた人々、口では言い表せないほどの辛酸を嘗(な)めた人々が大勢いる、ということです。(略)それが書いてある。そういうことをきちんと知って戴きたい。そのためにもぜひ出版したかった」。戦争体験者としての強い思いはもちろん、広報マインド、プロデューサーマインドも伝わってくる本だった。  喜久子さまには、子どもがいない。同書の最後に「スペイン宮廷の思い出」というエッセイがあり、アルフォンソ13世から「早くお子様をお作りになるように」と言われ、恥ずかしかったと書かれている。当時は新婚だったが、「私達は陛下の御期待にそわぬまま今日に至っている」と続けていた。  喜久子さまの妹・榊原喜佐子(さかきばらきさこ)さんの著書『大宮様と妃殿下のお手紙』に、子どもが話題になると喜久子さまが不機嫌になることがあったと書かれていた。ほかにも、子どものいない姉夫妻を慮(おもんぱか)る文章はいくつもあった。  喜久子さまの雅子さまへの気遣い、女性天皇を肯定する気持ちには、そういう背景があったのかもしれない。そんなふうに思ったりする昨今だ。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2020年6月8日号
皇室
AERA 2020/06/07 10:00
【現代の肖像】俳優・門脇麦「映画という場所を求めていた」<AERA連載>
中村千晶 中村千晶
【現代の肖像】俳優・門脇麦「映画という場所を求めていた」<AERA連載>
会うたびに「こんな顔、してたっけ」とハッとさせられる。「自分でも最近、大人の顔になってきたなあと思います」(撮影/品田裕美) 「麒麟がくる」の撮影現場で。門脇演じる駒は戦災孤児という設定だ。「駒は戦国という切迫感のある時代だからこそ、明るく生きていこうとする女の子。明るさのなかに切なさが表現できれば」(門脇)(撮影/品田裕美) 2月公演の舞台「ねじまき鳥クロニクル」で共演する成河と渡辺大知(写真手前)とダンスレッスン。「麦は“同志”ですね。勉強家だし、彼女から映画をたくさん教わりました」(成河)(撮影/品田裕美) 読書も好きだが実はアウトドア派。山や釣りによく出かける。でも写真は撮らない。「目で見るほうがいい。スマホの中身はほぼ乗換案内と台本の写メです」(門脇)(撮影/品田裕美) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  映画「愛の渦」で脚光を浴びた門脇麦は、1月19日からスタートするNHK大河ドラマ「麒麟がくる」のヒロインを演じる。小さいころからバレエを習い、稽古を重ねたが、やればやるほど自分の才能の限界が見えた。挫折を経てたどり着いたのが俳優だった。必要ならヌードも辞さず、自分を追い込み、役を作り上げていく。今、監督たちはこぞって門脇を起用したがる。  12月のNHKスタジオ。門脇麦(かどわき・むぎ)(27)は大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の収録現場にいた。15歳という設定ゆえか、前髪をちょんまげにしたおさげ姿。くっきりとした眉に、蜜柑(みかん)色の着物が愛らしい。  セットの準備が進むあいだ、廊下のソファに「普通に」座っている。大河のヒロインなのに、まるで俳優然としたところがない。自然に、淡々と、一人でいる。そんな様子をスタッフや周囲の人々が、気持ちよく見守っているのがわかる。  が、本番。「よーい、スタート!」の声がかかると、門脇はすん、と役に入っていく。演技の前にとった間(ま)と重要なセリフは、絞り出されるような切なさを内包し、あきらかに場をさらった。  門脇は2014年の映画「愛の渦」で一躍、表舞台に躍り出た。劇団「ポツドール」主宰の三浦大輔(44)が自らの舞台を映像化した作品。乱交パーティーに集まった男女の会話劇で、地味だが実は性欲が強い女子大生という難役だ。全編123分中着衣シーンが18分30秒という衝撃もさることながら、内向的なヒロインが自らを解放していくさまを繊細な芝居と透明感をもって演じ、人々を驚嘆させた。  15年にはNHK連続テレビ小説「まれ」でヒロインの友人役を演じ、強い印象を残す。16年には映画「二重生活」で単独初主演を果たし、「止められるか、俺たちを」「チワワちゃん」「さよならくちびる」など話題作に続々と主演。そして20年、大河ドラマ「麒麟がくる」のヒロインに抜擢(ばってき)された。  門脇演じる駒は、主人公・明智光秀とひょんなことから関わる戦災孤児だ。チーフ・プロデューサーの落合将(51)は最初から門脇を想定していたと話す。17年にドラマ「悦ちゃん」で仕事をして以来、動向が気になって仕方がなかった。 「彼女は役柄によって、全然違う見え方をする。なぜか門脇麦が出ていると、普段はあまり観ない日本映画を観に行っちゃうんです」 ■バレエ漬けの小学生時代、努力をしても差が埋まらず  今回取材したクリエーターたちが異口同音に言う言葉だ。「気になって仕方がない」「また一緒に仕事したくなる」、そして「いつも、顔が違う」。  たしかに門脇には「キメ顔」がない。初めてスクリーンで見たときからずっとそう感じていた。黒目がちの瞳も、予想外に透き通った可愛らしい声も、個性的で強い印象を残すのに、作品によって角度によって顔が違う。実際、左右で顔の骨格が違うのだ、と門脇は笑う。 「自分がこう映りたい、とかがないんです。あんまり鏡も見ない。もちろんコンプレックスはたくさんありますよ。もっと可愛くなんないかなあって。でもバレエをやっていたとき、足の甲が出ていなかったので、出すためにめちゃくちゃ練習したら『足の甲がキレイだね』と褒められるようになった。その経験からも、それはそれ、と思って努力すれば、何かしらカバーされるのは実証済みなんです」  受け答えは快活で的確。一介の取材記者にも胸襟を開いてくれるような錯覚に陥る。でも人に触れさせない“絶対領域”の強度も人一倍堅そうだ。 「止められるか、俺たちを」の監督・白石和彌(45)は「二重生活」の監督・岸善幸と一晩中「門脇麦のどこがいいのか」を語り合った、と笑う。そんな俳優は、そういるものではない。なぜ、こんなにも彼女に惹(ひ)きつけられるのか。  門脇は1992年、ニューヨークで生まれた。株関係の仕事をしていた父(56)の転勤のためだ。アウトドア好きの両親は「まっすぐに育つように」との意味を込めて「麦」と名付けた。4年後に弟が生まれるまで、ニューヨークで暮らした。「自分だけ違う色」ということを子どもながらに感じていたという。そしていつも何かに我慢していた。  強烈に残っている記憶がある。4歳のときだ。弟の出産で母が入院し、門脇は友人の家に預けられた。初めて親と離れて、不安でいっぱいだった。 「生まれたよと父が迎えに来てくれて、病室に行ったんです。母は『麦、さみしくさせてごめんね。おいで』と言ってくれた。でも私はヘンに強がっちゃって『行かない』って。入り口で微動だにしないので、父が仕方なく連れて帰ろうとエレベーターに乗せた。扉が閉まったとたんに、号泣したらしいです。そういう感じは、いまも変わっていない気がします」  帰国後に始めたバレエも門脇の素地を作った。我慢強く、負けず嫌い。努力でできなかったことができるようになる快感を知るいっぽうで「生まれ持った素質が人よりマイナスだ」ということには薄々気づいていた。 「私、猿手で腕が外側に曲がっているんです。膝もまっすぐではない。きれいに見せるために人よりも余計な力を入れる必要があった」  それでも小学生時代、バレエ漬けの日々は充実していた。先生から注意されるたび、それをノートに書き出し、方法を探った。同じことを注意されるのは非効率的。文章にすることで、どう改善すればいいかがわかりやすくなる。いまでも「効率重視」で「思考型」だと自分を分析する。  だが中学に上がると、どんなに努力をしても、残酷なくらいに差は歴然としてくる。  14歳のとき、バレエの道を諦めた。熱中するものを失い、混迷の青春時代が始まる。学校でもどこか満たされず、人と深い関係になることができない。恋愛もまったくしてこなかった。  両親ともぶつかることが多くなった。特に母とは衝突が激しかった。門脇いわく母は「少女漫画に出てくるような人」。ロマンチストで夢見がちなところがあり、門脇とは正反対。幼少期から母に「こうしたほうがいいんじゃない」など辛辣なアドバイスをすることもあったという。ただ家の中が険悪だったかといえばそうではない。家族旅行にもよく行き、両親の愛情を感じなかったことは一度もない。だが、とにかく門脇は、何かを探し続けていた。そして見つけたのが俳優、だった。 「一番の理由はみんなに認められたかったから。バレエ仲間が海外に行ったり、コンクールで賞を獲ったり何者かになっていく。でも自分は挫折した。そんななかで早く『麦ちゃんもがんばってるね』と言われる仕事がしたかったです。映画の仕事なら名前も顔も出る。張り合える気がして」  大学受験をやめ、自分に合っていそうな事務所をリサーチし、履歴書を送った。たどり着いたのが、現在のユマニテだ。代表の畠中鈴子(72)は元ジャーナリストという異色の経歴を持ち、樋口可南子や満島ひかりなどを育てた人物だ。 「書類が届いてすぐに『この子を呼んで』と言いました。小さな写真ではありましたが、魂、エッセンスのようなものを感じたんです」 ■カメラ映えする表情に衝撃を受けた三浦大輔  しかし演技は素人。畠中は自らワークショップで門脇に教えた。俳優は自分のなかに起こる形にならない感情を、形にして外に出してあげる作業だと門脇は言う。そこには「渡し道」のようなものがあり、そのスイッチを入れる、ギアチェンジのような作業が必要だ。しかし何かがスイッチを抑えていた。考えた末にいきついたのが、4歳のとき母の病室の前で我慢した、あの記憶だった。 「自分の感情に蓋をする筋肉を鍛え過ぎていたんです。そこをはずさないとダメだなと」  3回目のワークショップで変化が起こった。泣くシーンではなかったのに、いきなりワッと泣き出して止まらなくなった。 「社長の声や目に、ものすごく安心したんです。『出して、いいよ』と言われている気がして、それまでため込んだものがブワッとあふれ出した」  感情のストッパーがはずれた瞬間、渡し道のギアチェンジのコツが、つかめた気がした。感性や感情と思考の両輪が少しずつまわりはじめた。  映画「愛の渦」の話がきたのはそんなときだ。さまざまな事情を背負った人間たちが性を解放できる場に集まって自分の話をする。舞台版を見ていた畠中は最初は躊躇(ちゅうちょ)した。が、映画としてうまく昇華されれば、エロスだけではなく、いとおしい人間賛歌になるかもしれない。そう考え、何も言わずに門脇に台本を読ませた。返ってきた答えは「おもしろいです。人間が描かれているから」。20歳にしてそこまで読み込める門脇に「これはいける」と感じ、オーディションを受けさせた。 「私は思考型であると同時に、すごく欠落しているところがある。正直、あまり深く考えていなかったと思います。冷静に考えたらやっぱり怖かったんですけど、あのときは『うぉおおお!』って突っ込んでいったところが多分にある」(門脇)  実は性的なことは苦手で、映画でもそうした描写を見るのが得意ではなかった。両親も当然のごとく反対した。それでも門脇は挑戦を選んだ。  監督の三浦は、オーディションで「彼女しかいない」とピンときたという。だが演技はまだ殻に閉じこもっている。セリフ出しも役の掘り下げも足りなかった。 「1週間あげるから、役について考えてきてください」。その1週間でガラッと変わった。セリフに感情がのっていた。 「驚いて『何をやったんですか』って聞いたんです。そうしたら『自分のなかの性欲というものに逃げずに向き合ってみました』と。信頼できる、任せられる、と感じました」  さらにカメラテストで衝撃が走った。 「目で見る顔とカメラを通して見る表情がまったく違った。わかりやすく言うと、カメラ映えするんです。あの衝撃を超える女優には、いまだに出会っていない。この子は売れるな、と思った。僕じゃなくてもこりゃ誰かが気づくだろうな、って」 「愛の渦」の映画化を三浦に持ちかけた東映ビデオのシニアプロデューサー岡田真(57)は言う。 「三浦さんは役者の定型な芝居をはぎ取っていく人。役者が得意な型やクセを嫌い、ナチュラルさを求める。役者はみな、相当に疲弊するんです」  しかし、まだ「型」を持っていなかった門脇は監督に言われるままに芝居をするしかなかった。それが功を奏したのかもしれない。撮影期間も短くハードな現場だったが、日に日に成長する門脇に、三浦は何も言わなくなった。「彼女の表情を追っていれば、この映画はなんとかなる」。実際、そのとおりになった。とはいえ、俳優として色がつく危険性もあったのではないか。畠中は言う。 「作品のクオリティーの高さと女優の姿勢と品。それがあれば絶対にうまくいく。私が手掛けたなかで品が悪くなったり、ヘンな色がついた女優は一人もいません。でも現場で女優たちは間違いなく心の中で血を流している。その覚悟から生まれた表現だから、尊いんです」  得たものは大きかったと、門脇も言う。 「私が求めている人とのつながりは、みんなでひとつの作品に向かっていて、口にはしなくても絶対的に燃えているものを共有することなんだな、とわかったんです。映画という場所を、私は求めていたんだ、って」  何かを探し、もがき続けた青春時代を取り戻すように、門脇は走り出した。  数々のオファーに応え、映画やドラマ、舞台へと活躍を続けた。だが同時に、どこかに違和感がこびりついてもいた。 「『愛の渦』で評価していただいたのは嬉しいけれど、チャレンジングなことをした私に対しての評価でもあると感じていた。演技力とか実力ではなく物事が進んでしまっている、と。どの現場でも『私なんかでごめんなさい』と思っていました」 ■自分を追い込むのでなく、楽しみながらの役作りへ  自信が持てず、演じることが楽しめなくなった。多忙と消耗で負のスパイラルがマックスになったとき、病に襲われた。急性喉頭蓋炎(こうとうがいえん)。のどの腫れが呼吸器を塞ぎ、呼吸がしづらくなる病気だ。 「苦しかったですね。死ぬかもしれないと思った」  手術し、1週間入院しながら考えた。生きてるだけでありがたい。そしてなぜ、自分がこの仕事をしたかったのかに立ち返ることができたという。  加えて転機となったのが16年のミュージカル「わたしは真悟」だ。フランス人演出家フィリップ・ドゥクフレの「楽しみながら生み出す」クリエーション方法に触れ、見方が変わった。 「いままで役柄的にも、自分を追い込んでネガティブな部分から作っていくものが多かったんです。それをポジティブにしてみたらどうだろう、と。自分に楽しむことを許してもいいかな、自分自身を追い詰めて出てくるものはもういいやって」 「わたしは真悟」で共演した成河(ソンハ)(38)は言う。 「フィリップ・ドゥクフレは『自分で考えて表現して』とすべて役者に投げてくる人。現場は大混乱だったけど、そのなかで麦はずっと冷静だった」  じっと周りを観察し、対応をしていく様子が印象的だった。門脇のパフォーマンスで空気が動き、演出家がハッとするシーンも多かった。 「役者は自分をさらけ出す必要がある。でもただ出せばいいというものじゃない。麦は自分がどういうふうにきちっと恥をさらすと人が喜ぶかを本能的に知っている感じがある。それが役者としての思い切りのよさにつながっていると思う」  野田秀樹の舞台「贋作(がんさく) 桜の森の満開の下」で共演した古田新太(54)は、門脇とよく飲みに行ったと話す。 「麦は可愛いんだけど、ちょっと異質なものがある。硬質さというか、相手を不安がらせるような。本人は全然そうじゃないんだけどね」  この人は何を考えているんだろう? 本当は楽しんでいないんじゃないか? 冷めているような、どこか一歩引いているような、門脇のまとう空気感が芝居で相手の不安を誘発する。その「揺れ」が俳優としての資質でもあると古田は言う。 「『え? 味方だと思ってたのに、敵だったの?』みたいな多面性を表現できる。さらにそれがあからさまじゃないのが、麦の“品”じゃないかな。シュッと硬質なのにチャーミング。彼女の見た目や声のギャップにエロティシズムを感じる人は多いと思う。そんなふうに見えないのに、って」 ■キメ顔がないからこそ、映画に色彩が与えられる  門脇は演じるうえで常に「これで大丈夫かな」と確かめることを怠らない。同時に大切にしているのは「作品の一部になること」だと言い切る。 「体に役が馴染(なじ)んできて、現場とのいい関係性が作れて、ああ、いますごくいい空気感のなかで、やらせてもらっているな、というときがあるんです。もちろん役への愛情は大事ですけど、自分がこういう役をやりたい、とかよりもその空気を感じられることが一番の喜びです」  前出の白石は門脇を「共闘関係が築ける女優」と評する。 「麦は女優として“映画の一パーツになる”ということを理解している。作り手に寄り添ってくれる感じがあって心強いんですよね。そういう俳優は決して多くない」  他の監督の作品に出演する門脇を観ては「ちくしょう! こんな顔を見せたのか!」と悔しくなることもしばしばだ。 「キメ顔がないというのは、いろんな顔を見せられるということ。それが映画に色彩を与えてくれるんです」  ドキュメンタリー映画「“樹木希林”を生きる」で樹木は役者について、こう言っていた。 「役者って本当は、顔がわかりにくいほうがいいのね。絵に描きにくいのが」  そう、それなのだ。大河ではどんな顔を見せるのだろう。似顔絵を描かれる役者になっていくのだろうか。新たな章が、もうすぐ始まる。 (文中敬称略)     ■かどわき・むぎ 1992年 アメリカ合衆国ニューヨーク州で生まれる。  97年 5歳で日本に帰国。公民館のバレエ教室に通いだし、のちに岸辺バレエスタジオで岸辺光代に師事。バレエ漬けの日々と同時に読書にもハマり、小学校時代は図書館にある本をほぼ読破した。特に偉人の伝記が好きで、印象に残った言葉をノートに書き出していた。中学受験時はイアン・ソープ著『夢はかなう』がバイブル。 2006年 14歳でバレエの道を断念。何かを表現したいとギターを買って作詞作曲をしたこともある。高校時代に宮崎あおいや蒼井優の出演する映画を見て「映画に出てみたい」と俳優を決意し、高校卒業を前に芸能事務所に履歴書を送る。  11年 テレビドラマ「美咲ナンバーワン!!」(NTV)の生徒役でデビュー。その後、現在の事務所ユマニテに所属。  14年 映画「愛の渦」に主演。同作や「闇金ウシジマくん Part2」「シャンティ デイズ 365日、幸せな呼吸」の演技で第6回TAMA映画賞最優秀新進女優賞、第88回キネマ旬報ベスト・テン「個人賞」新人女優賞、第36回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞。  15年 連続テレビ小説「まれ」(NHK)に出演。映画、舞台、ドラマ、CMへの出演が相次ぐなか、急性喉頭蓋炎で入院し、1週間で復帰。  16年 映画「二重生活」で単独初主演。ミュージカル「わたしは真悟」に高畑充希とダブル主演。  17年 映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟」主題歌「REBORN」を発表。  18年 日曜ドラマ「トドメの接吻(キス)」(NTV)に出演。エランドール新人賞を受賞。映画「止められるか、俺たちを」に主演。  19年 映画「チワワちゃん」「さよならくちびる」に主演。第61回ブルーリボン賞主演女優賞、第41回ヨコハマ映画祭主演女優賞、エルシネマアワード2019エルベストアクトレス賞を受賞。  20年 1月から大河ドラマ「麒麟がくる」(NHK)でヒロイン・駒を演じる。2月11日から東京芸術劇場プレイハウスで、舞台「ねじまき鳥クロニクル」に出演。 ■中村千晶 1970年、東京都生まれ。新聞社の契約記者を経てフリーランスに。雑誌やウェブを中心に映画記事や人物インタビューを手がける。本欄では増原裕子、深田晃司、キムラ緑子、奥山由之などを執筆。 ※AERA 2020年1月13日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/06/04 11:25
【医学部入試】バブルの終焉……コロナ禍の影響で来年は志願者減か
吉崎洋夫 吉崎洋夫
【医学部入試】バブルの終焉……コロナ禍の影響で来年は志願者減か
大きく減少に転じた志願者数 増加する女子校の医学部合格者数 (週刊朝日2020年6月5日号より)  医学部受験に異変が起きている。「バブル」と言われた医学部人気はついに終焉。不正入試のイメージが拭えず、今後は偏差値が下がる大学も出てくるとみられるという。 *  *  * 「難関だった医学部が、入りやすくなってきています」  こう話すのは河合塾教育情報部の岩瀬香織チーフだ。近年、医学部(医学科)受験は過熱していた。医師は社会的地位が高く、高収入も保証されることから、2008年のリーマンショック以降、成績上位層の間で医学部を目指す流れが強まり、志願者が急増。偏差値も多くの医学部で「東大よりも難関」と言われるほど上昇してきた。  しかし、状況は一変した。河合塾の調べによると今年の医学部の志願者数は国公立大の前期日程で前年比90%の約1万4700人と大きく減少。ここ20年で最も少ない数字になった。私立でも前年比96%の約8万3200人だった(5月12日時点判明分)。2年連続の減少だ。医学部受験関係者からは「医学部バブルは終わった」との声が出ている。志願者が大きく減った理由について岩瀬チーフはこう分析する。 「18歳人口の減少に加え、18年に女子差別などの入試不正が発覚したことによるイメージ低下が影響していると思われます。AIなどを学ぶ情報系学部・学科の人気が高まっており、現役の成績上位層で医学部を目指す受験生が減っている。他方で、医学部志望の浪人生合格につながり、志願者の総数が減ってきています」  倍率(志願者数/合格者数)も下がってきている。国公立大前期では18年に4.4倍、19年に4.3倍だったのが、今年3.9倍に。私大では18年に16.9倍だったのが、19年に13.7倍、今年は13.6倍と競争が大きく緩和されている。今後偏差値が下がる医学部も出てくると見られる。  来年の入試はどうなるか。受験関係者の間では、コロナ禍の影響で志願者が減るという見方が出ている。志の高い志願者がいる一方、危険な職場で働くことに躊躇(ちゅうちょ)する受験生や保護者も多いと見られるからだ。ある予備校の幹部はこう見る。 「いま医療現場はまさに戦場。今後も同じことが起こり得るわけで、飛び込んでいこうと思う受験生は多くないでしょう。最近の生徒は安全志向でリスクを嫌いますからね。ただ、本当に医師になりたい人には合格のチャンスが巡ってくる」 (本誌・吉崎洋夫) ※週刊朝日  2020年6月5日号より抜粋
受験新型コロナウイルス
週刊朝日 2020/06/02 09:00
【現代の肖像】プロレスラー、オカダ・カズチカ「どこへ行ってもカネの雨を降らせる」<AERA連載>
吉井妙子 吉井妙子
【現代の肖像】プロレスラー、オカダ・カズチカ「どこへ行ってもカネの雨を降らせる」<AERA連載>
プロレス界に“金の雨を降らせた男”は大の釣り好き。船舶免許も取得し、時間が許す限り湖面に浮かぶ(撮影/加藤夏子) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  191センチの長身から繰り出されるオカダ・カズチカの技は、とにかく迫力があった。お札が舞う派手なパフォーマンスも魅せる。チケットは、ほぼ完売。つい数年前まで、プロレスが不況にあえいでいたことが嘘のようだ。女子の人気も高い。2020年1月4日には東京ドームで、飯伏幸太と対戦する。どんな戦いになるのか、ファンが固唾をのむ。    冷たい雨が降りしきる10月中旬、東京の両国国技館は常夏のような熱気に覆われていた。会場をぎっしり埋めた観衆の吐き出す歓声が、場内の空気を激しくスピンさせている。眩い照明に浮かぶリング上の選手の一挙手一投足に呼応し、野太い声、黄色い歓声、子どもたちの甲高い声が激しく飛び交っていた。    プロレス人気が凄い、とは聞いていた。だが、これほどまでとは――。    1万人収容の会場は、目算で男性5割、女性4割、子ども1割。カップルやグループが多く、家族連れも目立つ。この試合は新日本プロレスが主催する年間約150試合の一つだが、IWGPヘビー級選手権など幾つかのタイトルマッチが組まれていたことから、大きな注目を集めていた。    第1試合から会場は盛り上がり、試合が進むにつれボルテージは増していく。その興奮がマックスに達したのは、メインイベントのIWGPへビー級王者オカダ・カズチカ(32)の名前がコールされた時だった。リングアナウンサーの声がかき消されるほどの「オカダコール」が沸き上がる。    191センチの長身に孔雀が羽を広げたような豪華なガウンを纏い、自分の顔がプリントされた大量の紙幣が宙を舞う中、オカダは金剛力士のような風情でリングに向かった。彼のニックネームである「レインメーカー(カネの雨を降らす男)」を地で行くような演出だった。    オカダに挑戦するのは、夏のG1クライマックスでオカダを下したSANADA(31)。身体を極限までに鍛え上げた100キロ超の2人の身体能力は高く、SANADAがオカダを両手で高く掲げマットに突き落としたと思えば、オカダがSANADAの頭までスタンディングジャンプし、空中飛び蹴りを食らわす。 10月、両国国技館で行われた対SANADA戦。負けて悔し涙を流したSANADAは後日、「オカダさんとの試合はワクワクする。試合の度に高度な技が見せられるようになったのは彼の懐が深いから」(撮影/加藤夏子) ■言い出したら聞かない、小5で1人五島列島へ転校    お互いに受け身をしっかり取りながらそれぞれの得意技を繰り出し、あっという間に2人の身体には汗が迸る。打撃を受けた身体のあちこちがミミズ腫れのようになった。それでも2人は闘うことをやめない。フラフラになりながらも、3カウントを取られる直前に肩を上げ、再び立ち上がるのだ。その度に観客が熱狂。    試合を見ながらかつてオカダが語っていたことを思い出した。 「相手に攻められ、疲れや痛みで朦朧となりながらも、お客さんの様子を捉える意識だけはクリアにしておきます。会場が何を求めているのか、どんな技を見たいと思っているのか、お客さんの反応を瞬間的に判断し期待に応えます。また、敢えて期待の逆を行き、観客の感情を煽るような手法を使うこともあります」  リング上の激しい肉弾戦中に、そんな冷静な判断が出来るのかとその時は理解できなかったが、オカダの試合を見ているうちに、おぼろげながら理解できた。オカダ対SANADAの試合には、激しく身体をぶつけ合いながらも、そこはかとなく感じる余白があった。その余白に観客がそれぞれの色を塗り、その色彩の変化を見ながらまた新たな技で闘うという、心と身体を高い次元で操るプロレスラーの真髄を見た気がしたのだ。  オカダはギブアップ寸前に追い詰められながらも、SANADAののど元に右腕を叩き込む得意技のレインメーカーで倒しカウントを取った。  この試合でIWGPヘビー級王座のベルトを守ったオカダは、棚橋弘至(43)の持つ最多通算防衛28を超え、29に記録更新。  プロレスが変わった。一昔前は遺恨や確執、流血というイメージがあり、女性や子どもには近寄りがたい場所だったが、今やプロレス界は筋骨隆々のイケメン選手が顔を揃え、競技性の高い総合エンターテインメントになった。「プ女子」と形容されるプロレス好き女子が急速に増え、家族連れも多くなった。新日本プロレスが主催する年間約150試合のチケットの95%は完売で、首都圏の興行はほとんどチケットが手に入らない状況という。  その立役者の一人がオカダだった。  1987年、愛知県安城市で会社員の父・竜弥(63)、看護師の母・富子(59)の次男として生まれた。5歳上の兄が1人。両親共に忙しかったせいか、手のかからない子どもだった。そんな素直な子が、小学校5年の夏、長崎県の五島列島に転校したいと言い出し、両親を慌てさせた。母が言う。 「五島列島には私の実家があり、毎年夏休みに帰省していたのですが、自然の遊びが豊かな五島列島で暮らしたいと。10歳の子どもを手放すのはつらかったけど、言い出したら聞かない」  中学は安城市に戻り、野球部や陸上部で活躍。陸上100メートルで11秒68を記録し陸上強豪高校から勧誘も受けた。だがこの頃、オカダ少年の心を捉えたのは、兄が借りてきたプロレスのDVD。特に、技が多彩でスピード感のあるメキシコプロレスにすっかり魅了され、プロレスラーになると決意。父は息子を何度も諭した。 「高校だけは行ってくれと。でも、小5で五島列島に一人で行ったように、一度決めたら折れない」  中学卒業と同時に神戸市のプロレス養成学校「闘龍門」に入門。あまりの厳しい練習に30人いた同期が1カ月で8人に減った。 「他の練習生は大卒か高卒で入門しているのである程度体は出来ている。でも僕はまだ少年体形。反吐が出るほどつらかったけど自分で決めた道なので、後戻りはできなかった」 ■22歳で米国へ武者修行、「レインメーカー」を考案  負けじ魂と天性の運動神経がオカダを一挙に飛躍させた。半年後に念願のメキシコに渡り、早くも16歳でプロデビュー。車で移動しながら1日3試合こなすこともあったという。 「メキシコではプロレスが国技みたいなものなので、結婚式やお祭りには必ず呼ばれる。メキシコにいた3年半はプロレス漬けの毎日でしたけど、僕が今あまり怪我をしないのは、メキシコ時代に徹底して受け身の練習をしたことが大きいですね」  19歳でメキシコのプロレスの聖地と言われる「アレナ・メヒコ」での試合に出場。晴れ舞台を踏み、これ以上メキシコでやることはないと考え帰国。新日本プロレスの門をたたいた。メキシコでの実績を消し研修生からスタートし、22歳で米国のプロレス団体「TNA」へ武者修行に出る。  米国では、魅せるプロレスをすることを徹底して求められた。最初に言われたのが「お前はどんなキャラクターで売るのか」「お前はリングでお客に何を伝えたいのか」だった。 「初めは意味が分からなかった。でも、リング上よりテレビカメラの前で試合をさせられることが多く、セルフプロデュースの大事さを知った」 元IWGPジュニアタッグ王者のSHOとランチ。釣り仲間のSHOは「オカダさんは本当に面倒見がいい。食事は必ずおごってくれるし、釣りに行く時は車で迎えに来て、餌までつけてくれるんです」(撮影/加藤夏子)  米国時代に考えたのが、オカダの代名詞にもなっている「レインメーカー」である。元は映画監督フランシス・フォード・コッポラの映画タイトルで、金を雨にたとえ、雨が降るように大金を稼ぐ弁護士を意味していた。オカダはこの言葉を知り、新日本プロレスでデビューするときは、低迷する新日本あるいはプロレス界を自分の力で立て直そうと決意、「レインメーカー」をニックネームにしようと考えたのだ。  また、相手ののど元に腕をぶち込む必殺技もレインメーカーと命名。オカダは今や“カネの雨を降らす男”そのものを体現していると言っていい。  2012年1月、24歳で新日本に凱旋帰国。2月、新日本の絶対的エースだった棚橋弘至からIWGPへビー級のベルトを奪う。以降、オカダの成長と新日本のV字回復の軌道は同じ轍を辿る。  祖母の代から一家でプロレスファンと言う科学雑誌編集者の寺村由佳理(44)は、オカダはプロレス界の革命児と頬を緩める。 「あれほど上背があって、運動能力が高く、顔が整った選手はいなかった。花道でもリング上でも見栄えがするんです。絶対的王者なのに、試合に負けると大泣きする。そのギャップにキュンキュンしますね。弱いところを隠さない態度に母性本能がくすぐられるんです」  確かに、初めてオカダと会った時、プロレスラーらしからぬ余りの爽やかさに驚いた。胸板の厚さが分かる白のTシャツにスキニージーンズを穿きこなす姿は、ガタイのいいモデル風にも見えた。そして白い歯を見せながらこう言い切った。 「僕に隠し事はありません。何でも聞いて下さい」  プロレスには触れてはならない掟があると思い込んでいた。こちらの胸の内を見透かしたような第一声だった。そしてこう続けた。 「僕は野蛮なイメージのかつてのプロレスを変えたい。プロレスの持つ身体表現の可能性を広げ、その魅力を多くの人に伝えたいんです。僕がその入り口になるつもり」 ■激闘後に柴田勝頼が入院、申し訳なく何度も泣いた  11月上旬に大阪で開催された試合に、滋賀県から小学3年生の娘を連れて観戦に来た会社員の堀田徹志(43)は、オカダの身体能力の高さに魅せられプロレスに嵌った。 「技の切れやダイナミックさに惚れ惚れします。一つ一つの技をあれだけ深く見せられるのは、身体能力の高さはもちろん、その裏に隠された練習量の多さが見え、明日から自分も頑張ろうというエネルギーをチャージしてもらえる」  プロレス会場には外国人の観客も多い。大阪会場に来ていたオーストラリア人のオーエン・ブレンディ(30)は2月に来日したばかりだが、すでに片言の日本語を操っていた。 「オーストラリアにいた時からネット配信で新日本プロレスは見ていました。その中で特にカッコ良かったのがオカダ。オカダのキャラクターをもっと知りたくて日本語を勉強するようになった」 2020年1月4日、毎年恒例の東京ドームでのメインイベントは夏のG1クライマックスを制した飯伏幸太との対戦に決定。オカダが勝てば5日のメインイベントにも出場。ハードな戦いだが「どちらも勝つ」と宣言(撮影/加藤夏子)  このように新日本プロレス人気は国内に留まらない。19年4月、ニューヨークにあるエンターテインメントの聖地と言われる「マディソン・スクエア・ガーデン(MSG)」で興行を行ったところ、1万6534枚のチケットはほんの16分で売り切れ、同会場の史上最速記録を打ち立てた。  観客の9割が外国人。それでも選手の入場テーマ曲のイントロだけで誰か分かり、大きな歓声が上がる。メインイベントはオカダ対ジェイ・ホワイト。当時、タイトルを失っていたオカダが、王者のホワイトに挑戦。激しい攻防の末オカダがタイトルを奪取した瞬間、観客は総立ちになりオカダと同じレインメーカーポーズを取った。海外試合が多いオカダはMSGは格別だったと語る。 「控室には、これまで公演を行ったビリー・ジョエルとか世界の著名アーティストの写真がずらりと飾られていた。今、自分はこの人たちと同じ場所にいると思い感慨深かったし、花道の入り口から会場を見渡した時、歴史の重みみたいなものを感じ『おーっ、すげえ!』と思わず口に出てしまいました。リング上から、会場が一つになって興奮する様子を見た時は、プロレスは難なく国境を超えると確信して、自分の自信にもなりましたね」  今や絶対的な王者として君臨するオカダだが、1度だけプロレスを続けるかどうか悩んだことがある。17年、ベルトに挑んできた柴田勝頼(40)を激闘の末に下したが、柴田は控室で突然倒れ、硬膜下血腫で開頭手術を受けた。オカダはプロレスそのものが怖くなったという。柴田に申し訳ない気持ちも抑えきれず、先輩たちを訪ね歩いた。 「先輩たちには『不慮の事故。お前は悪くない』と言われましたが、人を傷つけてしまいかねないプロレスをやる意味があるのか、そして柴田さんに申し訳ない気持ちが溢れ出し、その度にどれだけ泣いたか。そんな僕を救ってくれたのは、病院で見せてくれた柴田さんの笑顔でした」  それから2年後の19年3月、柴田はオカダが出場するニュージャパンカップのテレビ放送席にいた。オカダは勝利すると、カップを放送席の柴田の元に届け、人目も憚らず大泣きした。 「この2年間、柴田さんのことはずっと頭にありました。でも解説席で元気な姿を見せてもらい、おまけに『ニューヨーク(MSG)に応援に行くから頑張れよ』と言っていただき、感情が切れてしまったんです。帰りの花道でも泣いていました。安堵の涙でしたね」 かつてのプロレスのイメージを変えようとイタリア製のスーツを身に纏い、フェラーリで会場に向かう。子どもたちに夢を持たせたいからという(撮影/加藤夏子) ■英語とスペイン語も堪能、新日の海外戦略の顔に  その後、オカダは「プロレスラーは超人です」と発言することが多くなった。実はオカダ自身も右膝を治療が必要なほど痛めている。しかし、試合は休まない。 「地方だと年に1回しか試合は行われない。オカダを見たいという子どもが一人でもいる限り、試合をするのがプロだと思っているんで」  オカダがデビューする以前、日本プロレス界はどん底に喘いでいた。90年代まで「金曜日夜8時はプロレス中継」がファンの定番で、レスラーの激闘に男性たちが熱く血を滾らせていたものだ。だが、00年代に入ると「K-1」「PRIDE」などの総合格闘技ブームが生まれ、新日本プロレスもその流れに乗ろうとしたことから、ファンが離れていった。相次ぐ主力選手の離脱も大きな痛手となり、10年の売り上げは約10億円にまで減少。  選手が経営者も兼務していた放漫経営に歯止めをかけるため、05年にゲームソフト開発会社のユークスが新日本プロレスを子会社化し、経費管理を徹底し少しずつ筋肉体質に変えていったが、離れたファンは戻らなかった。大きく変わったのは12年、ゲームやアニメ関連事業を手掛けるブシロードがユークスから新日本プロレスを買い取り、経営に乗り出してからだ。ブシロードの創業者で現新日本プロレスのオーナーでもある木谷高明(59)は、新日本プロレスにはエンターテインメントとしての資産が大量に眠っていると踏んだ。 「コンテンツとしてすでに歴史があり、棚橋を始めとするリングで闘う選手たちの魅力は高く、知名度も十分。選手個々のキャラクターが確立されているので、ファンも泣いたり喜んだり感情移入できる。どんなコンテンツであっても、ゼロからその価値を見いだすのは簡単ではないけど、新日本プロレスにはこうした価値ある資産が幾つもあった。あとはそれをどう形にし、大きくしていくか」  木谷は、3億円の予算を計上し都内JR56駅に巨大広告を設置。山手線の車両を選手の写真でラッピングし、東京メトロの全車両中吊り広告をジャックするなど、「流行っている感」を演出した。また、選手全員にツイッターアカウントの取得を求め、フォロワー数に応じたインセンティブも用意した。  オカダの新日本デビュー年と木谷の買収時期は重なる。木谷が言う。 「オカダ選手の存在はもちろん、大きな後ろ盾になりました。若くて華があり実力も備わっている。いずれ海外戦略の切り札になると」  木谷の大胆なマーケティング戦略が成功し、プロレスが面白いらしいと感じた新たなファンが会場に足を運ぶようになった。またSNSなどで選手がこぞって発信したことから女性ファンが急増。  14年末から始めた有料動画配信「新日本プロレスワールド」(月額999円)も人気に輪をかけた。英語サービスも展開し、19年末の会員数は約10万人。その半数近くが海外のファンだ。アメリカのプロレス団体と言えばエンターテインメント性を前面に打ち出すWWEが代表的。「エンターテインメントに飽き足らないプロレスファンが、競技性の高い新日本プロレスに興味を持った」と木谷は分析する。MSGを満員にした観客は「新日本プロレスワールド」の有料会員が多かったという。  業績はV字回復した。12年に16億7千万円だった売り上げは14年に27億6千万円、そして19年7月期には54億円と急上昇。  英語、スペイン語を操るオカダは、新日本プロレス海外戦略の「顔」でもある。15年から米国だけでなく英国、カナダ、オーストラリアなど海外試合が増えたが、どこも超満員という。試合のメインイベントには、オカダの試合が組まれている。オカダがニヤリとする。 「僕はどこへ行っても、カネの雨を降らせていますね」  オカダはこれからプロレスラーとしての旬を迎える。技術の高さはもちろん、経験によってキャラクターが磨かれ、王者としての発信力も強まる。カネの雨の降雨量は世界各地で増えそうな気配だ。 (文中敬称略)       ■おかだ・かずちか 1987年 愛知県安城市に生まれる。  94年 安城市立祥南小学校入学。マラソンは常に1番。  98年 10月、長崎県五島市の小学校に転校。ソフトボールを始める。 2000年 安城市立安祥中学校に入学。野球部等で活躍。3年時にクラス委員。  03年 プロレスラーになるため、神戸にあった学校「闘龍門JAPAN」に入学。      10月、メキシコに渡りトレーニング。  04年 メキシコでプロレスラーデビュー。  07年 メキシコのプロレスの聖地「アレナ・メヒコ」で試合を踏んだことから、メキシコでやることはなくなったと新日本プロレスに入門。メキシコのキャリアを捨て研修生から出直す。  10年 米国のプロレス団体「TNA」に無期限武者修行。  12年 米国での武者修行を終え、新日本で正式デビュー。1月、IWGPへビー級王座の棚橋弘至に挑戦表明を行ったが、会場から「まだ早い」と大ブーイングを浴びる。だが2月、王座を奪う。8月、G1クライマックスで初優勝し、史上最年少優勝記録を樹立。プロレス大賞など5冠。  13年 棚橋を破り、2度目のIWGPへビー級王者に。プロレス大賞を受賞。2年連続の受賞は25年ぶり。  14年 長らく保持していたIWGP王座から転落。G1クライマックスで2度目の優勝。  15年 IWGP王者の棚橋に挑戦するも失敗。花道で大粒の涙を流す。7月、王座を奪還。天龍源一郎の引退試合に指名され、勝利を収める。プロレス大賞受賞。  16年 内藤哲也に王座を奪われるものの、2カ月後に奪い返す。  17年 柴田勝頼と対戦、試合後、柴田が救急搬送。IWGP王座を8連続防衛。  18年 防衛記録を12まで伸ばしたが、6月、ケニー・オメガに敗れる。この時点でベルト保持日数は720日となり、史上最長記録となる。  19年 マディソン・スクエア・ガーデンで行われた対ジェイ・ホワイト戦で王座を奪還、5度目の戴冠。4月、声優の三森すずこと結婚。東京2020オリンピック聖火リレーの愛知県聖火ランナーに決定。 ■吉井妙子 スポーツジャーナリスト。宮城県出身。朝日新聞社に13年勤務した後、1991年からフリーとして独立。著書に『松坂大輔の直球主義』『天才を作る親たちのルール』など多数。 ※AERA 2020年1月6日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
現代の肖像
AERA 2020/05/27 22:48
堂本光一「お宝写真」で振り返る舞台「SHOCK」の20年!総勢75人のジャニーズユニット「Twenty☆Twenty」の豪華顔ぶれも「週刊朝日」で一挙12ページ掲載!
堂本光一「お宝写真」で振り返る舞台「SHOCK」の20年!総勢75人のジャニーズユニット「Twenty☆Twenty」の豪華顔ぶれも「週刊朝日」で一挙12ページ掲載!
週刊朝日6月5日号 表紙は堂本光一! ※アマゾンで予約受付中!  今年20周年を迎えた舞台「SHOCK」シリーズで座長を務め、その功績が認められ菊田一夫演劇大賞を受賞した堂本光一さん。本誌はその記念として、「Endless」に駆け抜けた堂本さんの20年を秘蔵のお宝写真を使った表紙+グラビアで大特集。さらに、ジャニーズユニット「Twenty☆Twenty」のメンバー総勢75人を、過去の「名作表紙写真」とともに5ページで紹介。他にも、未曾有の危機を乗り切るためのアイディアが詰まった「コロナ大倒産時代を生きぬく知恵」、夏の甲子園中止で気になるプロ注目選手たちの将来など、盛りだくさんの内容でお届けします。 *  *  * 「日本一チケットの取れない舞台」と言われるのが、堂本光一さん率いる舞台「SHOCK」シリーズ。総動員数は300万人超、全公演で即日完売を続ける作品は歌やダンス、フライングのほか、22段にも及ぶ“大階段落ち”などを盛り込むミュージカルです。2000年に東京・帝国劇場で初演されて以来、進化を重ねてきた本作の魅力を、これまでの秘蔵写真を7ページでドーンと紹介。21歳で初演した当時の写真や、森光子、市村正親、相方の堂本剛など様々なゲストが舞台に登場したときの記録など、「お宝写真」が次々とグラビアに登場します。グラビア後編では、新型コロナウイルス感染防止支援活動の一貫として急きょ結成されるジャニーズユニット「Twenty☆Twenty」のメンバー総勢75人を、過去の週刊朝日の「名作表紙写真」とともに一挙5ページで紹介。プロデューサーをジャニーズ事務所副社長の滝沢秀明が務め、「Mr.Children」の櫻井和寿がチャリティーソングの作詞・作曲を手掛ける一大プロジェクトの全容を明らにします。 ほかの注目コンテンツは ●太宰治や森鴎外など文豪ゆかりの旅館も倒産へ…コロナ大倒産・失業時代が来る! 全国で緊急事態が解除されましたが、コロナ禍で太宰治、森鴎外らゆかりの老舗旅館が営業を終えるなど、経済に深刻な影響が出てきています。専門家への取材では、緊急事態宣言後2~3カ月が経過した夏ごろから企業の破綻が本格化し、失業者は収束が夏なら160万人、最悪340万人という予想も。そんな事態の中、生き残りをかけて宅配や生産の自動化などで新しいビジネスモデルを生み出そうと奮闘する企業を紹介します。 ●夏の甲子園中止の衝撃!元球団編成担当が語る「スカウト注目選手」の今後 コロナ禍の影響で戦後初めてとなる中止が決まった夏の甲子園。球児にとってもファンにとっても悲劇ですが、「プロ注目」だった選手たちが今後、どのような進路を辿るのかも気になります。そこで本誌はプロ野球・巨人で編成担当を勤めた三井康浩氏にインタビュー。中止が今年のドラフト会議に与える影響などを語ってもらいました。野球評論家の江本孟紀氏は高校時代に同僚の不祥事で春夏の甲子園出場が「幻」になった際の苦労話を明かし、球児たちにエールを送っています。 ●大学合格ランキング「国公私立全82医学部」志願者急減、女子合格者増の理由 本誌の名物企画「大学合格者ランキング」では、国公私立全82医学部への高校ごとの合格者数を大公開。志願者急減で「医学部バブル崩壊」とも言われる事態が起きている理由や、2018年の入試不正問題発覚後、女子の合格者数が2割も増えている実態についても詳しくリポートしています。 ■週刊朝日 http://publications.asahi.com/ecs/24.shtml ※アマゾンで予約受付中!
週刊朝日 2020/05/25 12:46
「どこの国にも負けないウェディングドレスを」デザイナー・桂由美の執念
菊地武顕 菊地武顕
「どこの国にも負けないウェディングドレスを」デザイナー・桂由美の執念
桂由美(かつら・ゆみ)/東京都生まれ。共立女子大学卒業後、パリに留学。1965年、日本初のブライダルファッションデザイナーとして活動を開始。99年に東洋人として初めて、イタリアファッション協会正会員に。2003年からは毎年、パリでコレクションを開いている。世界30カ国以上でショーを行い、「ブライダルの伝道師」と呼ばれる。 (撮影/写真部・掛祥葉子) 桂由美さん (撮影/写真部・掛祥葉子)  1965年、日本初のブライダルファッションデザイナーとなった桂由美さん。当時ドレスで式を挙げていた女性は、わずか3%。日本のウェディング文化を生み出した彼女にとっての結婚とは? 【前編「70着がキャンセル…桂由美、ウェディングドレス黎明期の苦労」より続く】  事業を始めて数年後。世界的デザイナーのピエール・バルマン氏が来日した際に、話す機会を得た。その後で氏は桂さんのサロンを訪れ、数多く並ぶウェディングドレスを見て「あなたがうらやましい」と言ったという。 「バルマンさんといえば、皇后陛下(香淳皇后)のドレスを作るなど、世界のVIPの服をデザインしていました。その方がおっしゃったんです。『私がこの世で一番美しいと思うのは、花嫁姿です。でも私がウェディングドレスを手掛けることは、年に2~3回しかありません。毎日ウェディングドレスに囲まれて働いているあなたがうらやましい』と。そのとき、これこそ天職だと思いました。私の一生を決めた台詞です」  その一方で、自身の結婚は……。 「見合いの話はあったんですが、皆さん、専業主婦になることを求めました。それはできませんでした。それで、今でいう負け犬になったんです」  しかし40歳を過ぎた頃から、結婚への願望が膨らみだしてきた。一人で残りの人生を過ごしたくない、と。 「そう思ったので、素直に周囲の人にお願いしたんです。『誰かいい人がいたら紹介してくださいね』と」  42歳のときに、華燭の典を挙げた。相手は、大蔵省造幣局長を経て中小企業信用保険公庫の理事を務めていた53歳だった。  彼にとって桂さんは36回目の見合い相手。プロポーズの言葉は「20年前に会いたかったね」だった。帝国ホテルで開かれた披露宴。新郎は挨拶を「売れ残り同士、仲良くやります」と締めたという。 「40にもなって結婚したいだなんて、恥ずかしくて言えないという女性もいるでしょう。でも私は、望みは言葉に出してこそかなうと信じています。それが幸せへの近道だと思いますよ」  二人ともキリスト教徒ではないという理由で教会での式は挙げず、立食による披露宴だけを行った。純白のウェディングドレスではなく、ダークグリーンのイブニングドレスを着て。 「私は小さい頃から体形に自信がなくて。白は膨張色で一番太って見えるんですよ。当時流行っていた大きな襟とパフスリーブだけは、白にしましたけど」  それから7年。夫は定年退職後、民間への天下りを全て断り、司法試験を受けるから大学で勉強をし直すと言いだしたという。 「驚きました。でも『大丈夫よ。私が食べさせてあげるわよ』と返事しました。彼は東大法学部に入り、2度目の司法試験で合格したんです。既に持っている肩書に頼るより、自分の力を信じて新しいことに挑戦する。私と価値観が共通してるんですよね。彼は役人で、私はファッション。別世界で生きているから、お互いの興味が尽きませんでした。同時に、大切な部分での価値観が合うということが、結婚相手を選ぶうえでとても大事だと思います」  桂さん自身の挑戦も止まらない。今年2月のコレクションでは、300枚のバラの花びらモチーフで飾ったドレスなど新作70点を発表した。コロナ禍などどこ吹く風。来季に向けて創作意欲をかきたてている。  走り続けるパワーの源は何か。最後にそう尋ねると、 「私はパリ留学中に、嫌というほど人種差別を味わいました。そのとき以来、どこの国からも馬鹿にされたくない。ブライダルを専門にやるのなら、どこの国にも負けないドレスを作りたい。それだけですよ。今では世界に並ぶところまで来たと自負しています」 (本誌・菊地武顕) ※週刊朝日  2020年5月29日号
週刊朝日 2020/05/25 11:30
再び「麒麟」がくるまでは「太平記」を見るべし 傑作大河は「中世」にあり
宝泉薫 宝泉薫
再び「麒麟」がくるまでは「太平記」を見るべし 傑作大河は「中世」にあり
「麒麟がくる」主演の長谷川博己も信頼する池端俊策氏は「太平記」の脚本も書いている(C)朝日新聞社  NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が6月7日の放送を最後に、いったん休止される。コロナ禍による収録のストック切れが原因だから、やむをえないとはいえ残念だ。  ただ、不幸中の幸いはテイストの似た旧作が日曜朝のアーカイブ枠(NHKBSプレミアム)で再放送中であること。1991年に同じ池端俊策の脚本で制作された「太平記」だ。 「麒麟」の舞台が室町時代の末期なのに対し「太平記」はその始まりを描く。今回、29年ぶりに大河を手がけるにあたり、池端はこう語っていた。 「以前に(室町幕府初代将軍の)足利尊氏を主人公にした『太平記』を書いたので、室町幕府の終わりを描いてみたいとかねがね思っていました。室町幕府最後の将軍、足利義昭と関係性が深いのが織田信長で、そこから明智光秀へといきました。信長と義昭をつなげたのが光秀だという説もあります」(マイナビニュース)  しかも「太平記」は大河史上有数の傑作とも呼ばれる作品だ。その深い理由については後述するとして、まずは俗っぽい見どころから紹介するとしよう。  それはズバリ、キャストの豪華さだ。再放送中といえば、朝ドラのBSプレミアムアーカイブ枠「はね駒」における、斉藤由貴、渡辺謙、樹木希林、沢田研二というのもなかなかのものだが、こちらもひけをとらない。  真田広之、緒形拳、片岡孝夫(仁左衛門)、沢口靖子、武田鉄矢、柄本明、近藤正臣、児玉清……。「麒麟」同様、代役騒動も起きたが、病気で降板した萩原健一の穴は根津甚八が埋めた。  また、鎌倉幕府最後の執権・北条高時役の片岡鶴太郎の不気味な怪演も話題になったし、バサラ大名・佐々木道誉役の陣内孝則のユニークな個性も注目された。バサラというのは、派手で豪快で実力主義的なあり方を指し、戦国から江戸初期にかけてのカブキ者の源流でもある。これは90年代初期に隆慶一郎の時代小説から始まった前田慶次のブームともシンクロしており、現在大人気のアニメ「鬼滅の刃」などの世界観を先取りしていたともいえる。    さらに、被支配者階層のキャラも充実している。「麒麟」では堺正章や岡村隆史、門脇麦、尾野真千子らの役回りだが、ここでは柳葉敏郎や樋口可南子、そして宮沢りえが務めた。  宮沢はまだ17歳で、女優としては覚醒前といえるが、尊氏の子を身ごもる白拍子の役を初々しく演じた。その後、彼女はスキャンダルもあって悲劇の似合う女優となり、今見るとこの役もしっくりくる。5月17日放送の第7回「悲恋」は彼女がメインで、当時の視聴率は33.1%。これは全49回中3番目に高い数字だった。  そんな宮沢とともに80年代後半の美少女ブームで世に出た後藤久美子も登場する。演じたのは、北畠顕家。そう、国民的美少女・ゴクミを男役にし、悲運の武将として起用したわけだ。  この荒業を実行したのは、製作総指揮の高橋康夫。当時、妻の三田佳子が「紅白」の司会を務めたり、芸能人長者番付1位になるなど絶頂を極めていたから、夫もイケイケの勢いだったということだろうか。この年は途中でバブルがはじけたというのもあって、芸能界や世の中の華やかさとはかなさに思いをはせさせられる作品でもある。  とまあ、俗っぽい話はこれくらいにして、前述した「深い理由」を語るとしよう。「太平記」を傑作にした最大のポイントは、脚本家と時代のマッチングだ。  ちなみに「麒麟」で主役を演じる長谷川博己は池端の脚本について、こんな話をしている。 「本当に繊細で、なかなか一筋縄ではいかないというか。白黒はっきりしているというよりは、淡い色合いが流れていて、行間で多様な意味合いに変わっていくという印象です」(サライ.jp)  これは白と黒、すなわち善悪や正邪といった二元論にとらわれない脚本ということでもある。実際、池端は80年代にビートたけし主演の「昭和四十六年 大久保清の犯罪」や「イエスの方舟」を書き、殺人や宗教の本質に迫って注目を浴びた。また、浅丘ルリ子をヒロインにして「魔性」「危険な年ごろ」を手がけ、悪女のエロスを浮かび上がらせている。要は社会派的視点で白でも黒でもない人間の業を表現することにたけた脚本家なのだ。    そして「麒麟」や「太平記」の舞台である中世は、そんな人間の業がむき出しになる時代だった。源平の合戦に始まって、将軍の相次ぐ暗殺、南北朝では天皇家すら分裂し、やがて応仁の乱から戦国の下克上へ……。秩序は乱れ、個人が欲望のままに動き、危険だが自由もあって、生々しい人間性が垣間見える時代でもある。  池端は「太平記」で中世のど真ん中を描いたあと、今回、その終わりに着目した。泰平の世に現れるという架空の動物・麒麟は、その象徴だ。ただ、麒麟がきたあとの近世、すなわち江戸時代は平和だが、大河ドラマ向きではない。せいぜい、映える題材は忠臣蔵くらいだろう。  というのも、人気や実力、個性を持つ役者たちが一年にわたって競演する大河はそれこそ、人間の業がむきだしになって劇的にぶつかりあう時代に最もふさわしいからだ。ヒット作の多くが中世、それも爛熟期というべき戦国時代に集中しているのはそのためである。  では、戦国と並んでとりあげられがちな幕末はどうかというと、数字的にはやや弱い。これはおそらく、現代的イデオロギーという問題の影響を受けやすいからだろう。舞台が今に近い分、たとえば世界における日本のかじ取りはどうすべきかといった問題を扱わなくてはならず、理屈っぽくなりがちだ。そこが非日常的な娯楽としての純度をうすめることにもつながってしまう。  昨年、宮藤官九郎が脚本を手がけた「いだてん~東京オリムピック噺~」が一部の熱狂にとどまったのも、世界平和や人種差別、女子のスポーツ参加といった現代的なテーマに寄りすぎたことが一因だ。86年に『日本テレビドラマ史』(映人社)を著した鳥山拡は大河の変化について「『お説教』が現代性と錯覚された作り方になった時は、興味をなくした」と書いたが、現代的イデオロギー、すなわちポリコレ感覚を持ち込みすぎると、視聴者の好悪が分かれることになる。  そこへいくと、同じ劇団系の脚本家でも、三谷幸喜はさすがだった。理屈っぽくなりがちな幕末モノの「新選組!」も、登場人物のキャラを際立たせて痛快娯楽大作にしてみせたし、戦国モノの「真田丸」においては大河的コメディーの限界に挑戦して、さまざまな層を喜ばせることに成功した。    もっとも、戦国より幕末、あるいは近現代モノがいいという人もなかにはいるだろう。ただ「麒麟」ファンによりしっくりくるのはやはり中世を描いた作品ではなかろうか。戦国モノはもとより、北条政子が主人公の「草燃える」や時代的に「太平記」と「麒麟」のあいだに位置する「花の乱」も面白かった。また、中世の扉をこじあけようとして挫折した平将門が主人公の「風と雲と虹と」も評価したい。これは全話が残存していてソフト化されている最古かつ幸運な大河でもある。  光秀が重要な役割を果たしたという意味では「国盗り物語」や「秀吉」と見比べてみるのも一興。ただし、前者はソフト化されていない。  というわけで、大河の肝は中世にあり、なのである。   なお、不安が混沌を生み、ともすれば個々の感情も対立するという点で、コロナ禍に見舞われた今の状況は当時と似ていなくもない。それゆえ、中世の人々が泰平の世を待ちわびた気持ちも理解しやすいといえる。  また、ヨーロッパの中世ではペストが大流行し、それを避けるため別荘に集まった男女が物語をするという設定で「デカメロン」(ボッカチオ)という名作が生まれた。コロナ禍によって巣ごもりを強いられるような日々はまだまだ続くし「麒麟」の休止期間も1、2カ月が見込まれている。そのあいだは再放送の「太平記」やソフト化された過去の大河で日本の中世に思いをはせるのもよいのではないか。  そのほうが、再び「麒麟」がくるのを楽しみに待てるし、再開後の「麒麟」をいっそう楽しめるはずだ。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
宝泉薫
dot. 2020/05/20 11:30
テレ朝・大下容子アナ 異例の役員待遇の裏に「遅咲き」の胆力
テレ朝・大下容子アナ 異例の役員待遇の裏に「遅咲き」の胆力
人気先行型のアナウンサーではなく、大下アナの実力は誰もが認めている。(写真/時事) <テレ朝大下アナ、現役女性アナ初の役員待遇に>(サンスポ・コム 5月15日付)  6月26日付でテレビ朝日の大下容子アナウンサー(50)がエグゼクティブアナウンサーとなることが発表され、話題となっている。大下アナはアナウンス部では課長待遇だとされている。そこから一気に役員待遇となる異例の抜擢人事だけに注目が集まった。 「今回の人事ではドラマ『ドクターX』を手がけた内山聖子プロデューサーや『アメトーーク!』などヒット番組を連発する加地倫三プロデューサーが役員待遇となりました。ポイントは局への貢献度と役員の若返りだと言われています。結果を残した人間が昇格すれば社内も納得感が高く、対外的にもアピールしやすい。なかでも特に目を引いたのが大下アナの昇格です。今後もキャスターを続ける予定ですが、現役の女性アナウンサーが役員なった例は無いと言われており、驚きの声があがっています」(芸能記者)  テレ朝のアナウンス部では女性最年長とキャリアは十分の大下アナ。ソフトな語り口と親しみやすいキャラクターでファンも多いが、元NHKの有働由美子アナをはじめ同年代で活躍している個性派キャスターらと比べると、やや地味な印象も否めない。これまでの実績を見ても、その実力が開花したのは30歳を過ぎてから。かつてささやかれた女性アナウンサーの「30歳定年説」などからみれば、遅咲きのアナウンサーといえるかもしれない。 「テレ朝入社は1993年で、同期は政界に転身した丸川珠代参議院議員。後輩には『ミュージックステーション』などで活躍した下平さやかアナら逸材も多く、しばらく局内では埋没気味でした。しかし、その後『ワイド!スクランブル』のキャスターに起用され、トークが本職でない俳優の大和田獏やクセのあるコメンテーター陣を仕切ったことで頭角を現しました。必要以上に前に出ることはありませんが、しっかりと存在感を感じさせる。今では“仕事のできるアナ”としての評価が固まりました」(女子アナウオッチャー)    そんな大下アナの評価を決定づけたのが、2002年から16年間にわたり香取慎吾のパートナーを務めた『SmaSTATION!!』だろう。香取が自然体で番組を楽しむ姿は「大下アナのサポートがあってこそ」と評価された。同番組が終了した17年9月はSMAP解散後の香取慎吾の行く末が案じられていた時期でもあり、いろいろな意味で注目が集まった。 「アナウンサーという立ち位置を守りつつも、ホスト役の香取のリアクションを拾い、ゲストとのトークにつなげていく。二人のやりとりを見ていると香取が大下アナを信頼していることが分かります。またSMAP解散というデリケートな話題についても『ワイド!スクランブル』内で、ファンに寄り添うようなコメントをして共感を呼びました。その後も香取のインスタにツーショット写真がアップされるなど、今でもいい関係が続いているようです。こうした点が視聴者にも評価されたのか、19年12月に発表されたオリコンの『好きな女性アナウンサー』でも4位にランクインしています。前を走っていた同期世代は既に脱落し、小川彩佳アナをはじめ、めぼしい後輩アナの多くが退社したことで、より大下アナの存在が大きくなっていきました」(テレ朝関係者) 『ワイド!スクランブル』は、19年4月から『大下容子ワイド!スクランブル』に番組名が変更された。局アナの名前を冠する異例の番組名となったことからも、その評価の高さが分かる。またこれまで1部と2部で分かれていた同番組は、今年3月末から平日の10時25分から13時00分まで通しの放送となった。これにより、『ひるおび!』(TBS 系)や『バイキング』(フジテレビ系)など激戦区の昼の時間帯に殴り込むことになった。  しかし、局からの期待が大きすぎるゆえに、現場からは“萎縮”を危惧する声も出始めている。 「2部制を廃止したのはテレ朝の弱点だった正午の時間帯の視聴率アップのための改編で、トップを走る『ひるおび!』にどこまで迫れるかが勝負。コロナ禍で軒並みワイドショーが数字を伸ばしているなかで、大下アナにかかる期待は大きい。ただ彼女は上層部とつながりが深いこともあり、これまでも周囲の人間が遠慮することがあったのも事実。役員昇格でさらに大下アナの意向を忖度するような事態にならないか心配する声もあります。本人は偉ぶることなくいたって自然体なのですが……」(番組スタッフ)  役員昇格というニュースが報じられた翌々日に50歳の誕生日を迎えた大下アナ。これまで浮いた話もなく、謎に包まれた私生活は 「仕事終わりにジムに通うくらいで男っ気はなし」(週刊誌記者)  ニュースが読める「女性役員」として、大下アナには今後の女性アナウンサーのモデルケースとなるような活躍が期待される。(島本拓)
島本拓
dot. 2020/05/19 11:30
藤井 風、初の全国ホールツアー詳細を発表
藤井 風、初の全国ホールツアー詳細を発表
藤井 風、初の全国ホールツアー詳細を発表  2020年5月20日に1stアルバム『HELP EVER HURT NEVER』をリリースする藤井 風が11都市12公演をまわる自身初の全国ホールツアーの詳細を発表した。  今年の12月25日から来年1月31日にかけて開催されるこのツアーは、神奈川県座間市にあるハーモニーホール座間からスタートし、藤井の出身地である岡山県の岡山市民会館で幕を閉じる。この全国ホールツアーのチケットはアルバム『HELP EVER HURT NEVER』に封入される応募シリアルで最速先行申し込みが可能だ。  藤井は5月30日に3度目のニッポン放送『藤井 風のオールナイトニッポン0(ZERO)」のパーソナリティを担当することが決定。新型コロナウイルスの影響で東阪Zepp公演が全公演中止となってしまったが、番組では【NAN-NAN SHOW@ANN】と題して、本来ライブで披露するはずだったセットリストの一部に加え、恒例の「藤井 風オールナイトニッポンメドレー」も披露する。また、自身が得意とする曲のアレンジや、“この2曲を繋げたらこうなった”などを解説していく「リモート音楽講座」も行い、藤井が講師となってリスナーからの音楽に関する疑問に答えていく予定だ。  さらに、YouTubeが世界各地で定期的に展開する“Artist On The Rise”の国内アーティスト第1号として藤井が選出。YouTubeをきっかけに活躍するアーティストを紹介するこのキャンペーンには、過去にトーンズ・アンド・アイやマギー・ロジャース、ダベイビーらが参加している。 ◎藤井 風コメント わし、3度目のオールナイトニッポン。 三度目の正直。仏の顔も三度まで。 とゆーことで、がんばります。3回もありがとうございます(>人いつになっても慣れませんが、MVが出たり、アルバムも出たり、たくさんのことが変わったので、わしも新しい気持ちで挑みます★ ◎ツアー情報 【Fujii Kaze "HELP EVER HALL TOUR"】 2020年12月25日(金)ハーモニーホール座間(座間市立市民文化会館) 2020年12月27日(日)三郷市文化会館 大ホール 2021年1月9日(土)昭和女子大学人見記念講堂 2021年1月10日(日)昭和女子大学人見記念講堂 2021年1月16日(土)東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館) 2021年1月17日(日)名古屋市公会堂 2021年1月21日(木)オリックス劇場 2021年1月24日(日)道新ホール 2021年1月27日(水)神戸国際会館こくさいホール 2021年1月28日(木)福岡市民会館 2021年1月30日(土)サンポートホール高松 大ホール 2021年1月31日(日)岡山市民会館 チケット料金:全席指定6,500円(税込) ※3歳以上チケット必要
billboardnews 2020/05/19 00:00
早稲田、立教が“組織論”で成果 大学ラグビーに「識学」旋風
早稲田、立教が“組織論”で成果 大学ラグビーに「識学」旋風
1月11日にあった大学選手権決勝の早稲田-明治。両校による決勝は23年ぶりで、国立競技場は6万人近い観客で超満員だった (c)朝日新聞社 「識学」の社長、安藤広大さん。ホワイトボードに組織図を書き、「監督はコーチを殺してはなりません」 (撮影/中島隆) 早稲田のコーチ、後藤翔太さん。けがに泣いて28歳で現役引退。「いま、ラグビーにかかわれる自分は幸せです」 (撮影/中島隆) 昨季の関東大学対抗戦の成績 (週刊朝日2020年5月22日号より)  早稲田、立教、追手門学院――。大学ラグビーの世界に、ちょっとした旋風が吹いています。「識学」という組織論を取り入れたチームが、いい成績を出してきているのです。「識学」は、日本的なあいまいさ、なれ合いを排除しルール順守を徹底、目標に向かって力を積み上げる経過変化などを実践する組織マネジメント理論です。なぜラグビーと組み合わせることで成果を上げられたのでしょうか。 株式会社「識学」。  安藤広大さん、40歳。  この会社をつくった社長です。早稲田のラグビー部出身です。自分から自分に限界をつくり、ほぼ控え生活に甘んじてしまいました。卒業後に勤めた会社で、部下が育たなくて悩んでいたとき、識学という組織論をつくった福冨謙二さんに出会います。上司が原因だと気づき、このことを広めたいと15年、起業しました。  識学とラグビー。その組み合わせの始まりは、立教ラグビー部のヘッドコーチ、西田創(つくる)さんを識学に誘った後藤さんにあります。  後藤翔太さん、37歳。  早稲田の4年のとき、大学日本一になりました。日本代表、神戸製鋼コベルコスティーラーズの主将になったこともあります。  13年、追手門学院大学に請われて女子ラグビー部の指導者になりました。ラグビーのことは任せておけ、すぐに結果が出せるさ。後藤さんはそう思っていました。けれど2年間、思うような結果が出ません。ラグビー部の先輩である安藤さんに相談し、識学を学びました。  安藤さんが指摘したのは、 「コーチを殺している」  でした。優秀な女性コーチを通り越して選手に指示をしていたのです。監督という社長がすべてを見てはダメ、コーチという管理職に責任を持たせなくては組織が機能しなくなる、というのです。  密集からボールを出すスクラムハーフと、パスを受けるスタンドオフとの意思疎通ができずにミスが起こる。そのことにも、後藤さんは悩んでいました。  安藤さんの助言は、こうでした。 「意思疎通はいらない、パスの決定権をどっちかに持たせろ」  決定権を持つのは1人だけも、識学の考え方です。  後藤さん3年目のシーズン、追手門は日本一に。そして、後藤さんは識学の社員になりました。西田さんも社員になりました。  そして、そして。  昨年4月、識学と早稲田、立教それぞれのラグビー部が提携しました。後藤さんは早稲田のコーチに、西田さんはフルに立教ラグビーを見るヘッドコーチに就任しました。  今年1月、新しくなった国立競技場での大学選手権決勝。早稲田は明治に45‐35で勝ち、11年ぶりに日本一になりました。前半で大きくリードし、後半でダメを押しての見事な勝利でした。  後藤さんいわく、明治は大学史上最強のチームでした。なぜ勝てたのか。それを識学的に説明すると、次のようになります。  前年の12月1日、東京の秩父宮ラグビー場であった、Aグループ最終戦の早明戦。早稲田は7‐36で大敗。それで、自分たちに足りないところが明確になりました。日本一に向けて明治はチーム力を上げてくる。だったら、早稲田はその上を行こうと目標を明確化し、今年1月の決勝に向けて力を積み上げていったのです。経過変化を重視しての勝利でした。  そして、もう一つ。後藤さんたちが考えたのは、強い組織を崩す方法でした。強い組織は、決めたルールどおりに動く。そのルールを崩壊させるか、ルールに従うことのデメリットを顕在化させれば勝てる。 「試合では、今までにやったことのないプレーを連発しました」  と後藤さん。それが、前半の大量リードにつながったと言えそうです。  昨年12月、立教と成蹊との入れ替え戦です。  西田さんは、こんなゲームプランを立てました。  相手とぶつかったとき、前に行けたら勝ち、後ろに倒れたら負け、その場で倒れたら引き分けとして、30%勝つこと。そんな目標数字を示しました。23‐21で勝利。ぶつかりあいの勝率は29.8%でした。  チームの最後方のポジション、フルバックへの指示は、とにかくボールを前に蹴るんだ、でした。リスクを避けろ、をルール化したのです。  数字、数字。ルール、ルール。自主的な部活動で、ここまで縛ることは、部員のモチベーションを下げないのでしょうか。安藤さんと西田さんは口をそろえました。 「自分のモチベーションを気にするような選手は、ラグビーで活躍できません。数字やルールが嫌なら、やめなさい」  春です。それぞれのチームから部員が巣立ち、新入生が入ってきました。ことしは、新型コロナウイルスが、それぞれのチームに影を落としています。でも、秋はやってきます。対抗戦Aグループでの立教の初戦、相手は明治です。そして、早稲田、筑波、帝京、慶応……、厳しい試合が続きそうです。 「何としても2勝してAグループ6位以上になる。18年連続で入れ替え戦という立教の歴史を変えたい」  と西田さん。  最後に……。  この4月、識学は、プロバスケットボール・Bリーグ2部で債務超過に陥っていた「福島ファイヤーボンズ」を買収しました。  識学社長の安藤さんがボンズに役員として送り込んだ人、それは西田さんです。立教での実績をひっさげてプロバスケのチームに識学をふりかけると……。どんなチームになるのでしょう。これも秋に答えがわかります。(朝日新聞編集委員・中島隆) ※週刊朝日  2020年5月22日号より抜粋
週刊朝日 2020/05/18 11:30
両陛下は熱心にメモも 即位から1年、コロナの余波及ぶ皇室
両陛下は熱心にメモも 即位から1年、コロナの余波及ぶ皇室
令和初の新年一般参賀と、即位後の両陛下 (c)朝日新聞社 マスク姿の天皇、皇后両陛下 (c)朝日新聞社  天皇陛下が即位されて、新時代の令和が幕を開けてから5月1日で1年を迎える。雅子さまも即位関連の儀式・行事にすべてご出席をされて、皇后としての務めを果たされた。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大の余波は皇室にも及んでいる。ジャーナリスト・友納尚子氏がリポートする。  現在の雅子さまは、御所からお出掛けになることはほとんどないといわれている。御所内で国内の福祉施設や被災地の仮設住宅などで新型コロナウイルス感染被害が広がっていないかということや感染対策について気になさっているという。職員や関係者に尋ねながら国民に気持ちを寄せていた。  今年2月に日本国内でクルーズ船の乗員、乗客が新型コロナウイルスに感染した直後から、両陛下は宮内庁の医師などからウイルスの特徴などについて折に触れてお聞きになってこられていた。  3月になると、即位後初の外国訪問先となる予定だった英国のチャールズ皇太子に新型コロナウイルスの陽性反応が出たと発表。両陛下は大変ご心配をされたといわれた。その2日後に英国のジョンソン首相も感染していることが判明した。  同時に日本国内でも感染が拡大していることから、多くの情報を得られようとする姿勢が見受けられたという。宮内庁職員もマスク姿で従事する毎日だった。  そんな中、唯一、明るいニュースは、愛子内親王殿下が学習院女子高等科のご卒業(3月22日)を迎えられたことだった。  卒業式はマスク着用を原則として、卒業する生徒とその保護者のみが出席。両陛下は、感染予防のためご出席はなさらずに玄関先で愛子さまを見送ったといわれた。愛子さまは一度だけ振り返り、大きく手を振られたといい、式にはお一人でご出席された。  マスク姿の愛子さまは、報道陣から「ご卒業おめでとうございます」と声を掛けられると、 「ありがとうございます」  と笑顔で応えられた。  卒業式後の夕方、両陛下は愛子さまの卒業にあたってご感想を発表されたが、愛子さまのご成長と学校関係者などへの感謝の意とあわせてコロナ感染についても次のように述べられていた。 <現在、新型コロナウイルス感染が拡大していることを案じ、我が国の国民、そして世界の多くの人々が直面している様々な困難や苦労に深く思いを致しています>  コロナウイルス感染は、国内外で確実に拡大していった。4月5日には、英国エリザベス女王がビデオメッセージを公開。日本のメディアの中には、陛下も国民に向けてビデオメッセージを発表するのか期待する記事もあった。  両陛下は、一向に終息しないウイルス感染の情報を日々収集され、国民のために何ができるのか模索なさっていたという。  同月10日、両陛下は新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の尾身茂副座長から、現状についてのご進講を受けられた。  陛下は尾身副座長を含めた現場で力を尽くす医療関係者に感謝の言葉を述べられた。さらに感染者の人数が増えていることも憂慮されたという。 <この度の感染症の拡大は、人類にとって大きな試練であり、我が国でも数多くの命が危険にさらされたり、多くの人々が様々な困難に直面したりしていることを深く案じています。今後、私たち皆がなお一層心を一つにして力を合わせながら、この感染症を抑え込み、現在の難しい状況を乗り越えていくことを心から願っています>というお言葉を尾身副座長に掛けられた。 「陛下は『オーバーシュートを回避するにはどういうことが必要なのか』ということや『国民が一丸となって乗り越えないといけない病気なんですね』と何度も仰っていたといいます。SARSとの違いやヨーロッパとの違いにもずいぶんご関心を示されていたと尾身副座長はお話しになっていました。また両陛下はEUは感染拡大でロックダウンをしているのに対し日本の場合は、8割の接触削減とした理由についても、ご関心を示されていたそうです」(宮内記者)  両陛下は、コロナウイルスについてよくお調べになっているご様子で、ご進講のときも熱心にメモを取られていたという。  陛下が新型コロナウイルスに感染した方々や家族にお見舞いの言葉を述べられたのは、2月23日の60歳の誕生日に先立った会見、愛子さまのご卒業のご感想に次いで3回目だった。陛下はビデオメッセージでなくとも国民に伝わるタイミングでご発言なさっていた。  宮内庁も定例会見の中で、「陛下は折に触れ国民にお気持ちを伝えていきたいというお気持ちがあることを拝察」と述べていた。  赤坂御所に2回目の専門家を招いたのは、4月15日のこと。厚生労働省の鈴木康裕医務技監は、政府の実務担当の統括でもあることから、両陛下は治療薬とワクチンの研究・開発に向けた取り組みについて理解を深められたという。  続けて23日には、日本赤十字社の社長、副社長からも医療現場の現状についてお聞きになる予定だったが、延期となった。  日赤は雅子さまが名誉総裁を務められているが、5月の全国大会は中止となった。  次のご進講は、コロナの影響による経済、行政の話を予定しているというが、感染状況によっては異なってくるかもしれないという。初の園遊会も中止となった。 ※週刊朝日  2020年5月8‐15日号より抜粋
皇室
週刊朝日 2020/04/30 09:00
コロナ禍で公務も中止に 雅子さまのご体調と皇位継承は?
コロナ禍で公務も中止に 雅子さまのご体調と皇位継承は?
歌会始に出席された両陛下 (c)朝日新聞社 愛子さまと雅子さま (c)朝日新聞社  5月1日で天皇陛下の即位から1年経つが、雅子さまのご体調や皇位継承問題はどうなっているのか。ジャーナリスト・友納尚子氏が報告する。  即位から約1年──。  皇后としての務めを果たされる雅子さまのご快復は順調だった。皇居・宮殿「松の間」で開かれた歌会始に17年ぶりにお出ましになり、3月の宮中祭祀「春季皇霊祭」にご出席されたのも18年ぶりのことだった。  ご出席の回数だけではない。雅子さまの外国からの賓客へのもてなし方も注目された。昨年5月に令和初の国賓として来日した米国のトランプ大統領夫妻を始め、ヨーロッパの王妃たちと流暢な英語で言葉を交わされながら、気さくな雰囲気を作られた。それは、まさに海外王室との旧交を温める“雅子さまスタイル”でもあった。  こうした場面で見られる雅子さまの溢れんばかりの笑顔を見ていると、療養生活が17年目になっていることを忘れそうになる。 「皇后になられた途端にお元気になった」と思う人も多いと思うが、実は「ご負担の多い宮中祭祀などを続けて出られるまでは、ご快復に至っておられない」(宮内庁関係者)という。  実際、4月3日の宮中祭祀「神武天皇祭」も意欲がおありだったことから、3月の宮中祭祀に続いてご出席を予定されていたというが、残念ながらご体調がかなわずご欠席となった。  昨年末に医師団が発表した「依然としてご快復の途上にあり、ご体調には波がおありです」という見解のとおり、雅子さまのご病気は、皇室の中でご病気になられて、皇室の中で治していかなくてはならないという難しさが長期療養につながっているとされる。 「ご出席は、皇后さまの努力によるものです。時間に余裕のあるスケジュールは、疲れを残さないように工夫なさるなど、体調を整えやすいそうですが、大きい行事が続いたときにはうまく整わない場合もおありになる。今は新型コロナウイルスで公務は控えられていることから、ゆっくりと休めて体調には良いのではないかという見方もありますが、そのようなことはありません。公務をずっと休まれるというのも抑うつ的なご気分になるといいます。皇后さまは意欲をお持ちなので、体調を整えて公務をされてまた休むという繰り返しをなさることが、理想のご快復につながっていくそうです」(宮内庁医師関係者)  さる4月14日、秋篠宮皇嗣殿下が皇位継承順位1位であることを国内外に示す「立皇嗣の礼」の延期が発表された。  コロナウイルスの感染拡大で、東京などに緊急事態宣言が出ていることを考慮したものだった。饗宴の儀を取りやめ参列者も大幅に減らすなど規模を縮小して行った後に、秋篠宮両殿下が三重県や奈良県をご訪問される予定だったが、すべて当面延期となった。2日後、新聞の朝刊1面に次のような報道が飛び込んできた。 <皇位継承 旧宮家復帰 有識者に聴取>(産経新聞) <旧宮家の皇籍復帰 聴取政府、有識者に>(読売新聞)  即位後1年に伴い本格的な議論を進めていく先駆けとして、政府の担当者が皇籍離脱した旧宮家の子孫の復帰への見解を有識者に尋ねているという内容だった。菅義偉官房長官もこの事実を会見で認めている。  これまでも安倍晋三首相は、皇位の男系継承維持の重要性を主張してきた。皇統維持のためには旧宮家の男子の皇籍復帰を検討することが望ましいということや女性宮家問題にしても旧宮家から養子を受け入れて宮家を継承していく方法があるということを公言もしてきている。  方法として、現段階では皇族は養子を受け入れることはできないことから、その条文だけを特別措置で停止させるというものだった。今回の有識者への聴取は、そうした安倍首相の意向に沿い、現行の皇位継承資格や婚姻に伴う皇籍離脱制度に関する意見、旧宮家復帰などが議題だったという。  小泉政権の時代にも保守派は旧宮家復帰案を主張していたが、旧宮家と現在の皇室が分かれたのは600年以上も前に遡ることなどを理由に退けられたことがあった。  女性天皇・女系天皇は実現に向け論議されたが、秋篠宮悠仁親王のご誕生で一気に停止したという経緯があった。  陛下は今年の2月の誕生日会見の中で宮内記者から望ましい皇位継承の在り方について質問されたが、<公的活動を担うことができる皇族は以前に比べ、減少してきております。そしてそのことは皇室の将来とも関係する問題です>とお話しになった。  そして<制度に関わる事項については、私から言及することは控えたいと思います>と述べられた。  そこには、皇位継承は政府が検討する問題という難しさがあった。  皇室の将来の不安をよそに、愛子さまのご成長は、雅子さまのご快復にとってもとても大切なものだといわれてきた。  世継ぎ問題で悩まれた末にご誕生されたお子さまが男子ではなく内親王だったため雅子さまは複雑な思いをされたといわれた。敬宮愛子という名前は由来どおり「人を愛する者は、他人も常にその人を愛し、人を敬う者は、他人もその人を敬う」という両陛下の思いが込められていた。  両陛下は「一つの命を大切に育んでいくことは親としての使命」だと知人に語ったように、子育てに関わられてきた。  愛子さまが1歳のときに雅子さまはお体の異変を感じられて、部屋の壁に寄りかかりながら愛子さまの遊ぶ姿を見守られていたことを思い出す。そんな中、宮内庁の中やマスコミから愛子さまは「挨拶ができない」など誹謗中傷する声もあった。両陛下の躾が疑問視されたのである。小学生で学校に行けなくなったときも雅子さまはほぼ毎日付き添い登校を続けられた。陛下も公務の前後に送迎なさることもあり、「母子密着」「異常な親子」と批判を受けたこともあった。  当時、雅子さまは文書会見の中で「自分ができる事の最善策でした」と苦しい胸の内を綴られている。  両陛下はなぜ学校生活を重要視されたのか──。それは、両陛下の学校生活の思い出がとても良いものだったことや、現在でも続いているご友人との関係が大切なものだったからだといわれた。愛子さまも皇室という特別な環境でお育ちになる中で、学校生活の中の行事や一般のお友達との関係は、人間形成の上でも大人になってからも続いていく、とても大切な存在だったという。  学習院女子高等科2年生のときに英国イートン校のサマースクールに参加されたのも、英語を学ばれる目的だけではなく、かけがえのない時期に親元を離れて学校のお友達同士で良い思い出を作ることも大切という両陛下のお考えからだった。帰国した愛子さまは一回りも大きくなったような気がしたと宮内庁職員は語っていた。  この春から学習院大学文学部日本語日本文学科へ進学された愛子さま。  入学式はなく、学校が始まるのは5月11日からだが、現在は御所内で静かにお過ごしになっているという。  3月の侍従会見では愛子さまが庭でバドミントンをなさる姿をお見受けしたと伝えられた。 「赤坂御所の改修工事がストップしているため皇居への引っ越しも予定よりも遅くなるようです。愛子さまはこの休みを利用してご自分の荷物を整理されたり、まとめたりされているそうです」(宮内記者)  雅子さまも荷物を整理なさって、愛子さまの小さいときのお写真をご覧になったり、小学生のころに作られた工作を見て懐かしがったりされたという。  先日も愛子さまが幼いころに遊ばれた双六をお出しになってきて、ご家族で懐かしそうにサイコロを振って駒を進められた。  愛子さまの駒は、前途洋々の人生に向かわれるかのように、進んでいったという。 ※週刊朝日  2020年5月8‐15日号より抜粋
皇室
週刊朝日 2020/04/30 09:00
「人生プラン変わった…」 五輪延期がアスリートに与えた“新たな気づき”
「人生プラン変わった…」 五輪延期がアスリートに与えた“新たな気づき”
東京五輪の出場が有力視されていた村上めぐみ(写真提供・ FIVB) インドアからの転向で東京五輪への出場を目指していた越川優(写真提供・ FIVB)  未曾有の事態として世界を恐怖に陥れている新型コロナウイルスは、スポーツ界にも激震を起こした。感染が国内で蔓延し始めた3月以降、多くの競技会が中止、延期となり、プロスポーツチームおよびアスリートたちが活動自粛を余儀なくされている。  ビーチバレーボールにおいては、2018年6月より繰り広げてきたオリンピック予選レースの山場だった日本代表決定戦の開催が延期。今後の大会も白紙となり、オリンピック出場決定方法も仕切り直しとなった。そんなビーチバレーボール界でオリンピックを目指してきた選手たちは、いまどんな心境でいるのだろうか──。  日に日に感染者が増加していった4月上旬。緊急事態宣言が出る前の段階でいち早く活動自粛を自らのSNSで行った選手がいる。その発信者とは、2017年にインドアバレーボールから転向し東京オリンピック出場を目指してきた越川優(横浜メディカルグループ)だった。 「オリンピックや代表決定戦の延期が決まるまでは、どうなるかわからないし準備しておく必要があったので最大限注意しながら活動をしていました。とくにパートナーは海にくる際、公共交通機関を利用しなければいけないので、感染リスクがありました。だけど延期が決まったので、リスクを冒してまでチーム練習する必要があるのかどうか話し合いました。その結果、チームとして行動せずにそれぞれの環境の中で行動していこうと決断しました」  各アスリートが自宅の室内や屋外でできる工夫を凝らしたトレーニングを発信し、話題を集めているこのご時世。越川も、自宅トレーニング用の器具を購入しウエイトトレーニングに励み、砂の感覚を失わないために人が集まらない早朝に砂の上で短時間動くなど日々過ごしている。  そんな最中、日本バレーボール協会は感染拡大防止を考慮し、2020年8月までに予定されていた国内主要大会を中止および延期することを発表した。およそ6カ月間、公式戦がないことになる。そんな前代未聞の事態を深刻に受け止めていたのが、今年35歳を迎える日本ランキング2位の村上めぐみ(オーイング)だ。 「オリンピックの延期によって正直、急に人生プランが変わりました。自分の年齢を考えるとオリンピックを区切りに……とカウントダウンに入っていましたから。決まった当初はどこに気持ちを持っていったらいいか、揺れまくりでしたね。それでも今は生活環境が変わって空いている時間を、自分と向き合う時間に充てています」  個人競技でも団体競技でもない、極めて最小限のチームスポーツであるビーチバレーボール。そんな特性がある中で、「オリンピックまで1年」という時間を選手たちはどうとらえているのか。  ビーチバレーボールのトップ選手の現役平均年齢は男子34歳、女子32.5歳(2020年強化指定選手男女8名の平均より)。他の競技に比べれば、現役は息の長いほうだろう。さらにオリンピック出場を果たしたペアの結成年数も平均4年5カ月(2000年以降の出場4チーム平均)とあって、ペア競技としてその「時間」はメリットとしてとらえられるかもしれない。現に石井美樹(荒井商事/湘南ベルマーレ)とのペアで6シーズン組んで、世界で戦ってきた村上は力を込めて言う。 「2020シーズンに向けて集大成として取り組んできた海外合宿を通して、自分の思考や発想によい変化が起きました。そのよくなったところをこの1年で自分のものにできると思うし、チーム力に反映することができると思っています。ただ身体に関しては、20代と比べて変わってきているので未知。そこは年齢を感じる部分ですね(笑)」  一方、経験値がモノをいう競技だからこそ、デメリットも拭えない。ビーチバレーボール歴3年の越川はその理由をこう分析する。 「1年延びたことでプラスだね、とよく言われるんですけど、もちろん通常の1年延期であれば有利ですね。でも今回は試合のない時間が半年あってどのくらい練習期間を設けられるかわからない。つまり通常のオフシーズンより長いわけです。自分は今年36歳、身体に気を配らなければいけない。試合経験がない中でどこまで落とさずにどうやってレベルアップしていくか。当然ベテラン選手も同じように年を重ねますが、落ちても経験値がある分、修正できる幅が広い。経験値で劣る自分は、まず身体をベストな状態に戻しベテランを上回るもので勝負していくことが、ポイントになってくると思います」  オリンピック予選レースとなるビーチバレーボールのワールドツアーは、年間で約70カ国から1000人を超える選手が参加している。各国で終息しなければ、なかなか幕を上げるのは難しいだろう。新たなレースのカタチが見えてこない状況であるが、それはどの競技も同じ。そんな状況下でも多くのアスリートたちは自らを鼓舞し、唯一外部と接触できるスマートフォンやパソコンやの画面を利用してファンを勇気づけようとメッセージを送っている。それは、スポーツによって生まれたエネルギーの輪が誰かの心の支えになることを知っているからだ。越川は2011年のことを思い出す。 「東日本大震災の時、知り合いの実家が岩手県大槌町にあって津波で流されました。少しでも元気になってもらいたかったので、数年に渡って保育園や学校を訪問して一緒にバレーをやりました。東京でVリーグの試合があるときは、岩手から子どもたちを招待しました。今でもその子たちとはSNSでつながっています。そのときは自分が動くことで少しでも励みになれば、と行動できたけれど、今回自分ができることはSNSを利用した寄付や購入くらい。外で何かをするというよりも、何もしない勇気が必要だと思っています」  越川は収束が見え始めたら、困っている方の手助けに向けて動きたいと胸の内を明かした。一方、村上は今回の活動自粛を通じて初めての「気づき」があったという。 「自分が何をしたら皆さんに楽しんでもらったり元気になったりするのだろうか?と考えたら、実は何も思い浮かばなかったんですね。それで『ああ、私は今まで自分ががんばることを一番に考えてビーチバレーボールをやってきたんだな』と気づきました。それじゃダメだと思いました……。先日SNSでリレー方式のメッセージを出したら少し反応があってそれでも嬉しくて、小さいことでもいいんだと思いました。これからは自分にできることがその先につながればいいな、と思うことをやっていければと思います」  普段と違うフィールドにいるアスリートたちに与えられた時間は、数々の気づきをもたらした。今はただ、そんなアスリートたちの力が放出されるときが待ち遠しい。(文・吉田亜衣) ●吉田亜衣/1976年生まれ。埼玉県出身。ビーチバレーボールスタイル編集長、ライター。バレーボール専門誌の編集 (1998年~2007年)を経て、2009年に日本で唯一のビーチバレーボール専門誌「ビーチバレーボールスタイル」を創刊。オリンピック、世界選手権を始め、ビーチバレーボールのトップシーンを取材し続け、国内ではジュニアから一般の現場まで足を運ぶ。また、公益財団法人日本バレーボール協会のオフィシャルサイト、プログラム、日本ビーチ文化振興協会発行の「はだし文化新聞」などの制作にもかかわっている。
dot. 2020/04/28 17:00
6度目で初の表彰台へ…五輪延期、引退から復活したベテラン4人
6度目で初の表彰台へ…五輪延期、引退から復活したベテラン4人
 新型コロナウイルスの影響で東京五輪は1年延期。練習もままならない中、アスリートはどう過ごすのか。引退後、復活したベテラン選手は厳しい選択を迫られる。 早川漣 (デンソーソリューション/32歳/アーチェリー) (撮影/写真部・松永卓也) ■日本のアーチェリー界のために五輪で結果を出して道を作りたい #01 早川漣(デンソーソリューション/32歳/アーチェリー)  3月22日の東京五輪代表2次選考会をトップ通過。しかし、五輪の延期が決まり、最終選考会は来年3月に延期された。現在は、まさに「宙ぶらりん状態」。  2012年のロンドン五輪で団体銅メダルを獲得したが、右肩痛の悪化で引退。16年に競技者生活を再開していた。 「肩の痛みはまだあります。でも、日本のアーチェリー選手たちの競技人生を延ばす道を作るためにも、私が東京五輪で結果を出したい」  強豪・韓国並みの競技環境を日本で築くため、メダルを狙う。 ■40歳で出場する6度目の五輪 未経験の表彰台を本気で狙う #02 寺内 健(ミキハウス/39歳/飛込) 寺内 健(ミキハウス/39歳/飛込) (撮影/写真部・松永卓也)  男子シンクロ板飛込と3メートル板飛込で、代表内定獲得後に開催延期が決定。アトランタから北京まで4大会連続で五輪に出場したが、メダル獲得には至らず、09年に引退した。  社会人を経験した後、現役復帰。ロンドン五輪出場は逃したが現役を続行してリオデジャネイロ五輪に出場。40歳で迎える東京五輪は6度目の出場になる。 「二十数年やってきて、一度も見ていない景色。それが表彰台。それを東京で経験したい」  1年延期で厳しい五輪となるが、経験を武器に勝負をかける。 寺内 健(c)朝日新聞社 ■追加の代表選考があるなら引退せずに挑戦したい #03 上山容弘(ベンチャーバンク/35歳/トランポリン) 上山容弘(ベンチャーバンク/35歳/トランポリン)(写真=アフロ) 16年に一度引退したが、翌年に復帰し、東京五輪を目指した。昨年末の国際ジャパンオープンで優勝し、代表内定直前まで進んだが、惜しくも内定枠に入れなかった。引き際を考えていたところで、五輪延期が決定した。協会は内定の継続を決めたため、東京五輪出場の可能性はきわめて低い。  しかし、引退は先に延びた。 「仮にもう1枠増えるなどして、代表選考への挑戦権がいただけるのであれば、挑戦してみたい」  一度引退して復帰した意味を考え続けた男の結論である。 ■女子ホッケー五輪初メダルへ アスリートとして最後の挑戦 #04 小野真由美(SOMPOケア/35歳/ホッケー) 小野真由美(SOMPOケア/35歳/ホッケー) (撮影/写真部・松永卓也)  女子ホッケーの日本代表「さくらジャパン」最年長。経験に培われた全力プレーでディフェンスの要を務めてきた。女子ホッケーは東京五輪の出場枠を確保しているが、さくらジャパンの代表チーム編成は未定。開催延期で、選考スケジュールも延期となっている。  リオデジャネイロ五輪の後、一度引退して豪州留学。世界のホッケーを学んで復帰した。 「アスリートとしては東京五輪を最後にするつもりです」  目指すのは初メダル。それは日本にとっても大きな夢だ。 小野真由美 (写真=アフロ) (文/本誌・鈴木裕也) ※週刊朝日  2020年5月1日号
2020東京五輪
週刊朝日 2020/04/26 16:00
都心の渓谷「お茶の水」の坂道を走る51年前の都電 江戸期から続く名所の変貌
諸河久 諸河久
都心の渓谷「お茶の水」の坂道を走る51年前の都電 江戸期から続く名所の変貌
お茶の水坂を上る13系統岩本町行きの都電。右端には荷物を満載した日本通運のいすゞTSD型四輪駆動トラックが写っている。水道橋~順天堂病院前(撮影/諸河久:1969年6月9日)  1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は本郷台地から外濠通りを水道橋に下るお茶の水坂と、坂下で交差する白山通りを走る水道橋線の都電だ。 *  *  *  神田川の南岸に位置する駿河台と、これに拮抗する北岸の本郷台がおりなす御茶ノ水渓谷は、江戸城の外濠として防衛上の重要な役目を果たしていた。御茶ノ水の渓谷美は明治期から絵画や詩に遺されており、現在でも四季折々の移ろいを楽しめる都心の景勝地だ。 駿河台と本郷台を結ぶお茶の水橋に敷設されていた錦町線の線路遺構の話題は既に配信しているが、今回は本郷台地の南端を東西に貫く外濠通りに敷設された御茶ノ水線の「お茶の水坂」と、坂下の白山通りに敷かれた水道橋線を走る都電と街並みの話題だ。 冒頭の写真は「お茶の水坂」の上り勾配を力走する13系岩本町行きの都電。水道橋から本郷元町まで、230mの上り坂が続く御茶ノ水線の難所だった。画面右側には震災復興公園として1930年に開園された「元町公園」の樹木が見える。洋風に造園された園内からは神田川の渓谷美と駿河台の街並みを鑑賞できる。高層建築が無かった時代、好天日には「富士山」が遠望できたため、お茶の水坂も「富士見坂」の一つに数えられていた。 お茶の水坂の近景。神田川寄りには歩道が設置され、渓谷美を鑑賞しながら散策を楽しめる。左側奥の建物は対岸の神田三崎町に所在する東洋高等学院の校舎。(撮影/諸河久)  半世紀を経た近景では、神田川寄りに街路樹が植樹された歩道が設置されて、人に優しい緑豊かな「お茶の水坂」に変貌していた。元町公園の背後の建物が東京都立工芸高校の校舎で、クリエーターの養成校に相応しい際立った外観をしている。その右奥の高層建築が東京ドームホテルで、前世紀末の1999年から営業を開始している。■風光明媚な御茶ノ水渓谷が都電車窓に展開 外濠通りに設置された御茶ノ水停留所から13系統新宿駅前行きの都電に乗車。停留所を発車すると、神田川に架橋されたお茶の水橋が左手の視界に入ってくる。往時は橋上で折り返す錦町線があったことを思い出す。右側には東京医科歯科大学の建物が見え、関東大震災までは、この地に東京女子高等師範の学び舎があった。 お茶の水坂上から水道橋に勾配を下る13系統新宿駅前行きの都電。対岸の駿河台には国鉄(現JR)中央線が走る。右端の乗用車は日産ブルーバード410型。 本郷元町~水道橋 (撮影/諸河久:1964年12月21日)  直近の三差路の交差点を直進すると大きく展望が開け、湯島から本郷元町(現本郷二丁目)に町名が変わる。右には順天堂大学病院が所在し、少し西側に「日本学生会館(旧・文化アパートメント)」が見えると、本郷元町の停留所だ。ちなみに、1965年に実施された町名変更にともなって、本郷元町の呼称は順天堂病院前に改称された。 本郷元町を発車して200mくらい進むと、最急勾配が52.6パーミルの「お茶の水坂」に差し掛かる。頭上には「特別坂路 注意」の標識板が現れ、都電は一旦停止してからブレーキを緩め、水道橋に向けて坂を下って行く。車窓左手には神田川畔の渓谷が続き、対岸には国鉄(現JR)中央快速・緩行線が並走している。御茶ノ水駅に向かう中央線上り快速電車と緩行電車がクロスオーバーするファン垂涎のシーンが展開する。 次のカットは本郷元町を発車してお茶の水坂に差し掛かる13系統新宿駅前行きの都電。画面右側の上空には「特別坂路 注意」の標識板が見える。神田川を挟んだ対面の建造物は、1995年まで駿河台に所在した日仏会館と推察した。画面左端には東京医科歯科大学を背景にした13系統水天宮前行きも写っている。 昭和の香りが漂う本郷元町の家並を背景にして、お茶の水坂を上る13系統水天宮前行きの都電。左から三軒目の二階建て家屋が「鉄道模型社」と推定した。右端には日本学生会館が写っている。水道橋~順天堂病院前(撮影/諸河久:1968年3月12日) ■母校・日大経済学部屋上から撮った本郷の都電風景 1968年3月31日に、母校である日大経済学部三崎町校舎前を走る水道橋線の廃止が予定されていた。春休み中の校舎の屋上から、後述の水道橋停留所と一緒に本郷台方向の都電を撮影した。このカットは、アサヒペンタックスSVにタクマー200mmF3.5望遠レンズを装填した一コマだ。画面手前が神田川の北岸で、外濠通りにはお茶の水坂を上り順天堂病院前停留所に接近する13系統水天宮前行き都電が写っている。この13系統も撮影した3月いっぱいで、運転区間が新宿駅前~水天宮前から新宿駅前~岩本町に短縮の予定だった。 画面右端のクラシックなビルが「日本学生会館」だ。この建物は大正期の1922年に竣工した日本初の洋式集合住宅。本郷のランドマークの一つとして親しまれたが、老朽化したため1986年に解体された。 都電の背景が戦災を免れた本郷元町の街並みで、昭和の雰囲気を醸し出す佇まいが残されていた。この一隅には、筆者も通った「鉄道模型社」の店舗が盛業していた。同社はHOゲージのC62型やEF58型など、国鉄の看板車両をいち早く製品化した鉄道模型メーカーで、戦後の鉄道模型業界の原点となった。  日大経済学部の校舎から俯瞰した白山通りで行き交う17系統池袋駅前行きと数寄屋橋行きの都電。画面左奥に営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の跨道橋が見える。右側の七階建てのビルが、筆者が実習授業に通った日本水道会館。(撮影/諸河久:1968年3月12日)  次のカットは、タクマー200mm望遠レンズが捉えた水道橋停留所を行き交う17系統の都電だ。17系統は3月31日で、運転区間が池袋駅前~数寄屋橋から池袋駅前~文京区役所前(旧称春日町)に短縮の予定で、水道橋からは姿を消すことになっていた。画面手前から左奥にかけて、白山通りに敷設された水道橋線の軌道敷が写っている。画面左中央が後楽園前停留所で、戦前は壱岐坂下と呼称されていた。その奥に営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の跨道橋が見えている。 私事で恐縮だが、筆者が東京写真専門学院(現東京ビジュアルアーツ)に在学中、画面右手前に写っている「日本水道会館」にはスタジオと暗室の教室が設置されていた。二年次には駿河台のお茶ノ水本校舎と共に、この水道会館でも実習授業を受けていた。建物の二階には喫茶店「舟」があった。供食施設やロビーが整った本校舎と違い、分校舎の水道会館にはその様なスペースがなく、舟が先生方や学生の談話室になっていた。コーヒーカップを傾けながら、先生方や級友たちと写真論を熱く語った思い出がある。 また、作家・三島由紀夫がトレーニングに通った「後楽園ジム」帰りの飲食に、舟の階下で盛業していた「かつ吉」を贔屓にしていた。というエピソードも残っている。 水道橋交差点から文京区役所方面を写した白山通りの近景。周辺はオフィスビル街に変貌し、都電が走っていたことも連想できない。遠景に見える跨道橋を東京メトロ丸ノ内線の電車が走り去った。(撮影/諸河久)  最後のカットが水道橋交差点から写した半世紀後の白山通りと本郷一丁目の近景だ。件の日本水道会館は建て直されて、貸し会議室の全水道会館になっていた。画面左隅の観覧車の見える遊園地は、従来の「後楽園ゆうえんち」をリニューアルした「東京ドームシティアトラクションズ」で、2002年に開園している。 左奥の東京メトロ丸ノ内線の跨道橋には1988年に登場した02系が写っている。数年後に全車が新鋭の2000系に置き換えられる予定だ。  1960年代の水道橋交差点は2・13・17・18・35の五系統の都電で賑わった。最後まで残った13系統が1970年3月に廃止され、交差点から都電の轍が消えた。 温かさや生活感に溢れた本郷の街並みは、半世紀という歳月の中でオフィスビルが林立するクールな街に変貌した。時の流れの冷酷さを、あらためて痛感している昨今だ。■撮影;1969年6月9日◯諸河 久(もろかわ・ひさし)1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。※AERAオンライン限定記事
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AERA 2020/04/25 07:00
巨人・坂本、メジャーも最年少2000安打も“ほぼ消滅” 目指して欲しい「新たな偉業」
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巨人・坂本、メジャーも最年少2000安打も“ほぼ消滅” 目指して欲しい「新たな偉業」
史上最年少2000本安打達成は厳しくなった巨人・坂本だが… (c)朝日新聞社  巨人・坂本勇人は新型コロナウイルス最大の被害者の一人だ。  昨年までに1884安打を放ってきた天才打者は、史上最年少2000本安打達成という大記録が期待されたが、プロ野球開幕のメドすら立たない状況下、その偉業への到達は消滅したも等しい。  これまでの記録は68年、榎本喜八(東京)が達成した31歳7カ月と16日。坂本は今シーズンが予定通り開幕していれば、7月29日までに残り116安打と、十分射程圏内だったが厳しくなってきた。  坂本は06年オフのドラフト1位で青森・光星学院高(現・八戸学院光星高)から入団。2年目の開幕戦で早くも8番・二塁手として先発出場を果たすと、当時の正遊撃手だった二岡智宏の故障も重なり、すぐにショートの定位置を確保した。その後も原辰徳監督の英才教育のもと順調な成長を遂げ、チームの主力選手となったのは周知のとおりだ。  天才的な打撃がウリで12年に最多安打(173)、16年にセ・リーグ遊撃手としては初めてとなる首位打者(.344)と最高出塁率(.433)を記録。守備でもゴールデングラブ賞を3度受賞するなど、攻守にわたって高い能力を示している。甘いルックスとスマートな体型も重なり、巨人の球団史に残るスター選手となった。 「見た目からチャラい印象もあるが、野球に対して本当に真面目。打てなかったりミスすると、泣きながら練習していた時もあった。打撃も天才的と言われるが、とにかくバットをよく振る。あれだけ練習すれば結果が出るのはわかる。若い選手に見習って欲しい」  入団当初からよく知る球団関係者は、坂本の野球に対する姿勢は本物だと語る。  坂本は巨人在籍13年間で7度のリーグ優勝、2度の日本一を経験。近年は腰痛に悩まされることもあるが、一軍定着以来、中心選手として常にチームを引っ張ってきた。 「ジャイアンツで最後までプレーしたいという気持ちを今は持っています」(坂本)一時期はメジャー挑戦も考えたこともあったというが、18年オフに5年の長期契約を結び“生涯巨人”を選択した。 「メジャーに対する憧れは昔から口にしていた。しかし自らの立場などを考えメジャー挑戦を封印し、日本球史に残る選手になることを誓った。その中での目標の1つが最年少2000本安打。本人はかなり落ち込んでいるのではないでしょうか」(巨人担当記者)  小学校時代にバッテリーを組んだ田中将大は、メジャーの名門ヤンキースでエースとも呼べるレベルの投手となり、比較されて悔しい思いもしてきた(小学生時代は坂本が投手、田中が捕手)。様々なメジャーへの気持ちを封印、『日本でトップになる』と決意した矢先に目標を失った失意は大きいはずだ。 「口にはしないがやり切れないだろう。無念なはずなのに、今まで以上に熱心に野球に取り組んでいる。何かが吹っ切れたようです」と、前出の球団関係者は坂本の前向きな姿勢を大絶賛する。社会情勢も不安定な中、他球団からはトラブルも聞こえてくる。いつ開幕できるかもわからない。そんな中でも坂本は連日、準備を欠かさないという。  史上最年少2000本安打達成できなくとも、坂本の価値が決して下がることはない。そして、これから狙えるものは他にも沢山ある。  張本勲氏(元東映ほか)が達成した3085本の最多安打。そして立浪和義氏(元中日)が打ち立てた487本の最多二塁打(現在坂本は348本)という2つの大記録更新の可能性がある。昨シーズンはキャリアで2番目に多い173本のヒットをマークし、本塁打は自己最多を大きく上回る40本塁打を記録。円熟期を迎え、まだまだ成績が伸びそうな予感が漂うだけに、期待は大きい。 「試合数は異なるとはいえ、張本氏、立浪氏とも左打者。右投手が圧倒的多数であり、一塁への距離も近い左打者が有利なのは間違いない。右打者の坂本が成し遂げる意味は大きい」と巨人担当記者が続ける通り、これまで打撃記録を達成した多くは左打者だった。その壁を乗り越えることで、坂本は打撃技術の高さが史上最高レベルにあることを証明することになるだろう。  グラウンド内だけではない。私生活でも歴史に残るインパクトを残す可能性がある、と語るのは在京テレビ局関係者。 「モテ男だから各界女性からラブコールがひっきりなし。12月で32歳という年齢的にも結婚を考えていてもおかしくない。野球選手にありがちな女子アナなどではなく、誰もが知る超一流芸能人と結婚の可能性もある。かつてのジョー・ディマジオとマリリン・モンロー級を目指して欲しい」  ディマジオは56試合連続安打のMLB記録保持者でヤンキースの大スターだった。引退後に大女優モンローと結婚し、新婚旅行では日本を訪れるなど全世界を騒がせた。仮に坂本が人気絶頂の女性、例えば乃木坂46・白石麻衣や女優・本田翼などと結婚するようなことがあれば、それこそ世の中は大騒ぎになるだろう。  惜しくも最年少2000本安打達成は非常に厳しい状況となったが、多くの日本記録更新の可能性が残っている。そして近年少なくなった周囲を魅了するスター性もある。公私ともに話題を集められる坂本は大物だ。非常事態下の我が国において、スポーツの果たす役割は微妙たるものだろう。しかしこんな時代だからこそ明るい話題を提供して欲しい。坂本勇人にの“今後”には大いに期待したい。
dot. 2020/04/24 16:00
小松菜奈「作品に参加する以上爪痕を残したい」 最新映画「糸」で菅田将暉とW主演
古谷ゆう子 古谷ゆう子
小松菜奈「作品に参加する以上爪痕を残したい」 最新映画「糸」で菅田将暉とW主演
俳優・モデル 小松菜奈 (c)2020映画「糸」製作委員会  その圧倒的な存在感ゆえ、どこか近寄りがたい雰囲気を持ち、ミステリアスでアンニュイとも評される。だが取材の場ではうってかわって、無邪気な笑顔を見せてくれた。AERA 2020年4月20日号で、映画に対する愛情を語った。 *  *  *  小松菜奈(24)と菅田将暉(27)がW主演する映画「糸」は、1992年に発表された中島みゆきの同名のヒット曲をモチーフにしている。  平成元年に生まれた小松演じる葵と、菅田演じる漣。2人は13歳のときに北海道で出逢い、互いに惹かれ合うが離れ離れになり、さまざまなすれ違いの末、平成の終わりに再び出逢う。この映画はその18年間が描かれた物語だ。  2人がそれぞれに出逢う人々とのつながりもまた、重要なテーマとなっている。 小松菜奈(以下、小松):「糸」という曲には、人生において大切なことが、ぎゅっと凝縮されていると感じました。縦と横の糸によって布が織られていくように、人と人が出逢うことで繋がっていくという歌詞は、私自身の人生にも重なります。今回も、いろんな縁が重なって「糸」という作品が生まれました。共演者には、菅田さんをはじめ過去に共演したことのある方も多いんです。不思議だな、面白いなって思います。  小松演じる葵は養父から虐待されるなど、複雑な過去を持っている。だが、北海道から東京、沖縄、シンガポールへと舞台を移すたびに自分の世界を広げていく。 小松:私は20代から30代の葵を演じましたが、時間を経るなかでどのような変化を見せればいいのかは一つの課題でした。メイクや衣装などの外見で表現することはできますが、彼女の内面はどのように変わっていったのか。それを考えたとき、生きていくうえでの「覚悟」みたいなものは変わっていくけれど、性格はそう簡単には変わらないと思ったんです。  葵の生い立ちは複雑ですし、精神的に不安定な時期もあった。大人になってからも人に裏切られています。それでも夢を叶えようと努力するなかで、彼女は色々な景色を見てきたと思うんです。葵が夢に近づくにつれ笑顔を増やし、堂々と演じたい、そう思いました。地に足をつけて踏ん張ってきた葵らしく、自立した一人の女性としてちゃんとスクリーンに映ればいいな、と。  物語の舞台と共に、共演者が変わることも大きかったですね。相手に引っ張ってもらうことで、葵の気持ちも、私自身の気持ちも自然と変化していった気がします。  出来上がった作品を見たとき、何をもって幸せと感じるかは一人一人違う、ということを改めて感じました。恋人と過ごせるだけで幸せを感じる人もいれば、海外に出て成功することで喜びを感じる人もいる。色々な幸せの形を教えてもらいました。  モデルとして活躍していた小松が本格的に俳優デビューしたのは18歳のとき。映画「渇き。」(2014年)で、美しいが邪悪な一面を持つ女子高生役を演じ、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。以来、約20本の映画に出演してきた。  激しい感情を内に秘めた役も、爽やかな青春映画のヒロインも、どの作品でも強い印象を残している。 小松:現場では毎回新鮮な気持ちで臨んでいて、一つ作品を終えるたびに大きな達成感を覚えます。これまで演じてきた役とはまったく違う役をいただくと、ワクワクしますね。純粋に「楽しもう」という気持ちになります。どの役柄も同じように見えてしまうのはいやだし、作品に参加させていただく以上、何か爪痕のようなものを残したいんです。映画は短期集中で撮影が行われることが多いので、一つの役に慣れすぎることがないのもいいのかな。  演じていると、目の前にいる役者さんが、物語のなかの人物にしか見えなくなる瞬間があるんです。背景や空気感……なにもかもがピタッとそろって、シーンを作り上げてくれる。  ロケの場合、たとえばそこに大きな石があったら座ってみようか、とか。状況に応じて、撮れるものも見えてくるものも変わってくる。そんな瞬間は何度経験しても鳥肌が立ちます。やっぱり映画が好きだな、やめられないな、と思いますね。  俳優としてのキャリアを着実に積み重ねる。そのなかで、脚本の読み方にも変化が出てきたという。 小松:脚本を読んでいるときの温度感みたいなものは、確実に変わりました。頭をフル回転させながら、より深いところまで想像を膨らませることができるようになった気がします。  昔はト書き(俳優の動きを書いたもの)に「泣く」と書いてあると「わ、ちゃんと泣けるかな?」と思い、緊張していたんです。本当に大切なのは、相手の言葉や前後の出来事から気持ちを想像することなのに、脚本に書かれた文字だけを追って、惑わされていたんですね。  実際に泣けるかどうかは演じてみるまではわからないところがあって、その場に立ってみると、「意外と泣けないな」と思うこともあります。そうした感情は素直に出していきたいし、悩んだときには監督に相談します。  そうやって葛藤しながらも一つ一つのシーンを丁寧に撮っていけるのは、映画のよさだと思っていますし、自分の性格にも合っているのかもしれません。  今、取り組んでいること、現場で自分に課していることはあるのかと尋ねると、意外な答えが返ってきた。 小松:走ることですね。「恋は雨上がりのように」(18年)という作品で陸上部の元エースを演じてから、日常生活のなかでも走る時間をつくるようになりました。映画の撮影に入っても、早く終わる日は走っています。そのために早起きをすることもありますね。1時間以内ですが、走るようになってから、集中力が格段に上がりました。  撮影には常に全力で臨みたい、と思っていますが、撮影中は考えなければいけないことも多く煮詰まってしまうこともあるんです。役柄にのめり込んでしまうこともありますし。  でも、走っているときは無の状態になれる。そこで煮詰まっていた頭がスッキリして、「次はこんなふうに台詞を言ってみよう」と、アイデアも浮かびやすくなるんです。 「糸」の撮影中は、沖縄のシーンでは時間があれば海にプカプカ浮いたりして自然に触れて、リフレッシュしていました。忙しいときでも違うことをして切り替えることって、自分にとってはすごく重要なことなんだと思います。  俳優とモデルの仕事を並行していますが、両方の仕事をさせていただいているからこそ、どちらにも真剣にまっすぐに向き合える気がします。二つの仕事をすることで、自分のなかでのバランスを保っているのかもしれません。 (ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2020年4月20日号
AERA 2020/04/17 11:30
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