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妻・恭子さんが語る大林宣彦監督と歩んだ60年と遺作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」
坂口さゆり 坂口さゆり
妻・恭子さんが語る大林宣彦監督と歩んだ60年と遺作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」
大林監督と写した、妻・恭子さんお気に入りのツーショット(C)PSC  大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」が公開され、話題を呼んでいる。日本映画の可能性を広げてきた作品の数々はどのように生まれてきたのか。大林映画のプロデューサーを務める妻・大林恭子さんに聞いた。  監督とはプライベートフィルムを作り始めた大学4年生くらいの時からアイデアを出し合っていました。当時からあふれる才能を持っていました。私はそこに引かれて、ずっと一緒にいられたのでしょうね。  大林映画のプロデューサーとしてクレジットされたのは、「転校生」の時からです。監督には毎回、脚本を読んで今回はここに予算をかける、と決めて宣言するんです。私の言うことを聞いてはくれるんですが、結局は自分のやりたいことをやってしまうのです(笑)。ただ、「海辺の映画館」ばかりは私は何も言えませんでした。「これが最後かな」という思いがあったからかもしれません。自由にやらせてあげたい、と決めていました。  私が監督に意見を言うことはありませんでした。彼はけなしちゃうとダメなんです。男の人ってそういうところがあるでしょう? 特に監督はそうですね。褒められるとすごく乗ってしまうタチ。そういう子どもみたいなところがある人です。  私たちはけんかというけんかをしたことがありません。出掛けにちょっと口げんかみたいなことになったとするでしょ。そうすると、一度家を出て、その辺まで行って帰ってくるんです。「ごめんね」と謝ってまた出ていく。そのまま出掛けて事故か何かに遭ったら二人とも後悔すると思ったんだと思います。  だから大林が怒っている姿を見たのは、「海辺の映画館」の撮影中がほぼ初めて。この映画は途中で一度企画がポシャってしまい、スタッフはほぼ全員初めて組んだ方たち。そのため演出部も制作部もいつものように自分の思いが伝わらない。怒っているのは皆さんに対してではなく、自分に対してなんですよ。もう大きな声で指示できない。歩くこと、走ることができませんでしたから。自分で伝えられないことがもどかしかったんです。だから最後はいつも皆さんに「ごめんなさい」と謝っていました。完成した時は感謝ばかりでしたね。  大林の映画は東日本大震災を境に変わりました。「映画でしかできないことを撮る」と言っていた彼が、「この空の花─長岡花火物語」からは、自分の戦争体験を伝える、描くようになりました。私の東京大空襲の体験も入れてくれました。黒澤明監督の言葉の通り「映画で未来を平和にしてほしい」という思いがこもっていたと思います。  私が作品の良しあしを判断する基準にしていたのが、スタッフの言葉です。映画でしか表現できないことをやるのが好きだった監督でしたから、撮影中にスタッフもキャストも「どうなるのだろう?」と思うわけです。そして、初号を見るとみんな「こうなるんだ」と納得する。彼らも映画の喜びや技術的なことを学んだり感じたりするんでしょうね。だから、「また監督につきたい」と言ってくださる。「恭子さん、次いつやるの?」。それが私のバロメーターでした。  でもね、60年以上一緒にやってきて私にとっては一度も「えぇ(どうしてこれを撮るの)?」という作品はなかったんですよ。脚本を読むと私なりのイメージができますが、いつも思っていた以上のものができあがった。彼の作品に裏切られたことがないんです。だから私、「すごいよね、あなた」って遺影に向かって言っちゃうの。それはとっても幸せだったと思います。できることならあと2作撮らせてあげたかった。思い入れのあった福永武彦の「草の花」と檀一雄の「リツ子その愛・その死」。それができなくなってしまったのは残念です。  監督からはたくさんのことを教えてもらいました。例えば人との接し方。お願いした小道具が意に沿わないものだったとしても、一度は必ず褒めるんです。その後に「こういうやり方があるよ」と伝える。その姿勢は最初から全然変わりませんでした。  亡くなる10日くらい前から毎晩途切れ途切れではあるんですが、講演でもしているのか「皆さん、ありがとう」って言うんです。おもしろいのがその後、「はい、3、2、1、カット」って。撮影中なのねと思いました。しばらくして休むのかなと思う頃に、今度はポソッと「恭子さん、ありがとう」って毎晩言ってくれました。出会った時から変わることのないやさしい人でした。 ■大林監督の主な劇場映画(解説・大林恭子さん) ◇1977年 「HOUSE/ハウス」「瞳の中の訪問者」 「『HOUSE』は大林の父方の実家と医院が原点になっています」。役名『シロ』の猫ちゃんの本名は『アカ』! ◇78年 「ふりむけば愛」  スタイリストがいない時代、「初めて百貨店の全館とタイアップしてもらって、山口百恵&三浦友和の衣装や小物等をすべて調達しました」 ◇79年 「金田一耕助の冒険」 ◇81年 「ねらわれた学園」 「ケーキまで消えもの(料理)はすべて私が作りました。映画館で見た時、隣の女子高生3人組が食事のシーンになると『おいしそう!』と言ってくれたのは、すごくうれしかったわ」 ◇82年 「転校生」  恭子さんがプロデューサーになることを決意。クレジットに初めて肩書を入れる。 ◇83年 「時をかける少女」「廃市」 「『時をかける少女』では(原田)知世がまだ14、15歳。よく食べては笑っていたからゲラ子だねって言ってました」「『廃市』は80年代のすごく忙しい中でぽっとスケジュールの空いた2週間、監督の『(映画を撮りたい人は)この指とまれ』で2千万円で撮った作品です」 ◇84年 「天国にいちばん近い島」 「撮影場所と宿泊所は距離があったんですね。ラーメンを持って行ったら、みんなが『うどん、おいしそう!』って。ラーメンとは言えなくなっちゃいました」 ◇85年 「さびしんぼう」「姉妹坂」 「『さびしんぼう』の撮影は寒い時期で。仕事が一段楽した車両部の男性たちを市場に連れて昼食用の買い出しに。あったかい魚汁などを毎日作っていました」 ◇86年 「彼のオートバイ、彼女の島」「四月の魚」「野ゆき山ゆき海べゆき」 ◇87年 「漂流教室」 ◇88年 「日本殉情伝 おかしなふたりものくるほしきひとびとの群」「異人たちとの夏」 ◇89年 「北京的西瓜」 ◇91年 「ふたり」 尾道で記者発表した翌日の撮影は大雨だったが決行。「監督が何を言い出すかわからないからスタッフは監督が言いそうなことすべてを用意していました」 ◇92年 「私の心はパパのもの」「彼女が結婚しない理由」「青春デンデケデケデケ」 ◇93年 「はるか、ノスタルジィ」「水の旅人―侍KIDS―」 「はるか、ノスタルジィ」は美術予算をたっぷりとって大掛かりなオープンセットを組んだ。東宝撮影所20年ぶりと言われた。「恭子さん、ありがとう。これで死んでも思い残すことがない」と言った美術監督の薩屋和夫さんは翌年亡くなった。「もっと苦労をかければよかった」 ◇94年 「女ざかり」 ◇95年 「あした」 「何もない小さな砂浜に、船の桟橋や待合室の大オープンセットを作りました」 ◇98年 「三毛猫ホームズの推理<ディレクターズ・カット>」「SADA 戯作・阿部定の生涯」「麗猫伝説 劇場版」日本テレビの火曜サスペンス100回記念。「風の歌が聴きたい」「『風の歌が聴きたい』は沖縄から北海道まで大ロケーションでした」 ◇99年 「あの、夏の日~とんでろ じいちゃん~」 ◇2000年 「淀川長治物語・神戸篇 サイナラ」「マヌケ先生」 「『マヌケ先生』は監督の自叙伝です」 ◇02年 「なごり雪」 「撮影は2001年。三浦友和さん、ベンガル、正ヤン(伊勢正三)皆さん50歳。そこで副題は『50代のエレジー』」 ◇04年 「理由」 「宮部みゆきさんの大長編を大学ノート1冊に分析。登場人物すべてを脚本に入れました」 ◇07年 「転校生~さよなら あなた~」「22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語」 ◇08年 「その日のまえに」 ◇12年 「この空の花ー長岡花火物語」 「監督はこの作品から映画でどう描くかではなく、何を描くかに変わりました」 ◇14年 「野のなななのか」 ◇17年 「花筐/HANAGATAMI」 「40年前に、商業映画第一作にとすでに脚本化。クランクイン直前、大林はがんの宣告を受けましたが、撮影の完成までは『絶対大丈夫』という妙な自信が私にはありました。唐津の日赤病院に入院しながら現場に通いましたが、撮影からなかなか戻らなかったために病院から捜索願いが出たこともありました」 ◇20年 「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」 映画に出てくるピアノは監督が5歳の頃から弾いていた大林家のもの。「尾道の坂道の中腹にある家から撮影場所まで運びました」 (ライター・坂口さゆり) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/08/02 15:18
Sexy Zone菊池風磨くんが小学生の恋愛相談にアドバイス 「めちゃくちゃモテた」自らの小学校時代も告白
大道絵里子 大道絵里子
Sexy Zone菊池風磨くんが小学生の恋愛相談にアドバイス 「めちゃくちゃモテた」自らの小学校時代も告白
Sexy Zoneの2020年初シングル「RUN」が8月5日に発売(写真はイメージです/gettyimages)  小中学生向けのニュース月刊誌「ジュニアエラ」の人気連載「Sexy ZoneのQ&Aステーション」。毎回セクゾのメンバーが読者からの質問に答えてくれます。8月号では、菊池風磨くんが、好きな男の子への告白について悩む小学生からの質問に回答してくれました。 *  *  * 【質問】  好きな男の子がいます。春から中学生なので、中学に入ったら告白しようと思っていますが、早くしないと誰かに取られる不安もあります。卒業するときに告白したほうがいいでしょうか? 風磨くんならどうしますか 。(風磨のトリコ・12歳)※質問は1月時点 【回答】  結論から言うと、告白るって計算じゃなくて「今したい!」ってときが一番ベストなタイミングじゃない? もし、迷ってる間に誰かに取られたとしても、それはそれで大事な経験になる。「あぁ遅かった」と感じる後悔は、次に大切な人ができたときにおのずと生きてきますから。  どっちにしても、時期的にすでに告白してるかもしれないよね。うまくいってたらおめでとう! たくさん思い出をつくってね。ダメだった場合は、……やっぱりそれも経験かなと思います。べつにあきらめる必要もない。ずっと好きでいるうちに、相手も好きになってくれるかもしれない。そうなったら、つらい思い出も、二人の物語を彩る一部になるわけで……。片想いでもなんでも、好きな人がいるってことは幸せなことだと思いますよ。  俺? 小学校時代はめちゃくちゃモテました。告白されることも、自分からすることもあったけど、「好き」を伝えることで完結してて、「付き合う」とか、「デートする」とか、その先の選択肢はわからなかったんだよね。そういう方面には早熟じゃなかった。「べつに女子とか関係ないし」みたいな強がりで、男子校ばっかり選んで中学受験したところもあるんで。そう、だから僕、″両想い”じゃなかったことないんですけど……。でも、一人だけどっちかわからない子がいるんですよ。あれって、どっちだったんだろう……ものすごい気になる! あやふやなほうが心に残る思い出になることもあるってことですね(笑い)。 【中島健人くんからのムチャぶり】 今のあなたを四字熟語でたとえて 菊池風磨くんからの回答:Q&Aからの流れで甘酸っぱい思い出が止まらなくなり、上の女の子について語り続ける風磨くん。「明るくてちょっと生意気な感じの子で、ケンカもしたりして……。小学生のころって好きな子がコロコロ変わるけど、その子はずっと好きでした。俺は告白したつもりだし、『私も』的なことを言ってくれた気がするんだけど……妄想かな。『は? 思ってないんだけど。キモっ』って言われるかもしれない(笑い)。たぶんもう大切な人がいて、幸せになってるんだろうな。あ~、思い出しちゃったなぁ!」とニコニコ。で、ムチャぶりの答えは?  「"思出野郎"で(笑い)」。間違いない! (ライター・大道絵里子) ※月刊ジュニアエラ 2020年8月号より
ジュニアエラ
AERA with Kids+ 2020/08/01 17:00
【現代の肖像】アナウンサー・赤江珠緒「自分で自分の人生を、何とかするということ」<AERA連載>
矢部万紀子 矢部万紀子
【現代の肖像】アナウンサー・赤江珠緒「自分で自分の人生を、何とかするということ」<AERA連載>
結婚式を挙げた東京・赤坂の日枝神社で。夫は「『何で仕事しないの』と言うタイプの人」で、ラジオ復帰の背中を押してくれた(撮影/今村拓馬) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  そのラジオを聞き始めたのは、とても面白い知り合いの女性が、とても面白いと言っていたからだ。3年経って気づいたのだが、聞いていてイラッとしたことが、ただの一度もない。それって、すごいことだと思う。明るくて、まっすぐで、自分を偽らない。そういう人だから今日も又、私は「たまちゃん」のラジオを聞くのである。  2019年12月10日午前11時過ぎ、地下鉄赤坂駅の改札口を出ると、すごいことになっていた。赤坂サカスへ通じる広い階段いっぱいに人、サカスの敷地も人、人、人。白髪の男性、ベビーカーのお母さん……老若男女であふれていた。    その頃、TBSラジオの一角は、慌ただしく動いていた。窓から見える長蛇の列。足りなくなることが、確実だった。「たまむすびすごろく」、2千枚しか用意していなかった。って、何?    月曜から木曜まで赤江珠緒(45)がパーソナリティーを務めるラジオ番組「たまむすび」のすごろくだ。12年4月2日にスタートした同番組は、この日が2千回目の放送。記念に、楽しく歴史を振り返る「たまむすびすごろく」を作った。放送2千回当日の正午から無料で配ります、記念のクリアファイルも売るので、よかったら買ってください。そう番組で告知したところ、最終的に約3500人もの人が集まった。    なぜこれほど人気なのか。という話の前に、まずは「赤江珠緒の基礎知識」から。    ラジオよりテレビの赤江を知っている。そういう方も多いだろう。テレビ朝日系の朝のワイドショーの司会を、赤江は通算11年務めている。    スタートは03年6月、番組名は「スーパーモーニング」だった。テレビ朝日の女性アナウンサーがスキャンダルで急遽降板、大阪・朝日放送(ABC)の社員だった赤江に白羽の矢が立った。同番組のメインコメンテーター・鳥越俊太郎とABCの番組で司会をし、テレビ朝日プロデューサーの目に留まった。抜擢の理由は、「スキャンダルに無縁そう」。関係者の多くがそう語っている。 ■飲み会は三次会も行く、東京でも体当たりキャラ    そんな赤江だが、テレビ朝日着任直後、「1週間、毎日違うルートで家に帰ってくれ」と命じられ戸惑ったという。前任者の週刊誌報道があってのことだが、実際マンションのインターホンに謎の女性が接触をしてきた。翌日、「何だったんでしょうね」と鳥越に話したら、「それは週刊誌の記者だよ」と言われ、「そんな扱い、大阪では全くなかったですから、えーーってなりました」。    ABCでは「タレントではなく、社員」と繰り返し教育された。だから、「そうか、東京では、女性アナウンサーはタレントさんの枠に近い感じなんだ」と思ったという。    3年近く経ち、赤江は番組を離れて大阪に戻る。社風があまりに違い、戻りたくなったそうだ。どんな違いかと尋ねると、戻って半年後に「サンデープロジェクト」の司会をした話になった。   「たまむすび」2千回のイベント当日、スタジオを出て参加者の前から生中継。赤江が姿を現すと、一斉に歓声が上がった(撮影/今村拓馬)  土曜日にABCで情報番組「おはよう朝日です」に出演、打ち合わせ後に東京へ。その足でテレビ朝日に行き、田原総一朗率いる「サンデープロジェクト」の打ち合わせ。翌日、本番。「他愛もない会議」から「大学の講義」。「ひらがなの議事録」から「漢字の議事録」。「笑いがとれたらオッケーなところがある」ABCと「やはり真面目で堅い」テレビ朝日のギャップに、頭がパニックになりそうだったと振り返る。が、それだけではなかった。    初めて出演した「サンデープロジェクト」、自公連立政権下の公明党が話題になった。番組最後に田原から感想を求められ、「公明党さんには、おでんで言ったら辛子のような存在になってほしいですね」と答えた。田原からはほめられたが、テレビ朝日の人からダメ出しされた。    あまり自分を出し過ぎないように、という指導だった。が、田原を真ん中に男女1人ずつアナウンサーがいる番組構成だったから、女性は引いていなさいという指導だと理解した。「それには社風だけでなく、文化の違いもある」と赤江。 「大阪では市民のヒエラルキーのトップがおばちゃんで、女性がもの申すことに寛大。だから関西の男の人って、おばちゃん化していくんです」  ABCの先輩の宮根誠司などを引き合いにしながらそう語り、「その点、東京は武士の歴史だから、『女性は一歩引く』になるんだと思います」。 「スーパーモーニング」のことも赤江は、「女性視聴者がメインと言いながら、つくってるのはなんでおっさんばっかりなんだー」と思ったとは語っても、古い体質だったと息巻くようなことはない。「飲み会は全部出る。二次会も三次会も行く」という方針のもと、少しずつ自分の「体当たりキャラ」をスタッフに理解してもらった。  大阪に戻って1年、07年3月末にABCを退社、4月からフリーアナウンサーとして「スーパーモーニング」に復帰した。と書くと、活躍の場を広げるためにフリーになったように見えるが、事情は少し違う。復帰半年前、赤江はABCに辞表を提出していた。その後、テレ朝がABCに赤江の再登板を打診、「退社」と断られ、赤江にフリーでの出演を依頼。そういう流れだった。 「仕事ばっかりしてて、いいのかなー」という気持ちで出した辞表だった。30歳を過ぎ、テレ朝に勤務する現在の夫との結婚も頭にあった。仕事を1回止めて、嫁にでもいって人生考えるか。そんなつもりだったのにフリーでの復帰を決めたことを、「本当に、行き当たりばったりで」と赤江。だがもう一つ、振り返ると自分の中に「女性はこうあるべき」といった概念がけっこうあったと思う、とも語った。この話は、少し後でする。 「スーパーモーニング」が11年に「モーニングバード!」に衣替え。その少し後、妊活も頭にあり降板を願い出たが慰留される。12年からラジオ「たまむすび」を始め、午前4時から午後5時近くまで働く生活を3年余り。15年に「モーニングバード!」が終了、以後は「たまむすび」一本に。以上、ざっくりだが、赤江の仕事史だ。 「うれしい悲鳴、珠緒、感激、まさかこんなに来てくださるとは思ってなくて」。2千回の放送はそんなふうにスタートした(撮影/今村拓馬) ■明解な番組コンセプト、ホスピタリティーを体現  でも、他にも何かあったような。そう思った方のために、「たまむすびすごろく」に戻る。72マス目にこうある。 <赤江&大吉、芝生で寝転がって花見をしている姿を「FRIDAY」に撮られる。1つ前のマスに戻り内容に従え!>  指示に従い、一つ前のマスに戻る。 <ピエール瀧(ウルトラの瀧)、違法行為でお縄になる…。振りだしに戻って正座で10回休む!>  念のため説明すると、博多大吉&ピエール瀧は「たまむすび」のパートナー。月曜から木曜まで日替わりのパートナーが、赤江と話す。赤江の「たまむすび」は、いわばそれだけの番組だ。  71と72マス目は、どちらも19年春の出来事。3月に瀧の逮捕、そのことを大吉と話していて写真を撮られたのが4月。赤江は17年7月、42歳で長女を出産、産休から戻ったのが18年4月だったから、復帰1年足らずでの激震だった。  でも、だからこその、“3500人”だったのでは。そう語るのは、「たまむすび」プロデューサーの阿部千聡。16年、放送千回の時も「オリジナルポスター無料配布」のイベントをしたが、集まったのは800人。番組の内容はほぼ同じなのに、4倍以上集まった。 「励ましたいとリスナーが思ってくださったんじゃないでしょうか。たまちゃん、がんばって、私たちがついてるよ、って。そんな気がします」 「たまむすび」のコンセプトは実に明解、「赤江さんみたいな雰囲気を体現する」だと阿部は言う。「重要な情報は一つもない。でも、聞いた人には楽しんでもらう。ホスピタリティーっていうんですかね、それが赤江さんの性格だと思うんです」  阿部が赤江を一番尊敬するのは、「着地がわからないのに飛べる」ところだという。似てない物真似もする、知らない歌を歌う。オンエアというスイッチが入れば、やってしまう。そういう女性アナウンサーはそうはいない、と阿部。 ■自分に誠実だから悩む、その「揺れ」が共感される  赤江のABC時代の先輩、アナウンス部部長の加瀬征弘(55)の話と重なった。  入社した年の夏の甲子園。アルプススタンドからの中継で、赤江はいきなり靴と靴下を脱いだ。裸足になり、「アチ、アチ」と暑さを伝えた。手で触ってもいいのに、裸足。「意味わからないじゃないですか。でも面白いじゃないですか」と加瀬。赤江はその後、テレビ、ラジオの甲子園実況を担当。両方担当した初の女性アナウンサーだ。 「24時間ついていたわけではないですが、どれだけ練習したことか。そうでないとあんなにしゃべれません。いろんなことを犠牲にしたと思います」  そんな赤江だが、「たまむすび」におけるキャラは「ポンコツ」だ。その一端を、ある日のやりとりで紹介する。パートナーは山里亮太。  赤江 重い家具を動かすもの、最近いろいろありますよね、「コテ」を応用して。  山里 赤江さん、それ「てこ」だよね。  記憶だけで書いているが、まあ、こんな調子。番組には、赤江の「失敗、やらかし」をまとめて振り返るコーナーさえある。 火曜日のパートナーは、南海キャンディーズの山里亮太。「ニュースたまむすB」のコーナーで、「本業はキャスターの赤江珠緒です」と赤江が言うと、すかさず山里が「ダウト」。それが、毎週のお約束(撮影/今村拓馬)  ちなみに「ポンコツ」と最初に認定したのは、瀧。赤江の娘の愛称を「ピンクピン太郎」と決めたのも瀧。瀧が逮捕された翌日、赤江は番組で「ほんとにバカたれが、何やってるんだ」と言いながら、自分にとって瀧はラジオの恩人だと涙声で語った。瀧についてのトークは、20分余り続いた。  阿部は赤江を「誠実な人」と言う。リスナーにも、自分にも誠実でありたい。その表れがあの日の20分だった。そして、誠実であるから悩む。その「揺れ」が赤江さんの魅力だと思う、と。  阿部が向き合った赤江の「揺れ」の一つに、「妊娠→退職願」があった。16年、妊娠4カ月の赤江からの「番組をやめたい」という申し出。出産としては高齢だから、専念したい気持ちは理解できた。が、「生まれてから決めましょう」と、社長も巻き込み説得した。プロデューサーという役割からでもあったが、それ以上に「赤江さんが好きだから、後悔してほしくなかったんです」と阿部。  赤江の中に「自分がお母さんにしてもらったことを、子どもにしてあげねば」という気持ちがあると感じていた。転勤族の父と専業主婦の母、赤江は「団塊世代のプロトタイプな家」で育った。 「ずっと子どもと一緒にいて、母親にしてもらったことをしたい。本当にそう思うならやめてもいい。でも、そうすべきだ、と思っているなら、両立する道を模索してもいいんじゃないか。そんな話をよくしましたね」  ここより前に、赤江が「自分の中に、女性はこうあるべきという概念がけっこうあった」と語ったことを書いた。その話をする。  なぜフリーになってからも事務所に所属しないのか、と尋ねた。すると赤江は、たくさんの事務所から誘いを受けたが全て断った。不便は感じていなかったが、今思えば自分の中に「父と母の娘」ということが色濃くあったからかもしれない。そんなふうに答えた。  誰に言われたわけでもないが、「家のことは女性がする」と思っていた。だが、子どもが生まれるとそれでは回らなくなった。母と違い、ワンパターンの離乳食を与えている自分に罪悪感も持った。だが少しずつ、親から引き継ぐものと断ち切るものを選別しなくてはと思うようになった。断ち切るのはしんどい作業だったが、「七夕の飾り付け」と思うことにした。赤江はそう言った。 「真四角の折り紙を切っていくと、フワッとなって、幅も広がる。切ることで、全然違うものになれるんだ。そのイメージができて、ストンと落ちました。ずっと自由に生きてきたつもりでしたが、縛られていたところがあったんですね」 ■先のことはわからない、自分の人生は自分で灯す  瀧の事件が起きたのはこの境地に至る前、悩みの最中だった。娘が保育園でしょっちゅう風邪をもらい、それが自分にうつる。体力が落ち、もう仕事は無理かもと思う。子どもに興味のない、またはかつての自分のような妊活中のリスナーもいるだろう。だが出産前ほど準備ができず、番組での話題が娘のことばかりになっている。自信のなさが、マックスになっていた。 「スタッフ、パートナーが、私を面白く立たせようと、どうにかこうにか神輿に乗せてくれて番組が成立している。その自覚が強くありました。なのに、神輿を支えてくれる大きな柱が抜けてしまう。そんなことで、私、立っていけるのかな」 女性ファッション誌「LEE」2019年10月号ラジオ特集で、「好きなパーソナリティー、DJ」女性編の1位に。ちなみに男性編1位は星野源(撮影/今村拓馬)  だから番組を降りようと思った。が、一方で、すぐにはやめられない事情もあった。瀧の「降板」を決めるのは、会って直接話してからにしたい。だからそれまで、代わりのパートナーを毎週よび、番組を回そう。編成や営業に迷惑をかけると思いながら、その意思だけは通したのだ。  その間、あれこれ考えた。自分を立たせるとは、どういうことか。「自己肯定感」が話題になっているから、そういう本も読んだ。しばらくして、一つの結論に行き着いた。何が起きても自分の人生は自分でなんとかする。それが、自己肯定感ではないか。人生は、これからも何が起きるかわからない。だけど、何か起きても自分で何とかする。最初からそう決めておこう、そう決めた。と思った瞬間、不思議と自信がわいた。 「自分の人生に、自分であかりを灯す。自分で自分のことをすればいいんだから、私、できるわ」  そう思ったんです、と赤江は言った。  自分のことを「ああだこうだ考えるのが、すごく好き」と言うだけあって、赤江は内省的で、分析的だ。阿部が「赤江さんは、表現したい人なのだと思う」と言っていたと告げたら、次に会った時、「そう言われて考えたこと」を話してくれた。  さまざまな分野の仕事をしたが、放送という表現の中でアナウンサーに求められる感性はいろいろある。報道は怒り、情報番組は誠実さ、スポーツは歓喜、「たまむすび」のようなバラエティーは癒やし。それぞれ違う感性だが、いずれにしても「そうそう、そう言ってほしかった」と思われた時、いい放送になる。そういう分析だった。 「羽鳥慎一モーニングショー」のコメンテーターでテレビ朝日報道局の玉川徹(56)は、「スーパーモーニング」以来の同僚である赤江を「メディア人」という視点で語った。「ちょっと昔は誰にでもあって、いま崩壊しつつある良心、良識を、ちゃんと持っている人だと思います」  愚痴を言わない、悪口を言わない。番組を良くするための前向きな話ができる。そういう人だから時々食事にも行ったと言い、続けたのが代官山で待ち合わせをした時のエピソードだ。  時間通りに行ってもいない。と、思ったら実はいた。ラスタ帽をかぶっていたから気づかなかった、男の人だと思った。そう楽しげに語り、赤江を「ひょいひょいと行けば、良い結果がついてくるような人生じゃないかなあ」と言った。  それは運ということですか、と尋ねたら「運ねえ」と少し考え、こう言った。「確かに運って、邪悪な考えとか持ってると、こないよね」  12月10日の話に戻る。イベント一番乗りは午前6時、秩父の男性だった。それから男性が数人続き、9時半ごろに女性一番乗りが世田谷から到着。2人は共にラジオネームがあり、男性が「ピンクサブマリン」、女性が「隣の大山さん」。詳細は省くが、2人は20年1月27日放送の「たまむすび」に、それぞれの居場所から電話で登場、赤江&パートナーのカンニング竹山とあれこれ話をした。  最後に赤江が、「隣の大山さん、サブマリンさん、どうもありがとうございました」と声をかけた。  すぐに2人の声が重なった。「こちらこそ、どうもありがとうございました」 (文中敬称略) ■あかえ・たまお 1975年 兵庫県生まれ。姉と弟にはさまれた次女。父の転勤で高知市などで育つ。虫と読書が大好きな子どもに。小学校の卒業文集に「アナウンサーになりたい」と書く。  93年 神戸女学院大学入学。3年時に大阪で有名なアナウンス教室「生田教室」に通いだす。TBSのアナウンサー試験が生まれて初めての東京。「東京ならば」と浅草に宿泊するも、最終試験で不合格。  97年 朝日放送入社。アナウンサー同期は女性3人で「三人娘」と呼ばれる。98年から高校野球の実況を担当。 2003年 テレビ朝日「スーパーモーニング」の司会者に。06年に降板、朝日放送に戻る。  07年 3月31日付で朝日放送を退社、4月2日からフリーアナウンサーとして「スーパーモーニング」の司会に復帰。  08年 11月、テレビ朝日報道局勤務の男性と結婚。  11年 番組が「情報満載ライブショー モーニングバード!」になり、羽鳥慎一と共に司会を務める(15年9月まで)。  12年 TBSラジオで「たまむすび」が始まる。午後1時から3時半まで、月曜から木曜のパーソナリティーが赤江、金曜は赤江以外のパーソナリティーというスタイルで、現在まで続く。  17年 3月いっぱいで「たまむすび」を休み、7月に長女出産。18年4月に復帰。  19年 12月10日に「たまむすび」放送2千回を迎える。「たまむすびすごろく」配布イベントに約3500人が集まる。  20年 1月4日、BS-TBSで「町中華で飲ろうぜ ラジオたまむすびコラボSP」が放送され、大阪編に出演。 ■矢部万紀子 1961年、三重県生まれ。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』(ちくま新書)、『美智子さまという奇跡』(幻冬舎新書)。本欄では、南海キャンディーズの山里亮太を執筆。 ※AERA 2020年3月2日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/07/30 11:23
三浦春馬さんと熱愛が報じられた三吉彩花さんへ誹謗中傷が殺到 本人は「整理できていない」
三浦春馬さんと熱愛が報じられた三吉彩花さんへ誹謗中傷が殺到 本人は「整理できていない」
亡くなった三浦春馬さん 三吉彩花さん(c)朝日新聞社  俳優・三浦春馬さん(享年30)が7月18日、亡くなり、大きな衝撃が列島を駆け巡った。悲しみの声は5日経った現在も後を絶たない。ネットユーザーの中にはその悲しみが怒りに変わり、誹謗中傷の書き込みで他の芸能人に大きな心の傷を負わせている。  三浦さんが急逝して以降、モデルで女優の三吉彩花さん(24)のインスタグラムは「おまえのせいだ」、「春馬君の死に責任を感じないのか」など誹謗中傷のコメントが大量に書き込まれた。三吉さんは三浦さんと同じ事務所で、18年に一部週刊誌で熱愛が報じられたことがある。  三浦さんの訃報に大きなショックを受けていることは明らかだ。それにも関わらず、三吉さんを追い込むような書き込みが殺到した。その精神的なダメージは計り知れない。該当投稿のコメント欄は閉鎖された。  三吉さんのインスタグラムには、「何も知らない赤の他人が憶測で誹謗中傷を書き込むのは止めましょう。様々な心許ない言葉で才能のある人達が心を痛めているのは貴方達の『その言葉』そのものですよ」と誹謗中傷のコメントを書き込んだネットユーザーに自制を求める訴える声や、「変なことを書く人は気にしなくていい。きっとみんなが守ってくれるから。あやかちゃんがゆっくり心休められますように」と心配するメッセージが寄せられた。  沈黙を続けていた三吉さんは23日に自身のインスタグラムのストーリーを更新。真っ黒に塗りつぶされた画像を背景に、「毎日しっかりと過ごしています。ただ、もう少し時間をください。何も整理できていなくて。ごめんなさい」と綴った文章を投稿した。  三浦さんの名前を具体的に出したわけではないが、辛い胸中を打ち明けた思いから、察しなければいけない。SNS上による誹謗中傷が殺到した女子プロレスラーの木村花さんが22歳の若さで5月23日にこの世を去った際、ネットでの攻撃的な書き込みに対して厳罰化を望む声が高まり、官民でルール整備に向けて動いている。  「言論の自由」は尊重されなければいけないが、誹謗中傷は決して許される行為ではない。三吉さんに対するネット上の中傷。三浦さんも絶対に望んでいない。(牧忠則) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/07/24 20:12
移植が必須だった慢性骨髄性白血病 新薬登場で根治可能に
移植が必須だった慢性骨髄性白血病 新薬登場で根治可能に
(イラスト/今崎和広) 『新「名医」の最新治療2020』より  急性白血病と比較し、病状がゆるやかに進行する慢性白血病だが、中でも慢性骨髄性白血病はかつて移植が必須だった。しかし、近年は新薬の登場で治療の選択肢が増えてきているという。週刊朝日ムック『新「名医」の最新治療2020』でが、慢性白血病の治療法について専門医に話を聞いた。 *  *  *  慢性白血病はゆるやかな進行経過をたどる。  慢性骨髄性白血病と慢性リンパ性白血病に分類される。慢性骨髄性白血病は白血病患者全体の1割程度、慢性リンパ性白血病は日本人では稀な病気だ。高齢者に多い。  慢性骨髄性白血病は、急性と違い、成熟した白血球を中心に増加するのが特徴だ。90%以上にフィラデルフィア染色体という、染色体異常の結果生じる異常な融合遺伝子が発症の原因だ。  慢性骨髄性白血病は、発症後5~6年慢性期が続き、その後6~9カ月の移行期を経て、急性転化期を迎える。東京女子医科大学病院血液内科教授の田中淳司医師はこう話す。 「慢性骨髄性白血病は、ゆるやかに進行しますが、ひとたび急性転化すると急性白血病よりも抗がん剤の効き目が悪くなります。以前は、ドナーが見つからずに移植ができない場合には、発症から6~7年で亡くなってしまう病気でした」  ところが01年、チロシンキナーゼ阻害剤というタイプの薬であるイマチニブの登場で状況は一変する。今では治療開始後の5年生存率が約9割と、早期固形がんのような良好な生命予後を達成している。 ■新薬登場により治療選択肢が増えた 「昔は、根治に導くためには、移植が絶対必須でしたが、今や移植をしないでも根治が見込める病気となりました」(田中医師)  イマチニブは、チロシンキナーゼ阻害剤の第1世代で、その後、第2世代のニロチニブ、ダサチニブ、ボスチニブ、そして第3世代のポナチニブと次々に新しい薬が開発され、治療の選択肢が一気に増えた。最初の治療が奏効しなくても次々と治療をつないでいけるようになったわけだ。  ただし、チロシンキナーゼ阻害剤は、ずっと飲み続ける必要がある。薬によっては1カ月の薬価が高くつき、医療費が逼迫することになるため、休薬できるタイミングがないかどうかが臨床試験で評価されてきた。都立駒込病院副院長の大橋一輝医師はこう説明する。 「深い寛解(ほぼ根治に近い状態)を2~3年維持できている症例であれば、そのうちの5割くらいは休薬しても再発しないことがわかってきました。休薬した場合は、少なくとも半年間は毎月来院して遺伝子を調べ、経過観察が必要です。その間、再燃しても、チロシンキナーゼ阻害剤を再開すれば、多くの場合深い効果が見られ、再度休薬することも不可能ではありません」  慢性骨髄性白血病は、根治する、亡くならない病気となってきた。  一方、慢性リンパ性白血病は、白血球の一種のリンパ球のうち成熟した小型のBリンパ球が悪性化し、がん化した細胞が無制限に増殖し発症する。完全に根治することは難しいが、長期生存が可能だ。多くはゆるやかに進行するため、無症状の場合は経過観察をする。  進行期には抗がん剤の多剤併用療法をおこなう。 「近年、再発・難治性の症例について、イブルチニブとベネトクラクスという2剤が使えるようになりました。ベネトクラクスは急性骨髄性白血病にも使えるようになる可能性もあり、抗がん剤治療が困難な高齢者にとっての福音になるかもしれません」(大橋医師) ■高齢の患者にはミニ移植の選択肢も  白血病は治りやすくなったが、最後の砦となる治療は、やはり造血幹細胞移植だ。移植前処置として化学療法や全身への放射線療法をおこない、その後に健常ドナーから採取しておいた造血幹細胞を点滴投与する。  移植前処置は、腫瘍細胞をできるだけ減らし、患者自身の免疫細胞を抑制するためにおこなう。患者の免役力を低下させておくと、移植するドナーの細胞を拒絶せずに生着しやすくなるためだ。 「生着すれば血液細胞が作れるように復活しドナーのリンパ球が腫瘍細胞を攻撃する移植片対白血病効果(GVL効果)もあります。けれども生着せずに失敗したり、移植片対宿主病(GVHD)という、移植したドナーの細胞が、他人の体と認識し、正常な細胞や臓器を攻撃してしまう大きな副作用に見舞われることがあります。移植関連合併症によって約2割の患者さんが死亡することもあり細心の注意を要します」(田中医師)  通常、移植の適応は50歳以下とされるが、それ以上の年齢の場合も、現在ではミニ移植がおこなわれる。ミニ移植は、通常の移植よりも弱い移植前処置をおこなって移植する。 「ミニ移植は、造血の回復が早く、移植関連の合併症も減ります。そのため高齢者や合併症を持つ患者さんに適応できるのです」(同)  半合致移植という、ドナーの確保が難しい場合におこなわれる移植法もある。移植にはHLA(ヒトがもつ白血球の型)一致が必須だが、その半分の合致でも可能な移植で、家族内ドナーの可能性が高くなる。 「副作用である移植片対宿主病を抑制するために移植直後に免疫抑制剤の投与が必要ですが、治療予後は、通常の移植と遜色なくなってきています」(同)  さまざまな新薬の登場と、造血幹細胞の進歩により、白血病は死の病ではなくなってきている。 (文・伊波達也) ≪取材協力≫ 東京女子医科大学病院 血液内科教授 田中淳司医師 がん・感染症センター 都立駒込病院 副院長 大橋一輝医師 ※週刊朝日ムック『新「名医」の最新治療2020』より
がん病気病院
dot. 2020/07/24 17:00
競泳・池江選手も発症した急性白血病 進化を続ける治療法とは
競泳・池江選手も発症した急性白血病 進化を続ける治療法とは
造血幹細胞から血液細胞へと分化する流れ 『新「名医」の最新治療2020』より  かつては“不治の病”のイメージで、映画やドラマで描かれることも多かった白血病だが、近年は“治る病気”になった。大きく分けると急性と慢性に分類され、診断されたら一刻も早い治療が必要になるのが急性白血病だ。週刊朝日ムック『新「名医」の最新治療2020』では、急性白血病の診断や治療法について、専門医に取材した。 *  *  *  2019年2月、日本女子競泳界のエース、池江璃花子さんが、発症を公表し、改めて注目を集めた血液がんの一種が白血病だ。白血病と言えば、長年、不治の病と思われてきたが、近年、数々の薬物療法の登場などにより、根治が見込める病気となった。  白血病は、大きく分けると病状の進行の速さなどによって急性と慢性、そのそれぞれに骨髄性とリンパ性があり、四つのタイプに分類される。  急性白血病は、急性骨髄性白血病と急性リンパ性白血病がある。  白血病全体の約7割を占める急性骨髄性白血病は、血液を作る造血幹細胞のなかの骨髄系幹細胞が、血液を作る過程で未熟な細胞である骨髄芽球に遺伝子異常が起こってがん化し、それが増殖して起こる。一方の急性リンパ性白血病は、リンパ系幹細胞である白血球の一種のリンパ球が、やはり未熟な段階でがん化して起こる。こちらは、白血病全体の約2割だ。  急性白血病は、白血病細胞が20~30%以上あると、白血病と診断される。診断されたら一刻も早い治療が必要だ。都立駒込病院副院長の大橋一輝医師はこう説明する。 「急性白血病の発症が判明するパターンは二つあります。一つはだるさや風邪のような症状が長引き、医療機関を受診してわかるケース。もう一つは何の症状もなく、たまたま健康診断や人間ドックの血液検査で、赤血球、白血球などの数値の異常で見つかる場合です。前者ももちろんですが、後者では患者さんは大きなショックを受けます」  本人は元気なのに、病気を告げられたとたんに、即入院し、検査と治療を受けるように医師から言われる。何がなんだかわからないまま事態が進み、仕事や家庭のこと、命のことなどあれこれ考えて、パニックに陥る人も多い。 ■次々に新薬登場で 治療効果が上がる  治療方針は、骨髄検査で染色体や遺伝子、血液細胞の表面に現れる抗原などを解析して、年齢や患者の状態も加味して決められる。 「急性骨髄性白血病の場合は、寛解導入療法で抗がん剤2剤を1週間投薬して残り3週間の休薬で1コースという治療をおこないます。大量の抗がん剤により、できるだけ悪い細胞を消して良い細胞の回復を促す治療です。顕微鏡で血液を見ても悪い細胞がない状態に持ち込みます。ただし、悪い細胞はそれでも潜んでいますので、さらに念のための治療である地固め療法をおこないます」(大橋医師)  この治療で寛解へ入るのは約8割だが、寛解が長期間維持されるのはそのうちの2割程度で、残りの6割は再発する。そして造血幹細胞移植により根治へ導けるのはそのなかの約5割程度のため、5年生存率全体は5~6割だ。 「悪い細胞のタイプは染色体の異常によって予後不良、中間、良好に分けられ、さらに遺伝子を70種類ぐらいに分類し、精査して治療方針を決めています」(同)  かなり予後良好なものから、手を尽くしても救命できないものまでタイプはさまざまだ。特に再発・難治症例は治療が困難だったが、現在は新しい薬が使えるようになった。FLT3阻害剤のギルテリチニブ、キザルチニブの2剤だ。  また、FDA(米国食品医薬品局)は、イボシデニブというIDH1変異に対する薬を承認した。日本での承認も期待される。このように特定の染色体異常や遺伝子変異を標的にする薬が次々に登場し、急性骨髄性白血病の治療は進化している。  一方の急性リンパ性白血病は、池江さんが、この病気であることを公表したタイプだ。 「急性リンパ性白血病は長い間、打つ手のない病気でした。しかし現在、成人の約3割を占めるフィラデルフィア染色体に異常があるタイプの場合にはイマチニブなどのチロシンキナーゼ阻害剤というタイプの薬を使うことで、劇的に治療効果が向上しました」  そう話すのは、東京女子医科大学病院血液内科教授の田中淳司医師だ。 「再発・難治症例についても、免疫療法剤ブリナツモマブと、抗CD22抗体と抗がん剤を結合させたイノツズマブオゾガマイシンの二つの薬が使えるようになり、治療予後が改善しています」(田中医師) ■遺伝子改変による免疫細胞療法も  さらに、現在注目されているのが、CD19陽性の特定のタイプの病気に対して、自己のリンパ球を体内から取り出し、遺伝子導入して改変し、体内に戻してCD19を認識して攻撃するCAR-T(キメラ抗原受容体T細胞)療法という免疫細胞療法だ。  チサゲンレクルユーセルという薬が3349万円と破格の薬価であることも話題になった。再発難治の急性リンパ性白血病では25歳以下の患者に対して保険で使えるようになり、一度の治療でかなりの効果が出ると言われている。現時点では全国でも数カ所の病院のみで治療を受けられるが、今後の普及や適応拡大が期待されている。  急性白血病は、根治を見込むためには寛解状態で造血幹細胞移植を受ける必要がある。  移植は、骨髄を提供してくれるドナーが見つかった場合に受けられる治療であり、患者にとってもかなりの負担を強いる治療だ。副作用での死亡率も2割程度あり、細心の注意が必要となる。 (文・伊波達也) ≪取材協力≫ がん・感染症センター 都立駒込病院 副院長 大橋一輝医師 東京女子医科大学病院 血液内科教授 田中淳司医師 ※週刊朝日ムック『新「名医」の最新治療2020』より
病気病院
dot. 2020/07/23 17:00
大人の選手・寺川綾は「新たなチャレンジ」だったと平井コーチ 最年長五輪メダリスト誕生の裏側
平井伯昌 平井伯昌
大人の選手・寺川綾は「新たなチャレンジ」だったと平井コーチ 最年長五輪メダリスト誕生の裏側
平井伯昌(ひらい・のりまさ)/競泳日本代表ヘッドコーチ、日本水泳連盟競泳委員長 2011年上海世界選手権50メートル背泳ぎで2位に入った寺川綾(中央) (c)朝日新聞社  指導した北島康介選手、萩野公介選手が、計五つの五輪金メダルを獲得している平井伯昌・競泳日本代表ヘッドコーチ。連載「金メダルへのコーチング」で選手を好成績へ導く、練習の裏側を明かす。第28回は、寺川綾選手の成長プランとその成果についてつづります。 *     *  * 「チャンピオンになるだけではダメだ。チャンピオンとして私から独り立ちしなくては」  ボクシングの名トレーナー、カス・ダマトが遺した言葉に共感します。水泳が速いだけでなく、独立心と向上心が強い選手に育ってほしい。世界一にはなれませんでしたが、2012年ロンドン五輪で女子100メートル背泳ぎとメドレーリレーで銅メダルを獲得した寺川綾は、人間的に大きな成長を遂げた選手の一人です。  高校2年で01年福岡世界選手権200メートル背泳ぎで決勝に進み、04年アテネ五輪は同種目8位。しかし、08年北京五輪は代表を逃しました。本人の希望を受け入れて私が指導を始めたのはその年の暮れ、彼女が24歳のときです。  実績がある、できあがった大人の選手です。どうやったらいい方向に変えられるだろうか。私にとっても新たなチャレンジでした。  水泳の練習は、総合的に力をつけるために泳ぎ込む練習と、持っている力を最大限に引き出す質を重視した練習に大別できます。私は通常、泳ぎ込みで精神的なキャパシティーも大きく広げてから、練習量を減らしながら質を高める練習に切り替えていきます。  寺川には、逆の方法を取り入れました。まずは質の高い練習で大会ごとに結果を出す。「私の練習をやれば伸びる」という信頼関係を築いてから、ハードな練習に取り組むプランです。彼女の得意な練習を入れて言うことを聞いているふりをしつつ、私がやりたい厳しい練習へ向けた「啓蒙活動」を地道に続けました。  50メートル背泳ぎで銀メダルを取った11年上海世界選手権がターニングポイントでした。世界大会初のメダルで大きな自信をつかみます。一方、400メートルメドレーリレーでは思うような泳ぎができず5位に終わり、悔し涙を流しました。  私はレースを終えてから寺川と話をして、「ロンドン五輪に向けて練習を再開したときは、私がやらせたい練習をやる。相当厳しい内容になるが、乗り越えてほしい」と告げました。  練習に臨む姿勢ががらりと変わりました。ときどき見せていた不満を顔に出すような態度は影をひそめ、厳しい練習にも前向きに取り組みます。内面からわきあがる自信を感じさせ、五輪メダル獲得の目標を公言するようになりました。  一緒に練習する社会人スイマー、バタフライの加藤ゆか、自由形の上田春佳とはメドレーリレーの五輪メダルという共通目標がありました。互いに刺激を受けながら、ターンやタッチの技術を磨いていきました。  ロンドン五輪の寺川は100メートル背泳ぎで予選、準決勝と記録を上げ、銅メダルの決勝は58秒83の日本新をマーク。加藤、上田、平泳ぎの鈴木聡美と組んだメドレーリレーでも日本記録を更新し、同種目でシドニー五輪以来12年ぶりのメダルを取りました。  五輪の日本競泳女子で寺川の27歳のメダル獲得は、中村礼子の26歳を抜いて最年長記録でした。  女子のリーダーとして五輪後も活躍した寺川は、13年バルセロナ世界選手権で58秒70と100メートル背泳ぎの日本記録を更新。私から精神的に独り立ちして現役最後まで自分の限界に挑んだ経験が、現在のスポーツキャスターの仕事に生きていると思います。(構成/本誌・堀井正明) 平井伯昌(ひらい・のりまさ)/競泳日本代表ヘッドコーチ、日本水泳連盟競泳委員長。1963年生まれ、東京都出身。早稲田大学社会科学部卒。86年に東京スイミングセンター入社。2013年から東洋大学水泳部監督。同大学法学部教授。『バケる人に育てる──勝負できる人材をつくる50の法則』(朝日新聞出版)など著書多数 ※週刊朝日  2020年7月24日号
平井伯昌
週刊朝日 2020/07/20 17:00
CM起用快進撃の今田美桜 人気のワケは「ちょうどいい」普通さ
丸山ひろし 丸山ひろし
CM起用快進撃の今田美桜 人気のワケは「ちょうどいい」普通さ
地元・福岡のソフトバンクホークスの始球式を務めた今田美桜(C)朝日新聞社 「2020上半期タレントCM起用社数ランキング」(ニホンモニター)が7月1日に発表され、男性部門の1位には嵐の櫻井翔(11社)が、女性部門の1位には女優の広瀬すず(13社)がそれぞれ輝いた。広瀬すずは3年ぶりのトップになったが、2位に続いたのは女優の今田美桜(23)。昨年の同ランキングでは8位以下だったが、一気に躍進を果たしたかっこうだ。  今田といえば、2018年に放送された連続ドラマ「花のち晴れ~花男 Next Season~」(TBS系)でツインテールの小悪魔的な美少女を演じ、知名度が上昇。昨年は「3年A組―今から皆さんは、人質です―」(日本テレビ系)、「ドクターX」(テレビ朝日系)など立て続けに話題作に出演し、今年は7月19日放送開始の「半沢直樹」(TBS系)の続編にも新キャストとして登場するなど、今もっとも引っ張りだこな若手女優の一人だ。 「高校2年生の時に地元の福岡市内でスカウトされ、“福岡一可愛い女の子”として話題になった。印象的な大きな瞳とスラっとした華奢な体型がチャームポイントで、可憐な雰囲気を醸し出していますが、意外と普通っぽい一面もあるんです。例えば、高校時代は学業優先で活動していたそうですが、仕事も増えて演技指導などを受けているうちに女優になりたいという思いが強くなったとインタビューで明かしていました。東京に行きたいけど通用するのか不安で上京する勇気が出ず、福岡でモデル活動をしながら、時々、日雇いのアルバイトをしていたそうです。結局、上京したのは高校を卒業して1年後。また、かなりの人見知りということもバラエティ番組で告白していましたね。初めての現場では緊張しすぎて、初日に体調を崩すこともあるそうです」(テレビ情報誌の編集者)  美貌を持ちながらも人並み以上に緊張する性格だった今田だが、考え方も謙虚なようだ。座右の銘が「8勝7敗」で、「1個多く勝てば、別に負けてもいい」と事務所の社長がこの言葉を言ってくれて、気持ちが楽になったという(「ViVi公式デジタルマガジン」2019年7月6日配信)。 「4月に放送されたバラエティ番組では、高校時代は太っていてモテなかったと明かしてましたね。ダイエットのため、いりこ(煮干し)だけを食べていた時もあり、カバンにいりこを入れていて『いりこ臭い』と言われ、しかも痩せなかったと話していました」(同) ■同郷の橋本環奈と比べられるが  そんなエピソードからも飾らない素の表情が伺えるが、ブレイクのきっかけは、ある大物俳優のアドバイスだったという。 「ドラマで共演した中井貴一さんから『お前は30点台でいい』『それのままの方がいいから、それで行け』と言われ、スッと力が抜けていったと情報番組で以前、話してました。今までは『絶対100点出さなきゃ』とどこかで思っていたそうなんですが、『素でいいんだな』と思えるようになったとか。見た目は可愛らしい今田ですが、背伸びをすることもなく普通っぽさも感じられる。そんなバランスがちょうどよく、特に脇役としてぴったりハマるのだと思います」(同)  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は、彼女の魅力と今後についてこう分析する。 「まっすぐにこちらを見つめた時の眼力が一番の魅力でしょう。同じ福岡出身の20代女優ということで、橋本環奈と比較されがちかもしれませんが、今田の方が2歳年上とあって、より落ち着いた雰囲気を醸し出していると思います。演技面に関しては、1月に放送されたスペシャルドラマ『半沢直樹 エピソードゼロ』で、堺雅人の部下役を好演。男だらけのドラマの中で紅一点の存在感が際立っていました。19日からいよいよスタートする本編でも、随所に光る演技をきっと見せてくれると思います。また、8月2日にスタートする福田雄一演出・ムロツヨシ主演の連続ドラマ『親バカ青春白書』にも女子大生役で抜擢されています。かつて福田監督の手によって橋本が大きく成長したように、彼女も一層の飛躍が期待できます。女優としては良い意味でまだどんな色にも染まっていない、真っ白で無垢なイメージ。どう羽ばたいていくか、将来が楽しみですね」  地元・福岡での活動を経て上京し、地道にキャリアを積み重ねてきた今田。新キャストとして出演する「半沢直樹」は、前作で「倍返し」の台詞が流行語にもなった注目作。高視聴率が期待されるが、作品の雰囲気を壊すことなく役を全うしそうだ。(丸山ひろし)
dot. 2020/07/19 11:30
【現代の肖像】順天堂大学名誉教授・樋野興夫「『がん哲学外来』で言葉を処方する」
【現代の肖像】順天堂大学名誉教授・樋野興夫「『がん哲学外来』で言葉を処方する」
「ほっとけ、気にするな」「人生いばらの道、されど宴会」など数々の「言葉の処方箋」を贈る(撮影/岸本絢) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  「病気であっても、病人でない」「八方ふさがりでも天は開いている」。がん哲学外来を提唱した樋野興夫は、そんな言葉を贈り続ける。いま、樋野が始めた「がん哲学外来メディカル・カフェ」は全国約170カ所まで広がり、多くのがん経験者や家族らが集い、力を得る。無医村で育ち病理医となった樋野は、なぜ「哲学」に目覚めたのか? 温かなまなざしが育まれた軌跡をたどると、ある「芯」が見えた。  紺色のややくたびれた感じのスーツに青いワイシャツ、ネクタイも紺色で細めと決まっている。 「近所に買い物に行くときもスーツだよ。ネクタイは1本。毎日締めていると、2、3年で擦り切れてしまう。ワイフに注意されるんだけどね」  樋野興夫(ひの・おきお 65)は、故郷の出雲地方のなまりで、ゆったりと語る。松本清張の『砂の器』でも知られるように、出雲は島根県なのにズーズー弁である。物腰は柔らかく、自身について「暇げな風貌」という表現を好んで使う。  樋野は病理医である。同時に、2000年ごろに「がん哲学」を提唱し、08年に「がん哲学外来」を立ち上げた。以来、数千人のがん患者や家族らと面談して、さまざまな言葉を届けてきた。 「言葉の処方箋(せん)だよ。無料で、副作用がないよ」  19年11月30日、東京・お茶の水で開かれた「がん哲学外来 お茶の水メディカル・カフェ」の個人面談に立ち会った。会場はお茶の水クリスチャン・センター8階のチャペル。机はなく、いすが向かい合わせに置かれている。樋野はいつもの服装で、カルテもない。「聴診器は対話」という。  50代後半ぐらいだろうか。初めて来たという女性は最初、こわばっていた。胸に腫瘍(しゅよう)があるが、精密検査を受ける決断がついていない。 「純度の高い専門性を持った、がん専門の病院で診てもらって。曖昧(あいまい)なままだと一日中悩むよ」 「そうなんです」 「病気になっても、病人ではないよ。自分でコントロールできることには全力を尽くし、コントロールできないことには一喜一憂しない」 「この10カ月、もやもや悩んでいて。純度の高い医療に任せるところは任せて、自分にできることに集中する。分けなきゃいけないんですね」 「そういうことだね。そうすると、たとえ問題が解決しなくても、悩みは解消するよ」 「すっきりしました。夫が『どうせ人は死ぬんだから』と言うので、恨んでいたんです。でも、怒りも収まりそうです。違う自分になれました」  いつの間にか、女性は進むべき道を自ら見いだしている。たった十数分で、表情が一変していた。 2019年11月15日、ウィッグの製造・販売を行うスヴェンソンの新宿東口サロンで開かれた「がん哲学外来カフェ」。樋野の講演後は、参加者たちが語り合う。笑いあり真面目な話ありで、初めての人もすぐに打ち解けていた(撮影/岸本絢) ■大きくなったら医者になる、子ども心に母の背中で決意  日本では、2人に1人が生涯にがんになり、年間100万人ががんと診断される。がんは1981年以来、死因の第1位でもある。  人は自分や家族ががんになると、戸惑い、ときに死を意識する。人生を振り返り、今後どう生きるかを考える。そこで、がんを科学的に、人生を哲学的に学び、がんと共存していく。大まかに言えば、それが「がん哲学」である。樋野は「生物学の法則と人間学の法則を融合した」と言う。  各地で毎日のように行う講演でも、面談同様に、ヒントになりそうな言葉を繰り出す。 「八方ふさがりでも、天は開いているよ」 「夢を追いかけると逃げる。持ち続けると、夢から寄ってくる」 「困っている人とは一緒に困る。犬のおまわりさんだね」 「人生には、(過去の経験が)もしかするとこのときのためだったのでは、と思うときが来る」 「(象の横に子どもが座る写真を見せて)支えることはできなくても、寄り添うことはできるよ」 「ゲーテは言ってるよ。『涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない』と」  19年12月には、東京都文京区の小学校で6年生に授業をした。大人向けとほぼ変わらない、小学生には高度な内容だ。だが、感想文を読むと、 <「がん」も個性という話を聞き、考え方が変わった気がします>(女子) <「病気であっても普通に接する」と聞いて、「がんと共存」し、心配しすぎないようにすることが大切だと思いました>(男子) <特に印象に残ったのは人との関わり方です。人を評価することはやめようと思います>(男子)  などと、それぞれの感性で、自分なりに受け止めたことがわかる。樋野はこう語った。 「子どもたちの中に、将来残る言葉が、ひとつでも二つでもあればいい。僕の授業は、大学生は半分寝る。でも、小学生は全員、起きてるよ」  樋野には40冊近い著書がある。何冊かは英語、中国語、韓国語、ベトナム語に翻訳されている。  1954(昭和29)年3月7日、樋野は、出雲大社から北へおよそ8キロにある島根県大社町(現出雲市)の鵜峠(うど)で生まれた。「出雲風土記」にも登場する、日本海に面した小さな村だ。  姉が2人いる。興夫という珍しい名前は、「家を興す」という願いを込めて、船乗りだった祖父の卓郎が付けた。母の寿子(としこ)の兄2人が戦死したのだ。父の廉平(れんぺい)は婿養子で、貨物船やタンカーの機関長をしており、年に1、2カ月しか帰らなかった。家は広く、ニワトリを飼い、ヘビやイノシシが部屋に入ってきたこともあったらしい。  村に医師はいない。樋野が病気になると、母が背負い、トンネルを抜けて数キロ先の鷺浦(さぎうら)にある診療所まで連れていった。山道を母の背中で揺られながら、3歳のころから、子ども心に「大きくなったらお医者さんになろう」と決めたという。  少年時代、夕暮れに一人、海に石を投げていると、離れた後方で夕涼みのお年寄りが見守ってくれた。地元の人々は、漁業や土木などで黙々と自らの役割を果たしている。その姿が印象に残った。  第一の転機は浪人時代である。京都の予備校で、橋本實という英語の先生と出会った。東大出身で、自身の学生時代に総長だった政治学者の南原(なんばら)繁の話をした。樋野は南原の著作を読み始める。やがて関心は、南原が師と仰いだ新渡戸(にとべ)稲造や内村鑑三へと伸び、また南原の次に東大総長を務めた経済学者の矢内原(やないはら)忠雄へと広がった。  橋本は、プロテスタントの牧師でもあった。樋野は聖書も読み始める。そして、新約聖書「ヨハネの福音書」の「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあった」という一節に魅了された。新渡戸、内村、南原、矢内原もすべて、クリスチャンだ。がん哲学外来で樋野が語る言葉の多くは、新渡戸らの格言や聖書がベースになっている。 米国出身の妻のジーンと。ジーンもカフェの参加者たちとよく交流する(撮影/岸本絢) ■森を見て木の皮まで見る、病理学の恩師たちに学ぶ  73年11月、愛媛大学医学部に1期生として入学。卒業後は病理医を目指した。人と話すのが苦手で、患者と接する臨床医は向かないと考えたのだ。母校の助手となったが、ほどなく、志願して東京・大塚の癌研究会(現「公益財団法人がん研究会」)に“国内留学”した。81年、癌研究所病理部の研修研究員に。これが第二の転機となった。  所長は菅野晴夫、病理部長は北川知行(現・名誉所長=83)という体制だった。病理部では、菅野と樋野の席が背中合わせになっていた。菅野は、顕微鏡を覗(のぞ)きながら樋野に語りかけた。中でも、菅野の恩師にあたる吉田富三の話が響いた。  吉田富三は、人工的な肝がん発生に世界で初めて成功した病理学者だ。がん細胞も人間も同じ生命の海を生きる仲間ととらえた。富三の息子でNHKのディレクターだった吉田直哉は、富三は「がん細胞に起こることは人間社会にも必ず起こる」という考えを抱いていたと想像する(吉田直哉著『癌細胞はこう語った 私伝・吉田富三』)。  菅野はまた、「森を見て木を見て、木の皮まで見る」「広々とした病理学」などと、病理学の神髄を教えた。樋野は、背中越しに聞いた菅野の言葉や吉田富三の著作などから、次第に、がん哲学のイメージをふくらませていった。  元同僚によれば、樋野は、診断病理(患者の細胞診断や解剖)を勉強しつつも実験病理の研究に熱中したので、一部の診断病理の専門家から風当たりが強かった。だが、「僕は一番大事なところを踏みつけられなければ、何を言われても大丈夫です」と跳(は)ね返していた。北川はこう語る。 「親方日の丸ではない癌研の研究者は野武士ぞろいでした。樋野君は、その中でも最も野武士らしかった。目標を定めると、多少の波風を立てても猛進する。外部の研究者にも会いにいく。それが、現在の活動にも通じているのでしょう」  89年から91年まで、樋野は米国フィラデルフィアのフォックス・チェイスがんセンターに留学した。師匠は、発がんの仕組みの研究で大きな功績があったアルフレッド・クヌドソン。彼は新しい論文が出ても食いつかず、半年ぐらい経って初めて手に取った。すると、たいていの論文は、もはや大した内容ではなくなっている。 「クヌドソンからは、物事に向かう姿勢を学んだよ。『末梢を追いかけずに根本を見ろ』と」  樋野はよく、「ほっとけ、気にするな」と言う。余命やがんの再発など未来のことを心配しても、あるいは、「なぜがんになったのか」と過去のことに悩んでも仕方がない。それらは横に置いて、「今」をしっかり生きようというのだ。この言葉は、クヌドソンからも着想を得ている。 レギュラー出演しているラジオNIKKEIの番組収録の様子。左はアナウンサーの大橋都希子(撮影/岸本絢) ■きっかけはアスベスト問題、がん哲学外来は対話の場  帰国後は、実験病理部の部長に就任。クヌドソンのもとで始めた「遺伝性のがん」の研究も続けた。やがて、その研究が、中皮腫の早期診断に応用できるとわかった。中皮腫は、建築資材などに使われたアスベスト(石綿)を長い間吸うと、30~40年の潜伏期間を経て発症する希少がんだ。早期発見ほど、手術で治せる可能性が高まる。  04年、1年間の癌研との兼務を終えて順天堂大学医学部教授に転身していた樋野は、中皮腫の血液検査のマーカーを発見し、他の研究機関と検査キットを開発した。すると、翌年6月、大手機械メーカーのクボタが、同社の工場の従業員らが多数、中皮腫で死亡していると発表した。同業他社の発表も続き、不安が広まった。  これが、3度目の転機となった。検査のニーズは一気に高まった。8月には、樋野の提案で、順天堂大学付属順天堂医院に「アスベスト・中皮腫外来」が設立された。週に1回、問診する。アスベストの危険性は長く指摘されていただけに、訪れる人はみな、やり場のない怒りや悔しさ、苦悩を抱えている。傾聴に始まり、必然的に対話の場となってゆく。「がん哲学外来」の原型である。  07年4月にはがん対策基本法が施行され、全国約400のがん診療連携拠点病院に、相談支援センターの設置が求められた。「がん難民」が社会的な問題になっていた。樋野は、対話の場をあらゆるがん種に広げることを思い描いた。  08年1月、順天堂医院に、試験的に「がん哲学外来」を無料で開いた。3月までに5回、1日4組の予定だったが予約が殺到、1日8組に増やしても追いつかない。80組がキャンセル待ちとなり、院内のレストランで面談した。  もはや「人と話すのが苦手」とは言っていられない。秋には、患者夫妻の依頼で横浜のホテルのロビーで開催。2回目から訪問看護ステーションに場を移し、「カフェ」も伴った。こうして、「がん哲学外来メディカル・カフェ」が誕生した。  カフェは現在、全国約170カ所に広がっている。設立・運営のマニュアルはなく、新たに始めたい人たちは、既存のカフェを見学し、自分流にアレンジする。樋野の注文はただ一つ、「3年以上継続できないなら、やらないで」だ。  活動を通じて、樋野に見えてきたことがある。 「患者の悩みは大きく三つに分かれる。病気そのもののこと、家族との関係、職場の人間関係。3分の2は、家族や職場の悩みだね」  悩みの内容もまた、時代を映している。 池袋で開かれたカラオケ大会(撮影/岸本絢)  樋野は、09年にNPO法人「がん哲学外来」(13年から一般社団法人)、11年に「がん哲学外来市民学会」を立ち上げて、がん哲学外来コーディネーターの養成も始めた。その一人、京都出身の森尚子は、16年に東京・目白でカフェを開設した。14年、48歳で初期の乳がんとわかった。2年後にごく初期の子宮体がんにもなり、子宮と卵巣を摘出。術後の経過が悪く、出血も止まらない。  そんなときにカフェと出会った。だが、面談で樋野に切々と訴えると、「あなたより大変な人のところに行ってもらえませんか。自分でカフェをやってください」と返ってきた。森は「はあ。私がしんどいんです」と2回繰り返した。  その後は距離を置いたが、たまたま自宅近くの教会で樋野の講演会が開かれると知り、小児科医の夫と参加した。すると、「人間には最後に死ぬという大きな仕事がある」などの言葉が染み入り、「私だけが悲劇のヒロインではない」と希望が見えた。そして、仏教徒なのに、その教会でカフェを手がけることが決まり、代表となった。 「がんへの恐怖や不安はいつもあります。でも、カフェに来ると、自分一人じゃないと再認識できます。樋野先生は仙人みたいで多くを語らない。先生の言葉を自分で捉え、納得して、答えを見いだしていくのです」  樋野の夢は、がんに限らず、生きづらさを感じるだれでも気軽に来られるよう、全国でカフェを7千カ所まで増やすことだ。  樋野が傾倒する内村鑑三に「真理は円形にあらず、楕円形である……真理もまた二元的であって……」という言葉がある。価値観や生き方の多様性を大切にするがん哲学の思想につながる。樋野は都内の教会で洗礼を受けた。「ワイフ」は、宣教師をしていた米国人女性のジーン。ジーンは樋野を「persistent」とみる。「困難にめげずに粘り強い」という意味だ。物静かで、深夜遅くまで、あるいは早朝4時ごろからパソコンに向かう。 ■カラオケの熱唱で気づく、人は存在自体に価値がある  そんな樋野が、少し違う面を見せるのが、癌研時代から好きなカラオケかもしれない。  2020年1月5日、がん哲学外来の第7回池袋カラオケ大会が開かれた。参加者は、中高年ばかりで約20人。ジーンもいる。森夫妻も来ている。午後5時半、いきなり「くちなしの花」のイントロが流れてきた。樋野が立ち上がり、歌い始める。ふだんとは打って変わって声が大きい。  みんな素面(しらふ)なのに陽気に盛り上がる。途中、フルーツや生クリームがたっぷり載った大きなハニートーストが運ばれてきた。夫婦で幹事を務める田口謙治(58)、桂子(57)が「10月から1月までに生まれた人は前へどうぞ」と呼びかける。前回のカラオケ大会以降の誕生日の人が対象なのだ。 樋野の手帳はぎっしり文字が書かれている。愛読書の新渡戸稲造『武士道』や内村鑑三『代表的日本人』なども線や書き込みでいっぱいだ。愛用の黒のかばんは、本や資料でずっしり重く、持ち手も剥げている(撮影/岸本絢)  3時間を超えた大会の締めはAKB48のヒット曲「365日の紙飛行機」と「恋するフォーチュンクッキー」。「紙飛行機」から全員で合唱した。踊る人も、タンバリンを鳴らす人もいる。 <人生は紙飛行機、願い乗せて飛んで行くよ、風の中を力の限り、ただ進むだけ、その距離を競うより、どう飛んだか、どこを飛んだのか、それが一番大切なんだ、さあ、心のままに>  ここに集う人々は、それぞれの形でがんと向き合っている。一体どんな思いを込めて、どんな場面を脳裏に浮かべて、歌っているのだろう。表情からは窺(うかが)い知れない。ただ、みんなの目は確かな力を宿している。「人は存在自体に価値がある」という樋野の言葉が思い出された。  取材を続けていて、樋野にどうしても聞きたいことが芽生えた。もしも厳しいがんになったら、自分にはどの言葉を処方するのだろうか、と。 「なったときに考えるかな。どんな境遇になっても覚悟を持てるか。心構えを訓練しているよ」  少し考えてから、訥々(とつとつ)と語りだした。 (文中敬称略) ■ひの・おきお 1954年 島根県出身。姉が2人いる。  60年 大社町立(後に出雲市立)鵜鷺(うさぎ)小学校入学。5年生のとき担任に日記を書くことを勧められ、現在まで続けている。  69年 島根県立出雲高校入学。実家を離れて下宿。授業で悩みを書く機会があったが、「悩みはない」と書いて教師に呆れられる。  73年 愛媛大学医学部に入学。道後温泉に入り、夏目漱石を読む日々。  79年 愛媛大学医学部卒業。同学部第二病理学教室の助手に就任するも、癌研究会(現がん研)へ国内留学。  81年 癌研癌研究所病理部研修研究員。  84年 同研究員。米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センターへ留学(~85年)。  86年 日本癌学会奨励賞受賞。  89年 米国フォックス・チェイスがんセンターへ留学(~91年)。  91年 癌研究会癌研究所実験病理部部長。 2000年 国連大学主催の新渡戸稲造『武士道』発刊100周年シンポジウムに、原田明夫・東京高検検事長(後に検事総長)らとパネリストとして出席。研究室の外で活動する第一歩となる。  03年 高松宮妃癌研究基金学術賞受賞。順天堂大学医学部教授を兼務(04年から専任)。  08年 順天堂大学にがん哲学外来を開設。その後、学外へ広げる。  16年 保健文化賞受賞、皇居で天皇、皇后(現上皇、上皇后)両陛下と面会する。  18年 朝日がん大賞受賞。  19年 順天堂大学名誉教授。東京医療生活協同組合「新渡戸稲造記念センター」センター長。樋野とカフェの人々を描いたドキュメンタリー映画「がんと生きる 言葉の処方箋」(野澤和之監督)が公開。 ■中村智志 1964年、東京都生まれ。朝日新聞社に入り、2017年から(公財)日本対がん協会に出向。著書に『段ボールハウスで見る夢』(草思社、講談社ノンフィクション賞)、『命のまもりびと』(新潮文庫)など。 ※AERA 2020年2月24日号 ※本記事のURLは「AERA 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現代の肖像
AERA 2020/07/16 10:36
可愛い系からセクシー系まで…これまで来日の「韓国美女ゴルファー」を振り返る
可愛い系からセクシー系まで…これまで来日の「韓国美女ゴルファー」を振り返る
「セクシークイーン」として有名なアン・シネ (c)朝日新聞社 「次世代セクシークイーン」と呼ばれるユ・ヒョンジュ(写真/gettyimages) ゴルフでもしっかりと成績を残したキム・ハヌル (c)朝日新聞社  近年、欧米のゴルフ界を席巻してきた韓国出身の女子プロゴルファー。2000年代の朴セリ(米ツアー25勝、メジャー5勝)の活躍をきっかけに高まったゴルフ熱と、国を挙げた強化システムの中、ジュニア時代からの熾烈な競争をくぐり抜け、世界へ飛び出した彼女たちには高い実力と精神力が備わっている。日本のJLPGA(日本女子プロゴルフ協会)ツアーにもこの10年、数々のプレーヤーが参戦してきた。その強さもさることながら魅力あふれる美貌で人気を集め、今では欠かせないツアーメンバーとなっている選手も多い。  その筆頭は、やはりイ・ボミ。2010年に韓国のKLPGAツアーの賞金女王となり、翌年日本にやってきた「ボミちゃん」。2012年にJLPGAツアー初優勝を挙げると、その後、毎シーズン複数優勝を果たした。2015年は7勝と圧倒的な強さを見せ、文句なしのマネーリーダーとなる。このシーズンに獲得した2億3049万7057円は、男女合わせた国内ツアーの史上最高額となり、その記録はいまだ破られていない。身長158cmとけっして体格には恵まれていないものの、ゆったりとしたスイングから繰り出す正確なショットと安定した試合運びで、翌2016年も賞金女王に輝いている。  それよりもファンの心を鷲づかみにしているのは「スマイルキャンディ」の愛称どおり、いつも絶えない笑顔だ。堪能な日本語と愛くるしい笑みで話しかけ、ファンとの交流を大切にするイ・ボミは、今やJLPGAツアーの顔になっている。努力を怠らず、謙虚さを忘れないプロとしての姿勢も、続く韓国プレーヤーや日本の若手選手に大きな影響を与えているだろう。  イ・ボミと同じく1988年生まれ、同じく朴セリの活躍を見て育った「朴セリ・キッズ」であるのが、キム・ハヌル。2011、12年のKLPGAツアー賞金女王の実力者は、2015年から日本ツアーに参加した。初シーズンに1勝を挙げ、2017年までに通算6勝、そのうち2つは国内メジャーと位置付けられる公式戦での勝利である。  ツアーきっての美しいスイングとともに、注目が集まるのはその美貌。170cmの長身とクールビューティーな雰囲気を持つものの、笑顔を忘れないキム・ハヌルは「スマイル・クイーン」と呼ばれる。プロ意識も高く、常にミニスカートでトーナメントをプレーし、韓国語で「空」を意味するハヌルにちなみ、スカイブルーを取り入れたウェアでファッションリーダーにもなっている。イ・ボミとは異なる近づきがたい印象がありながら、明るく親しみやすい性格を持つ、彼女のギャップに惹かれる熱狂的なファンは多い。  キム・ハヌルの麗し系を継ぐ(?)のが、「セクシークイーン」アン・シネである。移住先のニュージーランドでゴルフを始めた彼女は、同国代表としてプレーした経験も持つ。その後、KLPGAツアーで3勝 、日本では2017年からプレーしている。いまだJLPGAツアーではトップ10フィニッシュはないが、日本初襲来でセクシークイーン旋風を巻き起こして以来、人気は絶大である。超ミニスカートに、ビビッドカラーのタイトウェアを身にまとい、果敢にピンを攻め続けるプレースタイルにファンは魅了されている。昨年は史上最難関と言われたJLPGAプロテストに合格した。実力を示すのはこれからである。 「次世代セクシークイーン」とニックネームが付いたのがユ・ヒョンジュ。韓国国内では主だった成績は残していないものの、2019年のJLPGA初参戦で注目度が急上昇した。タイプは違うが、アン・シネ同様、タイトなウェアがファッションモデルのようなスタイルを際立たせていた。身長172cmで1994年生まれの26歳。今シーズンはJLPGAのツアーカードを持たないため、国内でプレーを見ることのできる可能性は低いが、次世代セクシークイーンの再襲来が待ち望まれている。  もう一人、忘れてはならないのはユン・チェヨン。KLPGAツアーでは1勝のみだが、日本ツアーには2014年からスポットでプレーし、2017年から本格参戦している。教科書通りの美しいスイングで、ショートゲームとゲームマネジメントが武器のゴルフをする。いまだ日本では頂点に立ってはいないが、3年連続シード権を確保しており、実力は証明済み。過去に2位を4度記録しており、すぐそこに優勝カップは待ち構えている。元祖美女ゴルファーとも呼ばれ、韓国では人気と実力を兼ね備えた選手が選ばれるKLPGAツアーアンバサダーを2009年の初代から務めていた(過去イ・ボミ、キム・ハヌルらも選ばれている)。アイドル系ともセクシー系とも異なる正統派として日本でも人気が高い。  ほかにも昨年、2勝と大ブレイクしたペ・ソンウなど、JLPGAツアーには続々と韓国美女ゴルファーが参戦してきたが、この傾向はまだまだ続くのだろうか? 実は、JLPGAはツアーの出場権システムを変更している。これまでクォリファイングトーナメント(ツアー予選会・QT)に参加資格はなく、QTで上位に入ると海外プレーヤーもツアーで戦うことができた。しかし2019年からはQTの参加資格がJLPGAプロテスト合格者のみとしたため、韓国をはじめ海外勢は参戦しづらくなった。ボミちゃんやハヌルの活躍はツアーを活性化し、ファンが増えたことも確か。この先、実力を兼ね備えたコリアンビューティの襲来が減ってしまうのは、いささか寂しい気がするのだが……。(文・小崎仁久)
dot. 2020/07/15 17:00
「来年30歳で体力不安」も大ケガは癒やせる ハンドボール女子・池原綾香の複雑な胸中
「来年30歳で体力不安」も大ケガは癒やせる ハンドボール女子・池原綾香の複雑な胸中
ハンドボール女子日本代表 池原綾香(いけはら・あやか、29)/90年、沖縄県出身。13年から日本代表。自慢の左手から放つ緩急をつけたシュートが武器。157センチ、53キロ (c)朝日新聞社  東京五輪の1年延期はアスリートに、精神や体力に大きな影響を及ぼす。ハンドボール女子日本代表・池原綾香さんは、自身のコンディションに苦悩している。コロナ禍の不安や願いとは。AERA 2020年6月29日号でその思いを聞いた。 *  *  *  ハンドボール女子日本代表の池原綾香は、東京五輪の1年延期に複雑な思いを抱える。 「できれば今夏にやってほしいという思いもありました。来年には30歳。体力的に落ちる部分が出てくるかもしれないし、選手生命は限られているので。ただ、去年右ひざの大ケガをして、復帰からあまり時間が経っていないことを考えれば、本番まであと1年猶予ができたとポジティブに捉えることもできます。それに、代表では私のほか、同級生の3人がちょうどケガをしてしまっていたので、延期になったことでまた一緒に戦いたい気持ちも強くあります」  かつては三重県鈴鹿市のクラブで働きながら競技を続けていた池原は、17年夏にハンドボール発祥の地とされるデンマークのニューコビン・ファルスターに移籍。同年には日本人として男女を通じて初めてEHF(欧州ハンドボール連盟)チャンピオンズリーグに出場するなど活躍してきた。新シーズンは、同国の強豪オーデンセへの移籍も勝ち取ったが、すべては東京五輪で飛躍するためだった。ただ、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、先が見えず不安が募る日々が続く。 「デンマークリーグはシーズン途中で打ち切り。3月半ばから約2カ月以上、体育館やジムが閉鎖され、実戦的な練習はほとんどできていません。直近の目標がなくなったなかモチベーションを保つ難しさは感じます。それに、こっちではコロナの世界的な終息は来年の秋になるかもしれないなんて噂もあったりして、そういう話を聞くとやっぱり心配にはなります」  シーズンが終わったタイミングで通常なら一時帰国するところ。だが、コロナ禍で様々なリスクがあることを考え、今夏の一時帰国は諦めた。 「そこは自分ではどうすることもできない部分。私自身は、日々の積み重ねが未来を変えていくと信じるだけ。とにかく、いまは東京五輪が来年開催されることを祈ってできることをやっていくだけかなと思います」 (スポーツライター・栗原正夫) ※AERA 2020年6月29日号
2020東京五輪
AERA 2020/06/29 09:00
愛の不時着と令和の東京ラブストーリー ヒットの背景に「コロナ時代だからこそ求めるのは愛」
矢部万紀子 矢部万紀子
愛の不時着と令和の東京ラブストーリー ヒットの背景に「コロナ時代だからこそ求めるのは愛」
愛の不時着/平壌に向かう電車が停電で止まる。暖を取りながらユン・セリ(左)がリ・ジョンヒョク(右)と語り合う。セリが何げなく語る「質に入れた時計」は、後半へのキーワードとなる/Netflixオリジナルシリーズ「愛の不時着」独占配信中(写真:Netflix) 列車で到着した平壌のホテルでは「護衛」か「管理監督」かが、2人の話題に。セリと歩くジョンヒョクの「護衛」3連発が、すごくキュート写真:Netflix) 東京ラブストーリー/原作は柴門ふみの同名漫画。主題歌は、1991年版の小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」からVaundyの「灯火」に。三上健一役は、同じく江口洋介から清原翔に(一番右)。FODなどで配信中/https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4h06/  コロナ禍のなか、ドラマ視聴で心をときめかせる人も多いだろう。日韓話題の2作を見た。そこから見えるのは日韓の恋愛観や男女観の違い。コラムニストが独自の視点で解剖したAERA2020年6月29日号の記事を紹介する。 *  *  *  ヒョンビン沼から、東京の愛を眺めてみよう。突然だが、そう思った。 「東京ラブストーリー」のことだ。4月29日からアマゾン・プライム・ビデオで配信が始まり、6月3日で全11話がそろった。「愛の不時着」で俳優ヒョンビン(37)にはまり、アマゾンプライムをたびたび訪問するようになって発見した。  日本の恋愛ドラマで切ない気持ちになったのは、一体いつが最後だろう。恋するお年頃じゃあないしなあ。そう思っていたのだが、ヒョンビンは私を切なくさせる。「大人の恋愛」に心がもっていかれる。東京の今の愛を描いた「東京ラブストーリー」なら、今の私なら、切なくなるかも。見てみることにした。  今の私、と書いたのは、新型コロナウイルスと大いに関係がある。フリーランスゆえに不安が募っている。国はあてにならない。現実逃避が必要だ。「愛の不時着」もそのつもりで見始め、やめられなくなった。北朝鮮の大尉リ・ジョンヒョクが韓国財閥の娘ユン・セリを愛し、守る。ヒョンビンとソン・イェジン(38)演じる2人にしびれた。コロナの時代だからこそ、愛って大切と思う。以来、愛を求める度合いが減ることはない。  そんなこんなで、ヒョンビン沼にはまっている。アマゾンプライムとネットフリックスで「ヒョンビン」と検索、作品を追いかけることが、マイ「新しい生活様式」だ。 「私の名前はキム・サムスン」(2005年)→「アルハンブラ宮殿の思い出」(18年)→「シークレット・ガーデン」(10年)。途中で映画「ザ・ネゴシエーション」(18年)をシネコンで見た。昨夏に日本で封切られた旧作だが、TOHOシネマズ日比谷が6月5日の営業再開後すぐにかけてくれた。公開延期で新作が足りないという事情があるのだろうが、「東宝さん、ありがとう」と心でつぶやく。  1日4時間以上を、ヒョンビンに使っている。韓流ドラマは1話が1時間をたっぷり超え、1作16話が標準。でも苦にならない。それが沼。185センチの鍛えた体に、整った顔を見ているだけで、沼から出る気にちっともならない。はまって気づいたのが、彼の出演作はほぼすべて「大人同士のラブストーリー」になっているということだ。  彼の年齢に合わせ、アラサーからアラフォー同士と、恋する2人の年齢も上がっている。あ、ちなみにですが、59歳です、わたくしってば。だからアラサーよりアラフォーの恋愛だし、アラフィフならなおさら、と思われるかもしれないが、そうでもない。年齢よりも“大人度”が問題なのだ。「自立した男」と「自立した女」だから、ハマっている。女性がカッコいいから、ヒョンビンもカッコよくなる。胸キュンの好循環だと思う。  と、沼語りが長くなった。やっと「東京ラブストーリー」の話をする。元はといえば1991年、鈴木保奈美と織田裕二が主演、最終回に32.3%という視聴率を記録した伝説の月9ドラマだ。それを29年ぶりにリメイクし、テレビでなくネットで配信する。フジテレビの起死回生策とまでは言わないが、意欲が感じられる。  全11話を2日で見た。ヒョンビン沼から、令和の東京の愛を整理するにあたり、沼のドラマがなぜ切ないのかを考えた。切実、という言葉が浮かんだ。 「愛の不時着」が描いたのは、38度線をはさんでの愛だ。ユン・セリを守り、南へ帰す。愛するからこそだが、それが成就すれば別れになる。そんなのっぴきならなさが全編を覆っている。だから切ない。「シークレット・ガーデン」は財閥の御曹司と貧しいスタント・ウーマンの愛を描く。階級の違いを越えて愛し合う2人だから、ピュアさが強調される。こういう切実の構図は韓流の持ち味でもあり、アドバンテージでもあるだろう。 「東京ラブストーリー」が描いたのは、男と女の揺れる心だった。主人公は大手広告会社に勤める男女2人。地元の愛媛支部から転勤してきた永尾完治(織田→伊藤健太郎)と、赤名リカ(鈴木→石橋静河)。初対面から永尾に一目惚れしたリカが、ぐんぐん迫る。でも永尾は、高校の同級生で保育士の関口さとみ(石井杏奈)が好き。リカとさとみ、性格のまるで違う2人の間で揺れる永尾。  永尾がさとみに振られた2話で、あの「カンチ、セックスしよ」が。91年版では永尾の好意をわかったうえで、リカが明るく叫んだ。今回は、おしゃれな恋の駆け引きになっていた。 「失恋に一番効く薬って知ってる?」とリカ。「なんすか」と答える永尾にリカは「セックス」とささやき、こう言う。「カンチ、セックスしよっか」  きれいで都会的な石橋さんによく似合っている。ついでに書くなら、伊藤さんの今どき男子っぽさも好感度大だ。とがった感じの石橋さんが、丸い感じの伊藤さんを翻弄する。令和の若い男女ってこうだろうなと、そこはすごく説得される。  かくしてセックスをする2人だが、永尾は揺れに揺れる。その過程にシンクロし、見ている側も揺れに揺れれば切なさになるだろう。が、どうもそうならない。リカに共感しづらいのだ。  自由な生き方をしようとし、実際そのように振る舞いながら、愛し愛されることを過剰に求める。それがどこから来ているのかがよくわからないから、追いかけられる永尾が気の毒になってくる。さとみを選んだ永尾にやっぱりそうよね、と思っていると、またリカに戻ったり。おいおい、とイラッとしてくる。  リカで一番わからなかったのが、かつての不倫相手である上司とのランチのシーンだった。2人がそろって刺し身定食を食べる。リカはまず、上司のお皿にしょうゆを差す。  59歳女子として、不倫はそれぞれの好きになさればいいと思う。が、これは見過ごせない。自分のことは自分でしようよ、お互いに、と思う。これじゃあ、自由になれないじゃんと、リカが少し悲しくなる。  その点ヒョンビン沼では、女性の堂々としている率がすごく高い。「愛の不時着」のユン・セリは、北に漂着したことで泣いたことは一度もない。賢くたくましく成功した経営者でもある彼女が泣くのは、リ・ジョンヒョクを思う時だけだ。だから、泣くユン・セリがすごく切ない。  私がいちばん好きだった「東京ラブストーリー」の女子は、さとみと同じ保育園で働く保育士のトキちゃんだった。永尾と三上健一(清原翔)という2人の同級生に振り回されるさとみに、いつもズバッと本音を言う。  付き合っているのに不実な三上の振る舞いを聞けば、「あの手の男はちゃんとしつけとかないと、後でどえらい目にあうんだからね」と返す。案の定どえらい目にあい、三上と別れたさとみの中に彼への未練を読み取った時は、「忘れちゃったの、どんな思いで別れたか」と釘を刺す。  トキちゃんが後輩だったら、絶対、ご飯に誘うなあ。見ていてそう思った。トキちゃんは、せっせと婚活パーティーに通っていた。トキちゃんのように賢く可愛い女子の東京ラブストーリーはどんなだろう。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2020年6月29日号
ドラマ
AERA 2020/06/28 11:30
40代の5割が「無自覚難聴」!ネット会議が苦手な人は要注意
40代の5割が「無自覚難聴」!ネット会議が苦手な人は要注意
【内耳のイメージ図】“有毛細胞の毛”が加齢に伴ってハゲて薄くなると、耳の聞き取り能力が落ちる(図はあくまでイメージで、実際の内耳の構造はもっと複雑です) 聞き取りやすい話し方の基本は、「子音をハッキリと、大声ではなく、ゆっくりと話す」こと 坂本真一/工学博士・技術経営修士。1989年、工学院大学電気工学科卒業。1991年、工学院大学大学院修士課程修了(電気工学専攻)、リオン株式会社勤務。2004年4月~2007年3月、日本音響学会聴覚研究委員会委員。2006年、リオン株式会社退職、株式会社オトデザイナーズ代表取締役。2013年8月~2017年6月、日本音響学会・論文編集委員会委員。2015~18年、九州大学客員教授。2015年~、京都光華女子大学客員教授 「声は聞こえているのに、何を言っているのかよくわからない」 「自分の言いたいことが、相手に伝わらない」  新型コロナウイルス感染拡大の影響で、各所での導入が加速しているテレワーク。その中で、こんな悩みを訴える人が増えています。  しかしこの悩み、通信機器やマイク、スピーカーなどに問題がなければ、皆が話し方をちょっと変えるだけで、簡単に解消できるのです。具体的には、「ゆっくり、ハッキリ、大声を出さずに話す」、これだけ。教えてくれたのは、オトデザイナーズ代表で京都光華女子大客員教授の坂本真一さん。耳の専門家である坂本さんに、40代で増えている「無自覚難聴」について、話を伺いました。 ■テレワークに必要な“聞き取る力”  電話やリモート会議が主となるテレワークでは、コミュニケーションの多くの部分を声(言葉)に頼ることになります。そこで最も重要になるのが“耳”、すなわち“聞き取る力”です。  様々な音色やトーン、言葉の違いなどは、主に、その音に含まれる周波数成分の強弱で決まります。  人間の耳の穴の奥の、鼓膜のさらに奥には、渦巻き状の内耳と呼ばれる器官があります。この中には数万本の有毛細胞が並んでいて、その上にはビッシリと毛が生えています。有毛細胞は、耳に入ってきた音に含まれる周波数成分を、毛の動きを利用して分析し続け、その結果を順次脳に送っています。私たちは、そのおかげで、音の種類や一文字一文字の言葉の違いを聞き取ることができるのです これは「聴覚の周波数分解能」と呼ばれる、人間の聴覚のとても優れた機能です。 ■耳がハゲる!? おそらく、あなたもなっている、無自覚難聴とは? “有毛細胞の毛”は、頭髪と同じように加齢に伴ってハゲて薄くなっていきます(ただし、頭髪ほど毛量に個人差が無いと言われていて、男女差もほとんどありません)。毛が薄くなってしまうと、有毛細胞が機能しなくなりますから、結果として、周波数分解能が落ちてしまいます。  周波数分解能の低下は、加齢に伴って起きる「加齢性難聴」のひとつの症状ではありますが、病院や健診などで診断される「医学的な見地からの難聴」とは異なります。医学的な難聴は、主に「どれくらい小さな音が聞こえるか?」を測る聴力検査によって定義されるからです。  つまり「無自覚難聴」は、病気や障がいではなく、誰もがなる自然な老化現象を指しているのです。 「加齢性難聴クイズ(https://youtu.be/vJaTNbnvqxU)」という動画で、周波数分解能が落ちた加齢性難聴の聞こえ方を体験できます。  この動画の声は、70歳くらいの人の聴覚を模擬したものなので、40歳代でここまで聞こえにくくなっている人は少ないでしょう。ですが、内耳の能力(有毛細胞の毛の本数)のピークは20歳といわれており、そこから長い年月をかけて、少しずつ少しずつ衰えていきます。本人に自覚がなく、周囲の人も気が付かなくても、40歳を過ぎたあたりから、多くの人に仕事や日常生活で何らかの支障が出始めているのです。  以前から、40~50歳くらいの人に、“聞こえ”に関する聞き取り調査を行ってきており、ほぼ全員が20歳のころに比べ、特に言葉の聞き取りに関する何らかの支障を仕事や日常生活で感じていました。  この結果から、40歳以上の人の、低く見積もっても5割、実際には8割以上が周波数分解能低下による「無自覚難聴」と考えて差し支えないと思われます。 ■ゆっくり、ハッキリ、大声を出さずに話す 「自分の言いたいことが相手に伝わらないな」と思ったら、相手が無自覚難聴なのかもしれません。  人間は相手に言いたいことが伝わっていないと感じたら、無意識のうちに声が大きくなります。しかし、無自覚難聴の人に大声を出しても、話の内容は伝わりません。伝わるのは、「何か大声で怒鳴っているな」ということだけです。  必要なのは、とにかく「ゆっくり」話すことです。  ただし、言葉と言葉の間(ま)を長くしただけでは、ゆっくりとは言えません。言葉の一文字一文字を、少し極端なくらいにゆっくりと発音することです。  そして「ハッキリ」話すこと。  そのコツは、口をダイナミックに大きく開け閉めして話すことです。幼い子供たちが合唱会などで、大きく口を開けて元気よく歌っている姿を思い出して、あの口の動きを真似してみてください。  それから、言葉の子音を明確に発音するということ。  多くの人が、「ハッキリ喋れ」と言われると母音を大きくしてしまいます。  例えば、「今日は良い天気 kyou wa yoi tenki」と言う場合に、  Ky<ou> w<a> y<oi> t<e> nk<i>  ※<>内を強調  となりますが、これでは声が大きくなるだけです。周波数分解能が落ちた無自覚難聴の人が聞こえにくいのは、母音ではなくて子音です。ですから、  <ky>ou <w>a <y>oi <t>en <k>i  ※<>内を強調  と、大声を出さずに、子音を明確に発音するように心がけてみてください。  逆に「相手が何を言っているのか、よくわからない」という人は、「大声を出さなくて良いので、もう少しゆっくり、ハッキリ話してください」と、穏やかにお願いすればよいでしょう。 「自分も無自覚難聴かもしれない」という人は、まずはセルフチェックしてみてください。 ■「無自覚難聴」のセルフチェックができるサイト https://www.otodesigners.com/selfcheck/
dot. 2020/06/27 17:00
漫画家ヤマザキマリ、日本の「透明な同調圧力」を指摘 「テルマエ」でひと悶着
漫画家ヤマザキマリ、日本の「透明な同調圧力」を指摘 「テルマエ」でひと悶着
ヤマザキマリ/1967年、東京都生まれ。北海道育ち。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの美術学校で油絵と美術史を学ぶ。その後、イタリア人の比較文学研究者との結婚を機に、シリア、ポルトガル、アメリカで生活。現在は日本とイタリアを行き来しながら暮らす。2010年、古代ローマを舞台にした漫画『テルマエ・ロマエ』で手塚治虫文化賞短編賞とマンガ大賞を受賞。16年、芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。17年、イタリア文化を広めた功績などにより、イタリア共和国から功労勲章コンメンダトーレを授与された。現在連載中の作品に「オリンピア・キュクロス」(「グランドジャンプ」)、「リ・アルティジャーニ」(「芸術新潮」)など。(撮影/写真部・掛祥葉子) ヤマザキマリさん(左)と林真理子さん(撮影/写真部・掛祥葉子)  大ヒットした『テルマエ・ロマエ』で知られる漫画家、ヤマザキマリさん。作家・林真理子さんとの対談では、14歳でヨーロッパへ一人旅したきっかけや画家を目指した経緯など話してくれました。 *  *  * 林:私、ヤマザキさんの漫画はもちろん、エッセーとかいろいろ読ませていただいてます。『ヴィオラ母さん』もすごくおもしろかったです。 ヤマザキ:うれしい! ありがとうございます。 林:でも、お母さんの描き方ひどくないですか(笑)。写真を見ると楚々としておきれいな方なのに、髪がザ~ッとなってて。 ヤマザキ:月影先生(『ガラスの仮面』)みたいなね。実体は違うんですけど、中身はあれなんですよね。 林:『地球生まれで旅育ち ヤマザキマリ流人生論』を読んだら、お母さんすごいですね。14歳のヤマザキさんをヨーロッパの一人旅に出しちゃったんでしょう? ヤマザキ:無謀に見えるんですが、母には実はストラテジー(戦略)があったんですよ。自分が行けなくなったから「代わりに行ってこい」と言われて、私は二つ返事で行っちゃったんですけど、そのときに「ルーブル美術館に行って見てこい」と言われたんです。それが母が私にさせたかったことなんですよね。 林:なるほど。 ヤマザキ:私、そのとき中学2年生で、進路指導の先生に「絵描きになりたい」と言ったら、「おまえ、飢え死にしたいって宣言したのと同じだぞ」みたいなことを言われて落ち込んでたんです。それでパリに行って、最後の3日間はルーブルに行ってウロウロ歩いて。モナリザには全く関心を示さなかったんだけど、古代ギリシャ時代の彫刻が衝撃的だったんです。2千年前にこんなのをつくった人がいるんだと思って。 林:ええ。 ヤマザキ:そのほかにもたくさんの絵画とか彫刻を見て、どの時代もごくわずかの表現者しか認められなかっただろうし、裕福な暮らしはできなかっただろうけど、今まで残してきた人がいて、今こうやって時空を超えて私たちの目に訴えかけている。お金にならなくても、誰かがやり続けていかねばならないことだと思ったんです。帰ってきて母にそれを言ったら、「あとはあんた次第よ。自分で決めなさい」って。それが母のもくろみだったんです。 林:ほぉ……すごいですね。私、娘がいるけど、そんなふうに海外には出せないです。 ヤマザキ:母は昭和の一ケタ生まれで、女は簡単に社会進出できない時代に親に勘当されて、楽器(ビオラ)一つ抱えて、自分とは縁もゆかりもない北海道に行って人生を開拓してきたという経歴から、「意志さえ強ければなんとかなる」という自信があったんでしょうね。 林:お母さん、もともとは白百合(女子大)出のお嬢さまなんですよね。 ヤマザキ:はい、小学校からずっと。世間知らずで、お金の使い方もよくわかってない。札幌交響楽団に行ったときも、お給料をもらうサラリーマンみたいなもんで、決して高給ではない。なのにものすごく高い楽器を買ってきて、「ごめん、今月は毎日枝豆食べよう」みたいな。だから必然的に、私たち姉妹も少ないお金でやりくりすることを迫られて。だけど私も母譲りで、お金が入ると漫画買っちゃったりするからダメなんです。妹は大変だったと思います。 林:当時は何を読んでたんですか。 ヤマザキ:「少年チャンピオン」ですね。「ブラック・ジャック」「ドカベン」「がきデカ」、萩尾望都先生の「百億の昼と千億の夜」……。一冊で信じられない世界が広がって、あれ一個が地球みたいなものだったんですよ。あれを毎週買うのが楽しみで。 林:後に『テルマエ・ロマエ』が大ヒットして、マンガ大賞をおとりになって、手塚治虫文化賞もおとりになりますけど、『テルマエ』が映画化されたとき、一悶着起こしちゃったんですよね。原作の映画化権料が少なくて。 ヤマザキ:金額の問題ではないんですよ。「著作権料の設定内容を作家にも開示してほしい。なぜ作家はカヤの外に置かれるのか」ということを言ったんですね。 林:でも、「映画化して本が売れるからいいじゃないか」って言われると、私なんか「はい、そのとおりです」なんて言いそうだけど(笑)。 ヤマザキ:私は訴訟大国イタリア育ちだからそう思えなかったんですよ。イタリアとかアメリカは版権がすごくしっかりしていて、弁護士とか自分のエージェントを通して、何度も何度も直しを入れながら交わすのが契約書なんですけど、日本は編集者が作家のエージェントを兼ねている。本が先に出てから契約書を渡され、解読できないでいると「皆と同じだから大丈夫」と納得させられる。 林:確かに口約束が多いですよね。 ヤマザキ:「弁護士さんを介してください」と言ったら驚かれて、「どこの漫画家に弁護士を仲介したりエージェントを通すやつがいるか」みたいなことを言われたんですね。 林:でも、それぐらいやっていただいたら、ほかの漫画家にとってもありがたいんじゃない? ヤマザキ:というのは私の思い込みで、漫画家さんの中には私の行為を非難した人もいたんです。「なんであんなことしてくれたのか。仕事が回ってこなくなるじゃないか」って。漫画が描けるんなら、お金なんか二の次三の次でいいんだ、と。日本の世の中では、取り決めが曖昧でも、そのまま続けていくべき仕事もあるのだと諭されたというか。 林:そうなんですか。日本って華やかに楽しそうにやってる人をたたくところありますよね。 ヤマザキ:透明な同調圧力というか、狭窄的な社会主義みたいな傾向がありますよね。 林:すごくあります。ヤマザキさんは美大卒だから、建物とか影とかをおろそかにしないで、ものすごく手が込んでますけど、アシスタント、何人ぐらい使ってるんですか。 ヤマザキ:当時は使ってないです。背景も全部私が描いて。 林:えっ、それはびっくりです。 ヤマザキ:古代ローマを描くとなると、そこそこ歴史的知識がないと描けません。それで『テルマエ』の6巻ぐらいから、大先輩の漫画家であるとり・みき氏が手伝ってくださるようになったんです。でも、あまりにもすごい背景だったんで、そのあとの『プリニウス』は共作という形にしたんです。 林:『プリニウス』はどこに連載したんでしたっけ。 ヤマザキ:「新潮」です。文芸誌の。最初は「新潮45」でやってたんですけど、本自体がなくなっちゃったので、「新潮」から「こちらでやります。これは文芸に値する漫画だと思いますから」とおっしゃっていただいて、うれしいなと思ってやりました。今は「オリンピア・キュクロス」(「グランドジャンプ」)、「リ・アルティジャーニ」(「芸術新潮」)の二つを連載しています。 >>【漫画家ヤマザキマリ 恋人養い餓死寸前、その後の結婚も…ウソみたいな本当の話】へ続く (構成/本誌・松岡かすみ 編集協力/一木俊雄) ※週刊朝日  2020年7月3日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2020/06/25 11:30
柴門ふみ『恋する母たち』は「10年寝かしたネタ」 ママ友の不倫実態とは?
柴門ふみ『恋する母たち』は「10年寝かしたネタ」 ママ友の不倫実態とは?
柴門ふみ(さいもん・ふみ)/1957年、徳島県生まれ。お茶の水女子大学卒。79年漫画家デビュー。あらゆる世代の恋愛をテーマにして『東京ラブストーリー』『あすなろ白書』『同窓生 人は、三度、恋をする』など多くの作品を発表。現在、「女性セブン」(小学館)誌上で名門中学に子どもを通わせる3人の母たちの物語『恋する母たち』を連載中。また漫画を原作にしたドラマ「東京ラブストーリー」がFODとアマゾンプライム・ビデオで配信中。 (撮影/写真部・掛祥葉子) 柴門ふみさん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・掛祥葉子)  あの「東京ラブストーリー」から29年。恋愛漫画の名手、柴門ふみさんが40代の恋をテーマに描く『恋する母たち』が注目を集めています。マリコさんとは40年来のお付き合いで、互いの歴史を見守り合う仲。乳がんを乗り越え、あらためて人生を考えたという柴門さんの今に、作家の林真理子さんが迫ります。 *  *  * 林:柴門さん、自分が望んでるか望んでないかわからないけど、最近、また何回目かの“柴門ブーム”という感じですよね。「東京ラブストーリー」もリバイバルされたんでしょ。 柴門:そうなんです。令和版が。昔の「東京ラブストーリー」と、新しい令和版「東京ラブストーリー」が、FODとアマゾンプライムの配信サービスで見られるんですよ。若い人なんか昔のをぜんぜん知らないから、両方比較して見てるみたい。 林:まあ、ぜいたくな。 柴門:今回の令和版は、平成の織田裕二、鈴木保奈美より原作に忠実なんです。比較して見ると、平成版はカンチとリカのスターとしてのピカピカ感がすごい。令和版は青春群像劇で、逆にリアルで。若い役者さんたちの演技も自然でとても良い。続けて見るとハマると思いますね。 林:令和版のリカとカンチは誰がやってるんですか。 柴門:リカ役が石橋静河さん。原田美枝子さんのお嬢さんね。カンチは伊藤健太郎君。令和版を見てて、あらためて恋愛しかしてない話だなと思った。仕事してる場面がほとんどないんですよね。こういう真剣に恋愛して傷ついたり不安になったりする気持ちって、もう自分にはないなと思いましたよ。 林:最初のは何年前だっけ。 柴門:あれを「ビッグコミックスピリッツ」に描いたのが30年ぐらい前かな。あのころは私も31~32歳ぐらいだから、恋愛してる若者たちの気持ちもまだ描けてたんですよね。 林:そして、今「女性セブン」で連載してる『恋する母たち』もすごい人気ですね。あれは月に1回休むから、どうなるかと思ってヤキモキしてますよ。もうじき終わるんですか。 柴門:夏に終わって、そのあと年内はスピンオフみたいなのを短編でやります。もう体力的に無理です、週刊誌連載は。 林:柴門さんが「女性セブン」って、めずらしくないですか。 柴門:コミック誌と一般週刊誌はぜんぜん畑が違うんで、縁がなかったんだけど、私、53歳のときにごく初期の乳がんをやったんです。そのときに、「漫画を描き切ってない。女性を描き切ってないな。まだ死ねない」と思ったんですね。ずっと青年誌で男性読者を相手に男性編集者と打ち合わせして描いてたので、女性を描きたいと思っても、「男性読者に受け入れられません」と言われることも多くて。 林:そうなんだ。 柴門:思い切り女性を描きたいなと思って、自分から「女性セブン」に「女性向けの漫画を描きたい」と言ったら、編集部が受け入れてくれて。 林:そりゃうれしいですよ。柴門さんから「描かせてほしい」と言われたら。 柴門:「女性読者に向けて好き勝手描いてください。何も注文つけません」って言われたんです。 林:私、いつも不思議に思うんだけど、柴門さんってうちから外に出ない人じゃないですか。夜も遊ばないし。それでなんでこういうことが描けるのか。 柴門:けっこうよく会う女友達の話を聞いたり。 林:だけど、それだって限界があるでしょう。 柴門:10年ぐらいため込みましたよ、ネタを。 林:そうそう、うちの娘を幼稚園に入れたとき、柴門さんに「おもしろいネタいっぱいあるだろうけど、10年は寝かさなきゃダメよ」って言われました。 柴門:『恋する母たち』は、私が40代のころに周りにいたママ友から「ちょっとちょっと、聞いてよ」みたいな相談を受けて、すぐ描いたらバレちゃうから、ちょっと寝かさなきゃと思って、10年寝かしたの。 林:そのころそういう奥さんたち、みんな不倫してたわけ? 柴門:結局不倫しなくて、「ギリギリまで行ってやめて戻ってきた」みたいな話を聞いてました。その当時、主婦はわりと戻ってきてたんです。もしバレたら失うものが大きすぎるというんで。でも、仕事を持っている女の人は、「バレたら離婚すればいいや」みたいな感じで、仕事を持ってる既婚の女子のほうがむしろ不倫してた。 林:『恋する母たち』でも、キャリアウーマンの優子も、肉食系ですごいですよね。 柴門:キャリアウーマンのほうが肉食系が多いですね。エネルギーがすごいのと、仕事ができる女って自分で時間もマネジメントできるし、気持ちの切り替えもできる。専業主婦って、ほかに考えることがなくて不倫相手のことばっかり考えるからバレちゃうんです。 林:なるほど。 柴門:それと、キャリアウーマンは自分が稼いでるお金だから。後ろめたさが少ない。専業主婦はどこかで「旦那に悪いな」という気持ちがありましたね、私が相談に乗ってたころは。 林:読者の反応はどうなんですか。「私のことみたい」という感じ? 柴門:不倫してる読者って実際はあまりいない。「私も不倫してます」みたいな反応はなくて、読みものとしておもしろいという感じかな。 林:年上のキャリアウーマンと不倫してる若い男の子、あの関係いいですよね。ふつうは途中で若い男に捨てられるのがパターンなんだけど、若い男のほうが夢中になって、「ご主人と別れてください」と言って。 柴門:年増女の妄想の友(笑)。昔、ルノー・ベルレーの「個人教授」というフランス映画があったでしょう。 林:はい、ありました。私が高校生のころかな。 柴門:あの映画が大好きで、あのカップルを元にしてるんです。年上の人妻と若い真っ直ぐな純情青年との恋。あれが王道なんですよ。 林:でも、実際はないですよね。 柴門:いや、フランスのマクロン(大統領)とか。 林:あ~、マクロン! 奥さん、高校のときの先生ですよね。いい話じゃないですか。 柴門:妄想の友(笑)。 林:でも、ベッドシーンのあのいやらしさって、どこでどうやって知ったんだろうと思って(笑)。 柴門:ベッドシーンは映画とか写真とか、DVDを一時停止したり、あと浮世絵。春画の足の指の反りかえりとか、ほんとにリアルなの。浮世絵師は男と女を実際にまぐわいさせてスケッチしたんじゃないかと思うぐらい。林さんは? 林:私はすごく遊んでる男の人にメールして聞いたりしてる。微に入り細に入り教えてくれるから、ほんとにありがたい。 柴門:でも、男の言うことは自慢話でホラ話が多いから、あまり聞かないほうがいいかもしれない。私、すごいプレーボーイに取材したときに、「俺は前戯だけで2時間かける。だから女は俺から離れられないんだ」とか自慢されたので、「2時間って、それ途中で女寝てますから」と突っ込みました(笑)。 林:そうなんだ。 柴門:女の子はおもしろい、正直で。それも『恋する母たち』にけっこう投影してるんです。 【後編/「東京ラブストーリー」で再ブームの柴門ふみ、究極の好みは「あすなろ白書」の筒井道隆】へ続く (構成/本誌・松岡かすみ、編集協力/一木俊雄) ※週刊朝日  2020年6月26日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2020/06/19 11:30
「東京ラブストーリー」で再ブームの柴門ふみ、究極の好みは「あすなろ白書」の筒井道隆
「東京ラブストーリー」で再ブームの柴門ふみ、究極の好みは「あすなろ白書」の筒井道隆
柴門ふみさん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・掛祥葉子) 柴門ふみ(さいもん・ふみ)/1957年、徳島県生まれ。お茶の水女子大学卒。79年漫画家デビュー。あらゆる世代の恋愛をテーマにして『東京ラブストーリー』『あすなろ白書』『同窓生 人は、三度、恋をする』など多くの作品を発表。現在、「女性セブン」(小学館)誌上で名門中学に子どもを通わせる3人の母たちの物語『恋する母たち』を連載中。また漫画を原作にしたドラマ「東京ラブストーリー」がFODとアマゾンプライム・ビデオで配信中。 (撮影/写真部・掛祥葉子)  あの「東京ラブストーリー」から29年。今回のゲストは恋愛漫画の名手、柴門ふみさんです。最近、令和版のリバイバルドラマが配信され、若い人からも注目を浴びています。マリコさんとは40年来のお付き合いで、互いの歴史を見守り合う仲。60歳を過ぎたら好きなことだけしようと思っていたという柴門さんの今に、作家の林真理子さんが迫ります。 ≪前編/柴門ふみ『恋する母たち』は「10年寝かしたネタ」 ママ友の不倫実態とは?≫より続く *  *  * 林:柴門さんは昔から「恋愛の教祖」とか「恋愛の神さま」と言われてたけど、今の人たちって恋愛しないじゃないですか。 柴門:と言われてるけれども、恋愛に対する憧れというか、アンテナは張ってると思う。だから例の「テラスハウス」みたいな、他人の恋愛をのぞき見する番組はすごく興味を持って見てると思う。私、犬の散歩で井の頭公園を朝晩2回散歩するんだけど、コロナのときでもイチャイチャしながら歩いてるカップルがけっこういるから、恋愛してる人はしてるという感じじゃないですかね。 林:昔は、彼の家の前で待ってたり、しつこく電話かけたり、みんなやってたような気がするけど、今それをやると「ストーカー」って言われるし、会社の中で上司とか先輩が「可愛いね」とか言うと、「セクハラだ」って言われるし……。 柴門:すごく面倒くさいと思いますよ。だから社内恋愛がすごく減ってるって。みんなコミュニティーができてるので、LINEグループの友達同士が告白してフラれたとなると、一気に広がっちゃってそのグループにいづらくなる。だから告白するのにすごく慎重みたい。 林:それでマッチングアプリに行っちゃうのかな。話が変わるけど、柴門さんに初めて会ったの、30年ぐらい前? 柴門:林さんと初めて会ったのは、娘が生まれる前だから40年前よ。 林:40年か。今日、私が美容院に行って「柴門さんとは昔ながらの仲なんだ」と言ったら、そこの美容師さんが「昔の仲間ってどんどんいなくなっちゃうでしょう」って言うから、確かにそうだなと思った。でも、あのころの人で消えちゃった人って、思い出せないけど誰がいる? 柴門:私たちの同世代では、亡くなられた方も多いわね。中島梓さんとか如月小春さんとか。つかこうへいさんも亡くなっちゃったし、最近だと安西水丸さんとか可愛がってくれた方々も……。運強いね、私たち(笑)。健康なのね。 林:すごい健康だと思う。 柴門:私はきっと規則正しい生活してるからだと思う。 林:私はそうでもないけど(笑)。よく飲んで食べ、よく眠る。 柴門:やせちゃダメよ。 林:私がデビューしたころ、もう柴門さんは売れてましたよね。柴門さんが初めてじゃないですか、男性誌に描いた女性漫画家って。 柴門:初めてじゃないです。牧美也子先生と里中満智子先生が「ビッグコミック」に描いてたと思う。 林:高橋留美子さんはそのあとですよね。 柴門:高橋留美子さんとほとんど同時期で、高橋留美子さんが「少年サンデー」でデビューした1年後ぐらいに私が「ヤングマガジン」で描いて、当時ヤング誌というのがいっぱい創刊されたんです。「ヤングジャンプ」「ヤングマガジン」「ビッグコミックスピリッツ」……。 林:そうなんだ。 柴門:「ビッグコミック」系のおじさんの作家はいるし、「少年マガジン」も少年漫画を描く作家はいるけど、大学生とか若いサラリーマン向けの話を描く作家がいなかったんですよ。だからヤング誌は、読者に近い年齢の作家に作品を描いてもらおうということで、漫研の学生みたいなのに声をかけたんです。私もバブル採用で採用されて、「ヤングマガジン」で描いたんです。 林:バブル採用って言うけど、才能ない人が採用されるわけないんだからさ。柴門さんの絵はどこがいいって言われたの? 柴門:絵はぜんぜん下手だったんですよ。「画力より勢いがあるのがいい」って言われました。私は浪人生の男の子と年上の女の子のラブコメを描いたんです。『P.S.元気です、俊平』っていうんですけど、当時ラブコメがわりとブームだったんですよ。柳沢きみお先生の『翔んだカップル』とか、コメディータッチのラブコメが人気あって、その路線なら私も描けるという感じで、それが運良く当たったんです。 林:「マーガレット」とか、女の子系の漫画誌に描こうとは思わなかったんですか。 柴門:あのころの少女漫画って、10代のうちにデビューしないとダメと言われてたんですよ。アイドルと一緒で、読者と同じぐらいの年齢で、読者と同じ気持ちになって恋愛を描かなきゃいけないって。里中満智子先生とか美内すずえ先生とか、16歳ぐらいでデビューしてると思うんですよ。私が大学の漫研時代に出版社の人に会ったら、「キミは年とってるから少女漫画は無理だね」ってはっきり言われた。 林:昔から思ってるけど、柴門さんって女の作家グループの中にも入らないし、男の人たちの中に一人立って、それがべつに気負ってる感じもなく、サラッとしてて、しかも大ヒットしてて、すごくいい立ち位置ですよね。 柴門:男向けの雑誌に描いてても、男の漫画家たちの仲間に入ってるわけでもないし、漫画家との付き合いはほとんどないですね。 林:いかにもお茶の水女子大出のインテリの女の子がデビューしたという感じで、ストーリー運びが知的だし、心理描写も新しいと思った。男の子のフワッとした感じなんかも、今の青春小説に通じるみたいな、まだ自分が何者でもない浮遊感みたいなものが当時から出ていて、すごく新しかったような気がする。 柴門:私は青春小説とか児童文学がすごく好きで、そこに描かれている登場人物の男の子に憧れてたから、それを自分の漫画のキャラクターで動かしてたような気がする。 林:柴門さんの好きな男の子って中性的な感じで、筒井道隆が好きだったんですよね。 柴門:ドラマの「あすなろ白書」のころのね。今でも究極の好みです。 林:あと、藤井フミヤも好きだったのよね。 柴門:秋元(康)さんと対談したときに「藤井フミヤに絶対会ったほうがいいよ。女を引きつけるフェロモンを出してるから」って言われて、そのとき初めて「フェロモン」という言葉を秋元さんと私との対談で世の中に出したんです。 林:へぇ~、そうなんだ。 柴門:それまではゴキブリのオスがメスをおびき寄せる匂いとしてしか使われてなかった。 林:私、覚えてるけど、フミヤが「車でデート行こう」って言ったら、柴門さんがつっかけみたいな靴をはいてたから……。 柴門:「せっかくのデートなんだから、はきかえておいでよ」って言ったの。バブリーなエピソードですよね(笑)。 林:いいなあと思った。フミヤとデートしてるのかと思って。 柴門:いやいや、「あすなろ白書」の主題歌を歌っていただいたので、仕事上のお付き合いです。 林:柴門さんはあのとき時代の先端のいちばんいいところにいたのに、それに浮かれることなく。 柴門:大変だったんです。子ども2人育ててたから。 林:あれが若いときだったら、フミヤと浮名を流しつつ、筒井道隆のマンションから出てきたり、楽しいこといっぱいあっただろうに(笑)。 柴門:アハハハ。 林:あのとき独身の売れっ子漫画家でイケイケだったら、こんなに長く女性の支持を得られなかったかもしれない。早く結婚しててよかったよね(笑)。 柴門:よかった。40代のころは子育てで時間とエネルギーを取られちゃって、ほかのことほとんどできなくて、息子は喘息持ちで体が弱くて、交通事故にあったりして、けっこう手がかかって、高校卒業するまでいろいろ大変だった。でも、とりあえず結婚したし、よかったなと思って。娘も結婚して。 林:お孫さんもできて、ついにおばあちゃんになっちゃって、仕事ではまた何度目かのブームが来て、素晴らしいです。 柴門:60歳過ぎたら好きなことだけしようと思ってたんです。でも、漫画描くこと以外にやりたいことがなくて。だからいま幸せですね。やりたいことやってるから楽しいです。 林:『恋する母たち』の連載が終わったら、来年からまた何かやろうと思ってる? 柴門:まだ何も。この連載を始めたとき、たぶんこれが最後の連載だろうなと思ったの。年齢的にも体力的にも気力的にも。 林:私も毎回そう思いながらもやっちゃいますよ。「週刊誌の連載キツい。これが最後だ」と思いながら。 柴門:60過ぎて女性で週刊誌連載やってるの、高橋留美子さんと私ぐらいじゃないかな。でも、私より上はバリバリ世代がけっこういて、庄司陽子先生もレディースで連載してるし、里中先生も現役だし。なんと、わたなべまさこ先生が90歳で新連載始められたって。 林:それはすごいな。 柴門:私たちより年上で活躍されてる方って憧れます。萩尾望都先生もまだバリバリ現役だし。 林:萩尾望都先生は去年ここに出てくださいました。ロンドンで展覧会をしたっておっしゃってましたよ。すごいです。 柴門:私も「できるだけ長く漫画が描ける人生をください」と神さまにお願いしてます。だって、ほかにないんですもん、やりたいことが。来年ほんとは海外に行くつもりだったんだけど、コロナの影響で行けるかどうか。 林:どこに行くつもりだったの? 柴門:ヨーロッパに行って美術館めぐりしたいの。誰か募って。林さん行きましょうよ。 林:行こう行こう。気の合う人を誘って行こう。 柴門:『恋する母たち』の連載がほんと大変で、これが終わらないと何もできない。あと、コロナワクチン開発かな。 林:そうですね。早く旅行に行ける日が来ますように。 (構成/本誌・松岡かすみ、編集協力/一木俊雄) ※週刊朝日  2020年6月26日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2020/06/19 11:30
総合格闘技人気が“再燃”の兆し! 今後注目すべき「5人の日本人ファイター」
総合格闘技人気が“再燃”の兆し! 今後注目すべき「5人の日本人ファイター」
レスリングでは日本代表にもなったこともある倉本一真(写真/gettyimages)  Youtuberとしても活躍する朝倉兄弟(未来、海)の人気もあり、再び総合格闘技に注目が集まりそうな雰囲気がある。だが、本格的にMMA人気が再燃するためには、朝倉兄弟以外にもスター選手の誕生が必要となってくるのは間違いないだろう。  かつても、ブームの火付け役となった桜庭和志の他に、藤田和之、桜井“マッハ”速人、山本“KID”徳郁、五味隆典ら数々のスター選手が生まれ、当時のMMA界を大いに盛り上げた。  そして現在、朝倉兄弟以外にも日本のMMA界を盛り上げてくれそうなファイターがいる。そこで今回は、今後日本の総合格闘技人気の復活に貢献してくれそうな5人の選手を紹介したい。 *  *  *  5月9日(現地時間)、プロスポーツの先陣を切りUFCがフロリダ州で大会を開催。5月31日には総合格闘技の老舗・修斗が無観客の「ABEMAテレビマッチ」を行うなど、格闘技界も再始動への動きが見えてきた。  全8試合がラインナップされた修斗のABEMAテレビマッチにおいて、メインイベントで行われたのが世界バンタム級暫定王者決定戦。ここで2R KOにより環太平洋王座とのW王者に輝いたのが岡田遼だ。  千葉大学の大学院で運動生理学を学び修士号を取得、現在パーソナルトレーニングジムで代表も務める岡田はサッカーを経て大学時代に総合格闘技を開始。当初は軽い気持ちで、アマチュア修斗デビュー戦でもボコボコにやられトイレで嘔吐、「もう辞めよう」と思ったという岡田は、その後も度々壁に阻まれながらも屈することなくデビュー7年で悲願の世界王座奪取を成し遂げた。  試合後は激闘直後にも関わらず師への感謝や「人間万事塞翁が馬」といった言葉を盛り込み、修斗愛を叫んで締めるマイクを披露。大会をきっちり締めくくり、解説の青木真也も称賛の声を寄せていた。  4月からYouTubeを始めた岡田は自身の解説で世界戦を振り返る動画もアップ。攻防の裏側にある駆け引きや心理戦、事前に積んだ準備も明かしており見応えがある。また自身が学んだ運動生理学、栄養学、解剖学といった知識を活かしたダイエットやトレーニング動画も多数アップしており、フィットネス時代の昨今、うってつけのファイターだ。  そんな岡田にKOで敗れプロ初敗北を喫したが、それまで7戦全勝、昨年の修斗MVPとベストバウトをW受賞したのが“投神”倉本一真。  大袈裟な異名に思われるかしれないが、倉本は天皇杯全日本選手権グレコローマン60kg級3連覇を達成し(2012~2014年)、13年と14年には世界選手権日本代表にも選ばれたレスリングエリート。17年12月に修斗でデビューすると無敗街道を進み、特に昨年11月の根津優太戦ではジャーマンスープレックスを8回という総合格闘技の常識を覆す試合を見せTKOで勝利した。  岡田戦は苦い一敗となったが、敗戦をいかに生かすかはレスリング時代にも経験しており長けているはず。格闘技初心者にも説明不要な豪快ファイトをさらにバージョンアップさせ、再降臨が期待される。  アジア最大の格闘技プロモーション「ONE Championship」(ONE)は現在大会を休止中。そんな中6月15日には日本だけでなくONE全体においても“ネクストスター”と目される女子ファイターの平田樹がデビュー1周年を迎えた。  名門・春日柔道クラブで柔道を始めた平田は高校時代インターハイに出場。そして高校卒業後の2018年に総合格闘技を始める。寮生活の反動か当初はバイトが楽しくさほど練習に熱心でなかったというが、AbemaTVのリアリティ番組「格闘代理戦争」に出演が決まると一気に才能を覚醒。トーナメント3試合をいずれも一本で勝利し、優勝賞金300万円とONEのプロ契約を手に入れた。  平田の強みは柔道由来の投げによるテイクダウンとグラウンドでの極め。柔道時代から寝技が得意だったといい、グラウンドに持ち込むと相手を逃がさない安定感がある。今年成人式を迎えたばかりで(8月に21歳)、ドラゴンボール「人造人間18号」のコスプレが話題を呼び、インターバルや勝利後にダンスを見せるなどワクにとらわれない大物感を持つ。デビューから無敗の3連勝、このまま駆け抜けるか注目される。  同じくONEで4月に初めて発表されたランキングでフライ級4位につけ、王者を期待されるのが若松佑弥。「喧嘩ばかりしていた」という若松は18歳で総合格闘技を始め、20歳でプロデビュー。デビュー戦こそ敗れたがそこから9連勝、ONEとの契約を決め、18年9月から参戦している。  第2戦となる19年3月の東京大会では、UFCで絶対王者として活躍したデメトリアス・ジョンソンを追い詰めるも一本負け。ポテンシャルを見せると、復帰戦ではONEの元フライ級王者を沈め、ONEのチャトリCEOから「将来絶対チャンピオンになれる」と激励を受けた。  師は現役時代に「ピラニア」と呼ばれた長南亮。その名とどう猛さを受け継ぎ、「リトル・ピラニア」と呼ばれるファイトが持ち味だ。  日本期待のMMAファイターを上げる本稿、最後は昨年2月にUFCをリリースされた試合を最後に試合から離れている石原夜叉坊を挙げたい。  UFCの登竜門番組「Road to UFC: Japan」を経てUFC入りした夜叉坊は、2連続KOやパフォーマンス・オブ・ザ・ナイトを手にしたこともあったが、昨年2月の敗戦で3連敗となり、UFC通算3勝5敗となったところでリリースとなった。  女&遊び好きとチャラさを前面に出しながら「Road to UFC: Japan」では家族思いで浪花節な一面も明らかとなり、格闘技ファンの気持ちを惹きつけた夜叉坊。  日本人受けするキャラクターはもちろん、優れた当て勘とスピードでまだまだ活躍を期待したいところ。SNSにはトレーニングに励む姿を度々アップしており、休養を経ての復活が待たれる。(文/長谷川亮)
dot. 2020/06/17 17:00
故デニス・テンさんの名を冠したアカデミーが今年末に創設へ 無良崇人さんらが思いを語る
故デニス・テンさんの名を冠したアカデミーが今年末に創設へ 無良崇人さんらが思いを語る
栃木県日光市で行われたアイスショーで観客に手を振るデニス・テンさん=2017年8月(C)朝日新聞社 デニス・テンさんが亡くなった場所には花束などが置かれていた=昨年7月、カザフスタン・アルマトイ、大崎百紀撮影 無良崇人さん(C)朝日新聞社  2年前に25歳で亡くなった2014年ソチ五輪のフィギュアスケート男子銅メダリスト、デニス・テンさんの名を冠した「デニス・テンフィギュアスケートアカデミー」が今年末、テンさんの故郷、カザフスタン・アルマトイで創設されることになった。同国のメディアが報じた。  テンさんはカザフスタン初のフィギュアスケート五輪メダリスト。国民的英雄として、母国で普及活動にも力を入れていた。だが、18年7月19日にアルマトイの路上で強盗に遭い、刺されて亡くなった。  報道によると、同アカデミーは、テンさんの遺志を継ぐデニス・テン財団が設立する。子どもたちに最高の指導者の下で練習する環境を提供するのが目的で、アルマトイのフィギュアスケート人口を2倍に増やしたいという。アルマトイでは現在、500人以上の子どもたちがフィギュアスケートを楽しんでいる。  同財団は、10年バンクーバー五輪女子銀メダリストの浅田真央さんを指導したタチアナ・タラソワコーチ(ロシア)や、同五輪男子金メダリストのエバン・ライサチェクさん(米)を育てたフランク・キャロルコーチ(米)にも、アカデミーへの参加を呼びかけているという。テンさんはライサチェクさんの滑りに憧れていた。  フィギュアスケートライターの田村明子さんはこう話す。 「デニス・テン財団によるデニス・テンフィギュアスケートアカデミーの創設、うれしいニュースとして読みました。同時に、若くして私たちの前から消えてしまったデニスのことを思い出し、改めて胸が詰まりました。生前、何度かインタビューさせてもらった際に、カザフスタンでスケートを始めた当初は屋外リンクで、あまりの寒さに着膨れし、『まるでキャベツみたいだった』と笑っていたことを覚えています。その後、より良い環境を求めてロシア、そして米国に拠点を移していったデニスですが、カザフスタンに初のISU(国際スケート連盟)メダルをもたらした彼にとって、祖国で後継者を育てることは悲願だったと思います。体はもうこの世に存在しなくても、デニスの精神はこれからも生き続けるのでしょう」  昨年7月にアルマトイであった、テンさんを追悼するアイスショー「Denis Friend’s Show」に出演したプロフィギュアスケーター、無良崇人さんは、こう語る。 「デニスが元々やりたかったこと、それはカザフスタンで次の世代の選手を育て、母国でスケートを盛り上げていくことです。それを自分も知っていただけに、(今回のアカデミー設立で)その形が作られてよかったと思います。これはカザフスタンだけでなく世界的にもすばらしいことだと思います。ここから将来有望な選手が出てくれば、本当にすばらしいと思います」 「デニスの存在があって、(同国の)トゥルシンバエワ選手がいて、彼女がデニス亡き後、背中を追うように世界選手権で(カザフスタン)初の女子メダリストとなって、シニア女子初の4回転ジャンプを成功させました。そこからシニア女子も4回転ジャンプを入れるようになりました。デニスの影響は大きいと思います」  無良さんは、改めてテンさんのことを思う。 「新型コロナウイルスで自粛モードの最近は、過去のフィギュアスケートの映像を見られるチャンスもあって、デニスの滑りを見て懐かしく思っていました。デニスは本当に優しい人で、現役時代は四大陸選手権や世界選手権などの試合で一緒になることも多く、デニスは調子が悪い時も良い時もいつも、戦友である自分に『次、また頑張ればいいね』と思いやりのある言葉をかけてくれました。温かくて、気遣いができる本当に誰に対しても紳士でした」  無良さんと同じく昨年のアイスショーに出演したセルゲイ・ボロノフ選手(ロシア)は、こう話す。 「2年経っても、私はデニス・テンの死が信じられないのです。私にとって彼は賢く多才で、一生忘れることができない人。アカデミー設立のニュースは最近知りました。これは必要なことだと信じています。ただ、すぐにデニスのようなレベルのスケーターが現れるとは思いませんが」  6月13日はテンさんの誕生日。彼の遺志が形となるアカデミーが成功することを願う。(本誌・大崎百紀) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/06/13 08:59
【就職氷河期の婚活】「シスコン」と「ロリコン」をこじらせた年収1000万円プレーヤーの現実
【就職氷河期の婚活】「シスコン」と「ロリコン」をこじらせた年収1000万円プレーヤーの現実
写真はイメージ(C)朝日新聞社 女性観をこじらせてしまった今村さん(撮影/吉田みく)  その数、約1700万人。バブル崩壊後の1993年~2004年ごろに高校や大学を卒業した世代は「就職氷河期」と呼ばれ、新卒の就職活動であぶれた非正規社員を多く生み出した。  そのうち、政府は35~44歳の非正規社員の約371万人を「中心層」とみなし、3年間で正規雇用を約30万人増やすとの目標を掲げている。  東京都でフリーランスの編集者として働く今村辰男さん(仮名・44)は、まさに就職氷河期世代の「ど真ん中」だ。 「就職活動はしませんでした。“何をしたい”という意欲が特に湧かなくて……」  周囲は次々と就職戦線から離脱し、今村さんの世代は希望の職種に就く努力をするよりも、どこでも良いから会社にすべり込めればいいという雰囲気が蔓延していた。そんな風潮に疑問を感じた今村さんは、新卒での就職をあきらめた。  初めて働いたのはゲームセンターのアルバイト。ゲームが趣味だったこともあり、そこそこ楽しい日々だったが、勤務中にゲームをしているところを店長に見つかり、半年もたたないうちにクビに。  見るに見かねた友人が、今村さんを知人に紹介。成人向けの本を扱う出版社で契約社員として働くことが決まった。編集業務は初めてだったが、持ち前の要領の良さと仲間に恵まれたおかげで、仕事をすぐに覚えることができた。当時のメモ帳は今でも捨てられない大切な思い出だ。  その働きが認められ、2年後には正社員となった。そこで10年ほど働いたが、会社の業績不振を理由にまたもやクビ。失業保険をもらいながら、再度“何をしたいのか”を考えたときには、すでに38歳になっていた。 「いろいろと考えましたが、僕がやってきた編集の仕事をするしかないかなと思いました」  10年間編集者として働いてきた実績から、人脈には自信があった。先に退職した同僚からの後押しもあり、39歳の時にフリーランスの編集者として独り立ちすることを決めた。漫画編集者として売れっ子の作家をつかまえていることもあり、現在では年収が1千万円を超えたという。 「今はようやく貯金もできるようになりました。これだけ稼げるようになったこともあり、婚活を頑張ってみようと思ったんです」  1千万円プレーヤーともなれば婚活市場では引く手あまたのはずだが、今村さんは女性に対して「こじらせ」ているところがあり、婚活への深い悩みとなっている。  今村さんは、当時としては珍しい父子家庭で育った。両親は7歳の時に離婚。それから上京するまでの11年間、5歳上の姉が面倒をみてくれた。 「姉が母親代わりでした。姉に怒られたことは一度もありません。とても優しい人なんです」  彼がどんなことをしても決して怒らず、柔らかい口調で優しく諭してくれる姉。「よく頑張ったね」と、頭をなでて褒めてくれるので、学校での出来事は父親よりも真っ先に姉に報告をしていたという。  中学時代は姉からのサポートもあったことで、県内トップの高校に進学。そのまま、大学の受験戦争を勝ち抜き、現役で有名私立大学へ進学した。倍率は20倍近かったという。自宅から大学までは片道3時間以上かかったため、進学を機に1人暮らしを始めた。  18歳になるまで、親しい女性といえば「姉」の1人だけ。母代わりの姉はいつも優しく、今村さんの“理想の女性”だった。このままなら、ちょっとした「シスコン」で済んだはずが、進学のために上京して1人暮らしを始めたことで、今村さんはさらにややこしい“女性観”を抱えることになってしまう。  健康な男子の1人暮らし。当然ながら、成人向けの雑誌に手が伸びる回数が増えていった。今村さんに特殊な性癖はなく、最初のうちはノーマルな成人誌を購入していたが、数多く読みあさるうちに、徐々に性的な対象が「10代」へとシフトしていったという。俗にいう「ロリコン」への入り口だった。  それに拍車をかけたのが、大学でのサークル活動の出来事だった。イラストサークルに所属していた今村さんは、女子部員に気に入られようと、よくお菓子などの差し入れをしていたという。だが、最初は喜んでくれていた女子部員たちは次第に「あれを買ってきて」「これじゃない」など、今村さんに指示を出すようになった。今村さんは、その女子たちの姿におびえてしまったと話す。 「『行列のできる人気のお菓子がいい』とか、要求はどんどんエスカレートしていきました。それを断るとムスっとするんです。すぐに怒る、イライラする……とにかく、部室にいる女子たちが怖かったです。気になっていた子もいましたが、急変した態度になえました」  今まで姉以外の女性と接する機会の少なかった今村さんは、初めて同年代の女性の「本性」を目の当たりにした。それ以来、純真無垢な若い女性への興味が加速していった。  女性と交わりたいときには風俗へ行き、“お兄ちゃん”と呼ばせた。性的な興奮はそれで得られる。しかし、根底にあるのは、自分の一番の理解者である姉のような女性への憧れ。「ロリコン」と「シスコン」がないまぜになった今村さんの女性観は、婚活に踏み出す上で大きなハードルとなってしまった。 「もちろん、僕だって10代の女の子と結婚できるとは思っていませんよ。あくまでもファンタジーのなかで『好き』というだけ。それくらいの常識はありますよ」  今村さんはこう弁明するが、どのようなタイプの女性と結婚したいのかを聞くと、かなり“非現実的”な答えが返ってくる。 「仕事ができて、グイグイと引っ張っていってくれて、かつ子どもが産める女性がいいです。理想は20代後半から30代前半。僕を専業主夫にしてくれたら最高ですね。容姿は問いませんよ」  今までこのようなタイプの女性には巡り合ったことは無いという。それはそうだろう。年収1千万円の今村さんが「専業主夫」になるのであれば、それ相応の年収を得ている女性でなければならない。子どもは生んでほしい、でも自分は仕事を辞めたい、そのぶん女性には稼いでほしい……これを許容できる女性はそうそういないだろう。  今年1月、今村さんは婚活パーティーに足を運び、「運命の相手」を探しに行った。しかし、 「年齢の高い怖い女性ばかりでした……。マッチングせずに、即帰宅しました」  今村さんによると、年齢層は30代後半から40代。昭和バブルを感じるような女性が多く、“年収すごいですね!”攻撃にうんざりしたそうだ。その後も何度か場所を変えて参加したものの、同じようなタイプの女性ばかりにしか巡り合えず、ちょっと辟易しているという。  そして、自嘲気味にこんな愚痴をこぼす。 「今どきの女性たちって、“公務員最高!”とか安定志向じゃないですか。そもそも僕みたいな生き方をしている男と結婚したいと思うんですかね。それに容姿もあまりよくないので、このまま仕事だけして死んでいく気もします。この収入がいつまで続くかもわからないですし……。婚活ではなくて、自然な流れでの出会いに期待すべきなのでしょうか」  最後には筆者にそう問いかけた今村さんだったが、何も言うことができなかった。  はたして、結婚できないのは彼自身の「こじらせ」にあるのか、就職氷河期に大学を卒業したという「不運」にあるのか。  その答えが見つからないまま、今村さんは現在も彼女いない歴=年齢を更新し続けている。(取材・文=吉田みく)
dot. 2020/06/12 17:00
【現代の肖像】哲学者・國分功一郎「社会が揺らぐと哲学が必要となる」<AERA連載>
大越裕 大越裕
【現代の肖像】哲学者・國分功一郎「社会が揺らぐと哲学が必要となる」<AERA連載>
学生にはいつも「哲学者は賢者ではない。知ることが好きな人間なんだ」と教えている(撮影/篠田英美) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  今の日本は不安だらけだ。政治への不信、不安定な雇用、原発の問題……。考えれば考えるほど、先が真っ暗にしか見えない。この混迷深まる日本で、どう生きていけばいいかを考えるために、國分功一郎の哲学や言葉が求められている。「哲学がない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ」と言う國分の言葉が重く響く。  一人の哲学者を紹介するにあたり、何から書き始めるべきかを考えたとき、その哲学の一端を知ってもらうに勝る方法はない。そこでまず読者の方々に、一つの哲学的な問いを提示したい。暗い夜道を歩いているあなたの前に突然、ナイフを持つ男が現れ「金を出せ」と脅してきた。いわゆる「カツアゲ」だ。命が惜しいあなたは、ポケットから財布を取り出して金を渡すと、男は走って去っていった。  さて、このときあなたは、自らの意志によって金を払った(能動)と言えるだろうか。それとも脅された結果、金を払わされた(受動)と考えるべきか? 確かに男は暴力をちらつかせあなたを畏怖させた。しかし金を渡す行為自体は物理的に強制されたものではない。あなた自身がポケットに手を入れ財布を出し、男に金を渡したのだ。これは自発的行為と言えるのではないか?  國分功一郎(45)は、「この問題を考えるためには、我々が慣れ親しんでいる『能動態』と『受動態』という言葉の枠組みから離れる必要があります」と語る。そのかわりに國分が提示するのが、ギリシャ語や英仏独露語などの母体となった数千年前の古代インド=ヨーロッパ圏の諸言語で、広く用いられた「中動態」という言語様式である。 「カツアゲされてお金を渡す人は、一見『お金を払う』という行動を自分で決めたように見えますが、その行為は本人の意志や能力の表現ではありません。むしろカツアゲする側の意志と暴力が自分の体を通じて表現された結果の行動なのです」  そうした「自分自身の意志は関係ない状況だが、その行為の中心に自分がいたときの行動」が中動態という様式でかつては表現されたのだという。國分は古今東西の哲学者、言語学者が残した文献を渉猟し、この「中動態」という古くて新しい概念を再発見した。その成果をまとめた2017年刊行の『中動態の世界――意志と責任の考古学』は哲学書としては異例の3万6千部を売り上げ、同年の小林秀雄賞を受賞している。優れた評論やエッセーに贈られる賞だ。 昨年6月、國分が座長を務めたドゥルーズ学会のサマースクールでは、能のワークショップも行われた。海外の学会で発表を続けたことで「東京の回は國分が座長をやって」と頼まれたという(撮影/篠田英美) ■長髪に黒い服を着た姿、教室でも異様に目立った  探検家の角幡唯介(43)は『中動態の世界』の書評で「(自分も)妻に銃を突きつけられたわけではないが、状況に従ううちに気がつくと結婚しており、子供ができて、この前など家まで買うことになってしまった。完璧に中動態で記述されるべき事態なのだ」と我が身に引き寄せユーモア交じりに解説した。中動態という概念を知ると、確かに私たちの日々の行動も、自分の意志で決めているとは言えないことが多々あることに気づく。  古代ギリシャの哲学者プラトンは「哲学は驚きから始まる」と述べたが、國分の哲学の大きな特徴も「人々がハッと驚くような新たな視点」をもたらすことにある。その思考領域は、民主主義や原子力などの大問題から、若者の恋愛や就職の悩みなどの身近な話題まで及ぶ。過去の偉大な思想をわかりやすく紐解きながら、複雑にこみいった問題の本質を提示できる識者として、メディアに意見を求められる機会も増える一方だ。 「ドイツの劇作家ブレヒトは『英雄がいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ』と述べました。最近よくそれをもじって『哲学がない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ』と言うんです」  そう笑う國分は、1974年、千葉県柏市に生まれた。父は市の公務員で母は専業主婦。公立の小中学校から早稲田実業高等部に入学すると、通学電車で安部公房や遠藤周作の小説を読みふけった。成績は優秀で早稲田大学政治経済学部に進学。入学後は「政治経済攻究会」というサークルに入り、そこで初めて本格的に「思想」と出会った。 「ホッブズやルソー、マルクスなどの著作を読んで、政治思想についてあれこれと議論するのが活動の中心でした。間違った意見や差別的な考えには容赦ない反論が飛んで、そこで鍛えられた。そういう自分の考えを批判される機会を持たぬまま大人になる人も珍しくないと後で知り、得難い経験になりました。後輩には政治学者になる白井聡君もいて、僕は幹事長も務めました」  大学で國分と同級生だったTBSラジオプロデューサーの長谷川裕(45)は、印象をこう語る。 「黒い服を着て長髪を後ろでまとめ、大教室でいつも最前列に座っていたので異様に目立ちました。3年時に同じゼミに入ると、カントなどの課題図書を僕は日本語訳で読んでいくのに、國分君はドイツ語やフランス語の原典で読んでくるんです。彼を中心としたゼミの仲間の議論がものすごく知的レベルが高くて、聞くだけで楽しかった」  ときは90年代半ば。「ニューアカ」と呼ばれた現代思想ブームの残り香が漂い、社会学者の宮台真司が売春する「ブルセラ女子高生」を論じ、漫画家の小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で薬害エイズ訴訟やオウム真理教問題を描くなど新たな思想の潮流が起きていた。國分らの議論はそうした現実の問題も俎上に載せた。ゼミには12人所属していたが、後に國分を含め5人が研究者となったことからも、そのレベルの高さが窺える。  研究者の途を志した國分は、フランス語で卒論を書いて早稲田を卒業すると、東京大学大学院に進学。東大に籍をおきながらフランスに留学し、政治哲学を本場で学ぶ。留学の壮行会でTBSに就職した長谷川は、「いつか國分君たちのような若い学者が活躍できる番組を作る。その日を楽しみにしてほしい」と語ったという。 「留学前から自分が関心を持っていたのが、17世紀のヨーロッパの思想でした。16世紀の宗教戦争で焼け野原になった社会をどう立て直すかという時代で、現代に通じる国家や主権といった概念が形作られていったのがその時期なんです」(國分) ドゥルーズ学会には現代思想の大家、アルフォンソ・リンギスも来日した(撮影/篠田英美) ■同世代の活躍を横目に、もやもやした30代前半  國分がとりわけ関心を抱いたのがオランダのスピノザという哲学者だった。17世紀の有名な思想家には近代を支配する科学的思考の礎をつくったデカルトがいるが、スピノザの思想は「科学的思考では扱えない領域を考えるところが魅力だった」。「真理はエビデンスによって証明でき万人に共有できる」と考えるデカルトに対し、人間の「主体」や「意志」といった、形はないが確かにある重要な存在についてスピノザは思索を深めた。 「スピノザの『エチカ』に、厳しい親に育てられた子どもが、成長して暴君のもとで勇猛な兵士となる話が出てきます。その兵士は自分の意志で戦っているように見えて、実は親や暴君の意志を表現している。現代にも通じる話ですよね」  留学時には現代思想界を代表する哲学者、ジャック・デリダの最晩年の授業に出席した。 「授業のテーマは『死刑』でした。デリダといえば日本では難解な哲学者として知られていますが、実際の人物はきわめて明快で、フロイトの精神分析をはじめあらゆる知見を総動員して自由に物事を考える人でした。その授業で一人の生意気な学生が『死刑を考えるのに哲学が必要なんですか?』と質問したことがあったんです」  デリダはその問いに「私は哲学が好きだからです」と答えた。國分はそれを聞き「いい答えだな~。やっぱりそうだよな」と感動したという。  帰国して東大の研究員となってから2年後、33歳のときに國分は高崎経済大学に講師の職を得る。東京から半日かけて鈍行電車で高崎まで行き授業をして、また半日かけて帰るという日々を送った。その電車の中でも國分は先人の哲学書を読みふけった。後に『中動態の世界』を書きはじめるにあたり、國分は「ギリシャ語を学ばなければこの本は書けない」と考え、1年半にわたって東京・駿河台のアテネ・フランセに通い古典ギリシャ語を学んだ。哲学の祖ソクラテスが説いた「知を愛すること」を國分は自らも実践し続けてきた。 「30代前半はなかなか仕事も決まらないし、同世代で世に出る人もいて、もやもやする時代でしたね。2004年に翻訳書の『マルクスと息子たち』を出版してから、自分の名前で本が出せるまで7年かかりました。今思えば、自分の思想をまとめるのに必要な時間だったと思います」  11年、國分は本格的な哲学書の『スピノザの方法』と、一般の人々を対象とした『暇と退屈の倫理学』という2冊の本を著し、一気に世の注目を集めた。そしてその年、先の長谷川がディレクターを務めていたTBSラジオの番組「小島慶子キラ☆キラ」に、國分をゲストとして招くと、その語りを聞いたマスコミ関係者が、続々と彼に出演や執筆を依頼するようになっていく。メディアで國分は、哲学の視点から現実の問題を鮮やかに解説していった。國分自身は11年3月11日に東日本大震災と福島の原発事故が起こり、日本が混乱状態に陥ったことが、自分に発言機会が与えられる契機となったと考えている。 「ギリシャで哲学が生まれたのは政治が腐敗して乱れたときです。社会がうまくいっていれば哲学は必要ない。物事の基礎を問い直すからこそ、基礎が揺らいだとき哲学が必要となるんです」 今も2週に1度、高崎経済大学の授業に東京から新幹線で行く(撮影/篠田英美) ■依存症や原子力発電など、哲学は現実生活と結びつく  12年の初頭、国会前で原発反対デモが起き、それに対して「デモなんかに意味はない」という冷笑的な意見がネットに多数書き込まれると、國分は「みんなデモの本質がわかっていない」と感じた。そしてフランス留学時代に何度も見た、群衆がゴミを撒き散らして行進するデモの光景から始まる次の文章を記した。 <デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである><デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよい(中略)そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである>  スタジオジブリの雑誌「熱風」12年2月号に掲載されたこの文章は、ネット上で拡散され、国会前デモに集まった人々の相当数が読んだという。  立命館大学准教授で哲学者の千葉雅也(41)は、02年ごろの東大大学院在籍時に飲み会で國分と初めて会った。雑誌「批評空間」最終号で、ちょうど國分が執筆したフランスの現代思想家、ジル・ドゥルーズについての論考を読んだときだった。 「論文の怜悧な筆致から物静かな人かと思っていましたが、江戸っ子のようなべらんめえの口調で話す快活な人で、そのギャップに驚きました」  それ以来、千葉は國分と交流を持つようになり、研究者となってからは雑誌の対談やイベントで仕事を度々ともにするようになった。 「國分さんの哲学は、頭の中だけで遊んでいるんじゃなく、哲学を人生の問題として引き受けることにある。人間の実生活と哲学との結びつきを、鮮やかに強烈に見せてくれる人です」  千葉の言葉通り、先の『中動態の世界』は医学書院の雑誌「精神看護」に連載された原稿が元になっているのだが、実際に『中動態の世界』を読んだ医療関係者から、「依存症や慢性疾患の治療に役立った」という声が多数届いているという。 高崎で教える学生たちと書店イベントへ向かう(撮影/篠田英美)  近年、著名人が違法薬物の所持や使用で逮捕される度に報道で「本人の意志の問題だ」と叫ばれる。だが医療の専門家の間では、アルコールや薬物などの深刻な依存がやめられないのは「意志の問題ではなく自己のコントロールを失う病」であることが常識となりつつある。編集を務めた白石正明(62)が國分の講演を聞いて「中動態という概念は哲学や言語学の世界の話だけではなく、依存症など現実の問題に向き合う人にもヒントになるのではないか」と考えたことが発刊に結びついた。  自閉症と哲学の研究にも力を入れている。昨年6月、國分は東京大学駒場キャンパスで行われた「第7回アジア・ドゥルーズ/ガタリ研究国際会議」の座長を務めた。ドゥルーズを研究する世界中の学者が100人以上集まったこの会議で、國分は「自閉症とドゥルーズ」の研究について発表した。 「この20年程の間に、自閉症の当事者の方々が、幼少期から自分が世界をどう認識していたかを語ることが増えました。自閉症の場合、他者の存在を想定せずに世界を知覚していることがありますが、ドゥルーズの哲学は、そもそも人間の知覚のあり方はそのようなものだと考えるんです」  現在、國分はこのテーマで、東京大学先端科学技術研究センター准教授で医師の熊谷晋一郎とともにジャンルを超えた共同研究も行っている。  最新刊『原子力時代における哲学』では題名通り、哲学の観点から原子力発電の問題を考察した。登場する哲学者はプラトン、ピタゴラス、ヘラクレイトス、スピノザ、ハンナ・アーレント、ハイデガーなど数十人に及ぶ。 「原子力問題を考える上で重要なのは1950年代です。当時、日本に落とされた2発の原爆の被害から、核兵器に対して世界中で大きな反対運動が巻き起こりました。しかし原子力発電に対しては『原子力の平和利用』というスローガンのもとで人類を救う技術のように喧伝されていました」 『ヒロシマ・ノート』を後に書く作家の大江健三郎ですら茨城県東海村の日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)を訪問し、原子力という新たなエネルギーに人類の希望の光を見ていた。しかし世界でただ一人、ハイデガーだけは「原子力の平和利用」という言葉の欺瞞を見抜いていたことを國分は同書で解説する。 「ハイデガーは1963年に日本人研究者に宛てた書簡の中で、たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、その管理の不可欠なことが、この力を制御し得ない人間の行為の無能をひそかに暴露している、と指摘したのです」 國分は学生への授業を一番大切にしている。「僕は学生のとき、『世の中にそんな考え方があったのか』と知ってハッとするのが何より面白かった。今の学生も、打てば絶対に響いてくれるんです」と語る(撮影/篠田英美) ■答えが出ない問いを考え続けるのが哲学者  このハイデガーの指摘は60年近くの時空を超えて、未だ終息の途が見えない福島第一原発事故の処理問題を抱える日本人の胸に突き刺さる。一方で國分は「ただ原発はダメだと言っているだけではいけない」とも語る。 「原発のような問題は一人ひとりが自分の頭で考え続けることが大切なんだ。それが本書を通じて伝えたいことなんです」  同書の担当編集者である晶文社の安藤聡(59)は國分について、 「真理の探究のために平凡な日常生活を維持する努力を全力で続け、社会の具体的な課題に対して哲学者として取り組む姿勢に敬意を覚えます。願わくば、政治に携わる人間に、このような哲学を期待したいところです」と語る。  哲学者とはどんな人間なのか。國分に問うと、「答えが出ない問いをじっと考え続けることができる人だと思う」と返ってきた。 「ハンナ・アーレントは『答えが出ない問いを考え続けることで、人は問うことができる存在になれる』と語っています。民主主義や立憲主義も決して絶対的に正しいわけではありませんが、今の世の中の根本を支えている制度です。それがダメになったとき、きちんともう一度定義し、説明し直す必要がある。そういう役割を、哲学者が担っていると思うんです」 「知を愛すること」は哲学者だけの特権ではない。政治や社会が混迷を深める今の日本で、我々一人ひとりにも求められている。 (文中敬称略)     ■こくぶん・こういちろう 1974年 千葉県生まれ、柏市で育つ。地元の小中学校を卒業後、当時ファンだった小室哲哉が卒業生だったことから、早稲田実業高等部を受験し入学する。  93年 早稲田大学政治経済学部入学。政治経済サークルの部室で仲間と議論する毎日を過ごす。卒論は17世紀の思想家ライプニッツについてフランス語で執筆。  97年 研究者になると決め、東京大学大学院総合文化研究科に入学。この年、仏ストラスブール大学哲学科に留学し、以後長きにわたるスピノザの研究を始める。「自分は日本の大学では一度も哲学科の学生であったことはない。それが、他の人と少し違う視点でものを考えられる理由かもしれません」 2000年 パリ第10大学哲学科DEA課程入学。  04年 初めての翻訳書としてジャック・デリダ著『マルクスと息子たち』を岩波書店から刊行。  06年 東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。同研究科の「共生のための国際哲学交流センター」(UTCP)特任研究員に就任。  08年 高崎経済大学経済学部の講師となる。  09年 博士論文「スピノザの方法」で東京大学大学院の博士課程を修了。同論文は2年後みすず書房から書籍として刊行。  11年 高崎経済大学経済学部准教授。TBSラジオ「小島慶子キラ☆キラ」への出演を皮切りに、「荻上チキSession-22」「文化系トークラジオLife」などに次々ゲスト出演。『暇と退屈の倫理学』で第2回紀伊國屋じんぶん大賞受賞。  12年 NHK Eテレの哲学トークバラエティー「哲子の部屋」にメインパーソナリティーとして出演。  13年 本格的な哲学書『ドゥルーズの哲学原理』、現実の政治の諸問題を扱った『来るべき民主主義』、読者の人生相談に答える『哲学の先生と人生の話をしよう』など多様な本を刊行。  15年 『近代政治哲学――自然・主権・行政』刊行。  17年 『中動態の世界――意志と責任の考古学』を刊行。同書で第16回小林秀雄賞、第8回紀伊國屋じんぶん大賞受賞。  18年 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授に就任。  19年 『原子力時代における哲学』刊行。 ■大越裕 1974年生まれ。フリーライター。理系ライター集団チーム・パスカルに所属し、研究者や先端企業を取材。本欄では「哲学者 鷲田清一」「京都大学総長 山極壽一」などを執筆。 ※AERA 2020年1月20日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
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