坂口さゆり
妻・恭子さんが語る大林宣彦監督と歩んだ60年と遺作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」
大林監督と写した、妻・恭子さんお気に入りのツーショット(C)PSC
大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」が公開され、話題を呼んでいる。日本映画の可能性を広げてきた作品の数々はどのように生まれてきたのか。大林映画のプロデューサーを務める妻・大林恭子さんに聞いた。
監督とはプライベートフィルムを作り始めた大学4年生くらいの時からアイデアを出し合っていました。当時からあふれる才能を持っていました。私はそこに引かれて、ずっと一緒にいられたのでしょうね。
大林映画のプロデューサーとしてクレジットされたのは、「転校生」の時からです。監督には毎回、脚本を読んで今回はここに予算をかける、と決めて宣言するんです。私の言うことを聞いてはくれるんですが、結局は自分のやりたいことをやってしまうのです(笑)。ただ、「海辺の映画館」ばかりは私は何も言えませんでした。「これが最後かな」という思いがあったからかもしれません。自由にやらせてあげたい、と決めていました。
私が監督に意見を言うことはありませんでした。彼はけなしちゃうとダメなんです。男の人ってそういうところがあるでしょう? 特に監督はそうですね。褒められるとすごく乗ってしまうタチ。そういう子どもみたいなところがある人です。
私たちはけんかというけんかをしたことがありません。出掛けにちょっと口げんかみたいなことになったとするでしょ。そうすると、一度家を出て、その辺まで行って帰ってくるんです。「ごめんね」と謝ってまた出ていく。そのまま出掛けて事故か何かに遭ったら二人とも後悔すると思ったんだと思います。
だから大林が怒っている姿を見たのは、「海辺の映画館」の撮影中がほぼ初めて。この映画は途中で一度企画がポシャってしまい、スタッフはほぼ全員初めて組んだ方たち。そのため演出部も制作部もいつものように自分の思いが伝わらない。怒っているのは皆さんに対してではなく、自分に対してなんですよ。もう大きな声で指示できない。歩くこと、走ることができませんでしたから。自分で伝えられないことがもどかしかったんです。だから最後はいつも皆さんに「ごめんなさい」と謝っていました。完成した時は感謝ばかりでしたね。
大林の映画は東日本大震災を境に変わりました。「映画でしかできないことを撮る」と言っていた彼が、「この空の花─長岡花火物語」からは、自分の戦争体験を伝える、描くようになりました。私の東京大空襲の体験も入れてくれました。黒澤明監督の言葉の通り「映画で未来を平和にしてほしい」という思いがこもっていたと思います。
私が作品の良しあしを判断する基準にしていたのが、スタッフの言葉です。映画でしか表現できないことをやるのが好きだった監督でしたから、撮影中にスタッフもキャストも「どうなるのだろう?」と思うわけです。そして、初号を見るとみんな「こうなるんだ」と納得する。彼らも映画の喜びや技術的なことを学んだり感じたりするんでしょうね。だから、「また監督につきたい」と言ってくださる。「恭子さん、次いつやるの?」。それが私のバロメーターでした。
でもね、60年以上一緒にやってきて私にとっては一度も「えぇ(どうしてこれを撮るの)?」という作品はなかったんですよ。脚本を読むと私なりのイメージができますが、いつも思っていた以上のものができあがった。彼の作品に裏切られたことがないんです。だから私、「すごいよね、あなた」って遺影に向かって言っちゃうの。それはとっても幸せだったと思います。できることならあと2作撮らせてあげたかった。思い入れのあった福永武彦の「草の花」と檀一雄の「リツ子その愛・その死」。それができなくなってしまったのは残念です。
監督からはたくさんのことを教えてもらいました。例えば人との接し方。お願いした小道具が意に沿わないものだったとしても、一度は必ず褒めるんです。その後に「こういうやり方があるよ」と伝える。その姿勢は最初から全然変わりませんでした。
亡くなる10日くらい前から毎晩途切れ途切れではあるんですが、講演でもしているのか「皆さん、ありがとう」って言うんです。おもしろいのがその後、「はい、3、2、1、カット」って。撮影中なのねと思いました。しばらくして休むのかなと思う頃に、今度はポソッと「恭子さん、ありがとう」って毎晩言ってくれました。出会った時から変わることのないやさしい人でした。
■大林監督の主な劇場映画(解説・大林恭子さん)
◇1977年 「HOUSE/ハウス」「瞳の中の訪問者」
「『HOUSE』は大林の父方の実家と医院が原点になっています」。役名『シロ』の猫ちゃんの本名は『アカ』!
◇78年 「ふりむけば愛」
スタイリストがいない時代、「初めて百貨店の全館とタイアップしてもらって、山口百恵&三浦友和の衣装や小物等をすべて調達しました」
◇79年 「金田一耕助の冒険」
◇81年 「ねらわれた学園」
「ケーキまで消えもの(料理)はすべて私が作りました。映画館で見た時、隣の女子高生3人組が食事のシーンになると『おいしそう!』と言ってくれたのは、すごくうれしかったわ」
◇82年 「転校生」
恭子さんがプロデューサーになることを決意。クレジットに初めて肩書を入れる。
◇83年 「時をかける少女」「廃市」
「『時をかける少女』では(原田)知世がまだ14、15歳。よく食べては笑っていたからゲラ子だねって言ってました」「『廃市』は80年代のすごく忙しい中でぽっとスケジュールの空いた2週間、監督の『(映画を撮りたい人は)この指とまれ』で2千万円で撮った作品です」
◇84年 「天国にいちばん近い島」
「撮影場所と宿泊所は距離があったんですね。ラーメンを持って行ったら、みんなが『うどん、おいしそう!』って。ラーメンとは言えなくなっちゃいました」
◇85年 「さびしんぼう」「姉妹坂」
「『さびしんぼう』の撮影は寒い時期で。仕事が一段楽した車両部の男性たちを市場に連れて昼食用の買い出しに。あったかい魚汁などを毎日作っていました」
◇86年 「彼のオートバイ、彼女の島」「四月の魚」「野ゆき山ゆき海べゆき」
◇87年 「漂流教室」
◇88年 「日本殉情伝 おかしなふたりものくるほしきひとびとの群」「異人たちとの夏」
◇89年 「北京的西瓜」
◇91年 「ふたり」
尾道で記者発表した翌日の撮影は大雨だったが決行。「監督が何を言い出すかわからないからスタッフは監督が言いそうなことすべてを用意していました」
◇92年 「私の心はパパのもの」「彼女が結婚しない理由」「青春デンデケデケデケ」
◇93年 「はるか、ノスタルジィ」「水の旅人―侍KIDS―」
「はるか、ノスタルジィ」は美術予算をたっぷりとって大掛かりなオープンセットを組んだ。東宝撮影所20年ぶりと言われた。「恭子さん、ありがとう。これで死んでも思い残すことがない」と言った美術監督の薩屋和夫さんは翌年亡くなった。「もっと苦労をかければよかった」
◇94年 「女ざかり」
◇95年 「あした」
「何もない小さな砂浜に、船の桟橋や待合室の大オープンセットを作りました」
◇98年 「三毛猫ホームズの推理<ディレクターズ・カット>」「SADA 戯作・阿部定の生涯」「麗猫伝説 劇場版」日本テレビの火曜サスペンス100回記念。「風の歌が聴きたい」「『風の歌が聴きたい』は沖縄から北海道まで大ロケーションでした」
◇99年 「あの、夏の日~とんでろ じいちゃん~」
◇2000年 「淀川長治物語・神戸篇 サイナラ」「マヌケ先生」
「『マヌケ先生』は監督の自叙伝です」
◇02年 「なごり雪」
「撮影は2001年。三浦友和さん、ベンガル、正ヤン(伊勢正三)皆さん50歳。そこで副題は『50代のエレジー』」
◇04年 「理由」
「宮部みゆきさんの大長編を大学ノート1冊に分析。登場人物すべてを脚本に入れました」
◇07年 「転校生~さよなら あなた~」「22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語」
◇08年 「その日のまえに」
◇12年 「この空の花ー長岡花火物語」
「監督はこの作品から映画でどう描くかではなく、何を描くかに変わりました」
◇14年 「野のなななのか」
◇17年 「花筐/HANAGATAMI」
「40年前に、商業映画第一作にとすでに脚本化。クランクイン直前、大林はがんの宣告を受けましたが、撮影の完成までは『絶対大丈夫』という妙な自信が私にはありました。唐津の日赤病院に入院しながら現場に通いましたが、撮影からなかなか戻らなかったために病院から捜索願いが出たこともありました」
◇20年 「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」
映画に出てくるピアノは監督が5歳の頃から弾いていた大林家のもの。「尾道の坂道の中腹にある家から撮影場所まで運びました」
(ライター・坂口さゆり)
※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日
2020/08/02 15:18