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16歳にして達観ぶりがハンパない芦田愛菜は「令和の吉永小百合」なのか
丸山ひろし 丸山ひろし
16歳にして達観ぶりがハンパない芦田愛菜は「令和の吉永小百合」なのか
芦田愛菜(C)朝日新聞社 “天才子役”として注目された芦田愛菜(16)も現在高校1年生。大人の女優へと成長し、10月から公開されている映画「星の子」で主演を務め、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公・明智光秀(長谷川博己)の娘・たま役として出演中。また、バラエティ番組「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」(テレビ朝日系)では司会を担当。CMにも引っ張りだこで、高校生となっても人気を集めている。  一方、読書好きで知性的な一面もある芦田。9月に行われた「星の子」の完成報告イベントでは、「信じること」に対する持論を熱弁。「揺るがない自分の軸を持つことは難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』と口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」と述べ、SNS上では、「アラフォーだけど愛菜ちゃんに教えを乞いたい」「心に刺さりました」「16歳の子に信じることの意味を教えてもらうとは」など、称賛の声が集まっていた。もはや、若干16歳にして人々から尊敬されるという存在になっているが、テレビ情報誌の編集者は「至って普通の16歳というところもある」と話す。 「先日放送されたバラエティ番組では、メイクの練習をしていると明かしていました。色つきのリップクリームを塗ったり、アイメイクに欠かせないビューラーの練習をしているとか。また、イヤホンをシェアするなど、『漫画のこういうシチュエーションいいよね!』的な恋バナもよくしているそうです。9月に放送された番組では、新人アナウンサーが『緊張しないコツ』を質問。芦田も心配性の緊張してしまうタイプだそうで、手のひらに『人』を3回書いて食べるようなおまじないなど、自分に暗示をかけるのが大事なのかなと思うと答えてました」  誰もが一度は試したことがある「手のひらに人を書いて飲む」。そんな古典的な暗示の方法を芦田も活用しているとは意外だが、高校生らしいと言えばらしい。バラエティ番組「日曜はカラフル!!!」(TOKYO MX、10月11日放送)では、テストを受ける時、「このシャーペンとともに頑張ったんだ!」という思いがあり、「その教科を勉強し続けたシャーペンでテストを受けると良い結果になる」という、自分のジンクスを持っていると明かしていた。また、情報番組「ノンストップ!」(フジテレビ系、10月1日放送)に出演した際は、異性に惹かれるポイントについて「腕まくりをする姿」と告白。筋肉がついていたりするとさらによいそうだ。 ■遊園地でそっくりさん認定された  そんな、勉強に関するゲン担ぎや惹かれる男性像も高校生ならではだが、遊園地などに遊びに行った時も結構はしゃぐタイプの“普通の女子高生”だという。 「遊園地に行っても意外と気付かれないそうで、並んでいる時などにそっくりさん認定され、友達が苦笑いしているとバラエティ番組で明かしていました。また、遊園地で傍観されるより、一緒になって『イェーイ』となってくれる男性がタイプだとも。幼い頃から活躍しているゆえ、視聴者は芦田を『親戚のいい子』感覚で見ることが多いと思いますが、一方で芦田自身は無理することなく自然に生きている感じがしますよね。だからこそ、知性があってもさわやかで嫌味がなく、より多くの人を惹きつけるのでしょう」(前出の編集者)  TVウォッチャーの中村裕一氏は、そんな彼女の今後についてこう分析する。 「とても16才とは思えないその落ち着いたたたずまいは、見ているこちらが心を洗われ、癒されるほど。彼女にはまさに『才色兼備』という言葉がぴったりです。数々の発言からも、周囲に流されず、冷静に状況を見つめ、自分というものをしっかり持っていることがうかがえます。そうなると、これから先、無理に女優の道を進まなくても良いような気もしますが(笑)、今後もし女優業を続けていくとしたら『令和の原節子』『令和の吉永小百合』となる品格を十分に備えています。もちろん、たとえ今後、違う道へ進んだとしても、彼女ならきっと成功するでしょう。完全に親か親戚目線で、かつ余計なお世話ですが、自分の気持ちに正直に、二度と戻らない10代というかけがえのない時間を思う存分楽しんで、悔いのない充実した毎日を過ごして欲しいですね」  昨年行われた「天皇陛下ご即位をお祝いする国民祭典」では祝辞を述べた芦田。次世代芸能人の代表という存在で、将来を楽しみにしている人は多いと思うが、芦田自身はサラッと軽やかに人生を歩んでいきそうだ。(丸山ひろし)
dot. 2020/11/21 17:00
ルース・ベイダー・ギンズバーグ
ルース・ベイダー・ギンズバーグ
 巷ではカマラ・ハリスさんが人気だけど、先輩格のこの人も忘れちゃいけない。ルース・ベイダー・ギンズバーグさん。米国のリベラル派の判事。27年間にわたって連邦最高裁判事を務め、9月18日に87歳で死去した際にも大きく報道された。  ジェフ・ブラックウェル&ルース・ホブデイ編『ルース・ベイダー・ギンズバーグ』(橋本恵訳)は彼女のインタビューを収めた手軽に読める本だ。  1956年に彼女がロースクールに入学した際、全米の弁護士に占める女性の比率はわずか3%。500人の新入生のうち女子は9人だった。首席で卒業するも、女性でユダヤ人、しかも子どもがいたために就職は困難を極め、学究に転じた。  50年代は赤狩りの嵐が吹き荒れる暗黒の時代だったが、<一九六〇年代後半に女性運動が活気づいた時、精力的に取り組みたいのはこれだって、わかったんです>。<一九七〇年代に法曹界にいられたのは、大変な幸運でした。一九七〇年代には、アメリカ史上初めて、女性が才能を生かすのを阻む障壁を、崩せるようになったのです>  幸運はまだあった。母親が先進的な思想の持ち主だったこと。考えを同じくする最愛のパートナーと出会えたこと。性差別をめぐる裁判では最高裁で争った6件中5件で勝ち、80年にはカーター大統領が要職に指名。93年にはクリントン大統領が彼女を連邦最高裁判事に指名した。こういう大統領がときどき出てくるのが米国の強みよね。 <一九八〇年から、私は一度も料理をしていません>と笑い、若きリーダーに贈る言葉は<自国を繁栄させたければ、女性に投資するべきです>。仕事を円滑に進める秘訣は<時々、耳が遠いふりをするといいわよ>という義母から教わった言葉。悪口は聞き流せ、と。 「信念は社会を変えた!」というシリーズの一冊で、対象読者は中学生。大人には物足りないボリュームだけど、お子様やお孫さんといっしょにどうぞ。 ※週刊朝日  2020年11月27日号
今週の名言奇言
週刊朝日 2020/11/19 18:26
秋篠宮さまの皇嗣マインド 「天皇家の言葉」を使わない次男だからこそできること
矢部万紀子 矢部万紀子
秋篠宮さまの皇嗣マインド 「天皇家の言葉」を使わない次男だからこそできること
立皇嗣宣明の儀に臨む秋篠宮さまと紀子さま/11月8日午前11時1分、皇居・宮殿「松の間」で (c)朝日新聞社 立皇嗣朝見の儀で天皇陛下に謝恩の辞を述べる秋篠宮さまと紀子さま/11月8日、皇居・宮殿で (c)朝日新聞社 眞子さま(左端)、佳子さま(右端)もオンラインで公務に取り組み、悠仁さまはお茶の水女子大学附属中学校に通う(写真:宮内庁提供) 「立皇嗣の礼」で秋篠宮さまが皇嗣となったことが内外に示された。父や兄とは違う立場ゆえ率直な言葉で語り、行動してきた秋篠宮さま。そのマインドは皇嗣になっても、貫かれる。AERA 2020年11月23日号から。 *  *  * 「立皇嗣の礼」が開かれる前日の11月7日、ニュース番組で「立太子の礼」を見た。1991年2月、31歳になった天皇陛下が若々しい声で、「皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くして、その務めを果たして参ります」と宣言していた。  それから約30年、秋篠宮さまは「皇嗣としての責務に深く思いを致し、務めを果たしてまいりたく存じます」と、落ち着いた声で宣言した。同月30日に55歳の誕生日を迎える秋篠宮さまは、どんな思いで儀式に臨んだのだろう。 「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の座長代理を務めた御厨貴(みくりやたかし)さん(東京大学先端科学技術研究センターフェロー)は10月末、朝日新聞のインタビューに答えていた。そこで明かしたのが、秋篠宮さまの呼称についての経緯。「皇太子」となる可能性もあったが、秋篠宮さまは「皇太子の称号を望んでおられない」との意向が政府高官から説明され、「皇嗣」に落ち着いたという。 ■国民目線の責任感  御厨さんは、「秋篠宮さまの真意は今もわからない」と言っていた。が、僭越(せんえつ)ながら「いかにも秋篠宮さまらしいなあ」と思った。秋篠宮さまの「次男マインド」がよく表れていると思ったのだ。 「天皇家の次男」として生まれた秋篠宮さまは、「いずれ天皇になる」兄との立場の違いを自覚、考え抜いた方だと思う。その上で、「次男」として行動することこそ自分の役割と思い定めている。そう拝察している。  上皇陛下の生前退位により、兄と同じ「皇位継承順位第1位」になる。「長男」の任務を背負ってからも、次男マインドは守りたい。その気持ちの表れが「皇太子の称号を望んでおられない」だったように思えた。  秋篠宮さまの発言から感じるのは、「国民目線」だ。皇室が国民と共にあること、税金で運営されているということ。その二つを強く意識していると思う。例えば2009年、44歳の誕生日を迎えるにあたっての記者会見で、皇位の安定的継承が難しくなりつつある現状について尋ねられ、こう答えた。 「皇族の数が今後減るということについてですけれども、(略)国費負担という点から見ますと、皇族の数が少ないというのは、私は決して悪いことではないというふうに思います」  18年、53歳の誕生日を前にした会見では、翌年に控えた大嘗祭(だいじょうさい)について「宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています」と述べた。身の丈にあった儀式にするのが本来の姿だと思うし、そのことは宮内庁長官らにも言ったのだが、「残念ながら、話を聞く耳を持たなかった」と続けた。  ノンフィクション作家の保阪正康さんは、「秋篠宮の言葉は、いわゆる天皇家の言葉とは違う」と書いていた(写真集「秋篠宮家25年のあゆみ」)。天皇家の言葉とは「聞き手が解釈の責任を負う」言葉で、それは責任逃れのためでなく、責任そのものから距離を置くためだ、と。だが、「秋篠宮は天皇家の言葉をほとんど使わない。むしろ国民に対し、率直な発言を続けている」。  この「天皇家の言葉とは違う」という一文は、「行動」に置き換えることもできると思う。秋篠宮さま、そして秋篠宮家の行動の特徴は「スピード感」だ。「責任そのものから距離を置く」のが天皇家だとすると、それはやはり特異なもの。だが、新型コロナウイルス禍でも変わらず発揮された。 ■若い行動力が持ち味  まだ緊急事態宣言が解除されていない5月15日、秋篠宮さまご一家と宮内庁職員が手作りした医療用ガウン100着が恩賜財団済生会に届けられた。22日には200着。同会総裁の秋篠宮さまがご家族とオンラインで理事長らから話を聞き、ガウンをごみ袋から作っていると知ったのが11日。4日後には、もう100着を届けている。  11年、東日本大震災でもそうだった。那須御用邸の風呂を被災者に開放すると宮内庁が決め、タオルの袋詰め作業を会議室でしていた3月24日。マスク姿の紀子さま、眞子さま、佳子さまがいつの間にか、そこで作業をしていた。元朝日新聞編集委員の岩井克己さんはこのことを「発表せず、報道もされない“隠密”行動だった」と紹介し、「ボランティアや市民活動家のような若い行動力が秋篠宮家の持ち味だ」と書いていた。  もちろん「天皇家の心」は、被災者、医療従事者と共にある。だが、それを素早く形にするのは、「次男」だからこそだと思う。絶対に守るべき天皇の「尊厳」が、素早さのブレーキになるのだと想像する。 ■皇嗣だからできること  それにしても、秋篠宮さまの今は、国民の今だ。その立場を直接的に変えたのは「生前退位」だが、複雑化の始まりは06年、長男悠仁さまの誕生だったと思う。皇室にとって41年ぶりの男子という慶事は、「次男家に生まれた将来の天皇」という構図となり、一部メディアが紀子さまバッシングを始めた。「生前退位」は高齢化社会を、「41年ぶりの男子」は少子化社会を映す。  そしてコロナという厄災で立皇嗣の礼が7カ月延期されたことも、思えば秋篠宮さまらしい。誰もが苦しんでいるコロナ禍は、皇室も例外でない。そのことを端的に示した格好だ。  そして今、皇室と国民の距離を遠ざけているのがコロナだ。国民との触れ合いが敬愛へとなった「平成流」が通じない。この状況は、まだしばらく続くだろう。令和の皇室の、正念場だと思う。 「天皇家の言葉とは違う」皇嗣だからできることがある。たぶん秋篠宮さまは、もう動きだしているはずだ。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2020年11月23日号
AERA 2020/11/19 07:02
「大阪公立大」誕生で注目 全国No1公立大学はここだ
「大阪公立大」誕生で注目 全国No1公立大学はここだ
職員が旧校名の覆いをはずすと「東京都立大学」の文字が現れた。東京都立大学南大沢キャンパス南門(2020年4月1日、(c)朝日新聞社) 大学ランキング2021より 大学ランキング2021より 大学ランキング2021より  2020年、首都大学東京が東京都立大に改称した。  石原慎太郎・元都知事が2005年に名づけた首都大学東京は、小池百合子・現都知事によって葬り去られてしまう。首都大学東京という名称について、教員からは「学会などで大学名がなかなか浸透せず、旧都立大と説明することがあった」、学生からは「就職活動の時、私立大学と間違われて不利だ」という批判が出たこともある。私立大学を見下すような姿勢は問題だが、「都立大」の復帰を望む意見は「首都大学東京」に改称されて10年以上経っても聞かれていた。結局は2人の都知事に翻弄されたと、嘆息する都立大教員は少なくない。  東京都立大は公立大学のなかで学生数がもっとも多い。教員数は大阪市立大にトップを譲っているが、これは同大学が医学部を持っているからだ。  公立大学のなかでランキング1位校を紹介しよう。 <教育> (1)外国人留学生(学部)=高崎経済大 111人 (2)海外への留学生派遣=国際教養大 165人 (3)外国人教員(常勤)=会津大 40人 (4)科研費(教員1人あたり)=京都府立医科大 310万2584円 <進路> (5)小学校教員=都留文科大 140人 (6)中学・高校教員=都留文科大 44人 (7)警察官=北九州市立大 18人 <国家試験合格者数> (8)看護師=埼玉県立大 128人 (9)保健師=静岡県立大 107人 (10)管理栄養士=山口県立大 47人 <国家試験合格率> (11)医師=横浜市立大 97.7% (12)薬剤師=名古屋市立大 89.77% (13)社会福祉士=大阪市立大 86.7% (14)精神保健福祉士=青森県立保健大、県立広島大、山口県立大 100% (15)作業療法士=大阪府立大、神奈川県立保健福祉大、札幌医科大 100%  進路で都留文科大、北九州市立大が健闘している。  都留文科大は全国から学生が集まっており卒業後、地元に戻って小学校、中学校、高校教員になる者が多い。全国各地に同校出身の教員ネットワークが築かれている。  北九州市立大は法学部、経済学部、地域創生学群の学生が地元の公務員志向が強いこともあって、警察官、消防官の採用者が多かったようだ。また、キャビンアテンダント採用は、2015年から19年までの5年間で39人と、公立大学でもっとも多い。文学部、外国語学部の女子学生がめざすケースが多く見られる。また、北九州にはスターフライヤーの本社があり、航空会社が身近なことも希望者が多い理由といえる。  公立大学は、2010年代以降は大きな変化を迎えている。新設大学の誕生、私立大学の公立大学化だ。 <新設大学> 新見公立大(岡山 2010年)、福山市立大(広島 2011年)、秋田公立美術大(秋田 2013年)、山形県立米沢栄養大(山形 2014年)、敦賀市立看護大(福井 2014年)、公立小松大(石川 2018年)、長野県立大(長野 2018年) <私立大学の公立化> 静岡文化芸術大(静岡 2010年)、名桜大(沖縄 2010年)、公立鳥取環境大(鳥取 2012年)、長岡造形大(新潟 2014年)、福知山公立大(京都 2016年)、山陽小野田市立山口東京理科大(山口 2016年)、長野大(長野 2017年)、公立諏訪東京理科大(長野 2018年)、公立千歳科学技術大(札幌 2019年)  公立化した大学はそれまで定員割れで経営が困難だったところも少なくない。地方の自治体としては、若年層に地元にとどまってもらう、あるいは来てもらうため大学には存続してほしい。こうして大学と自治体の利害が一致して公立化が実現したわけだ。  2022年、大阪公立大が誕生する。大阪府立大と大阪市立大を統合し、新たな大学としてのスタートだ。大阪に市立、府立の大学があるのは二重行政でムダという考え方があっての統合であり、そういう意味では、住民投票で頓挫した「大阪都構想」の一政策を、大学で実現させたともいえる。  統合によって、公立大学としては学生数、教員数いずれも国内最大規模となる。なお、校舎面積の広さは大阪市立大がすでに公立大学トップで、大阪府立大を加えることでさらに広くなる。25年に森之宮地区(大阪市城東区)に新キャンパスを開設する予定だ。  ところで、大阪公立大を運営する公立大学法人大阪は、大学の英語表記を「University of Osaka」とすることを決定した。これに対して、国立の大阪大は怒った。 「本学の英語名称『OSAKA UNIVERSITY』は、長年にわたり使用している名称であり、海外においても広く認識され、定着しているところです。大阪公立大学の英語名称はこれと酷似しており、今後、受験生や本学の学生・卒業生をはじめ、一般市民の皆様、特に海外の研究者、学生に大きな混乱を招き、世界にはばたく両大学の未来にとって非常に大きな障害となることは必至です。そのような事態にならないよう憂慮しておりましたが、結果として、双方の間で意見交換が行われないまま決定がなされたことは誠に残念でなりません。昨日、大阪府知事、大阪市長、公立大学法人大阪理事長あてに、その旨をお伝えしたところですが、引き続き、多くの関係者の皆様の混乱を招くことのないよう配慮をお願いしたいと考えております。」(大阪大ウェブサイト 2020年6月26日)  大阪大は公立大学法人大阪、大阪府知事、大阪市長に対して、英語表記を再考するように申し入れたが回答をもらっていない。  公立大学法人大阪は、特許庁に対し「University of Osaka」を商標登録出願したが、大阪大は「本学としては当該登録は認められるべきではないと考えております。このため、本日(8月21日)、特許庁が適正な審査を行うために設けている情報提供制度を利用し、本学は審査において有用であると考えられる刊行物等を特許庁に提出しました」(同大ウェブサイト 8月21日)と抗議の意を示す。  大阪大工学部のある教授はこう話す。 「大阪府知事の吉村洋文さん、大阪市長の松井一郎さん、そして府知事と市長をつとめた橋下徹さんが、大阪市立大と大阪府立大の統合を進めた。3人がこれまで繰り出してきた百戦錬磨の政治手法に、のほほんとやってきた国立大学が勝てるわけがない。英語表記はあきらめています。阪大教授がUniversity of Osakaという肩書きで執筆した優れた論文まで大阪公立大の手柄にされるのは悔しいですけど。3人はきっと『それは阪大さんのミスですよ』と突き放して、おしまいでしょうね」  2020年代、公立大学に新しい仲間が加わる。  20年、静岡県立農林環境専門職大が開学した。21年、広島に県立大学として叡啓(えいけい)大、新潟に三条市立大が開学予定である。三条市立大にはバングラデシュ出身の学長が就任する予定だ。なお、北海道の旭川大が2022年に公立大学化することが検討されていたが、1年延期となった。  公立大学は自治体が運営している。地方都市では学生が集まることで地域の活性化を図りたいと考えている。  公立大学は地域の救世主になれるだろうか。そのためには、その大学ならではの個性を打ち出すしかないだろう。国際教養大のように授業がすべて英語で留学必須にする、会津大のようにたくさんの外国人教員がコンピューターの最新知識、技術を教える、などである。地域創生のカギを握りそうな公立大。個性派の誕生を期待したい。 (文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)
dot. 2020/11/18 17:00
“群雄割拠”の女子ゴルフの若手たち、混戦から抜け出すのは誰だ!
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“群雄割拠”の女子ゴルフの若手たち、混戦から抜け出すのは誰だ!
今季メジャー初Vの原英莉花など若手の女子選手は“群雄割拠”の時代に (c)朝日新聞社  黄金世代、プラチナ世代、そして新世紀世代。国内女子ゴルフは、20歳前後のプレーヤーが群雄割拠しツアーを牽引している。  黄金世代は、昨年全英女子オープンを制した渋野日向子や米女子ツアーを主戦場とする畑岡奈紗、勝みなみらを中心とした1998年、99年生まれの女子プロで現在21歳か22歳の選手のこと。原英莉花、小祝さくら、河本結、新垣比菜、大里桃子らもこの世代で、頻繁に彼女たちの中からツアー優勝者が決まり、その存在感を見せつけている。  新型コロナウイルス感染拡大の影響で開幕が大幅に遅れた今シーズンも、小祝が9月のゴルフ5レディスプロゴルフトーナメントで優勝すると、単独2位にも2回食い込み賞金ランクは現在2位。10月の日本女子オープンゴルフ選手権では、原が国内メジャー初勝利を挙げる快挙を達成した。すると翌週のスタンレーレディスゴルフトーナメントでは稲見萌寧がツアー初優勝を達成。この世代の顔と言える渋野の調子が上がらない中、他の面々が渋野に負けない活躍を果たしている。  プラチナ世代は、2000年生まれの女子プロが中心で、安田祐香や西村優菜、吉田優利、古江彩佳はその代表格。米ツアーに参戦する山口すず夏もこの中の一人だ。アマチュア時代からの実績も豊富で、昨年あたりからは黄金世代を脅かす存在として注目を浴びている。  中でも古江は、昨年の富士通レディースでアマチュア優勝を成し遂げた逸材で、今季も9月のデサントレディース東海クラシックを制覇すると、直近に行われた伊藤園レディスゴルフトーナメントでも勝利。西村も負けじと、11月1日まで開催された三菱電機レディスゴルフトーナメントで逆転でのツアー初優勝を飾って見せた。  そして、今年になっていきなりその強さを見せつけているのが新世紀世代だ。プラチナ世代に続く2001年生まれの選手たちで、笹生優花や山下美夢有が有名どころ。中でも笹生は今季2勝を挙げ現在賞金ランクトップと、ルーキーでいきなりの賞金女王の可能性も出てきている。  何しろ今季開催された12試合中8試合はこれら「3世代」が制しており、ツアーにおけるプレゼンスは圧倒的。今のツアーは、彼女たち無しには語れないのは疑いのないことだ。  では、実力伯仲している「3世代」の中で、誰が抜け出していくのだろうか。その筆頭候補として挙げられるのは、新世紀世代の笹生だろう。  笹生は、日本人の父とフィリピン人の母を持ち、8歳からゴルフをスタート。宮里藍さんの活躍を見てゴルフにのめり込み、14歳の時にフィリピン女子ツアーで早くも優勝。15年には国内ツアー出場も果たしている。そして18年にアジア大会の個人と団体で金メダルを獲得。昨年のオーガスタ女子アマでは、安田とともに3位タイとなり、同年のプロテストに合格した。  コロナ禍でスタートした今季は、開幕のアース・モンダミンカップで5位タイに入ると、NEC軽井沢72ゴルフトーナメントとニトリレディスゴルフトーナメントでいきなり2週連続優勝。TOTOジャパンクラシックでは最終日に63を叩き出し単独2位と驚異の追い上げも見せた。上記でお伝えした通り、こうした活躍によりここまで賞金8,275万3,170円を稼ぎ出し賞金ランクは第1位。2位の小祝に約2,300万円の差をつけており、規格外の強さを見せつけている。  笹生の武器はなんと言っても「女性版ウッズ」と異名を取るそのパワーだろう。もちろんトレーニングを積み、飛ばすスキルを身につければ飛距離アップは可能だろうが、飛ばせるか飛ばせないかは、もとから備わった天性によるところが大きい。特に体力的に劣る女子選手が飛距離を伸ばすためには大変な労力がかかるが、はなから飛ばす力を持っているという点で、笹生の他選手に対するアドバンテージは非常に大きいだろう。  笹生のドライバーの飛距離は平均で260ヤードと言われており、ツアーのイーグル数では6個でトップ。師匠のジャンボ尾崎もそのパワーに舌を巻けば、周囲も「スイングが男子プロ並み」と衝撃を受けており、ライバルたちに比べて絶対的に有利であることは間違いないのだ。  そんなパワーが目立つ笹生だが、実はショットやショートゲームもトップクラスに位置する。フェアウェイキープ率こそ58.5%とふるわないが、パーオン率は73.5%で12位。平均パット(パーオンホール)も1.76で3位におり、目立っているパワーだけではなく、トータルでハイレベルなプレーを見せているのも、笹生の推しポイントと言える。  笹生は現在、日本とフィリピンの二重国籍を有し、来年の開催が予定されている東京五輪はフィリピン代表として出場予定。オリンピックの舞台では、二十歳にして日本代表の大きな壁となるだろうし、黄金、プラチナ、新世紀を中心にニューヒロインの誕生が止まらない女子ゴルフ界を牽引する存在となることは間違いないだろう。 (※文中の記録は全て11月17日現在)
dot. 2020/11/17 17:00
錦織圭、世界ランク40位に 丸山茂樹「ここから5年ぐらいが大事」とエール
丸山茂樹 丸山茂樹
錦織圭、世界ランク40位に 丸山茂樹「ここから5年ぐらいが大事」とエール
丸山茂樹 復活して、またみんなを驚かせてくれるでしょう! (c)朝日新聞社  丸山茂樹氏は、自身が主宰するゴルフ大会、男子テニスの世界ランキングの順位を下げた錦織圭について語る。 *  *  *  11月21日に千葉で開催する「丸山茂樹ジュニアファンデーション高校生特別ゴルフ大会」の出場選手が決まりました。男女とも32人ずつで、うち高3生は男子が16人、女子が26人となっています。  コロナ関連では、事前に抗原検査のキットを参加者に郵送して、大会前日に各自で検査。その結果を写真に撮って送ってもらう予定です。  抗原検査の精度がかなり上がってきてますし、セルフで検査できて、15分ほどで結果が出ますからね。現場に来てから検査して「お帰りください」っていうのも、ちょっとね。事前にやってもらって、陽性が出たら試合はあきらめてもらう。  自分で鼻腔に綿棒を入れても構わないですし、朝イチでしたら喉の奥にある粘膜で検査ができるんです。検査キットを100個ぐらい寄付してもらったので、現場までお子さんを車で送ってこられる親御さんにも配れるかな、と思ってます。  スタッフは最低限の人数でやりますので、僕もゴルフ場には行かないです。あとは天気だなあ。11月の下旬あたりで雨が降るケースは少ないので、それを見込んでるんですけどね。結果はともかく、楽しんでもらえたらと思います。  話は変わりまして、テニスの錦織圭選手(30)が11月2日付の世界ランキングで40位に落ちました。40位台になるのは2011年10月に47位になって以来だそうです。  錦織選手がプロに転向したのは07年だから、今年がプロ14年目ですか。スポーツ年齢としては最初の難しいところにさしかかっているんでしょうね。ここから5年ぐらいが、錦織選手にとって大事になってくるんじゃないかと思います。  自分にどう向き合ってプレーをするかを考える時期だと思いますので、先輩たちがいいアドバイスをくれるんじゃないですかね。でも彼より高い実績を残した人がいないから、モノ申すのは難しいかな。伊達公子さんとか杉山愛さんとか、世界経験の豊富な人がどう考えてきたかですよね。  今年は夏にコロナにかかったり、1年ぶりにツアーに復帰したと思ったら、全仏オープン(9月27日~10月11日)で肩を痛めてシーズンが終わってしまったり。  いま一回落ちるのは仕方ないんじゃないですか? 休みも多かったでしょうし。ここからですよ。それなりのモチベーションを見つけてね。  ロジャー・フェデラー(39)やラファエル・ナダル(34)、ノバク・ジョコビッチ(33)たちが頑張ってますからね。30歳を超えても最前線で戦い続けられるのには、何かがあるんだと思うんです。僕たちには分からないですけど、錦織選手は彼らを近くで見てきたから、その「何か」が分かってるんじゃないですかね。また僕らを驚かせてくれる日が来るのを楽しみにしてます。 丸山茂樹(まるやま・しげき)/1969年9月12日、千葉県市川市生まれ。日本ツアー通算10賞。2000年から米ツアーに本格参戦し、3勝。02年に伊澤利光プロとのコンビでEMCゴルフワールドカップを制した。リオ五輪に続き東京五輪でもゴルフ日本代表ヘッドコーチを務める。19年9月、シニアデビューした。 ※週刊朝日  2020年11月20日号
丸山茂樹
週刊朝日 2020/11/15 07:00
【現代の肖像】星槎グループ会長・宮澤保夫 「いつでも、どこでも、誰でも」学べる学校を
【現代の肖像】星槎グループ会長・宮澤保夫 「いつでも、どこでも、誰でも」学べる学校を
現在、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科トップスポーツマネジメントコースで博士論文を執筆中。星槎の取り組みを「体系」として残したい、と力がこもる(撮影/関口達朗)  学びたいのに、事情があって学べない子がいる。不登校だったり、学習障害だったり、プロを目指すアスリートだったり。  どんな子も学べる学校を作るために、宮澤保夫は奔走してきた。法律を学び、担当者を説得し、厚い壁に風穴を開けた。  借金を抱えたり、困難も多い道のりだった。「教育界のならず者」は引き際を見つつも、次の学校作りを考えている。  スポーツ界で「星槎」の名が高まっている。フィギュアスケートの鍵山優真(17)は、今年1月、冬季ユース五輪の男子シングルで金メダルに輝いた。女子フェンシングの上野優佳(18、現・中央大学)もユース五輪で優勝。ふたりとも星槎国際高校の学習センターで学び、上野は大学に進んだ。  10代のトップアスリートの多くは、学校ではなく、成人選手とトレーニングセンターなどで鍛錬する。国内外の試合や練習に時間を取られ、なかなか学校に行けない。そこで星槎は、発想転換し、練習場の近くに地域の学習センターを設け、登校しやすくした。「通える通信制高校」で海外遠征中も教材で学べる。世界レベルの選手が勉学の不安から解放された。それが好成績の背景にある。  星槎グループの総帥、宮澤保夫(70)は、不登校や学習障害、発達障害という言葉がなかった時代から、世間に爪はじきされる子どもと向き合い、「いつでも、どこでも、誰でも」学べる環境づくりに邁進してきた。その蓄積がトップアスリートの受け入れにもつながっている。宮澤は語る。 「優れた選手は小中学生のころから日の丸を背負わされて戦っています。年間登校日数が40日前後なんてザラですが、義務教育では卒業証書を与える。おかしい。能力も意欲もあって通学したいのに学習権が奪われている。大人の責任です。練習場の近くで学べれば、年間、100日以上通学できます」  宮澤が星槎の母体の学習塾「鶴ケ峰セミナー(愛称ツルセミ)」を開いてほぼ半世紀。いまや星槎グループは通える通信制の星槎国際高校、不登校の子どもに門戸を開いた星槎中学・高等学校を中心に幼稚園から大学まで約4万人の児童、生徒、学生が集う。ブータンやミャンマー、バングラデシュ、アフリカ諸国と交流し、留学生を受け入れている。組織はアメーバのように増殖しているが、全体を貫くのは「三つの約束」だ。 「人を排除しない、人を認める、仲間をつくる」。  ずっしりと腹にこたえる約束である。星槎は、さまざまな事情で学校に通えなくなった子どもに手を差し伸べ、工夫に工夫を重ねて社会と関わらせてきた。そのノウハウが脚光を浴びる。  ■アパートに小中学生集め、トイレの蓋に座って教える  いま新型コロナ禍で世界中の子どもが不登校のような状態だ。大多数の学校が遠隔授業に四苦八苦するが、数年前にオンライン会議システムZoom授業を導入した星槎は一歩も二歩も先をいく。  たとえば横浜の星槎中学・高等学校は、現在、毎日5時限のZoom授業を行っている。集中力を考慮して1時限30分余りとし、教材は教師の手作りだ。生活リズムを整えるために朝7時の体操から始まる。生徒の出席率は何と96~98%(5月15日時点)。生徒の約4割が小学校で不登校または保健室登校などの準不登校だったことを思えば驚異的な数字である。学校に行けなかった生徒たちが、「早く、授業に出たい」と待ちわびている。  宮澤と親交がある元文部科学事務次官で現代教育行政研究会代表の前川喜平(65)は、「不登校は学校側の子どもへの不適応」と言う。 「文科省が2005年に学校に来られない子に合わせて授業を工夫できる不登校特例制度を設けました。教科書どおりに授業しなくていい制度です。星槎中学が真っ先にこれを活用した。星槎は制度を上手く使って誰も気づかないニーズをとらえる。すき間産業的かな。宮澤さんは開拓者ですよ」  もっとも、学校はかくあるべしと信じる保守派は星槎を目の敵にする。いちいち気にしてはいられない。「あいつは教育界のならず者、人生の暴走族だといじめられたなぁ。はっはっは」と宮澤は笑い飛ばす。ときには泥水をすするような苦境に耐え、三つの約束を実践してきた。きれいごとでは済まない、熾烈な闘いの半生を記しておこう。  宮澤は、東京都町田市で手広く商売を営んでいた酒店の4男坊、末っ子に生まれた。「やっチャン」は四六時中喋りっぱなしでコマネズミのように友だちの間を駆け回り、遊びの計画をまとめた。小6のとき、在日コリアンの友人から親の仕事を手伝うので修学旅行に行けないと聞き、学級会に諮って先生や保護者を説得して一緒に連れて行った。中学では陸上部と地歴部、新聞委員を掛け持ちし、アマチュア無線を手がける。「まったく落ち着きのないADHD(注意欠陥・多動性障害)だよね」とは本人の弁。浪人を経て慶応大学文学部通信教育課程に進んだ。興味のある講義を聴講しまくって100単位を取る。「通える通信制」の原点はここにある。しかし、あと数単位取れば卒業というところで中途退学してしまう。  そのころ、仲間3人と開いていた鶴ケ峰セミナーの運営に忙しく、大学どころではなくなったのだ。アパートの狭い部屋に小中学生が密集し、宮澤はトイレの蓋に座って英語を教えた。隣の奥さんが「騒ぐのもいいかげんにして。これじゃおちおちケンカもできない。うちは離婚するかどうかなの!」と怒鳴り込んでくる。やむなく木造の教室を建てた。遠足や運動会も催すツルセミは、個別指導で入試実績も良く、急成長を遂げた。  ところが、塾生が有名校に合格する陰で、「これはおかしい」と首を傾げる事態が起きた。性格はよく、勉強も時間をかけて誰かがサポートすれば問題のない少年が高校に進めない。のちに学習障害や発達障害と診断される特性を持っていた。何とか進学させようとコネのきく私学にも相談したが、救えなかった。宮澤は悔し涙を流す。妻で同志でもある幸子(71)が回想する。 「ツルセミにはいろんなタイプの子がいました。勉強が苦手な子も、できる子が教えてあげてカバーした。ただ、点数が足りない男子は高校に進めなかった。本人も保護者も高校に行きたい。夫は、もう三つの約束を口にしていましたね。何とか希望をかなえたい、とスイッチが入った。無理しなくていいのにと思ったけど走り出しました(笑)」  宮澤は教育関連法規を穴が開くほど読み、学校教育法で定めた「技能連携校」に目をつける。東京電力や日産自動車、日立製作所といった大企業は、「金の卵」と呼ばれた中卒従業員のために企業内に技能連携校を持ち、通信制高校と連携していた。そこで専門科目の実習をしながら通信制で普通科目を学べば、高校卒業の資格が得られる。  ■実印を取り戻すために、闇金の事務所に乗りこむ  この技能連携校を企業内ではなく街なかにつくろうと宮澤は思い立つ。法律の条文のどこにも企業内に設置せよ、とは書いていない。だったら「外」に技能連携校を設けて、高校に進学できない子どもを集め、通信制高校と組めばいい。これが「すき間産業的な」発想である。ただし、文部省(現・文科省)の担当官は「前例がない」とけんもほろろに突き放した。「高校に行けない子どもを何とかしたいんです」と宮澤は懸命に訴える。一方で、東京都世田谷区の通信制の科学技術学園高校の協力を取り付けた。こうして厚い壁を突破し、1984年、宮澤学園高等部(現・星槎学園)を開校したのである。  宮澤学園の創設は、事情を抱えた子どもの教育に新たな地平をひらいた。だが、吉凶はあざなえる縄の如し。開校して間もなく、知人に頼まれ、静岡県三島市の幼稚園の再建に乗りだすと、前経営者の放漫経営で膨らんだ借金が襲いかかってきた。難敵は暴力団につながる闇金融だ。前経営者が借りた4千万円は高利で4億円に増えている。おまけに幼稚園の「実印」を闇金が握っており、取り戻さなくては園が再開できなかった。  宮澤はトランクに大金を詰めて闇金の事務所に向かう。高校時代からの大親友、ヤマグチが同行してくれた。彼は剣道二段で身長180センチ、体重85キロ、裏社会にも通じていた。 「宮ちゃん、大丈夫、おれに任せろ。金を持っていれば、命は取られねぇ。いいな」とヤマグチは耳打ちする。事務所には十数人の男が待ち構えていた。ヤマグチはトランクをあけ、現金を見せた。 「ふざけるな。そんな金じゃ足りねぇ」と怒号が飛ぶ。ヤマグチはトランクを閉め、のらりくらりと駆け引きを続ける。相手は大人数で、一枚岩ではなかった。ヤマグチは勝負をかけた。 「こっちは自分の借金じゃないのに返そうってんだ。金も持ってきた。もめてるのはそっちだろう。本当に実印があるのか。見せてくれ」。リーダー格が実印を持ってくる。ヤマグチは、それとなく実印を手元に引き寄せ、ふたたびトランクをドンとテーブルに置いた。蓋をあけ、男たちの目が札束に吸い寄せられる。と、その瞬間、トランクの陰の実印を宮澤のポケットにそっと滑り込ませ、「宮ちゃん、トイレ我慢してるんだろ。行ってこいよ」と促した。宮澤はトイレに立ち、そのまま刑事が張り込んでいる喫茶店に駆け込んだ……。  任侠映画のような修羅場をくぐり、幼稚園は「ピーターパン幼稚園」と名を変えて再開した。数年後、ヤマグチは悪性腫瘍で亡くなる。親友の死を乗り越えるには長い歳月がかかった。  ■会社を乗っ取られ負債、裁判は個人で受けて立つ  そして、91年、人生最大の難関、会社の乗っ取りに遭う。概して急成長した組織は財務が甘い。宮澤は大手生保財務部長と知り合い、乗りだしたばかりの健康ランド事業の会社経理を任せた。財務部長は自営業並みの経理を一流企業レベルに高めてくれる、はずだった。が、裏で三重帳簿をつくって健康ランドの入会金を株式投資にぶち込む。バブル崩壊で、株価は暴落。彼は学校の資金にも手をつけ、ぜんぶ乗っ取ろうとした。  実情を知った宮澤は血の気が失せた。財務部長は姿をくらます。会社は倒産し、健康ランドは閉鎖されて「負債総額約45億円、横浜地裁に破産の申請」と地元紙に書かれる。宮澤は債権者集会で罵声を浴びせられ、深々と頭を下げて償いを誓った。銀行、債権者との裁判は、会社ではなく、宮澤個人で受けて立つ。裁判は7年以上続いた。時間はかかったが、債務は返した。  財務部長の末路は凄惨だった。借金を重ねて株に投資してすべてしくじる。債権者や警察に追われて逃げ、最後は妻をあやめ、自らの命も絶った。宮澤は、個人で裁判を闘った理由をこう語る。 「いつも子どもたちに逃げるなと言っていて、おれが逃げたらダメ。逃げるな、とは本質から離れるなって意味。本質を掴んでいれば、どんな状況でもつながりは残ります。逃げたらおしまい」  乗っ取りの窮地を脱した宮澤は、心機一転、教育の原点に返ろうとして、また壁にぶつかる。95年、宮澤学園の提携先の通信制高校、科学技術学園の校長が代わり、「今後の協力は難しい」と通告されたのだ。そうか、だったら闘おう。子どもを守る。よその通信制高校にはもう頼らない。ただ、制度的に技能連携校を高校に変えるのは難しい。ならば広域通信制高校を新設し、「分校」扱いの学習センターを各地に置いて全日制同様に通学できるようにすればいい、と考える。  宮澤の戦略は水際立っていた。  だが……「変な子の学校はいらない」と開校を打診した自治体から次々と断られる。もうだめだ、と諦めかけた。すると、天の配剤か、北海道芦別市から学校誘致の手紙が舞い込んだのである。  かつて炭鉱で栄えた芦別は石炭産業の衰退で過疎化が進んでいた。市は学校を誘致して街を活性化させたい。当時の担当係長で、現在、芦別市教育委員会教育長の福島修史(61)は、宮澤との初面談を鮮明に覚えている。 「学習障害のことは知りませんでした。宮澤さんの熱弁に引き込まれた。芦別は何で学校を誘致したいのと訊かれ、街の活性化と言うのが打算的で恥ずかしくなった。で、芦別は石炭で戦後日本の復興を支えた自負がある。社会貢献したい。お手伝いしたい。おお、わかった。ガチッと握手です」  ■不登校は特別ではない、通っても休んでもいい  福島は星槎のスタッフと認可を受けるために北海道庁へ30回以上足を運んだ。紆余曲折の末、99年、技能連携校ではない、念願の通信制高校を開く。校名に「星槎」と付けた。「槎」とは不揃いの木で組んだ「いかだ」である。中国の故事に、少年が広い世界を見ようと星のいかだに乗って天の川を渡った話がある。それにちなんだ。  宮澤が数々の試練を克服できたのは、自信を失い、殻に閉じこもっていた少年や少女が、適切な支援と関わりで劇的に変わる場面に立ち会ってきたからではないか。人生は、いつでもどこでも起死回生できる。子どもたちがそう教えてくれた。  宮澤学園で学んだ新田悦子(38)は、かつてパニック障害に苦しんでいた。といっても、そんな病名は知らず、心療内科にかかったこともなかった。中2のとき、カラオケをしていて突然、動悸が激しくなり、吐き気で動けなくなった。その後は登校できない。高校に進んでも、電車に乗れず、不登校に陥るのは目に見えていた。偶然、宮澤学園を知り、体験入学をして「ここにしよう」と決めた。 「わたしは全然、特別じゃなかった。不登校、あ、そうって感じ。通ってもいいし、休んでもいい。とにかく先生が明るくて、遊びにくればいいよって迎えてくれた。宮澤会長は、ぼろぼろのジーンズで昼間からお客さんとビールを飲んでいました」  新田は片道50分の電車通学に挑む。一人では乗れないので母が一緒だった。学校に着いても教室に入れない。職員室や自習スペースで過ごして帰る。そのうち同じ方向の女性教師が母に代わって通学に付き添ってくれた。ある朝、「ごめん。今日、あたしの体調が悪いの。一人で学校に行ってくれる」と女性教師から電話が入った。 「ええーっ、うっそーと思ったけど、何とかたどりつけた。そのあたりから、自然に発達障害の子のサポートとか、自分の役目がこなせるようになって、高校2年の初夏、野外活動でコテージに泊まってキャンプしてたら、突然、パーンと頭のなかが切り替わりました。恐怖や緊張がスパッと消えて、昔の感覚に戻ったんです。不思議でした」  と、新田はふり返る。彼女は東海大学に進学してデザインを学び、大手食品会社に勤める男性と結婚をした。2年間、夫とナイジェリアに駐在して帰国すると、星槎のイベントでアフリカのファッションを紹介して人気を博す。現在は、週に1度、地域FM局でDJを務めている。  09年、宮澤は神奈川県の大磯の丘にグループの本拠を設けた。事務部門を集約し、スタジアムも併設する。組織は拡大の一途をたどった。  新型コロナ禍で往来が途絶えた4月下旬、大磯スタジアムに高校男子サッカー部員の声が響いた。 「コロナ以前より声がでかくなった。寮では入りたての1年生の心のケアを先輩がやっています。やんちゃな連中が役割を分担してね。自治意識だよ。高校生ってすごいな。マイナスをプラスに変えている。三つの約束を体現してるんだよね」  Zoomインタビューで宮澤が相好を崩す。爆走男も古希を過ぎた。星槎の継承が視野に入る。 「大きくなりすぎたかな。分割するのも一つ。次は小学校から高校、大学まで学年のない学校をつくります。いろんな分野に『生きづらさ』を抱えたギフテッド(生まれつき高い知能や才能を持つ人)がいる。彼らの特徴を伸ばす学校です」  星のいかだの旅は終わらない。感染状況が悪化しなければ、横浜の星槎中学・高等学校は6月1日から登校が始まる。授業を待ちわびる生徒は、どんな表情で学校にくるだろう。登校を不安視する保護者、生徒もいるので授業は対面とオンラインの複合になりそうだ。そこがまた星槎らしい。  (文中敬称略)      *   ■みやざわ・やすお 1949年 東京都町田市で江戸時代から続く酒店の4人兄弟の末子に生まれる。   54年 店舗が火災で全焼し、家運が傾く。片時もじっとしていない子で、算数の加減乗除がわからない。その体験が後年、学習障害の子の指導に役立つ。   68年 藤沢商業高校を卒業。「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」の活動とアマチュア無線に熱中。   70年 慶応大学文学部通信教育課程へ。   72年 横浜市旭区に塾「鶴ケ峰セミナー」を開く。個人指導と運動会やキャンプなどの活動で人気を集めて急成長。忙しくて慶応通信課程中退。学習障害、発達障害の子への対応を行い、進学できる高校がないことに憤る。   84年 技能連携校「宮澤学園高等部」開校。   85年 学校法人国際学園設立。   86年 ピーターパン幼稚園開園。   91年 健康ランド事業のエスクエラ倒産。莫大な債務を負い、裁判闘争。   93年 宮澤学園昴校開校。   95年 「一条校」の壁にぶつかっていると、北海道芦別市から学校誘致の手紙。横浜・ブータン王国友好協会設立。   97年 宮澤学園湘南校開校。   99年 芦別に悲願の一条校、広域通信制高校を開校。「星槎国際高等学校」と命名。各地に設ける学習センターは「分校」扱いとし、全日制と変わらぬ通学が可能になる。以後、宮澤学園は「星槎」に変わる。 2001年 奥寺スポーツアカデミー(OSA)を開き、サッカー指導へ。   04年 特別支援教育の教員養成などを視野に星槎大学を開学。   09年 グループの本拠、星槎湘南大磯キャンパスを開校。翌年、スタジアムも完成。野球練習場、道場なども。   10年 世界こども財団設立。   11年 東日本大震災、福島を中心に被災した子どもの支援活動を展開。   13年 早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入る。「定期券」を手に大磯から早稲田に通い、血尿を出す猛勉強で、1年で修士課程を修了。   15年 星槎国際高校にアスリートコースを設置。   19年 20年ぶりに学校法人国際学園理事長に復帰。将来への布石に着手。 ■山岡淳一郎 ノンフィクション作家。『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)、『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『原発と権力』(ちくま新書)、『生きのびるマンション』(岩波新書)。他著書多数。
AERA 2020/11/12 17:00
元ギャルの「SNSコンサルタント」に熱視線 テレビ局から地方自治体まで仕事が殺到しているワケ
元ギャルの「SNSコンサルタント」に熱視線 テレビ局から地方自治体まで仕事が殺到しているワケ
生駒幸恵さん(撮影/掛 祥葉子)  若者のテレビ離れが深刻と言われる中、若い女性層からひときわ注目を浴びたテレビ番組がある。9月26日に生放送されたお笑い特番「お笑いの日2020」(TBS系)だ。放送後、番組公式Instagramには「アカウントがめっちゃイケてて感動した」「投稿が終わって寂しい」などのコメントが多数寄せられるなど、SNSで大きな反響を呼んだ。その裏には、「SNSコンサルタント」を名乗る女性の大胆な仕掛けがあった。 *  *  *  7月下旬。SNSコンサルタントの生駒幸恵さん(34)の元にTBSからこんな依頼があった。 「『お笑いの日2020』では、普段テレビを見ない10代、20代の女子にテレビを見てもらえるようにしたい。これまでにない、SNS施策を考えてほしい」  TBSは数年前から「ファミリーコア」と呼ぶ13~59歳の視聴者の獲得を重視した番組作りをしており、同番組では特に若年層の女性の取り込みを強化したかったようだ。  これまで培った女性をターゲットにしたSNSのノウハウをどうしたら最大限に生かせるか。生駒さんは考え抜いたあげく、次々と“仕掛け”を投じていった。  まず、放送1カ月半前に番組の公式SNSアカウントを開設。ダウンタウンのSNS向けオリジナル動画を配信したり、女性人気の高いEXITらによるプレゼント企画を投稿したりして、放送への期待値を高めていった。  放送当日はインスタライブを配信したほか、芸人の楽屋を写真やグッズでデコレーションし、彼らが自発的に写真を投稿したくなるような空間を演出。狙い通り、当日は多くの出演芸人たちが写真をSNSに投稿し、番組告知に大きく寄与した。  番組公式アカウントは、放送前の1週間で1千万インプレッションという異例の数値を記録。フォロワー26万人を持つ某インフルエンサーの週間インプレッションが約150万であることを考えると、開設からわずか45日でこの数字をたたき出すのは、まさに快挙だった。また、「いいね」やコメント数の割合を示す「エンゲージメント」は、通常で5%で高いと言われている中、13.6%を記録。生駒さんが考案した番組オリジナルグッズの売れゆきも好調で、SNSから通販サイトへの送客は1週間で2万件を突破した。  こうしたノウハウを発揮できたのは、“元ギャル”だった生駒さん自身が「SNS黎明期」から培ってきた経験があったからだ。  生駒さんはグラフィックデザインの専門学校を卒業後、21歳でアパレル企業に就職。当時はブログやミクシィが全盛の時代。配属先は新興のギャルブランドゆえ「販促」に大きなお金はかけられず、ミクシィでセールの情報を流していた。 「会社公認ではなく、個人的に、匿名でやっていました。ミクシィの一般ユーザーとしてセールの情報を届けてみたら、ユーザーから『なんでそんな情報知ってるんですか』『もっと教えてください』とリアクションがあって、それがうれしかったのを覚えています」  生駒さんが初めてInstagram(以下、インスタ)に触れたのは、2011年ごろ。まだ黎明期でシェアやDMの機能もついておらず、日本では「写真を加工するためのアプリ」として知られていただけだったが、すでにアメリカでは普及していた。「#(ハッシュタグ)」の機能が導入されると、生駒さんは海外インスタグラマーから得られる情報に夢中になった。 「例えば『#iPhoneCase』で調べると、日本では見たことのないような、かわいいものがたくさん。かつ、世界のブロガーさんと同じアイテムが買えるのを体験できて、刺激的でした。毎日、朝方の4時ぐらいまでインスタを眺めていました」  アパレルの販促ツールとしても、ポテンシャルの高さを感じた生駒さんは、担当ブランドの公式アカウントを開設。当時絶大な人気を誇っていた5人のカリスマスタッフ「リエンダガールズ」たちにも個人アカウントでの発信を依頼した。 「彼女たちは見た目もかわいいし、大人気でしたが、ブログやSNSは、改善の余地がすごくありました。載せる写真の枚数が足りなかったり、撮り方が盛れていなかったり、文章が短かったりと、見せ方がうまくなかった。それらを改善するために教育を始めました」  当時、SNSの見せ方を教育していくスタッフマネジメントの概念はどこにも存在しなかったため、とにかく手探りだった。だが、生駒さんの施策は奏功し、SNSからの流入が寄与する形で、通販での売り上げが1日あたり1千万円を超え、通販の月間売上高は、半年間で3億円から5億円に急拡大した。 「社内でも『あのブランドだけEC比率が異常に高い』『SNSからの流入がすごいらしい』と話題になり、ようやく会社側が、SNS戦略の重要性に気付いてくれるようになった。会社のSNSに対する見方が変わるのを感じました」  その後、同社の全ブランドのSNSの統括を任され、信頼を勝ち得た生駒さん。2016年には、自撮りアドバイザーとして、『マツコの知らない世界』(TBS)に出演。2017年には『ステージを上げるSNS絶対6ルール』(文響社)を出版するなど、個人として認められるようになった。副業として始めたSNSコンサルが軌道に乗り、同年に独立した。  現在のクライアントは、エステやネイルサロン、地方自治体から100円ショップまで多岐にわたる。 「SNSコンサルタントというと、写真の撮り方やハッシュタグの付け方を教えている人と思われがちですが、見せ方のテクニックは、1割以下です。あとの9割は、コンテンツの提案や社内での理解促進、SNSをコンバージョンに結び付けるための流れ作り。SNS代行とは全く違う仕事です」  生駒さんは、今後もビジネスにおけるSNSの影響力はさらに増すと予想している。 「何をやるにしても、SNSが起点になる。多くの企業は、ホームページの仕様には予算を割くのに、なぜかSNSにはお金をかけない。でも本来、SNSこそプロフェッショナルがやらなければいけない仕事で、社内にSNSの仕事を専門に行う部隊を置かないと、うまくいかない。SNSの重要性と、そこから生まれる可能性を信じてほしいし、今後もそのための発信をしていきます」  企業内に、SNSのプロが常駐する時代が当たり前になる。生駒さんの描くビジョンは、そう遠くない時期に現実となりそうだ。(取材・文=AERA dot.編集部・飯塚大和)
dot. 2020/11/10 11:32
「おまえはここに何をしに来た」 写真家・渋谷敦志を問い続けた目
米倉昭仁 米倉昭仁
「おまえはここに何をしに来た」 写真家・渋谷敦志を問い続けた目
エチオピア・アファール州(2013年)。ダナキル砂漠へ塩の採掘に向かうキャラバン。人類発祥の地とされる大地溝帯にある「人類が住むことができるもっとも暑い場所」。ここに暮らすアファール人は先史時代以来、主に家畜の遊牧を営みながら、塩の交易を通じて外世界との接触と交流をおこなってきた(撮影:渋谷敦志)  写真家・渋谷敦志さんの作品展「GO TO THE PEOPLES 人びとのただ中へ」が11月5日から東京・品川のキヤノンギャラリー Sで開催される。渋谷さんに話を聞いた。  今回の写真展は渋谷さんが1999年にMSF(国境なき医師団)フォトジャーナリスト賞を受賞して写真家となって以来、世界各地の紛争や飢餓、自然災害の現場で必死に生きる人々の姿を写してきた、いわば集大成である。会場には約20年にわたって撮影された作品約90点がほぼ時系列で展示される。それを丹念に見ていくと、力のこもった内容もさることながら、そこに渋谷さんの葛藤や内面の変化がにじみ出ているようで興味深い。 世界中を飛び回って、カッコいい仕事をしたい  展示は受賞直後に訪れたエチオピアから始まる。その取材について、渋谷さんは「すごく楽しかった」と、赤裸々に語る。 「しんどかったですけれど、写真を撮ることの醍醐味みたいなものを十分に感じましたね。過酷な山岳地帯を歩いて、肉体的に追い込まれることで目の前の世界に入って行くようなところがあって、『こうやって写真は撮るんだ』と思いました」  それまで写真は、「自分の意思で切り取ってくる」ものだと思っていた。しかし、「世界に触れる、というのはこういうことなんだな」と実感した。それが「写真家としての原体験」となった。  そして、「ここまでは楽しかった」と、ぽつりと言う。次に訪れたアフリカ南西部の紛争地、アンゴラではそれまで目指したものが一瞬にして吹き飛ばされた。長い長い葛藤の日々が始まった。 「それまでは戦場カメラマンに対する憧れとか、冒険心があったんです。国境を越えて、世界中を飛び回ってね、そういうカッコいい仕事をしたいな、と思っていたんです。自分が住んでいるところからできるだけ遠く離れた世界に身を置いて、自分がどこまで成長できるのかとか、そんなモチベーションがあった。けれど、いざそれをやってみたら、もう写真なんて撮っている場合じゃないと思ったんですよ。ショックで。それから写真に対する前向きな気持ちというのがなくなっていった。写真を撮るのがしんどくなった」 アンゴラ・ウアンボ州カアラ(2000年)。反政府武装勢力UNITAに反抗したため、見せしめに腕を切断され、精神を病んだ男性。人心に恐怖を植えつけ、抵抗心を削ぐために、四肢や指、耳などを切断する戦術が横行していた。1975年にポルトガルから独立して以来続く戦禍は、すでに四半世紀におよんでいた(撮影:渋谷敦志) 戦場カメラマンに憧れていた自分が嫌になった  アンゴラで何を目にしたのか? たずねると、「人がたくさん死にました。目の前で」と、言葉少なに語った。そんな渋谷さんを前に、それ以上のこの話を聞く気にはなれなかった。  私は昔、米軍にいわゆる従軍取材をした経験がある。まるで映画のように血走った目で銃を撃ちまくる兵士。行く手を阻む残忍な仕掛け爆弾。爆撃で吹き上がる土煙。そのなかで、日々捨てられる生ゴミのように死んでいく人々(ほんとうにひどい表現だが、まさにそんな感じだった)。私たちが目にする紛争地の映像の向こうには、その1万倍くらいひどい現実があった(誇張でもなんでもないつもりだ)。たぶん、渋谷さんもそんな光景をアンゴラで目にしたのだと思った。 「飢えた人とか、死んでいく人にカメラを向けるって、ちょっと異常なことだなと思いましたね。ぼくはそういうものを撮りたくて写真家になったのに、彼らにカメラを向けることがすごく怖くなった。そこに意味を見いだせなくなった。まったくの部外者であるぼくがそこに行っていきなりカメラを向ける行為を正当化できる理由なんてないですから。そういう現場に憧れていた自分も嫌になった。だから、何度も写真をやめようと思いました。写真をやめて、人道支援の仕事をしようと本気で考えました。撮るより救う仕事。そういう葛藤が30半ばくらいまで、10年くらい続きましたね」 カンボジア・プノンペン、トゥールスレン(2003年)。ポル・ポト政権下、政治犯収容所「S21」で処刑された囚人の写真。現在、虐殺博物館となっているこの施設には、首切りの絵や拷問器具、囚人を監禁する鉄の足かせなど、虐殺を物語る証拠品が展示されているが、その中でぼくをもっとも震え上がらせたのは、処刑される直前に撮影された囚人たちの写真だった(撮影:渋谷敦志) 力を尽くすしかない。いつやめてもいいように  それとはまったく別に、資金面での問題もあった。紛争地の取材はとにかく費用がかかるのだ(移動手段や宿など、命の沙汰も金しだいの世界である)。 「お金のためにやっていたわけじゃないですけれど、それにしても生活はしんどかった。貧乏。居酒屋とかでアルバイトしながらちょっとずつお金を貯めて、年に1回とか2回、取材に行った。でも、飯が食えなかったから、いつやめよう、いつやめよう、と思っていました。まあ、もんもんとしていたわけです」  そう言うと、渋谷さんはため息をつき、小さく笑い、こう続けた。 「でも、あれが大事だったんです。いま思うと。撮ることがしんどかった時期に自分が熟成された。なぜ撮るのか、撮ってどうするのかという、ぼく自身の哲学みたいなものが深まった。いまでも悩みはありますけど、力を尽くすしかない。いつやめてもいいように、悔いがないようにやろうと思う。今回の写真展も最後の機会だと思ってやっています」 ソマリア・モガディシオ(2011年)。女子割礼を終えたばかりの避難民の少女。痛みに耐えた褒美の飴をにぎりしめている。女子割礼とは女性の外性器の一部または全部を切除する行為。ユニセフの報告によれば、ソマリア人女性の約98%が女子割礼を経験している。ソマリアは1991年から続く内戦で国土は分断され、国家機能は崩壊、事実上の無政府状態が続く(撮影:渋谷敦志) 写す対象が「マス」から「個」にフォーカスされていった  先にも書いたが、写真を撮るという行為には暴力的な一面がつきまとう。人の居場所にずかずかと踏み込んでいって、カメラを向けて帰っていく。 「そんな、普通だったら受け入れられないようなことを自分はしてしまっている。それだけは自覚しておきたい。まあ、自分が幸せかというと、そうでもないですし、決して楽しいことではないんですけれど、やっぱり撮らせてくれた人に対して恥ずかしくない仕事をしなければならないな、と思っています」  私自身もそうなのだが、取材に行くと「おまえはここに何しに来た」という視線に突き刺されることがある。それを身構えるのではなく、「こちらは無防備ですから、思う存分にやってください」という境地になるまでにはずいぶん時間がかかった。渋谷さんもそんな相手のまなざしに刺され、何度も挫折しそうになった。  そして、自戒を込めてこう振り返る。「最初のころは雑な取材をしていたんです。人間が人間として扱われない、そういう人たちを撮ってきたのに、状況だけ伝えられればいいと思って、人の名前を聞かなかったり。そんな反省もあって、ちょっとずつ写真が変わっていった。距離感とか。写す対象がマスから個にフォーカスされていきましたね」。 福島県南相馬市原町区(2011年)。萱浜の消防団の人たち。東日本大震災の直後に起きた原発事故の影響で救助が入らず、孤立無援の状況となるなか、上野敬幸さん(前列中央)を中心とした地元消防団が津波による行方不明者を捜索した。上野さんは8歳の長女と3歳の長男、両親を津波で奪われた。行方不明の長男と父親をいまも捜し続けている(撮影:渋谷敦志) 個人の力ではいかんともしがたい巨大で残酷な運命に閉じ込められた人々  ちなみに、渋谷さんは自分自身をジャーナリストとは思っていないという。「ぼくは個人的な動機とか、心のおもむくままにやってきた結果、ここにいる。情報を伝えるために写真を撮っているつもりはない。だから、わからなさや余白みたいなものがあって、見る人の想像を喚起するモノクロ写真が好きなんです」。  渋谷さんは長年、見えないものを撮ることに挑み続けてきた。それには写真を撮る側の力だけでなく、見る側の想像する力を借りなければならない。それによって見えないものが見えたりする。それが写真の面白さであり、力である。  今回の写真展のテーマは、「ボーダー(境界線)」。そして、「隔離のなかの生」。境界線のなかにはイスラエルのパレスチナ自治区を隔てる「分離壁」のような強固なものもあるが、ほとんどは目に見えない。その目に見えない壁が人々を取り囲んでいる。  その内側には自由がない。移動の自由、働く自由、ものを買う自由など、さまざまな自由が奪われている。いわば、目に見えない檻の中に閉じ込められた人たち。彼らは個人の力ではいかんともしがたい巨大で残酷な運命の中に閉じ込められている。 ギリシャ・レスボス島(2019年)。モリア難民キャンプ。中東やアフリカから欧州を目指す難民・移民が行き場を失って、先が見えない状態で勾留されている。収容可能人数3000人の5倍近い難民が密集して暮らす。金網のフェンスの外には「ジャングル」と呼ばれるオリーブ畑が広がり、モリアからあふれ出た難民がそこで暮らす(撮影:渋谷敦志) この世界は意味のわからないことだらけなんですよ  会場ではあのアンゴラの作品に続き、カンボジアの写真が飾られている。 「このあたりから、国境というのが重要なテーマになりました。始めは国境とか物理的な壁を追いかけていたんですが、次第にそれが内面的なものに変わっていったんです。ボーダーをつくるものって何なんだろう、と考えると、人間の心がボーダーをつくっているんですね。不快なものを遠ざけたり、異質な人たちと距離をとったり。同質的なものに囲まれているほうが安全だし快適なので、ぼくたちはそれを徐々に受け入れ、それが当たり前の社会になってしまっている。不安に思ったりする気持ちが人々のつながりを裁ち、分断を生んでいる。それがいま、世界中で起こっていると思うんです」  しかし、そう語る一方で、自分の中に潜む「境界線のような気持ち」についても吐露する。「もう、この世界は意味のわからないことだらけなんですよ」。そう言って、説明してくれた写真の中には可愛らしい2人の少女が座っていた。ソマリアの難民キャンプで写したものという。 「この子のお母さんから『ハッピーな瞬間だから撮ってくれ』と言われたんです。女性器を切除したところ。血だらけになって、その痛みに耐えたからと、もらった飴を握りしめながら3日くらいこの姿勢でじっとしている。そういう慣習が彼らにはあって、こんな劣悪な環境なのにカミソリで切っている。もう、思考停止になるくらいの拒否反応ですよ。線を引きたくなる。子どもに爆弾を巻いてね、市場の中で爆発させるとか、意味がわからないですよね。でも、それはぼくたちと同じ人間がしていることなんです」  抑制の効いた作品からはそれほど悲惨さは伝わってこない。むしろモノトーンの描写の美しさに見入ってしまう。しかし、写真を隅々まで見た後、キャプションに目を向けると、そのおぞましさに身もだえしてしまう。 ケニア・カクマ難民キャンプ(2020年)。ケニア国境地帯にある「カクマ(どこでもない場所)」という名の難民キャンプで撮影。陸上長距離走のトレーニングに励む難民アスリートたち。走ることで自分たちを隔離する境界線を越えていく。そんな強い意思とエネルギーを感じながら撮影した(撮影:渋谷敦志) 「想像せよ」と強く言いたい。自分自身に対しても  会場にはひときわ目を引く巨大な写真が展示される。トルコの沖、16キロにあるギリシャ領のレスボス島で写した「ライフジャケットの墓場」と呼ばれる場所だ。この島はヨーロッパに向かう難民の玄関口になっているという。中東やアフリカからやって来た難民たちはトルコを経由してレスボス島に流れ着く。 「上陸した人たちは海辺でライフジャケットを脱ぎ捨てる。それを投棄する場所。よく見ると子どものサイズが多いんです。いかに子どもたちが多いか、ということです。正確にはわかりませんが、もう何千人も溺れて死んでいる。ものすごいリスクを背負って住みなれた故郷を離れてやって来る人に対して、これはヨーロッパの問題だけじゃないですけれど、いかに歓待する心を持てるか――でも、同じ立場に立ったら、ぼくには自信がない」  別のレスボス島の写真にはコンクリートがむき出しになったビルが写り、その上のほうに「No borders(国境がない)」と、ペンキで殴り書きされている。これが写真展を締めくくる一枚となる。 「島の人は、難民の人が大変な思いをしているのはわかるんだけど、もうこれ以上来てほしくないと思っている。でも、なかには、『よく勇敢に海を越えてやってきた』と、こういうメッセージを投げかける人がいる。これを見たときに思ったのは、『No bordersの世界』を本当に想像できるのか、ということなんです。だから、『想像せよ』と強く言いたい。自分自身に対しても」 ギリシャ・レスボス島(2019年)。Border(境界線)なき世界を、ぼくたちは想像できているのだろうか。「No borders(国境がない)」という落書きを町のところどころで見た。生きる望みを絶たれてもあきらめず、勇敢に海を越えてくる者たちに向けられた歓待のメッセージだろうか(撮影:渋谷敦志) 会場では親密な語らいの場を常に開いておきたい  自分の中の境界線を越えたいという気持ちが最初からあった。その気持ちをいまも持ち続けていることが写真を続けている理由だ。それがなくなったらたぶん、カメラを置くと思う。そんなことを渋谷さんは熱を込めて語り続けた。 「写真を見てくれる人がそういうことを考えたり、想像してくれればいい。そんな自分の足場、守るべき拠点みたいなものをつくるための写真展にしたい。ぼくは毎日在廊します。10人でも3人でも、1対1でもいいんです。親密なコミュニケーションの場を常に開いておきたい」 「写真は、人と対面してなんぼ」と、渋谷さんは言う。写真展に合わせて、約230点の作品を収めた写真集『今日という日を摘み取れ』も発売する。 「写真展にお越しください。ここで対面して売りたい。みなさんに手渡ししたい」                   (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】渋谷敦志写真展「GO TO THE PEOPLES 人びとのただ中へ」 キヤノンギャラリー S(東京・品川) 11月5日~12月14日 写真集『今日という日を摘み取れ』(サウダージ・ブックス、A5判、320ページ、2800円+税)を会場で先行発売する。11月中旬からは渋谷さんが運営するオンラインブックストアと、発行元のサウダージ・ブックスのウェブサイトなどでも購入できる。
アサヒカメラキヤノン写真展渋谷敦志
dot. 2020/11/04 17:02
子宮頸がんワクチン 積極的勧奨が中止のままの日本にあるこれだけのリスク 
山本佳奈 山本佳奈
子宮頸がんワクチン 積極的勧奨が中止のままの日本にあるこれだけのリスク 
山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師。2015年滋賀医科大学医学部医学科卒業。ときわ会常磐病院(福島県いわき市)・ナビタスクリニック(立川・新宿)内科医、特定非営利活動法人医療ガバナンス研究所研究員 写真はイメージ(GettyImages)  日々の生活のなかでちょっと気になる出来事やニュースを、女性医師が医療や健康の面から解説するコラム「ちょっとだけ医見手帖」。今回は「子宮頸がんワクチンの日本の現状」について、NPO法人医療ガバナンス研究所の内科医・山本佳奈医師が「医見」します。 *  *  *  大学1年生の夏頃だったと思います。母から「子宮頸がんを予防してくれるワクチンが接種できるようになったらしい。婦人科の先生のところに行って、接種できるなら接種してきなさい」と言われ、よくわからないままに婦人科を受診し、ワクチンを接種した記憶があります。  母は当時、子宮筋腫による月経過多でひどい貧血に悩まされており、婦人科に通っていました。子宮の病気を患い、子宮を全摘することになった母は、「子宮頸がんを予防できるのならワクチンを接種した方がいい」と思ったそうです。医学部に入学したとはいえ、医学の勉強はまだ始まっておらず、疾患のことなど何一つ知らなかった私は、「母が勧めるなら接種しておこうかな。」と軽い気持ちで子宮頸がんワクチンを接種しに行ったのですが、3回も接種しなければならないこと、そして1回あたりの金額が(たしか)1万5千円ととても高額であったことに驚いたことを覚えています。  子宮頸がんのほとんどは高リスク型のヒトパピローマウイルス(HPV)に持続的に感染することで発症します。HPVには100種類以上の型があり、主に性交渉によって感染します。子宮頸がんの原因になる高リスク型は少なくとも13種類あると言われていますが、このうちのHPV16型と18型の2種類が子宮頸がんの原因の7割を占めているのです。  このHPVの感染予防に効果的なのがHPVワクチンです。子宮頸がんワクチンとも呼ばれており、こちらの呼び名をご存知の方も多いのではないでしょうか。実は、HPV感染は、子宮頸がんだけでなく、肛門がんや中咽頭がんなどもが関連していることも判明しています。HPV関連がんを予防するために、米国や英国、カナダ、ブラジルなどでは、女子だけでなく男子への接種がすでに推奨されているのがHPVワクチンなのです。世界では高リスク型である9つの型のHPV感染を抑える9価のHPVワクチンが標準となっています。  日本はどうかというと、世界からはかけ離れた状況と言わざるを得ない状況と言えそうです。  日本では、2009年12月と2011年8月に計2種類のHPVワクチンが発売されました。その後、2013年4月から2価と4価のHPV ワクチンの定期接種(小学校6年生~高校1年生相当の女子が該当します)が開始されたのですが、2カ月後の6月には副反応の懸念から積極的勧奨は中止。現在も、HPV ワクチンの積極的勧奨は中止されたままなのです。  厚生労働省が積極的勧奨を中止し、HPV ワクチンの接種率が激減。その影響が調査により明らかとなりました。大阪大学の八木先生らの研究グループによると、定期接種の対象を過ぎた2000年度から2003年度生まれの女性では、子宮頸がん患者が約17,000人、子宮頸がんによる死亡者が約4,000人増加する可能性が示唆されるといいます。また、生まれ年度ごとのHPVワクチン接種率を算出したところ、1994年から1999年度生まれは55.5~78.8%であったものの、2000年度生まれの接種率は14.3%、2001年度生まれは1.6%、2002年度生まれは0.4%、以降1%未満と、2000年度以降生まれのHPVワクチン接種率は激減していたことがわかったのでした。  HPVワクチンの有効性と安全性については、過去に多くの研究が発表され、HPVワクチンが子宮頸がんの前がん病変である高度異形成を抑制するという医学的コンセンサスは確立されていました。しかしながら、HPVワクチン接種とその後の子宮頸がんのリスクとの関連性を示すデータは不足していました。  ところが、今年の10月1日、スウェーデンのJiayoa氏らの研究グループが2006年から2017年の間に10歳から30歳だった約167万3千人の女性を対象とし、4つの型のウイルスに有効なワクチン(4価のHPV ワクチン)の接種と子宮頸がんの発症との関係を調べたところ、子宮頸がんの累積発生率は、予防接種を受けた女性では10万人あたり47人、予防接種を受けていない女性では10万人あたり94人と、4価のHPVワクチン接種は子宮頸がんのリスクの大幅な低下と関連していることがわかったのです。  HPVワクチン接種が、子宮頸がんの前がん病変である高度異形成を抑制するだけでなく、子宮頸がんのリスクの大幅な低下をもたらすと判明した一方で、日本ではHPV ワクチンの積極的勧奨は中止されたままであり、接種率は1%を下回っているというのが現状です。多くの国で接種が進み、子宮頸がんに罹患する女性が減る一方で、日本では増加すら示唆されている、というわけなのです。  2015年の国立社会保障・人口問題研究所の調査によると、18歳から19歳の未婚の男性・女性で性交渉の経験があるのは、各々23.4%、20.5%ですが、20歳から24歳になると、48.9%、49.3%と大幅に増えることがわかっています。性交渉によりHPVが感染することを考慮すると、大学生あるいは成人してから接種するという考え方でも良いのではないのでしょうか。その年齢であれば、ワクチン接種の有効性とリスクを自分で判断できるのではないかと私は考えます。
病気病院
dot. 2020/11/04 07:02
連戦の競泳、レースに飢えた選手たちに活路「スピード感覚を磨ける」
平井伯昌 平井伯昌
連戦の競泳、レースに飢えた選手たちに活路「スピード感覚を磨ける」
平井伯昌(ひらい・のりまさ)/競泳日本代表ヘッドコーチ、日本水泳連盟競泳委員長 短水路日本選手権女子200メートル個人メドレーを日本新記録で制した大橋悠依=10月18日 (c)朝日新聞社  指導した北島康介選手、萩野公介選手が、計五つの五輪金メダルを獲得している平井伯昌・競泳日本代表ヘッドコーチ。連載「金メダルへのコーチング」で選手を好成績へ導く、練習の裏側を明かす。第42回は「国際リーグ」について。 *  *  *  ハンガリーの首都ブダペストに来ています。競泳の国際リーグ(ISL)に初参加する「東京フロッグキングス」のコーチとして、チーム対抗戦に挑みます。  欧米の8チームで昨年発足したISLは、国際水泳連盟(FINA)とは別組織が運営する短水路(25メートルプール)で争う賞金大会です。今年から日本とカナダの2チームが加わり、10~11月にブダペストで集中開催されます。  北島康介ゼネラルマネジャー(GM)が「新しい水泳の価値をつくる」というISLの趣旨に賛同して創設した「東京フロッグキングス」は、主将の入江陵介、私が指導している萩野公介、大橋悠依ら日本のトップスイマーを中心に、ロシア、ベネズエラ、ギリシャなど海外の選手もメンバーに加わっています。  毎年この時期に開かれているFINAのワールドカップ(W杯)が新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止になったため、ISLは海外のトップ選手と競い合う貴重な機会です。世界各地から選手が集まるので感染防止策は徹底されています。私たちのチームは日本を発つ前に全員PCR検査を受けました。ブダペストでもホテルやプールなど行動範囲の制限があり、大会は無観客で行われます。  予選リーグは4チームによる2日間の対抗戦を4戦行います。勝ち上がれば準決勝に進み、11月21、22日に決勝があります。  選手たちにはまずISLの舞台を大いに楽しんでもらいたい。これだけ短期間に練習とレースを繰り返す経験はなかなかできません。コーチとしても初めての経験を楽しみたいし、世界各地のコーチや選手との交流を深めていきたい。  日本を発つ前、10月17、18日には東京辰巳国際水泳場で短水路日本選手権が開かれました。予想を上回る充実した内容の大会になったと思います。  コロナ禍で4月の日本選手権を始めシーズン中の主要大会が軒並み中止になって、選手はレースに飢えていました。「練習しろ」と言われても何に向けてやっているんだ、と。それが今回の短水路日本選手権でナショナルチームの仲間と競い合って、レースの感覚を取り戻した。その状態でこれから1カ月、レースの連続でスピード感覚を磨くことができます。競技会強化は非常に重要で、それぞれの選手のステップアップにつながると思います。  ISLを終えると、12月に日本選手権が待っています。ISLで磨いたいい泳ぎとスピードで挑むことで、課題が浮き彫りになってくるはずです。その課題を年末からの強化練習で克服して、来年の東京五輪へとつなげていきたい。  短水路日本選手権では、大橋が25歳の誕生日に女子200メートル個人メドレーで自己の日本記録を2年ぶりに0秒20更新、2分5秒09で優勝しました。専門の個人メドレーでなかなか結果が出せずに悩んだ時期もありますが、今回は自信を持って泳いで冷静に自分の力を発揮できました。心技体が一致するとベストタイムが出せます。体のバランスなど長年の課題の克服に4月以降、時間をかけて取り組んできたことが彼女自身を成長させたと思います。  萩野は記録はまだまだですが、気持ちの面でいい方向に変わってきています。ブダペストでの大会と練習が刺激になるはずです。 (構成/本誌・堀井正明) 平井伯昌(ひらい・のりまさ)/競泳日本代表ヘッドコーチ、日本水泳連盟競泳委員長。1963年生まれ、東京都出身。早稲田大学社会科学部卒。86年に東京スイミングセンター入社。2013年から東洋大学水泳部監督。同大学法学部教授。『バケる人に育てる──勝負できる人材をつくる50の法則』(朝日新聞出版)など著書多数 ※週刊朝日  2020年11月6日号
平井伯昌
週刊朝日 2020/11/02 17:00
2020年ブレイク女優・浜辺美波 人気の裏にある「気の強さ」
丸山ひろし 丸山ひろし
2020年ブレイク女優・浜辺美波 人気の裏にある「気の強さ」
浜辺美波(C)朝日新聞社 投稿写真のストックがなく、まさに猫の手を借りた?(浜辺美波公式インスタグラム@minami_hamabe.officialより)  現在放送中のドラマ「タリオ 復讐代行の2人」(NHK総合)で、岡田将生とW主演を務めている女優の浜辺美波(20)。9月末まで放送されていた横浜流星とのW主演ドラマ「私たちはどうかしている」(日本テレビ系)では、可憐で才能ある和菓子職人役を好演も話題になった。先日のプロ野球ドラフト会議で広島からの1位指名を受けたトヨタ自動車・栗林良吏投手が「理想の女性は浜辺美波」の名前をあげるなど、まさに2020年目覚ましい活躍を見せているといえる。  2017年公開の大ヒット映画「君の膵臓をたべたい」で主人公を演じ、知名度がアップした浜辺。同映画の透明感溢れる女子高生役が記憶に新しい人も多いだろう。まさに、色白の清楚な美少女という印象が強いが、これに「ビジュアルとは裏腹に、言動からは意外とサバサバした気の強さも伺える」と話すのはテレビ情報誌の編集者だ。 「例えば読む小説のジャンルについて、以前バラエティ番組で明かしてましたが、恋愛小説は一切読まないそうです。くっついたり離れたりと、まどろっこしい展開がイライラして『好きなら好きと言えばいいのに』と思ってしまうそうです。ちなみに、好きな小説のジャンルはサイコパスな人物が登場するミステリー小説。感情移入のしようがなく、エンターテインメントとして楽しめるのだとか。また、浜辺さんは6月に自身のインスタグラムを開設し、プライベートの様子や仕事中のオフショットなどを投稿しているのですが、7月4日に猫の手のような写真とともに、『こういう写真みたいかもとかありますか?? すみませんついにストックなくなりました。』とネタが切れたことを宣言して、ファンの笑いを誘っていました」  自分の考えを率直に述べる浜辺だが、「痛快TVスカッとジャパン」(フジテレビ系、2019年12月16日放送)に出演した際は、苦手な女性のタイプについて明かしたことも。何でも、ハイキングに行く時にオシャレな薄い上着を着てくる女性で、「そういうのって一番嫌じゃないですか?」と言い、さらに「蚊に刺されろって思っちゃう」とぶっちゃけていた。 「昨年放送されたバラエティ番組では、最近の流行に疎いという悩みがあるということで、若者の間で流行しているフレーズをクイズ形式で出題するという企画に参加。MCから『あまり流行を知らないの?』と聞かれると、『友達がいないんで情報が入ってこないです』とストレートに暴露していました。そんな裏表がなさそうな人柄に、好感を持つ人も多いと思いますよ」(前出の編集者) ■11歳でデビューして高校で上京  思ったことをズバズバ言う性格の裏には、浜辺が10代の頃の経験が影響しているのかもしれない。 「一歩踏み出さなかったら後悔しそうだなと思った時は後悔しないほうを選ぶ、とインタビューで話していたことがあります。11歳でデビューし中学卒業後に石川県から上京し東京の高校に通い始めた浜辺さんですが、やはり不安が大きかったのでしょう。『あの時に上京しておけば成功したかも』と後になって思うくらいなら、いま上京して失敗したほうがいい。挑戦した上で失敗して後悔するほうがウジウジしないと考えて、上京を決意したそうです。10代でそんな人生の重大な決断をしたわけですから、細かなことでは動じない性格なのでしょう。 一見、繊細そうなルックスですが、周りに媚びすぎない心の強さを持っていると思います。今は清純派というイメージが強いですが、将来は芯の強いかっこいい女性を演じてもピッタリとハマるかもしれません」(同)  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は、浜辺の魅力についてこう分析する。 「彼女の近年のキャリアを振り返ってみると、やはり『君の膵臓をたべたい』が公開された2017年からの活躍がめざましい。同作品の山内桜良のような可憐な役から、『賭ケグルイ』の蛇喰夢子のような狂気を孕んだ役まで、演技の幅がすごく広い。しかも、どれもしっかり演じ切って役を自分のものにしており、まだ20歳とは思えない才能の持ち主と言えるでしょう。また、昨年放送された『世にも奇妙な物語 雨の特別編』の『大根侍』というショートドラマも印象的でした。刀の代わりに大根で侍と決闘する女子高生を演じていましたが、作品世界に溶け込んでおり、素晴らしい演技でした。個人的な感想ですが、『賭ケグルイ』や『大根侍』のように、現実とは違う不思議な世界観を持った作品に映えるタイプの女優と言えるかもしれません。こういう意味で、12月に公開される実写版映画『約束のネバーランド』で主人公のエマを演じるとあって今から非常に楽しみです」  2020年は飛躍の年となった浜辺。今後も活躍が大いに期待されるが、そんな中、女優としてどんな変化を見せてくれるのか楽しみだ。(丸山ひろし)
dot. 2020/11/01 11:30
「ヤレる女子大学生ランキング」に声を上げた女子大生 「あの日を境に人生が180度変わった」
「ヤレる女子大学生ランキング」に声を上げた女子大生 「あの日を境に人生が180度変わった」
山本和奈(やまもと・かずな)/1997年生まれ。大学在学中にチリに留学。教育支援の国際NGOや竹製歯ブラシの販売ブランドを設立。チリを拠点に企業や団体を運営(撮影/MayuOno)  大学時代に性差別、女性蔑視に対して声を上げた山本和奈さん。現在は一般社団法人Voice Up Japan(ボイスアップジャパン)の代表、起業家として社会問題と向き合っている。AERA 2020年11月2日号では、山本さんに日本のジェンダーの問題などについて聞いた。 *  *  * ――2019年1月4日、国際基督教大学(ICU)4年生だった山本和奈さんは、前年暮れに発売された「週刊SPA!」の特集記事「ヤレる女子大学生ランキング」に、抗議の署名活動を始めた。記事撤回と謝罪を求める声は瞬く間に広がり、山本さんらは週刊SPA!編集部に面会を要請。同編集部は「女性をモノとして扱う視点があったと反省している」と謝罪した。 山本さん:あの日を境に私の人生は180度変わりました。大学卒業後は南米のチリに行くと決めていましたが、私が日本を離れるからといって、これを一度限りの運動で終わらせてしまうのはもったいない。社会を変えられるチャンスだと思い、Voice Up Japan(VUJ)を立ち上げました。  団体の名前の由来でもあるのですが、日本は「おかしい」と思っても声を上げにくいと実感しています。声を上げたこと自体を責められたり、聞いてもらえなかったりすることがあまりに多く、諦めてしまいがち。問題はジェンダーに限りません。  例えば私の学生時代のアルバイト先の飲食店では、閉店が夜9時と決まっているのに、ギリギリに入店するお客さんを断ってはいけないし、その人が席を立つまで閉店準備をすることも禁じられていました。問題提起をしても「お客様は神様だから」「ルールだから」で終わり。別のカフェでは見栄えのために店頭に全種類のジュースを並べ、数時間で全て廃棄していました。フードロスだと訴えましたが、「今までそうしてきたから」と取り合ってもらえませんでした。  海外と比べて日本では若者へのリスペクトも圧倒的に足りません。「若者は考えが甘い」「そんな理想論は社会で通用しない。君も大人になればわかる」などと言われてしまう。そういう社会のあり方を変え、日本でも多くの人が声を上げやすい環境をつくり、ジェンダーやセクシュアリティー関係なく平等な社会を目指す。それがVUJのビジョンです。 ■多様性こそ一番の強み ――今年、ICUに加え、早稲田、慶應義塾、明治、青山学院、明治学院、立教の各大学でもVUJの学生支部が立ち上がった。他にも準備中の大学が複数ある。現在メンバーは学生と社会人を合わせて約80人。SNSでの情報発信や啓蒙(けいもう)イベントの開催、政治家への働きかけなどを行っている。テーマも、緊急避妊薬の処方問題や、海外では法的に必須と定められている「性的同意」の普及、LGBTQへの差別撤廃など幅広い。 山本さん:学生が積極的に参加してくれるのは心強いです。SNSの影響は大きく、瞬時にシェアされる世界の動きと、自分たちが抱えてきたモヤモヤがつながるようになったのだと思います。  VUJのメンバーは一定の基準を設けて採用しています。重視しているのは、企画・運営に主体的に関われるか。それと日本語か英語のどちらかでコミュニケーションができること。国籍もドイツ、トルコ、フランス、日本などさまざまなので、会議もSNSでの情報発信も日英の両言語で行っています。  年齢は15歳から70代までと幅広く、男性、女性、性自認がどちらにも当てはまらないノンバイナリーの人もいます。セクシュアリティーを含め、多様性があることがVUJの一番の強み。それによって「女性だから」「若いから」と耳を塞いできた人たちにも、声を届けられるようになります。  これまでフェミニズムは「女性からの異議申し立て」だとみなされ「男対女」と対立のように捉えられてきました。でもいま、世界中でLGBTQやセックスワーカーの人権を扱うグループとも一緒に活動しようという機運が高まっています。差別の構造はあらゆる分野で共通だという認識が急速に広まっているからです。ジェンダーやセクシュアリティーの壁を越えて連携をすることで、私たちはもっと強くなれると思います。 (構成/編集部・石臥薫子) ※AERA 2020年11月2日号
AERA 2020/11/01 07:00
【現代の肖像】日本服飾文化振興財団評議員・小林麻美 時代のミューズの第二幕
【現代の肖像】日本服飾文化振興財団評議員・小林麻美 時代のミューズの第二幕
「雨音はショパンの調べ」の大ヒットから36年。いまはむしろ陽だまりが似合う(撮影/織田桂子) サバサバとして気さく、時に男気のようなものさえ感じさせる。いい時代の東京人である小林の古層に、門前仲町生まれの江戸っ子だった父の気風が息づいている。カラオケの十八番はテレサ・テン(撮影/織田桂子) 子どもの頃から大の読書家。沢木耕太郎の対談集を読む。85年刊のフォトエッセイ集『私生活-PRIVE』には小林が撮影した沢木の取材中の写真が収録されている。沢木の『敗れざる者たち』は大好きな一冊(撮影/織田桂子) 子どもの頃、炊き出しをする女性のドキュメンタリーをテレビで見て、感銘を受けた。ボランティア的な活動には折に触れて参加している(撮影/織田桂子) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  パルコの広告では淫靡と退廃をふりまき、「雨音はショパンの調べ」で時代のミューズになりながら、ある日きっぱりと姿を消した。そして四半世紀。女性誌の表紙で穏やかな微笑みを湛えて復活すると、いま、長い子育ての時間にも枯れなかったファッションへの思いを携えて歩き始めている。    自然光が降り注ぐ東京湾に面したスタジオで、小林麻美(こばやし・あさみ)(66)は25年ぶりにカメラの前に立った。スタッフは自分よりずいぶん若かったし、カメラはデジタルになっていたが、スタジオの雰囲気も、連続するシャッター音も、昔のままだった。  1970年代からモデル、歌手、俳優として活躍し、80年代には時代のミューズとして一時代を築いた小林が、突然の引退から四半世紀ぶりにマガジンハウスの雑誌「ku:nel」の表紙で復活したのは2016年7月。小林は代名詞ともいえるイヴ・サンローランの黒のスモーキングジャケットとタキシードパンツを纏い、穏やかに微笑んでいた。 「この時一番感じたのは、ああ、私はこの仕事が好きなんだということ。スタッフが集まりページを作り上げていく、クリエイティブな場に参加することが好きだったんだということを確認しました。サンローランの服は上品と下品が紙一重で、きわどくて魅力的。引退した後も、これが着られる自分でいたいと思っていました」  発売日まで極秘にされた小林の「ku:nel」での復活は大きな話題となり、かつての小林を知る世代には東京が輝いていた時代の記憶を想起させ、初めて小林を知る世代には大人世代のリアルな女性として新鮮に受けとめられた。  今年3月に刊行された小林の評伝『小林麻美 第二幕』の著者、延江浩(のぶえ・ひろし 62)は小林の復活についてこう語る。 「四半世紀はすごく長い。彼女はその時間で、自分の生き方を調整していった。表舞台から姿を消して普通の人に戻るが、復帰の時はまた違った形で蘇った。それができたのは、彼女に『普通の感覚』があったから。東京に生まれ育って、ちゃんと生活してきたことこそが、枯れなかった理由なんじゃないか。彼女の人生は怒濤だったから、25年間という休息は必要だったかもしれない。自分に滋養を与えていた25年だった気がする」    ■才能のある人に会う運、女子大生の憧れの的に  小林は1953年、技術者で会社経営の父・禎二(ていじ)と美容師の母・澄子(すみこ)のもと、東京・大森に生まれた。神奈川県に近い東京南部の海沿いの街で、当時は第一京浜国道あたりまでが海だった。京浜東北線を挟んで山側の閑静な住宅街にはかつて作家や芸術家が多く住み、海側には町工場が点在する。そんな街で何不自由なく過ごした幼少期だったが、大好きだった7歳年上の姉が小林が小学校高学年の時に結婚して家を出ると、父は経営する工場がある大宮に行きっぱなし、母は美容院経営が忙しく、一人の時間が長くなった。読書、そして映画館通いが孤独な少女の心を慰めた。  内向的、そして少し反抗的な長身の美少女は、中3の冬、ひとりで日比谷みゆき座にロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」を観に行った時にスカウトの目にとまる。72年にアイドル歌手としてデビュー。しかしヒット曲には恵まれなかった。  世間に小林を印象付けたのは、76年のパルコの広告だった。アートディレクターの故・石岡瑛子がモデルとしてファッション雑誌に出ていた小林を抜擢した。三宅一生(みやけ・いっせい)の目が覚めるような真っ赤なイブニングドレスで、駿河湾を望む沼津港のクルーズ客船でタキシードの初老の男性と踊った。 「私は才能の集まる場所に足を踏み入れたんです。超一流と仕事をするということは、『魔術』にかかることだと知りました」(小林)  小林のスタイリングを長く手がけたスタイリストの宋明美はこう語る。 「それまでのアイドルとしての自分から、あれで彼女は解放されたんだと思う。おでこを出すのが嫌だったようですが、いいスタッフに出会い身を任せ、自分を変えた。そして時代とリンクした」  その翌年の資生堂「マイピュアレディ」の広告は数十億円が投入されたといわれ、長期のアメリカロケが行われた。ショートカットが印象的なビジュアルだが、髪は切らずにウィッグで撮影した。淫靡で退廃的な雰囲気のパルコの広告とは一転、小林の少女のような眩しい眼差しは視聴者を魅了し、ポスターは盗難が相次いだ。  宋はこれ以降の小林のスタイリングのほとんどを担当することになり、香港、パリ、ハワイ、ロサンゼルスと、海外ロケにも同行した。撮影が終わると、ショッピング。仕事と遊びが混然一体となって、その熱がクリエイティブに直結した。 「私は才能のある人に会う運がある」と小林は言うが、宋は「運もあるけれど、運と一緒に生き切るという彼女の強さもあるのではないか」と語る。  小林は「ユーミンと初めて出会ったのはいつだったか、覚えていない」と言う。松任谷由実(66)と小林は同学年。一方は八王子、一方は大森と東京の郊外で育ち、ともにミッションスクールに通い、米軍基地でカウンターカルチャーに触れる早熟な少女だったという共通点を持つ二人は、何とはなしに気が合い、打算なく付き合えた。  二人は女性誌の対談などに揃って登場した。「JJ」84年7月号の対談では、アンティックな木のエレベーターから腕を組んで降りてくる二人の写真が扉を飾り、リードには「“女子大生の憧れのマト”の双璧となる2人」と紹介されている。作家の林真理子(66)は、松任谷がプロデュースした小林のアルバム「GREY」のライナーノーツでこう書いている。 「そもそもユーミンと小林麻美さんというのは、絵に描いたような二人ということになっている。当代きってのいい女たちで、その生き方やファッションはそのまま若い女の子たちの憧れの的だ」    ■田邊昭知という運命、怒濤の子育ての日々  そんな二人が「東京タワーの真下にあるスタジオで、二人でクスクス笑いながらレコーディングした曲」(小林)が「雨音はショパンの調べ」だ。84年、松任谷の日本語詞とプロデュースでリリースされ、オリコン週間ランキングで3週連続1位を獲得。ウィスパリング・ボイスで「気休めは麻薬」とメランコリックに囁き、小林の「アンニュイな大人の女性」というイメージを決定づけた。歌謡曲からJ-POPに移行する前夜の日本の音楽シーンを、鮮烈に彩る一曲になった。  小林が時代の先端で輝いていた時期、もうひとつの「運命」も深く静かに進行していた。小林と、元所属事務所の社長であり夫である田邊昭知(81)との関係だ。20歳の春に田辺エージェンシーと契約し、その秋から交際が始まった。田邊は独身だったが、事務所の社長と所属タレントとの恋愛であり、関係は極秘とされていた。それは91年1月、37歳で出産し、3月に結婚・引退するまで続いた。小林が引退した91年3月は、ちょうどバブル崩壊が始まった月。華やかな東京のクリエイティブの最前線を彩っていた小林は、バブル崩壊の足音とともに、きっぱりと姿を消した。  15歳年上の田邊はずっと独身を貫いており、結婚は望めないと思っていた。一人で育てるのでもいいから、子どもだけはどうしても産みたい。それほどの覚悟だった。きっぱりと引退したのは、周りに迷惑をかけながらも自分の生き様を通したことに対する「ある種の禊(みそぎ)」だったと、小林は評伝で語っている。  これまでの仕事や付き合いをすべて捨て、小林は子育てに向き合った。ヘビースモーカーだったのに煙草をやめた。お酒も飲まなくなったし、遊びに行くこともなくなった。脇目もふらずに子育てに没頭した。 「それまではマネージャーが車で迎えに来てくれて、コーヒーも出してくれる生活。それが子どもが泣けばおむつを替え、子どもを抱えて右往左往。カトリーヌ・ドヌーヴやドミニク・サンダのように、子どもを持ちながら働くフランス女優が理想でしたが、そんな子育ては夢のまた夢。仕事がどんなに楽だったか、と思いました。でもそんなことを考えている暇もない。子ども以外はどうでもよくなりました」(小林)  朝6時半に起きて弁当を作り、子どもを駅まで車で送る。週2回くらいは学校の仕事を手伝い、午後は学校に迎えに行き塾やお稽古ごとに送る。子どもを待っている間の書店巡りが楽しみだった。夜ご飯、お風呂、宿題……子どもが寝たらようやく一息つく。出かけるのは西友かイトーヨーカドー。平凡に思える日常が、小林にとっては怒濤の日々だった。 「子どもが中学生になったら肉体的には楽になりますが、思春期に入って精神的に大変になってくる。それが一段落したら大学受験。復帰など、考える暇もありませんでした」    ■息子の背中に見た未来、厳しい父と明るい母  人間関係は、子どものママ友、親戚、あとは15年ほど続けている日本画教室の友人くらいだった。日本画教室は、小林にとっては居心地がよかった。神奈川県小田原市の老舗かまぼこ店「鈴廣」の社長夫人である鈴木憲子は、教室での友人のひとりだ。 「どこかで見たことがあるなと1時間半の授業の間中、ずっと考えて。『もしかして、小林麻美さん?』と聞いたら、『えー、そうなのー』とケラケラッと笑って、とっても気さく。お化粧も薄くて、髪の毛も急に黒ゴムできゅっと留めたり」  時に悩み事を相談することもあった。 「アドバイスの言葉がすごくて、適材適所のいい言葉、胸にはまる言葉をくれる。本が好きでしょうがないから、すごく言葉も知っている」(鈴木)  そんな子育ての日々もついに終わる。大学を卒業し就職した息子の初出社の日。自宅から出社する背中を見送った。息子は小林の母が亡くなった際の葬儀で着たスーツを着ていた。天気が良い日だった。気を付けて行ってね、と言って送り出した時、扉の向こうに青空が見えた。 「その時にふっと、なんて幸せだったんだろうと思いました。これで子どもを育てるという第一幕は終わったと思いました。その一方、息子は巣立っていった、では自分は次にどこに行くのだろう、と思いました。そのまま、ここにいるのではない気がした」(小林)  この記事を書くにあたって、話を聞いておきたい人がいた。小林の一人息子の田邊泰三(29)だ。  芸能界の実力者と、時代を築いたタレント。しかし芸能人の家庭という雰囲気はまったくなかった。泰三がテレビ局に遊びに行くようなこともなければ、田邊の仕事関係者に会うこともほとんどなかった。泰三自身も興味がなかった。  田邊は本当に怖く、厳しかった。 「ただ厳しいだけとか、単純な否定だったら反発も生まれると思いますが、確かに、と納得するものがありました。厳しくしてもらったことは、今になって本当に感謝しています」(泰三)  泰三が子どもの頃、小林が夜家にいないということはほとんどなかった。泰三は「母は常に笑顔で明るかった」と言う。 「母の明るさは、大学受験などで精神的につらい時、最後のストッパーになってくれました。社会に出てから役に立つことのほとんどすべては父から学びましたが、メンタル的なところでは母から多くのことを見せてもらったという感じがします」  泰三は慶應義塾大学卒業後、現在は広告会社に勤務している。  およそ半世紀の時間を共にしている田邊と小林は、夫婦でありながら、プロデューサーとクリエイター、コーチとアスリートのような関係性だと感じることがある。そう小林に言うと、「その通りだと思う」と返ってきた。 「私を一番理解してくれているのは彼だと、今でも思っています。アーティストとして活動していた頃は目指すものや、好きな世界が同じでした。それは今も変わっていないと思う。公私ともに彼に守られて、ここまで来られたと思います」    ■「着たい」という欲望、ユーミンと苗場で歌う  芸能界を引退し、子育てに専念していた日常の中でも、小林には断ち切れないものがあった。それは「着たい」という欲望だった。 「子どもで目いっぱいという生活の中でも、洋服は嫌いになれなかったので、たまに買っていました。誰かに見てほしいというわけではなく、ただ『これを着たい』という欲」  小林は小学生の頃から、自分の着たい服を近所の裁縫のできる人に頼んで縫ってもらっていた。仕事をしていた時は、稼いだお金はすべてイヴ・サンローランにつぎ込んでいた。 「ファッションの世界だけは知っていたい、体感していたい。それはモデルとかアーティストとしてではなく、自分が女としてどうありたいかということと関係していたかもしれません」  小林にとって撮影はある種の戦いだ。フォトグラファーが何を撮りたいのかを察知し、それを上回るものを撮られる自分は出していく。 「カメラマンによってアプローチは違うし、求められているものとか私の中で感じていることの違いはありますが、いい意味での勝負ですよね」  ぐいぐい来る人もいれば、ただ静かにそこにいて黙々とシャッターを切る人もいる。内面をかき乱して抉り出され、それに対して挑むような気持ちで臨むフォトセッションもあった。 「自分の好きな世界観があって、表現したい女性像があった。耽美的で、陰影のあるものに子どもの頃から惹かれていました」  現在、小林は公益財団法人日本服飾文化振興財団の評議員を務めている。小林が所蔵していた約180着ものイヴ・サンローランのビンテージコレクションを寄贈したのが縁だ。ユナイテッドアローズの名誉会長で日本服飾文化振興財団の代表理事である重松理(70)は、保存状態も素晴らしく、財団の軸になる所蔵品であると言う。 「着こなしにしても女優さんの着方というより、プロとして洋服に携わる人の姿勢がある。ポリシーを持って服を着ている。サンローランの神髄をわかっていて、それに忠実。いまのデザイナーのミューズになっている女優さんはいると思いますが、サンローランと小林さんの精神的なリレーション、テイストのリレーションというのは他にないんじゃないかと思います」  洋服遍歴を重ねてきた小林はいま、ファッションに関してある種の達観の境地に至っている。 「いまの自分の年齢では洋服は沢山いらない。自然な自分でいるための、究極の一着があればいい」  黒のタートルセーター、ジーンズ、シンプルなジャケット、マノロ・ブラニクのパンプス……。例えば、それがいまの小林の「究極の一着」だ。  小林は、何をしたいとか何になりたいというより、今日の自分に何ができるか、ということを考える。普通に考えれば守りに入る年齢なのかもしれないが、これから何でもできそうな気がする。ファッションにはかかわり続けるだろうし、まだ語っていない、書き残したいことはたくさんある。  今年2月、苗場プリンスホテル(新潟県)で行われた松任谷のコンサートに飛び入り参加した。1回だけ音合わせをして、88年の日本武道館でのコンサート以来、初めて人前で「雨音はショパンの調べ」を歌った。 「一緒に歌ったあと、35年間いろいろあったねって言って抱き合って泣いた。本当にこんな日が来たんだ、と思いました」(小林)  前出の延江は、そんな松任谷と小林を見てこう話す。 「あの二人は何をしでかすかわからない。そういう面白い友情があるんだな、と」  小林の人生の「第二幕」は、いま始まったばかりだ。(文中敬称略)      *  ■こばやし・あさみ 1953年 11月29日、東京都大田区生まれ。   60年 大田区立入新井第一小学校入学。   66年 普連土学園中学校入学。   69年 普連土学園中学3年生の時にスカウトされる。普連土学園高校進学。   70年 文化学院高等部英語科に編入。   72年 「初恋のメロディー」で歌手デビュー。同期に、西城秀樹、麻丘めぐみなど。   76年 PARCOの広告「人生は短いのです。夜は長くなりました。」に出演。エッセイ集『ブルーグレイの夜明け』刊行。   77年 資生堂の広告「マイピュアレディ」に出演。   80年 ヒロインを演じた映画「野獣死すべし」公開。   81年 主演映画「真夜中の招待状」公開。   84年 4月、シングル「雨音はショパンの調べ」リリース。6月、エッセイ集『あの頃、ショパン』発売。8月、アルバム「CRYPTOGRAPH」リリース。10月、テレビドラマ「安寿子の靴」に出演。写真集『CRYPTOGRAPH~愛の暗号』刊行。   85年 フォトエッセイ集『私生活-PRIVE』刊行。アルバム「ANTHURIUM~媚薬」リリース。   86年 テレビドラマ「匂いガラス」に出演。   87年 アルバム「GREY」発売。写真集『ラ・ローズ・ノワール』刊行。   88年 日本武道館でコンサート「HUMIDITY」開催。写真集『34(サーティフォー)』刊行。   89年 ポストカードブック『愛、あなたにとどけ』刊行。   91年 1月、長男を出産。3月、結婚、引退。 2015年 日本服飾文化振興財団評議員に就任。小林が寄贈したイヴ・サンローランのビンテージコレクションの一部を展示した展覧会「Mon YVES SAINT LAURENT展」が開催。   16年 マガジンハウスの雑誌「ku:nel」9月号の表紙に登場。「伝説のおしゃれミューズ」連載開始。   20年 3月、延江浩による評伝『小林麻美 第二幕』が朝日新聞出版から刊行。 ■小柳暁子 1971年、北海道生まれ。2008年、朝日新聞出版入社。AERA編集部副編集長などを経て現在書籍編集部。「AERA」掲載「時代を読む 第二幕――小林麻美とその時代」(延江浩・文)の編集を担当。 ※AERA 2020年5月25日号 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AERA 2020/10/29 16:00
同性間で「ジェンハラ」 男性上司に「男のくせに情けない」毎朝7時に呼び出しも
同性間で「ジェンハラ」 男性上司に「男のくせに情けない」毎朝7時に呼び出しも
イラスト:石山好宏 AERA 2020年11月2日号より(※アンケートはアエラネットやSNSなどを通じて10月6~21日に実施) 「男性らしさ」「女性らしさ」の固定的なジェンダー観は、異性からだけでなく同性からも押し付けられることがある。それによるハラスメントは職場でも起きる。「ジェンダー」を特集したAERA 2020年11月2日号の記事を紹介。 *  *  *  職場でのジェンダー・ハラスメント(ジェンハラ)を訴える声も多い。 「女性が9割を占めた前の職場では、ミスをして落ち込むと、『男のくせに情けない』といったことをよく言われた」  アエラのアンケートにそう書き込んだのはPR会社勤務の男性(28)だ。一方で、男性上司からは「鍛えてやるから」と毎朝7時に呼び出され、アイデアの「壁打ち」を強要された。男性は「男はタフじゃなきゃダメという価値観の押し付けを感じた」と話す。  セクハラが主に異性間で起こるのに対し、ジェンハラはこのように同性の間でも起きる。  関西のパート勤務の女性(44)は、40代後半の女性課長のことを、社員が男女を問わず「おばはん」「おばさん」と呼ぶことに、モヤモヤする。課長は「何言ってんねん、お姉さんです」といなしているが、女性は憤る。 「女の人は若く無知であることが好まれ、年齢を重ね経験があることが評価されないどころか揶揄(やゆ)される。その風潮が若い世代にも引き継がれている」 ■「できれば男性がいい」  性差別を禁じる男女雇用機会均等法施行から30年以上。だが回答の多くに、今が令和であるとは信じられないような実態が綴られていた。 「『この部署の女性は美人揃(ぞろ)いだ』などとルッキズム(外見による差別)丸出しの発言が平気でされる」(47歳、公務員、女性) 「飲み会で若い女性を役職者の近くに座らせる『配慮』(笑)。何度言っても改善されず転職した」(29歳、会社員、女性) 「できれば男性がいいな」  ウェブ関連の企業で採用や広報を担当した女性(32)は1年前、リーダークラスの人材募集をする際、人事部の男性マネジャーが呟いた一言に衝撃を受けた。会社は「男女平等」「完全実力主義」を掲げ、マネジャーも女性の積極登用を内外にアピールしていた。 「この人の口からこの言葉が出るのかと、がっかりでした」  今年、履歴書の性別欄や顔写真の提出を廃止する企業が相次いだ。7月には文具メーカーが履歴書を作る際に参考にするJIS規格も性別欄を削除。女性も、エントリーフォームから性別欄を削除するよう会社に提案したが、経営陣の間では議論すらされなかったという。 「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という性別役割分担をめぐる、2019年度の内閣府の世論調査では、6割が「反対」と回答。しかし、女性たちは家庭内で求められてきた「ケア労働」を職場でも強いられている。  お茶くみはもちろん、差し入れのお菓子をいかに素早く取り分けて配るかを女性たちが競い、少しでも出遅れると「女子力がない」などと責められる──。会社員女性(46)は経理の経験を買われて転職したはずだったのに、とため息をつく。  こうした実情に「女性たちが進んでやっているのだから問題ない」という声もある。だが、東北学院大の小宮友根准教授(ジェンダー論)は「実態として、やりたい人がやることになっていないのが問題」と指摘する。 ■実際は選べない選択肢 「やらなければ否定的に評価されるので、やらないという選択肢が実際には選びにくい。育児も同じ。女性がやって当然とされ、やらなければ非難される可能性があるのに、男性はやらなくても非難されにくい。逆に女性と同程度の育休を取ろうとすれば、評価が下がったりする。形式的に選べるのと実質的に選べるのは大きな違いです。本来選びたくないのに選ばされている人がいるなら社会として改善すべきでしょう」  メディア業界で働く女性(34)のケースもそうした一例だ。夫の職場は、独身か妻は専業主婦かパートという男性ばかり。「男は目いっぱい働くのが当然」という価値観が支配的だ。その中で夫は育休を取得し、復帰後も妻と育児を分担。仕事の負担を減らしてほしいという要請は無視され、「過労死が心配なレベル」で働くしか選択肢がない。女性自身は泊まり勤務や残業は免除され、子どもが病気の時にも休みやすいが、内心は複雑だ。 「同じ職場で、同世代、しかも同い年の子を持つ男性社員は夫と同じく、これまで以上にハードな業務をやらされています」  ジェンダー観は人それぞれ。だが自分の中の刷り込みが、職場で他人に犠牲を強いている可能性もあることを認識する必要がある。まだジェンダー平等のスタートラインにすら立っていない職場は少なくない。(編集部・石臥薫子) ※AERA 2020年11月2日号より抜粋
AERA 2020/10/29 07:00
「女子なのに委員長なんて偉い」「男子だから外遊び」 家庭や学校「らしさの刷り込み」に疑問の声
「女子なのに委員長なんて偉い」「男子だから外遊び」 家庭や学校「らしさの刷り込み」に疑問の声
イラスト:石山好宏 AERA 2020年11月2日号より(※アンケートはアエラネットやSNSなどを通じて10月6~21日に実施) 「男らしく・女らしく」というジェンダーは、生物的な性差とは別に、社会が作り出す性差だ。家庭や学校などで行われる「らしさの刷り込み」にモヤモヤする声が上がっている。AERA 2020年11月2日号は「ジェンダーバイアス」を特集。 *  *  *  3年前のことだ。神奈川県に住む女性(34)は長男を出産後、職場に復帰。夫が1カ月の育児休業を取った。保育園の面談に夫が行くと、「お子さんの普段の様子を聞きたいので、次回は必ずお母さんが来てください」。夫が日中も世話をしていて、細かいこともわかると説明しても、「お母さんじゃないと困る」と繰り返された。  最近も耳を疑うことがあった。子ども向け英語学習DVDを息子と見ていると、「お父さんが使う単語」として「プレゼンテーション」「オフィス」が紹介されていた。お母さんが使う単語とされたのは「フライパン」「エプロン」「レシピ」。  女性は、亭主関白の父と、父によるいわゆるモラルハラスメントにさらされる専業主婦の母を見て育った。 「私自身は男性と同じ経済力を持とうと仕事を頑張ってきたし、子どもにもフラットな価値観を持ってもらおうと意識してきました。それなのに、小さい頃からこんな刷り込みがされるなんて」(女性)  生き方や働き方の多様化が進む中、ジェンダーへの関心が高まっている。アエラのアンケートにも、10代から70代の幅広い層から回答が寄せられた。 ■家庭や学校で刷り込み  とりわけ多かったのが子育て世代からの「モヤモヤする」と言う声だ。  三重県の女性(46)の息子は小さい頃、家で積み木や読書をするのが好きだった。が、夫や親戚はことあるごとに「そんなのは女の子の遊びでしょ」「男の子なんだから外で遊ばなきゃ」と「男の子らしさ」を求めた。 「息子が自分の好きなことをいけないことと否定的に捉えてしまうのが心配で、私は『男の子も女の子も好きな遊びをしていいんだよ』と声をかけていました」  息子はいま小学5年生。食器の片付けや、洗濯物の取り込みを頼むことも多いが、夫は「男の子なんだから、そんなにさせなくても」と不満げだ。夫には、やんわりと「お手伝いに男女は関係ない」と伝えようとするが、すぐに「文句を言った」と喧嘩腰になってくる。  学校での刷り込みも強力だ。職業について学ぶ社会科の授業参観では、副教材の写真や先生が作った文章はすべて、消防士や会社員は男性の仕事、看護師、保育士は女性の仕事として描かれていた。目が点になった。 「みんな無意識だし、悪気はないんでしょうが、それだけに根深いものがあります」(女性)  たとえ同世代、同性でも、ジェンダー観は育った環境などで大きく異なるから厄介だ。  1歳8カ月の男の子を育てる女性(39)が気になるのは友人のSNSだ。「娘の幼稚園の発表会」の投稿では、女子はAKB48のフリフリ衣装、男子はドラマ「今日から俺は!!」の学ラン姿で踊っていた。 「単に可愛いからと投稿したのでしょうが、私は『4、5歳の頃からこんなことをさせられるの』と怖くなりました」 ■「らしさ」先天的でない  夫は家事を積極的にこなし、ジェンダー観もフラットだ。だが彼が毎回録画して見るテレビ番組は、女性芸人を「ブス」や「未婚」でイジるのが定番。女性はイラッとするが、疲れている夫のつかの間の楽しみだからと、いまは目を瞑(つぶ)ることにしている。ただ、将来息子が一緒に見て笑っていたら、「絶対、一言言うと思います」。  従来、男は「強く、積極的、理性的」などという「男らしさ」を、女は「優しく、気配りができ、受け身、感情的」などの「女らしさ」を備えているとされてきた。だが、遺伝や性分化について科学的な研究や、文化や歴史的観点からの知見が蓄積される中、「らしさ」は先天的なものではなく、男性中心の社会構造を維持するため制度的・文化的に規定された規範や期待にすぎないことがわかってきた。「らしさ」に基づく差別や不平等をなくそうという「ジェンダー平等」は持続可能な開発目標(SDGs)にも盛り込まれた。  周囲から意識的・無意識的に押し付けられる「らしさ」が、子どもに「抑圧」として働くこともある。  千葉県の男性(28)は小学生の頃、運動が得意でなく、笑いで注目を集めようとしていたことを父親に「情けない」となじられた。男らしさ=スポーツと信じる父に柔道を強要されたのもつらい思い出だ。 ■有害な男らしさを放置  大阪府の女性(44)は小5の息子に「ぬいぐるみのことは絶対、誰にも言わないで。秘密だから」と口止めされている。息子は今も寝る時はぬいぐるみと一緒だが、周囲に知られると、異常扱いされるのではないかと恐れているのだ。夫が冗談半分に「オネエとかになるなよ」と言うことにも女性はひっかかる。 「それが差別につながると思うんです。それに将来、息子が男性を好きになる可能性もゼロではない。その時私は、受け入れようと思っているのに」  小学生の頃、代表や委員長になるたびに保護者や先生に「女の子なのに偉いね」と言われるのが苦痛だった、と話すのは、高校2年の女子生徒(17)だ。中学から女子校だが、理系科目の男性教諭から「女の子だから数学ができなくても当たり前」などと言われ、可能性を閉ざされるような気がした。  中2の時に女性教諭から初めて「ジェンダー」という言葉を聞き、「私が感じていたモヤモヤはこれだったんだ!」と膝(ひざ)を打った。自分でも調べ始めると、おかしなことがいっぱい転がっていると話す。 「ナンパされたことを自慢げに話す友人もいますが、『モテる=自分の価値が高い』って勘違いしてるのかなとか。周りの女の子で痴漢被害に遭ってる子もたくさんいます。声を上げたくても皆、仕方ないと諦めてる」  弁護士の太田啓子さんは、性暴力やセクシュアルハラスメントの加害者の多くは男性だが、実はその萌芽(ほうが)が男の子の子育ての中で放置されている、と指摘する。離婚やハラスメント事案を数多く手掛けてきた太田さんは、2人の小学生の息子の母親でもある。著書『これからの男の子たちへ~「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(大月書店)では、大人たちが「男の子ってバカだよね」と許容する言動の中に、暴力や性差別につながりかねない「有害な男らしさ」が含まれていると警鐘を鳴らした。同書は8月の発売直後から話題になり、現在4刷だ。 「多くの母親がうっすら感じていたことを、言語化したからだと思います。男性の読者からも『ギクッとした』という感想をもらいました」(太田さん)  太田さんが懸念するのは、カンチョーのような行動や、男の子が女の子に意地悪をすることを「悪ふざけ」「好きの裏返し」と軽視し、許容することだ。太田さんは、妻を殴りながら「愛しているからわかってほしかった」と言う男性、被害に遭いながら怒れない女性を見てきただけに、危機感を持つ。 「『男らしい』とされる要素には、社会的な成功や勇敢な行動に結びつくものもあります。が、競争の勝ち負けでしか人を評価できなかったり、女性に対して支配的な立場にいないと気が済まなかったり、自分の中の弱さを認められずに限界を超えて働き、過労死や過労自殺に追い込まれるリスクもある。そんな負の側面に、これまで着目が少なすぎたのだとも思います」(同)  太田さんは思春期以前から、男の子を間違った男らしさの重圧や呪いから解放しようと呼びかける。自身が普段の子育てで心がけるのは、間違った時は素直に認め子どもに謝ることだ。 「弱さを認める姿勢を大人が見せることは、特に男の子の子育てでは大切です」(同)  女の子には、嫌なことをされたら、NOと言えるように親や周囲の大人がエンパワーしてあげることが大切だと話す。 「男の子にモテるために、自分を低め、バカなふりをする必要はないよとも繰り返し伝えたいですね」(同) (編集部・石臥薫子) ※AERA 2020年11月2日号より抜粋
AERA 2020/10/28 07:00
菅首相夫人のベージュ一色コーデ ドン小西「無難だけど、不気味さすら感じた」
菅首相夫人のベージュ一色コーデ ドン小西「無難だけど、不気味さすら感じた」
ドン小西 菅真理子(首相夫人)/静岡県清水市(現・静岡市清水区)生まれ。清水東高校から静岡女子大学(当時)に進学。妹が、菅義偉現首相が秘書をしていた小此木彦三郎衆院議員の秘書をやっていたことから知り合い、25歳ごろに結婚=10月19日、首相の初外遊に同行。ベトナム首相夫人と懇談するなど、ファーストレディーとして自身も外交デビューを果たす (c)朝日新聞社  10月19日、菅義偉首相の初外遊に同行。ベトナム首相夫人と懇談するなど、ファーストレディーとして自身も外交デビューを果たした菅真理子夫人。ファッションデザイナーのドン小西さんがファッションチェックした。 *  *  *  菅首相といえば、どうもあたしのイメージはグレーなんだよね。もちろん、グレーな政治家とかいう滅相もない話じゃないって。髪色と相まった首相のビジュアルの話だよ。  グレーは白でも黒でもない曖昧な色だけど、この日の夫人の服も、同じようにはっきりしない色、ベージュ一色だもんね。若者には、ベージュのワイドパンツや分量たっぷりのニットが人気だけどさ、この人の場合はそれとは別物。いろんな糸や織り方を織り込んだ高級素材のジャケットを着て、褒められもしなければ、恥もかかない。そこそこ感満載のファッションになってるね。  ま、一見、無難だけど、あたしは、不気味さすら感じたな。だって、この手の曖昧色は、本心を隠すときにも便利な色。デビューだから今回は様子を見るけど、実は無類のヒョウ柄好き、なんてこともないとは限らないって。あたしは、このベージュの無難すぎる服より、そっちの方が好きですけどね。 ■評価は……? 3DON! 「可も不可もないひたすら無難な服」 (構成/福光恵) ※週刊朝日  2020年11月6日号
ドン小西
週刊朝日 2020/10/28 07:00
漫画家さーたり医師が混濁する意識のなかで決めた「やりたいことは全部やる」
漫画家さーたり医師が混濁する意識のなかで決めた「やりたいことは全部やる」
外科医で漫画家のさーたり医師(撮影/写真部・張溢文) 温かいメッセージがつまった描き下ろし漫画も掲載。「さーたり先生から医師を目指す君へ」(『医学部に入る2021』から)  普段は都内の医療現場で外科医として働く、漫画家さーたり医師。医師や母親としての日常や趣味の“オタク活動”を描いたコミック『腐女医の医者道!』シリーズやブログなどが反響を呼び、活動の場はますます広がっている。現在発売中の『医学部に入る2021』では、さーたり医師にインタビューし、手術も子育てもオタクも諦めない!好きを貫く力を語ってもらった。 *  *  * 「腐女医が行く!!~外科医でママで、こっそりオタク~」。このブログ名のとおり、さーたり医師は、子育てしながら医療現場で働く外科医だ。    祖父、父、母が医師という医師一家に生まれ育った。「医者になるのが当然」という周りの期待に素直になれず、高校の進路希望調査には「考古学者」「宇宙飛行士」などと記した。 「本来は行きたい大学や学部を書くので的外れだったのですが(笑)、医者以外になりたい職業があったのは事実です。親の言いなりになりたくないという思春期が故ゆえの、反抗心もありました」 ■苦手な理系科目を突破するため練り上げた「戦略」  しかし、幼いころから医の世界は常に身近にあり、人命を救う仕事に魅力を感じてもいた。高校3年、医学部を目指すことを決意する。が、文系が得意だったさーたり医師の前に、理系科目の大きな壁が立ちはだかる。 「数学や生物はなんとかなったものの、化学、物理がちんぷんかんぷん。 現役合格は諦め、2年計画の戦略を練りました」    それは、有機化学と無機化学の徹底攻略。 「この二つは暗記でいける。得意分野を作れば少しは自信が持てるかなと考えたのです」  この戦略が功を奏し、見事合格。医学部への切符を手にした。  女子校育ちだったさーたり医師にとって、医学部は初めて体験する「多様な世界」だった。 「多浪の人も多かったし、大検を受けた人、社会人入学やシングルマザーの学生もいた。バックグラウンドが違う人が医学を学ぶという同じ志を持って集まっている。すごく刺激的で楽しかった」    学生時代、いちばん「楽しい」と思えたのが、オペ室での実習だった。 「臓器を実際に目で見て、触れ、病気を取り除くことができる。そこに達成感と充実感を感じました」  大学を卒業し、研修医に。改めて「手術ってすごい」と実感した。 「検査して予測を立て、手術で悪いところを切除し、患者さんが回復し元気に退院していく。その経験や知見を、次に同じような患者さんが来たときにフィードバックできる。内科でも同じですが、外科はより直接的に実感できるのです」    さまざまな症例や手術に向き合う中で、さーたり医師は消化器外科、なかでも肝臓・胆嚢(たんのう)・膵臓(すいぞう)を専門に選ぶ。理由は「難しいから」。ほかの臓器は経過の予想が比較的立てやすいのに対し、肝・胆・膵は治療計画も患者一人ひとりに考えなければならない上、術後管理もまったく気が抜けない。「なんて難しいんだろう」と感じていた矢先、祖母が膵がんで倒れた。がんの中でももっとも予後が厳しいとされ、身内からいろいろ聞かれてもうまく答えられない自分が、もどかしかった。 「だからこそ、しっかり勉強すれば、医者として患者さんの役に立てるのではないかと考えたのです」 ■命には限りがあると気づいた転機。やりたいことは全部やる!  医師5年目の30歳のとき、同じく肝・胆・膵の外科医の同僚と職場結婚。夫は子どもを望んだが、目が回るほどの多忙な毎日に「『いつか』は産みたいけど、『今』はそのときじゃない気がした」。    ところが、転機は突然訪れる。交通事故にあってしまったのだ。混濁する意識の中で思い出したのは、研修医時代に出会った同じ年の患者で、若くして亡くなった女性の言葉だった――”やりたいことをやんなくちゃ、もったいないよ”。 「命に向き合う仕事をしていながら、自分の命に限りがあることをすっかり忘れていた。事故にあってようやく気づいたのです。仕事も出産も子育ても、やりたいことは全部やろう―。そう心に決めました」  それから3人の子宝に恵まれ、ワーママ外科医として日々奮闘している。また事故後、出産に加えて「やりたい」と思ったのが漫画だった。実はさーたり医師はアニメが大好きで、小学生から高校生にかけては自ら同人誌を作ってはコミケに参加していた筋金入りのオタクなのだ。事故の影響で本格的に仕事復帰できず、不本意ながらも時間ができた。 「久々にペンを握ってみようと思いました」  折しも女医のブログがはやっていたが、おしゃれなレストランに行ったなど、セレブ系の内容が多かった。 「私はそんな華やかな暮らしなんてしていない(笑)。外科医でママでという、ありのままの日常を4コマ漫画にしたらおもしろいかな、と」 ■仕事のリアル、医師あるある、子育ての奮闘を漫画で描く  2009年、ブログ「腐女医が行く!!~外科医でママで、こっそりオタク~」をスタートした。仕事のリアル、医師あるある、そして子育ての奮闘や子どもたちの成長を、ときにコミカルに、ときにホロリとさせる漫画で描いた。人気に火がつき、コミックエッセー『腐女医の医者道!』も出版。すでに4冊を数える。    自ら選んだ道とはいえ、その忙しさは尋常ではないはず。さーたり医師は「確かにドタバタですが」と笑いながら続ける。 「楽なことが楽しいわけじゃない。大変だからこそ、難しいからこそやりがいがある。で、やりがいを感じていると、どんどん楽しくなってくるんです」    新型コロナウイルスという未曾有の感染症によって、医療現場は過酷さを極めている。医師を目指しながら不安を感じている学生もいるだろう。  過去には受験で女子学生が不当に不合格にされるという問題もあった。医学部を目指すかどうか悩んでいる学生に、こうエールを送る。 「医療の世界は大変だからとか、女医は働きにくいからとか、『やれない理由』を作ってやりたいことを諦めないでほしい。人のためになることができる医者の仕事は、何にも代えがたいやりがいがあるから」    さーたり医師自身は、これからも外科医、ママ、漫画家という「三足のわらじ」で邁進(まいしん)していく。 「外科医として働きながら、漫画で医療と一般の方々の架け橋になりたい。検査に行こうと思ってもらったり、病気について知ってもらったりできたら、医者でオタクとしては本望です!」 ■さーたり/1978年東京都生まれ。光塩女子学院高等科卒業。2003年杏林大学医学部卒業、順天堂大学医学部附属順天堂医院肝・胆・膵外科入局、13年同大学院博士課程修了。医学博士。大学病院勤務の傍らブログでマンガの発表を始める。著書に『腐女医の医者道!』(シリーズ全3巻)、『外科医のママ道! 腐女医の医者道!エピソードゼロ』など。10月に『感染症とワクチンについて専門家の父に聞いてみた』(いずれもKADOKAWA)を刊行予定。ブログ:https://ameblo.jp/surgery/
病気病院
dot. 2020/10/21 17:00
注目の本田真凜に先輩・村主章枝がアドバイス「必殺キャラが必要」
注目の本田真凜に先輩・村主章枝がアドバイス「必殺キャラが必要」
東京選手権で女子フリーの演技をする本田真凜=(C)朝日新聞社 村主章枝さん=本人提供 村主章枝さん=本人提供  フィギュアスケートの本格シーズンに入った。10月10日、東京選手権が開催され、今季で引退を表明している永井優香(早大)が優勝。姉妹で出場した本田姉妹は、姉・真凜(JAL)が7位、シニアデビューの望結(プリンスホテル)が12位に入り、そろって全日本選手権につながる東日本選手権へとコマを進めた。注目を集めたのは真凜のフリープログラムでの「対応力」だった。    真凜は昨年、グランプリシリーズのカナダ大会の直前、現地で交通事故に遭ってけがをした。しかし棄権をせずに滑り切った。  今回のアクシデントは、フリー本番での音源ミス。かかった音楽は、フリーの「ラ・ラ・ランド」ではなく、エキシビション用の曲、レディー・ガガの「アイル・ネバー・ラブ・アゲイン」だった。演技をいったん中断したが、気持ちを切り替えてエキシビション用の曲でフリーを滑り始めた。1分以内に演技を再開しないと失格となるからだ。  3月に滑ったきり、振り付けも忘れていたという曲に合わせて、ジャンプやスピンを即興で入れ、フリーの演技として滑り終えた。演技後のインタビューで真凜は「まだドキドキしている。ほとんどアドリブで滑りました」と振り返った。  まさに「氷上の即興劇」。ファンの間では、その対応力を絶賛する声が上がったが、米・ラスベガス在住でフィギュアスケートの振付師(コリオグラファー)の村主章枝さんは、フリーの演技を映像で見た上で、こう話した。 「普通に考えて、考えられないミス。でも、エキシビ用の音源がフリーの時間とあっていたのが幸運だったと思います。通常エキシビ用の曲は3分15秒とか3分半ぐらいと短いですから。最後のステップシークエンスに競技用の要素も入っていました。フリーとして若干練習していたのではないかと思いますね」  それにしても、アクシデントにも動じずフリーを滑りきった対応力は評価されていいだろう。氷上のアクトレス(女優)」といわれた村主さんは、真凜の可能性をどう見るのか。 「真凜選手は、華やかさと滑りの質の高さが非常にある選手。滑りが滑らかで美しくて、流れがある。そこに『力強さ』が加わればさらに良いと思います。他の選手の中に入っても消えない個性の強さみたいなものが出てきたら、もっと彼女は伸びていくと思います」  演技構成点の中の『スケートの技術』や『トランジション(つなぎ)』には確かな伸びを感じさせる、と村主さんは言う。次のステップに踏み出すときがきているようだ。 「あえていえば今は『キレイでとってもいいですね』で終わってしまうような魅力です。今後は曲の解釈を掘り下げたり、音楽の理解を深めたりして、プログラムを自分にしかできない一つの作品として仕上げることができれば、さらなる高みに行けるのではないかと。そうなれば唯一無二の存在になれるというか、彼女らしさがもっと出せると思います」  作品としてプログラムを仕上げる大切さを村主さんが語るにはワケがある。  村主さんは1996年、世界チャンピオンになったミシェル・クワン(米)のプログラム「サロメ」に引かれ、「人ってこんなに(演技で)変われるんだ」と驚いた。自分もそんな演技がしたい。クワンが師事する振付師のローリー・ニコルさんに指導を仰ぐことになる。表現の幅を広げて2002年ソルトレーク五輪、06年トリノ五輪で連続入賞を果たし、33歳の2014年まで息の長い現役生活を続けた。 「スケートは舞台の世界と同じ。スケーターは女優さんと同じ。セリフがないだけ」と語ってきた村主さんは現役引退後も「表現をする」ことにこだわり、写真集を出したこともある。2年前から暮らすラスベガスでは映像の仕事を始め、プロデューサーとして映画製作を行う。振付師と二足のわらじを履く村主さんは、真凜が飛躍するために必要なのは「心に残る作品をいかに作るか」だとして、こうアドバイスを送る。 「『あっ、本田真凜、がらっと変わったね』と思わせるような滑りのイメチェンが必要です。ジャンプとかスピンといった技ではなく『必殺のキャラクター』です。『真凜ちゃんのあの時の演技が忘れられない』と人々の心に残るような作品を作ってほしい。まだ19歳、諦めずに頑張ってほしい。この『諦めずに』が大事です」 (本誌・大崎百紀) ※週刊朝日オンライン限定記事
フィギュアスケート
週刊朝日 2020/10/18 11:00
「眼力が武器」のキム・スヒョン、韓国女子がこぞって「彼氏にしたい」御曹司とは?
「眼力が武器」のキム・スヒョン、韓国女子がこぞって「彼氏にしたい」御曹司とは?
韓流ドラマ・ファンブック 私が愛したスター 彼氏にしたいナンバーのチョン・ヘイン  韓国でこの夏、最も話題になったドラマが、「サイコだけど大丈夫」。自閉スペクトラム症の兄と暮らす主人公と、愛を知らない童話作家のヒロインが、互いの傷をいたわり癒やしながら愛を育むロマンチックコメディーだ。    今作は本国と同日にネットフリックスでも配信。「今日の総合TOP10」で1位を獲得し、コンテンツ評価では10点中9・2点の高評価を得た。コメント欄には「今年最高のドラマ」「今年の賞を総ナメしそう」と絶賛する声が並ぶ。  今作で主演を務めているのが、キム・スヒョン(32)だ。キム・スヒョンといえば、デビュー当時、ペ・ヨンジュンが筆頭株主を務めていた芸能事務所キーイーストに所属していたことから、“ヨン様の秘蔵っ子”として注目を浴びた逸材。その後、韓国で視聴率40%を超えた「太陽を抱く月」、地球で400年生きてきた宇宙人を演じた「星から来たあなた」など、出演するドラマは軒並み高視聴率をたたき出し、その人気はアジア全域に派生した。 「出演する作品は全て彼がセレクトしているそうです。作品を選ぶ目が肥えていて、外した作品は一つもありません」(All About韓国ドラマガイドの安部裕子さん)  実は「愛の不時着」にも出演している。10話に出てきた“緑ジャージーの町のおばかさん(実は北朝鮮から派遣されたスパイ)”だ。このキャラクターは、かつて主演を務め、韓国で観客動員数600万人を突破した大ヒット映画「シークレット・ミッション」で演じたもの。一瞬の出演でも話題をさらってしまう存在感はさすがといえる。  武器は、その「目」。キャラクターの状況や感情を全て目で語ることができるという。 「『サイコだけど大丈夫』でも、笑っていてもどこか寂しげな目が印象的で、その目に母性本能が発動してしまいました。その一方で、セクシーで大人の男っぽさも持ち合わせている。不思議な魅力の持ち主です」(安部さん)   実は幼少期、シングルマザーの母と二人、生活してきた苦労人。そのバックグラウンドが、その目をさせているのかもしれない。  そして韓国女子がこぞって「彼氏にしたい」とラブコールをしてやまない“ロマンスの似合う男”チョン・ヘイン(32)。兵役を経て26歳で俳優デビューし、30歳で「よくおごってくれる綺麗なお姉さん」で、大ブレークした遅咲き俳優だ。 「韓国TVドラマガイド」の高橋尚子編集チーフは、同雑誌で、彼をこう修飾した。「どこにでもいそうな素朴で穏やかな印象なのに、不意打ちで生身の色気を醸される。あまりにも自然で、あまりにも危険な魅力を持つ俳優」 「愛の不時着」のソン・イェジンがヒロインを務めた「よくおごってくれる綺麗なお姉さん」は、姉と弟のような関係だった男女が久しぶりに再会し、異性として意識するようになってからの紆余曲折を描く正統派ラブストーリー。  チョン・ヘインは、ヒロインを守り、癒やし、愛で包む“年下男子”を演じた。ドラマのヒットに一役買ったのが、チョン・ヘインの“生身感”だ。ベビーフェイスで一見草食系に見えるチョン・ヘインが、ソン・イェジン相手に濃厚なキスをし、甘い言葉をバンバン投げかける。その姿が「妙にリアルで子宮が疼く」と、女性たちからは“死んでいた恋愛細胞を生き返らせる”と評された。 「居酒屋で周りに気づかれないようにテーブルの下でヒロインの手を握る場面は、ドキドキしすぎて心臓が飛び出しそうでした」(30代韓国女性)  最新作「半分の半分~声で繋がる愛~」では、死んだ初恋相手に片思いし続ける青年を演じている。 「彼の魅力は瞬きにあると思っています。瞬きや流すような視線の動きに感情をのせていくのがうまい。そして、ただ誰かと話す、誰かの話を聞くという時のちょっとした動き、例えば首をちょっとかしげたり、相手の言葉に反応してふと上目遣いになったり、唇を噛んだり。それがものすごく自然で見入ってしまいます」(高橋チーフ)  実は名家の生まれ。朝鮮22代王・正祖の右腕として活躍した実学者チョン・ヤギョンの直系子孫だ。チョン・ヤギョンは韓国民に尊敬される偉人だが、「チョン・ヘインをこの世に誕生させたことはチョン・ヤギョンのまた一つの偉業」と言われているとか。  実際の印象も違わず、物腰が柔らかく、真面目。イ・ジョンソク(「あなたが眠っている間に」)と北海道旅行を楽しんだり、大好物は日本の生ビールだったりと、日本好きでも知られる。日本女性たちの心をときめかせる日も近い。 (酒井絵美子) ※週刊朝日  2020年9月11日号より抜粋
週刊朝日 2020/10/10 11:30
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
ロシアから見える世界

ロシアから見える世界

プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

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