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〈2024年上半期ランキング 社会編3位〉Z世代がハマる「古いiPhone」で撮る日常 500万画素だからこそ“映える”写真の妙味とは?
板垣聡旨 板垣聡旨
〈2024年上半期ランキング 社会編3位〉Z世代がハマる「古いiPhone」で撮る日常 500万画素だからこそ“映える”写真の妙味とは?
iPhone4で撮影したポートレート。画像加工はまったくしていないが、写真には独特の味わいがある(画像=ササキ氏提供)  早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。社会関係の記事の3位は「Z世代がハマる『古いiPhone』で撮る日常 500万画素だからこそ“映える”写真の妙味とは?」でした(この記事は5月28日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *   *   *  これもリバイバルブームの一種なのだろうか。今、Z世代を中心に、あえて「古いiPhone」で写真や動画を撮影するのがはやり始めているという。普段は最新機種を持ち歩きつつ、写真撮影は「古いiPhoneで」などと使い分けるケースもあるようだ。14年前に発売されたiPhone4で撮影してみたという短編動画がインスタで1000万回以上再生されるなど、一部ではブームになりつつある。なぜ今、あえて「古いiPhone」なのか。若者心理を取材した。    5月15日、ストリートスナップなどを撮っている写真家のササキタカノブさん(33)は、インスタグラムに「昔のiPhoneの写りがめちゃくちゃエモいと聞いたので、メルカリでiPhone4を買いました!」と題した15秒程度の短い動画を投稿した。すると、瞬く間に拡散され、5月22日時点で1100万回以上も再生されるほどバズった。  コメント欄にはZ世代と思しき若者たちからの絶賛コメントがあふれ、特に「MV(ミュージックビデオ)みたいで素敵!」など画像の美しさに言及したものが多い。  実際、X(旧Twitter)では「最近の女子がスマホを2台持ちする理由が古い機種の写真の画質が粗くてエモいかららしい(?)」と題した街頭インタビューの投稿が、1700もの「いいね」をつけて拡散されている。インスタグラムを見ると、「家で眠っていたiPhoneで撮影してみた」「iPhone6で撮った!いい感じ!」など、Z世代と思われるアカウントの投稿もいくつも確認できる。 【PR by 暮らしとモノ班】 【ブーム再到来】撮ったらその場でプリントが楽しい♪インスタントカメラ「チェキ」 https://dot.asahi.com/articles/-/226014 iPhone4で撮影した写真(画像=ササキ氏提供)   メルカリで2000円で手に入る  都内の大学に通う21歳の女子大生もこう語る。 「昔のiPhoneをあえて持ち歩いて、写真や動画を撮って(インスタグラムの)ストーリーに載せるのはよくしますね。加工しなくても色合いとか良い具合にエモく映るから手軽なんですよ」 最新機種よりも色のコントラストが強く出る(画像=ササキ氏提供)    ササキ氏が使用したiPhone4が発売されたのは2010年6月だ。背面にあるカメラの画素数は500万画素と低く、最新機種のiPhone15Proの4800万画素と比べるとはるかに劣る。ササキ氏はなぜiPhone4で撮影した動画を撮ろうと思ったのか。 「ちょうど今の20代が小学生時代に初めて触れたのがiPhone4くらいなんです。だからiPhone4で撮影した映像を見たら懐かしさを感じてくれるかなと思って。今はメルカリなどで2000円くらいで手に入るし、サイズも手ごろ。今のiPhoneよりも小さくて、持ち運びも便利なんです」  さらにササキ氏は、「撮れる写真や動画もかわいい」とその魅力を語る。 「普通に撮ると手ブレも結構するんですが、そのブレてる感じが、逆にいい味を出します。またiPhone4だと、コントラスト(=明暗の差)が高め設定になっています。自動補正もかからず、影もくっきり出るので、どこか昔のカメラのように写ってエモくなるんです。被写体の情報をきちんと捉えるという点では、最新機種が向いていると思いますが、雰囲気を出したかったり、レトロに撮りたかったりする人は、昔のiPhoneで撮るのはおすすめです」 【PR by 暮らしとモノ班】 通勤や通学時こそグッドサウンドを!1万円台でコスパ最高のワイヤレスイヤホン 貴重な移動時間を上質な空間に https://dot.asahi.com/articles/-/222316 画素が少ないので風景写真にもザラっとした質感がある(画像=ササキ氏提供)   あえて制限のあるものを好む  もっとも、若い世代がレトロなものを好む傾向は、いまに始まったことではない。写真でいえば、デジカメ以前の「写ルンです」や「チェキ」などが過去に流行したことがある。だが今回の「古いiPhone」ブームは、これまでとは少し違う面もあるようだ。 iPhone4で撮影した写真(画像=ササキ氏提供)    若者の消費行動などに詳しい「博報堂若者研究所」の瀧﨑絵里香氏はこう分析する。 「どの世代にも、昔のモノを懐かしむ文化はあります。自分たちの世代よりもあえて昔のモノを使ってみて、それを共有し合うことに楽しさを感じます。そこまでは前世代と同じですが、今のZ世代には、膨大な情報や技術の進化への”疲れ”があるように思います。デジタル技術が発達しすぎて、最新のiPhoneなら写真も動画もプロ顔負けのものが撮れて編集までできる。それに対して、あえて不完全だったり、制限があったりするものに、どこか安心感を覚えるメンタリティがあるのだと思います」  iPhone4が発売された当時は、デジカメと同じ写真が撮れることに驚いたものだが……。今の最新携帯も「レトロ」だと言われる日が来るのだろうか。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨)
iPhoneZ世代エモい2024年上半期ランキング
dot. 2024/07/10 17:00
「頭を使わないと勝てない」 2028年ロス五輪で追加競技になった“スカッシュ”に迫る!
渡辺豪 渡辺豪
「頭を使わないと勝てない」 2028年ロス五輪で追加競技になった“スカッシュ”に迫る!
「お世話になったスカッシュ界に恩返ししたい」と多忙な商社勤務の傍ら、日本スカッシュ協会の実務に全力奔走する大谷眞会長(写真:編集部・渡辺 豪)   「会いたい人に会いに行く」は、その名の通り、AERA編集部員が「会いたい人に会いに行く」企画。今週は日本スカッシュ協会会長に、団体戦で優勝経験のある記者が会いに行きました。 *  *  *  昨年10月の国際五輪委員会の総会で野球・ソフトボールやラクロスなどとともに、2028年ロス五輪の追加競技になったスポーツをご存じだろうか。30年ほど前、フィットネスブームに乗って人気が高まった、スカッシュだ。  当時学生だった記者(55)はその魅力にはまり、気づけば最盛期には計5カ所のスポーツクラブやホテルでスカッシュコーチのアルバイトをしていた。その時、仰ぎ見る存在だった先輩OBの一人、大谷眞さん(63)がなんと今、公益社団法人「日本スカッシュ協会」の会長を務めていると分かり、さっそく訪ねた。  35年前と変わらないがっちりした体格。聞けば、大学でスカッシュを始める前はラガーマンだったという。スカッシュの普及に奔走する協会の会長とはいえ、教育・情報システムなどの専門商社「内田洋行」での勤務が40年を超えるビジネスパーソンだ。  協会は五輪種目に決定直後、声明を発表した。その際の心境を大谷さんはこう振り返った。 「まさに青天の霹靂。スカッシュをやってきた人間にとっては、やはり歴史的な瞬間だったと思います」  同感だ。スカッシュは12年のロンドン大会、16年のリオデジャネイロ大会、20年の東京大会でいずれも五輪の新たな競技として選考に残るも涙をのんできた。国内でもこれまで何度か「ブームの兆し」と言われながら、メジャーになりきれなかった面も否めない。ただ、足元ではここ数年、スカッシュコートのオープンが相次いでおり、五輪種目になったことで競技人口増加の追い風にもなりそうだ。  スカッシュは上達すればするほど体力を消耗するハードなスポーツだが、体力だけでは勝てないのも魅力。70歳を超えて全日本選手権に出場を続ける選手もいる。 大谷 眞さん(おおたに・まこと)/1960年生まれ。関西学院大学卒。内田洋行エンタープライズエンジニアリング事業部副事業部長兼オフィスプロダクト営業部長(写真:編集部・渡辺 豪)   「かなり頭を使わないと勝てないスポーツ。経験は不可欠な要素です」  そう話す大谷さんも往年の名選手の一人だ。全日本学生選手権で2位。社会人になってからは数年のブランクを経て、29歳の時に全日本選手権でベスト8入りし、日本代表として世界選手権に出場した。  その後、1995年の阪神・淡路大震災で兵庫県芦屋市の自宅が損壊したり、東京や福岡での転勤生活が続いたりして選手を引退。内田洋行は社内に「スカッシュ部」があるが、そこにも大学時代の選手仲間に会うため、たまに顔を出す程度だったという。  そんな折、別の商社に勤務する当時の協会会長に請われ、4年前に常務理事に就任した。「お世話になったスポーツなので、ちょっとでも貢献できることがあれば」と引き受けたという。  ロス五輪で有望な日本人選手として、大谷さんがすぐに名前を挙げたのが女子のエース・渡邉聡美選手だ。現在、世界ランキング14位で日本勢最上位。昨年のアジア大会で史上初の銅メダルを獲得。22年の世界選手権団体戦で日本を過去最高の10位に導き、自身は日本人初の大会MVPを受賞した。ロス五輪は29歳で迎える。大谷さんは「メダルを狙える選手。できる限りサポートしたい」と話すが、そのために協会が取り組む問題も山積している。  協賛企業を増やし、選手の経済的負担を軽減することは喫緊の課題だ。日本代表選手の強化合宿などに使う「ナショナルトレーニングコート」がないのも選手育成を阻む壁になっている。  26年には国内で32年ぶりとなるアジア大会が愛知県名古屋市で開かれる。大谷さんは選手時代を彷彿させる迫力でこう意気込んだ。 「パリ五輪が終われば、次の五輪に向けた話題がもっと注目されるはず。これからが勝負」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年7月15日号  
会いたい人に会いに行く
AERA 2024/07/10 16:00
【下山進=2050年のメディア第30回】1966年の渡邉恒雄と1971年のワシントン・ポスト国家安全保障か報道か
下山進 下山進
【下山進=2050年のメディア第30回】1966年の渡邉恒雄と1971年のワシントン・ポスト国家安全保障か報道か
(左から)『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』は渡邉の本が書かれた5年後にアメリカで起こったジャーナリズムのその後の運命を変えた出来事を描いている/『自民党と派閥 政治の密室』(実業之日本社)。渡邉はこの本を書いた直後にワシントンに赴任し、72年1月に帰任するから、ペンタゴン・ペーパーズの掲載をかの地で見たことになる(撮影/写真映像部・山本二葉)    実業之日本社の編集者村嶋章紀は、学生時代から渡邉恒雄のオタクだった。きっかけはなんだったのかは覚えていない。ただ、村嶋は中央大学文学部哲学専攻だった。渡邉恒雄も東大の哲学科出身で、終戦直前に兵隊にとられた時、かばんにしのばせていたのが、カントの哲学書だったというエピソードが日経の「私の履歴書」をまとめた『君命も受けざる所あり』という著作に出てくる。  哲学をやる人間がどろどろした現場もやる。そうした考えに痺れ、渡邉の本を読みあさった。絶版になって入手できない本は、国会図書館にいって読んだ。  実業之日本社から、4月に復刊された『自民党と派閥 政治の密室』という本は、そうして村嶋が、国会図書館で読んだ本の一冊だ。もとは雪華社という出版社から1966年11月に『政治の密室─総理大臣への道』として出版され、増補新版が翌年出ている。  2022年11月6日の「しんぶん赤旗日曜版」が「パー券収入 脱法的隠ぺい2500万円分不記載」を報じて以来、自民党の派閥のありかた、政治資金のありかたの議論が沸騰しているのを見て、今しかこの本を復刊するチャンスはないと思ったのだという。  村嶋はまだ弱冠28歳、読売に対するつては何もなく、広報を通じて復刊を打診した。 「主筆に対する企画書を書いてください」と言われ、心をこめて自分の思いを書いた。するとOKがでた。ただその際に、現編集局長の前木理一郎が、元本が出版されて以降の自民党の派閥について書き下ろすという条件がついた。 泥臭い現場を活写しつつ優れた分析力がある 「復刊にあたって」という前木の前文は、同じ社の人間である渡邉に対して敬語を使っている。これはどう考えても変だ。読者に対しては、同じ社の人間について語るのは、たとえ上席であっても謙譲語だろう、と私が言うと村嶋はこんなふうに前木をかばった。 「前木さんは、心底主筆のことを尊敬しているから自然とそうした筆遣いになる」  私はこの本のことを、懇意にしている週刊誌のデスクが鞄にいれて持ち歩いているのを見て知った。 「下山さん、この本面白いんですよ」とそのデスクは言ったが、〈薄暗くなったホテルの一室で老人が、顔をくしゃくしゃにして泣いていた〉という一文から始まるその本は、出だしから掴み充分。  この老人は、駆け出しの政治記者だったころから渡邉が深くその懐(ふところ)に入っていた大野伴睦だ。党人派(とうじんは)だった大野は1960年7月に行われた総裁選で、2、3位連合をくんで官僚派の池田勇人に対抗しようとしたが、直前の票読みで到底勝てないことがわかり、総裁選を辞退することになった。そして同じ党人派の河野一郎が1964年12月に敗れた例も引きながら渡邉は党人派の大野と河野の敗因は共通していると指摘する。  第一に勝者は官僚出身者、第二に二人とも密室の約束を信じて裏切られた、第三に状況の判断が甘く、参謀に悲観的要素を忠言する人物が皆無だったこと、第四に財界の正統派の支持がなかったことなどだ。  本全体を通じて、感心をするのは、派閥を軸にした権力闘争のありかたを、実弾という金の動きを交えて泥臭く描きながらも、鳥瞰する視点でかならず分析を加えていることだった。  担当編集の村嶋自身、こうした渡邉の泥臭さと一方の高みからの分析に哲学の匂いを感じて夢中になったのだという。  他にも、たとえば、1967年に書かれた原稿では、公明党の進出や都市化の流れなどをあげながら、日本は多党化時代を迎えると予測し、こんなことも書いている。 〈以上を要するに、社会的、歴史的条件、選挙制度、政党組織の体質等の異なるにもかかわらず、米、英両国が二党制であるから、日本も二党制をとるべきだと主張すること、多党制になれば、直ちに政局不安となり、国勢が衰亡すると断ずること、それらはいずれも根拠にきわめて乏しいといわざるを得ない〉  1994年の細川連立政権時代に通った小選挙区制度にもかかわらず、いまだに二大政党制となっていない日本の状況を考えると極めて予言的といえる。 日本で調査報道を担うのは誰か?  2018年から慶應や上智で始めた私の講義でかならずとりあげるのが、『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』という映画だ。今年の聖心女子大学の講義でも、この映画をみたうえで討論するという回をもうけている。  ペンタゴン・ペーパーズは、1971年当時の合衆国政府が、ベトナム戦争の評価をおこなった報告書だ。報告書は戦争が何年も前から負けており、勝つ見込みはないことをはっきりと警告するものだったが、当時のニクソン政権はこれを公開していなかった。その秘密文書を入手したニューヨーク・タイムズが、これを報道するが、合衆国政府から出版の差し止めの仮処分をくらい、報道できなくなってしまう。後発で文書を入手したワシントン・ポストが、社論が二分するなか、報道するまでを映画は描いている。  ペンタゴン・ペーパーズの報道を主導した当時のポスト紙の編集局長ベン・ブラッドリーはしかし、ケネディ政権時代には、渡邉恒雄が大野伴睦に食い込んでいたのと同様に、毎週のように家族でケネディとディナーをともにしていた。  国防長官だったマクナマラとの関係を責められたポスト紙の社主キャサリン・グラハムは、ベン・ブラッドリーにこう返す。あなたも同じではないか、と。  実はケネディ政権のさなかにおきたピッグス湾侵攻事件では、ケネディからのブリーフィングをうけポスト紙は知っていたが、ろくな記事を書いていなかった。  ニクソン政権は、国家安全保障上の理由からペンタゴン・ペーパーズの掲載は国民の不利益になると主張していた。  映画では、ベンは「そうした時代は終わらなければならない」として掲載にふみきる。  この報道があって、1972年からの調査報道の金字塔ウォーターゲート報道が生まれるのである。  政権や官庁に深く入り、情報をとって分析するというのが現在まで続く読売のお家芸だろう。検察や公正取引委員会から深い情報をひきだし、それを鋭い分析で提示する。  しかし、ウォーターゲート報道から始まった調査報道については、日本ではぽっかり空洞になっている。かつては朝日の御家芸だった。それも2017、18年の森友・加計問題の報道くらいまでで、それ以降、この権力をチェックするという立ち位置には、赤旗や週刊文春がかろうじて頑張っている状況だ。  国家安全保障上の秘密が優先するか、国民の知る権利が優先するか。  1971年当時、合衆国の最高裁判所は、ブラック判事の評決に書かれたように「報道は為政者に奉仕するためにあるのではない、人々に奉仕するためにある」という理由で、タイムズ、ポストの報道を合法とした。  この問題は、台湾有事を控える日本のメディアにとって遠い昔の外国の出来事ではない。  そんなことを思いながら、渡邉がまだ40歳だった頃、ペンタゴン・ペーパーズの報道が世界を揺るがす5年前に書かれたこの本を読んだ。 ※AERA 2024年7月15日号
下山進
AERA 2024/07/09 11:00
〈2024年上半期ランキング スポーツ編5位〉元プロゴルファー「古閑美保」が明かす“離婚”と”再婚願望” 「恋愛のゴールは結婚じゃないんだなって」
唐澤俊介 唐澤俊介
〈2024年上半期ランキング スポーツ編5位〉元プロゴルファー「古閑美保」が明かす“離婚”と”再婚願望” 「恋愛のゴールは結婚じゃないんだなって」
元プロゴルファーの古閑美保さん(撮影/写真映像部・上田泰世)    早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。スポーツ関係の記事の5位は「 元プロゴルファー『古閑美保』が明かす“離婚”と”再婚願望” 『恋愛のゴールは結婚じゃないんだなって』」でした(この記事は4月20日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *   *   *  ゴルフの実力もさることながら、バラエティー番組でも歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで人気を博したプロゴルファーの古閑美保さん(41)。【前編】では、引退直後に始めた趣味探しや、ゴルフから距離を取ったことで考えたことなどを語ってもらった。【後編】では、現在まで続く女子プロゴルフ人気に関して思うことや、離婚を経験したことで変化した結婚観などについて聞いた。 【前編】<元賞金女王「古閑美保」が語る“引退を決意した日”と“ゴルフから離れたかった2年間”>より続く    古閑さんは「ビジュアル系ゴルファーの元祖」といわれている。へそ出しファッション、派手な化粧、ネイルにピアスなど、その外見でも世間の話題をさらっていた。  ゴルフは紳士淑女のスポーツ。派手なファッションでプレーする古閑さんに対して、当然批判もあったという。 「Tシャツでゴルフするのはどうの、ピアスやネイルがこうのみたいなお叱りの声がよく届いていました。けど、全く気にしませんでしたね。私、そういったことにめげないタイプなんです」  何事もなかったかのようにさらりと言ってのける。むしろこういった声が古閑さんの反骨心を刺激した。 「ツアーの最終日に、わざとTシャツを着て、目立つピアスやネイルを付けていました。どれも違反じゃないんですよ。Tシャツはゴルフメーカーが出しているものでしたし、ネイルを付けてはいけないとか、大きいピアスはダメなんて決まりはないです。だから『なんでやめなきゃいけないの?』って思っていました。人に言われたからやめるっていう考えはなかったですね。全部私がやりたいからやっていることなので」 19歳ごろ、プロ入り後の古閑さん(本人提供)   あえて「ネイル」をしていた理由  ネイルは、そもそも爪が割れてしまうのを防ぐという目的でつけていたものだった。また、化粧にも古閑さんのこだわりがあったのだという。 「私、ゴルフのときはメイクを普段と変えてるんです。やっぱり勝負事のときは、アイラインをしっかり引いて、眉毛も太くして、マスカラもばっちりしていました。強く見せたかったので。ゴルフ場に入ったら、普段の私とは違う『プロゴルファー・古閑美保』っていう別人をつくり上げたかったんです」  19歳で古閑さんがプロ入りしたとき、ゴルフ界を引っ張っていたのは30代半ばのゴルファーだったという。 「賞金ランキングのトップ10には、不動(裕理)さんを除いて、20代はほとんどいませんでした」  それから数年後、宮里藍や横峯さくら、上田桃子らが活躍を始め、女子プロゴルフ人気が高まっていく。競技者としてその渦中にいた古閑さんは、当時をこう振り返る。 「私がプロ入りしたとき、女子プロの人気はそんなに高くなかったんです。でも、2~3年してから状況が変わってきた感じがありました。私やその下の宮里、横峯、上田たちが、“絶対女王”の不動さんに挑んでいくっていう構図ができてきたんです。そこから、女子プロの人気が出てきたと感じています。大会の賞金額や試合数が増えたり、これまでの大企業とは違ったIT企業が大会の主催者になったり。テレビの視聴率も上がっていって、人気の高まりを肌で感じていました」 結婚観が変わったと語る古閑さん(撮影/写真映像部・上田泰世)   「離婚」で変わった結婚観  現在でも渋野日向子、山下美夢有、小祝さくら、稲見萌寧ら人気と実力を兼ね備えたゴルファーが続々と出てきており、女子プロゴルフも百花繚乱(りょうらん)の時代を迎えている。 「私がプロになったころと違って、今は20代の若手がたくさんいて、優勝したのに次の年にはシード落ちしてるとか、入れ替わりも激しい。競争率は高くなっていますけど、チャンスもたくさんあるので、すごくいい時代だと思っています」  ゴルフの技術のみならず、テレビ番組での“ぶっちゃけトーク”も古閑さんの魅力だ。恋愛話はたびたびお茶の間の話題になった。 「正直にしゃべりすぎちゃうんですよね(笑)。恋愛しているときは、好きな人のことが頭から離れなくなりますよ。やっぱり恋愛って心を揺さぶられるものじゃないですか。でも、それとゴルフは別物で。メンタルが落ちているときも全く成績に響かなかったです(笑)。結局、練習しているかしてないかが全てですから」  古閑さんは一昨年、離婚も経験した。そのことで価値観にも変化があったという。 「当時は、結婚をすっごくしたいと思っていて、恋愛と結婚というものが結びついていたんです。でも離婚して、それまで持っていた結婚観も変わりました。恋愛のゴールは必ずしも結婚じゃないんだなって。再婚ですか? 全然考えてないです。でも私、言ってることがコロコロ変わるからな(笑)。少なくとも今はそう思っています」 笑顔がチャーミングな古閑さん(撮影/写真映像部・上田泰世)   今は甥っ子を溺愛  最後に、古閑さんにとって「忘れられない一日」を聞くと、「甥っ子の大和が生まれたときかな」と返ってきた。 「私、親に溺愛されて育っているんです。それもあってパパっ子ですし、ゴルフをやっていたのも父の喜ぶ顔が見たいっていうのがモチベーションでした。それなのに、父の愛情が全部大和に行っちゃったんですよ(笑)。家族の関係性を変えたのが彼なんです」  とはいえ、古閑さんも甥っ子を溺愛しているのだという。 「彼が生まれてから、妹に『ちょうだい』ってずっと言ってます。今度15歳になるんですけど、本当に可愛いいんですよ。イケメンになってきて、声変わりもしてきて」  彼はアマチュアボクサーとして活躍している。 「古閑家は、やっぱり『プロ志向』なんですよね。初めて見に行った試合が、山中慎介対ルイス・ネリの世界王者のタイトルマッチですから。古閑家って世界一を見せるんですよ。だから、大和も世界チャンピオンが夢って言ってます。今年の5月にある井上尚弥対ネリの試合も見に行きたいねって話してます」  ただ、そんな甥っ子の活躍を、古閑さんは手放しには喜べない面もあるのだとか。 「本人が楽しくやっているのはいいんですけど、見てるこっちとしては、ケガをしている姿とか、負けて泣いている様子はね……。でもやめるように促すことはできないですから」  取材中、常に自信に満ちた雰囲気をまとっていた古閑さんが、唯一いじらしい表情を浮かべた瞬間だった。 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●古閑美保(こが・みほ)/1982年、熊本県生まれ。10歳からゴルフを始め、中学2年時には日本ジュニア、世界ジュニアで優勝。2001年1月から元日本女子プロゴルフ協会会長の清元登子に弟子入りし、同年8月、19歳でプロテストに合格。03年、ヨネックスレディスで初優勝。08年には賞金女王を獲得。11年、ケガが理由で引退した。その後は、テレビ番組やYouTube、講演会などに出演し、ゴルフの魅力を発信している。
古閑美保離婚女子プロゴルファーインタビュー2024年上半期ランキング
dot. 2024/07/08 11:00
大学・大学院の社会人向けプログラムが多様化 背景に学び直しで存在感増す「女性とシニア」
渡辺豪 渡辺豪
大学・大学院の社会人向けプログラムが多様化 背景に学び直しで存在感増す「女性とシニア」
高知大学土佐フードビジネスクリエーター人材創出事業の実験体験会の様子。地域社会に溶け込み、新たな商品やビジネスモデルを創造できる人材が輩出している(写真:高知大学土佐FBC提供)    かつて大学院などで学び直しをする社会人学生は40代までの男性中心だったが、現在は女性やシニアの存在感が増している。学び直しに意欲的な社会人の層の多様化により、大学・大学院の社会人向けプログラムが充実している。AERA 2024年7月8日号より。 *  *  * 「想像以上の大変さでした」  都内のシンクタンクに勤務しながら、2年前に筑波大学大学院を修了した荒井絵理菜さん(30)はこう振り返る。  職場には大学院進学に伴う就労規定がなく、人事部や上司と交渉し、給与水準を維持したまま、週5日勤務のうち1日を大学院の受講や研究にあてる制度を新設してもらった。しかしこの制度だと、5日分の仕事を4日間で圧縮して対応しなければならず、休日や夜間も講義や研究課題に打ち込むのが前提。このため、録画で聴講できるオンライン講義は夜間や休日にまとめて2倍速でチェックするなど、効率的な時間の使い方に腐心する日々だったという。  荒井さんが大学院に在籍した2年間、最も留意していたのが「健康の維持」。体調を崩せば、仕事との両立どころではなくなるからだ。 「あとですべて自分にはね返ってくると考えた時、ベストなコンディションをキープする重要性に気づき、生活習慣を徹底的に見直しました」 起床時間は毎朝5時と決めた。軽い運動のあと、この日の優先順位を頭の中で整理する。生活リズムを崩さないよう飲み会も控えた。 女性とシニアの存在感  そんなストイックな生活を経て、得られた成果は何だったのか。論文発表などの実績や実務力のアップにとどまらない、と荒井さんは言う。 自分の限界を乗り越えた自信。支えてくれたゼミの友人たちとのつながり。喜びも悲しみも充実した時間の中にこそある、という気づき……。 「変化を恐れず、世界を面白がる力をもてるようになったと感じています。これは目先のメリットやデメリットという価値観でははかれない、一生ものの財産だと思います」 青山学院大学のワークショップデザイナー育成プログラムの様子(写真:青山学院大学社会情報学部提供)   「学ぶ姿勢」はポジティブに生きる糧にもなる。  今春から東京大学公共政策大学院で学ぶ都内の会社員女性(39)は、保育園と小学校の子の育児も抱える。子どもを寝かしつけてから毎日深夜2時頃まで勉強という超ハードな日々。授業帰りの電車内で寝落ちすることも。だが、疲れていても充実感はある。 「やりたかった勉強、情熱をもって学べる分野だから続けられているのだと思います。だから、時間効率重視でサクサクこなすのはもったいない、という気持ちもどこかにあるんです」  録りためたNHKの朝ドラ「虎に翼」を観るのが一番の息抜き。ヒロインの奮闘や成長に勇気をもらい、自身を鼓舞するエネルギー源にもなっている。  大学院などで学び直しをする社会人学生の中で今、存在感を増しているのが女性とシニアだという。 「かつては40代までの男性が中心でしたが、今はほとんどの分野で男女差は少なくなっています。50~60代のシニアも珍しくありません」  こう話すのは、リカレント教育の専門家、リクルート進学総研の乾喜一郎主任研究員だ。  働く女性の増加や、定年後も働くのが当たり前になる中、学び直しに意欲的な社会人の層は多様化している。それに伴い、大学側も社会人向けプログラムを充実させ、求める学生像を明確に打ち出すようになったのが、ここ数年の「最大の変化」だと乾さんは指摘する。逆の言い方をすれば、十分な準備やリサーチを行うことで自分の関心や目的、好みに合致する、納得のいく学びの場と出合える可能性が高まっている、というわけだ。 履修証明プログラムが  社会人向けの学びの場として近年、充実度を増しているのが「履修証明プログラム」だ。再就職やキャリアアップに役立つプログラム、体系的な知識や技術の習得を目指す課程など、一定のまとまりのある学習プログラムを各大学が開設している。修了者には学校教育法に基づく履修証明書が交付される。  青山学院大学のワークショップデザイナー育成プログラムもその一つ。ワークショップデザイナーとは「コミュニケーションの場づくりの専門家」。会社組織、医療、福祉、教育、地域コミュニティー、アートなどさまざまな場で、コミュニケーションを基盤とした参加体験型活動プログラム(ワークショップ)の企画運営を専門として行う人材の養成が目的だ。約3カ月間、計120時間の授業はオンラインのみのコースも選べる。 立教セカンドステージ大学の授業の様子(写真:立教セカンドステージ大学提供)    50歳以上のシニアのために創設されたのが立教大学の「立教セカンドステージ大学」。人文学的教養の修得を基礎とし、「学び直し」「再チャレンジ」「異世代共学」を目的に掲げる。修業年限は1年で、学部学生と一緒に全学共通科目を受講したり、学部学生の授業にコメンテーターとして参加したりするなど、若い世代との交流の機会もある。すべての受講生がゼミに所属し、担当教員の指導を受けながら修了論文を作成する。  高知大学の土佐フードビジネスクリエーター人材創出事業も履修証明プログラムだ。主に高知県内の社会人向けに、食品産業における生産・加工・流通・販売を総合的につなげることができる専門人材「フードビジネスクリエーター」を育成する。  社会人の学び直しには専門職を対象にしたニッチな分野も用意されている。日本福祉大学には、里親支援に関心のある人を対象にした人材養成プログラムや、性犯罪の被害者のケアをする看護師を対象にした人材養成プログラムがある。 公開講座やセミナーも  学びの入り口になりそうなのが大学で開催している一般向けの公開講座やセミナーだ。興味のあるテーマや内容のプログラムがあればお試しで参加し、「面白そう」と感じた講師が担当する社会人向けの大学院などを探すのもいい。  中でも丁寧なキャリア支援で注目されるのは、武庫川女子大学のリカレント教育「ムコノアプラス」だ。幅広くDX人材を育成しキャリアアップや成長分野への移動を支援するため、仕事に必要なスキルに特化した150以上の専門講座をそろえる。プロのカウンセラーが常駐し、受講中のキャリア相談や仕事の悩みにも応じ、転職先や再就職先の紹介も行う。  大学院で本格的に学ぼうとする場合気になるのは学費。乾さんによると、通学が必要な大学院の場合、入学金と授業料を合わせて2年間で250万~350万円が相場。オンラインや通信制の大学院だと2年間で50万~100万円で収まることが多いという。ただし、仕事につながる大学院の修士課程の場合、社会人学生は国の「専門実践教育訓練給付金」(2年間で最大112万円)を受給することが可能だ。乾さんは「雇用保険に3年以上加入するなどしていれば認められる、この給付金制度は絶対に活用すべき」と強調する。  社会人向け大学院は一般的に間口が広いのも特徴という。 「研究計画書や職務経歴書と面接がベースです。ビジネス系は特に仕事で培ってきた問題意識が重視されるため、専門科目や英語をガチガチに勉強する必要はありません」(乾さん) (編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年7月8日号より抜粋  
リカレント教育熱
AERA 2024/07/06 08:00
〈2024年上半期ランキング スポーツ編6位〉大谷妻「真美子さん」のロールモデルに? 夫・長友を支える「平愛梨」の“メンタルモンスター妻”っぷり
雛里美和 雛里美和
〈2024年上半期ランキング スポーツ編6位〉大谷妻「真美子さん」のロールモデルに? 夫・長友を支える「平愛梨」の“メンタルモンスター妻”っぷり
平愛梨(写真:アフロ)  早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。スポーツ関係の記事の6位は「大谷妻『真美子さん』のロールモデルに? 夫・長友を支える『平愛梨』の“メンタルモンスター妻”っぷり」でした(この記事は4月18日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *  *  *  ドジャースの大谷翔平選手の結婚でにわかに注目が集まった“海外駐在妻”。海外で活躍する日本人スポーツ選手の妻と言えば、自己プロデュースが上手な元女子アナが多いイメージだが、タレントやスポーツ選手、はたまた幼なじみなど、その顔触れはさまざま。中でも個性を放っているのが、日本代表復帰で話題のサッカー選手・長友佑都と2017年に結婚し、4児の子育て中の平愛梨(39)だろう。  タレント時代の平について、週刊誌の芸能担当記者はこう語る。 「平さんは女優として浦沢直樹の人気漫画を実写化した映画『20世紀少年』でヒロインのカンナを演じるなどして評価を得た一方、バラエティーでは超ド天然な性格をさらけ出して、たびたび話題を振りまいてきました。所ジョージさんのバラエティー番組『笑ってコラえて!』に出演した際は『ロケに行きたくない』と大号泣、現場を混乱に陥れ、『仕事なめてる』などSNSで集中砲火を浴びたこともありました。芸能界の内部でも平の奔放ぶりは有名だったらしく、『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』で、不安を理由に家族をロケに連れてきたり、収録中にもかかわらず小さい虫が気にして視線を宙にさまよわせていたというエピソードを岡村さんが明かしてたこともありました」 婚約発表の会見後、フォトセッションに応じる長友佑都と平愛梨   長友も認める「メンタルモンスター」  2017年に長友選手と結婚した後は芸能活動を休止し、移籍続きの夫に随行して長らく海外暮らしを送ることになった平。21年に長友選手がFC東京に復帰するまで、5年半の海外駐在生活を送った。 「イタリア、トルコ、フランスと長友の移籍により複数の国で暮らした平さんは、言葉もわからない異国の地で妊娠・出産しました。子どもたちのことをSNSでつづる際は、それぞれの誕生国での『赤ちゃん』を意味する言葉を使用しているのは有名な話です。出産の際も言葉が分からないので、陣痛の痛みに耐えながらスマホの翻訳アプリを駆使して医療者とコミュニケーションを取っていたと語っていたこともありました」(前出の記者)  家族がいないとロケにも行けなかった天然ぶりはどこへやら……。海外生活をへてたくましい女性へと成長をみせたようだ。 「長友も平のポジティブぶりを“メンタルモンスター”と呼ぶほど。キャリアに陰りを見せていた時期にも、妻のポジティブさに感化されたと語っています。36歳という日本代表最年長、かつ最多出場となる4大会W杯出場という偉業を成し遂げたことについても、長友は過去に『愛梨がいなければ、このW杯に行けなかった』と語っています」(スポーツ紙の記者) 子どもと一緒に観戦する平愛梨(写真:Abaca/アフロ)   辻希美と共通する「炎上上等」  平がそんな強心臓ぶりを発揮するようになったのは、長い芸能生活の影響があったようだ。 「平は14歳でデビューしてから23歳で『20世紀少年』のカンナ役を射止めるまで、10年近くも下積み生活を送ってきました。芸能界引退をかけて決死で挑んだ同作品のオーディションで評価は一変。その後、バラエティー番組で活躍し、長友との結婚とポジティブさを売りにして道を切り開いてきました。その裏には、『誰からも相手にされないのが一番悲しい』というマネージャーの教えがあるようです。プロとしてやっていくにはどんなベクトルでも関心を持たれることが重要だと、夫婦でテレビで出演したときに語っていました」(前出の週刊誌記者)  一方、公開プロポーズに始まり、結婚後もSNSなどを通して私生活を公開してきた平・長友夫妻には、「さすがに痛い」「承認欲求の塊」などの批判が集まることもあった。 「系統としては、辻希美さんに似ていますね。辻さんもイケメンの夫を捕まえて、アツアツの生活を頻繁にブログやSNSで披露してたたかれまくりました。結婚当初はすぐ離婚するのではという見方もありましたが、誹謗(ひぼう)中傷などどこ吹く風で、アンチからもらったアクセス数でタレントパワーを稼ぎ、家庭は円満、子どもたちも立派に育ち、今ではすっかり“すてきなママタレ”になっています。10代から芸能界で培われたタフさが持ち前という点でも平さんと共通しています。“注目されてナンボ“という意識の強い平さんにとっては、夫婦のラブラブアピールも、セレブ感たっぷりの投稿も、注目されるためのツール。大きな反応が得られるのであれば、内容が批判であれ何であれ、大歓迎という感じなのでしょう」(同) 独身時代の平愛梨(写真:アフロ)   デビュー当初はアーティスト志向  芸能評論家の三杉武氏は平についてこう述べる。 「平さんはもともと、安室奈美恵さんに憧れてオーディション番組に応募し、グランプリに輝いて芸能界デビューを果たしています。デビュー当初はアーティストへの憧れもあったようです。バラエティーではキュートなルックスやお嬢様らしいおっとりとした語り口と、とっぴな言動とのギャップが受け、番組を盛り上げていました。結婚当初は、長友選手が好感度が高い人気アスリートである一方、平さんは“天然キャラ”のイメージがあり、2人の結婚生活を不安視する声もありましたが、今ではおしどり夫婦として広く認知されています。バラエティーの現場などでは柔らかい雰囲気で天真らんまんさが際立っていましたが、そうした明るさが夫である長友さんの活躍を支えているのかもしれません」  大谷選手の妻である真美子夫人も常に注目の的となり、異国の地で大変な思いもあるだろう。いずれは、平のように“メンタルモンスター”ぶりを発揮して、大谷選手の活躍をしっかり支えてくれると期待したい。 (雛里美和)
平愛梨大谷翔平長友佑都2024年上半期ランキング
dot. 2024/07/05 11:00
テイラー・スウィフト、「...Ready for It?」を使ったシモーネ・バイルズの体操演技に反応
テイラー・スウィフト、「...Ready for It?」を使ったシモーネ・バイルズの体操演技に反応
テイラー・スウィフト、「...Ready for It?」を使ったシモーネ・バイルズの体操演技に反応  先週米ミネアポリスで開催された体操競技の全米五輪選考会の初日に、シモーネ・バイルズ選手がテイラー・スウィフトの「...Ready for It?」を使った床演技を披露したことを受け、テイラーがXで反応した。 現地時間2024年6月28日に行われた選考会で、バイルズは2017年の『レピュテーション』に収録されているこの楽曲の出だし30秒とともに演技を開始し、力強くポーズを決めた後、アナウンサーが“全世界で最も難しいタンブリング・パス”と評したトリプル・ダブル・フリップを成功させた。この27歳のアスリートは、この種目で14.850点、合計58.9000点を獲得し、米国女子代表の最有力候補となった。 その翌日(6月29日)、Xに投稿されたバイルズのルーティンの映像にテイラーがコメントし、「これ何度も見たけど、まだ準備ができてないよ(still unready)」と、楽曲のタイトルにかけたジョークを書き込み、「でも彼女は準備ができている(ready for it)」と、拍手、金メダル、星条旗、赤いハートの絵文字を添えてバイルズを賞賛した。 6月30日にバイルズは再びルーティンを披露し、特に印象的なフリップでは12フィート(約3.6メートル)上空に舞い上がった。彼女は2日目を117.225の総合得点で終え、2016年大会で金メダルを獲得して以来、キャリア3度目となる米国代表に選出された。 テイラーは長い間バイルズを応援してきた。2021年の東京大会で、それまで予定されていた競技を精神的な理由で棄権していたバイルズが復帰を果たした際、テイラーは世界チャンピオンの回復力を応援するプロモーション・ビデオに出演した。 米NBCの広告で彼女は、「先週を通して、(バイルズの)声は彼女の才能と同じくらい重要でした。彼女の正直さは、長い間彼女の特徴であった完璧さと同じくらい美しかった。でも、わかりませんか?今でもそうです。彼女は実に人間らしい。だから彼女をヒーローと呼ぶのは簡単なことなのです」と述べた。 動画放映後にバイルズが、「泣いてます。大好き @taylorswift13」とツイートすると、テイラーは、「私はあなたを見て泣きました。この何年もの間、あなたを見てこられたことをとても幸運に感じていますが、今週は感情的知性と回復力のレッスンでした。私たち皆があなたから学びました。ありがとう」と返信した。
billboardnews 2024/07/03 14:11
新紙幣で沸く津田塾、北里大に続くか 創設者名が付けられた大学たち【2024年最新版】
新紙幣で沸く津田塾、北里大に続くか 創設者名が付けられた大学たち【2024年最新版】
新紙幣の見本。5千円札に津田塾大創立者の津田梅子、1千円札に北里大と縁が深い北里柴三郎の肖像が描かれている    いよいよ7月3日に新しい1千円札、5千円札、1万円札が誕生する。このうち、5千円札に津田塾大創立者の津田梅子、1千円札に北里大と縁が深い北里柴三郎の肖像が描かれている。  5千円札の津田梅子は1871(明治4)年、岩倉使節団とともに満6歳でアメリカに渡り、長いあいだ、現地で教育を受ける。帰国後は華族女学校、女子高等師範学校などで教授をつとめたあと、1900(明治33)年、女子英学塾(後の津田塾大学)を創立して、女子の高等教育の発展に尽力した。  いま、津田塾大は大いに盛り上がっている。  大学同窓会が「津田梅子新5000円札記念プロジェクト2024」を立ちあげ、今秋、シンポジウムを行う予定だ。その趣意がなかなかいい。 「21世紀は多様性・共生の社会と言われ、ジェンダーレスの時代に入っています。そういう状況の中で2024年新5000円札に津田梅子の肖像が選ばれたことは、歴史的意義があると言っても過言ではないでしょう。これを機にいま改めて、津田梅子の教育理念、近代日本社会の中で津田梅子の果たした役割を検証し、女子大学の存在意義、グローバル的視点を持った女性の活躍の現状と未来について考えます」(大学同窓会ウェブサイト)   女子大にアゲンストの風が吹いているなか、津田塾大は存在感を示そうとしている。  1千円札に登場する北里柴三郎は1853(嘉永6)年生まれで、東京医学校(現在の東京大医学部)出身。破傷風菌の純粋培養に成功し、破傷風菌毒素に対する血清療法を確立、その後にはペスト菌も発見するなど、医学界に多大な功績を残した。1914(大正3)年に北里研究所を設立し、1962(昭和37)年、「北里を学祖と仰ぎ」北里大が開学する。  北里大は新1千円札に関する情報を発信しておらず、イベントの予定もないが、新紙幣が決定した5年前には喜びを隠さなかった。 「学校法人北里研究所・北里大学として、大変、名誉な事であり、また、この機会に学祖北里柴三郎の経歴と業績についての概略を述べさせていただき、国民の皆様に身近に感じていただければと思います。(略)北里柴三郎が現在の一万円札の肖像になっている福澤諭吉先生を恩師と仰ぎ、また、現在の千円札の肖像になっている野口英世を育てており、何かのご縁と感じます。(略)学校法人 北里研究所 理事長 小林弘祐 北里大学 学長 伊藤智夫」(大学ウェブサイト。2019年4月9日※学長は当時)  津田塾大、北里大は起源となる教育、研究機関の創設者の名が、大学名につけられた。創立者に対する最大の敬意が払われている。  大学名に創設者の名が付されている大学は他にもある。ここにいくつか紹介しよう(カッコ内は大学開学年、所在地)。  大妻女子大(1949年、東京)の起源は、明治時代までさかのぼる。1908(明治41)年、大妻コタカが24歳のときに開いた裁縫、手芸の私塾だ。その後、大正時代になって大妻技芸伝習所を設置する。  椙山女学園大(1949年、愛知)は、1905(明治38)年、椙山正弌(すぎやま・まさかず)、いま夫妻が開校した名古屋裁縫女学校を起源とする。大正時代に入ると椙山高等女学校に発展させ、戦後は新制大学スタートとともに4年制大学となった。  星薬科大(1950年、東京)の前身は、星製薬株式会社に1911(明治44)年に設置された教育部門である。のちに星製薬商業学校、星薬学専門学校となり、戦後は4年制大学として認可された。星製薬の創業者で大学初代理事長は、星一氏。作家、星新一氏の父にあたる。  杉野服飾大(1964年、東京)は、服飾家の杉野芳子が1926(大正15)年に設立したドレスメーカー・スクールが起源となっている。2002(平成14)年に杉野女子大から現校名に改称して男女共学となった。  跡見学園女子大(1965年、東京)は、私塾で書画や漢学を教えていた跡見花蹊(あとみ・かけい)によって1875(明治8)年に設立された跡見学校を起源とする。跡見学園の沿革には「日本人による初めての私立女子校として誕生」(跡見学園ウェブサイト)とある。  安田女子大(1966 年、広島)の歴史をさかのぼると、1915 (大正4)年に安田リヨウが開いた広島技芸女学校にたどり着く。戦争中は苦難の道を歩み、大学ウェブサイトには以下のように記されている。「学園は世界で最初の原子爆弾によって破壊され、安田五一初代理事長をはじめとして多くの犠牲者を出しましたが、惨禍に志を曲げることなく、残された教職員そして学生は自ら額に汗して、復興に取り組み、建学の理念を守り今にいたっています」  川崎医科大(1970年、岡山)の創設者は、岡山市内で病院を経営していた川﨑祐宣氏である。旧制岡山医科大学(現・岡山大医学部)出身の医師で、「真に医師といわれるにふさわしい臨床家を養成して世に送りだしたい」(川崎学園ウェブサイト)という思いから、医科大学をつくった。  藤田医科大(1968年、愛知)の起源は、名古屋帝国大医学部出身の医師、藤田啓介氏によって1964(昭和39)年、設立された南愛知准看護学校である。看護師・臨床検査技師の養成校からのスタートで、1966年、名古屋衛生技術短期大開学。そして、1968年に名古屋保健衛生大が開学し、1972年に医学部設置。1984年に藤田学園保健衛生大、1991年に藤田保健衛生大、2018年になって藤田医科大に改称した。  川村学園女子大(1988年、千葉)の起源は大正時代にさかのぼる。1952年に川村短期大を開校した。川村学園女子大(1988年、千葉)の起源は大正時代にさかのぼる。1952年に川村短期大を開校した。大学は設立時をこう紹介している。「創立者川村文子が、関東大震災後の荒廃した社会・世相を我が国の『非常』の時ととらえ、その解決のためには女子教育の振興以外にはないと考え、『感謝の心』『女性の自覚』『社会への奉仕』を建学の精神として、大正13年(1924年)、『川村女学院』を創立いたしました」(川村学園ウェブサイト)  現在は文、教育、生活創造の3学部だが、2024年度で教育学部は募集停止となった。大学がつらい胸の内を明かす。「18 歳人口の減少、特に近年の共学志向の高まりなど社会情勢の変化の中で、入学者数の定員割れが続き、教育学部・教育学専攻をこのまま維持することが厳しくなりました。これまで教育学部・教育学専攻存続のためにあらゆる可能性を模索し、将来の在り方について慎重に検討を重ねてまいりましたが、誠に遺憾ながら教育学部・教育学専攻の学生募集停止という苦渋の決断に至りました」(大学ウェブサイト)  十文字学園女子大(1996年、埼玉)の始まりは、十文字ことら3人が設立した文華高等女学校にある。1966年に十文字学園女子短期大が開学。大学の沿革にこう記されている。「十文字学園は、創立者である“十文字こと”の、『教育を受けたいと思う女性がひとりでも多く学べる私立学校をつくりたい』という強い願いのもと、1922(大正11)年に設立されました」(大学ウェブサイト)  嘉悦大(2001年、東京)の起源は私立女子商業学校である。1903(明治36)年に開校。創立者は嘉悦孝である。「日本で初めて女子を対象とした商業学校」(大学ウェブサイト)であり、その教育理念は大正時代に日本女子商業学校(1944年に日本女子経済専門学校に改称)、戦後は日本女子経済短期大へと引き継がれた。  植草学園大(2008年、千葉)のルーツ校も明治生まれだ。1904(明治37)年に植草竹子が現在の千葉市内に「千葉和洋裁縫女学校」を設立する。その後、1世紀以上の時を経て、4年制大学が開学した。  大阪河﨑リハビリテーション大(2006年、大阪)のルーツ校も新しい。1997年設立の河﨑医療技術専門学校である。創設者は大阪高等医学専門学校(現・大阪医科薬科大)出身の医師、河﨑茂氏だ。  大阪行岡医療大(2012年、大阪)の歴史は、昭和初期につくられた大阪接骨学校から始まる。大阪医科大(現・大阪大医学部)出身の行岡忠雄氏が、1933(昭和8)年に開設した学校だ。  亀田医療大(2012年、千葉)のルーツは、江戸時代末期の1830年ごろ、西洋医学を学んだ亀田自證が鴨川で開いた学問所「鉄蕉館」までさかのぼる。その後、1954(昭和29)年、亀田病院附属准看護婦学校を開校し、改称や統合などを経て今日に至る。  ヤマザキ動物看護大(2010年、東京)の起源は、山﨑良壽氏が1967(昭和42)年につくったシブヤ・スクール・オブ・ドッグ・グルーミングである。ヤマザキ動物看護短期大を経て、4年制大学として開学した。  創立者の名前を掲げた大学名から、さまざまな事情で名称を変えた大学もある。  北海道女子大(1997年、北海道)は2000年に北海道浅井学園大に、2005年には浅井学園大に名称変更した。創立者である浅井一族にちなんだものである。ところが、2006年、浅井幹夫前理事長(当時)が背任などの容疑で逮捕される。大学経営陣が刷新され、2007年、浅井学園大は北翔大としてスタートすることとなった。「浅井」の名は校名にふさわしくない、という判断だった。  了德寺大(2006年、千葉)は仏教系、地名と間違われることがあったが、創立者の名前に由来する。医療関係の仕事に関わってきた了德寺健二がつくった大学だ。だが、2024年、大学理事長はSBCメディカルグループホールディングス CEOの相川佳之氏に交代し、SBC東京医療大と改称した。同社がコマーシャルで有名な湘南美容クリニックを経営している。  創立者の名がつく大学は、新しい分野で挑戦しよう、女性が社会で活躍できるようにしよう、というパイオニア精神が見てとれる。現在、創立者から3代目、4代目となる一族が理事長として経営のかじ取りをしている大学もいくつかある。  津田塾大、北里大のように、お札になるような、歴史に名を残す大学創立者が現れるか。少子化で厳しい情勢ではあるが、大学には社会にインパクトを残してほしい。スタンフォード大など世界で名だたる名門校も、アメリカで功成り名を遂げた偉人の名が由来となっていることだし。 <一部、敬称略> (文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)
新紙幣津田塾大北里大
dot. 2024/07/03 08:00
愛子さまご誕生時は学内全体で“Congratulations!” オックスフォード大研究員が明かす「大学と両陛下」秘話
大谷百合絵 大谷百合絵
愛子さまご誕生時は学内全体で“Congratulations!” オックスフォード大研究員が明かす「大学と両陛下」秘話
 オックスフォードを再訪し、雅子さまが留学されていたベーリオール・カレッジ周辺を歩く両陛下(写真は楠さん提供)  天皇皇后両陛下は、英国ご訪問の最終日となる28日、ともに留学生活を送った思い出の地、オックスフォードを散策される。30年以上の時を経て訪れる母校や街の景色に、お二人は何を思われるのだろうか。同大で脳科学の研究員として20年以上勤務する楠(くすのき)真琴さん(65)に、オックスフォードの「今」と両陛下と大学に関する“秘話”を聞いた。   *  *  *  オックスフォード大学は今、卒業式とオープンキャンパスの季節を迎えている。楠さんによると、式を終えた学生たちが公園で大騒ぎしたり、天皇陛下が留学していたマートン・カレッジにも受験生がひっきりなしに出入りしたりと、街は若者であふれ、「自転車で走るのも大変なくらい」のにぎわいを見せているという。  留学時代を過ごしたのは、天皇陛下が1983年~85年、皇后雅子さまが88年~90年だ。大学や街並みはどう変わったのだろうか。天皇陛下の著書である留学記『テムズとともに――英国の二年間』(紀伊國屋書店)を参考に、楠さんにひもといてもらった。(【】内は著書からの引用)。 【私が初めてオックスフォードで自転車に乗った日、これを見たある学生が、私に「ああ、君もこれで本当のオックスフォードの学生になったね」と言ったが、それほどに学生と自転車は切りはなせないものとなっている】 【中世のたたずまいを今に残すオックスフォードの町並みを、ガウンに蝶ネクタイの姿で歩くのもなんとはなしにオックスフォード的でよい】  オックスフォードは今も昔も、自転車があれば十分回れるほどの小さな町。学生たちは買い物をする時も映画館やパブに出かける時も、相変わらず自転車を乗り回しているという。   英国留学中、寮の自室でほほえむ天皇陛下  とはいえ、「ここ10年くらいでオックスフォードも変わってきた」と、楠さん。古い建物を改修しつつ守り継ごうとする人がいる一方で、「ちょっと周りと合わないモダンで芸術作品みたいな建物」が建ったり、大きなショッピングモールができたり。郊外の放牧地や森は開発が進み、数百軒単位で各地に新しい住宅が作られている。街中では車と自転車がぶつかる事故も増えているそうだ。  楠さんは、「経済的に大きくなりつつあるオックスフォードを見て、陛下も驚かれるかもしれませんね」と推察する。 両陛下が通われた中華料理店は今… 【一九八五年の三月には弟の秋篠宮がオックスフォードを訪ねてくれたので、~中略~夜は私が時々行く中華料理店に案内した。弟は大学で覚えた中国語で店員と上手に会話をしていた】  今回の両陛下英国訪問に際し、お二人が何度か訪れたという中華料理店の店主がメディアのインタビューに応じている。報道では、天皇陛下がマーボー豆腐とライスのセットをお好みだったことや、雅子さまが友人と北京ダックを召し上がっていたことが明かされていた。  当時は「Opium den」という学生にも人気の本格中華の店を営んでいたが、コロナ禍を機に閉店。店主はその後一念発起し、今は小さなヌードルショップ「TSE NOODLE」を営んでいる。楠さんも時折ランチを食べに訪れるといい、「中国人も好んで通う本場の味」は今も健在のようだ。  学生たちのキャンパスライフには変化はあるのだろうか。 【(寮の)ベッドの上の窓枠の隙間から入り込む風は異常に冷たかった】 【自分用の風呂があることには感謝すべきであるが、浴槽に約半分ほど給湯すると湯が出なくなってしまい、およそ温まるという状況には程遠い有様である】 【私はここ(大学の食堂)で出されるゆで過ぎとも思われる芽キャベツが大好きで、いつも多く取っていたが、ある時そばにいたイギリス人の友人から何でこんな物がそんなにおいしいのかと聞かれたことがあった】 英国留学中、大学周辺で自転車に乗る天皇陛下 上の写真が撮影された場所の現在の様子。当時とほとんど変わらない姿を残している(写真は楠さん提供) 「寮は築数百年の建物なので、みんな『暖房が入らない』とかしょっちゅう文句を言ってますよ(笑)。陛下がお好きだったという芽キャベツは、少し苦みと辛みがあって、クリスマス料理の付け合わせのイメージですね」と、楠さん。イギリス人は野菜をとろっとやわらかくして食べるのが好きで、日本人には相変わらず「ゆで過ぎな感じはある」そうだ。 テニスの代表選手に選ばれた陛下  陛下は『テムズとともに』の中で、余暇としてスポーツに打ち込んだ経験もつづっている。 【ボートの練習は、男女混合のクルーの一員としてコレッジの艇庫からボートを出すことから始まった。私の後ろの女子学生が船を持つ位置や運び方をていねいに教えてくれた。それにしても女性も実にたくましい。きゃしゃな体格でも力は相当ありそうだ】 【テニスの後に、冷えているとはいいがたいビールで喉を潤すのも、これまた気持ちのよいものである】  ボート、ジョギング、登山、スキーなどさまざまなスポーツに挑戦する中、とりわけ熱中されていたのがテニスだ。マートン・カレッジの代表選手に選ばれてカレッジ同士の対抗戦に臨んだこと、体格的なハンディを感じつつも必死で球を打ち返すうちに逆転したこと、試合後は主将がいつも“Well done, Hiro.”と声をかけてくれたことなど、事細かに記されている。  楠さんによると、今もオックスフォードの学生たちは大半がスポーツのサークルに入り、上手に息抜きをしているという。また、大学を出ると大きな公園が広がっていて、郊外には数百年前の姿のままとも言われる美しい田園地帯「コッツウォルズ」が広がる。   そんな豊かな生活が保障された環境で、陛下は心置きなく研究に没頭された。 【(オックスフォード暮らしにおいて)最も大きなウエートを占めていたのはもちろん研究生活である。~中略~研究という一つの柱を通して私は数々の貴重な経験ができ、様々な人と出会え、研究者であればこそ味わえる感動を覚えたことも確かである】 英国留学へと出発する雅子さま  オックスフォードの学生たちは、生活がほぼキャンパス内で完結するほど、研究漬けの日々を送る。学問を志す仲間たちと、寮や食堂や図書館で四六時中顔を合わせることで、カレッジ内の人間関係は濃密なものになるという。  楠さんは、両陛下の留学先として見た時のオックスフォードの利点について、同じ英国の名門大学であるケンブリッジ大と比べても、政治関係者との人脈を築きやすいことを挙げる。卒業生には、マーガレット・サッチャー氏やデーヴィッド・キャメロン氏など英国歴代首相のほか、ミャンマーの民主化指導者アウン・サン・スーチー氏、オーストラリア元首相のマルコム・ターンブル氏など、各国の政界の重鎮が名を連ねる。 「雅子さまが外交官時代に留学されたように、今もさまざまな国の中央省庁から留学生が派遣されています。世界中から優秀な人を集める強力な力を持ち、学びを深めることに特化した、歴史と伝統のある大学です」(楠さん) 「このまま時間が止まってくれたら」  著名人や王族など世界のVIPたちを輩出するオックスフォードだが、両陛下とは特に強い結びつきを感じさせるエピソードがある。楠さんによると、2001年の愛子さま誕生の際、大学職員のメーリングリストに“Congratulations!”と祝意を伝えるメールが流れたのだ。メーリングリストは学内の連絡事項を共有するためのもので、卒業生に関するニュースが流れたことは後にも先にもなく、印象的だったという。  研究、余暇、そして仲間との親交。2年間にわたる充実のキャンパスライフは、85年10月、幕を閉じる。帰国間際の心境について、陛下はこう振り返る。 【再びオックスフォードを訪れる時は、今のように自由な一学生としてこの町を見て回ることはできないであろう。おそらく町そのものは今後も変わらないが、変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感におそわれ、いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう】 天皇陛下が留学されたマートン・カレッジの現在の様子(写真は楠さん提供) 雅子さまが留学されたベーリオール・カレッジの現在の様子(写真は楠さん提供)  天皇陛下という立場になった今、再びオックスフォードの地を踏む心中について、陛下と同年代の楠さんはこう察する。 「この歳になると、大学院で得た学びや友人はとても大事なものだったと思うし、陛下も青春時代を懐かしんでいらっしゃるのではないでしょうか。社会に出ると、仕事上の付き合いや利害が発生する人間関係が増えますが、天皇というお立場であればなおのこと。オックスフォードで過ごした日々は、気の置けない友人と自由に過ごす、最初で最後のかけがえのないものだったことでしょう」  念願の再訪で両陛下に許された時間は、わずか1日。時計の針を巻き戻し、当時の思い出に浸る穏やかなひとときとなることを、願ってやまない。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
天皇皇后両陛下天皇陛下雅子さまオックスフォード
dot. 2024/06/29 11:00
「ボールの縫い目にもこだわってパスをする」 日本屈指の司令塔、女子バスケ町田瑠唯のパス力
吉井妙子 吉井妙子
「ボールの縫い目にもこだわってパスをする」 日本屈指の司令塔、女子バスケ町田瑠唯のパス力
鋭いパスやドリブルで相手を置き去りにする日本屈指の司令塔は、実はシャイで照れ屋(撮影/小黒冴夏)    女子バスケットボール選手、町田瑠唯。今年4月、女子バスケの富士通レッドウェーブが、シーズン優勝を決めた。16年ぶりの優勝に、会場が沸いた。優勝の立役者の一人である町田瑠唯は、東京五輪でも活躍、WNBAのワシントン・ミスティックスでもプレーをした。それでも「シュートを決めてくれるみんなのおかげ」と常に謙虚。人を活かすプレーが、やがて大きな花を咲かせる。 *  *  *  パリオリンピック・パラリンピックの開幕まで1カ月余り。身体と技を極限まで磨き抜いたアスリートたちが、本大会でどんな記録・記憶を残すのか──。3年前、無観客の中で開催された東京五輪は、応援する側にとっても難しい大会だったが、それでも、毎回ヒリヒリするような試合を制し、銀メダルを獲得した女子バスケットボール日本代表の活躍は強く印象に残っている。  4月15日、女子バスケWリーグのプレーオフファイナル第3戦が、東京・武蔵野の森総合スポーツプラザで行われた。シーズンの日本一を決める決勝戦である。長い戦いから勝ち上がってきたのが、富士通レッドウェーブとデンソーアイリス。平日にもかかわらず会場はぎっしり埋まった。富士通には東京五輪で活躍した町田瑠唯(まちだるい・31)、宮澤夕貴(ゆき・31)、林咲希(さき・29)が所属し、デンソーアイリスには高田真希(34)、赤穂ひまわり(25)、馬瓜エブリン(まうり・29)らがいるため、東京五輪の残像を求めるファンも多かった。  拮抗(きっこう)した試合の中で、特に観客の目をくぎ付けにしたのが、コート上の司令塔であるポイントガード(PG)の町田のプレー。東京五輪では準決勝のフランス戦で五輪のアシスト記録18を樹立しただけでなく、大会オールスター5にも選ばれた。Wリーグではアシスト王を7回受賞し、米国のプロリーグWNBAのワシントン・ミスティックスで活躍してきた卓越した技を、この日もいかんなく発揮。  162センチとひと際小柄ながら、相手のディフェンスを巧みなドリブルでスルリとかわし、変幻自在なパスで味方のシュートをアシストする。時には、味方を見ずにパスを送るノールックパスや、素早いレッグスルー(足の間にボールを通して方向転換する技)など、町田が得意とする高度なパスやドリブルを繰り出し、観客席からは「今のプレーはなんだ?」と言わんばかりに、「ウォー!」という歓声が上がった。 高さで劣っても、相手のパワーを逆手にとって流しクイックで攻める。柔道の柔よく剛を制す技に近い。頭脳プレーが多く、最近はシュート数も増えた(撮影/小黒冴夏)   16年ぶりの優勝に涙「みんなの願いが実現した」  激しいつば迫り合いを制したのは富士通だった。試合終了のブザーが鳴った瞬間、16年ぶりの勝利に選手たちは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)。だが町田だけはユニフォームの裾で顔を覆った。東京五輪で銀メダルを獲得したときも照れ笑いを浮かべるだけで、涙はなかった。職人のように淡々と自分のプレーをこなす町田には珍しい感情の乱れである。 「これまで3度決勝戦に進んだけど優勝にはたどり着けなかった。願いが叶(かな)わず引退した先輩たちの顔が次々浮かび、みんなの思いや願いをやっと実現できたと思ったら、感情があふれて……」  その思いは富士通のヘッドコーチでカナダ人のBTテーブス(58)も同じ。富士通で9年、ヘッドコーチを務め、やっと手繰り寄せた勝利である。13年間在籍する町田とは、いわば同志。多くの感情や時間、情報を共有しチームを築き上げた。加えてPGは、コート上の監督と言われるほどチームの戦術・戦略を遂行するポジションでもある。BTが言う。 「僕と瑠唯のバスケ観は似ていると思います。多くの人はパスやドリブルの巧みさに注目していますが、実はディフェンス能力がとても高い。相手の攻撃スペースを瞬時に狭められる。でも瑠唯は目立ちたくない人。背中で引っ張るタイプだったけど、少し変わってきたかな。移籍してきた宮澤や林がいい刺激になっている」  宮澤は21年、林は23年に、Wリーグで圧倒的な強さを誇ったENEOSサンフラワーズから移籍した。もともと富士通は強いチームではあったが、優勝するための何かが欠けていた。そこに東京五輪で活躍したオールラウンダーの宮澤、現日本代表キャプテンの林が加わったことで、富士通は変貌を遂げた。今季のテーマに「オーバーコミュニケーション」を掲げ、練習以外でもとにかくチームメンバーと密にコミュニケーションを取った。そんな中で、町田も自信を感じることができた。 「今シーズンに関しては、自分を信じようとしました。周りが自分を信じてくれているのが伝わってきて、自分も信じなきゃいけないと思ったんです。もしダメでも、周りの人がいるから大丈夫という心のよりどころもありました」 16年ぶりの優勝にチームが沸く。ヘッドコーチのBTテーブスは「良いチームは指導者が優秀、素晴らしいチームは選手それぞれがリーダーシップを取っている。富士通は素晴らしいチームになった」。連覇を目指す(撮影/小黒冴夏)    コミュニケーションが増したチームはがちっと固まり、これまで届かなかった優勝に辿(たど)り着く。  町田はWリーグで毎年のようにアシスト1位を記録し、その実力は誰もが認める。シューターたちは町田のパスは打ちやすい、町田からパスをもらうからこそ確実に決められる、と口を揃(そろ)える。 シュートが打ちやすいようボールの縫い目も気にする  林は代表で初めて町田とプレーした時から、やりやすかったと語る。 「瑠唯さんは自然とこちらがほしいタイミングでパスをくれたり、楽しくバスケができるようなパスをくれるんです。多分、私と瑠唯さんはコート上で考えていることが同じなんだと思います。だから一緒にプレーをするのはすごく心地いい」  町田と林の息の合ったプレーは、今シーズンのリーグでも随所に見受けられたが、真っ先に思い出されるのが東京五輪準々決勝のベルギー戦である。日本女子バスケ初の五輪ベスト4進出を懸ける天王山といってもよかった。  シーソーゲームとなり、83-85と2点リードされ、残すは15秒。万事休すかと思われた。ドライブで切り込んだ町田がシュートを打つ動きに入った。成功すれば同点。だが、町田は予想外の行動に出た。斜め後ろにいた林にパス。町田の意図を汲んだ林は3ポイントシュートを決め、試合終了直前に86-85と逆転勝利。このシーンは多くの人に感動を呼んだ。  この逆転劇を生んだのは、町田が相手にパスを出す位置やボールの強弱だけでなく、ボールの縫い目まで気にする賜物(たまもの)であるとも言える。 「縫い目がそろっているほうがキャッチしやすいし、選手によっては縫い目をそろえて打つ選手もいる。なるべくブレなくシュートが打ちやすいように心がけてパスを出してます。そんな余裕がないときももちろんありますが」  この東京五輪で、町田は世界中のメディアに絶賛された。翌年にWNBAに移籍するきっかけにもなった。しかし五輪後、町田はメディアの前にほとんど姿を現さなかった。 表彰式後、決勝を戦ったデンソーの本川紗奈生と称え合う。高校時代の同級生の本川とは、試合が終われば親友の姿に戻る。オフに食事や旅行を共にすることも。町田はプライベートではよく喋るという(撮影/小黒冴夏)   「自慢できるようなプレーは何一つできなかったし、私がアシスト記録を樹立したのも私のパスをみんなが決めてくれるから。私はみんなに活かされているだけなんです。それに、もともと注目されるのは苦手で」  シャイな性格なせいか、なかなかメディアの前には出ようとしない。 「女子バスケ界には高田(真希)さんや(馬瓜)エブリンなど言葉が巧みな人がいる。バスケの魅力を語るのは彼女たちに任せ、私はコートの中のプレーでバスケの魅力を伝えたい」  そしてこうも言った。 「正直に言うなら、五輪後の注目はプレッシャーでしかなかった。バスケの入り口は私でもいいけど、いずれは他の選手を応援してほしい。女子バスケには魅力的な選手がたくさんいるんです」  他人を活かしてこその自分という信念は、どうも揺るぎそうにない。 小柄で「通用するのか」の声 負けず嫌いではねのける  北海道旭川市で会社員の父・茂典(61)、看護師の母・ルミ(59)の次女に生まれた。兄、姉の3人きょうだい。遊び相手は常に5歳上の兄やその友達。兄がしていた野球を幼稚園の頃から遊びの一つとして始めた。女児と小学校高学年の少年では運動能力が大人と子どもほど違う。それでも町田は懸命に食らいつき、運動神経がメキメキ磨かれた。母は、この頃に負けず嫌いも醸成されたのかも、と笑う。 「家では長男とK-1やプロレスもしていました。技を掛けられても必死に食らいつくんです。負けず嫌いな上に頑固でした」  小学2年、早くも人生の大きな節目を迎える。学校のマラソン大会で優勝すれば野球のスパイクを買ってやると父に言われ、必死に走った。1位になった町田に声をかけた少女がいた。小中高校、そしてWリーグでも共に過ごし、現在は日立ハイテククーガーズでアシスタントコーチを務める高田汐織(31)だ。高田は町田に一緒にバスケットをやらないかと声をかけた。 「兄や私が所属していたチームが、人数が足りず解散しそうになったので、足の速い子を勧誘しろと言われ、町田に声をかけたんです」 ファッションも好きで、自身でブランドを立ち上げた。社長としての顔も持ち、Tシャツなどのデザインも手がける(撮影/小黒冴夏)    バスケをやってみると楽しく、父に「バスケをやる」と告げると、父は即座に娘をスポーツショップに連れていき、バスケ用具一式を買いそろえた。学生時代にバスケ選手だった父は、家ではNBAの中継やビデオを観戦し、マイケル・ジョーダンに心酔していた。嬉々(きき)とする父を見て娘は「もうバスケから逃げられないかも」と覚悟。  父から教えられ、小学生ですでにノールックパスやレッグスルーなどのトリッキーなパスやドリブルを覚えたという。  運動神経や技術が急速に伸びると言われるゴールデンエイジ(9~12歳)の時期に、高度なスキルを磨いたことが後の町田を後押しした。加えて、バスケ日記を書き始め、何ができなかったのか、それはなぜか、どんな課題があるかなど、日々分析しながら文字を綴(つづ)っていると、技術や試合が俯瞰(ふかん)して見えるようになった。バスケ日記は今でも欠かさずつけている。  その一方で身長が138センチしかなかったため、周りからは「バスケ向きではない」「通用しない」との声も届く。そのたびに、負けず嫌いの魂が一層磨かれた。 (文中敬称略)(文・吉井妙子) ※記事の続きはAERA2024年7月1日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2024/06/28 18:00
【祝】沢田研二76歳 「ジュリーは文化だ!」 桑田佳祐や稲葉浩志…藤井風に続く系譜 自分を貫き通して約60年
【祝】沢田研二76歳 「ジュリーは文化だ!」 桑田佳祐や稲葉浩志…藤井風に続く系譜 自分を貫き通して約60年
6月25日に76歳の誕生日を迎えた沢田研二    ジュリーは文化である。冒頭から結論を言う。ジュリーこと沢田研二は昭和の芸能界で老若男女誰もが知るスーパースターであり、76歳になった今も、全国ツアーのチケットが追加公演まで完売する現役アーティストだが、敢えて「文化」であると大きく構えたい。それは、ジュリーのすごさが、ファンが体現する元祖“推し活”の文脈から離れて時代の中で読み解かれ、マスの共通認識として定義づけされないことに常々不満を感じているからだ。  デビューから60年近く歌い続けるジュリーは、その容貌の変化が取り沙汰されたり、長年支持し続けるファンの姿を揶揄(やゆ)気味にモノマネされたりすることはあっても、文化の真正面から論じられることが少な過ぎやしないか。マスメディアは阿久悠、久世光彦らジュリー像の構築に寄与したクリエイターへ捧げるリスペクトに比して、ジュリーを同等に考察してきたといえるだろうか。  75歳にしてバースデーライブが生中継され、名前がSNSのトレンドに上がり、筆者のような新参ファンも日々生み、76歳の誕生日に際しては「何か書け」とライター陣に原稿発注されるほどの存在なのに。 沢田研二を語る良いタイミング  だから、5月14日、朝日新聞のオピニオン面「耕論」で「やっぱりジュリー」と題して音楽評論家のスージー鈴木さん、映画監督の中江裕司さん、ノンフィクションライターの島﨑今日子さんそれぞれの「ジュリー論」が掲載された時は、大げさでなく快哉を叫んだ。  担当したオピニオン編集部の山口宏子記者は、 「ザ・タイガースが再結集した75歳のバースデーライブやBSの特番が話題になり、映画『土を喰らう十二カ月』(2022年)で毎日映画コンクールの男優主演賞を受賞するなど俳優としても改めて注目された。沢田研二を語る良いタイミングだと思った」  と企画のきっかけを話す。  山口さん自身はジュリーの熱烈なファンというわけではない。それでも、 「戦後の大衆文化の世界で、新たな地平を切り開いた圧倒的な存在であることは間違いない。その人物をきちんと考えることは、ファンかどうかは関係なく、新聞の仕事だと考えた」 【あわせて読みたい】 沢田研二が誕生日を迎え76歳に!時代が“スター”ジュリーを求める理由 マイナーなことをメジャーで https://dot.asahi.com/articles/-/226274?page=1    掲載までは少し時間がかかった。人選も難しかった。編集部内には「活動中のアーティストを論じるのは適切なのか」「ピークを過ぎた一歌手にすぎないのでは」といった異論もあったという。 「議論の中で改めて感じたのは、沢田研二の『文化の革新者』である側面が、正当に認識・評価されていないということ。落下傘を背負って歌うといった演出の記憶が強烈で、奇矯なことをしていたパフォーマー、という印象だけを持っている人もいた。でも、その軌跡を追ってゆけば、彼が新しい価値観を生み出してきたことが分かる。例えば男性が化粧をするとか、スター男優同士がメジャー映画でキスシーンを演じるとか、それまでの日本では『とんでもない』と思われていたことを大衆に突き付け、カリスマ性と魅力と表現力で説得してしまった。それは、沢田研二という船が時代の先端を行くクリエーターの才能を乗せて進んだから可能だった。そうしたことはもっと語られるべきだと思った」(山口さん)  そして、こう続ける。 「そうした視点で多角的に取材し、総合的に読み解いたのは、企画にもご登場いただいた島﨑今日子さんの『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』(文藝春秋)がほぼ初めてではないでしょうか」 反原発ソングを発表したときの沢田研二さん=2012年4月   坂本龍一と忌野清志郎より早かった  島﨑さんは「耕論」で、「『ジュリー』を通して、戦後の日本社会を考えることができると思います」と語っている。  1948年生まれの沢田研二は団塊世代だ。はちきれる高度経済成長の空気を胸いっぱいに育ち、数をパワーに新しい文化が次々と生まれた時代。同じ48年生まれは五木ひろし、井上陽水、糸井重里、泉谷しげる、上野千鶴子らだ。 「沢田さんはトップランナーですよね。旧世代を挑発するかのように、化粧したり、女のような扮装をしたり。ショーケン(萩原健一)らと組んだPYGの時にステージでしたキスのまね事なんて、坂本龍一と忌野清志郎より全然早いし、よく比較されるデヴィッド・ボウイと同時期ではないでしょうか。音楽そのものもファッションもステージングも、非常に先駆的だった」  島﨑さんは、そう評する。 【こちらもおすすめ】 【祝】沢田研二が76歳に ファンが選ぶ“後世に残したい究極の一曲”は「とてつもなく美しい」 衝撃の演出の名曲もそろったトップ5 https://dot.asahi.com/articles/-/226195?page=1 再結成コンサートであいさつするザ・タイガースの(左から)岸部一徳さん、瞳みのるさん、岸部四郎さん、沢田研二さん、加橋かつみさん、森本太郎さん=2013年12月27日、東京ドーム 「2023年に亡くなった詩人で小説家の富岡多恵子さんは、『舞台の上で観客にステキだと思わせる〈男〉というのはきわめて女的であり、ステキだと思わせる〈女〉はきわめて男的でステキな〈男〉と〈女〉はほとんど接近している』『そこで行われていることが、舞台から一メートル下の現実にあったとしたら、それらは糾弾され排撃されるにちがいない』というような言葉を残しておられます。富岡さんは1970年代からジュリーのファンだったんですよ」(島﨑さん)  ザ・タイガース時代にはほとんどが女性で占められていたファン層は、ソロになってカラーテレビ全盛期にあらゆる層に広がっていった。だが、それでも当時は男性がジュリーファンだと公言するのは、はばかられる雰囲気があったという。 「背景にはやっぱり男性優位社会のなかで、GS文化に象徴されるような『あれは女子供のもの』という蔑視的なイメージがずっと付きまとっていたことも少なくないでしょう」  と島﨑さんは語る。 「ジュリーが好きだった」と吐露する男性も  そのムードが大きく変わったのが2008年、京セラドーム大阪と東京ドームで開催された還暦記念コンサート「人間60年 ジュリー祭り」のころからだ。  2000年代に入り、テレビ出演を控えるようになっていたにもかかわらず、全80曲をフルバージョンで歌い上げた様子はメディアでも大きく取り上げられ、「ずっとジュリーが好きだった」と吐露する男性も目立つようになる。  ねじめ正一が、 「ゲストもMCも一切なし。スポンサーもなし、メジャー資本もなし。ジュリー祭りはジュリーとお客のためだけのものだ」(「婦人公論」2009年2月7日号)  とその感激を記したことに象徴されるように、自分を貫き通し歌い続ける「沢田研二」の姿そのものに共感するファンも増えていった。桑田佳祐や稲葉浩志、吉井和哉、河村隆一、宮本浩次ら多くのミュージシャンが歌ってきたカバー曲の系譜は、最近では藤井風にも引き継がれている。 【あわせて読みたい】 歌う沢田研二の頬を流れる「涙の一粒一粒がとてつもなく美しい」 スージー鈴木氏が選ぶ珠玉の名場面 https://dot.asahi.com/articles/-/224987?page=1 2008年、沢田研二が還暦を迎えたときに行われたライブ「人間60年・ジュリー祭り」。全80曲を歌い上げた。そして、現在も精力的にライブを続けている  前出の山口さんは、 「ジュリーは日本の大衆文化を語る上で重要なアイコン。でも、沢田さんご本人はいま、音楽以外の表現で自分を語ろうとしない。だから、彼を見てきた人、その音楽を聴いてきた人が時代の中での意義付けや価値を検証し、論評・記録することがとても重要だと思います」  とも指摘する。 失笑買っても、嫌み言われても  島﨑さんもこう見る。 「若いころは、一番でありたいという健全で飾り気のない欲望が大衆に奉仕させたと思う。賢く見せようとか一切思わない人柄」  多くを語らぬ60年近い年月の中でパフォーマンスの形は変容しつつも、一貫して浮かび上がるのは「やり抜く」姿勢だ。どの時代にあっても既成概念を壊しながらステージに立ち続ける。失笑を買っても、嫌味を言われても、非難やアンチのまなざしの中でも歩みを止めない。 「先駆的というのは対抗文化だということ。時代が移り変わっても沢田研二は変わらない。団塊の同世代は『我らがジュリー』と言わざるを得ないし、もう、みんな『ジュリー!』以外に言葉がなくなっちゃうんですよ」(島﨑さん)    * * *  我が家のテレビは「おまかせ」機能で、「沢田研二」がキーワードに設定されている番組はすべて(多分)録画されるようにしてある。毎日録画リストチェックは欠かさない。  2018年9月、樹木希林さんの訃報関連記事の編集作業のために、樹木さんが叫ぶ「ジュリー!」をYouTubeで確認したのがきっかけで、全身を“ジュリー沼”に投じて以来の習慣だ。  その機能がこのところ立て続けに働いた。6月9日は「沢田研二 華麗なる世界 永久保存必至!ヒット曲大全集」(BS-TBS、昨年6月13日の再放送)が録れてホクホクしていたら、19日は映画『幸福(しあわせ)のスイッチ』(NHK-BS)も収穫された。  さすがジュリーのお誕生日月間である。BS-TBSによると「視聴者センターには去年の本放送についての感想やお手紙がいまでも寄せられています。再放送も反響は大きい」(コンテンツ編成局)。半端ないコンテンツ力。  だから、とにかく、沢田研二は文化である。  76歳のお誕生日おめでとうございます! ジュリー! (文中一部敬称略)   (朝日新聞文化部長・渡部薫)   【ファンが選ぶ「究極の一曲」結果はこちら】 ファンが選ぶ“究極の一曲”は「とてつもなく美しい」 名曲そろいのトップ5 https://dot.asahi.com/articles/-/226195 ファンが選ぶ“究極の一曲”は? 「蠱惑的」「男の色香」の名曲が並ぶ6~10位 https://dot.asahi.com/articles/-/226124 ファンに聞いた「究極の一曲」 感動&感涙のコメントであふれた11~15位 https://dot.asahi.com/articles/-/226271 ファンが選ぶ「究極の一曲」 「一番しびれる」名曲も入った16~20位 https://dot.asahi.com/articles/-/226267 【こちらも話題】 ファンが選んだ「究極の一曲」に“納得” スージー鈴木氏の「名曲」は https://dot.asahi.com/articles/-/226378    
沢田研二ジュリーザ・タイガース
dot. 2024/06/27 11:50
子どもの「ネットいじめ」過去最多 いじめるのはジャイアンではなく「しずかちゃん」タイプのワケ
野村昌二 野村昌二
子どもの「ネットいじめ」過去最多 いじめるのはジャイアンではなく「しずかちゃん」タイプのワケ
ネットいじめは閉ざされた空間で行われるため、被害が表面化しづらく、どう防ぐかが課題となっている(写真:Getty Images)    パソコンやスマホを通じた、ネットいじめが増え続けている。背景には、ネット利用の低年齢化や、学校という「集団」の特性などがあるという。AERA 2024年7月1日号より。 *  *  *  きっかけは、「ぬいぐるみ」だった。  小学校6年の女の子は、クラスのリーダーの女子から、クマのぬいぐるみをお土産にもらった。女の子はそのぬいぐるみの写真を撮ってクラスのLINEグループに載せ「このぬいぐるみ、かわいいでしょ?」という意味で、「このぬいぐるみ、かわいくない」と書き込んだ。すると、全員の「既読」がついたが誰からも返事がこなくなった。翌朝、学校に行くと誰も話しかけてこない。リーダーの女子は、女の子以外で別のLINEグループをつくり女の子を追いやった。女の子は孤立し、そのまま不登校になった。 「2012年くらいからスマホの登場によって、ネットでのトラブルはLINEが中心となりました。しかも、LINEは匿名性が担保されないので、仲間外しや無視など陰湿になります」  こう話すのは、公立中学の元教員で子どもとネットの問題に詳しい兵庫県立大学の竹内和雄教授(生徒指導論)。冒頭の話は、竹内教授が実際に聞いた事例だ。  ネット上のいじめが増え続けている。文部科学省の調査では、22年度に認知された小中高などのいじめは計68万1948件。そのうちパソコンやスマホなどを通じた「ネットいじめ」は2万3920件と5年前の約1.9倍で、過去最多を更新した。背景に何があるのか。  竹内教授は、「ネット利用の低年齢化がある」と指摘する。  竹内教授自身も委員として関わった内閣府の「青少年のインターネット利用環境実態調査」では、21年度のネットの利用率は0歳ですでに11.6%、1歳で33.7%、2歳では過半数を超え62.6%になった。親が家事などで忙しい時、子どもにYouTubeなどの動画を見せているからだという。 「スマホの所持率も、前倒ししています。所持率が過半数を超えたのは、19年と20年はいずれも12歳で、前者が55.7%、後者が61.5%。しかし、21年は過半数を超えたのは11歳で61.8%、22年は10歳で61.4%となりました」 AERA 2024年7月1日号より   三つの心理的特性「手段」「集団」「年齢・世代」  いじめるのは、かつてのようにドラえもんのジャイアンのようなガキ大将タイプではなく、しずかちゃんのように清楚な優等生。ネット時代では、ジャイアンのように暴力を振るえばそれを動画に撮られ拡散され、逆にいじめられる。しずかちゃんがLINEなどを駆使し、いじめの頂点に立っていることも珍しくないと竹内教授は言う。 「いじめの動機も、かつてはあの子をいじめたらスカッとする快楽的な理由でした。それが最近は、教育的な動機で『あの子は嘘をつくから』などもっともらしい理由をつけます。そのため親も教師も、いじめと気づかないことさえあります」  社会心理学者で大阪大学の綿村英一郎准教授は、心理的な面から子どもたちの間でネットいじめが起きる背景には三つの特性があるという。  一つ目は、ネットという「手段」の特性。二つ目は、学校という「集団」の特性。三つ目は、子どもという「年齢・世代」の特性だ。 「まず、ネットいじめは、手段として直接手を下すわけでも相手の苦しむ顔を見るわけでもありません。しかも、子どもたちはSNSでの投稿に慣れているので、いつもの投稿の延長のように、匿名でできるため、罪悪感を抱きにくいことがあります」  二つ目の「集団」。これが、子どものネットいじめで最も重要なポイントだという。学校という集団の中で、子どもたちはメンバーが固定されている。社会心理学の言葉で「関係流動性」と言い、子どもたちの世界は村社会のように流動性が低く、このメンバーが嫌だと思ってもすぐに変えることができない。こうした集団では強い同調圧が働き、誰かが誰かをいじめていても「ノー」と言えず、放置してしまう仕組みが生まれる、と。 「そして、今の子どもたちは、常に何かと比較したり比較されたりして、強い評価懸念や承認欲求、自尊心からくる不安を覚えフラストレーションを抱えやすくなっています。その原因を直接解決できなければ、スッキリする手段としてスケープゴートを探すことになります。子どもたちにとっていじめる理由は何でもよく、極端なことを言えばスケープゴートが欲しくてたまらないのです」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2024年7月1日号より抜粋  
AERA 2024/06/26 16:00
【祝】沢田研二、76歳の誕生日 ファンが選ぶ“後世に残したい究極の一曲”は? 「蠱惑的」「男の色香」の名曲が並ぶ10~6位
太田裕子 太田裕子
【祝】沢田研二、76歳の誕生日 ファンが選ぶ“後世に残したい究極の一曲”は? 「蠱惑的」「男の色香」の名曲が並ぶ10~6位
2008年、沢田研二が還暦を迎えたときに行われたライブ「人間60年・ジュリー祭り」。全80曲を歌い上げた。そして、現在も精力的にライブを続けている   沢田研二は6月25日、76歳の誕生日を迎えた。1967年のデビューからステージに立ち続け、今なお新たなファンを獲得している沢田研二。半世紀以上にわたる歌手活動で、500を超える曲を世に送り出してきた。そのなかで、「沢田研二の曲」として後世に伝えるとしたら、どの曲なのか。AERA dot.編集部のアンケートに、熱いファンが選んだ「究極の一曲」は……。10位~6位の集計結果を、熱いコメントとともに発表する(アンケートは6月12~23日、AERA dot.の記事や公式SNSアカウントで実施し、1346人から回答があった)。 *  *  * 【10位 ダーリング】  まずは、76歳のお誕生日をお祝いするファンのこんなコメントから。 「自分が沢田研二さんに沼った歌が『ダーリング』ですので! ちなみに今でも原キーで全曲歌われています。もちろん生歌です。ぶっ続けに! ステージを走り回りステップも踏む! こんなに格好良い75歳……6月25日で76歳になられるなんて信じられないですよ!」(50代・女性)   「ダーリング」(1978年5月21日リリース/作詞:阿久悠 作曲:大野克夫 編曲:船山基紀)は、「勝手にしやがれ」以来5曲目となる、オリコン週間チャートで1位を獲得した曲だ。歌番組「ザ・ベストテン」(TBS系)でも、7週連続で1位を記録している。  後世に残したい理由として挙げられたのは、ほかの歌手とは異なる「色気」「セクシーさ」だ。「『ダーリング』の時からファンになりました」(50代・女性)と、この曲で沢田研二の魅力にハマり、「ジュリー沼」に落ちたという声が寄せられた。 「中学生女子が生まれて初めて感じた男性の色香だったように思います。あまりに蠱惑的で見てはいけないものを見てしまった感覚を覚えたのは、あとにも先にもジュリーしかいません」(60代・女性) 「はっきり言って好きな曲が多すぎて選べないけど、それまでと雰囲気が違う感じが子供心にトキメキました」(50代・女性)    小中学生の女子も虜にした「ダーリング」は確かに沢田研二にしかない楽曲で、後世に残したいという理由もうなずける。   【9位 ス・ト・リ・ッ・パ・ー】 「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」 撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋  9位の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(1981年9月21日リリース/作詞:三浦徳子 作曲:沢田研二)が選ばれた理由はズバリ、「単純にカッコいいから」(70代・女性)。端的に“カッコいい”のひと言が多く並んだ。 【こちらも話題】 歌う沢田研二の頬を流れる「涙の一粒一粒がとてつもなく美しい」 スージー鈴木氏が選ぶ珠玉の名場面 https://dot.asahi.com/articles/-/224987 「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」の作曲がジュリー本人で、当時流行していたアメリカ・ニューヨークロングアイランド出身のバンド「ストレイ・キャッツ」に代表されるネオ・ロカビリーを取り入れたといわれている。イントロのズンズン響くベースの音だけでも胸躍るサウンドで、いま聴いても本当にカッコいい。   「JULIE作曲のRock!!最高にカッコいい!!」(50代・女性) 「曲調が素晴らしい」(60代・男性) 「前奏だけで、ドキドキが止まらない。ジュリーの作曲」(50代・女性)    この曲を後世に残したい理由に理屈なんかいらない、カッコいいんだから――という声が飛び交っているようだ。   【8位 危険なふたり】 「危険なふたり」 撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋   「危険なふたり」(1973年4月21日リリース/作詞:安井かずみ 作曲:加瀬邦彦 編曲:東海林修)が8位にランクイン。  沢田研二がソロ曲で初めてオリコン1位を獲得した楽曲だけあって、「この曲」というコメントが多かった。第4回日本歌謡大賞で大賞、第15回日本レコード大賞は大衆賞、第6回日本有線大賞では歌唱賞を受賞しており、沢田研二の人気を一気に加速させる一曲だったに違いない。 「ザ・タイガースの頃からジュリーは好きだったけど、この曲で改めて好きになった。子供心に色気を感じる楽曲だったなぁ……」(60代・女性) 「初めてジュリーを知った曲。ライブで歌ってくれたら間違いなく泣いてしまう」(60代・男性) 「この曲でジュリーのファンになりました。それまでの男性歌手で色気のある人はいませんでした。男らしいとか、グッとくるという魅力でしたが ジュリーは色っぽくてキュンとくるとろけるような表現が出来る稀有な存在です。まるで白黒からカラーに変わったようでした。衣装を含めた外見、しぐさや振り付け、歌のうまさ・表現力 まさに総合芸術です。これ以上の歌手はこれからも出そうにないので伝えるべきです!!」(60代・女性)    ファンに“白黒からカラーに変わった”と言わしめる魅力の強烈さは、後世に残したいのも納得だ。   【7位 LOVE(抱きしめたい)】   「LOVE(抱きしめたい)」 撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋    25枚目のシングル「LOVE (抱きしめたい)」(1978年9月10日リリース/作詞:阿久悠 作曲:大野克夫)は、沢田研二が甘く伸びのある声で「抱きしめたい」と4回ささやく歌詞から始まる楽曲。「好きに理由はございません」(70代・女性)という声も。 【こちらも話題】 沢田研二はよく飲みよく食べ…瞳みのるのライブは「かけがえのない仲間」とリハから打ち上げまで 森本タローも参加 https://dot.asahi.com/articles/-/218124   「この語りながらの歌は最高に痺れます」(60代・女性) 「歌唱力抜群! 容姿完璧! 勝るもの無し!」(60代・女性) 「一番ジュリーのよさを表せていると思うから」(50代・女性) 「究極のバラードナンバー。ジュリーにしか出せない色気と絶望は後世には残すべき究極の一曲」(50代・男性)   “究極”という言葉があるが、「LOVE (抱きしめたい)」には、沢田研二にしか出せない世界観があふれている。 「この曲で、映画のシーンのようなジュリーの歌唱に涙が溢れます。よくカバーをされてますが、申し訳ないけど、ジュリーのものです! ジュリー以外は受け入れません」(60代・女性)    誰のものでもない、沢田研二のものだからこそ、「後世に残したい」と選ばれるのだろう。   【6位 君をのせて】 「君をのせて」 撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト 新橋 「君をのせて」(1971年11月1日/作詞:岩谷時子 作曲:宮川泰 編曲:青木望)は、ソロデビューシングルだけに、ファンの思いが強い曲と言えそうだ。  今回は6位だったが、AERA dot.編集部が「沢田研二・ジュリーの好きな曲」として今年3月に実施したアンケートの結果では、3位にこの曲がランキングされている。  10位の「ダーリング」や9位の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」といった派手な曲とは異なり、「君をのせて」はまるで沢田研二から語りかけられているような楽曲。「ジュリーの声がせつなすぎて聴いても歌っても何故か泣けてきます」(70代・男性)とあるように、ファンにとって宝物のような一曲になっているのだろう。   「本当は1曲は選べないのだけれど、シングル曲で選ぶならソロで初めてだし、本当に難しい歌だと思うのにあの伸びやかな声が美しいから」(60代・女性) 「ソロデビュー曲!優しそうな前奏を聴くと当時を思い出す癒される一曲!」(60代・女性) 「ソロとしてスタート ジュリーの良い味が出ている 若者にも聞いてほしい」(70代・男性)   「一曲を選べない」という声がたくさん上がった今回のアンケートだったが、あなたが「後世に残したい」と思う一曲は、ランクインしていただろうか。  そして最も多くのファンが選んだ、後世に残したい「究極の1曲」は――?  (AERA dot.編集部・太田裕子)   【こちらも話題】 ジュリー・沢田研二の好きな曲【2000人アンケート】「退廃的な雰囲気」「小5でイチコロに」2位はレコード大賞曲、1位は? https://dot.asahi.com/articles/-/218111
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dot. 2024/06/25 06:00
「ゴルフ笹生選手のメジャー2勝目 ワンオンねらった終盤のチャレンジに脱帽」ローソン社長・竹増貞信
竹増貞信 竹増貞信
「ゴルフ笹生選手のメジャー2勝目 ワンオンねらった終盤のチャレンジに脱帽」ローソン社長・竹増貞信
竹増貞信/2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長   「コンビニ百里の道をゆく」は、54歳のローソン社長、竹増貞信さんの連載です。経営者のあり方やコンビニの今後について模索する日々をつづります。 *  *  *  すばらしい快挙でした。ゴルフの笹生優花選手が、全米女子オープンで3年ぶり2度目の優勝を果たしました。日本勢のメジャー大会2勝は、男女を通じて初とのこと。  大学時代にゴルフ部だった私も生中継で見ていましたが、その勝ち方もすごかった。終盤、残り数ホールで、2打差で首位だった笹生さん。ここで思い切りスプーン(3番ウッド)を振り抜けばワンオンしてまたスコアを伸ばせる。でも失敗したときは、痛い見返りもあるかも……そんな場面がありました。  大きな一発を狙わずにここは堅く守りの姿勢でスコアを守る。そんな選択肢もあったはずです。でも顔色も変えずにスプーンを振り抜き、堂々と勝利を手にしました。  皆が「そこ、チャレンジする?」と驚くような場面でも、平然とやりきってしまう。心身ともに研鑽を積み重ねてきた結果だったと思いますし、すごい選手が出てきたなという思いを新たにしました。  前回、同じ全米オープンで優勝した時はフィリピン国籍。その後20歳で日本国籍を取得し、試合後のインタビューでは、「前回は母の出身国のフィリピン代表として、今回は父の出身国の日本代表として優勝できた。今回の優勝は父に捧げたい」と涙ながらに語っている姿を見て、一人の人間としても素晴らしいなと深く心に残りました。 ゴルフの全米女子オープンで優勝した笹生優花選手(写真:AP/アフロ)    いよいよ次はパリ五輪。ぜひ金メダルを取って、次は「自分へのご褒美」と言える結果になればいいなと、心から期待しています。  もっと先の将来を見すえれば、ジャック・ニクラウスやタイガー・ウッズ、女子ではアニカ・ソレンスタムのような往年の名選手に肩を並べるような、そして世界のメジャータイトルを総なめにするような、そんな名選手に成長してほしい。楽しみな気持ちとともに、これからも応援したいと思います。 ◎竹増貞信(たけます・さだのぶ)/1969年、大阪府生まれ。大阪大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長 ※AERA 2024年7月1日号
竹増貞信
AERA 2024/06/24 16:00
大学で教壇に立つ元日テレ報道キャスター・小西美穂「学ぶ楽しさを伝え、人生の背中を押してあげたい」
大学で教壇に立つ元日テレ報道キャスター・小西美穂「学ぶ楽しさを伝え、人生の背中を押してあげたい」
講義終了後、学生に協力してもらって撮影を行った。取材の現場も学びだ(写真:楠本涼)    関西学院大学総合政策学部特別客員教授、小西美穂。日が当たらないことでもテレビなら応援できると思った小西美穂は、大阪の読売テレビに就職。事件や司法を担当した。人一番努力しないと認めてもらえないと、休む間も惜しんで取材。数々のスクープを報じ、話題のドキュメンタリーを作った。異例の出向で日本テレビへ。キャスターとして活躍した後は、50歳で大学院で学び、現在は大学でも教鞭を執る。 *  *  * 関西学院大学神戸三田キャンパスⅡ号館201教室の前では、学生が長い行列を作っていた。2限の講義「テレビ報道論」が、まもなく始まろうとしているのだ。担当するのは、小西美穂(こにしみほ・55)。広々とした大教室がどんどん埋まっていく。24年度の履修者は396名。他学部からわざわざ聴講に来る学生もいる。小西は、開始時間が迫ると声を張り上げて着席を誘導していった。講義に向かうワクワク感、高揚感が伝わってくる。 「学ぶことの楽しさを、学生に知ってほしいんです。知的好奇心を喚起してあげて、人生の背中を少しでも押してあげたい」  長くテレビの世界で生きてきたが、52歳でテレビ局を退職。大学で教える仕事をスタートさせた。 「オワコンと呼ばれるテレビが、果たして学生たちからどう見えるのか。とても関心がありました」  しかし、小西が教壇に立つことになった22年、驚くべき事態が起きた。履修者が810名を数えたのだ。637名定員の大教室に入りきらなかった学生は、別の教室からオンラインでつないで小西の講義を聴くという異例の事態となった。 「うれしかったです。今や誰でも情報発信できる時代。メディアがいかにシビアに丁寧に事実と向き合ってきたか、未来を作る若者に伝えたいという思いがありました。そうしたら彼らは知らなかったと驚いてくれ、メディアに感謝もしてくれて」  革ジャンに身を包んだ教壇上の小西には、テレビ番組出演時のような温和さはない。スライドを見ながら学生に語りかける表情は厳しい。私語ができる雰囲気はなく、居眠りも許さない。時には後ろの席まで歩いていき、緊張感を高める。関西学院大学総合政策学部長、長峯純一(66)は語る。 講義で発する言葉、立ち位置、表情などは、すべて意図的にコントロールしている。「リラックスするところ、引き締めて記憶にとどめてもらうところがある」というテレビ番組の構成も意識している(写真:楠本涼)   「記録的な数の学生が集まりましたから、心配して様子を見に行ったこともありました。ところが、学生を騒がせることなく、関心を見事に引きつけて授業をコントロールされていた。なかなかできることではない。大したものだな、と思いました」 練習方法も分からず 手探りでラクロスを学ぶ  この日のテーマは、ニュースとは何か。使ったスライドは59枚。毎回の講義の後、数百枚に及ぶレポートすべてに目を通す。自らの過去の経験、50歳で通い始めた大学院での体系的な学び。まさに小西のすべてが詰まった、熱い講義なのだ。  兵庫県神戸市に生まれた。2歳のとき、家族で加古川に移り住む。父はのちに祖父の家業の米穀店を継いだ。祖父は死ぬ間際まで頼山陽の『日本外史』を手放さない勉強家だった。父からは「学び続けなさい。学びが人生の道を拓(ひら)くのだ」と言われて育った。父が学んだ県立校から、関西学院大学文学部へ。だが、華やかな私学のキャンパスで、打ち込めるものは見つけられなかった。 「テニスサークルに入ってみたんですが、私がいてもいなくてもこのサークルは進んでいくんだな、と思ったら、一気に興味をなくしてしまって」  何かに行き詰まったら、学びに行く。父の教えを思い出し、英語通訳の専門学校に通い始めた。ラクロスを知ったのは、大学2年生の5月。同じクラスだった男子学生が、棒の先に網がついたスティックを持って授業に現れる。「それ、なんなん?」と話しかけると、彼は関学でできたばかりのラクロス部に入部したと言う。日本ではまだ知られていなかったスポーツ。興味があるならマネージャーをやらないかと誘われたが、どうせなら選手としてやってみたいと思った。そんな談笑をしている最中、偶然にものちに顧問となる先生から、「女子のラクロス部を作らないか」と言われた。先生の研究室で、アメリカのラクロスの試合をビデオで見たときの衝撃を今も覚えている。 「華やかなタータンチェックの巻きスカートにポロシャツを着て、空中ホッケーみたいなことをしている姿が映って。可愛(かわい)らしいんですが、エネルギッシュなんです。これだ、と思いました」 大学2年で立ち上げたラクロス部は人生を変えた。当時の思い出の品々は今も大事に保管している。カナダ人コーチにもらった言葉「Hard Work Pays Off(頑張っただけ報われる)」は折々に感じた(写真:楠本涼)    まずは手当たり次第に友人、知人に声をかけると少しずつ人が集まってくれた。競技用の道具は海外から取り寄せたが、ルールも練習方法も分からず手探り状態。練習場所は石がゴロゴロした河川敷しかなかった。メンバーを増やすために、競技の写真を貼った手書きのラクロス部の募集ビラを作成、ユニフォームを着て、関学だけでなくそれ以外の大学の前でも配った。海外からラクロスのルールブックも取り寄せた。説明はすべて英語だったが、小西が自ら内容を翻訳し、仲間に伝え、効果的な練習方法を探っていった。外国人のコーチが来ると聞くと滞在をサポートし、宿泊先として実家を提供した。本場の練習や試合を見てみたいとカナダにも渡った。ところがカナダ人との練習中、小西は初日に鼻の骨を折る大怪我(けが)をしてしまう。このとき、通訳も兼ねて同行していたのが、草創期のメンバーだった瀧川裕子(54)だ。 「大量の鼻血が出て、もうびっくりでしたが、次の日からは顔を覆うフェイスガードをして練習に出ていました。うまい人とプレーできる、せっかくの機会。時間がもったいない、と。ラクロスに対しての情熱は、本当に強かったです」 弁護士の大平光代と出会い 極秘で1年密着取材  練習、戦術の研究、合宿、新たな部員の勧誘、他大学の指導、スポンサー探し……。スケジュール帳は真っ黒になった。小西はいう。 「今日、何かやれば、違う明日が来る。なるほど、そうなのか、と実感しました」  部員は3年後には100名を超える規模になった。後に小西は日本代表選手にも選ばれた。  就職先としてテレビ局を選んだのは、その影響力を実感したからだ。大学4年のとき、日本テレビの夜のニュース番組が、ラクロス普及の活動について取り上げてくれた。後にラクロスをやってみたいという声が、各地で広がったことを知った。 「マイナーなスポーツもそうですが、日が当たらないけれど一生懸命頑張っている人がいる。それをテレビの力で応援できるんじゃないか、と」 関西在住のラクロス仲間たちと年に数回集まる。創設当時の同期や後輩たちで30年以上の付き合いとなる。メンバーは、大学も年次もバラバラだ。昔話から最近の話まで、笑い声が絶えなかった(写真:楠本涼)    女性の総合職採用が始まったばかりの大阪の読売テレビに入社。最初は人事部に配属されるも現場を希望。2年目に大阪府警記者クラブへ。強盗、殺人、放火などを担う捜査一課担当は社内で女性初だった。夜討ち朝駆けの日々が始まる。官舎に夜回りに行くと、入り口の電灯の下で複数の男性記者がタバコを吸っていた。近づける雰囲気はなく、自転車置き場で一人待っていたら、年配の男性記者に声をかけられた。「お嬢ちゃん、何しに来たんや。お父さんお母さん待っとうで。はよ帰り」。なんとか「取材に来たんです」と返した。 「女性というだけでとにかく目立つわけです。これは、よほどの結果を出さないと認めてもらえないと思いました。だったら人一倍努力しよう、と」  とことん周辺を取材した。他の記者が行かなくなっても現場に顔を出した。捜査関係者が通うパチンコ店で話を聞こうと隣に座って声をかけたこともある。捜査関係者が出入りする食堂があると聞くと、入店して耳を澄ませた。できることは、あらゆることをやろうと思った。  捜査一課担当後、社内で女性初の司法記者クラブ所属の検察担当になった。夜回り朝回りの寝る間もない忙しさ。日中少しだけ時間が空き、裁判所のトイレで座って眠ったこともあった。ほとんどの時間を取材に使い、昼食も惜しんで関係者に会った。泊まり勤務の夜は新聞のスクラップ作りに使った。あるとき司法関係者に声をかけられた。 「あなた、よく頑張ってるね。実は弁護士で変わった経歴の女性がいる。紹介しようか」  それが、大平光代だった。会って話を聞いた。壮絶ないじめを苦に自殺をはかり、非行に走って16歳で暴力団組長の妻となった。しかし人生を立て直し、猛勉強の末に弁護士になったという。そのときは話を聞いただけで別れたが、この人の生きざまは多くの人に勇気を与えられると思った。小西はドキュメンタリーを撮りたい、と手紙を書く。最初は断られたものの、あきらめずに連絡を取り続けた。するとある日、自分のことを書いてくれないか、と大平から話がきた。鑑別所に行って「昔、君と同じように悪さをしていたんだ」と自分の過去を話しても信じてもらえない。だから見せられるものが欲しい、と。だが、小西は書くプロではない。ドキュメンタリーなら最高のスタッフを集められる。映像を先に作り、そのあと書籍を作るのはどうかと伝えたら提案を受け入れてもらえた。極秘の密着撮影が始まる。1年間の取材を凝縮した25分間の映像は大きな反響を呼んだ。 読売テレビが制作する番組「情報ライブ ミヤネ屋」では水曜日のコメンテーターを務める。最新情報が次々に飛び込んでくることもある。瞬時に自分らしさのあるコメントが求められる仕事だ(写真=楠本涼)   「一番うれしかったのは、30代の主婦の女性から、自殺をしようと思ったけど思いとどまりました、というお手紙をいただいたことでした」 日本テレビへ異例の出向 キャスターに抜擢される  放送を見た出版社から、出版企画書が山のように届いた。その中から、2人が選んだのは児童文学の編集者からの提案だった。大平が、子どもたちの立ち直りのために力になりたいと考えていたからだ。著書『だから、あなたも生きぬいて』は、250万部を超えるベストセラーになった。  その放送から1年後、小西が32歳のとき、海外特派員としてロンドン赴任の話が来る。当時、海外特派員は既婚男性が行くのが通例。憧れていたものの、さすがにないだろうと諦めていたが、社内で女性初の特派員として声がかかったのだ。  行ったものの最初は、大きなニュースには声がかからない。焦りを覚えながらも、自分にしかできない小さなニュースをコツコツと出し続けた。声がかかれば現場にいけるように常に態勢を整え、挑む姿勢を貫いた。2004年、イラク復興支援の現地取材に抜擢(ばってき)された。銃声の響く危険な地域で自衛隊が現地でどう役に立っているか、ヘルメットを被り、防弾チョッキを着て取材した。緊迫感と恐怖とともに、自分の目や耳で感じたことは、その後の仕事にも生きている。 「偉くなりたいとか、何かになりたいとか、そういう思いはまったくありませんでした。見聞を広め、多くの人に伝えたい。それだけでしたね」  帰国後、意外な辞令がやってきた。日本テレビへの出向。キー局への出向は異例だった。政治部に配属されて2年目、夕方のニュース番組「ニュースプラス1」内の討論コーナーのキャスターに選ばれる。抜擢した当時の報道局プロデューサー、BS日本顧問の中山良夫は語る。 「当時、日本テレビには報道局が作るような討論番組がなかった。討論は予定調和ではつまらないんですよ。それだけにキャスターが重要になる。混乱してガチャガチャにしてくれる、でも乱れたりはしない。そんな人物を探していたんです」 講義が始まる前、ギリギリまで使用するスライドを精査していた。情報を使い回すことはほとんどなく、常に最新情報を盛り込むことを意識している(写真:楠本涼)    ローカル局出身で政治部の経験も浅い記者に、生放送もある討論を任せようというのだから、中山の大胆さは並外れだ。しかし、中山の動物的な勘を小西も大胆に引き受けた。「わからないことはわからないと答えればいい。聞いたことに答えていないと思ったら答えてませんと言えばいい」。中山のアドバイス通りに番組を推し進めたら、あの生意気な女性キャスターはなんだと、抗議の電話やメールが殺到した。厳しい言葉に小西は堪えた。だが、中山の感触は違った。何か心に引っかかったから、視聴者は反応したのだ。翌年、小西は夕方のニュース番組「NEWSリアルタイム」のサブキャスターを任される。 番組終了後に人生が暗転 自分磨きに目覚める  充実した日々だった。とりわけ、40歳の誕生日は華やかだった。20人ほどの仲間が集まり、レストランで祝ってもらった。だが、その後、番組終了が決まると人生は暗転する。「私は本当に必要とされているのか」と不安に襲われ、たびたび東京の街を彷徨(さまよ)った。関西では馴染(なじ)みの深い大丸によく行った。書店で自己啓発の本を買いあさった。ある日、アクセサリーショップで女性に声をかけられた。大学時代に小西からラクロスを教わったことがあるという。アクセサリーを見立ててもらい、後にメイクの仕方やファッションも教わった。 「行き詰まったら、学びに行く。そうか、こういう学びもありだな、とスイッチが入って」  美容やファッションなど、自分磨きを始めた。変化の様子を見ていたのが、番組を通して親しくなったスポーツキャスターの陣内貴美子(60)だ。ある日、陣内が誘ったレストランに行くと、小西が客の男性を見て「かっこいいね」と言う。 「それで私が、年を聞いてきてあげようか、と。ずいぶん年下だったので、これはないかな、と思っていたら、ゴルフをきっかけに二人で会うようになっていって」(陣内)  43歳で結婚。その8カ月後、3年半メインキャスターを務めることになる番組「深層NEWS」が始まる。政治、経済、医療などのテーマについて、政治家や文化人など、その道のキーパーソンを招いてニュースを深掘りしていく。しかも1時間の生放送。高度な進行技術が問われた。終了後のスタッフ会議では、容赦ない注意や指摘が飛んだ。ゲストにもっといい質問ができたはず。なぜあのとき、あんな切り返しをしたのか。いいゲストを招いても司会者がダメならどうしようもない……。集中砲火を浴びる日々。苦しかった。会社に行く途中、涙が止まらなくなることもあった。オンエア前にも、顔が紅潮したり、おなかが痛くなったり。だが、医師を頼り、体のメンテナンスを行うことで気持ちも落ち着くようになった。しゃべりを基礎から学ぼうと「日テレ学院」にも通った。その後、47歳で防衛省担当記者になり、半年後に夕方のニュース番組へ。ここからまた、むくむくと学びへの思いが押し寄せてくる。 「私は成長を感じなくなると、自信がなくなったり、焦りが生まれてくることがわかったんです。だから、これはインプットが必要だな、と」  50歳で小西は早稲田大学大学院に入学。テーマに選んだのはジェンダーと政治。討論番組でも、やって来る政治家や専門家は男性ばかりで、小西だけが女性ということが多々あった。政治の世界での男女比もいびつ。こうした問題を体系的に学びたい、ジャーナリズムとしての報道の在り方を考えたいと思った。忙しい合間を縫って講義に通った。長い時間をかけて議論された研究者の深い知見に改めて驚いた。目の前のニュースばかり追いかけてきた視野が一気に広がった。仕事以外の時間のほぼすべてを勉強にあてた。休日もなかった。入学前、ある年上の女性に投げられた言葉が忘れられなかった。「大学院? プロフィールの1行になるだけで何もならないことを今さらやってどうするの」。腹が立った。学びこそが人生を拓く。父の教えを思い出した。 「自分の可能性は誰かに決めつけられるものじゃないですよね。そこに蓋(ふた)をしたくなかった」  大学時代に出会った1冊の本がある。千葉敦子の『若いあなたへ!』。あなたは何にだってなれる。忘れられない言葉が詰まっていた。 「もう十分じゃない。どうしてまたチャレンジするの。そんな声が聞こえてくることがあります。でも、私にはぜんぜん十分じゃないんです。だって、大事なことは今だから。人の輝きって、今、何をしているかにあると思うから」  年齢なんて単なる数字でしかない。それよりも今、一歩を踏み出したとき、目の前に広がる景色を大事にしたい。そこにこそ、人生はあるから。 (文中敬称略)(文・上阪徹) ※AERA 2024年6月24日号
現代の肖像
AERA 2024/06/21 18:00
小学生のムダ毛、「脱毛したい」と言われたらどうしたらいい? 皮膚科医に聞く、気持ちの受け止め方と脱毛方法
小学生のムダ毛、「脱毛したい」と言われたらどうしたらいい? 皮膚科医に聞く、気持ちの受け止め方と脱毛方法
(写真はイメージ/GettyImages)   ムダ毛を気にする小中学生が増え、さらに低年齢化しています。小学生でもムダ毛を処理していいのか、適切に処理するにはどうしたらいいのか、慶應義塾大学病院皮膚科専任講師で、子どもの医療脱毛などに詳しい大内健嗣(たけし)医師に聞きました。 ――体毛の濃さは遺伝するのでしょうか?  男女関係なく、親の体毛が濃ければ子どもも濃くなる可能性が高いです。ただし、体毛の濃さはホルモンの影響を受けます。特に小学校高学年から中学生くらいの女子は、ホルモンの影響で一時的に体毛が濃くなることがあります。両親ともに体毛が濃くない場合は、第二次性徴が終わると徐々に薄くなっていく傾向があります。 ――子どもから「ムダ毛が気になる」「脱毛したい」と言われたら、どうすればいいですか?  大事なのは、「ムダ毛があるのは当たり前のことだから」などと言って、子どもからの相談を軽んじないことです。保護者世代が小学生だったころの常識と今の小学生の常識は違います。本人は気にしているわけですから、軽くあしらわれてしまうと「自分のことを大事に思ってくれていない」と感じてしまうかもしれません。「いずれ薄くなるかも」と言われても、本人は“今”気にしているわけですから、悩みが解決するわけではないのです。親に隠れて自己流で処理してしまい、肌を傷つけてしまうことも考えられます。  まずは、この記事のような脱毛に関する情報を本人に見せる、かかりつけの皮膚科で相談するなど、保護者の考えだけを伝えるのではなく、客観的な意見を聞いて親子で考えることが大事だと思います。 ――子どものムダ毛処理には、どの方法が向いていますか?  ムダ毛を処理する方法には、大きく分けて医療機関やエステサロンで脱毛する方法と自分で処理するホームケアがあります。医療機関でのレーザー脱毛は、治療を繰り返す必要はありますが、脱毛が完了すれば、その後は基本的には生えてきません。ただし、女子の場合、生理が始まる前に脱毛すると、ホルモンの関係で再び生えてきてしまうことがあります。  また、脱毛をするには繰り返し通院する、治療で痛みを感じることもあるといったことを理解したうえで、自分で治療を受けるかどうかを決めることが大事です。そうした点から考えると、低学年のうちは「ホームケア」が向いているといえます。 ――家で子どものムダ毛を処理する場合、どの方法がいいですか?  電気シェーバーがおすすめです。産毛も剃(そ)れるような顔用のタイプは、比較的肌にやさしく、安全にできるのでトラブルが起きにくいと思います。カミソリでもいいですが、刃こぼれしやすく、そのまま使用すると皮膚を傷つけてしまうことがあるので注意が必要です。  毛抜きで抜くのは、おすすめできません。毛穴が炎症を起こしてニキビができることがあるからです。除毛クリームは毛を構成するたんぱく質を溶かすことで除毛する仕組みですが、繰り返すと肌に負担がかかることが考えられます。 ――自宅にある家庭用脱毛器を子どもに使ってもいいですか?  家庭用脱毛器はエステサロンでの脱毛と同じ仕組みで、光を利用して発毛を抑えたり、減毛したりする方法です。商品によって「18歳未満は使用不可」などと説明書に注意書きがあるようです。そもそも脱毛とは、毛を剃ったり抜いたりする処理と違って、毛の組織を破壊する医療行為です。その点を十分に理解して、子どもへの使用は慎重にすべきだと思います。 ――毛を剃る場合、どんなことに注意すればいいですか?  剃る前は、蒸しタオルなどで温めると、毛がやわらかくなって刃が引っかからず、肌を傷つけにくくなります。また、毛を剃ると、水分を保持している皮膚表面の角質層も削ることになるので、剃ったあとは保湿剤を塗ってケアしましょう。  また、電気シェーバーでも刃こぼれしていたら、刃を交換すること。刃の間に汚れがたまっているといった場合も同様です。切れ味が悪い刃、不衛生な刃で剃ると、炎症を起こすなど皮膚トラブルが発生しやすくなります。 ――ホームケアの場合、何歳からできますか?  本人が気にしているのであれば、低年齢でも処理してあげていいと思います。ただし、保護者が行うこと、また本人が気にしていないのであれば親の意向だけでやらないことが大事です。  思春期前の子どもの皮膚は乾燥している傾向があります。皮膚がかさついていると刃が引っかかって肌を傷つけてしまうことがあるので、処理をする数日前から特にしっかり保湿をしておくのがおすすめです。 大内健嗣医師の取材をもとに編集部で作成 (構成/中寺暁子) 大内健嗣医師 ○大内健嗣(おおうちたけし)医師/慶應義塾大学病院皮膚科専任講師。2003年、慶應義塾大学医学部卒。静岡市立清水病院皮膚科、北里研究所病院皮膚科、米国国立衛生研究所(NIH)訪問研究員、慶應義塾大学医学部皮膚科助教などを経て現職。レーザー外来の主任を務める。専門は皮膚全般、レーザー治療。日本皮膚科学会認定皮膚科専門医、同学会認定美容皮膚科・レーザー指導専門医。
ムダ毛脱毛子どもの健康
AERA with Kids+ 2024/06/20 07:00
JR東日本「JRE BANK」申し込み殺到の人気ぶり トクするのはどんな人?特典フル活用は高いハードル 
JR東日本「JRE BANK」申し込み殺到の人気ぶり トクするのはどんな人?特典フル活用は高いハードル 
Getty Images  JR東日本が、デジタル金融サービス「JRE BANK」を5月9日からスタートした。なぜ、JRが銀行業に進出?とやや違和感を覚える向きもあったが、発表と同時に大きな反響を呼んだのは、その特典の豪華さだ。条件を満たせば、4割引きの「優待割引券」やグリーン車を無料で利用できる「Suicaグリーン券」などがもらえる。JR東日本でしかできない独自のおトクな特典に注目が集まったわけだ。 申し込み殺到で、口座開設サイトが異例のキャパオーバー  筆者もこの「JRE BANK」のサービスに大注目していた一人だ。サービススタート当日の5月9日夜10時頃、早速サイトを訪れたところ、「本日の受け付けは終了しました。5月10日午前1時以降にお申し込みください」という内容のメッセージが出ているではないか。銀行口座を開設するのに、申し込みが殺到してサイトがパンクするのを初めて目にして、その人気ぶりに心底驚いてしまった。  結局、5月20日を過ぎてから口座開設をしたが、デジタルに弱い筆者でも3分ほどで無事口座開設が終了するほど簡単だった。ただし、口座にログインするために必要な仮IDが記入されている「Thank Youレター」を受け取るのに、通常1週間のところ、1カ月以上かかるという。筆者が口座にログインする頃には、7月の声を聞いてしまうかもしれない(※6月13日に到着しました)。 JR東日本ならではの3大特典。モバイルSuicaが必須  人気の理由となったJR東日本の事業領域を生かした3大特典の内容を見てみよう。  まずは「JRE BANK優待割引券(4割引き)」だ。割引券1枚でJR東日本営業路線内の片道運賃および片道料金が4割引きになる。年間2回の判定で、年最大10枚プレゼントされる。  割引券の有効期間は6カ月。えきねっと割引やほかの割引との併用はできない。利用は本人のみならず、家族での利用が可能だ。申し込みは「えきねっと」経由のみで適用される。   例えば、家族4人(大人2人+小学生子ども2人)で品川から仙台に行く場合を考えよう。 ※品川→仙台(大人:通常期はやぶさ利用、新幹線利用区間東京~仙台) 運賃6050円+特急料金5360円=1万1410円 →4割引きで6840円 ※品川→仙台(子ども:通常期はやぶさ利用、新幹線利用区間東京~仙台) 運賃3020円+特急料金2680円=5700円 →4割引きで3410円  本来であれば家族4人で片道3万4220円かかるところが、2万500円で済み、1万3720円もトクになる。  次に「どこかにビューーン!2,000ポイント割引クーポン」だ。「どこかにビューーン!」はJRE POINT 5000ポイントあるいは6000ポイントで、新幹線停車駅47カ所からランダムに選ばれた4つの駅の「どこか」に行けるサービス(出発は7駅から選択)。旅行好きの間では、日帰りでブラリとどこかに行こうかと思った時などに、交通費が超割安になるとひそかな人気サービスだ。これが2000ポイント割引きで利用できる。つまり、東京駅からだと6000ポイントで、様々な駅を往復できるが、これが4000ポイント、つまり4000円相当で行けることになる。年間4回の判定で、最大年12枚プレゼントされ、有効期間は6カ月だ。  なお、利用するには「JRE BANK」と「JRE POINT」「えきねっと」の連携が必要になる。  最後に「(モバイルSuica限定)Suicaグリーン券」だ。普通列車グリーン車を無料で利用できるもので、年間4回の判定で、最大年4枚プレゼントされる。こちらは有効期間3カ月。グリーン車料金のみが無料となり、通常運賃はかかる。利用には、「モバイルSuica」と「JRE POINT」の登録が必要となる。  このほかにも、対象ホテルでの特典サービス、高速バス無料クーポンプレゼントや、JR東日本グループの各サービスでの割引やクーポン提供などを受けられる。 特典フル獲得のハードルは高い  このJR東日本ならではの特典を受けるためには、もちろん条件がある。  まず必ずクリアしなければならないのが資産残高だ。判定バーは2つあり、「50万円以上」もしくは「300万円以上」だ。50万円以上と300万円以上で特典プレゼントの枚数が違う。 これにプラスして、「ビューカードの利用代金の引き落とし」あるいは「給与・賞与・年金の受け取り」が条件となっている。これは、どちらかをクリアすればよく、両方をクリアすると、プレゼントされる特典枚数が増える。  どの条件をクリアすると、何枚の特典がもらえるかを一覧表にしたのが下表。特典によって、年2回に分けてもらえるものと、年4回に分けてもらえるものがある。 ※JR東日本広報に取材のうえ、筆者作成  例えば、判定タイミングの2024年12月25日の時点で、資産残高300万円以上、ビューカードの引き落としも給料の受け取りもあれば、「JRE BANK優待割引券(4割引)」5枚、「どこかにビューーン!2,000ポイント割引クーポン」3枚、「(モバイルSuica限定)Suicaグリーン券」1枚が受け取れる。  しかし、これらすべての条件をクリアするのは、多くの人にとってややハードルが高いのではないだろうか。  まず資産残高300万円だが、新NISAが始まり、そちらに手持ち金を思いっきり振り向けている人も多い。がんばっても、とりあえず、預けられる資産は50万円だろう。  給与・賞与・年金の受け取りはもっとハードルが高い。給与でも年金でも、一度振込口座に指定すると、そこにクレジットカード引き落としなど様々な決済を設定してしまっているケースが多い。口座変更およびそれに付随した手続きをしてまで、振込口座に指定する人がどれくらいいるだろうか。  それに比べると、ビューカードの引き落とし口座に指定するのは、手続きがひとつで済むので、比較的簡単だ。  ということで、筆者も、資産残高50万円以上とビューカード利用代金の引き落とし口座に指定して、特典を受け取る予定だ。 魅力薄い銀行取引での特典「JRE BANKプラス」  「JRE BANK」には、JR東日本ならではの特典以外に、銀行取引による特典「JRE BANKプラス」も準備されている。 「銀行取引でJRE POINTが貯まる」「VIEW ALTTEの提携ATM手数料(預け入れ・引き出し)が月最大7回無料」「他行への振込手数料月最大3回無料」などが主な特典だ。  こちらはまず「JRE BANK」と「JRE POINT」のユーザーIDを連携。利用状況に応じて5ランクの会員ステージが決定し、ランクに応じた特典が受けられるというものだ。  ただし内容を見ると、会員ステージによって、JRE POINT獲得倍率にそれほどの差はないうえ、受け取れるポイント数もそう多くない。楽天銀行のハッピープログラムの内容を踏襲しているものだが、飛びついて利用したいというほどの魅力は感じられない。  そもそも、あまり知られていないが、「JRE POINT」そのものにも、4つのステージ制が導入されている「JRE POINTステージ」というものがある。ステージごとにクーポンがプレゼントされたり、JR東日本の特典が受けられたりする。「JRE BANK」には5つの会員ステージがあり、「JRE POINT」にも4つのステージがあり、筆者などは既に混乱気味だ。 「JRE BANK」でトクする人、ソンする人  特典は魅力的だが、受け取るための条件のハードルは意外と高い「JRE BANK」。一体、このサービスは誰に受けているのだろうか。  実際、筆者の周りの20~30代は総じて、「何がいいのですか?」と質問してくる。特に子どもがいるファミリー層は、実家への帰省も家族旅行も主にマイカー利用だ。ちびっこを連れての電車旅行は、料金面でも、移動などの手間の面でもよいことはない。出張でもない限り、遠距離列車を使わないのだ。  それに引き換え、40代以上のシングルや50代以降の子どもの手が離れたミドル・シニア層は総じて熱い反応を示している。  JR東日本には、50歳以上が入会できる「大人の休日倶楽部」がある。50~64歳はJR東日本とJR北海道の切符(201km以上)が何回でも5%引き、65歳以上は30%引きになる。筆者も加入しているが、もともとは、友人との旅行で利用するために入会した。子どもの手が離れた夫婦、あるいは女子会旅行など、大人の休日倶楽部を利用するのは、もはや常識といっても過言ではない。  大人の休日倶楽部は、時期や地域を限定した割引切符サービス「大人の休日倶楽部パス」が人気で、例えば6/20~7/2利用のJR東日本全線5日間乗り放題のチケット代はえきねっと経由で1万8800円と圧倒的に有利だ。しかし、時期を決めずにチケット購入をするなら、基本的に、運賃割引は65歳以上でも3割引きだ。それを超える4割引きの優待割引券は50歳以上の旅行好きにはたまらない魅力だ。この世代は、何とか条件をクリアして「JRE BANK」を利用することで、割引で列車の切符を予約したり、めったに利用できないグリーン車に乗ったりできる。  これに対し、日ごろ遠距離列車に乗らない人には、何の魅力もないだろう。50万円以上を預けて、ビューカードの利用代金の引き落とし口座に指定して、優待割引券を受け取っても使わないなら、何の意味もない。JRE POINTを受け取れるメリットもあるが、それほどポイントがザクザク貯まるわけでもない。 最後のまとめ  豪華な特典で大注目の「JRE BANK」。注意が必要なのは、特典を受ける際にJR東日本の他サービスとIDを連携しなければいけないことだ。上記にそれぞれどのサービスとの連携が必要かは記載したが、特典ごとに連携すべきサービスが違う。またネットではなく、モバイルで連携しなければいけない場合も多い。今後、Suica経済圏構築ということで、このあたりの煩雑さは解消されていくようだが、口座を開いて、条件をクリアしても、ID連携が上手にできなければ意味がないことも覚えておこう。(経済ジャーナリスト・酒井富士子)
JREバンク酒井富士子moneySuicaJR東日本
dot. 2024/06/19 16:30
タレント清水国明氏「給料はいらない!“年金知事”で」 離婚3回結婚4回、73歳で都知事選に出馬表明の理由
上田耕司 上田耕司
タレント清水国明氏「給料はいらない!“年金知事”で」 離婚3回結婚4回、73歳で都知事選に出馬表明の理由
清水国明氏    TBS系の情報番組「噂の! 東京マガジン」で、1989年の番組開始から出演してきたタレントで実業家の清水国明氏(73)が、都知事選への立候補を表明した。タレントとしての側面が目立つが、経営者としての手腕も相当のようだ。持ち前の発想力と行動力で、IT関連からアウトドア、災害対策など幅広く手掛けている。そして、プライベートでも3回の離婚、4回の結婚と“濃い”人生を送っている。 「(『噂の! 東京マガジン』総合司会の)森本毅郎さんに、都知事選に立候補したい、と伝えると、『おもしろい、よし、頑張ってこい。もっと若かったら俺がやっていたよ。もう番組に戻らないつもりで突っ走れ』と背中を押されました」   各地で起きているトラブルなどを取材する同番組の人気企画「噂の現場」では、リポーターとして取材に行った現場は延べ約1700カ所にのぼるという。  「『噂の現場』というのはタレコミ、口コミで寄せられた情報から動いて、いろんな問題を見聞きしてきました。それを今度は政治の世界で解決したい」  都知事選への出馬を考え始めたのは、昨年の暮れあたりという。  一番時間を使ってきたのが災害支援 「周りから『都知事選へ出てみないか。可能性あると思うよ』という話があったんです。迷ってもんもんとしていました。最終的に決めたのは今年の元旦、1月1日です」    正月、清水氏は自身が所有する瀬戸内海の無人島で、のんびり海釣りを楽しみながら今後のことを考えていたという。すると突然,能登半島で大地震が起きたというニュースが飛び込んできた。  すぐに釣り道具を片づけて本島へ向かい、そこから車で計30時間かけて東京へ戻った。清水氏が経営する会社で販売していたキャンプ用のテントとシュラフを車のバンに積み込み、能登半島に向かった。その道中で、都知事選に立候補したいとの思いが強まったという。 「これはご先祖様がやれと言っているのかなと。災害ボランティアとか支援については、自分の人生の中で一番、時間を使っているんです。だから、自分のキャリア、知見を生かしたいと思いました。それをせずにこのままフェードアウトしてしまうのは“罪”だなと」  【あわせて読みたい】 ドン小西が認める小池百合子氏のミニスカファッション 蓮舫氏の襟立ては「20年前の女子アナ!」 https://dot.asahi.com/articles/-/225317?page=1    清水氏は、首都直下型地震を強く意識しているという。 「備えあれば憂いなしなのに、現状では備えが全くと言っていいほどできていない。東京で直下型地震が起きたとき、東京の街がどうなるかというのは予測ができるわけです。東京というのは耐震化、不燃化とかいいながらまだ何もしていない建物も多い」  もし都知事になったら、具体的にはどのような防災に取り組むのだろうか。 「近隣の県や市町村ともっと連携してはどうかと思う。東京の郊外でもちょっと出たら自然がいっぱいでいい場所がある。そういう地域に避難所やキャンプ場を造る」 トイレも風呂もプライバシーもある  避難所といっても、よくある体育館のような施設ではないという。  「東京の周辺地域にトレーラーハウスを20万戸設置したいです。災害が起きたとき、被災地にとどまるのではなく、郊外のトレーラーハウスへ一斉に行けば、安全で快適に過ごせます。トイレも風呂もプライバシーもある。建物の基礎もいらないし、地面に置いておくだけ。大型車でトレーラーハウスを引っ張って移動することができる」  自身が力を入れてきた災害関連以外で、もう一つ、注力してきたアウトドアから発想を得たという。 「平時は自然豊かな場所で、魚釣り、山登り、バーベキューができる。そうした場所を提供しておけば、平時から自然と災害に耐えうる力がついていくわけです。都の予算で造っておいて、県や市町村などの自治体にも収益が落ちるような形にしておけば、東京の疎開先がいっぱいできるわけですよ。1泊2500円くらいで泊まれるように設定したいですね」  日常で楽しめるトレーラーハウスを平時は「楽しみ」として運用し、災害発生時には避難場所につなげるという考えだ。ただ、 トレーラーハウスは1台500万円くらいかかるというが、予算は大丈夫だろうか。 「20万台ですから1兆円くらいかかるんです。だけど、東京都の予算は19兆円もあるんだから可能なんですよ。いっぺんに全部準備しなくても、毎年少しずつ増やしていけばいいんです。こうしたトレーラーハウスの災害時の利活用は私が全国初で提唱したんですが、今になって内閣も検討するようになりました」 【こちらもおすすめ】 「維新? ないないない、絶対ない」石丸伸二氏は記者直撃を笑い飛ばし…維新の都知事選「不戦敗」舞台裏 https://dot.asahi.com/articles/-/225398?page=1 清水国明氏(本人SNSから)    清水さんは、福井県大野郡和泉村(現、大野市)の出身。高校卒業後、京都産業大学に進学し、同じ大学の後輩の原田伸郎、笑福亭鶴瓶らと音楽活動を始め、1973年に原田とフォークデュオ「あのねのね」で芸能界デビュー。デビュー曲はコミックソングの「赤とんぼの歌」でこれが大ヒットとなり、その後も音楽やラジオ、テレビなど、現在まで長く活動を続けている。  その清水氏、冒頭でも触れた「噂の! 東京マガジン」のリポーターとしての顔が最も知られているかもしれないが、タレント業と同時に会社経営者としての顔も持つ。現在は6社を経営し、2社の取締役をしているという。  たとえば、山口県周防大島町で廃校になった小学校を改修し、5G通信基地局を設置。ワーケーション向けのオフィスを整備し、全国から先端企業やIT人材を誘致する「ワーケーションビレッジ」の代表を務める。同町の無人島を購入して「ありが島」という名前をつけた。この島を所有する「ありが島リゾート」社も清水氏が経営している。ここでキャンプ場も開いている。清水氏プロデュースによる日本最大級の人工砂浜「タチヒビーチ」は、立川(東京)、相模原(神奈川)、奈良で展開中。 他には投資会社の経営も。 「『タヒチビーチ』は年間数億円の収益を上げています。でっかい砂場だから、子供たちがペットボトルに詰めて持って帰ることもある。海のないところに人工砂浜を作ったんです。僕の周りには『おもろい』と言ってお金を出してくれる人達がいるんで、選挙戦もおもしろい発想で戦いたい」   こうした経験や発想が、そのまま都知事としての仕事にも生かせると主張する。 3回離婚で4回の結婚  プライベートでは、清水氏は3回離婚し、4回結婚している。そして、驚くことに元妻とは別れた後も「関係はいいです。今でも付き合いがあります」という。  最初の結婚はタレントの清水クーコさん。1976年に結婚した当時、話題となった。 「クーコとの出会いは仕事場でした。ものすごい明るい子で、みんなに好かれていて、こんな子と付き合ってみたいなと思ってアプローチしました。ところが、結婚生活はうまくいかなかったんです」 【こちらもおすすめ】 小池百合子氏の「排除します」発言を引き出した横田一氏が見た都政 「厳しい質問する人を差別する姿勢が顕著」 https://dot.asahi.com/articles/-/225401?page=1  1982年には離婚した2人だったが、その後も清水氏がクーコさんの新曲やイベントをプロデュースしたという。 清水氏が再婚すると、クーコさんはイギリスに。しかし、帰国した際にがんが見つかり、38歳の若さで亡くなった。清水氏が喪主を務めたという。   2人目の妻はバイク好きだったという。その影響で清水氏はレースの世界に入り、10年間、本格的にレーサーとして活動した。国際A級ライセンスも取得し、国際レースにも出ていたという。 「その間に13カ所骨折しました。最高速度285キロのオートバイですから」 鈴鹿8耐(鈴鹿8時間耐久ロードレース)に出場したときの清水氏(事務所提供)    2人目の妻との間には3人の女の子が生まれたが、約12~13年の結婚生活を経て別れた。それでも、 「今も付き合いは続けています。僕のコンサートがあると、子供たちが孫を引き連れて、声援に来てくれます(笑)」  3度目の結婚で男の子が生まれたが、これまた離婚へ。 妻4人、子供計5人、孫も5人「少子化対策はお任せを」 「妻はヒップホップダンサーだったんですけど、40歳になったときに『ダンスのためにフランスに行きたい』って。私は『40歳になって俺と子供を置いて、フランスに行くってどういうことよ』と聞いたら、彼女は『あなたを見習ったのよ』って言うんですよ。そういえば俺は40歳のときにメチャクチャしていたなと。俺はチャレンジするけど、妻は主婦をやれっていうのもフェアじゃないなと思って、『よし、じゃあ子供の面倒は俺が見るから』っていうことで、彼女がフランス滞在中に離婚しました」  そして2018年3月に25歳年下の一般女性と4度目の結婚をし、男児が誕生した。現在は家族3人で暮らしているという。4度の結婚で、 「妻は4人、子供は女子3人、男子2人の計5人。孫も5人います。少子化対策は任せておいてください(笑)」  清水氏は、小池氏が知事給与を半額にしている点についても触れ、  「私が都知事になったら給料はいりません。年金がもらえるから、“年金知事”でいいです」  とのこと。そしてこう続けた。 「人生でのラストチャンスだと思っています。もう、テレビやメディアの世界に戻ることは考えていません。背水の陣で挑みます 」 (AERA dot.編集部・上田耕司)  
清水国明都知事選あのねのね
dot. 2024/06/19 11:00
ゴルフ界に現れた「天才少女」たち 須藤弥勒のデビューは? かつては11歳でプロに挑んだ選手も
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ゴルフ界に現れた「天才少女」たち 須藤弥勒のデビューは? かつては11歳でプロに挑んだ選手も
天才少女として注目される須藤弥勒  国内の女子ゴルフは低年齢化が著しく、さらには20歳前後の選手がトップに君臨する状況が続いている。  2022年から2年連続女王に輝いている山下美夢有が初の年間女王となったのは21歳の時。2019年のメルセデス・ランキングでトップとなった渋野日向子も当時21歳、2020-21シーズンを同ランク首位で終えた古江彩佳も同じく当時21歳だった。  そして今シーズンは、21歳の竹田麗央がすでに3勝を挙げ同ランク、賞金ランクともにトップ。この勢いのままシーズンが続ければ、またまた21歳の女王が生まれる可能性は高い。  若い女王が次々に生まれるのは、10代、しかも中学生あたりのアマチュア時代からツアーに参戦し、トップの舞台を何度も経験している選手が増えていることも理由の一つだろう。  中にはその国内最高峰の舞台で“お姉さん”たちを抑えて優勝するアマチュアも多く誕生している。今年の国内女子ツアー公式戦、ワールドレディスチャンピオンシップ サロンパスカップ(茨城県、茨城ゴルフ倶楽部 東コース)で優勝したのは、韓国のリ・ヒョソンだったが、彼女がメジャー女王となった時の年齢は15歳176日。それまでの最年少優勝記録は、勝みなみの15歳293日だった。  また、2016年の日本女子オープンを制した畑岡奈紗は、当時17歳263日でこちらも大会最年少記録。これだけ見ても国内アマチュア女子ゴルフのレベルの高さがうかがえる。  近年のアマチュア女子ゴルフで最も注目を浴びているのは、12歳の須藤弥勒だろう。  1歳半の時からゴルフを始め父親との二人三脚で練習に励むと、5歳で出場した2017年のIMGA世界ジュニアゴルフ選手権(6歳以下女子の部)で優勝。その後も数々のタイトルを手にし、2022年には史上初のジュニアゴルフ世界4大メジャーのグランドスラムを達成し、幼い時から「天才少女」と呼ばれてきた。  そんな須藤を企業がほっておくわけもなく、アマチュアゴルファーもスポンサー収入を得ることが可能となる2022年のアマチュア資格の大幅改訂を受け、須藤は多くのスポンサーをゲットしている。  ゴルフ量販店の「ゴルフ5」と所属契約並びにマネジメント契約を結ぶと、家具の企画・販売の大手「ニトリ」、自動車の販売などを行う「太陽自動車」などと契約し、報道では全スポンサーの合計契約料は3億円を超えるのだそうだ。  現在の国内女子ツアーの規約では満13歳からツアーに参戦できる。つまり2011年8月6日生まれの須藤は、今年8月6日以降ならツアーへ出場可能。須藤は昨年冬に今年8月のツアーデビューを宣言しており、まずは予選突破なるかが注目される。  では、須藤が8月6日以降にツアー競技に出場し予選通過した場合、予選突破のアマチュア最年少記録となるのだろうか? 答えはNo。過去のツアー記録を振り返ると、須藤を上回る若さでレギュラートーナメントのカットラインを通過したアマチュアが存在している。  現在の予選通過最年少記録を持つのは、2011年の大王製紙エリエールレディスでプレーした当時中学1年の松原由美。この時の松原は12歳270日で、しかもこれがツアー初参戦だった。  この松原は、この記録だけでなく10歳4カ月という日本女子アマ最年少出場記録も持っており、中学3年で出場した全米女子アマでは自己ベストの64を叩き出すなど将来を嘱望され、2017年にプロテストに合格。しかしプロ転向後は目立った活躍ができておらず、ここまでの生涯獲得賞金は97万円で、今シーズンのQTランキングは211位となっている。  松原の記録更新前まで予選通過最年少記録を保持していたのは、「元祖天才少女」の金田久美子だ。金田は2002年のリゾートトラストレディスを12歳298日で予選突破。またこの前年のゴルフ5レディスは11歳347日で参戦しており、これはアマチュアの最年少出場記録として今も残っている。  そんな金田は、8歳で世界ジュニア選手権(10歳以下の部)を制してタイガー・ウッズの記録に並んだほか、その他数々のアマチュアタイトルを獲得した。  須藤のように当時から注目を浴びていたが、2009年のプロ入り後は2011年にツアー初優勝を飾ったものの、そこから勝利に見放され2022年の樋口久子三菱電機レディスゴルフトーナメントで11年189日ぶりとなるツアー制覇を達成。これは、ツアー制施行後では最長ブランク記録だった。  予選通過最年少記録の第3位は2009年大王製紙エリエールレディスで予選を突破した森田遥で当時の年齢は13歳125日。つまり今年8月6日に13歳となる須藤は、この夏にツアーでプレーし予選通過を果たすと、予選通過最年少記録では森田を抜けるが、松原と金田は超えられないということになる。  ちなみに国内女子ゴルフ界では森田の他にも宮里美香、勝みなみ、山口すず夏、髙橋恵が13歳で予選を突破している。こうして見ると須藤の前にも数多くの「天才少女」がいたということだ。
ゴルフ須藤弥勒
dot. 2024/06/18 17:30
流産や死産した女性たちが取り締まられる理不尽 他人の妊娠をジャッジする空気の背景には何が?
流産や死産した女性たちが取り締まられる理不尽 他人の妊娠をジャッジする空気の背景には何が?
今年4月には、複合的な困難を抱え孤立した女性たちを支援する困難女性支援法が施行された。「孤立出産など困難な状況下にある女性たちへの差別意識の解消や福祉の充実を期待している」(清末さん)(写真:Getty Images)    未受診妊婦が自宅で流産や死産をしたら逮捕される事態や、障害のある女性が出産すると「無責任」と非難される現実。困難を抱える女性たちに「正しい」母親像を押し付け、他人の妊娠出産をジャッジする空気はどこから来るのか。AERA 2024年6月17日号より。 *  *  *  あなたが思いがけず妊娠したとする。だが、病院に行くことを決心できないまま、ある日流産してしまう。誰の身に起きても不思議ではない状況だろう。しかし、それが妊娠17週を迎えていたら──。 「胎内から出てきたものが人の形をしていれば、死体遺棄罪で警察の取り調べの対象になり得ます」  こう話すのは弁護士の石黒大貴さんだ。石黒さんは、2020年11月に熊本県で起きた技能実習生双子死産事件の主任弁護人を務めた。最高裁まで争ったこの事件も、予期せぬ妊娠と突然の死産により女性が逮捕されたことが始まりだった。  技能実習生だった女性(当時21)は妊娠を周囲に相談できないまま、自宅での突然の早産の末、双子の赤ちゃんを死産。その後、死体遺棄容疑で逮捕、起訴された。女性は無罪を主張。裁判で争点となったのは、外国出身の女性の赤ちゃんの亡骸(なきがら)の取り扱いをどのように法解釈するか、だった。  女性は双子の赤ちゃんの遺体をタオルで包んで段ボールの箱に寝かせ、赤ちゃんへの手紙を入れ、遺体が寒くないようにと箱を二重にし、ふたをセロハンテープで留めてキャビネットの上に置いた。それが一審では「周りに助けを求めなかった」を理由に、二審では箱を上からセロハンテープで留めたことが「第三者から遺体が見つかりにくい」との解釈で、有罪となった。 心身に傷負った状態で  対する弁護団は、女性の赤ちゃんに対する弔いの感情に基づいた行為で遺棄罪にあたらず、また、遺棄罪の規定の不明確さや葬祭手段を選ぶ信教の自由、「国民はすべて個人として尊重される」と定める憲法13条から、妊娠を明かせなかったことを罪に問うべきではないとして上告。23年3月、最高裁は逆転無罪の判決を下した。だが、ほかにも同様に病院外の流産や死産で取り締まられたケースは後を絶たない。23年1月には、20歳の女性が東京都新宿区歌舞伎町に近いアパートで流産。妊娠SOSの電話相談を受けた熊本市の慈恵病院が都内の協力病院に保護を要請。救急搬送されるとその後、女性は産婦人科のベッドに腰かけた状態で刑事から4時間、取り調べを受けた。  協力病院は取材に回答しなかったが、医師が警察に通報した可能性が高い。根拠は医師法21条にある。「(1)妊娠4カ月以上で、(2)死産児の状況に異状があった場合」には医師は警察に通報しなければならないためだ。ただし、異状とは、遺体を傷つけた形跡や流産や死産から日数が経過している(放置)など、犯罪が疑われる場合を指す。しかし女性に事件性はなかった。  ほかにも、20年12月には、東京都品川区の知人男性宅で妊娠6、7カ月の女性が死産し、死体遺棄容疑により警察に逮捕されている(不起訴)。女性に対し、警察、司法、ときには医師までが保護ではなく加罰に動く。予期せぬ妊娠や赤ちゃんの死で心身に傷を負った女性が取り締まられる事態は、日本の法制度で認められるものなのか。  ジェンダー法を研究する憲法学者の清末愛砂さん(室蘭工業大学大学院教授)に話を聞いた。 「まず前提として、女性の妊娠と出産を国がコントロールしてきた過去の歴史の影響が、令和の現在もなお残っています」  清末さんによると、太平洋戦争中、国は堕胎を禁止し、敗戦により国全体が窮乏に陥ると一転して出生数のコントロールに動いた。人口急増を抑えることと、違法な堕胎により母体が傷つくことを防ぐことを目的に、1948年には優生保護法がつくられ、人工妊娠中絶は合法となる。中絶件数は55年には117万件にのぼった。 かわいそうと決めつけ  この優生保護法下では、遺伝性疾患やハンセン病、精神障害がある女性に、不妊手術や人工妊娠中絶が実施されていた。同法は96年に改正され名称も母体保護法と改称された。だが、現在もなお、障害のある女性の妊娠出産について、「自分で育てられないのに無責任」「親が障害者なんてかわいそう」などの批判が出ることがある。  遺伝性疾患で車いすを利用するある女性は、夫と話し合って妊娠出産を決断したが、「他者の手を借りながら幸せに暮らしているのに、母親がお世話できないなんて子どもがかわいそうと決めつけられることがある」と話す。そんなとき、女性は正しい母親像を押しつける圧力を感じるという。他人の妊娠出産をジャッジする空気は司法や警察に限ったことではないのだ。  一方でこの国には自己堕胎罪もある。〈妊娠中の女子が薬物を用い、又はその他の方法により、堕胎したときは、1年以下の懲役に処する〉(刑法212条)  母体保護法で人工妊娠中絶を認めながら、同時に自己堕胎罪も存在するのだ。そして清末さんは、この矛盾した状態にこそ問題の根が潜んでいるという。 「現在の日本では、妊娠を継続するかやめるかは当事者である女性が自分で決められることになっています。が、同時に、明治期に制定された自己堕胎罪は現在も廃止されていません。死文化したとはいえ、自己堕胎罪が今もなお刑法の中に残り続けている。流産や死産した女性が取り締まられる理由の根源は、ここにあります」  自己堕胎罪は妊娠の主体である女性にも副作用を及ぼしていると、清末さんは続けた。 罪悪感を抱かせる条文 「中絶をどのように受け止めるかは個々で感覚が違いますが、総じて、自己堕胎罪が存在しているということは、いくら母体保護法によって条件付きで人工妊娠中絶ができるとしても、人によっては道徳的な意味での罪悪感を植えつけてしまう可能性が十分にある。産むか産まないかを女性が自己決定できることは法的に間違いないはずなのに、自己決定する主体が個人だという意識を薄めてしまう作用も働いてしまいます」  女性に中絶への罪悪感を持たせかねない条文は、社会に「中絶=罪」とする価値観を植えつけるリスクをはらむ。国が自己堕胎罪を認めていることと、妊娠を「正しさ」でジャッジする世の中の空気は、実はつながっているのだ。遺伝性疾患のある前述の女性の場合、彼女は世の中の「正しい母親像」からはみ出したことにより、ときに関係のない他者から攻撃を受ける。  予期せぬ妊娠にまつわる事件では多くの場合、女性の背景に貧困や、支援を受けられる人間関係を持たないなど、複数の要素が絡まって差別状況が深刻化する。それは前述した3人の女性にもあてはまる。彼女たちはそれぞれ技能実習生、住所不定、無職で、未受診妊婦でもあった。 「こうした弱い個人の権利が守られない状態は憲法に反します」  清末さんは憲法24条2項を示して指摘する。 「憲法24条2項は個人の尊厳を定めています。どのような立場に置かれた人も尊厳を守られなくてはならないという意味です。近代市民法は自分の立場を主張することのできる強い個人を目指してきましたが、この24条2項に立てば、孤立出産や流産をした、複合的な差別の下にある人たちの尊厳を守らなくてはならないのは明らかです」 自分で決められる権利  他方、前出の石黒さんは裁判の過程で女性の権利の保障について考えたという。 「産む産まないを含めて性と妊娠・出産について、女性は自分で決めることができる。それは立場によらず、どの人も持っている自己決定の権利であるということを、社会が意識として強めるべき。その土台があって初めて、孤立出産女性に対して加罰から保護へ、認識の変化が醸成されていくはずです」  なお、逆転無罪を勝ち取った石黒さんらの弁護団は、「孤立出産状況下における母親の行動は不可罰にするべき」との憲法学者・木下昌彦神戸大学大学院教授の意見書を最高裁に提出している。(ジャーナリスト・三宅玲子) ※AERA 2024年6月17日号
AERA 2024/06/17 16:00
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