病室で聞いた言葉で目指した「登り切った先」の景色 ミライロ・垣内俊哉社長
「歩けないからできること」を探して設立した「ミライロ」の社名には、自由に描ける「未来の色」と自由に歩める「未来の路」を増やしたいとの思いが、込められている(撮影/山中蔵人)
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年 9月2日号より。
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17歳だった2006年の夏を迎えるころだ。夕方、大阪市の国立病院で担当医が病室にやってきて「残念だが、骨がうまくくっついていない」と告げた。もう歩くことは難しい、との意味だ。2カ月ほど前に骨形成不全症の手術を受け、リハビリを続けていた。骨形成不全症は、骨が脆弱で、軽い外傷でも骨折してしまう。遺伝性で、父の勉さんも弟もそうだった。
幼いときは歩くこともできたが、転んでは骨折を繰り返し、小学校4年生のときに車いすでの生活になった。中学校を出るまで友の優しさに触れるうれしいこともあったが、つらくて、悔しくて、泣いたことも多い。
母が選んだ厳しい道養護学校ではなく普通の学校で過ごす
でも、住んでいた岐阜県中津川市の教育委員会が指定した養護学校(現・特別支援学校)ではなく、厳しい道が待っていることを承知で「将来を考えたら、小さいときから厳しさに向き合い、克服していってほしい」と普通の小学校に入れる承諾を得てくれた両親の思いが、いつも心を強くしてくれた。
小学校の入学式で他の児童から「ちび」とからかわれ、帰宅して泣いたとき、母の美智子さんが一緒に泣きながら言った「大丈夫。俊哉なら悲しいことも乗り越えられると信じて、神様はこの試練を与えたのよ」の言葉は、何物にも勝る力をくれた。
それでも、県立中津高校に入ると「どうしても歩きたい」との思いが、あふれる。校舎は4階建てで、エレベーターや車いす用の昇降装置はない。授業で教室を移動することが多く、階段が難所。車いすは級友が運んでくれたが、自身は四つんばいで上り下りするしかない。女子生徒は短いスカート。視線を落とし、相手も気にしない。でも、そんな姿は、みられたくない。「歩きたい、普通になりたい」との思いが、募った。
高校1年生の秋、決断する。
「休学して、足の手術とリハビリに専念しよう」
各地の病院を訪ね、大阪市で会った骨形成不全症の専門医に執刀を頼む。手術は8時間に及び、リハビリも続けた。だが、もう歩けない、と知った。
深夜に、エレベーターに乗って屋上へ出た。柵を越えて、飛び降りるつもりだった。だが、体を上げられず、柵を越えることができない。「飛び降りることもできないのか」と愕然として、病室で朝まで泣いた。
以来、形だけのリハビリが続き、夜になると涙があふれる。3カ月ほどたち、向かいのベッドにいた初老の男性と、目が合った。「富松」という名は知っていたが、会話はしたことがない。だから、目礼だけした。
負けず嫌いで楽しみたい(写真/本人提供)
「風来坊」から届いたリハビリ姿の写真と「不屈の闘魂」の言葉
すると、近づいてきて、ベッドの横に座って「あまり具合がよくないのか」と問いかけてきた。毎晩、泣いているのに気づき、心配してくれたらしい。なぜか分からないが、堰を切ったように、誰にも話したことがない体験や思いを話す。富松さんは相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。話が終わると、静かな口調で言った。
「きみは、ちゃんと登り切った先の景色をみたのかい、やれるだけのことをやったのか?」
目が覚める思いがするというのは、こういうことだろう。リハビリを始めて、まだ3カ月。「歩けるようになりたい」と思ってきた年月に比べれば、すべてを諦めるには短過ぎる。富松さんの言葉を胸に納め、本気でリハビリに向かった。退院しても、続けた。垣内俊哉さんが中津川市で父母と過ごし、様々な体験から蓄えたビジネスパーソンとしての『源流』の水源が、流れになって動き始める。
手術から10カ月後、自分の足で歩くことは脇に置き、「障害がある人たちの役に立つ会社をつくろう」と進路を定め、高校へは戻らず、大学受験の資格を得る試験を目指す。
この間、あるときに封書が届く。差出人の住所はなく、ただ「風来坊」とある。開けると、手紙と写真が出てきた。写真は病院でリハビリに取り組んでいたときの姿。「風来坊」は富松さんだ、と分かる。「不屈の闘魂」との言葉も添えてあった手紙は宝物、大事に取ってある。
1989年4月、母の実家がある愛知県安城市で生まれ、父の故郷の中津川市で育つ。生後1カ月で骨形成不全症が判明。3歳のときに初めて歩き、母は涙が止まらなかった、という。
富松さんの言葉で気持ちを立て直し、大学受験の資格を得ると、京都市に本部を置く立命館大学の経営学部を目指す。いくつか大学を調べると、同大学はキャンパスや周囲に、障害者にとってのバリアが少なかった。
大学受験直前の骨折寝たままで試験受け合格に病院で歓声
試験まであと2週間のとき、予備校の帰りに車いすが転倒、骨折し、愛知県春日井市の病院で手術を受けて入院した。立命館大学に問い合わせると「試験会場へくることができるなら、寝たまま試験を受ければいい」と言ってくれた。民間の救急車を手配し、看護師さんたちがベッドに作業台をつくってくれて、受験勉強を再開する。
合格発表は大学のホームページで確認。受験番号をみつけてナースコールを押し、「受かりました〜」と叫ぶと、看護師さんたちが「わ〜っ」と声を上げてやってきて、「おめでとう」の大合唱だ。多くの出会いに恵まれ、ここまできた。そう実感し、もう歩けないと知った日とは全く別の涙が、流れる。
2008年4月、立命館大学経営学部で起業家育成コースへ入ると、同期に民野剛郎さんがいた。ある日、偶然、一緒に学生食堂で昼食を取る。学食では自分もトレーを持って料理を取り、運んで食べる。そのとき、周りの友人は必ずトレーを持ってくれた。料理も、とってくれる。自分でやれないことはないが、周りがやってくれるので、素直に受け入れてきた。
でも、民野さんは持ってくれる素振りもしなければ、さっと会計を済ませて先にテーブルにつく。食べ終わると、「はい、じゃんけん」と言ってきた。負けたほうが食器を重ねて返却口に持っていく、ということだ。自然な形で「対等」に向かい合う、それがすごくうれしかったことを、よく覚えている。
起業を目指す点で一致し、軍資金をつくるため、他の友人も加えてビジネスコンテストの賞金を稼ぐことにした。自らの受験体験から、キャンパスや周囲でバリアを越えなくていい進路を示す地図をつくる「らくらく大学ナビ」を発案。同じ京都市にある大学のビジネスコンテストで、グランプリを獲得する。
その後もコンテストで受賞を重ね、2010年6月、大阪市北区に事務所兼住宅を借りて、株式会社ミライロを設立。民野さんは副社長で、社長は垣内さん。大学3年生のときだ。
いま、「らくらくナビ」をレジャー施設などへも展開し、企業人たちに障害を持つ人とどう向き合うのがいいかの研修もやり、予算がなくてバリアフリーにできない場合でも「ハードは変えられなくても、ハートは変えられる」と説く。様々な出会いを重ねてここまできた。まだ35歳。きっと、未来は広い。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年9月2日号
AERA
2024/09/02 06:30