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がんを罹患しても避けたい「引きこもり」 建築家・安藤忠雄さんに元気づけられる理由
がんを罹患しても避けたい「引きこもり」 建築家・安藤忠雄さんに元気づけられる理由 石弘光(いし・ひろみつ)1937年東京に生まれ。一橋大学経済学部卒業。同大学院を経てその後、一橋大学及び放送大学の学長を務める。元政府税制会会長。現在、一橋大学名誉教授。専門は財政学、経済学博士。専門書以外として、『癌を追って』(中公新書ラクレ)、『末期がんでも元気に生きる』(ブックマン社)など 一橋大学独自のゼミナール制度のもと、石ゼミの教え子たちと志賀高原でスキーを楽しむ。がん発覚の3カ月前、2016年3月に撮影  一橋大学名誉教授の石弘光さん(81)は、末期すい臓がん患者である。しかも石さんのようなステージIVの末期がん患者は、5年生存率は1.4%と言われる。根治するのが難しいすい臓がんであっても、石さんは囲碁などの趣味を楽しみ仲間と旅行に出かけ、自らのがんを経済のように分析したりもする。「抗がん剤は何を投与しているのか」「毎日の食事や運動は」「家族への想いは」。がん生活にとって重要な要素は何かを連載でお届けする。 *  *  *  社会とのつながりを大切に がんに関連した文献を読むと、がん治療としてよく免疫力を高めることが重要だと強調されている。このためには身体を動かすことが重要となり、自宅でじっとしていてはダメで、機会を見つけて積極的に外で活躍することが勧められている。がんは罹患してもかなり病状が悪化するまである程度の期間、通常の日常生活はできるはずである。そこでがん患者として重要なことは、公私にわたり社会とのつながりをできるだけ維持することだろう。 ■心の張りを保つためにも、仕事は続ける  2016年6月にがんが見つかった時に、公職は完全に退いていわゆる定職を持っていないご隠居さんの状況であった。しかしながら、非常勤でまだかなり多くの仕事が残っていた。新潟大学や各種の財団の非常勤理事など10近い仕事が残っており、この公の仕事をどうするかが大きな問題であった。  末期のすい臓がん患者となれば、世間の常識に従えば任期をまっとうできない可能性が大きいので、辞任を申し出るべきであったかもしれない。しかしながらその時、身体は全く健常者並みであったので、残りの任期1~2年なら十分にまっとうできそうな気がした。と同時に、やはりすべての公の仕事をやめてしまっては、心の張りがなくなり急速に老け込むのではないかと心配した。  つまり公的に社会とのつながりを持つことが闘病の上でも重要と考えたからにほかならない。それ以来、新潟へ2カ月に1回は行くし、他の財団関係の会議にほぼ皆勤してきている。過去2年間を振り返ってみると、公の仕事を辞さないで本当によかったと思っている。 ■社会とのつながりを深め、積極的に人と交わる  がんに罹患しても、自宅に引きこもらず外出し個人的にも社会とのつながりを深めるべきである。このためには、積極的に人と交わる必要が生じてくる。幸いなことに、長年大学で学生を指導してきたので教え子たちは多い。また大学外での活動も多かったので、マスコミ、省庁など各方面でさまざまな人との交流がある。  がん治療が始まってから、基本的に夜の会合、外出は控えることにした。昼間は通常のように活動できるが、夜になると抗がん剤投与のためにやはり疲労がたまり、しんどくなるので家でゆっくりとすることにした。初めは病気の様子を見ていた友人たちは、私が昼間元気に外出できると知り次第に面会の誘いがかかるようになってきた。そうなるとどこで、昼食を一緒にということになることが多い。私がひとりのこともあるし、また家内も同伴ということもあるが、この会食でいつも楽しい時間を過ごしている。  一橋大学独特のゼミナール制度のもとで、公私にわたり接触してきた教え子たちは280人ほどにのぼり、三石会と称するOB会を作り交流を続けている。がんが発覚してからは特にわれわれ夫婦のことを心配してか、卒業年次ごとに集まり昼食会を企画してくれる。いつもとは異なり、北海道、長野、山梨、関西など遠方からわざわざ来てくれるゼミの教え子も多い。病気が病気だけに、皆心配してくれているようだ。  その他、現役時代に一緒に仕事をした財務省の仲間、当時は緊張関係にあったマスコミの皆さん、いろんな出会いで知り合った知人、そして趣味のスキー仲間など、さまざまなグループとの交流ががんに罹患した後も、続いている。毎月2~3回ぐらい、どこかのグループが私並びに時にはわれわれ夫婦に昼食時に声をかけてくれ、皆で食事を楽しんでいる。  談論風発、時間も忘れ思い出話に花を咲かせている。知人と会う時には、ご夫妻と私たち夫婦の4人で席を設けることもしばしばである。このような外出そして会食を通じて、私の免疫力は大いに刺激され治療上よい結果を生んでいるはずである。 ■5年生存率1.4%。データから自分の人生の終わりを感じる  がん患者といえども、社会的に活躍している人も多い。なかには、最も生存が厳しいといわれているすい臓がんを患っていた人もおり、それに見習うことにした。自分がすい臓がんの患者となり今後どうしようかと考えた時に、同じようなすい臓がんに罹患した人は一体どんな生活を送り人生をまっとうしようとしているのかということが気になった。  一般に難治がん中の難治がんに罹患した以上、統計的には長期の生存率は極めて低い。ステージIVのすい臓がんでは、5年間の生存率はわずか1.4%にすぎない。このようなデータを見せられると、自分の人生はこれで終わりと感じる人がいても不思議でない。    そんななかで同病者が元気にすい臓がんと向き合っているのを見ると、自分も元気づけられるものである。とりわけ社会的に活躍し大きな貢献をされている人のことを知ると、自分も負けていられないとファイトが湧いてくる。がんが発覚して1年ぐらい経ったころ、建築家の安藤忠雄さんのことを知った。  「私は私の人生を、倒れてもまた進む」……安藤忠雄さんの講演が新聞に採録されているのを読む機会があった。そのなかでもすい臓がんの罹患のことをたんたんと語られている。  2009年に胆嚢(たんのう)、胆管、十二指腸にがんが見つかり、三つの臓器を全摘。さらに5年後にがんが見つかり、すい臓と脾臓(ひぞう)も全摘している。術後は医者の言うことを聞いて生活を一変させ、毎日規則正しい生活を送って、現在健康に過ごしているとのこと。この記事を読んで、こんなに重篤なすい臓がんを患いながら社会的に大活躍をしているのを拝見すると同病者として大いに元気をもらえた。 ◯石弘光(いし・ひろみつ) 1937年東京に生まれ。一橋大学経済学部卒業。同大学院を経てその後、一橋大学及び放送大学の学長を務める。元政府税制会会長。現在、一橋大学名誉教授。専門は財政学、経済学博士。専門書以外として、『癌を追って』(中公新書ラクレ)、『末期がんでも元気に生きる』(ブックマン社)など
オウム死刑囚6人も執行 「喋らない林、死にたいと漏らした端本」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実
オウム死刑囚6人も執行 「喋らない林、死にたいと漏らした端本」被害者、脱洗脳カウンセラーらが語る真実 ...社に勤めて14年ほどになります。心の病や引きこもりの人たちがタレントとして活動する地元のグループ「K-BOX」に参加し、地下鉄サリン事件を題材にした詩を作って朗読したり、ピアノの弾き語りをするようになり、心の安定が得られるようになりました。 ■医師が明かす「手探りだったサリンの解毒」 ...
「あの花」「サマウォ」も! シニアが楽しめる“厳選アニメ”11本
「あの花」「サマウォ」も! シニアが楽しめる“厳選アニメ”11本 ...つての仲間が結集  志望高受験に失敗し引きこもりになった宿海仁太。ある日、彼の前に幼いころ水死した「めんま」というあだ名の女の子が現れる。その姿は成長したものだったが、キャラは昔のまま。彼の仲間たちにはめんまが見えないが、仁太には見えることを信じるようになり、男3人、女2人の昔の仲間が再...
孤立して暴力的になることも…増える「言語難民」 対策は?
孤立して暴力的になることも…増える「言語難民」 対策は? ...いきます。イライラして暴力的になったり、引きこもりになったりしてしまうケースもあるといいます。  こうして日本語も母国語も身につけられず、生きづらさを感じている人々は「言語難民」とも呼ばれています。  東京都福生市に、外国にルーツを持つ子どもたちに日本語を教えて勉強をサポートしている教...
『池の水ぜんぶ抜く』の加藤英明先生がモデル!? 異色の「かいぼり」小説誕生秘話
『池の水ぜんぶ抜く』の加藤英明先生がモデル!? 異色の「かいぼり」小説誕生秘話 ...問題がでてきます。若者に職がない、また、引きこもりが問題になるにしたがって、シニア世代である親が働かなくてはならなくなってしまいました。でも、そういう立場の親が病気になったら、どうなるのか? どうしようもなくなって、一家心中に走ったり、娘が高齢の親を殺害するという事件も珍しくありません。新...
ひきこもり経験者リリー・フランキーが10代の当事者らに語った「生きづらさの理由」
ひきこもり経験者リリー・フランキーが10代の当事者らに語った「生きづらさの理由」 自身の引きこもり経験についても語ったリリー・フランキーさん(撮影/石井志昂) 10代、20代の不登校・ひきこもり当事者から相談を受けるリリー・フランキーさん(撮影/石井志昂)  カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した映画「万引き家族」(是枝裕和監督)で主演...
「ネット弁慶卒業してきた」「足つって自首」IT講師殺害の42歳男 異様な逆恨み犯行声明“全文公開”
「ネット弁慶卒業してきた」「足つって自首」IT講師殺害の42歳男 異様な逆恨み犯行声明“全文公開” ...遂げることができたなどと語っている。長く引きこもりでネットに依存した生活でそこで馬鹿にされたのを根に持ち、犯行に及んだようだ。ネットの犯行声明は、年齢も42歳となっており、書いている内容と松本容疑者の供述は合致しており、本人が書いたものとみられる」(前出・捜査関係者)  岡本さんはHag...
「親が死んだら生活保護か、死か」高齢化するひきこもりが直面する現実
「親が死んだら生活保護か、死か」高齢化するひきこもりが直面する現実 ...ター」では、親の対応学習会として「大人の引きこもりを考える教室」を毎月開催している。最近は、高齢化する親にまじって、当事者のきょうだいが、将来の対応について相談に訪れることもある。あるとき、ひきこもる妹を心配して、母親といっしょに相談に訪れた兄もいた。 ■みてあげたいけど、お金も環境...
「怒鳴り声が苦手」で不登校に 32歳女性が今も抱える“5人に1人が苦しむ癖”
「怒鳴り声が苦手」で不登校に 32歳女性が今も抱える“5人に1人が苦しむ癖” ...バシーが得られ、刺激から逃れられる場所に引きこもりたくなる 5.カフェインに敏感に反応する 6.明るい光や強いにおい、ざらざらした布地、サイレンの音などに圧倒されやすい 7.豊かな想像力を持ち、空想にふけりやすい 8.騒音に悩まされやすい 9.美術や音楽に深く心動かされる 10.とても良心...
「少女の血が見たい」警察官を両親に持つ勝田容疑者の”異様な愛情”とは?
「少女の血が見たい」警察官を両親に持つ勝田容疑者の”異様な愛情”とは? ...た。勝田容疑者は母親に甘やかされて育ち、引きこもりからアニメオタクとなった。その趣味が高じ、とんでもない性癖があり、事件を繰り返すようになった」  筒塩侑子さんの事件でも岡山県警は3年前から勝田容疑者に対し、獄中で聴取を繰り返し、今回の逮捕にこぎつけたという。  2015年に逮捕、起訴...
稲垣えみ子「別府の『マイ温泉』は、現代の一つの奇跡だ」
稲垣えみ子「別府の『マイ温泉』は、現代の一つの奇跡だ」 ... *  *  最近は本の執筆が難航して引きこもりがちなのですが、大分での仕事を引き受けたのは何を隠そう別府があるから。「地獄」と称される別府温泉には昔から興味津々で、死ぬまでに一度は行ってみたい場所だったのです。  というわけで、仕事を終え恐る恐る足を延ばした地獄は予想をはるかに超える...
稲垣えみ子「リヨンに行って分かった、日本のおじさんが孤独なワケ」
稲垣えみ子「リヨンに行って分かった、日本のおじさんが孤独なワケ」 ...見知りに会ってニコニコおしゃべりしてる。引きこもり感ゼロ。それを見てたら「自立」と「つながり」はセットなんだって思ったんだよね。自分で自分に似合う服を選び、好きなものを作って食べることができるって、つまりは自分で自分を楽しませることができるということ。生きることに自信があるっていうこと。だ...
人生100年時代に「シニア起業」という選択 成功の秘訣は?
人生100年時代に「シニア起業」という選択 成功の秘訣は? ...けは祖母の介護でした。祖母は定年後、家に引きこもりがちになり認知症を発症してしまいましたが、もし祖母が起業により社会とコミュニティーを築いていたら、もっと楽しい老後を過ごせたのでは……と考えるようになりました。高齢化社会が進む中、50~60代のシニア世代に定年後も生き生きと働いていてほしい...
引きこもり、死…廃校寸前の野球部が“強豪”になるまでの5年
引きこもり、死…廃校寸前の野球部が“強豪”になるまでの5年 出陣式にて。父母会から受け取った必勝の千羽鶴。中央には「恩」の一文字が浮かぶ 試合前にノックを受ける川合 女子マネージャー大塚茜。ノッカーもこなし、キャッチャーフライもお手の物 2017年、夏の地方大会スタート。試合前のアップ  名指導者・石山建一に魅せられ、山村留学生として各地から野球少年が集まってきた埼玉県立小鹿野高校。万年1回戦コールド負けのチームが「5年かかる」と明言した石山に導かれるように、メキメキと頭角を現してきた。同校のベンチに飾られる千羽鶴の「恩」の一文字に見守られるかのように……。小鹿野高校野球部が強くなったきっかけは、“小鹿野高校の廃校阻止と町おこし”だ。ノンフィクション作家の黒井克行氏が、これまでの5年間をリポート。前編では石山就任までの経緯を伝えたが、後編では初試合からいままでの軌跡を描く。 *  *  * 「ヨシッ、勝つぞ!」  斉藤友一監督は対浦和学院(以下、浦学)戦を前にして半ばハッタリ交じりに選手に発破をかけた。 「わずか3カ月余りだが、石山(建一)さんの指導で打球の飛距離もスピードも格段の進歩だ。選手は練習をやればやるだけうまくなっているのが実感できる」  とはいえ、浦学は春の選抜大会に出場した名実ともに県を代表する強豪校だ。おそらく小鹿野高校など眼中になく、さっさとコールド勝ちして余力を十分に残したまま次の試合に備えようと考えているはずだ。ところが、斉藤の発破はまんざらでもなかった。  一回表、先攻の小鹿野は先頭打者がいきなり出塁した。得点のチャンスだが浦学はそう簡単には許さないだろう。次は手堅くバントで送り、クリーンアップでまずは先取点を狙いにいくところだ。しかし、バッターは浦学のバントシフトをあざ笑うかのように送る構えを見せるどころかヒッティングに出た。セカンドゴロながらランナーを得点圏に進めた。 「右打ちだって練習してきたんだ。ここでバントなんかしたら石山さんに怒られちゃうよ」(斉藤)  自信満々で臨んだ浦学だったろうが、いきなりのふてぶてしい小鹿野の強攻姿勢に浮足立った。だが、すぐに目を覚ました浦学は後続を抑え、その後は本来の実力の差を見せつけ、結局6対0で小鹿野を退けた。しかし、浦学はコールドどころか九回まで小鹿野に粘られたのである。浦学にしてみれば決して会心の試合ではなかったはずだ。一方、地元テレビ埼玉で初めて中継されたわが町の高校球児に釘付けになった小鹿野町民は、「大したもんだよ。浦学相手に九回まで戦ったんだ」と、まるで優勝でもしたかのような盛り上がりで、野球部の“大健闘”をたたえた。 「長い間野球をやっているが、コールドされずに褒められたのは初めてだ」(石山)  この試合で斉藤監督はあの風紀委員長を八回のマウンドに上げていた。彼は1回を3人で抑え、自身の高校野球を有終の美で終えることができた。  この結果、町民の野球部に対する期待は高まっていった。勢いづいた2期生で元中学校教員の木村嘉忠は、同期4人と「小鹿野高校野球部を応援する会」を立ち上げた。手始めに残存する名簿を頼りに63歳以上のOB5千人に手書きで趣意書と、1口5千円からの寄付金の振込用紙を添えて送った。発送から1カ月も経たずに全国に散る500人余りのOBが会員となり、中には10万円を振り込む人もいた。当時、80歳を目前にした木村らではあったが、野球部の近況を伝える会報も毎月作って発送し、また浄財をボールに変え、野球部の遠征費用として寄付もした。  たとえば一昨年は北陸遠征、そして昨年3月には関西遠征をサポートし、山あいの“井の中のかわず”に留まらせず、武者修行で力をつけさせていったのだ。  またこれまで練習試合のために小鹿野高校まで出かけてくるのはせいぜいが秩父4校の“スープが冷めない距離”の学校ばかりだったが、県下で名の知れた聖望学園を始め、横浜からもお手合わせとばかりに来るようになった。選手も石山の評判を聞きつけて小鹿野の門をたたく者が少なくない。入学志願者も微増ながら、それ以上に礼儀正しい高校生として町民から評価されるという、学校としては想定外のうれしい悲鳴となった。「野球を通じた」小鹿野高再生プロジェクトは当初の思惑通り、確実に前進していた。  小鹿野高校野球部グラウンドのバックネット裏では野球好きの町民が目を細めて練習を見守っている。和歌山県の日高高校中津分校の視察で目の当たりにした町と高校が一体となったあの風景がここでも再現されようとしていた。スタンドと呼ぶほど立派ではないが、土建業を営む部員の保護者が建築廃材や鉄骨で観覧席を築き、100人ほどが観戦できる。かつては“立派な”叢(くさむら)だった三塁側ブルペンにも屋根がしつらえられ、雨天時でも投手は練習が可能だ。また、他校での練習試合では、選手の送迎に長距離トラックの運転手の保護者がひと役買う。母親ら女性陣も地元で試合が行われる時や週末の練習の際に関係者らへのお茶やお弁当の手配、救護、そしてわが子への黄色い声援も忘れなかった。  気がつけば、町の多くの人たちが何らかの形で小鹿野高野球部に関わるようになっていた。 「いいチームを作るのには5年はかかるよ」  石山が当初、校長に約束した5年目を迎えていた。  夏の甲子園をかけた大会は早々に敗退したが、主力選手のほとんどが秋に向けた新チームに残った。  ショートを守るキャプテンの川合一弘は隣町の出身だが、中学時代の成績はトップクラスで、まわりの誰もが県下有数の進学校へでも行くものと思っていた。進路希望先を「小鹿野高校」と告げられた担任教諭は聞き間違いかと驚いたという。 「そもそも小鹿野に行く選択肢はなかったが、石山さんの指導を受ける機会があり、その日のうちにバッティングが変わった。雰囲気もいいし小鹿野に来て大正解だった。他へ行ってたらすべてが中途半端で終わったかもしれない。野球が面白く、町の方の応援が心にしみる」  埼玉県戸田市からの山村留学生石田侑希は、小学6年の時、自転車事故で頭蓋骨(ずがいこつ)を骨折し、生死の境をさまよった。生活に支障はないが左側から後頭部にかけて骨を1本なくしたままで、今後その部分に大きな衝撃を受けたら次はなく、その危険をはらむような運動を避けなければならない。野球もその一つであるが、大好きな野球を続けたいがために死球の危険から左打ちに転向し、小鹿野で一段上の野球を求めやって来た。 「ここでさらに野球が好きになった。うまくなった実感もある。それに苦手だった勉強も試験前の仲間との勉強会で随分助けられたし、学力も少しは伸びたかな」  石山は野球だけやっていればいいとは言わせなかった。テストで赤点を取りそうな部員がいれば、選手たちは勉強会を開いて教え合う。これも一つのチームプレーとして育まれていった。  異色の存在がいた。同県東松山市からの山村留学生、木村太次郎(だいじろう)だ。小学4年からひきこもりで学校に通えず、中学は卒業式にすら出ていない。当然、部活もしていないわけで、小鹿野で初めて野球を始めた。親としては高校へ通うことが最大の難問かと思っていたのが、さらに寮生活に野球もするという。「いつ家に戻ってくるか」と案じる毎日だったが杞憂(きゆう)に終わった。  学校も寮もそれに野球もこなす高校生に変身した。それまでの経緯から鑑みて奇跡というほかない。 「全てに不安はあったが、野球は楽しいし、学校から帰るのも皆と一緒で一人でいることがない。今あるのは希望だけだ」  太次郎はベンチから大きな声を出し仲間に伝令し、相手バッテリーの間合いをストップウォッチで計測して攻撃のデータとした。また、大会の抽選のクジを引くのも彼の役で、チームに運を呼び込む役も担っている。  ベンチを温めている時間は長いが、代打で起用されてヒットも打っている。1本や2本ではない。ベンチが最も盛り上がり、スタンドで応援する保護者らが目を潤ませて興奮する瞬間だ。  そんな太次郎を目を細めて見つめる母・智子は、 「太次郎は学校に行けなくて小鹿野に来ました。小さな自信の一つ一つを積み重ねて強いものになっていったのかと思います」  ちなみに太次郎は、3年間を無欠席で過ごした。  女子マネジャーの大塚茜は本来のマネジャー業務の他に内野のノッカーも務める。試合前にバットを握った大塚の登場に対戦相手はハトが豆鉄砲を食った感じだ。キャッチャーフライもお手の物。女子高校生ノッカーは大塚が初のケースではなかろうか。  こんな個性派集団が新生5年目の小鹿野高野球部の歴史を塗り替えた。新チームになってから初めて臨む埼玉県北部地区新人戦で、熊谷商や上尾といった古豪名門ら32チームが集まる中で頂点に立ったのである。チーム一元気者の捕手須崎健はこの優勝が小鹿野の行き先を決定づけたと言う。 「これで自信を持って堂々と『甲子園』を口にできるようになった」と。そして続けた。「完太の存在が大きかった」  高橋完太。前年の8月、夏風邪の高熱で伏せっていた際、外気にあたろうとフラフラしながら寮の屋上に上がったところ、過って転落して亡くなった山村留学生である。  中学時代はやんちゃが過ぎて鑑別所に入った。学校へはまともに行かず、先生に反抗し、いつも悪い仲間とつるんだ。しかし、野球となると話は違った。野球のためならばと、一人黙々と公園で筋トレをし、打者に有利とばかりに本来の右打ちから左打ちに自ら工夫して転向、帰宅後は大好きなメジャーリーグの映像に食い入った。  シニアで野球をしていたが、どの指導者とも考え方の違いや昔ながらの理不尽な教え方に反抗し、退団を余儀なくされた。野球が唯一の居場所の完太にとってこれほどつらいことはない。ポッカリ空いた隙には悪い仲間が待っている。たまたま地元テレビ局で小鹿野高野球部を紹介する放送を目にし、進路は百八十度変わった。 「俺、ここに行くよ」  それまでろくに勉強もせず、高校に進学する気など全くなかったはずが……。 「山に囲まれた中で伸び伸びと野球に打ち込む姿に引き込まれたようです」  母・千登世は息子の強い意思を尊重し、早速、小鹿野へ体験に連れていった。 「石山さんと面と向かう完太がうなずいている。あんなの初めてです。大人を信用しきれずにいたのに。同じ目線で理論立てて話す石山さんを信頼したんです」  完太はそれまでの自分と決別し、新しい自分に生まれ変わるチャンスだと、心はすでに小鹿野に向いていた。 「俺、小鹿野一本で行く」 と受験、そして入学を決めて入寮を間近に控えた矢先だった。以前に犯した窃盗の容疑が明るみに出て、2回目の鑑別所送りとなったのだ。完太は面会に来た千登世に「野球がやりたい」と泣いて訴えた。  大好きな野球がやれる新しい居場所を見つけ、これからという時だけに罪は罪としても、彼の気持ちを思うとやるせない。  結局、完太は1年間の保護観察付きの審判を下された後、入学。小鹿野での生活をスタートさせた。チームにもすぐになじみ、入寮1週間後には「寮はチョー面白えから」と、千登世に連絡してきた。  大好きな野球ができ、これまで聞いたこともない質の高い石山理論にも接し、学校でも寮でもいつも仲間が側にいる。完太は生まれ変わった。 「アイツは家族みたいな存在だった」と須崎は言う。「きつい練習もアイツがいたからできた。いつもフルスイングで守備も全力だ。気の抜いたプレーをするやつに飛び蹴りをしたこともあるが、真剣に野球に向き合ってのことだから誰も文句を言わなかったし、皆、アイツのことが好きだった」  完太亡き後、須崎は「ここぞ」と気合を入れる時には完太愛用のバットを取り出し、打席に立った。  完太が1歳の時に離婚し、働きに出ていた母千登世に代わって、小さい頃から練習や試合の送迎などは祖母千波が担っていた。千波は高校入学に際し、新しいグローブを発注した。イチローモデルの特注品で、完太はそれを楽しみに待っていた。が、グローブが届いたのは完太の告別式の2日後だった。実家の仏前にはそのグローブが今も供えられている。その中にはボールが入っている。北部地区新人戦で優勝した時のウィニングボールだ。部員らの思いであり、今でも一緒に野球をやっているという彼らのメッセージでもある。  2017(平成29)年夏。川合ら3年生最後の甲子園への挑戦が始まろうとしていた。大会前に催された出陣式では、野球部父母会から必勝の千羽鶴が渡されたが、鶴の色が織りなすそこには「恩」の一字が表現されていた。 「恩」は完太の帽子のひさしに書かれていた「母ちゃん バアバに恩返し」からの一字で、「恩返し」は3年生の最後の大会に挑む合言葉だった。  小鹿野野球の看板は打線だ。打ち出したら止まらない。かつてプロ野球で日本一に輝いた時の横浜が「マシンガン打線」を売り物にしたが、その高校野球版である。長打も続き最後にドカンと一発で相手を粉砕するのが小鹿野だ。だから5点くらいリードされても簡単にひっくり返す自信がある。町の看板「小鹿野歌舞伎」にちなんで「歌舞伎打線」と名付けられ、応援席からは歌舞伎の拍子木をアレンジした応援グッズが打ち鳴らされる。その乾いた甲高い音はジャストミートした際の打撃音をほうふつとさせる。  しかし、その夏、甲子園を視野に入れて臨んだはずの小鹿野の打線は湿ったままの音を鳴らすだけで、不発に泣いた。 「上ばかり見ずに、目の前の一つ一つを見据えろ。そして感謝の心を忘れるな」 須崎から後輩へのメッセージだ。あわせて「恩」も引き継がれた。  翌日から早速、新チームがスタートを切った。保健体育教諭の丹羽俊亮が新しく監督に就任した。石山は外部コーチとして選手だけでなく指導者にも戦術面を含めてアドバイスをし、育てることも期待されているが、まずは丹羽流のチーム作りを任せた。 「愛される野球部 ~積善の功 幸あり~」  丹羽が提唱した目標で、バックネットに掲げられた。 「学校関係者はもちろん、地域住民からも愛され、応援してもらえる。そして、いいことを積み重ねていけば必ずいいことがあるから日常生活をしっかりしよう」  すでに“礼儀正しい野球部”と町から評価を受けていたが、丹羽はさらに一歩踏み込んだ姿勢を選手に求めた。  立春が過ぎ、久しぶりにグラウンドを訪ねた。どの選手たちも体がひと回りどころかふた回りも大きくなっていた。特に下半身は筋肉が隆起しユニホームがパンパンに張っている。 「とにかく体作りから始めた。食事の面ではごはんの量を増やし、練習前と合間にもおにぎりやごはんを取らせた。基礎体力の数値があまりに低すぎるので、トレーニングで鍛え上げ、冬場はスイングの量を徹底的に増やした」(丹羽)  最初は選手らに戸惑いもあったが、個性派の上級生と比べておとなしいゆえ、まっさらな状態から始めるのに好都合だったという。  引き続きエースを任される石田成はあいさつを終えるや口角泡を飛ばしながら、「俺たち、ヤバイっすよ、ホント、ヤバイっすよ」  まるで出川哲朗のようだったが、真剣なまなざしで訴えてきた。トレーニングによるパワーアップやスピード強化に自信がついたという。実際に左中間後方の高さ8メートルの防御ネットの先にある校舎4階の窓には新しくトタンの覆いが施されていた。  先輩たちの「歌舞伎打線」の際にはなかった120メートル弾直撃対策だ。これからさらに飛距離や強い弾道を伴う打球が見込まれ、打撃練習の際は駐車場の車の移動を呼びかけることになるだろうという。石山の腰を据えた指導も待っており、湿ったままで終わらせていた「歌舞伎打線」の爆発にいやが上にも期待がかかる。  大学進学する須崎は昨夏の大会前に“大学でも使おう”とキャッチャーミットを新調した。名前だけでなく、「恩返し」の刺繍(ししゅう)もし、ミットを包むケースには大学名ではなく、「小鹿野高校」とある。 「小鹿野は自分の誇りです」  たくさんの人の思いを背負う小鹿野高野球部に「甲子園」という新たな歴史が刻まれる日はそう遠くないだろう。(一部敬称略) ※週刊朝日  2018年3月30日号
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芳根京子の「海月姫」 月9なのに“べっぴんさん”を思い出す… ...ストーリー」(91年)から早27年。今や引きこもりで人見知りのヒロインにキスをするのは、王子様じゃなくてお姫様(女装男子)という、夢と希望とバリエーションあふれる世の中だ。  けれどヒロイン・芳根ちゃんが裁ちバサミを手にすれば、一瞬にして「尼~ず」が「キアリス」化? どうしても思い出すよ...
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今日の若者の「生きづらさ」を予言? 岡崎京子『リバーズ・エッジ』を読み解く ...きる若者の「日常」そのものだった。  引きこもりや不登校、LGBTなど今日の若者が感じる「生きづらさ」を予言したかのような作品となったことを、岡崎本人は意図していたのだろうか。(文中敬称略)(ノンフィクション作家・中原一歩) ※AERA 2018年2月26日号より抜粋
笠井潔が新作発表 私立探偵飛鳥井が14年ぶりに復活
笠井潔が新作発表 私立探偵飛鳥井が14年ぶりに復活 ...運動、革命と宗教とテロリズム、高齢社会と引きこもり等々、戦後社会がもたらした矛盾と暗部を照らし出す。主人公もいわゆる名探偵ヒーローではない、世俗にまみれ葛藤する等身大の男である。 「このジャンルで代表的なのがチャンドラーですが、僕は嫌い。むしろチャンドラーよりも先に書いていたダシール・ハ...
信田さよ子×斎藤環 根深い「母娘問題」に共存の道はあるのか?
信田さよ子×斎藤環 根深い「母娘問題」に共存の道はあるのか? ...り、団塊男性についても分析していますが、引きこもり家庭の父親像とまったく同じで驚きました。 信田:全共闘時代に誇りと挫折を抱え、仕事人間で男尊女卑……というステレオタイプ。例外もいますが。 斎藤:韓国もそうなんだけど、父親疎外の構図がある。典型的なのが単身赴任。日本は仕事で父親が離れま...

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