父親と同じ東北高でプレーした佐々木彰吾
父親と同じ東北高でプレーした佐々木彰吾

 170センチ、64キロと小柄ながら、父譲りの安打製造機ぶりを発揮したのが、篠塚和典(元巨人)の長男・宜政だ。

 桐蔭学園では鈴木大地(現楽天)と同期ながら、打順は9番で、途中出場も多い“守備の人”だった。

 最後の夏となった07年の神奈川大会では、1回戦の生田戦に9番ショートで先発出場。2回戦の藤沢西戦では、4回途中から出場し、5回の打席で送りバントを決めた。

 5回戦の慶応戦でも8回から出場し、セカンドを守ったが、打席が回ってくることなく、4対6で敗退。「父も母も野球をできる環境を整えてくれた。甲子園に出て恩返しがしたかった」と無念さを噛みしめた。

 打撃に開眼したのは、青学大2年の春。開幕戦から先発起用されると、巧みなバットコントロールで左右に打ち分け、打率.375とリーグ最多の19安打でベストナイン選ばれた。4年秋には亜大・東浜巨(ソフトバンク)の連続イニング無失点記録を「31」で止める貴重なタイムリーを放ち、現在も社会人のHondaでプレーを続ける。

 親子二代で甲子園出場を実現したのが、“ブンブン丸”池山隆寛(元ヤクルト)の長男・颯人だ。

 高校時代は強打の内野手だった父に対し、浦和学院に入学した息子は、180センチの長身から投げ下ろす速球を武器にエースを目指した。

 2年秋の明治神宮大会準々決勝、愛工大名電戦では9回無死一、二塁のピンチに4番手としてリリーフし、2/3回を4安打2失点。「何とか抑えたかった」と追加点を許したことを悔やんだ。

 秋の新チーム以降、21試合に登板し、防御率1.14を記録。チームも翌12年春のセンバツに出場したが、本番直前で登録メンバーから外れる不運に泣いた。

 だが、最後の夏に背番号11で甲子園のベンチ入りをはたし、シート打撃に登板するなど、陰の力となって、チームのベスト16入りに貢献。東京国際大でも投手を続けた。

 池山ジュニアの同世代では、“大魔神”佐々木主浩(横浜-マリナーズ)の長男・彰吾の名も挙がる。

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「同じ縦縞のユニホームを着て…」