「戦国時代末期の日本には、およそ2万以上の城があり、柵で囲っただけの砦(とりで)のような城も含めればその数は4万~5万にも及んだともいわれています」
なお、これらすべての城に、城の象徴である天守が築かれていたわけではない。江戸時代には、幕府への遠慮から天守台を築きながらも天守は築かれなかった城も多く、実際に天守が築かれていたのは100城をわずかに超える程度だったという。そんな日本の城だが、現代までに大きくわけて3度の危機に瀕している。
1度目は、江戸幕府を開いた徳川家康が1615年(慶長20年)に発した「一国一城令」。家康は諸大名に対して居城以外のすべての城の破却を命じた。これにより城の数は約170城に整理され、約60の天守だけが残されていたようだ。
2度目の危機は、明治維新後の1873年(明治6年)に出された、「廃城令」。これにより、多くの城は天守などの建造物を売却する。城跡は官公庁用地や軍事施設に転用されてしまい、1891年(明治24年)までに40城の天守が破却されてしまった。
そして3度目が、太平洋戦争による戦禍だ。開戦前には20城の天守が残されていたが、空襲により水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の計7城の天守が焼失。戦後まで現存したのは13城だけ。しかし、1949年(昭和24年)の失火延焼により、北海道の松前城天守が焼失してしまう。
「戦後、松前城が焼失したことにより、江戸時代までに建てられた天守が現存するのは、わずか12城だけとなり、そこから、この12城を『現存十二天守』と呼ぶようになったのです」
そこで、現存十二天守のなかから、オススメの城を加藤氏に推薦してもらった。まず加藤氏が挙げたのは、現存十二天守のなかで唯一の山城、岡山の備中松山城。
「備中松山城は、大松山、天神の丸、小松山、前山、の四つの峰からなる臥牛(がぎゅう)山全域に築かれた城で、標高430メートルの小松山に二重二階の小ぶりな天守が建てられています」
近年の城ブームの火付け役となった雲海に浮かぶ天空の城・竹田城と同じように、秋に気象条件(10月下旬~12月上旬の晴れた日の早朝がベスト)さえ整えば、備中松山城も天空の城となる。「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる石垣しかない竹田城とは違い、備中松山城は天守が雲海に浮かぶ城となるのだ。