本来は楽しみであったはずの営みさえも、面倒で、負担に感じられ、ついやらずに済ませられたらと考えてしまう。責任や負担が少しでも増えると重荷に感じ、すべてを投げ出して逃げてしまいたくなる。実際に、面倒なことからは目をそむけ、見ないようにして暮らしていることもある。内心でやってみたい気持ちもあるのだが、いざやるとなると一歩踏み出せない。前途有望な若者なのに、まるで老い先短い老人のように、守りに入った生き方をしてしまう。

 そんな傾向を示す人が、増えているのである。不登校やひきこもりの増加、非婚率の増加や恋愛をしない若者、セックスレスのカップルの増加には、さまざまな要因がかかわっていて単純に論じることはできないが、社会との接触や責任が増えることに対して、負担を感じ、なにもかも面倒くさく思えて、そこから逃れようとする一面もかかわっている。それは、多くの人が感じたことがあるのではないだろうか。

「面倒くさい」の根底にあるのは

 このように、われわれはさまざまな形の「面倒くさい」を抱えやすくなっている。面倒くさくない人にとっては、どうしてそれくらいのことがと思うようなことさえも、人間をやめたくなるほど、負担で仕方がないと感じられてしまう。

 そんな人が、ごくわずかだけいるというのなら、それはその人だけの問題で片づけられるのだが、「面倒くさい」状態に取りつかれた人が、何十万人、いや何百万人、ことによったら何千万人もいるかもしれないとなると、これはその人が怠け者だとか、やる気がないだけだなどといって片づけられなくなる。

 この「面倒くさい」状態を、精神医学的に診断した場合、一つは、うつ状態ではないかという可能性が浮かび上がる。だが、実際に、この状態の人に接してみればわかることだが、学校や仕事に行けなくなって、気分が落ち込んでいるとか、食事や睡眠がとれなくなっているというケースもあるものの、面倒くさい傾向は、そんなふうになる前から始まっていて、うつが先というよりも、面倒くさい傾向の方が先ということが多い。

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うつ状態でもないのに「面倒くさい」原因