空爆下のガザでの26日間の避難生活。水道も電気も通っておらず、露天の駐車場で数少ない缶詰を分け合い、ペットボトルの水で身体を拭く。電話は朝7時、何度もかけ直し、やっと通じた(写真は国境なき医師団提供)(撮影/横関一浩)

アルジェリアの少年に会い国境なき医師団へ入る

 洋子が立教での学びを楽しそうに家で話すのを聞き、麻衣子もあとに続いた。

 ここが人生の分かれ目だった。社会人大学院にはさまざまな人が通っていた。会社を辞めて東日本大震災の被災地に寄り添う仕事を始めた人、危機管理の会社を起こした人、妻がキャリアを積んだのでパートタイムで働きながら勉強をしている人……多様な生き方を知り、白根は「やっぱり教育にかかわろう」と原点に返った。

 イギリスに渡り、語学学校を経て、ウォーリック大学の大学院で教育マネジメントを学んだ。英国流のクリティカルシンキング(批判的思考)を徹底的に叩き込まれる。

「自分自身でなぜ、どうしてと問いをどんどんつくり、問題に向き合う手法を英国で教わったんです。たとえば、人事が遅刻を重ねる社員に警告を出すのは簡単です。だけど、その前に、なぜと問いを重ねれば、背景の深刻な理由があぶりだせるかもしれない。根本的な問題がわかれば、また別の対処法が考えられます」と白根は言う。

 帰国後、軽井沢の全寮制国際高校、ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパンに転職した。サマーキャンプの運営を担当し、途上国の子どもにも奨学金を出して軽井沢に招く。そこで、13歳の少年と出会い、人生を見つめ直した。

 少年は、アルジェリアの難民キャンプの出身だった。来日したときは英語を喋(しゃべ)れなかったが、寝る間も惜しんで勉強し、2週間後にはたどたどしいけれど、人前で武力紛争や、キャンプの過酷な暮らしについて話した。そして、「僕には夢がある。プロのサッカー選手になって、家族に楽をさせたい。がんばります」とスピーチを締めくくる。

 白根は目頭が熱くなった。懸命に思いを伝えようとする姿に打たれ、世界の人道危機への目が開かれる。危機的な現場に飛び込んで働きたいと熱望し、国境なき医師団の日本事務局の総務部に入った。事務職を1年ほど務めた後、非医療の現地派遣スタッフの試験を受けて合格する。

 初任地は、ウクライナの南部、ミコライウだった。17年、地域にまん延するC型肝炎の治療薬を普及させる事業の予算案を作り、経費を管理する。銀行時代に培った財務のスキルが役に立った。宴会芸に悩んだ日々も無駄ではなかったのだ。

 18年の暮れ、次の任地のガザに入った。「帰還の大行進」という抗議デモの最中だった。

 パレスチナの人びとは、70年前のイスラエル建国で父祖の地を追われた。その2世、3世の若者がパレスチナの旗を掲げ、帰還を求めて境界付近を行進する。

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