空爆下のガザ、退避までの26日間に地獄をくぐった。戦争はむごく、非道だ。即時停戦を(撮影/横関一浩)

 白根麻衣子が、国境なき医師団のスタッフとして、ガザで人道支援に携わっていた昨年10月、その地が、空爆にさらされた。日常が一瞬にして地獄となった。命がおびやかされる中、白根たちは避難の日々を送る。安全な場所はなかった。白根は無事に帰国できた。だがガザでの戦争は終わっていない。ガザに戻りたい気持ちをこらえ、今は伝えることが使命と考える。

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 2023年10月7日早朝、パレスチナ自治区ガザ北部──「国境なき医師団(MSF)」の8階建ての宿舎は週末の静けさに包まれていた。

 その6階に医療プロジェクトの財務や人事を担う白根麻衣子(しらねまいこ・37)の部屋があった。

 前の日は休みで、白根は他のNGO(非政府組織)の仲間とビーチバレーに汗を流し、海辺のレストランでシーフード料理を味わった。心地よく眠り、青い唐草模様の掛け布にくるまっていた。

「ドーン ドン ヒューン」

 と花火を打ち上げるような音がして目が覚めた。出窓を開けると、薄暗い空に無数の火の玉が尾を引いて飛んでいる。ガザを統べるイスラム組織ハマスが、イスラエルへミサイルを撃ち込んでいた。眠気はいっぺんに吹き飛んだ。

「退避しなくちゃ、と思い、手順に従って携帯電話だけ持って、地下1階の広い部屋に下りました。MSFは宿舎のビルを1棟まるごと借りていて、住んでいる外国人スタッフ11人全員が避難所の地下室に集まりました。そのうち、いつもどおり近くのエレズの検問所が開いて、外国人はイスラエル側に出られるだろうと、誰もが楽観的でした。ところが、すぐにイスラエルの報復の空爆が始まり、全然、収まらない。不安が募りました」

 と白根はふり返る。携帯電話はまだ繋(つな)がっていた。サマータイムで日本との時差は6時間。東京の実家で、母・洋子(70)が娘の電話を受けた。

「麻衣子の第一声は、ママ、まるで真珠湾攻撃よ、でした。その後は、毎日、通信の都合で向こうの朝一番に1分間だけ、安否確認の電話がかかるのですが、こちらからはかけられません。電話のない日もあり、何度もうダメかと。怖かったです」

 白根たちが望みを託したエレズ検問所は、ハマスが襲撃し、閉ざされた。

拠点からの移動を前に電話で遺書を預ける

 イスラエルの空爆は激しくなり、目の前のビルが地響きをたてて崩れ落ちる。爆風で、宿舎の窓という窓のガラスが砕け散った。

 白根は、4日間、地下室で過ごし、とうとう「その時」を迎えた。イスラエル軍の指示で宿舎を出て、国連の施設に移るよう促されたのだ。

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