「パレスチナ人の現地スタッフの命懸けの助けがなければ、私たちは絶対に生きて帰れなかった。彼らは、爆弾を落とされ、銃撃を受けながら水や食料を探して私たちに運んでくれました。移動中、一緒に連れて行ってくれ、と群がるガザの市民たちを説得し、押しとどめて、クルマを運転してくれたのです。ほんとうに感謝しかありません」
ガザ南部の駐車場での避難生活は2週間以上続く。運命に弄(もてあそ)ばれる白根は眠れぬ夜を過ごした。
大手銀行に入行したが昭和の風習になじめず
白根は、1986年、建設関係の会社を営む父と、ピアノ教師の母との間に3人姉妹の次女として生まれた。のびのびと育てられ、両親に勉強しなさいと言われた記憶はない。
ただ、疑問や変だと感じることがあれば納得できるまで聞きなさいと教えられる。高校を卒業する前、父が長い闘病生活の末にがんで逝った。
国際貢献や人道支援に関心はなかった。「子どもにかかわる仕事をしたい」と京都女子大学の発達教育学部に進む。中学・高校の家庭科の教員免許を取ろうと教育実習に臨んで、理想とかけ離れた現実にぶち当たった。
授業は学習指導要領に縛られていて、教科書を読むだけで終わってしまう。自由な発想で何かをつくる授業をしたかったが、諦めた。自分には教育は向かないと感じ、方向をあらためる。
「大企業に入れば何とかなるだろう」と三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職した。
東京都下の支店に配属され、富裕層が相手の個人営業に携わる。保険や投資信託、不動産関連の金融商品などを売った。仕事はともかく、銀行の「ザ・昭和」の奇妙な風習になじめなかった。
「まず、ホテルで開かれた新人歓迎会で、芸を、と求められ、新入の女子全員で、韓国のアイドルグループ『少女時代』の真似(まね)をして歌って踊りました。男の子は漫才やモノマネ。いったい誰の歓迎会だろうって感じです。年末にも、また芸をやらされた。飲み会が週4回、お得意さんが相手だと女子が駆り出される。将来は寿退社か敷かれたレールを進むかのどちらか。げんなりしました」
白根は、入行3年目に仕事をしながら夜は立教大の社会人大学院に通った。
じつは、立教に入ったのは母の洋子のほうが先だった。洋子は、夫を亡くした後、音楽を使って地域を活性化したいと社会デザイン研究科の門を叩(たた)いた。年長の洋子は若い大学院生たちから「おかん」と親しまれ、院生の2組を結婚させている。