イスラエルの狙撃兵は、彼らの足を狙い撃った。特殊な弾丸で骨を砕き、痛みや感染症のリスクを身体に刻みつける。
そうした負傷者を治療する診療所の予算を白根は管理し、手術器具も購入した。ガザ滞在中に空爆に遭ったが、北部のエレズ検問所が開いて外国人は脱出でき、ことなきを得ている。
19年12月には戦乱と飢餓の地、アフガニスタンに赴いた。首都カブールに着いたものの治安が悪く、数週間足止めされる。西部のヘラートへ行き、国内難民キャンプの診療所の運営に加わった。そこにコロナ禍が襲いかかる。国境が閉まる寸前に出国し、這(ほ)う這(ほ)うの体で日本に帰り着いた。
その後、白根は、韓国事務局の人事部門で働き、23年5月、半年間の契約で、またガザに着任する。派遣終了までひと月を切り、もうすぐ母の手料理が食べられると期待を膨らませたところで、先の見えない戦争に巻き込まれたのである。
23年10月下旬、白根らMSFの外国人スタッフ二十数人は、まだガザ南部の国連施設の駐車場で野宿生活を送っていた。目と鼻の先に隣国エジプトに通じるラファ検問所があるが、事実上封鎖されていた。
国際政治の舞台では、米大統領ジョー・バイデンがイスラエルを訪問し、首相のベンヤミン・ネタニヤフとガザへの人道支援を再開する交渉をしていた。両者の意見が一致し、10月21日よりラファ検問所が少しばかり開く。
エジプト側から支援物資を積んだトラックが入り始めたが、ガザ側の外国人の出国は認められなかった。
一方、駐車場の避難所は、治安が悪化した。パレスチナ人の避難民が押し寄せ、駐車場の塀をよじ登って侵入を試みる。投石が後を絶たない。外国人と一緒にいれば、生命を守れる、食べ物にありつけると皆、必死だった。
10月31日、突然、白根たちは駐車場から海岸へ移動させられる。塀に囲まれた貸別荘のような建物を宛(あて)がわれた。井戸があり、ソーラーパネルが設置されている。水と電気が手に入って、16日ぶりに屋根の下で眠った。
人であふれたラファ検問所 現地スタッフが命の恩人に
翌11月1日の早朝、「7時にラファの検問所が開く。エジプトに出られる」と噂が流れ、白根たちは車列を組んで国境に向かった。
午前10時、やっと国境が開いた。だが、エジプトやヨルダンなどとの二重国籍を持つパレスチナ人が殺到し、検問所は大混乱に陥った。