紫式部は、自ら和歌を詠むのを控えた。それによって道長にこの言葉を言わせた。組織の一人として、自分が前に出るのではなく自然にトップを支える。これが女房としての彼女の成熟だった。怯えていた半人前の女房から、できる女房へ。道長が政治上の本音を漏らすことのできる相手へと、二人の関係性は確実に深化した。『紫式部日記』はそんな紫式部自身を満足げに記しているのである。
それだけではない。『紫式部日記』は、紫式部がこの翌日、同僚女房に道長のこの言葉のことを語り、二人で彼を讃えたとも記している。そこからは、トップとしての道長に惚れ惚れとするとともに、彼と親密な自分をそれとなく吹聴したい思いが感じ取れる。道長に仕える喜び、抑えても抑えきれない道長への想いが、行間から匂い立ってくる。
紫式部と道長に関係があったとすれば、戸を叩かれて身を固くしていた寛弘五年をその時と推定するよりも、紫式部の心に余裕が生まれ、彼を受け入れる準備が十分にできているこの頃ではなかっただろうか。
「召人」という存在
ただ、もしも二人の間に関係があったところで、それはかりそめのものだったろう。当時、主家の男性と男女関係にある女房を「召人(めしうど)」と呼んだが、紫式部は道長の召人にも及ばないものだったと思う。気まぐれに終わらず、継続的に関係を持った女房でなければ、召人とは呼ばれなかったからである。