ところが、一年余り後の寛弘七(一〇一〇)年正月二日の記事では、紫式部は進化を遂げている。場所は道長の枇杷殿(びわどの)で、一条天皇(九八〇~一〇一一)や彰子はそこを里内裏(さとだいり。御所ではなく京中の一般住宅を利用した皇居)としていた。この日、天皇御前で初子(正月最初の「子(ね)」の日)の宴が催され、酔った道長は終了後に彰子の御殿を覗いた。前年の十一月に彰子が第二子の敦良(あつなが)親王を産んだので、その顔を見に来たのだろう。紫式部は咄嗟に身を隠したが、もうそれは怖いからではなかった。酔うと絡む彼の癖を知っていて、煩わしかったのだ。だが案の定、道長は彼女を見つけ絡んできて、またもや歌を詠めと迫った。しかし、今度の紫式部は和歌を詠まなかった。詠まない方がよいと判断したのである。
道長は酒のため肌をつややかに上気させながらも、さほど酔ってはいない様子だった。紫式部が黙っていると、彼は口を開いた。「中宮は何年もの間、中宮の名にそぐわず懐妊もしなかった。娘が一人きりでいるのを、私は寂しく見ていたのだ。だが今はどうだ。敦成親王と敦良親王、二人の宮は左に右に、うるさいほどだ。嬉しいことよ」。すやすやと眠っている宮たちを、夜具をそっと引き開けて道長は見つめた。「野辺に小松のなかりせば、か」――。
この時彼の口から出たのは、勅撰集の『拾遺和歌集』に収められている歌である。
子の日する 野辺に小松の なかりせば 千代のためしに 何を引かまし
(正月最初の「子」の日を祝う今日、もし野辺に小松がなかったら、千代の命にあやかる例としていったい何を引けばよいのだろうか)
(『拾遺和歌集』春 二三番/壬生忠岑)