正月最初の「子の日」には、野に出て小松を抜き長寿をことほいだ。「子」の音に通う「根」によって、松の千年の齢にあやかったのである。その小松が、もし無かったら――。道長の「小松」は、もちろん幼い宮たちのことである。そんな時代が長く続いていた。道長はそれを思い出したのだ。彰子が長保元(九九九)年に入内(じゅだい)してから寛弘五(一〇〇八)年に敦成親王を産むまでの、足掛け十年のことだ。

 あのまま彰子が一人の子も産まなかったら、一条天皇の跡取りは長男で定子の遺児である敦康親王に決まっていただろう。もちろんその時の〈保険〉として、道長は敦康を引き取り、彰子に育てさせていた。だが、それは次善の策に過ぎない。彰子が産み道長の血を分けた本当の外孫、その皇子が欲しいというのが当然のところだった。道長はやきもきしながら、あるいは不安で胸を詰まらせながら、事態に耐えていたというのである。彼が自身の『御堂関白記』などには口が裂けても記さなかった思いである。

 それが今や、どうだ。彰子は二人もの皇子を産んでくれたではないか。先回りしてしまえば、この時数えで三歳だった兄の敦成親王は、六年後の長和五(一〇一六)年、即位して後一条天皇(一〇〇八~三六)となる。また二歳だった弟の敦良親王は、長元九(一〇三六)年、兄の跡を継いで後朱雀(ごすざく)天皇(一〇〇九~四五)となる。道長は後一条天皇のもとで摂政(せっしょう)となり、彼の跡は長男・頼通(よりみち)が継いで摂政・関白(かんぱく)を務め、御堂関白家の権威を確たるものとする。並ぶ幼い二人の寝姿を見たこの時、道長は既にこの将来を見据えていたに違いない。「野辺に小松のなかりせば……ここに幼い宮たちがいなかったら」――。これは道長の臓腑から出た、深々とした感慨だった。

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「召人」という存在